Factory Records  80年代のマンチェスターサウンドの立役者たち 

 

 

1.マンチェスターの狂乱の時代

 

1980年代から1990年代初頭にかけて、英国の音楽シーンは、マンチェスターを中心に形成された。古くは、産業革命の時代から工業生産を旗印に経済的な発展を遂げたマンチェスターに主要なミュージックシーン、若者たちの文化が新しく育まれた。

 

このマンチェスターのミュージックシーンは、別名「Madchester」ともいわれ、1980年代の花開き、若者たちの地下パーティー、ドラックなどを介して、ダンスロックムーブメントが英国内に浸透していった。 時代は決して明るくなかった。当時のマンチェスターの若者たちはブラックマンデーという経済的に暗い時代を生きていた。

 

「鉄の女」の異名をとる新資本主義を掲げて政権運営を行ったマーガレット・サッチャー政権下での不況、あるいは、英国内の失業率の上昇という社会背景において、「音楽」という得難い何かに当時の英国内の若者たちは慰みを見出そうとしていた。それは日本の平成時代の先行きの不安という概念に囚われた日本の若者と重なるものがある。1980年代、大きな旋風を起こした「Madchester」は、イギリス国内の大学でも研究対象となっている文化のひとつであるけれども、決して健康的な文化というようには言いがたい。これは何かしら、熱に浮かされたような狂乱的なムーブメントであり、NYの1970年代のVUやThe Fugsといったバンドに象徴されるような退廃的な雰囲気を持つ文化のひとつでもあった。

 

これらのマッドチェスター・シーンの中から、ハッピー・マンデーズ、インスパイラル・カーペッツ、ナチスの喜び組の名にちなむジョイ・デイヴィジョン、さらには、ストーン・ローゼズといったUKのロックシーンでも際立ったロックバンドが輩出された。上記のバンドは、ザ・スミスも同じように、真夜中の闇の中を漂うかのようなアンニュイさを音楽性の特徴としていた。これらのサウンドは、どういった他の芸術形式よりも、深く現実性に根ざしており、若者たちの生活の真実を色濃く反映していた。

 

もちろん、この流れを引き継いで、オアシス、ヴァーヴ、ブラー、レディオ・ヘッドが登場する。後の時代には、アークティック・モンキーズ、カサビアンらが、登場の機会を伺っていた。これらのメインストリームの合間を縫い、アンダーグラウンドシーンでは、トリッキー、ポーティスヘッドをはじめとする暗鬱なトリップ・ホップ、「ブリストルサウンド」が生み出されたのだ。

 

これらのロックバンドは、 特に前の時代のビートルズ、Led Zeppelinといった偉大なロックバンド、その後のクラッシュやオリジナル世代のポスト・パンクが出てきた後、ロックという音楽が完全に行き詰まりを見せていた時代に、クラブミュージックのサウンドを新たにロックに取り入れることにより、1980年代から1990年代初頭にかけて新時代を象徴する音楽を生み出してみせた。それはもちろん、のちのオアシスを始めとするブリット・ポップに引き継がれていった。

 

最初のマンチェスターサウンドは、スペインのイビサ島における真夜中のクラブパーティーの文化をマンチェスターに持ち帰った地元のDJたちが、フロアでクールな音楽をかけ、それが若者たちにもクラブ文化として浸透していき、さらに、マンチェスターの若者たちは、それを既存のロックミュージックと融合させたというのが通説となっている。


いってみれば、ロック音楽が行き詰まりを見せていた時代、ダンス・ミュージックとロックの融合をはかることにより、英国のロック音楽は新たな息吹を吹き込まれたのだ。現在の、英国内の主要なロック音楽、ポピュラー音楽にとって欠かさざる点であり、それは一種のイギリスらしい音楽文化として引き継がれているようにも思える。


これらの文化は若者たちの生活に退廃性をもたらすと同時に、カルチャーを生み出す基盤となった。当時の社会背景を知るのに最適なのが「24 Hours Party Peole」という2002年の映画である。このドキュメンタリーの要素が込められた映画には、ハッピー・マンデーズやジョイ・デイヴィジョンがストーリー中に登場する。


これらのマンチェスターのミュージックシーンは、少なくとも、その最初期においては、地元のクラブから始まった。そして、そのクラブ文化の浸透、さらには後発のダンスロックと呼ばれるムーブメントを後押ししたのがマンチェスターのインディペンデントレーベルの「Factory Record」であった。

 

 

2.トニー・ウィルソン、パンクロックを引き継いだ新時代の音楽

 

 

1980年代のマンチェスターサウンドを最初に形づくり、それを英国全土に浸透させた先駆者はほぼ間違いなくファクトリーレコードの主宰者のトニー・ウィルソンだ。 サルフォードで生まれで、ケンブリッジ大学で教育を受けた後、インディペンデントレコード「Factory Records」をマンチェスターに設立する。 

 

トニー・ウィルソン (中央)

 

一説によると、ウィルソンは、大学で学んだ後、他の卒業生のようにエリートコースを歩まず、自分の惚れ込んだ音楽を紹介したり、それをある種の文化として広めていくことに喜びを見出していたという。 

 

1970年代から、トニー・ウィルソンは、最初期からパンク・ロックムーブメントを擁護した数少ない支持者であり、英国内のカルチャーを紹介するテレビ番組「So It Goes」の司会役を務めていた。このテレビ番組内で、BBCのラジオパーソナリティー、ジョン・ピールのような役割を果たし、ザ・クラッシュ、スージー&バンシーズ、バズコックスといったロンドンパンク、ニューウェイヴシーンの代表的なバンドを世に紹介し、彼らをメインストリームに送り出していった。

 

トニー・ウィルソンは誰よりもパンクロックの魅力について知悉していた人物だ。1979年6月4日、彼は伝説的なパンクロックショーに参加していた。ハワード・デイヴォート、そして後にバズコックスを結成するピート・シェリーが主催したロンドンのレッサーフリートレードホールの伝説的なコンサートに居合わせ、最初のパンクロックムーブメントの熱狂を間近で見届けていた。 

  

この日のショーには、地元の駆け出しのパンクロックバンド、The Sex Pistolsが出演していた。この日のロンドンのショーは、わずか40人程度の動員であったにもかかわらず、のちの1970年代にかけての、ロンドンパンクムーヴメントの先駆けとなった重要な分岐点となったライブとして、ポピュラー音楽の歴史に今も印象深く刻みこまれている。つまり、この日のショーの価値は、そこに居合わせた人数でなくて、誰がそこで何をやっていたのかに象徴されていたのだ。

 

セックス・ピストルズ、バズコックスの後の世界的な活躍は言わずもがなで、さらに、この日のライブのPAを務めていたマーティン・ハネットは、後に、ハッピー・マンデーズを結成し、さらにストーン・ローゼズの独特なサウンドを生み出した人物だ。

 

マーティン・ハネット (右)


さらに、このライブには、イアン・カーティス、バーナード、ピーターの三人が参加している。すでに多くの方がご存知の通り、彼らは、Joy Divisionを結成し、イアンの死後、ニュー・オーダーを結成し、UKエレクトロ・サウンドを完成へと導いた。

 

きわめつけは、将来のマンチェスター、英国内の最も有名なミュージシャンとなるスミス・スティーヴン・モリッシー、The Fallを結成するマーク・E・スミスも、この日のライブに居合わせていた。つまり、この日のロンドンのレッサーフリートレードホールライブショーには、後の10年における英国のミュージックシーンを担う人物が一同に会していたのである。

 

 

3.Factory Recordsの発足 イベントからの発展

 

その後、これがマンチェスター郊外のモスサイドにあるラッセルクラブで開催されたイベント、ファクトリーナイトの始まりにつながった。

 

トニー・ウィルソン、地元の俳優であるアラン・エラズマス、プロモーターのアラン・ワイズが上演し、夜には、ドゥルッティ・コラム、ジョイ・デイヴィジョン、キャバレー・ヴォルテール、ティラー・ボーイズなどのバンドにように、ライブパフォーマンスが行われるようになった。

 

最初のイベントのポスターは、ファクトリーが作製した全カタログ番号を提供する、というレーベルポリシーに従い、その後、「FAC」としてカタログ化される。彼は、ポスターを届けピーター・サヴィルによってデザインされた。

 

Fac Dance 2: Factory Records 12inch Mixes & Rarities 1980-1987

 

イベントの開催に伴い、ファクトリー・レコードは、レーベルとしての役割を担うようになる。 トニー・ウィルソン、アラン・エラズマス、ジョイ・デイヴィジョンのマネージャー、ロブ・グレットン、プロデューサーのマーティン・ハネットにより設立されたファクトリーレコードの最初のリリースは、主催するイベントに出演したアーティストの曲のコレクションであった。

 

しかし、その後、ファクトリーがレコード会社としての運営に問題を抱えたのは、アーティストとの正式な契約を交わさなかったことによる。 レーベルが作製した唯一の法的な文書は、彼らが一緒に仕事をしたアーティストが、彼らの音楽、芸術的な方向性に対する所有権を持っていることを示す声明だけであった。

 

 

4.ジョイ・ディビジョン その後のマンチェスターシーンに与えた強い影響 


これらの最初のファクトリーイベントから出発し、1980年代以降のマンチェスターサウンドを最初に定義づけたのは、イアン・カーティスを擁するジョイ・デイヴィジョンにほかならない。

 

当時から、イアン・カーティスは市役所に勤務しながら、ロックアーティストとしての歩みを始めた。だが、ライブやレコーディングにおける過労の連続が、彼の生涯に、また、その後のマンチェスターの音楽に仄暗い影を引いたことは事実である。


このバンドは、最初のファクトリーレコードの代名詞のような存在、そして、のちのマンチェスターサウンドの最初の立役者となった。彼らは、1979年4月にストックポートのストロベリースタジオで、デビュー・アルバム「Unknown Pleatures」のレコーディングを開始する。  

 

Joy Division 「Unknown Pleasures」1979

 

ジョイ・デイヴィジョンの無機質なサウンドを生み出したのが、最初のファクトリーのイベントにPAを担当していたマーティン・ハネットであった。彼は、このお世辞にも演奏が上手くなかったバンドの演奏力を鍛えた人物でもあり、彼の狂気はファクトリー伝説の一貫の語り草になっている。レコーディング中、ドラムキットは解体され、スタジオの屋上で組み立てなおされた。さらに、イアン・カーティスは、ヴォーカルトラックを、マイクではなく、電話回線で録音をおこなった。

 

そして、「Unknown Pleasure」は、ドイツのクラウト・ロックの影響があってのことか、金属的なSEの音が組み込まれている。これらの独特な金属音は、建物地下にあるトイレで捉えられたボトルの音をSEとして、ハーネットが録音したものだ。


このデビューアルバムのインダストリアルな音楽性は、アート・リンゼイ、ブライアン・イーノの「NO New York」に触発された可能性もある。「Unknown Pleasures」のレコーディングが行われたのは、このアルバムのリリースされた一年後のこと。


もちろん、上記のことは憶測に過ぎないと言い添えてておきたいが、少なくとも、後にストーン・ローゼズのサウンドの生みの親であるハーネットが志向したのは、既存のロンドン・パンクの流れに決別を告げる新時代のマンチェスターサウンド、テクノやハウス、そういった電子音楽と以前のパンクを融合したものであったことはたしかである。

 

「Unknown Pleasures」は、少なくとも、前進のワルシャワ時代から、地元のローファイなパンクバンドでしかなかったジョイ・デイヴィジョンのUKの音楽シーンにおける地位を決定づけた。のみならず、その後の10年間のマンチェスターサウンドを予見した歴史的傑作といえるだろう。パンクロックに強い影響をうけたハーネットのエンジニアとしてのすぐれた技術は、70年代後半のマンチェスターの若者たちの生活を反映した無機質で暗鬱な音楽を生み出した。

 

「Unknown Pleasures」はリリース後の2週間で、元のプレス量の半数の10,000枚を売げた。ところが、さらに、10,000枚を追加生産するのに6ヶ月要したため、ファンへの供給が間に合わず、UKチャートで大成功をおさめられなかった。翌年、二枚目のアルバム「Closer」が、多くの英国内のレコードショップに並ぶ頃、既にフロントマンのイアン・カーティスは公務員とミュージシャンという二重生活によるプレッシャー、彼自身の癲癇の持病による苦悩の末に、この世を去っていた。もちろん、その後、残りのメンバーはかのニュー・オーダーを結成する。

 

Joy Division 「Closer」 1980

 

ジョイ・デイヴィジョンのその後のマンチェスターの音楽シーンに与えた影響は計り知れないものがある。彼らは、79年から80年代初頭にかけて、ニューウェイヴの道を切り開いた。彼らの二番目の最後のアルバムとなった「Closer」は、UKチャートの6位を獲得し、大きな知名度を得ることになった。

 

その後、数十年にもわたり、ジョイ・デイヴィジョンの曲は、数え切れない再発盤がリリースされ、マンチェスター、UKのポピュラー音楽の記念碑的な分岐点を形作ったとみなされている。これほどまで革新的であり、ま後に強い影響を及ぼしたロックバンドは類を見ないといっても過言ではあるまい。

 

 

4.イアン・カーティスの「Ceremony」の遺産   ニューオーダーの結成 


当初のところ、イアン・カーティスという重要な天才的なヴォーカリスト、フロントマンを失ったJoy Divisionの他のメンバーは、バンドを続ける意向はなかったという。それはやはりイアン・カーティスの代役をつとめられる人物は世界にひとりもいないからである。それでも、ファンからの再結成へのラブコールもあったはずで、そういった次の音楽への期待をバーナード・サムナーをはじめとする残りのメンバーは裏切ることは出来なかった。

 

New Order 「Movement」 1981

 

 

ほどなく、ヴォーカリストを探していたジョイ・デイヴィジョンは、ギタリストだったバーナード・サムナーが歌うことによって新生した。彼らは、New Orderとして新たな船出をすることを告げ、UKのミュージックシーンでひときわ強い存在感を見せる。 イアン・カーティスとともに最後に録音された遺産「Ceremony」を1stシングルとしてリリース、ミュージックシーンに鮮烈な印象を残した。さらに1980年7月、キーボード、ギターとして、ジリアン・ギルバートがニュー・オーダーに参加、その後、デビュー・アルバム「Movement」をリリース。 これはまさにファンが待望していた、ジョイ・デイヴィジョンのまだ見ぬ夢の続きのような意味を持っていた。

 

New Orderがジョイ・デイヴィジョンの影から完全に脱却を試みたのは「Blue Monday」からあった。彼らは、ポスト・パンクの代名詞的なサウンドから抜け出て、マンチェスターサウンドの下地を作った。この12インチシングルは、バンドがよく聴いていたイタリアのディスコ音楽のクラブミュージックに触発されたものだ。

 

「Blue Monday」のジャケットアートワークを手掛けたPeter Savilleのデザインは複雑であったので製作コストがかさみ、この12インチレコードの販売元のFactory Recordsはレコードをコピーするために赤字を計上した。「Blue Monday」は、ファクトリーレコード発足史上、最も売れたアルバムとなった。続いて、1983年の「Power Corrupution and Lies」は、UKチャートで四位を記録し、ついに、後のUKミュージックシーンでの確固たる地位を築き上げた。  

 

 

New Order 「Blue Monday」

 

 

5.ハシエンダとマッドチェスター  アシッド・ハウスの席巻


彼らの成功が何につながったのか言及せずに、ニュー・オーダーについて語り尽くすことは許されまい。FAC51(別名ハシエンダ)と呼ばれるクラブの扉は、1982年5月に開かれた。ロブ・グレットンの発案のマンチェスターのクラブは、ファクトリー・レコード、ニュー・オーダーによって共同で資金提供され開店した。当初、このクラブの経営に携わっていたマーティン・ハネットは、運営の費用が450,000という額に上ると知った時、(ファクトリーレコードのレコーディング予算から差し引かれた)まもなく、ファクトリーレーベルと決別した。 
 
 
ハシエンダ(The Haçienda)では、The Smith,The Stone Roses,Madonnaなどのビックアーティストのライブアクトを主催したにもかかわらず、フロアが満員になることは少なく、当時としては平均的なクラブに過ぎなかったという。ところが、この状況は、1986年に新しい音楽、アシッド・ハウスのムーヴメントがマンチェスターを席巻したときガラリと一変した。
 
 
アシッド・ハウスは、旧来のクラブミュージックとは異なるサウンドである。Roland808,303ドラムマシンにより、反復的なリズムとベースラインを生み出したのが画期的だ。ダンスフロアを見下ろすブースから、クラブ全体を制御できる。


こういったハシエンダ特有のシステムにより、デイブ・ハスラム、ボビー・ラングレー、マイク・ピカリングといった、多くの並み居るDJが、この新しい音楽シーンを盛り上げていった。そして、これらのハシエンダの最初期のDJたちは、スペインのイビサ島のパーティー文化をマンチェスターに取り入れた人物たちであり、この最初のアシッド・ハウスシーンが、それに続くレイヴミュージックへと受け継がれていった。
 
 
ハシエンダの当時の場内の様子 Machester Historian

 
 

その後、マンチェスターには、レイヴカルチャーが到来する。80年代後半から90年代初頭にかけて「Madchester」シーンが隆盛をきわめる。しかし、これらの音楽シーンの立役者であったハシエンダは、その後、シーンを崩壊させた張本人でもある。その後のレイヴ・カルチャーは、常にドラッグと深いかかわりを持っていた。


このクラブで開催されていた狂乱的なパーティー(イビサに触発されたパーティー)には、ドラッグ問題が根深くかかわリ治安が悪化、誰もがドリンクを注文しなかったため、長期的なクラブの経営としては大損益へつながった。
 
 
1990年代に入って、マッドチェスター時代が終わりを告げる。オアシス、ブラーが先陣を切ってUKロックシーンの色を塗り替えてみせたからである。マッドチェスターからブリット・ポップの時代に移り変わるにつれ、麻薬犯罪が蔓延し、街からクラブへ、それらが持ち込まれたため、ハシエンダは店舗内の治安の維持が困難になった。


経営面においても、ハシエンダはむつかしい局面に立たされていた。その結果、1997年6月に、マンチェスターサウンドの立役者、クラブ・ハシエンダは閉店となった。建物は後に、2002年にマンションに変わっているという。
 

 

6.ハッピー・マンデーズ もうひとつのマンチェスターサウンドの立役者

 

ニュー・オーダーと共にファクトリーレコードの栄光を築き上げた立役者として、忘れてはならないのが、ハッピー・マンデーズだ。
 
 
ハッピー・マンデーズは、1987年、デビュー・アルバム「Squirrel And G-Man 24 Hour Party People Plastic Face Carnt Smile(White Out)」を引っさげて、英国のミュージックシーンに華々しく登場した。
 
 
Happy Mondays「Squirrel And G-Man 24 Hour Party People Plastic Face Carnt Smile(White Out)」
 
 
その一年後、マーティン・ハネットがプロデューサーをつとめた「Bummed」をリリース、マッドチェスターシーンの主要な役割を担った。彼らのデビュー作は、2002年になって、ドキュメンタリー風映画「24 Hours People」の題材になっている。
 
 
ハッピー・マンデーズは、2ndアルバム以後、ファクトリーのメンバーでなくなり、レーベルのアーティストとして、数多くのアルバムを制作した。マンデーズの初期の録音セッションは、ドラッグを燃料としていたことは事実であり、これはドラッグの幻覚作用による産物ともいえる。さらに、プロデューサーのハネットにさえ、ドラッグが配布されていたというのだから驚きである。 彼は、この時代、ビートルズでいうジョン・スペクターのような役割を担っていたとも言える。
 

 
1989年の「Madchester Rave On EP」、さらに、三作目「Pill’n Thrills And Bellyaches」のリリースで、ハッピー・マンデーズは、ファクトリーレコードと共に世界の頂点に立った後、マンデーズはバルバドスに詰め込まれ、四枚目のアルバム 「・・・Yes Please」を制作した。  


 この島に滞在したのは、主に、ショーン・ライダーをヘロインから遠ざける意図があった。ここで、マンデーズの破天荒なエピソードがある。バンドは、ヘロインが利用できないため、 バンドは、クラック・コカインに夢中になり、ベズは、車をクラッシュさせたあとに腕を骨折した。当時は、これらのドラッグが高値で取引されており、マンデーズのメンバーは、家具、それどころか、スタジオ設備まで売り払ったというのだから、呆れてものがいえないわけである・・・。
 
 
Happy Mondays 「・・・yes Please」
 
 
彼らがUKに帰ると、ショーン・ライダーはマスターテープを人質にとり、ウィルソンに支払いを要求した。アルバムを聴いてみたトニー・ウィルソンは、ショーンがアルバムの歌を録音しておらず、どころか、歌詞を書いてさえいなかったことに気がついた。彼らのバルバトス島での努力は、こうして完全なる徒労に終わった。次のアルバムが完成してリリースされた1992年、マッドチェスター・シーンは既に終わりを迎えようとしていた。まさに、ハッピー・マンデーズは、マッドチェスターと共に始まり、マッドチェスターと運命をともにした儚さのあるバンドであった。
 
 
 

7.ファクトリー・レコードの終焉 


 
この期間、トニー・ウィルソンは、ファクトリーが驚くべき速さで資金を失っていることに気が付き、(ラフ・トレードとは異なり、彼らは、ニューオーダーを含むこのレーベルのほとんどのバンドのライセンス契約を正式に交わしていなかった)その後、ファクトリー・レコードは1992年11月22日に破産宣告をおこなった。マッドチェスターシーンが終了し、ブリット・ポップが始まった。それに伴い、ファクトリーレコードもミュージックシーン形成の役目を終えた。
 
 
レーベルとしての幕引きを迎えた後、ファクトリーレコードは文化施設として知られるようになった。
 
 
およそ14年のレーベル運営の後、何世代にもわたり、ファクトリーは数え切れないほどの伝説的な物語を残した。市民の純粋な誇りと音楽の信頼に基づいて運営され、音楽業界に革新をもたらし、その後のマンチェスターの音楽、ひいては、英国のポピュラー音楽に強い影響をおよぼした。
 
 
ファクトリー・レコードのレーベルオーナー、グラナダテレビ、また、BBCのジャーナリストとして活躍したトニー・ウィルソンは、2007年にマンチェスターで亡くなり、同地のサザン墓地に眠っている。彼は、生前、以下のように、神話的な暗喩を交えた言葉を遺していることを最後に付け加えておきたい。
 
 
「私は、一言だけ、後世に伝えておきたい。

 

ーイカロスー

 

もし、あなたが、それを人生で手にいれれば、もちろん、一番、素晴らしいことです。でも、たとえ、そうでなくても、また、それはそれで素晴らしいことなのです」
 
 

 

 カルチャーに関する記事、リミナルスペースについてもご一読ください。



こちらの記事もあわせてお読み下さい:


英国の名門レーベル「ROUGH TRADE」 DIYという概念はどのように形成されたか

0 comments:

コメントを投稿