特集 【メタリカ】 神に愛された四人の男たち


来る9月11日にメタリカの「Metallica」通称「ブラック・アルバム」のリマスターボックスセットの輸入盤の発売が予定されている。

既に、Spotifyでは、シングル盤の「Nothing Else Matters」が配信されている。特に、ギターの音色、ストリングス・アレンジが艶気が漂っており、ファンとしては要チェック。

往年のメタリカのファンはこのシングルを聴きながら、このモンスターボックスセットの発売を待ち望んでいるはず。良い機会なので、このアメリカで最も有名なメタルバンド 、メタリカのサクセスストーリーについてあらためておさらいしておきましょう。 

 

1.メタリカとしての出発 


Metallicaは今や、アメリカ、いや、世界的な知名度を誇る最もクールなロックバンドである。この群をぬいてかっこよい四人衆メタリカは、現在ですら、それほど音楽を知らない人もその名くらいは耳にしたことがあるような存在となった。しかし、多くの伝説的なロックバンドが様々な体験を乗り越え、スターダムに上り詰めるのと同じように、彼らメタリカ四人の歩みの道のりは必ずしも平坦なものとはいえなかった。きっと事実は小説よりも奇なりという言葉がふさわしい、フィクションよりもはるかにフィクション的な魅力あるエピソードがいくつか引き出されるだろう。

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そもそも、最初のメタリカのレコーディングのエピソードからして、スキャンダラスな雰囲気が漂っている。メタリカは、元Megadeth(日本でも、テレビタレントとして、お馴染みのマーティー・フリードマンが在籍)のギターボーカル、デイヴ・ムスティンが在籍していたバンドとしても有名だが、いざ、メタリカの面々がファースト・アルバムをNYでレコーディングする直前、音楽的な方向性が違うという有りがちな理由で、デイヴ・ムスティンは解雇通知を受けたという。

その後、メタリカは、レコーディングを続け、無事、この最初のアルバム作品を完成へとこぎつける。一方、デイブ・ムスティンは失望の最中、メタリカに対抗意識を燃やし、Meagadethを結成、最初の作品「Killing My Business」をリリースする。これは、メタリカのデビューアルバム「Kill’Em All」に対するあてこすりという見方も出来なくもない。実際の音楽性においても、デイヴ・ムスティンのメタリカへの私怨がメタルとして、どす黒〜く渦巻いているような危ない雰囲気に満ちた刺激的な作品である。

このデイヴ・ムスティンという人物は、元々、十代の頃から、麻薬の売人として生計をたてていた。ハイスクールにもろくすっぽ通わず、ガールフレンドの家に入り浸り、地下の売人として、タフにこの世を生き抜いてきた経歴を持つロックミュージシャンだ。ムスティンは、若い頃から、ロックとギターを誰よりも愛し、ギターのテクニックを縁に生きてきた人物であるため、この時のメタリカの解雇という経験に、大きなショックを受けたであろうことは確実である。このときの、怒り、哀しみ、また、あるいは、綺麗事の背後ににじむシニカルさを主題とし、その後、ムスティンは、ヘヴィメタル音楽、重〜い音楽として昇華させていくようになる。ようやく、ムスティンの思いは、スタジオ・アルバム「Peace Sells..(But Who's Buying?)「Rust In Peace」という作品で結実を見る。その後、メガデスは、メタリカという存在に肩を並べるロックバンドとして、世界的に認知されるようになる。特に、国連本部らしき建造物が破壊された過激なアルバムジャケットが描かれている「Peace Sells...But Who' Buying」1986、は、ブレクジットでの英国の離脱をはじめとする事象、表面上の「EU共同体という幻想」がのちに打ち砕かれると、あろうことか、国連本部が設立される以前、1986年に予見している。

しかし、少なくとも、メタリカ、メガデス、この二つに分かたれたロックバンドは、初めの経緯こそほろ苦いものがあるにしても、その後は、善きライバル的としての良好な関係を保ちながら、アメリカのスラッシュ・メタルシーンを共に牽引していくアーティストとなった。 その後、デイヴ・ムスティンが、メタリカの出世作「Ride the Lightning」にレコーディングセッションに参加しているのは、メタリカとメガデスという両ロックバンドが和解した何よりの証拠でもある。

デイヴ・ムスティンを解雇した後、メタリカが「Kill ’Em All」という、なんとも身も蓋もない、ヤバそうな名のアルバムを引っさげてデビューした際、この作品は、当初から大きな反響を呼んだわけではない。

 

 


のちに、メタル系をアルバム使う雑誌媒体において、再評価の試みはなされるものの、それはメタリカが有名になってからの後付評価でしかない。もちろんごく一部の目ざと〜いリスナーには注目されていたという話もあるにせよ、少なくとも、最初の音楽シーンに与えたインパクトというのは微々たるもので、アメリカンドリームどころか、一般的なビッグサクセスの概念からはかけ離れていたのは事実である。 

おそらく、このバンドのデビュー時、メタリカというロックバンドが、80年代終盤から90年代にかけて世界的なスターロックバンドに成長していく、しかも、そののちには、サンフランシスコ交響楽団と共演する、あるいはまた、ウォルト・ディズニーのサウンドトラックにギタリストとしてゲスト参加する、なんてことを言っても、誰もが不可解そうに首を振り、にわかに信じようとしなかったはずだ。

事実、筆者も、このサクセスストーリは今でも眉唾もののように思う。音楽性においても確かにクールなメタリカではあるが、他のバンドと際立ってすぐれていたのかというと、必ずしもその理論は当てはまらないように思える。以前に、デビュー当時は、一部のメタルマニアしか知らないマニアックなバンドでしかなかったから、まだブレイクする直前は、メタリカという名を聞いてもよくわからない、なにそれ、という状態だった人が多かったはずだ。それは、勿論、このロックバンドがアングラの象徴のような音楽ジャンル、スラッシュ・メタルから出発したロックバンドだからである。 

しかし、メタリカは、事実、後に、大きな星を掴みとり、ロック界のアメリカンドリームを手中に収め、一躍スターダムに上り詰める。それから、押しもおされぬ世界的ロックバンドに成長していったわけである。なぜ、メタリカは、それほど、時代を代表するような目もくらむほど強大なロックバンドとして成長していったのだろう? そもそも、この異様なサクセスストーリーは、ゴールドラッシュ時代のアメリカンドリームを、メタリカという四人組は、ロックミュージックシーンにおいて見事に体現させたという表現がふさわしい。つまり、メタリカという存在は、地べたから汗まみれ、いや、彼らの90年代の「ガレージ・インク」という名作に因むのなら、ガソリンの煤まみれになって、頂点に這い上がって来た正真正銘の叩き上げの実力派ロックバンドである。 

それは、この四人の風貌についても同じで、デビュー当時は、アメリカのメタル界に無数に溢れていたブリーチした長髪、革ジャン革パンという、いかにも、メタルバンドらしいちょっとダサダサなファッションスタイルについても、その後、九十年代に入り、音楽性が変わるとともに様変わりし、徐々に別のロックバンドへ変身していった。それは常に、モンスターロックバンドとしての進化を繰り返したゆえの男としてのコンフィデンスが、彼ら四人の風格からは滲んでおり、そのプライドが他のバンドよりも遥かに強いがゆえ、今日まで長らくロックシーンの最前線を走り続けて行くことが可能となった理由といえる。その辺りが、メタリカという存在が今なお、多くのアメリカ人に絶大な支持を受け、不動のロックバンドとして君臨する要因でもある。     

そして、メタリカのデビューを「Kill 'Em All」がリリースされた1983年とすると、これまで、四十年近い道のりにおいて、メンバーチェンジこそあっても、活動自体にそれほど大きな中断を挟むこともなく、ロックシーンの最前線を全速力で走ってきた。この事実はほとんど信じがたいことである。

  

 2.スラッシュメタルシーンへの台頭

  

そもそも、あまりメタルというジャンルに詳しくない方のためにも、このメタリカが看板として掲げる「スラッシュ・メタル」という音楽について、あらためて確認しておく必要があるかもしれない。

このスラッシュ・メタルというのジャンルは、1980年代を中心にアメリカで起こり、盛り上がったジャンルで、ザクザクと、痛快なギターリフが刻まれるアップテンポの楽曲を特徴とするメタルミュージックである。このあたりのバンドは、アメリカに多く分布し、SLAYER、S.O.D,Anthraxといったグループが有名である。この中でも、スレイヤーは、複数回、グラミー賞メタル部門の勝者に輝いている世界的なスラッシュメタルバンドだ。もちろん、このスラッシュ・メタルというのは、かつては、ごく一部しか知られていないニッチでアングラなジャンルであったものの、今や実際のコアな音楽性から想像できないほど、大きな人気を博すようになった。                

これらのバンドに代表される、激烈で性急なザクザクという音を立てるソリッドなギターリフ、そして、16ビートを特徴とした楽曲のテンポ自体の速さを競うようなスラッシュというジャンルは、80年代のイギリスを中心に流行したNWOHMのジャンルの後に勃興した音楽であり、パンク・ロック、ハードコア・パンクの下地を持つという点で、イギリスのメタル音楽と異なる部分がある。

このジャンルは、メタリカとメガデスという存在が世界的な知名度を与えるのに貢献した。そして、このジャンルはのちになって、エクストリームな音楽性が付加され、より早いグラインド・コアというジャンルに直結した。このグラインドコアというのは、ブラストビートというリズムの破壊性、異質なテンポの速さを持つのが特徴で、速さを競う音楽でもある。バンドとしては、ナパーム・デスというバンドが有名であり、世界一最も短い楽曲を書いていることでもよく知られている。 



さらに、”メタル”という得難い音楽について探ると、一般に、オジー・オズボーンの在籍していたBlack Sabbathの音楽性が、メタル音楽の始まりであり、1stアルバムの「黒い安息日」のBlack Sabbathという楽曲がメタルの発祥だと言われている。この楽曲に登場する、鐘の音の不気味な響き、おどろおどろしい宗教的な趣向性を持つ楽曲、オズボーンの地の底を這うような重苦しい歌い方は、メタル音楽の素地を作り、ロック音楽の中に少なからず宗教性を与えた。それはメタル=宗教性のある音楽という概念を暗黙裡に植え付けた。(もちろん、西洋的なキリスト教的な概念上に限っての話である)

このネーミングについては、最初、「裸のランチ」等の著作で有名な文学者、ウィリアム・バロウズが、鉱物的な概念に「メタル」という名称を与えて、それが、現地NYタイムズなどのメディアを通じて、この重いロック音楽=メタルというワードが徐々に浸透していき、この後、七十年代から八十年代にかけて、ほとんど数えきれないほどのメタルジャンルに細分化されていくに至る。

当時、このメタル音楽がどれくらいのファン層を獲得したかまでは明言できないが、この年代から、英国ではケラング、そして、日本ではBURRNと、メタルを専門とする有名な音楽誌が続々と刊行されるようになる。これらのメディア媒体は、一般的なメタルという音楽の認知度を高める上で、なおかつまた、リスナーの裾野を広げるという側面において、文化的に大きな貢献を果たした。そして、1980年代から、およそ数え切れないほどのカテゴライズが登場する。 

これがレコードショップ、あるいは、音楽メディアが、順々に、こういった呼称を与えていったのかまでは判然としないが、ブラック・メタル、スラッシュ・メタル、LAメタル、北欧メタル、パワーメタル、デスメタル、グラインドコア、さらに細かな分類がなされていくに至る。その後、数え切れないメタルジャンルが、現れては、消え、現れては、消えていく。90年代に入り、メタルとパンクハードコアを融合させたニューメタル(グルーヴ・メタル)というジャンルも登場。もちろん、そのメタル音楽の極北に、セカンド・アルバム「Iowa」で全米チャート初登場一位を獲得するSLIPKNOTのラップ・メタルや、重苦しいというメタル本来の音楽性の対極にある、BABYMETALのようなアイドル・メタルが位置するのが、今日の音楽シーンの現状である。

  

3.メタリカのシーンへの台頭

  

一連のメタル音楽が流行っていく中で、メタリカは、最初、スラッシュメタルシーンの有望株として台頭したのは疑いを入れる余地はない。

しかし、それはあくまで、スラッシュメタルシーン界隈のみで語られるべきで、ロックスターとして将来を嘱望される存在ではなかったように思える。このバンドが、結成最初から、現在のハリウッドスターのようなロックミュージシャンだったと記述をするのは、仮に、私が世界一のメタリカファンであるとしても、これは出来かねる。モーターヘッド、そして、ヴェノムの音楽性を引き継ぐコアなロックバンドとして出発したメタリカ。しかし、実際のところ、現在の一部のスキもない高度な演奏力からは想像出来ないほど、結成当初は、演奏が稚拙で、悪い言葉でいえば、下手なバンドとしてミュージックシーンに登場したのだった。それに加え、華々しい台頭とはお世辞にもいえなかった。さらにまた、このバンドは、元々、売れ線を狙って登場したロックバンドでもなかった。興味深いことには、只、好きな音楽をやっていたら、その延長線上にメタリカという音楽が形作られ、その音楽が世界的に有名になった。ただそれだけのことだった。

このあたりの事情については、「ライド・ザ・ライトニング」のライナーノーツに、音楽評論家の有島博志さんのマーキー出演後のメタリカの取材インタビューが掲載されているので引用する。 

 

”有島さんの、「なぜ、こういう過激な音作りをするの?」という問いに対して、

 

 

ジェイムスが説明する。

 

 

「俺達がMETALLICAをスタートした時、アメリカにはこんな過激な音を出すバンドなんてイヤしなかった。だから、コレだって思ったのさ。それに、こういう音ってやってて気持ちいいんだゼ」

 

 

ラーズが続ける……。

 

 

「理屈や理由なんて要らないんだ。ただ、俺達はこういう音が好きだからこういう音作りをしている。ただ、それだけさ……」

 

2人のそのコメントを耳にした時、何てストレートな連中なんだろう、と心なしか感動したものである。”


 

 

このことは、メタリカの面々がアメリカの、メタル、あるいはロック音楽の時流とは全然関係なしに、ただ単に、自分たちの好きな音楽、ロックを心ゆくまで少年のように純粋に追究しただけだったという事実が伺える。もちろん、売れ線の音楽性、バンドキャラクターから大きくかけ離れているという事実、それは、メタリカの一番最初のスタジオ・アルバム「Kill ’Em All」という血塗りのハンマー、いかがわしく、ホラーチックで、近寄りがたい雰囲気のあるジャケットのアルバムアートワークが象徴している。つまり、このメタリカというロックバンドの出発は、全国区の評判とならず、一部のマニア向けの存在でしかなかった。当時、日本のレコード店でも、大々的に売り出されていたわけではなく、レコードショップの片隅でひっそりと陳列されているような作品であった。つまり、当初、日本では、このメタリカというロックバンドは、いや、もしかすると、母国アメリカでさえも、デビュー当時のスレイヤーのように、メタルマニアしか着目しないような、知る人ぞ知るバンドであったという表現が妥当かもしれない。 

事実、八十年代においてスラッシュ・メタルというのは、きわめてニッチなジャンルでしかなかった。それは後、グラミー・メタル部門を獲得するスレイヤーでさえ、デビューアルバムの発売当時、悪魔崇拝的であるとされ、キリスト教団体からの苦情を受け、1stアルバムはすぐさま発禁処分となり、販売元すら見つからなかったというエピソードがそのことを如実に物語っている。

しかも、このスレイヤーというロックバンドの最初のプロフィール写真もきわめて悪趣味であり、女性の生贄をギャグ的に写し込んだマルキド・サドや澁澤龍彦の描くような耽美的で退廃的な世界観を持ち、いかがわしさとアングラ色が漂っていたことはあまり今では一般に知られていない。

このスラッシュメタル、デスメタル、ブラックメタルの黒魔術的な音楽の要素というのは、70年代のブラック・サバスとオジー・オズボーンの体現させた奇妙で異質なキリスト教観から来ている。 

そして、このメタリカという後のアメリカン・ドリームを体現するロックバンドも、ニッチさアングラさにおいて、ロックバンドとしての駆け出しについては、同時期に台頭したスレイヤー、先輩格にある黒魔術信仰をバンドキャラクターとして打ち出したカルト的なブラックメタルバンド、ヴェノムとさほど大差はなかった。少なくとも、ボン・ジョヴィやエアロスミスのようなハードロック界隈のビッグアーティストとは、その出発点が全然異なるということだけは確実である。

最初のメタリカのメンバーのラインナップは、ジェイムス・ヘッドフィールド(Gt,Vo)ラーズ・ウィリッヒ(Dr)、クリフ・バートン(Ba)、カーク・ハメット(Gt)。クリフ・バートンをのぞいては現在の編成と一緒ではあるものの、最初期の演奏力は、お世辞にも高いとは言えず、現在のような完璧性、他のロックバンドを圧倒するような存在感、超越感はこの時まだ全く感じられない。たしかに、ファースト・アルバムでのギターリフの「ザクザク」という痛快感あるギターリフを聴くかぎりでは、他のバンドより音楽性において秀でている部分もあった。しかし、どちらかといえば、当初、不器用さのあるロックバンドで、B級感のある冴えないグループでもあったのだ。

そもそも、「デビュー前の西海岸でのクラブサーキットも、五十人の動員を確保するのがようやくだった」と、「ライド・ザ・ライトニング」のライナーノーツにおいて、評論家の有島博志さんが綴っているように、メタリカはコアなロックバンドとして出発した。クラブサーキットはドサ回りのようなところから始まり、活動初期において、アメリカ国内で超過密日程のライブを夢中でこなすうち、徐々に地力をつけていった叩き上げの実力派ロックバンドだったのである。  


そして、このメタリカというバンドの人気に最初に火がついたのは、本国のアメリカではなくて、ヨーロッパであった。全米ではまだ知名度の低い時代、デビューから間もない83年のこと。このバンドは、ヘヴィメタル・ファンジンが主催するヨーロッパのツアーを精力的にこなし、一年の間に、めきめきと力をつけ、アクトのヘッドライナーに抜擢される、等の実績を最初にヨーロッパで積み上げていった。

その一番低い、地べたから汗まみれとなり這いずり上がり、ビックアーティストまで一歩ずつ地を踏みしめながらロックの殿堂への階段を上がってきたという実感や誇りが、このメタリカという四人の男たちの最大の結束力を形作り、ちょっとやそっとでは崩折れないプロミュージシャンとしての強みである。もちろん、音楽性についてもメタリカ節と呼ばれるブルージーなフレーズがあるのは、このバンドの泥臭さ、男らしい不器用さからくる哀愁を象徴しているといえよう。 

その後、91年のブラック・アルバムでのビルボード・チャートで打ちたてた200週以上連続ランクインという偉業は、このメタリカというロックバンドの長い歩みを概観してみた際には、ほんのオマケのサインドストーリーにしか過ぎない、といえる。そして、このメタリカの醸し出す、マッチョでスポーティなイメージは、アメリカンロックの基本概念として象徴されるように思える。もちろん、これは、その全く対極にある、アンチテーゼとしての反マッチョイズムを掲げたインディーロックという見過ごしがたい存在があるということを加味した上での話である。


4.メタリカの打ち立てた最初の金字塔 


そして、メタリカの全米のクラブサーキットの成果があってのことか、既に、最初の星を掴む予兆は、セカンド・アルバムのリリースにおいて顕著に現れた。ロックバンドの始まりとしては、マニア向けの限定的な存在でしかなかったメタリカ、米国西海岸のクラブで、五十人の集客を集めるのがようやくだったメタリカは、このセカンド・アルバム「Ride The Lightning」の制作により、急激な変貌を見せ、全米随一のメタルバンドへと成長していく。その間、わずか一年。もちろん、その間に、なんらかの出来事があったはずだが、このエピソードから垣間見える事実は、ファストフードにしても何にしても、アメリカという国は何でも、展開が目くるめく早さで決まるということだ。

このスタジオ・アルバム「ライド・ザ・ライトニング」のレコーディングの直前に、メタリカは、イギリスで華々しいデビューを飾り、ライブ興行を成功させている。今でいうところのワンマンコンサートを、伝説的ライブハウス「マーキー」で開催した。しかし、これはゲリラ的開催で、チケットの手配など、プロモートの面で手抜かりがあった。この悪条件に加え、新聞や雑誌等、メディア告知が思ったほど進捗しなかった。つまり、知る人ぞ知るライブだったはずなのに、「ライブ会場には500人もの観客が集まり、会場の外にも、中に入れない客が百人以上も詰めかけた」というエピソードがこれまた「ライド・ザ・ライトニング」のライナーノーツに見られる。この例から見てもよく分かる通り、メタリカは英国で鮮烈なデビューを飾り、最初、アメリカの国外で知名度を高め、ビッグサクセスへの足がかりにしていったのである。 

本国アメリカではなく、ヨーロッパ、イギリス、海外で、徐々にシェアを高めつつ合ったメタリカは、この好い流れをみすみす逃すことはなかった。彼らは、これらのツアーを成功させたのち、セカンド・アルバムとなる「Ride the Lightning」のレコーディングに入る。 選ばれたのは、アメリカではなく、ドラマーのラーズ・ウィリッヒの故郷、デンマークのコペンハーゲンであった。

  

 

 

これは、当時、もちろん、最初に成功を収めたヨーロッパでさらにリスナー層を増やそうという試みがあり、そして、もうひとつは、当時、人気を博していた北欧メタル勢のような澄明でクラシカルな音を探求しようとし、さらに、また、ひとつは、徐々にアメリカで台頭してきたLAメタル、産業ロックと呼ばれるロックバンドとの差別化を図る。こういった意図も、後付けではあるが、伺えなくもない。つまり、メタリカは、アメリカ国内でのレッドオーシャンではなく、ブルーオーシャンでの格闘を挑んだ。確かに、メタリカの最初期の音楽性は、どちらかといえば、アメリカらしいメタルの風味に乏しく、アイアン・メイデン、ジューダス・プリーストのようなイギリスの硬派なメタルの延長線上に位置づけられる。アメリカでのブレイクは時期尚早と見ての、国外での大きなチャレンジであった。これはよく吟味されたロックバンドとしての秀逸な戦術である。

マーキーでのライブを終えて、コペンハーゲンに飛んだメタリカの四人は、スイート・サイレンススタジオの設立者、フレミング・ラズムッセンをエンジニアに迎え入れ、次作の「Ride The Lightning」の制作作業に入る。メタリカーラズムッセンというタッグは、ボブ・ロックと共にメタルエンジニア界の最強コンビといってもいいはずだ。

この後、両者は良好な関係を保ち、次作の「Master of Puppets」あるいは、「……And Justice For All」でも重要なパートナシップを築くようになり、言わば、盟友のような関係を築き上げていく。

すでに、コペンハーゲンに旅立つ前から、メタリカのメンバーには、このアルバムの着想があり、楽曲の構想を練り上げていたため、難産のレコーディングにならず、実際な期間は判然としないが、メタリカは、二作目のアルバム「ライド・ザ・ライトニング」を短期間で完成させたという。

作品の原題「Ride The Lightning」についても、聖書に因んでおり、また、このアルバムの中の「For Whom The Bell Tolls」はもちろん。ヘミングウェイの小説「誰がために鐘が鳴る」に因んで名付けられたり、この作品は、(次作も同様ではあるが)およそメタリカらしからぬ文学的なイメージが漂う作品である。それは、ひとつ、当時、メタルバンドとして不可欠の要素、音としてのストーリー性を加え、全体的にコンセプト・アルバムとしての方向性を追求しようという意図が伺える。

この中の二曲、「Ride The Lightning」そして「The Call Of Ktulu」には、デビュー・アルバムのレコーディング時に袂を分かったデイヴ・ムスティンが参加し、作曲者としてクレジットされている。ついに、最初は喧嘩別れをしたこの両者は今作において、完全な和解を果たしたことが伺える。 

そして、ファースト・アルバムできわめて無骨で荒々しいメタリカのイメージは、このセカンド・アルバムにおいて最初の変身を果たし、叙情的でドラマティックなツインギターのハーモニクスを追求した美麗なサウンドとなっている。これは、北欧でレコーディングされた影響を受け、メタリカの前作品の中で最も叙情的なメロディが感じられる作品となっている。また、内ジャケにおいての写真、雪の上で微笑む四人のメタリカの姿も、今となってはニヤリとさせるものがある。

既に多くのロックファンがご存知のとおり、「ライド・ザ・ライトニング」でアメリカ国内で商業セールス的にも大成功を収めた。ここで、初めて、インディー界隈の知る人ぞ知る存在であったこのマニアックなロックバンドに、アメリカのマネージメント会社、エレクトラ/アサイラム(のちのアサイラムレコード)がメジャー・デビューの話を持ちかけた。この時点で、メタリカの四人はついにメジャー契約という最初の大きな星を、見事に掴み取ってみせたのである。



5.メジャーシーンでの快進撃


続いて、同じようにデンマークのコペンハーゲンで、ライド・ザ・ライトニングの成功にあやかる形でレコーディングされた84年の「Master Of Puppets」も、前作と同じように、フレミング・ラズムッセンを迎え入れ制作された。これは、前作「ライド・ザ・ライトニング」の勢いや流れをそのまま引き継ごうという、アサイラム・レコードの選択は、結果的に大成功を収めたといえる。 

 

 

  

そのことを証明付けるのは、このアルバム「Master Of Puppets」から、後のメタリカの重要なライブのレパートリーとなるロックの金字塔「Battery」「Master Of Puppets」といった名曲が二度目のコペンハーゲンでのレコーディングで誕生したことからも分かる。また、このセカンドアルバムは、前作の北欧メタルとしての抒情性、物語的な雰囲気、キリスト教的な概念、くわえてアメリカン・ロックのパワフルさ、ワイルドさが絶妙にマッチしたヘヴィメタルの名品である。

メタリカは、今作「Master of Puppets」で、サウンドプロダクションの面でも大きな飛躍を見せ、初期の無骨なメタル、二作目のメロディアスなメタル、この両要素を見事に融合させた。そして、ツインリードギターをはじめとする楽曲性、流麗さもありつつ、儚げな印象のある前作に比べ、アルバムの全体の印象としては、力強く存在感のある、ド迫力の大スペクタルを築き上げた。

今、聴いてもなお、二作目と三作目の作品の出来の相違は顕著であり、メジャーに移籍した恩恵を受け、レコーディング費用を以前よりも捻出できるようになったのが、よりサウンド面での進化をもたらしたように思える。つまり、資金面での心強さというのが実際的なレコーディングの音の良さ、張りにも素晴らしい影響を及ぼしたといえる。そして、このアルバムにおいても、メタリカの最初の音楽上の動機、「自分たちのやりたい音をやるだけだ」という、単純なメタリカイズムは、やはり失われずしっかりと受け継がれている。その延長線上において、メタリカは、「メタリカ節」と称されるひねくれたようなブルージーで渋みのあるメロディを完成させたのである。これは、後に、どれだけ、彼ら自身の音楽性が変えようとも、ミュージックシーンがどれほど変容しようと、不変のメタリカの核、つまり、強固な信念のごときものであった。

そして、このあたりから、徐々に音楽性としても変化が見られ、北欧メタルの後追いではなく、もちろん、モーターヘッドやヴェノムのようなマニアックなロックンロールでもなく、世界で唯一、メタリカしか生み出し得ないフレーズ、独特なねじれるような旋律、電子音楽で言えば、ブレイクビーツに属するようなひねりのあるリズム性がこの作品を機に表れるようになる。これはしかし、突然に出てきたものではなくて、初期からのたゆまざるクラブサーキットの成果から引き出された努力の賜物なのである。

つまり、このロックバンドは自分たちの好きな音と誰よりも長く付き合いを重ねた後、自分たちしか出来ないロックスタイルを完成させた。そして、この四人は、デビューからわずか一年という短期間で最大の成果を挙げた。スラッシュ・メタル、いや、ロックの殿堂入りとして後世に語りつがれる今作「Master Of Puppets」'84で、メタリカはアメリカンロックの頂点に上り詰めたのである。

その後も、メタリカの快進撃は引き続いた。「……And justice For All」は、再び、ラムヘッセンをエンジニアに迎え入れてレコーディングされ、この初期三部作「ライド・ザ・ライトニング」「マスターオブパペッツ」「ジャスティス・フォー・オール」の物語は完結するわけである。このアルバムがリリースされた年代を見ると、LAメタル、産業ロックと呼ばれるグラム・メタル勢、ガンズ・アンド・ローゼズ、スキッド・ロウといったロックアーティストのシーンへの台頭を尻目に、メタリカは、これらの面々と異なる独自のメタルロードをひた走り、着実に地盤を固めていく。

時代は、アメリカ全土において、華やかな存在としてのロックの最盛期にあたり、けばけばしい化粧を施したグラムメタル勢が無数に台頭する。しかし、ご存知のようにそれらの燦然たる輝きは、他の年代のロックシーンと比べて際立っていたのは事実ではあるものの、それほど長く続かなかった。

そんな中、メタリカは、結成当初からそうであったように、これらのシーンの流行には一瞥もくれず、独自の音楽性を追求し、メタリカサウンドをより強固なものとしていく。もちろん、これらのグラム・メタル勢、ガンズ・アンド・ローゼズのようなハリウッドやLAを拠点とするアーティストの台頭の強烈な追い風を受け、八十年代終盤から九十年代初頭にかけて、メタリカはさらに強固なメタルバンドとしての地位を踏み硬め、それを不動なものとしていったのは確かである。

このマンチェスターの八十年代を思わせる、LAを中心にしたアメリカの全土を席巻したロックムーブメント。これは数年間、異様なほどの熱狂を見せた。彼らの時代は終わりが来ず、永遠に続くものと思われたが、しかし、そうはならなかったのである。

 

 

6.メタリカの苦境、そして、生き残りのための模索


やがて、九十年代に入ると、これらのLAの産業ロック、所謂、上辺の華やかさを売りにしたパーティー・ロックは急激に衰退していく。経済も物理と原理は同じで、飽和しすぎたものは必ず最後は萎んでいく運命にあるのかもしれない。これは、アメリカ国内で、ひいては、一時的な好景気、世界経済の成長を受けて起こったムーブメントだったように思える、数々のメガヒット、グラミー、そして、ゴールドディスク。数々の名誉がこれらのミュージシャンの頭上に降り注いだ。

それは最も幸福な時代を象徴するようなものであったか、アメリカの音楽産業は最も美味みのある時代を迎えつつあり、この流れは、八十年代の終わりにかけて急激に進んでいった。この年代から、本来、脚光を浴びないはずのアーティストも、続々とオーバーグラウンドに引き上げられていく。これは、音楽産業自体が、柳の下のどじょうを狙うべく、有望なロックバンドを探してきて、作品リリースを行ったからである。しかし、この華やいだムーブメントは、後にインディーズシーンのロックンロールに覇権を奪われ、アメリカの音楽シーンで急速な衰退を見せるようになる。

ヘヴィ・メタル音楽の衰退は、グラムメタルの衰退、そして、シアトル、アバーディーンのグランジの台頭に相携えて始まった。 

このサブ・ポップを中心としたインディーズ・ムーブメントの凄まじい台頭は、アメリカのロックシーンの全貌を完全に一変させてしまったと言える。マイケル・ジャクソンを米ビルボードの一位から引きずり落としての「ネヴァーマインド」の大成功、これはゲフィン・レコードの最大のマーケティングの成功でもあるが、これは、アメリカ全体のロックシーンを揺るがす出来事であった。

そして、この辺りから、八十年代のアメリカを席巻したヘヴィ。メタル音楽の熱狂は、見る影もなくなり、一部のアーティストを差し引けば、ほとんど草の根一本も生えぬほど燦燦たる状況になりかわっていった。それまでチャートを席巻していた華々しいロックミュージシャンたちは、急激に一般的なファンの求心力や興行面での動員を失い、何らかの面で、プロモーション、ファッション、また、音楽性においての路線変更を余儀なくされた。その過程で、音楽面において流行に乗る、という安易な路線変更を試みようとした多くのロックバンドは、シーンのトレンド、流行に乗ろうとしたために、かえって皮肉なことに、その後、急激な凋落、没落を見せていったのである。 

しかし、この90年代の流れは、それまで数々のメタルの金字塔を打ち立ててきたメタリカとても全然無関係ではいられなかったように思える。グランジの台頭を予感したように、その前年にリリースされた「Metallica」通称ブラック・アルバムにおいて、このロックバンドは、アメリカの急激な変化を嗅ぎ取ってか、その音楽性において僅かな変貌を見せている。また、後になってのオーケストラとの共演を図る地盤作りという面での出来事は、ハリウッドのアクション映画音楽を数多く手掛けるマイケル・ケイメンが「Nothing Else Matters」のストリングスアレンジに参加していることだろう。 

 

 

 

このブラック・アルバムから、メタリカは徐々にモデルチェンジを企図し、それまでのスラッシュ・メタル路線の音楽性を引き継ぎながら、独特なアメリカン・ロック色、そして、ブルースに対する傾倒を見せるようになっていく。これは狙ってのことか、そうでないのか定かではないものの、この最もロックシーンで売れたアルバムにおいて、彼らは、ひっそりと、その音楽の潮流を読むかのような器用さを見せ、そして、その後の年代への方向転換を虎視眈々と模索していたのである。

それは、このアルバムの一曲目「Enter Sandman」というこれまた彼らの代名詞的な楽曲によく現れ出ている。

表面的には、ヘヴィメタル音楽としての色は受け継ぎつつも、ここにはなにか、異質な本流のアメリカン・ロックの系譜にあるヘヴィロックの音楽性の萌芽が見られる。そして、どことなくグランジの台頭を予感させるダークさも具備しているのは驚く。つまり、今作において、メタリカは既にその潮流に準じて、スラッシュメタルから別の音楽性への変更の機会を伺っていたともいえる。

そのあたりの初期のスラッシュ・メタル、そして、中期からのアメリカン・ロックという二つのジャンルの架け橋となったのがこの重要なブラック・アルバムという作品の本質であり、これが最も飛ぶように売れたという事実は、まるでアメリカ全体のシーンの流れの変化を象徴づけるようなものだった。

そして、ここでのメタリカの新たな境地へのチャレンジは、他の多くのバンドが凋落していく中で、このバンドをシーンでタフに生き残らせる要因となった。しかし、このブラック・アルバムのリリースの後、スタジオ・アルバムとしては五年という長い期間が流れているのを見ればよく理解できる通り、メタリカの「メタル・ロード」は一筋縄ではいかなかった。この五年は、メタリカという音楽、バンドの形質を変化させるような長年月であったことは確かである。

 

ここに、90年代初頭に起こったアメリカの急激なシーンの変化の中で、五年間、ライブを続けながら、現代の流行から取り残されぬようにたえず模索を続け、生き残るすべを探し求めていた四人の様子がまざまざと伺えるのである。

 


7.大きな変革の時代


そして、事実、ほとんど一夜にして、アメリカのロックシーンがヘヴィ・メタルからヘヴィ・ロックへと完全に推移した。この九十年代から、これまでの音楽性とは異なるロックバンドが出てくる。 

グランジ、ラップメタル、ニューメタル、、、そのジャンルの多さは、これまでの停滞をぶち破るべく立ち現れたあざやかな新風といえる。

アリス・イン・チェインズ、サウンドガーデン、そして、ナイン・インチ・ネイルズ、レッド・ホット・チリペッパーズ、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン、メタリカの王座を背後から虎視眈々と狙い、首座を脅かす存在は多かった。そして、この年代において、メタリカは、それまでのスラッシュ・メタルバンドとしては、ロックの王座に座りつづけることはきわめて困難であるように思えた。頑固一徹、スラッシュメタルという音楽を貫いて、成功したのは、皮肉にも、デビュー当時に最初に発禁処分を受けたスレイヤーで、これは少し妙な言い方になるかもしれないが、それまで溜め込んでいた運のようなものが、ドッと表側に溢れ出したというような感じで、特殊な事例であることは確かだ。元々、マニアックなインディーズバンドが後年にメジャー契約を取り付けた恩恵を受け、ようやくスターダムに上り詰めたという稀有な事例である。

80年代から活躍していたロックバンドが、急激なシーンの変化に対応できず、次々とスターダムから振り落とされていく中、それは後のガンズ・アンド・ローゼズの長い迷走を見ればおわかりのお通り、ほとんどのハードロック/メタルバンドが逃れられなかった運命である。しかし、このメタリカだけは、その座を完全に追われることはなかった。それは、五年という期間を経て発表された次作の「LOAD」において、メタリカは別のロックバンドとして復活を果たすことにより、他の多くの80年代のロックバンドのようには凋落せず、すんでのところで生きぬくことに成功したのだった。つまり、メタリカが他のロックバンドと違うのは、それまで背後に積み上げてきた「功績」「名誉」を捨て、一から出直すことを決意し、前に進みつづけ、モンスターロックバンドとして生き残ることに成功したのだった。そして、このときの選択こそ、最終的には、このメタリカが全米を代表するロックバンドとして不動の地位を獲得した要因でもある。

この96年の「LOAD」において、メタリカは、以前からのファンをある程度失望させるような決意で、表向きのバンドとしてのキャラクターにしても、音楽性にしても、信じがたい変革を巻き起こす。 五年という期間、ベーシストを入れ替え、彼らは既に往年の少しもさいところのあるスラッシュメタルバンドからスタイリッシュな様変わりを試みた。それまで胸の近くまで伸ばしていた髪を短くし、そして、ひげを蓄え、ワイルドかつアウトローなイメージを前面に押し出す。これはどことなくコッポラが描き出すようなイタリアンマフィアのダンディズム、いかにも見てくれは悪い男ではありながら、クールな魅力を持つワイルドな男たち、という独特な洗練された悪漢の雰囲気を、ロックミュージシャンのキャラクターとして体現、確立させたのである。  

 

 

  

この時点で、新星メタリカが誕生した。振り返ってみれば、この1996年に、メタリカの未来の成功が完全に担保されたのである。アルバムの内ジャケット写真には、ワイングラスを傾ける見違えるようなメタリカの悪漢的な雰囲気が伺える。俺たちは、他のバンドと違い、最も泥臭いバンドであり、不器用でありながら、最もクールな男たちである、そんなふうに、バンドイメージとして新たな戦略を打ちだしてみせた。これは、八十年代のメタリカとは別のロックバンドとして再生した決意表明、つまり、ミュージック・シーンに対して突きつけたふてぶてしさのある挑戦状といえる。ここで、メタリカはあえて前進することにより、この難面を乗り越えようとしたのだった。この思い切りの良い転身は、ヘッドフィールド、ウーリッヒ、ハメットというオリジナルメンバーがもたらした凄まじい改革だった。これは、音楽性においても功を奏し、アルバムの一曲目「Ain't My Bitch」「2✕4」という楽曲を聞けば分かる通り、初期の音楽性からは全く想像だにできない、ブルースの色の強い激渋のロックバンドに変身を果たしている。

しかし、この音楽性の顕著な変化は、流行に乗ったということではない。それは、最初期の音楽性にあるひねくれたようなメタリカらしいメロディー性「メタリカ節」は、ここでも引き継がれているからである。そして、このときの思い切った決断は、賛否両論を音楽シーンに巻き起こすことに成功した。

「LOAD」は、如何にも悪漢、黒人でなく、白人としてのギャングスター的雰囲気に満ちみちているが、その中にも、グランジの静と動、アメリカン・ブルースを受け継いだ形の「Hero Of The Day」といった美しいロック・バラードの名曲も収録されていることは見過ごせない点である。八十年代からのスラッシュ・メタルのスターから華麗なる転身を果たすというのは、往年の八十年代からのファンを一定数失望させもしたのは事実だったはずだが、その反面、当時のリンプ・ビズキットのような現代のファンからも大きな支持を獲得する要因となったことは確実である。

事実、この音楽性は、九十年代初頭のグランジやミクスチャー・ロックの台頭したシーンの音楽性に非常によくマッチし、そして、ビルボードでのセールス面でも堅調、アメリカで高売り上げを記録した。メタリカのもうひとつ側面、表情を映し出したモンスターアルバムである。ここで彼らは、再度、上位に返り咲いた。つまり、この作品において、メタリカは、前作で売れたからといって守りに入るのでなく、一点攻勢に打って出ることにより、二度目の華々しいブレイクを果たしたのだった。 

それまでのスラッシュメタル路線から、このヘヴィ・メタルではなく、ヘヴィ・ロックバンドとしての道を選択したことが真っ当な判断であったことは、さらなる快進撃、「LOAD」の連作の「RELOAD」、そして、中期の傑作となる「ガレージ・インク」において、同じようなロックバンドとしての醍醐味、モンスターバンドとしての勢いを全然失っていない点からも証明されている。

 


8.全米を代表するロックバンドへの成長、アメリカンドリームの実現

 

メタリカは、このアメリカの九十年代の音楽シーンの目まぐるしい移り変わりに柔軟に対応し、驚くほどの変身を遂げたことにより、当時のシーンから取り残されることなく、リンプ・ビズキットといったバンドの兄貴分としてアメリカのロックシーンでの王座をさらに盤石たらしめていく。

むしろ、このときの思い切った選択により、メタリカは、より、魅力的なロック界のカリスマとして生まれ変わったといえる。そして、メタリカの音楽、そして、「ショーエンターテインメントとしてのメタリカ」が完成したのが、ご存知、1999年リリースされ、後にはこの年の4月の二日間に及ぶ公演の模様が映像作品化される「S&M」、シンフォニー・アンド・メタリカである。 

 

 

 

この作品で、「ダイハード」「007」といったハリウッド名アクション映画を手掛け、また、これまで、ピンク・フロイドやエリック・クラプトン、布袋寅泰、あるいはデヴィッド・ボウイ・ケイト・ブッシュとの共作を持つ劇伴音楽の巨匠マイケル・ケイメンが、メタリカ側に歩み寄り、この一見、実現不可能にも思える計画を持ちかけた。

元来、メタル音楽は、クラシックに近い音楽性を擁しているものの、表向きには、水と油の関係のように思えていた。実際、クラシカルの弦の生音の音量、管弦楽器のドラムとの音域の被り、大掛かりなライブロックサウンドとの音の兼ね合いを考えてみると、エヴェレストの踏破、いや、K2踏破のように、一見したところ、無謀な計画であったように思える。しかしながら、メタリカとマイケル・ケイメンは共に、この高い山をなんなく乗り越えてみせる。ひとつ、この公演が大成功をおさめた要因は、ケイメンがメタリカの音楽に深い理解を示していたからだろうと思う。これまで、先述したように、マイケル・ケイメンは、ブラック・アルバムの一曲「Nothing Else Matters」で制作者として名を連ねている。つまり、メタリカサウンドをレコーディングの際に間近で体験していたことが、このときの計画に良い影響を与えたように思える。 

しかし、実際の公演まで、困難がなかったわけではない。何度も、相当入念なリハーサルを重ね、そして、楽曲の選考がケイマンとメタリカのメンバー間で行われたようである。実際のオーケストラとメタル音楽をライブステージ上でかけ合わせた時、どの音楽がふさわしく、また、どの音楽が共演にとってふさわしくないのか。メタリカのメンバー、とりわけ、ドラマーのラーズ・ウィリッヒとマイケル・ケイマンの間で、何度も議論がかわされた。その結果、クラシカル音楽の風味が強い、一見、この公演にうってつけのように思われるブラック・アルバム収録の「The Unforgiven」は、実際のセットリストから外されることとなった。そして、この過程で、着々とセットリストが組まれていくが、また、このコンサートを成功させるために、もうひとつ難しい問題があった。メタリカの大音量のサウンドの醍醐味を壊さないため、オーケストラの生音の音をどのような編成で演奏すべきかという難題が浮上するのである。しかし、この難局も、マイケル・ケイメンという劇伴音楽の巨匠は、見事に打開してみせた。

それというのは、実際のオーケストラの編成を、フェルベルト・フォン・カラヤン=ベルリン・フィルも真っ青ともいうべき大編成、総勢104名ものサンフランシスコ交響楽団の演奏者を、このライブコンサートに際して組み入れることを決めたのである。要は、ヘヴィ・メタルに負けない大音量を出すため、また、ドラムの音量に負けない弦楽の重厚さを引き出すため、これくらいの総数は必要だったのである。これは、クラシック音楽、ロック音楽、双方に造詣の深いケイマンの名人芸ともいえる音楽史に残る偉業であった。また、メタリカの盟友といえるカナダの音楽界で殿堂入りを果たしているボブ・ロックをプロデューサーに招いたこともこの公演の成功を後押しした。 

METALLICA S&M With Michael Kamen And San Francisco Symphony Orchestra
左から メタリカのドラマーのラーズ・ウィリッヒと指揮者のマイケル・ケイマン

 

1999年4月、二日間に渡って行われたこのサンフランシスコ交響楽団との共演は結果的に大成功を収める。メタリカは、ヘヴィ・メタルと古典音楽の融合、壮大な「メタル・シンフォニー」をマイケル・ケイマンと協力して完成させた。この作品は、メタリカのこれまでのオリジナル・アルバムほどまでにはセールス面で成功しなかったが、アルバムとしてグラミーを獲得し、後に映像作品としても発売される。この作品では、メタリカのサウンド、そして、サンフランシスコ交響楽団の本気の鬩ぎ合いを味わえる。5.1chサラウンドのマルチアングルが取り入れられた画期的な映像作品で、ハリソン・フォード、シュワルツネッガーといったアクション俳優も真っ青になりそうな視覚的スペクタルを体現した。これは、大げさに言い換えれば、「メタル・ミュージカル」というクイーンのロックオペラに次ぐ新ジャンルを完成させてみせたというわけである。

この映像作品を見るかぎりで、よく分かるのは、マイケル・ケイマンがメタリカと共に作り上げたかったのは、単なる音楽のショーではなかった。おそらくそれは、クラシックとロックの橋渡し、そして、新たなアクション立体映像とメタル音楽との融合であり、これまで存在しえなかったエンターテインメントの表現方法を、ケイマンはメタリカの四人と作り上げるべく試みていたのである。

こうして、後の素晴らしい演奏力を誇るようになったからこそ、こんなことをあえていわせてもらうのだが、デビュー当時、ロンドンのマーキーの公演において、チューニングが全然合わない狂った音で演奏していた”最もチューニングを気にしない”メタリカは、デビューから約16年を経て、”最もチューニングを気にする”由緒あるサウンフランシスコ交響楽団と共演するまでに至ったというわけなのである。これは、俯瞰してみると、ちょっとしたユニークな逸話のように思える。もちろん、実際の作品を聞いていただければ理解してもらえるはずだが、この伝説的公演でのメタリカのチューニングは完璧に整っているのだ!!!! 

この1999年から二十年後の2019年、メタリカは再び「S&M2」において、サンフランシスコに新たに開いたアリーナのこけら落としの公演において、このメタリカとサンフランシスコ交響楽団は見事な再演を果たし、大きな話題を呼んだ。この頃、既にマイケル・ケイメンは二千年代の初めに心臓発作で亡くなっているため、残念ながら、一度目の「S&M」での公演のように、サンフランシスコ交響楽団のオーケストラの指揮者として、再度メタリカとライブステージにおいて共演を果たす悲願は叶わなかった。しかし、この四万人以上を動員したライブパフォーマンスは、映像作品としてプロモーションされ、新宿ピカデリーでも上映された作品である。

   

9.メタリカが見た未来のヘヴィ・ロック

 

メタリカはここでついにメタル音楽の最高峰に上り詰めた。しかし、二千年代に入っても彼らの勢いは衰えることはなかった。


ベーシストの再度変更を試みた後の2003年の作品「St.Anger」では、アメリカン・ロックと最初期のスラッシュメタルを融合したパワフルなサウンドに回帰し、さらに新境地を開拓する。最初にはじまったメタリカ流フロンティア精神は、ここでも引き継がれている。この作品は、日本のオリコンチャートでも初登場一位の偉業を果たす。メタリカはついに、メタル音楽を欧米圏だけでなく、日本まで普及させ、ここでも覇権を取り、アジア圏の音楽市場でも不動の地位を築き上げた。 

  

 

  

そして、一応、申し添えておくなら、エアロスミスのようなハードロック勢ならいざしらず、これはヘヴィ・メタルバンドとしては信じがたい快挙である。また、この作品のプロモーションビデオでは、実際の囚人をエキストラとして登場させている。つまり、ここでの「セイント・アンガー」とは、囚人たちの怒りを彼らメタリカが代わりに背に負い、ヘヴィロックとして体現させている。

また、その後も、メタリカのフロンティア精神は、ほとんど無尽蔵ともいうべき強大なエネルギーによって支えられ、全く衰えの兆しを見せなかった。

世界規模のツアーを毎年敢行する傍ら、レコーディング制作も精力的にこなしていき、その傍ら、「Some Kind of Monster」2004「Death Magnetic」2008の二作のスタジオ・アルバムをリリース。そして、この二千年代の最もメタリカの注目するべき作品が、アメリカのシンガーソングライターのカリスマ、ルー・リードとの共作「Lulu 」である。これは、マイルスの名作「Tutu」にかけた作品と思われるが、ここで、メタリカの面々は、ルー・リードの最後の創作性を巧みに引き出すことに成功したのだった。そして、プロフィール写真を見ても分かる通り、ルー・リードは、メタリカの五番目のメンバーというような雰囲気があって感慨深い。 

 

 

 

この作品「Lulu」で、ルー・リードは自身の素晴らしい才覚が全然衰えを見せていないことを証明してみせた。それから、メタリカは、このアメリカのロックの伝説、晩年のルー・リードをメタリカ自身の公演にゲストとして招聘、ルーの名曲「Sweet Jane」を共演する。観客のどよめくようなルー・コール、微笑ましくルー・リードを招き入れるメタリカの四人衆。それから、ルーの演奏をサポートするメタリカの面々。メタリカは、このNYの伝説的なミュージシャンを紹介する際、「ルー・リードという存在がなければ、メタリカも存在しえなかったのだ」と語る。

ここで、往年のロックスター、そして、現代のロックスターのキャラクター性が見事な融合を果たした。「スイート・ジェーン」をメタリカのフロントマンとして演奏するルー・リード。これが最後の公の演奏になったのではなかったろうか? ここで、メタリカはついにルー・リードと協力し、ディランの先にある「フォーク・メタル」を完成させる。この例から見ても分かる通り、メタリカという存在は古くからのすべてのインディーミュージックを咀嚼した上で、それをクールにヘヴィ・メタル音楽として再現させた。彼らはまさにアメリカンドリームの体現者であったのだ。

それは、ファンとしての贔屓目に言ってみれば、メタルの伝道師というように喩えられるかもしれない。それは彼らがこれまでの作品において、多くキリスト教の概念を楽曲のストーリーの中に込めてきたからでもある。なおかつ、もうひとつ、この四人の男たちが最も神から愛されたロックミュージシャンだからでもある。これまでのメタリカが、四十年近いキャリアを全力で駆け抜けてこられた、そして、もちろん、これからも同じである要因を探るとするなら、それは、「最初の自分たちの好きな音を演奏する」という動機が今なお継続されているからだろう。

 

実に、子供のような無邪気さを惜しげもなく、世界に向けて、エネルギーとして全方位に放出する。

これがひとえに、ロックの神様にメタリカがこれまで愛されてきた理由であったのだ。そして、すべての教えの神様と同じように、メタリカもまた、けして、人を選ぶことはない。選ぶ方は常に人であって、神は、人を選ばない。つまり、この四人は、天下人から軍人、罪人にいたるまで、全人類にメタルミュージックを介し、大いなる祝福を与えつづけた列聖「セイント・アンガー=怒れる聖人」なのである。

  


さて、最後に、性懲りもなく、最初の話題に戻るとしよう。メタリカの四十年近いキャリアの中で歴代最大の売上を記録した「Metallica」。

通称、ブラック・アルバムのボックスセットが、来る9月11日にリリース予定となっている。輸入盤ではあるものの、あらためて、メタリカファン、いや、メタルファンとして、再注目するべきリイシュー盤である。また、追記として、彼らのボックスセットに対抗するような形で、メガデスが、ライブ・アルバム「Unplugged In Boston」を、ひっそりリリースしている。これはまさに、メタリカとメガデスという一から二に分離した関係が、デビュー時の因縁から始まったように、奇妙なライバル関係を現在まで保ちつづける証左といえよう。

デイヴ・ムスティンは、そもそも、本当に、メタリカを赦しているのか?? それはわからないことだけれども、すくなくとも、この二つのロックバンドの音楽を介しての熾烈なメタル・バトルからは今後も目が離すことが出来ないはずだ。おそらく、このメタリカ、メガデスの間で、常に繰り広げられるWWEのマクマホンも真っ青のメタル・バトルはまだ引き続いている。ああ、そのバトルは、ヘヴィ・メタルという世界一クールなジャンルがこの世に存在しつづけるかぎり、永遠に終わることはないのだ!!

 

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