Weekly Music Feature: Sofie Birch & Antonina Nowacka  『Hiraeth』

 Weekly Music Feature: Sofie Birch & Antonina Nowacka


「ヒラエス」という言葉に英語の直訳はない。 ウェールズ語では、もはや存在しない無形の何か、どこか、あるいは誰かへの憧れを表す。 ソフィー・バーチとアントニーナ・ノヴァッカは、このコンセプトに基づいて2枚目のコラボ・アルバムを制作した。このアルバムは、傷つきやすく、オープン・ハートな即興曲と内省曲からなる組曲で、キメラ的な過去のイメージを把握しようと試みている。


批評家から絶賛されたデビュー作『Languoria』とは異なり、『Hiraeth』はアコースティック・アルバムであり、声や弦楽器によるイン・パーソン・インプロヴィゼーションによって、コンピューターやAI、DAWが登場する以前の時代へのジェスチャーを表現している。


ノヴァッカとバーチは、セレンディピティな即興演奏とセットアップの簡略化への関心から、数々の共同ライブ・コンサートをきっかけにこのアルバムを構想した。 アンサウンドは、チェコ国境に近い南ポーランドの緑豊かな丘陵地帯に佇む牧歌的な村、ソコウォフスコでの静養を手配した。 ソコウォフスコは、ドイツの作家トーマス・マンの1924年の小説『魔の山』にインスピレーションを与えたと噂される廃墟となった大きな療養所を囲み、長い間アーティストたちを魅了してきた。


 2人はこの機会に自分たちのアプローチを全面的に見直し、ギターとチター、そしてポータブルなナグラのオープンリールマシンだけを持ってやってきた。 テープに直接録音し、自分たちの声と楽器だけでアイデアをスケッチし、現代のテクノロジーに気を取られたり、媒介されたりすることなく、周囲の環境を反映させた。


バーチは次のように述べている。「私たちはスクリーンからできるだけ離れたかった。 事前に準備することなく、私たちは毎日野外に出て、日没や真昼の太陽の下、座る場所を探した。 私たちは楽器の新しいチューニングを発見し、メロディーを選び、マシンを始動させ、テイクが取れるまで何度も演奏した」それから秋が来た。二人はコペンハーゲンのスタジオに再び集まり、古いシンセサイザーやオルガンを控えめに注意深く重ね、ミックスを濁すことなく深みを増した。


ノヴァッカとバーチは、アコースティック楽器の間を縫うように歌い、お互いの声が絡み合い、ほとんど一体化している。 しかし、音楽の裏地に織り込まれているのは、ソコウォフスコの日常環境である「鳥や光、ハープを弾く風さえも」である。 瞑想や自然の中で過ごした時間や、バーチがレコーディング中に妊娠していたという事実の影響を受けたこのアルバムは、生き生きとしていて、驚くほど存在感がある。 テープ・マシーンの音質でさえ、ノヴァッカが言うように "温かいお風呂に入っているような "触覚的で有機的なクオリティをヒラエスに与えている。


直感的な歌のための生息地、小さな生態系、生き生きとした活気」での音楽制作に費やした時間の物理的な記念品である。 時代遅れの機材と人里離れた環境は、デュオがしばし現代世界から離れ、時間と名目上の進歩によって失われた存在を想像するのに役立った。 デジタル技術が後景に退いたことで、ノワッカとバーチは、バーチが説明するように、周波数や人々との直感的なつながりを作るスペースを得た。 『ヒラエス』は、ノスタルジアの証ではない。親族の力の証である。 

 


『Hiraeth』- Unsound 



ソフィー・バーチはデンマーク/コペンハーゲンの作曲家であり、アンビエントを中心に制作している。電子テクスチャー、アコースティック楽器、フィールドレコーディング、そして彼女自身の声を駆使して周波数に焦点を絞ったアンビエント作品を制作している。デンマークのユニバーシティ・カレッジ・サウスのソニック・カレッジでサウンド・デザインを専攻した。また、同時に、NTS Radioで「アンビエント・アブラカタブラ」という番組を担当し、アンビエント作品を対外的に紹介するDJでもある。これまでにバービガン・センターなどでの公演経験がある。

 

一方、アントニーナ・ノワッカはポーランド/ワルシャワの気鋭の音楽家である。 ワルシャワの視覚芸術アカデミーを卒業した彼女は、ボーカルアートを主な領域として活躍する。特に、伝統音楽とボーカル芸術の融合という主題に取り組んでいる。これまでにインドネシアのジャワの洞窟、メキシコのオアハカン教会へと出向き、伝統音楽と声の芸術を融合させた作品を発表している。ノワッカは自分自身の音楽の方向性について「絵画や芸術のようなもの」と述べている。その特異な音楽性は、The Quietusのような実験音楽に特化したメディアを唸らせてきた。

 

ソフィーとアントニーナが共同制作を行うのはこれが初めてではない。両者は、2022年の『Holotropica』でも共同制作を行い、声と沈黙というテーマを探求してきた。コラボレーションアルバムとしては二作目となる『Hiraeth』は、トーマス・マンの世紀の傑作『魔の山』の題材となった南ポーランドのソコウォフスコ村に出向き、制作を行うことになった。制作にはドイツやオーストリアの伝統楽器であり、フォルテピアノの原型であるZither、アナログのシンセ、アコースティックギター等が使用されている。そして何より、ソフィーとアントニーナのボーカルは空間芸術的な趣旨を持ち、アトモスフェリックな音楽的なストラクチャーを形成し、このアルバムの中核を担う。そしてメレディス・モンク、ビョーク等の象徴的な声の芸術の魔術師たちのような瞑想的で音楽の奥深い領域に誘うような霊妙なサウンドスケープを形成する。

 

アートワークは、ロシアの国民学派のムソルグスキーが題材にとった「キエフの大門」さながらに聳え立ち、幻想的なイメージを鑑賞者に与える。しかし、ファンタジックな音楽性が展開されるのは事実なのだが、その対象的な強固なリアリズムがどこかに偏在している。それは現代テクノロジーに対する批評性であり、それらはポーランドの由緒ある山岳地帯の村の情景に支えられるようにして、現実性と幻想性の中間域にある奇妙な音楽の世界へと聞き手を招き入れる。そういった意味では、トーマス・マンの『魔の山』と呼応する雰囲気を掴んで貰えると思う。 


『魔の山』では、ドイツの十五年戦争の時代から始まったルター派の啓蒙主義が終焉を迎え、近代的な唯物主義の文明へと移行しようとする重要なヨーロッパの共同体の節目の時代が、多くの登場人物が生きざまを通じて、物語風に描かれている。例えば、ルター派の時代は、多くの場合、疫病や流行り病などにより、人間は幼くして命を落とすのがごく普通のことだった。だから、多くの人は6人も7人も子供を産まねばならなかった。それは一族がすぐに断絶するからである。


しかし、トーマス・マンの時代はそうではなかった。医学が発達し、そして人間の寿命が伸び、旧来のキリスト教的な観念が瓦解し、新しい人間の根本的な生き方を模索していくようになる。要するに個人主義の時代への移り変わりの時期であった。そして、2025年になり、我々人類は、マンと同じような節目の年代を迎えようとしている。それは唯物論の先にあるテクノロジー偏重の時代であり、そしてAIが人類を支配する''SFの時代''なのである。こういった観点から、『Hiraeth』は人間として生きる根本的な意味を探り、それらを両者の得意とする手法で提示しようとしている。このアルバムには一般的に言うところのデジタルの概念はほとんど存在しない。言い換えれば、意図的にデジタル性が排除されている。しかし、その音楽にSNSやソーシャル、そしてChat GPTのようにAIが人間の知能を凌駕する時代に、本質的な人間の魅力や感情性を、あろうことか、20世紀のヨーロッパ社会の節目となった『魔の山』から探るのである。

 

 

アルバムの冒頭には、「Rabbit’s Hole」という曲が収録されている。「うさぎの穴」にはスラング的な意味合いが込められていて、ネットサーフィンを続けると、それがやめられなくなるという批評的な意味がある。ここには現代人が突き当たる時間の浪費、それにより、ある側面では実質的な人生を空費していることを暗示する。それらは導入部となるイントロダクションーーアナログシンセを用いた逆再生のサウンドーーでシュールレアリスティックに表現されている。同時に、それは”アリス・イン・ワンダーランド”のような現実空間と幻想空間をつなぐ”うつほ(洞窟)”の役割を担う。例えば、ボローニャ大学のウンベルト・エーコ氏が生前に指摘していたのを思い出すが、人間は古くから、洞窟のような場所が現実空間とそれとは対照的な”Antipodes(対蹠地)”を繋ぐ通路であると考えてきたという。それはファンタジーやドラマ、映画で幾度も登場し、異世界への通路となったのだ。これらの洞窟や穴、あるいは”うつほ”のような奇妙な空間が、一つの音楽的なモチーフによって描かれ、私達の住まう現実空間と異世界をつなぐ役割をなす。ソコウォフスコという、ポーランド・ワルシャワの村が、これと同じように、現代的な観点から見ると、異世界のような雰囲気を持っていたことが伺えるのである。

 

その後に続くのは、これまでソフィーとアントニーナが音楽制作を通じて探求してきた音と沈黙である。一般的な制作者はあまりそこまで考えないかもしれないが、音楽は鳴っている箇所と鳴っていない箇所から成立し、そのどちらも欠かすことが出来ない。実際的な音響は反響や余韻によって支えられ、同時に、それらの反響や余韻は、実際的な音響の発生によって成立し、また、音響は静寂から始まり、静寂もまた音響から出発する。二人の音楽家は、そのことを熟知しており、現代文明の忙しなさに対して距離を取るような広やかで、寛いでいて、そして間や休符を活かしたサウンドアプローチにより、永遠に続くような摩訶不思議なサウンドを獲得している。「Heart of a Waterfall」で聞くことが出来るソフィーの奏でるギターのフォーク・ミュージックは、イスラム/アジア圏とヨーロッパの混淆の楽器、アントニーナのZitherの幻惑的なアルペジオにより、音楽的な安らかさと幻想性をにわかに帯び始める。そして、 ヨーロッパの民謡/伝統音楽的な両者の歌唱が折り重なり、重層的なサウンドテクスチャーが形成される。それはまた、西洋音楽の最初の出発であるギリシア地域の伝統音楽の源泉まで到達する。

 

例えば、国内にせよ、海外にせよ、伝統的な文化を持つと宣伝されている地域に旅した時、意外とそれほどでもなく、それらが現代性に絡めとられてしまい、奇妙なほど無味乾燥な場所になったと気づくことがある。また、 文学の世界でもそれはよくあることで、何らかのあこがれを持って舞台を訪問したはいいが、その作品の中にある本質のようなものが失われているのを感じることがある。「3-Hiraeth」では、ヨーロッパ社会のある意味では伝統的な側面を持つと思われる『魔の山』の舞台となった村を訪れた二人が、その印象が少し変わってしまったことを暗示している。同時に現代の音楽家として表現するのは、その失われた時代へのロマンチシズムしかない。これが音楽的にかなりわかりやすく体現され、童謡や民謡的な響きを持つアコースティックギターによるフォークミュージックとして展開される。その中にはZither、そして両者のボーカルの融合が登場する。これらは、現代的な空間性と呼応するように、一世紀前やそれよりも昔の中世ヨーロッパや民話のような現代人がおとぎ話と考える幻想性を巧みな形で作り出すのである。しかし、この曲では、そういった表面的な印象とは対象的に、ワルシャワの山岳地帯にある伝統的な本質を、制作環境や日頃から作曲者たちが培ってきた経験により導き出そうとする。それらは実際的にメディエーションミュージックと呼ばれるヒーリング効果を持つ音楽を超越して、民族性、文化性、歴史性に縁取られた音楽の中心点を浮かび上がらせる。

 

現代的な価値観を指針として生きる人々がつい見落としてしまいがちな題材ですら、ソフィーとアントニーナにとっては重要な音の出発点になる。 頭の上を吹き抜けていく風、朝に山の上に昇る太陽、ゆっくりと流れ行く雲、天候が数時間ごとに変化し、空模様が変わり、上空に怪しい色の雲が広がっていく。いつもまにか空が暗くなっている。向こうには水車小屋があり、水路の上をゆっくり水車が回っている。草原の上を歩いていく農夫。それと行き交う観光客のような人々。そういった些細な主題をみつけ、それらの現実的な風景を幻想の領域に近づけていく。目の前に映るなんの変哲もない風景を描くこと、それこそがサウンド・デザインの本質であり、ノーワッカが述べるような音の絵画の本質である。 「4-Comes with sunrise」は音楽的には民族音楽の性質が強い。インドのシタールのようなエキゾチックな響き、そして、チベット地方の伝統音楽等で聞こえるリュートの音が折り重なり、 西アジアの秘境的な響きを生み出す。

 

「5-Stars On The Ground」では、 スティール・ドラムのような音色が登場し、パーカッシヴな効果を及ぼす。そしてZither(ツィター)の分散和音と重なり合うと、モザイク建築のような色彩的なハーモニーが形成される。背景にはアナログシンセが使用され、瞑想的な音楽性を深める。これらの音楽を聴くと分かる通り、このアルバムの音楽は必ずしも現実主義にとどまらず瞑想主義や神秘主義に根ざしたアンビエントへと傾倒することがある。それは例えば、ハロルド・バッドが断片的に追求していた民族音楽や伝統音楽と現代音楽の融合という副次的な音楽テーマを見出せる。Laraaji、Steve Tibbettsの系譜にあるスピリチュアリズムやニューエイジとエスニックの融合は、両者の卓越した音楽的な感性により、感嘆すべき水準まで引き上げられている。続く「6-Nokken」もまた同じ系統にあり曲であるが、ボーカルが入ることにより、その音楽の印象はおどろくほど鮮明になり、そして両者の共通的な概念である治癒の音楽を導き出す。

 

このアルバムの音楽は、ソコウォフスコの滞在からもたらされた一連の記録や物語としてたのしめる。「6-Transient」は雨音をフィールドレコーディングとして収録し、インタリュードとして配置されている。雨音は鎮静効果があり、心を落ち着かせる効果があるという説があるが、それらは必ずしもヒーリングの意味合いにとどまらず、雨音により流木がゆっくりと流れていく様であったり、東欧の山岳地帯の季節を思わせる描写音楽により、それ以上の記録としての意味が求められる。そして何より重要なのは想像力を喚起させ、蜃気楼のように東欧の農村風景を浮かび上がらせる。受動的ではなく、能動性をもたらす音楽は、現代の作品の中ではとても貴重だ。これらはサティがサロンのような場所で試していた実験音楽と直結している。つまり、専有的な音楽ではなく、どこか人間が感性を働かせ、自発的なイマジネーションを作ることが可能なのである。この曲と次の曲は連曲であり、アウトロからアナログシンセの持続音でつながっていて、「How about the time?」の音楽的な雰囲気を立ち上がらせるための経路となる。

 

この曲以降は感覚や心に直接的に響くような音楽が続く。「7-How about the time?」の後は、アジアやインドのような地域の仏教的な音楽、西アジアの秘境的な音楽の領域に差しかかる。こういったタイプの音楽は、消費的な音楽とは対象的に、瞑想的な瞬間を呼び覚ます。例えば、禅宗の考え方では、何らかの行動の中に気づきや悟りがあり、そして、それは、”実際的な体験からしか得られない”というものである。これらは、南方仏教の重要なドグマともなったのだった。また、それと同時に、これは、臨済宗の鈴木大拙や岡倉天心らが提唱していた重要な仏教倫理なのであるが、それらは、芭蕉や一茶に代表される俳句の世界とも分かちがたく結びついている。

 

結局、この曲で展開されるのは、ジョン・ケージが日本文化の中で体験的に習得しようとした静寂の世界を、Zitherのようなヨーロッパの伝統楽器を通じて探求していくというものである。例えば、松尾芭蕉は、音を直感した瞬間に静寂に気づくということを有名な俳句として書いた。静寂とは感じるものではなくて、ある種の悟りの瞬間である。そのことが音楽で体現される。一方で、「9-Love Object」はどちらかといえば、西洋的な概念に縁取られ、北欧のフォーク・ミュージックの影響を感じる。それはソフィー・バーチによるアコースティックギターの弾き語りにより、古めかしい北欧神話の世界の可愛らしい音楽的な感性を発露させるのである。

  

全般的には、今流行りのアンビエント・フォークとも称するべき音楽的な方向性が顕著である。しかし、音の発生の瞬間に工夫が凝らされていて、それは両者の共通概念である沈黙の瞬間から生じる。目をつぶりなにかを思う瞬間、自己からしばし離れ、他者や社会、時にはそれよりも大きな世界に思いを馳せるということである。その瞬間に、どの個体的な存在も独立しているものなどいないし、そして何らかの大きな存在に包まれるようにして存在していることがわかる。豊かな自然やその驚異に触れた時、人間はその本質的な部分に触れることが出来る。

 

ソフィーとアントニーナの二人が、この制作を通じて収穫したことの中で、最も価値があることを挙げるとすれば、それは人間という存在の本質的な部分に到達したという点かもしれない。音楽性に関しては、西アジアやインド、ギリシアやアナトリアのような地域の音楽が折り重なり、それはワールド・ミュージックという一般的な用語だけでは語り尽くせない人類史へとたどり着く。音楽とは、ある種の文化による交流の歴史、また、その中にある人類的なカルマを刻した暗いものから、それとは対象的に明るく華やかなもの、また、人類が接してきた宗教や人生観を通してどのように世界を渡り歩いてきたのかという痕跡にほかならない。そのことを例証するかのように、「10-Collecting Eyes」では瞑想的な音楽性が色濃くなる。この曲の重要な部分を占めるのは、顕在意識から感取する構造物ではなく、潜在意識で感取する構造物である。

 

音楽とはなんだろうという純粋な疑問に対し、このアルバムは形ある答えを提示している。絵画や建造物といった文化遺産は、その対象物に目を向け、そして目を凝らせば、その対象物を確認することが出来る。一方で、音楽は、聴覚を働かせ、音階、調和、拍動、それとは対象的な認識しえない概念を捉える。その音の向こうには霊妙な意識が蜃気楼のように揺らめき、そのゆらめきには制作者の思い、あるいは背景を滲ませる。言い換えれば、表層の世界と裏側の世界の混在こそ、音楽の持つ一番の魅力でもある。また、レビューというのは聴覚を通じて目を凝らす行為であり、それが本質的な部分でもある。 音楽はこれまでルターやトーマス・マンの時代までは確かに地域的な音楽という概念が重視されてきたし、それこそが最も重要であった。しかし、多くの音楽学者が指摘するように、本来は、その垣根や境界など存在せず、それと同時に有史以来の音楽家たちはその境界を押し広げ、未知なる世界を探求することに熱意を燃やしてきた。結局のところ、それこそが人類の進化やテクノロジーの前進を促進させてきた。

 

「11-Come with sunset」ではよりいっそう民族音楽の性質が強まる。アナログシンセで笙のような高い音域にあるドローン音を作り、Zitherのアルペジオと重なり、奥ゆかしいハーモニーを形作る。これらは民族音楽とアンビエントの融合を基にした新しい音楽形式が出てきた瞬間である。「12−Suosan」では、ビョーク的なボーカルアートの表現形式を民族音楽の観点から探索している。幅広い音楽の年代を通じて、アルバムの物語性は「Depature」で魔の山からの出発を暗示する。


かつて、ポーランドのハニヤ・ラニがアルベルト・ジャコメッティのサウンドトラックを制作したことがあったが、それに近似する音楽的なディレクションである。アルバムの最後は、シュトックハウゼンのトーンクラスターを使用し、現代音楽の傾向が強まる。もちろん、聴けば分かる通り、この最後の曲は一曲目と呼応するトラックで、円環構造が取り入れられている。アルバムの入り口からかなりかけ離れた場所で、一つの出口に繋がっているというわけである。

 

 

 

90/100

 

 

 

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