▪バロック音楽の時代背景
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| ヴィラ・メディチ |
16世紀までの古典音楽は、その多くが宗教音楽に終始していた。また、それと同時に、民衆のための音楽、イタリアのトレチェントやマドリガーレ、バラードなどの民謡や舞曲も登場した。そして、前回までのバロックの以前の音楽の歴史を概観した際、音楽という形式は、たえず社会の風潮を反映させ、さらに、ときには政治とも関連付けられることもあったといえるだろう。17世紀に入ると、フランスでは絶対王政が始まり、王による治世の時代が始まった。
これこそ中世ヨーロッパの政治機構の象徴でもあり、フランス革命の時代まで、この政治形態が継続していく。同時に、貴族や民衆からの徴税が始まり、これらが「税金」という制度として確立されたのである。17世紀のヨーロッパは、絵画などのモチーフとなることが多いので、現代人は脚色を込めて見ることが多いかも知れません。しかし、バロック期はヨーロッパの絵画に見いだせるような、理想的な時代とばかりは言えなかった。理想的に見える時代も、それぞれの苦労があったのである。例えば、この時代は、凶作、不況、そして、人口減少など様々な社会問題が発生したものの、商工業を王政が推進することにより、経済的な拡大を図った。しぜん、市民は以前より経済力を持つに至り、個人としての力を拡大していくことになった。
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| ヴェルサイユ |
同時に、17世紀は、フランスのヴェルサイユを中心とする宮廷文化が花開き、これらが芸術の本流を形成するようになった。ルイ13世は、反抗的な貴族やユグノーを弾圧し、絶対王政を確立する。しかし、社会学として、この絶対王政を見た時、やはり、暴政という点が問題となる。フランス革命を焚き付けたのが、どのような勢力であれ、これらの王政には、社会的な問題が付随した。問題となったのは、現在の資本主義の一つの課題でもある、富の不均衡である。民衆の怒りが、王政に向けられ、以降の革命に至ったのは当然の摂理だった。
世界史を見ていると、面白いのは、ヨーロッパ県の国々は、まるで足並みを揃えるようにして連動して政治などが動いていくことだ。こうした中、イギリスやドイツ各国では政治的な改革が盛んに行われた。イギリスがバチカンから距離を取り、独自の宗教組織であるイギリス国教会を設立し、権力の安定を図ったことは言うでもなかった。本格的な議会政治が始まると、カルヴァン派(宗教改革派)の勢力が強い影響力を持った。この派閥が勢力をました結果、王政との対立が起き、クロムウェルが王を処刑して共和政を確立した。これが、俗に言う「ピューリタン革命」である。その一方、ドイツでは、オーストリアのハプスブルグ家が台頭し、三十年戦争が勃発する。そのため、ドイツでは、国家的な統一が遅れ、神聖ローマ帝国の麾下にあるウイーンなどの大都市が発展していくことになった。
民主主義政治の萌芽が各地で見える中、バロック音楽が登場した。バロックというのは「歪んだ真珠」を意味する。 ルネサンス期の芸術と異なるのは、個人的な情熱や感情を端的に表現することも可能になった。ルネサンス期では、均衡や理性など、ある意味では、統合性を持ち、合理的な芸術が好まれたが、個人的な感情を表現することも可能になった。個人的な解釈としては、ヨーロッパにおけるバロック期とは、大きな組織や機構を中心に動いていた社会において、個人やそれらのグループが社会と同様のレベルの力を持つ、その発端を形成した重要な時代とも言えるかもしれない。
さて、こうした中で、登場したのがイタリアの歌曲(カンツォーネ)やオペラという新しい芸術だった。バロックと聞くと、短調を中心としたいかにも重苦しい音楽や古めかしい音楽を皆さんは想像するかも知れないが、バロック音楽の出発は、どう考えても、そして、どこからどう見ても、華やかなイメージに縁取られている。 イタリアのオペラは、ギリシア芸術の演劇を音楽と結びつけたもので、クロスオーバーやハイブリッドの先駆的な事例に該当する。オペラが登場したときの当時の衝撃はすさまじかったらしく、そのメッカであるフィレンツェでは、「新しい音楽」が出てきたと言われた。 オペラは、フィレンツェで始まり、その後、イタリア各地で普及していき、さらに、フランス、そして演劇が盛んなイギリスにも大きな影響を及ぼしていった。
オペラの誕生 ギリシア悲劇の復興
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| カヴァリエーリ像 ミラノ |
イタリアのオペラは、貴族のサロンに集まった音楽家や詩人のリバイバル運動の一環として始まった。16世紀末に、カメラータという文人サークルが作られ、そこにはガリレオ・ガリレイの父、ヴィンセンツォ・ガリレイ、作曲家のカッチーニ、フィレンツェの宮廷楽長をつとめたペーリなど著名人が在籍していた。彼らは、古代ギリシアの悲劇を、大掛かりで大スペクタルな音楽劇にすべく、知恵を出し合い、それらを明確な作品として仕上げようと試みた。カメラータの面々は、歌詞の意味と言葉のリズムを重んじていたという点を踏まえ、それらをモノディーと呼ばれる形式へと組み替えた。これらは演劇でいうところの、モノローグの出発点ではないかと推測される。オペラが誕生する段階に当たって、それらの歌は、明確な音調を帯びるようになり、ストーリーやシーンと呼応するような形になったことは、それほど想像に難くない。
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| メディチ家の邸宅群 |
こうした中で、オペラの普及に貢献したのが、メディチ家である。フィレンツェの大富豪の娘、マリア・デ・メディチが、フランス国王アンリⅣ世のための催しものとして、「エウリディーチェ」が上演。これが1600年のオペラの始まりでもあった(という定説)。リヌッチーニが手掛けたイタリア語の台本に、ペーリとカッチーニが共同で作曲し、歌をつけた現存する最古のオペラ作品だ。カバリエーリがより本格的なオペラを発表し、『魂と肉体の劇』が同じ年に制作された。カヴァリエーリは、ローマの出身であり、バロック期の宗教音楽の先駆的な存在であった。
彼はローマカソリックを称賛するために、オラトリオという独自の形式を確立した。後にJS バッハがこの形式を崇高な領域に引き上げてみせた。このオラトリオという形式は、演劇に焦点を置いた、一般的なオペラとは対極にある純正音楽を重んじる内容であった。舞台装置や衣装を使用せず、演奏会で披露されるケースが多かったという。
オペラの一般的な普及に一役買ったのが、モンテヴェルディだった。彼はオペラの作曲家として名をはせた後、サンマルコ大聖堂の楽長をつとめた。ペーリなどとは異なり、現在でも演奏される機会があると思われるが、モンテヴェルディはマントヴァの公爵につかえていた人物であり、彼の作曲した『オルフェオ』はイタリアで有名になった。どうやら、この作品が高い評価を受けたのには理由があるらしく、単純なオペラに比べて、内容が充実していた。ワーグナーの歌劇では頻繁に用いられるライトモチーフの原点となる登場人物の死を象徴付ける転調であったり、主人公の苦痛を体現する下降半音階など、音楽的な効果が演劇と絶妙に溶けこんでいた。その後、オペラの形式は発展していき、舞台には、神話の人物、神々、果ては、妖精、魔女まで出てきた。舞台装置も豪華になっていき、機械仕掛けの装置もこの頃すでに登場していたという。
その後、イタリアの音楽の最高の作曲家の一人であるアレッサンドロ・スカルラッティが登場した。アレッサンドロは、ナポリのオペラの発展を後押しした重要人物でもある。これらは、後の時代に、さらに一般化され、民衆的な音楽に変化する過程で、カンツォーネと呼ばれるようになった。
もちろん、今でもヴェネチアでゴンドラに乗ると、船を漕ぐ人が歌をうたうことがある。これはバルカローレといい、ヴェネチアの民謡の一形式にもなった。ナポリのオペラの後代のクラシック音楽への貢献度は計り知れない。ソナタ形式の原型である「急ー緩ー急」の原初的なスタイルを確立したほか、「Sinfonia」という形式を出発させた。イタリアのシンフォニアは、のちのドイツ古典派の重要な作曲の一部分を担った。
歌唱の側面でも、最初のイタリア・オペラの発展は目覚ましかった。ダ・カーポ・アリアが確立され、アリアとレスタティーヴォとの分離が行われた。アリアは劇を中断して歌われた。その一方、話し言葉で現在のスポークンワードに近いレスタティーヴォは、演劇を中断することなく、スムーズな劇の進行を促すことを可能にしたのだった。
その後、イタリアから各国に伝わったフランスやイギリスで独自の進化を遂げた。フランスでは、リュリが中心となり、バレ・ド・クール(宮廷バレ)にイタリアのオペラの要素を追加した。イギリスでは、マスクと呼ばれる、仮面劇を基本としたオペラが発展していく。18世紀以降は、それぞれ各地域のオペラの形式が細分化していき、セリアとブッファの2形式に分割された。
その後、母国語を生かしたローカルなオペラが登場した。イギリスではバラッド、フランスではコミック、ドイツでは、シングシュピールが登場した。シングシュピールの代表的な作品は、稀代の天才、クラシック音楽の至宝であるモーツァルトの『魔笛』が挙げられる。現在では、多様な形のオペラが存在している。今回の記事がオペラを楽しむためのきっかけとなれば幸いです。








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