ブラックミディ 最新アルバム『Hellfire』において繰り広げられる新たな体験


現代のアバンギャルドロックを象徴するロンドンのトリオ、ブラック・ミディは、2018年にはすでに完全に音楽的に洗練されていた。彼らはサウスロンドンのパブやダイブ、スウェットボックスのステージに、カウボーイハットの影に顔を隠したティーンエイジャーとしてロンドンのシーンに台頭しようとしていた。「ロンドンで最高のバンド」とポスト・パンク界の重鎮、シェイムは宣言し、不穏なほど素晴らしく強大なグループを見るためにライブに足を運ぶよう人々に要求したのだった。


さて、ブラック・ミディが英国のリアルなシーンに登場した瞬間、オンラインには1曲も存在しなかった。バンドの出自に関する情報もほとんどない中、ブラックミディの伝説は口コミと希少性から広まっていった。どんなビデオも、どんなパフォーマンスも、それがどんなに不合理な時間や場所であったとしても、貪欲にそのバックボーンを求めて音楽は解体されていった。イギリスの大手音楽メディアNMEの2018年の見出しには、ーブラック・ミディの正体:誰も知らない「ロンドン最高のバンド」ーとセンセーショナルな言葉が銘打たれていた。しかし、NMEの見立ては当たっていた。この後にブリット・アワードにノミネートされ、「bm bm bm」の狂気的なライブステージを行い、観客を熱狂の渦に取り込むまでの道筋がここに見えていたのだった。


どんなバンドでも、これだけの存外な注目を浴びれば、過分のプレッシャーにさらされることは必然。しかし、black midiにとって幸運だったのは、その負担を肩代わりする天賦の才に恵まれていた。2019年に公開されたアメリカの放送局『KEXP』での演奏は、なぜ彼らがファンの憧れの的であったのかがよく理解できるものであった。クラウト・ロックの後継者として台頭したブラック・ミディの音楽は一種の現代詩であり、技術的、文章的な不調和のめくるめく大混乱である。

 

これは誇張ではない。アメリカの音楽メディア、Pitchforkは、black midiのマーキュリー賞にノミネートされたデビュー作『Schlagenheim』のレビューで次のように評した。「見ていてすぐにわかることが2つある:black midiの全員がおよそ8歳のように見え、彼らのドラマーは絶対的な伝説である。このグループのあらゆる要素がそうであるように、並べると意味が不可解である」

 

ボーカル・ギタリストのグリープは、いつも英国紳士を思わせるファッションに身を包んでいる。いつもきちんとしたシャツとズボンを身につけ、一昔前の前衛作家や哲学者のように、不思議な貴族的な雰囲気を漂わせている。しかし、最も最初にこのバンドを聞いた際に印象に残るのは、どこにでもいるような、あるいは、どこにもいないような、そして、曲ごとにキャラクターが七変化する英国訛りのある彼の特徴的なボーカルである。マイクの前では、スプーンからこぼれ落ちる糖蜜のように音節が流れ、言葉を不気味な形に変形させたり、ありえないフレーズを作ったり、それはシアトリカルで、演劇のような壮大さをもって言葉を投げかける。


バンドのベーシストであり、時にはボーカリストでもあるピクトンは、ベーシストにありがちな控えめな性格で、静かに自分の意見を述べ、考えを終える前に途切れさせる傾向がある。しかし、彼の楽器を介してのフレージング、実際の演奏は、精密機械のように精確に行われ、その能力を極限まで引き出し、そして常に最前線を行くものである。アーチェリー、ドラム演奏、戦闘機など、あらゆるゲームで、彼がリーダーボードのトップに立つのは、驚くべきことかもしれない。


そして、多くのファンを魅了した脅威のドラマー、シンプソンは、楽しむためには妥協を許さない楽観主義者で、おおらかに演奏を楽しんでいる。彼の演奏を見ていると、その表情は幸福感に包まれ、自分のパートを完璧にし、そして神業のような速さでこなす。彼らは音楽的なアーミーナイフのような鋭さで、曲そのものを分解し、聴いている人たちを完全に圧倒してしまうのだ。


しかし、black midiのようなバンドを、彼らのサウンドを育む土壌となったライブ環境でのパフォーマンスから取り除くと、何が残るのだろう??

 

最新アルバム「Hell Fire」が制作されたロックダウンの2年間は、「バンドにとって最高の2年間だった」とジョーディー・グリープは語っている。シュラーゲンハイム後の熱狂的な勢いと絶え間ない世界的なツアーによって、めったに許されない贅沢な時間になってしまう恐れがあったのだ。


2枚目のレコード『Cavalcade』の制作がひとくぎりついたのは、2020年3月に先立つ数ヶ月のことだった。この時点で、バンドは新しい方向性、新しいダイナミズムを培っていた。そのため、CavalcadeとHellfireは、血のつながった兄弟であり、新鮮でオペラティックなセンスを持った同じ光景のための第二幕となる。「Cavalcadeをリリースした後、無期限の休みを取ったことで、私たちは基本的に、音楽とカットを考え出す方法の全体のダイナミズムをシフトしました」とグリープは説明する。「それはまた、僕らを前へ前へと押し出していき、底知れない穴の中へと入っていくようなものだった」


彼らは曲に専心して取り組み、その後、散発的なリハーサル・セッションで一緒に、そのアイデアを形にして曲としての練度を高めていった。「ファースト・アルバムでは、セクションを無限に追加していける感じがしたという。「一人でやっていると、曲に対してもっと野心的になれる」とグリープは付け加えている。「ちゃんとした、とても複雑なコード進行やシークエンスができるし、もっと時間をかけて物事を解決することが出来る。それぞれのコードチェンジがどこで終わるかを議論したり、迷子になったり、全体的なまとまりがなくなったりすると、全体が変わってしまう。また、より、決定的なことができる。そうだ、この曲だと簡単に言える。一方、全員が一緒に作業しているときは、お互いを持ち上げようとする傾向がよくあるんだ」。


彼のやり方はまた、効率的な方法であることが証明された。シュラーゲンハイムに命を吹き込んだとき、彼らは曲のすべてのセクションやリフについて他の意見を伺うという退屈な作業をしなければならず、最終的に曲を決定するためには、数ヶ月とは言わないまでも、数週間はかかった。

 

「Schlagenheimを完成させた後、2曲作るのに1年かかったのに対して、このアルバムでは15曲作るのに6ヶ月で十分だった」とピクトンは言う。そして、結果、『Hellfire』は野心と経験の個人的な欠片から作られた記念碑となった。「もしパンデミックが起こらなかったら、世界的な悲劇であることは明らかだけど、最近の2枚のアルバムは作られなかっただろう。だから、正直なところ、本当に利己的でクリエイティブな観点からは、とても素晴らしいことだったんだ」と話す。


しかし、何よりも、パンデミックは、ミュージシャンとしての互いの信頼関係を強化するのに役立った。「そもそも僕らがバンドである理由なんだ」とグリープは言う。「お互いのやること、考えることを貴重なこととして受け止めている。だから、もし、誰かが自分の書いた曲を持って来て、それに強いこだわりを感じたら、実際に一緒に行って、見栄えがするところまでディレクションさせる」と言う。彼らの好みはブラックミディの中にも散在しており、音楽に対する評価は、非常にアカデミックで、北アフリカのフラメンコ・フュージョンと並んでイゴール・ストラヴィンスキーの『春の祭典」のように聞こえても大きな間違いとも言いがたいのである。


Black Midiのストーリーテリング、世界観の確立の才能は、『Hellfire』でこれまで以上に前面に押し出されており、様々な意味で、この分野の最近のレコードの中で最もプログレッシヴ・ロックであり、演劇に近いものとなっている。このアルバムでは、ドラマチックなモノローグが盛り込まれており、それぞれの曲は、どんどん広がっていくアンソロジーの中の短編小説のようなものである。

 

この作品、Hellfireは、音楽的な功績をもたらしたのと同時に、文学的な業績をもたらしている。短編小説のように歌詞を書くことは、常に意図していたことだとジョーディ・グリープは話している。「一文を無駄にすることができないので、本当に立派なジャンルだと思います。たった10ページで、信じられる具体的な世界を構築できるなんて、本当にすごいことだと思います」


彼は以前にも文学への愛について幅広く語っており、ウラジミール・ナボコフの『ペール・ファイアー』やジョン・チーバー、リチャード・イェーツの作品を挙げ、作詞家としての彼独自の声を形成してきたと述べている。「特にイェーツは、一般的にはかなり鬱陶しいと思われている作家の一人なんだ」


笑っていいのか、呆れていいのかわからない、というシュールできわどい感覚は、black midiの歌詞の中心に置かれているものである。ジョーディー・グリープは、売春宿を描いた "The Defence "の歌詞について、「ユーモアとよく練られた詩が、かろうじて隠されている堕落から目を逸らしていると指摘する。「キャメロンの曲は、もう少しストレートなんだ」と彼は言う。


彼らのディスコグラフィーの各レコードと同様、ピクトンは、ボーカリストおよびリリシストとして光を放つトラックを1、2曲持ち込んでおり、それらはしばしばバンドの最高の瞬間の一部となっている。「そう、'Still'は基本的に別れの曲だから、ちょっとした引き立て役にはなる。それから『Eat Men Eat』は、殺された男たちがワインになる話だけど、真ん中にラブストーリーがあって、それがすべてを上手くまとめている。別れは大量殺人ほど深刻ではないけれど、どちらも光と闇がある」。シンプソンはさらに「戦いの最中にはそうかもしれない」とジョークを飛ばす。


最新アルバム『ヘルファイア』の登場人物の大半が、よく言えばアンチヒーロー、悪く言えば完全な悪役という、道徳的に欠陥のある人物なのはなぜなのか。それは、「ユーモアとペーソスというか、そういうものを出すのにいい機会だから。最高のキャラクター、本当に好きなキャラクターの多くは、本当に見てみると、かなりひどい人間で、かなり欠点があるんだ」というのだ。

 

そして、グリープは、これらの奇想天外な作風について、実生活を暗示するものだとも述べている。「基本的に、僕がやっているすべての曲は、実際の考えや状況、感情から始まり、それがひどく誇張されているんだ。その多くは、僕が考えたり経験したことなんだけど、より面白くするために極限まで誇張している」

 

さらに、この不可解にも思えるグリープという人物を最も歪みなく映し出していると思われる楽曲が「27 Questions」である。「27 Questions は彼の視点から見て、アルバムの中で最もパーソナルなトラックなのかと言う点については、「そうかもしれない、そうかもしれない」と肯定もせず、否定もしない、この思わせぶりなところがグリープという人物の魅力一側面なのである。


こういったバンドのファンによく見受けられることは、新作アルバムはファンの間でも様々な解釈が行われており、また、様々な分析が行われている。black midiのファン層はほとんどカルト的な熱狂ぶりを見せており、彼らがオンラインで投げてくるヒントを分析するのが何よりの楽しみなのだそう。彼らの3枚のアルバムにまたがる、この交差する物語の広い世界をじっくりと堪能することは、人生を退屈させないための一つの方法だとピクトンは教えてくれた。ジョーディー・グリープは、「これは小さなカンニングペーパーであり、また将来の曲のための担保のようなものを提供します」と説明する。「すでに書いた曲と漠然とした関連性を持たせることで、より深みのある曲に見える。そうすることで、実際よりもずっと大きなものに見えるんだ」と。

 

 


 

 

 『Hellfire』を書いたとき、彼らはオーディエンスを意識していなかったのだろうか。もし、不幸なヘンゼルとグレーテルにパンくずの跡を残すような手法で書かれたのであるとするなら・・・。「そうでもない。これは自分たちのために書いただけだ」とグリープは述べている。「でも、少なくとも、常に曲を書くときには3人の観客がいるわけだし、半々かもしれないね。世間では、ブラックミディの方が自分たちよりも真剣に受け止められている」「うん、ある種の人たちは、僕たちの音楽を理解するのにすごく苦労しているかもしれない」とシンプソンは言う。「レコーディングでは楽器に打ち込みながら、一方でステージでは笑顔で飛び跳ねたり、おどけたりするバンドはそうそういない。それが理解されない理由のひとつと思う。でも、そんなことはどうでもいい。結局、自分たちがやっていることをただ楽しめればいいんだよ」


ジョーディー・グリープは、さらに付け加える。「僕たちは、音楽を真剣にやっているけど、自分たちのことは真剣にやっちゃいない。どの曲も、歌詞の中では適当なことをやっているように見えるかもしれないけど、決して適当なことをやっているわけじゃないんだよ。僕らの音楽は常に考え抜かれている。そのことが評価されるのか、それとも不利になるのかはわからないことだけど」


耳の肥えた国内外の批評家から、一貫して熱狂的な喝采を受けてきたバンドとして、彼らが20代になったばかりの3人の若者であると考えると、アルバムをリリースする毎に、クリアすべき期待のハードルは不当に高くなっているのではないだろうか、とも思われるが、「私は、自分たちが作っているもの以外のことは気にすべきではないと思う」とシンプソンは述べている。「誰かが自分の曲について言ったことを気にして、眠れない夜を何日も過ごす必要はないでしょう? プロのアーティストになるということは、自分が作ったものに対して人々が意見を持つことにみずからサインすることなのだから。そのことに大きなストレスを感じたり、心配したりする必要はないんだ」


グリープは「そういうのは避けられないから仕方がない」とシンプソンの考えを肯定している。「誰にでもここをこうしておけばとかいう自責の念というか、そういうものはたしかにあるんだけど、だいたい頭の中の声が "誰が気にするんだ、そんなこと!! お前、しっかりしろよ!! って言ってくれるんだ」ドラマーのシンプソンは、グリープの言い回しに怪訝そうにする。「ええ、頭の声だって...?」その時、グリープは一瞬、友人たちに向けるような本来の威厳を取り戻す。「ああ、その声は、時に必要なんだ」とまるでバーで酒を飲み干すマフィアのように、多くの人格のひとつになりきろうとする。「一般的には、その肯定的な声が是非とも必要なんだ」と。


ブラックミディがミュージックシーンに登場した2019年、多くの誤解があったように思える。でもこれは、常に空白を残すことに満足しているバンドの必然的な結果である。まず、第一に、このバンドが評判を高めるための方法には、何の計画性もなかったということ。彼らは、イメージやソーシャルメディアのフォロワーを獲得するための典型的なルールに絶対に従わなかった。それは、彼らにとってバンドとして成長していく過程で自然なことではなかったという単純な理由による。トリオの強みは、楽器の性能を最大限に引き出すこと、一緒に楽しく演奏することにつきた。ブリクストンのザ・ウィンドミルなどでの50人規模のライブを経て、彼らはパンデミック中に名声を得た多くのアーティストが欠いていたパフォーマーとしての足腰を鍛え、強い基盤を着々と築き上げていく。ファンの裾野をイギリス国内にだけでなく海外にも広げていったのだ。


また、ブラックミディの作品に利己心が感じられないのは、現在の音楽のあり方に対する抵抗である。ピクトンは振り返る。「ツアー中、多くの人が僕らのところにやってきて、『とても奇妙だな、君たちは40歳の男だとばかり思っていたよ』って言われるんだ」しかし、肝心なのは、メンバー個人はバンドの目的とは関係がないということ。だから、TikTokでメンバーの個性を表現するのは時間の無駄、しかも、ソーシャルメディアで自己アピールを続けることが第一義になること、それは彼らのファンやオーディエンスがブラックミディに真に求めているものではないと彼らは痛感している。自分たちの使命に忠実な彼らは一度もバンドであることに妥協を強いられたことがない。


 さらに、このバンドを語る上で欠かせないのが、南ロンドンにある有名だがあまり知られていないパフォーミングアートスクール「BRITスクール」の存在だ。既に世界的なミュージシャン、アデル、エイミー・ワインハウス、FKAツイッグスなどの卒業生を輩出し、その評判は、この学校に通えば素晴らしいキャリアが手に入るという、特権的な学校であるかのような錯覚に陥らせる。多くの人は、ブラックミディのBRITスクールとの関わりを、彼らの信用を損なうものとして看過し、中には卒業生が業界内の観葉植物であるとまで指摘する人もいる。「20歳未満で音楽業界で何らかの成功を収めている人は、それがどんなに真っ当で合法的なものであっても、レーベルの後押しがあったとしても、みんなとても疑ってかかるんだ」とピクトンは述べている。

 

グリープは、「まず、第一に、ここは私立の学校ではなく、無料なんです」と強調する。多くの人は、そこに行けばメジャーレーベルと契約できると思っていて、コースを修了すると、ここに血でサインしろ、これがお前のレコード契約だ、なんて笑っちゃうような冗談を言われるんだけど、そこにいる人のほとんどは、結局、音楽とは何の関係もないんです」。バンドは、この学校が自分たちの音楽へのアプローチ、キャリアの軌跡に、直接的な責任があったとまでは言いたがらないが、それでも彼らが心から愛した環境であり、この学校なしにはブラックミディも存在しなかったことは疑いを入れる余地はない。「この機関が多くの人に恩恵を与えているし、他の国でももっと利用されてもいいはずなのに、まるで邪道であるかのように言われるのはとても不思議ですね」とピクトン。「でも、それが何であるかということは、あんまり理解されていない。英国政府は、クリエーターに資金を提供しようとせず、STEMに注力しているんです。だから、BRITのような学校は一般的に悪いものと思われているのかもしれませんね」と。


このバンドに定着しつつあるブラックミディは本質が捉えにくいバンドなのかという問題については、フロントマンのグリープはこの考えを否定する。「そんなの関係ない。僕らが音楽を作っている唯一の理由は、それが僕らが本当に”聴きたい音楽”だからだ。それは自己中心的であったり、少し近視眼的であると思われるかもしれません。けど、ともかく、結局の、それは誰もが持っている同じ態度でしょう?」 シンプソンは次のように述べている。「一般的に言って、ブラックミディの音楽を最初の数回聴いた後、慣れてくるとすべてが手に取るようにわかるようになると思います。試行錯誤を続けたくなければそれで終わりでいいんだけど、僕らが信じているのは、素晴らしい音楽の中には、最初は把握しきれないものも常に存在するということ。でも、セッションの試行錯誤の過程で本当に好きなものを見つけることができる、それは作り手として報われる感覚なんです」と。「目は閉じても、耳は閉じられない、というのは本当なんだ」


ブラック・ミディの新作の題名は、『地獄の業火』と銘打たれている。それは私達が信じている迷妄のようものを、目に見えるような形で現したものなのか。地獄を信じるのか? それとも信じないのか?? でも、そのことはこの作品を語る上で重要とはいいがたい。フロントマンのジョーディ・グリープはこの作品のテーマに、人生の中で、何かを体験を通して発見するということに重点をおいているからだ。聞き手は、きっと、幾つかの曲を通じて、このトリオの超絶的な演奏で地獄という奇妙な世界を体験するだろう。「僕たちは、まず自分の人生を生きた上で、それから、そのことは発見されると思う」とグリープはこの作品を結論づけている。「ただ、これを面白い装置か何かと思うだろう?? いや、それよりも、僕たちみんなにいつか起こる絶望、寂寥感という重要なテーマについて書いている。つまり、ここで言いたいのは、僕たちはみんな、ある種の地獄の炎を一度くらいは感じたことがあるってわけなんだ」




Black Midi「Hellfire」 

 

 

 



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