Weekly Music Feature Hania Rani 『On Giacometti』

 Weekly Recommendation  


Hania Rani 『On Giacometti』

 



Label: Gondwana Records


Release: 2023年2月17日



ハニャ・ラニの言葉 

 

 "ジャコメッティについて" 


 ジャコメッティの家族についての映画のサウンドトラックを依頼されたとき、私は考えもしなかった。


 アルベルト・ジャコメッティはスイスの芸術家で、主に画家と彫刻家として活動し、長い間、私のお気に入りの芸術家の一人だった。彼のスタイル、美学、創作活動の特徴には、今でも様々な面で魅了されています。ですから、彼の世界にさらに深く入り込み、彼だけでなく彼の家族も知ることができるのは、私にとって見逃せない機会でした。


 この「イエス」という言葉が、私を精神的、創造的なレベルだけでなく、肉体的にもどこまで導いてくれるかは、まだ分かっていませんでした。ドキュメンタリーの監督であるスザンナ・ファンツーンのおかげで、そして幸運といくつかの追加質問のおかげで、私はジャコメッティが生まれ、彼が住んでいなかったにもかかわらず故郷と呼んでいた場所からそう遠くないスイスの山々に数ヶ月間移り住むことにした。スザンナは、彼女の故郷の近くに、スタジオを借りてサウンドトラックだけでなく、他のプロジェクトもできる場所を教えてくれた。その日は真冬で、辺りは氷と雪で覆われていて、山の中ならではの光景でした。レジデンスハウスは高い山に囲まれた谷間にあり、冬の季節の太陽は日中あまり長く昇ってきませんでした。彼女はそのことを私に話し、「そこでみんなが元気になっているわけではないけれど、元気になってほしい」と付け加えたのを覚えています。もちろん私はそうするつもりでした。


 現実からほとんど切り離されて、街や娯楽、急ぐ人々、普段私の注意を引くあらゆるものから、私は音楽やサウンドトラックに完全に集中し、一日の大半を自分の考えで過ごし、創造的なプロセスで実験し自由になるための十分なスペースを持つことができた。このサウンドトラックは、私が普段生活している場所で作曲したら、おそらく全く違うものになったでしょう。私はこれを、作曲家として、また人間としての自分について、何か新しいことを探求するチャンスと捉え、普段の自分とは逆の方向を選び取りました。


 アルバム「ジャコメッティについて」には、サウンドトラックからの抜粋、代表的な曲、声そのものが強くなった曲などが収録されています。即興的なメロディー、シンプルなハーモニー、構造、そして静寂をベースにしたこのアルバムは、私のデビューアルバム「Esja」を思い起こさせるものです。精神的にも肉体的にも、これらの要素が私を主要な楽器であるピアノへと導き、私は自分が作業している空間の言語を用いて再び定義しようとしました。空間は通常、プロジェクトの配置や性格について私に答えを与えてくれる重要な要素です。空間は最初に現れるようで、音楽はその天使を変化させる目に見えない力なのです。


 かつてアルベルト・ジャコメッティが手紙の中で書いた有名な言葉があるように、山に囲まれて生活していると、視点やスケール感の捉え方が変わってくる。


 山のように遠くにあるものが近くに感じられ、人間のようにそれほど遠くないものが、遠くから見ていると小さく感じられるようになるのだ。


 指で山の頂上を触るのが、鼻先に触れるくらい簡単なことのように感じられる。


 雪が積もっているためか、音は静かに地面に落ち、計り知れない空間の響きを伴っている。ひっかき傷やささやき声のひとつひとつが自律した存在となり、幽霊や迷子の世界への入り口を開いている。一見、何も動いていない、何も変わっていないように見えるが、そこには時間が止まっているように見える。


 しかし、氷と雪は時間の流れを明らかにし、凍りついた水路は、一日、一時間、一秒ごとに荒々しい水の流れに姿を変える。溶けては消え、白い粉やノイズに覆われた空間がクリアになる。一晩の旅行者には見えないが、長く滞在する人にとっては痛いほどリアルなプロセスなのだ。


 時間は、川を流れる音の新しい波とともに流れ、私たちが限りなく繰り返されるサイクルの一部であることを思い起こさせる。私は春の息吹とともにこの谷を後にした。


プレスリリースより。


Hania Rani

 

  大胆な細いフォルムを採用することで知られるスイスの造形作家、アルベルト・ジャコメッティの映画のサウンドトラックのために制作された全13曲に及ぶ、ピアノ、オーケストラレーション、エレクトロニカのコラージュ、アンビエントのようなディレイ効果、様々な観点から組み上げられたポーランドのハニャ・ラニの『On Giacometi』は、ポスト・クラシカルの快作のひとつで、作者自身が語っている通り、制作者が置かれる環境により実際に生み出される作風は著しく変化することを端的に表しています。アイスランドのピアニスト/作曲家Olafur Arnoldsのピアノ作品の再構築『some kind of piece-piano reworks』(2022)にも参加しているハニャ・ラニは、今作で視覚的な音響空間を生み出していて、アルバムの収録曲は細やかなピアノの演奏に加えて、空間にディレイを施したアンビエント効果、さらに作曲家の管弦楽法の巧みさが絶妙な合致を果たすことで、静謐に富み、そして内的な対話のような奥深い世界観がかなり綿密に組み上げられている。

 

 ハニャ・ラニは、具体的な場所こそは不明であるが、友人の所有するスイスの山間部にあるスタジオに滞在し、これらの映画のサウンドトラックとして最適なピアノとオーケストラにまつわる壮大なアルバムを製作することになった。そして実際に、この作品を聴くと分かる通り、 作曲家の紡ぎ出す音楽は、さながらこの山間部の冬の季節における変化、それと反対に山脈の向こう側から日が昇り、そして夕暮れをすぎて夜がふけていき、まさに風の音しか聴こえないようになる非常に孤独ではあるが潤沢な1日という短い時間を、ピアノ/オーケストラという観点から丹念にスケッチしているように思える。ジャコメッティと同じような内的に豊かな時間を過ごすことを選択し、芸術家が彫刻刀により造形のための材質をひとつひとつ繊細に削り取っていったのと同じように、ハニャ・ラニもまたピアノのノートを丹念に紡ぎ出していきます。制作者はその録音スタジオの外側の世界にある様々な自然現象、山岳に降り積もる雪や風の音や雨音、急に晴れ間がのぞく様子など、外側の天候の変化をくまなく鋭い感性により捉えることで、それらを内省的な音響空間として組み上げていくのである。

 

 サウンドトラックの大部分を占めるピアノ音楽は、抽象的なフレーズや、もしくはニルス・フラームのような深い哀感に富んだミニマル・ミュージック、それに加え、上記のアーノルズのような叙情的なフレーズが中心となっている。だが、そこには時にブラームスの音楽にあるロマン派に対する親和性のような感慨が滲んでいる。アルバムの序盤こそ、近年のポストクラシカル/モダンクラシカルの作曲家/演奏家の作風とそれほど大きな差異はないように思えるけれど、中盤のアンビエントに近い先鋭的な空間処理が実際のピアノ演奏の情感を際立たせているため、さらりと聴き通すことが出来ない部分もある。それはスイスの巨匠の創作の際の苦悩に寄り添うかのような深く悩ましい感慨が、さほど技巧を衒うことのないシンプルな演奏の中に見いだされる。これがサウンドトラックとして、どのような効果を発揮するのかまでは不透明ではあるが、単体の音楽作品として接した際、音響に奥行きと深みをもたらしている。映画音楽のサウンドトラックとして、その映像の効果を引き出すにとどまらず、その映像の中にあるテーマともいうべき内容を印象深くするための仕掛けが本作にはいくつか取り入れられているようにも思える。

 

 アルバムに収録された曲が進むたびに、まさに、作曲家が滞在した山間部の冬の間に景色が春に向けて少しずつ移ろい変わっていく様子を連想させる。山間部に滞在すると、見えるものが明らかに変化すると作者が語っているが、その言葉が音楽そのものに乗り移ったかのようでもある。実にシンプルなフレーズであろうとも、短い楽節のレンズを通して組み上げられていく音の連続性は、この作曲家が自らの目で見た景色、憂いある様子、喜ばしい様子、人智を越えた神秘的な様子、それら多彩な自然的な現象がアンビエンスとして緻密に処理され、それがピアノ演奏と合わせて刻々と移ろい変わっていくかのようである。言い換えれば、都会に住んでいると、誰も目にとめないような天候の細やかな変化、それがもたらす淡い抒情性について、印象派の音楽という形で緩やかに紡がれていきます。それはまた、美術家であるアルベルト・ジャコメッティが彼自身の目で物体に隠れた細いフォルムを発見したということに非常に近い意味合いが込められているように思える。そして、これとまったく同じように、隠された本質的な万物に潜んでいる美しさを、ハニャ・ラニはこのピアノとオーケストラ音楽を通じて発見していくのである。


 もしかすると、音楽も造形芸術とその本質は同じかもしれません。制作過程の始めこそ、自分の目に映る美しさの正体を見定めることは困難を極めるけれど、ひとつずつ作業を進めていくうち、そして作者自らの生み出すものをしっかりと見定めつつ、その核心にあるものを探し求めるうち、その作業に真摯なものが伴うのであれば、優れた芸術家はどうあろうとも美しさの本質に突きあたらずにはいられないのである。


 『On Giacometti』は、音楽作品として高水準に位置づけられており、美術家ジャコメッティのミニマルな生活とスタイリッシュさをモダン・クラシカルという形で見事に再現しています。特に音楽としては、アルバムのラストに注目しておきたいところでしょう。ベートーベンやブラームス、シューベルトのドイツ・ロマン派の作風の余韻を残した凛として高級感溢れるピアノ曲は、作品の終わりに近づけば近づくほど迫力を増していき、聞き手を圧倒するものがある。ハニア・ラニのピアノ曲は、映画音楽にありがちな大掛かりなまやかしにより驚かせるという手法ではなく、内的な静かな思索の深みと奥深さによって聞き手にじんわりとした感銘を与える。もちろん、映画から音楽を抜粋する形で発表されたアルバムであるため、必ずしも、トラックリストの順序通りに曲が制作されたわけではないと思われますが、「Anette」、「Alberto」において、アルベルト・ジャコメッティの彫刻における美学と同じように、それまで見出すことが叶わなかった本質的な美しさの真髄をハニャ・ラニもきっと見出したに違いない。

 

 

94/100

 

 

Weekend Featured Track #12「Anette」 

 

 

 

 

Hania Raniの新作アルバム『On Giacometti』は2月17日にGondawana Recordsより発売。

 

 

Hania Rani


 1990年、ポーランド音楽シーンの重要人物を多数輩出した北部のバルト海に面した湾都市グダンスク生まれ。

 

ピアニスト、作曲・編曲家。基本的にはクラシック畑の奏者だがそのキャパシティは広く、ポスト・クラシカルからチェンバー・ジャズ、アンビエント、フォーク他を幅広いヴィジョンで捉えている。


現在はワルシャワとベルリンをベースに活動。学生時代はショパン音楽アカデミーで学び、2015年に同世代のチェロ奏者ドブラヴァ・チョヘル(1991年生まれ)と共に、ポーランドのカリスマ的ロック・ミュージシャンであるグジェゴシュ・チェホフスキのメモリアル・フェスティヴァルに出演、チェホフスキのナンバーを斬新に解釈した演奏がもとで、2015年『ビャワ・フラガ(白い旗)』を発表し一躍注目を集める。


その後は2018年に女性ヴォーカリストのヨアンナ・ロンギチと組んだユニット、テンスクノによる『m』を発表、コンテンポラリーな要素を持つ室内楽サウンドでジャンルを越えたその才能がさらに開花する。2019年には、ゴーゴー・ペンギン他を輩出したUKマンチェスターの先鋭的レーベル"Gondwana Records"から初のソロ・アルバム『エーシャ(Esja)』を発表する。同年50ケ所以上のヨーロッパ・ツアーを重ねながらワールドワイドな知名度となりつつあり、2019年12月には東京で開催された「ザ・ピアノ・エラ2019」に出演し大反響を呼んだ。


スワヴェク・ヤスクウケのピアノソロにも通じる美しい音楽世界は官能的で繊細、リズミカルで独特の空気感を纏わせ、Z世代に近いミレニアル世代らしい新しさに満ちた活動を続けている。ピアニスト、コンポーザー、アレンジャーという枠も越えた「アーティスト」として認知されている。

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