トム・ウェイツのデビュー・アルバム『Closing Time』が生み出されるまで 南カルフォルニアのザ・ドアーマンの時代

 

 

喉をガラガラに潰したシンガーというのが存在する。真っ先にジャズ・ボーカルの名手であるルイ・アームストロングが思い浮かぶ。彼もクリーンなトーンで歌う歌手とは違い、独特な渋みと抒情性でリスナーを魅了する人物であった。ルイ・アームストロングに関しては、他の同年代の歌手が総じて彼の独特な嗄れた声を真似するという、いわば現代のインフルエンサーのような存在だった。そして、米国のポピュラー・ミュージック史を概観した際に、もうひとり重要な歌手が存在するのをご存知だろうか。そう、それがカルフォルニアのトム・ウェイツなのだ。

 

彼もまた、サッチモと同じように、嗄れたハスキーなボーカルを特徴とする。先日、トム・ウェイツは、オリジナル作品の再発を行うと発表したばかりだが、ウェイツのデビュー当時のエピソードはすごくロマン溢れるものである。そのエピソードをざっと紹介していこうとおもう。デビュー前まで真夜中のザ・ドアーマンとして勤務していたウェイツであったが、その数年後にメジャーレーベルのアサイラム(エレクトラ)と契約を交わし、劇的なデビュー作『Closing Time』を世に送り出した。その後のシンガーソングライターとしての活躍については周知の通りである。

 

デビューアルバム『Closing Time」のリリース時、ウェイツは青年時代について次のように回想している。

 

「私は、1949年12月7日、カルフォルニア州のボモーナに生まれました。 幼い頃の日々をカルフォルニアのホイッティアで過ごし、12歳の時、サンディエゴに引っ越してきた。このサンディエゴはカルフォルニア州の南外れに近い都会なんだ。隣国メキシコにも近く、海軍の軍港地として栄え、またメキシコ風のエキゾチックムードの味わえる観光地としても知られている。それだけにここにはクラブや娯楽施設も多い」

 

「15歳になるまで、私は平凡な少年として過ごしていたのだったが、たぶん家庭の事情もあったのだろう。15歳の時から、"ナポレオンのピッツァ・ハウス”で働きはじめた。といっても」とウェイツは回想している。

 

「シンガーとして雇われたのではなかった。この店の経営者であるジョー・サルドとサン・クリヴェーロのために雑役を任された。私は午前三時から四時(つまり夜明け近く)まで働いた。料理をやったり、フロアを掃除したり、皿も洗った。そして私は、真夜中の人生の教育を受けたものでした。たしかに、こんな環境では学校では教えてくれないことをいろいろ学んだのだろう」

 

トム・ウェイツのこうした生活はおよそ五年ばかり続いたという。それから、トム・ウェイツはミッション・ビーチに移住した。そして”ザ・ヘリテイジ”というフォーク・クラブで働いた。ここで彼はここで多くのフォークシンガー仲間、知られざる音楽家と運命的な出会いを果たす。トムが列挙しているのは以下のような歌手たち。レイ・ビール、グラディ・タック、スティーヴ・ゴードン、バム・オストレグレン、ボビー・トーマス、ウェイン・ストロンバーグ、ジャック・テンプチン、マック&クレイア、ブッチ・レイジー、トム・プレストリー、シェップ・クック、フランシス・サム、ボブ・ウェッブ、スティーヴ・ヴァン・ラッツ、サム・ジョーンズ、リック・クンハ、ルディ・ギャンブル、オーナ・シレイカ、ボブ・ダフィといった面々だ。


この時代をすぎると、トムは”ザ・ドアーマン”という店に職を求め、約二年間ほど働いた。彼は真夜中の勉強を続けた。コーヒーの香りとタバコの煙の中で歌を作り、ギターとピアノを弾いて歌いはじめた。これがたちまち仲間たちの間で評判となり、その二年間の終わり頃には仲間のひとりとコンビを組み、ボブ・リボー&トム・ウェイツとしてステージに立つ。その後、トムはYMCAやジュニア・ハイスクール、ザ・バックドアー、ジ・アリー、ザ・ボニタ・イン、ザ・マンハッタン・クラブといった場所で歌った。こういった生活を送るうち、トム・ウェイツは合衆国とメキシコの国境に位置するバハ・カルフォルニア州のティフアナ周辺でもよく知られる存在となった。


「私はそれから、ロサンゼルス行きのバスに乗ったんだ。私のビュイックで行きたかったんだけど、そういうわけにはいかなかった」と語るように、彼はいくらかのポケットマネーを懐に詰め、大都市ロサンゼルスを目指した。ウェイツが目指したのは、ロサンゼルスにあるロックとフォークファンが集まる老舗クラブ、”The Troubadour(ザ・トルバドール)だった。(80年代にはガンズ・アンド・ローゼズも出演した)このクラブでは、毎週月曜日の夜になると、新人のオーディションが開催されるのが恒例だった。スターシンガーになるチャンスを求めてオーディションを受ける月曜日の夜はいつも大賑わいだった。自分の順番が来るまでかなり待たされたトム・ウェイツは、この月曜のオーディションに出演し、数曲を歌う。そして、このクラブへの出演により、メジャーレーベルとの契約とデビューへの大きなきっかけを掴み取ったのだ。

 

「Ol'55」

 

 

ある夜、歌い終えたウェイツは、 アサイラム・レコードと関係のあるハーブ・コーエン氏と遭った。

 

このときのことについて、彼はこう回想している。「彼コーエンは、初めてソングライターとして私と契約してくれた。いくらかのお金をくれ、ジェリー・イエスターという人物に取り次いでくれた」このジェリー・イエスターは、アソシエーション、ラヴィン・スプーンフル、ティム・バックリーといった錚々たるミュージシャンを手掛けてきた敏腕プロデューサーだった。作曲家、編曲家として知られ、また自分で歌もうたえば、ピアノも弾くという才人であった。

 

ジェリー・イエスターは、早速ウェイツを連れてスタジオミュージシャンと一緒にハリウッドのサンセット・サウンド・スタジオに入った。全力を込めてレコーディングを行い、ジェリー・イエスターは、ウェイツが書き上げていた一曲「Closing Time」を夢中で編曲した。出来上がったアルバムは、アサイラム・レコードのボスであるデイヴィッド・ゲフィンのお気に入りとなった。トム・ウェイツは「彼はアサイラムから発売しようといってくれた」と回想している。

 

1973年の春頃、トム・ウェイツのデビュー・アルバム『Closing Time』はリリースされた。レコーディングでは、トム・ウェイツがザ・ドアーマンの時代から培ってきたピアノやボーカルの腕前を披露し、トムの旧友であるシェップ・クックがギター、ボーカルとして参加している。その他、ビル・プラマーがベース、トランペッターとしてトニー・テランもレコーディングに参加している。このデビュー作では、ウェイツのハスキーで嗄れたボーカルの妙味に加え、カルフォルニアの真夜中の雰囲気が堪能出来る。カントリー、ブルース、ポップス、ジャズと様々な作風を込めているが、それは15歳の時代から彼がずっと温めてきた作風でもあったのだ。

 

『Closing Time』はセールス的には成功しなかったが、彼がスターシンガーとなる布石となった。ローリング・ストーン誌のスティーヴン・ホールデンが、「型にはまらないセンスとユーモア」「天性の演技力」を好意的に評価した。また、この作風は、2ndアルバム『The Heart Of Saturday Night』に引き継がれた。トム・ウェイツはこの二作目でよりジャジーな作風に舵をとることになる。


「Martha」

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