今世紀、アメリカのソロギタリスト/ウィリアム・タイラーほど、その豊穣なシーンに衝撃を与えたギタリストはいない。 Silver Jews、Lambchopでのベースメントの重要な活動を経て、彼はナッシュビルの名物的なミュージシャンになった。過去10年の幕開けに、カントリー育ちでクラシックに熱中した後、ポストモダンの実験、フィールドレコーディング、絶妙なメロディーの下に折り重なる静的な漂流物への熱意を露わにした好奇心旺盛なアルバムにより頭角を現した。
ウィリアム・タイラーは、チェット・アトキンス、ギャヴィン・ブライヤーズ、電子音響の抽象化、エンドレスなブギーをとりわけ好きこのんだ。 彼の生産的なインストゥルメンタル・ミュージックの小さく大きな枠組みは、そうしたカソリックな嗜好にますます沿うようになり、新しいサウンドやテクスチャーを取り入れたり、新しい声や視点も重要視するようになった。
5年ぶりのソロ・アルバム『Time Indefinite』は、輝かしく、勇ましく、美しい。 このギターは、タイラーだけでなく、ある分野全体の可能性と到達点を再考させるアルバムの出発点となっている。ノイズとハーモニー、亡霊と夢、苦悩と希望が渦巻く『Time Indefinite』は、単なるギターアルバムではない。偉大なギタリストによる私たちの不安な時代を象徴する傑作。
2020年初頭、世界が未曾有の不安の淵に立たされていた頃、タイラーはロサンゼルスを離れ、人生の大半を過ごしたナッシュビルへと向かった。 ほとんどの機材(そして、その価値はあるにせよ、彼のレコードのすべて)はカリフォルニアに残り、早い帰郷を待っていた。
こでタイラーは、パンデミック時代のあの果てしなく緊張した時代の憂鬱、神経、疑問と向き合いながら、携帯電話とカセットデッキでちょっとしたアイデアやテーマをレコーディングし始めた。
タイラーは、フォー・テットのキーラン・ヘブデンとレコードを作ることを初期に交渉していたという。これらの作品のいくつかは、彼らが一緒にやるかもしれないことの試験運転のように感じられた。
コラボレーションが別の方向に進むにつれ、タイラーは他のサウンドを探った。 彼はすぐ長年の友人でありプロデューサーのジェイク・デイヴィスに、それらをつなぎ合わせ、不完全な部分をきれいにする手助けをしてくれるように頼んだ。
やがてロサンゼルスに戻り、アレックス・サマーズが仕上げに加わった。 デイヴィスとタイラーは逆に、ヒスノイズやぐらつきを受け入れ、最終的には意図せずして、あの時代とこの時代を反映した、不器用で、傷つきやすく、正直なレコードを制作することになった。
タイラーの音楽は当初から、彼の価値観を形成した古い観念や慣習を現代的な価値観に照らし出し、過去を呼び起こした。 2020年11月、家族でミズーリ州ジャクソンを訪れ、ダウンタウンにあった亡き祖父のオフィスを片付けたタイラーは、遺産の中に封印されたままの古めかしいテープマシンを見つける。 彼は、それをナッシュビルに持ち帰り、デイヴィスのところへ持ち寄り、彼らはそれを使い、未知の瞬間の眩暈を呼び起こすようなテープループを作り始めた。
『Time Indefinite』は、そのアンティークの破片をサンプリングしたものから始まる。 薄気味悪く、心配になるようなシグナル・フレア。
この作品は、まるで遊園地のお化け屋敷のように展開していくが、まだ生きている人々が息づいている。 それから10分も経たないうちに、タイラーは「Concern」の冒頭で、シンプルなフォーク・ワルツの下に太陽のように昇るストリングスとスティールという、彼のどの曲よりもゴージャスなメロディーを奏でてみせる。 それは肩に手を置いたような、輝きに満ちた音楽。私はここにいる。状況は厳しいが、私たちは努力している。まるでそのように物語るかのように。
苦悩と信念、そしてそれらをつなぐ小道の地図である。「Electric Lake "は、ラ・モンテ・ヤングを今世紀に呼び起こす恍惚としたドローンだが、その輝きの下には内的な痛みに溢れている。
「Howling "は絶対的な素晴らしさで、その穏やかなギターのなびきと響き渡るホーンと鍵盤の合唱は、ウィンダム・ヒルの栄光の日々を思い起こさせる。しかし、その背景には実際に吠え声があり、潜在的な心配がただ轟くのを待っているのだ。しなやかな 「Anima Hotel 」ではそうならなかったが、そう長くは続かないことは分かっている。
「これは精神病領域にあるレコードなんだ」とタイラーは恥ずかしげもなく話す。「心を失いながらも、それを望まず、戻ろうとする音楽なんだ」 しかし、彼がそれを語る必要はない。あなたはそれを感じ取ることができ、おそらくあなた自身の経験からそれに気づくことさえできるだろう。
タイラーのアルバムは、スピリチュアリティと哲学の間を行き来し、より偉大なアメリカの想像力の風景や伝説を呼び起こすように、音楽以外の参照や影響が重層的に折り重なっている。
『Time Indefinite』もその例にたがわず、ロス・マッケルウィーの深く個人的な映画を想起させる。1980年代半ば、彼は、シャーマンの南部進軍を題材にした映画を作り始めたが、それは家族、喪失、そして想像しうる最悪の事態に最良の本能が屈服したとき、私たちがとる行動についてのもつれた歴史へといざなう。
William Tyler 『Time Indefinite』 - Psychic Hotline
ウィリアム・タイラーの新作『Time Indefinite(不確定な時間)』は考えられる限りにおいて、この世の最も奇妙なレコードの一つである。タイトルも深遠だ。
タイラーの作り出す音楽は、実験音楽の領域に属すると思われる。しかし、この世のどの音楽にも似ていない。シンプルに言うと、どこからこういった音楽が出てくるのかさっぱりわからない。
部分的にはアンドレイ・タルコフスキーの映画のサントラのようでもあり、明確な音楽作品とも言えるのかどうかも定かではない。何らかの付属的な映画音楽のようでもある。そして、確かに『不確定な時間』は、思弁的ないしは哲学的な要素もあり、そしてナラティヴな試みが含まれてはいるが、同時に、それを「テーマ音楽」と称するのは適切とは言えないかもしれない。
『Time Indefinite』 は、アルバムのタイトルにあるように、我々の住む時間の中にある抽象的な空間性、そして、形而上にある概念を実験的な音楽として発露させたかのようである。一度聴いただけでは、その全容を把握するのがきわめて難しい、カオティックなアルバムとなっている。いってみれば、シュールレアリスムの音楽、それをタイラーは今作で発現させているのだ。それはダリ、ルドンを筆頭とするアートの巨匠のような不可思議な時間性を脳裏に呼び覚ます。
サウンドの形態としては、昨年、アメリカのブログサイトや小規模メディアを中心に賞賛を受けた、Cindy Leeの『Diamond Jubilee』に近い雰囲気が感じられる。テープループを執拗に繰り返し、ブライヤーズ、バシンスキーのようなアシッド的なアンビエンスを呼び覚ます。なおかつ音質を落としたサイケでローファイなサウンドという側面でも、シンディのアルバムに通じている。
しかし、このアルバムは、はっきりいえば、ポップでもフォークでもない。ダニエル・ロパティンの『Again』のように、音楽の集合体のような意味合いがある。恐ろしいほどの音楽的に緻密な構成力は、ブルータルリズム建築のような畏怖の感覚を呼び覚まし、音楽という素材を礎石とするポストモダニズムの音楽が徐々にブロックのように積み上がっていく。高みのようなものに目を凝らすと、目がくらんでくる。アメリカの音楽の土壌の奥深さに恐れおののくのだ。
かと思えば、ノイズの先鋭的な表現も含まれている。例えば、Merzbow(秋田昌美)を彷彿とさせる先鋭的なアナログノイズで始まる「Cabin Six」は、アルバムを聴くリスナーを拒絶するかのようだ。まるで、ドイツのNEU!が蘇り、意気揚々と逆再生とテープループを始めたかのようである。
それらの断続的なパルスは、基本的にはエレクトロニックの領域に属する。その後、ダークなドローンが展開される。時間も場所もない前衛音楽は、奇妙なモノクロ映画のような世界観と掛け合わさり、独特で強固な音楽世界を構築していく。そして、その抽象的な音楽は、カール・シュトックハウゼンのトーン・クラスターの技法と重なり合うように、前衛の前衛としての気風を放つ。音楽を理解するということの無謀さを脳裏に植え付けさせるような凄まじい音楽。
続く「Concern」は、カントリーをルーツにもつウィリアム・タイラーの南部的な音楽観が露わとなる。シンプルなアコースティックギターのアルペジオが背景となるアンビエント的なシークエンスと合わさり、無限の世界を押し広げていくアンビエントフォークとも言える一曲である。
オープニングを飾る「Cabin SIx」のデモーニッシュなイメージと相対する、エンジェリックなイマジネーションを敷衍させる。このアーティストらしさも満載で、テープディレイをかけたり、コラージュやアナログのデチューンを施したり、サイケな雰囲気も含まれている。続く「Star Of Hope」は、エイフェックス・ツイン、Stars of The Lidのダウンテンポのアンビエントという側面から既存のクワイア(賛美歌)を再解釈している。時々、トーンの変容を交え、遠方に鳴り響く賛美歌を表現する。タイラーはアコースティックギターを伴奏のように奏でるが、これらは最終的に、カンタータやオラトリオのようなクラシカルな音楽性へと接近していく。曲のアウトロでは、賛美歌を再構成し、電子音楽に拠るシンフォニーのような音楽性が強まる。
ハイライトが「Hawling at The Second Moon」である。ガット弦を用いたアコースティックギターにあえてエレクトロニック風のサウンド処理を施し、エレアコのような音の雰囲気を生み出す。そして、シンディ・リーのようなビンテージのアナログサウンド、70年代のレコードのようなレコーディングと、最新のデジタルレコーディングの技術を組み合わせ、不確定な時間というアルバムの表題のモチーフを展開させていく。全般的なカントリー/フォークのニュアンスとしては、Hayden Pedigo(ヘイデン・ペディゴ)に近い何かを感じ取ってもらえるかもしれない。
コラージュサウンドとして理解不能な領域に達したのが「A Dream, A Flood」である。グロッケンシュピールをリングモジュラー系統のシンセで出力し、アルペジエーターのように配した後、アナログディレイのディケイを用い、音を遅れて発生させ、ミニマル・ミュージックのように組み合わせる手法を見出せる。
晩年のスティーヴ・アルビニも、全体的なミックス/マスタリングの過程で、ノイズとミニマリズムを共存させていたが、それに類するような前衛主義である。今作ではそれらがエレクトロニックという土壌で展開され、プリペイドピアノの演奏を全体的なレイヤーとしてコラージュのように重ねたり、テープループを施したりすることで、理解不能なサウンドに到達している。最終的には、シュトックハウゼン、武満徹/湯浅譲二のテープ音楽に近い、実験主義の音楽に変遷していく。そしてこれらは、ミニマル/ドローンの次世代の音楽が含まれているという気がする。
その後、カントリーをベースとする牧歌的で幻惑的なギターミュージックへと回帰する。音楽的な枠組みがシュールレアリスティックであるため、印象主義のようなイメージを擁する。これはシカゴのアヴァンフォークの祖、ジム・オルークの作風にも近似するが、少なくとも、ウィリアム・テイラーは、無調音楽やセリエリズムではなく、調性音楽という側面から実験的なフォークミュージックを繰り広げる。しかし、同時に、トラックの背景となるアンビエントのシークエンスは、視覚的な要素ーーサウンドスケープーーを呼び起こし、制作者の亡き親族とのほのかな思い出を蘇らせる。それはある意味では、フォーク音楽における神聖さの肩代わりのような概念となる。アウトロでは、アンビエントふうのシークエンスが極限まで引き伸ばされ、「Electric Lake」の導入部となり、タイムラグをもうけず、そのまま、次曲に繋がっている。
制作者が、本作を''病理的なアルバム''と称する理由は、間違いなく、音の情報量の多さと過剰さに起因すると思われる。「Electric Lake」は、音楽がまるで洪水のように溢れ出し、カットアップコラージュのように敷き詰められたミュージック・コンクレートの技法が満載となっている。これはシュトックハウゼンのエレクトロニックの原点である「群の音楽」の現代的な解釈である。それはもちろん、音符の過剰さはたいてい、ノイズと隣接していることを思い出させる。
同時に、ジェイク・デイヴィスのプロデュースによるヒップホップのサンプリングの技法と組み合わされ、まったく前代未聞の前衛音楽がここに誕生した、といえるのである。しかし、その電子音楽による壮大なシンフォニーが終わると、弦楽器のトレモロだけが最後に謎めいて残る。この音楽には宇宙のカオスのようなものが凝縮されている。聞き手はその壮大さに目が眩む。
終盤でも、ウィリアム・タイラーの前衛主義が満載である。ニール・ヤングとギャヴィン・ブライヤーズの音楽を組み合わせたら、どうなるのか……。たぶんそんなことを考えるのは、この世には、彼を差し置いては他に誰もいないであろう。「The Hardest Land To Harvest」は、現代アメリカに対する概念的な表れという点では、バシンスキーの2000年代の作風を思い出させる。また、給水塔のような工業的なアンビエンスを感じさせるという点では、「第二次産業革命の遺構」としての実験音楽を制作した現代音楽家/コントラバス奏者のギャヴィン・ブライヤーズのライフワークである「The Sinking Of Titanic(タイタニック号の沈没)」を彷彿とさせる。
しかし、この曲は、サイケデリックなテイストこそあるが、その背景には、抽象音楽としての賛美歌が流れている。これらが、構成が存在せず、音階も希薄な音楽という形で展開されるという意味では、タイラーがブライアン・イーノの最盛期の音楽に肉薄したとも称せるかもしれない。
前衛主義の音楽にはどんな意味があるのか。それは、アートの領域でも繰り返される普遍的な問い。アートでは、取引される金銭的な価値により、評価が定まるが、音楽の場合はせいぜい、プレミア価格がつくかどうかくらいしか付加価値というのがもたらされない。もしくは支持者やファンがつくかどうかなど。しかし、新しい藝術表現はたいてい不気味な一角から出てくる。
このアルバムは、Stars of The Lidに対する敬愛や賞賛を意味するような印象的な楽曲「Held」で終わる。
『Time Indefinite』はまだ傑作かどうかは言い切れない。なぜなら価値というのはどうしても単一的な視点でしかもたらされない。単一的な価値を見るより、どのように音を楽しむかのほうが有意義であろう。そもそも音楽は良し悪しという二元論だけで語り尽くせるものではないのだ。
しかし、聞けども、聞けども、先が見えない、''音楽による無限の迷宮''のような作品である。聴く人によっては、ほとんど価値を見いだせないかもしれないし、その反面、大きな価値を見つける人もいるだろう。音楽の領域を未来に受け継ぐ内容であり、未知なる音楽の可能性を探求しているという点では、これまでとは違う価値観を見出すヒントを授けてくれるかもしれない。
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