【Weekly Music Feature】 Stella Donnelly 『Love and Fortune』

Weekly Music Feature: Stella Donnelly


 

オーストラリアのシンガーソングライター、ステラ・ドネリーが新作アルバム『Love and Fortune』をリリースし、見事な復帰を果たす。深い変化の時期を経て自分自身へと戻る旅路を辿った、深く個人的で地に足がついた作品群だ。ナーム/メルボルンで録音された本作は、その土地の根ざしたエネルギーを帯び、親密でありながら広がりを感じる音響的な風景を提示する。


今回のアルバムはステラ・ドネリーにとってさまざまな不安から逃れるための治療法でもあった。これまで作品に注いだ情熱を失うことは「ずっと大きな恐怖だった」という。それでも彼女は突き進んだ。曲が書かれたシェアハウスの小屋で夜を明かしつつ、クィアでノンバイナリー、フェムな作家たちを思い浮かべた。「マギー・ネルソン、シーラ・ヘティ、あるいはエイミー・リプトロットが一人で何かを創作している姿を想像すると、大きな慰めになった」ドネリーは語る。 「それに、今自分が作っているものは、商業的にどれほど成功しようとも、真実であり、自分の持てる力の限りを尽くして作り上げたものなのだという事実も支えになった」


先行シングル「Feel It Good」の制作についてステラは次のように語っている。「シェアハウスの物置でバリトンギターを弾きながら書いた。ルームメイトのオーバードライブ・ペダルを全部繋いで。 同じコードを延々と繰り返していたから、近所の人も次第にイライラし始めたんだと思う。これは、崩壊が避けられない関係という絆創膏をゆっくり剥がしていく過程についての曲。別れ際、ただただ反発し合い、怒りと非難で泡立つだけのあの段階を捉えようとした。「『フィール・イット・チェンジ』は自己正当化に満ちた、わがままな曲で、その姿勢を『そのまま貫く』のは私にとってある意味挑戦だった。次の曲『イヤー・オブ・トラブル』では立場を逆転させ、罪悪感に苛まれ、感傷的で打ちのめされた自分になることを理解していた」


「こうした制限が、ある意味でこのアルバムのストーリーを紡ぐヒントになった。これらの曲は私の人生をそのまま写したものではないんだけれど、ある部分の本質や友情の決裂という経験の本質を捉えている。これは、本や他の資料では見つからなかったものです。恋愛の別れについては山ほど情報があるのに、友情の別れについてはほとんどなく、それは非常に混乱を招く」


数年にわたる過酷なツアー生活の後、ドネリーは音楽との関係を再考し、今も音楽を愛しているのかを問うためツアーから離れた。その静かな休止期間が、より深い聴取へと導いた——自身の直感、感情、そして過去の様々な姿への傾聴だった。そこから生まれたのは、複数の終焉によって形作られた楽曲群である。関係の解消、始めたものの続かなかった趣味、章の終わり、そしてかつて永遠に感じられたものの残響。 これらは別れを歌った曲だが、単なる恋愛の終わりではない。古い皮を脱ぎ捨てること、過去の期待を手放すこと、そして次に訪れるかもしれないものへの慎重な開放感を刻んでいる。サム・ラブによるアートワークは、恐怖に阻まれ、音楽と公の場で曲を書くという混沌とした渦へと再び飛び込むべきか戸惑う人物を描いている。


ドネリーは、『Flood』をリリースした後、燃え尽き症候群のようになったという。その後地元のパン屋の仕事を始めた。ミュージシャンもそのパン屋で一緒に働いていた。その仕事の帰りには、ギターやピアノのことが頭に浮かんだ。ステラ・ドネリーは『Flood』のツアーのあと、およそ半年間、音楽から離れていたが、バンドメイト、ジャック・ギャビーの録音に参加したり、地元のバンドに参加したり、ライブステージをこなすうち、やはり音楽が人生の生きがいだと気づく。これまでドネリーは曲ごとに違う自分を作り出そうとしていたが、いつもある種の壁にぶつかり、限界を感じていた。結果的には、彼女は自分自身の一部を表そうと試みた。その結果として、アーティストの背後のパーソナリティを露わにするサウンドに到達したのだった。


『Love and Fortune』では初期作品同様、ピアノとギターが融合していたフォークポップ中心だが、今回はアレンジがより剥き出しで意図的になっている。本作には、長年の共同制作者であり友人であるマルセル・タッシー、ジャック・ギャビー、ジュリア・ウォレスに加え、新たなゲストとしてソフィー・オザード、ティモシー・ハーヴェイ、エリー・メイソンが参加している。


『Love and Fortune』- Dot Dash Recordings


 

バードウォッチングから早3年が過ぎた。私たちが尻込みをし、停滞している中、オーストラリアのシンガーソングライター、ステラ・ドネリーは独自の進化を遂げつつある。『Love And Fortune』は、どうやらすでに曲制作自体は、パンデミック期に始まっていたが、どのような形にするかという点で、3年の熟成を必要とした。よくある話ではあるが、過酷なツアーの疲弊から一度はミュージシャンの道から遠ざかったステラ・ドネリーだが、プロ/アマチュアを問わない音楽活動を通じて、再度、音楽に目覚め、シンガーソングライターとしての道を選ぶことになった。それほど、ソロシンガーというのは孤独であり、ときに精神的に堪えるものなのだ。しかし、幸運だったのは、ステラ・ドネリーにはバンドメイトがいたし、そしてルームシェアをする友人もいた。そしてパン屋での同僚もいた。これこそが愛であり、幸運であった。

 

すでにアルバム発表前に暗示されていたように、「Bath」では、アルバムのアートワークをほのめかすかのように、水に飛び込むアーティストがミュージックビデオで撮影されていた。これは、結局のところ、ミュージシャンとしての道に戻るかという逡巡が、映像によって言い表されていたのだ。次作『Love And Fortune』は、オーストラリアのレーベルからのリリースだが、この作品を聞くとわかるように、レーベルが作品を作るのではなく、アーティストが作品を作るのだ。音楽制作の自主権を取り戻したドネリーは、真の意味でインディペンデントなアルバムを制作した。前回の『Flood』では、商業的なポップソングに依拠していたが、もはやその必要はなくなった。まるで大きなプレッシャーから解き放たれたかのように、ミュージシャンの原点に返ったステラ・ドネリーの姿をアルバムに見つけることが出来るはず。このアルバムにはミュージシャンとしての充実感が感じられ、タイトルにあるように、様々な感謝が示されている。このアルバムは従来の作品の中でも、アーティストの好きなものが凝縮されている。

 

 

このアルバムは、サイモン&ガーファンクルの楽曲を彷彿とさせる「Standing Ovation」で始まる。この曲は全体的な二部構成から成立している。イントロからシンセサイザーと歌が配され、 センチメンタルなボーカルが序曲のように鳴り響く。その後、アカペラの歌に、2つ目のボーカルが追加され、美麗なハーモニーを形成する。従来のステラ・ドネリーの曲に比べると、静かな印象を打ち出したゴスペル的な一曲である。この曲の冒頭から中盤にかけては、孤独感に満ちたペーソスが支配するが、徐々に曲調が変化していく。人生の一時期の変遷を描くかのように、この曲はアルバム全体の序章であるにとどまらず、ある種の要約のようになっている。孤独から友人に支えられ、ミュージシャンとしての自信を取り戻していく過程が暗示されているのである。その後、ゴスペル風のイントロからヴァースを経過し、中盤からはギターが入り、この曲はにわかにインディーロック風に変化していく。3つ以上のギターの重なりが曲の情感を引き上げ、パーカッションが入り、そして最終的にドラムのフィルが入り、ベースも入る。オスティナートの形式を用いながら、このオープニング曲は驚くべき変遷を辿っていく。

 

続く「Being Nice」はフォーク、ロック、ポップを横断する一曲で、オルタナティヴロックの範疇に属する。コットニー・バーネットを彷彿とさせるようなゆったりとしたインディーロックの中で、フォークロックの温和なボーカルメロディーが首座を占め、フラワームーブメントのようなイメージを作り出す。ニューヨークのフランキー・コスモスの楽曲と共鳴するようなこのトラックで、今まではとは異なるロックミュージックの性質を押し出している。しかし、同時に、ネオアコースティックギターの使用を見る限り、スコットランドのアノラックからの影響もわずかに感じられる。これらの牧歌的なインディーロック/ポップが前の曲の印象を強化する。前のアルバムに比べると、ボーカルのメロディーに力が入っていて、聴かせるメロディーとはなにかという側面を探求したという印象を覚える。 そういった点では、ボーカルの主要なメロディーを活かすため、ギターやドラムをあえてセクションから外し、それらのボーカルメロディーを際立たせる場合もある。『Flood』が足し算のアルバムであるとすれば、『Love And Fortune」は引き算のアルバムである。もしかすると、幸運や愛もまた似たようなものなのだろうか。そしてポップシンガーとしては、迫力やエポックメイキングな作曲を避けて、あえて親しみやすいフレーズを大切にしている。その中には、手拍子などが演奏の中に入ることもある。前作に比べると、肩の力がほどよく抜けていて、そしてそれが聞き手に親近感をもたらす。無理をしてハイレベルなことをやるというよりも、今楽しいサウンドを追求していると言える。

 

ステラ・ドネリーはボーカリスト、ギタリスト、鍵盤奏者としてマルチ奏者に属するが、「Feel It Change」ではベースラインが活躍する。この曲では、Middle Kids、Fabiano Palladinoの楽曲のようにベースを強調したポップソングが登場する。同音反復するオスティナートのベースのリズムを中心とし、曲の全体的な枠組みを作り出し、センチメンタルに鳴り響くギターを対旋律に配し、その後にボーカルのテイクが入る。同じような楽曲の形式にも関わらず、ドネリーの楽曲は、上記のバンド/アーティストとは少し異なる。


この曲には、牧歌的な空気感が漂い、全般的にはカントリーやフォークのような田舎性が強調されている。曲を聴いていると、旅の空からのホームシックのような感覚が漂い、それらが聞き手の心を和ませる。明確な理由はわからないものの、この曲にはハートフルな叙情性が宿っている。


間奏に入るリバーヴをかけたギターが本当に素晴らしく、曲そのものの全体的な音像を拡大させるような効力を兼ね備えている。同時に、その映像的な音像は、聞き手の心に叙情性をもたらす。それらがボーカルの温和なハミングと重なる瞬間は聴き逃がせない。この曲には、アメリカーナとは異なるオーストラリアのフォークソングが体現されている。また、ヴァースと対比されるブリッジの箇所でも、アーティストの旋律的、及び、和声的に優れた才覚が奔流している。

 

「Feel It Change」

 

 


「Bath」はアカペラの曲で、国歌的な響きを持つ楽曲に挑戦している。他のサイトのレビュワーも指摘していることだが、スロウリスニングを促す楽曲であり、過剰な演出や刺激を避けた曲である。音楽としては、素朴さを重要視していて、それがゆえに心に響くものがある。聞く人を別人のように変える音楽というのは世界に氾濫しているが、聞く人を本当の自己に帰らせる音楽というのは少ない。この点において、「Bath」はアーティストが本来の自己を取り戻すため、ぜひとも制作しなければならなかったのである。そして、この曲は、共鳴する感覚があり、同じように、聞き手も内面の自己に接する機会を持つことが出来る。古楽的な響きもあることから、ステラ・ドネリーは、古典的な民謡やクラシック音楽にも接点を持っていることがうかがえる。静けさからもたらされる雄大な感覚も見事であるが、同時に、これはスピリットに訴えかける音楽である。氾濫する情報やSNSなどの喧騒から逃れるためにうってつけの一曲だろう。こういった曲は簡単にかけそうでかけない。自己と向き合う勇気が必要だからである。

 

 

今年は悲哀をストレートに反映させた曲が結構多い。それはある意味では、全般的に、世界情勢に関して、悲惨な報道が多すぎるからなのか。冒頭に挙げた、サイモン&ガーファンクルのように、ペーソスには、聞く人を癒やす力がある。「Year of Trouble」はストレートなバラードソング。ドネリーのピアノの弾き語りの曲で、 アーティストが三十代に入り、円熟したシンガーソングライターに成長したことを印象付ける。この曲では打ちのめされた経験をもとに、それらの悲しみをボーカルによって体現させる。ときにはボーカルは感情的になり、そして内面の限界のようなものが立ち現れる。しかし、同時に、これは同じような境遇にいる人に少なからず勇気を与えるような効果を持っているように感じられる。同じフレーズを続けていく中で、音楽はよりドラマティックに様変わり。3分半以降は、バラードソングとしては傑出した領域に入っていく。悲しみを乗り越える瞬間、なにかの本質が変わる瞬間が音楽に転化して、心をしっかりと捉えるのである。すべての悲しみが洗われた後、はじめて清らかな感覚が出てくる。

 

賛美歌とエレクトロニックを結びつけた「Please Everyone」は、最近聴いた中では、最も美麗な曲の1つで、心を癒やし和ませてくれる。この曲で、ドネリーは、ボーイ・ソプラノ風のクリアなボーカルを披露して、他を圧倒している。しかし、この新しい時代の賛美歌は、ミニマルテクノに根ざした新しい解釈が施されているのに注目だ。シンセサイザーを伴奏に見立て、エレクトロ・ポップを新しいフェーズへと進化させている。オルゴールのように鳴り響くシンセ、そして、鳥の声のサンプリングなど、アンビエントを明確に意識している。しかし、この曲を決定づけるのは、ドネリーのボーカルで、子供のための子守唄のような雰囲気がある。

 

 「W.A.L.K」はサーフミュージックで使用されるようなギターの音色を用いている。これはよく2010年代のニューヨークのインディーズバンドが使用していた音色であるが、60,70年代のロックソングのリバイバルの一貫でもあった。ステラ・ドネリーの場合はこれらに新しい解釈を加え、静かで美麗な印象を持つバラードソングに組み替えている。主張性を配した曲で、聞く人の心に平和をもたらす音楽である。この曲では、言葉や詩が最大の効力をもたず、音楽から汲み出されるぼんやりとした印象を、聞き手がどのように読み取るのかが大切である。それは水晶のように澄んだピアノ、アルペジオ中心のギター、そしてハミングで明確な言語をもたないボーカルというように、多彩な器楽的な効果が合わさり、これらの印象的な音楽の空間を造出する。見え透いたアンセミックなフレーズも出てこないし、人を驚かすような音響効果ももたない。そこには平かな感覚が音楽の基底に存在するだけである。しかし、それは、人間としての成熟を意味し、シンガーソングライターとして円熟期を迎えた証拠でもある。

 

そういったソングライターとしての成熟は、「Friend」に明瞭に表れ出ている。ポール・マッカートニー/ジョン・レノンのソングライティングに匹敵する静かであるが、同時に、深い味わいを持つこの曲は、音楽自体が表側のものだけでは成立せず、内側から汲み出される情感かが不可欠であることを示唆している。ビアノの演奏とユニゾンを描くボーカルには、悲しみや喜び、そのすべてが言い表され、胸を打つような音楽に昇華されている。同じように、派手さはないのだけれど、この曲は名曲といってもさしつかえないかもしれない。人生の節目で聞く度に、まったく印象が変わってくる。そういった深みのあるバラードソングを見事に作り上げた。この曲では内的な静けさが重視され、曲の終わりのハミングは子守唄のような印象を持つ。

 

また、 新しくジャズの要素も加わっている。「Ghosts」ではイントロで、ドラムとピアノがジャジーな響きを醸成し、そのメロウな雰囲気の中で、自由に歌が続き、ピアノとユニゾンを描きながら、心地よい音楽性を作り出す。イントロでは、ジャズの手法を用いているが、その後、この曲はしだいにフォークソングへと変わっていき、いわばフォーク・バラードのような性質を持つに至る。予め音楽のジャンルを断定せず、曲の節目で柔軟な音楽性を発揮している。これは前作ではあまり見受けられなかった傾向である。おのずと曲はあまり息苦しい感じがせず、オープンな感覚が漂う。これらもまた実際の人生から汲み出された人間味のようなものなのかもしれない。そしてボーカルもまた素朴でありながら、きらびやかな瞬間を描くことがある。そのボーカルのフレーズには、スティーリー・ダンのような普遍的な歌手に比するなにかが感じられる。他の曲と同様に、この曲は普遍的なポップソングを追求した結果ともいえる。若い年代だけではなく、すべての年代が聴いて楽しめるポップソングがここに誕生している。

 

タイトル曲は、ピアノバラードで、ビリー・ジョエル風の楽曲である。 そして、その中には、やはりフォーク・ソングの影響もある。アーティストはチャーリーやビックシーフも聞いているというのだが、まったく聞いているものと出てくるものが一致するわけではないということがわかる。この曲では、このアルバムの副次的なテーマとなる素朴な空気感がボーカルやピアノのフレーズから立ち上ってくる。おのずと、そこには映像的な印象が付随していることがわかる。同じような演奏のセクションを繰り返しながら、曲が変わる瞬間を模索していく。そして、2分以降ではやはり、最初は素朴な印象であった曲がドラマティックな印象に変わる。そこには、バンドメイトへの感謝や、音楽に返ってきたことへの愛着が、静かで温かな音楽に反映されているのである。最大の驚きは、この後に訪れる。「Laying Low」は急進的なポップソングで、ソウル、インディーポップなどを織り交ぜたアートポップである。 ブレイクビーツを意識したドラム、そしてメロディーズ・エコー・チャンバーのようなドリーム・ポップやバロック・ポップの要素が結びつき、新たな音楽が出てきた。最後にこういった曲が出てきたことは大きい。このアルバムは、聞く度に印象が変わるような内容になっている。また、現在、ステラ・ドネリーは、すでに新作に取り組んでいる最中だとか。これからの活躍も期待できそうだ。

 

 

 

85/100 

 

 

 

 

「Year of Trouble」

 

 

▪Stella Donnellyのニューアルバム『Love and Fortune』は本日、Dot Dash Recordingsから発売。アルバムのストリーミングはこちらから。また、本作は日本盤も同時リリースされます。 

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