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Maria W. Horn


 マリア・W・ホーン(1989)は、音に内在するスペクトルの特性を探求する作曲家。芸術活動に加え、スウェーデンのレーベル、XKatedralの共同設立者でもある。彼女の作品は、アナログ・シンセサイザーから合唱、弦楽器、パイプオルガン、様々な室内楽形式まで、様々な楽器を用いている。シンセティック・サウンドは、しばしばアコースティック楽器と組み合わされ、音色、チューニング、テクスチャーを正確にコントロールすることで楽器の音色的能力を拡張する。


 マリアは、建物や物体、地理的な地域に内在する記憶を探求するために、スペクトラリストのテクニックとその土地特有の音源を組み合わせている。


 最近の作曲では、物理的な空間から音響的な人工物を用い、作曲のための音楽的枠組みを創り上げている。これらの音響的痕跡を出発点として、マリアは複雑なハーモニック・パターンを織り成し、親密な儚さから灼けるような高密度のオーラル・モノリスへとゆっくりと変化していく。


 デビューアルバム『Kontrapoetik』(2018年)は、歴史的な調査であり、彼女の故郷であるスウェーデン北部のÅngermanlandの欺瞞に満ちた、穏やかな、しかし混乱した過去に取り組む一種の対悪魔祓いである。


 『Dies Irae』(2021年)は、ベルクスラーゲンの鉱山地帯にある空の機械ホールの共鳴周波数に由来し、『Vita Duvans Lament』(2020年)は、スウェーデンで唯一建設されたパノプティック監房の刑務所を音で発掘したものである。


ーー『Panoptikon』は、ルレオにある解体されたVita Duvanというパノプティック刑務所(白い鳩刑務所)でのインスタレーションのために2020年に作曲された。ボーカルとエレクトロニクスのための音楽による音の発掘である。今作は当初、マルチチャンネルのサウンドと光のインスタレーションとして発表され、監獄の独房に設置されたラウドスピーカーから受刑者の想像上の声が送信された。


アルバムのヴォーカルは、サラ・パークマン、サラ・フォルス、ダヴィッド・オーレン、ヴィルヘルム・ブロマンダー。


タイトルの『Omnia citra mortem』は法律用語であり、「死ぬまでのすべて」あるいは「死のこちら側のすべて」と訳せる。この作品では、囚人同士のコール・アンド・レスポンス構造が用いられており、まばらな声の断片から始まり、次第に声の網の目のように広がっていくーー


 

『Panoptipkon』 - XCathedral


 

 「パノプティコン」とは、そもそもフランスの哲学者のミシェル・フーコーが指摘しているように、「中央集権的な監獄のシステム」のことを指す。昨年、イギリスのジェネシスのボーカリスト、ピーター・ガブリエルがこの概念にまつわる曲をリリースしたことをご存知の方も少なくないはず。

 

 「パノプティコン」の定義を要約すると、建築構造の中央に塔のような建物があり、その周囲に官房が張り巡らされ、常に囚人たちがその中央の塔から監視されることを無意識に意識付けられることによって、いつしかその人々は、反乱を企てる気もなくなれば、もちろん、脱走する気も起きなくなるというわけである。そうして権力構造というのを盤石たらしめるというわけである。これは支配的な構造を作るために理に適った方法であるとフーコーは指摘している。

 

 パノプティコンという構造が罪人たちだけに用意された限定的なシステムであるとは考えない方が妥当かもしれない。フーコーは、パノプティコンの定義を「権力の自動化」であるとし、これらの考えが近代の学校教育に適用され、「規律や訓練」という概念に子供たちを嵌め込み、「学校という一種の権力に自発的に服従する主体を作り出してきた」と指摘する。また、東京大学教育科のある先生は、この考えが日本の教育にも無縁ではないのではないかと指摘している。「近代学校の権力の自動化というシステムも、その学校や建築構造に表れている」とした上で、このように続けている。


「わたしたちが小学校、中学、高校と過ごしてきたなかで、学校という建物は、いつもどこか堅苦しく、威圧的であったように思う。画一化された教室設計、整然と並べられた机、閉鎖的な職員室などがその原因となっているようだ。学校の建築自体が、秩序や規律といったものを無意識的に子供たちに植えつけてしまっているのではないか」


 このパノプティコンは、私たちの日常のいたるところに存在している。有史以来の社会における中央集権的な政治の基盤を形作る諸般の権力構造や支配構造に適用され、すなわち、人間の考えに資本的な概念を刷り込ませて、服従する対象者、あるいは対象物を設けることにより、被支配者は、その中央集権的な存在に対し、独立性を持つことはおろか、そこから逃れることさえできなくなるという次第である。これは、20世紀の世界全体として、社会主義/資本主義社会の中にある「監獄の構造」を浸透させることによって、それらの中央集権的な存在が支配下に置く被支配者たちを思いのまま手なづけ、その支配構造を強化してきた。これは、資本主義やそれと対極に位置する社会主義もまたその方向性こそ違えど、共通している事項なのである。

 

 その中央集権的な権力の基盤構造が揺らぐや、武力をちらつかせたり、動乱やショッキングな事件、時に、紛争を起こすことにより、20世紀の社会全体は、パノプティコンという巨大な社会の権力構造の中に築き上げられてきた。そして、ジョージ・オーウェルが指摘するように、その中央集権的な存在の正体がよくわからない、謎に包まれた存在であるということが肝要である。民衆はいつまでたっても、その中央集権を司る「絶対的な支配者」に一歩も近づくことも出来なければ、その存在すら明確に確認しえないということが、パノプティコンの重要な概念になっている。つまり、その存在がいてもいなくても、被支配者はその中央集権的な存在にいつも怯え、そして、時にはその存在に服従せざるを得ないという次第である。これは2000年代にレディオヘッドがいち早く音楽の中で「監視社会」という問題を提起していたし、JK・ローリングは「ヴォルデモート卿」という不可視の存在を作中に登場させたのは周知の通り。

 

 しかし、翻ってみると、長らく、このパノプティコンという建築構造がフーコーの哲学的なメタファーを表現するという役割にとどまるか、単なるフィクションのテーマに過ぎないと考えられてきた。しかし、パノプティコンの構造を持つ建築がスウェーデンにあり、実際、歴史的な遺構--アウシュビッツ収容所のような不気味な雰囲気を持つ、人類の歴史の暗所--として残されているという。現代音楽家のマリア・W・ホーンは、これまで歴史的な考察を交えて、ドローン・アンビエントやエレクトロニックという形を通じて、作曲活動を行ってきた。そして、最新作『パノプティコン』は、実際に同地にある中央集権的な構造を持つ監獄の遺構の中で録音されたというのである。

 

 そして録音場所のアコースティックな響きを上手く活用した作品が近年、ジャンルを問わず数多く見受けられることは何度か指摘している。一例では、ベルリンのファンクハウスの東西分裂時代のアンダーグラウンドな雰囲気を持つ録音や、イギリスの教会建築の中で録音された作品などである。これらの作品群は、たいてい、その録音された場所の空気感というべきものを吸収し、他では得難い特別な音楽の雰囲気を生み出す。それは、アビーロード・スタジオを使用するミュージシャンがどうしても、ビートルズの亡霊に悩まされるようなものであり、ピーター・ガブリエルの所有するスタジオでスターミュージシャンの音楽を意識せずにはいられないのと同様である。

 

 音楽的な出発として、空間が持つ空気感に充溢する奇妙な雰囲気を表現しようとしたのは、ハンガリーの作曲家、ゲオルグ・リゲティの「Atmospheres」が挙げられる。


独特な恐怖感と不気味さに充ちた現代音楽の傑作で、これはリゲティのユダヤ人としての記憶と、彼の親類が体験したアウシュビッツでの追体験が、不気味な質感を持って耳に生々しく迫るのである。それがどの程度、真実に根ざしたものなのかは別にしても、それらの記憶は確実に、作曲家の追体験という形で定着し、また生きる上での苦悩の元ともなったことは想像に難くない。

 



 ストックホルムを拠点に活動するマリア・W・ホーンの「Panoptikcon」も、基本的には同じ系譜にある独特な緊張感を持つアヴァンギャルドミュージックに位置づけられる。

 

スウェーデンにある監獄の遺構の空気感、その人類の歴史的な暗所の持つ負の部分を見つめ、それらを精妙なレクイエムのようなクワイアやアナログ・シンセサイザーを用いたドローンミュージック、エレクトロニックで浄化させようというのが、制作者の狙いや意図なのではなかったかと思われる。


これはまた、スウェーデンのカリ・マローンが制作した映画のサウンドトラックでのイタリアの給水塔のアンビエンスを用いた録音技術の概念性の継承でもある。「Panoptikon」はダークな雰囲気に浸されているが、同時に、その遺構物の上から、賛美歌のように精妙な光が差し込み、その暗部の最も暗い場所を聖なる楽音で包み込もうとする。この遺構こそ現代的に洗練された考えを持つスウェーデンという国家にとって、歴史の暗部であり、安易に触れることが難しいタブーでもあるのかもしれない。

 

 

 冒頭を飾る「Ominia Citra Mortem」は、四声の混声合唱、アナログシンセによって構成されている。オープニングの冒頭は、重低音のドローンで始まり、通奏低音を元にしてAlexander Knaifel(アレクサンダー・クナイフェル)、Valentin Silvestrov(ヴァレンティン・シルベストノフ)、Sofia Gubaidulina(ソフィア・グバイドゥーリナ)の作風によく見受けられるような、現代音楽の主要なコンポジションの1つである最初の重低音のドローンの通奏低音の後、パレストリーナ様式を始めとする教会旋法やポリフォニー構造に支えられた声楽の進行が加わる。

 

 しかし、マリア・W・ホーンの作風は、上記の現代作曲家の形式を受け継ぎながらも、シュトゥックハウゼンの電子音楽のトーン・クラスターの技法を用い、音色の揺らぎを駆使しながら、特異な音響性やそのスペシャリティーを追求している。フィリップ・グラスやライヒに象徴されるミニマル・ミュージックの構成が用いられているのは、他の現在の現代音楽と同様であるが、それは必ずしも反復という意味を持たず、反復の中にある矛盾的な変化が強調される。教会音楽の重要な形式であるユニゾンを用いた、四声によるクワイアの繰り返しの中に、スポークンワードを挟み、そして、最下部のドローンの重低音を意図的に消したりし、音の余白や空間を作り、クワイアの精妙な印象を際立たせる。これは数学的な足し算の手法ではなく、引き算の手法により、音の妙が構築されているところに、作曲家としての崇高性が宿っている。

 

 マリア・ホーンの生み出す表現の美の正体は、鈴木大拙に学んだジョン・ケージが提唱した禅(臨済宗)における「サイレンス」の観念を体現する「休符による音の空白」によって強調されることもある。と同時に、この曲の場合は、歴史的に触れられなかったタブーや社会の暗部に関するメタファーの役割が込められているように感じる。それらの空間のアンビエンスや亡霊的な合唱を、パノプティコン構造を持つ監獄のアコースティックな音響で増幅させる。それは何処かへ消しさられた人々への追悼を意味するのだろうし、その魂に対するレクイエムでもある。マリア・ホーンはコンポーザーとして、クワイアの最も崇高な印象を放った瞬間を見逃さず、声を消失させ、シンセによる重低音を再発生させ、エネルギーを徐々に、丹念に上昇させる。これらの声が途絶えた瞬間に、この曲の持つ凄みが現れ、そして圧倒的な感覚に打たれる。



 二曲目「Haec Est Regular Recti」は同様にアナログシンセの重低音により始まるが、重厚ではあるものの心苦しい雰囲気で始まった一曲目とは対象的に、開放的なメディエーションの作風に変化する。解釈の仕方によっては、ヨーロッパのチロル地方やその隣接地域のフォーク音楽の源流に近づきながら、同じように、混声のクワイアによって全体的なアンビエンスを作り出す。

 

 クワイアの印象が強かった全曲に比べると、シンセと合唱によるオーケストレーションのような印象がある。それはパイプオルガンの音色を持つシンセの演奏を1つのモチーフとしてコール・アンド・レスポンスやモード奏法のようなデイヴィスのモダン・ジャズの形式を取り入れ、オーケストラスコアとして組み上げていったかのようである。ひとつだけ確かなのは、マリア・ホーンにとっては、一見して分離されがちな、合唱、オルガン、シンセといった作曲のための手段は、現代音楽のオーケストレーションの一貫として解釈され、コンポジションに組み込まれているらしく、電子音楽でもなければ、ニュージャズでもない、ヨーロッパ民謡でもない、特異な印象のある楽音として昇華されるということなのだ。

 

 そして、同じくスウェーデンのCarmen Villan(カルメン・ヴィラン)がダブ・ステップやECMのニュージャズをドローン音楽に取り入れるのと同じように、必ずしも実験音楽の表現内にコンポジションの可能性を収めこもうとはしていない。むしろ、ひとつの表現を主体として、無限の可能性に向けて、音を無辺に放射していくかのようである。これは製作者が従来から、ピアノを用いたポスト・クラシカル、エレクトロニック、というように、ひとつのジャンルにこだわらず、多岐に渡る音楽を制作してきたことに理由がある。曲の終盤では、ダンスミュージックのビートに近づく場合があり、当初、メディエーションやヨーロッパの原始的なフォークミュージックが、現代的な質感を帯びる洗練された音楽へと変遷を辿っていく様子は、圧巻と言える。そして、アルバムの当初は、重苦しい印象だった音楽がループサウンドにより、崇高さと神聖さをあわせ持つエレクトロニック/IDMへと驚くべき変遷を辿っていくのである。

 




 アルバムの序盤の2曲は荘厳さと崇高さをあわせ持つが、タイトル曲「panoptikon」では低音部の重厚さを生かしたアンビエントが展開される。しかし、その静謐な印象の中に、トーン・クラスターの音色の変容の技法を散りばめ、従来にはなかったドローン音楽を追求していることがわかる。


 前の2曲では、パノプティコンという建築物が持つ独自の音響性を強調しているが、それと対比的に、タイトル曲では、DJセットのライブで聞かれるような現代的なエレクトロの音楽性が選ばれている。実験音楽の領域にありながら、その響きの中には、クラークやダニエル・ロパティンのような洗練されたアプローチを見出すこともできる。また、これは、現代音楽や実験音楽の範疇にある表現者とは異なる、DJとしてのマリア・ホーンの意外な姿を伺い知ることも出来よう。前2曲に比べ、五分というコンパクトな構成となっているが、シンセのトーンの変容の面白さ、それにときおり交わるノイズという部分にこのアルバムの真骨頂が垣間見える。


 アルバムは、声楽をもとにした合唱曲、エレクトロニック、アンビエント、そしてトーン・クラスター等、マリア・ホーンが持ちうる音楽的な蓄積が表れているが、その後、クローズ曲では、男女混声による声楽を基調とした柔らかい印象を持つ、二分ほどの簡潔なクワイアが収録されている。アルバムの最後を飾る「Langtans Vita Duva」 では、驚くべき音楽的な転換点を迎える。

 

 その純粋な響きの中には、西洋の賛美歌の伝統性の継承の意味が求められながらも、映画音楽やポピュラー音楽の色合いが僅かに加えられる。2つのコーラスのメロディーの進行の中には、ポピュラー音楽の旋律進行を持つ女性のボーカルと、それとは対比的に、賛美歌のような旋律進行を持つ男性のボーカルが交差し、柔らかなコントラストを形成する。つまり、これは『Panoptikon』が単に不可解な現代音楽ではなく、メディエーションに映画音楽と現地のポピュラー音楽を織り交ぜた新しい音楽の形式により構成されていることを表している。何より、マリア・ホーンが実験音楽を限られたファンに用意された閉鎖的な音楽と捉えず、それらを一般的に開けた表現法にするべく努めていることも真実の音楽を生み出す契機となったと考えられる。


 少なくとも、アルバム全体からは、パノプティコンの囚われからの解放というテーマにとどまらず、国家やその社会構造、ひいては、歴史の持つ負のイメージをどのように以後の時代に建設的に受け継いでいくのかという、表向きの暗鬱なイメージとは異なる、未来の社会に対する明るいメッセージを読み取ることもできる。しかし、これは国家や社会構造の持つ負の側面から目を背けるのではなく、その暗部を徹底して直視できたからこそ成し得た偉業なのである。

 


 



96/100

  

『Panopiticon』 はMaria・W・Hornのレーベル、XCathedralから2月2日から発売中。ご購入はこちら




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東ドイツ時代から続く文化の礎 ファンクハウス・ベルリンとフランツ・エールリッヒの建築

 

20世紀の作曲家は、特に古典派やウイーン学派に属する作品に一定の評価が与えられており、同時に主要な楽団やオーケストラにより再演される機会が多い。また、それ以後のコンテンポラリー・クラシック、すなわち現代音楽家を見ると、グラスやライヒなどの現代のポピュラーミュージックに強い触発を及ぼした音楽家のスコアは一般的に、日の目を見る機会が多いように思える。

 

けれども、他方、その中間の年代にある作曲家、例えば、ベルク、ウェーベルンを除いては、以後の年代に属する作曲家は、現代的な観点から軒並み不当な評価を受けている場合が多い。例えば、バルトーク・ベーラに興味を持つオーケストラやコンダクターはいるにせよ、その東欧近辺の20世紀の作曲家のスコアが軽視されるケースは、それほど少なくないように思えてならない。しかし、ソビエト連邦/ドイツのアルフレート・シュニトケ、そして、ポーランドのヘンリク・グレツキなど、20世紀のクラシックからポピュラー・ミュージックへと主要な音楽の舞台が変遷する時代に、良質なオーケストラによるスコアを書いた作曲家は数多く存在する。

 

ヘンリク・グレツキ(Henryk Mikołaj Górecki)は、バルトークと同様、ブルックナーやマーラーの系譜にある管弦楽法にポーランドの民謡の要素を取り入れた作曲家だ。しかし、オーケストレーションにおける技法の巧緻さは、同年代の作曲家の中でも傑出している。グレツキは晩年になると、指揮者も務めるようになったが、これはパリでの音楽教育の賜物であると解釈できる。特に、彼が遺したオーケストラのスコアの中では、クワイア(混声合唱)やオペラに属する楽曲に名作が多い。合唱曲では、ポール・ヒリアーが指揮した『5 Kurpian Songs:Op.75』 がある。この曲集はポーランドの「Kurpie」という地域の独自の民族性や文化性にスポットライトを当てている。

 

今回、言及する「交響曲第三番 (別名:悲歌のシンフォニー)」は、ヘンリク・グレツキの代表的な傑作として知られる。一楽章のブルックナーの系譜にある巧みな管弦楽の流れは序章的な内容を暗示し、二楽章のオペラを思わせるストリングスとオペラの融合の見事さ、そして二楽章の余韻を補佐するような形で続く同じく三楽章は、現代の東欧圏の主要な作曲家と比べても遜色がない。この作品こそ、主要な楽団や指揮者に再評価されるべきものであるかもしれない。

 

1977年の「ワルシャワの秋」音楽祭で、ヘンリク・グレツキの独唱ソプラノと管弦楽のための交響曲第3番「悲歌の交響曲」作品36(1976年)がポーランドで初演されると、大きな感動を呼んだ。当時の反応はいかなるものだったのか??

 

 

聴衆は混乱した。ある者は「傑作」と評価し、また、ある者は「作曲家の創作意欲のなさの現れ」と見なした。聴衆は、いくつかの和音と繰り返される旋律に還元された音楽言語の手段の単純さに感動した。グレツキの以前の、極めて洗練された工房での作品と比較すれば、これは真の革命だった。作曲家は批評家の意見に対して自らを弁護する必要があったーー



実際、交響曲第3番の前には、16年前の「ワルシャワの秋」と銘打たれた音楽祭で演奏された極めて前衛的な作品『スコントリ』に象徴されるように、作曲家の創作態度がそれ以前へと急進的に変化することを予感させる作品がいくつかあった。しかし、交響曲第3番を聴いた聴衆は、言葉の異常な単純化、「受け入れがたい」までの表現手段の削減、ブルックナーのような「原始的な調性」への回帰に衝撃を受けたのだ。

 

これらと同じ要素に、ヘンリク・グレツキの作品の熱狂的なファンは、新たな作曲コンセプトとこの作曲家の天才の証しを感じ取ったのである。その一方で、この音楽の特徴は、やはり表現の膨大な負荷にあることを誰もが認めざるを得なかった。交響曲第3番では、そして、それ以前のアド・マトレムと交響曲第2番では、この表現は異なる色調を帯びている。交響曲第3番が初演から16年後に驚異的な大成功を収めたのは、祈りにも似た熱情があったからなのだろうか。

 

交響曲第3番の初演時に、ヘンリク・グレツキは以下のようなコメントをプログラムのブックレットに添えている。


「1976年10月30日から12月30日にかけて、バーデンバーデンのラジオ局Südwestfunkの委嘱で『交響曲第3番』を作曲しました。1977年4月4日、第14回国際現代芸術祭の一環として初演された。歌はステファニア・ヴォイトヴィッチ、演奏は、エルネット・ブール指揮シュトヴェストフンク放送交響楽団。交響曲は3曲からなる」

 

「一番長い(約27分)第1曲は、ソプラノの呼びかけによって中断される厳格なカノンである。カノンのテーマには、ヴワディスワフ・スキエコフスキ師のコレクションにある”クルピーの歌”の断片を用いた。第2曲は、ABABCの構造 を持つソナタ形式の一種の哀歌である。第3曲では、アドルフ・ディガツ師のコレクションから、オポーレ地方の本格的な民謡の変奏曲を使用した。この交響曲はヘンリク・グレツキの妻に捧られたものである。演奏時間は約55分。ーー(1977年、音楽祭「ワルシャワの秋」のプログラムブックレットに収録された作曲家のコメント)」 

 

 

 「Symphony No.3」ーMovement 2

 

 

しかし、これらのセンセーショナルな聴衆の反応については、当初、ポーランドを始め、東欧圏に限定されていたことを付け加えねばならない。三楽章から構成されるこの交響曲には、ヴェルディのオペラに象徴される華やかさがあり、さらに以後のミニマル学派の予兆となる楽節や全体的な構成の簡素化、そして、新古典派以降の作曲家、及び新ウイーン学派の作曲家らが複雑的な構造を用いるようになったことに対する反駁の意図が見受けられ、ソナタ楽章の原始的な回帰という意味も込められている。そしてバルトーク・ベーラのように、土地固有の民謡、現在でいえばフォーク・ミュージックの要素をオーケストラスコアの中に導入しようと試みた。

 

また、交響曲第三番の第2楽章における「叙情的なテーマ」は、シューベルトやブラームスに代表されるウイーン/ドイツ圏のロマン派の持つテーゼへの回帰という意図も読み解くことが出来る。ヘンリク・グレツキは、アルフレート・シュニトケと並んで、以降の時代のミニマル学派への架橋を行った重要な作曲家であり、映画音楽なども含めて現代的な音楽へ与えた影響は図りしれないものがある。古典的なソナタ形式に回帰しながらも、ポピュラーミュージックのような簡素な構成を選んだことも、このスコアを今なお音楽的に意義深いものにしている理由だ。




ヘンリク・グレツキ(Henryk Mikołaj Górecki):

 

 (1933年12月6日ツェルニツァ生まれ、2010年11月12日カトヴィツェ没):ポーランドの作曲家、教育学者。


1960年にカトヴィツェの国立高等音楽学校を卒業し、作曲をボレスワフ・シャベルスキに師事。後に同大学の学長を務める。その後、パリで音楽の勉強を続ける。PAUの全国的な正会員。


1958年のワルシャワ秋音楽祭で、ジュリアン・トゥヴィムの詞による混声合唱と器楽アンサンブルのための「エピタフィウム」を発表し、初めて認められた。


1960年の「ワルシャワの秋」での《スコントリ》の発表により、グレツキの音楽への関心がさらに高まった。この曲は、ポーランドのソノリズムを代表する作品のひとつである。タイトルの「zderzenia」は、ぶつかり合う音の塊と訳すことができる。この作品の音の密度は並外れて高く、88音群にも達する。同時に、ポーランド音楽における連弾技法の最も一貫した応用例のひとつでもある。


同年、ソプラノと3群の楽器のための《モノローギ》でポーランド青年作曲家連盟コンクール(1960年)第1位を受賞。この賞のおかげで、彼は初めての海外旅行(フランス)に出かけることができた。


『リフレイン』(1965年)では、作曲家は伝統的な演奏技法、さらには和声に立ち戻った。曲の最初と最後の短いエピソードでは、旋律さえも聴くことができる。初期の作品の典型であったコントラストは弱まった。この作品は1967年、パリのユネスコ国際作曲家コンクールで受賞した。


1969年、彼は金管楽器と弦楽器のための《古いポーランドの音楽》を作曲した。この曲の特徴は、その後、グレツキの音楽の典型となった。また、別の変化もあった。作曲家は声楽と楽器のジャンルや、(一般的には)聖なるテキストに目を向けた。彼は、主にポドヘール地方の古楽や民俗音楽を明確に参照することが多く、明確な旋律と伝統的で単純な和声、モチーフやフレーズが何度も繰り返される作品を生み出している。ゴレツキの音楽がしばしばミニマリズムと結びついたり、「新しいシンプルさ」と呼ばれたりするのは、このような特徴があるからである。


これがグレツキの代表作である交響曲第3番、別名「悲歌の交響曲」の特徴である。1976年にワルシャワの秋の現代音楽祭で初演され、その後海外でも演奏されたが、当時はあまり関心を集めなかった。


1992年、非常に効果的なプロモーション・キャンペーンにより、アメリカの歌手ドーン・アップショーによって録音された後、この曲はクラシック音楽のみならず、世界のヒットチャートに登場した。交響曲第3番は、とりわけポーランドの優れた歌手ステファニア・ヴォイトヴィッチとゾフィア・キラノヴィッチによって録音された。ゴレツキは一夜にして国際的な有名人となった。


2005年10月15日、ビエルスコ=ビャワで開催された第10回ポーランド作曲家フェスティバルで、アメリカの弦楽四重奏団クロノス・クァルテットによって弦楽四重奏曲第3番作品67『歌は歌う』が初演された。スタイル的には、弦楽四重奏曲第3番は、前作と大きな違いはないが、瞑想的なものへと大きくシフトしていることが見て取れ、第3楽章(最も調性的な楽章)だけが、単純な遊びの要素を取り入れている。


2003年にルクス・エクス・シレジア賞を受賞したほか、数々の国際コンクールや国内賞を受賞している。ワルシャワ大学(1994年3月10日)、ヤギェウォ大学(2000年)、ルブリン・カトリック大学(2004年)などから名誉博士号を授与さふすふすれ、上シレジアのカトヴィツェ市(2008年)とリブニク市(2006年)の名誉市民でもある。2003年、ポロニア・レスティトゥータ勲章星付中佐十字章を受章。




こちらのカルチャー記事も併せてご一読ください:  


コンテンポラリー・クラシック、モダン・クラシカルの著名な作曲家Max Richter(マックス・リヒター)が、"音楽クリエイターのためのサウンド・プロダクト "の新シリーズをSRM Soundsとして立ち上げると発表した。この製品は、元スピットファイア・オーディオCEOのウィル・エヴァンスが最近立ち上げた新ブランド、ソング・アスレチックスと共同で開発される。


SRMサウンズの最初の仕事は、ネイティブ・インストゥルメンツのKontakt用のバーチャル・インストゥルメント・シリーズをリリースすることだった。その第一弾となるのは、”マックス・リヒター・ピアノ”で、マックス・リヒターの個人スタジオ、スタジオ・リヒター・マールのメイン・ライブ・ルームの中心的存在である、リヒター所有のスタインウェイ・モデルD SPIRIO|rグランド・ピアノのサウンドをキャプチャしたソフトウェア・インストゥルメントである。



リヒターのスタインウェイは、コンテンポラリー、ヴィンテージを問わず、様々なマイクを使って細部まで愛情を持って録音された。リヒターのピアノのソフトなダイナミクスに焦点を当てたこのライブラリーは、pppからmfまでの10層のダイナミックレイヤーで構成され、5層のラウンドロビン、楽器ごとに3つのマイクポジション、2種類のリバーブを備えている。Richter Pianoには、アクション、ダンパー、ペダル・ボリューム・コントロールが装備されています。


「本物のアコースティック・ピアノと同じように、この楽器は独自の特性を持っている。「モーツァルト用にセッティングされたピアノでプロコフィエフを演奏することはないでしょう。


「このピアノはスペシャリスト。静かに演奏し、耳元でささやくのが好きなのです。賑やかなミックスを切り裂きたいのであれば、他を当たればいい。しかし、私たち全員が内に秘めている親密な物語を呼び起こしたいのであれば、この楽器と近々発売される他のコレクションが役に立つだろう。"


マックス・リヒターは、グラミー賞にノミネートされたドイツ系イギリス人の作曲家・ピアニストで、舞台、オペラ、バレエ、映画のための作品で知られている。今年初めにリリースされた彼の最新プロジェクトは、リヒターが2015年に作曲した『SLEEP』の素材を再構築し、ケリー・リー・オーウェンズとアルヴァ・ノトがリミックスを手がけた『SLEEP: Tranquility Base EP』である。Max Richter Pianoは現在、Native Instruments Kontaktで入手可能です。



 



スウェーデンの実験音楽家/ドローン奏者、Kali Malone(カリ・マローン)が『All Life Long』の制作を発表した。新作アルバムは2024年2月9日に発売される。最初の先行シングルとしてタイトル曲「All Life Long」が公開されている。

 

 カリ・マローン待望のニュー・アルバム『オール・ライフ・ロング』は、カリ・マローン作曲のパイプオルガンと合唱、金管五重奏のための音楽集。


2020年から2023年にかけて制作されたマローンの新作アルバム『オール・ライフ・ロング』は、2019年の画期的なアルバム『ザ・サクリファイス・コード』以来となるオルガンのための作曲を、マカダム・アンサンブルとアニマ・ブラスの演奏による声楽と金管のための相互に関連する作品とともに紹介するものである。

 

12曲の作品の中で、和声的なテーマやパターンが、形を変え、様々な楽器のために繰り返し提示される。

 

それらは、かつての自分のこだまのように現れてはまた現れ、見慣れたものを不気味なものにしていく。

 

ベローズ(ヴェロシティ)やオシレーターではなく、呼吸によって推進されるマローンの合唱と金管楽器のための作曲は、彼女の作品を定義してきた厳格さを複雑にする表現力を持ち、機械的なプロセスによって推進されてきた音楽に、叙情性と人間の誤謬の美しさを導入している。

 

同時に、マローンがスティーヴン・オマリーの伴奏で、15世紀から17世紀にかけて製作された4つの異なるオルガンで演奏した。このオルガンのための作品では、それらの厳格な操作が達成しうる強大でスペクタルな力が強調されている。 

 

これは賛美の音楽でもなければ、霊的啓示の音楽でもない。典礼聖歌の重厚さと無限へのこだわりを持ちながら、人間の経験という地上の領域からその重みを引き出している。聴き手を今この瞬間に引き込み、日、週、年、生涯の経過にも似た音楽の織り成すパターンの中に自分自身を発見させる音楽である。

 


 

 

 

カリ・マローンは、昨年、ベルリン・ファンク・ハウスで録音した映像のための音楽『Does Spring Hide Its Joy』をリリースし、その他、Portaits GRMから『Living Torch』を発表している。

 

アーティストは今年、ロンドンのキュレーター/プロモーター、”33−33”が東京で主催したイベント「Mode」でアヴァンギャルド・ミュージックのフィールドで活躍するニューヨークのパーカッション奏者、Eli Keszler(イーライ・ケスラー)とともに来日公演を行った。 イベントは2019年のロンドンでの開催以来4年ぶりに行われた。日本を拠点として実験的なアート、音楽のプロジェクトを展開するキュレトリアル・コレクティブ、BLISSとの共同企画により開催された。

 


Kali Malone  『All Life Long』

 

Label: Ideologic Organ

Release: 2023/2/9


Tracklist:


1.Passage Through the Spheres

2.All Life Long (for organ) 

3.No Sun to Burn (for brass)

4.Prisoned on Watery Shore

5.Retrograde Canon

6.Slow of Faith

7.Fastened Maze

8.No Sun To Burn (for Organ)

9.All Life Long (for voice)

10.Moving Forward

11.Formation Flight

12.The Unification of Inner & Outer Life 


 

©Hana Tajima

 

ブルックリンのマルチ演奏家、Spancer Zahnは、今年初めにリリースしたピアノを中心に構成したモダンクラシカルのアルバム『Statues I』(レビュー)の続編を発表。二枚組LPとしてリリースされる『Statues I & II』は11月17日にCascineから発売。新曲「High Touch」は本日発売。

 

アルバムのアートワークは、ユニクロ製品等のデザイナーとしても知られるHana Tajimaが手掛けている。


「"High Touch "は、シンガーにぴったりだと思った曲から始まったんだ。「この曲は、祝福と勝利に満ちたラブソングなんだ。アルバム全体と同じような捧げものだよ。フェンダー・ローズでコードを書いて、ヤマハのCP70とCS50でハーモニーを作った。このサウンドがまとまり始めると、ヴォーカリストのための曲というより、ジョン・ハッセルのレコーディングのように感じられたんだ。スペンサー・ルートヴィヒが週末家に滞在していたので、彼にトランペットを吹いてもらうと、すぐにこの曲の正体がわかった。クリス・ブロックのソプラノ・サックス、ブッカー・スタードラムのドラム、そして、タイラー・ギルモアのドラム・プログラミングとプロダクションが加わって、この曲はアルバムの中で最も好きな曲のひとつになった」



スペンサー・ザーンはまた、2枚のアルバムについて次のように語っている。


自分の音楽の個人的な側面について話すのは難しい。インストゥルメンタル・ミュージックの感情的な曖昧さは、私が大好きなもので、私の曲の中に人々が自分自身の意味を見いだせることを願っている。また、なぜ、音楽を分かち合いたいのか、その背景を説明することも重要だと思う。


この音楽を作ったとき、私の人生は愛、創造性、共同作業、そして孤独に満ちていた。しかし、変化は避けられないものであり、思いがけないときに起こるものだ。地盤が変化し、その結果、これらの曲は私の人生を表現するものとしてさらに意味を持つようになった。私はこれらの曲を、近年への感謝の手紙として残したいと思った。


2022年、私はニューヨーク州北部で静かな生活を送っていた。スタジオの静寂を楽しみながら、ピアノで新しい曲を書くことに集中する日々を送っていた。最近、私はドーン・リチャードとのアルバム『Pigments』を完成させたばかりだった。だから、ミニマルなアイデアをスケッチするのが新鮮に感じられた。


毎朝、ピアノで即興演奏をするのが日課になった。気に入った短いスケッチは、さらに発展させていった。やがて2組の音楽ができあがった。最初の音楽は、ピアノ独奏曲として完全に形成されていると感じられる曲だった。私はこれらの曲の中で生きることができた。この曲は、私の北部の生活における貴重な6ヵ月間を凝縮したものだった。控えめで、ミニマルで、孤独な瞬間。


同時に発展したもう1つの音楽は、一連のピアノのスケッチで、未完成な感じがしたが、アンサンブルで取り囲むことで可能性が出てきた。これらのアイデアが発展するにつれて、他のミュージシャンにアレンジの核となる部分を即興で演奏してもらうことで、『Pigments』の制作スタイルを参考にしたいと思うようになった。BlankFor.msことタイラー・ギルモア、スペンサー・ルートヴィヒ、クリス・ブロック、ジャス・ウォルトン、そしてブッカー・スタードラムが、それぞれの深い音楽的個性で楽曲に貢献し、楽曲に形と陰謀と美を吹き込んでくれた。


最後に、この2枚組アルバムのためのHana Tajimaによるアートワークは、彼女の祖父が彫った一連の彫刻である。彼女と私は、彼女が2020年に私のアルバム『Sunday Painter』のデザインを担当して以来、アートと音楽を共に創り上げてきた。彼女のペインティング、デザイン、そして全体的な美学は、長い間私にインスピレーションを与えてくれており、このアルバムはその集大成だ。


この2つのコレクションは『Statues I』と『Statues II』だ。


この音楽にスタンプを押してくれたみんな、ありがとう。


愛を込めて、

SZ



Spencer Zahn 『Statues II』



 Tracklist:


1. Changes in Three Parts

2. Morning

3. High Touch

4. OST

5. Wind Unsung

6. Wave

7. Shadow Setup


 Natalia Tsupryk 『Do Nestyamy』


 

Label: Manners McDade

Release: 2023/10/13


Review


 Natalia Tsupryk(ナタリア・ツプニク)は、フィクション、ドキュメンタリー、アニメーションの各映画のスコアを担当し、Palm Springs、Indy Shorts、PÖFFなどの映画祭で国際的に上映され、BAFTAの最終選考に残った。

 

2017年以降、ナタリアは、キエフ国立アカデミック・モロディ劇場とコラボレーションを行い、「The Master Builder」や「Ostriv Lyubovi」など、いくつかの劇のスコアを担当しています。ヴァイオリニストとしてのナタリアは、ウィーン楽友協会、ウィーン・コンツェルトハウス、ORF RadioKulturhaus、Synchron Stage Vienna、ウクライナ国立交響楽団などの会場で、ソロ、室内楽団やオーケストラのメンバーとして世界各地で演奏している。


ナタリアは、キエフのリセンコ音楽学校を卒業後、ウィーン市立音楽芸術大学でクラシックの教育を受ける。その後、国立映画テレビ学校で映画とテレビのための作曲の修士号を取得し、ダリオ・マリアネッリの指導を受けた。レコーディング・アーティストとして、ナタリアは2020年にデビューLP『Choven』を、2021年にEP『Vaara』をリリースした。また、アンガス・マクレーと2枚のEP「Silent Fall」(2021年)、「II」(2021年)でコラボレーションしている。バイオリニスト、ピアニストとして活動するほか、映画音楽のスコア制作での活躍も目覚ましい。 

 

 

 

前作のEP『When We Return To The Sun』ではNils Frahmがマネージャーと共同設立したLeiter-Verlagからリリースを行った。 

 

最新作『Do Nestyamy』では一転して弦楽のオーケストラを主体にした作風に転じている。重厚な弦楽のハーモニー、シンセサイザー、ピアノをスコアの中に散りばめ、抽象的でありながら、美麗な音の世界を探求しようとしている。厳密に言えば、キエフの音楽家ではあるが、ウイーン学派の系譜にある作曲家と見るべきだろう。しかし、ピアニストとしての演奏力や感性の豊かさには注目すべき点もあるが、一方で本格派のオーケストラの語法を用いた弦楽を中心とする『Do Nestyamy』 では、ひときわ美しいアトモスフィアを生み出している。


一曲目「The Drowned Not Abandoned」では、Arvo Partの「Fratress」等で用いられた鈴声の様式ーティンティナブリ(tintinnabuli)ーを継承し、それをミクロの視点からマクロの視点に置き換えている。チェロ、ヴィオラ、バイオリンを中心に構成される四声のオーケストラレーションは、ほとんどユニゾンという形式で繰り広げられていると思われるが、音が鳴り響いている瞬間ではなく、音が鳴り止んだ後の減退音に空間的な処理を施し、音響の未知なる可能性を追求している。

 

「The Drowned Not Abandoned」は、大きな枠組みで見れば、ひとつの楽節を反復するに過ぎない、現代音楽らしいミニマリズムの範疇にあるコンポジションではありながら、 その中に微妙なバリエーションの変化を用い、音響の中に変容をもたらそうとしている。それはバイオリンが表情の変化をもたらすこともあれば、同じようにヴィオラが、また、チェロが、それらのパッセージに微細な変容をもたらす場合もある。

 

実際のところ、レコーディングは、コンサートホールのような場所で行われているが、チェロの重厚な響きには瞑想的な感覚を擁し、ひとつの真夜中の海に生じるさざ波のように月光に照らし出され、弦楽によるそのさざ波は夜の静寂の中をゆらめき、流麗なパッセージと連れ立って畝りを生み出し、断続的なアクセントの変化ーーデクレッシェンドの様式ーーを用い、ゆっくりと長い時間をかけてフェードアウトしていく。しかし、人の手によるフェードアウトの手法は、もったいぶったような感じはなく、自然な形で無の領域に飲み込まれていく、音が有という出発点から、無という終着点にむけて、ゆっくりと向かっていく過程には、息を飲むような緊張感と美麗な印象を感じ取ることが出来る。 

 

「I Want and Shamble Beyond the Cemetery Wall」は、ウクライナ戦争における死者への弔いの念が捧げられている。室内楽のピアノとチェロの合奏という形の演奏だが、ナタリアによるものと思われるピアノの伴奏は、神妙かつ悲痛な情感を漂わせ、その上に加わるチェロの主旋律はブラームスの書いた室内楽のように清廉な気風を反映させている。この曲では、かつてオスロの作家/作曲家であるKetil Bjornstadが「The River」という長大な変奏形式を通じて探求した重厚感のある作風をありありと彷彿とさせるものがある。

 

シンプルに拍動の中に収められるピアノは、音符が振り落ちる毎に異なる表情を見せながら、ときには哀悼、ときには悲哀、ときには親愛、またときには畏怖、様々な感情性が和音によって表現され、一曲目と同様に、巧みなリバーブ処理を施した弦楽器のパッセージやハーモニーと溶け合い、重厚感のある音像空間を構造的に作り上げていく、しかし、それは単なる同胞の死だけに捧げられたものなのだろうか、もちろん、同胞的な民族性に対する哀悼の意が表されているにとどまらず、それはこの地上における悲劇的な死に関するすべてに対する追悼が捧げられているのではないのか。

 

これまで、制作者は、フィクション、ドキュメンタリー、シネマ、アニメーション等、映像音楽におけるオリジナルスコアも手掛けてきたが、そういったシナリオを強化するための音楽制作の経験が続く「St. Michael Golden-Domed Monastery」には見出すことが出来る。題名には「黄金のドーム」という東方教会に関するキリスト教の建築概念が含まれているが、実際の曲はそれほど宗教的とは言いがたく、現代的な映画のような感じで音の推移を楽しめる。同じように、重厚感のある弦楽の演奏を元に、シンセのアルペジエーターのフレーズを交え、映画音楽に類する作風を示そうとしているように感じられる。

 

ただ、ナタリアの描く音楽の世界というのは、東欧の地域の寒風に吹きさらされる荒野を思わせる箇所もあり、まさにその荒れ野は、キリスト教の悠久の歴史を辿るかのようであり、ゴルゴダの丘、ナザレといった聖書的なストーリーを喚起させる瞬間もある。それは何も新約聖書に限らず、旧約聖書に見られる神々の住む神話的な世界をオーケストラとシンセの中に内包させている。古代と現代を行き来しながら、東欧におけるロシア-ウクライナと中東のパレスチナ-イスラエルの原理主義的な紛争が結びつけられる。イスラム教とキリスト教の絶え間ない紛争……。ロシア系住民を巡る間断なき紛争……。

 

その証し立てとしてアンビエント調の音の中に、東欧的な響きが表面的な印象性を形成し、さらに中盤にかけて、アレッポのような地域で用いられる中東の響きを思わせる民族楽器の旋律がわずかながら取り入れられている。これは西欧社会と中東社会を音楽を介して結びつけ、その中に一貫性や論理性を見出そうとする壮大な試みなのである。世界の一部地域で起こっている出来事は世界の全てを表す。つまり、世の中の実相を鏡の様に映し出しているのだ。

 

 EPを通じて、一貫した作風が貫かれている。「beyond the cemetery wall」は連曲というより、この作品におけるcoda.(作曲家が言い残したことを付加する)のような役割を担っている。ボーカルのハミングからピアノの演奏が続く。ピアノの演奏はポスト・クラシカルの系譜に属するが、最近の作品では珍しく、ピアノ・バラードに属するトラックで、アイルランド民謡に象徴される旋律やスケールの進行の中に取り入れられている。その簡素さが、むしろ大げさな表現性よりも哀感を誘う。

 

最初から大げさなものを生み出そうとするのではなく、シンプルな要素を構築していく中で、壮大な思索性が含まれているのが美点だ。曲の中に漂う清涼感は、アイスランドの音楽家、Eydis Evensenが書くような雰囲気を漂わせる。ピアノの演奏の間に加えられる精妙なストリングス、そして、その上に薄く重ねられるシンセサイザーのシークエンスも、この曲の美麗な印象をしっかりと力強く支えている。これらの巧みな表現性は、コンポーザーとしての大きな前進を意味する。無論、実際に前作のEPよりも心に響く瞬間がある。真実の音楽。

 


88/100

 

 Ellen Arkbro『Sounds While Waiting』


 

Label: W25TH/ Superior Vladuct

Release: 2023/10/14



Review


スウェーデンの現代音楽家/実験音楽家、エレン・アルクブロ(Ellen Arkbro)は2019年に、パイプオルガンの音色を用いたシンセサイザーとギターのドローン音による和声法を対比的に構築した2015年のアルバム『CHORD』で同地のミュージック・シーンに台頭すると、続く、2017年の2ndアルバムでは、本格派の実験音楽に取り組むようになり、パイプオルガンとブラスを用いた「For Organ and Brass」を発表した。スウェーデンにはドローン音を制作する現代音楽家が数多い印象があるが、気鋭のドローン制作者として注目しておきたいアーティストである。


ドローン音楽といえば、いわば音楽大学で体系的な学習をした現代音楽家から、エレクトロニックを主戦場とするプロデューサー、そしてまったくそれらの枠組みには囚われないアウトサイダー・アートの範疇にある音楽家までを網羅しており、どのようなシーンから台頭してくるのかも定かではない。しかし、この音楽のテーマは、音響の変容であるとか、音響の可能性の追求にある。それは和音や単音の保続音が限界まで伸ばされた時、最初に出力される出発点となる音と、いわば終着点にある音がどのように変容するのかの壮大な実験である。一般的に考えてみると、音楽的な変奏(Variation)とはモチーフを断片的に組み替え、装飾音を付加することによって発生するものと定義付けられるが、これはバッハ、モーツアルト時代からの普遍的な作曲技法の主要な観点であった。これは、シェーンベルクが指摘するように、同じモチーフが何度も繰り返されると、観客が飽きてしまうからという単純明快な理由によるものである。これらのベートーベンのディアベリ変奏曲のような変奏の形式は、ながらく音楽家が忘却していたものであったが、それを例えばダンス・ミュージックの改革者たちや、現代音楽の作曲家たちが再び20世紀末に、その変奏の形式を現代の音楽の語法に取り入れようと試みるようになった。


ドローン音楽というのは、グラス、ライヒ、ライリー、イーノが20世紀を通じて構築したミニマル音楽の兄弟分にあるジャンルなのであり、モチーフの反復が飽きるという点を逆手に取り、あえて通奏低音を繰り返すプロセスの中で発生する倍音の効果を最大限に活かし、音楽そのものに変革をもたらそうという趣旨で行われる。これはまた音の最小化というのが顕著だった20世紀終わりの風潮とは逆の音を最大化する試みである。2020-30年代に新しい音楽が出てくるとすれば、このドローン音楽の系譜にある何かであると思われる。つまり、例えばタイムトラベラーが自分のところにやって来て、「2020年代の最新鋭の音楽は何なのか?」と問われれば、「ドローン音楽です」と、私は即答するよりほかないのである。20代のエレン・アルクブロのドローンミュージックは、同地のカリ・マローンに象徴される現代音楽や実験音楽の領域に属するものであることは確かなのであるが、アルクブロはこの保続音と倍音の形式に変革をもたらそうとしている。アルバムのアートワークにも象徴されるパターン芸術の手法が、中世のパイプオルガンを用いたドローン音の中に導入され、このアルバムに関しては、一曲目に音の「オン オフ」という新しい技法が取り入れられていることに注目したい。例えば、デジタル信号のように、コードやプログラム言語によって、別の場所にある装置に何らかの信号を送り、別の場所にある装置を稼働させ、そして何らかの動作を発生させたり停止するというものである。

 

さらにアルクブロのドローン音楽は、ポリフォーニーの保続音を限りなく伸ばすという点では、現行の主流派のドローン音楽と同様ではあるけれど、その保続音がランダムな手法で発生したり、消えたりを繰り返す。どの場所で生じるのか、あるいは、どの場所で消えるのか。それを予測するのは不可能だ。これはジョン・ケージがハーバード大学の無響音室、つまり発生される音が四壁に吸収されてしまう中での悟りの体験に比するものである。アレクルボのドローン音は有機物さながらに空間に揺動し、音波を形成する。しかし音響発生学としては、音が消えた瞬間にも、音は消えず、その後も残りつづける。音はランダムに発生し、消そうと思っても消すことが出来ないということである。また、自然発生的な音について考えてみると、よく分かる。

 

例えば、外を歩いていて、工事現場付近の側壁に、DECIBELを測る装置を見つけたとしよう。聴覚を澄ましたところ、何も自分の外側では、音がひとつも発生しているとは思えないにもかかわらず、DECIBELの数値が計測されているのを見たことはないだろうか。つまりそれは、人間の聴覚では感知できない音が存在しているが、それを一般的な聴覚では捉えることが出来なかったということである。また、音響の聴取としては、人間は年を取るとともに、聴覚が衰えるのは事実であり、若い時代に聞き取れていた音域の音が聞き取れないようになる。そして、アルクブロの録音が示唆しているのは、音楽をすべて聴いているという考えは迷妄や錯誤に過ぎず、私達はその一部分しか聴いていない、聴いている振りをしているに過ぎないというパラドックスを示唆している。また、高低の双方に超音域のHzのゾーンがあり、これはマスタリングをしたことがある方であればご理解いただけることだろう。それに加えて、中音域に音が集中すれば、音が密集している帯域の音は曇り、いずれかの音が掻き消えてしまうということになる。

 

つまり、日本の環境音楽家の先駆者である吉村弘さんが生前に指摘していた通りで、生物学的な聴覚には限界があるため、「無数の音楽の情報をキャッチすることは不可能である」ということである。そもそも、人間にはどうあっても聴きとることが出来ない音域や音像がある。しかし、反面、その聴き取れない音域に発生する音は、(たとえ普通の聴覚では認知できぬものであるとしても)音響の持つ印象に一定の変化を及ぼすということなのである。例えば、重低音域に何らかの音が発生していれば、「音楽そのものに重々しさがある」という印象に変わり、超高音域にある音が発生していれば、「音楽そのものに明るい印象がある」という感覚を持つ。これはケージが、ハーバード大学の無響音室の中で、外側の音が消えたため、自らの心臓の鼓動を感じた、という現象に似ている。別の音域にある音が消えると、別の音域にある音が立ち替わりに現れるということを、ケージは内的な感覚によって現象学的に証明してみせたのだった。もっと言えば、ケージが発見したのは、一般的な聴覚では認知出来ない帯域にある音である。

 

同様に、『Sounds While Waiting』のオープニングでは、「音は、その音を生じさせる有機体が存在するかぎり、音の実存を消し去ることは不可能である」という発見が示されている。「Changes」では、音響学の観点から、「音の発生と減退」というパターンを組み合わせ、音響の変容を及ぼそうとしている。マスタリングソフトをデスクトップに出すのが面倒なので、Hzの帯域に関しては確認してはいないが、このオープニングは、おそらく人間の聴覚では一般的に捉えることが出来ない超低音域をある音と、対極にある超高音域にある音が聞き手の印象を様変わりさせている。つまり、聴覚や音響発生学の観点から見た変化ということである。二、三の音のパターンが変化するに過ぎないのに、この曲には、それ以上の変容があるように感じる。

 

反対に、シンセサイザーで構成されるドローン音を収録した「Sculpture 1」は、むしろ変化と変容を徹底して拒絶するような音楽である。一定の音域にあるシンセサイザーの音が保続音として持続し、それが14分あまり続く。音楽というよりも断続的なモールス信号のようでもある。分割して聴くとわかるが、最初の音と最後の音は変化していない。けれども、これらの音の連続性の中には新しい発見がある。つまり、音楽という概念を客観視することは到底不可能であり、どこまでも主観的な印象を表面的に濾過したものに過ぎないということを表しているのかもしれず、また、音楽を認識させているのは、人間の聴覚からもたらされる固定概念に過ぎないという事実を示唆している。音は、ただ発生しているに過ぎず、それ以外の意味を持たない。有史以来、多くの音楽家は、音の連続や構成に何らかの印象性をもたらそうとしてきたが、それはある意味では、人間の脳にまつわる錯誤、及び、固定観念が累積したものでしかないことを暗示している。例えば、楽しい音楽というのは、何らかの蓄積された経験によってもたらされるし、また、悲しい音楽というのも同じように、以前に蓄積された経験によってもたらされる概念でしかない。そして、無機質な印象のあるこのトラックは、そういった固定概念や既成概念を覆すような意味を兼ね備えている。この点をどのように捉えるのかは受け手次第となる。

 

一方で、三曲目の「Leaving Dreaming」では、二曲目と同じようでいて、パイプオルガンの持続音の中に微細な変化がある。ある意味では、音の変化が乏しかった前曲とは裏腹に、そういった音の変化を覚知するために存在するようなトラックである。イントロから重厚なパイプオルガンのポリフォニーの手法により、ひとつずつ水平線上に音が付加されている。こういった作風として、ロシアの現代音楽家、Alexsander Knaifel(アレクサンダー・クナイフェル)が好んでオーケストラの形式や宗教的な合唱の形式に取り入れているが、 この曲の場合は、通奏低音をベースとして、音がひとつずつ主音を取り巻く装飾音のように付加されている。中世のバッハの宗教音楽の現代音楽としてのルネッサンスとも解釈出来る。ひとつの印象論に過ぎないが、曲の終盤では前2曲とは異なり、感情性のある和音構造の変化の瞬間を捉えることが出来る。 


続く「Untitled Rain」では、パイプオルガンの保続音を強調したドローン音楽という点では同じであるが、ニューヨークのパーカッション奏者、Eli Keszlerのようにパーカッシヴな観点からのミクロの構成をドローン音楽と組み合わせる。マクロな要素とミクロな要素を融合させているが、これらがアルバムの序盤における単調なイメージを後半部で一転させ、印象性を変化させる。


アルバムのクロージング・トラックであり、二曲目の変奏でもある「Sculpture Ⅱ」は、前者のポリフォニーの和音構成を組み替えたものに過ぎない。ところが、全体として聴いた時、全5曲の中の和音的な感覚の中に印象的なコントラストを形成する。それは実例では表現出来ず、どこまでも感覚的なものである。そして、この説明についても主観における印象性の変化を述べるに過ぎないが、制作者が音響やスコアを通じてコントロール下に置くのではなく、「受け手の印象性の変容によってもたらされるバリエーション」が示唆されているのが革新的だ。これらの曲には洗練される余地が残されているかもしれない。ともかく、スウェーデンのドローンミュージックのシーンの象徴的な若手ミュージシャンが台頭したと考えても良いのではないか。

 

 

86/100

 



 

©Lina Gaißer

Beirutがニュー・アルバムから2ndシングル「The Tern」を公開しました。『Hadsel』の発表時にはリードシングル「So Many Plans」がリリースされた。

 

「この曲のベースになっているのは、以前ベルリンでセッションしたときに使っていた、古いローランドのシンセサイザーとドラムマシンのパートだ。以前ベルリンのセッションで使ったままになっていたものだ」コンドンは声明の中でこの曲についてこう語っている。

 

「歌詞はその場で即興したもので、チャーチ・オルガンとハンド・ミュージックを重ねて曲を仕上げた。チャーチ・オルガンとハンド・パーカッションを重ねて曲を仕上げた。パートを重ねた。いつもやりすぎを恐れていたにもかかわらず。結局、私は どうしてこんな前向きで希望に満ちた曲を書いてしまったのだろう? しかし、歌詞をよく見てみると、そこに隠された敗北と勝利の本質が見えてきた。 隠された敗北と勝利は、希望というよりもむしろ警戒心だった」

 

コンドンが以前に明かしたように、11月10日に発売予定の『Hadsel』は、彼が宇宙船に乗り組んでいた時代にインスパイアされたものだ、 喉の不調が続き、2019年のツアーをキャンセルせざるを得なくなった後、彼はノルウェーの島へ逃れた。


「The Tern」

 Peter Broderick & Ensemble 0 『Give It To The Sky』



Label: Erased Tapes

Release: 2023/10/6


Review


米国のモダン・クラシカルの象徴的な存在、ピーター・ブロデリックによる最新作。ブリデリックは、これまでのバックカタログで、ピアノを主体とするポスト・クラシカルや、インディー・フォーク、はては自身によるボーカル・トラック、いわゆる歌ものまで多岐にわたる音楽に挑戦している。

 

ブロデリックは、ロンドンのモダン・クラシカルの名門レーベル、Erased Tapesの看板アーティストである。特に「Eyes Closed and Traveling」は、ポスト・クラシカルの稀代の名曲である。今回、プロデリックはフランスのアンサンブル”Ensemble O”と組み、リアルなオーケストラ録音に着手した。彼は、アイオワのチェロ奏者、アーサー・ラッセルの隠れた録音に目を付けた。ラッセルは、チェロ奏者ではありながら、作曲家として活躍し、複数の録音を残している。ある意味、ブロデリックとラッセルには共通点があり、両者ともジャンルや形態を問わず、音楽をある種の表現の手段として考え、それを録音という形に収めてきた。ブロデリックは、ラッセルの一般的には知られていない録音に脚光を当て、この録音の一般的な普及させるという目的と合わせて、それらを洗練されたモダン・クラシカルとして再構成するべく試みている。

 

アーサー・ラッセルのオリジナルスコアの中には、どのような魅力が隠されていたのか? 考えるだけでワクワクするものがあるが、彼は、実際にスコアを元にして、ピアノ/木管楽器を中心としたフランスのアンサンブルと二人三脚で制作が行われた。同じたぐいの作品として、今年、フランスのル・ソールから発売されたアントワーヌ・ロワイエのアルバムがある。ベルギーのアヴァン・フォーク界隈で活躍するロワイエではあるが、クラシカルとフォークを結びつけ、壮大な作品を完成させた。Peter Broderick & Ensemble 0による『Give It To The Sky』は、ロワイエの最新作に近い音楽性があるが、純正なクラシカルや現代音楽に真っ向から勝負を挑んだ作品と称せる。

 

アルバムの構成は連曲か、あるいは、変奏曲の形式が並んでおり、「Tower Of Meaning」が、ⅰ〜ⅹⅱまで収録され、その合間に独立したタイトル曲や、別の曲が収録されている。録音風景を写した写真を見て驚いたのだが、実際のレコーディングは、オーケストラの編成のライブ録音のような形でホールで行われたものらしい。マリンバや木管楽器、そして、ピアノのすぐ近くに志向性のマイクを配置し、おそらくラインで録音したアルバムであると思われる。しかし、近年、教会に見られるような天井の高い音響を生かしたプロダクションを特徴とするErased Tapesの質の高いサウンドの渦中にあって、本作は単なる再構成というよりも、過去のスコアを元にし、原曲の持つ魅力を引き出し、オーケストラの演奏やコンサートの空間の醍醐味を最大限に生かそうという点に主眼が置かれている。実際、聞けば分かる通りで、複数のパートの木管楽器は美麗なハーモニーを描き、そしてその間に導入される断片的なマリンバの演奏や、ピアノのリズム性を生かした演奏のきらびやかな音の響きが空間内を動き回り、精彩なオーケストラサウンドとして昇華されている。マイクの配置の巧緻さには目を瞠るものがあり、いわば、音の粒子に至るまで、微細な動きが感じられる。クリアなプロダクションの中に変革性が込められていることは、これらの一連の連曲や変奏曲を見ると一目瞭然である。



木管楽器のアンサンブルを主体とする、ハーモニーの調和や美しさに焦点が絞られている連曲「Tower Of Meaning」は、一貫してスムーズな音の運びが重視されており、ECMのNew Seriesのマンフレッド・アイヒャーの好む精彩な音の志向性に近い。これらの木管楽器のハーモニーは、かなり古い中性の時代のヨーロッパの古楽や教会音楽が下地になっているらしく、古楽に詳しい人ならば、パレストリーナ様式の旋法を始めとする、フランスの近代音楽の下地となったヨーロッパの教会旋法の対位法の数々の断片を捉えることが出来るだろう。そして実際に、徹底してマイクの志向性と、その響きの印象性に重点が置かれた玄人好みのサウンドは、ドイツ/ロマン派以降の複雑な対位法や和音法こそ取り入れられていないが、グレゴリオの系譜にあるラッセルの単旋律を生かしたポリフォニーの形式に共感を覚えるはずである。これらの技法は、例えば、クラシックのシーンで言えば、ある指揮者がモーツアルトのオーケストラ譜を通じて、「クリアトーン」という概念で再現させようとしていたが、実際、それに似た手法が図られている。しかし、ピーター・ブロデリックとアンサンブルは、オーストリアの古典派ではなく、教会旋法を下地にしたラッセルの古楽的な手法で録音の完成系を生み出そうとしている。

 

そしてハーモニーの美しさとは別に、リズムの前衛性に焦点を絞った曲もあり、それらの二つの観点から見た現代音楽の面白みを追求している。何より、セリエル等の無調音楽は、それほど現代音楽に詳しくないリスナーにとっては、取っ付きづらく、不気味なものでしかないのだが、このアルバムはそうではなく、ハーモニーの調和とリズムのおもしろさに重点が置かれているので、それほど聞き苦しさはない。クルターグ・ジェルジュがサミュエル・ベケットに捧げた曲のように難解でもなければ、セリエルの知識を持ち合わせていなくとも楽しむことが十分出来る。特に、複数の木管楽器のオーケストラレーションの中で、芳醇さと重厚感さを兼ね備えた美しいハーモニーが連曲の中で生み出される瞬間があり、その前衛的な和音に注目すべき箇所がある。これらの和音の構成は、スクリャービンの神秘和音やフランクの楽曲ほどに難解ではない。上記の近代と現代の合間に位置する作曲家の多くは、演奏することよりも、演奏することが出来ないという点において、実際より高い評価を受けてきた経緯があるが、最早、現代の音楽において、そのような衒学性をひけらかすことに意味があるのか? ラッセルの作品は改めて、音楽における純なる喜びがないものに関して、疑念を投げかけているようにも思える。


アーサー・ラッセルは、作曲家であるとともに、チェロ奏者として活躍した音楽家だが、チェロの演奏に関して、瞠目すべき変奏曲も「Ⅵ」に見られる。ピチカートを活かし、リズム性を重視した奏法は、クラシックという領域を離れ、始原的なジャズの雰囲気を留めた一曲である。カウンターとしてのジャズとメインストリームのクラシックが合わないというのは思い違いで、かつてマイルス・ディヴィスは、ストラヴィンスキーの春の祭典を聴き、感激し、モード奏法を生み出したわけなのだし、ジャズの祖先は、ひとつは、アフリカのグリオの以後のブルースやゴスペルがあると思うが、もう一つは、西洋的な音楽ーー、ガーシュウィン、プロコフィエフ、ラヴェル、フランス音楽院の教育の根幹を担っていたフォーレにまで遡る必要がある。

 

音楽が好きで、ジャズかクラシックのいずれかしか聞かないというのはもったいないことで、偏った考えにより音楽を捉えていることの証でもある。そういった面では、ジャズとクラシックという、二つの偏った考えを、あらためてフラットに戻してくれるのが、ラッセルのスコアであり、また、プロデリックとフランスのアンサンブルの再構成でもある。何より、このアルバムが良いと思うのは、ジャンルという観念に縛られることなく、通奏低音のように響くモチーフが、一つの線を最初から最後まで通わせていることである。その中に織り交ぜられるブロデリックの自作のボーカルトラックも、良いアクセントになっている。つまり、オーケストラやクラシックにそれほど親しみがない人にも、ちょっとした掴みが用意されているのが素敵だ。

 

本作は、BBCが高評価したKit Downesのジャズ/クラシックの中間層に位置づけられるECMサウンドに触発された二次的な音楽という欠点も散見されるが、木管楽器のハーモニー、リズム的な面白さ、そして控えめに登場するチェロの前衛的な奏法が美麗な印象を形作る。再構成が中心のアルバムではあるが、時代の底に埋もれていた良い音楽の再発見という機会をもたらすとともに、ブロデリックのカタログの中でも象徴的な作品が生み出されたことの証ともなるだろう。



85/100

 


©︎Rachael Pony Cassells

Mary Lattimore(メアリー・ラティモア)は、近日発売予定のアルバム『Goodbye, Hotel Arkada』から新曲「Horses, Glossy on the Hill」を発表した。この曲は、メグ・ベアードとウォルト・マクレメンツをフィーチャーしたリード曲「And Then He Wrapped His Wings Around Me」に続く作品だ。


「この曲は、レイヤーを重ねていくうちに別のものに変化していった」とラティモアは声明でコメントしている。「暗い光沢のある動物、緑の草、重い雲が形成され、カチャカチャと歯を鳴らす」


2020年の『Silver Ladders』に続く『Goodbye, Hotel Arkada』は、Ghostly Internationalから10月6日にリリースされる。


「Horses, Glossy on the Hill」

Maria W Horn & Mats Erlandsson  『Celestial Shores』



 

Label: Ghent

Release: 2023/9/1



Review


 

アルバムに収録されている音楽は、アンディ・ウォーホルが1966年に制作した映画「ニコ/Nico Crying」の後半部分のスコアとして委嘱された。この委嘱は、2021年9月にブリュッセルのAncienne Belgiqueで行われた同映画の上映とスコアのライブ・プレゼンテーションのために、Art Cinema OFFがB.A.A.D.Mと共同で行っている。

 

録音は、その年の最終週に行われ、2022年1月にミックスされた。基本的に作曲家たちが同じ部屋で一緒に演奏したライブで、1960年代後半のレコード制作プロセスを彷彿とさせる手法で録音された。アルバムの音作りに使用された楽器は、モジュラー・シンセシス、チター(Zither)、ヴォイス、フィールド・レコーディング、メタル・パーカッションで構成されている。


Mats Erlandssonは、スウェーデン/ストックホルムでドローン音楽という分野を再興する作曲家/音楽家である。彼は持続音を多用することを特徴とする活動を展開している。ソロとコラボの両方で作品を発表している。直近の作品には、XKatedralからリリースされた「Gyttjans Topografi」、Hallow Groundからリリースされた「Minnesmärke」、レーベル13070からのYair Elazar Glotmanとのコラボ・アルバム「Emanate」がある。マッツ・エルランソンは、自身のアーティスト活動に加え、スタジオ・プロデューサーとしても活動する。2022年10月から2023年9月まで、一時的にストックホルムのElektronmusikstudionのスタジオ・ディレクター代行を務めた。

 


 

 

現在、ドローンを専門に作品として発表する実験音楽家は、スウェーデンのKali Malone(カリ・マローン)、そして、アメリカのSarah Davachi(サラ・ダヴァチ)が挙げられる。上記の二人のアーティストはパイプ・オルガンの演奏を中心としたドローンを制作している。もちろん、シンセサイザーでドローンを制作する場合もある。今年、カリ・マローンは、ロンドンのイベンターが主催する実験音楽のイベントのため、東京で来日公演を行った。イベントでは、ニューヨークのパーカッションの実験音楽家、Eli Keszler(イーライ・ケスラー)も公演を行っている。

 

今回のスウェーデンの実験音楽家、Maria W  Horn/Mats Erlandssonは、双方ともにシンセサイザーやプロデューサーとして活躍している。不確かな情報ではあるが、Mats Erlandssonはボーカリスト、Maria W Hornはパイプ・オルガンも演奏するようである。

 

『Celestial Shores』は、想像を絶する前衛音楽であり、ドローン音楽の最高峰に位置する作品と見ても違和感がない。ベルギーのレーベル、Ghentから発売された2曲のみ収録された作品であるが、40分程度に及ぶ濃密なドローンの世界は、比類なき高水準の音響空間が構築されている。何度聴いても、その内奥を掴むことが難しい音楽である。

 

一曲目の「Towards The Diamond Abyss」は、これまで聴いた試しがなく、比較対象を挙げることも出来ない、前例がなければ、類型もない前衛音楽である。唯一、近いのは、高野山の仏僧と打楽器のセッションを試みた高田みどりくらいだろうか。これまで70年代くらいまでは、ドイツの音楽家がこういった音楽を率先して制作して来た印象もあるが、実験音楽の最前線は、スウェーデン/ベルギーをはじめとするヨーロッパ諸国に移りつつあるのかもしれない。モジュラー・シンセ、特に、オシレーターの音をパイプ・オルガンの通奏低音のように際限なく伸ばしていく作曲技法については、ストックホルムのカリ・マローンと同様ではあるが、実際の持続音(サステイン)の伸ばし方が、上記のアーティストの手法とは一線を画すことが理解出来るはずだ。 


Maria W Horn & Mats Erlandssonは、直線上にオシレーターの音を伸ばしていき、それらを交差させて、不可思議な偶発的な和音を発生させる。それらの作曲技法は、ドローン音楽の構成を建築学的な音の礎石として積み上げていくかのようでもあるが、実際の音楽は、観念的になるわけでもなく、堅苦しいものにもなっていない。それどころか、感覚的な音楽として五感を刺激し、時にはシックス・センス以上の感覚を掻き立てる場合も少なくない。霊感に充ちた音楽であり、チベット密教の儀式音楽や、モートン・フェルドマンの「Rothko Chapel」のポスト・モダニズムを音楽的な側面から解釈した作風に属している。アーティスティックな香りが漂うのは、アンディー・ウォーホール関連の映像音楽として制作されたことに起因するのだろうか。


様々な考察を差し挟むことが可能な音楽でありながら、実際的には、原始的なオシレーターの音をモジュラー・シンセで発生させ、それらの簡素な音色を無限に伸ばし、複合的にそれらの音を別の場所から組み合わせ、ある空間の中心点に、不思議な縦構造の和音を発生させる。それはワシリー・カンディンスキーのような図形的な芸術様式を思わせ、二次元的な構造に留まることはなく、三次元、あるいは、それ以上の得難い高次元の音楽という形でアウトプットされる。

 

それらの不可思議な線上の通奏低音が重なり合った瞬間、日本の古典音楽である雅楽/能楽のように、西洋音楽(古典派/ロマン派に象徴されるドイツ和声法)とは対極に位置する新鮮な和音が発生する。また、アジア、インド、あるいは、アラビア風のエキゾチックな民族音楽の和音の構成を思わせる場合もある。そして、実際、ドイツのインダストリアル音楽に触発されたような実態不明な、聞き方によってはちょっと不気味にすら思えるフィールド・レコーディング/パーカッションに、Zitherの演奏が導入されることにより、教会/モスクの建築物の中に入った時のような不可思議な感覚にとらわれる。Zitherは、ドイツ、チロル、アルプス地方発祥の楽器と一般的に言われているが、これらの弦楽器のルーツを辿ると、リュート、そして、アラブのOudに行き着く。これがヨーロッパとイスラムの文化性の混淆のような得難い空気感を生み出している。


それらの繊細な音のデザインは、パイプ・オルガンのように荘厳なドローンの合間に挿入されるZither、あるいは、チベット・ボウル/シンキング・ボウル/ベルのような特殊な打楽器の一音の持続音により、音楽の印象は、にわかに祭礼じみて来る。しかし、それらの儀式音楽/祭礼音楽的なドローンは、長く聴いていても、決して苦にならず、ひたすら心地よい感覚に満たされている。それは多分ドローンの中に癒やしの感覚が取り入れられているがゆえなのかもしれない。

 

抽象的な音の連続は、Morton Feldman/John Cageの音楽におけるポストモダニズムに触発を受け、それらは水の跳ねる音、モジュラー・シンセで発生させたノイズが掛け合わされることによって不可思議な音響性を生み出している。これらの実験的な要素は決して聴きやすいものではない。しかし、反面、それらの反対側に配置されるドローンの持続音が幽玄な空気感を生み出し、祭礼における厳粛な空気感にも似た不可思議な印象を生み出している。これは例えば、Georgy Ligetyが「Atomosphere」で、「夜の霧」において描写されたようなアウシュビッツの空気感を探求したように、意図された空間の中に内在する異質な雰囲気を緻密に作りだそうとしている。

 

ただ、この曲では、人類史の悲惨な出来事に照準を絞るのではなく、より高次の啓示や、形而上学的な雰囲気をドローンという形で示しているように見受けられる。つまり、Maria/ Matsという二人のアーティストが先導し、単なる実在する空間とは別の領域にある空間をドローンという形でナビゲートしていく音楽とも解釈出来る。チィター/チベット・ボウル/ベル/フィールド・レコーディング/インダストリアル・ノイズ/メタル・パーカッションといった特殊音の要素は、全般に規則的に導入されている。つまり、それ以前の特殊音が、忘れた頃になって舞い戻ってくるような不可思議な感覚が繰り返される。 これがポスト・モダニズムという観点とは別の規則性を呼び起こし、モンドリアンのような「パターン芸術」の音楽に接近していく。一見したところ、分散し、気まぐれにも思える音の要素は、驚くべきことに、建築学の設計図のように、また、上下水道施設の工学的な信号のように、緻密な計算がなされ配置されている。そして、それらの断続的な音の連続性は、拡大することもなければ、収縮することもなく、正体不明のインダストリアルなフィールド録音により、抽象的なイメージをたずさえながら閉じていく。

 

 

一方、二曲目の「A Ship Lost In The Polar Sea」については、抽象芸術とは対極にある具象芸術という意図が込められていると推測できる。Kraftwerkの「Aurobahn」の時代のレトロなモジュラー・シンセの音色を選んでいるが、やはり一曲目と同様にドローンという手法で、持続音を徹底して複合的に伸ばしていく手法が採用されている。一曲目と同様に、パイプ・オルガンのような重低音がいきなり強調される場合もあるが、この曲で焦点が絞られているのは、宇宙的な音の壮大さであり、エナジーの無限性である。両者のモジュラー・シンセの合奏は、これらの際限なく広がっていく空間性を造出する契機を生み出すが、それらの2つのシンセの持続音の線が重なり合った時、アナログの信号の持つ特殊な倍音が組み合わされ、特異な和音が生み出される時もある。これらのベースとなる構成の上に、遊び心のあるシンセのリード、実験的なリード、ボーカルのテクスチャーが複合的に組み合わされ、前代未聞の音楽が生み出されている。それらの音楽の気風を強化しているのが、他でもない、Zitherのエキゾチックな音色であり、これも一曲目と同様に分散和音が配置されることで、色彩的な音響効果を生み出している。

 

しかし、一曲目とは正反対に、Zitherの分散和音は、まばらに配置され、それらのアルペジオがトラックの背後のボーカルのアブストラクトなテクスチャーと重なり合った時、それ以前の不思議な感覚とは別のエキゾチックな印象を生み出している。アジアやアラブの祭礼的な雰囲気が生み出されたかと思えば、やがて、イントロの宇宙的な幽玄な雰囲気へと回帰していく。また一曲目と同様、雅楽のような神秘的な和音の構成を生み出す瞬間もある。さらに、この曲では和音や倍音の特性を駆使し、規定された和音性とは対極にある流動的な和音が探求される。つまり、和音の偶然性の探求ーー和音性におけるチャンス・オペレーションーーが意図されていると解釈出来る。そして、縦に配置される和音ではなく、横に配置される単旋律の倍音の重なりによって和音が生み出されるという点では、インドネシアのガムラン音楽に近い印象もある。


そして、これらのZiterとシンセを組み合わせたドローン/前衛音楽は、徐々に途絶えていき、曲の後半部では、モジュラー・シンセを中心としたアンビエントに近い、癒やしと安らぎに満ちた音楽へと接近していく。しかし、その空間の背後に充ちるサイレンスは、Zitherの抽象的な音階の進行により、聞き手の脳裏に余韻(記憶の中に止まる音)を呼び起こす。やがて、Zitherのベースを強調した演奏はまばらになっていき、双方の持続音の余韻のみを残しながら、これらの地上的とも宇宙的ともつかない、抽象性の高いドローンの世界は無限の静寂の中に飲み込まれる。




96/100




 



Peter Broderickがフランスの12人グループ、Ensemble Oとの共作アルバム『Give It  To  The  Sky』のタイトルトラックを公開し、同時にミュージック・ビデオも公開された。下記よりご覧ください。


『Give It  To  The  Sky』は、チェロ奏者のアーサー・ラッセルが1983年に発表したオーケストラ作品の再構成を中心に構成される。ラッセルの未発表曲も収録され、失われたいくつかの楽曲を丹念に再現した80分の作品となっている。その結果、失われたいくつかの楽曲が綿密かつゴージャスに蘇った。アルバムは、フランス南西部の小さな劇場でグループとしてライヴ録音された。


 Peter Broderickのニューアルバム『Give It  To  The  Sky』はErased  Tapesより10月6日に発売される。


 Spencer Zahn  『Statues Ⅰ』

 


 

Label: Sudden Records

Release: 2023/ 8/11

 


Review

 


現在、ブルックリンを拠点に活動する、マサチューセッツ出身であるスペンサー・ザーンは、12歳の頃にベースを弾き始めた。2000年代半ばにニューヨークに移住してからは、ツアー・ミュージシャンとして活動し、ジャンルを越えて、多様なアーティストとライブを行って来た。

 

ザーンのソロ・アーティストとしてのキャリアは、その後、志を同じくするギタリスト、デイヴ・ハリントンと共演を始めた2015年と同時期に始まった。「インストゥルメンタル・ミュージックの世界に戻りたいと強く思った」彼は説明する。「デイヴは、僕がソロでレコーディングするすべての中心的存在だ。お互いの直感を信頼している」と。現在は、マルチインストゥルメンタリストとして複数の楽器を演奏し、幅広い音楽性を擁する作品を発表しつづけている。

 

近作においては、エレクトロニカ、実験音楽、ジャズ、クラシックをクロスオーバーしたジャンルに規定されない作品を発表してきたスペンサー・ザーンの最新アルバム『Status Ⅰ』は、そのすべてがピアノ曲を中心としている。落ち着きがあり、間という概念を取り入れた気品溢れる音楽性が全編を通じて示されている。ザーンのピアノ演奏はポスト・クラシカル/モダンクラシカルに属するが、演奏法にはジャズ・ピアノの影響が織り交ぜられ、ジャズ的なスケールや和音を駆使している。演奏のスタイルは、米国のジャズの巨人たち、ビル・エヴァンスとキース・ジャーレットの系譜にある、と思う。ただし、スタンダードなジャズではなく、それを少し崩した形で演奏され、ポピュラー寄りのジャズ/クラシックとして楽しんでいただけるはずだ。


オープナー「Short Drive Home」は無調に近い摩訶不思議なピアノ曲。その音の運びはバッハの「平均律クラヴィーア」のようであるが、技巧を衒うことはなく、一音一音をシンプルに奏でている。例えば、シュールさについては、ケージやフェルドマンのニューヨークの現代音楽の系譜にある。一方、実験性に凝るわけではなく、ジャズ的な分散和音を取り入れることで聴きやすい小品として昇華している。演奏の間のとり方については、ECM New Seriesのジャズ・ピアノの演奏家を彷彿とさせる。これは無音という静寂を相手取ってのライブ・セッションとも称せる。ピアノの減退音(ディケイ)に対し、どのように音を運ぶのかに注目してもらいたい。

 

「Snow Fields」は、冬のニューヨークの雪が舞い落ちる情景がぼんやりと目に浮かぶ。音の運び一つ一つに慎重に注意が向けられ、優しく穏やかな雰囲気に溢れている。都会のオシャレな情景を切り取ったかのよう。伴奏の和音に対し、ジャズのインプロバイぜーションにも近い主旋律の演奏が繰り広げられる。クラシックとジャズの中間にある美しい一曲である。


「Lullaby For My Dog」は、制作者と愛犬との生活が描かれていると思うが、日常的な光景ですらも非日常的なロマンティックなものに変化させてしまうザーンの手腕には脱帽するより他ない。この曲は、ドイツのニルス・フラームのピアノ曲にも比する、高級感のあるポスト・クラシカルの形で展開される。響きの中には、ドイツ・ロマン派の影響もあるように思えるが、その一方で、モダン・ジャズからの引用もあるように思える。ピアノの伴奏と旋律は、これらの2つの音楽の意識の海の間を漂うかのように、どちらに向かうともしれず揺蕩いつづけるのだ。


実は、この段階でBill Evans、Keith Jarrettのようなジャズ・ピアノの大家に加え、2000年前後のエキゾ・ジャズが流行った頃に台頭したイスラエルのピアニスト、Anat Fortに近い音楽なのかもしれないという印象を持ち始めたが、次の曲「Never Seen」でそのことが確信に近くなる。ゾーンのピアノの演奏は、一貫して硬質な感覚に満ちていて、ジャズともクラシックとも付かない抽象的な和音によって紡がれていくが、その音は次第に格調高い響きに変わり、その後、ある種、崇高さすら感じえる演奏へと変遷を辿る。


スコア(記譜法)には、和音と対位法の双方の技法が取り入れられ、リズムと旋律の黄金比を絶妙に保っている。理知的かつ論理的な構成力はもちろんのこと、情感を失わないピアノの演奏には大いに着目したい。そして、湖の表面に降り落ちる雨が一瞬の波紋を形作る瞬間のように、奇跡的な音楽性を築き上げている。その奇跡的な一瞬をこの曲で聞き届けることができる。

 

 

「Lawns」は、単音のスタッカートの主題によって始まる一曲であり、以降はクラシカル調の音の進行が展開される。 ただ、ジャズの演奏にしろ、クラシックの演奏にしろ、モチーフを変奏させるライティングの技量が必要となるが、ゾーンはそれらの技術を難なくクリアしている。これがミニマリズムという形式の範疇に、この音楽をとどめておかない理由でもあるのだろう。


一定のリズムを配した伴奏に加え、ジャズ的な主旋律が加わるが、一方、その和音は、上下の和音ではなく、中の和音を組み替えあれることによって、異なる音響性をもたらし、曲が進行していく毎に、雰囲気を徐々に様変わりさせていく。ある和音では、悲しみを思わせたかと思えば、次の和音では、硬質な感じを思わせ、さらに次の和音では優しげな感じを、その次の和音では、柔らかな感覚を生み出す。これらの和音の心地よい連続的な変化は、曲の終盤に至ると、モダン・ジャズとジョン・レノンの「Imagine」の中間にある奇異な曲調へと変遷を辿っていく。

 

アーティストは、エレクトロニック、ジャズ、クラシックにとどまらず、アメリカーナにも影響を受けているという話だが、「I Used To Run」では、フォーク的なルーツが微妙に反映されている。あっという間に終わってしまうこの曲は、本来はギターで演奏するようなフォーク音楽をピアノで演奏にしていると思われる。旋律の中には、和風のスケールが部分的に取り入れられている。John Cageの「In a Landscape」、「Dream」に近い落ち着きがあり、禅の作庭や山水画のような印象をもたらす。もしくは、鹿威し、蹲といった、日本庭園にある水の装置を想起させる。米国的な文化性に加え、日本的なエキゾチズムが混淆したような面白さだ。

 

「Curious Flame」のイントロは、米国のポピュラー・ミュージックのソングライティング性を思わせる。その後は、モダン・ジャズの気風を反映した曲調へと変遷を辿る。アルバム中盤の曲と同様に、左手の伴奏は、心地よい水の流れのように空間を移動していくが、主旋律はそれらの抽象的な雰囲気を強める役割を担っている。それらの主旋律の運びは稀に詩的な感慨が漂う場合もある。その後には、色彩的な和音が取り入れられ、取っ掛かりのようなものを作っている。


和音の流れは、緩やかに流れていったかと思うと、ふと、その瞬間に立ち止まる瞬間もある。これらの流動的な構成は、いっかな途絶えることなく曲の終わりへとつづいていく。伴奏と主旋律は、常に対話のような形で配置され、2つの空間に置かれたコール&レスポンスのような効果を生み出している。驚くべきは、これらの技法は、そのすべてが一台のピアノでおこなわれていること。そしてノート(音符)が全部鳴り止んだ瞬間、それまでそこにあった感覚が目の前から立ち消え、じんわりした余韻が残る。温かな感覚のみがその後の一刹那に残りつづける。

 

 

これらの潤沢なモダン・クラシカルの時の流れは、アルバムの終盤になっても健在である。「Two Cranes」は、分散和音(アルペジオ)が清らかな水さながらに、緩やかに、心地よく流れていく。流れに身を任すと、その正体に同化することもできなくはない。そして、情景的な音の旋律は、曲の中盤に至るまで、緩やかな感情の起伏を作りながら続いていく。稀に、流れの中にジャズ的な和音が現れたかと思うと、たちまち消えていく。アンビエント風のシークエンスを追加し、雰囲気をもり立てたくなるような曲ではあるが、それをあえてせず、ピアノのみでこれらの情感たっぷりのサウンドスケープを生み出しているのが重要なポイントである。

 

「平均律クラヴィーア」のフーガのような対位法の技法を取り入れたこの曲の中には、一瞬に過ぎないが、ドイツのロマン派やウイーンの古典派の巨人達に対する憧憬がかすかに霞む。しかし、ペーソスに近い何かが立ち現れたかと思うと、やはり、すぐさまその感覚は立ち消えてしまう。いわば後腐れないゾーンのスマートな感覚が、これ以上はない心地良い感覚を与している。陶酔感のある澱みのない流れは、曲の終わりにかけ、次第に薄められ、さらにテンポダウンしていき、心地よさの中に消え果てていこうとする。それ以前の透徹した感覚を相携えながら。



最後の曲「Sway」は、本作の中で最もペーソスが漂う。悲しみは十分な間を取りながら、繊細なピアノの演奏という形で紡がれていく。アルバムの中では、最もモダン・ジャズの要素が薄く、ポピュラー・ミュージックに近いクラシックとして聴くこともできるが、これらの簡素な構成の中に低音部が加わることで、高級な感覚を残す。それは物質的な高級感ではないのだと思う。


『Statues I』は作品としてずば抜けて完成度が高く、音楽として徹底して磨き上げられている。序盤から終盤にかけて、集中力が途切れず、ストレスなく聴き通すことができることから、現行のポストクラシカル/モダンクラシカル/モダン・ジャズとして、秀作以上の位置づけが妥当であるように思える。今秋に発売されるという第二編『Statues Ⅱ』にも大いに期待したい。



 

94/100

 

 

 

©Rachael Pony Cassells


モダン・クラシカルシーンで存在感を示しつつある米国のハープ奏者、メアリー・ラティモアは、10月6日にGhostlyからリリースされるニューアルバム『Goodbye, Hotel Arkada』を発表した。

 

このニュースに合わせて、リード・シングル「And Then He Wrapped His Wings Around Me」のビデオが公開となった。


ニューアルバムの”アルカダ"の名は、クロアチアのフヴァル島にあるホテルに由来する。「ホテル・アルカダと呼ばれる大きな古いホテルがあり、何十年もの間、休暇を過ごす人たちを素晴らしい形で受け入れてきたことがわかる」

 

「ロビーや空っぽの宴会場を見て回ったが、使い古された、人々に長く愛された場所のように見えた。そこに住んでいる友人のステイシーが、”ホテル・アルカダにさよならを言いなさい、あなたが戻ってきたときには、このホテルはなくなっているかもしないから”と言ってくれました。その後すぐ、実際にとてもさわやかでモダンな方法でホテルが改装されることを聞いたんです」


さよなら、『ホテル・アルカダ』には、キュアーのロル・トルハースト、メグ・ベアード、スローダイヴのレイチェル・ゴズウェル、ロイ・モンゴメリー、サマラ・ルベルスキー、ウォルト・マクレメンツが参加している。

 

メアリー・ラティモアは、「これらの曲について考えるとき、花瓶の中の色あせた花、溶けたろうそく、年を重ねること、ツアー中、離れている間に物事が変化してしまうこと、体験がいかに儚いものであるか、それが起こらなくなるまで気づかぬこと、強欲のため失いつつある地球への恐れ、自分の人生を本当に形作ってきた芸術や音楽への頌歌、過去に戻れること、感受性を維持しながら、空虚な落胆に沈まぬことへの憧れについてのたゆまぬ思考である」と説明している。


ラティモアは昨年、ポール・スキーナとのコラボレーションLP『West Kensington』をリリースした。

 

 

「And Then He Wrapped His Wings Around Me」




Mary Lattimore 『Goodbye, Hotel Arkada』

Label: Ghostly

Release: 2023/10/6

 

Tracklist:


1. And Then He Wrapped His Wings Around Me [feat. Meg Baird and Walt McClements]


2. Arrivederci [feat. Lol Tolhurst]


3. Blender in a Blender [feat. Roy Montgomery]


4. Music for Applying Shimmering Eye Shadow


5. Horses, Glossy on the Hill


6. Yesterday’s Parties [feat. Rachel Goswell and Samara Lubelski]


 

 

作曲家兼プロデューサーのPeter Broderickとフランスの12人組グループ、Ensemble Oは、『Give It To The Sky』を10月6日にErased Tapesからリリースする。

 

1983年に発表された米国のチェロ演奏家、Arthur Russelの壮大なミニマル・オーケストラ曲の完全再録音である。先月アルバムの発表に合わせて、最初のシングル「Tower Of Meaning Ⅲ」が公開された。


『Give It to the Sky』には、ラッセルの未発表曲も収録され、失われたいくつかの楽曲を丹念に再現した80分の作品となっている。結果、失われたいくつかの楽曲が綿密かつゴージャスに蘇った。このアルバムは フランス南西部の小さな劇場でグループとしてライヴ録音された。



このアメリカ人チェリスト、作曲家、歌手、そして音楽的先見の明は、皮肉と悲劇をも体現している。皮肉、悲劇、逆説を体現している。ラッセルが録音したテープは ラッセルは1,000時間以上のテープを録音し、途方もないアーカイブを残した、 現在はニューヨーク公共図書館の一部となっている。しかし、1992年に亡くなるまで、 ラッセルが自分の名前でリリースしたアルバムはわずか3枚。

 

そのうちの1枚が『Tower of Meaning』(1983年)で、エウリピデスの『メデア』のロバート・ウィルソン演出のために依頼され、その後断念したスコアである。作曲家でありピアニストのフィリップ・グラスは、少なくともこの音楽の保存に貢献し、その後、自身のレーベルからわずか320枚のLPという少々薄いレコーディングをリリースした。

 

 

 


Peter Broderick/Emsenble O 『Give It To The Sky』



Label: Erased Tapes

Release: 2023/10/6 


Tracklist:


Tower of Meaning I 
Tower of Meaning II
Tower of Meaning III 
Tower of Meaning IV
Corky I / White Jet Set Smoke Trail I 
Consideration 
Tower of Meaning V 
Tower of Meaning VI 
Tower of Meaning VII 
Tower of Meaning VIII 
Tower of Meaning IX / Corky II 
Tower るるof Meaning X 1
Give It to the Sky 
Tower of Meaning XI
Tower of Meaning XII 
Corky III 
White Jet Smoke Trail II

©Hana Tajima


Spencer Zahn(スペンサー・ザーン)が、カリフォルニアのピアニスト、Carla Bley(カーラ・ブレイ)の曲をアレンジした新曲「Laws」を発表した。この曲は、すでに「Two Cranes」でプレビューされている彼の近日発売予定のアルバム『Statues I』からの最新シングルだ。試聴は以下より。


Statues I』は8月11日にCascineからリリースされ、今秋には『Statues II』がリリースされる予定だ。"最初の曲は、ピアノ・ソロ曲として完全に形成されていると感じられる曲だった "とザーンは声明で説明している。「私はこれらの曲の中で生きることができた。この曲には、私の北部の生活における貴重な6ヶ月間が凝縮されている。控えめで、ミニマルで、孤独な瞬間だ。


「Laws」

 

Zoe Palanski

イスラエル、テルアビブ在住のアーティストZoe Polanski(ゾーイ・ポランスキー)が日本のヴァイオリニスト、高原久実とコラボし、楽曲「Home Alone」を本日、配信リリースします。

 

「ホーム・アローン」は、パンデミックの隔離の最中に行ったジャム・セッションから生まれた。

 

ちょうど制作中の映画音楽のために新しいシンセサイザー、KORG DW 8000を買ったばかりで、それでたくさんの音とループを録音したんだ。この曲のメイン・メロディもDWで演奏したものだが、後になって、このメロディはアコースティック楽器で演奏するべきだと思い、特別な温かみと深みのあるメロディにした。繰り返されるコードやその他のノイズが作り出す情景の中で、メロディがトラックの中心を担ってくれるようにしたかったんだ。


以前、クミ(高原久美)のトラック 「Roll」をリミックスしたときに、クミのレコーディングに参加したことがあるんだ。彼女のヴァイオリン演奏は、私が求めていたタッチと繊細さを持っているとわかっていたので、自然にこの作品への参加を依頼した。彼女は美しい流動性と軽やかさをもたらし、思いがけない方法で私のビジョンを共有してくれた。

 

Zoe Polanski(ゾーイ・ポランスキー)



Kumi Takahara


高原久実のアルバム楽曲をZoe Polanskiがリミックスしたことで交流が始まった両者。 コロナ隔離中にZoeが購入したKorg DW 8000で製作したというトラックに、高原久美のヴァイオリンが全面的にフィーチャーされた幻想的な1曲です。七分近くにも及ぶ壮大なインストゥルメンタルのシングルです。

 

楽曲のテーストは下記より。配信リンク及び、楽曲のご購入は下記よりどうぞ。

 

 

 

Zoe Polanski & Kumi Takahara 「Home Alone」-New Single-

 

Label: flau

Release: 2023/6/23



Tracklist:

 1.Home Alone


ダウンロード/ストリーミング:

https://flau.lnk.to/FLAUD07

 

 

©Hannes Caspar

 

Haushka(ハウシュカ)ことフォルカー・ベルテルマンが、ニューアルバム『Philanthropy』を発表した。2019年の『A Different Forest』に続く今作は、10月20日にCity Slangからリリースされる。

 

本日、この作曲家はリード・シングル「Loved Ones」を発表し、ティリー・シャイナー監督による短編映画『I Haven't Told This to Anybody Before / Finding Nick Ayer』を映像化したビデオも公開した。


バーテルマンは2022年の夏から、新作のほとんどを自身のスタジオでピアノ1本でレコーディングした。「プレスリリースの中で、彼はこう語っている。「最初に始めた頃とつながりたかったんだ」。Philanthropy』には、チェリストのラウラ・ヴィークとヴァイオリニストのカリーナ・ブッシンガー、そしてムームのドラマー、サムリ・コスミネンが参加している。


フォルカー・ベルテルマンの『西部戦線異状なし』は、2023年のアカデミー賞で作曲賞を受賞している。映画音楽の作曲家の注目作です。


「Love Ones」

 

 

Hauschka 『Philanthropy』

Label: City Slang

Release: 2023/10/20



Tracklist:


1. Diversity


2. Searching


3. Invention


4. Detached


5. Limitation


6. Nature


7. Science


8. Loved One


9. Generosity


10. Magnanimity


11. Altruism


12. Noie


Demian Dorelli  『My Window』

 


Label: Ponderosa Music Records

Release: 2023/5/19


Review

 

ロンドンで生まれ育ち、ケンブリッジ大学出身のDemian Dorelliは、音楽とともにその人生を歩んできたピアニストであり作曲家である。主にクラシックで音楽の素地を形成したデミアン・ドレッリは、その後もジャズ・ミュージックやエレクトロニック・ミュージックへのアプローチを止めることなく、その制作経験を豊富にしていきました。彼はパシフィコ(2019年のアルバム『Bastasse il Cielo』から引用された曲「Canzone Fragile」)で、アラン・クラーク(Dire Straits)、シモーネ・パチェ(Blonde Redhead)といった名だたるアーティストとコラボレーションしています。



デミアン・ドレッリはまた、ポンデローザ・ミュージック&アートから『Nick Drake's PINK MOON, a Journey on Piano』を発表している。このアルバムは、ピーター・ガブリエルのリアルワールド・スタジオでティム・オリバーと共にレコーディングされ、ドレリがピアノを弾きながら故ニック・ドレイクに敬意を表し、過去と現在の間で彼との対話を行う11曲で構成されている。


『My Window』は、ピアニスト・作曲家デミアン・ドレッリのサイン入り2枚目のアルバムで、ポンデローザ・ミュージック・レコードからリリースされ、彼の長年の友人アルベルト・ファブリス(ルドヴィコ・エイナウディの長年の音楽協力者・プロデューサー、ドレッリの「ニックス・ドレイク ピンクムーン」というデビュー作品の時にすでにコントロール・ルームにいた)がプロデュースした。イタリアのレーベルのパンデローサは、このアルバムについて、「イタリア人ファッション写真家とイギリス人バレエダンサーの間に生まれたもう一人のドレッリ(わが国のクルーナー、忘れられないジョニーの人気と肩を並べることを望んでいる)は、非常に高いオリジナリティを持つピアノソロアルバムを作るという難題に成功したことになる。作曲とメロディーの織り成しの両方において、オリジナリティがある」と説明している。


実際の音楽はどうだろうか。デミアン・ドレッリのピアノ音楽は、現在のポスト・クラシカルシーンの音楽とも共通点があるが、ピアノの演奏や作品から醸し出される気品については、ドイツの演奏家である今は亡きHans Gunter Otteの作品を彷彿とさせる。デミアン・ドレッリの紡ぎ出す旋律は軽やかであるとともに、奇妙な清々しさがある。まるでそれは、未知の扉を開いて、開放的な世界へとリスナーを導くかのようだ。ミニマリストとしての表情とその範疇に収まらないのびのびとした創造性は、軽やかなタッチのピアノの演奏と、みずみずしい旋律の凛とした連なり、そしてそれを支える低音部の迫力を通じて、聞き手にわかりやすい形で伝わってくるのである。

 

オープナーを飾る「Clouds in Bloom」は安らいだ感じのピアノ曲で、このアルバムを象徴するものである。

 

ジョン・アダムスやフィリップ・グラスのミニマリズムを下地にし、それをハンス・オットのような自然味のある爽やかな小品として仕立てている。楽曲は反復性を一つの特徴としているが、豊かな感性による演奏と曲の展開力があり、また音の配置はそこまで神経質ではない。どことなく、その演奏は緩やかであり、癒やしの感覚に富んでいる。そして、ノートの連なりは、演奏者のきめ細やかなタッチにより、みずみずしい音に変わり、聞き手の脳裏に様々な情景--サウンドスケープ--を浮かび上がらせるのだ。

 

アルバムのタイトル曲「My Window」にも象徴されるように、ダミアン・ドレッリの曲と演奏は徹底して気品に溢れ、聞き手の心に緩やかな感覚を授ける。またこの曲では、ドレッリの作風がストーリー性があり、映画的な音響性を持ち合わせることを明示している。しかし、この曲を聴くと分かるように、彼の作風は単なるヒーリングミュージックの範疇には留まらず、イタリアの作曲家、ルチアーノ・ベリオが20世紀に書いたような何か悩ましげな感覚に満ちている。そして、その演奏の真摯さは、実際にこのレコードに対して、聞き手の注意を引きつける何かが込められているのである。

 

他にも、多様な音楽性を楽しめる曲が収録されている。制作者の個人的な追憶と現在との状況を情感豊かに結びつけたと思われる「The Letter」では、休符による間を使い、ドイツ・ロマン派の作曲家が書いたようなピアノの小品を提示している。そして、簡素なエクリチュールにより、それはシューマンの子供向けのピアノ曲のように親しみやすく、穏やかな表情を兼ね備えている。そして音の強弱の表現力とともに、低音部の持続音を駆使し、潤いのある高音部の旋律を取り入れることにより、いわば瞑想的な感覚をもたらすことに成功している。


その他にもやさしげで、慈しみに充ちた楽曲がアルバムの後半部を占めている。「The Balcony」では、実際の生活とその中で得られるささやかな喜びを、親しみやすいピアノ曲に仕上げている。特に素晴らしいのは、過去のクラシックに埋没するわけではなく、現在の作曲家の暮らしとの関連性がこれらの曲に見受けられることだろうか。それは実際、このアルバム全体を古典音楽としてではなく、現代の音楽という形で聞き手に解釈することを促すのである。そして、制作者は、現実的な側面と内的な側面のバランスを取ることにより、夢想的なものと現実的なものが絶えず、曲の中、あるいは、アルバムの中で交互に混在している。これがアルバム全体により緩やかな流れのような効果を与え、聞き手に心地よさと安心感を与えている要因でもある。


その他にも、映画のサウンドトラックのように少しコミカルなイントロからダイナミックなピアノ曲へと移行する「Golden Hour」の展開力も目を瞠るものがあるが、「Inside Out」での癒やされる感覚、クローズを飾る「Sunbeams」も美麗な雰囲気を作り出している。特に、現代のピアニストを概観した時、デミアン・ドレッリの演奏は音の粒が精細であり、一つの打音自体がキラキラと光り輝くような美麗さを持つ。それは喩えれば、日の光に当てられた水の粒のようであり、また、窓の外の新緑の向こう側に微かに見える太陽の光の嵩のようなものでもある。制作者が個人的に美しいと感ずるもの(それは何も目に映る物体に留まらず、内的な感情も含まれている)を一つずつ丹念に捉え、それを精細なピアノ作品に仕上げた手腕は実に見事である。

 

デミアン・ドレッリの二作目は抽象的な概念が込められた思索的な意味を持つアルバムである。一方、現代のクラシカルやジャズとしても親しめるような作品となっている。基本はピアノ演奏だけで構成されているが、同時にアンビエントのような空間的な奥行きと安らぎが内包されていることについても言及しておいたほうが良いだろう。


85/100

 


Featured Track「My Window」 

 



ベルギー/ブリュッセルのアヴァンフォークシーンで活躍するシンガーソングライター、Antoine Loyer(アントワーヌ・ロワイエ)が5枚目のアルバム『Talamanca』のリリースを発表しました。アントワーヌ・ロワイエについては、音楽評論家の高橋健太郎氏が絶賛しています。2014年のアルバム『Chante De Recrutement』をベストアルバムとして選んでいます。

 

『Talamanca』の収録曲には、Mégalodons malades(メガロドン・マラデス)というオーケストラが参加しています。(コントラファゴットが女性のボーカルを支えています)。レーベルの説明によると、5作目のアルバムのレコーディングは、スペインのカタルーニャ地方の同名の村の教会と、古い家で行われたという。例により作品に妥協はない。ブリュッセルの小学生と一緒に作った曲も数曲含まれるという意味では、既存のアルバムの中では最もアクセスしやすいことは間違いない。


『Talamanca』はベルゴ・カタロニアの教会の名称であり、2019年にその名の由来となったスペインの村で足場が組まれた。このアルバムの制作についてアーティストは以下のように説明している。


あの時、私たちはキッチンテーブルの周りに座って労働していた。その後、パンデミックが到来したものの、以来、私たちは何も変わっていないし、変わるはずもなかった。毛布の上に寝そべりながら、子供がレコーディングの間、手持ち無沙汰にしていた。フランス語で(「Marcelin dentiste」)、次にフードの言葉で(「Marcelí」)、彼は2回歌ってくれた。私は、"Percheron frelichon "で、彼の喃語を聞くとはなしに聞いていた。


クラシック・オーケストラの最も奥深い楽器であるコントラファゴットが、レコードの全編に流れている。『タラマンカ』は、優しく、軋むとすればほんの一瞬だ。ブリュッセルの学校で作られた歌が持ち込まれ、("Demi-lune "、"Pierre-Yves bègue")、("Robin l'agriculteur d'Ellezelles", "Un monde de frites")ではピッコロが演奏される。


私が愛するすべてのものは、会話しながら(会話によって)急速に書かれ、近くにあったギターによって収穫された。私はこの方法で何千もの作品を作ることができる。そのため必要なのは、邪魔をしないことだった。事実上、長いコントラファゴットの動脈は幾重にも重なり私たちの前に現れ、流れを塞ぐことは考えられなかった。


『Talamanca』は、2023年6月2日にデジタル、LPの二形式でLabel Le Sauleより発売される。日本国内では、タワーレコードディスクユニオンで予約が開始されています。『French Song』は墓地のように広がり、人が音楽の深さを発見できるかぎりつづく。『Talamanca』のアートワークの表紙を飾ったのは、アントワーヌより20歳年下のダンサー、アンナ・カルシナ・フォレラドだ。


Antoine Loyer 『Talamanca』