ニューヨーク・パンクの始まり 伝説的ライブハウス「CBGB -OMFUG」


 

NYの1970年代からのパンク・ムーブメントを牽引し、現地のロックシーンの礎を築き上げたライブハウス、CBGBーOMFUG。

 

正式名称は、Country,Bluegrass,Blues,and other music for uplifting grourmandizersである。CBGBは、ニューヨーク・シティのウェスト・ヴィレッジのバワリー街に1970年代にオープンした伝説的なライブハウスで現在は閉店している。


創業者は、ヒリー・クリスタル。第二次世界大戦下、アメリカ海兵軍曹を務めた屈強な人物である。

 

元海軍の兵士というキャリアがあったため、ヒリー・クリスタルは、デッド・ボーイズ、ウェイン・カウンティをはじめとする、過激で手がつけられないパンク・ロッカーたち、ライブハウスの外をうろつく街のアウトロー、そして、一般的にローリング・ストーンズのローディとしてよく知られる「ヘルズ・エンジェルズ」のニューヨーク支部に属する無法者、あるいアウトサイダーとは対極にあるニューヨーク警察を一つにまとめ上げるほどの求心力を持ち合わせていた。

 

しかし、ヒリー・クリスタルは、他の当時のアメリカのライブハウスの経営者のようにギャラ交渉をしようとするバンドマンの目の前にショットガンを突きつけるような手荒な真似はしなかった。驚くべきことだが、こういったことは、当時それほど珍しいことではなかったようである。

 

CBGBをオープンする以前、創業者ヒリー・クリスタルは、「バワリー街」に”ヒリーズ”というバーのようなスペースを経営している。

 

このバワリー街というのは、ニューヨーク・シティの最も旧い街のひとつだ。最初、新世界のビリオネア、億万長者たちが密集して住んでいた区域だった。ところがその後、この地域は没落していき、独立戦争後、イギリス軍がやってくると、貧民街に成り代わった。ストリップショー、質屋をはじめとする欲望の歓楽街がこの地域に進駐してきたイギリスの兵士のために作られていったのである。バワリー街は、彼がCGBGの経営を始めた当時、頗る治安の良くない悪名高き区域として有名で、海外の旅行ガイドにも危険区域と紹介されるほどだった。そのゲトゥーにも似たバワリー街の界隈を夜な夜な徘徊する人々はかつて"バワリー浮浪者"と呼ばれていた。

 

ヒリー・クリントンの最初のホンキートンク・バーの経営は立ち行かず、それほど時を経ずに”ヒリーズ”は閉店してしまう。それから、彼は、同地域にこのCBGBを開業し、妻と共に経営を始める。上階の三フロアにはパレスホテル。しかし、この地域の治安の問題が付き物だった。常にこの地域では荒くれ者がうろつき回り、ライブハウスのセキリティーに問題を抱えていたのだ。

 

ヒリーズ街は、常に、浮浪者、重度のアルコール中毒者、荒くれ、そういった人間たちがこの界隈を根城にしており、夜9時以降は一般の人々にとっては、おいそれと出歩ることは難しい危険地帯であった。そもそもヒリー・クリスタルは、これらのハグレモノたちに居場所を確保するためにこういったライブスペースを提案した側面もあったようだ。

 

しかし、これについては、ヘルズ・エンジェルズのNY支部の面々、そして、ニューヨーク警察が協力し、このライブハウス近辺、及びバワリー街の治安を支えていた。ライブハウス内での喧嘩、暴力沙汰が発生した際は、ヘルズ・エンジェルズの面々がその当事者たちに二、三瞥をくれるだけで充分だったという。常に、酒瓶やガラスが床に散らばるもっともデンジャラスなこのラーブスペースは、アウトローと警察組織の協力によって安全が担保されていたのである。


最初は、ヒリー・クリスタルは、カントリー音楽で、一山当てるつもりだった。夜に四バンドを出演させた後、オールナイト開けの「モーニング・カントリー」というイベントを打ち、朝一番のカントリーを中心とした企画を展開していく。カントリーのライブに来場するのは真面目な客が多く、チャージのドリンクを頼まず、無料でライブを聞きにくるため、利益が上がらなかった。その後、CBGBには、ロックバンドが出演するようになる。後、ヒリー・クリスタルは「カントリーが流行ると思っていたが、それはここでの話ではなかった」と言葉を残している。

 

CBGBは、70年代、80年代と、ニューヨークのアンダーグランドロックシーンの源流を、マックスカンサス・シティと共に形成していった。CBGBには、Soho Newsや、テリー・オーク、アンディ・ウォーホールの伝で出演するようになったテレヴィジョンを始め、下積み時代のラモーンズ、ブロンディ、パティ・スミス、デッド・ボーイズ、ランナウェイズ、リチャード・ヘル等、のちのニューヨークのパンクロック・シーンを支える重要なアーティストが多数出演していた。

 

そして、ここからウェイブが起こったことに関して、ヒリー・クリスタルは、当時、これらのパンクの祖が一人も自分たちをミュージシャンとは考えていなかったことが重要だったと語っている。

 

特に、このCBGBのオープン当時の貴重な証言を行っているのが、ラモーンズのジョーイだ。生前、ジョーイ・ラモーンは、このように、CBGBの最初期の記憶について回想している。

 

「俺たちのライブは、当初の10分から20分にまで拡大していった。知っている歌は全部やった。たくさん歌はあっても、すごく短くて速いから、どんどんぶっ飛んでっちまう。それと時々、歌が上手くいかなかったりすると、途中でやめて最初からやりなおしたり、互いに怒鳴りあったりなんかしていた。

 

どうやって、CBGBに俺たちが出演するようになったのかいまいちよく覚えていない。『Village Voice』に載ってたのかもしれない。あそこでプレイしたことだけは今でも覚えている。初めて俺たちが演奏した後、ヒリーが俺たちにこう言ったんだ。

 

「お前たちを気に入るやつはひとりもいないだろうが、俺がバックアップしてやる」って。今でも覚えている、おがくずを敷いた床、地雷なんかを避けるみたいにして、糞をよけてあるかなければならなかったこと。どうだったろう? でも、俺たちは、あの場所が本当に好きだった。雰囲気が良かったし、音響も最高で、とても居心地がいいんだ。

 

俺たちがあそこで演奏し始めた頃、テレヴィジョンもいたし、パティ・スミスは詩人として出演していたし、レニー・ケイも一緒だ。それと、スティレットーズと名乗っていたブロンディもいた。俺たちは、あの当時、他のバンドを励まそうとしていた。ここで、シーンとか、ムーブメントとかいったものが作りだせそうな気がしていたんだよ」

 

 

Ramones Live at CBGB 1974

 

 

 

後に、CBGBは、数々の名バンドをミュージック・シーンに送り込み、その殆どは世界的な名声を得るに至った。そして、このライブハウスが営業するかぎり、ニューヨークのアンダーグランドのシーンを支え続けた。後にはニューヨークハードコアの重要拠点となり、 Agnostic Frontも出演している。2000年代からCBGBは、経営難に陥った末、多くのファンに惜しまれつつ、2006年に閉店した。


当時のニューヨークのアンダーグラウンドシーンの生々しい息吹を知るための手がかりとして、最初期のCBGBでの貴重なライブ音源『Live At CBGB's:The Home Of Underground Rock』がある。これは、LP盤として1976年にAtlanticから発売されたアルバムである。


このコンピレーションには、Tuff Darts,The Shirts,Manster,The Miamis,Mink Deville,The Laughing Dogs,といった伝説的なNYのバンドのライブが録音されている。この作品は現在もCD化されていない幻の音源のひとつ。