ラベル Nirvana の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル Nirvana の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
『Nevermind』の成功の後にコバーンは何を求めたのか




「より大衆に嫌われるレコードを作ろうと思ったんだ」カート・コバーンは、『Nevermind』の次の作品『In Utero』のリリースに関して率直に語っている。そもそも、Melvinsのオーディションを受けたシアトルのシーンに関わっていた高校生時代からコバーンの志すサウンドは、若干の変更はあるが、それほど大きく変わってはいない。『Nevermind』で大きな成功を手中に収めた後、新しい作品の制作に着手しないニルヴァーナにゲフィン・レコードは業を煮やし、コンピレーション・アルバム『Incesticide』でなんとか空白期間を埋めようとした。その中で、「Dive」「Aero Zeppelin」といったバンドの隠れた代表作もギリギリのところで世に送り出している。

 

ある人は、『In Utero』に関して、ニルヴァーナの『Bleach』時代の原始的なシアトル・サウンドを最も表現したアルバムと考えるかもしれない。また、ある人は、『Nevermind』のような芸術的な高みに達することができず、制作上の困難から苦境に立たされた賛否両論のアルバムだったと考える人もいるだろう。しかしながら、このアルバムは、グランジというジャンルの決定的な音楽性を内包させており、その中にはダークなポップ性もある。シングル曲のMVを見ても分かる通り、カート・コバーンの内面が赤裸々に重々しい音楽としてアウトプットされたアルバムと称せるかもしれない。





三作目のアルバムが発売されたのは1993年9月のこと、カート・コバーンは翌年4月に自ら命を絶った。そのため、このアルバムは、しばしばコバーンの自殺に関連して様々な形で解釈され、説明されてきたことは多くの人に知られている。


『In Utero』は彼らが間違いなく最高のバンドであった時期にレコーディングされた。前作『Nevermind』のラジオ・フレンドリーなヒットは、バンドにメインストリームでの大きな成功をもたらし、ビルボード200チャートで首位を獲得し、グランジをアンダーグラウンドから一般大衆の意識へと押し上げた。もちろん、彼らは当時の大スター、マイケル・ジャクソンを押しのけてトップの座に上り詰めたのだった。


DIY、反企業、本物志向のパンク・ムーブメント、Melvins、Green River、Mother Love Boneを始めとするシアトル・シーンに根ざして活動してきたバンドにとって、この報酬はむしろ足かせとなった。コバーンは、心の内面に満ちる芸術的誠実さと商業的成功の合間で葛藤を抱えることになった。巨大な名声を嫌悪し、私生活へのメディアの介入に激怒したカートは、あらゆる方面からプレッシャーをかけられて、逃げ場がないような状況に陥ったのだ。


アバディーンで歯科助手を務めていた時代、その給料から制作費をひねり出した実質的なデビュー・アルバム『Bleach』の時代から、カート・コバーンはDIYの活動スタイルを堅持し、また、そのことを誇りに考えてきた経緯があったが、メジャー・レーベルとの契約、そして、『Nevermind』のヒットの後、彼は実際のところ、シアトルのインディー・シーンのバンドに対し、決まりの悪さを感じていたという逸話もある。期せずして一夜にしてメインストリームに押し上げられたため、それらのインディーズ・バンドとの良好な関係を以後、綿密に構築していくことができなくなっていた。

 

それまではDIYの急進的なバンドとしてアバディーンを中心とするシーンで活躍してきたコバーンは、多分、売れることに関して戸惑いを覚えたのではなかった。自分の立場が変わり、親密なグランジ・シーンを築き上げてきた地元のバンドとの関係が立ち行かなくなったことが、どうにも収まりがつかなかった。それがつまり、94年の決定的な破綻をもたらし、「ロックスターの教科書があればよかった」という言葉を残す原因となったのである。彼は、音楽性と商業性の狭間で思い悩み、答えを導きだすことが出来ずにいたのだ。

 

『In Utero』を『Nevermind』の成功の延長線上にあると考えることは不可欠である。コバーンは、バンドのセカンド・アルバムがあまりにも商業的すぎると感じ、「キャンディ・アス」とさえ表現し、アクセシビリティと、ネヴァー・マインドのラジオでの大々的なプレイをきっかけに制作に着手しはじめた。当時、カート・コバーンは、「ジョック、人種差別主義者、同性愛嫌悪者に憤慨していた」と語っている。だから、歌詞の中には「神様はゲイ」という赤裸々でエクストリームな表現も登場することになった。サード・アルバムで、前作の成功の事例を繰り返すことをコバーンは良しとせず、バンドのデビュー作『Bleach』におけるアグレッシヴなサウンドに立ち返りたかったとも考えられる。その証拠として、アルバムに収録されている『Tourette's』には、『Nagative Creep』時代のメタルとパンクの融合に加え、スラッシュ・メタルのようなソリッドなリフを突き出したスピーディーなチューンが生み出された。


カート・コバーンは、内面のダークでサイケデリックな側面を赤裸々に表現し、芸術的な信憑性を求めようとした。以前よりもソリッドなギターのプロダクションを求めていたのかもしれない。そこで、以前、Big Blackのフェアウェル・ツアーで一緒に共演したUSインディーのプロデューサーの大御所、スティーヴ・アルビニに白羽の矢を立てた。

 

それ以前には、Slintのアルバム『Tweedz』のエンジニアとして知られ、後にロバート・プラントのアルバムのプロデューサーとして名を馳せるスティーヴ・アルビニは、1990年代中頃、アメリカのオルタナティブ・シーンの寵児として見なされていた。当時、彼は、過激でアグレッシヴなサウンドを作り出すことで知られ、インディー・ロックの最高峰のレコードを作り出すための資質を持っていた。この時、彼は別名でミネアポリスのスタジオを予約したという。その中には、メディアにアルバム制作の噂を嗅ぎつけられないように工夫を凝らす必要があった。

 



・スティーヴ・アルビニとの協力 ミネアポリスでの録音




「噂が広まらないようにする必要があった」とスティーヴ・アルビニは、NMEのインタビューで語った。


「インディペンデントなレコーディング・スタジオで、そこで働いている人は少人数だった。彼らに秘密を託したくなかったから、自分の名義で"サイモン・リッチー・バンド"という偽名でスタジオを予約することにした」「実は、サイモン・リッチーというのは、シド・ヴィシャスの本名なんだ。もちろん、スタジオのオーナーでさえ、ニルヴァーナが来るとは知らなかったのさ」

 

しかし、当時のバンドの知名度とは裏腹に、プロデューサーはセッションは比較的スタンダードなものだったと主張した。「セッションには変わった点は何もなかった」と彼は付け加えた。


「つまり、彼らが非常に有名であることを除けば……。そしてファンで溢れかえらないように、できる限り隠しておく必要があった。それが唯一、奇妙なことだったんだよ」


「”In Utero”のセッションのかなり前に、Big Blackがお別れツアーを行った時、最終公演はシアトルの工業地帯で行われた」とアルビニは回想している。「奇妙な建物で、その場しのぎのステージでしかなかった。でも、クールなライブで、最後に機材を全部壊した。その後、ある青年がステージからギターの一部を取っていい、と聞いてきて、私が『良いよ、もうゴミなんだし』と言ったのをよく覚えているんだ。その先、どうなったかは想像がつきますよね...」


アルビニは自らスタジオを選び、Nirvanaをミネソタ/ミネアポリスのパチダーム・スタジオに連れ出すことに決めた。音楽ビジネスに対する実直なアプローチで知られる彼は、バンドの印税を軽減することを拒否し、ビジネスの慣習を "倫理的に容認できない"と表現した。その代わり、彼は一律100,000ポンドで仕事を受けた。当初、バンドとアルビニはアルバムを完成させる期限を2週間に設定したが、全レコーディングは6日以内に終了、最初のミックスはわずか5日で完了した。


アルバムをめぐる最大の議論の一つは、セカンドアルバムとは似ても似つかないプロダクションの方向性である。アルビニが好んだレコーディング・スタイルは、可能な限り多くのバンドを一緒にライブ演奏させ、時折、ドラムを別録りしたり、ボーカルやギターのトラックを追加することだった。

 

これによって2つの画期的なサウンドが生み出されることになった。第一点は、コバーンのヴォーカルを楽器の上に置くのではなしに、ミックスの中に没入させたこと。第二点は、デイヴ・グロールのアグレッシブなドラムがさらにパワフルになったことである。これは、アルビニがグロールのドラム・キットを30本以上のマイクで囲み、スタジオのキッチンでドラムを録音し自然なリバーブをかけたことや、グロールの見事なドラムの演奏の貢献によるところが大きかった。コバーンの歌詞が『イン・ユーテロ』分析の焦点になることが多い一方、グロールのドラミングは見落とされがちだが、この10年間で最も優れた演奏のひとつに数えられるかもしれない。


録音を終えた後、カート・コバーンは完成したアルバムをDGCレーベルの重役に聴かせた。『ネヴァーマインド』的なヒット曲を渇望していた会社幹部は、失望の色を露わにした。同時に、その反応は、アルバムの成功に思いを巡らせながら、自分の理想を堅持し続け、自分たちの信じる音楽をリリースすることを想定していたカート・コバーンに大きな葛藤を抱えさせる要因となった。

 

結局、レーベルとバンドの議論の末、折衷案が出される。アルバムのシングルは、カレッジ・ロックの雄、R.E.Mのプロデューサー、スコット・リットに渡され、ラジオ向きのスタイルにリミックスされた。スティーヴ・アルビニは当初、マスターをレーベル側に渡すことを拒否していたのだった。



・『In Utero』の発売後 アルバムの歌詞をめぐるスキャンダラスな論争

 


 

諸般の問題が立ちはだかった末、リリースされた『In Utero』は、思いのほか、多くのファンに温かく迎えられることになった。しかし、このアルバムに収録された「Rape Me」を巡ってセンセーショナルな論争が沸き起こった。この曲について、カート・コバーンは、SPINに「明確な反レイプ・ソングである」と語っていて、後にニルヴァーナの伝記を記したマイケル・アゼラット氏は、「コバーンのメディアに対する嫌悪感が示されている」と指摘している。しかしながら、世間の反応と視線は、表向きの過激さやセンセーション性に向けられた。その結果、ウォルマート、Kマートは、曲名を変更するまで販売の拒否を表明した。にもかかわらず、このアルバムは飛ぶように売れた。

 

翌年の4月8日、コバーンがシアトルの自宅で死亡しているのが発見された。警察当局は、ガン・ショットによる自殺と断定したことは周知の通りである。このことは、アルバムの解釈の仕方を決定的に変えたのである。多くのファンや批評家は、アルバムの歌詞やテーマは、コバーンの死の予兆だったのではないかと表立って主張するようになった。このアルバムは、混乱し窮地に立たされた彼の内面の反映であり、以後のドラッグ常習における破滅的な彼の人生の結末の予兆ともなっている。

 

しかし、別の側面から見ると、「死の影に満ちたアルバム」という考えは、単なる後付けでしかなく、歴史修正主義、あるいは印象の補正に過ぎない事を示唆している。憂鬱と死に焦点を当てた『Pennyroyal Tea』の歌詞は、『In Utero』リリースの3年前、1990年の時点で書かれていたし、同様に、ニルヴァーナ・ファンのお気に入りの曲のひとつであり、来るべき自死の予兆であったとされる『All Apologies』も1990年に書かれていたのだ。


ただ、ニルヴァーナの最後のアルバムがレコーディング中のカート・コバーンの精神的、感情的な状態を語っていないとか、コバーンが自ら命を絶つ兆候を全く含んでいないと言えば嘘偽りとなるだろう。しかし、それと同時に、『In Utero』をフロントマンの自殺だけに関連したものとして読み解くことは、その煩瑣性を見誤ることになる。


このレコードは、スターとしての重圧、新しい家族との関係、メインストリームでの成功と芸術的誠実さの間の精神的な苦闘について、あるいは、彼の幼少期の親戚の間でのたらい回しから生じた、うつ病や死の観念について、アーカイブで表向きに語られる事以上に、彼の生におけるリアリティが織り交ぜられている。



以下の記事もあわせてご一読下さい:



グランジロックの再考  NIRVANAとMEAT PUPPETSの親密な関係

ニルヴァーナ『イン・ユーテロ』は、20周年記念として2013年に増補リイシューされているが、再びデラックスバージョンでリリースされることになった。カート・コバーン率いるバンドの最後のスタジオ・アルバムは、30周年を記念して10月27日にGeffen/UMeから8枚組LPと5枚組CD、53曲の未発表ライヴ・トラックを含むいくつかのフォーマットで再発される。


この音源は、1993年12月30日にロサンゼルスのグレート・ウェスタン・フォーラムで行われたイン・ユーテロ時代の2つのフル・コンサートと、1994年1月7日にシアトル・センターで行われたコバーンが亡くなる前のニルヴァーナの最後の地元公演から抜粋されたものだ。この音源は、1989年のデビュー・アルバム『Bleach』をプロデュースしたシアトルのプロデューサー/エンジニア、ジャック・エンディーノがサウンドボード・テープから編集した。また、エンジニアのボブ・ウェストンが『イン・ユーテロ』セッションのオリジナル12曲とボーナス・トラック/サイド5曲をリマスタリングしている。


1993年9月21日に発売された『イン・ユーテロ』は、ビルボード200で初登場1位を獲得し、"All Apologies"、"Heart-Shaped Box"、"Rape Me "などの曲で知られる。全米レコード協会によると、全米出荷枚数は600万枚と認定されている。


Steve Albini&Nirvana

1993年2月、ニルヴァーナがレコーディング・エンジニアのスティーブ・アルビニとともに自作の『In Utero』のレコーディングに取り掛かるため、ミネアポリス郊外50マイルのパチダーム・スタジオでキャンプをした時、彼らはセカンド・アルバム『Nevermind』のおかげで大きな存在になっていました。そのため、アルビニはバンドを別名でスタジオを予約することにした。

 

「噂が広まらないようにする必要があったんだ」とアルビニはNMEに新しいインタビューで語っている。「そのスタジオはインディペンデントなレコーディングスタジオで、そこで働いている人は少人数だった。彼らに秘密を託したくなかったから、自分のアカウントで「サイモン・リッチー・バンド」という偽名でスタジオを予約したんだ。「もちろん、シド・ヴィシャスの本名だ」


もちろん、スタジオのオーナーでさえ、ニルヴァーナが来るとは知らなかったのです。しかし、バンドの知名度とは裏腹に、プロデューサーはセッションは比較的普通のものだったと主張する。


「セッションには何もなかった」と彼は付け加えます。「つまり、彼らが非常に有名であることを除けば、です。ファンで溢れかえらないように、できる限り隠蔽する必要があったんだ。それが唯一、奇妙なことだったんだ」


予想外の要因として、アルビニはカート・コバーンとギターのつながりがあることを知りました-ニルヴァーナのソングライターが思い出させてくれるまで知らなかったことです。

 

「In Uteroのセッションのかなり前に、私のバンド、Big Blackがお別れツアーを行ったとき、最終公演はシアトルのある工業地帯で行われたんだ」とスティーヴ・アルビニは回想している。「奇妙な建物で、その場しのぎのステージだった。クールなライブで、最後に機材を全部壊してしまったんだ。その後、ある青年がステージからギターの一部を取っていいかと聞いてきて、私が『どうぞ、もうゴミですから』と言ったのをはっきり覚えていますよ。この先、どうなるかは想像がつきますよね...」

 

 


「何年も経ってから、ミネソタのスタジオで『In Utero』に取り組んでいたとき、カートは保存していたこのときのライブで拾ったギターの小さな破片を私に見せてくれたんだ。彼は長い年月を経て、それを私のところに持ってきたのだ。そう、コバーンはそのときの青年だったんだ」

Meat Puppets

これまで風変わりなバンドやアーティストは数多く聴いてきたものの、Meat Puppetsほど変わったロック・バンドというのはあまり聴いたことがない。

 

ミート・パペッツは、アリゾナ出身のバンドで、当初はカート・カーウッド、クリス・カーウッドを中心にトリオとして80年に結成され、後に、五人組(現在は四人?)のバンドとなり、何度か解散しているが、現在も活動中である。近年では、KEXPでパフォーマンスを行っている。


もちろん、グランジ、ニルヴァーナ関連に詳しい方は、このバンドに対してカート・コバーンが入れ込んでいたことを知る人も少なくないかもしれない。他にも、コバーンは、シアトルのメルヴィンズに強い触発を受けているとも言われる。そして、いわゆるパンクとメタルの間の子としてのグランジ・ミュージックが誕生し、薄汚れたとか汚らしいというコバーン特有のファッションの表現が定着し、グランジという言葉が生み出されたのだった。そして、コバーンは、稀にボーカルのピッチがよれたような奇妙な歌い方をする場合がある。このスタイルは間違いなく、アリゾナのミート・パペッツのCurt Kirkwoodのボーカルに触発を受けていると思われる。

 

そして、実際、ニルヴァーナは91年の『Nevermind』、93年の「In Utero』で成功を収め、ロックスターとしての地位を手中に収めた。さらに、その年、自らのルーツを公にするようになった。ゲフィン・レコードが主宰する93年のMTV Unpluggedでは、一転してエレクトリックギターではなく、アコースティックギターでそれまで発表した作品を再構成し、パンクのラウド性だけが魅力のバンドではなく、静かに聴かせるバンドでもあることを対外的に示唆したのであった。そして、このアコースティック・ライブに、Meat Puppetsのギタリストのクリス・カークウッドが登場したため、パペッツも自ずとその名を広く認知されることになった。これはたぶんコバーンなりの配慮があって、アリゾナのバンドの音楽に深く触発を受けていることを周知し、改めてミート・パペッツに対するリスペクトを示そうとしたのではなかっただろうか。 

 

MTV Unplugged、1993 「Plateau」

 

 

ともあれ、Meat Puppetsは、80年代のUSハードコアパンクシーン、しかも相当マニアックなアンダーグラウンド界隈から出てきたバンドであることは間違いない。しかも、ミート・パペッツはこの後の時代にメジャーのアイランドレコードと契約し、このバンドにしては珍しく大衆的なロックソング「Backwater」を発表しているが、その出発点を辿ると、きわめてマニアックなバンドとして、Black Flagのグレッグ・ギンが主宰していたSST Recordsからデビューを果たしたのだった。

 

セルフタイトル『Meat Puppets』を聴くと分かる通り、ミート・パペッツは、ある側面では、スピードチューンを誇るハードコアバンドとして出発している。このファーストアルバムには若さゆえの無謀さや未知の可能性を詰め込み、それらをジャンク感満載のハードコアパンクとして無理やり押し込んだような音楽性が全体に通底している。ただ、その中にも米国南部のバンドとしてのルーツが含まれていた。つまり、それらが、グレイトフル・デッドのようなカルフォルニアのサイケデリック・ロック、そして、カントリー、ブルーグラス、そしてテキサス/メキシカンの南部のアメリカーナである。これらが渾然一体となったカオティックな音楽がミート・パペッツの他では求められない特性でもある。ファースト・アルバムに見られるようなすさまじい勢いと、その背後に漂うアリゾナの砂漠地帯を彷彿とさせる幻想性が、カオティック・ハードコアの最初期の源流に位置づけられるこのセルフタイトルの核心を形成していたのだった。

 

次いで、アリゾナのロックバンドが二作目として84年に発表した『Meat Puppets Ⅱ」は、 前者のハードコアのアプローチから若干距離を置いている。これは一見すると、パンクから遠ざかったという見方が出来るが、実はそうではなく、パンクの無限の可能性を示そうとしたというのである。この点について、フロントマンのカート・カークウッドは、「あえてみんなのために空振りをしたんだ」と語っている。「それくらいパンクなことをやってみてもいいのではないか?」と。 


それがどのような結果となったのかは、2ndアルバムが雄弁に物語っている。カントリー/ブルーグラスをパンクとして再解釈した「Magic Toy Missing」、ジョニー・キャッシュのようなフォーク/カントリーをロカビリー風にアレンジした「Lost」、そして、後にニルヴァーナがMTVでアコースティックバージョンとしてカバーする「Plateau」、「Lake Of Fire」、さらにはヒッピーの暮らしと彼らの信ずるジャンクな神様に対する信仰を描いた「New Gods」、さらにはローリング・ストーンズを無気力にカバーした「What To Do」といった唯一無二のパンクロックソングが生み出されることになった。また、オーロラの神秘性をメキシカンな雰囲気で捉えたインストゥルメンタル曲「Aurora Borealis」は空前絶後の曲である。何かこれらの音楽には、度数の高いテキーラ、メキシカン・ハット、タコス、そして、サボテンというものがよく似合う。これらのアリゾナや国境付近の砂漠であったり、テキサス/メキシコ音楽の影響を反映した奇妙なエキゾチズムが、生前のカート・コバーンの心を捉えたであろうことはそれほど想像に難くない。


近年のMeat Puppets


その後、ミート・パペッツは、カート・コバーンの紹介もあり、いくらかシニカルなユニークさを交えたロック・ミュージックへと方向性を転じ、多作なロックバンドとして知られることに。そして、シンプルなロックバンドとしての商業的なピークは、MTVアンプラグドの翌年、94年の「Too High To Die」に訪れる。しかも、このアルバムは、それまでのジャンクロック/カオティックハードコアとは異なり、SoundgardenやAlice in Chainsに近いグランジっぽい音楽性を含んでいた。


94年といえば、ローリング・ストーン誌の有名なカバーアートを飾った後、コバーンが死去した年である。そして、「Too High To Die」が発売されたのはコバーンが死去する3ヶ月前のこと。アルバムのタイトルについて考えると、こじつけのようになってしまうが、ミート・パペッツはシアトルのMelvinsよりもはるかにニルヴァーナと近い関係にあるようにも感じられる。ニルヴァーナは知っているけれどミート・パペッツを知らないという方は改めてチェックしてみてほしい。

 

 

 

 



以下の記事もあわせてご一読下さい:


NIRVANA 『IN UTERO』が30周年 大ヒットの後の原点回帰 制作秘話

Nirvana 『Nevermind』のアートワーク
 

ニルヴァーナは、「ネヴァーマインド」のカバーアートに赤ちゃんの姿で登場し、有名となった原告スペンサー・エルデン氏が起こした「児童ポルノ」訴訟に勝訴したことがこの度判明した。

 

ローリングストーン誌によると、このネヴァーマインド裁判を担当したフェルナンド・オルギン米連邦地裁判事は、”エルデンが提訴するのに長く時間をかけ過ぎた”という事由を元に、10年の時効に基づき訴えを棄却することを最終的に決定した。「要するに、(エルデンが)違反を発見してから10年以内に訴状を提出しなかったことは議論の余地がないため、裁判所は彼の請求は時効でないと結論付けた」とフェルナンド・オルギンは8ページに及ぶ裁判の判決文において記している。

 

裁判の判事オルギンは続けた。"原告は時効に関する彼の訴状の欠陥に対処する機会があったので、裁判所は、原告に修正された訴状を提出する4回目の機会を与えることは無駄であると説得される。"

 

さらにこの最終的な判決を受けて、ニルヴァーナの法務担当者はロイター通信に対して次のように語った。"我々は、このメリットのない訴訟が迅速に最終的な結論に至ったことを喜んでいる"。

 

被告ニルヴァーナは2021年8月に初めて訴えの却下を申請し、スペンサー・エルデンは長年にわたり、サイン入りのカバーを販売したり、大人になってから写真を再現するなど、ネヴァーマインドのカバーアートとの関わりを進んでアピールしてきたため、彼は何らの損害も被っていないと主張していた。また、エルデンが訴訟を起こすには時間が経ちすぎているとのことだった。

 

スペンサー・エルデン氏側の主張は、精神的苦痛、稼得能力の喪失、成人後の「人生の楽しみの喪失」といった損害を被ったとのことであった。また、彼は、バンドが彼の性器をステッカー等で隠す取り決めが交わされていたが、実際のアルバム・アートの公開、アルバムの発売時に約束が組み込まれなかったこと、コバーン、クリスト・ノヴォセリック、デイヴ・グロールが性的搾取から彼を保護しなかったことを裁判において主張した。さらに彼は、この訴訟で、ジャケットのドル札が赤ちゃんを "風俗嬢 "に似せているとも主張している。スペンサー・エルデンは、この訴訟において、名前を挙げた各当事者にそれぞれ15万ドルの賠償金請求を行っていた。


スペンサー・エルデンは以前、三形式の訴状を裁判所に対して提出していたが、今回の裁判官の棄却により、これ以後、4つ目の訴状を提出することができなくなる。