Weekly Music Feature: Shabason/Krgovich/Tenniscoats
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2024年4月、カナダの東西に分かれて活動するミュージシャン、ジョセフ・シャバソンとニコラス・クルゴビッチはシャバソン&クルゴビッチとして初の日本公演となる2週間のツアーに出発した。 7e.p.レコードの齋藤耕治氏による取り計らいにより、日本の名高いデュオ「テニスコーツ」のサヤと植野がツアーに同行し、松本、名古屋、神戸、京都、東京の各公演でバックバンドを務めた。
4人はたった2回のリハーサルしかできなかったが、それで十分だった。彼らの絆は瞬時に生まれ、音楽に滲み出ていた。瞬時に音楽的に結びついた4者は互いの演奏に興奮と喜びを持って反応し合い、ライブ・セットは公演を重ねるごとに生き物のように美しく成長を遂げていく。齋藤はこの相性の良さを予見し、録音エンジニアを神戸(塩屋)で待機させる手配をした。彼らは名高いグッゲンハイムハウスに滞在する。この117年前のコロニアル様式の邸宅はアーティスト・レジデンシーに改装されていた。これまでにもテニスコーツ&テープの『Music Exists disc3』、ホッホツァイツカペレと日本人音楽家たちのコラボ作『The Orchestra In The Sky』、マーカー・スターリングとドロシア・パースのライブ・アルバムなどが録音されてきた伝説的な洋館である。
あらかじめ完成した楽曲を事前に用意することなく始まった録音だが、それぞれが持ち寄ったモチーフを起点に、即興的に湧き出ていく4者の多彩でフレッシュなアイディアによって音楽が形作られ、ケルゴヴィッチとさやが書き下ろした詞が歌われ、驚くべきペースで新たな楽曲が次々に生まれていった。
二日間で驚くべき化学反応が起きた。それぞれが持ち寄ったモチーフを起点に、即興的に湧き出ていく4者の多彩でフレッシュな着想によって音楽が形作られていく。ケルゴヴィッチとさやが書き下ろした詞が歌われ、驚くべきペースで新たな楽曲が次々に生まれていく。この制作過程を通じて、サヤとクルゴビッチはすぐ、歌詞作りのアプローチにおける共通点に気づく。 サービスエリアで空を見上げながら雲の日本語愛称を共有すること(魚鱗雲、龍雲、鯖雲、眠雲、羊雲)、衣料品店で靴下を片方ずつ探して揃えること、神戸王子動物園で老衰により亡くなった愛されパンダ「タンタン」への追悼歌——二人は共に日常の魔法を探し求め、歌に紡いだ。
この体験は毎日が魔法のようだという感覚だった。グループはグッゲンハイム・ハウスの窓から瀬戸内海の満ち引きを眺めながら作業を進めた。二日間で彼らは8曲を創作・録音し、制作順に並べたアルバムは『Wao』と名付けられた。これは録音後にテニスコーツのサヤがぽつりとつぶやいた言葉だった。これこそコラボレーションをした異国のミュージシャンたちの共通言語だった。
「このアルバムの素晴らしい点は、家がレコーディングスタジオとは程遠い空間だからこそ、超ライブ感あふれる音に仕上がっていることです。それに線路の真横にあるから、録音中に電車が通過する音がよく入っています。僕にとっては、それが大きな魅力と個性になっています」とジョセフは語る。
「全てが夢のように感じられ、あっという間に終わったので、家に帰って数週間はすっかり忘れていました。セッションデータを開いた時、僕たちが特別な何かを成し遂げたことがはっきりと分かりました」
トロントでのシャバソンによるミックスを経て完成したアルバム『Wao』。さやによる日本語とケルゴヴィッチによる英語がナチュラルに歌い継がれる“Departed Bird”から、ツアー中テニスコーツのセットにてシャバソン、ケルゴヴィッチ両人を迎え演奏されていた “Lose My Breath”(マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン)に至るまで録音順に収録された全8曲。ケルゴヴィッチ&テニスコーツと親交の厚い、ゑでゐ鼓雨磨(ゑでぃまぁこん)のコーラス(M5、M6)を除き、全ての歌唱と演奏は4者によるもの。
ジョセフ・シャバソン、ニコラス・ケルゴヴィッチ、テニスコーツ各々のリーダー作、さらにシャバソン&ケルゴヴィッチ名義での作品とすらも確かに異なる、まさに「シャバソン・ケルゴヴィッチ・テニスコーツ」というユニットとしての音楽でありツアー&録音時の驚きに満ちたマジカルな空気が全編に流れる珠玉のコラボレーション。
ライブツアー、そして制作期間すべてが魔法のように瞬く間に過ぎ去った。夢のように彼らはその渦に飲み込まれ、そして離れていった。数週間後、録音データが郵送で届いた時、初めてその夢のような感覚が鮮明な記憶へと変わり、今や何度でも振り返ることができる瞬間となった。
『Wao』-7e.p.(Japan) / Western Vinyl(World)
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このアルバムが録音され、アートワークにもなっている神戸の旧グッゲンハイム邸は、日本の近代化の象徴とも言える建築的な遺産である。
1890年代ーー日本が幕末から明治維新の時代に移行する頃の瞬間的な流れを建築的な遺産として残している。江戸幕府が鎖国を解き、日米修好通商条約を通じて海外との交易を活発化させてから、一時的ではあるにせよ、横浜、神戸、長崎の3つの開かれた港は、海外との貿易を通じて、上海に匹敵する''アジア最大の港''として栄えることになる。 横浜港の周辺一帯、長崎の天主堂やグラバー邸周辺は、''外国人居留地''と呼ばれ、実際に外国人が一時的に定住していた。
一方の神戸は、京都御所に近いという理由から、本居宣長の流れを汲む国粋主義的な思想を持つ攘夷派の反乱を懸念し、京都から少し離れた場所に居留地が置かれたという。これらの居留地は、明治時代以降の軽井沢のように''外国人の別荘地''ともいうべき地域として栄えた。しかし、維持費が嵩むことを理由に日本の土地として返還されていく。少なくとも、領土の側面において、外地とも呼ぶべき一帯として20世紀初頭まで発展を続けた。特に、神戸の居留地は特殊な事情があり、”租界”ともいうべき土地であった。実際的に、海外の人々が他の地域に出ることは多くなかったという。この神戸の居留地には、ドイツ人が多く住んでいたことがあり、北野異人館等が主な遺構として脳裏を過ぎる。グッゲンハイム邸もまた、ドイツ人が使用していた邸宅であり、館内にピアノがひっそりと残されている。現在はアーティストレジデンスとして利用され、ライブなどが開催されることもある。その昔、この地帯は外国人の観光海岸として栄えた。
土地柄の因縁というと語弊があるかもしれない。が、旧外国人居留地で録音された日本の実験的なフォークデュオ、テニスコーツとカナダの二人のプロデューサー、シャバソンとクルコヴィッチのコラボレーションアルバムは、異質な空気感をまとっている。発売元のテキサスのWestern Vinylは、アルバムを''魔術的''と紹介しているが、聴けばわかる通り、得難い空気感を吸い込んだ素晴らしい作品である。録音はたったの二日間で、よくこれだけ集中した作品を制作出来たものだと感心すること頻りである。実際の音楽性は表向きには派手ではないものの、得難い魅力に満ちあふれている。シャバソンとクルコヴィッチのふだんの音楽性については、私自身は寡聞にして知らぬが、テニスコーツのいつもの音楽とは明らかにその印象を異にしている。
カナダと日本のコラボレーターは、ライブツアーや二日間の制作期間を通して体験した出来事を日本の感性と外国の感性を織り交ぜて吐露している。そのやりとりの多くは、コミュニケーションとして深く伝わったかどうかは定かではない。しかし、アルバムに接するとわかるように、日本とカナダの音楽家は、ジェスチャーや共通する言語をかいして、共通理解ともよぶべき瞬間を得ることになったのは明らかだろう。この国際的なコラボレーションは、考えが異なる人々を相互的に理解しようと努め、それが最終的に腑に落ちる瞬間を持つようになる、その過程のようなものが音楽として表されていると思う。そして、グランドピアノなどの音色が取り入れられるのを見ると、現地の標準的な環境設備が楽曲の中に取り入れられている。また、全般的には、楽器の役割がかぶることなく、演奏パートが上手いバランスに割り振られている。
一曲目の「Departed Bird」は、サヤによる日本語ボーカルが中心となり、その後、ボーカルの受け渡しが行われる。ムードのあるエレクトリックギターとジャズの要素をイントロの背景に敷き詰め、日本の童謡のような音楽性が取り入れられている。伴奏の後、哀感に満ちた声で、サヤは次のように歌う。「鳥があるいている、道ゆくぼくらの足もとへ」 このマイナー調の曲は日本語の歌詞と連動するように、ピアノのフレージングを通して叙情性を強めていく。その後、口笛やサックスの演奏を通して、この音楽はアヴァンジャズのような遊び心が取り入れられるが、歌謡的な性質を強調づけるかのように、この曲全体は粛然たる哀感に包まれている。そして賛美歌のようなシンセとサックスの音色が重なり、テニスコーツらしい音楽が強まっていく。さらにその後にはクルゴヴィッチのボーカルが入る。また、シャバソンのサックスの演奏もそのペーソスを強める。歌詞はおそらく日本語と英語の対訳のような感じでうたわれている。
日本語と英語の同じ歌詞を二声の対位法のように並置するにしても、その言語的な意味やニュアンスは全く異なることが、このアルバムを聴くと痛感してもらえるのではないか。そもそも言語を翻訳するということに限界があるともいえる。日本語は、ある一つの言葉の背後にあるイメージを呼び覚まし、連想のように繋げていく。つまり、その言語的な成立の経緯からして、''論述的にはなりえない''のである。とは対象的に、英語は、論理的な言語の構造を持つ。つまり、英語は直前の文章を補強したり補填する趣旨がある。一つの同じような伴奏で、同じ意味の文章が歌われても、言語的な意味が全然異なることに大きな衝撃を覚える。特に、日本語の観点から言えば、短歌や俳句のような行間にある、言外のニュアンスや感情性が、サヤの歌から感じ取ることが出来るかもしれない。そして、論理的なセンテンスを並べずとも、日本語は何となく意図が伝わることがある。この''言語における抽象性''はアルバムの重要な核となる。また、英語の歌詞の方は、歌の意味を一般化したり平均化するために歌われる。これらの2つの言語の持つ齟齬と合致は、アルバムの収録曲を経るごとに、大きくなったり、小さくなったりする。
続いて、二曲目の「A Fish Called Wanda」は、ヴァースとサビという基本的なポピュラーの構成から成立しているが、実験音楽の性質がそうとう強い。言語的なストーリの変遷が描かれ、「Wanda」という英語の言葉から、最終的には王子動物園の「Tan Tan」の追悼という結末へと繋がっていく。しかし、これらは、英語の「Wanda」と日本語の「ワンダ」という言葉を対比させ、その言葉を少しずつ変奏しながら繰り返し、実験音楽としての性質を強めたり、弱めたりしながら、驚くべき音楽的な変容を遂げる。このあたりに、言語によるコミュニケーションの一致とズレのような意図がはっきりと現れている。 その言葉の合間に、サックスの実験的なフレーズ、シロフォンのような打楽器の効果が取り入れられる。同じような言葉が連鎖する中、言葉が語られる場所が空間的に推移していく。そして、それと対比的なポピュラー音楽のフレーズが英語によって歌われる。これがシュールな印象を与え、ピンク・フロイドのシド・バレットのごとき安らかな癒やしをもたらす。もちろん、ピアノの伴奏に合わせて歌われるフレーズは、明晰な意識を保持している。この点は対称的と言える。ときどき、スキャットを駆使して明確な言語性をぼかしながら、デュオのボーカルが背後のサックスの演奏と美しいユニゾンを描く。「Wanda」「Under」「Anta(You)」など、英語と日本語の言葉を鋭く繰り返し交差させながら、実験音楽の最新鋭の境地へと辿り着く。これらは、二人のボーカリストの言語的な感性の鋭さが、現実性と夢想性の両面を持ち合わせた実験音楽へと転移しているといえる。最終的には、アコースティックギターとサックスの演奏に導かれ、温かな感情性を持つに至る。
3曲目に収録されている「Shioya Collection」は、今年度発売された日本語の楽曲では最高傑作の一つ。塩屋の滞在的な記憶がリアルタイムで反映され、叙情的に優れたポピュラーソングに昇華されている。イントロではシンセの水のあぶくのような可愛らしい電子音をアルペジオとして敷き詰め、古くは外国人の観光ビーチとして栄えた塩屋の海岸付近の風光明媚な光景を寿いでいる。シンセサイザーの分散和音を伴奏のように見立て、徐々に音色にエフェクティヴな変化を及ぼしながら、センチメンタルなイマジネーションを呼び覚ます。それは、これらの滞在期間が短期間であるがゆえ、かえって、このような切ない叙情的な旋律を生み出したとも言えるだろう。ボーカルが始まる直前、ジャズの和音を強調したピアノが入り、それらの印象は色彩的な和声進行に縁取られる。以降、日本語の歌詞が歌われるが、これらは断片的な言葉にすぎないのに、驚くほど鮮明にその情景の在処を伝え、同時にその感情性を端的に伝えている。
坂の上の光景、そして、頭の上を通り抜けていく清かな風、それらを言葉として伝えるためのたった一語「カゼーカゼ」という楽節が歌われるとき、涙ぐませるような切ない感覚が立ち現れることにお気づきになられるだろう。グッゲンハイムの窓から見た光景か、それとも館の下の階段からみた光景かはつかないが、そのときにしか感じえない瞬間的な美しさが最上の日本語表現で体現されている。サビのフレーズの後の始まるサックスやピアノの演奏もまた、非言語でありながら、言葉の間やサブテクストの持つ叙情性を明瞭に伝えている。二番目のヴァース以降は、クルゴヴィッチのボーカルで英語で歌われ、日本語のサヤのボーカルと併置される。今までに先例のない試みであるのに、驚くほど聴覚に馴染むものがある。海際の潮風の風物的な光景が「思い出をならべてる」というような言葉から連想力を持ち、そのイメージがどんどんと自由に膨らんでいくような、ふしぎな感覚にひたされている。そして、日本語と外国語を対比させながら、「カゼーカゼ」の部分では異なる言語のイメージがぴたりと合致している。
4曲目の「Our Detour」はエレクトロニカの音楽性が強まる。 イントロにはグリッチのリズムを配して、トーンクラスターやダブの要素を強調しながら、ゆったりとしたビートを刻んでいく。ヴァースの始めでは、「過去から振り返るな」という歌詞が歌われ、それが日本の童謡的な旋律によって縁取られる。その後、「繰り返すと」に言葉が転訛し、ボーカルの受け渡しが行われ、フレーズの途中で、英語の歌詞に切り替わる。以降、この曲は、ピアノのダイナミックな演奏を背景に、ボーカルの叙情的な感覚を深めながら、ダブのディレイのサウンドエフェクトを用い、急進的な楽曲へと変化していく。これまでに何度か述べたことがあるように、一曲の中で音楽そのものがしだいに成長していくような感覚があるのに驚きを覚えた。英語と日本語の歌詞のやりとりの中で「ここには時間がある」という抽象的な歌詞が日本語で歌われる。
ダリのシュールレアリズムの絵画のような趣を持ち、その内的な形而下の世界を徐々に音楽と連動するようにして押し広げていき、サビの箇所では、「みんながいて」、「呼吸は繰り返して」のようなフレーズへと繋がっていく。ここでは変化していく共同体のような内的な記憶がきざみこまれている。単なる郷愁的な意味合いを持つ音楽とはまったく異なるような気がする。曲の最後では、迫力のあるダブのエフェクトがこの曲の持つじんわりとした余韻を増幅させる。
「At Guggenheim House」は文字通り、グッゲンハイム邸の滞在について歌われている。デュオの形式で構成されているが、基本的には英語の詩で歌われ、グッゲンハイムでの同じような瞬間的な体験とリアルタイムの記憶を反映させている。とはいえ、ジャズポップス寄りの楽曲である。 クルゴヴィッチのボーカルとシャバソンのサックスは、モントリオールの港の気風を呼び込み、そして、ムードたっぷりの叙情的な歌唱を通じて、ジャズの空気感を深めていく。その中で、まれにリードの役割で登場するオーボエ、クラリネットのような木管楽器がどことなくエキゾチックに響く。これは憶測にすぎないが、日本と海外の双方のミュージシャンが感じたエキゾチズムがムード感のあるジャズソングに結びついたのではないか。つまり、由緒ある洋館やこの土地の街角に、ミュージシャンたちは異国的な情緒を感じて、そして、現在の地点からへだたりがあることを滞在時に彼らは肌身で感じ取ったのではなかったか。館の中に残る、当時の異国人の家族や子供の生活や暮らしの様子を、音楽として表現したとしても不思議ではあるまい。いずれにせよ、この曲は、英語のポピュラーの中に日本語の歌謡的な要素が混在している。風土的な概念を象徴付けるようなアトモスフェリックなアートポップソングである。
続く「Ode To Jos」では、同じように夕暮れの潤沢な時間を伺わせるようなジャズトロニカである。 この曲では、アコーディオンの楽器が取り入れられ、遊び心のあるフレーズが登場するが、全体的な旋律の流れとボーカルはどことなく郷愁的な雰囲気に縁取られている。時々、アヴァンジャズに依拠したサックスのブレスやジム・オルーク風のアヴァンフォークのアコースティックギターのフレーズも登場するが、夢見るような旋律の美しさが維持されている。デュオ形式で歌われる両者のヴォーカルのユニゾンも見事なハーモニクスを形成している。アルバムの中で最もアグレッシヴな趣を持つ「Look Look Look」は、イントロでフューチャーステップのシンセを配し、スキャットやハミングの器楽的な旋律を強調付けるサヤのボーカル、そして、クルゴヴィッチの深みのある英語の歌詞が対旋律として強固な構成を作り上げる。リズムとしても、オフキルターとの呼ぶべき複合的なポリリズムが強調され、ボーカルだけで伴奏と主旋律を作り上げる。この曲で、テニスコーツとクルゴヴィッチはヴォーカルアートの最前線へとたどり着く。その後、ヒップホップのリズムを交え、この曲は未来志向のアートポップへと傾倒していく。この曲に関しては、細野晴臣さんの音楽性にも相通じるものがあると思う。
このアルバムを聴くに際して、My Bloody Valentineのカバーソング「Lose My Breath」は意外の感に打たれるかもしれない。
1988年のアルバム『Isn’t Anything』の収録曲である。『Loveless』が登場する数年前の伝説的な作品で、ヨーロッパのゴシックの雰囲気に縁取られている。ダンスミュージックの要素以外のシューゲイズの旋律的な要素は、このアルバムでほとんど露呈していた。今回のテニスコーツのカバーでは、これをインディーフォークやネオアコースティックの観点から組み直している。
あるミュージシャンに聞くところによると、カバーというのは難しいらしい。原曲にある程度忠実でなければならず、過度な編曲は倦厭されがち。この曲は、構成や和声や旋律進行の特徴を捉え、それらをダークでゴシックな雰囲気で縁取っている。このカバーは、どちらかといえば、Blonde Redheadのように、バロック音楽に触発されたポップソングのように聴くことが出来る。
従来、My Bloody Valentineのクラシック音楽からの影響というのは表向きには指摘されてこなかった。しかし、このカバーを聴くとわかる通り、ビートルズと同じようにシューゲイズというジャンルには、ダンスミュージックと合わせて、クラシック音楽からの影響が含まれていることがわかる。少なくとも、今まで聴いた中では、センス抜群のカバーであるように感じられた。曲数はさほど多くはないけれど、凄まじい聴き応えを持つアルバム。それが『Wao』である。
86/100
Shabason/Krgovich/Tenniscoats 『Wao』は本日、日本国内では7.e.pから発売済み。さらに日本独自CDとして発売。海外ではWestern Vinylから発売。こちらはVinylの限定販売となっている。『Wao』の国内CDバージョンの詳細については、7.e.p.の公式サイトをご覧ください。
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