英国の名門レーベル「Rough Trade」 DIYという概念はどのように形成されたか

 ROUGH TRADE

 

1.世界で最も有名なインディペンデントレーベルはどのように生まれたのか

 

ラフ・トレードは、1978年にインディペンデントレコード店としてイギリスのケンジントンパークロードに開業した。世界ではじめてのインディーレコード会社といっても差し支えない、英国で最も伝統のあるレコードショップ・レーベルである。これまでこのインディペンデントレーベルから、英国を代表するのみならず、世界的に活躍するミュージシャンを数多く輩出して来ている。 

 

  

Record Store Day @ Rough Trade East 09

 

かのスミスも、ストロークスも、リバティーンズもこのレーベルから出発し、世界の舞台へと華々しく羽ばたいていった。いわば、ラフ・トレードは生粋の「イギリスのロックミュージシャンの登竜門」と喩えるべき世界的なレーベルである。


もちろん、言うまでもなく、2020年現在になってもなお、最も英国の音楽シーンで影響力を持つレコード会社であることに変わりはなく、ラフ・トレードからデビューするミュージシャンは大型新人とみなされ、世界のミュージックシーンから異様なほどの注目を受ける。


当初、ラフ・トレードは、インディペンデント系のレコードショップとして発足したが、程なくインディーレーベルとしての作品リリースを行うようになり、1980年代のザ・スミスのブレイクを通じ、イギリスを代表するインディペンデントレーベルに成長した。


しかし、多くの歴代の実業家の生涯と同じように、名門「ラフ・トレード」の歴史は必ずしも順風満帆に進んだとはいえなかった。一度、1980年代後半には、このレーベルの財政状態をひとりきりで支えていた看板アーティストのザ・スミスが解散したことにより、長年の放漫な経営方針による影響をうけ、1990年代の初めにラフ・トレードは債務不履行による経営破綻に陥っている。


創業者ジェフ・トラビスは、この時代において、多額の債権の返済のことばかりが頭にちらついていたと語り、(インディペンデントレーベル-異端者)として社会で生き残ることに対する大きな苦悩を語っている。 


その後、ラフ・トレードは、一企業として多額の債権を抱え、キャッシュフローの返済に追われたが、同国のレコード会社ベガーズ・グループがラフ・トレードショップに救いの手を差し伸べた。ラフ・トレードは、買収され、ベガースグループの傘下に入った。

 

 

2.インディーズレーベルとしての文化的功績を打ち立てるまで

 

ラフ・トレードは、レコードショップオーナーのジョフ・トラビスによって個人事業として設立され、元々、西インド人コミュニティの盛んだったロンドン西部のケンジントンパークロードに文化貢献、「人と人とを繋ぐための役割」を果たすためにオープンされた個人経営のレコードショップとして出発した。


2000年代以降、SNS等を介して、音楽ファンは、旧来よりも容易に他の音楽好きと情報交換や交流が出来るようになったのは事実である。


けれど、少なくとも、この1980年代前後には、音楽文化の発展する過程において、何らかの形で、音楽愛好家、ミュージシャンがある特定の場所を通じ、なんらかの意見交換や交流をする場を提供する必要があった。 


ラフ・トレードは、顔なじみの音楽好きがいつもそこにいて、いつも、なんらかの音楽を介して朗らかな情報交換や交流が行える場所となった。


こういった場を生み出すことは、ジェフ・トラビスの考案したアイディア、音楽による地域の文化形成という側面において必要不可欠だった。そこで、音楽、レコードという媒体を通し、文化の発信の足がかりを提供するため、1970年代の終わり、ジェフ・トラビスは、カナダのニューウェイヴ・パンクバンド名にあやかり、レコードショップ「ラフ・トレード」をイーストロンドンのケンジントンパークロードに開業したのである。 

 

 

Rough Trade East


ラフ・トレードがレコードショップとして開業してからそれほど時を経ず、 この店の常連客であったスティーヴ・モンゴメリーにトラビスは声をかけ、以後、この店の仕事を提供され、マネージャーとしてラフ・トレードの仕事を一任される。翌年になると、ラフ・トレードの従業員として、リチャード・スコットが3人目の重要なショップのキーパーソンとして参加するに至った。


当初、このインディペンデント形態のレコードショップ、ラフトレードは、ガレージロック、レゲエの専門店として発足し、多くの熱狂的な音楽ファンの支持を獲得していった。いかなる営業形態であろうとも、リピーターを期待できない空間から大きな文化が発生したことは寡聞にして知らない。


つまり、エンターテインメント事業は、他では得られない体験を顧客に提供出来るかどうかに尽きるかもしれない。一度で体験しきれない何かがその空間に数多く存在するからこそ、顧客はその場所に通いたくなるものだ。その点、ラフ・トレードは、他のレコードショップでまず扱われないようなマニアックではあるものの通好みの音楽ジャンルを膨大にディストリビューターとして扱っていた。主に、インディーズのガレージ・ロック、レゲエを専門的に扱うことで、他のレコードショップと差別化を図り、大きな満足感をイギリス国内の音楽ファンに与えることに成功したのだった。


現在も、当時と変わらず、レコードショップとしてのラフ・トレードは、CDやアナログの正規盤だけではなくて、ブートレッグ、非正規の海賊版を販売することでもよく知られている。海外からの旅行客は、珍しいブートレッグを購入することがこのレコード店に立ち寄った際の楽しみとなっていて、これぞ音楽通の嗜みである。


いずれにしても、こういった比較的マニアックなガレージ・ロック、レゲエといった音楽を専門に扱うレコードショップは、当時、1970年代後半、それほど多く存在しなかったはず。いってみれば、音楽ファン、需要側の欲求に答えてみせたこと、また、音楽ファンが交流する場を提供したことにより、数年間を通じ、このレコードショップ、ラフ・トレードは、多くの音楽ファン、多くのミュージシャンに膾炙される名物レコード店として認められる。そして、1970年代後半から1980年代初頭にかけ、上記2つのジャンルの他にも当時新たなジャンルとして国内で隆盛していたジャンル、ポスト・パンク、オルタナティヴ・ロックの作品を中心にリリースするようになり、”No Cure”のようなファンジン、ミュージックカルチャーの発信地の名高い場所として、ラフ・トレードは国内だけではなく、海外の音楽ファンにも知られていくようになった。


創業から二年後の1978年、ラフ・トレードは、他の国内の複数のインディーズ・レーベルと提携し、「The Cartel」と呼ばれるインディペンデントレコード生産の流通組織を築き上げた。つまり、これこそ音楽業界における最初のDIYの確立の瞬間といえるかもしれない。このカルテルと呼ばれるネットワークは、”Factory、2 tone”といったレコード会社からリリースされたインディペンデント作品をこのラフトレードを中心に全国的に流通させる基盤を形作った。もちろん、ここからイギリスの音楽ムーブメントは多く沸き起こったことは多くの方が御承知のことと思われる。


ザ・フォール、スペシャルズをはじめとするパンク・ロックバンドがシーンに台頭しはじめた。この年代、ラフ・トレードは、イギリス国内の重要な熱狂的な音楽ムーブメントを支えた。ニューヨークのアーティストの影響から発生したパンク、ニューウェイヴ、それから、八十年代に入ると、スペインのイビサ島からクラブパーティー文化を国内に持ち帰ったマッドチェスターの音楽文化の素地を形成するのに、インディー・アーティストの作品の全国的流通という側面でラフトレードは一役買っていた。もちろん、ジョイ・デイヴィジョンのイアン・カーティスの自殺後に結成されたニューオーダーも、ラフ・トレードというレーベルなしには、その後の世界的大活躍、いや、いや、それどころかバンド自体存在することさえなかったといえるかもしれない。


ラフ・トレードは、1978年、レコードショップにとどまらずレコード会社としての機能も併せ持つようになる。


レーベルカタログのリリース第一号は、ジャマイカの著名なレゲエシンガー、ダブアーティストとしても知られるオーガスタス・パブロのシングル盤。そして、シェフィールドのキャバレー・ヴォルテールのデビューEP。


それから、なんといっても、ニューウェイブ・パンクのシーンの一角を担ったスティッフ・リトルフィンガーズのシングル「Alternative Ulster」だった。特に、この後にリリースされたスティッフ・リトル・フィンガーズのデビューアルバム「Inflammable Matterial」は、インディー作品でありながら、UKチャートで堂々14位にランクインしてみせたことにより、このラフトレードレーベルの最初のスマッシュヒット作品となった。「Inflammable Matterial」パンク・ロック名盤として必ずガイドブックに掲載されるマストアイテムである。とにかく、ガレージ・ロックの風味も持ち合わせたいかにもラフ・トレードのリリースとして相応しい作品といえるはずだ。

 

3.レーベルとしての転換期


それから1980年代にかけて、ラフ・トレードがイギリスでも、いや、世界的にも、名うての名門インディペンデントレーベルに引き上げた存在は、マッドチェスターの始まりを告げたモリッシー、ジョニー・マー率いるザ・スミスにほかならない。 ラフ・トレードはスミスを有望な新人アーティストとして発掘し、わずか5000ポンドという低価格でスミスのバンドメンバーと契約を結んだ。


以後、このバンドの、異常なほどの商業面での成功、世界的な活躍については、既に多くの音楽ファンによってしられているところである。


ザ・スミスは、1980年代後半にかけて、このラフ・トレードの最も有名な看板アーティスト、名物的なロックバンドとなる。「The Smith」「Meat Is Murder」「The Queen Is Dead」といったブリットポップ前夜を彩る神がかりのような大傑作のリリース、そして、スミスのウィリアム・シェイクスピアの文学性に影響を受けた独特なナルシシズムに彩られた甘美で暗鬱なポップサウンドは、マーガレット・サッチャー政権下での苦境にあえぐ多くの若者達の心を癒やしを与え、彼等の精神を支えつづけたのだった。


実は、かのブレア首相も、このスミスの大ファンであることは一般的によく知られている。つまり、このスミスというロックバンドは、最初は、労働者階級から中産階級の若者たちを中心に広がっていった音楽ではあるものの、そののちになると、イギリス国内では階級関係なく聴かれるようになったビートルズの次のビッグスターミュージシャンであった。


このレコード産業としてのザ・スミスの商業的な大成功により、莫大な利益を得たがため、逆にラフ・トレードはレーベルとしての放漫経営の罠に陥ることになった。利益の回収を度外視して、作品リリースを積極的に行いすぎたため、債務が徐々に膨らんでいった。しかし、一度、綿密に確立された経営方針を転換することほど勇気の必要なことはないかもしれない。この後、ザ・スミスは、1988年のリリースを最後に解散した。スミスの解散によりレーベルの経済面での屋台骨を失ったラフ・トレードは、徐々に1990年代にかけて衰退し、経営難に陥っていった。


その後、わずか三年という短い歳月で、このイギリス国内で最も有名なインディーレーベル、ラフ・トレードは、債務不履行により経営破綻に陥った。債務返済ができないとわかった時点の、レーベルオーナのジェフ・トラビスの失意の程は痛いほど理解できる。とりわけ、トラビスが嘆いてやまなかったのは、借金返済に補填するための資金の目途が立たないことについてはもちろんのこと、この際、最も彼を落胆させたのは、1991年までの約十三年に自ら手がけてきたラフ・トレード全作品のリリースカタログを権利をひとつのこらず失ってしまったこと。とりわけ、ザ・スミスのこれまでのカタログのライセンスを失ったことをトラビスは嘆いてやまなかったのである。


しかし、イギリスのレコード会社、同業者のベガーズグループが救いの手を差し伸べたことにより、ラフ・トレードの経営再建は始まった。これは、ベガースグループが1991年までにこのインディペンデントレーベルが国内にどれだけ多くの商業面での貢献をもたらしてきたのか、そして、文化的な貢献を果たして来たことを重々承知していたからこそラフ・トレードの救済を行ったものと推測される。その後、経営者として見事な経営手腕を発揮し、創業者、ジョン・トラビス氏は、1990年代、2000年代初頭にかけて、このインディペンデントレーベル、ラフ・トレードを再び英国きっての名門レーベルとして復活させ、世界的に成長させた。


その年代、特に、このレーベルの窮地を救ったのは、奇遇にも、このレーベルの最初の専門としたガレージロック音楽のリバイバルブームが世界的に2000年代に到来したことだろうか。最初にチャンスを呼び込んでみせたのは、ロンドン発の四人組ロックバンド、ザ・リバティーンズの「Up The Brancket」を引っさげての鮮烈なデビューだった。のちに、ジェフ・トラビスは、このバンドのドラック問題について辟易としていると発言しているが、少なくともガレージ・ロックといういくらかニッチなジャンルが再興したことについては、少なからず喜びを感じていたに違いない。この作品、そして、その後の、ラフ・トレードからのシングルリリースは、イギリス国内にとどまらずに、アメリカ、日本でも大ヒットし、商業的な面でも大成功を収めた。


それからも、ラフ・トレードの快進撃は続いた。その一年後、ニューヨークからリバティーンズと同じようなガレージロック色を打ち出したザ・ストロークスをラフ・トレードは発掘し、デビューアルバム「In This It」をリリースし、これまたたちまち世界的にロングセラーとなり、ストロークスはリバティーンズ以上の世界的なロックスターの座を短期間で手中におさめたのだった。 


その後、ガレージロックリバイバル旋風は、アメリカ、イギリスだけでなく、オーストラリア、スウェーデンへ広がり、再び、ラフ・トレードは、世界的な名門インディーレーベルとして見事に返り咲いた。


この後、ラフ・トレードは、比較的安定したリリース、レコード生産を行いながら今日まで息の長い経営を行っている。イギリス国外にも、レコードショップの系列店を持ち、ロックフェラーセンター内にあるラフ・トレードNYCを,そして、2016年には、”FIVEMAN ARMY”と提携し、日本にもラフ・トレードジャパンを発足させ、ストロークのギタリスト、アルバート・ハモンドJrの「Yours To Keep」をリリースし、堅調なセールスを記録する。もちろん、このレーベルは、その後にも魅力的なアーティストを見つけ出し、新人発掘という面で、レーベル発足当初と何ら変わらない慧眼ぶりを見せているのは、多くの熱烈な音楽ファンの知るところであるかと思う。

 

4.ラフ・トレードに貫流するDIY精神

 

インディーズレーベルの創始者、ジェフ・トラビスは、その初めに、人と人とをつなげるコミュニティーを形成するという明確な意図を持って、レコードショップ、レコード会社を何十年にもわたって成長させてきた人物である。のちに、ロックフェラーセンター内に自身の系列レコードショップを経営するようになる世界で最も成功したレコードショップオーナと称すことが出来る。

 

 

ROUGH TRADE NYC店舗内

 

 

あらためて、このことについて考えてみると、ザ・スミスの全カタログのライセンスの消滅という出来事は、ジェフ・トラビスにとって大きな痛手となったのは相違ないはず。それにつけても、もちろん、ベガースグループという資金面でのバックアップはあったことを充分に加味したとしても、トラビスという実業家はなぜこのレーベルを再建させることに成功し、以前よりもはるかに魅力的な世界的なインディーレーベルとして返り咲くことができたのか、ちょっと不思議に思えるようなところもなくはない。


その後、1990年代から2000年代にかけてのジェフ・トラビス氏の辛抱強い経営をささえていた概念、それは一体なんであったのだろうか。

 

文化的な貢献? それとも、もしくは、最初のコミュニティーを形成するという重要な動機? 

 

他にも、様々な要因が挙げられるはずである。もちろん、これらの概念は、トラビスという人物の辛抱強い経営を支えていたことは間違いないものと思われるけれども、推察するに、彼のこれまでの四十年近いレーベル経営を支えてきたのは、レコードショップのオーナとしてのプライド、そして、なにより、誰よりも深い、ロックをはじめとする音楽に対する慈しみ、愛情にも比する感情によるものだったのだ。


ここから引き出される結論があるとするなら、長く、何かを続けることに必要なものは、才能でも技術でもなく、情熱、人間としての深い慈愛がどれほど大きいのか、そして、どれだけ大きな夢を抱けるかに尽きるのかも知れない。


このことは、もちろん、言うまでもなく、現在もラフトレードの重要な精神として継承されている。

 

当初、独立系のレコードショップとして始まった独立精神、つまり、インディペンデント精神は、今日、このレーベルに所属するアーティストの音楽、そして、このレコードショップに引き継がれている理念、「The Cartel」と称されるインディーズ流通形式を確立させた際の伝統性「DIY」として、ラフトレードの長きにわたるレコード会社としての経営を今もなお強固に支えつづけている。

 

References

https://en.m.wikipedia.org/wiki/Rough_Trade_Records


 

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