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Superstarは、STAN SMITHと並んで、アディダスブランドの看板モデルともいうべき代名詞的なシューズとして知られる。


シンプルなデザイン、三本のストライプというシンプルかつシンボリックなデザインで、今もスポーツシューズとして根強い人気を誇り、アディダスブランドの看板ともいうべき普遍的なモデルである。Superstarというモデルは、スポーツウェア、ストリート、カジュアル、如何なるスタイルにも馴染み、ファッションの中に気軽に取り入れられる利点がある。一切の無駄を削ぎ落としたシンプルなデザイン性、足の形を選ばず、フィットしやすいという点では、スニーカーの代表格と称することが出来るはずだ。

 

このスーパースターは、アディダスというブランドの知名度の普及に大きな貢献を果たしたモデルには違いない。1969年に、バスケットシューズ、いわゆるバッシュとして発売されたモデルである。ラバーのトゥーキャップをプロテクターとして採用することで、靴業界に旋風を巻き起こした。

 

1970年代には、アメリカのNBAの選手が挙って、スーパースターを着用して魅力的なプレーを行った。シンプルなデザイン性はもとより、軽量で動きやすく、何より、見栄えのするこのスーパースターは、コンバースと共に、大人気のバスケットボールシューズブランドとして認知されるようになる。特に、伝説的なNBAのセンタープレイヤーで史上最強の選手と称される、カリーム・アブドゥル・ジャバーがこのスーパースターを履いてプレーを行い、ブランドの知名度を高めた。

 

そして、同時期、このアディダスのスーパースターは、スポーツウェアからストリートファッションの中に組み込まれていくようになる。このスーパースターを若者のファッションとして最初に流行させたのは、NYブロンクス出身のオールドスクールヒップホップのカリスマであり、エアロスミスとの「Walk This Way」のコラボレーションで有名なRun-DMCをさしおいてほかは考えづらい。 

 

 

 

ニューヨークでディスコムーブメントが過ぎ去り、ダンスフロアのミラーボールが廃れかけた頃に、ヒップホップは彗星の如く現れた。特に、この1970年代のNYで、貧しい黒人の若者たちのクライムに向かう暗く淀んだパワーを、それとは真逆、音楽という、前向きで明るく、建設的な方向に転換させた。NYブロンクスを中心に発展した原初のヒップホップムーブメントの最中、Run-DMCは、最初期のオールドスクール・ヒップホップのシーンが形成される際のきわめて貴重な数少ない体験者でもある。彼らは、見事に、その文化性を、音楽、ファッションという形で世界に発信していくことに成功したアイコンと称するべきスター。 実のところ、Run-DMCの面々は、パンクロックのラモーンズと同じく、ニューヨーク、クイーンズ出身であり、どちらかといえば、中産階級の生活圏内にある若者たちだったはずだが、その最初のヒップホップの内核にあるハードコア精神を受け継ぐ重要なミュージシャンであり、ブロンクスのコアな音楽性または文化性をポピュラー音楽として普及させた偉大な貢献者である。

 

オールドスクール・ヒップホップもまた、パンク・ロックと同じような発生の仕方をしたムーブメントである。その音楽の源流には同じく、DIY、つまり、言葉はふさわしいかどうかわからないが、君たちのちからでやれという重要な精神が宿っているのである。1973年頃から、このブロンクス地区では、驚くべきことに、ストリートの電灯から電源や電気をことわりもなしに引いてきて、それをPA機器に接続し、バカでかい音量でサウンドをかき鳴らすところから始まった違法的なムーブメントである。

 

いくつかの疑問は残るものの、この寛容性によって文化が育まれた。抑制、禁止、束縛、もちろん、そこからは何も生まれでない。はたから見てみれば、どこからともなく集まってきて実に楽しそうに音を鳴らしている連中に口出しできなかったというのが実情といえるだろう。そして、このブロンクス地域の公園で開かれる「ブロックパーティー」という催しの際に、ジャマイカ出身、DJクール・ハークがPA機器を持ち込んで、最初にジャムセッションを行ったのがこのオールドスクール・ヒップホップの出発である。

 

 

その後、他の黒人の若者たちも、この公園に自前のテープレコーダーのような録音機器を持ち込んで、この公園で流れている音楽を録音し、それを自身のトラックメイクに繋げていった。ギターやドラムセットのような高価な楽器を買ったり、スタジオ設備のようなレコーディング機械を必要としない、テープレコーダーとマイクがあれば、貧しくても、音楽が生み出せる。つまり、最初期のDJたちは、ダブ的な多重録音の手法を行うことにより、ヒップホップは確固たる「音楽」としての形になっていくようになる。


この音楽を最初に商業面で成功させ、知名度の面で世界的に普及させたのがこのブロンクスの公園でのムーブメントを間近で見ていたRUN-DMCであった。この1970年代のニューヨークでは、ウォール街やブロードウェイのような表向きの文化性の背後に、バックストリートカルチャー、パンク・ロック、それから、ヒップホップという相反する側面を持つカウンターカルチャーが現れたのはあながち偶然であるとは言えない。表側のウォール街、ブロードウェイに代表されるメインストリートの資本主義のエネルギー、そして、その背後の世界にうごめくバックストリートの生々しい人々のうねるようなエネルギーが微妙なせめぎあいを続けながら、この当時、1970年代から80年代にかけてのニューヨークには、流動的な社会が形作られていたように思える。

 

表側から見えないバックストリートにも、人間は確かに息づいており、そして、そこに暮らす黒人の若者たちは、表側のメインストリートの概念、価値観を初っ端から信用しちゃいなかった。だからこそ、というべきか、ブロンクスの黒人の若者たちは、ヒップホップを始めとする、独自の若者文化を形作していく必要に駆られたといえるのである。自分たちの人間としての権利が決して消滅してしまわないようにするため、彼らは、独自の引用の音楽を、DIYスタイルで始める必要があった。そして、この最初のブロンクス地区のムーブメントの渦中にいたRUN-DMCも、メインストリートの概念には対し、強い反証を唱えるべく登場した3人の若者たちであったように思える。

 

ジョセフ・シモンズ、ダリル・マクダニエルズ、マスター・ジェイ。彼らは誰にでも理解しやすい音楽性を生み出しただけではなく、ファッションの側面においても多くの人を惹きつけるだけのカリスマ性を持っていた。特に、彼らは同クイーンズ出身のラモーンズのように、バンド名を自身のステージネームとし、3人揃って同系統のファッションで統一することにより、ヒップホップのキャラクター性をより一般的にも理解しやすくした。もちろん、これというのは前の時代のブロンクスの最初期のヒップホップアーティストたちから引き継がれた重要なファッションスタイルでもあるが、彼らはその頃、NBAで取り入れられていadidasファッションをクールに、スタイリッシュに、取り入れることに成功したところが他のアーティストとは異なる。

 

黒いポーラーハット、3本のストライプの入ったアディダスのジャージ、それにだぼだぼのワイドパンツを併せ、それに彼らはadidasのスーパースターを紐なしでクールに履きこなした。

 

これはRUN-DMCのロゴと共に彼らの代名詞的なスタイルとなった。後には、RUN-DMCのライブでは、メンバーのスーパースターを見せてくれという呼びかけに観客が答えてみせ、何千、何万という数のスーパースターが掲げられたことは、彼らのスターミュージシャンとしてのほんのサイドストーリー、いわば、飾り噺の一つでしかない。また、RUN-DMCは、adidas公認のアーティストでもあるのをご存知の方は多いはず。後には、RUN-DMCモデルも発売されていることも付け加えて置く必要がある。




 

同年代のNBA文化を時代のトレンドに則して、本来はスポーツウェアであったものを、実に巧みにヒップホップファッションに取り入れてみせたRUN-DMCのファッションスタイルはあまりにも画期的であったといえる。

 

今やオールドスクールと呼ばれるようになってはいるものの、それは本当にオールドといえるのだろうか?

 

いや、そうではない。この三人組の確立したクールなファッション性は普遍性が宿っているようにおもえる。 それは、ヒップホップのキャラクター性という形で今もなおカニエ・ウェストらをはじめとする現代のヒップホップアーティストに引き継がれている重要な概念でもあるのだろう。


 

References:


ヒップホップカルチャーに愛されるadidas


https://jasonrodman.tokyo/adidas-hiphop/


まさにスーパースター! RUN DMCを聴いてadidasを履こう!


https://shoeremake.site/archives/615 


RUN DMCは何が画期的だったのか?


 http://suniken.com/feature/run-dmc-and-old-school-hip-hop-and-my-adidas.html

 


英国の1970年代の文化を形成したパンクロッカーたち、Sex Pistolsやその後のハードコア・パンクのDischargeに代表されるような、革ジャンに、破れたTシャツ、スパイキーヘアといったエキセントリックというべきファッションスタイルは、今やほとんど過去の風物として忘れさられた感がある。

 

特に、この破れたTシャツに黒いライダース風の分厚い革ジャンを着るスタイルは、現在のユニクロファッションのようなお手軽感のあるファストファッションの元祖である。実は、このファッションは、元をたどれば、1970年代のNYのバワリー街というソーホーの裏手、ウェストヴィレッジの奥まった区画のバックストリートにあるスラム街のような場所、その一角にあるニューヨークの伝説的ライブハウス「CBGB」に出演していたラモーンズと呼ばれる若者の象徴的なファッションスタイルであった。 

 

 

Ramones-liner"Ramones-liner" by I'm Heavy Duty! is licensed under CC BY-NC 2.0

 

 

この「バワリーストリート」というウェストヴィレッジの最も奥まった区画に位置する元は億万長者が住んでいた悪名高き一角に、ヒリー・クリスタルという「ヒリーズ・オン・ザ・バワリー」というホンキートンクバーを経営していた人物が、この最初の店の後に最愛の妻と一緒に初めたのが「CBGB」というライブハウスだった。ウェストヴィレッジのバワリー街は、NY最も歴史のある街であり、植民地時代、ボストンへの郵便輸送ルートの要地だったようだ。

 

元々、景気が良かった時代には、新世界に現れたビリオネア、億万長者たちが住まうていた土地だったが、独立戦争後、イギリスの駐軍兵がNYに多く入ってくると、これらの兵士の娯楽施設が必要だったためか、このバワリー街は徐々に没落していき、治安の方もあまりよろしくなくなっていって、サロン、闘鶏場、闘鼠場、売春宿、ストリップショーといった店が立ち並ぶようになり、歓楽街の様相を呈し、この界隈は、当時の海外旅行ガイドブックで危険地域として指定されるほど治安の悪い場所となり、浮浪者、アルコール中毒者、無法者が多くこの界隈を根城とするようになった。そのことにちなんで、ヒリー・クリスタルは「栄養不良の食通のためのカントリー、ブルーグラス」という意味合いで、このような皮肉じみた屋号をつけた。 

 

他方、デヴィッド・ボウイ、ルー・リードといったスターが出演していた比較的、治安の良い場所にあるマクシス・カンサス・シティとはきわめて対象的に、NYアンダーグラウンドの聖地とも呼べるライブハウス”CBGB”は、後になると、マクシス・カンサス・シティとともに、ニューヨークパンクのメッカと喩えるべき場所となった。

 

経営者ヒリー・クリスタルは、当初、この後の時代にアメリカでカントリー音楽が流行ると見込んでいた。しかし、その当てははずれ、彼は後に、このパンクシーンを形づくる第一人者として、「カントリーが流行るのはこの土地ではなかった」というように、いくらか悔しそうにこの1970年代について回想する。ヒリー・クリスタルは、元々、カントリー、ブルーグラスといったトラディショナルな演奏家を、自分のライブハウスCBGBに出演させて、このライブハウスで演奏させるつもりでいたが、次第に、こういったカントリー音楽を聞きに来る客はドリンクも食事もろくに頼まないので、ライブハウスビジネスとしての収益が全然見込めないと気づいた。そこで、ものはためしと、ヒリー・クリスタルは最愛の妻と相談をし、ロック音楽をこのライブハウスに取り入れることに決めたのだった。


プランの手始めとして、幾つかの店内の改装を自らの手で施し、さらにアンディー・ウォーホールの通称バナナジャケットのアルバムデザインでひと稼ぎしたテリー・オークが所有するロフトに出演していた新鋭のロックバンド、テレヴィジョンをこのライブハウスに出演させることに決めたのである。 

 

実を言えば、このCBGBの経営者ヒリー・クリスタルは、ロック音楽に非常に疎い人間であったと、自らロック音楽について話している。元々、第二次世界大戦中、アメリカ海軍の兵士として生きた人間だからか、古風でダンディズムな気質があり、ロックどころか、パンクのがちゃがちゃした音が最初は気に食わなかったらしい。もしかすると、同じニューヨークのライブハウス、マクシス・カンサス・シティで流行っていた、ニューヨーク・ドールズ、ルー・リード、デヴィッド・ボウイをはじめとする”グリッター・ロック”と呼ばれる面々の華美なロックンロール音楽というのは、このヒリー・クリスタルというアメリカ海軍上がりのカントリー、ブルーグラスをこよなく愛す、きわめてハードボイルドな気質を持つ人物の目には、女々しく映ったかもしれない。

 

それに加え、こういった彼のライブハウスを訪うロックバンドのメンバーの連中は、常に自信満々で、「俺達は最高だ!」と皆口を揃えて言ったりするのに、ヒリー・クリスタルは彼等より年上の人物として、いささか辟易としていた。しかし、ヒリー・クリスタルは、ライブハウスを訪れるロッカーたちの若者たちの目の輝きを見たとたん、この若者たちを信頼してみようという気になった。

 

既に、かなり有名なエピソードとなっていますが、テレヴィジョンが週一でこのライブハウスCBGBのレギュラー出演を獲得した際には面白いエピソードがある。


「お前たちはカントリーが演奏できるか?」というヒリー・クリスタルの問いに対して、テレビジョンのギタリスト、リチャード・ロイドは、「カントリー、ブルーグラスでも、なんでもお望みのものはなんでもやる」と言い放ち、CBGBのレギュラー出演の座を半ば経営者をはぐかして勝ち取ってみせた。


その後、テレビジョンのギタリスト、リチャード・ロイドはバンドを大々的にNYで宣伝してもらうため、映画「理由なき反抗」の監督ニコラス・レイに頼み、「君たちはパッションを持った4匹の猫だ」、NYの「16」誌の編集者ダニー・フィールズには、「泣かせてくれるぜ。こいつらは釘のようにタフだ」と、適当なバンドの宣伝文句を広告や雑誌等の媒体に打ってもらい、テレヴィジョンというロックバンドの存在は、NYでそれなりに知られるようになっていく。 

 

そして、これが、ロンドンに先駆けて、パンク・ロックという文化がニューヨークに誕生した瞬間だ。というか、ロンドンのパンクロック文化は後追いとして発生したもので、NY文化をなぞらえ、それを発展させ独自の文化として成長させていったもの。ここで、もし、ヒリーがテレヴィジョンの面々に実際にライブハウスでリハーサルでもさせていたなら、カントリーが演奏できないことが露見し、パンク・ロックはNY、それどころか、世界で誕生しなかった。もちろん、テレヴィジョンは、それまで一度たりとも、カントリー、ブルーグラスを演奏したことはなく、以後もカントリーを演奏したこともほとんどないのにもかかわらず、上記のように言ってのけた。経営者ヒリー・クリスタルを半ばはぐらかしてライブハウスの週一回のレギュラー出演を手に入れたことにより、このニューヨークパンク、それに続くロンドン・パンクという若者文化は始まったというのは有名な話だ。これはバワリー街という治安の悪い場所で発生したカウンターカルチャーであり、上記のニコラス・レイの適当な宣伝文句を見てわかるとおり、パンクという音楽は多くのニューヨーカーにとっても、無論、先進的な気風を持つ映画監督や編集者にとっても得体のしれぬものでしかなく、その最初はいかがわしいものでしかなかったのだ。


 

その後、このカントリー、ブルーグラス専門のライブハウス「CBGB」は、テレヴィジョンの出演を契機として、ロックミュージックが中心に演奏されるようになっていく。このテレヴィジョン、その他にも詩の朗読をライブステージで行う女性詩人、最初の女性パンクロッカーとして名高いパティ・スミス、そして、最初に性転換を行ったロックミュージシャン、荒くれもののウェイン・カウンティが、CBGBでのレギュラーの座を獲得する。その後、登場したのが、ブロンディ、トーキング・ヘッズ、ミンク・デヴィル。それから、ニューヨークパンクの基礎、後のロンドン・パンク勢に多大な影響を及ぼした四人組の若者、ラモーンズだった。


メンバー四人全員が「ラモーン」と名乗り、全員が長髪で、ダメージドジーンズ、Tシャツ、革ジャンという特異ないで立ちをした中産階級の四人の若者たち。彼等四人が、「ラモーン」というステージネームを名乗ったのは、ビートルズのポール・マッカートニーのステージネームにあやかった。ザ・ビートルズが、ドイツ、ハンブルグで”シルバー・ビートルズ”として活動していた際、マッカートニーが「ポール・ラモーン」というステージネームを使っていた。(これはあくまで、ディー・ディー・ラモーンの発言による俗説に過ぎないと付け加えておく必要がある)

 

最初、ラモーンズの面々を、CBGBの経営者ヒリー・クリスタルに紹介したのは、ご存知、アンディー・ウォーホールのアルバムジャケットを手掛けたテリー・オーク。彼は、特に、この最初のパンクムーブメントの立役者のひとりで、実のところは、自主レーベル、オーク・レコードを運営し、パティ・スミスの作品をリリースしたり、アンディー・ウォーホール以上に、この新しいニューヨークの音楽シーンを活性化させようとしていた。テリー・オークの努力には瞠目すべきものがあり、「ソーホーニュース」にこのライブハウス、この場所に出演するミュージシャンを宣伝し、また一人でドリンクを大量に頼むことにより、このニューヨークで始まった新たな音楽の潮流を明確な形にしようと奮起していた。

 

そして、テリー・オークが最も期待のバンドとして連れてきたラモーンズは、CBGBにレギュラーとして出演するまもなく、ニューヨークの若者の間で絶大な人気を博すようになる。このラモーンズが登場したときの衝撃というのは筆舌に尽くがたいものであった。たったひとつかふたつのパワーコードしか演奏されない、実にシンプルな演奏を特徴としていたが、これは彼らの登場以前には存在してなかった音楽だったのだ。


ラモーンズは、活動初期からスタイルを変えず、解散の時期まで全力疾走を続けたロックバンド。一曲は、長くても、二分、あっという間に曲が流れていき、曲間MCも皆無。無駄を徹底的に削ぎ落としたシンプルでソリッドなロックンロール音楽。何らのひねりもない直情的なロックンロール音楽。しかし、ラモーンズが、このライブハウスでライブのステージングを行う瞬間は、CBGBを訪れる多くの若者達を魅了した。彼等のライブでは、若者たちが熱狂的な歓声を上げ、うっとりする客も少なからず。当初、彼等のライブの出演時間は、だいたい、十五分程度であったが、徐々に、十五分の尺が、二十分へと膨らんでいくことになる。

 

 

そもそも、ラモーンズというパンクロックバンドが、それまでのロック・バンドと何が違っていたのか説明しておかなければならない。それ以前のニューヨークで活動するロックバンドは、悲劇のロックンローラー、ジョニー・サンダースを擁するニューヨーク・ドールズをはじめとするグリッターロックと呼ばれるグラムロックに近い音楽が主流だった。カラフルでパーマをくるくるとかけた髪、人形のようなけばけばしい化粧をほどこし、ヒールの高いブーツを履いて、女性の着るドレスのような格好を身にまとう。これは、最初のカウンターカルチャーの発生だが、後のデビッド・ボウイ、そして、ファッションデザイナーの山本寛斎が取り入れるような新奇なファッションスタイル中性的な服装を、これらのNYで活躍するグリッターロックバンドは好んで身につけていて、もちろん、そのスタイルは「ワイルドサイドを歩け」リリース時代のソロ活動をしていたルー・リードの中性的なファッションに引き継がれていった。


この後の世代の1970年代に、NYのパンクシーンに登場した前衛的なファッションを好む男女の若者たち、ウェイン・カウンティ、リチャード・ヘル、ラモーンズの台頭は、その前の時代のニューヨークのミュージシャンのファッション性とは、全くと言っていいほど相容れないものであった。同じく、CBGBを拠点に活動していた女性詩人、パティ・スミス、リチャード・ヘルのファッション性を受けついで、ダメージドジーンズにTシャツ、コンバースのスニーカー、バイカーの好むような革のライダースジャケットというファッションスタイル。この四人全員が「ラモーン」と名乗るNYのクイーンズフォレスト出身の中産階級の若者達の服装は、ものすごくシンプルでありながら、現在のファストファッションのスタイルに近い、ストリートファッションの要素を1970年代において自然に取り入れていた。彼等四人のファッションは、CBGBのステージライトに照らし出され、このライブハウスを訪れた観客の目にどれくらいクールに映ったのかは想像に難くない。

 

そして、音楽性においても、ラモーンズは、革新性の高い、インスタントファッションのような魅力を擁していた。デトロイトのMC5のガレージロックを下地にし、そこに、ビーチ・ボーイズ、ベイ・シティ・ローラーズ等のサーフロックのわかりやすい音楽性を取り入れ、キャッチーでわかりやすいメロディ性、跳ねるようなリズム、矢継ぎ早に繰り出される8ビート、そして、前のめりな「Hey Ho Let's Go!!」という威勢の良いコール。それに引き続いて、「1.2.3.4」という彼等の代名詞といえるドラマーのカウント。全てが完璧。彼等の存在は、力が抜けて、すべてあるがままなのにもかかわらず、自然なかたちでロックスターとしての風格が漂っていた。 

 

 

1st Album 「RAMONES」


1976

 

 

彼等ラモーンズの音楽は、言ってみれば、ビートルズ、ビーチボーイズのレコードの回転数を、無理やり早めたような音楽として、当時のNYの人々、取り分け、このCBGBを訪れた観客たちには聞こえたかもしれない。あまりに痛快で、シンプルなロックンロール。しかし、これが当時のニューヨークの若者の心を見事に捉えてみせたことは事実である。そして、ラモーンズは、NYのパンク・ロッカーとして、最初にメジャーレーベルと契約を結び、国内にとどまらず、イギリスやヨーロッパツアーを敢行し、その過程でラモーンズのファストファッションが海外の若者たちにも知られていく。最初、現地の音楽評論家の中には、彼等の音楽性に辛辣な評価を下す人もあったが、ラモーンズは、次第にニューヨークの若者に絶大な信頼を得て、このライブハウスCBGBの営業面で多大な貢献を果たし、看板アーティストとなったのである。

 

 

最初にも述べたように、このバイク愛好者の着る革のライダースジャケットに、ダメージドジーンズ、に加え、カットソー、スニーカーという、ラフでシンプルなファッションスタイルは、その数年後に、海を越えたロンドンのパンク・ロッカー、オールドスクールパンクのミュージシャンに引き継がれていく。現代、このスタイルは、ライダースジャケットでなく、ごく普通のフォーマルなジャケットスタイルに進化しているが、その他のスタイル、全体的な服装のシルエット自体は50年が経っても、現在のファッション性とそれほど変化がないことに驚く。

 

そして、ロンドンの若者たち、殊に、マルコム・マクラーレンが経営していたブティック”SEX”に屯するパンク文化を最初にロンドンにもたらしたロットン、ヴィシャスという若者は、このNYのバックストリート発祥のファッション、ラモーンズ、パティ・スミス、リチード・ヘル、といったNYのパンクロッカーの醸し出すデンジャラスな雰囲気に惹かれ、このファッションの要素に、カラフルな髪の色、安全ピンという独特なファッションを取り入れたのだ。

 

このストリートファッションが、やがて、GBH、Discharge、Chaos UKといったイギリスのハードコアバンドのスタイル、スパイキーヘアに代表される過激で先鋭的なファッション性に繋がっていく。また、ロンドンの若者のファッションスタイルはデイリーユースでなくて、NYのグリッターロックファッションの方向性に回帰を果たしたかのように思える。ラモーンズファッションとは異なり、このロンドンの若者たちの服装は、エキセントリック過ぎ、使いがってが良くないため、一般のファッションとして流行ることはなかったけれども。

 

しかし、パンクファッション、ストリートファッションの源流を形作ったラモーンズの現代的な服装については、現在も受け入れられるような普遍性が宿る。特に、Tシャツ、デニム、スニーカー、という普遍的なファッションスタイルは、この後に流行するファストファッションの元祖と言えるし、時代を選ばない永遠不変のクールなファッションスタイルだ、もちろん今も変わらず。


 


 

References 

 

CBGB伝説 ニューヨークパンクヒストリー CBSソニー出版 ローマンコザック著 沼崎敦子訳



こちらもの記事あわせてお読み下さい:


ADIDASとRUN-DMC ヒップホップファッションの原点

Acuascutum 英国老舗服飾ブランドとしての始まり

 

アクアスキュータムというブランドは英国の老舗バーバリーに比べ海外においては知名度の低いブランドではあるものの、バーバリーよりも旧い歴史を持つ英国王室御用達のブランドである。

 

アクアスキュータムは、仕立て職人であったジョンエマリーがロンドン西部の高級住宅地に1851年に開業した服飾ブランドである。

 

特にこのアクアスキュータムは、防水加工を施したウール生地を生み出して、特許を取得、ファッションに機能性をもたせたのが非常に革新的であった。ブランド名も防水加工の素材にちなんでおり、ラテン語で「水の盾」を意味する。日本では、防水加工の素材は梅雨時や秋雨の時期しか役立たないイメージも一般的にあるかもしれないが、雨の多いイギリスにおいて、この技術革新は生活に根ざしたものであり、尚且、アウターの実用面での機能性を追求したものであった。


1895年には、ロンドン中心部リージェント・ストリート100番地に最初の旗艦店をオープンした。

創業当初のAquascutum
 

 特に、アクアスキュータムは、イギリス王室からのオーダーメイドに求められ、イギリス王エドワード7性からグレンチェック柄のコートの注文依頼を直々に賜ったことからブランドは始まった。

 

その後、1897年、王室の紋章入の盾板「ロイヤルウォラント」を賜り、王室御用達ブランドとして発足した。そして、1900年に入ると、男性だけではなく、女性のアウターのデザインも手掛けるようになり、当時、イギリスで婦人参政権を訴えていた女性活動家を中心に大きな支持を得ていた。

 

その後、アクアスキュータムはトレンチコートの生産を中心にブランドの商品展開を行うようになる。1914年、第一次世界大戦、および第二次世界大戦に従軍した兵士のために、耐久性の強いトレンチコートの生産に踏み出した。素材そのものの耐久性、そして、防水性に優れているこのアクアスキュータムのトレンチコートは従軍したイギリスの兵士たちから大きな称賛を受けた。

 

さらに、それから、アクアスキュータムは防水加工素材のアウターの他に、防風加工のコートの開発に乗り出し、1953年、エドモンド・ヒラリーのチームがエベレスト登頂に挑んだ際にトレンチコート、ウィルコンという特殊加工素材を生み出し、時速160kmの突風をもろともしない耐久性に優れたトレンチコートを開発し、アウター専門ブランドとして世界的に知られるようになった。この後、アクアスキュータムは次なるアイテム、レインコートの開発へと乗り出していく。

 

多くの著名人に愛される老舗ファッションブランドとしての歩み

 

このアクアスキュータムのトレンチコートは、第二次世界大戦後、多くの著名人に愛されるようになった。

 

アメリカでは、名画「カサブランカ」で主演を務めるハンフリー・ボガートはソフト帽と共にこのアクアスキュータムのトレンチコートを着用し、ボガートのハードボイルド俳優としてのイメージを形作った。そして、ボギー、ハードボイルドという概念が何たるかを世界に発信してみせた。

 

もちろん、これらのアイテムを愛した人物はアメリカの映画俳優にとどまらず、イギリスの政界の大立者の中にも数多く見られる。

 

アクアスキュータムは、婦人参政権の導入を訴えていた女性活動家を中心に支持されていた経緯を持つため、「鉄の女」とも称される宰相マーガレット・サッチャーがこのブランドのアウターを好んで着用していた。

 

マーガレット・サッチャー首相

その他にも、サッチャー政権時代に財務大臣、外務、連邦大臣を歴任した後、イギリスの首相となるジョン・メージャー首相もこのアクアスキュータムを愛用した。これはサッチャー政権をはじめとするイギリスの政権が新たな時代の政治イメージを表するため、アクアスキュータムを好んで着用したとも言える。婦人参政権をファッションブランドとして支えた概念が流れている。

 

また、1996年のアトランタオリンピックでアクアスキュータムは公式ウエアとして採用されている。

 

王室御用達ブランドとして始まった経緯を持つ服飾ブランド、アクアスキュータムは、時代の流れと共に、上品さ洗練さを併せ持つ。

 

服装の中に1つ強いワンポイントのアクセントを設ける独特なアウター専門ブランドとしての歩みを進めていき、着実に、世界的なファッションブランドとしての地盤を築き上げていったのである。

 

ロックミュージシャンとアクアスキュータム

 

 

ミュージシャンとして、このアクアスキュータムのステンカラーコートをファッションの中に絶妙な具合に取り入れてみせた人物がいる。それがポール・ウェラーである。

 

 

ロックンロールにR&Bの影響を伺わせる”The Jam”のメンバーとしてイギリスのミュージックシーンに登場し、70年代から80年代の英国のパンク・ロック、モッズ・ムーヴメントを牽引した重要な人物だ。

 

その後、The Style Councileのフロントマンとして活動、1984年ポリドールから発売された1st Album「Cafe Blue」の中に収録「My Ever Changing Moods」で世界的な大ヒットを飛ばした。この曲は英国内にとどまらず、アメリカ、日本でも売れに売れたヒット作である。その後、ウェラーはソロ活動を始め、イギリスの重鎮的なロックミュージシャンとみなされるに至る。

 

そもそも、ポール・ウェラーは、音楽の側面だけでなく、ファッションアイコンとみなされる場合も少なくない。彼の個性的なファッションはモッズの代名詞ともなり、一世を風靡した。英国内のファッション業界に大きな影響を与え、日本の”渋カジュ”と称されるファッションにも影響を及ぼした。

 

ポール・ウェラーは若い時代からファッションに興味を示し、独自のウェラー流のファッションを追求してきた人物でもある。The Jam時代において、背広に上下に丈の短いトラウザーを合わせ、白いソックス、革靴というモノトーンスタイルで、他のロンドン・パンク勢と異なるフォーマルスタイルで他のバンドと差別化を図っていた。そして、The Jamの後の活動、スタイル・カウンシルにおいて、ポール・ウェラーのファッションは完成される。特に、1stアルバムに映し出されているスラリとしたウェラーのファッションは現在でも新鮮味にあふれている。

 

上掲の写真は、ザ・スタイル・カウンシルの「Cafe Bleu」1stアルバムの内ジャケットの一枚であるが、ウェラーは、ここでイギリススタイルとフレンチスタイルの融合を見事に図ってみせているのに注目である。

 

彼が、ステンカラーコートとして粋に身につけているアイテムは老舗ブランド”Aquascutum”である。

 

そして、ここにはフランスの上流階級で流行った”BCBG”と呼ばれるオールドフレンチスタイルが大胆に取り入れられている。

 

髪を短く揃え、サングラスをかけ、丈の短い八分丈のデニムの下に白いソックスを覗かせ、イギリスのゴルファーが履くような革靴で揃えるスタイル、そこにさらに、最もシルエットとして目立つトップスに英国老舗ブランドとして知られる”Aquascutum" を合わせる。これは、ポール・ウェラーの英国人としての通人としての嗜み、あるいは、矜持のような概念性が表れ出ている。

 

上品さの中に滲むそこはかとないダンディズム。これは、ハンフリー・ボガートが「カサブランカ」で演じた役柄の雰囲気を、ロックミュージシャンとして1980年代に再現させてみせた。

 

フランス流のエスプリとオールドイングリッシュを融合した概念は、その後のブリット・ポップのブラー、オアシスといった面々の「ファッションの美学」として引き継がれていくことになる。

 


スプリング・コート フランスで最古のテニスシューズ

 

 

Spring Courtは、フランスで最古の歴史を持つスニーカー。1870年にアルザスの樽職人であったセオドア・グリムセンがフランス、パリ近郊にラバー専門の工場を設立したことから事業は始まった。

 

生産工場は、パリ11区にあり、現在までグルムメイセン社の本拠となっている。その後、祖父グリムセンの事業を受け継いだセオドアの孫ジョルジュ・グリムセンは、1936年に、ゴム素材を改良し、フランスで最初のスニーカー、”スプリング・コート”を開発した。 


このスプリング・コートというスポーツシューズには画期的な特長が三つある。一つは、コットンキャンバスの素材とバルガナイズ製法という点。

 

そして、テニス用のスニーカーであるにもかかわらず、本来は革靴で頻繁に使用される素材ラバーソールを使用、靴そのものの頑丈さに重きを置いたという点。

 

今ひとつは、靴の側面下底部に四つの空気穴を設けたこと。これにより、靴の中に、常時的に空気を循環するようにし、夏でも足が蒸れにくい実用型のスニーカーが誕生する。 

 

最初、このスニーカーを試用した際の「これはバネ(スプリング)のようで、飛び跳ねるかのようだ!!」という感嘆の言葉、そして、クレーコート(土)用のテニスシューズとして開発された経緯から、フランスで最初に発売されたスポーツシューズは、「Spring Court」と命名された。

 

実際、この靴は、1930年代としては、画期的な軽さの靴であった。特に、インナーソールは分厚いが、柔らかいバネのようなクッション性を持った素材が取り入られ、歩いている時や、走っている際にも、飛び跳ねるような着用感がある。実際、スプリングコートは、1970年代後半まで多くのプロテニスプレイヤーが愛用していた。

 

さらに、このスプリングコートには、他のシューズにはない興味深いデザインが取り入れられている。

 

スプリング・コートのロゴにはトリコロール(フランス国旗)が使用、このスポーツスニーカの長年のトレードマークでもある。さらに、靴のインナーソールを剥がしてみると、一番底の部分に、ユニークなキャラクターが描かれている。

 

 

Spring Court 公式より

 

スプリング・コートの代名詞的な存在のマスコットキャラクターには取り立てて名前がついていないらしいが、頬をぷくっと膨らませて何かをピューと吹き出し、靴の中の空気圧を支えている。ぼんやり見ているだけでも癒やされる可愛らしいデザインである。

 

 

スプリング・コート愛用した歴代ミュージシャンたち

 


このフランスのテニスシューズ、スプリング・コートを愛用した有名ミュージシャンは数知れない。

 

ジョン・レノンをはじめ、ゲンスブール、ジェーン・バーキン、リアム・ギャラガー、他にも、多くのミュージシャンから親しまれているファッションアイテムである。

 

もちろん、ファッション性においても、コーディネートのしやすさがあり、カジュアル、普段着として大活躍すること請け合いで、セミフォーマルとして、このスポーツスニーカーをコーディネートの中に取り入れても、ものすごく「サマ」になることも請け合いである。

 

たとえば、シンプルなセミフォーマルの格好、ジャケット、デニムに、スプリング・コートをあわせても、それなりシルエットとしては洗練されたシャープな印象をもたらし、いかにも「洒脱!!」といった雰囲気になるのがスプリング・コートの魅力である。

 

もちろん、男女兼用で、人による体格も関係なく、どのような格好にもほど良くマッチする。また、機能面においてもすぐれ、動きやすく、歩きやすい、走りやすい、というスニーカーとして三拍子揃った特徴を持っている。

 

このスプリング・コートの主要モデル「G2」は、コットンキャンバスとレザーの二素材で販売が展開されており、コットンキャンバスの方は、1万円前後、レザータイプの方は、2万円前後という価格帯を維持しているため、比較的手の届きやすいリーズナブルなスポーツスニーカだといえるだろうか。このG2モデルの特徴をかいつまんで言えば、日常的に使い勝手の良い、ローテクだけどハイテクなスニーカーである。

 

そして、やはり、デザインとしても秀逸で、シンプルでありながら、とても絵になる。長年、白と黒の二色でメーンの商品カラーを統一してきたこともあり、購買層の年代を選ばない普遍性の高いデザイン性がこのスニーカーの魅力だ。比較的、若い年代のファッション寄りのコンバースの「オールスター」に比べ、ジョン・レノン、オノ・ヨーコの例を見ても分かる通り、若い人だけではなく、御年配の方にも安心して履いていただけるシューズである。

 

そして、これまで、数多のミュージシャンが、なぜ、このスプリング・コートを好んで履いてきたかといえば、はっきりと断言こそできないけれども、靴そのもののファション感度が高く、フォーマルとカジュアルの中間を行く、いわば使い勝手の良さがあること、そしてまた、靴そのものとしての実用性の高さが主な理由といえるだろうか。

 

とりわけ、歴代のミュージシャンの着用例を挙げると、フレンチ・ポップの生みの親のひとり、セルジュ・ゲンスブールは、広告の撮影において、このスプリング・コートを履いている。また、ジェーン・バーキンも、普段着としてこのスプリング・コートを時代に先駆けてカジュアルファッションの中に取り入れていた。

 

特に、ジェーン・バーキンは、オードリー・ヘップバーンと共に、「フェミニン」という現代では一般的となったファッションスタイルの生みの親と言っても良いかも知れない。

 

しかし、ゲンスブールの方は、一般的に言われるのとは少し事情が異なり、どちらかといえば、彼は、フランスのバレエ・シューズ、Repettoを好んでいて、よく言われるほどこのスポーツシューズを履いていたとは言いづらい。

 

一方、セルジュ・ゲンスブールとの間に子をもうけたジェーン・バーキンの方は、確かに、スプリング・コートのG2のハイカットモデルを愛用している姿が多くの写真に残されているのが見いだされる。このフランスのファッショナブルなテニスシューズ、スプリング・コートを日常的に普段着として愛用していた様子が伺えるのである。 

 

 

ジョン・レノンとスプリング・コート 


そして、歴代のミュージシャンの中でも、特に、このフランスのテニスシューズを最も愛好していたのが、他でもない、ジョン・レノンである。

 

レノンは特に、スタジオでの演奏のリハーサルをする時にも、また、日常のふとした場面を写した写真でも、このスプリング・コートを愛用している。

 

とりわけ、オノ・ヨーコと共に映される写真では、毎度のように、このスプリング・コートを履いている。

 

最初のエピソードとしては、オノ・ヨーコとの結婚式で、このスポーツシューズを履いていたくらいで、生粋のスプリング・コート愛用者といえる。特に、一番有名なのは、「アビー・ロード」のジャケット撮影、レノンはこのスプリングコートのG2を身につけている。

 

The Beatles 「Abbey Road」

 

 

つい最近まで、このジャケットワークの写真で、レノンが、普通に革靴を履いていると勘違いをしていたと申し開きをしておく必要があるが、よく見ると、アビー・ロードスタジオにほど近い横断報道を渡る際、先頭を行くジョン・レノンが、上下のド派手な光沢のある白のスーツに合わせているのは、スプリングコートのレザータイプのG2ではなく、コットンキャンバスのG2だ。つまり、スプリングコートの最もクラシカルなモデルを着用している。

 

この「アビー・ロード」のアートワークについて、スプリング・コート側は、レノン、ビートルズ側に公式に提供したものではないと後になって声明を出していて、ファッションブランドとのタイアップの一貫として、レノンは撮影時このテニスシューズを着用したのでなく、単に、自分のファッションとして気に入って身につけていただけだったということが判明している。

 

この時代から、ジョン・レノンのスプリング・コート贔屓は始まり、オノ・ヨーコとの結婚式でもスプリングコートを履いてみたり、それからはオノ・ヨーコとのリンクコーディネートとして、このスプリング・コートを自分たちのもうひとつのアイコンのようにファッションに取り入れていた。このフランス製のスポーツシューズを穿きこんで愛していた。

 

しかし、イギリス人であるレノンが、なぜ、このフランスのスポーツシューズをそれほどまで気に入っていたのかという疑問が浮かぶ。

 

一般的に、ジョン・レノンは「洒脱」と言われるファッションスタイル、つまり、他はフォーマル、セミフォーマルな格好ではあるが、靴等、服装のごく一部にカジュアルな側面を取り入れて、「崩し」という要素を取り入れた粋なファッションを演出することに長じていたという印象を受けなくもない。

 

レノンが、そのようなファッションの着崩し方をしたのはなぜなのか、これはロックミュージシャンとして「既成概念に対する反駁をする」という意図も込められていたかもしれない。 

 

 

John gifter sig med sin Yoko i Spring Court"John gifter sig med sin Yoko i Spring Court" by ljungsgarderob is licensed under CC BY 2.0

 

表向きには、ファッションというのは、ただ単に、見かけを社会性の中で披露するためのもの、というのまた、ファッションとしての楽しみ方のひとつとしてあるかもしれないが、特に、歴代のロックミュージシャンは、それをあんまり良しとせず、自分が身につける服装の中に、なんらかの強い主張性を取り入れることの主眼を置いて来た。

 

もちろん、私は、ファッションの専門家ではないのであまり強くはいえないものの、これは、ファッション=服飾という概念のとても重要なテーマの一つのように思えてならない。それが、たまたま、英国人のジョン・レノンにとっては、フランスのエスプリという概念、少しの、ウィット、スパイス、またあるいは、日本風にいえば「洒落」を効かせたスポーツシューズ、スプリング・コートというアイテムだったのだろう。