Maria W Horn & Mats Erlandsson  『Celestial Shores』-New Album Review

Maria W Horn & Mats Erlandsson  『Celestial Shores』



 

Label: Ghent

Release: 2023/9/1



Review


 

アルバムに収録されている音楽は、アンディ・ウォーホルが1966年に制作した映画「ニコ/Nico Crying」の後半部分のスコアとして委嘱された。この委嘱は、2021年9月にブリュッセルのAncienne Belgiqueで行われた同映画の上映とスコアのライブ・プレゼンテーションのために、Art Cinema OFFがB.A.A.D.Mと共同で行っている。

 

録音は、その年の最終週に行われ、2022年1月にミックスされた。基本的に作曲家たちが同じ部屋で一緒に演奏したライブで、1960年代後半のレコード制作プロセスを彷彿とさせる手法で録音された。アルバムの音作りに使用された楽器は、モジュラー・シンセシス、チター(Zither)、ヴォイス、フィールド・レコーディング、メタル・パーカッションで構成されている。


Mats Erlandssonは、スウェーデン/ストックホルムでドローン音楽という分野を再興する作曲家/音楽家である。彼は持続音を多用することを特徴とする活動を展開している。ソロとコラボの両方で作品を発表している。直近の作品には、XKatedralからリリースされた「Gyttjans Topografi」、Hallow Groundからリリースされた「Minnesmärke」、レーベル13070からのYair Elazar Glotmanとのコラボ・アルバム「Emanate」がある。マッツ・エルランソンは、自身のアーティスト活動に加え、スタジオ・プロデューサーとしても活動する。2022年10月から2023年9月まで、一時的にストックホルムのElektronmusikstudionのスタジオ・ディレクター代行を務めた。

 


 

 

現在、ドローンを専門に作品として発表する実験音楽家は、スウェーデンのKali Malone(カリ・マローン)、そして、アメリカのSarah Davachi(サラ・ダヴァチ)が挙げられる。上記の二人のアーティストはパイプ・オルガンの演奏を中心としたドローンを制作している。もちろん、シンセサイザーでドローンを制作する場合もある。今年、カリ・マローンは、ロンドンのイベンターが主催する実験音楽のイベントのため、東京で来日公演を行った。イベントでは、ニューヨークのパーカッションの実験音楽家、Eli Keszler(イーライ・ケスラー)も公演を行っている。

 

今回のスウェーデンの実験音楽家、Maria W  Horn/Mats Erlandssonは、双方ともにシンセサイザーやプロデューサーとして活躍している。不確かな情報ではあるが、Mats Erlandssonはボーカリスト、Maria W Hornはパイプ・オルガンも演奏するようである。

 

『Celestial Shores』は、想像を絶する前衛音楽であり、ドローン音楽の最高峰に位置する作品と見ても違和感がない。ベルギーのレーベル、Ghentから発売された2曲のみ収録された作品であるが、40分程度に及ぶ濃密なドローンの世界は、比類なき高水準の音響空間が構築されている。何度聴いても、その内奥を掴むことが難しい音楽である。

 

一曲目の「Towards The Diamond Abyss」は、これまで聴いた試しがなく、比較対象を挙げることも出来ない、前例がなければ、類型もない前衛音楽である。唯一、近いのは、高野山の仏僧と打楽器のセッションを試みた高田みどりくらいだろうか。これまで70年代くらいまでは、ドイツの音楽家がこういった音楽を率先して制作して来た印象もあるが、実験音楽の最前線は、スウェーデン/ベルギーをはじめとするヨーロッパ諸国に移りつつあるのかもしれない。モジュラー・シンセ、特に、オシレーターの音をパイプ・オルガンの通奏低音のように際限なく伸ばしていく作曲技法については、ストックホルムのカリ・マローンと同様ではあるが、実際の持続音(サステイン)の伸ばし方が、上記のアーティストの手法とは一線を画すことが理解出来るはずだ。 


Maria W Horn & Mats Erlandssonは、直線上にオシレーターの音を伸ばしていき、それらを交差させて、不可思議な偶発的な和音を発生させる。それらの作曲技法は、ドローン音楽の構成を建築学的な音の礎石として積み上げていくかのようでもあるが、実際の音楽は、観念的になるわけでもなく、堅苦しいものにもなっていない。それどころか、感覚的な音楽として五感を刺激し、時にはシックス・センス以上の感覚を掻き立てる場合も少なくない。霊感に充ちた音楽であり、チベット密教の儀式音楽や、モートン・フェルドマンの「Rothko Chapel」のポスト・モダニズムを音楽的な側面から解釈した作風に属している。アーティスティックな香りが漂うのは、アンディー・ウォーホール関連の映像音楽として制作されたことに起因するのだろうか。


様々な考察を差し挟むことが可能な音楽でありながら、実際的には、原始的なオシレーターの音をモジュラー・シンセで発生させ、それらの簡素な音色を無限に伸ばし、複合的にそれらの音を別の場所から組み合わせ、ある空間の中心点に、不思議な縦構造の和音を発生させる。それはワシリー・カンディンスキーのような図形的な芸術様式を思わせ、二次元的な構造に留まることはなく、三次元、あるいは、それ以上の得難い高次元の音楽という形でアウトプットされる。

 

それらの不可思議な線上の通奏低音が重なり合った瞬間、日本の古典音楽である雅楽/能楽のように、西洋音楽(古典派/ロマン派に象徴されるドイツ和声法)とは対極に位置する新鮮な和音が発生する。また、アジア、インド、あるいは、アラビア風のエキゾチックな民族音楽の和音の構成を思わせる場合もある。そして、実際、ドイツのインダストリアル音楽に触発されたような実態不明な、聞き方によってはちょっと不気味にすら思えるフィールド・レコーディング/パーカッションに、Zitherの演奏が導入されることにより、教会/モスクの建築物の中に入った時のような不可思議な感覚にとらわれる。Zitherは、ドイツ、チロル、アルプス地方発祥の楽器と一般的に言われているが、これらの弦楽器のルーツを辿ると、リュート、そして、アラブのOudに行き着く。これがヨーロッパとイスラムの文化性の混淆のような得難い空気感を生み出している。


それらの繊細な音のデザインは、パイプ・オルガンのように荘厳なドローンの合間に挿入されるZither、あるいは、チベット・ボウル/シンキング・ボウル/ベルのような特殊な打楽器の一音の持続音により、音楽の印象は、にわかに祭礼じみて来る。しかし、それらの儀式音楽/祭礼音楽的なドローンは、長く聴いていても、決して苦にならず、ひたすら心地よい感覚に満たされている。それは多分ドローンの中に癒やしの感覚が取り入れられているがゆえなのかもしれない。

 

抽象的な音の連続は、Morton Feldman/John Cageの音楽におけるポストモダニズムに触発を受け、それらは水の跳ねる音、モジュラー・シンセで発生させたノイズが掛け合わされることによって不可思議な音響性を生み出している。これらの実験的な要素は決して聴きやすいものではない。しかし、反面、それらの反対側に配置されるドローンの持続音が幽玄な空気感を生み出し、祭礼における厳粛な空気感にも似た不可思議な印象を生み出している。これは例えば、Georgy Ligetyが「Atomosphere」で、「夜の霧」において描写されたようなアウシュビッツの空気感を探求したように、意図された空間の中に内在する異質な雰囲気を緻密に作りだそうとしている。

 

ただ、この曲では、人類史の悲惨な出来事に照準を絞るのではなく、より高次の啓示や、形而上学的な雰囲気をドローンという形で示しているように見受けられる。つまり、Maria/ Matsという二人のアーティストが先導し、単なる実在する空間とは別の領域にある空間をドローンという形でナビゲートしていく音楽とも解釈出来る。チィター/チベット・ボウル/ベル/フィールド・レコーディング/インダストリアル・ノイズ/メタル・パーカッションといった特殊音の要素は、全般に規則的に導入されている。つまり、それ以前の特殊音が、忘れた頃になって舞い戻ってくるような不可思議な感覚が繰り返される。 これがポスト・モダニズムという観点とは別の規則性を呼び起こし、モンドリアンのような「パターン芸術」の音楽に接近していく。一見したところ、分散し、気まぐれにも思える音の要素は、驚くべきことに、建築学の設計図のように、また、上下水道施設の工学的な信号のように、緻密な計算がなされ配置されている。そして、それらの断続的な音の連続性は、拡大することもなければ、収縮することもなく、正体不明のインダストリアルなフィールド録音により、抽象的なイメージをたずさえながら閉じていく。

 

 

一方、二曲目の「A Ship Lost In The Polar Sea」については、抽象芸術とは対極にある具象芸術という意図が込められていると推測できる。Kraftwerkの「Aurobahn」の時代のレトロなモジュラー・シンセの音色を選んでいるが、やはり一曲目と同様にドローンという手法で、持続音を徹底して複合的に伸ばしていく手法が採用されている。一曲目と同様に、パイプ・オルガンのような重低音がいきなり強調される場合もあるが、この曲で焦点が絞られているのは、宇宙的な音の壮大さであり、エナジーの無限性である。両者のモジュラー・シンセの合奏は、これらの際限なく広がっていく空間性を造出する契機を生み出すが、それらの2つのシンセの持続音の線が重なり合った時、アナログの信号の持つ特殊な倍音が組み合わされ、特異な和音が生み出される時もある。これらのベースとなる構成の上に、遊び心のあるシンセのリード、実験的なリード、ボーカルのテクスチャーが複合的に組み合わされ、前代未聞の音楽が生み出されている。それらの音楽の気風を強化しているのが、他でもない、Zitherのエキゾチックな音色であり、これも一曲目と同様に分散和音が配置されることで、色彩的な音響効果を生み出している。

 

しかし、一曲目とは正反対に、Zitherの分散和音は、まばらに配置され、それらのアルペジオがトラックの背後のボーカルのアブストラクトなテクスチャーと重なり合った時、それ以前の不思議な感覚とは別のエキゾチックな印象を生み出している。アジアやアラブの祭礼的な雰囲気が生み出されたかと思えば、やがて、イントロの宇宙的な幽玄な雰囲気へと回帰していく。また一曲目と同様、雅楽のような神秘的な和音の構成を生み出す瞬間もある。さらに、この曲では和音や倍音の特性を駆使し、規定された和音性とは対極にある流動的な和音が探求される。つまり、和音の偶然性の探求ーー和音性におけるチャンス・オペレーションーーが意図されていると解釈出来る。そして、縦に配置される和音ではなく、横に配置される単旋律の倍音の重なりによって和音が生み出されるという点では、インドネシアのガムラン音楽に近い印象もある。


そして、これらのZiterとシンセを組み合わせたドローン/前衛音楽は、徐々に途絶えていき、曲の後半部では、モジュラー・シンセを中心としたアンビエントに近い、癒やしと安らぎに満ちた音楽へと接近していく。しかし、その空間の背後に充ちるサイレンスは、Zitherの抽象的な音階の進行により、聞き手の脳裏に余韻(記憶の中に止まる音)を呼び起こす。やがて、Zitherのベースを強調した演奏はまばらになっていき、双方の持続音の余韻のみを残しながら、これらの地上的とも宇宙的ともつかない、抽象性の高いドローンの世界は無限の静寂の中に飲み込まれる。




96/100