AOR/Soft Rock Essencial Disc Guide ‐ AOR/ソフト・ロックの名盤をピックアップ
Tears For Fears |
AOR/ソフト・ロックとは、タワーレコードによると、”大人向けのロック”と説明されている。2000年初頭に同レコード・ショップが配布していたフリーペーパーでも同様の趣旨の説明がなされていた。ヴィジュアル系の一歩手前のナルシスティックなロック/ポップとも言えるかもしれない。シンセサイザーの演奏を押し出したきらきらしたサウンドは、T~Rexのグリッターロックや、その前の70年代後半のニューウェイブ/テクノとも共通項がある。音楽的に言及すれば、現在のシンセポップに当たり、軽めの音やビートが特徴である。これはハードロックやメタルが徐々に先鋭化していく時代、それに対するカウンターの動きであったと定義付けられる。
この音楽運動は80年代前後に隆盛をきわめ、白人を中心とするロックカルチャーのメインストリームを形成し、MTVの全盛期の華やかりし商業音楽のイメージを決定づけた。もっとも象徴的なところでは、デュラン・デュラン、カルチャー・クラブ、TOTO、JAPAN等がその代表例。しかし、AORやソフトロックが白人音楽というのは極論である。少なくとも、1978年頃にはブラック・ミュージックの一貫として、クインシー・ジョーンズの1976年の傑作『Mello Madness』など、以降のソフト・ロックによく似たジャンルが登場していたからである。
同様に、スティーヴィーやマーヴィンの音楽が併行して、これらの白人音楽になんらかの影響を及ぼした可能性があることを指摘したとしても、完全な的外れとはならないはずである。より詳細な指摘をしておけば、AOR/ソフト・ロックに該当するアーティストやバンドが英国のニューウェイブに傾倒していた可能性があるとしても、このジャンルのグループの音楽にはソウルフルな香りが漂っていた。それらは分けてもスティング擁するPOLICEの初期から中期の作品や、ポール・ウェラー擁するThe Style Councilのデビュー・アルバムを聴けば瞭然だろう。 現在でも、白人のアーティストが黒人のスポークンワードやフロウのスタイルをポップの歌唱法の中に取り入れる(Torres、Maggie Rogersの楽曲を参照)場合もあるように、どんな時代においても、人種的な垣根を越えて、互いに音楽的な影響を分かち合ったと見るべきなのである。
これらの音楽は後に、シンセ・ポップやアヴァン・ポップという形で2010年代や以降の20年代に受け継がれていくが、その本質的な意義は変わっていない。 AORの音楽はよく「アーバン」とか「メロウ」という作風が代表例として挙げられるが、これはブラックミュージックの1970年代後半の象徴的なアーティストが、時代に先んじて試作していた音楽でもあった。そのように考えると、このAOR/ソフト・ロックというジャンルの正体は、ローリング・ストーンズやエリック・クラブトンがブラック・ミュージックをロックの文脈にセンスよく取り入れたように、80年代のロックの流れに、以前のR&Bやソウルのニュアンスを取り入れ、それらを、以前のグリッターロックやニューウェイブと関連付けたと見るのが妥当かもしれない。
少なくとも、2024年の音楽を聞く上で、AORをしっかりと抑えておけば、現代の音楽に対する理解も深まるに違いない。2020年代以降の音楽では、多かれ少なかれ、この音楽ジャンルの要素を取り入れることはそれほど珍しくない。それは実験的なロックやポップとは対蹠地にある”親しみやすいポピュラー音楽”という形で、今も多くのリスナーに親しまれているのである。以下に掲載する名盤ガイドは、いつもと同じようにこのジャンルの最初の9つの入口を示唆したに過ぎない。もちろん、その背後に無数の名作が隠れていると言っておかなければならない。
Tears For Fears 『Songs From The Big Chair』 1985
『Songs From The Big Chair』は、英国のバンド、Tears For Fears(ティアーズ・フォー・フィアーズ)のセカンドアルバムで、1985年2月25日にマーキュリー・レコードからリリース。
前作のダークで内省的なシンセポップから脱却し、メインストリームな軽妙なギターを基調としたポップロックサウンド、洗練されたプロダクション・バリュー、多様なスタイルの影響を特徴としている。ローランド・オルザバルとイアン・スタンリーの歌詞は、社会的、政治的なテーマを表現している。このアルバムはユニットは全英で2位、全米で1位を獲得し、一躍スターダムに躍り出た。アルバムの収録曲「Everyone Wants To Rule The World」は普遍的な魅力がある。後にデラックスバージョン、及びスーパーでラックスバージョンが再発されている。
「Everyone Wants To Rule The World」
The Cars 『Heartbeat City』1984
リック・オケイセック擁するカーズの1984年の代表作『Heartbeat City』はAOR/ソフト・ロックを知るのに最適な一枚。米国の同バンドのリリースしたアルバムの中で最も商業的成功を収めている。ポップなアルバムとして知られているが、シニカルな陰影のある歌詞も織り交ぜられている。
ロックな印象を押し出した前々作『Panorama』、前作『Shake It Up』に比べると、全体的にポップでキャッチーな仕上がりになっている。『ラジオ&レコーズ』の年間アルバムチャートでは1位を獲得している。「Drive」「Hello Again」「Magic」「You Might Think」がトップ20に入るなど、シングル・カットでヒットを量産している。 アメリカのチャートで最高3位、イギリスでは25位を獲得。後のこのアルバムで、カーズはロックの殿堂入りを果たした。
「Drive」
The Police 『Synchronicity』 1983
スティング擁するポリスは当初、レゲエやダブサウンドを絡めた気鋭のロックバンドとしてニューウェイブの真っ只中に登場したが、年代と併行してよりポップなバンドに変化していった。5作目のアルバムは彼らの実験的な音楽とポピュラー性が劇的に融合した。その後の活動休止を見ると、バンドとしてかなり危ういところで均衡を図っている緊張感のある作品である。
『シンクロニシティ』は、1983年6月にA&Mレコードから発売。バンドで最も成功を収めた本作には、ヒットシングル「Every Breath You Take」、「King of Pain」、「Wrapped Around Your Finger」、「Synchronicity II」が収録。アルバムのタイトルと曲のネタの多くは、アーサー・ケストラーの著書『偶然の根源』(1972年)にインスパイアされている。1984年のグラミー賞では、アルバム・オブ・ザ・イヤーを含む計5部門にノミネート、3部門を受賞した。リリース当時、そして、シンクロニシティ・ツアーの後、ポリスの人気は最高潮に達し、BBCとガーディアン紙によれば、彼らは間違いなく「世界最大のバンド」だったという。
「Every Breath You Take」
TOTO 『Ⅳ』 1982
『Toto IV』は、1982年3月にコロムビア・レコードから発売されたアメリカのロックバンドTotoの4枚目のスタジオアルバム。「Rosanna」を始め、シンセの演奏を押し出したポピュラーアルバムだが、異文化へのロマンが表明され、それはアルバムのクローズ「Africa」で明らかになる。
リードシングルの「Rosanna」はビルボードホット100チャートで5週間2位を記録し、アルバムの3枚目のシングル「Africa」はホット100チャートで首位を獲得し、グループにとって最初で唯一のナンバー1ヒットとなった。アルバム・オブ・ザ・イヤー、プロデューサー・オブ・ザ・イヤー、レコード・オブ・ザ・イヤーを含む3つのグラミー賞を受賞した。
発売直後、アメリカのビルボード200アルバムチャートで4位を記録。また、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、オランダ、イタリア、ノルウェー、イギリス、日本を含む他の国々でもトップ10入りを果たす。また、このアルバムは、オリジナル・ベーシストのデヴィッド・ハンゲイトが2014年に復帰するまで(2015年のアルバム『TOTO XIV』のリリースで)、オリジナル・ベーシストをフィーチャーした最後のTOTOアルバム。オリジナル・リード・ヴォーカリストのボビー・キンボールが1998年にカムバックするまで(『TOTO XIV』のリリースで)、オリジナル・リード・ヴォーカルをフィーチャーした最後のアルバムでもあった。
「Africa」
Daryl Hall & John Oates 『Private Eyes』 1981
AOR/ソフト・ロックの中でも、よりR&Bに根ざしたアルバムがある。それが意外なことにダリル・ホール & ジョン・オーツの1981年の『Private Eyes』である。この年のデュオのアルバムには1980年代前後のアーバン・コンテンポラリーからの影響が大きく、ファンクやソウルに触発を受けながら、それらを親しみやすく軽快なシンセ・ポップとしてアウトプットしている。
『プライベート・アイズ』(Private Eyes)は、1981年9月1日にRCAからリリースされたホール&オーツの10枚目のスタジオアルバム。このアルバムには、2枚のナンバーワン・シングル、タイトル曲と "I Can't Go for That (No Can Do)"、トップ10シングル "Did It in a Minute "が収録されている。「I Can't Go for That (No Can Do)」はR&Bチャートでも1週間首位を獲得した。この曲は現在でも古びていない。2020年代の商業音楽にも共鳴する何かがある。
「I Can't Go for That (No Can Do)」
Christpher Cross 『Christpher Cross』 1979
クリストファー・クロスは、テキサス/アントニオ出身のシンガーソングライター/ギタリストで、フラミンゴをトレードマークにしている。知る人ぞ知るロックギタリストで、この音楽家を畏れるファンは多いはずだ。
本作はクリストファー・クロスのデビュー・アルバムで、1979年半ばにレコーディングされ12月にリリースされた。このアルバムは、3M デジタル・レコーディング・システム (3M Digital Recording System) を活用した初期のデジタル・レコーディング・アルバムのひとつである。
1981年のグラミー賞では、ピンク・フロイドの『The Wall』を抑えて最優秀アルバム賞を受賞し、1970年代末から1980年代初めにかけての最も影響力のあったソフトロックのアルバムのひとつであると評されている。『Christpher Cross』はアルバム・オブ・ザ・イヤー、レコード・オブ・ザ・イヤー、ソング・オブ・ザ・イヤー、最優秀新人賞を含む5部門でグラミー賞を受賞した。この驚異的な記録は2020年のビリー・アイリッシュの時まで破られることがなかった。
「Ride Like The Wind」
The Aran Persons Project 『Eye In The Sky』 1982
『Eye In The Sky』は、1982年5月にアリスタ・レコードからリリースされたイギリスのロックバンド、The Aran Persons Project(アラン・パーソンズ・プロジェクト)の6枚目のスタジオアルバム。アルバムジャケットはファラオの目。
1983年の第25回グラミー賞で、『Eye In The Sky』はグラミー賞の最優秀エンジニア・アルバム賞にノミネートされた。2019年、このアルバムは第61回グラミー賞で最優秀イマーシヴ・オーディオ・アルバム賞を受賞した。
『Eye In The Sky』には、最大のヒット曲であるタイトル曲が収録。リード・ヴォーカルはエリック・ウルフソン。アルバム自体も大成功を収め、多くの国でトップ10入りを果たした。
このアルバムにはインストゥルメンタル曲「Sirius」が収録されており、北米中の多くの大学やプロのスポーツ・アリーナの定番曲となっている。この曲は、1990年代にシカゴ・ブルズが優勝した際に、スターティング・ラインナップを紹介するために使用された。
もう1つのインスト曲「Mammagamma」は、1980年代半ばにニュージーランドのTVNZとBBCウェールズでスヌーカー中継のために個別に使用され、1989年から1990年にかけてアイルランドのトニー・フェントンの深夜2FM番組で「My Favourite Five」特集として使用された。また、このインストゥルメンタルはイタリアのIvecoのインダストリアル・ビデオでも使用された。
「Eye In The Sky」
Don Henley 『Actual Miles: Henley’s Greatest Hits』 1995
最後にご紹介するのは『Actual Miles:Henley’s Greatest Hits』。1995年にリリースされたアメリカのシンガー・ソングライター、ドン・ヘンリーによる初のコンピレーション・アルバム。
このコンピレーションアルバムは1980年代を通した3枚のソロ・アルバムからのヘンリーのヒット曲を網羅している。アルバムには3曲の新曲、「The Garden of Allah」、「You Don't Know Me at All」、ヘンリーによる「Everybody Knows」のカヴァーが収録されている。この作品集はチャート最高48位を記録し、プラチナに達した。「The Garden of Allah」はメインストリーム・ロック・トラックス・チャートで16位を記録。
ジャケットの写真には、葉巻を吸う中古車セールスマンのヘンリーが冗談半分に描かれているが、これは1995年の『Late Show』出演後、デヴィッド・レターマンに質問されたドン自身が語った。ヘンリーは、この写真とアルバム・タイトルはレコード業界に対する微妙な風刺と説明している。
ジャケットの写真には、葉巻を吸う中古車セールスマンのヘンリーが冗談半分に描かれているが、これは1995年の『レイト・ショー』出演後、デヴィッド・レターマンに質問されたドン自身が語ったものだ。ヘンリーは、この写真とアルバム・タイトルはレコード業界に対する微妙な風刺だと説明している。
「The Boys Of Summer」