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 Kaho Matsui 『scrutiny portrait』


 

Label: Kaho House

Release: 2024/04/19

 


Review


マツイ・カホは数年前までポートランドを拠点に活動していたが、現在はロサンゼルスに移住し、ベッドルーム・レコーディングを行っている。

 

ホームレコーディングのアーティストとしては他にも、Claire Rousey(クレア・ラウジー)がいる。ステレオガムのインタビューは時間がなくて読めなかったが、ライン・オブ・ベストフィットの取材で、クレア・ラウジーは「エモ・アンビエントというジャンルを最新作のテーマに置いた」と述べていた。

 

カホ・マツイは言ってみれば「次世代のクレア・ラウジー」とも称すべきアーティスト。もしくはイギリスのクイア・ポップのリーダー、Cavetownの音楽にも親和性がありそうだ。マツイはインディーフォーク/エモをエレクトロニックから解釈し、先鋭的なサウンドを構築する。また多作なアーティストであり、この3年間で、S/Tを含め、6作のフルアルバムを発表している。これらの作品は、Ethel Cainと同じように、デジタル・ストリーミングを中心にリリースされている。

 


 

アルバムは冒頭の「sore spot」に見いだせるように、インディーフォーク/エモの中間にあるサウンドが個性的な印象を放つ。その中で、マツイは抽象的なボーカルのフレーズを交え、叙情的なアンビエンスを作り出す。最初のトラックメイキングの動機こそ、その限りではないが、細かなマテリアルを組み上げる過程の中で、徐々にポップスからアンビエントのような抽象的な音像に接近を図るのである。マツイのボーカルにも個性的な特徴がある。彼女のボーカルは、内省的で、それは内側に揺らめく情念のように熱いエナジーを擁している。これらが内向きのエナジーであるはずなのに、リスナーにもカタルシスや共鳴をもたらすことがある理由なのだ。

 

マツイは基本的にはギターを中心にソングライティングを行うらしいが、彼女はエレクトロニックのクリエイターとしても秀逸だ。 続く「angel」ではCaribou(ダン・スナイス)を彷彿とさせるグリッチサウンドを展開させ、サウンドデザインのようなスタイリッシュな質感を持つポップソングを制作している。それらは最終的にマツイが持つ音楽的な素養であるインディーフォーク/オルタナティヴフォークという切り口を通じて、完成度の高いトラックに昇華される。曲そのものからもたらされる内省的な感覚は、エモとの共通点があり、切ない空気感を作り出す。

 

先行シングルとして配信された「i don't have to tell the rest」を聞き逃さないようにしてほしい。オルタナティヴフォークからジャズ、ローファイ、アンビエントまでをシームレスにクロスオーバーし、内省的でありながらダイナミックな質感を持つ素晴らしいベッドルームポップソングを作り上げている。

 

特にブリッジからサビに移行する際のタイトルの歌の部分には内的な痛みがあり、それらが胸を打つ。このヴィネットにおける辛辣なフレーズはヒップホップのようなひねりが込められている。「you don't have to tell me the rest」は、前曲と呼応する連曲のトラックとなっている。この曲は全般的に、イギリスのCavetownに近いニュアンスを捉えることが出来るだろう。編集的なサウンドとオルタナティヴフォークをジム・オルークのようにエクスペリメンタルという視点を通して作り上げていく。この曲にもアーティストのただならぬセンスを垣間見ることが出来る。



 

アルバムの中盤からはエクスペリメンタルミュージック、つまり実験的な音楽性が強調される。「once in a while」はテープ音楽やローファイから見たハイパーポップであり、メインストリームに位置するアーティストとは異なるマニアックなサウンドで、一方ならぬ驚きをリスナーに与える。続く「train home」はノイズミュージックに近づき、Merzbowのような苛烈なアナログノイズがこれらのポピュラーな音楽性の中心を激しく貫く。アーティストの内的な痛みや苦悩、憂慮をノイズという形で刻印し、それをなんらのフィルターに通すこともなく、リアルに提示している。この前衛性には日本のノイズシーンの中心人物であるJOJO広重のような危なっかしさがある。

 

アーティストの持つ音楽的な蓄積はかなり豊富で、驚くべきバリエーションがある。エクスペリメンタルと合わせて内省的なドリーム・ポップの性質が立ち表れる「security」は、韓国系のミュージシャン、Lucy Liyouが参加している。Gastr Del Solの音楽をファンシーな雰囲気で包み込む。そこに、ルーシー・リヨウが持つアンビエントやエレクトロニックの要素が合致している。これらは両者の持つアーティスティックな側面がより色濃く立ち現れた瞬間と言えるだろう。

  

本作の終盤でも、マツイ・カホは、必ずしも音楽的な制作を設けず、自由闊達な創造性を発揮しているが、少し、これらのバリエーションが収集がつかなくなっているのが難点と言えそうだ。ただ、その中にもアーティストが考える音楽そのものの"ユニークさ"が込められていることも事実である。


「mean girl」では、イスラエルのApifera、トルコのIsik Kural、ドイツのAparratのサウンドデザインに近い多彩なエレクトロニカ/ミニマル・テクノをめくるめくように展開させ、「dog whistle」では、エレクトロニカの要素をオルタナティヴフォークと連結させ、アヴァン・ポップ/エクスペリメンタルポップに近い、先鋭的な音楽へと昇華させる。


アルバムのクローズ「draw me」では、ニューヨークでインディーズ・デビューした最初期のトクマル・シューゴのような、エレクトロニカとポップネスの融合の醍醐味を見出すことが出来るはずだ。

 

 

72/100

 

 


 

 


ロンドンを拠点に活動するシンガーソングライター、mui zyu(エヴァ・リュー)は、2ndアルバム『nothing or something to die for』の4作目のシングル「the rules of what an earthling can be」を配信した。

 

「the mould」「everything to die for」「sparky」のフォローアップとなる。リウのダマ・スカウトのバンドメイト、ダニー・グラントが監督したビデオを下記よりチェックしてみよう。


この曲について、リューはこう語っている。「この残酷な世界では、人々の身体は取り締まられ、夢は打ち砕かれる。ありがたいことに、エイリアンは正しいドアを選ぶ手助けをしてくれる」

 


「the rules of what an earthling can be」

Weekly Music Feature

 

Saya Gray:


 

昨年、Dirty Hitからアルバム『QWERTY』をリリースしたSaya Gray(サヤ・グレー)はトロント生まれ。


グレイは、アレサ・フランクリン、エラ・フィッツジェラルドとも共演してきたカナダ人のトランペット奏者/作曲家/エンジニアのチャーリー・グレイを父に持ち、カナダの音楽学校「Discovery Through the Arts」を設立したマドカ・ムラタを母にもつ音楽一家に育つ。幼い頃から兄のルシアン・グレイとさまざまな楽器を習得した。グレーは10代の頃にバンド活動を始め、ジャマイカのペンテコステ教会でセッションに明け暮れた。その後、ベーシストとして世界中をツアーで回るようになり、ダニエル・シーザーやウィロー・スミスの音楽監督も務めている。


サヤ・グレーの母親は浜松出身の日本人。父はスコットランド系のカナダ人である。典型的な日本人家庭で育ったというシンガーは日本のポップスの影響を受けており、それは前作『19 Masters』でひとまず完成を見た。

 

デビュー当時の音楽性に関しては、「グランジーなベッドルームポップ」とも称されていたが、二作目となる『QWENTY』では無数の実験音楽の要素がポピュラー・ミュージック下に置かれている。ラップ/ネオソウルのブレイクビーツの手法、ミュージック・コンクレートの影響を交え、エクスペリメンタルポップの領域に歩みを進め、モダンクラシカル/コンテンポラリークラシカルの音楽性も付加されている。かと思えば、その後、Aphex Twin/Squarepusherの作風に象徴づけられる細分化されたドラムンベース/ドリルンベースのビートが反映される場合もある。それはCharli XCXを始めとする現代のポピュラリティの継承の意図も込められているように思える。

 

曲の中で音楽性そのものが落ち着きなく変化していく点については、海外のメディアからも高評価を受けたハイパーポップの新星、Yves Tumorの1stアルバムの作風を彷彿とさせるものがある。サヤ・グレイの音楽はジャンルの規定を拒絶するかのようであり、『Qwenty』のクローズ「Or Furikake」ではメタル/ノイズの要素を込めたハイパーポップに転じている。また作風に関しては、極めて広範なジャンルを擁する実験的な作風が主体となっている。一般受けはしないかもしれないが、ポピュラーミュージックシーンに新風を巻き起こしそうなシンガーソングライターである。

 

 

『Qwenty II』- Dirty Hit


Saya Grayは、Dirty Hitの新しい看板アーティストと見ても違和感がない。同レーベルからリリースされた前作『Qwenty』では、ドラムンベースのフューチャリズムの一貫であるドリルンベース等の音楽性を元にし、エクスペリメンタル・ポップの未来形であるハイパーポップのアプローチが敷かれていた。グレイの音楽は、単なるクロスオーバーという言葉では言い表せないものがある。それは文化性と民族性の混交、その中にディアスポラの概念を散りばめ、先鋭的な音楽性を組み上げる。ディアスポラといえば同レーベルのサワヤマが真っ先に思い浮かぶが、女性蔑視的な業界の気風が是正されないかぎり、しばらく新譜のリリースは見込めないとのこと。

 

おそらく、サヤ・グレイにとって、ロック、ネオソウル、ドラムンベース、そしてハイパーポップ等の音楽用語、それらのジャンルの呼称は、ほとんど意味をなさないように感じられる。グレイにとっての音楽とは、ひとつのイデアを作り出す概念の根幹なのであり、そのアウトプット方法は音楽というある種の言語を通じて繰り広げられる「アートパフォーマンス」の一貫である。また、クロスオーバーという概念を軽々と超越した多数のジャンルの「ハイブリッド」の形式は、アーティストの音楽的なアイコンの重要な根幹を担っている。連作のような意味を持つ『Ⅱ』は、前作をさらにエグく発展させたもので、呆れるほど多彩な音楽的なアプローチ、ブレイクビーツの先を行く「Future Beats(フューチャー・ビーツ)」とも称すべき革新性、そしてアーティストの重要なアイデンティティをなす日本的なカルチャーが取り入れられている。

 

 『Qwenty Ⅱ』は単なるレコーディングを商品化するという目的ではなく、スタジオを舞台にロック・オペラが繰り広げられるようなユニークさがある。一般的に、多くのアーティストやバンドは、レコーディングスタジオで、より良い録音をしようと試みるが、サヤ・グレイはそもそも録音というフィールドを踏み台にして、アーティストが独壇場の一人の独創的なオペラを組み上げる。

 

心浮き立つようなエンターテイメント性は、もうすでにオープニングを飾る「You, A Fool」の中に見出せる。イントロのハイハットの導入で「何が始まるのか?」と期待させると、キング・クリムゾンやRUSHの系譜にある古典的なプログレッシヴ・ロックがきわめてロック的な文脈を元に構築される。トラックに録音されるボーカルについても、真面目なのか、ふざけているのか分からない感じでリリックが紡がれる。このオープニングは息もつかせぬ展開があるとともに瞬間ごとに映像のシーンが切り替わるような感じで、音楽が変化していく。その中に、英語や日本のサブカルの「電波系」のサンプリングを散りばめ、カオティックな展開を増幅させる。

 

そのカオティックな展開の中に、さりげなくUFOのマイケル・シェンカーのようなハードロックに依拠した古臭いギターリフをテクニカルに織り交ぜ、聞き手を呆然とさせるのだ。展開はあるようでいて存在しない。ギターのリフが反復されたかと思えば、日本のアニメカルチャーのサンプリング、古典的なゴスペルやソウルのサンプリングがブレイクビーツのように織り交ぜつつ、トリッピーな展開を形作る。つまり、聞き手の興味がある一点に惹きつけられると、すぐさまそこから離れ、次の構造へと移行していく。まるで''Catch Me If You Can''とでもいうかのように、聞き手がある場所に手を伸ばそうとすると、サヤ・グレイはすでにそこにはいないのだ。

 

続く「2 2 Bootleg」はグレイの代名詞的なトラックで、イギリスのベースメントのクラブ・ミュージックのビートを元にして、アヴァン・ポップとネオソウルの中間にあるポイントを探る。ノイズ性が含まれているという点では、ハイパーポップの範疇にあるが、その中に部分的にドリルンベースの要素を元にノイズを織り交ぜる。例えば、フォーク音楽の中にドリルの要素を織り交ぜるという手法は、カナダというより、ロンドンのポップスやネオソウルの中に頻繁に見出される。グレイの場合は、pinkpantheressのように扇動的なエナジーを込めて展開させていく。このトラックには、クラブ・ミュージックの熱狂性、ロックソングの狂乱、ヒップホップのフロウの節回し、そういった多数のマテリアルが渾然一体となり、旧来にはないハイブリッド音楽が組み上げられていく。唖然とするのは、曲の中盤では、フォーク音楽とIDMの融合であるフォークトロニカまでを網羅している。しかし、このアルバムの最大の魅力は、マッドな質感を狙いながら「聞きやすさ」に焦点が置かれていること。つまり、複雑な要素が織り交ぜられた先鋭的なアプローチであるものの、曲そのものは親しみやすいポップスの範疇に収められている。

 

しかし、解釈の仕方によっては、メインストリームの対蹠地に位置するアウトサイダー的なソングライティングといえ、発揮される才覚に関しては、それと正反対に一つの枠組から逸脱している。矛盾撞着のようではあるが、グレイの音楽というのは、一般的なものと前衛的なもの、あるいは、王道と亜流がたえず混在する、不可解な空間をうごめくアブストラクト・ポップなのだ。これは、グレイがきわめて日本的な家庭で育ったという背景に要因があるかもしれない。つまり、日本の家庭に見受けられるような、きわめて保守的な気風の中で精神性が育まれたことへの反動や反骨、あるいは徹底したアンチの姿勢がこの音楽の中に強かに含まれているのだ。

 

 

 

 

何らかの概念に対するアンチであるという姿勢、外的なものに対して自主性があるということ。これは政治的なものや社会気風に対する子供だましの反駁よりも遥かにパンクであることを意味する。


音楽的には、その限りではないが、上述のパンクの気風はその後の収録曲においても、何らかの掴みをもたらし、音響的なものとは異なる「ヘヴィネス」の概念を体現する。そしてサヤ・グレイは、音楽そのものの多くが記号学のように聞かれているのではないかと思わせる考えを提示している。

 

例えば、K-Popならば、「K-Pop」、J-Popであれば、「J-Pop」、または、ロンドンのロックバンド、1975の音楽であれば「1975の音楽」というように、世界のリスナーの9割が音楽をある種の「記号」のように捉え、流れてくる音に脊髄反射を示すしかなく、それ以上の何かを掴むことが困難であることを暗示している。「A A BOUQUET FOR YOUR 180 FACE」は、そういった風潮を逆手に取って、アーバンフラメンコの音楽性をベースに、その基底にグリッチ・テクノの要素を散りばめ、それらの記号をあえて示し、標準化や一般化から抜け出す方法を示唆している。アーバンフラメンコのスパニッシュの気風を散りばめたチルアウト風の耳障りの良いポップとして昇華されているこの曲は、脊髄反射のようなありきたりのリスニングからの脱却や退避を意味し、流れてくる音楽の「核心」を捉えるための重要な手がかりを形成するのである。

 

二曲目で示されたワールド・ミュージックの要素は、その後の「DIPAD33/WIDFU」にも含まれている。ヨット・ロックやチル・アウトの曲風の中で、グレイはセンスよくブラジル音楽の要素を散りばめ、心地よいリスニング空間を提供する。 そしてボーカルのジェイムス・ブレイクの系譜にある現代的なネオソウルの作風を意識しながら、Sampha、Jayda Gのようなイギリスの最新鋭のヒップホップとモダンソウルのアーティストの起伏に富んだダイナミックな曲展開を踏襲し、ベースラインやギターノイズ、シンセの装飾的なフレーズ、抽象的なコーラス、スポークンワードのサンプル、メロウな雰囲気を持つエレピというように、あらゆる手法を駆使し、ダイナミックなポップネスを構築していく。メインストリームの範疇にあるトラックではあるものの、その中にはアーティスト特有のペーソスがさりげなく散りばめられている。これらの両極端のアンビヴァレンスな要素は、この曲をリスニングする時の最大の醍醐味ともなりえる。

 

 

例えば、Ninja TuneのJayda Gが前作で示したようなスポークンワードを用いたストリーテリングの要素、あるいはヒップホップのナラティヴな要素は続く「! EDIBLE THONG」のイントロのサンプリングの形で導入される。


前曲と同じように、この曲は、現在のロンドンで盛んなネオソウルの範疇にあり、Samphaのような抽象的なアンビエントに近い音像を用い、渋いトラックとして昇華している。アルバムの中では、最も美麗な瞬間が出現し、ピアノやディレイを掛けたアコースティックギターをサンプリングの一貫の要素として解釈することで生み出される。これらは例えば、WILCOとケイト・ルボンとの共同作業で生み出された、Bon Iverの次世代のレコーディングの手法であるミュージックコンクレートやカットアップ・コラージュのような前衛的な手法の系譜に位置づけられる。

 

他にも、続く「! MAVIS BEACON」ではアヴァン・ポップ(アヴァンギャルド・ポップ)の元祖であるBjorkの『Debut』で示されたハープのグリッサンドを駆使し、それらをジャズ的なニュアンスを通じてネオソウルやクラブ・ミュージック(EDM)の一貫であるポップスとして昇華している。 


しかし、アルバムの中盤の収録曲を通じて示されるのは、クールダウンのためのクラブ・ミュージックである。たとえば、クラブフロアのチルアウトのような音楽が流れる屋外のスペースでよく聞かれるようなリラックスしたEDMは、このトラックにおいてはブリストルのトリップホップのようなアンニュイな感覚と掛け合わさり、特異な作風が生み出される。ボコーダーを用いたシーランのような録音、そして、それは続いて、AIの影響を込めた現代テクノロジーにおけるポピュラー音楽の新たな解釈という異なる意味に変化し、最終的には、 Roisin Murphy、Avalon Emersonを始めとするDJやクラブフロアにゆかりを持つアーティストのアヴァンポップの音楽性の次なる可能性が示されたとも見ることが出来る。そして実際的に、先鋭的なものが示されつつも、一貫して曲の中ではポピュラリティが重点に置かれていることも注目に値する。

 

最も驚いたのはクローズ「RRRate MY KAWAII CAKE」である。サヤ・グレイはブラジルのサンバをアヴァン・ポップの切り口から解釈し、ユニークな曲風に変化させている。そして伝統性や革新性の双方をセンスよく捉え、それらを刺激的なトラックとしてアウトプットさせている。 ジャズ、和風の音階進行、ミニマリズム、ヒップホップ、ブレイクビーツ、ダブ、ネオソウル、グレイ特有の独特な跳ね上がるボーカルのフレージング、これらすべてが渾然一体となり、音楽による特異な音響構造を作り上げ、メインストリームにいる他のアーティストを圧倒する。全面的に迸るような才覚、押さえつけがたいほどの熱量が、クローズには立ち込め、それはまたソロアーティストとして備わるべき性質のすべてを持ち合わせていることを表している。

 

このアルバムでは、ポップスの前衛性や革新性が示され、音楽の持つ本当の面白さが体験出来る。アルバムのリスニングは、富士急ハイランドのスリリングなアトラクションのようなエンターテイメントの悦楽がある。つまり、音楽の理想的なリスニングとは、受動的なものではなく、ライブのように、どこまでも純粋な能動的体験であるべきなのである。無論、惜しくもCHAIが示しきれなかった「KAWAII」という概念は、実は本作の方がはるかにリアリティーがあるのだ。

 

*Danny Brownの『Quaranta』と同じようにクローズのアウトロがオープナーの導入部となっており、実はこのアルバムは円環構造となっている。

 

 



90/100

 

 

「RRRate MY KAWAII CAKE」

 

 

 

 


Dana Gavansky(ダナ・ガヴァンスキー)が、新曲「Ears Were Growing」とミュージックビデオを発表した。この曲は、4月5日にリリースされるアルバム『LATE SLAP』からの三作目のシングル。


「"Ears Were Growing "は現実逃避者の夢で、同じ古いソファで同じ古い思考から抜け出せないという現実にスパイラル的に戻ってくる。憂鬱でネガティブな思考は、ひねくれた、しかし心地よい仲間、ストックホルム症候群のようなもの。トーキング・ヘッズのような曲を作ろうとしてこうなった」

 


「Ears Were Growing」

 

Saya Gray ©Dirty Hit

Saya Gray(サヤ・グレイ)は、昨年の『Qwerty EP』の続編となる『Qwerty II』を発表しました。Dirty Hitから3月28日にリリースされます。

 

発表と同時に、日系カナダ人アーティストは新曲「AA BOUQUET FOR YOUR 180 FACE」のジェニファー・チェン監督によるビデオを公開しました。ストリーミングはこちら。以下よりチェックしてみてください。


プレスリリースの中で、グレイは『Qwerty II』を 「前半の陰と陽のようなアイデアとコラージュのコレクション」と表現しています。彼女はさらに、「"180 face”は”qwerty ii EP”からの私のベース・モーメントで、180の顔を持つ不気味なムードのある少年について歌っている」と付け加えました。







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Torres 『What An Enormous Room』


 

Label: Merge

Release: 2024/1/26

 

 

Listen/ Stream

 

 

Review

 

ポピュラー音楽の最良の選択


 マッケンジー・スコットによるソロ・プロジェクト、TORRESは近年、盛り上がりをみせつつあるシンセ・ポップをソロシンガーとして探求している。

 

 しかし、月並みにシンセ・ポップと言っても色々なスタイルがあって、ニューヨークのマーガレット・ソーンのような実験的なエクスペリメンタルポップや、ロンドンのmuizyuのような摩訶不思議な世界観を織り交ぜたゲームサウンドの延長線上にあるエレクトロ・ポップ、Fenne Lilyのようなフォークを基調とする柔らかい甘口のインディーポップ、そしてメタルやノイズ、はては、ベッドルームポップまでを網羅するYeuleなど、アウトプットされるスタイルは年々、細分化しつつある。ダンスミュージックを実験的なサウンドて包み込むキャロライン・ポラチェック、DJセットの延長線上にあるエクスペリメンタルポップアーティスト、アヴァロン・エマーソンというように、枚挙に暇がない。よりノイジーなハイパーポップになれば、FKA Twigs、リナ・サワヤマやChali XCXとなるわけで、その細分化を追うことはほぼ不可能である。

 

 トーレスに関しては、やはりニューヨークのシンセポップのウェイブに位置づけられる音楽の体現者/継承者であり、それらのメインストリームとアンダーグランドの中間層にあるバランスの取れたシンセポップをこのアルバムで展開している。 序盤におけるこれらのバランスの取れたスタイルには、過剰なダイナミックス性やカリスマ性、そして圧倒的な歌唱力は期待するべくもないが、軽く聞けると同時に、聴き応えもあるという相乗効果を発揮している。シリアスになりすぎないポップス、感情を左右しないフラットなシンセ・ポップをお好みの方にとって『What An Enormous Room』は最良の選択となるかもしれない。

 

 トーレスは、エヴァロン・エマーソンのようなバリバリのフロアで鳴らしたDJではないのだが、他方、80年代の懐古的なブラックミュージックをポピュラーサウンドに上手い具合に織り込んでいる。まさしく「Happy Man’s Shoes」は、ファンクの影響を内包させた軽快なダンス・チューンを下地にし、このシンガーの特徴であるクールな感じのボーカルが搭載される。フィルターを薄くかけたボーカルに関しては、歌手としての主体性にそれほど重きをおかず、ダンス・チューンの雰囲気や曲の空気感を尊重しようという控えめなスタイルである。

 

 一見すると、きらびやかな印象ばかりが表向きにフィーチャーされる現代的なポピュラーシーンにあり、トーレスの曲そのものはいくらか地味というか、少し華やかさに欠けるような印象を覚えるかもしれない。しかし、音楽フリークとしての隠れたシンガーの特徴は続く「Life As We Don't Know It」に出現し、忘れかけられた1970年代のニューウェイブの音楽性を、みずからのポケットにこっそり忍ばせて、それをやはり軽快なシンセポップという形で展開させる。そして、それらのグルーブ感をグイグイ押し上げるかのようにダンスビートを覿面に反映させたトラックに、ポスト・パンク的なボーカルのフレーズをこっそり織り交ぜるのである。このボーカリストとしてのしたたかな表現性になんらかの魅力を感じても、それは多分思い違いではない。

 

 「I Got Fear」はハイパーポップに象徴されるノイズの影響を込めたダンサンブルなシンセポップで、現代的なポピュラー音楽を好むリスナーにとっては共感をもたらすかもしれない。コラージュ的な再構成によるアコースティックギターの録音に、トーレスは内面の感覚を織り交ぜようとするが、それは驚くほどシンプルであり、無駄なものが削ぎ落とされているため、スタイリッシュな印象を覚える。そしてバンガーのような展開を無理に作ろうとしないこと、これが曲そのもののスムーズな進行を妨げず、驚くほど耳にメロディーが馴染むというわけなのである。つまり、シンガーソングライターとしての自然体な表現がシンプルな質感を伴い、親しみやすい感覚を生み出す。

 

 その後も、耳障りの良いポピュラー・ソングが続く。「WAKE TO FLOWERS」については、現代のニューヨークのモダンポップスの範疇にあるアプローチと言える。知ったかぶりで語るのは申し訳ないと思うが、 この曲では近年のポップスの複雑化とは対極に位置する簡素化に焦点が絞られ、無駄な脚色が徹底して削ぎ落とされている。ベースとドラム、トーレスのボーカルという現代的な音楽として考えると、少し寂しさすら覚えるような音楽であるのに、驚くほど軽妙な質感を持って聴覚を捉える。そして、トーレスのボーカルに関しても、マーガレット・ソーンのように爽やかさがある。さらに、曲の終盤では、ノイジーなギターが入るが、それは決して曲の雰囲気を壊すこともなければ、マッケンジーのボーカルの清涼感を壊すこともない。

 

 上記のシンプルさに徹そうというアプローチは、IDM寄りの電子音楽と結びつけられる場合もある。「UGLY MYSTERY」では、レトロなシンセと混ざり合い、トーレスの優しげなボーカルの質感と合致するとき、内に秘められた密かなドラマティック性を呼び起こす瞬間がある。また、それほど即効性のあるポピュラー音楽のアプローチを選んでいないにもかかわらず、じんわりと胸に響くエモーションが込められている。それはR&Bのようなマディーな渋みとまではいかないが、マッケンジーのスモーキーで深みのあるボーカルによってもたらされる。


そして、フレーズを歌い飛ばすのではなく、しっかりと歌いこんでいるという録音の印象が、聞き手の興味を惹き付ける。これらの印象は、表面的な派手さとは別の「深み」という音楽の持つ魅力的な側面を生み出すことがある。そして、マッケンジーは、それまでエネルギーを溜め込んでいたかのように、続く「COLLECT」で一挙にその秘めたエネルギーを爆発させ、アンセミックなポピュラー・ソング、つまり、フローレンス・ウェルチに比する迫力を持つ大掛かりなポップ・バンガーに鋭く変貌させる。この変わり身の早さともいうべきか、一挙に音楽の印象が激変する瞬間に、このアルバムの最大の醍醐味が求められる。それまで長いあいだ、歌手としての才覚の牙を研ぎつつ、表舞台にでていく日を待ち望んでいたかのようでもあるのだ。

 

 驚くべき変身振りをみせたシンガーは、その流れに逆らわず、スムーズに波に乗っていく。「Artifical Limits」では、それをさらにエクスペリメンタルポップに傾倒した現代的なプロダクションに変化させ、 ヴィンセントの時代のシンセ・ポップの熱狂性を呼び覚まそうとしている。この曲もまたハイパーポップ/エクスペリメンタルポップの属するノイジーさはあるが、シンプルな構成を重視することにより、聞きやすく掴みやすい音楽を生み出している。しかし、それらの王道の音楽性と気鋭の歌手としての微妙な立ち位置やポジションが個性的な雰囲気を持つのもまた事実である。

 

 アルバムの終盤でも一連の流れや勢いは衰えることなく、スムーズにクライマックスへと繋がっていく。「Jerk Into Joy」、「Forever Home」では同じように、ニューヨークのモダンな最前線のポップスを継承し、「Songbird Forever」においても、歌手としての才気煥発さは鳴りを潜めることはない。


他ジャンルとの融合という近年のポップスの主要なテーマを踏まえて、ピアノの現代音楽的なプロダクション、鳥の声のサンプリングというフィールドレコーディングの手法を活かしながら、ボーカルの清々しい空気感は、アルバムのクライマックスで遂に最高潮に達する。それらは最終的に、クリアな感覚を生み出し、トーレスが、同地のマギー・ロジャースに比肩する2020年代を象徴付けるシンガーソングライターになるのではないか、という期待感を抱かせる。

 


86/100


 

Featured Track-「Jerk Into Joy」




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Weekly Music Feature


Hinako Omori


大森日向子 ©︎Luca Beiley


大森日向子にとって、シンセサイザーは潜在意識への入り口である。ロンドンを拠点に活動するアーティスト、プロデューサー、作曲家である彼女は、「シンセは、無菌的で厳かなものではありません」と話す。

 

「ストレスを感じると、シンセのチューニングが狂ってしまうことがあった。一度、シンセの調子が悪いのかと思って修理に出したことがあるんだけど、問題なかった。だから、私が座って何かを書くとき、出てくるものは何でも、その瞬間の私の気持ちに関係している。音楽は本当に私の感情の地図になる」


大絶賛されたデビュー作『a journey...』(2022年、Houndstooth)が、その癒しのサウンドで他者を癒すことをテーマにしていたとすれば、大森の次のアルバムは思いがけず、自分自身を癒すものとなった。stillness,softness...』の歌詞を振り返ると、「自分自身の中にある行き詰まりを発見し、それと平穏な感覚を得るための内なる旅でした」と彼女は言う。


大森はとりわけ、シャドウ・セルフ、つまり私たちが隠している自分自身の暗い部分、そして自由になるためにはそれらと和解する必要があるという考えに心を奪われた。「自分自身との関係は一貫しており、それが癒されれば、そこから素晴らしいものが生まれるのです」と彼女は付け加えた。


2022年のデビューアルバム「a journey...」で絶賛されて以来、大森日菜子はクラシック、エレクトロニック、アンビエントの境界線を曖昧にし、イギリスで最も魅力的なブレイクスルー・ミュージシャンの一人となった。

 

日本古来の森林浴の儀式にインスパイアされたコンセプト・アルバム「a journey...」は、自然に根ざしたみずみずしいテクスチャーで、Pitchforkに「驚くべき」と評され、BBC 6Musicでもヘビーローテーションされた。以後、ベス・オートン、アンナ・メレディス、青葉市子のサポートや、BBCラジオ3の『Unclassified』で60人編成のオーケストラと共演、今年末にはロサンゼルスのハリウッド・ボウルで、はフローティング・ポインツのアンサンブルに加わり、故ファロア・サンダースとのコラボ・アルバム『Promises』を演奏する。


「stillness、softness...」は、大森のアナログ・シンセの世界ーー、すなわち、彼女のProphet '08、Moog Voyager、そしてバイノーラルで3Dシミュレートされたサウンドを生み出すアナログ・ハイブリッド・シンセサイザー、UDO Super 6ーーの新たな音域を探求している。このアルバムは、彼女の前作よりもダークで広がりがあり、ノワールのようにシアトリカル。デビュー作がインストゥルメンタル中心だったのに対して、本作ではヴォーカルが前面に出ており、「より傷つきやすくなっている」と彼女は説明している。夢と現実、孤独、自分自身との再会、そして最終的には自分自身の中に強さを見出すというテーマについて、彼女は口を開いている。


大森は「静けさ、柔らかさ...」を「実験のコラージュ」と呼び、それを「パズルのように」つなぎ合わせ、それぞれの曲が思い出の部屋を表している。最終的にはシームレスで、13のヴィネットが互いに出たり入ったりする連続的なサイクルとなっている。「とてもDIYだったわ」と彼女は笑う。「誰も起こしたくなかったから、マイクに向かってささやいたの」


大森は日本で生まれたが、ロンドン南部で育ち、サリー大学でサウンド・エンジニアリングを学習した。彼女がマシン・ミュージックに興味を持ち始めたのは、それ以前の大学時代、アナログ・シンセサイザーを授業で紹介した教師のおかげだった。「好奇心に火がつきました」と大森は説明する。


「クラシック・ピアノを習って育った私が、初めてシンセサイザーに出会った瞬間、完全に引き込まれました。シンセサイザーでは、サウンドを真に造形することができる。それまで考えたこともなかったような、無限の表現の可能性が広がった」


大学卒業後、大森はEOB、ジェイムス・ベイ、KTタンストール、ジョージア、カエ・テンペストといったインディーズ・ミュージシャンやアリーナ・アクトのツアー・バンドに参加した。「これらの経験から多くのことを学びました」と大森は言う。「素晴らしいアーティストたちとの仕事がなかったら、今のようなことをする自信はなかったと思います」 


彼女の自信はまだ発展途上だというが、それは本作が物語っている部分でもある。タイトルは "静寂、柔らかさ... " だけど、このアルバムは成長するために自分自身を不快にさせることをテーマにしている。「それは隠していたいこと、恥ずかしいと思うことを受け入れるということなのです」と彼女は言う。


アルバム全体を通して、大森はこれまでで最も親しみやすく、作曲家、アーティスト、アレンジャー、ヴォーカリスト、そしてシンセサイザーの名手としての彼女の真価が発揮された1枚となっている。このアルバムは、タイトル・トラックで締めくくられ、ひとつのサイクルを完成させている。


「自分の中にある平和な状態を呼び起こすような曲にしたかった」と大森。「毛布のようなもので、とても穏やかで、心を落ち着かせるものだと思っています」。その柔らかさこそが究極の強さなのであり、自分自身と他者への愛と思いやりをもって人生を導いてくれるものなのだ」と彼女は言う。




「stillness、softness...」/Houndstooth

 

大森日向子は既に知られているように、日本/横浜出身のミュージシャンであり、サウスロンドンに移住しています。


厳密に言えば、海外の人物といえますが、実は、聞くところによれば、休暇の際にはよく日本に遊びにくるらしく、そんなときは本屋巡りをしたりするという。ロンドン在住であるものの、少なからず日本に対して愛着を持っていることは疑いのないことでしょう。知る限りでは、大森日向子は元々はシンセ奏者としてロンドンのシーンに登場し、2019年にデビューEP『Auraelia』を発表、続いて、2022年には『A Journey...』をリリースした。早くからPitchforkはこのアーティストを高く評価し、ピッチフォーク・フェスティバル・ロンドンでのライブアクトを行っています。

 

エクスペリメンタルポップというジャンルがイギリスや海外の音楽産業の主要な地域で盛んなのは事実で、このジャンルは基本的に、最終的にはポピュラー・ミュージックとしてアウトプットされるのが常ではあるものの、その中にはほとんど無数と言って良いくらい数多くの音楽性が内包されています。エレクトロニックはもちろん、ラップやソウル、考えられるすべての音楽が含まれている。リズムも複雑な場合が多く、予想出来ないようなダイナミックな展開やフレーズの運行となる場合が多い。このジャンルで、メタルやノイズの要素が入ってくると、ハイパーポップというジャンルになる。ロンドンのSawayamaや日本の春ねむりなどが該当します。

 

先行シングルを聴いた感じではそれほど鮮烈なイメージもなかったものの、実際にアルバムを紐解いてみると、凄まじさを通りこして呆然となったのが昨夜深夜すぎでした。私の場合は並行してデ・ラ・ソウルやビースティー・ボーイズのプロデューサーと作品をリリースを手掛けているラップアーティストとのやりとりをしながらの試聴となりましたが、私の頭の中は完全にカオスとなっていて、現在の状況的なものがこのアルバムを前にして、そのすべてが本来の意味を失い、そして、すぐさま色褪せていく。そんな気がしたものでした。少なくとも、そういった衝撃的な感覚を授けてくれるアルバムにはめったに出会うことが出来ません。このアルバム「stillness,softness…」の重要な特徴は、今週始めに紹介したロンドンのロックバンド、Me Rexのアルバムで使用されていた曲間にあるコンマ数秒のタイムラグを消し、一連の長大なエレクトロニックの叙事詩のような感じで、13のヴィネットが展開されていくということなのです。

 

アルバムには、独特な空気感が漂っています。それは近年のポピュラー音楽としては類稀なドゥームとゴシックの要素がエレクトロニックとポップスの中に織り交ぜられているとも解釈出来る。前者は本来、メタルの要素であり、後者は、ポスト・パンクの要素。それらを大森日向子は、ポップネスという観点から見直しています。このアルバムに触れたリスナーはおしなべてその異様な感覚の打たれることは必須となりますが、その世界観の序章となるのが、オープニングを飾る「both directions?」です。ここでは従来からアーティストみずからの得意とするアナログ・シンセのインストゥルメンタルで始まる。シンプルな音色が選択されていますが、音色をまるで感情の波のように操り、アルバムの持つ世界を強固にリードしていく。アンビエント風のトラックですが、そこには暗鬱さの中に奇妙な癒やしが反映されています。聞き手は現実的な世界を離れて、本作の持つミステリアスな音像空間に魅了されずにはいられないのです。

 

続いて、劇的なボーカル・トラックがそのインタリュードに続く。#2「ember」は、アンビエント/ダウンテンポ風のイントロを起点として、 テリー・ライリーのようなシンセサイザーのミニマルの要素を緻密に組み合わせながら、強大なウェイブを徐々に作りあげ、最終的には、ダイナミックなエクスペリメンタル・ポップへと移行していく。 シンセサイザーのアルペジエーターを元にして、Floating Pointsが去年発表していた壮大な宇宙的な感覚を擁するエレクトロニックを親しみやすいメロディーと融合させて、それらの感情の波を掻い潜るように大森は艶やかさのあるボーカルを披露しています。描出される世界観は壮大さを感じさせますが、一方で、それを繊細な感覚と融合させ、ポピュラー・ミュージックの最前線を示している。それらの表現性を強調するのが、大森の透き通るような歌声であり、ビブラートでありハミングなのです。これらの音楽性は、よく聴き込んで見るとわかるが、奇妙な癒やしの感覚に充ちています。

 

このアルバムには創造性のきらめきが随所に散りばめられていることがわかる。そしてその1つ目のポイントは、シンセサイザーのアルペジエーターの導入にある。シンセに関しては、私自身は専門性に乏しいものの、#3「stalactities」では繊細な音の粒子のようなものが明瞭となり、曲の後半では、音そのものがダイヤモンドのように光り出すような錯覚を覚えるに違いありません。不用意にスピリチュアルな性質について言及するのは避けるべきかとも思いますが、少なくとも、シンセの音色の細やかな音の組み合わせは、精妙な感覚を有しています。これらの感覚は当初、微小なものであるのにも関わらず、曲の後半では、その光が拡大していき、最初に覆っていた暗闇をそのまばゆいばかりの光が覆い尽くしていくかのような神秘性に充ちている。

 

 「cyanotype memories」

  

 

 

続く「cyanotype memories」は、アルバムの序盤に訪れるハイライトとなるでしょう。実際に前曲の内在的なテーマがその真価を見せる。イントロの前衛的なシンセの音の配置の後、ロンドンの最前線のポピュラー・ミュージックの影響を反映させたダイナミックなフレーズへと移行していく。そして、アルバム序盤のゴシックともドゥームとも付かないアンニュイな感覚から離れ、温かみのあるポップスへとその音楽性は変化する。エレクトロニックとポップスを融合させた上で、大森はそれらをライリーを彷彿とさせるミニマリズムとして処理し、微細なマテリアルは次第に断続的なウェイブを作り、そしてそのウェイブを徐々に上昇させていき、曲の後半では、ほのかな温かみを帯びる切ないフレーズやボーカルラインが出現します。トラック制作の道のりをアーティストとともに歩み、ともに体感するような感覚は、聞き手の心に深く共鳴を与え、曲の最後のアンセミックな瞬間へと引き上げていくかのような感覚に充ちている。この曲にはシンガーソングライターとしての蓄積された経験が深く反映されていると言えます。 

 

 

 

#5「in limbo」では、テリー・ライリー(現在、日本/山梨に移住 お寺で少人数のワークショップを開催することもある)のシンセのミニマルな技法を癒やしに満ちたエレクトロニックに昇華しています。そこにはアーティストの最初期のクラシックへの親和性も見られ、バッハの『平均律クラヴィーア』の前奏曲に見受けられるミニマルな要素を現代の音楽家としてどのように解釈するかというテーマも見出される。平均律は元は音楽的な教育のために書かれた曲であるのですが、以前聞いたところによると、音楽大学を目指す学習者の癒やしのような意味を持つという。本来は、教材として制作されたものでありながら、音楽としての最高の楽しみが用意されている平均律と同じように、シンセの分散和音の連なりは正調の響きを有しています。素晴らしいと思うのは、自身のボーカルを加えることにより、その衒学性を衒うのではなく、音楽を一般的に開けたものにしていることです。前衛的なエレクトロニックと古典的なポップネスの融合は、前曲と同じように、聞き手に癒やしに充ちた感覚を与える。それはミニマルな構成が連なることで、アンビエントというジャンルに直結しているから。そして、それはループ的なサウンドではありながら、バリエーションの技法を駆使することにより、曲の後半でイントロとはまったく異なる広々とした空へ舞い上がるような開けた展開へとつながっています。

 

 

#6「epigraph…」では、アンビエントのトラックへと移行し、アルバムの序盤のゴシック/ドゥーム調のサウンドへと回帰する。考えようによっては、オープナーのヴァリエーションの意味を持っています。しかし、抽象的なアンビエントの中に導入されるボーカルのコラージュは、James Blakeの初期の作品に登場するボーカルのデモーニッシュな響きのイメージと重なる瞬間がある。そして最終的に、ミニマルな構成はアンビエントから、Sara Davachiの描くようなゴシック的なドローンを込めたシンセサイザー・ミュージックへと変遷を辿っていく。しかし、他曲と同じように制作者はスタイリッシュかつ聴きやすい曲に仕上げており、またアルバム全体として見たときに、オープニングと同様に効果的なエフェクトを及ぼしていることがわかるはずです。 

 

 

「foundation」



しかし、一瞬、目の前に現れたデモーニッシュなイメージは消えさり、#7「foundation」では、それと立ち代わりにギリシャ神話で描かれるような神話的な美しい世界が立ち現れる。安らいだボーカルを生かしたアンビエントですが、ボーカルラインの美麗さとシンセサイザーの演奏の巧みさは化学反応を起こし、エンジェリックな瞬間、あるいはそのイメージを呼び起こす。音楽的にはダウンテンポに近い抽象的なビートを好む印象のある制作者ではありながら、この曲では珍しくダブステップの複雑なリズム構成を取り入れ、それを最終的にエクスペリメンタルポップとして昇華しています。しかし、ここには、マンチェスターのAndy Stottと彼のピアノ教師であるAlison Skidmoreとのコラボレーション「Faith In Strangers」に見られるようなワイアードな和らぎと安らぎにあふれている。そして、それらの清涼感とアンニュイさを併せ持つ大森の歌声は、イントロからまったく想像も出来ない神々しさのある領域へとたどりつく。そして、それはダンスミュージックという制作者の得意とする形で昇華されている。背後のビートを強調しながら、ドライブ感のある展開へと導くソングライティングの素晴らしさはもちろん、ポップスとしてのメロディーの運びは、聞き手に至福の瞬間をもたらすに違いありません。

 

アルバムのイメージは曲ごとに変わり、レビュアーが、これと決めつけることを避けるかのようです。そしてゴシックやドゥームの要素とともに、ある種の面妖な雰囲気はこの後にも受け継がれる。続く、#8「in full bloom」では、アーティストのルーツであるクラシックの要素を元に、シンセサイザーとピアノの音色を組み合わせ、親しみやすいポピュラー音楽へと移行する。しかし、昨晩聴いて不思議だったのは、ミニマルな構成の中に、奇妙な哀感や切なさが漂っている。それはもしかすると、大森自身のボーカルがシンセと一体となり、ひとつの感情表現という形で完成されているがゆえなのかもしれません。途中、感情的な切なさは最高潮に達し、その後、意外にもその感覚はフラットなものに変化し、比較的落ち着いた感じでアウトロに続いていく。

 

 

前の曲もベストトラックのひとつですが、続く「a structure」はベストトラックを超えて壮絶としか言いようがありません。ここではファラオ・サンダースやフローティング・ポインツとの制作、そして青葉市子のライブサポートなどの経験が色濃く反映されている。ミニマル・ミュージックとしての集大成は、Final Fantasyのオープニングのテーマ曲を彷彿とさせるチップチューンの要素を絶妙に散りばめつつ、それをOneohtrix Point NeverやFloating Pointsの楽曲を思わせる壮大な電子音楽の交響曲という形に繋がっていく。本来、それは固定観念に過ぎないのだけれど、ジャンルという枠組みを制作者は取り払い、その中にポップス、クラシック、エレクトロニック・ダンス・ミュージック、それらすべてを混合し、本来、音楽には境目や境界が存在しないことを示し、多様性という概念の本質に迫っていく。特に、アウトロにかけての独創的な音の運びに、シンセサイザー奏者として、彼女がいかに傑出しているかが表されているのです。

 

アヴァンギャルドなエレクトロニックのアプローチを収めた「astral」については、シンセサイザーの音色としては説明しがたい部分もあります。これらのシンセサイザーの演奏が、それがソフトウェアによるのか、もしくはハードウェアによるのかまでは言及出来ません。しかし、Tone 2の「Gladiator 2」の音色を彷彿とさせる、近未来的なエレクトロニックの要素を散りばめ、従来のダンス・ミュージックやエレクトロニックというジャンルに革命を起こそうとしています。アンビエントのような抽象的な音像を主要な特徴としており、その中には奇妙なクールな雰囲気が漂っている。これはこのアーティストにしか出し得ない「味」とでも称すべきでしょう。

 

 

これらの深く濃密なテーマが織り交ぜられたアルバムは、いよいよほとんど序盤の収録曲からは想像もできない領域に差し掛かり、さらに深化していき、ある意味では真実性を反映した終盤部へと続いていきます。「an ode to your heart」では驚くべきことに、日本の環境音楽の先駆者、吉村弘が奏でたようなアンビエントの原初的な魅力に迫り、いよいよ「epilogue...」にたどり着く。ホメーロスの「イーリアス」、ダンテ・アリギエーリの「神曲」のような長大な叙事詩、そういった古典的かつ普遍性のある作品に触れた際にしか感じとることが難しい、圧倒されるような感覚は、エピローグで、クライマックスを迎える。海のゆらめきのようにやさしさのあるシンセサイザーのウェイブが、大森の歌声と重なり、それがワンネスになる時、心休まるような温かな瞬間が呼び覚まされる。その感覚は、クローズで、タイトル曲であり、コーダの役割を持つ「stillness,softness…」においても続きます。海の上で揺られるようなオーガニックな感覚は、アルバムのミステリアスな側面に対する重要なカウンターポイントを形成しています。

 

 

100/100

 

 

Hinako Omori(大森日向子)のニューアルバム「stillness,softness…」は、Houdstoothより発売中です。

 Anjimile 『The King』

 

Label: 4AD

Release: 2023/9/8



Review


アフリカ系アメリカ人、アンジミール・チサンボとは一体何者なのか。黒人としてアメリカに生きる意義を追い求めるもの、ジェンダーレスという軋轢によって切り離された家族間との絆を取り戻そうとするもの、また、シカゴのジム・オルークがガスター・デル・ソルの作品群を通じてもたらしたエクスペリメンタル・フォークの時計の針をポピュラー音楽の側面から次に進めようとするもの。実に広範な解釈の余地がある。そのいずれの推測も近からず遠からずなのだが、アンジミール・チサンボにとって音楽を制作することは、他の人とは別の重要な意味があることは疑いない。それは自らの不確かなジェンダーの探求であり、音楽の中にある体系的なものとの距離を埋め合わせることであり、自らのアイデンティティの確立でもあり、己が実存を取り巻く不可解な概念を再構築し、それらを明かにしていこうとする連続的な試みでもある。これらの試みが一体、どのような形で花開くのか、それは誰も知るよしもないことである。

 

前作は「祈りのアルバム」だったが、 今回は「呪詛のアルバム」と銘打たれている。不穏なイメージに取り巻かれてはいる音楽の中には、しかし、それとは正反対のハートフルな印象性が根付いている。アンジミール・チサンボは、かねてから自らのジェンダーレスという考えを巡って、母親との対立を深めていたという。そのせいもあってか、実際のところ、この完成したアルバムの音楽を母親にも聞かせていないという。してみれば、アンジミールにとって音楽制作とは単なるインフルエンサーとして名を馳せることにあるのではなく、家族間との失われた絆や不確かな黒人としてのルーツを取り戻すための試みなのである。そして、また彼の……、彼という言葉が相応しいのかまではわからないことだが、彼の音楽がブラック・カルチャーのいずれかの領域に属するからといって、また同時に、アンジミール自身が米国の現代的な文化性の中で生きる上で、さらに、黒人であるということはなんなのか、そのアイデンティティを追い求めているからと言って、アウトプットされる音楽が必ずしもソウルでもヒップホップになるとはかぎらないということが分かる。長らく、ヒップホップやソウルは黒人であることのひとつのステータスのようになっていたものと思われるが、UKのエレクトロニック・プロデューサー、ロレイン・ジェイムス、LAのアーロ・パークスを見ても分かる通り、2000年代まではそうだったかもしれないが、それは今や偏見に変わりつつあるといえるだろう。今や、ブラックミュージックの表現方法は、人の数だけ異なり、それぞれに個性的な魅力が内包されているのだ。

 

そして、アンジミール・チサンボの音楽は、ソウル、ジャズ・ラップ・ポップ、エレクトロニックにとどまっていたブラック・ミュージックが、今や、モダン・クラシカルという本来は白人世界の音楽だったクラシックやフォークの領域にまで、表現の裾野を伸ばそうとしていることを示唆している。これはそれがすべて正しいとまでは思わないが、反レイシズムや人種の公平性という考えが掲げられた後の世界的な時代の流れを鑑みると、当然のことであるといえるし、例えば、イギリスでは、この試みが推進されていて、黒人のみで構成されたオーケストラ楽団も存在するくらいなのだ。長らく不思議でならなかったのは、これまでマイルス・デイヴィスのように、ニューヨークのジュリアード音楽院のような、白人世界の音楽形式を体系的に学んだとしても、その表現形態はもっとも冒険的なところで、スタンダード・ジャズの領域にとどまっていた。名だたる巨匠とはいえど、そこには見えない壁が立ちはだかっていたのだ。それらの冒険的な反抗心は、アヴァンギャルドという形として昇華されるにとどまった。おそらくマイルスは、どこかの時代でクラシカルを演奏したかったのだ。そして、この流れは今後より拍車がかかると思われる。そのうち、コンサートホールで指揮台に立つ姿を見てみたいものだ。


さて、アンジミール・チサンボの新作アルバムは、現代的な問題にまつわるレイシズムという蓋に覆われた音楽的な概念の束縛からの開放という、見過ごしがたい意味が込められている。それは、白人であるから一定の音楽を演奏するというわけでもなく、ましてや、有色人種であるから、あるジャンルの音楽を志向するというのでもなく、それらの固定観念からの開放を意味している。音楽の方から制作者が選ばれ、アーティストが自発的にそれを望み、自分の好きな音を探求するという指針である。そして、アンジミール本人は、あるべき未来の音楽の形式をこの作品を通じて模範的に示そうとする。確かに、そこには他の形ではどうにも吐露することのかなわぬ内的な怨嗟もあり、実際、「呪詛的なアルバム」と説明されてはいるものの、蓋を開けてみれば、意外にも聴きやすく、あまりにポピュラーなため、肩透かしを食らうことは必須だ。

 

例えば、タイトル曲「The King」において、フィリップ・グラス、テリー・ライリーのミニマルミュージックの影響が示されている。彼の音楽には、アフリカ音楽からの影響が感じられるが、この曲ではそれらのオーガニックな雰囲気が立ち込め、そして、最終的にロック・オペラの形に昇華されている。英雄的なイメージを全生涯にわたって片時も崩さなかったフレディー・マーキュリーとは対極にある、プレスリリースの写真で提示されたアンジミールの角を生やした悪魔的な印象は、このオープナーで面白いように立ち消えてしまい、それとは別の高らかな感覚が未然の虚妄を一瞬にして拭い去る。オーケストラのような劇的な起伏こそないが、なだらかな旋律の線を描き、アンジミール自身のボーカルが重なり合い、パルス状のシンセのようなエレクトロニカルな構成を形成し、アルバムのシアトリカルなイメージを引き立てている。

 

続く「Mother」は、ジェンダーレスによって失われた家族間の絆を回復しようとする試みである。アヴァン・ポップ風のイントロに続いて、断片的なギターラインを複合的に重ねあわせ、ビートを作りだしている。 それらのミニマル・ミュージックに根ざしたエレクトロニカを背後に歌われるアンジミールのボーカルは、ポップとしてのアンセミックな性格を帯びる瞬間もあれば、オペラのような抑揚に変わることもある。いわば、一定の形を取らず、アンジミールのボーカルは、その局面ごとに別の生命体のようにかわり、音楽の印象を様変わりさせていくのだ。

 

「Anybody」は一転して、インディー・フォーク/エクスペリメンタル・フォークの性質が示されている。シンプルなアルペジオに加わる古典的なフルートのような音色は民族音楽の性格が反映されている。Led ZeppelinのプロダクションとBig Starのプロダクションを掛け合せ、メジャーでもないインディーでもないアンビバレントなイメージをもたらす。アンジミールのボーカルもフォーク歌手ではなく、オペラ歌手のようなスタイルで歌われる。しかし、それはクラシカルのような旋律の劇的な跳躍や、人を酔わせるような技巧性には乏しいのに、なぜかオーガニックな印象を与え、同時に大陸的な感慨が示されている。それらの雄大な感覚はむしろ、コーラスとアーティストの歌声の繊細性と融合した時、ボーカリストとしての真価を発揮し、力強い存在感を持つに至る。そしてその瞬間、アンジミールの本当のすがたを見出せるのである。

 

アンジミールは、「Genesis」で、エクルペリメンタルポップのまだ見ぬ領域を切り開こうとする。この曲では、Black Heart Processionが『Amore Del Tropicco』というアルバムの収録曲「The Water #4」で示したトイ・ピアノのような音色が使用されているが、アンジミールのボーカルは、その音響的な特殊効果の演出によって奇妙な寂寥感と哀感を生み出す。そしてこれらの実験的な要素は、オーケストラ・ヒットにようなパーカッションの効果、さらに亡霊的なアンジミールのコーラスによってミステリアスな空気感が呼び覚まされる。男性的とも女性的ともつかない中性的なアーティストの感覚が鮮やかな実験的なポップ音楽という形で組み上げられている。

 

「Animal」は、アルバムの最大のハイライトとも称したとしても違和感がない。5/8とも称するべきアフリカ音楽に触発された変則的なリズムの要素も魅力ではある。一方のアンジミールのボーカルもハートフルな質感が込められ、アンセミックな音響性を生み出す瞬間もある。そしてこの曲の最も興味を惹かれる点を挙げるとするなら、音楽の表向きの印象はきわめて前衛的でありながら、メロディーやフレーズの反復性の中に、奇妙な親和性が包まれていることだろう。バロック・ポップやチャンバー・ポップのフレーズ、あるいはまた、ソフト・ロックからのフレーズの引用があるのかどうかは定かではないが、温和なノスタルジアを呼び覚ます奇異な瞬間があることに驚きを覚える。それは、アーティストが、内的な感覚を躊躇わず外側にむけて開放しようとしているがゆえに生ずるのだ。たとえ、それが一般的に理解されないことであるとしても、アンジミールはみずからの感覚をしかと直視し、大切に、そして丹念に歌いこもうとしている。やがて、アーティストのスピリットが歌声そのものに乗り移り、ハートウォーミングな雰囲気を生み出す。きわめて個人的な感覚が歌われていて、しかも、それは必ずしも大衆的な感覚に根ざしているというわけでもない。ところが、それがある種、理論的に説明しがたい共感性を呼び起こす。これがアンジミールの音楽のミステリアスな部分でもあると思う。

 

 

 

 

「Father」では「Anybody」と同じく、フォーク音楽のナチュラルな温かみを思わせるものがある。モダン・フォークの模範例である同じレーベルに所属するBig Thiefの音楽性とそれほど掛け離れたものではないが、ここでは、アンジミールの繊細なアコースティックギターのアルペジオがフィーチャーされている。その上に、アーティストの内的な感覚を秘めたボーカルが丹念に歌われる。そしてこの曲は、「Mother」と同じように、家族間の信頼や愛情を彼の手に取り戻す試みでもある。おそらく家族の誰かがこの曲を聞けば、「Good」と評してくれるのではないか。この曲では、アーティストのミステリアスな側面とは裏腹に、親しみやすい姿を見出すことが出来る。特に、それは繊細なフィンガーピッキングにより、温かみのあるフレーズがこの曲の主要なイメージを組み上げる。アルバムの中でもほっこりした気分になれるナンバーだ。

 

アーティストとしての真骨頂は続く「Harley」にも見いだせる。アンビエント風のイントロからシネマティックな壮大なイメージを引き出し、アルバムの他の収録曲と同じように、ハートウォーミングなアンジミールのボーカルが哀感を誘う。バックトラックのシークエンスはアブストラクトな雰囲気に浸されているが、そのバックトラックを背に歌われるアンジミールのボーカルは、古典的なバラードやオペラのようだ。しかし、中音域や低音域が強い安定感のあるアンジミールのボーカルは、ベテランのバリトン歌手のように聞かせる部分もある。そして抽象的でシネマティックなサウンドスケープに溶け込むようにして、アンジミールのボーカルもまた演劇の登場人物であるかのように、その全体的な音像の舞台をところ狭しと駆けめぐるのだ。 

 

 

 

 

続く「Black Hole」はエクスペリメンタルポップの最前線を示す。複雑なリズムやポストモダニズムに触発された抽象的なヴォーカルは言わずもがな、その中にボーカルやギターのサンプリングを駆使して、エスニックな雰囲気を呼び覚ましている。これらは、まだその可能性が断片的に示されたにすぎないが、一方で、何か新しい音楽が含まれているという気にもさせる。ビョークが「Fossora」で示したポピュラー音楽の前衛性を黒人シンガーとして再解釈したような一曲である。こういった前衛的な形式がどのような形で完成を見るのか期待させるものがある。

 

「I Pray」ではアンジミールから白人へのカルチャーに敬意が支えられている。 ニール・ヤングを始めとするコンテンポラリー・フォークは、黒人から支持を得るようになった事実を示している。これはフォーク音楽が本来、白人のための音楽であったことを考えると、時代が変わり、音楽の可能性が押し広げられた瞬間でもある。アンジミールは、古い時代に思いを馳せるかのような亡霊的なコーラスを交え、音楽そのものに種別はないことを示唆する。そしてアンジミールは、これらのポストフォークとも言えるアプローチやプロセスの中で、前衛性を生み出す際のヒントは、実のところは古典の中に求められるのではないかという可能性を暗示している。

 

「The Right」では、アンジミールにとってボーカル・アートとは何であるのかが端的に示されている。アルバムの中では、文字通り、最もアーティスティックなトラックで、ボーカルのテクスチャーを構造的に組み合わせ、アルバムの表面的な印象とは異なるミステリアスな部分を強調する。これはたぶん、アーティストにとっての現代音楽の表現形式の一つなのである。つまり、モダン・クラシックを制作することが、今や黒人アーティストにとってさほど新奇ではなくなったという事実を表している。この動きは今後も堰き止められることはなく、誰かが受け継いでいくことになると思う。現時点でのアンジミールの音楽は、洗練されているとも完成されているとも言いがたい。しかし、であるが故に、このアルバムの音楽に、大きな期待感を抱かざるを得ない。そして、最早、音楽というのは、ある人種の専売特許ではなくなりつつあることが分かる。どのような階級の人も、どのような人種も、また、どのようなジェンダーを持つ人ですら、その気になれば、いかなる音楽へアクセスすることが可能になったのだ。そういった意味では、アンジミールは時代の要請を受け登場したアーティストであり、この最新作には、現代の音楽のウェイヴやカルチャーが極めてシンプルな形で反映されていると言えるのだ。



82/100


 Tenniscoats  『Totemo Aimasyo」

 

 


Label: Room 40

Release :2023/9/1  


Review



2007年に発表されたアートポップユニット、Tenniscoatsの「とてもあいましょう」がデモ・トラックを追加収録したバージョン、続いて15周年記念バージョンが明日(9月8日)発売される。このリリースに関して、 Room 30のレーベルオーナーのLawrence Englishは次のように振り返っている。

 

00年代初頭のある時、当時、日本に住んでいたジョン・チャントラーが、東京で知り合ったミュージシャン、テニスコーツと録音したばかりの不思議な音源を送ってくれた。これが、その後長年の友人となり、音のインスピレーションの源泉となったサヤと植野を私が初めて知るきっかけとなったんだ。



2005年、メルボルンのガイ・ブラックマンとのつながりで、テニスコーツはオーストラリア・ツアーを敢行した。フォーティテュード・バレーのリックス・カフェで開催された彼らのショーは、歌、即興、そしてメロディーの自由が乱れ飛ぶ、とても刺激的な内容だった。公演後、サヤ、植野、ドラマーの岸田良成は、さらに数日間ブリスベンに滞在して、この間に『トテモアイマショウ』の大部分がレコーディングされた。



レコーディング自体は、友人のハインツ・リーグラーが小さなレコーディング・スペースを設けたオフィス・ビルを再利用して行われた。さまざまなオフィスを、やや隔離された録音ゾーンとして使用する許しを得た。その結果、驚くほど豊かな音楽になった。これはまさしくオフィスの部屋の設計の賜物であると私は考えている。

 


Tenniscoatsは、スコットランドのThe Pastelsとのコラボで知られ、ユニットの植野隆司さんは、Deerhoofのベーシスト、サトミ・マツザキとのユニットとしても活動する。海外のネオアコシーンやアートロックシーンとも関わりの深い音楽家である。もちろん、ネオアコ/ギターポップシーンに詳しい方ならご存知のはず。1996年頃から活動する伝説的なアートポップ・ユニットである。

 

 『Totemo Aimasyo』に関しては、当時、そういった認識があったかまでは定かではないが、現在のフォークトロニカ/トイトロニカ/ジャズトロニカに近い音楽に属している。ノルウェーやアイスランドの北欧のエレクトロニカ、mum、もしくはグラフィック・デザイナーとしても活動しているKim Horthoy(キム・ホーソイ)等のエレクトロニカ系のアーティストの音楽に近い。 

 

しかし、当初、NYのレーベルからデビューした最初期のトクマル・シューゴの音楽観のようなおもちゃ、ピアニカ/アコーディオンといった楽器をエレクトロサウンドの中にセンスよく織り交ぜているという点では、やはり、テニスコーツは日本らしいアートポップ・ユニットなのである。音楽性に関しては、Homecomings、Predawnの源流にある美しくも儚い童話的な日本語のポップス/フォークに属する。加えて、日本語の昭和時代の歌謡曲の影響であったり、また、日本語による言葉遊び、もっと言えば、言語的な実験等、言葉に関する感性の豊かさを尊重するという側面では、Deerhoofのサトミ・マツザキと同じような手法を選ぶことが多い。つまり、テニスコーツの歌詞は、いつもやさしげな響きがあり、日本語の温かさを実感させてくれるのだ。


2000年代に聴いた時には、ジーナ・バーチのレインコーツと同様、さっぱり理解不能であったテニスコーツの音楽ではあるが、時を経て、ギターポップ、ネオ・アコースティック、アヴァン・ジャズや実験的なエレクトロニック、エクスペリメンタル・ポップを聴くうちに、テニスコーツが何をやろうとしているかが分かるようになった。ただ、わかるようになったとはいえ、それも全容を把握したというわけではなく、外的な側面を捉えたに過ぎないのかもしれない。


オープニングを飾る「ハッカ」から、童話的な子供むけの絵本のような可愛らしい音の世界が展開される。ピアノのシンプルな演奏で、それはジャズの即興のように気安さがあるが、テニスコーツが描き出そうするのは、どこまでもやさしく、いつくしみに充ちた世界観。導入部に続き、「オーロラ・カーテンズ」では、パン・フルートのような音色を用いた抽象的なテクスチャーが続く。ゆったりとしていて、余白の多い音楽なので、自由自在にイメージを膨らませられる。続いて、アンビエントのシークエンスにテープ・ディレイの効果を交えた実験的なエレクトロニカのフレーズを取り入れながら、テニスコーツは巧みなエレクトロニカのフレーズによって、タイトルの「オーロラのカーテン」という神秘的な世界を探索していこうとする。

 

続く、「囲」は、ボーカル・トラックで、ここでは柔らかなアート・ポップの音楽性に転じている。ボーカルに続いて、ジャズ風の金管楽器(アルトサックス)の自由なフレーズが加わり、構造的なエレクトロのフレーズを絡め、ジャズトロニカ/トイトロニカに近い前衛的な音楽性へと昇華させる。手法的にはかなり実験的ではあるものの、mumに比する童話的なサウンドスケープが表現され、その上に、サヤの器楽的なボーカルが加わる。メインボーカルではありながら、コーラスの手法を用いることによって、音楽そのものを抽象的なボーカル・アートの世界に導く。それらのポップスともジャズとも、エレクトロニックともつかない不均衡な音楽的な感性は、一見、相容れないようで、劇的な融合を果たしている。 言葉単体では大きな意味を持たないのに、異なるジャンルの音楽の混淆の中に、言葉以上の重要な文脈が含まれているような気にさせる。それはサブテクスト的な意味を持つボーカル・アートとも言えるのだろう。

 

これらの日本語の言葉の実験は、次の曲「君になりたい」でさらに顕著になる。「サラサラ」、「サヨナラ」という言葉自体だけでは大きな意味を持たないけれども、そのシンプルな言葉を続けることによって背後にある伏在的なイメージや印象を膨らませ、物語性をもたらす瞬間がある。これこそ、日本語の持つ凄さというものではないか。そして、これは例えば、サトミ・マガエがデビュー作の『AWA』(レビューはこちら)で示した、言語的な実験性に近い。そして、この実験性は、ジャズ的な要素に加えて、トイトロニカに近い遊び心溢れる音楽的な手法を通じて、心はずませるような楽しい音楽へと変化していく。テニスコーツは、音楽という言葉の語源である「音を楽しむ」ということの重要性をあらためて思い出させてくれるのだ。

 

「ブルーム」は、アルバムの序盤の収録曲のなかで最も実験性の高い楽曲である。当時としてはそれほど定着していなかったコンピューターの信号のエラーにより生ずるグリッチ/ノイズをいち早く取り入れているのに驚きをおぼえるが、その実験性は、金属的なパーカッションの導入とボーカルのハミングが独特な雰囲気を生み出す。また、木管楽器(フルート)がボーカルの音階とユニゾンで合わさる時、奇妙な倍音が生じさせる。アヴァンギャルドではありながら、現在のエクスペリメンタル・ポップの源流を形成する画期的な一曲と言えるのではないだろうか。

 

「ドナ・ドナ」をもじったと思われる「ドンナ・ドンナ」は、スコットランドのThe Pastelsとの共同制作を行っていることからも分かる通り、テニスコーツのオルト・フォーク/ネオアコに対する傾倒が伺える。しかし、「ドナ・ドナ」を彷彿とさせる単調のイントロは、パーカッションや吹奏楽の演奏が加わるやいなや、スペインのジプシーの流しの楽団の、中世のヨーロッパの街角で聞かれたような舞楽的な踊りの音楽に近づく。ボーカルの音階の進行は、確かにドナドナのように暗いのだけれども、その一方で、リズムの方は楽しげな雰囲気に充ちている。また、この曲に楽しげな雰囲気をもたらしているのが、正体不明の吹奏楽の演奏で、この点については、ニューオリンズのジャズ(ビッグ・バンド)の原始的なセッションに近い雰囲気もある。

 

本作におけるテニスコーツの音楽性は、一定のジャンルに規定されることはほとんどないように思える。「実例」では、レトロではありながら、実験的な電子音楽の魅力を示している。シンセサイザーの音色のトーンが、トレモロのようにぐらぐらと揺らいでいき、摩訶不思議な世界観を生み出す。モジュラー・シンセによって作り出したヴィブラフォン風の音色が、マレット・シンセのような音色に変化する。これが、打楽器的とも旋律的ともつかない不可思議な音像空間へ導かれる。これらのシンセの演奏は、電子音楽の即興演奏のような感じで続いていく。

 

かと思えば、「正午前に」では、ニューヨークのJohn Zohnを彷彿とさせるアヴァンギャルド・ジャズの世界に踏み入れる。トーン・クラスターのように断続的、あるいは、破砕的なシンセの要素が続き、その合間に、捉えがたいアルト・サックスの即興的なビブラート(その後にはスタッカートに変化する)が加わる。そして、それはやがて前衛的なフレージングに変化していき、多重的なパーカッションやシンセのシークエンスを散りばめ、ドローンに近い不可思議な音楽へと変化していくようになる。カール・シュトックハウゼンの考案した、セリエリズムやクラスターは、現在でいうミクロな音形を集約した「ドローン」を志向していたのではないか。これらの十二音技法にもよく似た前衛的なサックスを中心とする演奏の断片的な連続性は、John Zohn,Barre Phillipsが『Mountainscape』で探索していたような実験性に近づいていく。

 

一転して、「ひれい 5-22」では、 プリペイド・ピアノやディレイを用いた実験音楽の領域に差し掛かる。これらのピアノの音の可能性の探求は、アンビエント/エレクトロニカにも近い雰囲気がある。演奏される音階は一貫して抽象的であるが、それらがグリッチノイズと掛け合わさるやいなや、癒やしと安らぎに充ちた音楽へと変化する。例えば、Aphex Twinが『Syro』の時代に探求した実験的なピアノ音楽とエレクトロニックの融合を2000年代に率先して取り組んでいる点には脱帽するよりほかあるまい。そして、ピアノやノイズ、シークエンスといったそれらの複合的な要素は、サウンド・スケープを呼び覚ますに足る換気力に満ちあふれている。

 

続く「らせん」は、 「君になりたい」と同じく、ボーカルトラックで、歌謡曲や童話的な音楽の世界観を擁している。J-Pop的な音楽性もありながら、微妙に音程をずらしたりすることで音楽性そのものに不均衡な印象を付加している。そして、クラスタートーン風のシンセが、そのアンビバレントな感覚を強調している。最初のモチーフは、曲の中盤で、変奏的な展開を交えて開いていく。これらのフレーズの変容も面白いが、日本語ボーカルを介してビョークを彷彿とさせるアートポップの境地を開拓しているのにも注目しておきたい。さらに、曲の展開は、複数のコラボレーターの演奏により、大掛かりでシアトリカルな音楽性へと発展していく。これは、タイトルに見受けられるように、メインボーカルを取り巻くようにして、ギターをはじめとする演奏がらせん状にひろがり、ボーカルの持つ雰囲気や印象性を高めているようにも思える。

 

「ミドリ」は、ワールド・ミュージックに属していて、いくらか奇異な印象を受ける。ベラ・バルトークの東欧の民謡や、コーカサス地方の作曲家/神秘思想家、ゲオルギイ・グルジエフの東欧の音楽性や、それにまつわる神秘性を彷彿とさせる。Oudのような民族的な弦楽器を使用することで、イスラム圏のエキゾチズムを思わせるのはもちろんのこと、ハンガリー/ポーランドの民間伝承的な音楽に代表される舞楽的な音楽(ポルカ)の要素を兼ね備えている。Oudのような弦楽器にチュニジアで使用される木管楽器の演奏が加わり、そのエキゾチズム性は最高潮に達する。

 

この後に続く、デジタルバージョンに追加に収録されているデモ・トラックに関しては、レビューを割愛したい。アルバムのクローズとして収録される「最初やるには」では、スコットランドのThe Pastelsを思わせるネオ・アコースティック/ギター・ポップの音楽性の真髄を示している。The Vaselinesを思わせる牧歌的な雰囲気の魅力もさることながら、ユニットの柔らかで温かい音楽性を味わうのに最適。可愛らしい音楽性から、実験的な音楽性、ワールド・ミュージックの要素等、多岐にわたるテニスコーツの音楽性を網羅するアルバム。入門編としてもオススメ。

 

 

 

 86/100

 

 *今回のレビューは、9月1日にデジタル・リリースされたデモトラックを追加収録したバージョンを元に行っています。明日発売のbandcampでリリースされる15th Anniversaryのデジタル・バージョンとは収録曲及び収録曲の順序が異なります。

 


 

アンジマイルの2ndアルバム『The King』のリリースが数日後に迫った。これまでにタイトル・トラック、"Father"、"Animal "を公開している。そして今回、ボストンを拠点に活動するこのミュージシャンは、"Black Hole "を発表した。


他のリリース曲と同様、この曲の歌詞は力強く印象的だ。「死にゆく星々の光が私をときめかせる/地球上のどんな男も私を満たすことはできないと信じている」と、彼は没入感のある超現実的な楽器をバックに歌う。"私たちの愛より下のものは、内気で影/雪の毛布のように霧深い"。


アンジマイルはインスタグラムで、この曲は "観測可能な宇宙とその先の神秘、荘厳さ、メロディーへの尽きない憧れからインスパイアされた "と説明している。また、ビッグ・シーフのジェイムス・クリフチェニアがドラムに、ジャスティン・ボウがプロデュースに参加している。その他、ブラッド・アレン・ウィリアムズ、サム・ゲンデルがレコーディングに参加している。


「Giver Takerが祈りのアルバムなら、The Kingは呪いのアルバムだ」とアンジマイルは声明で述べた。大胆不敵なプロテスト・トラック "Animal "から、傷つきやすいバラード "Father "に至るまで、ダークで呪術的なサウンドはこの感覚を包み込んでいる。"Father "は、「2016年初めにリハビリ施設に行き、断酒する前、している間、そしてした後に、私を支えようとしてくれた両親への感謝と愛のジェスチャーのようなものとして、両親を思って書いた」と彼は語っている。

 

Anjimileのニューアルバム『The King』は、今週金曜日(9月8日)に4ADから発売される。

 

 

「Black Hole」

 

©Shervin Lainez

アンジマイル(Anjimile)は、次作『The King』から新曲「Animal」をリリースした。  先に発表されたタイトル曲「Father」に続くこの曲は、2020年の夏に書かれたもので、ジョージ・フロイドの死について言及している。ロビー・オペラマン監督によるビデオも公開されている。


Anjimileのニューアルバム『The King』は4ADより9月8日にリリースされる。

 

 

「Animal」

©Gabrielle Giguère

 

リジー・パウエル率いるモントリオールを拠点とするプロジェクト、ランド・オブ・トークがニューアルバム『Performances』を発表した。

 

サドル・クリークから10月13日にリリースされ、ニュー・シングル「Your Beautiful Self」が先行公開された。アルバムのジャケットとトラックリスト、及び、リジー・パウエルの声明は以下の通り。


「ケベック州サットンに借りた友人の家でのセッションから生まれた曲だ。この曲にはエコー・アンド・ザ・バニーメンの『Under the Killing Moon』が少し入っている。

 

いろいろなスタジオで、いろいろな文脈で、この曲を作り直したんだけど、ギターをピアノに持ち替えたときに、本当にピンときたんだ。いろいろなものを取り除いて、自分に余裕を持たせることで、この曲はうまくいった。ここでは、アンチ・ヴィルトゥオーゾでありたかった。また、この曲では私の声がオクターブ上がっていて、とても楽しい。自分の声をあんなに低いところから出すのは、奇妙で楽しい個人的な挑戦だった」


「このアルバムにはエレクトリック・ギターのフィーリングがないとすぐに気づいた。最初は、何かが間違っているような気がした。『ランド・オブ・トーク』は、ギターと私がロックすることをテーマにしている。ランド・オブ・トークのレコードを大量のエレキ・ギターなしでやってもいいのだろうか? デモを作っては、"あれ、これはランド・オブ・トークっぽくないな "と思っていた。でも、最終的には自分がランド・オブ・トークであるということに気づいたんだ」

 

「これは、ランド・オブ・トークをこれまでのように取り戻すためのものなんだ。「僕らが作ってきた全てのアルバムは、僕自身がどのようにレコードを作りたいのかに一歩近づいただけなんだ。こんなアルバムは二度と作れないかもしれないけど、自分自身に対して挑戦する義務があると思った」

 

 「Your Beautiful Self」




Land Of Talk  『Performances』

 

Label: Saddle Creek

Release: 2023/10/13


Tracklist:


1. Intro (high bright high)
2. Your Beautiful Self
3. Fluorescent Blood
4. Marry It
5. Rainbow Protection
6. Clarinet dance jam
7. Sitcom
8. Semi-Precious
9. August 13
10. Pwintiques

©︎Joey Agresta

 

ベルギーのジャズ・ギター奏者、Zach Phillips、NYのヴォーカル/ラッパー、Ma Clementを中心とするDIYグループ、Fievel Is Glaque(フィーヴェル・イズ・グラーク)がFat Possumと契約を交わし、レーベル・デビュー作となるダブル・シングル「I'm Scanning Things I Can't See」、「Dark Dancing」を発表した。昨年、グループはStereolabのアクトの前座を努めたことで知られる。


この曲には、ジョーイ・アグレスタ監督によるショート・フィルムが付属しており、両曲のミュージック・ビデオと、ヴォーカリストのマ・クレマンとマルチ・インストゥルメンタリストのザック・フィリップスをフィーチャーした斜め上の物語が収録されている。「Dark Dancing」と「I'm Scanning Things I Can't See 」の2曲は、ジャジーなコードシフトと質感のあるベースとパーカッションに乗せて、シンセが揺れ、ヴォーカルが響き渡る。試聴は以下から。

 

 

「Dark Dancing」/「I'm Scanning Things I Can't See 」

 

©Luca Bailey


大森日向子が新作アルバム『stillness, softness...』を発表し、ニューシングル「cyanotype memories」を公開しました。アルバムは、Houndstoothから10月27日にリリースされる予定です。また新作には以前、公開されている2曲のシングル、「foundation」「in full bloom」が併録されます。


大森日向子は横浜出身で、現在ロンドンを拠点に音楽活動を行っています。ピッチフォーク・ミュージック・フェスティバル・ロンドンにも出演を果たし、一躍現地のシーンで注目を浴びるように。シンセサイザー奏者としても注目のアーティストです。


Thomas Harrington RawleとCathal Mckeonが監督した「cyanotpe memories」のビデオには、コンテンポラリー・ダンサーの川崎千尋が出演している。アルバムのカバーアート(高橋絵美による)とトラックリストは以下から。


「cyanotpe memories」は、大森曰く「私たちの内なる静けさに再びつながり、戻り、未知のものに身を委ねることをテーマにしています」


「しかし、自分の内なる羅針盤を信じるとき、物事は最も美しく、予期せぬ方法で私たちに明らかにされるようだ」


「シアノタイプ印刷のアイデアにも魅了されました。対象物を紙の上に置き、紫外線を当てるという行為で、光の下で対象物の焦点が合っている時間が長ければ長いほど、より強く、より詳細なイメージが紙の上に形成される。思考を集中させ、方向転換させることにより、脳内に新たな神経経路を作り出し、その反復がより強い経路を作り出すことに似ていると思ったのです」


このビジュアルについて、ハリントン・ロールは次のように付け加えた。「日向子とは何度か彼女のライブビジュアルで一緒に仕事をしたことがありますが、川崎千尋とのコラボレーションでその世界をさらに広げたいと思いました。日向子と私は、ダンスとポスト・プロセッシングのFXを通してシルエットを探求するアイデアについて話し合い、細い光のボルトを通してのみ明らかになる虚空の雰囲気を作り出した」

 

「cyanotype memories」




大森日向子(Hinako Omori) 『stillness, softness… 』





Label: Houndtooth

Release: 2023/9/27


Tracklist:


1. both directions ?


2. ember


3. stalactites


4. cyanotype memories


5. in limbo


6. epigraph…


7. foundation


8. in full bloom


9. a structure


10. astral


11. an ode to your heart


12. epilogue…


13. stillness, softness



 

Caroline Polachek

Caroline Polachek(キャロライン・ポラチェク)は、「Bunny Is A Rider」のリミックスバージョンを新たに公開した。

 

ポラチェックは今年、『Desire,I Want To Turn Into You』を発表しており、こちらはその週のベストアルバムに選ばれた。現時点のアートポップ/エクスペリメンタルポップのタイトルホルダーといえよう。

 

この曲は、キャロライン・ポラチェクの『Desire, I Want To Turn Into You』がリリースされるほぼ2年前の2021年にリリースされたときと同じように新鮮に聴こえる。このリリースはまだアーティストがバルセロナに活動拠点を移す以前の時代に録音された。今回、オリジナルに飽きてしまった人のために、このアート・ポップ界の大御所は、「Bunny」の2周年を記念して、Doss、Sega Bodega、Nikki Nairによる3つの新しいリミックス・バージョンを公開した。

 

キャロライン・ポラチェクの音楽そのものは非常に広汎なジャンルに彩られていることがこのリミックス・バージョンを聴くとよく分かる。


「Strawberry」の軽快なシューゲイザーから脱却した、Polache "Bunny "のリミックスでは、ドスはポラチェクの曲をブラックライト・テクノにアレンジしている。その一方で、Sega Bodegaの「UKG」リミックスはその名の通り「UKG」に仕上がっている。アトランタのプロデューサー、Nikki Nairによるこのバージョンは、最近の「UKG」のリミックスに使用されている。



リミックス全3曲は以下よりチェック。

 

©Luka Baily

 

ロンドンを拠点に活動する大森日向子がニューシングル「foundation」を発表した。この曲は先月の「in full bloom」に続くシングルで、エクスペリメンタルポップ調の新曲です。12月2日にロンドンのICAで行われるヘッドライン・ショーの発表と同時に発表された。試聴は以下からどうぞ。


「"foundation”は、私たちをユニークな道に導いてくれる直感と内なる導きを信頼することについての、私たち自身への手紙です」と、大森は声明の中で説明している。

 

「シングルのジャケットのアートワーク(デザインは高橋絵美による)に使われているのは、日本の骨董品店で見つけた仕掛け錠。蔵 "は私たちの心を表し、私たちが行き詰まった時、それを解決するのを邪魔するのは、私たち自身に課したトリックや障壁、そして、私たち自身の抑制なのだ」



大森のデビュー・アルバム『a journey...』は昨年リリースされた。その後、彼女は、ピッチフォーク・フェスティバル・ロンドンにも出演した。現在、Sawayama,Hatis Noitを中心に日本人女性の活躍が目立ちますが、大森日向子にも注目です。今後の活躍が楽しみにしましょう。

 

 

日本のエクスペリメンタルフォークアーティスト、Satomimagaeが福岡のアンビエント・プロデューサー、duennとのコラボレーションアルバム『境界 KYOKAI』を今週水曜日(6/21)に発表しました。


Satomimagae(サトミマガエ)は、 今年2月にデビューアルバム発売から十周年を記念する「awa」(Expanded)をRVNGより発表しています。一方のduenn(ダエン)は、ベルギーの実験音楽レーベル”Entr'acte”、大阪の”スローダウン・レコーズ”を始めとする複数の国内外のレーベルより作品を発表している。2017年、Merzbow、Nyantoraと共にエクスペリメンタル・ユニット「3RENSA 」を結成した。Nyantoraとアンビエントのイベント「Haradcore  Ambience」を共催している。

 

今回、イタリアのレーベル、Rohs! Recordsから発売されたニューアルバム『境界 Kyokai』は、 両者のコラボレーターの音楽的な個性が上手く合致している。アンビエントアーティスト、duennのアンビエント/エレクトロニックのトラックに、サトミマガエのアンニュイかつアブストラクトなボーカルが特徴の作品となっています。ロンドンの現代的なエレクトロニックや、エクスペリメンタル・ポップにも近い音楽性です。

 

“KYOKAI”は、duennとSatomimagaeによる初めてのコラボレーション作品である。2021年、duennとナカコー(Koji Nakamura: 青森出身の伝説的なインディーロックバンド、Supercar[スーパーカー]のフロントマン。現在はエレクトロニック・プロデューサーとして活躍している)が主催するイベント、”HARDCORE AMBIENCE”にSatomimagaeが出演したことをきっかけに始まったこのプロジェクトは、duennの実験的なアンビエントトラックにSatomimagaeがボーカルで参加し、シンプルな歌を加えていくことで、「異形のポップ・ミュージック」を目指す試みである。

 

コンセプトは「短歌(俳句)以上、音楽未満」で、音楽になる寸前の短い断片を集めたかのようなアルバムになっている。タイトルである「境界」はduennの通勤途中に立っていた標識に由来しており、身の回りに存在するいくつもの曖昧な境界線がこのアルバム全体のインスピレーションとなっている。


ニューアルバム『境界』は、デジタルストリーミング他、限定60枚のカセットテープでも販売されている。 アルバムのご購入はBandcampにて受付中です。duennさんのインタビュー記事はこちら。 Satomimagaeさんのインタビューはこちらからお読み下さい。


   


 

Satomimagae + duenn 『境界 Kyokai』 

 

Album Version

 

Cassette Version

Label: Rohs! Records

Release: 2023/6/21


Tracklist:

1. cave

2. air

3. wave

4. in

5. non1

6. fog

7. flow

8. gray

9. space

10. blue


Purchase(アルバムのご購入):


https://rohsrecords.bandcamp.com/album/kyokai

©Mélissa Gamache

 

モントリオールのエクスペリメンタル・ポップ・トリオ、Braids(ブレイズ)は、今週金曜日、Secret Cityからニューアルバム『Euphoric Recall』をリリースする。今回、彼らはアルバムの4枚目のシングル「Lucky Star」をミュージックビデオで公開しました。発売日前にチェックしてみてください。

 

シンガー/ギタリストのStandell-Prestonはプレスリリースで、「『Lucky Star』は長い時間をかけてバラバラに出来上がった。


モントリオールの容赦ない冬に音楽を書くのは簡単なことではありません。モントリオールの容赦ない冬に音楽を書くのは簡単ではありません。Taylorは、彼が取り組んでいた美しいシンセのループを私に見せ、歌詞とメロディがすぐに私の中から溢れ出てきました。それは、Euphoric Recallのほとんどのテイクがそうであるように、最初のテイクの瞬間の一つでした。

 

私はマイクを置き、テイラーにプロジェクトを終了するように頼みました、聞き返したくありませんでした。私たちは、何かをページに書き留めたことに満足して、雪の中を歩いて家に帰りました。


春が来て、私たちは再びプロジェクトを立ち上げた。冬の憂鬱が去り、モントリオールは、もう一回冬を乗り越えたような電気を感じるようになっていた。ラッキースター」は、暗闇の中で始まり、光の中で終わる。この曲は、私たちが個人として通過するさまざまな瞬間を思い起こさせます。直線的なものなんてないんだ。


以前のプレスリリースでは、ニューアルバムの詳細について次のように説明しています。「より自由で、全く新しい取り組みである5枚目のスタジオ・アルバムは、トリオが戦略を捨て、それを焼き払い、愛の記録を実現することを発見する。愛、そのすべて、束縛されない至福、芽生える衝動、そして厄介な不完全性、超新星は、大胆でメロディック、シンフォニックなポップソング群の中で渦を巻き、現在に委ねられている」


スタンデル=プレストンは、「心のスペースをいかに開拓するかは、追求するものの結果にとって極めて重要です。安全で、愛されていると感じ、愛するという意図を持って活動しているとき、私たちは本当に興味深い場所にアクセスすることができると思います」と付け加えている。


Braidsは、『Euphoric Recall』の作曲、録音、セルフプロデュース、ミックスをモントリオールのスタジオ、Studio Toute Garnieで行いました。

 

「Lucky Star」

 aus 『Everis』

 


 

Label: FLAU

Release: 2023/4/26



Review

 

 

おそらくリワーク、リミックス作品等を除くと、フルレングスとしては2009年以来のニューアルバム『Everis』でausはカムバックを果たす。


ausは東京のレーベル"FLAU”の主宰者でもあり、ポスト・クラシカルやモダンクラシカルを始めとするリリースを率先して行っている。しかしご本人に話を伺ったところでは、あるジャンルを規定しているというわけではなく、幅広いジャンルの良質なリリースをコンセプトに置いているという話である。

 

かなり久しぶりのフルアルバムは、レーベルオーナー/アーティストとしてどのような意味を持つのだろうか?

 

少なくとも、アルバムに触れてみた時点の最初の印象としては、前作のフルレングスの延長線上にあるようでいて、その実、まったく異なるジャンルへのアプローチも窺い知ることが出来る。

 

これはもちろん、そのミュージシャンとしての空白の期間において、アーティストがまったく音楽に関して没交渉ではなかったこと、つまり、リリースしていなくとも、ミュージシャンでない期間はほとんどなかった、という雰囲気を伺わせるのである。アンビエント風のイントロからはじまる「Halser Weiter」から続くのは、時間という不可解な概念を取り巻く抽象的なエレクトロニカであり、また、喩えるなら、このジャンルをひとつの大掛かりなキャンバスのように見立て、その見えない空間に電子音楽というアーティストの得意とする形式によって絵筆をふるおうというのだ。そして、それは作品という空間の中で様々な形で音楽という概念が流れていく。少なくとも、自分の考えとしては、それほど以前のようにジャンルを規定せず、現時点の自らの力量を通じ、どのような音楽が生み出されるのかを実験していったようにも感じられる。

 

先行シングルとして公開された「Landia」は、実際にアーティストご本人に伝えておいたのだが、春の雰囲気を感じさせるトラックで、麗しい空気感に満ちている。かつてのレイ・ハラカミの「lust」の作風にも通じる柔らかなシンセのアプローチは聞き手の心を和ませる。ダウンテンポやハウスの影響を交えたこのシングルは、終盤のコーラスにより、アーティスト自身がテーマに込めたフォークロアの要素を盛り上げる。そして、この民謡のようなコーラスは確かにノスタルジックな雰囲気を漂わせており、古い日本の町並みや、黄昏のお祭りの中を歩くかのような郷愁がこめられている。

 

その後は、パーカッシヴな効果を取り入れ、さらに、既存の作品よりもミニマル・ミュージックの要素を取り入れた「Past Form」では、スティーヴ・ライヒや、フィリップ・グラスの現代音楽の要素をエレクトロニカの観点からどのように組み直そうか苦心したように思える。そして、ausはその中にアバンギャルド・ジャズの要素を部分的に導入し、そのミニマルの反復的な平坦なイメージの中にアクセントをもたらそうとしている。 終盤では、シンセサイザーのストリングスのレガートを導入することで、ミニマルの中にストーリー性をもたらそうとしているようにも感じられる。

 

アルバムの中で最もミステリアスな感覚を漂わせているのが、「Steps」である。ここでは、コラボレーターのGutevolk(アート・リンゼイ、ヨ・ラ・テンゴの前座も務めたことがある)が参加し、イントロのチェンバロのような繊細な叙情性を掻き立てる。そして、イントロの後は、一つのジャンルを規定しないクロスオーバーの音楽性に繋がる。Gutevolkのボーカルはアンニュイな効果を与え、アヴァン・ポップを絡めた前衛的なボーカルトラックとして昇華される。捉え方によってはボーカルトラックを、アヴァン・ポップをよく知るアーティストとしてどのように組み直すことが出来るかに挑んだように思える。そして、そのアンビエントの要素を多分に含んだ音楽性は、最初のチェンバロに近い音色に掛け合わさることにより、最後でノイズに近い前衛的な雰囲気をもたらすことに成功している。

 

続く、「Make Me Me」ではさらに別の領域へと足を踏み入れ、アシッド・ハウスやトリップ・ホップ、ローファイヒップホップの要素を絡めた一曲を生み出している。ここでもまた、クラシカルの要素を加味し、コラボレーターのGrand Salvoのボーカルが加わることで、アヴァン・ポップへと繋がっていく。ただ、このボーカルは前曲とは異なり、ニュージャズや現代的なオペラのように格式高い声楽の要素が込められている。暗鬱な雰囲気に彩られているが、何かしら傷んだ心をやさしく労るような慰めが漂っている。そして、バックトラックのアシッド・ハウス寄りのビートがその雰囲気を盛り立てる。続く「Flo」は、前曲のトリップホップの気風を受け継ぎ、それをモダンクラシカルの要素を交えることで、アルバムの中で最も幻想的な空間を生み出している。そして、それは形而上の深い領域へと音楽そのものが向かっていくようにも思える。

 

後半部にかけては、 「Make Me Me」の後に続くアルバムの前半部の雰囲気とは一風異なる真夜中のような雰囲気を持ったトラックが続く。


「Swim」ではピアノの響きを取り入れながら、それをポストモダニズムの要素、ノイズやリズムの破壊という観点からアバンギャルドな雰囲気を持つアンビエンスを取り入れている。そして、意外にもそれほどニッチにもマニアックにならず、すっと耳に入ってくる何かがある。この曲にも部分的にボーカルのサンプリングが導入されるが、それはポーティスヘッドのような陶酔した雰囲気や蠱惑的な雰囲気に彩られているのである。


この曲以降は、一気呵成に書いた連曲のような形式が続き、一貫性があり、連続した世界観を作り出している。ただ、最後の曲「Neanic」だけは、静かなポスト・クラシカルの曲として楽しめる。この曲だけは2010年前後の作風に近いものが感じられ、最後にアーティストらしいアンビエントという形でクライマックスを迎える。

 

しかし、果たしてこれらの音楽は十年前に存在したものだったのだろうか。いや、少なくとも数年前からこのアーティストの音楽を知る者にとってはその印象はまったく異なっている。世界が変わったのか、それともミュージシャンが変わったのか、きっとその両方なのかもしれない。


ぜひこのニューアルバムを通じて、日本のエレクトロニカアーティストの凄さを実感していただきたい。

 

 80/100

 

 

  ausの新作アルバム『Everis』はFLAUから発売中です。全曲のご購入/ストリーミングはこちらから。


 Yves Tumor  『Praise A Lord Who Chews But Which Does Not Consume; (Or Simply, Hot Between Worlds) 』

 

 

Label: Warp Records

Release Date: 2023年3月17日

 


 

 

Review

 

前作『Heaven To A Tortured Mind』でエクスペリメンタル・ポップの旗手としてワープ・レコーズから名乗りを上げたYves Tumor。二作目でどういった革新的なアプローチで聞き手を惑乱するのかと予想していたら、2ndアルバムはクラシカルなシンセポップへとシフトチェンジを果たした。

 

デビューアルバムでは、ブレイクビーツを駆使しながら、R&Bのサンプリングを織り交ぜ、実験的な領域を切り開いたYves Tumorだったが、今作でアーティストのエキセントリックな印象はなりを潜め、どちらかといえば土台のどっしりとしたロック/シンセ・ポップが今作の下地となっている。

 

「God Is A Circle」では、奇矯な悲鳴でいきなりリスナーを面食らわすが、それもアーティストらしい愛嬌とも言えるだろう。遊園地のアトラクションのように次になにが出てくるのかわからない感じがYves Tumorの魅力でもある。前作では前衛的な作風に取り組みつつ、その中にシンプルな4つ打ちのビートが音楽性の骨組みとなっていたが、そういったアーティストの音楽性の背景が前作よりも鮮明になったと言える。


2ndアルバムは、例えば、プリンスのようなグラム・ロックの後の時代を引き継いだシンセ・ポップ、ダンサンブルなビートとクラシカルなロックが融合し、それらがYves Tumorらしいユニークさによって縁取られている。そして、アーティストが意外に古き良きシンセ・ロックに影響を受けているらしいことも二曲目「Lovely Sewer」で理解出来る。70年代のSilver Applesを彷彿とさせるレトロなアナログシンセ風の音色は妙な懐かしさがある。そこにニューヨークのアンダーグランドの伝説、Suicideのようなロック寄りのアプローチが加わっている。この時代、アラン・ヴェガはアナログシンセひとつでもロック・ミュージックを再現出来ることを証明したわけだが、Yvesも同様に一人でこのようなバンドアンサンブルにも比する痛快なロックミュージックを構成出来ることを証明しているのだ。

 

しかし、アプローチがいくらか変更されたとはいえ、ファースト・アルバムの最大の魅力であったこのアーティストらしい雑多性、そしてクロスオーバー性はこの2ndにも引き継がれている。

 

3曲目の「Meteora Blues」では、ブルースと銘打っておきながら、インディーフォークに近い方向性で聞き手を驚愕させる。しかし、この曲に見受けられる聞きやすさ、親しみやすさは明らかにデビュー作にはなかった要素でもある。そして、この曲で明らかになるのは、Yvesのボーカルがグリッター・ロックのような艶やかな雰囲気を擁するのと同時に、その表面上の印象とは正反対に爽やかな印象に満ちていることである。以前のようなえぐみだけではなく、オルト・ポップに内在する涼やかな雰囲気をさらりとしたボーカルを通じて呼び起こすことに成功している。


アルバムの中盤の盛り上がりは「Heaven Surround Us Like A Hood」で訪れる。ここでは、タイトルにも見られるように、一作目の方向性を受け継ぎ、そこにロック風の熱狂性を加味している。一見すると、Slowthaiの書きそうな一曲にも思えるが、実はこれらのバックトラックを掠めるのは、Thin Lizzyのようなツインリードのハードロック調のギターであり、これらが新しいとも古いともつかない異質な音楽性として昇華されている。ノイズを突き出したシンセ・ロックという点では、やはり、近年のハイパー・ポップに属しているが、その最後にはこのアーティストの創造性の高さが伺える。轟音のノイズ・ポップの最後は奇妙な静寂が聞き手を迎え入れるのである。

 

さらに、「Operator」では、ザ・キラーズのようなパワフルかつ内省的な雰囲気をもったインディーロックで前曲のエネルギーを上昇させる。しかし、このトラックを核心にあるのは、やはりグリッター・ロックのきらびやかな雰囲気であり、Yvesの中性的なボーカルなのである。奇妙なトーンの変化で抑揚をつけるYvesのボーカルは、これらの分厚いベースラインとシンセリードを基調とした迫力満点のバックトラックと絡み合うようにし、ボーカルの強いエナジーとアジテーションで曲そのものに熱狂性を加味していくのである。さらに中盤から終盤にかけてそのエネルギーは常に上昇の一途を辿り、ライブに近いリアルな熱狂性を呼び覚ます。


終盤の展開の中でパワフルな印象を与える「Echlolia」も聴き逃がせない一曲となるはずだ。プリンスのようなドライブ感のあるバックビートを背に淡々と歌うYvesではあるが、そこには独特な内省的な雰囲気も感じ取る事ができる。それに加えて、ディープ・ハウスを基調にした分厚いグルーブとディスコ調のビートが組み合わさることにより、特異なハイパーポップが形成されている。以前のシンセ・ポップリバイバルを受け継ぎ、そこにドラムンベースの要素をセンス良く加味することで、ダンスミュージックの未来形をYvesは提示しているのだ。

 

アルバムのクライマックスに至ると、新しい要素はいくらか薄まり、一作目にもみられたブレイクビーツを駆使した曲に回帰する。「Purified By the Fire」では、ヒップホップ/R&Bのトラックをサンプラーとして処理したYvesらしい先鋭的な音楽性を垣間見られる。ここでアーティストは、エクスペリメンタルポップ/ハイパーポップの限界にチャレンジし、未知の境地を切り開いている。総じて本作は、Yvesの新奇性と前衛性を味わうのには最適な快作といえそうだ。


76/100