Weekly Music Feature -- Leyla McCalla 『Sun Without the Heat』

 Weekly Music Feature -- Leyla McCalla

 

©ANTI-


ハイチからの移民と活動家の間にニューヨークで生まれたレイラ・マッカラ(Leyla Mccalla)は、過去と現在からインスピレーションを得ている。


マッカラは、チェロ、テナー・バンジョー、ギターを見事に操り、多言語を操るシンガー・ソングライターとして、彼女のルーツと経験が融合した独特のサウンドを生み出す。ソロ活動に加え、マッカラは''Our Native Daughters''(リアノン・ギデンズ、エイミシスト・キア、アリソン・ラッセルと共に)の創設メンバーであり、グラミー賞を受賞した黒人ストリングス・バンド、キャロライナ・チョコレート・ドロップスの卒業生でもある。


マッカラの5枚目のスタジオ録音となるニュー・アルバム『サン・ウィズアウト・ザ・ヒート』(ANTIから4月12日発売)は、変容の痛みと緊張を抱えながらも、遊び心に溢れ、喜びに満ちている。『Sun Without the Heat』の10曲を通して、マッカラは、アフロビート、エチオピアの様式、ブラジルのトロピカリズム、アメリカのフォークやブルースなど、さまざまな形態のアフロ・ディアスポラ音楽に由来するメロディーとリズムで、重さと軽さのバランスを実現している。


 彼女の2022年のアルバム『Breaking the Thermometer』(ANTI-)は、デューク・パフォーマンスズの依頼による音楽、ダンス、演劇の複合的な作品のアルバム・コンパニオンである。命がけでハイチのクレヨル語のニュースを報道したラジオ・ハイチの勇敢なジャーナリストの物語を通して、『Breaking the Thermometer』は、自己と社会の解放を促進する自由で独立した報道の重要性を明らかにしている。


『Breaking the Thermometer』は、『The Guardian』、『Variety』、『Mojo』、『NPR Music』によって今年のベスト・アルバムのひとつに選ばれ、彼女の曲「Dodinin」は、バラク・オバマのお気に入りリストに入った。マッカラは、フォーク・アライアンス・インターナショナルから2022年度の''ピープルズ・ヴォイス・アワード''を受賞した。この賞は、創作活動に臆することなく社会変革を取り入れたアーティストに贈られる賞である。


次のプロジェクトを構想する中で、マッカラは音楽的な味覚を広げ、長年創作に影響を及ぼしてきたものを見直した。「私は音楽が緊急性を帯びているのが好きなの。でも、新しいアルバムは遊び心があって楽しいものにしたかった」


『サン・ウィズアウト・ザ・ヒート』でマッカラは、オクタヴィア・バトラー、アレクシス・ポーリン・ガンブス、アドリアン・マリー・ブラウンら黒人フェミニスト・アフロフューチャリストの著作から歌詞の霊感を得ている。これらの著者のように、マッカラはソングライティングを、信仰と希望を高め、コミュニティーの思考を促し、個人の変容を触媒する方法として見ている。「ソングライティングは、語るべき物語を語るための方法です。時には痛みを伴う話もある」


 このアルバムのタイトル曲は、奴隷解放宣言の6年前、1857年にフレデリック・ダグラスが奴隷制度廃止論者の白人群衆を前に行った演説を引用している。


彼の生々しい言葉がこの曲に響いている。「耕さずに作物が欲しいのか/雷を鳴らさずに雨が欲しいのか/轟音を鳴らさずに海が欲しいのか」 


ダグラスの主張は、マッカラがこの曲の中心的なメッセージに織り込んでいるように、変革的な行動にコミットすることなしには、解放と平等はあり得ないということだ。


「私たちは皆、太陽の暖かさを求めているが、誰もがその熱さを感じたいわけではない。両方が必要なの」

 

このスピーチと、スーザン・ラフォの著書『Liberated to the Bone』(2022年)に心を動かされたマッカラは、歌詞を付け加えてこの考えを全面的に主張する。"暑さなくして、太陽はない"。この歌は、社会変革のための継続的な取り組みと、私たちが今も背負っている闘いを思い起こさせる役割を果たす。"この傷はとても古い "とマッカラは私たちに思い起こさせる。


『サン・ウィズアウト・ザ・ヒート』は、ニューオーリンズのドックサイド・スタディーズで9日間の集中セッションでレコーディングされた。マリアム・クダスのプロデュースで、マッカラは長年のバンド・メンバーでありコラボレーターでもあるショーン・マイヤーズ(パーカッションとドラム)、ピート・オリンチウ(エレクトリック・ベースとピアノ)、ナウム・ズディベル(ギター)が参加した。クダスはシンセサイザー、オルガン、バッキング・ヴォーカルで参加している。


「いつもはスタジオに入ると、曲と骨組みがすでに出来上がっている」とマッカラは言う。「でもこのアルバムでは、リアルタイムで骨組みを作った。威圧的なプロセスだったけど、一緒に仕事をするミュージシャンたちに自分がどれだけ支えられているかを実感することができた」



その結果、個人的なものと普遍的なもの、悲しみと喜びを同時に抱えた超越的な曲のコレクションが生まれた。このアルバムを通して、マッカラは変容の要素と、闇から光へと向かうために必要な熱を探求している。


『Sun Without the Heat』はANTI- Recordsからリリースされる。マッカラは現在、リッチモンド大学のアーティスト・イン・レジデンスでもある。このアルバムに寄せられた賛辞は以下の通り。



「一度レイラにのめり込んだら、もう手離すことは難しい」-Iggy Pop、BBC Radio 6 Music


「高揚感と力強さ.このアルバムはまさしく彼女の音楽的遺産を祝福するものである」- UNCUT


「このアルバムの他、この夏、フェスティバルの観客の上を転がり落ちるような良い音はほとんどないだろう」 - The Guardian


「レイラ・マッカラは、恐怖なくして希望は持てないことを知っており、変身という行為自体がトラウマになりうることを決して度外視しない。この強烈なエッジ、そして彼女の信仰によるメッセージの背後にある利害関係の認識は、これらの曲を空虚なセンチメンタリズムのリスクを超えて押し上げ、「Sun Without the Heat」を真に高揚させる」- MOJO


「レイラ・マッカラのような方法で、音楽の名手が自分の声の予期せぬ可能性を探求するのを聞くのは、爽快なことだ...。ポストコロニアル、汎アフリカの経験の複雑なテクスチャーを彼女の憧れの詩的言語でなぞる」- NPR



Leyla McCalla『Sun Without the Heat』- ANTI-



 

カリブ海にあるハイチは、およそポスト・コロニアルの時代のおいて、植民地化、及び、占領という二つの悲劇的な運命にさらされてきた。クリストファー・コロンブスが15世紀にヨーロッパ人として最初にこの諸島を発見すると、以降の四半世紀はスペインによる侵略、以後はフランスの占領下に置かれた。ナポレオンの時代、アフリカの諸国を始め、カリブ海の群島まで皇帝の名は轟く。植民地という考えについては、二つの側面から解釈できる。つまり、先住民族の圧政による支配と土地の文化の掠奪である。何も、金銀財宝にとどまらない。侵略国家はいつもその国の文化を消去し、その国の風土を全く別の色で染め上げる。地球上のあらゆる国という国、そして島という島、土地と地域が近代化文明の中で、およそその国の資本主義化や現代化という名目上、別の国家への転身を義務付けられてきた。「Invadeー侵略」という行為の本質は事物的な掠奪にあるのではない。究極の目的は国家の文化性を破壊することなのだ。これは現代の社会通念であるグローバリズムやグローバリゼーションの考えに置換することもできる。

 

ハイチの音楽は、日本のFMラジオ局の”J-WAVE”の特集動画で紹介されている通り、明らかにスペインのフラメンコやサルサに近い。もしくはアルゼンチンのタンゴ、もしくはブラジルのサンバにも比する陽気な気風に彩られている。南米の気風がハイチの音楽には反映されているが、一方で、カリブ諸島、それよりも西に位置するハワイやグアムのような土地のトロピカルな音楽の浸透もある。いついかなる時代において、これらの複数の地域の音楽が混交し、別の土地に伝わったのかまでは明言しかねるが、中世ヨーロッパの繁栄の時代、それはもちろんエカテリーナの時代のロシヤ帝国の繁栄の時代とも重なりながら、カリブ海の地域に位置する幾つかの諸島では、国家間での文化の交換、やりとり、交易がなんらかの形で行われていたものと推測される。つまり、これらの文化性の混交がハイチの音楽の魅力ともなっているのである。

 

レイラ・マッカラの音楽が素晴らしいのは、歴史という側面を悲観視するのではなく、肯定的に捉えていることだろう。前時代の侵略や植民地支配の歴史を否定せず、それを肯定的に捉えた上で、どのような独自の音楽文化を次世代に伝えていくのかという点に表現性の核心が据えられている。これはまた、植民地国家としての自立性や自主性、アフリカの諸国と同じように「本質的な意味の独立」というテーマを交えながら、マッカラはそれを音楽という形を通じて勝利を手元にたぐりよせようと試みるのである。もちろん、ためしに、世界地図を目の前に広げてみてもらいたい。ハイチという土地の地政学を見ると、南アメリカとも繋がっている。マッカラの音楽は、アフリカ、アメリカ、カリブ、ヨーロッパというように、無数の地域の音楽がR&Bやジャズ、ワールドミュージック、そしてロックという複数の文脈を元に展開されていくのである。 言うなれば、音楽における数世紀の歴史がこのアルバムに凝縮されているのである。

 

 

アルバムの音楽の世界に踏み入ると、そこには驚嘆すべきユートピアが広がっている。オープニングを飾る「Open The Road」にはマッカラの開放的な音の響きを容易に見いだすことが出来る。この曲では、ハワイアンやアロハの音楽性を踏まえて、古典的なジャズやサルサを始めとするワールド・ミュージックのリズムとスケールを駆使して展開される。複雑な変拍子を背景に演奏されるマッカラのテクニカルなエレクトリック・ギターは、シカゴ/ルイヴィル/ピッツバーグのポスト・ロックのような形で体現される場合もある。しかしながら、音楽そのものが神経質になったり、強張ったりすることはほとんどない。レイラ・マッカラの20世紀はじめのR&Bシンガーのようなナチュラルなボーカルは、メロウな空気感を生み出し、リゾート地のコテージの向こうに広がるエメラルドの海、その果てに境界線を形作る雲ひとつない青空のような爽快さがある。マッカラは、ジャズに加え、Dick Daleのようなサーフミュージックの影響を絡めながら、トロピカルな気風を反映したギターリフにより、この曲を面白いようにリードしていく。

 

 続く「Scaled To Survive」でも”ロハス”な気風が続く。ハワイアン・ミュージックを反映させ、鳥の声をシンセのシークエンスで表現し、それをヒップホップのビートのように見立て、Buddy Hollyの「Everyday」のような古典的なロックンロールの影響を交えながら、蠱惑的なポピュラーソングを展開させる。レイラ・マッカラのボーカルは背景のサウンドプロダクションと絶妙に合致し、それは南国的な雰囲気にとどまらず、いわくいいがたい天国的な空気感を作り出す場合もある。ギターの演奏はミュージック・コンクレートのように配置される。その間にボーカルが入ると、トリニダード・ドバゴのカリプソ(レゲエのルーツ)のようなトロピカルな印象を形作る。 

 

 

三曲目「Take Me Away」は、端的に言えば、世界のカーニバルの音楽である。聞き方によっては、リオのサンバのようでもあり、スペインのサルサのようでもあり、また、フラメンコのような陽気さもある。また、アフロ・ビートからの影響を指摘するリスナーもいるかもしれない。しかし、この曲はどちらかと言えば、日本の「囃子」のような音楽性がギターロックの形で表現されていてとてもおもしろい。これらの囃子という民族音楽は、日本の地方のお祭りに見出され、大阪の岸和田のだんじりであったり、他にも東北のお祭り等で、神輿を担ぎながら、民衆が掛け声を掛けながら、やんややんやと騒ぎ立てながら町中を陽気に練り歩くのだ。リズムに関しては、ハイチの民族音楽の影響がありそうだが、実際にアウトプットされるサウンドは驚くほど自由で開放的である。このトラックに満ち溢れる崇高性や完璧性とは対極にある別の意味の音楽の楽しみは、タイトルにあるようにリスナーを別の場所に誘う力とイメージの換気力を兼ね備えている。しかし、音楽的にはカーニバルのような陽気さがあるが、マッカラのボーカルはR&Bのようにしっとりとしており、そして落ち着いた雰囲気に縁取られている。

 

マッカラのギターの演奏に関しては、どうやらジャズのスケールの反映がありそうだ。「So I'll Go」は、シカゴのジャズ協会の名誉会員であるジェフ・パーカーのようなロックとジャズの中間にある淡い感覚の音楽を体現している。これらは、TortoiseやRodanのようなポスト・ロック性にとどまらず、アーティストのアヴァンギャルド・ロックへの親和性も見出せる。この曲はおそらく、これまでにありそうでなかったタイプのロックソングで、ハイチ・トロピカルやハワイアン・ミュージックのようなリゾート地の音楽性が巧みに織り交ぜられている。それらが最終的に、ミニマルロックの要素と綿密に絡み合い、ワイアードな音楽性を作り出すのだ。ロック的な文脈に位置しながら、マッカラのボーカルスタイルには、Ernestine AndersonのようなジャズとR&Bの中間にあるブルージーな味わいがある。これらは、熟成に熟成を重ねたケンタッキーのバーボンのような苦味と渋さをもって、わたしたちの音楽的な味覚を捉えてやまない。


続く「Tree」は二部構成のアルバムの序章のような感じで始まる。古典的なR&Bに依拠したバラードだが、マッカラはそれを普遍的な歌声で奏でる。アコースティックギターでの弾き語りは、ブルージャズに近いニュアンスで展開されるが、その中には往年のR&Bシンガーのような開放的な感覚と奥行きのある歌声が披露される。イントロのモチーフが終わった後、サルサやタンゴ、フラメンコを彷彿とさせる南米的な気風を携えたポピュラーソングが続く。また、曲の進行ごとに、面白いように表情が変わり、稀にキューバの”Buena Vista Social Club”に象徴づけられるジャズのビックバンドの音楽に近づく瞬間もある。少なくとも、南米的な哀愁が感情的に織り交ぜられ、それが巧みなギターの演奏やボーカルのニュアンスの変化により、聴き応えのあるナンバーに昇華される。ここにも、JFKの時代、南米とアメリカの国家的な関係性に歪みが生じさせることになった政治的な事変が、ナラティヴなテーマとして機能している。それらは古き日へのララバイなのであり、それらの政治的な運命に翻弄された民衆への哀悼を意味する。

 

続くタイトル曲にも、それらの政治的なテーマが内在している。プレスリリースで銘記されている通りで、「耕さずに作物が欲しいのか/雷を鳴らさずに雨が欲しいのか/轟音を鳴らさずに海が欲しいのか」という勇敢なメッセージが織り交ぜられている。しかし、マッカラの本質的な音楽性は、平和や友愛という側面にあり、それらをハワイアン・ミュージックやフォーク・ソングを基調とするスタンダードな響きを持つポピュラーナンバーとして展開される。これらの歌詞を通し、サブテクスト(行間)のリリックが聞こえてきそうだ。混迷をきわめる世界情勢の中で何を重んじるべきか?   それは”もう一度、敵対した人々が手を取り合い、踊ることが出来る”ということなのだ。それは普遍的なメッセージなのであり、パブロ・ピカソが絵画の中に込めたメッセージとまったく同じ内容である。その後、アルバムの音楽は現世的な雰囲気を離れ、やや神秘的な音楽性へと舵を取る。「Tower」のイントロでは、中近東のガムランやインドネシアの音楽のような民族性に少しの親しみを示した後、そのモチーフをベースにしてハイチのアグレッシヴな響きのある民族音楽を展開させる。どこまでもそのリズムは高らかであり、そしてマッカラのボーカルも誇らしげだ。自国の文化を誇るのにどのような遠慮がいるのか。 

 

 「Sun Without the Heat」

 

 

こういった点を踏まえると、驚くほど曲のタイトルと制作者の考えがスムーズに合致していることに気づく。マッカラが伝えたいのは普遍的な愛であり、以外の何物でもない。それは性愛を越えた万物に注がれるべき本質的な光を意味する。これがゆえに、レフ・トルストイは、かつて「光あるうちに光の中を歩め」と言った。「Love We Had」は、ANTI-らしいシンプルなロックンロールナンバーで、世の中に愛を忘れた人々がたくさんいることの証明代わりである。しかし、それでも思い出してみてほしい。愛が存在せずにして何者も存在しえない。そして昨年、マッキンリー・ディクソンが語ったように、どのような人も、愛されているということなのである。それがワールド・ミュージックやサーフミュージックのような楽しげな響きで繰り広げられるとあらば、このトラックに耳を澄まさずにはいられないというのも道理なのである。

 

レイラ・マッカラは、みずからのハイチ出身という出自を踏まえ、歴史的なテーマや真摯なメッセージ性を内在させながらも、どこまでも純粋で親しみやすい音楽を作り出す。そして優れたミュージシャンというのは、自分から与えるということを厭わないものである。ぜひ、目をゆっくりとつぶり、「Giive A Break」に耳を澄ませ、思い出してほしい。自らの心がこの世に蔓延する本質とは対極に位置するーー憎しみ、恨み、悲しみーーこういったものに毒され、美しい心の鏡を曇らせていたということを。そして、じっくり思いを馳せてみてほしい、それとは対極にあるーー愛、安らぎ、優しさーーそういったものも人々の心のどこかに存在するということを。

 

アルバムの最後でも、マッカラの音楽的表現は、どこまでも透徹しており、一貫性があり、何も注文をつける点はない。講釈や評言を付け加えるのが無粋なくらい。「I Want To Believe」は、レイラ・マッカラのチェロの演奏を通じて繰り広げられる「自分を信じることができなくなった人々に捧げられるささやかな応援ソング」だ。この曲は普遍的な音楽の美しさをどこかに留めている。今年のポピュラーミュージックの名盤の登場といっても過言ではないかもしれない。



98/100
 
 

「I Want To Believe」

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