Mitski 『The Land Is Inhospital and So Are We』 ニューヨークの実力派シンガーによる米国文化へのリスペクト   -Weekly Music Feature -

Weekly Music Feature

 

Mitski 



©Ebru Yildiz

 

「希望や魂や愛が存在しないほうが人生は楽だと感じることがある・・・」とミツキは言う。しかし目を閉じ、何が本当に自分のものであるのか、差し押さえられたり取り壊されたりすることのないものは何なのかを考えたとき、ほんとうの愛が見えてくる。「私の人生で最高のことは、人を愛することだ」

 

「私が死んだ後、私が持っているすべての愛を残せたらいいのに、と思う。そうすれば、私が作り出したすべての善意、すべての善良な愛を他の人々に輝かせることができるのだから・・・」彼女は、最新アルバム『The Land Is Inhospitable and So Are We』が、自分の死後もずっとその愛を照らし続けてくれることを願っている。このアルバムを聴くと、まさにそのように感じる。「この土地に取り憑いている愛のようだ。これは私にとって最もアメリカ的なアルバム」と、ミツキは7枚目のアルバムについて語っているが、その音楽は、私的な悲しみや痛ましい矛盾を抱えたアメリカなる国家を直視する深甚な行為であるかのように感じられる。

 

このアルバムは、サウンド的にもミツキの最も広大かつ壮大、そして賢明な内容に彩られている。曲はアーティストの心の傷を示し、そして同時に積極的に癒しているかのようだ。ここでは、愛は数億光年も先にある遠い星からの光の反射さながらに、私達の優しい日々を祝福するため、タイムリープしている。アルバムの全体には、大人になり、一見すると平凡な心の傷や、しばしば表向きには歌われることがない莫大にも感じられる喜びによる痛みがあふれている。

 

これはアーティストによる小さく大きな叙事詩である。グラスの底から、思い出と雪でぬかるんだ車道、アメリカ中西部を疾走する貨物列車のアムトラック、そして目が眩むほど私達が住む場所から離れた月へと、すべてが、そして誰もが、痛みで叫びながら、愛に向かってアーチを描いているのだ。愛とはそもそも、人を寄せ付けぬサンクチュアリなのであり、私たちを手招きしながらも、時に拒絶する。この場所--この地球、このアメリカ、この身体--を愛するには、積極的な努力が必要となる。しかし、それは不可能かもしれない。最高のものはいつだってそうなのだから。

 

 

『The Land Is Inhospitaland and So Are We』/ Dead Oceans

 




前作『Laurel Hell』では、ビルボード・トップ・アルバム・チャートで初登場一位を記録し、Talking Headsのデイヴィッド・バーンとのコラボレーションにより、2023年度のアカデミー賞にもノミネートされ、また、イギリスの偉大なエレクトロニック・プロディーサー、Clarkへのリミックスの依頼する等、ミツキはアルバムをリリースから2年ほど遠ざかっていたものの、表層的な話題に事欠くことはほとんどなかった。


ボストンのRoadrunnerを除けば、世界的なフェスティバルにはほとんど出演しなかったものの、このアルバムの制作及び発表にむけて、そのクリエイティヴィティーをひそかに磨きつづけていた。
 
ミツキが一度は表舞台からの引退発表を行ったことは事実であるが、一方、前作の『Laurel Hell』でミュージック・シーンに返り咲き、インディーズの女王の名を再び手中に収めた。アーティストは、その謎めいた空白の期間、アーティストとして生きるということはいかなることであるのかを悩んだに違いない。


そして、オーディエンスの奇異な注目を浴びることの意味についても考えを巡らせたに違いない。例えば、Mitskiは、近年のライブにおいて、観客がアーティストの音楽に耳を傾けず、デジタル・デバイスを暗闇にかざし、無数のフラッシュをステージに浴びせることに関し、強い違和感を抱いていたはずである。


アーティストは写真を撮影されるために何万人もの前でライブを行うわけではない。また、ゴシップ的な興味を抱かれるためにライブを行うわけでもない。無数のカメラのフラッシュのすぐとなりで、ひっそりと音楽に純粋に耳を傾ける良心的なファンのため、普通の人ならほとんど膝が震えるような信じがたいほど大きな舞台に立つのである。またそのために、人知れず長い準備を行うのだ。この無数のオーディエンスは、とミツキは考えたに違いない。自分の音楽を聴きに来ているのだろうかと。

 
そして実際、アーティストは以前、そういった音楽を聞かず、写真だけを撮影しに来るオーディエンスに対して、次のような声明を出していたことは記憶に新しい。「観客とパフォーマンスを行う私たちが同じ空間にいるのにもかかわらず、なぜか一緒にその場にいないような気がする」と。さらに彼女は、ライブ・セットをスマートフォン等で全撮影をおこなう節度を弁えない(ライブを聴いていない)ファンにも率直に苦言を呈した。「ライブでの電話に反対だと言ったことはありません。私がプロとしてパフォーマンスをしているかぎり、オーディエンスは自由にライブを録画したり写真を撮ったりしてきた」彼女はもちろん、「ライブショー全体を撮影する観客のことを指している」と付け加え、「ステージの上で、静止したままの携帯電話の海を見て、ショー全体の観客の顔が全然見えなくなる」ことがとても残念であると述べた。

 
最新アルバム『The Land Is Inhospital and So Are We』を見るかぎり、上記の現代のライブにおけるマナーに関するコメントは、意外にも、重要な意味を帯びて来ることが分かる。ニューヨークの山間部に自生しているバラの名前にちなんだ前作アルバム『Laurel Hell』では、ライブを意識したダンス・ポップ/エレクトロ・ポップの音楽性を主体にしていたが、最新作では、驚くほど音楽性が様変わりしている。単体のアルバムとしてのクオリティーの高さを追求したことは勿論、ライブで静かに聴かせることを意識して制作された作品と定義付けられる。いわば多幸感や表向きの扇動性を徹底して削ぎ落として、純なるポピュラーミュージックの良さをとことん追求した作品である。これまで幾度も二人三脚で制作を行ってきたプロデューサー、そしてオーケストラとの合奏という形で録音された『The Land Is Inhospital and So Are W』は、厳密に言えばライブ・アルバムではないのだが、まるでスタジオで録音されたライヴ・レコーディングであるようなイメージに充ちている。すべての音は生きている。そして絶えず揺れ動いているのだ。

 
先行シングルとして公開された「Bug Like A Angel」のイントロは、アコースティック・ギターのコードにより始まる。しかし、その後に続くミツキのボーカルは、アンニュイなムードで歌われていて、そして、ソフトな印象をもたらす。そして、そのフレーズはゴスペル風のクワイアによって、印象深いものに変化する。まさにイントロから断続的に音楽がより深い領域へと徐々に入り込んでいく。ゴスペルのコーラスの箇所では華美な印象性をもたらす場合もあるが、メインボーカルは、一貫して落ち着いており、一切昂じるところはなく、徹底して素朴な感覚に浸されている。しかし、それにも関わらず、複数人のサブボーカルがメインボーカルの周りを取り巻くような形で歌われる、アフリカの民族音楽のグリオ(教会のゴスペルのルーツ)のスタイルを取り、曲の中盤から終わりにかけて、なだらかな旋律の起伏が設けられている。歌詞についても同様である。安直に感動させる言葉を避け、シンプルな言葉が紡がれるがゆえ、言葉の断片には人の心を揺さぶる何かが含まれている。この曲は、叙事詩的なアルバムの序章であるとともに、この数年間のシンガーソングライターとしての深化が留められている。
 
 

「Bug Like A Angel」

 

 

 

「Buffalo Replaced」ではアーティストのインディーロック・シンガーとしての意外な表情が伺える。表向きに歌われるフレーズはポピュラー音楽に属するが、一方、アコースティックギターのノイジーなプロダクションは、まるでグランジとポップの混合体であるように思える。そしてニヒリズムに根ざした感じのあるミツキのボーカルは、これらの重量感のあるギターラインとリズムにロック的な印象を付与している。ここには、不動のスターシンガーとみなされるようになろうとも、パンキッシュな魂を失うことのないアーティストの姿を垣間見ることが出来る。特にミニマルな構成を活かし、後半部では、スティーヴ・ライヒの『Music For 18 Musicians』の「Pulse」のパーカッシブな効果を活用し、独特なグルーヴを生み出す。これはモダンクラシカルとポップス、そしてインディーロックが画期的な融合を果たした瞬間でもある。

 

Mitskiはこのアルバムを「最もアメリカ的」であると説明しているが、その米国の文化性が「Heaven」に反映されている。ペダル・スティールや大きめのサウンドホールを持つアコースティック・ギターの演奏を通じて、カントリー/ウェスタンの懐古的な音楽性に脚光を当てようとしている。この曲は例えば、同じレーベルに所属するAngel Olsen(エンジェル・オルセン)が『Big Time』で示したアメリカの古き良き時代への愛のオマージュとなり、Mitskiというシンガーの場合も同じく、保守的な米国文化への憧れの眼差しが注がれている。実際、プロデューサーの傑出したミックス/マスタリングにより、曲全体にはアルバムの主要なテーマが断片的に散りばめられている。それは単なる偏愛や執着ではなく、アーティストの真心の込められた寛容で温かく包み込む感覚ーーἀγάπη(アガペー)ーーが示されていると言える。そしてその感覚は、実際、部分的にシンガーの歌にμ'sのごとく立ちあらわれ、温和な感情に満たされる。音楽というのは、そもそも肉体で奏でるものにあらず、魂で語られるべきものである。


先日、頭にいきなり思い浮かんだ来た言葉があった。それは良いシンガーソングライターとはどういった存在であるのかについて、「生きて傷つきながらも、その傷ついた魂を剥き出しにしたまま走り続けるランナー」であるという考えだ。実際、それは誰にでも出来ることではないために、ことさら崇高な感覚を与える。そして、ギリシャ神話にも登場する女神とはかくなるものではないかとおもわせるものがある。「I Don't Like My Mind」は、まさにそういった形容がふさわしく、アーティストのμ'sのような性格がどの曲よりもわかりやすいかたちであらわれている。前の曲「Heaven」と同じように、カントリーを基調にした一曲であり、自己嫌悪が端的に歌われる。ペダル・スティールはアメリカの国土の雄大さと無限性を思わせる。そしてその嫌悪的な感覚の底には、わたしたちが見落としてしまいそうな得難いかたちの愛が潜んでいる。それはシンガーの力強いビブラート、つまり、すべての骨格を震わせて発せられる声のレガートが最大限に伸びた瞬間、自己嫌悪の裏に見えづらい形で隠れていた真の愛が発露する。愛とはひけらかすものではなく、いつもその裏側で、目に映らぬほどかすかに瞬くのだ。

 

「The Deal」は、まるで暗い海の上をどこに向かうともしれず漂うような不安定なバラードである。表向きにはアメリカのフォーク/ポップの形が際立ち、それはシアトリカルなイメージに縁取られている。曲調はラナ・デル・レイにも近い。しかし、日本人として指摘しておきたいのは、サビのボーカル・ラインの旋律の節々には、日本の昭和歌謡の伝統性がかなり見えづらい形で反映されていることだろう。これらのナイーヴとダイナミックな性質の間を絶えず揺れ動く名バラードは、なぜか、曲の後半でアバンギャルドな展開へと移行していく。破砕的なドラム・フィルが導入され、米国のフォーク音楽が、にわかにメタルに接近する。これは、プロデューサーの冒険心が”Folk Metal”というユニークな音楽を作り出したのか。それともプロデューサーのミドルスブラのBenefitsに対する隠れた偏愛が示されているのか。いずれにしても、それらのダイナミックな印象を引き立てるドラム・フィルの断片が示された後、曲はグランド・コアに近いアヴァンギャルドな様相を呈してから、徐々にフェード・アウトしていく。このプロデュースの手法には賛否両論あるかもしれないが、アルバムの中ではユニークな一曲と呼べる。


「When Memories Snow」では、シンガーとしては珍しく、古典的なジャズ・ポップスに挑戦している。実際の年代は不明だが、これこそシナトラやピアフの時代への最大の敬愛が示された一曲である。ストリング、ホーン、ドラムとビック・バンド形式を取り、ミュージカルのような世界観を組み上げている。メロディーやリズムの親しみやすさはもちろん、ミツキのボーカルは稀にブロードウェイ・ミュージカルの舞台俳優のようにムードたっぷりに歌われることもあり、昨年、Father John Mistyが『Chloe and the Next 21th Century』で示したミュージカル調のポップスを踏襲している。



クワイア調のコーラスがメインボーカルの存在感を際立たせる。アウトロにかけては、Beatlesが取り組んだポップとオーケストラの融合を、クラシック・ジャズ寄りのスタイルにアップデートしている。実際、ストリングのトレモロ、 ホーン・セクションのアレンジは、ミュージカルのような大掛かりな舞台装置の演出のような迫力をもたらす。かつてのOASISの最盛期のブリット・ポップの作風にも比する壮大さである。


ミツキが今後、どのようなシンガーソングライターになっていくのか、それはわからないことだとしても、「My Love Mine All Mine」で、その青写真のようなものが示されているのではないか。ジャズの気風を反映したポップだが、この曲に溢れる甘美的な雰囲気は一体なんなのか。他のミツキの主要曲と同じように、中音域を波の満ち引きように行き来しながら、淡々とうたわれるバラード。もったいつけたようなメロディーの劇的な跳躍もなければ、リズムもシンプルで、音楽に詳しくない人にも、わかりやすく作られている。


それにもかかわらず、この素朴なバラード・ソングは、60年代から六十年続く世界のポピュラー・ミュージックの精髄を突いており、そして2分弱という短尺の中で、シンガーは、片時もその核心を手放すことはない。このNorah Jonesのデビュー作のヒット・ソングとも、一昨年のSnail Mailの『Valentine』のクローズのバラード・ソングとも付かない、従来のシンガーソングライターのキャリアの中で最も大胆かつ勇敢な音楽へのアプローチは、実際のところ、あっという間に通り過ぎていくほんの一瞬の音の流れに、永遠の美しさの影を留めている。

 

「My Love Mine All Mine」

 

 

 

「The Forest」では、カントリー/ウェスタンの懐古的な音楽性へと舞い戻る。この曲では、ハンク・ウィリムズのような古典から、WW2の後のジョニー・キャッシュ、レッド・フォーリーに至るまでのフォーク音楽を綿密に吸収して、それを普遍的なポップスの形に落とし込んでいる。「No One」や「Memory」といった理解しやすいフレーズを多用し、語感の良さを情感たっぷりに歌っている点が、非英語圏のスペインをはじめとするヨーロッパの主要な国々でも安定した支持を獲得している理由でもある。そして、ペダル・スティールやジャズのブラシ・ドラムのようにしなやかなスネアは、温和なボーカルと綿密に溶け合い、この上なく心地よい瞬間を生み出す。それはやはり、他の収録曲と同じように、あっけなく通りすぎていってしまうのだ。


アルバムの先行シングルとして公開された「Star」は、ポピュラー歌手としての新機軸を示している。この曲は編曲家/指揮者のドリュー・エリクソンとロサンゼルスのサンセット・スタジオで録音された。アーティストは、オーケストラを曲の中に導入する場合、別の場所で録音されたものでは意味がないと考え、そのオーケストラとポップの瞬間的なエネルギーを生み出そうと試みた。ハリウッド映画『Armagedon』のオープニング/エンディングのような壮大さを思わせるダイナミックなサウンドは圧巻だ。パイプ・オルガンを交えたシネマティックな音響効果が、宇宙的な壮大さを擁するバラードという最終形態に直結していく。そしてイントロの内省的なボーカルは、オーケストラやオルガンの演奏の抑揚がゆっくりと引き上げられていくにつれ、神々しい雰囲気へと変貌を遂げる。それは、このアルバムを通じて紡がれていくナラティヴな試みーー生命体がこの世に生まれてから、いくつもの悲しみや痛みを乗り越えて、ヒロイックなエンディングを迎える壮大な叙事詩の集大成ーーを意味している。そしてこの曲には、アーティストが隠そうともしない心の痛みが、己が魂を剥き出しにするがごとく表れている。

 

 「Star」

 

 

この段階までで、すでに大名盤の要素が十分に示されているが、このアルバムの真の凄さは、むしろこの後に訪れるというのが率直な意見である。アルバムの序盤では封じていた印象もある憂鬱な印象を擁する「I'm Your Man」では、サッド・コアにも近いインディーズ・アーティストとしての一面を示す。これは大掛かりなしかけのある中で、そういったダイナミックな曲に共感を示すことができない人々への贈り物となっている。そして、この曲では、(前曲「Star」の三重県出身のアーティストが若い頃に影響を受けたという中島みゆきからの影響に加えて)次のクローズ曲とともに、日本の原初的な感覚が示される。それは、曲の後半で、犬の声のサンプリング、山を思わせる大地の息吹、そして虫の声、と多様な形を取って現れる。最初に聴いた時、曲調とそぐわない印象もあったが、二度目以降に聴いた時、最初の印象が面白いように覆された。おそらく日本的なフォークロアに対する親しみが示されているのではないか。

 

アルバムの序盤では、一貫してアメリカの民謡やその文化性に対する最大限の敬愛が示されたが、その後半ではシンガーソングライターのもう一つのルーツである日本古来の民族的な感覚へと変貌し、ニンジャや着物姿のアーティスト写真の姿のイメージとピタリと合致する。また、それは、『日本奥地旅行』で、イギリス人の貴族階級の旅行家であるイザベラ・バード(Isabella Lucy Bird)が観察した、明治時代の日本人の原初的な生活ーー陸奥の農民の文化性、さらに、北海道の北部のアイヌ民族の奇妙なエキゾチズムーーに対する憧憬に限りなく近いものがある。ややもすると、それらの文化の混淆性は、歌手の最も奥深い日本人としての性質を表しており、今もなお、このシンガーの背中をしっかりと支え続けているのかもしれない。

 

アルバムのクローズ「I Love Me After You」は、前作のシンセ・ポップ/ダンス・ポップの延長線上にあるトラックで、アーティストのナイチンゲールのような献身性が示されている。しかし、驚くべきことに、その表現性は、己が存在を披歴しようとしているわけではないにもかかわらず、弱くなりもしないし、曇ったものにもならない。いや、それどころか、歌手の奥ゆかしい神妙な表現性により、その存在感は他の曲よりもはるかに際立ち、輝かしく、迫力ある印象となっている。ぜひ、これらの叙事詩のような音楽がいかなる結末を迎えるのか、めいめいの感覚で体験してみていただきたい。そして、実際、この国土的な観念を集約した傑出したポピュラー・アルバムは、2023年度の代表的な作品と目されても何ら不思議はないのである。


 

 100/100(Masterpiece)

  

 

「I Love Me After You」

 

 

 

Mitskiの新作アルバム『The Land Is Inhospital and So We Are」はDead Oceansより発売中です。日本国内では、Tower Record、HMV,Disc Unionにてご購入できます。