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1.プリンス誕生

 

 

ミネアポリスサウンドの原点はどこにあるのか?

 

 

Prince ‘purple rain’"Prince ‘purple rain’" by Stephen Alan Luff is licensed under CC BY 2.0

 

 

通称プリンス、プリンス・ロジャーズ・ネルソンは、アメリカ、ミネアポリスが生んだ最大のロックスターです。いわゆる、ミネアポリスサウンドの立役者といわれており、ロック、R&B、電子音楽、はてはヒップホップまでを取り込んだ、クロスオーバー・ミュージックの元祖ともいえるアーティストです。ここでは、プリンス・ロジャーズ・ネルソンのメジャーデビュー迄の道のりについて大まかに記していきます。


 

プリンスは、1958年6月7日、アメリカ、ミネソタ州ミネアポリスに生まれました。 プリンスという名は、後のミュージシャンとしての名でもあり、また、両親が彼に授けた本名でもあります。この王子という名はそもそも父親のジャズグループから取られたもので、ジョン・ルイスの思い、息子に素晴らしい音楽家になってもらいたい、という悲願が込められていたのです。

 

プリンスの両親、特に、父親のジョン・ルイス・ネルソン(John L Nelson)は、ジャズ演奏家として活躍した存在でした。1950年代、ジョン・ネルソンはピアノを弾き、ノースサイドのクラブやコミュニティセンターで演奏するジャズグループ、プリンス・ロジャー・トリオを率い、ストリップクラブの舞台裏でギグをし、ミュージックシーンで名をはせていました。ルイス・ネルソンは、フィリス・ホイートリー・ハウスと呼ばれる場所で、後にプリンスの母親となるマティー・デラ・ショーと出会い、彼女を自分のバンドで歌うように言った。その後、彼らはこの音楽グループの活動を通じて仲を深めていき、それは、ロマンチックな意味を持つに至る。後、ジョン・ルイス・ネルソンは1957年8月31日にデラ・ショーと結婚、その数カ月後に息子プリンスを授かる。

 

若い時代の最初の記憶について、プリンスは、晩年になって手掛けたこのように記しています。

 

「私達が住んでいた家には、 プリンスと呼ばれる存在が、実は二人いたんです。家計を率いるすべての責任を負っている年配の人間、そして、素行だけが面白い年下の人間」

 

プリンスは、家族内で”スキッパー”という愛称で親しまれ、上記のプリンス自身の言葉からも、家庭の中でも活発な気質をもつ子供であった。彼は、特に父親のルイス・ネルソンのピアノの演奏に触発され、父親からピアノ演奏の手ほどきを受けたようですが、ジョン・ルイスほどにはピアノは上達しなかったようです。また、プリンスは、幼い時代に、小児性てんかんを患っていましたが、成人する頃になると、その病を克服しています。後のプリンスの派手なパフォーマンスやステージングについては、この幼少期に培われた暮らしによるものが大きいようです。後に、ルイス・ネルソンとデラ・ショーは7歳の頃に離婚し、プリンスは父親方に引き取られます。

 

プリンスは、学生時代、ミネアポリス中央高校に通い、様々なスポーツに親しむようになります。サッカー、バスケットボール、野球をプレイし、中でも、バスケットボールに夢中になった。一度は、プロ選手になることを夢見ますが、身長が5フィート1インチという小柄な体格であったため、その道を断念する。

 

彼は、この後に、ジャズプレイヤーであった父親と同じように、ミュージシャンとしての道を歩むようになります。ハイスクール時代の二年生の半ば、プリンスはバスケットボールを辞め、音楽室でのジャムにあらゆる時間を捧げるようになる。しかし、彼は他の音楽好きの生徒のように、スクールバンドに参加したり、正式なレッスンを受けることはしなかった。それどころか、なんらかのグループに入ったり、体系的な音楽教育を受けることに対して嫌悪感を抱いていたようです。

 

このとき、プリンスは、楽譜が読めないミュージシャンとしての道、自由な気風のミュージシャンであることを選択した。この学生時代、プリンスは、さらに音楽にのめり込んでいき、あらゆる音楽を探求、吸収しようと、北ミネアポリスのAMラジオ曲KUXLでオンエアされているアーティストの楽曲、とりわけ、ジョニー・ミッチェル、マリア・マルダー、カルロス・サンタナ、そのほか、グランド・ファンク・レイルロード、スライ・ザ・ファミリー・ストーン、ジミ・ヘンドリックス。R&B,ソウル、ファンク、ロックを中心に聴いていたようです。

 

 この後、プリンスは、アンドレ・アンダーソン、そして、従兄弟であるチャールズ・チャズ・スミス、アンドレの妹であるリンダ・アンダーソンと協力し、”グランド・セントラル”という最初のミュージックグループを結成して、地元ミネアポリスを中心に、バンドとして活動をはじめています。


Grand Central



グランドセントラルは、近隣の対バンのショーケースで、悪名と自慢の程を競っていた。この頃の音楽活動について、ロジャー・ネルソンは、1981年になって、Aquarian Night Owlに以下のように語っています。

 

 

「私達は他のバンドと競い合うようにして活動していました。その理由は、同じようなバンドが地域内に混在していたからです。

 

多くの精神的なものが培われた時代でした。それは、私が自分自身から抜け出し、なにか新たな存在になり代わることに大変役立ったと思います。他のバンドから何かを模倣すると、大変な苦労を強いられましたし、コピーバンドに留まる事自体が困難だったのです。

 

本当に競争力というものが問われた時代だった。この時、私はできるだけ活動的になり、他の人と違った何かをせねばならず、そして、できるだけ多くの楽曲を積極的にプレイしなければならなかった。そうでなければ、音楽家として注目を浴びることすら出来なかったんです。

 


驚くべきことに、後に、世界的に有名となる”ミネアポリスサウンド”の萌芽は、このハイスクール時代に見いだされるわけです。ファンク、ロック、パンク、ディスコ、モダンミュージックとオールドミュージックのクロスオーバーサウンド。後の「パープル・レイン」や「1999」の時代に花開く、奇抜で斬新で艶やかなプリンスの音楽の雛形の原点は、この時代に求められるといえるでしょう。ハイスクールを卒業するまでに、プリンスはミネアポリスサウンドを開発し、そして、ミネソタからの脱出、さらに、世界的なミュージシャンとしてのスターダムへの階段を一歩ずつ着実に上っていた。そういった様子がこの時代のエピソードから明確に伺えるのです。

 

 

 

2.レコードデビューまでの足がかりを作る 

 

 

ミネソタとニューヨークの往復 

 

この頃から、ロジャーズ・ネルソンは、プロミュージシャンになるための目策を立て始めました。彼はレコード契約を結び、ヒット曲を生み出すためには、ミネアポリスから抜け出す必要があることを知っていました。
 
そこで、プリンスはハイスクールを卒業するまもなく、地元のソニー・トンプソンのバンド、ザ・ファミリー、グループ94イーストとのレコーディングセッションで得た資金を利用し、ニューヨークへの旅行計画を立てます。
 
 
Group 94 East

 
 
彼はこの計画を立ててからすぐに、ぺぺ・ウィリー、姉のシャロン・ネルソンと新天地に滞在、そしてレコード会社に自分自身の名を売り込むために、ニューヨーク市へのフライトを予約します。
 
 
しかし、ニューヨークに滞在していた頃、彼はコネクションを作るのに苦労し、容易にはレコードプロデューサーとの知己を得られずにいたようです。
 
 それから、プリンスは一度、ミネアポリスに戻り、クリス・ムーンと呼ばれる若いプロデューサーと一緒にデモテープを作製し、「Soft And Wet」という一曲を生み出します。プリンスはこの曲をライティングした際、すでにこの楽曲がミュージックシーンに強い影響を与えることを確信していました。
 
クリス・ムーンは、この楽曲「Soft And Wet」をオーウェン・ハズニーという著名なコンサートプロモーターに紹介し、プリンスという存在がいかに際立っているかを知らしめようとします。
 
 
 
Owen R.Husney 

 
 
すでに、音楽業界の大のベテランだったオーウェン・ハズニーは当時、ミネアポリスのローリングパーク地域で個人広告事務所を運営しており、なおかつまたレコードプロデューサーとしても活躍していて、何年にも渡り、数多くのデモテープを聴いて新人を発掘を行っていた人物です。
 
 
しかし、このプリンスのデモテープを聴いた瞬間、オーウェンは、凄まじい衝撃を受けたといいます。
 
このプリンスと名乗るハイスクールを卒業したばかりのアーティストが既存のミュージシャンとは全く逸脱した存在であることを見抜く。プリンスの提示する音楽は当時としてはあまりに革新的でした。
 
スライ・ザ・ファミリー・ストーン、ジミ・ヘンドリックス、サンタナ、といったファンクとロックの偉人たちを彷彿とさせ、ボーカルについても想像をはるかに上回り、強力でありながら繊細なファルセットが感じられたという。
 
オーウェン・ハズニーはプリンスの音楽を最初に聴いた時のことを、以下のように回想しています。
 
 
 
 
「ああ、これは何かが違う、すぐに気が付いた。私は楽曲「Soft And Wet」の再生を終えるや否や、デモテープを持参したクリスの方に向きなおった。
 
 
「ふうん。で、じゃあ、この曲は、どのバンドがやっているの?」と尋ねた。
 
 
クリスはこんなふうに言った。
 
 
「ああ、オーウェン。その曲を演奏しているのはバンドじゃあないんだ。そう、バンドではないんだ」

 
それで、私は釈然とせず言葉を継いだ。

 
「ああ。わかったぞ。これはスタジオ・ミュージシャンの集まりなんだな? うーん、でもなあ、私は正直なところ、スタジオ・ミュージシャンとは仕事をしたくないんだ。 なぜって彼らはツアーが出来ないじゃないか?」

 
「いや、オーウェン。本当に、これは、スタジオ・ミュージシャンが演奏しているわけじゃないんだよ。いいかい? 今から、僕が言うことをよーく聞いてくれ。この曲を演奏しているのは一人の少年だ。十八歳になったばかりのプリンスという少年だ。彼は、この曲のすべてを自分自身の手で演奏している。自分で歌い、すべての楽器を演奏しているんだ」
 
 
 
ミネアポリスの敏腕レコードプロデューサー、オーウェン・ハズニーのお眼鏡にかなったことにより、プリンスのレコードデビューへの道筋はついに開けたといえるでしょう。それから一週間程して、プリンスは、再び、ニューヨークからミネアポリスに戻る飛行機に乗り、ハズニーを介して、レコード契約を結ぶ。ハズニーは、プリンスと仕事を行い、ほとんど二十四時間体制で、彼の音楽活動をバックアップしました。それほどまでにこのプロモーターは、プリンスというもうすぐ18歳になろうかという年若い少年の音楽にただならぬ期待を寄せていたのです。
 
 その後、プリンスは、この専属に近い意義を持つレコード契約によって、アンダーソンズの地下室から、彼の地下室ともいえるミネアポリスのアパートメントを行き来しながら、楽曲の制作作業に専心する。
 
この頃、プリンスは、最初のプロミュージシャンとしての活路を見出すきっかけとなる知己を得ている。それが、”David Z”と呼ばれる、兄弟のミュージシャンでした。
 

 
David Zは、他でもなく、後に、プリンスの最初のレコード、「For You」リリースへの足がかりとなるデモテープ楽曲のエンジニアを務めたミュージシャンであり、ミネアポリスサウンドの原型を作ったプロデューサー、又は、立役者として、多くの人の記憶に残る必要がありそうです。

David Zのボビー・Z・リブキンは、ムーンサウンドスタジオ、そして、ハズニー広告代理店の双方に勤務していた人物で、プリンスのデビュー前の活動をサポートしていた重要な裏方ミュージシャンです。この後、プリンスのプロフィール用の写真撮影、また、彼のアーティストの予定を管理する専属マネージャーのような役割をも兼任し、また、実際に、バンドサウンドとしても重要な役目を果たし、プリンスのバンドで、ドラム演奏をするためのミュージシャンとして抜擢されています。
 
 
 
 

3. ワーナー・ブラザーズとの契約

 

 

デビュー・アルバム「For You」のリリース

 
 
David Z のボビーは、いざスタジオでプリンスとのセッションを始めると、とても18歳のアマチュアミュージシャンの若者とは思えないほどの演奏の熟練度に驚かされます。
 
 
 
プリンスがハズニーのオフィス内で楽器から楽器へと移動し、楽曲トラックのあらゆる要素を配置している時のことをこのように回想しています。
 

プリンスに出会った最初の一時間、私はどうしていたのかさえ覚えていない。ただ、私は目がくらみ、驚き、そして、彼の演奏に魅了されるだけだった。もちろん、あの時のことは、私にとって、生涯にわたり強い思い出として残っているんだ
 
 

夕方、プリンスは、オーウェン・ハズニーのオフィスでボビーと一緒にジャムセッションを繰り広げ、家具を演奏の邪魔にならぬように隅っこに押しやり、部屋のど真ん中にドラム、アンプリフターを据え置いた。朝日が昇ろうとする時、彼らは家具を元の位置に戻す必要がありました、なぜならそこは、他でもないオフィスであったからです。このようにして、ハズニーとボビーはプリンスに長い時間、プロレベルでの演奏をさせることで、プロミュージシャンになるための鍛錬の時を提供し、また、プリンスとジャムセッションを繰り返すことで、彼のレコードデビューの足がかりを作ったのです。


ミネアポリスのコンサートプロモーター、オーウェン・ハズニーは、プリンスのデビューへの機が熟したと見て、その道のりを開くためにロサンゼルスに向かう。ハズニーは、ワーナーブラザーズ、A&M、コロンビアとの会合を取り付けました。レコード会社側の反応は、軒並み好いもので、一週間以内に上記メジャー三社すべてが、プリンスと署名を行う最終決定を下しました。
 
 
その後一ヶ月以内に、オーウェン・ハズニーはこのメジャー最大手の三社の内から、ワーナー・ブラザーズを選択し、アルバム三作リリースの契約を取り付ける。オーウェンは間違いなく、プリンスという存在に、俳優としての潜在能力も見込んでいたため、ワーナーを選択したものと思われます。
 
 
そして、この時のオーウェン・ハズニーの決断は、のちのプリンスの自伝映画的な意義をなす「Purple Rain」、そして、サウンドトラックの商業的な大成功を見るかぎり、彼のこの時の決断は、疑いなくプリンスの明るい未来を約束したものでした。その後、トントン拍子で事は運んでいき、プリンスがワーナーのスタッフ20名との昼食会に参加した際、ついに、プリンス・ロジャーズ・ネルソンは、弱冠18歳という若さにして、ワーナーとの契約に正式に署名を果たす。この時のことについて、オーウェン・ハズニーは以下のような諧謔みを交えて回想をしています。
 
 
そうです。この時のワーナーブラザーズとの昼食会での契約は、確かに、プリンスの人生を変えた瞬間といえるかもしれません。しかし、はたから見てみれば、プリンスはこの昼食会を、それほど心から楽しんでいたようには見えませんでしたね。なぜなら、天性のスーパースターである彼にとっては、20人と昼食をともにするより、12000人の大観客の前で演奏をするほうが、はるかに心楽しいことであるはずなんですから


ほどなく、プリンスは他の殆どの言語よりも流暢な話法、つまり、メジャーレーベルとの契約に浮かれることなく、音楽制作に専心し、レコードデビューのために新しい曲を書き始め、レコーディングを開始します。
 
 
 
「I Hope We Work It Out」のプリンス直筆歌詞



このワーナーのスタッフとの重要な昼食会の後、プリンスは、ワーナーブラザーズの幹部をオーウェン・ハズニーのオフィスに連れていき、すでにデモテープとして完成していた「I Hope We Work It Out」を聴かせました。


この時、正式にアーティストデビューもしていない若者、プリンス・ロジャーズ・ネルソンの「I Hope We Work It Out」に接した時のワーナーブラザーズの幹部の驚愕について、オーウェン・ハズニーは、以下のように回想しています。
 
 
十八歳のまだ何者でもない若者が、レコードレーベルのために特別に楽曲を書いた、という事実に、誰もが感動を隠すことが出来なかったのを今でも覚えていますよ。なぜなら、この時、ワーナーのトップエグゼクティヴ達は、このプリンスという若者が音楽に対して、どれくらい信頼性があるのかを探りたかったのです。実際、「I Hope We Work It Out」のデモトラックによって、プリンスは自らのミュージシャンとしての実力にとどまらず、自分自身の実力以上の何かを彼らに提示することに成功したのです。もちろん、ワーナーの幹部が、この曲に真剣に聞いているのを眺めているのは、私の人生にとってもとても有意義な瞬間でもあったのです。
 
 
 
 ワーナーブラザーズから発売されたデビュー作「For You」は、1978年にリリースされました。 この時、プリンスは20歳でした。 
 
 
Prince 「For You」
Princeの鮮烈なデビュー・アルバム「For You」
 


 
デビュー・アルバムには、八曲のオリジナル曲に加えて、クリス・ムーンとのコラボレーション曲「Soft And Wet」が追加収録され、無事リリースに至りました。この作品は、ロック、ポップ、R&B、ファンクをクロスオーバーしたミネアポリスサウンドが一般に膾炙された瞬間といえます。勿論、このデビュー作「For You」はセールス面で、プリンスの後の代名詞となるスタジオ作「1999」や「Purple Rain」のような商業的な大成功を収めるまでにはいたりませんでした。しかし、それでも、「Soft And Wet」「Just Long As We're Together」の二曲がビルボード・ホット100にランクインを果たし、プリンスの存在感をアメリカのミュージック・シーンに力強く示し、のちのスーパースターへの最初の足跡を形作った瞬間でもあったのです。

1.デトロイトの音楽

 

記憶に新しいのは、かつてフォードやゼネラル・モーターズといったアメリカ合衆国を代表する巨大産業の栄華が2013年に終焉を迎えたことである。アメリカの近代の経済の屋台骨を支えてきたこの二大企業は見る影もなく没落し、ミシガン州南部にあるデトロイトは米連邦破産法9条の適応を申請し、財政破綻を迎えた。おそらく、アメリカの近代産業の最大の成功の一つの自動車産業は、この年を境にして、はっきりと既に過去の虚栄に過ぎぬことが明るみに出たように思える。現在はそういった遺産を新たに組み直す試みが行われているが、少なくとも、アメリカの史実を概観してみた際には、近代の産業発展に最も貢献してきた都市であることに変わりないように思える。


表向きには、クリーブランドに続いて発展した産業都市として知られているミシガン州デトロイトではあるが、この土地にはもう一つ音楽都市の表情を持っていることを皆さんはご存知だろうか。後には、この都市を代表するロックスター、KISSが「Detroit Rock City」という名曲を歌い、このデトロイトという自動車都市の存在感を世界的に示してみせたのは、フロントマンのジーン・シモンズがこの土地を誰よりも誇りに思っていたからでもある。この時代は、明らかに、デトロイトという都市の経済が最盛期を迎えていたことを証明する事象でもある。近代において、デトロイトがアメリカでも有数の音楽都市になったのは偶然ではないはずだ。

 

 

加え、デトロイトには、フィルモア・デトロイト、セントアンドリュースホール、といった世界に名だたるコンサート会場が生まれ、世界的な音楽都市として近代にかけて急激に経済発展を遂げた。だからこそ、2013年の180億円の負債を抱えての財政破綻というのは、ある一定の地域の痛撃ではなくて、アメリカ全体の近代文化の終焉を示す通牒でもあったのだ。

 

 

これまでの歴史において、必ず、音楽文化が隆盛する場所というのは、経済が発展している途上にあるか、あるいはまた、その最盛期にある一地域とも換言できよう。その土地で、音楽文化が発展しているかどうかを見極めることは、経済的な指標を見るのに最も適した項目といえる。ヨーロッパの中世の音楽史もそうであったように、音楽文化というのは、産業や経済の発展の先に生み出されるものであり、全てに適用される理論とはいいがたいけれども、一般的には、経済的な余剰から生み出されるのである。仮に、経済的な余剰がなければ、音楽文化、その他の文化というのに割く労力がなくなり、その国家、都市文化は疲弊していく、というように結論づけられるかもしれない。


このデトロイトという土地は、古くからブルース音楽が盛んで、1960年代1970年代にかけてソウルやR&Bが生まれ、そして、ニューヨークでヒップホップ文化が生じるまではディスコブームを牽引し、 その後はシカゴのハウス音楽に続いてテクノ音楽が生み出されていく。その他にも、テッド・ニュージェント、KISS、MC5、ストゥージズ、といったロックンロール、プロトパンク、パンクロックの原型を形作ったムーヴメントも巻き起こしたアメリカの重要な土地でもある。

 

そもそも、このデトロイトにおける音楽産業を一番最初に確立させ、自動車産業の発展と連れ立ってこのデトロイトという都市、ひいてはアメリカ全体の経済発展へ導いたのは、モータウンレコード(これはモーターとタウンをかけ合わせた造語である)、そして、黒人としての最初の起業家、ベリー・ゴーディーJrという世界的な実業家であったといえる。 

 

それまでは、ゴスペルやブルース音楽は一般的な商業性をもった産業になりえなかったが、このモータウンというブラックミュージックの重要な発信地が生まれたことにより、ブラックミュージックは、産業、商業として確立されていく。無論、自動車産業の他にも、このブラックミュージックは、巨額の経済効果をもたらした。Motownからデビューした歴代の世界的なミュージックスターは数えきれない。フォー・トップス、テンプテーションズ、スティーヴィー・ワンダー、ジャクソン・ファイヴ、きわめつけは、マーヴィン・ゲイをはじめとする超大物黒人ミュージシャンを次々に輩出した世界的なレコード会社である。

 

 

 

2. Motownsの出発 Berry Gordy Jr.の足跡

 


1959年、創業者ベリー・ゴーディJrは、家族から800ドルの融資を受けて、1959年の1月に最初、タムラレコードというインディペンデントレコード会社を設立し、その年の後半、ゴーディは、デトロイトのフランドブールバードの物件を購入した。この建物は後に「ヒッツビルUSA」という名称で親しまれるようになる。 

 

 

 

 

Hitsville U.S.A., Motown Museum, Detroit, Michigan

 

 

ほどなくして、このモータウンの敷地内の建物の裏手にあった写真スタジオは、レコーディングスタジオに改築され、後には、数々の名レコーディング、ジャクソン・ファイヴをはじめとするアーティストの録音が行われる、いわば伝説的なレコーディングスタジオとなった。他の建物には管理事務所が置かれ、1960年正式にモータウンレコードコーポレーションの名が社名として登録される。

 

ベリー・ゴーディJr.のレコード事業に対する関心は、それ以前の「3Dレコードマート」と呼ばれるジャズを取り扱うレコードショップをデトロイトに立ち上げた際に始まっていた。このレコードショップ経営において、彼はジャズの美しさについて伝道師のような役割を果たしたいと考えていたのだろう。モータウンレコードの社訓ともいえる、「白人、黒人、ユダヤ人、分け隔てなく楽しめる音楽を提供したい」という概念は、この最初のレコード店経営の際に培われたものであろうと思われる。しかし、最初のレコード店経営は、残念ながら大失敗に終わっている。彼は経営不振のため、逆に店を追い出された始末であったが、少なくとも、レコードを販売することの楽しみを、ゴーディはこの若い時代において堪能していた筈である。事実、この最初の事業が表向きには失敗してからも、ゴーディの音楽産業に対する興味が失せることはなかった。

 

ベリー・ゴーディーJr.の最初の音楽業界での成功というのは、意外なことに、レコード会社の設立者としてではなく、ソングライターとしてであった。最初のレコード店を追われてから、彼は、その後、デトロイトのダウンタウンのナイトクラブに頻繁に出入りするようになり、ここで、数奇な出会いがあったことによって、彼の人生の歯車は回転しはじめたといえる。デトロイトにある「Flame Show Bar」にて、ゴーディは、パールミュージックという音楽出版社を所有し、ジャッキー・ウィルソンのマネージャーを務めていたアル・グリーン(有名歌手とは別人物)という業界関係者の知己を得た。

 

それからまもなくして、ベリー・ゴーディーJr.は、妹のグエン・ゴーディ、ビリー・デイビスとソングライター・グループを結成し、ジャッキー・ウイルソンのヒット曲「Lonely Teadrops」のソングライティングを手掛けるようになり、1957年から翌年にかけて、この曲は、アメリカで空前の大ヒットとなった。その後も、ゴーディは「Lonely Teadrops」のA面の楽曲製作を手掛けた。1958年の一年、驚くべきソングライターの才覚を発揮し、100以上もの作品製作に携わっている。

 

1958年になると、ゴーディは、マーヴ・ジョンソンの「Come to me」という楽曲を書き、プロデュースを行った。これは、結果的に、記念すべきモータウンレコードの第一号となった。

 

このレコードの流通取引のため、ベリー・ゴーディは800ドルの資金を必要としていた。この際、ゴーディは、実業家であった両親に頼み込んで、共同組合の普通預金から予算を捻出するように働きかけた。彼の家族は、この申し出をしぶしぶ受け入れ、ゴーディーJr.に800ドルを融資し、1959年、1月にモータウンの前身、「Tamla Records」から、マーヴ・ジョンソンの「Come To Me」がリリースされた。この「タムラ」という名称は、アメリカの伝説的な映画俳優、デビー・レイノルズの楽曲「タミー」に因んでいる。当初はタミー・レコードという名をゴーディは使用していたが、ネームライセンスの面で懸念があり、時を経ずに「タムラ・レコード」に名称を変更している。


この後、マタドールズ、ミラクルズを始め、初期のノーザン・ソウルシーンを形作るアーティストたちのレコードを「ヒッツビルUSA」でレコーディングした作品をリリースし、モータウンは、シカゴ一帯のR&Bアーティストと共にソウルムーブメントの基盤を形作った。

 

モータウンレコードの最初のヒット作となったのは、それほど後の伝説的な作品ほどには有名とはいえないかもしれないが、レコード会社創設間もない頃にリリースされたバレット・ストロングの「Money」であった。これは、米ビルボード誌のR&Bチャートで堂々第二位を獲得し、次第にモータウンレコードの名はアメリカ全土に知られていくようになった。

 

 

 

3.モータウンの最盛期 1960-1970

 

 

1961年から1971年にかけて、アメリカでは空前のR&Bブームが沸き起こった。特に、南部のサザン・ソウルに対するノーザン・ソウルは、全米のミュージックシーンに対してきわめて大きな影響力を十数年もの間持ち続けた。

 

この十年間、モータウンは、110ものビルボード・トップ10にランクインする名曲を送り込んでいる。この期間のモータウンアーティストはうっとりするような偉大なグループが数多く見いだされる。ダイアナ・ロス擁するスプリームス、フォー・トップス、それから、最初期のマイケル・ジャクソン擁するジャクソン5といった豪華な面々。一方のタムラレコードにも、きわめて個性的なR&Bアーティストが名を連ねていた。スティーヴィー・ワンダー、マーヴィン・ゲイ、マーヴェレッツ、ミラクルズを中心にヒット曲のリリースを着実に重ね、ソウルムーブメントを牽引していった。 

 

 

 

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彼は、まるでこれらのヒット・ソングでは物足りぬと自ら物語るかのように、およそ信じがたいほどの活力を見せ、この時代において、モータウン、タムラ、2つのレーベル経営に飽き足らず、第三、第四、第五のレーベル経営に乗り出していった。3つ目のレーベル「ゴーディ」からは、テンプテーションズが輩出されているが、第四、第五のレーベルからはそれほど世界的なアーティストは多く出ていないところを見ると、少々事業面での拡大を行いすぎた感も見受けられる。しかし、これらの包括的なレーベルからリリースされた作品は、モータウンサウンドという異名をとるほど世界的に有名となった。

 

これらの1960年代の黒人ビックアーティストの台頭、そして、ソウルミュージックにはアメリカ社会としての変革期にあたった。キング牧師の公民権運動、その人権の勝利としての追い風は、このソウル、または、モータウンレコードの音楽産業としての勢力の拡大に密接な関係を持っている。つまり、これはさらにいえば、最初期のブルース、ソウルに引き継がれたブラックミュージックを介しての黒人たちの権利獲得の戦いでもあった。そのことを表すのが、最初期のモータウンに所属していたミラクルズのメンバー、また、後にはモータウンの副社長をつとめた、ゴーディーの片腕、スモーキー・ロビンソンの言葉の中に見受けられる。

 

 


1960年代、私達はモータウンが音楽活動だけではなく、それまでのアメリカの歴史を塗り替えているという事実にはまったく気がついていなかった。けれども、モータウンの楽曲が世界中に知れ渡るようになってから、あることに気がついたのだ。

 

私達が架けた橋は、音楽を介して、人種問題などの壁をとりのぞくものであると気がついたのだ。また、そののちに、もうひとつ気がついたことがあった。モータウン設立当初にサザン・ソウルが流行っていた南部にいっていたらどうなっていたか、私達はすさまじい差別を受けただろう。しかし、 私達はけしてそうしなかった。そして、その後、モータウンサウンドが全米に広がっていった、その時代から観客は差別されることはなくなり、さらに子供たちは手をとりあって踊るようになったのだ

 ”               モータウン副社長、ミラクルズ、スモーキー・ロビンソン

 

 

 

この後、1967年に、ベリー・ゴーディは、それまで所有していた住居を、姉アナ、その後の夫、マーヴィン・ゲイに譲渡し、デトロイトのボストンデディソン歴史地区に邸宅を構え、「モータウンマンション」という名称で親しまれるようになった。


ちなみに、この前にゴーディーが住んでいた邸宅はマーヴィン・ゲイの「What’s Going On」のアルバムカバーに写真として収められている。1968年、ゴーディは、ウッドウォード通り、それから州間高速道路75号線の交差点にあるドノヴァンビルを購入し、モータウンのデトロイトの本事務所を移転することとなった。

 



4.モータウンサウンドの魅力

 

 

この十数年間のモータウンの歴史は、およそアメリカのブラックミュージックの最初の商業化と言っても過言ではなかった。

 

そして、ゴーディーJr.は、間違いなく最初の黒人としての世界的な起業家であり、歴史にその名が刻まれるべき偉人である。この世界最大のインディペンデントレーベルの掲げる理念は「The Sound Of Young America」であった。つまり、若い世代を中心として、この理念のもとに緻密な戦略に基づいた、非常に幅広いリスナー層に向けたポピュラー音楽を数多く生み出すことに重点が置かれていた。

 

特に、このモータウンの象徴的な要素を形作ったのは、グループ形式で構成されるノーザンソウルと呼ばれる音楽である。これは、前の時代のソウルよりもはるかに親しみやすく、歌いやすく、また、リズムにおいてもディスコサウンドに近い要素があったため、アメリカ全土で流行しただけではなく、イギリスにもこのモータウンサウンドの名が広がっていったのは、その後の、人種差別を撤廃しようとする世界のコモンセンスを考えてみると、当然のことであったように思える。

 

ホーランド・ドジャー・ホーランド(H=D=H)の世相を反映したポピュラーサウンド、キャロル・ケイ、ジェームス・ジェマーソンをはじめとするジャズの要素を交えたR&Bサウンド、ファンク・ブラザーズのビートを強調するタンバリンのパーカッション。これらのノーザン・ソウルと呼ばれる音楽の一群のマテリアルは、実のところは、前のソウル音楽を継承したものでしかなかったけれども、その時代の気風にあった音楽だったこともまた事実である。多くの実力、スター性、パワフルなシンガーたちの歌唱力、そしてゴスペルを根深いルーツに持ち、ジャズを発祥とする”コールアンドレスポンス”を実に巧みにヴォーカル曲の中に、ひとつの技法として取り入れたところがきわめて画期的であった。

 

 

これらの音楽は、1960年代から1970年代にかけて、モータウンサウンドと呼ばれ、人種をとわず大人気となった。この時代、ゴーディーJr.は、プロデューサーという側面でも超絶的な才覚を発揮した。モータウンに所属するシンガーあるいはアーティストたちは、レーベルオーナー、ベリー・ゴーディJr.のプロモーションの方針に従い、洗練されたきらびやかな衣装を身につけ、上品かつ華美に振る舞い、「エド・サリバン・ショー」をはじめとする多くのテレビ音楽番組に出演した。MTVをはじめとする後のTV音楽番組の時代の先駆的なプログラムといえるかもしれない。

 

 

この時代において、モータウンは、テンプテーションズ、マーヴィン・ゲイ、グラヒス・ナイト&ヒップス、レアアースらのヒット曲を生み出す傍ら、ゴーディンは、TV系子会社モータウンプロダクションズを設立、「TCB」「Diana!」「Goin’ Back to indiana」と、名物的な音楽番組を生み出している。ゴーディーは、これらの音楽番組のプロデューサーも務めていた。

 

 

この時代から、彼は、長年モータウンに所属するアーティスト自身の楽曲プロデュースを許可するようになった。この時代、モータウンレコードは、怒涛のペースでヒット作を連発していった。看板アーティスト、マーヴィン・ゲイの「What's Goin’ On」、「Let's Get It On」、スティーヴィー・ワンダーの「Music of Mind」、「Talking Book」、「Inner Visions」といった作品は、アメリカの辛口音楽評論家を唸らせるに足る歴史的な名作群となった。1960年代には、本社のデトロイトの他にも、ニューヨークとロサンゼルスに支社を構え、1969年にはロサンゼルスに拠点を徐々に移行していった。 

 

 

Mavin Garye「What's Goin' On」

 

 

 

Stevie Wonder 「Talking Book」

 

 

レーベルからの作品リリースの流通の拡大、及び、テレビショーでの宣伝効果もあってか、モータウン・サウンドは、いよいよ国内にとどまらず、イギリスにヒットの裾野を伸ばしていった。この年代、世界的な音楽シーンにおける白人のミュージシャンの最高峰がビートルズであったとするなら、一方、黒人のミュージシャンの最高峰をなしたのが、モータウンに所属するアーティスト、シンガーたちだったはずだ。モータウンレコードについて記述しているという贔屓目を差し引いたとしても、モータウンに所属するアーティストたちは、世界に名だたるスターミュージシャンとして一世を風靡したといえよう。

 

 

 

5.モータウンのインディーズレーベルとしての幕引き

 

 

 

1980年代にかけて、無限に事業を拡大していくかのように思えたモータウンの経営に陰りが見えはじめた。

 

依然として、アメリカの象徴的なR&B曲「We Are The World」への参加で知られる、ライオネルリッチーをはじめ、コモドーアズ、リック・ジェームス、ティーナ・マリー、ダズ・バンド、ディバージなど多くのスターミュージシャンを抱えていた。1983年には、モータウンの25周年記念コンサートが行われていたし、NBCが、その公演の模様を録画放送した。モータウンの勢いはとどまらぬように見えたが、時代は、レコード産業の最盛期にあたった。

 

その他、アトランティック、ゲフィンといったロックサウンドを主要なカタログとしてリリースする大手のレコード会社、そして、MTV産業がこの時代において最盛期を迎えており、オーバーグラウンドではマイケル・ジャクソンなどの黒人シンガーは依然として大活躍してはいたものの、それはあくまでコアなソウルではなく、ポップ・シンガーとしての話だ。また、R&B,ソウル音楽が依然に比べて、時代遅れの音楽のようにみなされる向きもあったかも知れない。

 

そういった時代の流れを受け、1980年代半ばに差し掛かると、モータウンは経営不振に陥るようになった。ベリー・ゴーディJr.は、1988年にロックの殿堂入りを果たしているが、また、同年6月にモータウンの所有権をMCAレコード、ボストン・ヴェンチャーズに、6100万ドルの値で売却したことにより、インディーレーベルとしての史実に終止符を打った。

 

その後は、メジャーレーベル、ユニヴァーサルミュージックに吸収合併され、傘下に入り、子会社化し、モータウンは現在も存続している。かつてモータウンの伝説的レコーディングが行われた「ヒッツビルUSA」は、現在、モータウン博物館としてデトロイトの観光名所となっている。 

 


来る9月11日にメタリカの「Metallica」通称「ブラック・アルバム」のリマスターボックスセットの輸入盤の発売が予定されている。

既に、Spotifyでは、シングル盤の「Nothing Else Matters」が配信されている。特に、ギターの音色、ストリングス・アレンジが艶気が漂っており、ファンとしては要チェック。

往年のメタリカのファンはこのシングルを聴きながら、このモンスターボックスセットの発売を待ち望んでいるはず。良い機会なので、このアメリカで最も有名なメタルバンド 、メタリカのサクセスストーリーについてあらためておさらいしておきましょう。 

 

1.メタリカとしての出発 


Metallicaは今や、アメリカ、いや、世界的な知名度を誇る最もクールなロックバンドである。この群をぬいてかっこよい四人衆メタリカは、現在ですら、それほど音楽を知らない人もその名くらいは耳にしたことがあるような存在となった。しかし、多くの伝説的なロックバンドが様々な体験を乗り越え、スターダムに上り詰めるのと同じように、彼らメタリカ四人の歩みの道のりは必ずしも平坦なものとはいえなかった。きっと事実は小説よりも奇なりという言葉がふさわしい、フィクションよりもはるかにフィクション的な魅力あるエピソードがいくつか引き出されるだろう。

METALLICA ST ANGER 200 grams vinyl

そもそも、最初のメタリカのレコーディングのエピソードからして、スキャンダラスな雰囲気が漂っている。メタリカは、元Megadeth(日本でも、テレビタレントとして、お馴染みのマーティー・フリードマンが在籍)のギターボーカル、デイヴ・ムスティンが在籍していたバンドとしても有名だが、いざ、メタリカの面々がファースト・アルバムをNYでレコーディングする直前、音楽的な方向性が違うという有りがちな理由で、デイヴ・ムスティンは解雇通知を受けたという。

その後、メタリカは、レコーディングを続け、無事、この最初のアルバム作品を完成へとこぎつける。一方、デイブ・ムスティンは失望の最中、メタリカに対抗意識を燃やし、Meagadethを結成、最初の作品「Killing My Business」をリリースする。これは、メタリカのデビューアルバム「Kill’Em All」に対するあてこすりという見方も出来なくもない。実際の音楽性においても、デイヴ・ムスティンのメタリカへの私怨がメタルとして、どす黒〜く渦巻いているような危ない雰囲気に満ちた刺激的な作品である。

このデイヴ・ムスティンという人物は、元々、十代の頃から、麻薬の売人として生計をたてていた。ハイスクールにもろくすっぽ通わず、ガールフレンドの家に入り浸り、地下の売人として、タフにこの世を生き抜いてきた経歴を持つロックミュージシャンだ。ムスティンは、若い頃から、ロックとギターを誰よりも愛し、ギターのテクニックを縁に生きてきた人物であるため、この時のメタリカの解雇という経験に、大きなショックを受けたであろうことは確実である。このときの、怒り、哀しみ、また、あるいは、綺麗事の背後ににじむシニカルさを主題とし、その後、ムスティンは、ヘヴィメタル音楽、重〜い音楽として昇華させていくようになる。ようやく、ムスティンの思いは、スタジオ・アルバム「Peace Sells..(But Who's Buying?)「Rust In Peace」という作品で結実を見る。その後、メガデスは、メタリカという存在に肩を並べるロックバンドとして、世界的に認知されるようになる。特に、国連本部らしき建造物が破壊された過激なアルバムジャケットが描かれている「Peace Sells...But Who' Buying」1986、は、ブレクジットでの英国の離脱をはじめとする事象、表面上の「EU共同体という幻想」がのちに打ち砕かれると、あろうことか、国連本部が設立される以前、1986年に予見している。

しかし、少なくとも、メタリカ、メガデス、この二つに分かたれたロックバンドは、初めの経緯こそほろ苦いものがあるにしても、その後は、善きライバル的としての良好な関係を保ちながら、アメリカのスラッシュ・メタルシーンを共に牽引していくアーティストとなった。 その後、デイヴ・ムスティンが、メタリカの出世作「Ride the Lightning」にレコーディングセッションに参加しているのは、メタリカとメガデスという両ロックバンドが和解した何よりの証拠でもある。

デイヴ・ムスティンを解雇した後、メタリカが「Kill ’Em All」という、なんとも身も蓋もない、ヤバそうな名のアルバムを引っさげてデビューした際、この作品は、当初から大きな反響を呼んだわけではない。

 

 


のちに、メタル系をアルバム使う雑誌媒体において、再評価の試みはなされるものの、それはメタリカが有名になってからの後付評価でしかない。もちろんごく一部の目ざと〜いリスナーには注目されていたという話もあるにせよ、少なくとも、最初の音楽シーンに与えたインパクトというのは微々たるもので、アメリカンドリームどころか、一般的なビッグサクセスの概念からはかけ離れていたのは事実である。 

おそらく、このバンドのデビュー時、メタリカというロックバンドが、80年代終盤から90年代にかけて世界的なスターロックバンドに成長していく、しかも、そののちには、サンフランシスコ交響楽団と共演する、あるいはまた、ウォルト・ディズニーのサウンドトラックにギタリストとしてゲスト参加する、なんてことを言っても、誰もが不可解そうに首を振り、にわかに信じようとしなかったはずだ。

事実、筆者も、このサクセスストーリは今でも眉唾もののように思う。音楽性においても確かにクールなメタリカではあるが、他のバンドと際立ってすぐれていたのかというと、必ずしもその理論は当てはまらないように思える。以前に、デビュー当時は、一部のメタルマニアしか知らないマニアックなバンドでしかなかったから、まだブレイクする直前は、メタリカという名を聞いてもよくわからない、なにそれ、という状態だった人が多かったはずだ。それは、勿論、このロックバンドがアングラの象徴のような音楽ジャンル、スラッシュ・メタルから出発したロックバンドだからである。 

しかし、メタリカは、事実、後に、大きな星を掴みとり、ロック界のアメリカンドリームを手中に収め、一躍スターダムに上り詰める。それから、押しもおされぬ世界的ロックバンドに成長していったわけである。なぜ、メタリカは、それほど、時代を代表するような目もくらむほど強大なロックバンドとして成長していったのだろう? そもそも、この異様なサクセスストーリーは、ゴールドラッシュ時代のアメリカンドリームを、メタリカという四人組は、ロックミュージックシーンにおいて見事に体現させたという表現がふさわしい。つまり、メタリカという存在は、地べたから汗まみれ、いや、彼らの90年代の「ガレージ・インク」という名作に因むのなら、ガソリンの煤まみれになって、頂点に這い上がって来た正真正銘の叩き上げの実力派ロックバンドである。 

それは、この四人の風貌についても同じで、デビュー当時は、アメリカのメタル界に無数に溢れていたブリーチした長髪、革ジャン革パンという、いかにも、メタルバンドらしいちょっとダサダサなファッションスタイルについても、その後、九十年代に入り、音楽性が変わるとともに様変わりし、徐々に別のロックバンドへ変身していった。それは常に、モンスターロックバンドとしての進化を繰り返したゆえの男としてのコンフィデンスが、彼ら四人の風格からは滲んでおり、そのプライドが他のバンドよりも遥かに強いがゆえ、今日まで長らくロックシーンの最前線を走り続けて行くことが可能となった理由といえる。その辺りが、メタリカという存在が今なお、多くのアメリカ人に絶大な支持を受け、不動のロックバンドとして君臨する要因でもある。     

そして、メタリカのデビューを「Kill 'Em All」がリリースされた1983年とすると、これまで、四十年近い道のりにおいて、メンバーチェンジこそあっても、活動自体にそれほど大きな中断を挟むこともなく、ロックシーンの最前線を全速力で走ってきた。この事実はほとんど信じがたいことである。

  

 2.スラッシュメタルシーンへの台頭

  

そもそも、あまりメタルというジャンルに詳しくない方のためにも、このメタリカが看板として掲げる「スラッシュ・メタル」という音楽について、あらためて確認しておく必要があるかもしれない。

このスラッシュ・メタルというのジャンルは、1980年代を中心にアメリカで起こり、盛り上がったジャンルで、ザクザクと、痛快なギターリフが刻まれるアップテンポの楽曲を特徴とするメタルミュージックである。このあたりのバンドは、アメリカに多く分布し、SLAYER、S.O.D,Anthraxといったグループが有名である。この中でも、スレイヤーは、複数回、グラミー賞メタル部門の勝者に輝いている世界的なスラッシュメタルバンドだ。もちろん、このスラッシュ・メタルというのは、かつては、ごく一部しか知られていないニッチでアングラなジャンルであったものの、今や実際のコアな音楽性から想像できないほど、大きな人気を博すようになった。                

これらのバンドに代表される、激烈で性急なザクザクという音を立てるソリッドなギターリフ、そして、16ビートを特徴とした楽曲のテンポ自体の速さを競うようなスラッシュというジャンルは、80年代のイギリスを中心に流行したNWOHMのジャンルの後に勃興した音楽であり、パンク・ロック、ハードコア・パンクの下地を持つという点で、イギリスのメタル音楽と異なる部分がある。

このジャンルは、メタリカとメガデスという存在が世界的な知名度を与えるのに貢献した。そして、このジャンルはのちになって、エクストリームな音楽性が付加され、より早いグラインド・コアというジャンルに直結した。このグラインドコアというのは、ブラストビートというリズムの破壊性、異質なテンポの速さを持つのが特徴で、速さを競う音楽でもある。バンドとしては、ナパーム・デスというバンドが有名であり、世界一最も短い楽曲を書いていることでもよく知られている。 



さらに、”メタル”という得難い音楽について探ると、一般に、オジー・オズボーンの在籍していたBlack Sabbathの音楽性が、メタル音楽の始まりであり、1stアルバムの「黒い安息日」のBlack Sabbathという楽曲がメタルの発祥だと言われている。この楽曲に登場する、鐘の音の不気味な響き、おどろおどろしい宗教的な趣向性を持つ楽曲、オズボーンの地の底を這うような重苦しい歌い方は、メタル音楽の素地を作り、ロック音楽の中に少なからず宗教性を与えた。それはメタル=宗教性のある音楽という概念を暗黙裡に植え付けた。(もちろん、西洋的なキリスト教的な概念上に限っての話である)

このネーミングについては、最初、「裸のランチ」等の著作で有名な文学者、ウィリアム・バロウズが、鉱物的な概念に「メタル」という名称を与えて、それが、現地NYタイムズなどのメディアを通じて、この重いロック音楽=メタルというワードが徐々に浸透していき、この後、七十年代から八十年代にかけて、ほとんど数えきれないほどのメタルジャンルに細分化されていくに至る。

当時、このメタル音楽がどれくらいのファン層を獲得したかまでは明言できないが、この年代から、英国ではケラング、そして、日本ではBURRNと、メタルを専門とする有名な音楽誌が続々と刊行されるようになる。これらのメディア媒体は、一般的なメタルという音楽の認知度を高める上で、なおかつまた、リスナーの裾野を広げるという側面において、文化的に大きな貢献を果たした。そして、1980年代から、およそ数え切れないほどのカテゴライズが登場する。 

これがレコードショップ、あるいは、音楽メディアが、順々に、こういった呼称を与えていったのかまでは判然としないが、ブラック・メタル、スラッシュ・メタル、LAメタル、北欧メタル、パワーメタル、デスメタル、グラインドコア、さらに細かな分類がなされていくに至る。その後、数え切れないメタルジャンルが、現れては、消え、現れては、消えていく。90年代に入り、メタルとパンクハードコアを融合させたニューメタル(グルーヴ・メタル)というジャンルも登場。もちろん、そのメタル音楽の極北に、セカンド・アルバム「Iowa」で全米チャート初登場一位を獲得するSLIPKNOTのラップ・メタルや、重苦しいというメタル本来の音楽性の対極にある、BABYMETALのようなアイドル・メタルが位置するのが、今日の音楽シーンの現状である。

  

3.メタリカのシーンへの台頭

  

一連のメタル音楽が流行っていく中で、メタリカは、最初、スラッシュメタルシーンの有望株として台頭したのは疑いを入れる余地はない。

しかし、それはあくまで、スラッシュメタルシーン界隈のみで語られるべきで、ロックスターとして将来を嘱望される存在ではなかったように思える。このバンドが、結成最初から、現在のハリウッドスターのようなロックミュージシャンだったと記述をするのは、仮に、私が世界一のメタリカファンであるとしても、これは出来かねる。モーターヘッド、そして、ヴェノムの音楽性を引き継ぐコアなロックバンドとして出発したメタリカ。しかし、実際のところ、現在の一部のスキもない高度な演奏力からは想像出来ないほど、結成当初は、演奏が稚拙で、悪い言葉でいえば、下手なバンドとしてミュージックシーンに登場したのだった。それに加え、華々しい台頭とはお世辞にもいえなかった。さらにまた、このバンドは、元々、売れ線を狙って登場したロックバンドでもなかった。興味深いことには、只、好きな音楽をやっていたら、その延長線上にメタリカという音楽が形作られ、その音楽が世界的に有名になった。ただそれだけのことだった。

このあたりの事情については、「ライド・ザ・ライトニング」のライナーノーツに、音楽評論家の有島博志さんのマーキー出演後のメタリカの取材インタビューが掲載されているので引用する。 

 

”有島さんの、「なぜ、こういう過激な音作りをするの?」という問いに対して、

 

 

ジェイムスが説明する。

 

 

「俺達がMETALLICAをスタートした時、アメリカにはこんな過激な音を出すバンドなんてイヤしなかった。だから、コレだって思ったのさ。それに、こういう音ってやってて気持ちいいんだゼ」

 

 

ラーズが続ける……。

 

 

「理屈や理由なんて要らないんだ。ただ、俺達はこういう音が好きだからこういう音作りをしている。ただ、それだけさ……」

 

2人のそのコメントを耳にした時、何てストレートな連中なんだろう、と心なしか感動したものである。”


 

 

このことは、メタリカの面々がアメリカの、メタル、あるいはロック音楽の時流とは全然関係なしに、ただ単に、自分たちの好きな音楽、ロックを心ゆくまで少年のように純粋に追究しただけだったという事実が伺える。もちろん、売れ線の音楽性、バンドキャラクターから大きくかけ離れているという事実、それは、メタリカの一番最初のスタジオ・アルバム「Kill ’Em All」という血塗りのハンマー、いかがわしく、ホラーチックで、近寄りがたい雰囲気のあるジャケットのアルバムアートワークが象徴している。つまり、このメタリカというロックバンドの出発は、全国区の評判とならず、一部のマニア向けの存在でしかなかった。当時、日本のレコード店でも、大々的に売り出されていたわけではなく、レコードショップの片隅でひっそりと陳列されているような作品であった。つまり、当初、日本では、このメタリカというロックバンドは、いや、もしかすると、母国アメリカでさえも、デビュー当時のスレイヤーのように、メタルマニアしか着目しないような、知る人ぞ知るバンドであったという表現が妥当かもしれない。 

事実、八十年代においてスラッシュ・メタルというのは、きわめてニッチなジャンルでしかなかった。それは後、グラミー・メタル部門を獲得するスレイヤーでさえ、デビューアルバムの発売当時、悪魔崇拝的であるとされ、キリスト教団体からの苦情を受け、1stアルバムはすぐさま発禁処分となり、販売元すら見つからなかったというエピソードがそのことを如実に物語っている。

しかも、このスレイヤーというロックバンドの最初のプロフィール写真もきわめて悪趣味であり、女性の生贄をギャグ的に写し込んだマルキド・サドや澁澤龍彦の描くような耽美的で退廃的な世界観を持ち、いかがわしさとアングラ色が漂っていたことはあまり今では一般に知られていない。

このスラッシュメタル、デスメタル、ブラックメタルの黒魔術的な音楽の要素というのは、70年代のブラック・サバスとオジー・オズボーンの体現させた奇妙で異質なキリスト教観から来ている。 

そして、このメタリカという後のアメリカン・ドリームを体現するロックバンドも、ニッチさアングラさにおいて、ロックバンドとしての駆け出しについては、同時期に台頭したスレイヤー、先輩格にある黒魔術信仰をバンドキャラクターとして打ち出したカルト的なブラックメタルバンド、ヴェノムとさほど大差はなかった。少なくとも、ボン・ジョヴィやエアロスミスのようなハードロック界隈のビッグアーティストとは、その出発点が全然異なるということだけは確実である。

最初のメタリカのメンバーのラインナップは、ジェイムス・ヘッドフィールド(Gt,Vo)ラーズ・ウィリッヒ(Dr)、クリフ・バートン(Ba)、カーク・ハメット(Gt)。クリフ・バートンをのぞいては現在の編成と一緒ではあるものの、最初期の演奏力は、お世辞にも高いとは言えず、現在のような完璧性、他のロックバンドを圧倒するような存在感、超越感はこの時まだ全く感じられない。たしかに、ファースト・アルバムでのギターリフの「ザクザク」という痛快感あるギターリフを聴くかぎりでは、他のバンドより音楽性において秀でている部分もあった。しかし、どちらかといえば、当初、不器用さのあるロックバンドで、B級感のある冴えないグループでもあったのだ。

そもそも、「デビュー前の西海岸でのクラブサーキットも、五十人の動員を確保するのがようやくだった」と、「ライド・ザ・ライトニング」のライナーノーツにおいて、評論家の有島博志さんが綴っているように、メタリカはコアなロックバンドとして出発した。クラブサーキットはドサ回りのようなところから始まり、活動初期において、アメリカ国内で超過密日程のライブを夢中でこなすうち、徐々に地力をつけていった叩き上げの実力派ロックバンドだったのである。  


そして、このメタリカというバンドの人気に最初に火がついたのは、本国のアメリカではなくて、ヨーロッパであった。全米ではまだ知名度の低い時代、デビューから間もない83年のこと。このバンドは、ヘヴィメタル・ファンジンが主催するヨーロッパのツアーを精力的にこなし、一年の間に、めきめきと力をつけ、アクトのヘッドライナーに抜擢される、等の実績を最初にヨーロッパで積み上げていった。

その一番低い、地べたから汗まみれとなり這いずり上がり、ビックアーティストまで一歩ずつ地を踏みしめながらロックの殿堂への階段を上がってきたという実感や誇りが、このメタリカという四人の男たちの最大の結束力を形作り、ちょっとやそっとでは崩折れないプロミュージシャンとしての強みである。もちろん、音楽性についてもメタリカ節と呼ばれるブルージーなフレーズがあるのは、このバンドの泥臭さ、男らしい不器用さからくる哀愁を象徴しているといえよう。 

その後、91年のブラック・アルバムでのビルボード・チャートで打ちたてた200週以上連続ランクインという偉業は、このメタリカというロックバンドの長い歩みを概観してみた際には、ほんのオマケのサインドストーリーにしか過ぎない、といえる。そして、このメタリカの醸し出す、マッチョでスポーティなイメージは、アメリカンロックの基本概念として象徴されるように思える。もちろん、これは、その全く対極にある、アンチテーゼとしての反マッチョイズムを掲げたインディーロックという見過ごしがたい存在があるということを加味した上での話である。


4.メタリカの打ち立てた最初の金字塔 


そして、メタリカの全米のクラブサーキットの成果があってのことか、既に、最初の星を掴む予兆は、セカンド・アルバムのリリースにおいて顕著に現れた。ロックバンドの始まりとしては、マニア向けの限定的な存在でしかなかったメタリカ、米国西海岸のクラブで、五十人の集客を集めるのがようやくだったメタリカは、このセカンド・アルバム「Ride The Lightning」の制作により、急激な変貌を見せ、全米随一のメタルバンドへと成長していく。その間、わずか一年。もちろん、その間に、なんらかの出来事があったはずだが、このエピソードから垣間見える事実は、ファストフードにしても何にしても、アメリカという国は何でも、展開が目くるめく早さで決まるということだ。

このスタジオ・アルバム「ライド・ザ・ライトニング」のレコーディングの直前に、メタリカは、イギリスで華々しいデビューを飾り、ライブ興行を成功させている。今でいうところのワンマンコンサートを、伝説的ライブハウス「マーキー」で開催した。しかし、これはゲリラ的開催で、チケットの手配など、プロモートの面で手抜かりがあった。この悪条件に加え、新聞や雑誌等、メディア告知が思ったほど進捗しなかった。つまり、知る人ぞ知るライブだったはずなのに、「ライブ会場には500人もの観客が集まり、会場の外にも、中に入れない客が百人以上も詰めかけた」というエピソードがこれまた「ライド・ザ・ライトニング」のライナーノーツに見られる。この例から見てもよく分かる通り、メタリカは英国で鮮烈なデビューを飾り、最初、アメリカの国外で知名度を高め、ビッグサクセスへの足がかりにしていったのである。 

本国アメリカではなく、ヨーロッパ、イギリス、海外で、徐々にシェアを高めつつ合ったメタリカは、この好い流れをみすみす逃すことはなかった。彼らは、これらのツアーを成功させたのち、セカンド・アルバムとなる「Ride the Lightning」のレコーディングに入る。 選ばれたのは、アメリカではなく、ドラマーのラーズ・ウィリッヒの故郷、デンマークのコペンハーゲンであった。

  

 

 

これは、当時、もちろん、最初に成功を収めたヨーロッパでさらにリスナー層を増やそうという試みがあり、そして、もうひとつは、当時、人気を博していた北欧メタル勢のような澄明でクラシカルな音を探求しようとし、さらに、また、ひとつは、徐々にアメリカで台頭してきたLAメタル、産業ロックと呼ばれるロックバンドとの差別化を図る。こういった意図も、後付けではあるが、伺えなくもない。つまり、メタリカは、アメリカ国内でのレッドオーシャンではなく、ブルーオーシャンでの格闘を挑んだ。確かに、メタリカの最初期の音楽性は、どちらかといえば、アメリカらしいメタルの風味に乏しく、アイアン・メイデン、ジューダス・プリーストのようなイギリスの硬派なメタルの延長線上に位置づけられる。アメリカでのブレイクは時期尚早と見ての、国外での大きなチャレンジであった。これはよく吟味されたロックバンドとしての秀逸な戦術である。

マーキーでのライブを終えて、コペンハーゲンに飛んだメタリカの四人は、スイート・サイレンススタジオの設立者、フレミング・ラズムッセンをエンジニアに迎え入れ、次作の「Ride The Lightning」の制作作業に入る。メタリカーラズムッセンというタッグは、ボブ・ロックと共にメタルエンジニア界の最強コンビといってもいいはずだ。

この後、両者は良好な関係を保ち、次作の「Master of Puppets」あるいは、「……And Justice For All」でも重要なパートナシップを築くようになり、言わば、盟友のような関係を築き上げていく。

すでに、コペンハーゲンに旅立つ前から、メタリカのメンバーには、このアルバムの着想があり、楽曲の構想を練り上げていたため、難産のレコーディングにならず、実際な期間は判然としないが、メタリカは、二作目のアルバム「ライド・ザ・ライトニング」を短期間で完成させたという。

作品の原題「Ride The Lightning」についても、聖書に因んでおり、また、このアルバムの中の「For Whom The Bell Tolls」はもちろん。ヘミングウェイの小説「誰がために鐘が鳴る」に因んで名付けられたり、この作品は、(次作も同様ではあるが)およそメタリカらしからぬ文学的なイメージが漂う作品である。それは、ひとつ、当時、メタルバンドとして不可欠の要素、音としてのストーリー性を加え、全体的にコンセプト・アルバムとしての方向性を追求しようという意図が伺える。

この中の二曲、「Ride The Lightning」そして「The Call Of Ktulu」には、デビュー・アルバムのレコーディング時に袂を分かったデイヴ・ムスティンが参加し、作曲者としてクレジットされている。ついに、最初は喧嘩別れをしたこの両者は今作において、完全な和解を果たしたことが伺える。 

そして、ファースト・アルバムできわめて無骨で荒々しいメタリカのイメージは、このセカンド・アルバムにおいて最初の変身を果たし、叙情的でドラマティックなツインギターのハーモニクスを追求した美麗なサウンドとなっている。これは、北欧でレコーディングされた影響を受け、メタリカの前作品の中で最も叙情的なメロディが感じられる作品となっている。また、内ジャケにおいての写真、雪の上で微笑む四人のメタリカの姿も、今となってはニヤリとさせるものがある。

既に多くのロックファンがご存知のとおり、「ライド・ザ・ライトニング」でアメリカ国内で商業セールス的にも大成功を収めた。ここで、初めて、インディー界隈の知る人ぞ知る存在であったこのマニアックなロックバンドに、アメリカのマネージメント会社、エレクトラ/アサイラム(のちのアサイラムレコード)がメジャー・デビューの話を持ちかけた。この時点で、メタリカの四人はついにメジャー契約という最初の大きな星を、見事に掴み取ってみせたのである。



5.メジャーシーンでの快進撃


続いて、同じようにデンマークのコペンハーゲンで、ライド・ザ・ライトニングの成功にあやかる形でレコーディングされた84年の「Master Of Puppets」も、前作と同じように、フレミング・ラズムッセンを迎え入れ制作された。これは、前作「ライド・ザ・ライトニング」の勢いや流れをそのまま引き継ごうという、アサイラム・レコードの選択は、結果的に大成功を収めたといえる。 

 

 

  

そのことを証明付けるのは、このアルバム「Master Of Puppets」から、後のメタリカの重要なライブのレパートリーとなるロックの金字塔「Battery」「Master Of Puppets」といった名曲が二度目のコペンハーゲンでのレコーディングで誕生したことからも分かる。また、このセカンドアルバムは、前作の北欧メタルとしての抒情性、物語的な雰囲気、キリスト教的な概念、くわえてアメリカン・ロックのパワフルさ、ワイルドさが絶妙にマッチしたヘヴィメタルの名品である。

メタリカは、今作「Master of Puppets」で、サウンドプロダクションの面でも大きな飛躍を見せ、初期の無骨なメタル、二作目のメロディアスなメタル、この両要素を見事に融合させた。そして、ツインリードギターをはじめとする楽曲性、流麗さもありつつ、儚げな印象のある前作に比べ、アルバムの全体の印象としては、力強く存在感のある、ド迫力の大スペクタルを築き上げた。

今、聴いてもなお、二作目と三作目の作品の出来の相違は顕著であり、メジャーに移籍した恩恵を受け、レコーディング費用を以前よりも捻出できるようになったのが、よりサウンド面での進化をもたらしたように思える。つまり、資金面での心強さというのが実際的なレコーディングの音の良さ、張りにも素晴らしい影響を及ぼしたといえる。そして、このアルバムにおいても、メタリカの最初の音楽上の動機、「自分たちのやりたい音をやるだけだ」という、単純なメタリカイズムは、やはり失われずしっかりと受け継がれている。その延長線上において、メタリカは、「メタリカ節」と称されるひねくれたようなブルージーで渋みのあるメロディを完成させたのである。これは、後に、どれだけ、彼ら自身の音楽性が変えようとも、ミュージックシーンがどれほど変容しようと、不変のメタリカの核、つまり、強固な信念のごときものであった。

そして、このあたりから、徐々に音楽性としても変化が見られ、北欧メタルの後追いではなく、もちろん、モーターヘッドやヴェノムのようなマニアックなロックンロールでもなく、世界で唯一、メタリカしか生み出し得ないフレーズ、独特なねじれるような旋律、電子音楽で言えば、ブレイクビーツに属するようなひねりのあるリズム性がこの作品を機に表れるようになる。これはしかし、突然に出てきたものではなくて、初期からのたゆまざるクラブサーキットの成果から引き出された努力の賜物なのである。

つまり、このロックバンドは自分たちの好きな音と誰よりも長く付き合いを重ねた後、自分たちしか出来ないロックスタイルを完成させた。そして、この四人は、デビューからわずか一年という短期間で最大の成果を挙げた。スラッシュ・メタル、いや、ロックの殿堂入りとして後世に語りつがれる今作「Master Of Puppets」'84で、メタリカはアメリカンロックの頂点に上り詰めたのである。

その後も、メタリカの快進撃は引き続いた。「……And justice For All」は、再び、ラムヘッセンをエンジニアに迎え入れてレコーディングされ、この初期三部作「ライド・ザ・ライトニング」「マスターオブパペッツ」「ジャスティス・フォー・オール」の物語は完結するわけである。このアルバムがリリースされた年代を見ると、LAメタル、産業ロックと呼ばれるグラム・メタル勢、ガンズ・アンド・ローゼズ、スキッド・ロウといったロックアーティストのシーンへの台頭を尻目に、メタリカは、これらの面々と異なる独自のメタルロードをひた走り、着実に地盤を固めていく。

時代は、アメリカ全土において、華やかな存在としてのロックの最盛期にあたり、けばけばしい化粧を施したグラムメタル勢が無数に台頭する。しかし、ご存知のようにそれらの燦然たる輝きは、他の年代のロックシーンと比べて際立っていたのは事実ではあるものの、それほど長く続かなかった。

そんな中、メタリカは、結成当初からそうであったように、これらのシーンの流行には一瞥もくれず、独自の音楽性を追求し、メタリカサウンドをより強固なものとしていく。もちろん、これらのグラム・メタル勢、ガンズ・アンド・ローゼズのようなハリウッドやLAを拠点とするアーティストの台頭の強烈な追い風を受け、八十年代終盤から九十年代初頭にかけて、メタリカはさらに強固なメタルバンドとしての地位を踏み硬め、それを不動なものとしていったのは確かである。

このマンチェスターの八十年代を思わせる、LAを中心にしたアメリカの全土を席巻したロックムーブメント。これは数年間、異様なほどの熱狂を見せた。彼らの時代は終わりが来ず、永遠に続くものと思われたが、しかし、そうはならなかったのである。

 

 

6.メタリカの苦境、そして、生き残りのための模索


やがて、九十年代に入ると、これらのLAの産業ロック、所謂、上辺の華やかさを売りにしたパーティー・ロックは急激に衰退していく。経済も物理と原理は同じで、飽和しすぎたものは必ず最後は萎んでいく運命にあるのかもしれない。これは、アメリカ国内で、ひいては、一時的な好景気、世界経済の成長を受けて起こったムーブメントだったように思える、数々のメガヒット、グラミー、そして、ゴールドディスク。数々の名誉がこれらのミュージシャンの頭上に降り注いだ。

それは最も幸福な時代を象徴するようなものであったか、アメリカの音楽産業は最も美味みのある時代を迎えつつあり、この流れは、八十年代の終わりにかけて急激に進んでいった。この年代から、本来、脚光を浴びないはずのアーティストも、続々とオーバーグラウンドに引き上げられていく。これは、音楽産業自体が、柳の下のどじょうを狙うべく、有望なロックバンドを探してきて、作品リリースを行ったからである。しかし、この華やいだムーブメントは、後にインディーズシーンのロックンロールに覇権を奪われ、アメリカの音楽シーンで急速な衰退を見せるようになる。

ヘヴィ・メタル音楽の衰退は、グラムメタルの衰退、そして、シアトル、アバーディーンのグランジの台頭に相携えて始まった。 

このサブ・ポップを中心としたインディーズ・ムーブメントの凄まじい台頭は、アメリカのロックシーンの全貌を完全に一変させてしまったと言える。マイケル・ジャクソンを米ビルボードの一位から引きずり落としての「ネヴァーマインド」の大成功、これはゲフィン・レコードの最大のマーケティングの成功でもあるが、これは、アメリカ全体のロックシーンを揺るがす出来事であった。

そして、この辺りから、八十年代のアメリカを席巻したヘヴィ。メタル音楽の熱狂は、見る影もなくなり、一部のアーティストを差し引けば、ほとんど草の根一本も生えぬほど燦燦たる状況になりかわっていった。それまでチャートを席巻していた華々しいロックミュージシャンたちは、急激に一般的なファンの求心力や興行面での動員を失い、何らかの面で、プロモーション、ファッション、また、音楽性においての路線変更を余儀なくされた。その過程で、音楽面において流行に乗る、という安易な路線変更を試みようとした多くのロックバンドは、シーンのトレンド、流行に乗ろうとしたために、かえって皮肉なことに、その後、急激な凋落、没落を見せていったのである。 

しかし、この90年代の流れは、それまで数々のメタルの金字塔を打ち立ててきたメタリカとても全然無関係ではいられなかったように思える。グランジの台頭を予感したように、その前年にリリースされた「Metallica」通称ブラック・アルバムにおいて、このロックバンドは、アメリカの急激な変化を嗅ぎ取ってか、その音楽性において僅かな変貌を見せている。また、後になってのオーケストラとの共演を図る地盤作りという面での出来事は、ハリウッドのアクション映画音楽を数多く手掛けるマイケル・ケイメンが「Nothing Else Matters」のストリングスアレンジに参加していることだろう。 

 

 

 

このブラック・アルバムから、メタリカは徐々にモデルチェンジを企図し、それまでのスラッシュ・メタル路線の音楽性を引き継ぎながら、独特なアメリカン・ロック色、そして、ブルースに対する傾倒を見せるようになっていく。これは狙ってのことか、そうでないのか定かではないものの、この最もロックシーンで売れたアルバムにおいて、彼らは、ひっそりと、その音楽の潮流を読むかのような器用さを見せ、そして、その後の年代への方向転換を虎視眈々と模索していたのである。

それは、このアルバムの一曲目「Enter Sandman」というこれまた彼らの代名詞的な楽曲によく現れ出ている。

表面的には、ヘヴィメタル音楽としての色は受け継ぎつつも、ここにはなにか、異質な本流のアメリカン・ロックの系譜にあるヘヴィロックの音楽性の萌芽が見られる。そして、どことなくグランジの台頭を予感させるダークさも具備しているのは驚く。つまり、今作において、メタリカは既にその潮流に準じて、スラッシュメタルから別の音楽性への変更の機会を伺っていたともいえる。

そのあたりの初期のスラッシュ・メタル、そして、中期からのアメリカン・ロックという二つのジャンルの架け橋となったのがこの重要なブラック・アルバムという作品の本質であり、これが最も飛ぶように売れたという事実は、まるでアメリカ全体のシーンの流れの変化を象徴づけるようなものだった。

そして、ここでのメタリカの新たな境地へのチャレンジは、他の多くのバンドが凋落していく中で、このバンドをシーンでタフに生き残らせる要因となった。しかし、このブラック・アルバムのリリースの後、スタジオ・アルバムとしては五年という長い期間が流れているのを見ればよく理解できる通り、メタリカの「メタル・ロード」は一筋縄ではいかなかった。この五年は、メタリカという音楽、バンドの形質を変化させるような長年月であったことは確かである。

 

ここに、90年代初頭に起こったアメリカの急激なシーンの変化の中で、五年間、ライブを続けながら、現代の流行から取り残されぬようにたえず模索を続け、生き残るすべを探し求めていた四人の様子がまざまざと伺えるのである。

 


7.大きな変革の時代


そして、事実、ほとんど一夜にして、アメリカのロックシーンがヘヴィ・メタルからヘヴィ・ロックへと完全に推移した。この九十年代から、これまでの音楽性とは異なるロックバンドが出てくる。 

グランジ、ラップメタル、ニューメタル、、、そのジャンルの多さは、これまでの停滞をぶち破るべく立ち現れたあざやかな新風といえる。

アリス・イン・チェインズ、サウンドガーデン、そして、ナイン・インチ・ネイルズ、レッド・ホット・チリペッパーズ、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン、メタリカの王座を背後から虎視眈々と狙い、首座を脅かす存在は多かった。そして、この年代において、メタリカは、それまでのスラッシュ・メタルバンドとしては、ロックの王座に座りつづけることはきわめて困難であるように思えた。頑固一徹、スラッシュメタルという音楽を貫いて、成功したのは、皮肉にも、デビュー当時に最初に発禁処分を受けたスレイヤーで、これは少し妙な言い方になるかもしれないが、それまで溜め込んでいた運のようなものが、ドッと表側に溢れ出したというような感じで、特殊な事例であることは確かだ。元々、マニアックなインディーズバンドが後年にメジャー契約を取り付けた恩恵を受け、ようやくスターダムに上り詰めたという稀有な事例である。

80年代から活躍していたロックバンドが、急激なシーンの変化に対応できず、次々とスターダムから振り落とされていく中、それは後のガンズ・アンド・ローゼズの長い迷走を見ればおわかりのお通り、ほとんどのハードロック/メタルバンドが逃れられなかった運命である。しかし、このメタリカだけは、その座を完全に追われることはなかった。それは、五年という期間を経て発表された次作の「LOAD」において、メタリカは別のロックバンドとして復活を果たすことにより、他の多くの80年代のロックバンドのようには凋落せず、すんでのところで生きぬくことに成功したのだった。つまり、メタリカが他のロックバンドと違うのは、それまで背後に積み上げてきた「功績」「名誉」を捨て、一から出直すことを決意し、前に進みつづけ、モンスターロックバンドとして生き残ることに成功したのだった。そして、このときの選択こそ、最終的には、このメタリカが全米を代表するロックバンドとして不動の地位を獲得した要因でもある。

この96年の「LOAD」において、メタリカは、以前からのファンをある程度失望させるような決意で、表向きのバンドとしてのキャラクターにしても、音楽性にしても、信じがたい変革を巻き起こす。 五年という期間、ベーシストを入れ替え、彼らは既に往年の少しもさいところのあるスラッシュメタルバンドからスタイリッシュな様変わりを試みた。それまで胸の近くまで伸ばしていた髪を短くし、そして、ひげを蓄え、ワイルドかつアウトローなイメージを前面に押し出す。これはどことなくコッポラが描き出すようなイタリアンマフィアのダンディズム、いかにも見てくれは悪い男ではありながら、クールな魅力を持つワイルドな男たち、という独特な洗練された悪漢の雰囲気を、ロックミュージシャンのキャラクターとして体現、確立させたのである。  

 

 

  

この時点で、新星メタリカが誕生した。振り返ってみれば、この1996年に、メタリカの未来の成功が完全に担保されたのである。アルバムの内ジャケット写真には、ワイングラスを傾ける見違えるようなメタリカの悪漢的な雰囲気が伺える。俺たちは、他のバンドと違い、最も泥臭いバンドであり、不器用でありながら、最もクールな男たちである、そんなふうに、バンドイメージとして新たな戦略を打ちだしてみせた。これは、八十年代のメタリカとは別のロックバンドとして再生した決意表明、つまり、ミュージック・シーンに対して突きつけたふてぶてしさのある挑戦状といえる。ここで、メタリカはあえて前進することにより、この難面を乗り越えようとしたのだった。この思い切りの良い転身は、ヘッドフィールド、ウーリッヒ、ハメットというオリジナルメンバーがもたらした凄まじい改革だった。これは、音楽性においても功を奏し、アルバムの一曲目「Ain't My Bitch」「2✕4」という楽曲を聞けば分かる通り、初期の音楽性からは全く想像だにできない、ブルースの色の強い激渋のロックバンドに変身を果たしている。

しかし、この音楽性の顕著な変化は、流行に乗ったということではない。それは、最初期の音楽性にあるひねくれたようなメタリカらしいメロディー性「メタリカ節」は、ここでも引き継がれているからである。そして、このときの思い切った決断は、賛否両論を音楽シーンに巻き起こすことに成功した。

「LOAD」は、如何にも悪漢、黒人でなく、白人としてのギャングスター的雰囲気に満ちみちているが、その中にも、グランジの静と動、アメリカン・ブルースを受け継いだ形の「Hero Of The Day」といった美しいロック・バラードの名曲も収録されていることは見過ごせない点である。八十年代からのスラッシュ・メタルのスターから華麗なる転身を果たすというのは、往年の八十年代からのファンを一定数失望させもしたのは事実だったはずだが、その反面、当時のリンプ・ビズキットのような現代のファンからも大きな支持を獲得する要因となったことは確実である。

事実、この音楽性は、九十年代初頭のグランジやミクスチャー・ロックの台頭したシーンの音楽性に非常によくマッチし、そして、ビルボードでのセールス面でも堅調、アメリカで高売り上げを記録した。メタリカのもうひとつ側面、表情を映し出したモンスターアルバムである。ここで彼らは、再度、上位に返り咲いた。つまり、この作品において、メタリカは、前作で売れたからといって守りに入るのでなく、一点攻勢に打って出ることにより、二度目の華々しいブレイクを果たしたのだった。 

それまでのスラッシュメタル路線から、このヘヴィ・メタルではなく、ヘヴィ・ロックバンドとしての道を選択したことが真っ当な判断であったことは、さらなる快進撃、「LOAD」の連作の「RELOAD」、そして、中期の傑作となる「ガレージ・インク」において、同じようなロックバンドとしての醍醐味、モンスターバンドとしての勢いを全然失っていない点からも証明されている。

 


8.全米を代表するロックバンドへの成長、アメリカンドリームの実現

 

メタリカは、このアメリカの九十年代の音楽シーンの目まぐるしい移り変わりに柔軟に対応し、驚くほどの変身を遂げたことにより、当時のシーンから取り残されることなく、リンプ・ビズキットといったバンドの兄貴分としてアメリカのロックシーンでの王座をさらに盤石たらしめていく。

むしろ、このときの思い切った選択により、メタリカは、より、魅力的なロック界のカリスマとして生まれ変わったといえる。そして、メタリカの音楽、そして、「ショーエンターテインメントとしてのメタリカ」が完成したのが、ご存知、1999年リリースされ、後にはこの年の4月の二日間に及ぶ公演の模様が映像作品化される「S&M」、シンフォニー・アンド・メタリカである。 

 

 

 

この作品で、「ダイハード」「007」といったハリウッド名アクション映画を手掛け、また、これまで、ピンク・フロイドやエリック・クラプトン、布袋寅泰、あるいはデヴィッド・ボウイ・ケイト・ブッシュとの共作を持つ劇伴音楽の巨匠マイケル・ケイメンが、メタリカ側に歩み寄り、この一見、実現不可能にも思える計画を持ちかけた。

元来、メタル音楽は、クラシックに近い音楽性を擁しているものの、表向きには、水と油の関係のように思えていた。実際、クラシカルの弦の生音の音量、管弦楽器のドラムとの音域の被り、大掛かりなライブロックサウンドとの音の兼ね合いを考えてみると、エヴェレストの踏破、いや、K2踏破のように、一見したところ、無謀な計画であったように思える。しかしながら、メタリカとマイケル・ケイメンは共に、この高い山をなんなく乗り越えてみせる。ひとつ、この公演が大成功をおさめた要因は、ケイメンがメタリカの音楽に深い理解を示していたからだろうと思う。これまで、先述したように、マイケル・ケイメンは、ブラック・アルバムの一曲「Nothing Else Matters」で制作者として名を連ねている。つまり、メタリカサウンドをレコーディングの際に間近で体験していたことが、このときの計画に良い影響を与えたように思える。 

しかし、実際の公演まで、困難がなかったわけではない。何度も、相当入念なリハーサルを重ね、そして、楽曲の選考がケイマンとメタリカのメンバー間で行われたようである。実際のオーケストラとメタル音楽をライブステージ上でかけ合わせた時、どの音楽がふさわしく、また、どの音楽が共演にとってふさわしくないのか。メタリカのメンバー、とりわけ、ドラマーのラーズ・ウィリッヒとマイケル・ケイマンの間で、何度も議論がかわされた。その結果、クラシカル音楽の風味が強い、一見、この公演にうってつけのように思われるブラック・アルバム収録の「The Unforgiven」は、実際のセットリストから外されることとなった。そして、この過程で、着々とセットリストが組まれていくが、また、このコンサートを成功させるために、もうひとつ難しい問題があった。メタリカの大音量のサウンドの醍醐味を壊さないため、オーケストラの生音の音をどのような編成で演奏すべきかという難題が浮上するのである。しかし、この難局も、マイケル・ケイメンという劇伴音楽の巨匠は、見事に打開してみせた。

それというのは、実際のオーケストラの編成を、フェルベルト・フォン・カラヤン=ベルリン・フィルも真っ青ともいうべき大編成、総勢104名ものサンフランシスコ交響楽団の演奏者を、このライブコンサートに際して組み入れることを決めたのである。要は、ヘヴィ・メタルに負けない大音量を出すため、また、ドラムの音量に負けない弦楽の重厚さを引き出すため、これくらいの総数は必要だったのである。これは、クラシック音楽、ロック音楽、双方に造詣の深いケイマンの名人芸ともいえる音楽史に残る偉業であった。また、メタリカの盟友といえるカナダの音楽界で殿堂入りを果たしているボブ・ロックをプロデューサーに招いたこともこの公演の成功を後押しした。 

METALLICA S&M With Michael Kamen And San Francisco Symphony Orchestra
左から メタリカのドラマーのラーズ・ウィリッヒと指揮者のマイケル・ケイマン

 

1999年4月、二日間に渡って行われたこのサンフランシスコ交響楽団との共演は結果的に大成功を収める。メタリカは、ヘヴィ・メタルと古典音楽の融合、壮大な「メタル・シンフォニー」をマイケル・ケイマンと協力して完成させた。この作品は、メタリカのこれまでのオリジナル・アルバムほどまでにはセールス面で成功しなかったが、アルバムとしてグラミーを獲得し、後に映像作品としても発売される。この作品では、メタリカのサウンド、そして、サンフランシスコ交響楽団の本気の鬩ぎ合いを味わえる。5.1chサラウンドのマルチアングルが取り入れられた画期的な映像作品で、ハリソン・フォード、シュワルツネッガーといったアクション俳優も真っ青になりそうな視覚的スペクタルを体現した。これは、大げさに言い換えれば、「メタル・ミュージカル」というクイーンのロックオペラに次ぐ新ジャンルを完成させてみせたというわけである。

この映像作品を見るかぎりで、よく分かるのは、マイケル・ケイマンがメタリカと共に作り上げたかったのは、単なる音楽のショーではなかった。おそらくそれは、クラシックとロックの橋渡し、そして、新たなアクション立体映像とメタル音楽との融合であり、これまで存在しえなかったエンターテインメントの表現方法を、ケイマンはメタリカの四人と作り上げるべく試みていたのである。

こうして、後の素晴らしい演奏力を誇るようになったからこそ、こんなことをあえていわせてもらうのだが、デビュー当時、ロンドンのマーキーの公演において、チューニングが全然合わない狂った音で演奏していた”最もチューニングを気にしない”メタリカは、デビューから約16年を経て、”最もチューニングを気にする”由緒あるサウンフランシスコ交響楽団と共演するまでに至ったというわけなのである。これは、俯瞰してみると、ちょっとしたユニークな逸話のように思える。もちろん、実際の作品を聞いていただければ理解してもらえるはずだが、この伝説的公演でのメタリカのチューニングは完璧に整っているのだ!!!! 

この1999年から二十年後の2019年、メタリカは再び「S&M2」において、サンフランシスコに新たに開いたアリーナのこけら落としの公演において、このメタリカとサンフランシスコ交響楽団は見事な再演を果たし、大きな話題を呼んだ。この頃、既にマイケル・ケイメンは二千年代の初めに心臓発作で亡くなっているため、残念ながら、一度目の「S&M」での公演のように、サンフランシスコ交響楽団のオーケストラの指揮者として、再度メタリカとライブステージにおいて共演を果たす悲願は叶わなかった。しかし、この四万人以上を動員したライブパフォーマンスは、映像作品としてプロモーションされ、新宿ピカデリーでも上映された作品である。

   

9.メタリカが見た未来のヘヴィ・ロック

 

メタリカはここでついにメタル音楽の最高峰に上り詰めた。しかし、二千年代に入っても彼らの勢いは衰えることはなかった。


ベーシストの再度変更を試みた後の2003年の作品「St.Anger」では、アメリカン・ロックと最初期のスラッシュメタルを融合したパワフルなサウンドに回帰し、さらに新境地を開拓する。最初にはじまったメタリカ流フロンティア精神は、ここでも引き継がれている。この作品は、日本のオリコンチャートでも初登場一位の偉業を果たす。メタリカはついに、メタル音楽を欧米圏だけでなく、日本まで普及させ、ここでも覇権を取り、アジア圏の音楽市場でも不動の地位を築き上げた。 

  

 

  

そして、一応、申し添えておくなら、エアロスミスのようなハードロック勢ならいざしらず、これはヘヴィ・メタルバンドとしては信じがたい快挙である。また、この作品のプロモーションビデオでは、実際の囚人をエキストラとして登場させている。つまり、ここでの「セイント・アンガー」とは、囚人たちの怒りを彼らメタリカが代わりに背に負い、ヘヴィロックとして体現させている。

また、その後も、メタリカのフロンティア精神は、ほとんど無尽蔵ともいうべき強大なエネルギーによって支えられ、全く衰えの兆しを見せなかった。

世界規模のツアーを毎年敢行する傍ら、レコーディング制作も精力的にこなしていき、その傍ら、「Some Kind of Monster」2004「Death Magnetic」2008の二作のスタジオ・アルバムをリリース。そして、この二千年代の最もメタリカの注目するべき作品が、アメリカのシンガーソングライターのカリスマ、ルー・リードとの共作「Lulu 」である。これは、マイルスの名作「Tutu」にかけた作品と思われるが、ここで、メタリカの面々は、ルー・リードの最後の創作性を巧みに引き出すことに成功したのだった。そして、プロフィール写真を見ても分かる通り、ルー・リードは、メタリカの五番目のメンバーというような雰囲気があって感慨深い。 

 

 

 

この作品「Lulu」で、ルー・リードは自身の素晴らしい才覚が全然衰えを見せていないことを証明してみせた。それから、メタリカは、このアメリカのロックの伝説、晩年のルー・リードをメタリカ自身の公演にゲストとして招聘、ルーの名曲「Sweet Jane」を共演する。観客のどよめくようなルー・コール、微笑ましくルー・リードを招き入れるメタリカの四人衆。それから、ルーの演奏をサポートするメタリカの面々。メタリカは、このNYの伝説的なミュージシャンを紹介する際、「ルー・リードという存在がなければ、メタリカも存在しえなかったのだ」と語る。

ここで、往年のロックスター、そして、現代のロックスターのキャラクター性が見事な融合を果たした。「スイート・ジェーン」をメタリカのフロントマンとして演奏するルー・リード。これが最後の公の演奏になったのではなかったろうか? ここで、メタリカはついにルー・リードと協力し、ディランの先にある「フォーク・メタル」を完成させる。この例から見ても分かる通り、メタリカという存在は古くからのすべてのインディーミュージックを咀嚼した上で、それをクールにヘヴィ・メタル音楽として再現させた。彼らはまさにアメリカンドリームの体現者であったのだ。

それは、ファンとしての贔屓目に言ってみれば、メタルの伝道師というように喩えられるかもしれない。それは彼らがこれまでの作品において、多くキリスト教の概念を楽曲のストーリーの中に込めてきたからでもある。なおかつ、もうひとつ、この四人の男たちが最も神から愛されたロックミュージシャンだからでもある。これまでのメタリカが、四十年近いキャリアを全力で駆け抜けてこられた、そして、もちろん、これからも同じである要因を探るとするなら、それは、「最初の自分たちの好きな音を演奏する」という動機が今なお継続されているからだろう。

 

実に、子供のような無邪気さを惜しげもなく、世界に向けて、エネルギーとして全方位に放出する。

これがひとえに、ロックの神様にメタリカがこれまで愛されてきた理由であったのだ。そして、すべての教えの神様と同じように、メタリカもまた、けして、人を選ぶことはない。選ぶ方は常に人であって、神は、人を選ばない。つまり、この四人は、天下人から軍人、罪人にいたるまで、全人類にメタルミュージックを介し、大いなる祝福を与えつづけた列聖「セイント・アンガー=怒れる聖人」なのである。

  


さて、最後に、性懲りもなく、最初の話題に戻るとしよう。メタリカの四十年近いキャリアの中で歴代最大の売上を記録した「Metallica」。

通称、ブラック・アルバムのボックスセットが、来る9月11日にリリース予定となっている。輸入盤ではあるものの、あらためて、メタリカファン、いや、メタルファンとして、再注目するべきリイシュー盤である。また、追記として、彼らのボックスセットに対抗するような形で、メガデスが、ライブ・アルバム「Unplugged In Boston」を、ひっそりリリースしている。これはまさに、メタリカとメガデスという一から二に分離した関係が、デビュー時の因縁から始まったように、奇妙なライバル関係を現在まで保ちつづける証左といえよう。

デイヴ・ムスティンは、そもそも、本当に、メタリカを赦しているのか?? それはわからないことだけれども、すくなくとも、この二つのロックバンドの音楽を介しての熾烈なメタル・バトルからは今後も目が離すことが出来ないはずだ。おそらく、このメタリカ、メガデスの間で、常に繰り広げられるWWEのマクマホンも真っ青のメタル・バトルはまだ引き続いている。ああ、そのバトルは、ヘヴィ・メタルという世界一クールなジャンルがこの世に存在しつづけるかぎり、永遠に終わることはないのだ!!