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Roger Eno ©Cecily Eno

 

近年、気候変動をテーマにしたアルバム、Fred Again..とのコラボレーションなど幅広い分野で活躍するブライアン・イーノとともに、音楽家として存在感を示しつつあるのが、彼の弟であるロジャー・イーノである。

 

2023年、ギリシャ・アテネのアクロポリスでのライブをブライアンと一緒に行い、音楽ファンを驚かせた。このライブの模様はコンサート・フィルム『Live At The Acropolis』に収録されている。


最近の幾つかのソロ・アルバムでは、様々なコンセプチュアルな試みが行われている。「Mixiing Colours」においてブライアンと音による対話を行い、続く『The Turning Year』では、個々のシーンを持つ短編小説、そして、写真のコレクションのような意味を持つコンセプト・アルバムに取り組んでいる。いずれの作品も、音楽の中に何らかの意図が込められている。

 

今回、ロジャー・イーノは、ドイツ・グラモフォンから新作アルバムのリリースを発表した。タイトルは「The Skies : Rarities」。2枚目のソロ・アルバム『the skies, they shift』のレコーディング・セッションで録音された未発表曲が収録されている。音と静寂の中で、喚起的で示唆に富んだ道筋をたどる。メランコリックなトーンは、『Rarities』でも聴くことができる。


このアルバムは、集約的な農業と気候変動が環境にもたらす脅威と大いに関係があった。(「単なるエコロジカル・スレノディになりかねなかったこのレコードは、その代わりに、今、ここ、そして、気候変動に対する美しい考察となった」- The Line Of Best Fit


「アルバムとなる作品を録音する際、私はたいていアイデアがあり余っている」とロジャー・イーノは言う。

 

「こうすることで、プロセスの最後に、深く検討した順序で決定的な 「コレクション 」を作ることができるんだ。後者は私にとって非常に重要だ。こうして、私はしばしば、1枚だけでなく2枚分の満足のいく音源を持っているという贅沢な立場にいることに気づく」



ベルリン・スコアリングの楽器奏者はスコアを元に即興演奏をするよう依頼された。一方、ギタリストのジョン・ゴダードは 「Into Silence 」で参加。イーノは 「Into Silence 」について「特別な曲」と呼ぶ。この曲は、イーノ曰く「そうでなければ欠けていた特別な風味」を添えている。

 

アルバムのリードシングルとして公開された「Changing Light」は、リスナーの心をその場に留め、静かな瞑想を促すピアノ曲となっている。Peter Borderickのピアノの小品を彷彿とさせる美しい一曲。

 

 

「Changing Light」



 
Roger Eno  『The Skies : Rarities』


 
Label: Deutsche Grammophon
 
Release: 2024年9月27日
 

Tracklist:  

 
1.Breaking the Surface
2.Patterned Ground
3.Through The Blue (Piano Version)
4.Above and Below (Amazon Original)
5.Now and Then
6.Changing Light
7.Time Will Tell
8.Into Silence
 
 
 

Roger Eno: 

 

ロジャー・イーノは、イギリス・サフォークのマーケットタウンであるウッドブリッジで生を受けた。彼は学校で音楽に没頭し、毎週土曜日に精肉店で稼いだお金でボロボロのアップライトピアノを購入しました。その後、ロジャー・イーノの音楽教育は、コルチェスター・インスティテュート・スクール・オブ・ミュージックへと引き継がれた。ロンドンのプライベートクラブでジャズ・ピアノを弾く短い活動を行った後、彼はイースト・アングリアに戻った。 


1983年、兄のブライアンとダニエル・ラノワと「Apollo」で最初にコラボレーションを行ない、ピーター・ハンミル。オーブ、そして 彼の最初のバンドである、ララージ、ケイト・セント・ジョエル、ビル・ネルソン、日本のチェロ奏者である橘真弓をメンバーに擁するアンビエント・グループのチャンネル・ライト・ベッセルをその後に結成した。
 
 
彼はまた、セッションミュージシャン、バンドメンバーとして、オーブ、ルー・リード、ジェービス・コッカー、ベックをはじめとする著名なミュージシャンとチームを組み、ティム・ロビンスと彼のバンドであるローグギャラリーの音楽監督として活躍した。 
 
 
今日では、演劇、映画の双方の作曲家として知られるロジャーは、ロンドンの国立劇場でのハロルド・ピンターの作品、さらには、スティーヴン・フリアーズ監督のテレビシリーズ「State of The Union」ではエミー賞を獲得し、何年にもわたって多くの映画のサウンドトラックを提供してきた。

Weekly Music Feature:  Joep Beving(ユップ・ベヴィン)& Maarten Vos(マーテン・ボス)


Joep Beving & Maarten Vos

 

 

ピアニストのユップ・ベヴィンとチェリストのマーテン・ボスは、2019年の『Henosis』以来二度目のコラボレーションを実現させる。最初の共同作業は2人の音楽家が2018年にアムステルダムのライブで共演した後に実現しました。


新作アルバム『vision of contentment』は、マーテン・ボスもスタジオを構えるドイツの東西分裂時代の遺構で、第二次世界大戦まで旧ドイツの国営放送局であったベルリンのファンクハウス複合施設にあるLEITERスタジオでニルス・フラームがミックスした。

 

現在、ベルリン・ファンクハウスは、観光施設となっており、内部にはレコーディングスタジオとコンサートホールが完備されている。エイフェックス・ツインがイベント行ったり、あるいはニルス・フラームをはじめ、実験音楽をメインフィールドとする音楽家が録音を行ったり、オーケストラのコンサートが行われることもある。旧ドイツ時代の施設の名残りがあり、ロシアのビザンチン建築を継承した踊り場の階段のデザイン、1940年代の奇妙な機械設備が残されています。

 

ベヴィンは、これまで他のアーティストとアルバム全体をレコーディングしたことはありませんでしたが、ヴォスは定期的にそのような活動をしており、ジュリアナ・バーウィック、ニコラス・ゴダン(AIR)、アレックス・スモークといったアーティストとクレジットを共有しています。

 

「時折、音楽的なつながりを共有するアーティストに出くわすと、お互いにコラボレーションをしたいと思うようになる」とマーテン・ボスは説明します。


「異なる創造的アプローチを探求し、彼らのワークフローから学ぶことは刺激的で、私の成長に大きく貢献している」


もちろん、ユップ・ベヴィンにとって、それは当然のステップであり、遅きに失したと言っても過言ではありませんでした。「共同プロジェクトとしてゼロからアルバムを作ることは、マールテンと私が以前からやってみたかったことだった」


「私の契約(ドイツ・グラモフォンとのライセンスのこと)が終了したとき、私たちは音楽を作り始める機会を得た。私はいつも、リスナーが一時的に住めるような小さな世界を作ろうとしている。マーテンとニルスと一緒に仕事をすることは、これを達成するのに非常に役立っている。マーテンは音の彫刻家であり、ニルスはその...音の達人なんだ!」


ベヴィンとボスは、オランダのユトレヒト州にある小さな村、ビルトホーフェン郊外の森の中にひっそりと小屋”デ・ベレンパン”でアップライトピアノと一緒に過ごすため、レコーディング機材、様々なシンセ、チェロなどの荷物を解いた後、2023年7月に『vision of contentment』の大半を書き、レコーディングしました。


この友人たちは、ベヴィンのアムステルダムのスタジオとボスのファンクハウスですでに一緒に時間を過ごしており、そこからさらに2曲のアルバム・トラック作り出された。

 

時におびただしい数の作業から、ピアニストが言うところの「避けられないことを受け入れることに安らぎを見出す」という普遍的な賛辞が生まれました。

 

しかし、このアルバムはそれ以上のものを表現している。それは、彼らの友人であり、ベヴィンの場合はマネージャーであったマーク・ブルーネンへの驚愕すべき個人的トリビュートでもある。


ボスは「vision of contentment」の心に響くサウンドを「想像力豊かな探求を促す音の風景」であると考えており、デュオは「音楽的ガイド」としてモートン・フェルドマンを、そして「メンター」として、坂本龍一とアルヴァ・ノトを挙げています。一方、ベヴィンは、リスナーにシンプルな愛の感覚を残すつもりであると語り、「調和と理解の探求」を可能にし、「ファシストと恐怖に大いなるファック・ユー!!」を届けてくれるであろうことを願っていると付け加えています。


確かに、このアルバムは、私たちの住まう生の世界であれ、反対にある死の世界であれ、平穏という複数のアイデアに根ざしている。ベヴィン曰く、「嵐の後の朝、潮の満ち引きの評価、過ぎ去ったことの受け入れ、そして、新しい日の夜明け、新しい人生を意味している」という。


これらの繊細なブックエンドの間には、亡霊のような無調の「Penumbra」、くぐもったノスタルジックな「A night in Reno」、不定形で不穏な「Hades」など、半ダース(6曲)のトラックが収録されている。


一方、「The heron」の哀愁を帯びたチェロは、ほとんどありえないほど豪華なピアノの旋律に引き立てられるのみで、部屋の中にいる得体の知れないノイズのようなものによってすぐに明るくなる。さらに、「02:07」は、よく生きた人生がより良い場所へと旅立っていく瞬間を表し、タイトル曲の広々とした静かで壮大な9分間は、不在そのものを祝福しているかのようです。


ベヴィンとボスがビルトホーフェンにほど近い森の小屋に落ち着いた頃には、べヴィンのマネージャーで旧友のブルーネンは3年間がんと闘っている最中でした。しかし、彼の死が間近に迫っていたため、制作の進行に影を落としていたとしても、それは悲しみだけが要因ではなかった。「ここでの中心テーマは "ブルー・アワー"、黄昏時だったのです」とベヴィンは説明します。


「それはつまり、ある状態から別の状態への移行、そして暗さを受け入れること。友人のマークは自分の病気と差し迫った最期に対して驚くべき対処法を示していました。彼は自分の運命と平穏に過ごしていました」



『visions of contentment』 Leiter      


オランダの鬼才 ユップ・ベヴィン、マーテン・ボスによる耽美主義のクラシカル

 


オランダのピアニスト、ユップ・べヴィンは、現代のコンテンポラリー・クラシックを語る上では欠かすことが出来ない音楽家でしょう。べヴィンのピアノ曲は、Olafur Arnoldsの系譜にある”叙情的なミニマルミュージック”の系譜にあるものとなっていますが、彼の音楽的な興味は、ロマン派や、それ以降のジャズとの架け橋を形作ったフランスの近代和声に向けられています。

 

べヴィンのピアノ曲の基礎にはショパンのロマン派に対する親しみが込められ、それはポーランドの作曲家の「ノクターン」に近い。それに加え、音楽家のエスプリ(日本語でいう”粋”という概念)を求めるとするなら、エリック・サティのような無調に属する和音と、旧来の和声法の常識を覆すような前衛的な和音法の確立にある。これは、基音の11度、13度、15度といった、ジャズの和音の基本となったのは言うまでもありません。これらの7度以降の和音構造にラヴェルやドビュッシーが興味を抱いたのは、それらの和音が涼し気な印象を及ぼし、旧来のドイツ発祥の厳格な和声法を完全に払拭するものであったからなのです。

 

より端的に言えば、ユップ・べヴィンという作曲家が傑出しているのは、これらの前衛的な和声法と旧来のクラシックのロマン派の夜想曲のような神秘的な雰囲気を持つ楽曲構造を組み合わせているからでもある。

 

今回、ベヴィンのアルバムに新たに共同制作者として参加したマーテン・ボスは、チェロ奏者でありながら、アナログシンセサイザー奏者でもある。このコラボレーションは、チェロとピアノの合奏にとどまらず、シンセサイザーとピアノの融合が主眼となっている。それに加えて、ニルス・フラームが、ベルリン・ファンクハウスのスタジオで最終的なミックスを行っています。


聞けば分かる通り、この作品の制作に携わったニルス・フラームは音響効果をてきめんに施しており、単なる合奏曲ではなく、エレクトロニックやダブステップのような先鋭的なサウンドワークの意味を持つ作風として仕上げられています。全体的な録音の割合で言えば、べヴィンとボスが7、8割、フラームが2、3割くらい関与する内容となっている。もしかすると、1割ほどその割合は前後するかも知れない。つまり、このアルバムは、ユニットやデュオの作品とは言いづらい。むしろ、Leiter(ライター)主導の”トリオの作品”として聴くこともできるようなアルバムになっています。

 

 

ジブリ音楽を手掛けた日本の作曲家、池辺晋一郎氏は、音楽を制作する上で欠かさざるものが2つあると仰っていました。それは作曲の技法の一貫である「メチエ」、つまり、音楽的な蓄積や技法。もう一つが「イデア」であるという。それらはモチーフとか、ライトモチーフという形で作品に取り入れられ、最初に始まった音楽の動機を動かしたり、別の大きな楽節を繋げたり、より大きな枠組みで言えば、幾つかの章やセクションを繋げるような働きをなしています。

 

いわば制作者の頭の中に描かれた構想や着想が、音楽的な設計やデザインと組み合わされることにより、良質な作品が作り出される場合が多いのです。これらは何も、純正音楽だけに限った話ではないように思えます。たとえば、優れたエレクトロニック、優れたロック、優れたポピュラーというのは、イデアとメチエがぴったりと合わさるようにして生み出される。そのどちらかが優勢になっても、均衡の取れた作品にはならない時がある。加えて、現代の指揮者やエンジニアのような役割を担うのがレーベルの仕事であり、そして、プロデューサーの役割でもある。レーベルならば、そのレコード会社らしい音質や録音、一方、プロデューサーならば、そのエンジニアらしいマスタリング。こういった複合的な要素から、現代のレコーディングは成立しており、一人だけの力でそれらが完成することは、ほとんどあり得ないかもしれません。

 

ひるがえって、「visions of contestment」に関して言えば、ユップ・べヴィンの「マネージャーの死」というのが制作過程で一つのイデアとして組み込まれることになりました。それがすべてではないのかもしれませんが、人間の避けられぬ運命、目をそむけてしまうような暗さ、そして、それを肯定的に捉えること……。


これらのピアノ曲とチェロの演奏に、瞑想的な気風が含まれているとすれば、べヴィンにせよ、ボスにせよ、そういった考えを十分に汲み取り、暗さから目を背けず、安らかなものとして受け入れるという「治癒」が内包されているがゆえなのです。さらに言えば、今作はオランダの森の中で制作されたことによる中世的な雰囲気と、ベルリン・ファンクハウスの旧ドイツの機械産業を象徴づける近代的な気風が掛け合わされ、クラシックとエレクトロニックが融合した画期的なアルバムとして音楽ファンの記憶に残るかもしれません。

 

実際、レコーディングの過程で制作された楽曲が時系列順に収録されることは多くはないものの、アルバムは何らかの音楽的な流れーーMovement(ムーヴメント)ーーを形成しているのは事実のようです。それは、物語のようなフィクションではなく、現実にある時間の流れ、ある人の一生や、それに纏わる人々の複雑な感情の流れを、主な演奏家で制作者でもあるユップ・ベヴィンとマーテン・ボスがピアノやシンセ、チェロにより的確に捉え、そしてプロデューサーやエンジニアとして、時おり作曲家に近い形で関わるニルス・フラームという3つの人間関係を中心に構築されている。彼等のうち一人が音楽的な主役になったり、脇役に扮したり、それとは対象的に、舞台袖に控える黒子のような「影の人物」を演ずる場合がある。つまり、このアルバムでは、ほとんど''中心的な人物''というのを挙げることは無理難題のようにも思えるのです。

 

これは音楽という枠組みの内側で繰り広げられる劇伴音楽のようでもある。架空のものでありながら、真実であり、真実でありながら、架空でもある。そして、その演劇的な音楽の向こうから、第四の人物である"マーク・ブルーネン"という、ほとんどのリスナーが見知らぬ人物が登場する。しかし、そういったリヒャルト・ワーグナーの主要な歌劇のライトモチーフのような動きは、飽くまで「暗示」の範疇に留められている。つまり、音楽の基底にレクイエムのようなモチーフが立ち上ってきても、音楽的な立脚点に固執することなく、楽曲ごとに、ないしは曲の中のセクションごとに、そのモチーフが”黄昏時のように”ゆっくりと移ろい変わっていくのです。

 

どのような人生においても、一方方向で進む生き方が存在しえないように、このアルバムの音楽はストレートではなく、時おり曲がりくねったりすることがある。それらは、実際的に音楽的なモチーフやフレーズの中で示される場合もあるものの、特にサンプリングやシンセサイザー、ミックスの音響効果の側面(アンビエンスを活用したエフェクト)で顕著な形で出現する場合がある。

 

冒頭を飾る「on what must be」は前奏曲、つまり、インタリュードのような意味を持っています。ホーンセクションを模したシンセで始まり、葬送曲のように演奏された後、ベヴィンのショパンのノクターンのような曲風を踏襲したアコースティックピアノの演奏がはじまります。悲しみに充ちた演奏は、音楽の背景となる風の音のようなアンビエントのシークエンスによって強化され、音楽の雰囲気が作り出される。ユップ・べヴィンの作品の中で、これほど前衛的な試みが行われたことは、私の知るかぎりでは、それほど多くはなかったかもしれません。


続く「Penumbra」はシンプルに言えば、ベートーヴェンの「Moonlight」のミニマルミュージックとしての構造、そして音楽における雰囲気を受け継いで、ショパンのノクターンのような叙情的な気風溢れるピアノ曲として昇華しています。しかし、この曲は月の光に照らし出されるかのような神秘的な瞬間を収めていますが、それとは異なる亡霊的な雰囲気が微かに捉えられる。

 

これは、最終的なミックスを手掛けたニルス・フラームの貢献であるかも知れませんし、もしくは、サティの系譜にある古典的な和声法とは異なるベヴィンの不安定な和音の構造に要因が求められるかも知れません。そして私たちがふだん見ることのかなわない生と死の狭間--アストラルの領域--を彷徨うかのように、曲はミステリアスな雰囲気を漂わせ、ときおり、マーテン・ボスのチェロの微細なトレモロと淡麗なレガートの演奏を交えながら、奇妙なイメージを形づくる。

 

「A night in Reno」は、シンセサイザーによって時計の針の動きような緊張感のあるリズムを作り出し、サティの系譜にあるベヴィンのミニマリズムのピアノが続く。迫りくる友人の死をビートやピアノの旋律でかたどるかのように、悲しみや暗さに充ちたイメージを作り上げ、亡霊のようなイメージで縁取る。その後、チェロかギターが加わる。アウトロでは、ジョン・ケージの最初期の名曲「In a Landscape」に見受けられるような、ピアノの低音部とともに何かが消滅するようなSEの音響効果が登場し、いよいよ描写音楽としての迫力味を増していきます。



「Hades」-  Best Track

 



それに続く「Hades」は、この世とあの世の間をさまようかのような奇妙な印象を擁するピアノ曲で、オリヴィエ・メシアンや、坂本龍一、アルヴァ・ノトとのコラボレーションの系譜に位置づけられる。もちろん、前衛的なエレクトロニックとしても聴くこともできるでしょう。ニルス・フラームの代表曲「All Armed」で使用されたような前衛的なモジュラーシンセで始まり、その後、協和音と不協和音の双方を活かしたべヴィンのピアノの演奏、プリペイド・ピアノの要素を交えたモダン・クラシックとエレクトロニックの中間点に位置するような楽曲です。

 

 

アルバムの中盤では「The heron」が強い印象を擁する。曲のイントロには、足音が遠ざかるサンプリングが取り入れられている。つまり、友人が死にゆくというメタファー(暗喩)が込められ、モートン・フェルドマンがテキサスの礼拝堂のために制作した代表的な作品『Rothko Chapel』に見いだせるようなマーテン・ボスのチェロの主旋律の演奏で始まり、その後、ユップ・べヴィンによるエリック・サティの系譜に位置づけられる物悲しいピアノの演奏が続いています。 



これらは、べヴィンの音楽の核心にある簡潔性とロマン派の系譜にあるエモーションや憧れ、そして夢想を体現している。彼はまた従来の作品と同じように、それらを悲哀を込めて情感たっぷりに演奏しています。

 

「02:07」は、先行シングルとして公開され、前の曲の悲しみやペーソスといったイメージとは対極にある、やや明るい印象に縁取られている。友人の死の時刻がタイトルになっていますが、友人の死を悲しみではなく、明るく送り出すような意図が込められているのかもしれません。そして同時に、この曲には制作者の友人への追憶が含まれているという気がする。それは実際的に深みのある情感を聞き手にもたらす。曲の最後は次のタイトル曲の伏線となっています。

 

タイトル曲は、ブライアン・イーノの系譜にあるアンビエント風の一曲で、移ろい変わる魂の変遷のような神秘的な瞬間が体現されている。実際的には、アルバムの序盤から中盤で描き出された暗さや闇といった概念から、その対極にある明るさと光のような瞬間が切り取られています。そして全体的には霊的な瞬間をエレクトロニックから解釈したような作風になっている。

 

アルバムのクローズ「The boat」では、「Hades」におけるシンセのパルス音が再登場し、今作の中では最も神秘的な瞬間がエレクトロニックによって体現されている。アルバムの最後では端的なピアノ曲がロマンチックな雰囲気を帯びる。簡素なミニマルミュージックの系譜にあるささやかなピアノ曲は、ニルス・フラームのプロデュースにより美麗な印象が付与されています。


本作には、不世出の偉大な音楽家、モートン・フェルドマン、坂本龍一、アルヴァ・ノトに対するオマージュやリスペクトが示されているため、音楽の基底にそれらを探し求めるという醍醐味も見出せるかも知れません。また、友人の死の時刻をタイトルに据えたのは、坂本龍一さんの遺作『12』への敬意が含まれているからなのでしょうか。厳粛さと前衛性の融合が図られた一作。反復の構造が多いため、すぐ飽きるかと思いきや、底知れぬ魅力を湛えた耽美的なアルバム。

 

 

 

「02:07」 -Best Track

 


 


86/100



 

Joep Beving & Maarten Vosの新作アルバム『vision of contentment』はLeiterから本日発売されました。ストリーミング等はこちらから。 

 


坂本龍一が亡くなられてから1年以上が経過し、新曲がリリースされる。本日、彼の遺族とミラン・レコードは『Opus』というタイトルの遺作アルバムを発表し、リード・シングルとして "Tong Poo "の瞑想的な新曲を発表した。


2022年に東京のNHK509スタジオで行われた生前最後のプライベート・ピアノ・コンサートの音源を収録した『Opus』には、映画音楽、イエロー・マジック・オーケストラのヒット曲など、坂本のキャリアを通して演奏された楽曲が収録されている。

 

このコンサート・フィルム/ドキュメンタリーは、「RYUICHI SAKAMOTO | OPUS」というタイトルで、6月30日にクライテリオン・チャンネルで初公開される。

 

この日の演奏は印象的なモノクロのトーンで放送され、演奏の合間に短いインタビューが収録された。作曲家の最後の闘病の様子を追ったドキュメンタリー番組も同放送局で放映された。プライベートピアノコンサートでは、「The Last Emperr」等の代表的な楽曲を中心に、モダンクラシカルやジャズの性質を反映させた楽曲が披露された。その中には、2023年始めに発表された日記のような形で書かれた生前最後のアルバム『12』の収録曲もパフォーマンスされた。


坂本は生前に書いた声明の中で、「Opusは私がまだ演奏できるうちに、私の演奏を未来に残す価値のある形で記録する方法として考案された」と説明している。


坂本は、限られた時間の中で新たに発見された曲の意味を振り返り、「ある意味、これが最後の演奏の機会だと思うと同時に、新たな境地を切り開くことができた気がします。一日数曲、集中して演奏するだけでも精一杯だった。その苦労がたたったのか、終わった後はまったく虚脱感に襲われ、1カ月ほど体調が悪化した。それでも、生前にレコーディングができたことに安堵しています。納得のいく演奏ができた」


シングルの「Tong Poo」は、坂本の作曲家としての意図を完璧に反映している。1978年のYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)の名曲を瞑想的なピアノ・バラードとして再構築し、曲のハーモニーの複雑な美しさを強調する一方、そのメロディの崇高なシンプルさを輝かせている。

 

 

「Tong Poo」



坂本龍一 『Opus』 

Label: Milan

Release: 2024年8月9日

 

Tracklist:

1. Lack of Love

2. BB

3. Andata

4. Solitude

5. for Jóhann

6. Aubade 2020

7. Ichimei – small happiness

8. Mizu no Naka no Bagatelle

9. Bibo no Aozora

10. Aqua

11. Tong Poo

12. The Wuthering Heights

13. 20220302 – sarabande

14. The Sheltering Sky

15. 20180219 (w/prepared piano)

16. The Last Emperor

17. Trioon

18. Happy End

19. Merry Christmas Mr. Lawrence

20. Opus – ending


 

ウクライナ出身のフィンランド人、ダリア・スタセフスカ(Dalia Srasevska)は、彼女が首席客演指揮者を務めるBBC交響楽団とともに、10人の現代作曲家の10曲を録音し、数ヶ月の間にプラトゥーンから1作ずつリリースされる。


グラモフォンによると、すべてのトラックには、アンドリュー・メラーがホストを務めるポッドキャストが付き、ダリア・スタセフスカと当該作品の作曲家が出演している。これからの数ヶ月間、非常に印象的で個性的な作曲家たちが登場するエキサイティングな旅になるという。


ダリア・スタセフスカとBBC交響楽団によるヨハン・ヨハンソンの「They Being Dead Yet Speaketh - 彼らは死者でありながら語る」の録音がリリースされました。ストリーミングはこちらから。 


BBC交響楽団の重厚なストリングス、ホーンセクションのドローンの融合はアイスランドのコンテンポラリークラシックの象徴的なコンポーザー、ヨハン・ヨハンソンの音楽を次世代に進める。


音楽の総監督を務めたダリア・スタセフスカはこの曲集に関してソーシャルメディアで次のように述べている。


「この深く感動的な曲は、もともと、映画監督ビル・モリソンの映画『The Miners' Hymns』に登場した。この曲でヨハンソン監督の遺産をBBC交響楽団と共に称えることができて非常に光栄です。"They Being Dead Yet Speaketh "をお楽しみください」

 

 

 

 


ニューヨークのコンポーザー・ギタリスト、Ezra Feinberg(エズラ・ファインバーグ)がサード・アルバム『Soft Power』を5月31日(金)にTonal Unionからリリースした。

 

本作には、メアリー・ラティモア、デヴィッド・ムーア(ビング&ルース)、ジェフレ・カントゥ=レデスマ、ロビー・リーといった豪華なミュージシャンが参加している。タイトル曲のビデオが公開されています。下記より。


本作はすでにピッチフォーク、フェイダー、ガーディアン、アンカット、モジョから支持されている。


豊富なメロディー、繰り返される図形、そして恍惚とした即興演奏によって定義されるSoft Powerは、聴き手を力づける啓蒙的で変容的な精神を醸し出している。ファインバーグはリスナーを芸術的に豊かな場所へと超越させ、彼の作曲はその核にある深い人間性によって際立ち、リスナーを目を見開き、開放的で生き生きとした状態へと導く。

 

『ソフト・パワー』は、エズラ自身のマントラであると同時に、色彩豊かなカタルシスを音楽に変換した、パワーを与えるマントラでもある。


 
エズラ・ファインバーグの音楽は常に聴き手に語りかけてくるが、「Soft Power」はささやくように最も大きな声で語りかけてくる。




「Soft Power」

 

 

 

 Ezra Feinberg 『Soft Power』

 


Label: Tonal Union

Release: 2024/5/31     

 

Tracklist:

 
1.Future Sand (feat. David Lackner)
    
2.Soft Power (feat. David Lackner)
    
3.Pose Beams (feat. Jefre Cantu-Ledesma, Robbie Lee)
    
4.Flutter Intensity (feat. Russell Greenberg)
   
5.The Big Clock (feat. David Moore, Britt Hewitt)
   
6.There Was Somebody There (feat. David Moore, Jefre Cantu-Ledesma)
    
7.Get Some Rest (feat. Mary Lattimore) 



アルバムのストリーミング/ご購入はこちらから。

 

 

Ezra Feinberg:

 



精神分析医であり、サンフランシスコのサイケデリック集団、Citay(Dead Oceans / Important Records)の元創設メンバーでもあるエズラ・ファインバーグは、ニューヨーク州北部のハドソン川流域の芸術的飛び地に住んでいる。ファインバーグは、リスナーを芸術的に豊かな場所へと超越させる。彼の作曲は、その核にある深い人間性によって際立ち、リスナーの目を見開き、開放的で生き生きとした状態へと導く。ソフト・パワーは、エズラ自身のマントラであると同時に、色彩豊かなカタルシスを音楽に変換した、パワーを与えるマントラでもある。
 
ファインバーグの音楽は常に聴き手に語りかけてくるが、ソフト・パワーはささやくように、最も大きな声で語りかけてくる。
 
「日常生活と同じように、とても平凡で、シンプルで、静謐で、ほとんど日常的な側面を伝えたかった。しかし、それぞれの作品には、その形が拡張したり、そこから抜け出したりする弧がある」

 

 

Press Information:


Released in full yesterday - Friday May 31st is the new album 'Soft Power' by New York composer-guitarist - Ezra Feinberg’s whose third album Soft Power sees the composer-guitarist enlist an impressive array of fellow musicians including Mary Lattimore, David Moore (Bing & Ruth), Jefre Cantu-Ledesma, Robbie Lee.

Already supported by Pitchfork, The Fader, The Guardian, Uncut, Mojo.

Defined by its abundance of melodies, repeating figures and ecstatic improvisations, Soft Power exudes an enlightened and transformative spirit to empower the listener. Feinberg artfully transcends the listener to an enriched place, his compositions distinguished by the deep humanity that lies at their core, plugging the listener into a state of wide eyed being, open and alive. Soft Power then is Ezra’s own mantra but also one of power giving - a colourful catharsis translated into music.
 
Feinberg’s music always speaks to the listener, but Soft Power, in whispering, speaks loudest.

 

 

Ezra Feinberg:

 

Feinberg, a practising psychoanalyst and former founding member of the San Francisco psychedelic collective Citay (Dead Oceans / Important Records) resides in the artistic enclave of upstate New York's Hudson River valley. Feinberg artfully transcends the listener to an enriched place, his compositions distinguished by the deep humanity that lies at their core, plugging the listener into a state of wide eyed being, open and alive. Soft Power then is Ezra’s own mantra but also one of power giving - a colourful catharsis translated into music.
 
Feinberg’s music always speaks to the listener, but Soft Power, in whispering, speaks loudest.
 
“Much like everyday life, I wanted to convey these very plain, simple, tranquil, nearly quotidian aspects, but each piece contains this arc in which that form expands, is broken out of, so what starts out like a painting of flowers in a seaside motel turns into a riot of color and sound, or you feel slipped into a dream that feels like it could go on forever”


ピアニストのJoep Beving(ユップ・ベヴィン)とチェリストのMartin Vos(マーテン・ヴォス)は、ニルス・フラームが主催するドイツのレーベルLeiterから7月19日にリリースされる初のコラボレーションアルバム「vision of contentment」の詳細を発表しました。両者ともオランダのコンテンポラリークラシックの象徴的なミュージシャンです。


「vision of contentment」は、Joep Beving(ユップ・ベヴィン)の3作目のアルバム「Henosis」(2019)での共同作業に続く作品で、2人の音楽家が2018年にアムステルダムのライブで共演したことから生まれました。


マーテン・ヴォスもスタジオを構えるベルリンの有名なファンクハウス複合施設にあるLEITERのスタジオでニルス・フラームがミックスした本作には、8曲の新曲が収録されます。バイナル盤のほか、すべてのデジタル・プラットフォームで発売されます。


ユップ・ベヴィンはこれまで他のアーティストとアルバム全体をレコーディングしたことはありませんが、ヴォスは定期的にそれに類する活動を行っており、ジュリアナ・バーウィック、ニコラス・ゴダン(AIR)、アレックス・スモークといったアーティストとクレジットを共有しています。


「ときどき、音楽的なつながりを共有するアーティストに出くわすと、お互いにコラボレーションをしたいと思うようになるものです」とマーテン・ヴォスは説明します。


「異なる創造的アプローチを探求し、彼らのワークフローから学ぶことはとても刺激的であり、私の成長に大きく貢献しています」


他方、ユップ・ベヴィンにとって、それは当然のステップで、コラボレーションは遅きに失したと言っても過言ではありません。


「共同プロジェクトとしてゼロからアルバムを作ることは、マールテンと私が以前からやってみたかったことでした。私の契約(ドイツ・グラモフォン)が終了したとき、私たちは音楽を作り始める機会を得た。僕はいつも、リスナーが一時的に住めるような小さな世界を作ろうとする。マールテンとニルスと一緒に仕事をしたことは、これを達成するのに非常に役立ってくれました。マールテンは音の彫刻家でもあるのです」


時におびただしい総数の作品から、ピアニストが言うところの「避けられないことを受け入れることに安らぎを見出す」という普遍的な賛辞が生まれましたが、本作はそれ以上の概念を表現しています。それは、彼らの友人であり、ベヴィンの場合はマネージャーであったマーク・ブルーネンへの驚くべき個人的トリビュートでもある。


マーテン・ヴォスは、『vision of contentment』の心に響くサウンドを「イマジネーション豊かな探求を促す音の風景」と考えており、デュオは音楽のガイドとしてモートン・フェルドマン、そして「メンター」として坂本龍一とアルヴァ・ノトを挙げてます。


一方、ユップ・ベヴィンは、リスナーにシンプルな愛の感覚を残すつもりだと語り、「調和と理解の探求」を可能にし、「ファシストと恐怖に批判的な意見」も届けたいと付け加えています。確かに、このアルバムは、我々の世界であれ、死後の世界であれ、平穏というアイデアの上に成り立っているようです。「on what must be」の生意気なサウンドで始まり、それに続くイーノとバッド風のミニマリズムは、悲しみ、諦め、美しさとさまざまな感覚をかけあわせています。


ベヴィン曰く、「嵐の翌朝、潮の満ち引きを見極めながら、過ぎ去ったことを受け入れ、新しい日、新たな人生の夜明けを迎える」 


そう、とても繊細なブックエンドの間には亡霊のような無調の「Penumbra」、さらにくぐもったノスタルジックな「A night in Reno」、不定形で不穏な「Hades」など、半ダースのトラックが収録されています。


そのほかにも、「The heron」の哀愁を帯びたチェロは、豪華なピアノの旋律にささえられながら、空間の中に偏在する得体の知れないノイズのようなものによってやや明るくなります。「02:07」は、よく生きた人生がより良い場所へと旅立つ音であり、タイトル曲の広々とした静かで壮大な9分間は、不在そのものを祝福しているかのよう。ベヴィンとヴォスが森に落ち着いた頃には、友人のブルーネンは3年間がんと闘っていた。しかしながら、彼の "逝去 "が間近に迫っていたことが、このプロジェクトに暗い影を落としていたとしても、それは悲しみだけが原因ではなかったのです。



「02:07」

 


「ここでの制作の中心テーマは "ブルー・アワー"、ようするに黄昏時です」とベヴィンは説明します。


彼の言葉には刻限だけではなく、私たちの人生に訪れる夕暮れや黄昏の時もまたその概念の中に含まれています。それはふいに友人の死からもたらされたものでした。ある意味では、目を背けたくなるような出来事が、その後、受け入れや受容に変わっていく道筋が音楽に原動力をもたらしたのです。彼は友人の死を「黄昏」と捉えました。


「黄昏とは、ある状態から別の状態への移行や、そして暗闇を受け入れることについて意味しています。マークは自分の病と差し迫った人生の最期に際して、驚くべき対処法を示していました。彼は、自分の運命の最後をとても安らかに過ごしていました」


それから、ヴォスとベヴィンは、彼が亡くなるまでの数日間、ようやく友人と会うことができた。そして、彼が亡くなったことを知ったときも、スタジオで一緒にいたのです。


その瞬間は、多くのリスナーに深い感銘を与えるであろう「02:07」に収められており、この曲はその知らせが届いた時間にちなんで名付けられましたが、「vision of contentment」の各作品も同様、彼らの人生における彼の存在に照らし出される。実際のところ、かけがえのない友人ブルーネンとの家族のように温かな心の触れ合いに加え、アルバムジャケットには、カナダのアレックス・コマの印象的な絵が描かれています。


「このレコードを象徴するイメージだとすぐにわかりました。白鷺は知恵、内面的な認識、そして精神的な成長の象徴であり、マークが生涯を終えるときの心境を表しています。ボートは私たちを別世界に運んでくれる船を意味している。『ブルー・アワー』は、黄昏、それから暗闇から光への移ろい、そして、その逆を象徴しています。最も幸福であり、最も悲しい時間……。このことを知り、無常を理解し、人生の美しく本質的な部分として受け入れることが、人生を生きる上での満足感につながるのです」


このアルバムは、ヴィニ・ライリーが自身のマネージャーであり、ファクトリー・レコードのオーナーであるアンソニー・ウィルソンに捧げた『ウィルソンへの賛歌』(The Durutti Column's A Paean to Wilson)と同じくらい感動的な作品となっています。




Joep Beving  & Martin Vos「vision of contentment」



Label: Leiter
Release: 2024年7月19日


Tracklist:

1.on what must be

2.Penumbra

3.A night in Reno

4.Hades

5.The heron

6.02:07 

7.vision of contentment

8.The boat

 

Pre-order: https://ltr.lnk.to/visionofcontentment


英国の現代音楽家、マックス・リヒター(Max Richter)が新作アルバム「In A Landscape」を9月6日にリリースする。ジョン・ケージの名曲と同名で、リヒターは内的な静けさを基にしたピアノアルバムを提供する。リスナーとの会話を誘うこのレコードは、彼の作品のさまざまな側面を融合させている。

 

リヒターはイギリスで最も著名な現代音楽家であり、ポスト・クラシカルという音楽の普及に貢献してきた。クラシック音楽をポピュラー的な観点から見つめ直すことは、敷居が高いと思われがちなこの音楽の扉を一般的なリスナーに開放させるような意味があった。没入感のあるサウンドスケープは他のアーティストにインスピレーションを与えつづけ、現代クラシック音楽を定義するのに貢献してきた。リヒターの記念すべき「SLEEP」は、史上最もストリーミングされたアルバムであり、創造性に対する彼のコンセプチュアルなアプローチを象徴している。

 

「僕にとって、このアルバムの音楽は、両極を結びつける、あるいは和解させるということなんだ」

 

マックス・リヒターは続けて次のように說明している。「エレクトロニクスとアコースティック楽器、自然界と人間界、人生の大きなアイデアと個人的な親密さの融合。これは、『The Blue Notebooks』で私が探求し始めたダイナミックなもので、新しいプロジェクトはそのアルバムの懸念の多くを共有しているんだ。ある意味、このアルバムは、以前の作品のテーマを、2024年の私たちの世界と私たちの生活という視点から、もう1度見つめたなおしたものなんだ」


リードシングル「Movement Before All Flower」はリヒターのピアノの演奏に気品に満ち溢れたチェロの演奏が加わる。演奏の簡素化や単純化に焦点を当ててきたマックス・リヒターの音楽は、今回もやはり質実剛健である。2000年代の名作アルバム『The Blue Notebook』からそうであったように、聞き手を平穏と静けさ、内的な安らぎに導き、感覚が最も大切であることを示す。彼の音楽は、喧騒から人々を解き放つ力があり、その音楽に静かに耳を傾けていると、自分自身が誰であるのかを思い出させてくれる。

 

現在発売中のシングルは、マックス・リヒターにとって初の海外ツアーの前に発表された。ロンドンのロイヤル・フェスティバル・ホールでの2夜公演を含む、多数のUKヘッドライン公演が予定されている。(リードシングルのストリーミングはこちら

 

 

「Movement Before All Flower」





 F.S Blumm 『Torre』

 


Label: Leiter

Release: 2024/04/26

 


ベルリンのギタリスト、F.Sブラームが提供する大人のための癒やしの時間



F.Sブラームはベルリンのミュージシャンであり、同地の数少ないダブプロデューサーでもある。彼はアコースティックギタリストとしても活動し、ジャズとコンテンポラリークラシックの中間にある音楽も制作しています。さらにベルリンの鍵盤奏者/エレクトロニックプロデューサー、ニルス・フラームと音楽的な盟友の関係にあり、共同活動も行っています。両者のコラボレーションは、2021年のアルバム「2×1=4」に発見することが出来ます。 最新作「Torre」はフラームが手掛けるレーベル、Leiterからのリリースで、大人のための癒やしの時間を提供します。


このアルバムは、ミュージシャンによるアコースティックギターの柔らかな演奏に加え、ミヒャエル・ティーネによるクラリネット、アンネ・ミュラーによるチェロのトリオの編成にささやかなクワイア(声楽)が加わり、緩やかで落ち着いたジャズ/コンテンポラリークラシックが繰り広げられる。ブラームは、2022年のシングル「クリストファー・ロビン」でリゾート地のためのギターアルバムを制作していますが、その続編のような意味を持つ作品と言えるかも知れませんね。実際、ブラームは、このアルバムの制作前にイタリアのリベエラで数カ月間を過ごしたのだそうで、そのリゾート地の空気感をコンポジションやトリオ編成の録音の中にもたらそうとしています。

 

これまでブラームはダブやエレクトロニック、ほかにもヒーリングミュージックにも似た音楽を制作していますが、最新作では、モダンジャズからの影響を基にし、喧騒から解き放たれるための音楽を制作しています。解釈の仕方によっては、リベエラに滞在した数カ月間のバカンスの思い出を音楽で表現したかのようでもあり、ミヒャエルのクラリネットの響きとブラームのアコースティックギターの間の取れた繊細なアルペジオを中心とする演奏は、忙しない現代人の心に余白を与えてくれるのです。特に、作曲の側面での新しい試みもいくつか見出すことが出来、それは室内楽やジャズトリオの形で、まるで目の前にいる演奏者、ミヒャエル、アンネとアイコンタクトを送りながら、ノート(音符)を丹念に紡いでいくのが特徴です。今作のオープニングを飾る「Da Ste」では、トリオ編成の演奏の絶妙なタイミングの取り方によって、ジャズともクラシックとも付かない潤沢な時間がリスナーに提供されるというわけなのです。

 

また、ドイツのジャズシーンにはそれほど詳しくないですが、F.Sブラームの音楽はどちらかと言えば、ノルウェージャズからの影響が強いように感じられます。例えば、Jagga Jaggistのクラリネット奏者であるLars Horntvethが「Pooka」で提示したようなクラリネットとギターの演奏を通じて繰り広げられるエレクトロニカに近い印象もある。ただ、ブラームの場合は、この作品で一貫してアコースティックの演奏にこだわっており、生楽器が作り出す休符やハーモニーの妙に焦点が絞られています。このことがよく分かるのが続く#2「Aufsetzer」となるでしょうか。

 

アルバムは基本的に、ギター、チェロ、クラリネットによるトリオ編成でレコーディングされていますが、収録曲毎にメインプレイヤーが入れ替わるような印象もある。#4「Di Lei」でのアンネ・ミュラーによる演奏は、バッハの無伴奏チェロ組曲のような気品に満ち溢れ、ミュラーのチェロの演奏は凛とした雰囲気のレガートから始まり、その後、ギター、クラリネットの音色が加わると、色彩的なハーモニーが生み出されます。トリオのそれぞれの個性が合致を果たし、ジャズともクラシカルともつかないアンビバレントな作風が作り出されるのです。

 

近年、リゾートのための理想的な音楽とはどのようなものであるのかを探求してきたギタリストによる端的な答えが、アルバムの中盤から終盤の移行部に収録される「Wo du Wir」に示されています。この曲では、クラリネットの演奏は控え目、むしろミュラーによるチェロのレガートの美しさ、ボサノヴァのような変則的なリズムを重視したF.Sブラームの演奏の素晴らしさが際立っています。実際、リスナーをリゾートに誘うようなイメージの換気力に満ち溢れている。この曲の補佐的な役割を果たすのが続く「Frag」で、ブラームの演奏はハワイアンギターのような乾いたナイロンのギターの音響をもとに贅沢なリスニングの時間を作り出しています。


序盤のいくつかの収録曲と合わせて、アイスランドやノルウェーを中心とする北欧のエレクトロニックジャズに触発された音楽も発見できます。例えば、ミヒャエルのクラリネットの巧緻なスタッカートの前衛的な響きが強調される「kurz vor weiter Ferne」/「Hollergrund」は、ブラームトリオの音楽のユニークな印象を掴むのに最適となるかもしれません。ここでは、リゾート地に吹く涼やかな風を思わせる心地よさが音楽という形で表現されているようにも思えます。

 

アルバムはトリオのソロ、アンサンブルを通じて、リゾート地の風景やその土地で暮らす感覚をもとにしたコンセプト・アルバムのように収録曲が続いていき、これらのスムーズな流れが阻害されることはほとんどありません。それはブラームが演奏者ないしは作曲家としてムードやその場所の空気感を重んじているからであり、トリオの演奏は、さながらイタリアの避暑地を背景にしたバックグランドミュージックのような形でアルバムの終盤まで続いているのです。

 

もう一つ、このアルバムでブラームの作曲家としての新しい試みが示されたことに気づく方もいるかもしれません。例えば、アルバムの終盤に収録されている「Daum」においてはジャズギタリストのドミニク・ミラーのような作風に取り組んでおり、F.Sブラームがモダンジャズの領域へと新しい挑戦を挑んだ瞬間を捉えることが出来ます。

 

その後、幻想的な物語のような印象を持つエレクトロニックのフレーズがトリオ編成とは思えないようなダイナミックなスケールを持つ音楽世界を少しずつ構築していきます。また、チェロの演奏をフィーチャーし、アンサンブルの形を通じて、マクロコスモスを作り出す「Shh」もブラームの作曲家としての非凡なセンスが光り、それらが、Lars Horntvethのアルバム「Kaleidscope」で描き出された電子音楽の交響曲のようなスケールを持つ音響空間を作り出していく。


アルバムの音楽は静けさから激しさへと移り変わり、最終的に始まりのサイレンスへと帰っていく。さながらイタリアのリゾート地の港町の海際の波がおもむろに寄せては返すかのように、抑揚や微細なテンションの変化を通じて音楽が繰り広げられ、巧みなサウンドスケープを描いていき、アルバムの序盤ではわかりづらかったことが明らかになる。今作『Torre』が、ブラームトリオのアンサンブルによるリゾートをモチーフにしたオーケストラの交響曲のような形式で作曲されており、それが制作者、ひいてはトリオのメッセージ代わりとなっていることを……。


クラシック音楽において作者が言い残したことを付け加えるコーダの役割を持つ「Da Ste」は、クラリネットの微弱なブレスを活かし、現代音楽のようなモダニズムの音響性を構築した上で、ブラームはアコースティックギターをオーケストレーションの観点から演奏しています。スタッカートを強調したギターの演奏は先鋭的な作風を重じているとも言えますが、他方、聞きやすさもあるようです。今作の重要なテーマ”大人のための癒やし”という概念は、それが異なる形で実際の音楽に表れるということを加味しても、全13曲を通じて一貫しています。アルバムをぼんやり聞き終えた後、リゾートでのバカンスを終えたような安らかな余韻に浸れるはずです。 


 

86/100

 

 

 Weekly Music Feature ‐ Demian Dorelli 

 


ロンドン出身で、ケンブリッジ大学出身のDemian Dorelliは、音楽と足並みを揃えて人生を歩んできた。


主にクラシックで音楽の素地を形成したデミアン・ドレリは、その後もジャズ・ミュージックやエレクトロニック・ミュージックへのアプローチを止めることなく、その制作経験を豊富にしていった。


彼はこれまでに、パシフィコ(2019年のアルバム『Bastasse il Cielo』から引用された曲「Canzone Fragile」)において、アラン・クラーク(Dire Straits)、シモーネ・パチェ(Blonde Redhead)といった名だたるアーティストとコラボレーションしている。


デミアン・ドレリはまた、ポンデローザ・ミュージック&アートから『Nick Drake's PINK MOON, a Journey on Piano』を発表している。このアルバムは、ピーター・ガブリエルのリアルワールド・スタジオでティム・オリバーと共にレコーディングされ、ドレリがピアノを弾きながら故ニック・ドレイクに敬意を表し、過去と現在の間で彼との対話を行う11曲で構成されている。


前作『My Window』はドレリのサイン入り2枚目のアルバムで、ポンデローザ・ミュージック・レコードからリリースされた。彼の長年の友人であるアルベルト・ファブリス(ルドヴィコ・エイナウディの長年の音楽協力者・プロデューサー、ドレッリの「ニックス・ドレイク ピンクムーン」というデビュー作品の時にすでにコントロール・ルームにいた)がプロデュースを手掛けた。


イタリアのレーベルのパンデローサは、このアルバムについて、「イタリア人ファッション写真家とイギリス人バレエダンサーの間に生まれたもう一人のドレッリ(わが国のクルーナー、ジョニーの人気と肩を並べることを望んでいる)は、非常に高いオリジナリティを持つピアノソロアルバムを作るという難題に成功している」と説明する。


デミアン・ドレリのピアノ音楽は、現在のポスト・クラシカルシーンの音楽とも共通点があるが、ピアノの演奏や作品から醸し出される気品については、Ludovico Einaudi、Max Richter,Hans Gunter Otte、John Adamsの作品を彷彿とさせる。デミアン・ドレリの紡ぎ出す旋律は、軽やかさと清々しさが混在する。まるで未知の扉を開き、開放的な世界へリスナーを導くかのようだ。


現代音楽のミニマリズムのコンポーザーとしての表情を持ちながらも、その範疇に収まらないのびのびとした創造性は、軽やかなタッチのピアノの演奏と、みずみずしい旋律の凛とした連なり、そして、それを支える低音部の迫力を通じて、聞き手にわかりやすい形で伝わってくる。


本日(4月19日)、ピアノ(デミアン・ドレリ)、チェロ(キャロライン・デール)、フレンチ・ホルン(エリサ・ジョヴァングランディ)のための長編作品を収録した、これまでの作風とは異なる3枚目のレコードが発売される。「A Romance of Many Dimensions(多次元のロマンス)」は、エドウィン・A・アボットによる1884年の小説「Flatland(平地)」の要素を刺激として取り入れつつ、タペストリー空間を自在に旅する7部のパートのエモーショナルな作品に仕上がっている。

 


 

『A Romance of So Many Dimensions』‐ Ponderosa Music Recordings Sri


 

 

英国のピアニスト/作曲家であるデミアン・ドレリは『My Window』において内的な世界と外的な世界をピアノの流麗な演奏を介し表現した。前作はモダンクラシックやミニマルミュージックの系譜に属する作品であったが、三作目のアルバムは必ずしも反復的なエクリチュールにとどまらず、モチーフを変奏させながら、発展性のあるコンポジションの技法が取り入れられている。

 

今回、ロンドンを拠点に活動するデミアン・ドレリは、デイヴィッド・ギルモア、ピーター・ガブリエル、オアシス、U2の作品にも参加している英国人チェリスト、キャロライン・デール、そして、イタリア人のフレンチ・ホルン演奏家で、カイロ・シンフォニー・オーケストラとの共演を行っているエリサ・ジョヴァングランディが参加し、壮大な世界観を持つ室内楽を提供する。

 

 

 

本作はデミアン・ドレリのピアノ・ソロを中心に組み上げられる。その中に、対旋律やフーガのような意味合いを持つフレンチ・ホルン、チェロのレガート、スタッカート、トレモロが多角的に導入される。表向きには、上記の二つのオーケストラ楽器が紹介されているのみであるが、終盤の収録曲には、ウッドベース(コントラバス)の演奏が入り、ジャズに近いニュアンスをもたらす場合もある。もちろん、ドレリの場合は、クラシックにとどまらず、ジャズやエレクトロニックといった幅広い音楽性に触発を受けていることからもわかるとおり、音楽の多彩性、及び、引き出しの多さが三作目のアルバムの重要なポイントを形成している。そして、このアルバムでは、涼やかな印象を持つピアノのモチーフを元に、アルペジオに近似する速いジャズ風のパッセージのバリエーションを通じて、ルドヴィコ・エイナウディを彷彿とさせるシネマティックな趣向を持つクラシックミュージックを作り上げる。考え方によっては、デミアン・ドレリのピアノソロが建築の礎石を築き、その次に二人の演奏家が建築に装飾を施していく。

 

前作に比べると、明らかに何かが変わったことがわかる。オープニングを飾る「Houses」はイントロの早めのピアノのパッセージの後、ドレリは華麗なモチーフの変奏を繰り返しながら、楽曲をスムーズに展開させていく。

 

ドレリのピアノは、安らかな気風を設けて、癒やしの質感を持つ緻密な楽節を作り上げる。楽曲の構成としては、米国の現代音楽家、アダムズの系譜にあるミニマリズムであるが、必ずしもドレリの場合は、”反復”という作曲技法が最重視されるわけではない。古典音楽の著名な作曲家がそうだったように、細かな変奏を繰り返しながら、休符をはさんで''間''を設け、チェリストの感覚的なレガートの演奏を織り交ぜ、贅沢な音の時の流れをリスナーに提供しようと試みる。これは、ジョン・アダムズが自分自身の音楽性や作風について、「ミニマリズムに飽きたミニマリスト」と表現したように、この音楽の次なるステップが示されているといえるかもしれない。 

 

 

 「Houses」

 

 

 

例えば、マックス・リヒター、ルドヴィコ・エイナウディ、オーラヴル・アルナルズ、アイディス・イーヴェンセン、昨年死去した坂本龍一、(Room 40のローレンス・イングリッシュとコラボレーションしている)小瀬村さんにしても同様であるが、近年の現代音楽家は音楽という表現を内輪向けにするのを良しとせず、クラシック音楽にポピュラリティをもたらそうと考えているらしい。クラシックをコンサートホールだけで演奏される限定的な音楽と捉えず、一般的なポピュラーミュージックの形で開放している。これは例えば、権威的な音楽家から軽薄とみなされる場合もあるにせよ、時代の変遷を考えると、当然の摂理といえ、クラシックに詳しくないリスナーに音の扉を開く意味がある。デミアン・ドレリの音楽についても同様で、彼の音楽はポピュラーやジャズのリスナーに対し、クラシックの扉を開く可能性を秘めているのだ。

 

デミアン・ドレリの音楽には、ドビュッシー以降の色彩的な和音の影響があり、朝の太陽の光のような清々しさがある。音楽に深みを与えているのが、キャロラインのチェロ、そして、エリサのフレンチ・ホルンの情感を生かした巧みな演奏である。特に、二曲目の「Theory Of Three」はマックス・リヒターの楽曲性を思わせ、曲の終わりに、ソロ・ピアノの演奏を止め、チェロとフレンチ・ホルンの演奏をフィーチャーすることで、一瞬の音の閃きを逃すことはない。

 

「Universal Color BB」はマックス・リヒターの系譜に位置する曲で、 ドビュッシーの「La cathédrale engloutie - 沈める寺」の縦構造の和音にジャズの和声法を付加している。これらの重厚かつ色彩的な和音を微妙に変化させながら、安らいだ音楽空間を作りだす。しかし、イントロではミニマリズムに属すると思われた曲風は中盤において、チェロとフレンチホルンの演奏、アラビア音楽のスケールを織り交ぜたジャズピアノのパッセージによって、ストーリー性のある音楽へと変遷を辿ってゆく。


この曲のエキゾチック・ジャズの影響も音楽的な魅力となっているのは明らかだが、特に、ホルンの芳醇な音の響きには目が覚めるような感覚があり、その合間のドレリのピアノは落ち着きと安らぎをもたらし、ルチアーノ・ベリオを思わせる現代音楽の範疇にあるピアノのパッセージ、フレドリック・ショパンやフランツ・リストのような音階の駆け上がりを通じて、現代音楽とロマン派の作風の中間に位置するアンビバレントな領域に差し掛かる。曲の最後では、Ketil Bjornstadが最高傑作『River』で表現したような音の流れーーウェイブを表現する。ここでは、音楽の深層にある異なる領域が立ち上ってくる神秘的な瞬間を捉えられる。

 

 

「Universal Color BB」

 

 

 

続く「Stranger from Spaceland」を聴いて、フランツ・リストの『Anees de pelerinage: Premiere anee: Suisse‐ 巡礼の年 スイス』に収録されている「Au Lac de Wallenstadt‐ ワレンシュタットの湖で」を思い浮かべたとしても不思議ではない。ただ、デミアン・ドレリの場合は、それを簡素化し、マックス・リヒターの系譜にあるミニマリズム構造に置き換える。ただ、単なる和音構造のミニマリズムで終わらない点にデミアンの音楽の魅力がある。ジャズピアノの即興的な遊びの要素を取り入れ、構成に水のような流れをもたらし、映画音楽のサントラに象徴される視覚性に富む音楽的な効果を促す。途中、やや激したパッセージに向かう瞬間もあるが、クライマックスでは、ジャズの和声法を交え、基本的なカデンツァを用い、落ち着いた終止形を作り上げる。 

 

「A Vision」はミニマリズムの要素をベースに、ジャズのライブセッションの醍醐味を付け加えている。短いパッセージを元にして、フレンチホルンが前面に登場したり、チェロが現れたりと、現代的なロンドンのロックに近い新しいミニマルミュージックの形を緻密に作りあげていく。反復的な構造を持ちながら、細部にわたって精妙な工芸品のように作り込まれているため、じっと聞き入らせる何かがある。これは例えば、Gondwanaのレーベルオーナーであるマシュー・ハルソールのモダン・ジャズに近い雰囲気がある。上記のジャズとクラシックとポピュラーの融合性は、古典音楽に近寄りがたさを感じるリスナーにとって最上の入り口となりえる。

 

 

 

その他にもこのアルバムではタイトルに象徴されるように多次元的な音楽とロマンスの気風が込められている。「The King’s Eyes」は現代的な葬送曲/レクイエムのような意義を持ち、例えば英国のエリザベス女王の葬送に見受けられる由緒ある葬送のための音楽と仮定づけたとしてもそれほど違和感はない。また、この曲に英国の古典文学の主題が最もわかりやすく反映されているとも考えられる。エリサ・ジョヴァングランディによるフレンチホルンの演奏は、Kid Downesがシンセで古楽のオルガンの音響性を追求したのと同じく、音楽本来の崇高な音響性をどこかに留めている。特に、フレンチホルンの神妙なソロの後に繰り広げられるドレリのピアノとデールのチェロは、さながら二つで一つの楽器の音響性を作るかのように合致している。これらの複数の方向からの音のハーモニクスは、音楽そのものが持つ奥深い領域に繋がっている。

 

前作では簡素なミニマリストのピアノ演奏家としての性質が押し出されていたが、三作目のアルバムは映画音楽さながらにドラマティックな雰囲気のある音楽が繰り広げられる。とくにクローズ「Thoughtland」は神秘主義的な音楽であり、モダンクラシックをジャズやエレクトロニックという複数のジャンルへ開放させる。イントロの和風のピアノのアルペジオの立ち上がりから、ベートーヴェンの後期のピアノソナタ、モダンジャズによく見受けられる単旋律のユニゾンによる強調、そして、ジャズの即興演奏に触発されたアルペジオ……、どこを見ても、どれをとっても''一級品''というよりほかない。その上、本曲は、ミニマリズムの最大の弊害である音楽の発展性を停滞させることはほぼなく、音階の運びが驚くほど伸びやかで、開放的で、創造性を維持している。ソロピアノの緻密な音階の連続は、”次にどの音がやってくるか”を明瞭に予期しているかのように、スムーズに次の楽節に移行してゆく。音楽そのものもまた、平面的になることはほとんどなく、次の楽節に移行する際に、多次元的な構造性を作り上げている。


クローズ「Thoughtland」では、古楽やイタリアン・バロックに加え、ドイツ/オーストリアの古典派やロマン派、以降のフォーレからラヴェル、プーランク、メシアンまで続くフランスの近代和声、作曲家が親しむジャズ、ポピュラー、エレクトロニックという多数のエクリチュールを用い、開放感のある音楽に昇華させる。


デミアンの手腕は真に見事である。もちろん、その中には、今回の録音に参加した、二人の傑出したコラボレーター、キャロライン・デール、それから、エリサ・ジョヴァングランディの多大なる貢献が含まれていることは言うまでもない。特に、抽象的なピアノの音像とジャズのパッセージ、フレンチホルンが生み出すハーモニーの美しさは、現代のモダンクラシックの最高峰に位置づけられる。アルバムのクライマックスで、音楽が物質的な場所を離れ、別次元に切り替わる瞬間がハイライトとなる。"モダンクラシックのニュースタンダード"の登場の予感。

 

 

 

 

100/100(Masterpiece)

 


Demian Dorelli(デミアン・ドレリ)の『Romance of The So Many Dimensions(ロマンス・オブ・ザ・ソーメニー・デメンションズ)』はPonderosa Music Recordingsから本日発売。楽曲のストリーミング/ご視聴、海外のヴァイナル盤の購入はこちらより

 


Best Track-「Thoughtland」

Maria W. Horn


 マリア・W・ホーン(1989)は、音に内在するスペクトルの特性を探求する作曲家。芸術活動に加え、スウェーデンのレーベル、XKatedralの共同設立者でもある。彼女の作品は、アナログ・シンセサイザーから合唱、弦楽器、パイプオルガン、様々な室内楽形式まで、様々な楽器を用いている。シンセティック・サウンドは、しばしばアコースティック楽器と組み合わされ、音色、チューニング、テクスチャーを正確にコントロールすることで楽器の音色的能力を拡張する。


 マリアは、建物や物体、地理的な地域に内在する記憶を探求するために、スペクトラリストのテクニックとその土地特有の音源を組み合わせている。


 最近の作曲では、物理的な空間から音響的な人工物を用い、作曲のための音楽的枠組みを創り上げている。これらの音響的痕跡を出発点として、マリアは複雑なハーモニック・パターンを織り成し、親密な儚さから灼けるような高密度のオーラル・モノリスへとゆっくりと変化していく。


 デビューアルバム『Kontrapoetik』(2018年)は、歴史的な調査であり、彼女の故郷であるスウェーデン北部のÅngermanlandの欺瞞に満ちた、穏やかな、しかし混乱した過去に取り組む一種の対悪魔祓いである。


 『Dies Irae』(2021年)は、ベルクスラーゲンの鉱山地帯にある空の機械ホールの共鳴周波数に由来し、『Vita Duvans Lament』(2020年)は、スウェーデンで唯一建設されたパノプティック監房の刑務所を音で発掘したものである。


ーー『Panoptikon』は、ルレオにある解体されたVita Duvanというパノプティック刑務所(白い鳩刑務所)でのインスタレーションのために2020年に作曲された。ボーカルとエレクトロニクスのための音楽による音の発掘である。今作は当初、マルチチャンネルのサウンドと光のインスタレーションとして発表され、監獄の独房に設置されたラウドスピーカーから受刑者の想像上の声が送信された。


アルバムのヴォーカルは、サラ・パークマン、サラ・フォルス、ダヴィッド・オーレン、ヴィルヘルム・ブロマンダー。


タイトルの『Omnia citra mortem』は法律用語であり、「死ぬまでのすべて」あるいは「死のこちら側のすべて」と訳せる。この作品では、囚人同士のコール・アンド・レスポンス構造が用いられており、まばらな声の断片から始まり、次第に声の網の目のように広がっていくーー


 

『Panoptipkon』 - XCathedral


 

 「パノプティコン」とは、そもそもフランスの哲学者のミシェル・フーコーが指摘しているように、「中央集権的な監獄のシステム」のことを指す。昨年、イギリスのジェネシスのボーカリスト、ピーター・ガブリエルがこの概念にまつわる曲をリリースしたことをご存知の方も少なくないはず。

 

 「パノプティコン」の定義を要約すると、建築構造の中央に塔のような建物があり、その周囲に官房が張り巡らされ、常に囚人たちがその中央の塔から監視されることを無意識に意識付けられることによって、いつしかその人々は、反乱を企てる気もなくなれば、もちろん、脱走する気も起きなくなるというわけである。そうして権力構造というのを盤石たらしめるというわけである。これは支配的な構造を作るために理に適った方法であるとフーコーは指摘している。

 

 パノプティコンという構造が罪人たちだけに用意された限定的なシステムであるとは考えない方が妥当かもしれない。フーコーは、パノプティコンの定義を「権力の自動化」であるとし、これらの考えが近代の学校教育に適用され、「規律や訓練」という概念に子供たちを嵌め込み、「学校という一種の権力に自発的に服従する主体を作り出してきた」と指摘する。また、東京大学教育科のある先生は、この考えが日本の教育にも無縁ではないのではないかと指摘している。「近代学校の権力の自動化というシステムも、その学校や建築構造に表れている」とした上で、このように続けている。


「わたしたちが小学校、中学、高校と過ごしてきたなかで、学校という建物は、いつもどこか堅苦しく、威圧的であったように思う。画一化された教室設計、整然と並べられた机、閉鎖的な職員室などがその原因となっているようだ。学校の建築自体が、秩序や規律といったものを無意識的に子供たちに植えつけてしまっているのではないか」


 このパノプティコンは、私たちの日常のいたるところに存在している。有史以来の社会における中央集権的な政治の基盤を形作る諸般の権力構造や支配構造に適用され、すなわち、人間の考えに資本的な概念を刷り込ませて、服従する対象者、あるいは対象物を設けることにより、被支配者は、その中央集権的な存在に対し、独立性を持つことはおろか、そこから逃れることさえできなくなるという次第である。これは、20世紀の世界全体として、社会主義/資本主義社会の中にある「監獄の構造」を浸透させることによって、それらの中央集権的な存在が支配下に置く被支配者たちを思いのまま手なづけ、その支配構造を強化してきた。これは、資本主義やそれと対極に位置する社会主義もまたその方向性こそ違えど、共通している事項なのである。

 

 その中央集権的な権力の基盤構造が揺らぐや、武力をちらつかせたり、動乱やショッキングな事件、時に、紛争を起こすことにより、20世紀の社会全体は、パノプティコンという巨大な社会の権力構造の中に築き上げられてきた。そして、ジョージ・オーウェルが指摘するように、その中央集権的な存在の正体がよくわからない、謎に包まれた存在であるということが肝要である。民衆はいつまでたっても、その中央集権を司る「絶対的な支配者」に一歩も近づくことも出来なければ、その存在すら明確に確認しえないということが、パノプティコンの重要な概念になっている。つまり、その存在がいてもいなくても、被支配者はその中央集権的な存在にいつも怯え、そして、時にはその存在に服従せざるを得ないという次第である。これは2000年代にレディオヘッドがいち早く音楽の中で「監視社会」という問題を提起していたし、JK・ローリングは「ヴォルデモート卿」という不可視の存在を作中に登場させたのは周知の通り。

 

 しかし、翻ってみると、長らく、このパノプティコンという建築構造がフーコーの哲学的なメタファーを表現するという役割にとどまるか、単なるフィクションのテーマに過ぎないと考えられてきた。しかし、パノプティコンの構造を持つ建築がスウェーデンにあり、実際、歴史的な遺構--アウシュビッツ収容所のような不気味な雰囲気を持つ、人類の歴史の暗所--として残されているという。現代音楽家のマリア・W・ホーンは、これまで歴史的な考察を交えて、ドローン・アンビエントやエレクトロニックという形を通じて、作曲活動を行ってきた。そして、最新作『パノプティコン』は、実際に同地にある中央集権的な構造を持つ監獄の遺構の中で録音されたというのである。

 

 そして録音場所のアコースティックな響きを上手く活用した作品が近年、ジャンルを問わず数多く見受けられることは何度か指摘している。一例では、ベルリンのファンクハウスの東西分裂時代のアンダーグラウンドな雰囲気を持つ録音や、イギリスの教会建築の中で録音された作品などである。これらの作品群は、たいてい、その録音された場所の空気感というべきものを吸収し、他では得難い特別な音楽の雰囲気を生み出す。それは、アビーロード・スタジオを使用するミュージシャンがどうしても、ビートルズの亡霊に悩まされるようなものであり、ピーター・ガブリエルの所有するスタジオでスターミュージシャンの音楽を意識せずにはいられないのと同様である。

 

 音楽的な出発として、空間が持つ空気感に充溢する奇妙な雰囲気を表現しようとしたのは、ハンガリーの作曲家、ゲオルグ・リゲティの「Atmospheres」が挙げられる。


独特な恐怖感と不気味さに充ちた現代音楽の傑作で、これはリゲティのユダヤ人としての記憶と、彼の親類が体験したアウシュビッツでの追体験が、不気味な質感を持って耳に生々しく迫るのである。それがどの程度、真実に根ざしたものなのかは別にしても、それらの記憶は確実に、作曲家の追体験という形で定着し、また生きる上での苦悩の元ともなったことは想像に難くない。

 



 ストックホルムを拠点に活動するマリア・W・ホーンの「Panoptikcon」も、基本的には同じ系譜にある独特な緊張感を持つアヴァンギャルドミュージックに位置づけられる。

 

スウェーデンにある監獄の遺構の空気感、その人類の歴史的な暗所の持つ負の部分を見つめ、それらを精妙なレクイエムのようなクワイアやアナログ・シンセサイザーを用いたドローンミュージック、エレクトロニックで浄化させようというのが、制作者の狙いや意図なのではなかったかと思われる。


これはまた、スウェーデンのカリ・マローンが制作した映画のサウンドトラックでのイタリアの給水塔のアンビエンスを用いた録音技術の概念性の継承でもある。「Panoptikon」はダークな雰囲気に浸されているが、同時に、その遺構物の上から、賛美歌のように精妙な光が差し込み、その暗部の最も暗い場所を聖なる楽音で包み込もうとする。この遺構こそ現代的に洗練された考えを持つスウェーデンという国家にとって、歴史の暗部であり、安易に触れることが難しいタブーでもあるのかもしれない。

 

 

 冒頭を飾る「Ominia Citra Mortem」は、四声の混声合唱、アナログシンセによって構成されている。オープニングの冒頭は、重低音のドローンで始まり、通奏低音を元にしてAlexander Knaifel(アレクサンダー・クナイフェル)、Valentin Silvestrov(ヴァレンティン・シルベストノフ)、Sofia Gubaidulina(ソフィア・グバイドゥーリナ)の作風によく見受けられるような、現代音楽の主要なコンポジションの1つである最初の重低音のドローンの通奏低音の後、パレストリーナ様式を始めとする教会旋法やポリフォニー構造に支えられた声楽の進行が加わる。

 

 しかし、マリア・W・ホーンの作風は、上記の現代作曲家の形式を受け継ぎながらも、シュトゥックハウゼンの電子音楽のトーン・クラスターの技法を用い、音色の揺らぎを駆使しながら、特異な音響性やそのスペシャリティーを追求している。フィリップ・グラスやライヒに象徴されるミニマル・ミュージックの構成が用いられているのは、他の現在の現代音楽と同様であるが、それは必ずしも反復という意味を持たず、反復の中にある矛盾的な変化が強調される。教会音楽の重要な形式であるユニゾンを用いた、四声によるクワイアの繰り返しの中に、スポークンワードを挟み、そして、最下部のドローンの重低音を意図的に消したりし、音の余白や空間を作り、クワイアの精妙な印象を際立たせる。これは数学的な足し算の手法ではなく、引き算の手法により、音の妙が構築されているところに、作曲家としての崇高性が宿っている。

 

 マリア・ホーンの生み出す表現の美の正体は、鈴木大拙に学んだジョン・ケージが提唱した禅(臨済宗)における「サイレンス」の観念を体現する「休符による音の空白」によって強調されることもある。と同時に、この曲の場合は、歴史的に触れられなかったタブーや社会の暗部に関するメタファーの役割が込められているように感じる。それらの空間のアンビエンスや亡霊的な合唱を、パノプティコン構造を持つ監獄のアコースティックな音響で増幅させる。それは何処かへ消しさられた人々への追悼を意味するのだろうし、その魂に対するレクイエムでもある。マリア・ホーンはコンポーザーとして、クワイアの最も崇高な印象を放った瞬間を見逃さず、声を消失させ、シンセによる重低音を再発生させ、エネルギーを徐々に、丹念に上昇させる。これらの声が途絶えた瞬間に、この曲の持つ凄みが現れ、そして圧倒的な感覚に打たれる。



 二曲目「Haec Est Regular Recti」は同様にアナログシンセの重低音により始まるが、重厚ではあるものの心苦しい雰囲気で始まった一曲目とは対象的に、開放的なメディエーションの作風に変化する。解釈の仕方によっては、ヨーロッパのチロル地方やその隣接地域のフォーク音楽の源流に近づきながら、同じように、混声のクワイアによって全体的なアンビエンスを作り出す。

 

 クワイアの印象が強かった全曲に比べると、シンセと合唱によるオーケストレーションのような印象がある。それはパイプオルガンの音色を持つシンセの演奏を1つのモチーフとしてコール・アンド・レスポンスやモード奏法のようなデイヴィスのモダン・ジャズの形式を取り入れ、オーケストラスコアとして組み上げていったかのようである。ひとつだけ確かなのは、マリア・ホーンにとっては、一見して分離されがちな、合唱、オルガン、シンセといった作曲のための手段は、現代音楽のオーケストレーションの一貫として解釈され、コンポジションに組み込まれているらしく、電子音楽でもなければ、ニュージャズでもない、ヨーロッパ民謡でもない、特異な印象のある楽音として昇華されるということなのだ。

 

 そして、同じくスウェーデンのCarmen Villan(カルメン・ヴィラン)がダブ・ステップやECMのニュージャズをドローン音楽に取り入れるのと同じように、必ずしも実験音楽の表現内にコンポジションの可能性を収めこもうとはしていない。むしろ、ひとつの表現を主体として、無限の可能性に向けて、音を無辺に放射していくかのようである。これは製作者が従来から、ピアノを用いたポスト・クラシカル、エレクトロニック、というように、ひとつのジャンルにこだわらず、多岐に渡る音楽を制作してきたことに理由がある。曲の終盤では、ダンスミュージックのビートに近づく場合があり、当初、メディエーションやヨーロッパの原始的なフォークミュージックが、現代的な質感を帯びる洗練された音楽へと変遷を辿っていく様子は、圧巻と言える。そして、アルバムの当初は、重苦しい印象だった音楽がループサウンドにより、崇高さと神聖さをあわせ持つエレクトロニック/IDMへと驚くべき変遷を辿っていくのである。

 




 アルバムの序盤の2曲は荘厳さと崇高さをあわせ持つが、タイトル曲「panoptikon」では低音部の重厚さを生かしたアンビエントが展開される。しかし、その静謐な印象の中に、トーン・クラスターの音色の変容の技法を散りばめ、従来にはなかったドローン音楽を追求していることがわかる。


 前の2曲では、パノプティコンという建築物が持つ独自の音響性を強調しているが、それと対比的に、タイトル曲では、DJセットのライブで聞かれるような現代的なエレクトロの音楽性が選ばれている。実験音楽の領域にありながら、その響きの中には、クラークやダニエル・ロパティンのような洗練されたアプローチを見出すこともできる。また、これは、現代音楽や実験音楽の範疇にある表現者とは異なる、DJとしてのマリア・ホーンの意外な姿を伺い知ることも出来よう。前2曲に比べ、五分というコンパクトな構成となっているが、シンセのトーンの変容の面白さ、それにときおり交わるノイズという部分にこのアルバムの真骨頂が垣間見える。


 アルバムは、声楽をもとにした合唱曲、エレクトロニック、アンビエント、そしてトーン・クラスター等、マリア・ホーンが持ちうる音楽的な蓄積が表れているが、その後、クローズ曲では、男女混声による声楽を基調とした柔らかい印象を持つ、二分ほどの簡潔なクワイアが収録されている。アルバムの最後を飾る「Langtans Vita Duva」 では、驚くべき音楽的な転換点を迎える。

 

 その純粋な響きの中には、西洋の賛美歌の伝統性の継承の意味が求められながらも、映画音楽やポピュラー音楽の色合いが僅かに加えられる。2つのコーラスのメロディーの進行の中には、ポピュラー音楽の旋律進行を持つ女性のボーカルと、それとは対比的に、賛美歌のような旋律進行を持つ男性のボーカルが交差し、柔らかなコントラストを形成する。つまり、これは『Panoptikon』が単に不可解な現代音楽ではなく、メディエーションに映画音楽と現地のポピュラー音楽を織り交ぜた新しい音楽の形式により構成されていることを表している。何より、マリア・ホーンが実験音楽を限られたファンに用意された閉鎖的な音楽と捉えず、それらを一般的に開けた表現法にするべく努めていることも真実の音楽を生み出す契機となったと考えられる。


 少なくとも、アルバム全体からは、パノプティコンの囚われからの解放というテーマにとどまらず、国家やその社会構造、ひいては、歴史の持つ負のイメージをどのように以後の時代に建設的に受け継いでいくのかという、表向きの暗鬱なイメージとは異なる、未来の社会に対する明るいメッセージを読み取ることもできる。しかし、これは国家や社会構造の持つ負の側面から目を背けるのではなく、その暗部を徹底して直視できたからこそ成し得た偉業なのである。

 


 



96/100

  

『Panopiticon』 はMaria・W・Hornのレーベル、XCathedralから2月2日から発売中。ご購入はこちら

 

20世紀の作曲家は、特に古典派やウイーン学派に属する作品に一定の評価が与えられており、同時に主要な楽団やオーケストラにより再演される機会が多い。また、それ以後のコンテンポラリー・クラシック、すなわち現代音楽家を見ると、グラスやライヒなどの現代のポピュラーミュージックに強い触発を及ぼした音楽家のスコアは一般的に、日の目を見る機会が多いように思える。

 

けれども、他方、その中間の年代にある作曲家、例えば、ベルク、ウェーベルンを除いては、以後の年代に属する作曲家は、現代的な観点から軒並み不当な評価を受けている場合が多い。例えば、バルトーク・ベーラに興味を持つオーケストラやコンダクターはいるにせよ、その東欧近辺の20世紀の作曲家のスコアが軽視されるケースは、それほど少なくないように思えてならない。しかし、ソビエト連邦/ドイツのアルフレート・シュニトケ、そして、ポーランドのヘンリク・グレツキなど、20世紀のクラシックからポピュラー・ミュージックへと主要な音楽の舞台が変遷する時代に、良質なオーケストラによるスコアを書いた作曲家は数多く存在する。

 

ヘンリク・グレツキ(Henryk Mikołaj Górecki)は、バルトークと同様、ブルックナーやマーラーの系譜にある管弦楽法にポーランドの民謡の要素を取り入れた作曲家だ。しかし、オーケストレーションにおける技法の巧緻さは、同年代の作曲家の中でも傑出している。グレツキは晩年になると、指揮者も務めるようになったが、これはパリでの音楽教育の賜物であると解釈できる。特に、彼が遺したオーケストラのスコアの中では、クワイア(混声合唱)やオペラに属する楽曲に名作が多い。合唱曲では、ポール・ヒリアーが指揮した『5 Kurpian Songs:Op.75』 がある。この曲集はポーランドの「Kurpie」という地域の独自の民族性や文化性にスポットライトを当てている。

 

今回、言及する「交響曲第三番 (別名:悲歌のシンフォニー)」は、ヘンリク・グレツキの代表的な傑作として知られる。一楽章のブルックナーの系譜にある巧みな管弦楽の流れは序章的な内容を暗示し、二楽章のオペラを思わせるストリングスとオペラの融合の見事さ、そして二楽章の余韻を補佐するような形で続く同じく三楽章は、現代の東欧圏の主要な作曲家と比べても遜色がない。この作品こそ、主要な楽団や指揮者に再評価されるべきものであるかもしれない。

 

1977年の「ワルシャワの秋」音楽祭で、ヘンリク・グレツキの独唱ソプラノと管弦楽のための交響曲第3番「悲歌の交響曲」作品36(1976年)がポーランドで初演されると、大きな感動を呼んだ。当時の反応はいかなるものだったのか??

 

 

聴衆は混乱した。ある者は「傑作」と評価し、また、ある者は「作曲家の創作意欲のなさの現れ」と見なした。聴衆は、いくつかの和音と繰り返される旋律に還元された音楽言語の手段の単純さに感動した。グレツキの以前の、極めて洗練された工房での作品と比較すれば、これは真の革命だった。作曲家は批評家の意見に対して自らを弁護する必要があったーー



実際、交響曲第3番の前には、16年前の「ワルシャワの秋」と銘打たれた音楽祭で演奏された極めて前衛的な作品『スコントリ』に象徴されるように、作曲家の創作態度がそれ以前へと急進的に変化することを予感させる作品がいくつかあった。しかし、交響曲第3番を聴いた聴衆は、言葉の異常な単純化、「受け入れがたい」までの表現手段の削減、ブルックナーのような「原始的な調性」への回帰に衝撃を受けたのだ。

 

これらと同じ要素に、ヘンリク・グレツキの作品の熱狂的なファンは、新たな作曲コンセプトとこの作曲家の天才の証しを感じ取ったのである。その一方で、この音楽の特徴は、やはり表現の膨大な負荷にあることを誰もが認めざるを得なかった。交響曲第3番では、そして、それ以前のアド・マトレムと交響曲第2番では、この表現は異なる色調を帯びている。交響曲第3番が初演から16年後に驚異的な大成功を収めたのは、祈りにも似た熱情があったからなのだろうか。

 

交響曲第3番の初演時に、ヘンリク・グレツキは以下のようなコメントをプログラムのブックレットに添えている。


「1976年10月30日から12月30日にかけて、バーデンバーデンのラジオ局Südwestfunkの委嘱で『交響曲第3番』を作曲しました。1977年4月4日、第14回国際現代芸術祭の一環として初演された。歌はステファニア・ヴォイトヴィッチ、演奏は、エルネット・ブール指揮シュトヴェストフンク放送交響楽団。交響曲は3曲からなる」

 

「一番長い(約27分)第1曲は、ソプラノの呼びかけによって中断される厳格なカノンである。カノンのテーマには、ヴワディスワフ・スキエコフスキ師のコレクションにある”クルピーの歌”の断片を用いた。第2曲は、ABABCの構造 を持つソナタ形式の一種の哀歌である。第3曲では、アドルフ・ディガツ師のコレクションから、オポーレ地方の本格的な民謡の変奏曲を使用した。この交響曲はヘンリク・グレツキの妻に捧られたものである。演奏時間は約55分。ーー(1977年、音楽祭「ワルシャワの秋」のプログラムブックレットに収録された作曲家のコメント)」 

 

 

 「Symphony No.3」ーMovement 2

 

 

しかし、これらのセンセーショナルな聴衆の反応については、当初、ポーランドを始め、東欧圏に限定されていたことを付け加えねばならない。三楽章から構成されるこの交響曲には、ヴェルディのオペラに象徴される華やかさがあり、さらに以後のミニマル学派の予兆となる楽節や全体的な構成の簡素化、そして、新古典派以降の作曲家、及び新ウイーン学派の作曲家らが複雑的な構造を用いるようになったことに対する反駁の意図が見受けられ、ソナタ楽章の原始的な回帰という意味も込められている。そしてバルトーク・ベーラのように、土地固有の民謡、現在でいえばフォーク・ミュージックの要素をオーケストラスコアの中に導入しようと試みた。

 

また、交響曲第三番の第2楽章における「叙情的なテーマ」は、シューベルトやブラームスに代表されるウイーン/ドイツ圏のロマン派の持つテーゼへの回帰という意図も読み解くことが出来る。ヘンリク・グレツキは、アルフレート・シュニトケと並んで、以降の時代のミニマル学派への架橋を行った重要な作曲家であり、映画音楽なども含めて現代的な音楽へ与えた影響は図りしれないものがある。古典的なソナタ形式に回帰しながらも、ポピュラーミュージックのような簡素な構成を選んだことも、このスコアを今なお音楽的に意義深いものにしている理由だ。




ヘンリク・グレツキ(Henryk Mikołaj Górecki):

 

 (1933年12月6日ツェルニツァ生まれ、2010年11月12日カトヴィツェ没):ポーランドの作曲家、教育学者。


1960年にカトヴィツェの国立高等音楽学校を卒業し、作曲をボレスワフ・シャベルスキに師事。後に同大学の学長を務める。その後、パリで音楽の勉強を続ける。PAUの全国的な正会員。


1958年のワルシャワ秋音楽祭で、ジュリアン・トゥヴィムの詞による混声合唱と器楽アンサンブルのための「エピタフィウム」を発表し、初めて認められた。


1960年の「ワルシャワの秋」での《スコントリ》の発表により、グレツキの音楽への関心がさらに高まった。この曲は、ポーランドのソノリズムを代表する作品のひとつである。タイトルの「zderzenia」は、ぶつかり合う音の塊と訳すことができる。この作品の音の密度は並外れて高く、88音群にも達する。同時に、ポーランド音楽における連弾技法の最も一貫した応用例のひとつでもある。


同年、ソプラノと3群の楽器のための《モノローギ》でポーランド青年作曲家連盟コンクール(1960年)第1位を受賞。この賞のおかげで、彼は初めての海外旅行(フランス)に出かけることができた。


『リフレイン』(1965年)では、作曲家は伝統的な演奏技法、さらには和声に立ち戻った。曲の最初と最後の短いエピソードでは、旋律さえも聴くことができる。初期の作品の典型であったコントラストは弱まった。この作品は1967年、パリのユネスコ国際作曲家コンクールで受賞した。


1969年、彼は金管楽器と弦楽器のための《古いポーランドの音楽》を作曲した。この曲の特徴は、その後、グレツキの音楽の典型となった。また、別の変化もあった。作曲家は声楽と楽器のジャンルや、(一般的には)聖なるテキストに目を向けた。彼は、主にポドヘール地方の古楽や民俗音楽を明確に参照することが多く、明確な旋律と伝統的で単純な和声、モチーフやフレーズが何度も繰り返される作品を生み出している。ゴレツキの音楽がしばしばミニマリズムと結びついたり、「新しいシンプルさ」と呼ばれたりするのは、このような特徴があるからである。


これがグレツキの代表作である交響曲第3番、別名「悲歌の交響曲」の特徴である。1976年にワルシャワの秋の現代音楽祭で初演され、その後海外でも演奏されたが、当時はあまり関心を集めなかった。


1992年、非常に効果的なプロモーション・キャンペーンにより、アメリカの歌手ドーン・アップショーによって録音された後、この曲はクラシック音楽のみならず、世界のヒットチャートに登場した。交響曲第3番は、とりわけポーランドの優れた歌手ステファニア・ヴォイトヴィッチとゾフィア・キラノヴィッチによって録音された。ゴレツキは一夜にして国際的な有名人となった。


2005年10月15日、ビエルスコ=ビャワで開催された第10回ポーランド作曲家フェスティバルで、アメリカの弦楽四重奏団クロノス・クァルテットによって弦楽四重奏曲第3番作品67『歌は歌う』が初演された。スタイル的には、弦楽四重奏曲第3番は、前作と大きな違いはないが、瞑想的なものへと大きくシフトしていることが見て取れ、第3楽章(最も調性的な楽章)だけが、単純な遊びの要素を取り入れている。


2003年にルクス・エクス・シレジア賞を受賞したほか、数々の国際コンクールや国内賞を受賞している。ワルシャワ大学(1994年3月10日)、ヤギェウォ大学(2000年)、ルブリン・カトリック大学(2004年)などから名誉博士号を授与さふすふすれ、上シレジアのカトヴィツェ市(2008年)とリブニク市(2006年)の名誉市民でもある。2003年、ポロニア・レスティトゥータ勲章星付中佐十字章を受章。


コンテンポラリー・クラシック、モダン・クラシカルの著名な作曲家Max Richter(マックス・リヒター)が、"音楽クリエイターのためのサウンド・プロダクト "の新シリーズをSRM Soundsとして立ち上げると発表した。この製品は、元スピットファイア・オーディオCEOのウィル・エヴァンスが最近立ち上げた新ブランド、ソング・アスレチックスと共同で開発される。


SRMサウンズの最初の仕事は、ネイティブ・インストゥルメンツのKontakt用のバーチャル・インストゥルメント・シリーズをリリースすることだった。その第一弾となるのは、”マックス・リヒター・ピアノ”で、マックス・リヒターの個人スタジオ、スタジオ・リヒター・マールのメイン・ライブ・ルームの中心的存在である、リヒター所有のスタインウェイ・モデルD SPIRIO|rグランド・ピアノのサウンドをキャプチャしたソフトウェア・インストゥルメントである。



リヒターのスタインウェイは、コンテンポラリー、ヴィンテージを問わず、様々なマイクを使って細部まで愛情を持って録音された。リヒターのピアノのソフトなダイナミクスに焦点を当てたこのライブラリーは、pppからmfまでの10層のダイナミックレイヤーで構成され、5層のラウンドロビン、楽器ごとに3つのマイクポジション、2種類のリバーブを備えている。Richter Pianoには、アクション、ダンパー、ペダル・ボリューム・コントロールが装備されています。


「本物のアコースティック・ピアノと同じように、この楽器は独自の特性を持っている。「モーツァルト用にセッティングされたピアノでプロコフィエフを演奏することはないでしょう。


「このピアノはスペシャリスト。静かに演奏し、耳元でささやくのが好きなのです。賑やかなミックスを切り裂きたいのであれば、他を当たればいい。しかし、私たち全員が内に秘めている親密な物語を呼び起こしたいのであれば、この楽器と近々発売される他のコレクションが役に立つだろう。"


マックス・リヒターは、グラミー賞にノミネートされたドイツ系イギリス人の作曲家・ピアニストで、舞台、オペラ、バレエ、映画のための作品で知られている。今年初めにリリースされた彼の最新プロジェクトは、リヒターが2015年に作曲した『SLEEP』の素材を再構築し、ケリー・リー・オーウェンズとアルヴァ・ノトがリミックスを手がけた『SLEEP: Tranquility Base EP』である。Max Richter Pianoは現在、Native Instruments Kontaktで入手可能です。



 



スウェーデンの実験音楽家/ドローン奏者、Kali Malone(カリ・マローン)が『All Life Long』の制作を発表した。新作アルバムは2024年2月9日に発売される。最初の先行シングルとしてタイトル曲「All Life Long」が公開されている。

 

 カリ・マローン待望のニュー・アルバム『オール・ライフ・ロング』は、カリ・マローン作曲のパイプオルガンと合唱、金管五重奏のための音楽集。


2020年から2023年にかけて制作されたマローンの新作アルバム『オール・ライフ・ロング』は、2019年の画期的なアルバム『ザ・サクリファイス・コード』以来となるオルガンのための作曲を、マカダム・アンサンブルとアニマ・ブラスの演奏による声楽と金管のための相互に関連する作品とともに紹介するものである。

 

12曲の作品の中で、和声的なテーマやパターンが、形を変え、様々な楽器のために繰り返し提示される。

 

それらは、かつての自分のこだまのように現れてはまた現れ、見慣れたものを不気味なものにしていく。

 

ベローズ(ヴェロシティ)やオシレーターではなく、呼吸によって推進されるマローンの合唱と金管楽器のための作曲は、彼女の作品を定義してきた厳格さを複雑にする表現力を持ち、機械的なプロセスによって推進されてきた音楽に、叙情性と人間の誤謬の美しさを導入している。

 

同時に、マローンがスティーヴン・オマリーの伴奏で、15世紀から17世紀にかけて製作された4つの異なるオルガンで演奏した。このオルガンのための作品では、それらの厳格な操作が達成しうる強大でスペクタルな力が強調されている。 

 

これは賛美の音楽でもなければ、霊的啓示の音楽でもない。典礼聖歌の重厚さと無限へのこだわりを持ちながら、人間の経験という地上の領域からその重みを引き出している。聴き手を今この瞬間に引き込み、日、週、年、生涯の経過にも似た音楽の織り成すパターンの中に自分自身を発見させる音楽である。

 


 

 

 

カリ・マローンは、昨年、ベルリン・ファンク・ハウスで録音した映像のための音楽『Does Spring Hide Its Joy』をリリースし、その他、Portaits GRMから『Living Torch』を発表している。

 

アーティストは今年、ロンドンのキュレーター/プロモーター、”33−33”が東京で主催したイベント「Mode」でアヴァンギャルド・ミュージックのフィールドで活躍するニューヨークのパーカッション奏者、Eli Keszler(イーライ・ケスラー)とともに来日公演を行った。 イベントは2019年のロンドンでの開催以来4年ぶりに行われた。日本を拠点として実験的なアート、音楽のプロジェクトを展開するキュレトリアル・コレクティブ、BLISSとの共同企画により開催された。

 


Kali Malone  『All Life Long』

 

Label: Ideologic Organ

Release: 2023/2/9


Tracklist:


1.Passage Through the Spheres

2.All Life Long (for organ) 

3.No Sun to Burn (for brass)

4.Prisoned on Watery Shore

5.Retrograde Canon

6.Slow of Faith

7.Fastened Maze

8.No Sun To Burn (for Organ)

9.All Life Long (for voice)

10.Moving Forward

11.Formation Flight

12.The Unification of Inner & Outer Life 


 

©Hana Tajima

 

ブルックリンのマルチ演奏家、Spancer Zahnは、今年初めにリリースしたピアノを中心に構成したモダンクラシカルのアルバム『Statues I』(レビュー)の続編を発表。二枚組LPとしてリリースされる『Statues I & II』は11月17日にCascineから発売。新曲「High Touch」は本日発売。

 

アルバムのアートワークは、ユニクロ製品等のデザイナーとしても知られるHana Tajimaが手掛けている。


「"High Touch "は、シンガーにぴったりだと思った曲から始まったんだ。「この曲は、祝福と勝利に満ちたラブソングなんだ。アルバム全体と同じような捧げものだよ。フェンダー・ローズでコードを書いて、ヤマハのCP70とCS50でハーモニーを作った。このサウンドがまとまり始めると、ヴォーカリストのための曲というより、ジョン・ハッセルのレコーディングのように感じられたんだ。スペンサー・ルートヴィヒが週末家に滞在していたので、彼にトランペットを吹いてもらうと、すぐにこの曲の正体がわかった。クリス・ブロックのソプラノ・サックス、ブッカー・スタードラムのドラム、そして、タイラー・ギルモアのドラム・プログラミングとプロダクションが加わって、この曲はアルバムの中で最も好きな曲のひとつになった」



スペンサー・ザーンはまた、2枚のアルバムについて次のように語っている。


自分の音楽の個人的な側面について話すのは難しい。インストゥルメンタル・ミュージックの感情的な曖昧さは、私が大好きなもので、私の曲の中に人々が自分自身の意味を見いだせることを願っている。また、なぜ、音楽を分かち合いたいのか、その背景を説明することも重要だと思う。


この音楽を作ったとき、私の人生は愛、創造性、共同作業、そして孤独に満ちていた。しかし、変化は避けられないものであり、思いがけないときに起こるものだ。地盤が変化し、その結果、これらの曲は私の人生を表現するものとしてさらに意味を持つようになった。私はこれらの曲を、近年への感謝の手紙として残したいと思った。


2022年、私はニューヨーク州北部で静かな生活を送っていた。スタジオの静寂を楽しみながら、ピアノで新しい曲を書くことに集中する日々を送っていた。最近、私はドーン・リチャードとのアルバム『Pigments』を完成させたばかりだった。だから、ミニマルなアイデアをスケッチするのが新鮮に感じられた。


毎朝、ピアノで即興演奏をするのが日課になった。気に入った短いスケッチは、さらに発展させていった。やがて2組の音楽ができあがった。最初の音楽は、ピアノ独奏曲として完全に形成されていると感じられる曲だった。私はこれらの曲の中で生きることができた。この曲は、私の北部の生活における貴重な6ヵ月間を凝縮したものだった。控えめで、ミニマルで、孤独な瞬間。


同時に発展したもう1つの音楽は、一連のピアノのスケッチで、未完成な感じがしたが、アンサンブルで取り囲むことで可能性が出てきた。これらのアイデアが発展するにつれて、他のミュージシャンにアレンジの核となる部分を即興で演奏してもらうことで、『Pigments』の制作スタイルを参考にしたいと思うようになった。BlankFor.msことタイラー・ギルモア、スペンサー・ルートヴィヒ、クリス・ブロック、ジャス・ウォルトン、そしてブッカー・スタードラムが、それぞれの深い音楽的個性で楽曲に貢献し、楽曲に形と陰謀と美を吹き込んでくれた。


最後に、この2枚組アルバムのためのHana Tajimaによるアートワークは、彼女の祖父が彫った一連の彫刻である。彼女と私は、彼女が2020年に私のアルバム『Sunday Painter』のデザインを担当して以来、アートと音楽を共に創り上げてきた。彼女のペインティング、デザイン、そして全体的な美学は、長い間私にインスピレーションを与えてくれており、このアルバムはその集大成だ。


この2つのコレクションは『Statues I』と『Statues II』だ。


この音楽にスタンプを押してくれたみんな、ありがとう。


愛を込めて、

SZ



Spencer Zahn 『Statues II』



 Tracklist:


1. Changes in Three Parts

2. Morning

3. High Touch

4. OST

5. Wind Unsung

6. Wave

7. Shadow Setup


 Natalia Tsupryk 『Do Nestyamy』


 

Label: Manners McDade

Release: 2023/10/13


Review


 Natalia Tsupryk(ナタリア・ツプニク)は、フィクション、ドキュメンタリー、アニメーションの各映画のスコアを担当し、Palm Springs、Indy Shorts、PÖFFなどの映画祭で国際的に上映され、BAFTAの最終選考に残った。

 

2017年以降、ナタリアは、キエフ国立アカデミック・モロディ劇場とコラボレーションを行い、「The Master Builder」や「Ostriv Lyubovi」など、いくつかの劇のスコアを担当しています。ヴァイオリニストとしてのナタリアは、ウィーン楽友協会、ウィーン・コンツェルトハウス、ORF RadioKulturhaus、Synchron Stage Vienna、ウクライナ国立交響楽団などの会場で、ソロ、室内楽団やオーケストラのメンバーとして世界各地で演奏している。


ナタリアは、キエフのリセンコ音楽学校を卒業後、ウィーン市立音楽芸術大学でクラシックの教育を受ける。その後、国立映画テレビ学校で映画とテレビのための作曲の修士号を取得し、ダリオ・マリアネッリの指導を受けた。レコーディング・アーティストとして、ナタリアは2020年にデビューLP『Choven』を、2021年にEP『Vaara』をリリースした。また、アンガス・マクレーと2枚のEP「Silent Fall」(2021年)、「II」(2021年)でコラボレーションしている。バイオリニスト、ピアニストとして活動するほか、映画音楽のスコア制作での活躍も目覚ましい。 

 

 

 

前作のEP『When We Return To The Sun』ではNils Frahmがマネージャーと共同設立したLeiter-Verlagからリリースを行った。 

 

最新作『Do Nestyamy』では一転して弦楽のオーケストラを主体にした作風に転じている。重厚な弦楽のハーモニー、シンセサイザー、ピアノをスコアの中に散りばめ、抽象的でありながら、美麗な音の世界を探求しようとしている。厳密に言えば、キエフの音楽家ではあるが、ウイーン学派の系譜にある作曲家と見るべきだろう。しかし、ピアニストとしての演奏力や感性の豊かさには注目すべき点もあるが、一方で本格派のオーケストラの語法を用いた弦楽を中心とする『Do Nestyamy』 では、ひときわ美しいアトモスフィアを生み出している。


一曲目「The Drowned Not Abandoned」では、Arvo Partの「Fratress」等で用いられた鈴声の様式ーティンティナブリ(tintinnabuli)ーを継承し、それをミクロの視点からマクロの視点に置き換えている。チェロ、ヴィオラ、バイオリンを中心に構成される四声のオーケストラレーションは、ほとんどユニゾンという形式で繰り広げられていると思われるが、音が鳴り響いている瞬間ではなく、音が鳴り止んだ後の減退音に空間的な処理を施し、音響の未知なる可能性を追求している。

 

「The Drowned Not Abandoned」は、大きな枠組みで見れば、ひとつの楽節を反復するに過ぎない、現代音楽らしいミニマリズムの範疇にあるコンポジションではありながら、 その中に微妙なバリエーションの変化を用い、音響の中に変容をもたらそうとしている。それはバイオリンが表情の変化をもたらすこともあれば、同じようにヴィオラが、また、チェロが、それらのパッセージに微細な変容をもたらす場合もある。

 

実際のところ、レコーディングは、コンサートホールのような場所で行われているが、チェロの重厚な響きには瞑想的な感覚を擁し、ひとつの真夜中の海に生じるさざ波のように月光に照らし出され、弦楽によるそのさざ波は夜の静寂の中をゆらめき、流麗なパッセージと連れ立って畝りを生み出し、断続的なアクセントの変化ーーデクレッシェンドの様式ーーを用い、ゆっくりと長い時間をかけてフェードアウトしていく。しかし、人の手によるフェードアウトの手法は、もったいぶったような感じはなく、自然な形で無の領域に飲み込まれていく、音が有という出発点から、無という終着点にむけて、ゆっくりと向かっていく過程には、息を飲むような緊張感と美麗な印象を感じ取ることが出来る。 

 

「I Want and Shamble Beyond the Cemetery Wall」は、ウクライナ戦争における死者への弔いの念が捧げられている。室内楽のピアノとチェロの合奏という形の演奏だが、ナタリアによるものと思われるピアノの伴奏は、神妙かつ悲痛な情感を漂わせ、その上に加わるチェロの主旋律はブラームスの書いた室内楽のように清廉な気風を反映させている。この曲では、かつてオスロの作家/作曲家であるKetil Bjornstadが「The River」という長大な変奏形式を通じて探求した重厚感のある作風をありありと彷彿とさせるものがある。

 

シンプルに拍動の中に収められるピアノは、音符が振り落ちる毎に異なる表情を見せながら、ときには哀悼、ときには悲哀、ときには親愛、またときには畏怖、様々な感情性が和音によって表現され、一曲目と同様に、巧みなリバーブ処理を施した弦楽器のパッセージやハーモニーと溶け合い、重厚感のある音像空間を構造的に作り上げていく、しかし、それは単なる同胞の死だけに捧げられたものなのだろうか、もちろん、同胞的な民族性に対する哀悼の意が表されているにとどまらず、それはこの地上における悲劇的な死に関するすべてに対する追悼が捧げられているのではないのか。

 

これまで、制作者は、フィクション、ドキュメンタリー、シネマ、アニメーション等、映像音楽におけるオリジナルスコアも手掛けてきたが、そういったシナリオを強化するための音楽制作の経験が続く「St. Michael Golden-Domed Monastery」には見出すことが出来る。題名には「黄金のドーム」という東方教会に関するキリスト教の建築概念が含まれているが、実際の曲はそれほど宗教的とは言いがたく、現代的な映画のような感じで音の推移を楽しめる。同じように、重厚感のある弦楽の演奏を元に、シンセのアルペジエーターのフレーズを交え、映画音楽に類する作風を示そうとしているように感じられる。

 

ただ、ナタリアの描く音楽の世界というのは、東欧の地域の寒風に吹きさらされる荒野を思わせる箇所もあり、まさにその荒れ野は、キリスト教の悠久の歴史を辿るかのようであり、ゴルゴダの丘、ナザレといった聖書的なストーリーを喚起させる瞬間もある。それは何も新約聖書に限らず、旧約聖書に見られる神々の住む神話的な世界をオーケストラとシンセの中に内包させている。古代と現代を行き来しながら、東欧におけるロシア-ウクライナと中東のパレスチナ-イスラエルの原理主義的な紛争が結びつけられる。イスラム教とキリスト教の絶え間ない紛争……。ロシア系住民を巡る間断なき紛争……。

 

その証し立てとしてアンビエント調の音の中に、東欧的な響きが表面的な印象性を形成し、さらに中盤にかけて、アレッポのような地域で用いられる中東の響きを思わせる民族楽器の旋律がわずかながら取り入れられている。これは西欧社会と中東社会を音楽を介して結びつけ、その中に一貫性や論理性を見出そうとする壮大な試みなのである。世界の一部地域で起こっている出来事は世界の全てを表す。つまり、世の中の実相を鏡の様に映し出しているのだ。

 

 EPを通じて、一貫した作風が貫かれている。「beyond the cemetery wall」は連曲というより、この作品におけるcoda.(作曲家が言い残したことを付加する)のような役割を担っている。ボーカルのハミングからピアノの演奏が続く。ピアノの演奏はポスト・クラシカルの系譜に属するが、最近の作品では珍しく、ピアノ・バラードに属するトラックで、アイルランド民謡に象徴される旋律やスケールの進行の中に取り入れられている。その簡素さが、むしろ大げさな表現性よりも哀感を誘う。

 

最初から大げさなものを生み出そうとするのではなく、シンプルな要素を構築していく中で、壮大な思索性が含まれているのが美点だ。曲の中に漂う清涼感は、アイスランドの音楽家、Eydis Evensenが書くような雰囲気を漂わせる。ピアノの演奏の間に加えられる精妙なストリングス、そして、その上に薄く重ねられるシンセサイザーのシークエンスも、この曲の美麗な印象をしっかりと力強く支えている。これらの巧みな表現性は、コンポーザーとしての大きな前進を意味する。無論、実際に前作のEPよりも心に響く瞬間がある。真実の音楽。

 


88/100

 

 Ellen Arkbro『Sounds While Waiting』


 

Label: W25TH/ Superior Vladuct

Release: 2023/10/14



Review


スウェーデンの現代音楽家/実験音楽家、エレン・アルクブロ(Ellen Arkbro)は2019年に、パイプオルガンの音色を用いたシンセサイザーとギターのドローン音による和声法を対比的に構築した2015年のアルバム『CHORD』で同地のミュージック・シーンに台頭すると、続く、2017年の2ndアルバムでは、本格派の実験音楽に取り組むようになり、パイプオルガンとブラスを用いた「For Organ and Brass」を発表した。スウェーデンにはドローン音を制作する現代音楽家が数多い印象があるが、気鋭のドローン制作者として注目しておきたいアーティストである。


ドローン音楽といえば、いわば音楽大学で体系的な学習をした現代音楽家から、エレクトロニックを主戦場とするプロデューサー、そしてまったくそれらの枠組みには囚われないアウトサイダー・アートの範疇にある音楽家までを網羅しており、どのようなシーンから台頭してくるのかも定かではない。しかし、この音楽のテーマは、音響の変容であるとか、音響の可能性の追求にある。それは和音や単音の保続音が限界まで伸ばされた時、最初に出力される出発点となる音と、いわば終着点にある音がどのように変容するのかの壮大な実験である。一般的に考えてみると、音楽的な変奏(Variation)とはモチーフを断片的に組み替え、装飾音を付加することによって発生するものと定義付けられるが、これはバッハ、モーツアルト時代からの普遍的な作曲技法の主要な観点であった。これは、シェーンベルクが指摘するように、同じモチーフが何度も繰り返されると、観客が飽きてしまうからという単純明快な理由によるものである。これらのベートーベンのディアベリ変奏曲のような変奏の形式は、ながらく音楽家が忘却していたものであったが、それを例えばダンス・ミュージックの改革者たちや、現代音楽の作曲家たちが再び20世紀末に、その変奏の形式を現代の音楽の語法に取り入れようと試みるようになった。


ドローン音楽というのは、グラス、ライヒ、ライリー、イーノが20世紀を通じて構築したミニマル音楽の兄弟分にあるジャンルなのであり、モチーフの反復が飽きるという点を逆手に取り、あえて通奏低音を繰り返すプロセスの中で発生する倍音の効果を最大限に活かし、音楽そのものに変革をもたらそうという趣旨で行われる。これはまた音の最小化というのが顕著だった20世紀終わりの風潮とは逆の音を最大化する試みである。2020-30年代に新しい音楽が出てくるとすれば、このドローン音楽の系譜にある何かであると思われる。つまり、例えばタイムトラベラーが自分のところにやって来て、「2020年代の最新鋭の音楽は何なのか?」と問われれば、「ドローン音楽です」と、私は即答するよりほかないのである。20代のエレン・アルクブロのドローンミュージックは、同地のカリ・マローンに象徴される現代音楽や実験音楽の領域に属するものであることは確かなのであるが、アルクブロはこの保続音と倍音の形式に変革をもたらそうとしている。アルバムのアートワークにも象徴されるパターン芸術の手法が、中世のパイプオルガンを用いたドローン音の中に導入され、このアルバムに関しては、一曲目に音の「オン オフ」という新しい技法が取り入れられていることに注目したい。例えば、デジタル信号のように、コードやプログラム言語によって、別の場所にある装置に何らかの信号を送り、別の場所にある装置を稼働させ、そして何らかの動作を発生させたり停止するというものである。

 

さらにアルクブロのドローン音楽は、ポリフォーニーの保続音を限りなく伸ばすという点では、現行の主流派のドローン音楽と同様ではあるけれど、その保続音がランダムな手法で発生したり、消えたりを繰り返す。どの場所で生じるのか、あるいは、どの場所で消えるのか。それを予測するのは不可能だ。これはジョン・ケージがハーバード大学の無響音室、つまり発生される音が四壁に吸収されてしまう中での悟りの体験に比するものである。アレクルボのドローン音は有機物さながらに空間に揺動し、音波を形成する。しかし音響発生学としては、音が消えた瞬間にも、音は消えず、その後も残りつづける。音はランダムに発生し、消そうと思っても消すことが出来ないということである。また、自然発生的な音について考えてみると、よく分かる。

 

例えば、外を歩いていて、工事現場付近の側壁に、DECIBELを測る装置を見つけたとしよう。聴覚を澄ましたところ、何も自分の外側では、音がひとつも発生しているとは思えないにもかかわらず、DECIBELの数値が計測されているのを見たことはないだろうか。つまりそれは、人間の聴覚では感知できない音が存在しているが、それを一般的な聴覚では捉えることが出来なかったということである。また、音響の聴取としては、人間は年を取るとともに、聴覚が衰えるのは事実であり、若い時代に聞き取れていた音域の音が聞き取れないようになる。そして、アルクブロの録音が示唆しているのは、音楽をすべて聴いているという考えは迷妄や錯誤に過ぎず、私達はその一部分しか聴いていない、聴いている振りをしているに過ぎないというパラドックスを示唆している。また、高低の双方に超音域のHzのゾーンがあり、これはマスタリングをしたことがある方であればご理解いただけることだろう。それに加えて、中音域に音が集中すれば、音が密集している帯域の音は曇り、いずれかの音が掻き消えてしまうということになる。

 

つまり、日本の環境音楽家の先駆者である吉村弘さんが生前に指摘していた通りで、生物学的な聴覚には限界があるため、「無数の音楽の情報をキャッチすることは不可能である」ということである。そもそも、人間にはどうあっても聴きとることが出来ない音域や音像がある。しかし、反面、その聴き取れない音域に発生する音は、(たとえ普通の聴覚では認知できぬものであるとしても)音響の持つ印象に一定の変化を及ぼすということなのである。例えば、重低音域に何らかの音が発生していれば、「音楽そのものに重々しさがある」という印象に変わり、超高音域にある音が発生していれば、「音楽そのものに明るい印象がある」という感覚を持つ。これはケージが、ハーバード大学の無響音室の中で、外側の音が消えたため、自らの心臓の鼓動を感じた、という現象に似ている。別の音域にある音が消えると、別の音域にある音が立ち替わりに現れるということを、ケージは内的な感覚によって現象学的に証明してみせたのだった。もっと言えば、ケージが発見したのは、一般的な聴覚では認知出来ない帯域にある音である。

 

同様に、『Sounds While Waiting』のオープニングでは、「音は、その音を生じさせる有機体が存在するかぎり、音の実存を消し去ることは不可能である」という発見が示されている。「Changes」では、音響学の観点から、「音の発生と減退」というパターンを組み合わせ、音響の変容を及ぼそうとしている。マスタリングソフトをデスクトップに出すのが面倒なので、Hzの帯域に関しては確認してはいないが、このオープニングは、おそらく人間の聴覚では一般的に捉えることが出来ない超低音域をある音と、対極にある超高音域にある音が聞き手の印象を様変わりさせている。つまり、聴覚や音響発生学の観点から見た変化ということである。二、三の音のパターンが変化するに過ぎないのに、この曲には、それ以上の変容があるように感じる。

 

反対に、シンセサイザーで構成されるドローン音を収録した「Sculpture 1」は、むしろ変化と変容を徹底して拒絶するような音楽である。一定の音域にあるシンセサイザーの音が保続音として持続し、それが14分あまり続く。音楽というよりも断続的なモールス信号のようでもある。分割して聴くとわかるが、最初の音と最後の音は変化していない。けれども、これらの音の連続性の中には新しい発見がある。つまり、音楽という概念を客観視することは到底不可能であり、どこまでも主観的な印象を表面的に濾過したものに過ぎないということを表しているのかもしれず、また、音楽を認識させているのは、人間の聴覚からもたらされる固定概念に過ぎないという事実を示唆している。音は、ただ発生しているに過ぎず、それ以外の意味を持たない。有史以来、多くの音楽家は、音の連続や構成に何らかの印象性をもたらそうとしてきたが、それはある意味では、人間の脳にまつわる錯誤、及び、固定観念が累積したものでしかないことを暗示している。例えば、楽しい音楽というのは、何らかの蓄積された経験によってもたらされるし、また、悲しい音楽というのも同じように、以前に蓄積された経験によってもたらされる概念でしかない。そして、無機質な印象のあるこのトラックは、そういった固定概念や既成概念を覆すような意味を兼ね備えている。この点をどのように捉えるのかは受け手次第となる。

 

一方で、三曲目の「Leaving Dreaming」では、二曲目と同じようでいて、パイプオルガンの持続音の中に微細な変化がある。ある意味では、音の変化が乏しかった前曲とは裏腹に、そういった音の変化を覚知するために存在するようなトラックである。イントロから重厚なパイプオルガンのポリフォニーの手法により、ひとつずつ水平線上に音が付加されている。こういった作風として、ロシアの現代音楽家、Alexsander Knaifel(アレクサンダー・クナイフェル)が好んでオーケストラの形式や宗教的な合唱の形式に取り入れているが、 この曲の場合は、通奏低音をベースとして、音がひとつずつ主音を取り巻く装飾音のように付加されている。中世のバッハの宗教音楽の現代音楽としてのルネッサンスとも解釈出来る。ひとつの印象論に過ぎないが、曲の終盤では前2曲とは異なり、感情性のある和音構造の変化の瞬間を捉えることが出来る。 


続く「Untitled Rain」では、パイプオルガンの保続音を強調したドローン音楽という点では同じであるが、ニューヨークのパーカッション奏者、Eli Keszlerのようにパーカッシヴな観点からのミクロの構成をドローン音楽と組み合わせる。マクロな要素とミクロな要素を融合させているが、これらがアルバムの序盤における単調なイメージを後半部で一転させ、印象性を変化させる。


アルバムのクロージング・トラックであり、二曲目の変奏でもある「Sculpture Ⅱ」は、前者のポリフォニーの和音構成を組み替えたものに過ぎない。ところが、全体として聴いた時、全5曲の中の和音的な感覚の中に印象的なコントラストを形成する。それは実例では表現出来ず、どこまでも感覚的なものである。そして、この説明についても主観における印象性の変化を述べるに過ぎないが、制作者が音響やスコアを通じてコントロール下に置くのではなく、「受け手の印象性の変容によってもたらされるバリエーション」が示唆されているのが革新的だ。これらの曲には洗練される余地が残されているかもしれない。ともかく、スウェーデンのドローンミュージックのシーンの象徴的な若手ミュージシャンが台頭したと考えても良いのではないか。

 

 

86/100