Weekly Music Feature: Sophia Kennedy 『Squeeze Me』  ~ドイツの新しいウェイブを体現するソングライターの登場~

Weekly Music Feature: Sophia Kennedy  ドイツの新しいウェイヴを体現するソングライターの登場

Sofia Kennedy ©︎Rosana Graf


ソフィア・ケネディのサード・アルバム『Squeeze Me』はヨーロッパの芸術運動の再燃を意味し、今日の世界情勢に際して、ポピュラーソングの現在と未来を問う。ドイツのポップカルチャーはボウイの三部作で終わったわけではない。現在の注目すべきポピュラー運動はベルリンに見つかる。


ケネディはボルチモア出身、現在はハンブルグ/ベルリンを拠点に活動する。この3世紀の世界は、ローマ帝国、大英帝国、アメリカという流れで覇権は推移してきたが、覇権が分散し多極化しつつある世界情勢の中、北米と欧州の二つの文化を知るハイブリッドなポピュラーソングを提示するシンガーソングライターが出てきたというのは、当然の帰結と言えるかもしれない。


幼い頃、ゲッティンゲンに引っ越したソフィア・ケネディは、家では英語を喋り、そして幼稚園ではドイツ語を学んだ。これらの二つの言語や文化観の中で養われた彼女の感性はアンビバレントになり、ヨーロッパ的な感性とアメリカ的な感性の間で揺れ動きながら、カラフルな性質を持つようになった。大学に通う頃にはハンブルグへ移り住んだ。その後、映画を学ぶようになったが、音楽が頭の中にはちらつく。以降はテレビや映画のサントラを手がけるようになった。


ソフィア・ケネディにとって、音楽とはアメリカを召喚するような働きをなし、遠ざかる故郷ボルチモアを呼び覚ます役割がある。ケネディにとって、英語は''耳になれない言語''になりつつある。しかし、歌をうたう時、そのルーツが他の誰よりもくっきりと浮かび上がる。「音楽を作るとき、私はいつも心の中でボルチモアに行くような気分になります。都市ではなくて、子供の頃に遠く離れて育った葛藤へと行きつく。私はもうほとんど英語をまともに話せませんが、歌うときの声にアメリカ訛りがあり、それがまだそこにある私の一部であるという感覚です」


「スクイーズ・ミー」はおもちゃ屋のカラフルな世界でのリクエスト。 デパートの暖かな明かりに照らされたそれは、おいしい誘惑のように見えるが、生気のないぬいぐるみやプラスチックの顔という魅力的な誘い文句の裏には何かが隠されているかもしれない。無邪気に見えるものが、いたずらっぽく歪む。「あなたは私を抱きしめているのか、強く抱きしめすぎているのか?」 これが、ケネディが10曲にわたって崇高かつ揺るぎない決意で追求する中心的な問いである。


グレート・アメリカン・ソングブックの華やかさ、エレクトロニックなテクスチャー、クラブランドの影響の間で輝くダンスを披露し、国際的な称賛を得たセルフタイトルのデビュー作(2017)に続き、ケネディはセカンド・アルバム『モンスターズ』(2021)をリリースし、超現実主義と超越について掘り下げた。


『Squeeze Me』では、ケネディと彼女の長年の音楽的コラボレーターで、共作者でもあるメンセ・リエンツ(Egoexpress、Die Vögel、Die Goldenen Zitronen)が、世界全体の現状に対するより幻滅的なコメントを描きだす。 対人関係の複雑さ、パワー・ダイナミクスへの疑問、自己決定への探求など、ケネディの長年のテーマが、アルバムを通して一貫した物語として展開される。


前作よりコンパクトになった『Squeeze Me』にはケネディのポップでキャッチーなメロディとサイケデリックな才能が溢れている。反復されるピアノのコード、煌びやかなシンセのベース、揺らめくクワイア、そして叫び声までもが、"Rodeo "のサウンドステージを作り上げる。アルバムのポップなハイライト"Imaginary Friend "と並び、"Rodeo "は差し迫った疑問を投げかけている。


「私たちはどこへ向かっているのだろう?」 ケネディはその答えを提示する代わりに、熱意に満ちた歌声で前進する。


終盤の"Hot Match"では、熱狂的な夢のように加速していき、モーターを煽るようなビートと燃え盛るタイヤで、立ちのぼる煙の向こうに駆け抜けていく。厳格さと美しさ、ユーモアとメランコリー、運命論と力強さ。『Squeeze Me』は、ソフィア・ケネディのすべてを反転させ、アルバム・ジャケットと呼応している。 それぞれの視点によって、彼女も世界も逆さまになるのだ。 


従来よりも集中し、ポップになった『Squeeze Me』は、ケネディにとって最もまとまりのあるアルバムである。一種の芸術的マニフェストとさえ言える。 多層的で、自信に満ちた声明であり、歌手の周囲や向こう側にあるあらゆる内外の危機があるにもかかわらず、それゆえに功を奏した。 『スクイーズ・ミー』は、外の世界を度外視するのではなく、私たちが何となく知っているようで、これまであまり垣間見たことのない、彼女独自の世界を通じて世界に対抗する。

 

 

Sophia Kennedy  『Squeeze Me』- City Slang


ベルリンといえば、デヴィッド・ボウイの『ベルリン三部作』が真っ先に思い浮かぶ。それまでロサンゼルスに住んでいたボウイは、この作品を期にベルリンで数年間を過ごし、刺激的な生活を送った。ベルリンはコスモポリタンの都市で、芸術文化の街。ボウイはかつて、「私は10代の頃、特にこの土地の芸術家や映画製作者の怒りに満ちた感情的な作品に夢中になっていた」のだった。

 

「ベルリンは、ディ・ブルッケ運動、マックス・ラインハルト、ブレヒト、そして『メトロポリス』、『カルガリ』の発祥の地であった。それは出来事を反映するのではなく、ある気分によって人生を映し出す芸術だった。当時の私にとっては、これが仕事の方向性になった。1974年にリリースされた『Autobahn』によって、私の関心はヨーロッパに戻った。電子楽器が多かったので、この分野は徹底的にもう少し調べてみないといけない。そう確信したのだった」


ボウイがもたらした「ベルリン三部作」は、この都市に、電子音楽の他、ポピュラー文化を強く意識付けることになった。もちろん、クラフトワークが”電子音楽のビートルズ”と呼ばれることがあるように、その音楽にポップネスを内包していたことを考えたとしてもである。18世紀の神聖ローマ帝国時代に崇高な音楽文化を誇り、大学教育などのリベラルアーツでも高い水準を持つドイツ。それは、その後の近代文明や現代文明の中で工業的な発展を重ねるうちに、音楽として、”芸術と商業的なポピュラリティを結びつける”というテーゼをもたざるをえなくなったのである。その突破口を切り拓いたのがクラフトワークとボウイであったのだと思う。

 

音楽というのは文化を醸成する都市や地域から生み出され、その暮らしの中で、いかなる作品を作り出すべきかという必然性から生じる。必然性を持たない音楽作品は、趣味の範疇を出ることは稀有である。ロンドンにはロンドンの、パリにはパリの、ニューヨークにはニューヨークの、ベルリンにはベルリンの、ケープタウンにはケープタウンの、東京には東京の音楽が作り出される必要があるのだ。そして、模倣性や重複性ではなく、差異やスペシャリティ(特性)により新しい芽がどこかに育まれる。もちろん、ドイツに関して言えば、都市性や工業性、市民の現代的なライフスタイルが合致し、新しい表現を生みだすための下地が形成されている。

 

日頃、生活をしていて、ふと思う疑問だったり、自己のアイデンティティにまつわる思いは、新しい音楽が発生するための大きなヒントやテーマになりえるのである。ドイツは、EUとの関係の中で、00年代前後を境に、ヨーロッパ全体のユーロビートやダンスミュージックの発展の影響を受け、音楽市場の拡大や、ライヴマーケットの成長期を経て、新しい音楽文化が花開く可能性を持っている。それは、ENJI(ベルリン)のようなビョークの次世代を担うシンガーの登場を見ても明らかだ。ハンブルグ/ベルリンのソフィア・ケネディーは、今後のポピュラー・ソングとは、どのようなものであるべきか、それを三作目のアルバム『Squeeze Me』で示唆している。

 

 

ソフィア・ケネディの音楽の表層を形成するのが、ファッショナブルでスタイリッシュなイメージ。これは間違いなく、制作者の日頃の生活や考えから汲み出されるものであり、他の人が真似しようとしても出来ない。アルバムの冒頭を飾る「Nose for a Mountain」を聴くとわかるように、シンセポップを基調とする親しみやすく軽妙な音楽的なアプローチの中に、セイント・ヴィンセントやビョークのようなファッショナブルな感覚が揺らめく。そして、その音楽性を背後から支えているのは、工業都市の音楽であるエレクトロニックである。これらの現代性や近代文明の工業性の発展の中で培われた音楽的な核心、それらは、現代的な宣伝広告やファッションの要素と結びついて、アートポップソングを作り上げるための素地となっている。




アルバムはその後、エレクトロポップに転じる。アヴァロン・エマーソンの系譜にあるDJライクなサウンドに、ソフィア・ケネディ独自のボーカルが乗せられる。スポークンワードでもなく、ソウルでもない、ダンスミュージックから汲み出された特異なボーカルスタイルが心地良いビートの底に揺らめく。ケネディのボーカルは、夢想的な感覚を生み出し、ある種の幻想性を呼び起こす。「Imginary Friend」というタイトルに相応しい。「Drive The Lorry」では、レトロなマシンビートを配して、チルウェイブとレゲエ/ラヴァースロックの中間にある独特な音楽性に転じる。現代のヨットロックやソフィスティポップに通じるようなアメリカの西海岸の音楽を呼び覚ます。これらのチルウェイブに属する音楽は、ホリー・クックにも近い感覚がある。しかし、ボーカルは依然としてスタイリッシュな印象があり、華やかな雰囲気に満ちている。

 

 

「Runner」は、EUらしいイメージに縁取られている。現代的なヨーロッパの文化性を音楽的に端的に表現したかのようである。例えば、2000年代以降のユーロビートの音楽性を継承し、それらを現代的なシンセポップに組み替えている。そしてスポークンワードの影響を受けたニュアンスに近いボーカルは、音階の抑揚をつけながら、トラックの背景となる反復的なシンセのパルスのビートと呼応するように、多彩なシークエンスを作り上げる。この曲は、フレーズごとに印象が様変わりし、音楽のカラフルな印象を強化している。緊張感に満ちたかと思えば、さわやかになり、また、ミステリアスにもなり、宇宙的にもなる。トラックの全体に、ヒップホップやブレイクビーツを反映させたリズムをループで配し、ドラムンベースのようなハネを強める。これは間違いなく、Wu-Luが最新EPでやっていたリズムの技法によく似ている。

 

しかし、ボーカルはそれらと対象的なコントラストを描く。ケネディのボーカルは、オペレッタからブリジット・フォンテーヌのようなアートポップの形態を活かし、迫力と上品さを兼ね備えた新鮮な音楽のインディオムを作り出している。ビートやリズムはかなり堅牢であるが、シンセのアルペジオは一貫してメロディアスで聴きやすさがある。もちろん、シンセだけではなく、ケネディーのボーカルも旋律をはっきりと意識している。表向きにはニューウェイブの一曲であるが、全般的にいえば、"ダンスミュージックのオペレッタ"ともいうべき優雅な印象をもたらすことがある。歌詞もシュールな印象がある。"I Can See in Through My Eyes"などを聴くと分かる通り。

 

 

 「Runner」

 

 

 

『Squeeze Me』は明確に言えば、ソウルアルバムではあるまい。ただ、部分的にR&Bやコーラス・グループからの影響が感じられる。 


「Rodeo」では、ディスコポップの影響が強まり、コーラスの箇所にブラックミュージックからの強いフィードバックが感じられる。シンセベースがファンクのビートを強調するが、ボーカルは内省的な雰囲気に満ちている。ボーカルとシンセ、リズムの組み合わせは、レトロなドリームポップ、懐古的なソフィスティポップともいうべき特異な空気感を持たせる。コーラスには異言語的な発音の響きを活かし、外国語の言葉遊びのようなユーモラスなニュアンスを強め、言語の訛りを長所として活かしている。

 

これらのエキセントリックな言語の響きの組み合わせは、これまであまり知られていなかった言語のユーモラスな性質を強めるだけではなく、ノスタルジックな感覚を呼び起こすことがある。それは、ドイツ語と英語の異文化圏のハイブリッドという歌手の人生観のフィードバックとも解釈出来る。


シンガーは、幼少期に聞いていたかもしれない音楽、そのわずかな記憶の糸を手繰り寄せて、独創的で抽象的な音楽空間を作り出す。そして、Broadcast(Warp)の制作していたような、抽象的であるが夢想的な感覚を、ものの見事に呼び覚ます。というか、これらの贔屓目のあるプロデュースを聴くかぎり、ソフィア・ケネディはWarpが結構好きなのではないかという疑惑すら生じる。

 

 

「Feed Me」は、フォーク風の楽曲で、ちょっと自虐的なニュアンスが込められている。このアルバムとしては珍しく、ベースとピアノが活躍し、ライブでぜひとも聞いてみたい一曲である。ジョン・レノンの「Imagine」を彷彿とさせる、ポピュラーソングの古典的な和声進行から、牧歌的で穏やかな感覚が汲み出される。スペーシーなSEの音響効果や叫びが途中で入ったりもするが、全般的には慈愛の雰囲気に満ちたポップソングとなっている。このアルバムでは、一番温かい雰囲気が感じられる。そして、過去の英語の訛りは、ドイツ語の訛りへと"反転"している。明確なタイトル曲がないアルバムだが、暗示的にタイトルのフレーズが歌われているのを見ると、隠れたタイトル曲である。この曲ではシンガーの複数の内面の感覚が様々な形で表されている。

 

 

最も心を揺さぶられる曲がある。それが七曲目に収録されている「Oakwood 21」である。ジャズの香りを添えた王道のバラードソングで、ケネディーのボーカルは静かなピアノと相まって、心に染み入る感じがある。アルペジオによるシンプルなピアノの伴奏の中で、同じように、シンプルなコールアンドレスポンスの手法で、ボーカルが歌われている。もしかすると、このような曲は、時代を超えた自分自身との繋がりを取り戻すための手立てであり、それは遠く離れてしまったアメリカへの親和性を我が手に取り戻すための回路のような働きをなす。この曲の中で、彼女はまるで、かつての自己やその思い出を抱擁するかのように、最もシンプルで美しいボーカルを披露する。

 

「Oakwood 21」は映画音楽のサウンドトラックやBGM(バック・グランド・ミュージック)のコンポジションの技法、もしくは舞台のミュージカルやオペラティックな劇伴音楽の効果を活かし、イントロのささやかなモチーフは信じがたいほど広大なスケールを持つバラードに成長する。これまでのアーティストの生き方を表すような素晴らしい一曲として聞き入らせてくれる。

 

 

 「Oakwood 21」

 

 

 

映像と音のイメージを直結させるという技法は、「Upstairs Cabaret」にも発見することが出来る。これは、フランスのドビュッシーが『Images』で、いち早く取り入れた画期的な作曲技法だった。また、一例では、アメリカの映画評論家のジェイムス・モナコ氏は、''映画音楽は映像の付加物である''と定義付けたが、''優れた映画音楽は映像を超越する瞬間がある''とも述べている。音楽が想像を超える神秘性を持ちうることはデヴィッド・リンチも認めていた。そういった音楽の神秘的な一面をインストゥルメンタルとして体現させたのがこの曲だ。映画音楽の持つ独特なムードやアトモスフィアの醍醐味を知り尽くしているから、こういった曲を作ることが出来るのだろう。

 

 

一般的には、ジェイムス・ジョイスやプルースト、マルケスの著作のように、連続した音楽作品のアルバムの中に、長期的な十年や二十年のような長い時間が流れが含まれることは歴史的に見てもきわめて稀である。


しかし、『Squeeze Me』は、推察するかぎりでは、短いミクロの単位を起点にし、より大きなマクロのシンガーの人生が断片的に反映されている気がする。つまり、一日の始まりから終わりまでを音楽的に網羅したと言える。そして、アルバムの曲の印象は、朝の爽快さや個人的な出来事から夜の雰囲気に移り変わる。アルバムの中盤では夕方になり、そして終盤では夜から真夜中になる。ある意味では、人生の一コマの流れが、この40分近い作品に凝縮されている。

 

夜のテーマを印象付ける「Closing Time」は、同名のアルバムを持つトム・ウェイツのように、淡く渋いバラードソングである。しかし、ウェイツが深夜過ぎのピザ屋での労働の気怠さや哀愁を反映していたのに対して、ケネディの場合は、音楽全体が着飾るようなスタイリッシュさ、ファッショナブルな感覚に縁取られている。夜になると、心楽しい空気感やエンターテイメントの雰囲気が強まる。これこそ、Berlinerとしての独特なライフスタイルを伺わせる。


最後に収録されている「Hot Match」は、アルバムの中で最もパワフルな印象に縁取られている。ニューウェイブ/ポストパンク的とも言えるだろうし、ブロンディのデボラ・ハリー的とも言える。この曲ではきっと、シンガーソングライターのこの上なくクールな一面を体験することが出来るはずだ。

 

 

88/100

 

 

 

Sophia Kennedy(ソフィア・ケネディー)の3rdアルバム『Squeeze Me』は本日(5/23)、City Slangから発売されました。 アルバムのストリーミングはこちら