Sly & The Family Stone 1970年のニューソウル・ムーヴメントの背景にあるものとは


 

・1970年の時代背景

 

ジョージ・クリントン擁するパーラメント/ファンカデリック、ジェイムス・ブラウン、さらにはスライ&ザ・ファミリー・ストーンといったグループは、ファンクとソウルを結びつけた象徴的なグループで、ブラック・ミュージックを語る上で軽視することができない。そしてこれらのグループは、アメリカの音楽の歴史において、かなりデリケートな時代を生き抜いている。

 

黒人と白人が共に同じ目的に向かい、歩んでいくという理想が幻想に終わり、そしてストーンズとビートルズがフラワー・ムーブメントへ歩みを進める中、黒人のグループはより独自の音楽的な過程を歩まざるを得なかった。

 

それは1950年代から60年代にかけて公民権運動が始まり、より人種間の主張の差が著しくなった時代でもあった。マーティン・ルーサー・キングの活動によって公民権運動は勝利を収め、社会としては公平性が担保されたと言えるが、それは表向きの話であり、レイシズムがなくなったわけではなかった。そのことによって、両者の間に深い溝を作ったと言える。政治的な公平性は、社会構造に歪みをもたらし、ときに社会における不公正やバランスの歪みを作り出す。

 

スライ&ザ・ファミリー・ストーンの音楽が重要な意味を持つのは、人種的な混合のグループであるにとどまらず、人種間の軋轢をリアルに体現させ、時には社会概念から開放させる力があるからだ。米国南部では、古くから激しい人種差別があり、その暗い靄を拭うために、公民権法が議会で承認され、次いで法案が通過したことは、米国南部で大きな意味があった。北部では、それ以前から黒人と白人が日頃の暮らしにおいて接触を図る機会は圧倒的に増加していた。


それでも、依然として、経済的な格差は著しく、毎年夏になると、黒人暴動が起きていた事実を鑑みると、公民権法は紙切れの公約に過ぎず、平等性が幻想の範疇にとどまっていたことを象徴していた。時代背景として、1960年代といえば、不均衡に関してバランスを取ろうという動きが世界各地で沸き起こった。


例えば、ベトナム戦争では、米国とソビエトの代理戦争が起き、それに関する反戦運動は学生運動に結びついて、68年から翌年にかけて大規模な学生運動に繋がった。日本でもこれらの動向は無関係ではない。これは現時点のガザに関連する米国での学生運動にも通じる何かがある。これは潜在的な”民衆の蜂起”と見るのが妥当で、単なる学生の思いつきと見て、武力で制圧するようなことがあると、政府や国家はその見立ての不確かさを露呈することになるだろう。

 

以降、音楽の世界でも同じような動向が沸き起こり、白人と黒人が同じステージに立つことも日常的となった。1967年のモントレー国際ポップフェスティバルでは、オーティス・レディングが白人のロックミュージシャンと同じ舞台に立った。そして、そこでは白人と黒人との音楽における共闘が演じられた。1969年のウッドストック(ニューヨークのキャッツキルバレーで開催され、40万もの観客が詰めかけた)では、スライ&ザ・ファミリー・ストーンがステージに上がった。ただし、これらは例えば、白人のフラワー・ムーブメントという概念の中に絡め取られていた。

 

スライに関しては、早くから白人と関わりを持ってきたため、人種間における軋轢のようなものをより身近に感じ取っていただろうと思われる。スライの音楽は、人種混合のバンドとしての深いテイストがあり、ボーカルやコーラスに関しては、ジャクソン5の影響下に置かれたグルーヴィーなものがあったが、ビートやリズムに関しては、白人音楽の影響を感じさせるものだった。サンフランシスコ出身のスライは、同地のサイケデリックムーブメント等と連動し、いわばロサンゼルスとは異なる''もうひとつのウェストコースト・サウンド''を確立させようとしていた。

 

黒人としてのアイデンティティを切実に感じていたスライ&ザ・ファミリー・ストーンが必要としたのは、ブラウンの次世代を行くファンクビートだった。とくに、1969年の「Stand!」にそのことが表れている。この曲にはオーティス・レディングの系譜にある南東部のソウルからの影響は泥臭い感じのフレーズに乗り移り、それとは対象的なハリのあるファンク・サウンドーージェイムス・ブラウンの次のニュー・ファンクーーが付け加えられ、軽快なグルーブが出現する。


ジェイムス・ブラウンのファンクには表向きには思想性はほとんどないが、スライのファンクには、何らかの意図や狙いのようなものが浸透している。これらは、他の以降の年代のブラック・ミュージックのグループやミュージシャンが試みたように、離れた2つの地域ーー西海岸と東海岸の音楽を繋げるような役割を担っていた。


いわばスライは潜在的なレイシズムの内在を捉えながらも、対立項を作り出すのではなく、融和や和合のようなものを描いた。だから、この曲は、友好的な雰囲気に満ち溢れ、ハートウォーミングな味わいがある。言わばスライは、かなり進んだ存在で、憎しみが愛情に勝ることはないと知っていた。加えて、彼らの音楽は特別視や神聖さとは別の民衆と同じスタンスを取っている。 

 

 

 

 

 

 

 

・スライ&ザ・ファミリー・ストーンの音楽の醍醐味


There's A Riot Goin' On 1971
スライの音楽の特徴は、ソウルミュージックの識者によると、とりも直さずファンクに求められるという。68年には、「My Lady」において、ジェイムス・ブラウン風のファンクビートが刻まれているが、より重要視すべきなのは、「Sing A Simple Song」の方だという見方がある。そして、「Stand!」での試作を経て、ようやく「Thank You」において最終的な形となった。

 

ジェイムス・ブラウンのファンクは音楽家としての専門性を土台として構築されたが、スライのファンクはそのハードルを少し下げ、誰にでも演奏出来るような軽やかさに変化したのだ。この後、ファンクビートはより一般的となり、誰にでも真似出来るものとなった。つまり、スライが、1960年代や70年代の音楽業界にもたらしたのは、リズムにおける革新性だった。


その影響は分岐し、ファンクビートを古典的なブラックミュージックに取り込もうというグループ、それから、「Stand!」の中で発現した黒人としてのアイデンティティを突き詰めようとするグループに分岐していった。つまり、後者のグループに属するミュージシャンたちが「ニューソウル」という運動を巻き起こしたというのが一般的な見方である。これは、さらに後の時代になると先鋭的になり、スライの1971年の代表作『There's A Riot Goin' On (暴動)』において完成される。このアルバムではスライのしなるようなファンクギターを楽しむことが出来る。 

 

 

 

 

 

スライが「Stand!」において人種的なアイデンティティを示唆しようとした以前にも、同じような試みを行ったグループがいた。特にアメリカの南部において、これらの動きが顕著であって、その中にはEddie Floydの「Raise Your Hand」が挙げられる。彼は曲の中で、拳をあげようというラディカルなメッセージ性を添えていた。68年には、James Carrが「Freedom Train」という曲の中で、「自由の列車はもうすぐやってくる!」と歌っている。


ただ、後者のニュアンスに関しては、Sam Cooke「サム・クック)の系譜にあり、彼の代表曲でブラックミュージックの至高の名曲でもある「Change Gonna Come」のように未来に対する純粋な希望が歌われている。 シンプルだが心を揺さぶられるメッセージは、この年代のニューソウル運動の前後の時代の醍醐味だ。取り分け、南部のシンガーは、マーティン・ルーサー・キングに親愛の情を抱いていたという。ブラックミュージックの先駆的な存在、サム・クックは、1964年のコパでのライブステージにおいて、「If I Had A Hammer」を歌い、自由の喜びを端的に伝えた。制限的な権利から開放的な権利を有する時代への変遷を上記のエピソードは反映している。



・社会との関わりを持つ音楽 --ニューソウル--


ただ、それらの靄は完全には払われたわけではない。1968年に、キング牧師が暗殺されたことは、彼を信奉していた南部の歌手に深い衝撃を及ぼしたにとどまらず、根深い人種問題をもたらす。現在も、多くのブラックミュージックの系譜にある歌手が、何らかの罪や背後に残してきた暗さを暗示的に歌う理由は、この時代が出発なのではないか。サザン・ソウルの代表的な歌手、Wilson Pickettは「People Make The World」において、キング牧師に哀悼の意を表しているし、ナッシュビルのFreddie Northもまた「I Have A Dream」の有名な演説の一説を引用したりしている。


この時代の音楽は、政治的ないしは社会的な側面とは無縁ではなく、いつもどこかで繋がっている。彼らは仮想的でバーチャルな空間に逃げないで、真っ向から現実を見つめる厳格な感覚を持ち合わせていた。だから、それが限定的であるにしても、音楽が何らかの意味を持っていた、あるいは、社会に対して何らかの働きかけをするということがありえたというように考えられる。つまり、80年代に入り、ブラック・ミュージックそのものが商業主義に絡めとられるまでは、多くのグループにとって、音楽は権利のための重要なファクターの役割を担っていた。


スライ&ザ・ファミリー・ストーンや同時代のコーラス・グループ/ドゥワップの代表格であるTemptationsのメッセージは、歌詞だけに求められるわけではないようで、そこにブラック・ミュージックとしての面白さがあるのだという。彼らはリリックだけで、拳を挙げよと伝えるのではなしに、ファンクビートをより先鋭的にさせ、それらの音楽からメッセージを伝えた。

 

つまり、音楽そのものが何らかのメッセージであるということを、彼らはよく知っていた。これは音楽に乗せられる言葉だけがメッセージであると考える人々にとっては、かなり意外なことに思えるかも知れないが、音楽そのものからなんらかの思想や考え、ひいては重要なメッセージを読みとるということはありえる。そういったことを象徴するのが、ジェイムス・ブラウン、ファンカデリック/パーラメント、スライといった一派なのであり、彼らは社会的に報われぬ人々の魂を鼓舞する音楽を率先して作り上げた。そういった音楽の一側面が、人種的な平等性ーー社会的な問題と個人的な問題の均衡ーーの合間で矛盾を抱えていた人々に希望を与えたのだ。

 

1960年代後半から1970年初頭は、社会的にも大きな変化があった時代だった。いわば、「ニュー・ソウル」という名称は、時代の変化の前触れを予兆していた。「新しいソウル」という標語は、音楽的な側面を示唆するにとどまらず、社会的な側面を強かに反映させていたのだった。


同じ年代には、「Black Power」と呼ばれる運動が湧き起こり、「Black Is Beautiful」というキャッチフレーズが新聞や雑誌に相次いで登場した。マイアミのDJ、Nikie Leeは、このキャッチフレーズをタイトルにしたシングルをリリースし、話題を呼んだ。Edwin Howkins Singersの「O Happy Day」がチャートで一位を獲得したのは、ゴスペルからのこのムーブメントへの回答でもあった。その他、Syl JohnsonはJBに触発を受け、「Is It Because I'm Black」という曲を制作し、ブラックとしてのアイデンティティを定義づけた。社会的な混乱の時代、こういったシンガーやグループは時代の変化を賢しく読んで、リスナーの人気を獲得することに成功したのだった。