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マルティン・ルター像 ドレスデン |
ルネサンス時代の音楽を完成へと近づけたのは、プロテスタントの先駆者であるマルティン・ルターである。ザクセン地方に生まれ、聖アウグスチノ修道院の司祭を務め、神学の博士号を得て、ヴィッテンベルグ大学で教鞭を取っていたルターであるが、彼の神なるものを捉える思考に疑問が生じた。
そもそも、人間は善行によって救われる、というのが旧来のカトリックの教えであったが、それは本当なのか。ルターはこの考えに疑問を挟み、その先にある、神の恩恵によって人間は救われるという教義に置き換えようとしたのだった。当時のローマカトリックの教義は政治的な腐敗の一途を辿っていた。マインツ大司教レオ十世は、俗に免罪符と呼ばれる贖宥状をローマ教皇であったレオ10世の許可のもと発行し、この証明書があれば、現世の罪が軽減され、死後の苦しみが軽減される、というお触れを出したのである。実のところ、これらの免罪符は、ローマ・カトリックがサン・ピエトロ大聖堂の改修費用をかき集めるための手段に過ぎなかった。
これこそ、キリスト教の原罪論を巧みに利用して、信者からお布施を募るというカトリックの政治的なビジネスであった。「金で神の赦しが貰える」という考えにマルティン・ルターは義憤を覚え、これをローマカトリックそのものの腐敗と見て、強烈な反抗を企てようとした。ルターは、抗議文として、「95ヶ条の論題」を掲げた。これによって、宗教改革の動きが広がった。
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ルターは、この抗議文の活動がもとで、1521年にローマカトリックから破門を言い渡されたが、それが新しいプロテスタントの扉を開き、ドイツの宗教主義の隆盛の礎ともなった。プロテスタントとはプロテストの派生語であり、そもそもが権威に対する反抗的な意図が込められている。これは後に、マックス・エルンハルトなど、組織に属さないアウトサイダー的な神学者をドイツから発生させる素地ともなったのである。
また、マルティン・ルターは、音楽に最も魅せられた人物であった。彼は神学の専門家であるにとどまらず、音楽にも造詣が深かった。
ルターは、「音楽は神が与えしものの中で最も美しく、そして、栄光を表す賜物である」とさえ述べている。また、フランドル学派などの音楽に親しみ、ジョスカン・デ・プレの音楽に心酔していた。ルターは、フランドルの作曲家、ジョスカン・デ・プレに対して、「彼だけが音符を支配することが出来た」と讃えたほか、スイスの作曲家、ルートヴィヒ・ゼンフルには、「未だかつて預言者が音楽以外の芸術を使用したことはない」と書簡で伝えたほどであった。
上記のエピソードを見るかぎり、マルティン・ルターの思想の中には、音楽は高次の啓示そのものであるという、ベートーヴェンやJSバッハと同じたぐいの考えが含まれていたことを伺わせる。ルターの宗教改革の趣旨は、ローマカトリックの腐敗した政治的手法を糾弾するだけではなく、新約聖書の使徒パウロの「信仰義認論」に回帰するというものであった。それと同時に、宗教そのものが組織の発展や勢力(地政学)の拡大に根ざした権威主義と距離を置き、元来の教義に帰るべきという考えを示した。ルターの仕事の手始めは、ラテン語で書かれた聖書の翻訳作業であった。彼は、聖書をドイツ語に翻訳し、これらの教えをドイツ圏で普及させた。
ルターが宗教音楽の一貫であり、以降のバロック音楽の端緒にもなるコラールを作曲し、それを広めようとしたのには、相応の理由があった。新約聖書のなかで、使徒パウロは、書簡で次のように語る。「詩の賛美と霊の歌によって感謝し、神を礼賛する」という言葉、これこそがマルティン・ルターの音楽観の礎になり、また、コラールの成立に繋がった。神という得難い存在を賛美するために音楽は存在し、音楽は神に仕えるために存在するというのが、ルターの考えである。おのずと、音楽は、上にいる存在に対して、従属的な趣旨を持ったことは言及するまでもない。
しかし、ルターは、ローマ・カトリックと決別した後も、折衷主義を標榜していた。以降のルター派の教会では、ラテン語を慣習的に残し、カトリックの伝統的な典礼主義も継続した。しぜん、グレゴリオ聖歌に端を発する単旋法の聖歌、そして多旋律のカトリック音楽を融合させたことが彼のコラールの作曲の原点となった。 また、彼はラテン語をドイツ語に翻訳し、宗教音楽を発展させていく中で、「替え歌」の形式を出発させた。これは、旧来の宗教曲に、ドイツ語の新しい歌詞をつけて歌う、「コントラファクトゥム(Kontrafaktur)」の形式の原点になった。15世紀の音楽史においては、替え歌ですら新しい音楽としての印象を保ったのである。
ルターは、ミサと呼ばれる教会の典礼のための音楽を多く残した。ヴェッテンベルクで賛美歌を作曲したほか、他の人々にも作曲を手伝わせながら、単旋律中心の宗教音楽を発展させていった。 このルター派の音楽が、コラールの出発となるが、後には、単旋律が多旋律に変化して、キルへェンリートと呼ばれるようになった。その後、ルターは1524年、ザクセン選帝侯フリードリヒの宮廷カベッラの歌手であったヨハン・ヴァルターの協力を仰ぎ、単旋律中心のヴィッテンベルク賛美歌をベースに多声部の合唱曲を作曲してもらい、さらに、ラテン語のミサ曲を作曲してもらい、これらを「ヴィッテンベルク賛美歌集」として出版した。3声から5声のドイツ語の歌を38曲とラテン語の歌を5曲収録した。これは若者向けの宗教的な教育の教材であったが、これが後にヴァルターが編纂し、「コラール集」に改訂されることになった。これがつまり、バロック以降に宗教音楽の重要なポイントとなるコラールの原点である。
ルター派の音楽は、一般的な民衆のために、旧来の宗教曲を敷衍させるという意図が込められていた。旧来では、カソリックの典礼音楽を一般的な会衆が歌うことは珍しかった。ルターはこれらの音楽を一般的に開放し、礼拝のための音楽を一般的に普及させようと努めた。初期のコラールでは、一般的な信徒が斉唱で楽器の伴奏を伴わずに歌った。これがアカペラの始まりである。
また、ルターは宗教音楽と世俗音楽の融合を試み、後にバッハが「コーヒー・カンタータ」で完成させる民衆音楽の基礎を形成した。ルターは作曲に際して、騎士道のための音楽である、マイスタージンガーの歌曲を、マニエリスムによって模倣し、 A-A-Bから構成されるバール形式を参考にした。ルターが「コラール集」を出版した後、彼の死後も、この形式は継承された。コラールは合唱曲やオルガン曲に編曲され、ルターの教会音楽にとって不可欠なものに。17世紀から18世紀になると、JSバッハがコラールを、崇高な領域に押し上げた。
ルター派の宗教音楽はルネサンス音楽の重要な分岐点だったが、さらに、他地域で、同じように宗教曲の形式が発展していった。スイスのジュネーヴでは、カルヴァン派が台頭するにつれ、厳格な禁欲主義に回帰した。カルヴァン派は、主に商工業者の間で定着し、ヨーロッパの都市生活の規律的な基礎になった。16世紀後半になると、スイス、フランス、ネーデルラント、さらに中世時代からローマカソリックと対立していたスコットランドにまで普及していった。
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カルヴァン派の音楽は、ドイツ主義とは異なり、フランス主義の一貫として浸透していった。聖書の詩篇をフランス語に翻訳し、カトリックの典礼や音楽を用いず、大衆的な旋律を単旋律で付け加え、それを歌うというシンプルな内容であった。カルヴァン派を受け入れた各国でも同じ動きが起こり、各地で聖書を母国語に翻訳し、世俗的な旋律を付け加え、新しい解釈を行った。この時代から、宗教曲は世俗曲とクロスオーバーし、独自の音楽として浸透していく。
やがて、ルター派やカルヴァン派の分離の動向は、イギリス国教会へと広がった。イギリスの宗教改革は、ヘンリ8世の離婚問題、つまり、お家騒動のゴシップ的なところから始まった。 イギリス国教会は、その後、カルヴァン派を受け入れたが、従来のカトリックの様式を典礼の中に取り入れ、ルター派と同じように、折衷主義を図った。音楽は、カルヴァン派の流儀を取り入れ、民族的な音楽の影響を宗教曲に取り入れた。これが後にサッカースタジアムなどで歌われる「アンセム」という語の原義である。
アンセムは、一般的な使徒が歌うのではなく、訓練された合唱隊が歌うことが多かった。これはケンブリッジなど名門校の合唱隊の重要な風習にもなっている。イギリスでは、この時代、重要な作曲家が登場した。エリザベス一世の時代には、ウィリアム・バード、トマス・タリスらが活躍し、アンセムの優れた曲をいくつか残している。
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