マッケンジー・スコットは、元々はギタリストとして活動していたが、2024年始めに発売された『What an enormous room』で華麗なる転身を果たし、次世代のソロシンガーとしての存在感を示し、マギー・ロジャースに続くニューヨークのポップシーンの新星として名乗りを挙げる。最新アルバムでは、ドラスティックな音楽的な転換を図り、エクスペリメンタルポップに舵を取った。
その過程で「Artifical Limits」、「Jerk Into Joy」を始めとする良曲が生み出された。従来になくスコットのボーカルの存在感が前面に出ているが、トラック全体には歪んだギター等が登場する。いわば当初のギタリストとしての経験を活かし、次のステップに歩みを進めようとしている。
TORRESは、新しいコラボレーションEP『A Decoration』のリリースを発表した。そのファーストシングル「Married for Love」をシェアした。スコットとジョンソンは初対面で、初めてのコラボレーションとなる。
-An eye on an absurd and inexplicable world -不条理で不可解な世界に対する眼差し-
今年の夏以降、イギリスで複数のヘッドラインツアーを控えている香港系イギリス人シンガー、mui zyu(エヴァ・リュー)は、セカンドアルバムの発売を記念し、ファンに向けてリスニングパーティーを開催した。デビュー作『Rotten Bun For an Eggless Century- 卵のない世紀の腐ったパン』では持ち前のシュールな性質とエレクトロ・ポップを組みわせ特異な音楽観を確立している。
不確実性や偶然性が混在する世界で生き残ることが、『nothing or something to die forー死にものぐるいで』には示されているのではないでしょうか? セカンドアルバムにはロンドンの流行りの音楽が凝縮されている。それらがエヴァ・リューが知りうる形で昇華され、Miss Grit、lei e、Pickle Darlingといった同じような境遇にあるミュージシャン/コラボレーターと一緒に何かを探し続ける。それは単にアイデンティティとも言いがたく、今生きていることのおもしろさの理由を探すのである。かつて生きることは何らかのテーゼに支えられていたが、2024年の現在はそのかぎりではない。
mui zyuがボーカリストとして描くポピュラリティ、主要なメロディの中にはオルタナティヴな要素が含まれている。より具体的に言うなら、Pixiesの最初期の音楽に見いだせるようなオルタナティヴ・ロックのスケールでもある。長調のスケールを思わせたかと思えば、その次の瞬間には短調に変化して、それらが絶えず交差するかのように繰り広げられる。いわば、これらの調性の変化は、ボーカリストの感情性やその時々の考えの移ろいを反映するかのように、明るくなったかと思えば、暗くなり、ふたたび明るくなったりというように、曲のセクションごとに絶え間なく変遷してゆく。
他の複数の楽器(ストリングス、アコースティックギター、シンセ、リズム、ノイズ)にその背を支えられるようにして、絶えず変化を繰り返し、曲の中でも定着するケースはない。それらがオープニングを飾るモダンクラシックの音楽から始まり、ミステリアスな迷宮を探索するかのように続く。その中で、分かりやすく軽妙な印象を持つシンセポップの楽曲が収録されていて、多彩な音楽性の中にあって親しみやすさをもたらしている。比較的聞きやすいポップソングは「#4 donna like parasites」、「#5 the rules of what an earthing can be」「#6 please be ok」などで楽しむことが出来る。
「please be ok」
こういった中で、音楽そのものがよりダイナミックな質感を持ち、劇伴音楽のようなドラマ性に結びつくこともある。「#10 hopefulness, hopefulness」はシンガーが日頃感じる不条理性や不可解さの中に見いだせる明るい希望を意味し、それらがストリングスのレガートの旋律の上昇によってボーカリストの歌の情感が奥行きを増す。背景となるトラックメイクには、アヴァンポップ/エクスペリメンタルポップの反映も込められているかもしれないが、歌や主旋律に関してはポピュラリティを重視しているようだ。 mui zyuの歌には、現代のイギリスの音楽の中枢にある、ネオソウルやヒップホップからのフィードバックが表向きには目立たないような形で含まれている。これらのアーティストの前衛性については、アルバムの終盤に収録されている「in the dot」にも見いだすことが出来、ジャズの要素が先鋭的なアヴァンポップと結びつき、異質な音楽性が作り上げられている。イギリスの親しみやすいモダンなポップネスの狭間を漂うトリップホップの系譜にある無調に近い不安定な音階、その音楽が持つアトモスフィアは、先々週のWu-Luの音楽性と近似したものがあり、アーティストの持つ多面性を巧みに反映させている。また、ここにはシンガーソングライターのアーティスティックな才覚が内包されている。
セカンド・アルバムらしい新しい音楽的なディレクションもいくつか発揮された上で、終盤には、デビュー作から引き継がれるシュールでレトロな感覚を持つシンセポップへと舞い戻る場合もある。ただ、「#14 cool as a cucamber」を聴くとわかるように、同じような音楽の手法を選んだとしても、同じ表現形式に留まることはない。これは、米国の現代音楽の作曲家ジョン・アダムス(John Adams)が言うように、「反復は変化の一つの形態である」という言葉がピッタリ当てはまる。さらに、mui zyuはレトロなシンセポップに豪華なオーケストラストリングスを追加して、夢想的で現実感のある表現形式に昇華させる。
先行シングルとして配信された「i don't have to tell the rest」を聞き逃さないようにしてほしい。オルタナティヴフォークからジャズ、ローファイ、アンビエントまでをシームレスにクロスオーバーし、内省的でありながらダイナミックな質感を持つ素晴らしいベッドルームポップソングを作り上げている。
特にブリッジからサビに移行する際のタイトルの歌の部分には内的な痛みがあり、それらが胸を打つ。このヴィネットにおける辛辣なフレーズはヒップホップのようなひねりが込められている。「you don't have to tell me the rest」は、前曲と呼応する連曲のトラックとなっている。この曲は全般的に、イギリスのCavetownに近いニュアンスを捉えることが出来るだろう。編集的なサウンドとオルタナティヴフォークをジム・オルークのようにエクスペリメンタルという視点を通して作り上げていく。この曲にもアーティストのただならぬセンスを垣間見ることが出来る。
アルバムの中盤からはエクスペリメンタルミュージック、つまり実験的な音楽性が強調される。「once in a while」はテープ音楽やローファイから見たハイパーポップであり、メインストリームに位置するアーティストとは異なるマニアックなサウンドで、一方ならぬ驚きをリスナーに与える。続く「train home」はノイズミュージックに近づき、Merzbowのような苛烈なアナログノイズがこれらのポピュラーな音楽性の中心を激しく貫く。アーティストの内的な痛みや苦悩、憂慮をノイズという形で刻印し、それをなんらのフィルターに通すこともなく、リアルに提示している。
アーティストの持つ音楽的な蓄積はかなり豊富で、驚くべきバリエーションがある。エクスペリメンタルと合わせて内省的なドリーム・ポップの性質が立ち表れる「security」は、韓国系のミュージシャン、Lucy Liyouが参加している。Gastr Del Solの音楽をファンシーな雰囲気で包み込む。そこに、ルーシー・リヨウが持つアンビエントやエレクトロニックの要素が合致している。これらは両者の持つアーティスティックな側面がより色濃く立ち現れた瞬間と言えるだろう。
グレイは、アレサ・フランクリン、エラ・フィッツジェラルドとも共演してきたカナダ人のトランペット奏者/作曲家/エンジニアのチャーリー・グレイを父に持ち、カナダの音楽学校「Discovery
Through the
Arts」を設立したマドカ・ムラタを母にもつ音楽一家に育つ。幼い頃から兄のルシアン・グレイとさまざまな楽器を習得した。グレーは10代の頃にバンド活動を始め、ジャマイカのペンテコステ教会でセッションに明け暮れた。その後、ベーシストとして世界中をツアーで回るようになり、ダニエル・シーザーやウィロー・スミスの音楽監督も務めている。
心浮き立つようなエンターテイメント性は、もうすでにオープニングを飾る「You, A Fool」の中に見出せる。イントロのハイハットの導入で「何が始まるのか?」と期待させると、キング・クリムゾンやRUSHの系譜にある古典的なプログレッシヴ・ロックがきわめてロック的な文脈を元に構築される。トラックに録音されるボーカルについても、真面目なのか、ふざけているのか分からない感じでリリックが紡がれる。このオープニングは息もつかせぬ展開があるとともに瞬間ごとに映像のシーンが切り替わるような感じで、音楽が変化していく。その中に、英語や日本のサブカルの「電波系」のサンプリングを散りばめ、カオティックな展開を増幅させる。
そのカオティックな展開の中に、さりげなくUFOのマイケル・シェンカーのようなハードロックに依拠した古臭いギターリフをテクニカルに織り交ぜ、聞き手を呆然とさせるのだ。展開はあるようでいて存在しない。ギターのリフが反復されたかと思えば、日本のアニメカルチャーのサンプリング、古典的なゴスペルやソウルのサンプリングがブレイクビーツのように織り交ぜつつ、トリッピーな展開を形作る。つまり、聞き手の興味がある一点に惹きつけられると、すぐさまそこから離れ、次の構造へと移行していく。まるで''Catch Me If You Can''とでもいうかのように、聞き手がある場所に手を伸ばそうとすると、サヤ・グレイはすでにそこにはいないのだ。
例えば、K-Popならば、「K-Pop」、J-Popであれば、「J-Pop」、または、ロンドンのロックバンド、1975の音楽であれば「1975の音楽」というように、世界のリスナーの9割が音楽をある種の「記号」のように捉え、流れてくる音に脊髄反射を示すしかなく、それ以上の何かを掴むことが困難であることを暗示している。「A A BOUQUET FOR YOUR 180 FACE」は、そういった風潮を逆手に取って、アーバンフラメンコの音楽性をベースに、その基底にグリッチ・テクノの要素を散りばめ、それらの記号をあえて示し、標準化や一般化から抜け出す方法を示唆している。アーバンフラメンコのスパニッシュの気風を散りばめたチルアウト風の耳障りの良いポップとして昇華されているこの曲は、脊髄反射のようなありきたりのリスニングからの脱却や退避を意味し、流れてくる音楽の「核心」を捉えるための重要な手がかりを形成するのである。
最も驚いたのはクローズ「RRRate MY KAWAII CAKE」である。サヤ・グレイはブラジルのサンバをアヴァン・ポップの切り口から解釈し、ユニークな曲風に変化させている。そして伝統性や革新性の双方をセンスよく捉え、それらを刺激的なトラックとしてアウトプットさせている。 ジャズ、和風の音階進行、ミニマリズム、ヒップホップ、ブレイクビーツ、ダブ、ネオソウル、グレイ特有の独特な跳ね上がるボーカルのフレージング、これらすべてが渾然一体となり、音楽による特異な音響構造を作り上げ、メインストリームにいる他のアーティストを圧倒する。全面的に迸るような才覚、押さえつけがたいほどの熱量が、クローズには立ち込め、それはまたソロアーティストとして備わるべき性質のすべてを持ち合わせていることを表している。
トーレスに関しては、やはりニューヨークのシンセポップのウェイブに位置づけられる音楽の体現者/継承者であり、それらのメインストリームとアンダーグランドの中間層にあるバランスの取れたシンセポップをこのアルバムで展開している。 序盤におけるこれらのバランスの取れたスタイルには、過剰なダイナミックス性やカリスマ性、そして圧倒的な歌唱力は期待するべくもないが、軽く聞けると同時に、聴き応えもあるという相乗効果を発揮している。シリアスになりすぎないポップス、感情を左右しないフラットなシンセ・ポップをお好みの方にとって『What An Enormous Room』は最良の選択となるかもしれない。
一見すると、きらびやかな印象ばかりが表向きにフィーチャーされる現代的なポピュラーシーンにあり、トーレスの曲そのものはいくらか地味というか、少し華やかさに欠けるような印象を覚えるかもしれない。しかし、音楽フリークとしての隠れたシンガーの特徴は続く「Life As We Don't Know It」に出現し、忘れかけられた1970年代のニューウェイブの音楽性を、みずからのポケットにこっそり忍ばせて、それをやはり軽快なシンセポップという形で展開させる。そして、それらのグルーブ感をグイグイ押し上げるかのようにダンスビートを覿面に反映させたトラックに、ポスト・パンク的なボーカルのフレーズをこっそり織り交ぜるのである。このボーカリストとしてのしたたかな表現性になんらかの魅力を感じても、それは多分思い違いではない。
その後も、耳障りの良いポピュラー・ソングが続く。「WAKE TO FLOWERS」については、現代のニューヨークのモダンポップスの範疇にあるアプローチと言える。知ったかぶりで語るのは申し訳ないと思うが、 この曲では近年のポップスの複雑化とは対極に位置する簡素化に焦点が絞られ、無駄な脚色が徹底して削ぎ落とされている。ベースとドラム、トーレスのボーカルという現代的な音楽として考えると、少し寂しさすら覚えるような音楽であるのに、驚くほど軽妙な質感を持って聴覚を捉える。そして、トーレスのボーカルに関しても、マーガレット・ソーンのように爽やかさがある。さらに、曲の終盤では、ノイジーなギターが入るが、それは決して曲の雰囲気を壊すこともなければ、マッケンジーのボーカルの清涼感を壊すこともない。
アルバムの終盤でも一連の流れや勢いは衰えることなく、スムーズにクライマックスへと繋がっていく。「Jerk Into Joy」、「Forever Home」では同じように、ニューヨークのモダンな最前線のポップスを継承し、「Songbird Forever」においても、歌手としての才気煥発さは鳴りを潜めることはない。
「stillness、softness...」は、大森のアナログ・シンセの世界ーー、すなわち、彼女のProphet '08、Moog Voyager、そしてバイノーラルで3Dシミュレートされたサウンドを生み出すアナログ・ハイブリッド・シンセサイザー、UDO Super 6ーーの新たな音域を探求している。このアルバムは、彼女の前作よりもダークで広がりがあり、ノワールのようにシアトリカル。デビュー作がインストゥルメンタル中心だったのに対して、本作ではヴォーカルが前面に出ており、「より傷つきやすくなっている」と彼女は説明している。夢と現実、孤独、自分自身との再会、そして最終的には自分自身の中に強さを見出すというテーマについて、彼女は口を開いている。
しかし、一瞬、目の前に現れたデモーニッシュなイメージは消えさり、#7「foundation」では、それと立ち代わりにギリシャ神話で描かれるような神話的な美しい世界が立ち現れる。安らいだボーカルを生かしたアンビエントですが、ボーカルラインの美麗さとシンセサイザーの演奏の巧みさは化学反応を起こし、エンジェリックな瞬間、あるいはそのイメージを呼び起こす。音楽的にはダウンテンポに近い抽象的なビートを好む印象のある制作者ではありながら、この曲では珍しくダブステップの複雑なリズム構成を取り入れ、それを最終的にエクスペリメンタルポップとして昇華しています。しかし、ここには、マンチェスターのAndy Stottと彼のピアノ教師であるAlison Skidmoreとのコラボレーション「Faith In Strangers」に見られるようなワイアードな和らぎと安らぎにあふれている。そして、それらの清涼感とアンニュイさを併せ持つ大森の歌声は、イントロからまったく想像も出来ない神々しさのある領域へとたどりつく。そして、それはダンスミュージックという制作者の得意とする形で昇華されている。背後のビートを強調しながら、ドライブ感のある展開へと導くソングライティングの素晴らしさはもちろん、ポップスとしてのメロディーの運びは、聞き手に至福の瞬間をもたらすに違いありません。
アルバムのイメージは曲ごとに変わり、レビュアーが、これと決めつけることを避けるかのようです。そしてゴシックやドゥームの要素とともに、ある種の面妖な雰囲気はこの後にも受け継がれる。続く、#8「in full bloom」では、アーティストのルーツであるクラシックの要素を元に、シンセサイザーとピアノの音色を組み合わせ、親しみやすいポピュラー音楽へと移行する。しかし、昨晩聴いて不思議だったのは、ミニマルな構成の中に、奇妙な哀感や切なさが漂っている。それはもしかすると、大森自身のボーカルがシンセと一体となり、ひとつの感情表現という形で完成されているがゆえなのかもしれません。途中、感情的な切なさは最高潮に達し、その後、意外にもその感覚はフラットなものに変化し、比較的落ち着いた感じでアウトロに続いていく。
前の曲もベストトラックのひとつですが、続く「a structure」はベストトラックを超えて壮絶としか言いようがありません。ここではファラオ・サンダースやフローティング・ポインツとの制作、そして青葉市子のライブサポートなどの経験が色濃く反映されている。ミニマル・ミュージックとしての集大成は、Final Fantasyのオープニングのテーマ曲を彷彿とさせるチップチューンの要素を絶妙に散りばめつつ、それをOneohtrix Point NeverやFloating Pointsの楽曲を思わせる壮大な電子音楽の交響曲という形に繋がっていく。本来、それは固定観念に過ぎないのだけれど、ジャンルという枠組みを制作者は取り払い、その中にポップス、クラシック、エレクトロニック・ダンス・ミュージック、それらすべてを混合し、本来、音楽には境目や境界が存在しないことを示し、多様性という概念の本質に迫っていく。特に、アウトロにかけての独創的な音の運びに、シンセサイザー奏者として、彼女がいかに傑出しているかが表されているのです。
これらの深く濃密なテーマが織り交ぜられたアルバムは、いよいよほとんど序盤の収録曲からは想像もできない領域に差し掛かり、さらに深化していき、ある意味では真実性を反映した終盤部へと続いていきます。「an ode to your heart」では驚くべきことに、日本の環境音楽の先駆者、吉村弘が奏でたようなアンビエントの原初的な魅力に迫り、いよいよ「epilogue...」にたどり着く。ホメーロスの「イーリアス」、ダンテ・アリギエーリの「神曲」のような長大な叙事詩、そういった古典的かつ普遍性のある作品に触れた際にしか感じとることが難しい、圧倒されるような感覚は、エピローグで、クライマックスを迎える。海のゆらめきのようにやさしさのあるシンセサイザーのウェイブが、大森の歌声と重なり、それがワンネスになる時、心休まるような温かな瞬間が呼び覚まされる。その感覚は、クローズで、タイトル曲であり、コーダの役割を持つ「stillness,softness…」においても続きます。海の上で揺られるようなオーガニックな感覚は、アルバムのミステリアスな側面に対する重要なカウンターポイントを形成しています。
アンジミールは、「Genesis」で、エクルペリメンタルポップのまだ見ぬ領域を切り開こうとする。この曲では、Black Heart Processionが『Amore Del Tropicco』というアルバムの収録曲「The Water #4」で示したトイ・ピアノのような音色が使用されているが、アンジミールのボーカルは、その音響的な特殊効果の演出によって奇妙な寂寥感と哀感を生み出す。そしてこれらの実験的な要素は、オーケストラ・ヒットにようなパーカッションの効果、さらに亡霊的なアンジミールのコーラスによってミステリアスな空気感が呼び覚まされる。男性的とも女性的ともつかない中性的なアーティストの感覚が鮮やかな実験的なポップ音楽という形で組み上げられている。
ベルギーのジャズ・ギター奏者、Zach Phillips、NYのヴォーカル/ラッパー、Ma Clementを中心とするDIYグループ、Fievel Is Glaque(フィーヴェル・イズ・グラーク)がFat Possumと契約を交わし、レーベル・デビュー作となるダブル・シングル「I'm Scanning Things I Can't See」、「Dark Dancing」を発表した。昨年、グループはStereolabのアクトの前座を努めたことで知られる。
この曲には、ジョーイ・アグレスタ監督によるショート・フィルムが付属しており、両曲のミュージック・ビデオと、ヴォーカリストのマ・クレマンとマルチ・インストゥルメンタリストのザック・フィリップスをフィーチャーした斜め上の物語が収録されている。「Dark Dancing」と「I'm Scanning Things I Can't See 」の2曲は、ジャジーなコードシフトと質感のあるベースとパーカッションに乗せて、シンセが揺れ、ヴォーカルが響き渡る。試聴は以下から。
Caroline Polachek(キャロライン・ポラチェク)は、「Bunny Is A Rider」のリミックスバージョンを新たに公開した。
ポラチェックは今年、『Desire,I Want To Turn Into You』を発表しており、こちらはその週のベストアルバムに選ばれた。現時点のアートポップ/エクスペリメンタルポップのタイトルホルダーといえよう。
この曲は、キャロライン・ポラチェクの『Desire, I Want To Turn Into You』がリリースされるほぼ2年前の2021年にリリースされたときと同じように新鮮に聴こえる。このリリースはまだアーティストがバルセロナに活動拠点を移す以前の時代に録音された。今回、オリジナルに飽きてしまった人のために、このアート・ポップ界の大御所は、「Bunny」の2周年を記念して、Doss、Sega Bodega、Nikki Nairによる3つの新しいリミックス・バージョンを公開した。