M.I.A  アレックス・ジョーンズ裁判とファイザー社のワクチンの虚偽を秤にかける

M.I.A 

 ロンドンのシンガーソングライター、M.I.A.は、インフォウォーズの放送局がサンディフック銃乱射事件の遺族に10億ドル以上の賠償金を支払うよう命じられた、アレックス・ジョーンズ裁判のニュースにSNSを通じてコメントをしている。


アレックス・ジョーンズは、保守系ラジオのDJであるとともに、一般的には陰謀論者と見なされている人物のようである。ジョーンズは、サンディフック銃乱射事件はデマであり、偽旗事件であるというように繰り返し主張してきたが、このことが発端となり、銃乱射事件で犠牲になった子供たちの遺族から裁判を起こされ、現在、巨額の訴訟費用に直面しているところである。


このニュースに反応したM.I.A.は、アレックス・ジョーンズの行動とパンデミックの間に誤った同等性を生み出し、同時に、ワクチンは、フェイクニュースだと暗示しているようにも見えました。これは先日、ソーシャルメディアを通じて、ファイザー社のワクチンが虚偽であるという報道に準じたものである。さらに、このことはこのニュースは、先日の行われた欧州委員会の公聴会におけるファイザー社の質疑応答が関連している。ファイザー社は、ワクチンが感染に効果があるかを調べるチェックを行っていないとの回答を提出している。この映像が出回った後、SNSでは、ファイザーのワクチンに関する虚偽がトレンド入りとなったのだ。


この件に関して、UKの人気シンガーソングライターも黙認するわけにはいかなかったようだ。M.I.A.は、SNSに次のようにコメントしている。「もしアレックス・ジョーンズが嘘をついたとして賠償金を支払うなら、ワクチンを推進しているすべての有名人も、同様に賠償金を支払うべきじゃないかしら」というのだ。


さらに、M.I.Aは次のようにつけ加えている。"アレックス-ジョーンズの嘘とファイザーの嘘の両方がトレンド。ペナルティがあるもの、ないもの、双方。もしあなたに批判的思考能力がないのなら、核戦争で、人類が滅亡する前に、これくらい、クレイジーなことをやっておかなければなりません」



 



さらに、上記のツイートに大きな反響があったことを受けて、M.I.A.は、自身のコメントの真意を明らかにし、彼女は「本当は」反ワクチンではないと主張しています。


Twitterの代わりに、この更新は、ジャーナリストのShad D'Souzaが予防接種についての彼女のスタンスについて尋ねたガーディアンとの新しいインタビューによるものである。


「彼らが誰かを攻撃するときに使う言葉は、"ああ、彼女はアンチワクチンの人だ "とか言うことです」と発言している。しかし、M.I.A.は「じつはそうでもない」と回答し、次のように述べている。


"私はワクチンを摂取して死亡した人を3人知っているし、COVIDで死亡した人も3人知っている。"と彼女は続けました。"これは私の人生の中で、私の経験の中で。その経験を否定して、『いや、それはあなたの経験じゃない』とガスライティングする人がいるとしたら、それは何の意味があるのでしょう?"


さらに、「私が経験をして、その情報を自分の脳で処理して、何らかの結論を出すこともできないのに、ワクチンを打って守ろうとする存在とは一体何なのでしょうか。そして、日々、選択を迫られる社会の中で生きていくことなのでしょうか? 私たちはみんな自由で、何でもかんでも争って、言いたいことを言えるという変な考え方がありますが、一方で、それに対する取り締まりがさらに強化されているような気がします」


他の会話の部分で、M.I.A.はサンディフックの悲劇についてさらなるコメントを述べ、犠牲者の家族がジョーンズの嘘にさらされたことは「ひどい」ことだと語っている。そして、彼女は、長年にわたって声を上げてきた母国スリランカのタミル人たちに同じ礼儀を与えてほしいと願っているという。


「今日、ある白人の男が嘘をつき、ある家族をひどい目に合わせた。もし私たちが社会でスケープゴートを持ち、そのせいで誰かが(嘘の)代償を払うことになるなら、私は戦争末期に、たった4万人のタミル人が殺された、と書いたすべての西洋の出版物に対して同じような裁判を起こしたい」


M.I.A.がTwitterで初めて自分が反ワクチン派であることを示唆したのは2020年に遡るが、その後、反発を受けたため自身のスタンスを明らかにした。これらの発言をみるかぎりでは自由な発想を持つこのポップな挑発者は、ワクチンに関してはかなり中道的な意見を持つ人物であるように思われる。


そして、彼女はタミル人としてのルーツをもつがゆえか、命そのものに軽い重いは存在しないことを知っているのだ。我々は常に過剰な報道のせいで正常な感覚を麻痺させている。数字で人々の死をカウントするのは簡単なことであるが、一人の死も多数の死も、その重さや、尊さ、厳粛さについてはなんら変わりがない。もちろん、そこには貴賤という概念すらも存在しえない、どのような命も尊いことに変わりはないのである。

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