Ellen Arkbro 『Sounds While Waiting』 New Album Review

 Ellen Arkbro『Sounds While Waiting』


 

Label: W25TH/ Superior Vladuct

Release: 2023/10/14



Review


スウェーデンの現代音楽家/実験音楽家、エレン・アルクブロ(Ellen Arkbro)は2019年に、パイプオルガンの音色を用いたシンセサイザーとギターのドローン音による和声法を対比的に構築した2015年のアルバム『CHORD』で同地のミュージック・シーンに台頭すると、続く、2017年の2ndアルバムでは、本格派の実験音楽に取り組むようになり、パイプオルガンとブラスを用いた「For Organ and Brass」を発表した。スウェーデンにはドローン音を制作する現代音楽家が数多い印象があるが、気鋭のドローン制作者として注目しておきたいアーティストである。


ドローン音楽といえば、いわば音楽大学で体系的な学習をした現代音楽家から、エレクトロニックを主戦場とするプロデューサー、そしてまったくそれらの枠組みには囚われないアウトサイダー・アートの範疇にある音楽家までを網羅しており、どのようなシーンから台頭してくるのかも定かではない。しかし、この音楽のテーマは、音響の変容であるとか、音響の可能性の追求にある。それは和音や単音の保続音が限界まで伸ばされた時、最初に出力される出発点となる音と、いわば終着点にある音がどのように変容するのかの壮大な実験である。一般的に考えてみると、音楽的な変奏(Variation)とはモチーフを断片的に組み替え、装飾音を付加することによって発生するものと定義付けられるが、これはバッハ、モーツアルト時代からの普遍的な作曲技法の主要な観点であった。これは、シェーンベルクが指摘するように、同じモチーフが何度も繰り返されると、観客が飽きてしまうからという単純明快な理由によるものである。これらのベートーベンのディアベリ変奏曲のような変奏の形式は、ながらく音楽家が忘却していたものであったが、それを例えばダンス・ミュージックの改革者たちや、現代音楽の作曲家たちが再び20世紀末に、その変奏の形式を現代の音楽の語法に取り入れようと試みるようになった。


ドローン音楽というのは、グラス、ライヒ、ライリー、イーノが20世紀を通じて構築したミニマル音楽の兄弟分にあるジャンルなのであり、モチーフの反復が飽きるという点を逆手に取り、あえて通奏低音を繰り返すプロセスの中で発生する倍音の効果を最大限に活かし、音楽そのものに変革をもたらそうという趣旨で行われる。これはまた音の最小化というのが顕著だった20世紀終わりの風潮とは逆の音を最大化する試みである。2020-30年代に新しい音楽が出てくるとすれば、このドローン音楽の系譜にある何かであると思われる。つまり、例えばタイムトラベラーが自分のところにやって来て、「2020年代の最新鋭の音楽は何なのか?」と問われれば、「ドローン音楽です」と、私は即答するよりほかないのである。20代のエレン・アルクブロのドローンミュージックは、同地のカリ・マローンに象徴される現代音楽や実験音楽の領域に属するものであることは確かなのであるが、アルクブロはこの保続音と倍音の形式に変革をもたらそうとしている。アルバムのアートワークにも象徴されるパターン芸術の手法が、中世のパイプオルガンを用いたドローン音の中に導入され、このアルバムに関しては、一曲目に音の「オン オフ」という新しい技法が取り入れられていることに注目したい。例えば、デジタル信号のように、コードやプログラム言語によって、別の場所にある装置に何らかの信号を送り、別の場所にある装置を稼働させ、そして何らかの動作を発生させたり停止するというものである。

 

さらにアルクブロのドローン音楽は、ポリフォーニーの保続音を限りなく伸ばすという点では、現行の主流派のドローン音楽と同様ではあるけれど、その保続音がランダムな手法で発生したり、消えたりを繰り返す。どの場所で生じるのか、あるいは、どの場所で消えるのか。それを予測するのは不可能だ。これはジョン・ケージがハーバード大学の無響音室、つまり発生される音が四壁に吸収されてしまう中での悟りの体験に比するものである。アレクルボのドローン音は有機物さながらに空間に揺動し、音波を形成する。しかし音響発生学としては、音が消えた瞬間にも、音は消えず、その後も残りつづける。音はランダムに発生し、消そうと思っても消すことが出来ないということである。また、自然発生的な音について考えてみると、よく分かる。

 

例えば、外を歩いていて、工事現場付近の側壁に、DECIBELを測る装置を見つけたとしよう。聴覚を澄ましたところ、何も自分の外側では、音がひとつも発生しているとは思えないにもかかわらず、DECIBELの数値が計測されているのを見たことはないだろうか。つまりそれは、人間の聴覚では感知できない音が存在しているが、それを一般的な聴覚では捉えることが出来なかったということである。また、音響の聴取としては、人間は年を取るとともに、聴覚が衰えるのは事実であり、若い時代に聞き取れていた音域の音が聞き取れないようになる。そして、アルクブロの録音が示唆しているのは、音楽をすべて聴いているという考えは迷妄や錯誤に過ぎず、私達はその一部分しか聴いていない、聴いている振りをしているに過ぎないというパラドックスを示唆している。また、高低の双方に超音域のHzのゾーンがあり、これはマスタリングをしたことがある方であればご理解いただけることだろう。それに加えて、中音域に音が集中すれば、音が密集している帯域の音は曇り、いずれかの音が掻き消えてしまうということになる。

 

つまり、日本の環境音楽家の先駆者である吉村弘さんが生前に指摘していた通りで、生物学的な聴覚には限界があるため、「無数の音楽の情報をキャッチすることは不可能である」ということである。そもそも、人間にはどうあっても聴きとることが出来ない音域や音像がある。しかし、反面、その聴き取れない音域に発生する音は、(たとえ普通の聴覚では認知できぬものであるとしても)音響の持つ印象に一定の変化を及ぼすということなのである。例えば、重低音域に何らかの音が発生していれば、「音楽そのものに重々しさがある」という印象に変わり、超高音域にある音が発生していれば、「音楽そのものに明るい印象がある」という感覚を持つ。これはケージが、ハーバード大学の無響音室の中で、外側の音が消えたため、自らの心臓の鼓動を感じた、という現象に似ている。別の音域にある音が消えると、別の音域にある音が立ち替わりに現れるということを、ケージは内的な感覚によって現象学的に証明してみせたのだった。もっと言えば、ケージが発見したのは、一般的な聴覚では認知出来ない帯域にある音である。

 

同様に、『Sounds While Waiting』のオープニングでは、「音は、その音を生じさせる有機体が存在するかぎり、音の実存を消し去ることは不可能である」という発見が示されている。「Changes」では、音響学の観点から、「音の発生と減退」というパターンを組み合わせ、音響の変容を及ぼそうとしている。マスタリングソフトをデスクトップに出すのが面倒なので、Hzの帯域に関しては確認してはいないが、このオープニングは、おそらく人間の聴覚では一般的に捉えることが出来ない超低音域をある音と、対極にある超高音域にある音が聞き手の印象を様変わりさせている。つまり、聴覚や音響発生学の観点から見た変化ということである。二、三の音のパターンが変化するに過ぎないのに、この曲には、それ以上の変容があるように感じる。

 

反対に、シンセサイザーで構成されるドローン音を収録した「Sculpture 1」は、むしろ変化と変容を徹底して拒絶するような音楽である。一定の音域にあるシンセサイザーの音が保続音として持続し、それが14分あまり続く。音楽というよりも断続的なモールス信号のようでもある。分割して聴くとわかるが、最初の音と最後の音は変化していない。けれども、これらの音の連続性の中には新しい発見がある。つまり、音楽という概念を客観視することは到底不可能であり、どこまでも主観的な印象を表面的に濾過したものに過ぎないということを表しているのかもしれず、また、音楽を認識させているのは、人間の聴覚からもたらされる固定概念に過ぎないという事実を示唆している。音は、ただ発生しているに過ぎず、それ以外の意味を持たない。有史以来、多くの音楽家は、音の連続や構成に何らかの印象性をもたらそうとしてきたが、それはある意味では、人間の脳にまつわる錯誤、及び、固定観念が累積したものでしかないことを暗示している。例えば、楽しい音楽というのは、何らかの蓄積された経験によってもたらされるし、また、悲しい音楽というのも同じように、以前に蓄積された経験によってもたらされる概念でしかない。そして、無機質な印象のあるこのトラックは、そういった固定概念や既成概念を覆すような意味を兼ね備えている。この点をどのように捉えるのかは受け手次第となる。

 

一方で、三曲目の「Leaving Dreaming」では、二曲目と同じようでいて、パイプオルガンの持続音の中に微細な変化がある。ある意味では、音の変化が乏しかった前曲とは裏腹に、そういった音の変化を覚知するために存在するようなトラックである。イントロから重厚なパイプオルガンのポリフォニーの手法により、ひとつずつ水平線上に音が付加されている。こういった作風として、ロシアの現代音楽家、Alexsander Knaifel(アレクサンダー・クナイフェル)が好んでオーケストラの形式や宗教的な合唱の形式に取り入れているが、 この曲の場合は、通奏低音をベースとして、音がひとつずつ主音を取り巻く装飾音のように付加されている。中世のバッハの宗教音楽の現代音楽としてのルネッサンスとも解釈出来る。ひとつの印象論に過ぎないが、曲の終盤では前2曲とは異なり、感情性のある和音構造の変化の瞬間を捉えることが出来る。 


続く「Untitled Rain」では、パイプオルガンの保続音を強調したドローン音楽という点では同じであるが、ニューヨークのパーカッション奏者、Eli Keszlerのようにパーカッシヴな観点からのミクロの構成をドローン音楽と組み合わせる。マクロな要素とミクロな要素を融合させているが、これらがアルバムの序盤における単調なイメージを後半部で一転させ、印象性を変化させる。


アルバムのクロージング・トラックであり、二曲目の変奏でもある「Sculpture Ⅱ」は、前者のポリフォニーの和音構成を組み替えたものに過ぎない。ところが、全体として聴いた時、全5曲の中の和音的な感覚の中に印象的なコントラストを形成する。それは実例では表現出来ず、どこまでも感覚的なものである。そして、この説明についても主観における印象性の変化を述べるに過ぎないが、制作者が音響やスコアを通じてコントロール下に置くのではなく、「受け手の印象性の変容によってもたらされるバリエーション」が示唆されているのが革新的だ。これらの曲には洗練される余地が残されているかもしれない。ともかく、スウェーデンのドローンミュージックのシーンの象徴的な若手ミュージシャンが台頭したと考えても良いのではないか。

 

 

86/100