レコードプレイヤー、ターンテーブルの歴史 様々な発明家の音の探求

 今日では、音声を録音し、それを記録として残していくという方法はごく自然な技術となりました。現代では、私達は何らかの音声を、スマートフォンに内蔵されたマイクロフォンを通して簡単に録音出来るようになりましたが、もちろん、20世紀以前はそうではありませんでした。音声記録を何らかのデータとして残すためには、様々な発明者の科学に対する探求が必要だったことは確かなのです。

 

現代のレコードプレイヤー、ターンテーブルの歴史は19世紀の求められます。一般的に、レコードプレイヤーの前身ともいえる蓄音機を発明したのはかのエジソンというのが通説になっていますが、エジソンの以前に、音声記録を残した発明家がいたことを皆さんはご存でしょうか??

 

 

 

1.フォノグラフの発明、 エドワード・レオン・スコット

 

 

1857年に録音の過程を最初に実現したのは、フランスの発明家、エドワード・レオン・スコットでした。

 

フランスの印刷業者、発明家でもあるエドワード・レオン・スコット 彼は、エジソンよりも前に蓄音機の原型を発明している

 

このシステムは、「フォノトグラフ」と称され、人間の聴覚の解剖的な知見から生み出されたものでした。

 

そして、これはマイクロフォンの原型を形作ったとも言える画期的な発明でした。ホーンを用いて音を収集し、スタイラスに取り付けられた弾性膜を通過させるというのがこのフォノトグラフの仕組みでした。

 

 


フォノトグラフ


 

この初歩的な装置は、音波を何らかの用紙にエッチングすることにより、音を記録することを可能にしました。もちろん、ここに、現在のビニールレコードのような針をディスクの上に落とし、記録された音声を再生するというシステムの原型が見いだされることにお気づきでしょうか。でも、このフォノトグラフには一つ難点がありました。音波を視覚化することが出来ず、記録された音を取り出す、つまり、再生装置としての効果を生み出すことが出来なかったのです。

 

その後、音の記録というフォノトグラフの最初の発明に基づいて、二人の発明家がこの装置に音を再生する機能を付加します。それが、フランスの発明家、また詩人でもあるシャルル・クロス、アメリカの大発明家トーマス・エジソンの二人でした。これらの音の再生機能の発明はほぼ同時期に実現しました。


シャルル・クロスは、最初のスコットのフォノトグラフの発明から音を再生する手段を提案しました。

 

これは実際、相当な先見の明があったらしく、フォノトグラフを金属ディスク状の追跡可能な溝に変換することをシャルル・クロスは可能にした。この大発見をした彼はまもなく、1877年4月に、科学論文を書き、フランス科学アカデミーに送っている。それはなんと、驚くべきことに、奇遇にも、エジソンが音を記録し、再生する機械を生み出すことが出来るという結論を見出す数週間前のことだったのです。



2.シャルル・クロス、トーマス・エジソン 音の再生装置の発明


一方、一般的に蓄音機の生みの親とされているトーマス・エジソン。彼は、同年にシャルル・クロスのフォノグラフの進化した装置とは異なる蓄音機を生み出そうとしていた。もちろん、彼の発明は画期的なものでした。

 

 


 

エジソンの生み出したレコードプレイヤーのコンセプトは、当初、手回しで回す事ができるスズ箔で包まれたシリンダーに基づいて構成されていました。

 

彼の考え出したメカニズムは、いわば、レコードプレイヤーのホーンの部分に音を取り入れると、ダイヤフラムと取り付けられた針が振動し、ホイールに窪みが出来るのです。これは、「音の振動と針の共振」という2つの科学の原理を踏まえて、その物理的な理論を応用し、2つの異なる空間をつなぎあわせることに成功した非常に画期的な科学の発見であったように思えます。 


トーマス・エジソンの発明家としての大躍進は、ダイヤフラム、針を、受信機に取り付け、電話を録音しようとした時に起こりました。

 

当初、フランスで生み出されたフォノトグラフのように、針が紙にグラフのようなしるしを付け、それを記録化するという技術をエジソンは考案、さらに、記録する用紙をティンフォイルで覆われたシリンダーと交換しました。これは、それまでのフォノトグラフの原理の過程を逆になぞらえてみることで、初めて発明品として大成功をおさめた。エジソンは、最初に、録音したばかりの自分の言葉が返ってきたのを聴いた時、一方ならぬ喜び方をしたのだといいます。

 

シャルル・クロス、トーマス・エジソン、両者の音声再生装置の発明は、ほぼ同時期に生み出されています。

 

その相違点を挙げるとするなら、数週間、発見が、遅れたか早かったかという事実でしかありません。音の再生するプロセスについてもほとんど同じものでした。エジソンは、製品としての構造化を計画していた一方、シャルル・クロスには、製品や構造化としてのアイディアはなかった。違いと言えば、只、それだけに過ぎませんでした。

 

この発明が公にされるや否や、世界の人々は、エジソンの生み出した蓄音機に夢中になって、シャルル・クロスについては、フランス国内をのぞいてはそれほど有名にはなりませんでした。

 

 

Charles Cros 彼は、発明家でもあり、詩人でもある

 

トーマス・エジソンの生み出したレコードプレイヤーの原型は、すぐにアメリカの裕福な家庭の娯楽として取り入れられたことは、エジソンの名が偉大な発明家として後世に伝わるようになったことを考えてみたら、それほど想像に難くないはずです。つまり、シャルル・クロワは、純粋な発明家としての能力は、エジソンよりも秀でていたかもしれません。にもかかわらず、音声再生機能を備えた製品を、事業として展開していく能力は、エジソンのほうに分があったため、後世の発明家としての知名度に、天と地ほどの大きな差異が生じたとも言えるのです。

 

事実、最初期に、一般家庭に販売された蓄音機には、トーマス・エジソンの名がクレジットされていました。一方の最初のフォノグラフの発明者のエドワード・レオン・スコット、また、シャルル・クロスについては、2008年になって最初の再生が行われるまでは、科学分野に通じている専門家をのぞいては、ほとんど一般的には知られずに忘れ去られていたことは奇妙に思えます。

 

 

3.エジソンの後継者  グラハム・ベルとエミール・ベルリナーの争い


 
トーマス・エジソンは驚くべきことに、その後、蓄音機の開発から身を引いて、白熱電球の発明に夢中になります。
 
 
それは、ひとつ、一般的に言われるのは、蓄音機の発明には、それほど科学者としての名声が期待できなかったというのがあり、また、彼自身の飽くなき探究心、次なる発明への浮き立つ気持ちが彼を電球の発明へと駆り立てていったとも言えるのです。しかし、この蓄音機の開発の座をエジソンがあっけなく手放した時、それと立ち代わりに新たな技術革新をもたらす発明家が出現した。そのうちのひとりが、かの有名なアレクサンダー・グラハム・ベルでした。
 
 
スコットランド生まれのグラハム・ベル 彼は、実用的な電話の発明者として知られているが、最初期のレコードプレイヤーの開発にも従事していた。

 
 
 
グラハム・ベルが当時在籍していたワシントンDCのジョージタウン、ボルタ研究所は、エジソンの最初の蓄音の技術を、さらに改良、推進させる計画を立てていました。主に、このボルタ研究所の設立者であるグラハム・ベルは、シリンダーを装置の中に組み込むのでなく、鋭利な針の代用として、ティンフォイルとフローティングスタイラスの代わりに、ワックスを用いたのです。
 
 
ワックスを用いたことにより、後の二十世紀の発明のひとつであるビニールレコードに代表されるような高音質、すぐれた音質と耐久性を実現し、「Graphophone」という名前で新たな発明として公表されました。
 
 
 
コロンビア製のグラフォフォン この発明により高音質による音声再生が可能になった


また、ベルの研究チームは、その後、エジソンの発明にさらなる改良を加え、時計のゼンマイじかけを用いた再生機能、ワックスシリンダーを回転させるための電気モーター装置を新たに開発しました。


その後、いくつかの会社間で、製品開発を巡って多くの競争が起こったことは想像に固くありません。

 

このグラフフォンの開発を手掛けた「America Graphophone」は、ボルタ研究所のデバイスとその後のワックスシリンダーを用いたレコードの制作を促進するために新設されました。一方、ベルの在籍する研究所は、業務提携の面で協力を図るため、トーマス・エジソンに開発の協力を要請しましたが、エジソンはこの申し出を断りました。ベルは、その後、独力で蓄音機の改良を行うことを心に決め、個体のワックスシリンダーを新たに用いた技術革新を行ったのです。

 

結果としては、 どちらの開発も、音声再生装置として大きな商業的な成功をおさめることは出来ませんでした。彼らにもたらされる可能性もあった賞賛や注目は、1877年にドイツ系アメリカ人の発明家、エミール・ベルリナーが特許を取得した新しい蓄音機へと注がれるようになった。ベルリナーが開発した蓄音技術は、フランスのチャールズ・クロスに近いもので、ワックスシリンダーではなく、フラットディスクに録音をエッチングする手法が取り入れられました。ベルリナーが、フラットディスクを用いた技術を選択したことによって、今日のレコードの再生技術の基盤が形づくられ、現代レコード生産への扉が一挙に開かれたとも言えるのです。

 

レコードプレイヤーの最初期の設計では、蜜の蝋が使用され、薄い層でコーティングされた亜鉛のディスクが使用されていました。 さらに、1890年代に入り、エミール・ベルリナーは、ドイツの玩具メーカーと協力し、最初に5インチのゴムディスクを導入しました。最終的に、ベルリナーの在籍していた”America Graphophone Cmpany”は、その後、シェラックディスクを完成させ、1930年代まで、録音技術をはじめとする音楽業界を支配し続けていたのです。

 

 

4.レコードの大量生産技術はどのように生み出されたのか?



エミール・ベルリナーの発明がなぜ科学技術の発展においてきわめて画期的だったのかは、彼の生み出した製品が、その後のレコードの大量生産技術に直につながっていったからなのです。

 

Google Atrs &Cultureより   エミール・ベルリナーとレコードプレイヤー

 

エミール・ベルリナーは、音波をディスクに外向きに記録し、電気めっきを使用し、マスターコピーを作成した最初の人物でした。

 

もちろん、レコーディングを体験した事がある方なら理解していただけるでしょう。これは、音の元になる記録を残す「マスターテープ」の最初の発明でもありました。つまり、ベルリナーがマスターコピーという手法を生み出したことによって、もし、技術的にそれが許されるのならば、百枚、千枚、いや、それどころか、無数のレコードのコピーを生み出すことも出来るようになりました。

 

これらのマスターコピーという独自の技術を活用すれば、レコーディングを行ったアーティストは、一つのトラックの録音を何度でも再現出来て、さらに、商業的な価値としても大きな影響を及ぼせるようになりました。もちろん、ベルリナーがこのコピー技術を生み出すまでは、アーティストは複数のコピー製品を生み出すため、一曲をその回数分だけ演奏する必要があったのです。

 

発明家エミール・ベルリナーが生み出したフラットディスクの技術には、明確な利点が存在しました。それは、端的に言えば、成形やスタンピングにより音の再生を簡単に実現できるという点です。そして、それ以前に開発がなされていたシリンダー技術についても、製品化という面では、大きな成功は収められなかったにしても、トーマス・エジソンによって金の成形プロセスが導入された1901年から、その翌年にかけて、シリンダー技術が取り入れられた。

 

このことから、製品化としては失敗したものの、その後のレコードプレイヤーの技術革新に大きな貢献をもたらしたことはほぼ疑いありません。その後、ベルリナーの生み出したレコードプレイヤーは、一般的に製品として販売されるにいたり、1901年、Victor Taking Maschine Companyにより、世界で初めて、10インチレコードが生み出され、一般向けに販売されるようになりました。

 

Victor Taking Maschineから発売された10インチレコード


一方、他のレコードプレイヤー生産を行う会社も、これらの発明に対して手を拱いていたわけではありません。

 

コロンビアレコードは、市場に新たに参入し、ライセンスに基づいて最初のディスクを製造していきました。コロンビアは、いくつか新たな方法を考案し、1908年までに、両面のシェラックレコードの製造過程を完成させています。しかし、この間、まだ、現在のレコードプレイヤーのような標準の再生速度には至らず、初期のディスク再生速度は、60-130BPMの範囲内にとどまっていました。 



4.ラジオの登場 モダンレコードの誕生

 

1920年代初頭のラジオの出現は、レコード業界に新たな課題を突きつけることになりました。音楽が電波を介して無料で放送されるようになったため、レコードは新たな領域へ進むことを余儀なくされたのです。ラジオの音質は、電気的なサウンドピックアップの出現によって大幅に向上します。

 

当時、蓄音機を家庭に導入できるのは、中産階級以上にかぎられていたため、再生速度を78BPM(1925年頃)に標準化し、純粋に機械的な録音方法でなく、電気的な録音方法を採用することには役立ったものの、マーケットでの採用が定着するまでには長い長い道のりが必要でした。


1930年代に、ラジオコマーシャルのレコード素材として、ようやくビニール(ビニライト)が導入されました。当時、この素材を使った家庭用ディスクは、ほとんど生産されていませんでした。しかし、興味深いことに、第二次世界大戦中に、米軍兵に発行された78rpmVディスクには、輸送中の破損が大幅に減少したため、現代の規格の一つ、ビニール素材が使用されていたのです。

 

最後に、信頼性が高く商業的に実現可能な再生システムの開発に関する多くの研究が行われた結果、1948年6月18日、ロングプレイング(LP)33 1/3rpmのマイクログルーブレコードアルバムがコロンビア社によって発表されました。それに次いで、コロンビア社は、ビニール製の7インチの45RPMシングルをリリースします。これが現在のレコードの標準基準となったわけです。

 

1955年に最初に全トランジスタ蓄音機モデルを導入したのは、ラジオ会社のPhilcoでした。


この製品は持ち運び可能で、バッテリーで駆動し、内蔵アンプリフターとスピーカーが売りの製品でした。さらに、米国では59,95ドルで売りに出されたため、限られた階級だけではなく、幅広い層にレコードプレイヤーが普及していくことになりました。 この後の時代からレコードプレイヤー、ターンテーブルは富裕層だけでなく、一般の家庭にも導入されていくようになったのです。


このお手頃な価格でレコードプレイヤーが売り出されたことは、音楽業界全体にも良い影響を与え、ポピュラー・ミュージックの台頭を後押ししました。その後、1960年代までに、レコードのスタックを再生する安価なポータブルレコードプレイヤー、レコードチェンジャーが相次いで開発されたおかげで、プレイヤー機器の値段はさらに安価になり、十代の若者たちがより手軽に音楽に親しめるようになりました。もちろん、これらの持ち運び可能のプレイヤーの出現により、アメリカのNYのブロンクス区ではじまった「DJ文化」が花開いたのは言うまでもありません。



5.現代までのレコードプレイヤーの歩み


1980年代までに、ほとんどの家庭には、いくつかの種類のビニール再生システムが普及するようになり、現代のレコードプレイヤーとして市場に流通しているモデルが主流となっていきました。

 

 

Panasonic製のレコードプレイヤー「Technics SP-10」1970年代に生産

 

 

これらは、セパレート(ターンテーブル、ラジオ、アンプ、カセットデッキ)で作られたHi−Fiシステムそのものでした。この一世紀において、レコード形式は基本的なシリンダーとティンフォイルで作製された原始的なシステムから、多くの人が利用できるHI-FI技術へと移行していきました。

 

さらに、時代は流れていき、10年が経過するにつれて、デジタル技術とコンパクト・ディスクの台頭により、ビニール、ターンテーブルの売上は一時的に徐々に減少に転じました。しかし、多くのファンはレコードを手放すことはありませんでした。御存知のとおり、多くの点で、DJのターンテーブルは、90年代から00年代の時代にかけて、フォーマットを存続させるのに役立ちました。

 

もちろん、ダンスフロアでのDJのターンテーブルはその間も途絶えず、また、2000年代から、アメリカでは、ヒップホップ、イギリスではUKガラージの人気が高まったため、DJのクールなプレイやスクラッチの技術により、レコードプレイヤー文化は完全に衰退せず、しぶとく生き残りつづけたのです。


そして、さらに、意外なことに、今日では、ビニールレコードとターンテーブルの需要が1980年代より高まっているようです。サブスクリプションサービスを通して、スマートフォンでお手軽に音楽と接することが出来る現代のデジタル時代においてもレコード人気が衰える兆しは見えません。なぜなら、本格的に音を楽しむことが出来るリスニング体験を求める音楽ファンにとっては、デジタルよりもレコードプレイヤーの方がはるかに馴染みやすいからなのです。

 

音楽の生みの親であるレコードプレイヤーは、現在も、多くの音楽ファンにより愛好されていますし、未来へと引き継がれていくべき重要な文化そのものです。レコードという音楽文化の悠久の歴史、人類の近代文明を象徴するカルチャー。それはまた、エドワード・レコン・スコット、トーマス・エジソン、グラハム・ベルといった偉大な発明家たちの音のたゆまぬ探求の足跡でもあったのです。

 

 

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