Bob Marley(ボブ・マーリー)      レゲエの神様の生涯  -音楽は祈りであるという思い


最初、サブカルチャーとして、ラスタファリアニズムについて取り上げる予定だったが、それから早一年以上が経過してしまった。

 

結果的に、レゲエの神様について、サブカルチャーやサブジャンルのように取り扱うのは無礼ではないのかという答えにいたったわけだ。レゲエについては、近年でもヒップホップやソウルにごく普通に取り入れられるジャンルで、レコードコレクターとしては避けることが出来ない。この音楽はそもそも、トリニダードのカリプソなどを祖先に持ち、Ⅱ拍目とⅣ拍目に強拍を置くのが主な特徴という側面では、スカ/ダブと同様である。ただし、このジャンルはソウルの影響が色濃く、ほとんどモータウンの音楽のリズム的な再解釈という見解を避けて通ることは出来まい。Trojan時代の音源を聴くとこのことはよくわかっていただけると思うが、レゲエはそもそも、ジャンルとしては、ビンテージ・ソウルであり、ロックの主流の素地を形成している。基本的には、レゲエはクラブ・ミュージックなのではなく、ソウルミュージックに属しており、それが後にダンスホールでも普通に親しまれるようになったというのが順当な見方なのだ。

 

結果的に、64年頃にデビューしたボブ・マーリーが、レゲエを世界的に普及させたという説に異論を唱える人は少ないと思われる。日本でも島国という性質から、レゲエに共感を覚えるリスナーは多い。ジャマイカも日本も、海に囲まれた国という共通項があるからだ。当初、日本でのレゲエ人気が到来したのは、90年代だ。J-POPの最盛期であった95年頃と同時的に、街角の到る場所でレゲエがかかっていたそうで、レコード屋でもよく売れたジャンルだった。現在は、著作権の関係であまり街中で音楽がかからなくなってしまったが、結局、これは音楽の売上に大きな効果を及ぼし、また、産業自体を潤していたことは最早疑いを入れる余地はない。

 

さて、日本で最初にレゲエが親しまれることになったのは、74年のこと。エリック・クラプトンが「I Shot the Sheriff(警官を打っちまった)」をカバーしたからという説が濃厚である。最早このナンバーはCREAMの演奏としてはお馴染み過ぎる。当時、一部の音楽マニア、ロックファンを中心に親しまれていたが、1979年にボブ・マーリーは来日公演を行い、日本国内でもレゲエという代名詞とともにその名を知られるようになる。しかしながら、その二年後、正確に言えば、81年の5月11日、36歳という若さでマーリーは死去する。捉え方によっては彼が推進したエチオピア皇帝を唯一神とするラスタファリアニズムとともに、またジャマイカの三色旗とともに、彼の存在は半ば、クラブ27の面々のように神格化されるに至った。

 

その後、70年代の2Tone、ニューウェイブの到来とともに、日本でもレゲエの人気が沸騰していく。80年代、ダンスホールが隆盛をきわめるに従い、日本ではレゲエの2ndウェイヴが到来。ただし、クラブミュージックの最盛期、 先駆者のボブ・マーリーは聞かないという場合があったようだ。というのは、クラブ・ミュージックを織り込んだアスワド、ビック・マウンテン等が十代の若者に人気だったらしく、マーリーは踊れないので倦厭するリスナーがいたらしい。これらのリスナー層は、マーリーを尊敬しながらも、リスナーとしては多少遠慮するというケースが多かったそうだ。これは、アスワド、ビック・マウンテンらが身近な存在であるのに対し、マーリーは神がかっており、思想的なので、近づきがたい存在だったという話もある。

 

その後、J-POPの中にごく普通にレゲエ色を取り入れるグループもでてきたのは周知の通りである。

 

ただ、時代を経ると、アスワドやビッグ・マウンテンは当時の流行の音楽ではあったが、今、考えると少しだけ時代に埋もれてしまった印象もある。結局、ボブ・マーリーとジミー・クリフは別格というのがレゲエファンの答えではないか。二人は、商業音楽を生み出しておきながら、民族音楽、ワールド・ミュージックとしての音楽性をその中に内在させていた。今回、大まかにマーリーの生涯について下記に記しておく。

 

 

 ・最も貧しい区域、トレンチタウンの音楽

 

ボブ・マーリーは、1945年、2月6日にジャマイカのセント・アン地区に生まれる。十代の黒人の母親、かなりの年上で後に不在となった白人の父親の間に生まれた。

 

後に、彼のもとから去った父親という人生の中の出来事は、彼の音楽性や思想に深い影響を及ぼしたという指摘があり、マーリーは「父の不在」というテーマを音楽活動を通じて追い求めていくことになる。彼は、”ナイン・マイルズ”と呼ばれる地方の村にあるセントアン教区で幼少期を過ごしたという。セント・アンでの彼の幼馴染のひとりに、ネヴィル・バニー・オライリー・リビングストンという少年がいた。同じ学校に通っていた彼らは、音楽への愛情を深めたという。バニーの影響により、ボブ・マーリーはギターを演奏するようになった。ここに後にレスポールギターをトレードマークとする音楽家のルーツを伺うことが出来る。のちに、リビングストンの父親とマーリーの母親も、この関係に関与するようになったとクリストファー・ジョン・ファーリーは、マーリーの伝記『Before The Legend: The Rise Of Bob Marly』で指摘している。1950年代に、キングストンに転居したマーリーは、市内の最も貧しい区域の一つ、トレンチ・タウンに住むようになる。この時の経験は、彼の後の代表曲「トレンチ・タウンロック(Trench Town Rock」の着想の元になったと推測される。この年代を通じ、マーリーと彼の友人であるリビングストンは音楽に多くの時間を費やした。ジョー・ヒッグスという人物の指導のもと、彼はボーカルの訓練にも精励するようになった。

 

また街なかで流れていた音楽がボブ・マーリーの音楽観を形成していくようになる。幸運なことに、トレンチ・タウンは貧しい街だったが、地元の音楽パフォーマーが活躍し、さらに米国からの新鮮な音楽が、ラジオやジュークボックスを通じて届けられた。マーリーは聴いていた、レイ・チャールズ、ファッツ・ドミノ、ドリフターズ、そして、プレスリーを聴いていた。彼はこの時代を通じて、多くの音楽的な経験をし、そしてジョー・ヒッグスの仲介を通じて、ピーター・マッキントッシュ(後のピーター・トッシュ)と運命的な出会いを果たすことになる。

 

 

 ・ウェイラーズの時代 レゲエ音楽の普及

 

地元で影響力のあるレコード・プロデューサー、レスリー・コングは、マーリーのボーカルを痛く気に入った。コングはマーリーを呼びよせ、その後、数枚のシングルをレコーディングさせ、最初の作品が1962年に発売された。それが「ジャッジ・ノット」という最初のシングルだった。ボブ・マーリーはソロアーティストとしては最初の成功を収めることが出来なかった。しかし、その後、翌年、彼は友人と彼のバンドの代名詞となるボブ・マーリー&ウェイラーズを結成する。もちろん、そのメンバーの中には、幼馴染のリビングストン、マッキントッシュがいた。彼らはバンド結成後、最初のシングルとなる「シマー・ダウン」をリリースする。このウェイラーズの最初のシングルはジャマイカのチャートで第一位を獲得する。この時、幼馴染の二人に加えて、ジュニア・ブレイスウェイト、ビバリー・ケルソ、チェリー・スミスもウェイラーズに参加した。

 

ウェイラーズはチャートの首位を獲得したものの、商業的な成功とは縁遠かった。 ブレイスウェイト、ケルソ、スミスが程なくグループを離脱する。残されたメンバーは一時的に疎遠となるが、マーリーは母親が当時住んでいた米国へ向かう。出発直前の1966年の2月にリタ・アンダーソンと結婚した。8ヶ月後、マーリーはジャマイカに帰国し、リビングストンとマッキントッシュとウェイラーズを再結成する。この頃、マーリーは思想的な側面を探求するようになる、ラスタファリアン運動への関心を高めるようになった。一般的にはマーリーが普及させたといわれるこの運動は実はそれ以前から発生しており、1930年代のジャマイカで沸き起こった。そのドグマについては、ジャマイカの思想的な面でのヨーロッパを中心とするキリスト教圏からの脱却が掲げられ、民族主義者のマーカス・ガーベイ、旧約聖書、アフリカの伝統文化等が、その教義の中に取り入れられていた。一見すると、世迷言にも思えるこの運動ではあるが、フェラ・クティの掲げたアフリカ主義の一貫として台頭した”アフロ・フューチャリズム”の思想性を国家レベルで体現させようという考えが、その中に含まれていたのだった。


60年代後半になると、ボブ・マーリーはポップ歌手のジョニー・ナッシュと仕事を行った。ナッシュはマーリーの曲「Stir It Up」で世界的なヒットを記録する。ウェイラーズはこの時代に、プロデューサーのリー・ペリーとも仕事をするようになった。リー・ペリーはウェイラーズの最盛期の活躍を支え、「トレンチタウン・ロック」、「ソウル・レベル」、「フォー・ハンドレド・イヤーズ」を世に送り出した。この時代を通じて、ウェイラーズの名は徐々に世界の音楽ファンに親しまれるようになった。またウェイラーズは、1970年代に入ると、ラインナップを変更し、アストン・バレット、彼の弟であるドラマーのカールトン・バレットを新たなメンバーに迎え入れ、サウンドの強化を図った。翌年、フロントマンのマーリーは、スウェーデンでジョニー・ナッシュと一緒に人生で初の映画のサウンドトラックの制作に取り組んだという。



・アイランド・レコード所属の時代 レゲエの最盛期 数々の大ヒット

 

 

その後、ウェイラーズは1972年になると、クリス・ブラックウェルが設立したアイランド・レコードと契約を結び、世界的な大ブレイクを果たす。アイランドは現在も良質なリリースを続ける大手のメジャー・レーベルの一つだ。

 

この時代、モータウン・ソウルやファンク、オールディーズに根ざした古典的な音楽性から、スタンダードなロックやポップスへと音楽性のモデルチェンジを行い、モダンなサウンドで一世を風靡し、世界的にウェイラーズ旋風を巻き起こす。グループは初めて、フルアルバムをレコーディングするためにメンバー揃ってスタジオ入りする。

 

その結果、バンドの出世作となる「Catch a Fire」が誕生したのは当然の成り行きだった。ウェイラーズはアルバムの発表後の73年に、イギリスとアメリカをツアーし、アメリカン・ロックのボス、ブルース・スプリングスティーン、スライザ・ファミリーストーンといった当時最大の人気を誇った音楽家やグループの前座としてステージに登場し、その名を普及させた。ウェイラーズはデビューからまもなくその人気を不動のものにしていく。同じ年に、ヒット曲「I Shot The Sheriff」を収録する2ndアルバム『Burnin'』を発表し、世界的な人気を集中に収めた。発売から一年後、イギリスのギタリスト、エリック・クラプトンがこの曲をカバーし、全米チャート第一位を獲得する。ウェイラーズの名は一躍世界的なものとなっていく。


次のアルバム『Natty Dread』は1975年に発表された。この間、オリジナルのメンバーの内二人がグループを脱退した。最初期からマーリーと活動していたリビングストンとマッキントッシュは、ソロアーティストとしてキャリアを追求するために、ウェイラーズを去っていった。「Natty Dread」はウェイラーズの作品の中で一番の問題作で、マーリーは少なからずの政治的な主張をこの中に取り入れた。ジャマイカにおける人民国民党と労働党の間の政治的な緊張をテーマに取り入れている。

 

このアルバムに収録されている「Level Music」では、マーリーの最も政治的な人生経験が表れ、彼が1972年に国政選挙前で夜遅くに軍関係者に呼び止められた緊迫した経験をモチーフにしている。「Revolution」は彼がPNPに対して支持を表明しているというのが主流の説である。

 

ウェイラーズはその後、マーリーの妻であるリタをメンバーに擁する女性グループのアイ・スリーズとともに共演を果たし、単独のウェイラーズではなく、ボブ・マーリー&ウィラーズの名で親しまれることになる。彼らは大規模なスアーを行い、レゲエ人気を普及させていく。またこの時代の男性と女性の混合の構成は、この家父長制的であった音楽に革新をもたらし、より柔らかな音楽として親しまれる要因となった。1975年にリリースされた彼らの代表曲「No Woman, No Cry」は特にイギリスでトップ40位内にランクインを果たし、英国でも彼らの名は知られるようになった。

 

その頃、すでにボブ・マーリーは祖国で大人気のスターとなっていたが、国際的なスターとしても目されるようになっていた。1976年のアルバム『Rastaman Vibration』をリリースし、マーリーはキャリア初の全米チャート・トップ10入りを果たし、アメリカでの人気を獲得した。またビルボードチャートでもR&Bのアルバム・チャートで健闘し、最高11位を記録した。彼はこの作品で戦争のテーマを織り交ぜ、エチオピア皇帝のハイレ・セラシエの演説から歌詞を引用した。抑圧からの自由を求める戦いというメッセージを込めたこの曲では、植民地支配による階級から人々を開放することが歌われ、新たなアフリカの概念についても言及されている。

 


・政治的な主張  暗殺の影

 



この時代、人気絶頂中のボブ・マーリーに不穏な影が忍び寄った。マーリーは人民国民党の支持者と目されていたが、対抗する政党であるPNPのグループにとっては彼は大きな脅威とみなされていた。そしてその後、実際に、彼は暗殺の影に脅かされることになった。1976年、12月3日の夜、キングストンのナショナル・ヒーローズ・パークで予定されていたコンサートの二日前、リハーサルを行っていたマーリー&ウェイラーズを武装集団が襲撃する。これがPNPが派遣した暗殺グループだったのかは定かではない。しかし、実際一発の銃弾がマーリーの胸骨と上腕二頭筋をかすめ、もう一発は妻のリタの頭に命中した。またドンテイラーは五発を体に受け、即刻緊急の手術を行う必要にさらされた。その襲撃にもかかわらず、マーリーはショーにその後の出演し続けた。現在も、攻撃の真意がいかなるものであったのかは明らかになっていない。この事件については、後にNetflixの映像『Remastered』で緻密な検証が行われている。

 

その当時、イギリスのロンドンに住んでいたボブ・マーリーは続編となる『Exodus』の制作に取り掛かる。この時期より、マーリーは大掛かりな作風を志向するようになる。タイトル曲に、聖書のモーセと亡命を逃れたイスラエル人の物語を織り交ぜ、マーリー自身の人生の状況をかけ合わせていた。またラスタファリアニズムの時代から続く、アフリカの伝統性に対する回帰というテーマも前の年代から引き継がれている。シングルとして発売されたタイトル曲『Exodus』は、「ウェイティング・イン・ヴェイン」、「ジャミング」と合わせてイギリスでヒットし、アルバム自体は一年間チャートインしつづけるという未曾有の継続的なヒットとなった。この作品は、現在でもボブ・マーリー&ウェイラーズの最高傑作との呼び声も高い。


音楽家としては最盛期にあったマーリーではあるが、その後に健康不安を抱えるようになる。その年のはじめ,足を負傷し、その治療を7月に受けた。診断を下した医師は、その怪我を通じてがん細胞を発見したが、マーリーは宗教的な理由により、細胞を除去する手術を受けることを拒否した。

 

 

 

 ・崇高なものへの親しみ  音楽を超える根源的なものへの接近

 



ボブ・マーリーは生前こんな言葉を残しているのを皆さんはご存知だろうか。

 

音楽は”祈り”のようなものなんだ。祈るときには、何を言ってもいいわけじゃないだろう? 大切なことを言葉にし、苦しんでいる人たちのために祈るんだよ。音楽を冗談半分なんかでやるんじゃない。真面目にやらないのなら、一切すべきじゃないよ。

 

この言葉は多くの音楽家を志す人々、また、それを専業としている人たちもよく胸に刻んでおいていただきたい箴言である。ボブ・マーリーは、現実主義者であるとともに、神秘主義者のような一面があり、言葉はいわば日本語でいう「言霊」のように捉えていた。言霊というのは、つまり、言葉には、その人の魂が乗り移り、それはやがて生きたものとなるということだ。聖書にも書かれている。「心はその人を汚さぬが、言葉がその人を汚す」。この後の時代からマーリーは命を脅かされたことにより、崇高な表現近づいていく。それは実際、このアーティストを神格化させている要因でもある。

 

ウェイラーズとして最大のヒット作である『Exodus』をリリースした後も、マーリーの創作意欲は衰え知らずだった。彼はバンドとともに「愛」という感情(をモチーフにし、「サティスファイ・マイ・ソウル」、「イズ・ディス・ラブ」という2つのヒット作を世に送り出した。何らかの直感により自らの人生がこの後どのように変遷していくのか、その運命的なものがマーリーの脳裏をかすめたことは容易く想像出来る。1978年、マーリーは平和に対する考えを明らかにするようになり、ワン・ラブ・ピース・コンサートを開催するため、イギリスからジャマイカに帰国し、主流政党であるPNPのマイケル・マンリー首相とJLPの野党党首であるエドワード・シーガーとステージ上で握手した。音楽家としめのキャリアの中盤において、政治的な対立を取り上げていたマーリーは、この時はじめて政治的な主張として「ノーサイド」を表明づけたのだった。

 

同じ年、彼は自らの重要なルーツに位置づけるアフリカを訪問し、ラスタファリアンの重要なルーツでもあるケニアとアフリカを訪問した。その時の旅行は音楽の側面でも重要なインスピレーションとなり、1979年にリリースされた次作アルバム『Survival』の素地を形成した。翌年、マーリーとウェイラーズはジンバブエの国家式典に出席している。この年代に差し掛かると、音楽家ではなく政治家としてのボブ・マーリーの存在感が際立つようになる。彼はその翌年、遺作となるアルバム『Uprising』を発表する。このアルバムでは、詩的な歌詞を取り入れ、政治的な主張と社会的な立場を織り交ぜた作品として重要視されている。中でも「Redemption Song」はこのアーティストの才能が最も花開いた瞬間であるという指摘もなされる。マーリーはこのトラックで次のように歌い、民衆の心を鼓舞している。「精神的な奴隷の状態から自分を開放しなさい。自らの心を開放出来るのはわたしたち以外に誰もいないのだから」と。

 

その後、アルバムの発売を記念するリリースツアーの最中、ヨーロッパでのコンサートを実現した。その後、アメリカにも立ちより、マディソン・スクエア・ガーデン、スタンレー・シアターでのコンサートを開催する。しかし、その頃には当初、足の怪我の時期に発見されたがん細胞は全身に転移していた。

 

晩年、ボブ・マーリーはがん治療に専心する必要にかられた。ドイツで治療を受けた後、幾ヶ月も彼は闘病生活を送った。しかし、余命がそう長くないのを悟ると、マーリーは祖国のジャマイカの地を踏むことに決めた。ところが彼の末期的な病状が祖国への期間を許さなかった。マーリーは、ジャマイカに戻ることなく、1981年5月11日にフロリダ州マイアミで息を引き取った。

 

マーリーは生前最後に、ジャマイカの政府から勲章を授与されており、また、80年には平和勲章を国連から授与されている。


生前における功績は称えられ、ジャマイカで英雄として見送られた。ジャマイカのキングストンにあるナショナル・シアターで彼の式典は開催され、そこでは彼の妻であるリタ・マーリー、その他、マーシア・グリフィス、ジュディ・モワットが追悼のための歌を捧げた。ボブ・マーリーは1994年に、ロックの殿堂入りを果たした。レゲエの神様の影響力は今日も留まることを知らない。レゲエがこの世に存在するかぎり、マーリーの栄光は途絶えることはないだろう。