Weekly Music Feature / M.Ward 『Supernatural Thing』 ラジオのように超自然なものを行き来する  ファーストエイドキットが参加

Weekly Music Feature


M. Ward
 
©︎Jacob Ball


『Supernatural Thing』について、M.ウォードは、「このタイトルは、ラジオが超自然的なものからのメッセージと同じ電波を行き来していると子供の頃に考えたことに由来している」と語っている。「記憶や夢からのメッセージの送受信は、このようにしばしば途切れる波長に沿って動いているかのようだ。この新譜は、『Transistor Radio』の延長線上にあるが、より簡潔で、より多くの声とムードがあり、私の好きなラジオが昔も今もそうであるように、この新譜はより優れている」


M.Wardの超自然的なものを聴きながら、何度か「これは何年だろう? 1952年で、ハリー・スミス・アンソロジーのトラックを聴いているのだろうか? 1972年で、『After the Gold Rush』のレコーディング・セッションをこっそりと聞いているのだろうか? 」というような錯覚に陥らせる。M.Wardは、そのような疑問を抱かせる特別な現代アーティストの一人である。ウォードは、アメリカン・ポピュラー音楽の語彙をマスターし、それを自分の目的のためにどう使うかについて真剣な決断を下そうとしている。ウォードがハリー・スミス、ニール・ヤングといった伝説的なアーティストと共有しようとしているのは、音楽的価値観と人間的価値観の文脈である。リリックの運びには、わずかな生々しさがあり、彼の声には静かな威厳と大きな優しさがある。ようは「Supernatural Thing」は、オープンハートで魅力的なアルバムなのだ。  


ファースト・エイド・キット、ショベルズ&ロープ、スコット・マクミッケン、ネコ・ケース、ジム・ジェイムズなど、アルバムのゲスト・スターたちはアルバムの魅力を最大限に引き立てている。「Too Young to Die」では、スウェーデンのファースト・エイド・キットのソダーバーグ姉妹の麗しい歌声がメロディーに軽やかなフロスティングをかけ、「Engine 5」ではビーチ・ボーイズのような爽やかなコーラスがこの曲を瞬く間にヒットへと導くことだろう。プログラム全体は、パンデミック前のハウスパーティーを彷彿とさせる素敵なオープンハウスのような感覚に満ちている。


エルビス・プレスリーがメッセンジャーとして登場するタイトル曲について、「私の曲はすべて、ある程度夢のイメージに依存している。ただし、パンデミックに関連しているかどうかはわからない」とウォードは語っている。これは彼が "you feel the line is growing thin / between beautiful and strange "と歌っている曲であり、このアルバムの感情的なトーンを巧みに要約している。


ゲスト・アーティスト、ファースト・エイド・キットについては、「ファースト・エイド・キットはストックホルム出身の双子姉妹で、彼女たちが口を開くと何かすごいことが起こる」と彼は説明している。「ストックホルムに行き、数曲レコーディングするのは、スリリングだった。  エヴァリー・ブラザーズ、デルモアズ、ルーヴィンズ、カーターズ、セーデルベルグなど、血のつながったハーモニー・シンガーのヴォーカルはどれも同じようなフィーリングを持っているんだ」


アルバムの全10曲のうち、8曲がウォードのオリジナルである。また、ボウイの曲としては珍しく、『ブラックスター』収録の "I Can't Give Everything Away "とダニエル・ジョンストンの "Story of an Artist "のライブ演奏をカバーしている。「ボウイとジョンストンは、私にとってインスピレーションの源で、何年そうしてきたかわからない」とウォードは語る。ボウイのインストゥルメンタルを聴きながら、昔サンルイス・オビスポで、喫茶店でアコースティック・ソロを弾きながらウォードが "Let's Dance "をとてもスローなバラードとして歌った夜のことが思い出される。


また、このアルバムは、パンデミック時代の暮らしと直結している。ウォードは次のように語った。「外に出て自分の目で見ることができない時代、ラジオは私にとって外の世界とつながる最良の方法だったんだ。音楽であれ、トークであれ、ニュースであれ、政治であれ、FMであれ、AMであれ、衛星放送であれ、パンデミックの時に屋内に取り残された時にそのことを改めて学んだんだ」

 


「Supernatural  Thing」 ANTI-



USパンクのメッカともいえるEpitaphの派生レーベルであるANTI-からこういったリリースがあるのは、非常に感慨深いとともに、かつてはディープなパンクファンであった人間としては、時代の流れを感じさせる。

 

結局、こういったジャンルは、さらにひとつ先へ進むと、より普遍的な音楽の良さ、もしくは、パンクという枠組みにとらわれない自由な音楽へといつかは恋い焦がれるものだ。実際、米国のシンガーソングライター、M.Wardは厳密に言えば、パンクというジャンルからは程遠いが、彼の書く音楽や歌詞の中には、パンクの精神が込められている。かつてコンテンポラリー・フォークがそうだったように、メインカルチャーに対するアンチテーゼも含まれているように思える。フォーク・ミュージックはウディー・ガスリー、ディランの時代から反体制でないことはなかった。しかし、M.Wardは音楽性をかなりマイルドな感じで表現しており、歌手の個人的な興味、すなわち夢の中の出来事や、ラジオに対する関心などきわめて広汎な内容に及んでいる。それらがアメリカーナ、フォーク、ジャズ、オールディーズ、ブルース・ロック、トロピカルミュージックが渾然一体となり、多彩な音楽がこのアルバムに通底している。

 

このアルバムは、1999年から、およそ24年にも及ぶ、M.Wardの人生の背景が反映されているとも解釈出来る。そして、彼の音楽に真摯に耳を傾けるならば、制作者のバックグランドが、実際の音楽を通じておのずと目の裏に浮かんでくる。それは、世間が言うところの甘さや華やかさといった類いのものではない。人生の辛酸を味わったものだけが納得することが出来る、あの渋みや苦味なのである。M.Wardの音楽が称賛するものは、必ずしも、一般的にいう世間的な成功や美事とは程遠いかもしれない。しかし、ある意味では、わたしたちはそういった世間的な成功や美事を目指すものだと誰かから教わってきた。でも、それは本当なのか、本当にそうだったのだろうか? 

 

M.Wardの音楽と歌詞には、渋さと深い情感が漂っている。それは世界を見渡した際に、必ずしも脚光を浴びるとは限らぬ人々への大いなる愛の讃歌ともなっている。もちろん、それは現状の厳しい環境や苦悩そのものに甘んじている人々に、ある種の人生の苦さと、その人生を愛することの重要性を思い出させてくれるだろう。すべての人間が、世間でいう成功や栄光を掴むことはできない。ある意味では、敗残者がいるからこそ、その対極に成功者が存在するといえる。誰かが諦めたからこそ、その場に残ることが出来る人もいる。しかしこの音楽は、世間的な成功とは別の幸福を、アーティストなりのやりかたを通じて探し求めようというのだ。幸福の本当の意味はなんなのだろう。M.Wardは多分それを知っている。そのことはアルバムを聴いていくと、最後になってだんだんわかってくるはずなのだ。M.Wardの音楽の素晴らしさは、つまり、報われぬ人へ脚光を投げかけようということである。それはかつてのボブ・ディランやトム・ウェイツといった伝説的なアメリカのシンガーソングライターとまったく一緒なのである。

 

オープニング曲「lifeline」は、コンテンポラリー・フォークやカントリー、ブルース・ロックの雰囲気を交えてフレンドリーな感じで始まる。最も軽快な一曲で、このアルバムは幕を開けるが、M.Wardによるアコースティックギターの演奏と淡々と歌われる彼の声の渋さは何物にも代えがたい。彼は、ギターを介して、人生の渋みや感慨を丹念に歌いこむ。それはディランや、ニール・ヤングの米国の古き良きフォーク・ミュージックの系譜にあるもので、彼はこの偉大な国土に生きることを最大限に賛美しようというのである。現代のリスナーにとっては少し懐古的にも聞こえるかもしれないが、しかし、よくこの音楽に耳を澄ましてみていただきたい。M.Wardの探し求めようというのは、普遍的なアメリカのポピュラー・ミュージックの姿なのだ。  

 

 「too young to die」

 

 

続いて、スウェーデンの双子のフォークデュオ、First Aid Kitがゲストボーカルとして参加した「too young to die」もタイトルからして、往年の米国のポップスやフォーク/カントリーへのリスペクトが示されている。軽快なM.Wardのアコースティックギターに、ファースト・エイド・キットの姉妹のボーカルが心地よく乗せられる。イントロは、教会の聖歌の神への宣誓への一節のように同じ音程が歌われるが、その後の次いで爽やかに繰り広げられる姉妹デュオの美しいボーカルは、じんわりとした心地よさを与えてくれる。ここには、70年代の音楽をこよなく愛するFirst Aid Kitの楽曲の深い理解と彼女たちの歌唱力が、2020年代のフォーク・トレンドを生み出したと言える。M.Wardは、時に、拳を効かせながら、それらのボーカルに呼応するように渋みのあるボーカルで合いの手を入れる。コラボレーターの相性の良さと、互いの敬愛がこういった調和的な美しさを持つフォークミュージックを生み出したのだろう。楽曲は、草原を駆け巡る風のように緩やかに、そして流れるように展開されるが、特に、曲の終わりにかけてのM. WardとFirst Aid Kitの「too young to die」というフレーズの掛け合いには甘美的な雰囲気すら漂う。


続く「Supernatural Thing」は、アーティストのラジオに対するミステリアスな興味を表すようなトラックである。現実世界でのシリアスな出来事と、夢の中でのロマンティックな出来事が絶えず交錯している。ボブ・ディラン、ジョージ・ハリスン、ルー・リード、トム・ペティ、ポール・ウェスターバーグに代表される、古き良きブルース・ロックを基調とするこの楽曲の全体には、この歌手の人生を反映した哀愁やペーソスがほのかに漂っている。アーティストは、夢の中でロックの王様のエルヴィス・プレスリーに出会い、「You Can Go Anywhere You Please - 君はどこへだっていける」と素敵なメーセージを告げられる。M. Wardは、単調と長調の合間を絶えず行き交いながら、コードのうねりを作り出すことによって、この曲全体に渋さと切なさを与えている。 パンデミック時代の厳しい現実と、それと相反するウェスタン時代のロマンチシズムがその根底には揺曳している。これらの旧時代と新時代の不確かな波間を絶えず行き来するような奇妙な感覚やエモーションは、ブルースを基調にしたフックのあるギター・ソロだったり、あるいは、M.Wardのコーラスの多重録音によって段階的に高められていく。曲のタイトルを歌った「Supernatural Thing - 超自然的なもの」というフレーズは、シュールな印象を与えるとともに、アルバム全体を俯瞰してみた際に、鮮やかな印象を聞き手の脳裏に残すことだろう。 

 

 「Supernatural Thing」

 

「New Kerrang」では、スタンダードなブルース・ロックの方向性を推し進めていく。タイトルが英国最高峰のメタル雑誌に因むものなのかは分からないものの、トム・ペティやチャック・ベリー、ボ・ディドリー、エルヴィス・プレスリーといったレジェンドを彷彿とさせるプリミティヴな60年代のロックンロールへと回帰し、聞き手の耳を喜ばせる。Scott McMicken and The Ever-Expandigのゲスト参加は、Robyn Hitchcockのようなカルト的な意義をもたらす。M.Wardは、''踊りのための大衆音楽''として台頭した、人種や年代を問わないロックの原初的な魅力に再度脚光を当てようとしている。また、ブルースのスケールを取り入れた進行にも着目しておきたい。


『Supernatural Thing』の音楽の魅力は、ブルースやロック、フォーク/カントリー、アメリカーナだけにとどまらない。M.Wardはそれと同年代にあるブロードウェイ・ミュージカルやキャバレーの時代へと入り込んでいく。「dedication hour」はタイトルが示す通り、20世紀初頭のニューヨークやニューオリンズのカルチャーへのアーティストの献身が示唆されている。ピアノのイントロから続いて、オールディーズやジャズに近い雰囲気へと移行する瞬間については、筆舌に尽くしがたい。ムードたっぷりのメロウな音階に加えて、女性コーラスを背後に、M. Wardは甘美的なボーカルの真骨頂を提示している。フランク・シナトラやルイ・アームストロング、エラ・フィッツジェラルドといったレジェンドを彷彿とさせるブルー・ジャズを基調した曲調は、華美なニューヨーク・キャバレーの雰囲気に包まれ、弦楽器のトレモロやピアノのフレーズにより、その雰囲気は徐々に盛り上げられていく。M.Wardは、20世紀初頭の人物であるかのように、この曲で振る舞い、甘美的なフレーズをうっとり歌い上げている。曲の終盤にかけてのドゥワップやブルージャズをもとにしたコーラスは、アルバムの最高の瞬間を捉えている。

 

その後、ロックやフォーク/カントリーの要素とは別に、もうひとつの主要な音楽性となるスタンダードなジャズに対する親和性も、このアルバムの一番の魅力に挙げられるだろう。ボウイのインストゥルメンタル・カバーである「i Can't Give Anything」では、タイトルからも分かる通り、アーティスト(ボウイ)の少し情けない一面が示されており、親しみを覚えることが出来る。トランペットの鋭いスタッカートの後に芳醇なレガートが続いているが、その後、モノクロ映画のワンシーンのようなノスタルジア溢れるコーラスが曲の雰囲気を支配している。ドラムとギター、トランペットが渾然一体となり、ジャズの気配を強化する。こういったノスタルジックな音楽のアプローチは、Father John MistyやAngel Olsenの最新アルバムでも見受けられたもので、米国の現代的なポピュラー音楽の一つの形式となっていきそうな気配もある。古き良き時代の伝統性と、その文化が持つ美しさを継承しようというアーティストの切なる思いがこの曲に込められており、そして、それは、Father John MistyやAngel Olsenのアルバムにあるようなノルタルジアを求めるリスナーにとって、この上ない至福の瞬間をもたらすものと思われる。

 

2曲目の「too young to die」に続いて、スウェーデンの姉妹フォークデュオ、First Aid Kitは7曲目の「engine 5」でもゲストボーカルとして素晴らしい貢献を果たしている。この曲は、それほどモダンなポピュラー・ソングとは言えないにせよ、その一方で、ソダーバーグ姉妹のボーカルは奇妙な新鮮味をもたらしている。少なくとも、ハイパーポップともエクスペリメンタルポップとも異なり、自然なロック/ポップを原型にしたスタンダードなナンバーであるが、フォーク/カントリーに根ざしたアコースティック・ギターのストロークは、この曲にダンス・ミュージックに近いグルーブやビートをもたらし、聞き手を心をほんわかさせてくれる。ここには、アルバムの序盤と同じように、人生の悲哀や苦悩に近い感慨も率直に込められているが、その奇妙な感覚が、聞き手にある種の癒やしの瞬間をもたらし、普遍的なロック/ポップの良さを追求する両者の才覚が劇的なスパークを果たしている。ここでも、三人のミュージシャンは、現代的な苦悩を認めつつも、旧時代のラジオのような領域へと逃避場を設けるかのように潜りこんでいく。そしてそれは清らかな一滴の雫のような感覚を生み出し、わずかな清涼感をもたらす。

 

アルバムの終盤に差し掛かると、M.Wardの趣味に根ざしたコアなポピュラー音楽の色合いが強まる。ジョン・レノンが早逝したため、書かなかった/書くことができなかった類のロック・ミュージックを「mr.dixon」で踏襲している。ここには、サイケロック時代へのアーティストの憧れが感じられる。シンセへの深い興味を交え、シンセロックにも近い展開は、最後になると混沌とした瞬間を生み出す。M.Wardは、聞き手の時代感覚を狂わせ、音楽に対して恋い焦がれるような感覚を表そうとしている。また、この曲の最後では、ブルース・ロックの精髄へと迫ろうとする。ゲイリー・ムーアを始めとする渋いブルースギタリストの系譜にある一曲である。

 

その後、アルバムは急展開を見せ、映画のサウンドトラックに近いストーリー性を交えてクライマックスへと近づいていく。


続いて、「for good」には、アーティストのバラードソングの作曲の才能が華々しく開花した瞬間を見出せる。ここにはM.Wardの内省的なフォーク・ミュージックがアーティストのブルースへの親和性を感じさせるコード進行へと繋がっていく。曲の途中から導入される管楽器の響きとブルースのスケールは、最終的にはハワイアンのようなトロピカル・ミュージックへと繋がっていき、チルアウトに近いリラックス感をもたらす。アウトロにかけての海のさざなみのサンプリングは、夕陽を眺めつつ浜辺のパラソルの下で寝そべるような安らいだ感覚に満ちている。

 

アルバムの最後に収録されているダニエル・ジョンストンのカバー曲「story of an artist」は、ジョンストンがみずからの人生を映画の登場人物のように歌った一曲で、またそれは多くの人への愛の讃歌代わりでもある。自らの人生をあらためて回想するかのような和らいだ内省的なフォーク・ミュージックは、カバーという形ではありながら、M.Wardの24年のキャリアを総括するとともに、彼のアーティストとしての心情を虚心坦懐に打ち明けたものとなっている。それは傷ついた心を癒やし、傷んだ心のある種の慰みを与える。それほど大きな抑揚や起伏に富んだ展開こそないものの、M.Wardのギターの進行とヴォーカルのフレーズは一定の音域の間をきわどい感じで淡々と彷徨っている。そこには、派手な上昇もなければ、派手な下降もない。そして、多くの人々の人生を見るかぎりでは、世界のすべての人に映画のような人生の大きな上昇があるわけでもなければ、大きな下降があるわけでもない。しかし、そういった何気ない日常の連続は、ここ数年で、奇妙な形で破壊され、阻害され、変化してしまった。関連するとまでは明言こそしていないが、M.Wardは、きわめて間接的なかたちで、そういった現代の多数の人々の人生の浮き沈みを直視し、それを最後の曲や作品全体を通じて真摯に描出しようと試みている。いうまでもなく、みずからの得意とするフォーク/カントリーによってである。

 

クローズ曲では、『アラビアンナイト』のようなメタ構造が取り入れられ、イントロとアウトロのコンサートの観客の拍手喝采を通して、『Supernatural Thing』は幕引きを迎え、彼が数年をかけて構想した夢は終わりを迎える。最後になって沸き起こるミュージシャンに対する観客の拍手は、とりも直さず、アルバムを体験する人々すべてに捧げられる美しい賞賛を意味している。M.Wardは、デヴィッド・ボウイのカバー曲を含むアルバムを通して、夢と現実の狭間をクロスオーバーしようとしている。しかし、こういったラジオの混線のような現実と非現実が入り交ざったような奇異な感覚は、誰しも一度くらいは体験したことがあるものだ。そう考えると、ここ数年間、わたしたちが生きてきた不確かな日常もまた、本作で描かれるような、現実と非現実が奇妙に入り交ざった『Supernatural Thing』とすぐ隣り合わせだったのかもしれない。

 

 

95/100



Weekend Featured Track「Dedication Hour」



M.Ward -『Supernatural Thing』はANTI-より発売中。

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