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Weekly Music Feature

 

Mitski 



©Ebru Yildiz

 

「希望や魂や愛が存在しないほうが人生は楽だと感じることがある・・・」とミツキは言う。しかし目を閉じ、何が本当に自分のものであるのか、差し押さえられたり取り壊されたりすることのないものは何なのかを考えたとき、ほんとうの愛が見えてくる。「私の人生で最高のことは、人を愛することだ」

 

「私が死んだ後、私が持っているすべての愛を残せたらいいのに、と思う。そうすれば、私が作り出したすべての善意、すべての善良な愛を他の人々に輝かせることができるのだから・・・」彼女は、最新アルバム『The Land Is Inhospitable and So Are We』が、自分の死後もずっとその愛を照らし続けてくれることを願っている。このアルバムを聴くと、まさにそのように感じる。「この土地に取り憑いている愛のようだ。これは私にとって最もアメリカ的なアルバム」と、ミツキは7枚目のアルバムについて語っているが、その音楽は、私的な悲しみや痛ましい矛盾を抱えたアメリカなる国家を直視する深甚な行為であるかのように感じられる。

 

このアルバムは、サウンド的にもミツキの最も広大かつ壮大、そして賢明な内容に彩られている。曲はアーティストの心の傷を示し、そして同時に積極的に癒しているかのようだ。ここでは、愛は数億光年も先にある遠い星からの光の反射さながらに、私達の優しい日々を祝福するため、タイムリープしている。アルバムの全体には、大人になり、一見すると平凡な心の傷や、しばしば表向きには歌われることがない莫大にも感じられる喜びによる痛みがあふれている。

 

これはアーティストによる小さく大きな叙事詩である。グラスの底から、思い出と雪でぬかるんだ車道、アメリカ中西部を疾走する貨物列車のアムトラック、そして目が眩むほど私達が住む場所から離れた月へと、すべてが、そして誰もが、痛みで叫びながら、愛に向かってアーチを描いているのだ。愛とはそもそも、人を寄せ付けぬサンクチュアリなのであり、私たちを手招きしながらも、時に拒絶する。この場所--この地球、このアメリカ、この身体--を愛するには、積極的な努力が必要となる。しかし、それは不可能かもしれない。最高のものはいつだってそうなのだから。

 

 

『The Land Is Inhospitaland and So Are We』/ Dead Oceans

 




前作『Laurel Hell』では、ビルボード・トップ・アルバム・チャートで初登場一位を記録し、Talking Headsのデイヴィッド・バーンとのコラボレーションにより、2023年度のアカデミー賞にもノミネートされ、また、イギリスの偉大なエレクトロニック・プロディーサー、Clarkへのリミックスの依頼する等、ミツキはアルバムをリリースから2年ほど遠ざかっていたものの、表層的な話題に事欠くことはほとんどなかった。


ボストンのRoadrunnerを除けば、世界的なフェスティバルにはほとんど出演しなかったものの、このアルバムの制作及び発表にむけて、そのクリエイティヴィティーをひそかに磨きつづけていた。
 
ミツキが一度は表舞台からの引退発表を行ったことは事実であるが、一方、前作の『Laurel Hell』でミュージック・シーンに返り咲き、インディーズの女王の名を再び手中に収めた。アーティストは、その謎めいた空白の期間、アーティストとして生きるということはいかなることであるのかを悩んだに違いない。


そして、オーディエンスの奇異な注目を浴びることの意味についても考えを巡らせたに違いない。例えば、Mitskiは、近年のライブにおいて、観客がアーティストの音楽に耳を傾けず、デジタル・デバイスを暗闇にかざし、無数のフラッシュをステージに浴びせることに関し、強い違和感を抱いていたはずである。


アーティストは写真を撮影されるために何万人もの前でライブを行うわけではない。また、ゴシップ的な興味を抱かれるためにライブを行うわけでもない。無数のカメラのフラッシュのすぐとなりで、ひっそりと音楽に純粋に耳を傾ける良心的なファンのため、普通の人ならほとんど膝が震えるような信じがたいほど大きな舞台に立つのである。またそのために、人知れず長い準備を行うのだ。この無数のオーディエンスは、とミツキは考えたに違いない。自分の音楽を聴きに来ているのだろうかと。

 
そして実際、アーティストは以前、そういった音楽を聞かず、写真だけを撮影しに来るオーディエンスに対して、次のような声明を出していたことは記憶に新しい。「観客とパフォーマンスを行う私たちが同じ空間にいるのにもかかわらず、なぜか一緒にその場にいないような気がする」と。さらに彼女は、ライブ・セットをスマートフォン等で全撮影をおこなう節度を弁えない(ライブを聴いていない)ファンにも率直に苦言を呈した。「ライブでの電話に反対だと言ったことはありません。私がプロとしてパフォーマンスをしているかぎり、オーディエンスは自由にライブを録画したり写真を撮ったりしてきた」彼女はもちろん、「ライブショー全体を撮影する観客のことを指している」と付け加え、「ステージの上で、静止したままの携帯電話の海を見て、ショー全体の観客の顔が全然見えなくなる」ことがとても残念であると述べた。

 
最新アルバム『The Land Is Inhospital and So Are We』を見るかぎり、上記の現代のライブにおけるマナーに関するコメントは、意外にも、重要な意味を帯びて来ることが分かる。ニューヨークの山間部に自生しているバラの名前にちなんだ前作アルバム『Laurel Hell』では、ライブを意識したダンス・ポップ/エレクトロ・ポップの音楽性を主体にしていたが、最新作では、驚くほど音楽性が様変わりしている。単体のアルバムとしてのクオリティーの高さを追求したことは勿論、ライブで静かに聴かせることを意識して制作された作品と定義付けられる。いわば多幸感や表向きの扇動性を徹底して削ぎ落として、純なるポピュラーミュージックの良さをとことん追求した作品である。これまで幾度も二人三脚で制作を行ってきたプロデューサー、そしてオーケストラとの合奏という形で録音された『The Land Is Inhospital and So Are W』は、厳密に言えばライブ・アルバムではないのだが、まるでスタジオで録音されたライヴ・レコーディングであるようなイメージに充ちている。すべての音は生きている。そして絶えず揺れ動いているのだ。

 
先行シングルとして公開された「Bug Like A Angel」のイントロは、アコースティック・ギターのコードにより始まる。しかし、その後に続くミツキのボーカルは、アンニュイなムードで歌われていて、そして、ソフトな印象をもたらす。そして、そのフレーズはゴスペル風のクワイアによって、印象深いものに変化する。まさにイントロから断続的に音楽がより深い領域へと徐々に入り込んでいく。ゴスペルのコーラスの箇所では華美な印象性をもたらす場合もあるが、メインボーカルは、一貫して落ち着いており、一切昂じるところはなく、徹底して素朴な感覚に浸されている。しかし、それにも関わらず、複数人のサブボーカルがメインボーカルの周りを取り巻くような形で歌われる、アフリカの民族音楽のグリオ(教会のゴスペルのルーツ)のスタイルを取り、曲の中盤から終わりにかけて、なだらかな旋律の起伏が設けられている。歌詞についても同様である。安直に感動させる言葉を避け、シンプルな言葉が紡がれるがゆえ、言葉の断片には人の心を揺さぶる何かが含まれている。この曲は、叙事詩的なアルバムの序章であるとともに、この数年間のシンガーソングライターとしての深化が留められている。
 
 

「Bug Like A Angel」

 

 

 

「Buffalo Replaced」ではアーティストのインディーロック・シンガーとしての意外な表情が伺える。表向きに歌われるフレーズはポピュラー音楽に属するが、一方、アコースティックギターのノイジーなプロダクションは、まるでグランジとポップの混合体であるように思える。そしてニヒリズムに根ざした感じのあるミツキのボーカルは、これらの重量感のあるギターラインとリズムにロック的な印象を付与している。ここには、不動のスターシンガーとみなされるようになろうとも、パンキッシュな魂を失うことのないアーティストの姿を垣間見ることが出来る。特にミニマルな構成を活かし、後半部では、スティーヴ・ライヒの『Music For 18 Musicians』の「Pulse」のパーカッシブな効果を活用し、独特なグルーヴを生み出す。これはモダンクラシカルとポップス、そしてインディーロックが画期的な融合を果たした瞬間でもある。

 

Mitskiはこのアルバムを「最もアメリカ的」であると説明しているが、その米国の文化性が「Heaven」に反映されている。ペダル・スティールや大きめのサウンドホールを持つアコースティック・ギターの演奏を通じて、カントリー/ウェスタンの懐古的な音楽性に脚光を当てようとしている。この曲は例えば、同じレーベルに所属するAngel Olsen(エンジェル・オルセン)が『Big Time』で示したアメリカの古き良き時代への愛のオマージュとなり、Mitskiというシンガーの場合も同じく、保守的な米国文化への憧れの眼差しが注がれている。実際、プロデューサーの傑出したミックス/マスタリングにより、曲全体にはアルバムの主要なテーマが断片的に散りばめられている。それは単なる偏愛や執着ではなく、アーティストの真心の込められた寛容で温かく包み込む感覚ーーἀγάπη(アガペー)ーーが示されていると言える。そしてその感覚は、実際、部分的にシンガーの歌にμ'sのごとく立ちあらわれ、温和な感情に満たされる。音楽というのは、そもそも肉体で奏でるものにあらず、魂で語られるべきものである。


先日、頭にいきなり思い浮かんだ来た言葉があった。それは良いシンガーソングライターとはどういった存在であるのかについて、「生きて傷つきながらも、その傷ついた魂を剥き出しにしたまま走り続けるランナー」であるという考えだ。実際、それは誰にでも出来ることではないために、ことさら崇高な感覚を与える。そして、ギリシャ神話にも登場する女神とはかくなるものではないかとおもわせるものがある。「I Don't Like My Mind」は、まさにそういった形容がふさわしく、アーティストのμ'sのような性格がどの曲よりもわかりやすいかたちであらわれている。前の曲「Heaven」と同じように、カントリーを基調にした一曲であり、自己嫌悪が端的に歌われる。ペダル・スティールはアメリカの国土の雄大さと無限性を思わせる。そしてその嫌悪的な感覚の底には、わたしたちが見落としてしまいそうな得難いかたちの愛が潜んでいる。それはシンガーの力強いビブラート、つまり、すべての骨格を震わせて発せられる声のレガートが最大限に伸びた瞬間、自己嫌悪の裏に見えづらい形で隠れていた真の愛が発露する。愛とはひけらかすものではなく、いつもその裏側で、目に映らぬほどかすかに瞬くのだ。

 

「The Deal」は、まるで暗い海の上をどこに向かうともしれず漂うような不安定なバラードである。表向きにはアメリカのフォーク/ポップの形が際立ち、それはシアトリカルなイメージに縁取られている。曲調はラナ・デル・レイにも近い。しかし、日本人として指摘しておきたいのは、サビのボーカル・ラインの旋律の節々には、日本の昭和歌謡の伝統性がかなり見えづらい形で反映されていることだろう。これらのナイーヴとダイナミックな性質の間を絶えず揺れ動く名バラードは、なぜか、曲の後半でアバンギャルドな展開へと移行していく。破砕的なドラム・フィルが導入され、米国のフォーク音楽が、にわかにメタルに接近する。これは、プロデューサーの冒険心が”Folk Metal”というユニークな音楽を作り出したのか。それともプロデューサーのミドルスブラのBenefitsに対する隠れた偏愛が示されているのか。いずれにしても、それらのダイナミックな印象を引き立てるドラム・フィルの断片が示された後、曲はグランド・コアに近いアヴァンギャルドな様相を呈してから、徐々にフェード・アウトしていく。このプロデュースの手法には賛否両論あるかもしれないが、アルバムの中ではユニークな一曲と呼べる。


「When Memories Snow」では、シンガーとしては珍しく、古典的なジャズ・ポップスに挑戦している。実際の年代は不明だが、これこそシナトラやピアフの時代への最大の敬愛が示された一曲である。ストリング、ホーン、ドラムとビック・バンド形式を取り、ミュージカルのような世界観を組み上げている。メロディーやリズムの親しみやすさはもちろん、ミツキのボーカルは稀にブロードウェイ・ミュージカルの舞台俳優のようにムードたっぷりに歌われることもあり、昨年、Father John Mistyが『Chloe and the Next 21th Century』で示したミュージカル調のポップスを踏襲している。



クワイア調のコーラスがメインボーカルの存在感を際立たせる。アウトロにかけては、Beatlesが取り組んだポップとオーケストラの融合を、クラシック・ジャズ寄りのスタイルにアップデートしている。実際、ストリングのトレモロ、 ホーン・セクションのアレンジは、ミュージカルのような大掛かりな舞台装置の演出のような迫力をもたらす。かつてのOASISの最盛期のブリット・ポップの作風にも比する壮大さである。


ミツキが今後、どのようなシンガーソングライターになっていくのか、それはわからないことだとしても、「My Love Mine All Mine」で、その青写真のようなものが示されているのではないか。ジャズの気風を反映したポップだが、この曲に溢れる甘美的な雰囲気は一体なんなのか。他のミツキの主要曲と同じように、中音域を波の満ち引きように行き来しながら、淡々とうたわれるバラード。もったいつけたようなメロディーの劇的な跳躍もなければ、リズムもシンプルで、音楽に詳しくない人にも、わかりやすく作られている。


それにもかかわらず、この素朴なバラード・ソングは、60年代から六十年続く世界のポピュラー・ミュージックの精髄を突いており、そして2分弱という短尺の中で、シンガーは、片時もその核心を手放すことはない。このNorah Jonesのデビュー作のヒット・ソングとも、一昨年のSnail Mailの『Valentine』のクローズのバラード・ソングとも付かない、従来のシンガーソングライターのキャリアの中で最も大胆かつ勇敢な音楽へのアプローチは、実際のところ、あっという間に通り過ぎていくほんの一瞬の音の流れに、永遠の美しさの影を留めている。

 

「My Love Mine All Mine」

 

 

 

「The Forest」では、カントリー/ウェスタンの懐古的な音楽性へと舞い戻る。この曲では、ハンク・ウィリムズのような古典から、WW2の後のジョニー・キャッシュ、レッド・フォーリーに至るまでのフォーク音楽を綿密に吸収して、それを普遍的なポップスの形に落とし込んでいる。「No One」や「Memory」といった理解しやすいフレーズを多用し、語感の良さを情感たっぷりに歌っている点が、非英語圏のスペインをはじめとするヨーロッパの主要な国々でも安定した支持を獲得している理由でもある。そして、ペダル・スティールやジャズのブラシ・ドラムのようにしなやかなスネアは、温和なボーカルと綿密に溶け合い、この上なく心地よい瞬間を生み出す。それはやはり、他の収録曲と同じように、あっけなく通りすぎていってしまうのだ。


アルバムの先行シングルとして公開された「Star」は、ポピュラー歌手としての新機軸を示している。この曲は編曲家/指揮者のドリュー・エリクソンとロサンゼルスのサンセット・スタジオで録音された。アーティストは、オーケストラを曲の中に導入する場合、別の場所で録音されたものでは意味がないと考え、そのオーケストラとポップの瞬間的なエネルギーを生み出そうと試みた。ハリウッド映画『Armagedon』のオープニング/エンディングのような壮大さを思わせるダイナミックなサウンドは圧巻だ。パイプ・オルガンを交えたシネマティックな音響効果が、宇宙的な壮大さを擁するバラードという最終形態に直結していく。そしてイントロの内省的なボーカルは、オーケストラやオルガンの演奏の抑揚がゆっくりと引き上げられていくにつれ、神々しい雰囲気へと変貌を遂げる。それは、このアルバムを通じて紡がれていくナラティヴな試みーー生命体がこの世に生まれてから、いくつもの悲しみや痛みを乗り越えて、ヒロイックなエンディングを迎える壮大な叙事詩の集大成ーーを意味している。そしてこの曲には、アーティストが隠そうともしない心の痛みが、己が魂を剥き出しにするがごとく表れている。

 

 「Star」

 

 

この段階までで、すでに大名盤の要素が十分に示されているが、このアルバムの真の凄さは、むしろこの後に訪れるというのが率直な意見である。アルバムの序盤では封じていた印象もある憂鬱な印象を擁する「I'm Your Man」では、サッド・コアにも近いインディーズ・アーティストとしての一面を示す。これは大掛かりなしかけのある中で、そういったダイナミックな曲に共感を示すことができない人々への贈り物となっている。そして、この曲では、(前曲「Star」の三重県出身のアーティストが若い頃に影響を受けたという中島みゆきからの影響に加えて)次のクローズ曲とともに、日本の原初的な感覚が示される。それは、曲の後半で、犬の声のサンプリング、山を思わせる大地の息吹、そして虫の声、と多様な形を取って現れる。最初に聴いた時、曲調とそぐわない印象もあったが、二度目以降に聴いた時、最初の印象が面白いように覆された。おそらく日本的なフォークロアに対する親しみが示されているのではないか。

 

アルバムの序盤では、一貫してアメリカの民謡やその文化性に対する最大限の敬愛が示されたが、その後半ではシンガーソングライターのもう一つのルーツである日本古来の民族的な感覚へと変貌し、ニンジャや着物姿のアーティスト写真の姿のイメージとピタリと合致する。また、それは、『日本奥地旅行』で、イギリス人の貴族階級の旅行家であるイザベラ・バード(Isabella Lucy Bird)が観察した、明治時代の日本人の原初的な生活ーー陸奥の農民の文化性、さらに、北海道の北部のアイヌ民族の奇妙なエキゾチズムーーに対する憧憬に限りなく近いものがある。ややもすると、それらの文化の混淆性は、歌手の最も奥深い日本人としての性質を表しており、今もなお、このシンガーの背中をしっかりと支え続けているのかもしれない。

 

アルバムのクローズ「I Love Me After You」は、前作のシンセ・ポップ/ダンス・ポップの延長線上にあるトラックで、アーティストのナイチンゲールのような献身性が示されている。しかし、驚くべきことに、その表現性は、己が存在を披歴しようとしているわけではないにもかかわらず、弱くなりもしないし、曇ったものにもならない。いや、それどころか、歌手の奥ゆかしい神妙な表現性により、その存在感は他の曲よりもはるかに際立ち、輝かしく、迫力ある印象となっている。ぜひ、これらの叙事詩のような音楽がいかなる結末を迎えるのか、めいめいの感覚で体験してみていただきたい。そして、実際、この国土的な観念を集約した傑出したポピュラー・アルバムは、2023年度の代表的な作品と目されても何ら不思議はないのである。


 

 100/100(Masterpiece)

  

 

「I Love Me After You」

 

 

 

Mitskiの新作アルバム『The Land Is Inhospital and So We Are」はDead Oceansより発売中です。日本国内では、Tower Record、HMV,Disc Unionにてご購入できます。

 

 ・ポストクラシカル/モダンクラシカルとは何か?




そもそも、最初にポスト・クラシカル(Post Classical)という用語を誰が最初に使うようになったかは定かではありません。

 

しかし、1990年代や2000年代にロックの未来形を意味するポスト・ロック(Post-Rock)という用語が出てきたことと何らかの関連性があるように推察されます。それ以前はアナログ録音が主流でしたが、デジタル・レコーディングが主流となるにつれ、一般的な録音環境にも、デジタル録音の技術が取り入れられるようになっていきました。この流れに乗じて、Protoolsのようなプロ向けの録音ソフトの普及と合わせて、1998年のBill GatesのWindowsの普及、及び、Steve JobbsがもたらしたApple(Mac)の旋風は、個人的な録音の技術に革新性をもたらさずにはいられなかったのです。

 

特に、今も多くのミュージシャンに愛されているGaregebandがMacの標準的なアプリとして導入されていたことも、専属のエンジニアに使用が限られていたデジタル・レコーディングを一般的に普及させる要因となりました。シンセ音源を別途に購入せずに、ラップトップのキーボードで音源を内臓のスピーカーから出力させるというのは画期的であり、ほとんど発明に近かった。また、この技術はApple Musicのようなストリーミング・サービスの浸透とともに、一般的なアマチュア音楽家にも、デジタル・レコーディングとDTMを普及させていくことになりました。

 

実は、商業音楽の歴史を概観すると、人工録音と生録音の融合は、その前の時代に、一部の感覚の鋭い音楽家により取り入れられていました。これらは、音楽産業の主要な土地で、ほとんど同時的に発生した動向です。


例えば、90年代には、米国のトータス(Tortoise)がジャズ・ロックとエレクトロニクスを融合させていたし、また、英国のRadioheadは、「OK Computer」の後の時代を通じ、ロックとエレクトロニクスを融合させて、いかにして未知の音楽を生み出すのかを主眼に置いていました。その他、スコットランドのMogwaiは、以前のアイルランドのMBVのエレクトロ・サウンドに触発を受け、デジタル録音と打ち込み音源を巧みに音楽の中に取り入れ、レイヴとハード・ロックをかけ合わせ、ポスト・ロックというジャンルを一般的に普及させる役割を担いました。

 

そして、このデジタルの録音技術は、さらに全く別のジャンルを生み出すことにも繋がった。 それが今回、名盤特集として取り上げるポスト・クラシカル/モダン・クラシカルというジャンルの正体です。従来まで、クラシカルは一般的に音楽大学や専門の教師から体系的にコンポジションを学び、そして、正当な教育を受けた作曲家のみが楽譜を書き、それらの作品をオーケストラに委嘱し、初演という形でコンサート・ホールでお披露目するというのが常道でした。これは、バッハやモーツァルトが教会側に委嘱され、教会のための音楽を作曲することが多かった中世の時代から、20世紀のイゴール・ストラヴィンスキー、及び、その後のモートン・フェルドマン、フィリップ・グラスの時代までのクラシカルの揺るがぬ伝統性でもあったのです。

 

確かなことは言えませんが、21世紀の現代音楽の世界でも、基本的にはクラシックという観点から考えてみると、差異はないように思えます。それはスコアとしての記譜が行われた後、オーケストラが初演し、コンサート・ホールの観客がその音楽に裁定を下す、という一連の形が古典音楽としての基本的な作法でした。その合間で、ロベルト・シューマンやロマン・ロランのような音楽評論家たちが、その音楽の良し悪しを詩的かつ文学的に論ずるという過程はありました。

 

ところが、映画音楽/劇伴音楽のコンポジションをみても分かる通り、現代の古典音楽に触発されたポスト・クラシカルは、体系的な音楽教育を受けたか否かに関わらず、手軽に作曲できるようになっています。


制作のハードルがグッと下がり、オーケストラの楽団を雇わないでも、ソフトウェア音源でオーケストラの代用ができる時代に突入しています。20世紀までは、高名な作曲家が映画のスコアと手掛けるものと相場が決まっていました。そして、その作曲家は、コンポジョションはもとより、オーケストラの記譜法に精通していなければならない決まりになっていた。これは『ゴジラ』のテーマ曲や、古いバージョンの地震速報の環境音を制作した作曲家の伊福部昭を見るとよく分かります。

 

やがて、20世紀後半になると、著名なポピュラー音楽のコンポーザー/アレンジャー、そして、一般的なミュージシャンでさえも、オリジナル・スコアを普通に手掛けるようになっていき、体系的な音楽教育を受けたコンポーザーと、そうでないコンポーザーの間の差異は、ほとんどなくなっていきました。これは、Stylusのようなオーケストラ楽譜のソフトウェアの普及も大きな効果があったでしょうし、さらに、Logic Studioをはじめとする作曲ソフトウェア、IK Multimedia、East Westなど無数のソフトウェア音源の普及も、同じように映画音楽制作に一役買ったものと推測されます。


つまり、現在の映画音楽の世界では、必ずしもオーケストラ楽団を雇わずとも、ストリングスやホーン、オーケストラ・ヒット、クワイア・コーラスに至るマテリアルを、映画音楽/劇伴音楽の作曲法に取り入れることが可能になりました。この革新性がオリジナル・スコアの制作時に、体系的なオーケストラの記譜法の教育を受けているか否か、という垣根を取り払うことに繋ったのです。

 

 

 
・ポスト・クラシカルの特性 ーその出発点 ヨハン・ヨハンソンの亡き後ー


これまで、私が現代の音楽シーンを語る際、北欧のアイスランドを最重要視して来たのには大きな理由があり、つまり、現代の音楽のジャンルのひとつの出発点はアイスランドにあるかもしれないということです。


結局のところ、映画音楽という観点から、これらのポピュラー音楽とクラシック音楽を融合させて、それらを説得力のある新しいプロダクションとして提出したのが、アイスランドのヨハン・ヨハンソンでした。


彼は、映画音楽という側面で、大きな革新性をもたらしました。生前を通じて、映画音楽に多大な貢献を果たし、その後の時代のポスト・クラシカルの素地を、90年代を通じて形成したと見て間違いありません。

 

その後、時代を経て、最初にポスト・クラシカル・サウンドの原型を形成したのがベルリンの音楽家、ニルス・フラームです。


彼は、エレクトロニックのプロディーサーとしても傑出しています。ポスト・クラシカルの原型となるドイツのロマン派に触発されたピアノ曲を生み出した。同年代にエレクトロニックのプロデューサーがクラシカル風の音楽を制作するケースはあったと思われますが、フラームはそれをロマン派に触発された作風として、「Wintermusik EP」(2009)という作品を通じて確立しています。

 

ニルス・フラームはシューベルトのピアノ・ソナタや、ショパンのピアノの小品集のように、ロマンティックで叙情的な東欧圏のピアノ曲の伝統性を現代に復刻しました。そして、エレクトロとオーケストラとの融合は、ニルス・フラームのBBC Promsの公演で世界的に知られることに。同年代、北欧のアイスランドにも、オラファー・アーノルズ(Olafur Arnolds)という傑出した作曲家も誕生しました。両者は後に、実際にコラボレーターとして、共作アルバムを発表することになりました。

 

これらのポスト・クラシカルの範疇に属する音楽家のピアノの録音には、古典的な気風を反映しながらも、それとは別の録音プロセスが存在していました。それはエレクトロニックやアンビエントといったジャンルの音響性を反映させ、プロダクションに取り入れようという考えなのです。


一例では、ピアノのハンマーをリバーブ/ディレイによって強調させ、ハンマーの音を録音中にノイズ的に処理して取り入れるという趣旨です。 これは後の2010年代になると、数多くの音楽家によって取り入れられ、ミックス/マスタリングとして顕著になっていった傾向です。時にはオラファー・アーノルズのように、特注のピアノを取り寄せ、ピアノの蓋を取り、ハンマーの音をコンデンサー・マイクロフォンで拾い、プロダクションの中に取り入れる手法が確立された。

 

また、もうひとつ主なポストクラシカルの音楽的な特徴としましては、現代作曲家のグラス、ライヒのミニマルの影響、及び、ドビュッシーやサティの系譜に属する簡素な鍵盤楽器の演奏法があります。


つまり、ミニマル・ミュージックであれば、卓越した演奏力を必要としないため、作曲家としてピアノの演奏に精通していなくとも、良質な作品が生み出すためのハードルが下がりました。かつてのリストやショパンのように、軽やかにトリルやグリッサンドが弾けなくても、また、バッハの「Goldberg Variations」のウィーンの原典版のように装飾音を巧みに弾けなくても、2023年現在では古典派風の音楽を制作することはそれほど困難なことではなくなったのです。

 

2010年代になると、アイスランドはポスト・クラシカルというジャンルを地元のレイキャビク交響楽団との協力やキャンペーンを通じて、一大的なプロジェクトへと変化させていきました。


その後、複数の優秀なミュージシャンが登場しています。元はニューヨークでファッション・モデルをしていたアイディス・アイヴェンセン(Eydis Evensen)も2020年代のポスト・クラシカルの注目アーティストに挙げられます。また、ポスト・クラシカル、ポップス、ソウルを融合させたAsgeir(アウスゲイル)も登場しました。また、この国の象徴的な歌手であるビョークがポップスの中にオーケストラの対位法を取り入れ、エクスペリメンタル・ポップとして昇華した『Fossora』(2022)を発表したのも、これらのアイスランドの音楽シーンの動向を敏感に察知したからなのです。

 

 

・ポスト・クラシカルの波及 ー米国、英国、ヨーロッパ、アジアー


Keith Kenniff 米国のポスト・クラシカルの先駆者のひとり


アイスランドに始まり、そしてドイツへと単発的に波及したポスト・クラシカルの動きは、他の音楽産業の盛んな土地へも波及していきます。


そしてその始めこそ、体系的な音楽教育を受けなかった作曲家を中心にもたらされたウェイヴは、逆説的に体系的に音楽教育を受けた音楽家をも取り込み、世界的なムーヴメントへと移行していきました。 


特に、この動きを受けて、米国でも複数のミュージシャンがこれらのピアノを中心とする作風に取り組むようになります。

 

例えば、後に坂本龍一とコラボレーションを行ったキース・ケニフのHeliosとは別のプロジェクト、Goldmundをはじめ、古典的なロマン派の音楽に触発されたピーター・ブロデリックなど、才気煥発なポスト・クラシカルに属する音楽家が、2010年代を通じて活躍するようになった。また、イギリスでも、この動きと関連する音楽家が出現し、マンチェスターのDanny Norburyというチェロ奏者もシーンの一角を担う存在でしょう。


さらに、フランス、オランダからも個性的なポスト・クラシカルアーティストが登場した。さらに、アジアにもこの音楽に触発を受けた音楽家が数多く登場しています。


エレクトロニカの傑作『Sail』を2003年にリリースし、映画音楽やドラマ音楽等で活躍する高木正勝は、同じピアノの録音技術を取り入れて、日記のような形で、bandcampでポスト・クラシカルの作品「Marginalia」を発表しつづけています。現時点では140のシングルが発表されています。

 

また、先日、イギリスのクラシックの名門、Deccaと契約を交わし、最新作を発表した小瀬村晶も2010年代から率先してこのジャンルに取り組んできた象徴的な音楽家です。


また、日本を離れて、ロンドンの音楽シーンで注目を浴びるシンセ奏者/歌手の大森日向子もポスト・クラシカルに触発された曲を発表しています。同じく、ロンドンの実験音楽/エクスペリメンタル・ポップのシーンで活躍し、イタリアの教会等でライブを行うHatis Noitもモダン・クラシカル系のアーティストとして活躍の裾野を広げ始めています。どこからどんなアーティストが出てくるのか、まったく予測がつかないというのが、このジャンルの最も面白い点でしょう。

 

上記のことは、すでに過去のアーカイブで何度も部分的に言及してきましたが、今回、改めて体系的にまとめておくことにしました。ひとつ補足しておくと、ポスト・クラシカルというジャンルは、必ずしも単一の音楽として存在するわけではありません。ときには、エレクトロニック・プロデューサーがキャリアの一作品において、あるいはアルバムの中に小休止のような形として、ポスト・クラシカルに属する作品をリリースしたり、収録したりする場合もあります。


例えば、全般的に見ると、FenneszとSakamotoの共作『Cendre』はテクノでもあり、アンビエントでもあり、ポスト・クラシカルであるということになるでしょう。もちろん、見方によれば、Clarkの『Playground In A Lake』もオーケストラがあるので、ポスト・クラシカルに属すると見ても違和感はありません。インディーフォーク/アンビエントの音楽家で、建築のアートやファッション・デザインの領域でも活躍するGrouperの『Ruins』もポスト・クラシカルに属するということになるでしょう。

 

つまり、ポスト・クラシカルは、少なからず他のジャンルに溶け込むようにして存在する音楽というのが妥当な見方となるはずです。また、もちろん、それとは反対に、ポスト・クラシカルの音楽が別の音楽と結びつく場合もあります。これは一般的には指摘されていませんが、ラナ・デル・レイの新作『Did You Know〜』にも、クラシカルとポップスの合致を見出すことができるでしょう。


下記に掲載するディスク・ガイドもいつもと同じように駆け足となってしまいますが、このジャンルの代表的な作品をピアノ曲を中心にご紹介していきます。入門的なガイドとしてご活用下さい。


 

 ・ポスト・クラシカル/モダン・クラシカルの名盤 

 

 

Hans Otte/Herbert Henck-『Das Bach Der Klange』(1999   ECM)


 



ドイツのシュヴァルムシュタットのヘルベルト・ヘンク(Herbert Henck)はミニマリズムを得意とするピアニストである。

 

これまで、ジョン・ケージ、チャールズ・アイヴズ等の演奏作品を残している。ECMより発売されたアルバムにおいて、ヘルベルト・ヘンクは同国の現代作曲家、ハンス・オットに脚光を当てようとしている。ハンス・オット(Hans Otte)は、パウル・ヒンデミットに作曲を学び、指揮をヘルマン・アーベントロート、ピアノをブロニスラフ・フォン・ポズニャックに師事している。

 

ヘルベルト・ヘンクはこの作品について、「この録音は、ある意味で、現代ピアノ音楽の中で最も注目に値する作品のひとつであり、書かれてから20年が経過しても、その美しさ、純粋さ、力強さは少しも失われていないと信じています」 と説明している。


ライヒ、グラス、ライリーの系譜にあるミニマリズムに属するピアノ作品集。倍音を活かした演奏法は凛とし、気高い精神性すら漂う。反復の演奏を通してモダン・ピアノの音響性の極致を追求した画期的な作品の一つ。

 

  

 

 

Sylvain Chauveau- 『Un Autre Decembre』(2003 FatCat

 


フランスのバイヨンヌ出身のシルヴァン・シャヴォー(Sylvain Chauveau)は、最も早い時代に、ピアノ演奏家としてポスト・クラシカルの作品に挑戦した音楽家の一人。クラシカルの作風に加え、電子音楽の作品も発表している。

 

シルヴァン・シャヴォーは、現在は分からないが、当時、楽譜の読み書きができず、自分が何の音を弾いているのかさえわからないまま、この秀逸なクラシカル風のアルバムを制作している。

 

ピアノ、弦楽器、木管楽器のための ピアノ、弦楽器、木管楽器のための美しくエレガントでミニマルな小品は、重層化され、電子音響のグリッチで処理されている。20世紀初頭の室内楽、ミュージック・コンクリート、ニューウェーブ映画からインスピレーションを得たという彼の作品は、まさにモダン・フレンチと称すべき。シンプルな演奏で、淡々としているが、そこには近代ヨーロッパの叙情的なピアノ曲の気風も漂う。ポスト・クラシカルを語る上では不可欠な作風の一つ。



  

 

 

 Nils Frahm  『The Bells』  (2010  Erased Tapes) /「Wintermusik」EP(2009 Erased Tapes)

 

 

 



後には、電子音楽/エレクトロニックの傑作を多数残しているベルリンの演奏家/作曲家、ニルス・フラームは、現在もイギリスを中心に人気を獲得している。後に発表するエレクトロニックとミニマリズムを融合させた作風が主要な作風であるが、最初期はポスト・クラシカル風の作風を残していた。

 

2021年には初期のポスト・クラシカルの未発表曲を中心に収録した『Old Friends New Friends』も発表している。

 

現時点から見ると、御本人は、この時代の作風について、「ドイツ・ロマン派的」であるとしており、古びた作風であると捉えているらしい。最初期に発表した三曲収録の「Wintermusik」、それに続いて発表された『The Bells』は、ポスト・クラシカルをより有名にする役割を担った作品である。


「Wintermusik」では、ドイツ・ロマン派に属する叙情的なピアノ曲を制作している。ミニマリズムに根ざした音楽性ではありながら、後に2010年代にかけて電子音楽という領域で開花する曲の想像力や構成力という面で非常に光るものがあり、相対音感や和音のセンスという面では現在の音楽家でも傑出している。

 

翌年に発表された『The Bells』は、ベートーヴェンのピアノ・ソナタに比する荘厳さと厳粛さを兼ね備えたゲルマン魂に溢れた硬派なピアノ作品集。以前から追求してきたポスト・クラシカルの作品は、本作においてひとまず集大成を迎えた。制作者本人がどう思っているのかまではつかないが、後の複雑な構造性を擁する電子音楽の原点は、2010年前後の作風に求められると思われる。

 

 

  


 

 

 

Olafur Arnolds 『Some Kind of Piece』ーPiano Reworks (2022  Universal Music)

 

 


 

アイスランドを代表する作曲家で多数のコラボレーターとの共作を残し、そして、グラミー賞ノミネートのプロデューサーとしても知られ、地元のレイキャビク交響楽団との共演を果たしているオラファー・アーノルズ。まさに現代のアイスランドの顔とも言っても差し支えないだろう。また、アーノルズはソロ名義にとどまらず、Kiasmosとして活動し、秀逸なエレクトロニックを制作し、現在、自主レーベルも立ち上げ、多岐にわたる分野で活躍している。

 

最初期はエレクトロニックを中心に制作していたプロデューサーではありながら、映画音楽やピアノを中心にソングライティングを行うにつれ、ポスト・クラシカル・シーンの先鋒として強烈な存在感を持つに至った。上記のニルス・フラームとは音楽的盟友であり、共作アルバムも発表している。

 

そして、ピアノ作の最高傑作は、パンデミック時代に発表された「Some Kind of Piece」、さらに続いて発表されたリワーク『Some Kind of Piece』ーPiano Reworksとなるだろう。知人の音楽家を中心にアーノルズの作品の再構成に挑戦している。


この作品について、アーノルズは、「作品は提出してそれで終わりというわけではない」と語る。本作の録音には、Eydis Evensen、Hania Rani,JFDR、イルマなど、国境や地域を越え、複数の音楽家が参加。韓国のイルマの「We Contain Multitudes」は、原曲よりテンポがゆっくりとなっている。この曲は「From Home」バージョンのシングルとしても発売されている。

 


 




 Peter Broderick 『Grunewald』EP (2016   Erased Tapes)



 

オレゴン州カールトン出身の作曲家、ピーター・ブロデリック(Peter Broderick)はソロ名義の活動のほか、Efterklangのメンバーしてセッション・ミュージシャンとしても活躍している。叙情的でスタイリッシュな音楽を制作するプロデューサーであり、ポスト・クラシカルからエレクトロニック、ボーカル・トラック入りのオルト・フォークに至るまで、ジャンルに規定されない幅広い音楽を制作している。哲学者のような風采も実際の音楽性に説得力を与えていることは疑いがない。

 

2023年にはピアノ曲を中心としたフル・アルバム『Burren』を発表している。これまで複数のシングルを含め、断片的にポスト・クラシカルという領域にある表現性を拡張してきた。制作者の音楽性の原点となった作品群が、2010年のフルアルバム『How They Are』、2016年に発表されたEP『Grunewald』、2020年に発表されたシングル「Ernest Layers」である。

 

本作は、その後のErased Tapesの録音上のコンセプトに強い影響を及ぼした作品であろうと思われる。教会建築のような特殊な音響性やアンビエンスを活かしたピアノ曲は静謐な印象があり、そして安らぎに充ちている。

 

ストリーミングでも多くの再生数を記録しており、本作のクローズとして収録されている「Eyes Closed and Traveling」は、モダンなピアノ曲としては最高峰に位置する名曲の一つ。この曲は、シングル・カット・バージョンとしても発売されていて、ファンタジックな着想が込められながらも、深い叙情性を漂わせている。

 

古典的なヨーロッパのピアノ曲の気風を受け継ぎながらも、その着想の中には音の配置や空間性からもたらされる建築学的な美学が潜んでいる。ミニマリズム、モダニズム、ポスト・モダニズムという芸術的な概念が複合した結果、これまでありそうでなかったスタイリッシュなピアノ曲が生み落とされることになった。

 

  

 

 

amiina  『YULE』 (Aamiinauik Ehf 2022)

 

 


 

アイスランドの室内楽グループ、amiinaはエレクトロニカと弦楽四重奏をかけあわせた音楽性が魅力。テルミンやクレスタ等の音色を駆使し、おとぎ話や絵本のような可愛らしい世界を音楽により構築している。エレクトロニカ色の強い室内楽としては、『Kurr』、『The Lightning Project』等の良作を発表している。

 

ミニ・アルバム『YULE』は2022年のクリスマス直前に発表された、グループのクリスマスのための室内楽の曲集となる。近年、エレクトロニカと弦楽器の融合にメインテーマを置いていたアミーナ。

 

12月9日に自主レーベルから発売されたミニ・アルバムでは、電子音楽の要素を排し、チェロ、ビオラ、バイオリンをはじめとする室内楽の美しい響きを探究している。このリリースに際して、amiinaは、「クリスマスの楽しみのために、これらの細やかな室内楽を提供する」とコメントを出しているが、その言葉に違わず、クリスマスで家庭内で歌われる賛美歌に主題をとった聞きやすい弦楽の多重奏がこのEPで提示されている。

 

アルバムの全7曲は細やかな弦楽重奏の小品集と称するべきもの。厳格な楽譜/オーケストラ譜を書いてそれを演奏するというよりも、弦楽を楽しみとする演奏者が1つの空間に集い、心地よい調和を探るという意味合いがぴったりで、それほど和音や対旋律として、難しい技法が使われているわけではないと思われるが、長く室内楽を一緒に演奏してきたamiinaのメンバー、そして、コラボレーターは、息の取れた心温まるような弦楽器のパッセージにより美麗な調和を生み出している。賛美歌のように調和を重んじ、amiinaのメンバーは表現豊かな弦のパッセージの運びを介し、独立した声部の融合を試みている。


これらの楽曲はほとんど3分にも満たない小曲ではあるけれど、クリスマスの穏やかで心温まるような雰囲気を見事に演出している。

 

  

 

  


Danny Norbury  『Light In August』(2014  flau)


 

マンチェスターのチェロ奏者、ダニー・ノーベリー(Danny Norbury)は、ソロ活動にとどまらず、ナンシー・エリザベス、ラファエル・アントン・イリサーリ、ライブラリー・テープスの作品やライヴなどで名脇役として活躍する。


多作な演奏家ではないが、これまでのソロ名義で発表された三作のアルバムは、いずれも濃密な音楽的な主題に下支えされている。

 

ダニー・ノーベリーの音楽の主題は、本式のアコースティックなチェロ演奏に加え、ラップトップを介して出力されるエレクトロニクスの融合である。ライブのステージでは実際の彼の演奏に加え、ラップトップをステージに持ち込み、2つの視点による音楽が融合を果たす場合もある。

 

特に、ウィリアム・フォークナーに触発された2014年のアルバム『Light In August』は、ピアノとチェロとエレクトロニクスが劇的な融合を果たしたポスト・クラシカルの傑作である。 


決してテクニカルではないが、ピアノの演奏の瞑想性、思索性、その内側に漂う静謐さ、それらの空間性の中をノーベリーの重厚なチェロの演奏が幽玄に舞う。ときに、ノーベリーのチェロはノイズや不協和音という形をとって抽象的な空間に立ち表れ、調和的なピアノの演奏になごやかに溶け込んでいく。潤沢な午後のひとときを約束する、穏やかさに充ちた時間の連続。



  

 

 

 

Goldmund 『Sometimes』(2015  Western Vinyle)


 




キース・ケニフは米国の音楽家で、現在、妻のホリー・ケニフがドリーム・ポップ/アンビエントのプロデューサー/ギタリストとして頭角を表しつつある。現在もピアノを通じて良作を発表し続けている。


元々は、エレクトロニック・プロデューサー名義のHeliosとして活動していたキース・ケニフではあるが、ヘルマン・ヘッセに触発されたと思われるGoldmund名義では、良質で聞きやすいピアノ作品、そして現代的なテクノロジーとアメリカーナをシームレスにクロスオーバーしたインディーフォークを制作している。とりわけ、ピアノ作品としては、『The Malady Of Elegance』、そして『Sometimes』が代表作として挙げられる。前者は、色彩的な和音性を突き出したアイディアに富む。後者は、それらの作風にゴシック調のストーリー性を加味した内容となっている。


また、この作品には、坂本龍一が『A Word I Give』でコラボレーターとして参加している。この時代、かれは、Alva Notoとのグリッチ・ユニットはもちろんのこと、キース・ケニフや、アンビエント・シーンで活躍目覚ましいジュリアナ・バーウィックともコラボレーションを図っていた。当時、坂本龍一は、彼より若い音楽家との共同制作に積極的な姿勢を示しており、「若い音楽家から提案があれば、いつでもコラボレーションしたい」と話していた時代が今ふと思い出される。


  




Akira Kosemura 『In The Dark Woods』 (2017    1631 Recording AB)

 



 

小瀬村晶は、英国のデッカと契約し『Seasons』という傑作を発表しているので、国内のミュージシャンとは言いがたくなりつつある。もちろん、他分野で活躍なさっている音楽家である。ピアノ曲を書き、あるときは映像のための音楽を作り、もちろんレーベルオーナーとしての表情を持つ。

 

これまでLibrary Tapesに近い、ミニマリズムに触発を受けたピアノ曲を2010年代を通じて書いてきたが、一応その継続した活動の集大成と呼ぶべき作品が『In The Dark Woods』となる。

 

これまで多数のドラマや映画音楽を手掛けていることもあってか、音楽の視覚性(サウンドスケープ)と実際の音の構造を結びつける力量は他を凌駕するものがある。アルバムのアートワークに代表されるように、幽玄な森を彷徨うかのような神秘性が本作の最大の魅力となっている。

 

実際のピアノの演奏力は巧みであるが、技術を披瀝するわけではなく、クラシックに詳しくないリスナーにもその良さをシンプルに伝えようとしている。ある意味では、長期的な活動を通じて、この作品を一つの区切りとして、現在はより深みのあるピアノ曲に取り組まれているという印象を受ける。

 

   

 

  

Henning Schmiedt 『Piano Day』(2021  flau )

 


 

本稿は、パートナーシップの関係にあるflauを持ち上げようとして作成したわけではなかった・・・。しかし、結局、より良いプレイリストを制作しようとしたら、flauから2つの作品が登場していた。

 

リスナーとしては、メジャー/インディーを問わず、レコード・レーベルだけで聴くものではないと思うが、好きな音楽を探すためのひとつの指針として、「レーベル」という概念は存在すると言って良いかもしれない。また、Labelという意味は、単なる一企業を示すものではなく、主宰者の考えや人生観が深く反映されている。それは、どちらかといえば、「人生の流儀」とも称するべきものなのだ。ECMもそうだし、ラフ・トレード、もちろん4ADも同じである。また、もっと細かいところでいえば、ディストロ等をやっている個人レコード店も同様だろうか。レーベルに関しては、音楽的な側面のみで一括りにして語り尽くせるものでもないと思っている。

 

現時点のポスト・クラシカルを中心とするレーベルの最高峰としては、日本/東京のflauか、あるいは、その先駆者である英国/ロンドンのErased Tapesということになるかもしれない。 結局、この2つのレーベルは、ポピュラー寄りのクラシカルに属する作品の普及に関して多大な貢献を果たしてきた経緯がある。また、それはflauがFADER等の海外の大手メディアにも紹介されていることからもわかる。ジャンルレスに良い音楽を広めようというのが、両レーベルの共通項でもあるのかもしれない。

 

さて、 Henning Schmiedtについて、私は十数年前からその存在こそ知っていたのだったが、特にポスト・クラシカル系のピアノ演奏家として、最高峰にあるのではないか、という考えを持っていた。しばらく時間が経ち、そして、様々な驚愕的な出来事が起こり、またほとんど何も起こりもしない日々もあり、全然別のジャンルを聴いたり、また、音楽そのものから離れていたせいもあって、その存在も長らく忘れかけていた。


 旧東ドイツ時代の出身のベテラン作曲家、へニング・シュミートはモダン・クラシックにとどまらず、ワールド・ミュージック、ジャズと複数のジャンルを深く知悉した音楽家だ。最初に挙げたハンス・オットとは別の領域に属する演奏家であるが、十数年前に、ECMのカタログと並んで、このアーティストの音楽を聴いた時の印象としては、リラックス感のあるピアノ曲という感じだった。頭でっかちではない、感性を元にしたピアノ曲として印象に深く残った。そして、今回、あらためて、へニング・シュミートの代表作とも言える『Piano Day』を聴いて分かるのは、当時の最初の印象や直感がまったく間違っていなかったということである。

 

今聴いても、このアーティストに関して、当初の鮮烈な印象はほとんど揺らぐことはありません。それどころか、その信頼度に関しては従来よりも強まり、当時の印象をはるかに凌ぐものすらある。


ピアノの演奏は凄くシンプルなのにも関わらず、そこには、作曲家のピアノへの愛情が溢れ、音のひとつひとつには煌めきがあり、和らいだ風が通り抜けていくかのような錯覚すらある。ハンス・オットの建築学的な興味に裏打ちされたミニマリズムとは対象的に、一般的に開かれたミニマリズムの最高峰に、へニング・シュミートは到達している。旧来の堅苦しいドイツ・アカデミズムからの音楽概念の開放というのを、制作者は主なテーマに置いているのかもしれない。

 

子供からお年寄りまで年齢を問わず楽しめる、素晴らしいポスト・クラシカルであり、現時点でこれ以上の作品は存在しない。少なくとも、何歳になってもこういった音楽を好きでありつづけたい。



 

 

Hania Rani 『On Giacometti』(Gondwana Recrods 2023)


 

近年、ポスト・クラシカルの作品を中心に良質なカタログを発表しつづけているマンチェスターのGondwana Recordsは、2020年代を通じて、ロンドンのErased Tapesとともに、この「ポスト・クラシカル」というジャンルを急成長させる大きな役割を担うことだろう。ポーランドのシンセサイザー演奏家/ピアニスト/作曲家のハニャ・ラニは、彫刻芸術を中心に数々の名作を残した同名のスイスのアート界の巨人のための映像作品のサウンドトラックに挑戦した。


ハニャ・ラニ(Hania  Rani)は、このピアノを中心とする作曲集を録音するため、友人が所有する山岳地帯の山小屋に冬の期間滞在し、これらのピアノ曲集を書き、その年の春に山小屋を後にした。ヨーロッパの大規模のライブ・イベントではシンセサイザー奏者として知られているミュージシャンであるが、この作品では徹底したピアノによるミニマリズムを展開させ、アルベルト・ジャコメッティの抽象主義/シュールレアリズムをリズミカルなピアノ演奏を通じて表現しようとしている。

 

フレドリック・ショパンの生誕の地からこのアーティストが出てきたのは偶然ではなく、時代に要請されてのことである。同地の音楽大学で学んだ本式の作曲法や演奏法を元にして、制作者のファッション・センスとアート・センス、そして豊かな感性や叙情性を複合させ、聞きやすく、そして聴き応えのあるポスト・クラシカルのニュー・トレンドが生み出された。ハニャ・ラニは、オラファー・アーノルズの作品にも参加しているが、今後、ヨーロッパ圏を中心に、ポスト・クラシカル・シーンやエレクトロ・シーンで大きな注目を集めることが予想されます。

 

 

 

 

 

Gia Margaret 『Romantic Piano』 (2023 Jagujaguwar)

 

 

 

ポップという観点からは過度な注目こそ受けていない印象もあるGia Marharetではあるものの、この作品はミュージシャンの最高傑作と断言したい。jagujaguwarのレーベルの方はこの作品をそれほど強く推してはいない感じであったが、今作は、アメリカではなく、イギリスやヨーロッパ圏で広く受け入れられそうな作風である。

 

元々、ポピュラー・シンガーとして活躍をしていたシカゴのGia Margaretは、声が一時的に出なくなり、その後にピアノの作曲へとシフト・チェンジしていった。エレクトロニックを交えたクラシカルへと転向した前作のアルバムに続き、「Romantic Piano」はピアノ、ギター、テクノといった、このジャンルの主要な音楽性をシームレスにクロスオーバーしている。虫の声などのアンビエント風のサンプリングが取り入れられているのにも注目したい。

 

ピアノの楽譜を書いた後、グリッチ/ディレイ等のエレクトロの加工を施し、それらをセンス溢れるポピュラーなクラシック音楽へと昇華させる技術は傑出している。穏やかな日々の幸せを噛み締め、それらをセンス抜群のオシャレかつスタイリッシュなピアノ曲へと昇華させている。

 

アルバムの中では、オルト・フォークとしても聞ける「Guitar Piece」も秀逸で、モダン・ポップスとして鮮烈な印象を放つ「City Song」も捨てがたい。きわめつけは、Aphex Twinへのオマージュを示したと思われる「April to April」では、ピアノ曲を通じて新たなフェーズへと踏み入れている。

 

これから、ボーカル曲を制作するのか、それともインスト曲を制作するのかは本人次第であるものの、そのどちらに進むにしても未来は明るいと思う。以後、耳の肥えたリスナーから注目を集めても不思議ではないでしょう。



Nils Frahm 『Day』 (2024 leiter)




 今回の最新アルバム『Day』は個人スタジオがあるファンクハウスから距離を置いている。このファンクハウスの個人スタジオは、『All Melody』のアルバムのアートワークにもなっている。なぜ制作拠点を変更したのかについては、東西分裂時代のドイツの閉塞感から逃れることと、作風を変化させることに狙いがあったのではないかと推測される。


フラームは、以前からドイツの新聞社、”De Morgen”の取材で明らかにしている通り、ワーカーホリック的な気質があったことを認めていた。しかし、そのことが本来の音楽的な瞑想性や深遠さを摩耗していることも明らかであった。おそらく、このままでは、音楽的な感性の源泉がどこかで枯渇する可能性もあるかもしれない。そのことを知ってのことか、ニルス・フラームは、2021年頃から、ライブの本数を100本ほどに徐々に減らしていき、パンデミックやロックダウンを契機に、彼のマネージャーと独立レーベル、”Leiter-Verlag”を設立し、その手始めに『Music For Animals』を発表した。これらの動向は、次の作品、そして、その次なる作品へ向けて、以前の活動スタイルから転換を図るための助走のような期間であったものと考えられる。


フラームは、活動初期のコンテンポラリークラシカル/ポスト・クラシカルの未発表音源を収録した2021年の『Old Friends New Friends』では、自身のピアノ曲を主体とする音楽性について、「ドイツ・ロマン派」的なものであるとし、いくらかそれを時代遅れなものとしていた。その後の『Music For Animals』はシンセサイザーによるアンビエント作品であったため、しばらくはピアノ作品を期待出来ないと私は考えていたのだったが、結局のところ、このアルバムで再び最初期の作風に回帰を果たしたことは、ある種のブラフのような言葉だったのだろう。



しかし、原点回帰を果たしたからといえど、過去の時代の成功例にすがりつくようなアルバムではない。はじめに言っておくと、このアルバムはニルス・フラームの最高傑作の1つであり、ピアノ作品としては、グラミー賞を受賞したオーラヴル・アルナルズの『Some Kind Of Piece』に匹敵する。全編が一貫してピアノの録音で占められていて、あらかじめスコアや着想を制作者の頭の中でまとめておき、一気呵成に録音したようなライブ感のある作品となっている。


ここ数年の称賛された作品や、売れ行きが好調な作品を見るかぎりでは、そのほとんどが数ヶ月か、それ以上の期間がアルバムの音楽の背景に流れているのを感じさせるが、『Day』は、ほとんどそういった時間の感慨を覚えさせない。制作者によるライブ録音が始まり、それが35分ほどの簡潔な構成で終了する。多分、無駄な脚色や華美な演出は、このアーティストには不要なのかもしれない。フラームのアルバムは、ピアノの演奏、犬や鳥の鳴き声のサンプリング、そして、マイクの向こう側にかすかに聞こえる緊張感のある息遣いや間、それらが渾然一体となり、モダン・インテリアのようにスタイリッシュに洗練された音楽世界が構築されたのである。


American Grafitti

全般的に見ると、映画やサウンドトラック、つまり映像や映画の中で流れる音楽は、その映像媒体の単なる付加物に過ぎません。

 

ところが、なんの変哲もない、つまらない映像のワンショットが、ある種の情感を引き立てるようなBGMが付加されることで、時代を象徴するような名シーンに変化する場合がある。そして、それは時に映画全体の評価すら変えてしまう場合もあるのだから不思議だ。ローマの休日、スタンド・バイ・ミー、さらに、時計じかけのオレンジ、シャイニングといった著名な映画のワンシーンではそのことがよく理解出来る。つまり、映画のサウンドトラックとは、本質的には映像の付加物に過ぎないけれども、一方では、映像そのものよりも優位に立ち、ストーリーや映像を支配する場合すらあるのです。

 

例えば、ホラー映画のワンシーンにおいて、そのシーンとは全く別のユニークな音楽が流れたらどう考えるでしょう。多くの鑑賞者は、その瞬間、恐怖を忘れ、また、失望し、興ざめしてしまうはずです。反対にコメディー映画のワンシーンで、場違いなホラーの音楽が流れたら、(それはそれで前衛的で面白いと考える人もいるかもしれませんが)興ざめすることでしょう。つまり、一見、映像とその付加物に過ぎない音楽が分かちがたく結びついた途端、主媒体の持つ意味が変化し、本来、付加物であるはずの音楽が優位に立つケースが極稀に存在するのです。このことについて、映画評論家のジェイムズ・モナコーー”映画を読む”という考えに基づいて作品の評論を行った人物ーーは、そもそも映画の音楽が効果的な形で活用されるようになったのは、ブロードウェイのミュージカルの時代であると指摘しており、この2つの媒体がどのように関連しているかについて、以下のように述べています。「だが、今日、ミュージカル形式の映画の中で、最も成功しているのは、純然たるコンサート・フィルムである。これはサウンドトラックがフィルムを伴っていて、映像がサウンドトラックに支配されているのだ・・・(以下略)」というのです。

 

例えば、ジュディー・ガーランドのミュージカルの時代から、その後のハリウッドを中心とする映画全盛期の時代にかけて、もしくはフランスのパリ、イタリアのミラノを始めとするヨーロッパを中心とする映画の時代において、音楽がその映像作品のストーリーを強化することは決して珍しいことではありませんでした。たとえば、好例としてはトーマス・マン原作の「ヴェニスに死す」があります。この映画の最後のシーンでは、疫病に侵された音楽家が、人気のなくなったイタリアの浜辺で息絶えますが、明暗のコントラストを最大限に活用することで知られるイタリアの巨匠であるヴィスコンティ監督は、この印象的なシーンに、グスタフ・マーラーの『アダージェット』を使用し、その光と影の微細な変化と同期させ、この映画を不朽の名作たらしめた。つまり、実際の良い映画音楽は、単なる付加物にとどまることはほとんどなく、本来の役割を離れ、映像すら超越し、その映画のワンシーンを印象的な形で鑑賞者の記憶に留めておくのです。

 

今回、改めて、映画の中に導入される音楽が重要視されるようになったブロードウェイの時代から、 映画産業の最盛期にかけての名作映画とサウンドトラックを、下記に網羅的にご紹介致します。以下のプレイリストを参考にすることで、実際の映画を鑑賞するときに、”音響効果としてサウンドトラックがどのような形で映像に効果を及ぼしているのか?”という観点から映画を観ることもまた映画鑑賞の一興となるでしょう。

 

 

 

Louis Armstrong  『Hello Dolly!』 映画『Hello Dolly!』(69年)より


 



ジェイムズ・モナコが指摘するように、ミュージカルがサウンドトラックの原点にあるとするならば、まずはじめに紹介しなければならないのは、同名のミュージカル『Hello Dolly!』が映画化された本作である。

 

監督は、ジーン・ケリー、振り付けはマイケル・キッドが担当した。第42回アカデミー賞で美術賞、ミュージカル賞、録音賞の3部門を獲得した。ジャズボーカル/トランペットの巨匠であるルイ・アームストロングが客演した同名の作品のテーマソングである「ハロー・ドリー!』は、マンハッタンのブロードウェイミュージカル全盛時代の華やかな雰囲気を味わうのに最適である。


 

 

 

Irving Berlin/ Ethel Merman 映画『There’s No Business Like Show Business』 『There’s No Business Like Show Business』(54年)より


 



 

もし、ブロードウェイのミュージカルがどのような音楽として出発したのかを知りたいのであれば、ハロードリーの次に思いうかぶのがエセル・マーマンが歌った映画『There’s No Business Like Show Business』の表題曲である。

 

20世紀のニューヨーク/マンハッタンが最も反映した時代の華やかさを見事に捉えた名曲。エセル・マーマンは、この曲の中で、まるで舞台女優のように歌うのだが、実際の音源からもミュージカルの様子を想像することが出来る。まさにショービジネスのような華やかなビジネスはこの世に存在しないことを体現している。ブロードウェイのネオンが目に浮かぶような一曲である。

 

 『ショウほど素敵な商売はない』(There's No Business Like Show Business)は、1954年のアメリカ合衆国のミュージカル。監督はウォルター・ラング、出演はエセル・マーマンとマリリン・モンロー!! など。 ミュージカル『アニーよ、銃をとれ』のために書かれたアーヴィング・バーリンの歌「ショウほど素敵な商売はない」の曲名をそのまま映画のタイトルにしている。

 

 

 


『Love is a Splendered-Thing(慕情)』 映画『Love is a Splendered-Thing(慕情)』(55年)

 





『慕情』(Love Is a Many-Splendored Thing)は、1955年のアメリカ合衆国の恋愛映画で、20世紀フォックスが配給し、同年、日本でも公開されている。

 

監督はヘンリー・キングで、出演はジェニファー・ジョーンズとウィリアム・ホールデンほか。ベルギー人と中国人の血を引く女性医師ハン・スーインの同名の自伝的小説(英語版)を映画化した作品である。

 

 主題歌「Love Is a Many-Splendored Thing 慕情」は第28回アカデミー賞歌曲賞を受賞し、多くの歌手によりカバーされた。同曲を作曲したサミー・フェインはジャコモ・プッチーニの歌劇『蝶々夫人』のアリア「ある晴れた日に」を参考に作曲した。

 

この原曲のバージョンはミュージカルであるものな、映画のアレンジバージョンが複数存在すると記憶しており、一番有名なメインテーマのオーケストラ・バージョンに加え、実は、中国風のイントロのメロディーがきわめて印象的なボーカル・バージョンのバラードのレコーディングが存在する。

 

テーマソング『Love Is a Many-Splendored Thing 慕情』は、オーストリアの作曲家であるグスタフ・マーラーの管弦楽法の影響を直接的に受けた爽やかな雰囲気を擁するオーケストラレーションは、映像の持つ魅力を最大限に引き出すことに成功している。


 


 

Debby Reynolds 『Tammy』 映画『Tammy and the Bachelor(タミーと独身者)』(57年)より


 



 

デビー・レイノルズは、女優としても演技力が随一といっても差し支えないはずだが、歌手としても他のミュージックスター達の歌唱力に引けを取らない甘美な歌声を持った伝説的なシンガーである。女優としての才能だけでなく、歌手としての素晴らしい才覚を示してみせたのが、ロマン・コメディ映画の「タミーと独身者」だった。

 

米ユニバーサルから配給された映画「タミーと独身者」1957は、シド・リケッツ・サムナーの小説を原作とし、ジョセフ・ペブニーがメガホンを取った。年頃の少女が自分の恋心の芽生えに気づいた淡い感情を描いてみせた名作の一つで、コメディの風味も感じられるが、米国らしいロマンティックさに彩られた往年の名画といっても良い。

 

 

 

 

Judy Garland  『Over The Rainbow』 映画「The Wizzard Of OZ』(39年)より


 



 
ハリウッド映画の黄金時代を象徴する女優/歌手のジュディー・ガーランドの華やかな人生は、反面、その影であるドラッグ産業とともに象徴づけられる。ガーランドは20世紀初頭の華やかなミュージカルの時代の過渡期に伝説的な女優として活躍した。
 
 
ミュージカルと映画の転換期にあたる『オズの魔法使い」におけるガーランドの名演は、映画史に残るべきものである。劇中歌で使われた『Over The Rainbow』も米国のポピュラー史の中でも屈指の名曲に挙げられる。推測に過ぎないが、後の時代に隆盛をきわめるディズニー映画の音楽のステレオタイプは『Over The Rainbow』の夢見るようなロマンチシズムに求められるといっても過言ではない。ライマン・フランク・ボーム原作の『The Wondeful Wizzard Of OZ』(1900)のファンタジックな物語性を音楽的な側面から見事に捉えた伝説的な名曲である。
 

 

 


Pat Boone 『April Love』   映画『April Love』(57年)より






パット・ブーンの「April Love」を聴けば、映画の中に挿入される音楽が、どれほど映像の持つ雰囲気を盛り上げるのかがよく分かる。

 

ビルボード・マガジンの集計によると、パット・ブーンは、エルヴィス・プレスリーに次ぐチャート記録があるヒットメイカーとして知られている。同名映画のテーマソングである「4月の恋」50~60年代において大成功を収めたポピュラー歌手で俳優/作家のパット・ブーンが、1957年にDOTレーベルからリリースしたシングル。ビルボード・ホット100チャートで最高1位、さらにUKシングルチャートで最高7位を記録した。

 

サミー・フェインが作曲し、ポール・フランシス・ウェブスターが作詞したポピュラーソングである。パット・ブーンとシャーリー・ジョーンズが主演を務めた、ヘンリー・レヴィン監督の1957年の映画『エイプリル・ラヴ』の主題歌として書かれた。春先のロマンチックな雰囲気を漂わせる甘いバラードソングだが、これ以上に爽やかな映画のテーマソングは寡聞にして知らない。


 


 

8.Buddy Holly 『That's ll Be The  Day』  映画『American Grafitti』(73年)より


 



 ”Mel’s Drive-In"に行ったことがある人はいるだろうか? それは冗談としても、SFの傑作『スターウォーズ』で知られるジョージ・ルーカルのもう一つの傑作が、70年代の米国の若者の暮らしを見事に活写した『アメリカン・グラフィティ』 である。


実は、この映画、米国のオールディーズ、ドゥワップの名曲ぞろいで、ほとんどこのジャンルのベスト盤といっても過言ではない。

 

ロックのアイコン、チャック・ベリーを始め、スカイライナーズ、プラターズ、バディー・ホリーと怒涛のドゥワップの名曲のオンパレードで、実際の映像のムードを盛り上げている。特に、スターウォーズのように大掛かりな演出が施されているわけではないのに、私はこの映画が大好きである。

 

特に、エンディングにかけてのビーチ・ボーイズの名曲『All Summer Long』は、劇中の主人公たちの青春と相まって、ほとんど涙ぐまさせる何かが込められている。また、この曲の中では、HONDAが登場し、若者の間で日本の外車がトレンドであったことも容易に伺える。ドライブインやクールな車が登場し、その物語の中を若者たちが所狭しと動き回る様子は、同じく青春映画の傑作『スタンド・バイ・ミー」に匹敵する。この時代の奇妙な近未来的な作風は、後の「バック・トゥ・ザ・フューチャー」に大いに影響を与えたのではないだろうか?

 

 

 


The Platters 『Smoke Gets In Your Eyes』映画『A Guy Named Joe』(43年)/『Always』(89年)


 




ザ・プラターズの『煙が目に染みる』は、1933年、ジェローム・カーンの作曲により、ミュージカル『ロバータ』 (Roberta) のミュージカルのショー・チューンとして書かれた。作詞はオットー・ハルバック(Otto Harbach)が手掛けている。 同年10月13日に、ガートルード・ニーセン(Gertrude Niesen)により最初のレコード録音が行われた。1946年には、ナット・キング・コールもカヴァーしている。1958年、コーラスグループのザ・プラターズがカバーしてリバイバル・ヒットした。

 

1958年、プラターズのドゥワップのカバーは全米R&Bチャートで3位、全英では1位を記録し世界中で大ヒットしたことはよく知られている。1943年のアメリカ映画『A Guy Named Joe』のリメイク版、1989年スティーブン・スピルバーグ監督の映画「オールウェイズ」でも、この曲が効果的に使われた。前者の映画は古すぎるため、一度も観たことがない。特にサントラとして効果的に使用されているのはスティーヴン・スピルバーグ監督の作品の方だろう。歴代のバラードソングの中でも屈指の名曲/カバーといっても良いのではないだろうか? 


 

 

 

The Righteous Brothers 『Unchained Melody』 映画『Ghost』(90年)より


 




90年の『ゴースト』は、興行的には大成功をおさめた作品であるのは事実だが、永遠の名作なのかは疑問符が残る。私はそれほど映画には詳しくない、と断った上で言わせていただきたいが、この映画の発想自体は斬新で面白く、90年代に流行ったということについても頷ける話だけれども、現代的な感覚から見ると、どことなくB級感漂う作品というのが個人的な感想なのである。

 

もちろん、一方で、映画のサウンドトラックという観点から見ると、「Unchained Melody」は映像効果のムードの側面に素晴らしい影響を与えている。原曲は55年で、35年の時を経て、同映画の表題曲として採用され、英国一位のリバイバルヒットを記録している。例えば、最近の『ストレンジャー・シングス 未知の世界」のメタリカやケイト・ブッシュの例を見ても分かる通り、オリジナルの楽曲が、数十年も後になってリバイバルヒットを記録するケースはそれほど稀有なことではないのだ。

 

また「ゴースト」のプロデューサーは、ビートルズのレコーディングプロデューサーとしてお馴染みのフィル・スペクターである。ジョン・レノンやジョージ・ハリスンはフィル・スペクターのことを気に入っていたと言うが、ポール・マッカートニーはあまり好きではなかったという。この噂の真相までは定かではない。ともあれ、「Unchained Melody」は幻想的でありながら現実的であるという、この映画の核心をうまく体現している。また映画のサントラとしては問答無用に素晴らしい一曲である。



Simon & Garfunkel 『Sound Of Silence』 映画『The Graduate』(67年)より 


 




 
「サウンド・オブ・サイレンス」(原題はThe Sound of Silence、またはThe Sounds of Silence)は、サイモン&ガーファンクルが1964年に発表した。1964年のオリジナルレコーディングは商業的に成功せず、直後にバンドは解散することになる。しかし、1965年、オーバー・ダビングされたバージョンが1966年にビルボード誌で2週に渡って週間ランキング第1位を獲得した。ビルボード誌1966年年間ランキングは第25位。 1967年のアメリカ映画『卒業』では挿入曲となった。


『卒業』は1967年に公開された作品で、主演はダスティン・ホフマンである。今では大物俳優の彼の記念すべきデビュー作である。この映画は、アメリカン・ニューシネマの代表作としても認知されており、当時のアメリカの時代背景(ベトナム戦争や女性運動など)が反映され、政治に対する不信感を感じることができる作品となっている。

 

『明日に架ける橋』など他の全般的な代表作を見ると、それほどマイナー調の曲は少ないサイモン & ガーファンクルではあるものの、「サウンド・オブ・サイレンス」だけは非常に暗鬱な雰囲気が漂う。ある意味では、ベトナム戦争時代の米国の当時の若者のリアリティを反映させた作品とも称せる。


 


Steppenwolf 『Bone To Be Wild』 映画『Easy Rider』(69年)より






私はバイク乗りではないものの、デニスホッパー主演の『Easy Rider」ほどモーターサイクルやハーレー・ダヴィッドソンがかっこよく思える映画もそうそうないと思う。


映画のテーマ曲「Born To Be Wild(ワイルドで行こう)」(68年)を提供したステッペン・ウルフの方は、60年代後半のアメリカンロックを代表するバンドである。元々、バンド名も、カルフォルニアのUCLAの学生が好んで読んでいたという作家のヘルマン・ヘッセの前衛小説「荒野のおおかみ」に因んでいる。そう考えると、カルフォルニアのヒッピーの自由主義、ラブ・アンド・ピースのキャッチフレーズを掲げて登場したロックバンドと、ワイルドであることを生きる上での金科玉条とする作中人物たちの生き様は、他のどの映画よりも絶妙にマッチしていたのだ。

 

「Born To Be Wild」は60年代のアメリカン・ロックの最高傑作の一つであり、映画のサウンドトラックとしても超一級品である。ちなみに、バンドのアルバムの原曲では存在しないが、映画のサウンドトラックのバージョンのイントロには、バイクのマフラーをブンブン吹かす音が入っている。

 

 

 



Ben E King 『Stand By Me』  『Stand By Me』(86年)


 




四人の若者たちが、青空の下の線路の上を仲睦まじく歩く姿を想像してもらいたい。そしてそれは、それ以前の映画の作中人物の人間関係をしっかり辿った上で見ると、涙ぐまずにはいられないような映画史きっての印象的なシーンなのだ。つまり、青春映画の最高傑作『Stand By Me』の魅力は、あの名場面に尽きるのである。ただ、Music Tribuneは映画サイトではないため、あのシーンが本来どのような意味を持つのかについては考察するのを遠慮しておきたい。

 

軽快なコントラバス(ウッドベース)の演奏で始まる『Stand By Me』は、1961年にアトコ・レコードからシングルとして発売されたベン・E・キングのシングル作である。1986年に公開された同名の映画で主題歌として使用され、映画の宣伝のためにミュージック・ビデオが制作された。同年、再発売され、全英シングルチャートで第1位を獲得した。作詞作曲は、キングとジェリー・リーバーとマイク・ストーラーが手掛け、チャールズ・アルバート・ティンドリーによって作曲された黒人霊歌「Load, Stand By Me」に触発されて書かれた。つまり、あまり知られていないことだが、「スタンド・バイ・ミー」はポピュラーミュージックである前にゴスペルソングなのである。


「Stand By Me」は初盤の発売以降、そうそうたるミュージシャンに気に入られ、ジョン・レノン、ブルース・スプリングスティーン、レディー・ガガ、忌野清志郎によってカバーされた。現時点でのカバー・バージョンの総数は400を超える。 映画の最高のテーマ曲の一つとして最後に挙げておきたい。





 

 

 ポスト・ロックに関するレビューは断片的に記してきたものの、網羅的なディスクガイドについてはそれほど多くは取り上げてきませんでしたので、今回、改めてポスト・ロックの代表的なアーティストと決定盤を下記に取り上げていこうと思います。


選出に関しては現代的な音楽から見ても先鋭的なバンドの作品を中心にご紹介していきます。以前のタッチ・アンド・ゴー特集のレコメンド、日本のポストロック特集も是非合わせてご覧ください。

 

 では、ポスト・ロックというのは何なのか?? シンプルに説明しますと、その名の通り、ロックを先を行く音楽で、アバンギャルド・ロックとほぼ同意義といっても良いでしょう。ただ、これらは他のジャンルと同じく、マスロックをはじめ無数のサブジャンルに細分化されているため、相当なマニアでもなければ、その変遷を説明することは難しいので、ここでは割愛して大まかな概要のみを述べておきます。

 

 ポスト・ロックの音楽は大まかに3つに分けられます。一つは、轟音系と呼ばれるもので、MBVの轟音の次の時代に出てきた音楽です。これらは、オーケストラ音楽に近いダイナミックな編成がなされる場合もある。例えば、MOGWAI、シガー・ロス、MONOが該当する。2つ目はスティーヴ・ライヒやフィリップ・グラスの現代音楽のミニマリズムを継承したロックで、Don Cabarello、God Speed You Black Emperror!が該当する。もうひとつは、ジャズの影響を受けたライブセッションの延長線上にあり、Toroise、Sea And Cakeが当てはまる。

 

 90年代前後に彗星のごとく登場したポスト・ロックの音楽は、70年代のパンクムーブメントがそうであったように、形骸化した音楽に対して新鮮なムードをもたらそうというミュージシャンの意図が込められていました。 これは穿った見方かもしれませんが、同年代のLAの産業ロックに対する反抗心もあったかもしれません。

 

 80年代〜90年代当初、ポストロックは米国で盛んになった後、海外にも広がっていき、アジアやヨーロッパでもインディーシーンを中心に盛り上がった。日本では、ToeやLITE、そしてAs Meias、台湾の高雄でもElephant Gymが台頭しています。その後、現在はジャズが盛んなイギリスにそのシーンの拠点を移し、特にロンドンを中心に前衛的なロック・ミュージックを志向するバンドが徐々に増えている。


 一例では、ロンドンのブラック・ミディやBC,NR、また、ドライ・クリーニングやキャロラインも明らかにポスト・ロックの範疇にある音楽に取り組んでいます。これは、ロンドン近辺の若者が普通に米国のアメリカーナやエモ、ポスト・ロックに親しんでいることの証明ともなっている。

 

 そして、当初のシカゴやルイヴィルのシーンを見るとわかるように、これらのロックの次の時代を象徴する新しい音楽というのは、必ずしもオーバーグラウンドのシーンから出発したとはかぎりません。

 

 当初は、アンダーグラウンドに属する小さなライブスペースから発生し、音楽ファンの間でその名が徐々に知られるようになった。例えば、Minor Threat〜Fugaziと同じように、それらのバンドはDIYのスタイルを図り、少人数規模のスタジオ・ライブを行うこともあったのです。

 

 もちろん、後のポストロックが有名になっても必ずしも先駆者のバンドが世界的な知名度を得るとは限らなかった。モグワイやシガー・ロスのような一般的な存在が出てくるのは最初の出発点から見ると、だいぶ後のこと。つまり、90年代のグランジも同様ですが、新しい音楽がアンダーグランドからオーバーグラウンドに引き上げられるのには、それ相応の時間を要するわけです。

 


 

God Speed You!  Black Emperor(Canada)

 



GY!BE(God Speed You! Black Emperor)は、カナダのポストロックシーンを象徴する偉大なバンドである。現在もメンバーを入れ替え、さらにストリングス奏者を増やして活動中。


バンド名は日本の暴走族の映画のタイトルに拠る。一般にいうポスト・ロックというジャンルの大まかな印象は、このバンドの音楽を通じて掴めるといっても過言ではない。ライヒのミニマリズムに根ざした曲の構成、チェロやヴァイオリンの導入、リバーブとディレイをかけた音響系のギターの音作り、映画のような会話やアンビエンスのサンプリングを導入し、物語調の音楽を紡ぎ出す。

 

GY!BEの楽曲は、ほとんどが10分を越えで、20分以上に及ぶ場合もある。大掛かりな曲がほとんどであるが、一曲の中に複数の小曲が収録され、それらの音のタペストリーが映写機のように連続していく。ライブではギタリストが椅子に座って演奏し、フィードバックを最大限に活用する。これまでのライブでは、ステージの背後にプロジェクターを設置し、映像と音楽を同期させるインスタレーション風のパフォーマンスを行っている。

 

米シカゴのクランキー・レコードから2000年発売された伝説的名盤『Lift Your Skinny Fists Like Antennas To Heaven』の発売当初は、海外メディアからレッド・ツェッペリンの音楽と比較される場合もあったという話。


「Storm」のミニマリズムも魅力ではあるが、実際のところ、このアルバムに収録されている「Static」、「Sleep」は『Led Zeppelin Ⅳ』に匹敵する凄さを体感出来る。1999年のJohn Peel  Sessionの伝説のライブはこちら



『Lift Your Skinny Fists Like Antennas To Heaven』 2000  Kranky

 


 

Mogwai (Scotland)

 


最近では、映画のサウンドトラックのリリースや、再発、回顧録などが中心となってしまい、ライブバンドとして第一線を退いてしまった感もあるモグワイであるが、以前、ディスクユニオンのスタッフのレビューではポスト・ロックというジャンルを紹介する上で必ず出てきた。それが上記のGY!BEとスコットランドのインディーロックシーンの象徴的な存在モグワイである。

 

97年の「Young Team」がNMEの年間ベストアルバムの七位に選出され、ニューライザーとして一躍注目を浴びだ後、2000年代を通して、世界的なロックバンドとして成長していった。日本の音楽シーンとも関わりがあり、ある作品にはENVYのボーカルが参加していることでも知られる。

 

モグワイの音楽がなぜポスト・ロックないしは新しいロックといわれたのかについては、アイルランドのMBVの轟音性をアンビエント的に解釈し、反復のディストーションギターのフレーズとリズムを通じて確信的に組み立てた功績が大きいといえるだろうか。また、よく言われる叙情性溢れる轟音ロックや、静と動を通じて繰り広げられる楽曲展開については、特にグラストンベリーやフジロックのような大型のロックフェスのコンサートとも親和性が高く、2000年代以降の音楽シーンの象徴的な存在となったのは何も不思議な話ではなかった。

 

反復フレーズを中心とするシンプルな轟音のギターロックは、初見のリスナーでも音楽の持つ世界に簡単に入り込むことが出来る。


今はなき日本の富士銀行をアートワークにあしらった「Young Team」、「Come On Die Young」を薦める方も少なくないと思われるが、ここでは、美麗なメロディーと轟音性が生かされた「The Hawk In Howling」を入門編として推薦したい。このアルバムに収録されている「I'm Jim Morrison,I’m Dead」、「Thank You Space Expert」は音響系のポスト・ロックの金字塔とも称するべき名曲である。なお、モグワイのスチュアート・ブレイスウェイトは現在、Silver Mossとして活動を行っている。

 

 

『The Hawk In Howling』 2008 Wall Of Sound Ltd.

 


 

Sigur Ros(Island)



現在来日公演中のビョークとともにアイスランドの象徴的な存在であり、またモグワイとともにポストロックの象徴的な存在であるヨンシー率いるシガー・ロス。1994年に結成、現在も活動中、昨年、『Art Of Mediation』をリリースしている。後の時代には、ステージでビョークと共演を果たしている。ライブではボーカルとともにヨンシーがバイオリンの弓を使用する場合もある。

 

シガー・ロスは、音響系と呼ばれるポスト・ロックのサブジャンルに属するバンドである。アンビエントや環境音楽とモグワイと同じように轟音性の強いロックを融合させ、90年代以降のロックシーンに革新性を与えた。それに加えて、フロントマン、ヨンシーのアイスランド語のボーカルを交えた音楽性は後の米国のExplosion In The Skyのようなバンドのお手本に。加えて、アイスランドの国土の気風の影響を受けた美麗なロックミュージックはそれ以前のU2の後の時代のロックミュージックとして多くのファンから受け入れられることになった。

 

その後、アイスランドにはヨハン・ヨハンソン、オーラブル・アーノルズとポスト・クラシカル/モダンクラシカルに属するミュージシャンが数多く出てきて、そして世界的な活躍をするようになった。そういった意味では、以前の記事でも書いたことなのだが、ビョーク、及びシガー・ロスはこれらの後続のミュージシャンの活躍への架け橋ともなった重要なアーティストなのである。音響系のポストロックとしてシガー・ロスは良盤に事欠かないが、お薦めとして、『agaetis byrjun』を挙げておく。この作品では、俗に言う音響系と呼ばれるアンビエントとロックの融合という革新的な音楽性の核心に迫ることが出来るはずである。

 

 

『Agaetis Byrjun』 1999 KRUNK

 

 




 

 

Rachel's (US)

 


ケンタッキー/ルイヴィルシーンでSlintとともにポスト・ロック/マスロックシーンの先駆的なグループ、Rachel's。現在はピアノ奏者としてモダンクラシカルシーンで活躍するレイチェル・グリムを中心に、Rodanのギタリスト、ジェイソン・ノーブルを擁する室内楽に近い編成のアート集団である。弦楽器とピアノを交えたバンドとして、91年からジェイソン・ノーブルが死去した2012年まで活動した。図書館のようなスペースでDIYの活動を行っていた。

 

それほど多作なアート集団ではないが、二十年間の活動の間にリリースされた作品はマニア向けではありながら、実験音楽として軒並み高いクオリティーを維持していた。活動開始から四年後に発表された95年のデビュー作『Handwrinting』は、カナダのGY!BEにも強い影響を及ぼしたと思われる。オーケストラにおけるミニマリズムとロックの融合の原型が「M.Dagurre」に見出せる。芸術家、エゴン・シーレを題材にした「Music For Egon Shiele』もオーケストラの室内楽として高いクオリティーを誇る。

 

彼らレイチェルズの入門編としては、2003年の最後の作品『System/Layers』をおすすめしたい。レイチェル・グリムスのピアノの演奏を中心に、ミニマリズムに触発された音楽性とジブリ音楽のような情感豊かな弦楽器のパッセージが劇的な融合を果たした傑作。全キャリアを通じて唯一のボーカルトラック「Last Things Last」を収録している。必ずしも、ロックの範疇にはないグループではありながら、後続のポストロックシーンに与えた影響は計り知れない。

 


『System/Layers』2003 Quartersticks  



 

Tortoise(US) 

 

 


いわゆるシカゴ音響派のくくりで語られることも多いトータス。現在のインディーズシーンで象徴的なミュージシャン、元Bastroのメンバー、ジョン・マッケンタイア、後に同地のジャズシーンの象徴的な存在になるジェフ・パーカーを中心に結成された。

 

ジャズを始め、様々な音楽が盛んなシカゴの気風を反映したアバンギャルドロックバンドである。 タイトルを冠したデビューアルバムではジャズを反映させた実験的なロックバンドとして台頭したが、続く96年の『Million Will Never Die』でシカゴ音響派と呼ばれるジャンルを確立。97年の「TNT」では時代に先んじてレコーディングにラップトップを導入し、ハードディスクレコーディング(Pro Tools)を採用し、 ユニークなサウンドを打ち出して成功を収めた。それまでバンドは演奏をテープに録音し、その後にデジタル・リマスターを施していた。

 

『TNT』はポストロックの先駆的なアルバムである。 ロックとコンピューターレコーディングの融合というのは現代的な録音技術としては一般的に親しまれる手法となったが、最初にこの音楽性にたどり着いたのは、RadioheadとTortoiseであった。現在も定期的にライブを開催しており、実際のライブセッションにおけるアンサンブルの超絶技法は、その場に居合わせたオーディエンスを圧倒する。レコーディングバンドとしてもライブバンドとしても超一流のグループである。PitchforkのMidwinter 2019での『TNT』のフルセットはトータスのキャリアにおいて伝説的なライブに数えられる。

 

 

『TNT』1998 Thrill Jockey

 


 

 

Battles(US)

 

 

ニューヨークのダンスロックバンド、Battlesは、Helmetのドラマー、ジョン・ステニアー、Don Caballeroのイアン・ウィリアムズを中心に結成。現在は脱退してしまったが、タイヨンダイ・ブラクストンが10年まで参加していた。またバンドは、7年、11年、16年にフジロックフェスティバルで来日公演を行っている。英国のダンスミュージックの名門、ワープ・レコーズと契約し、実験的なダンサンブルなポストロックバンドとしては当時、最大の成功を収めた。

 

知るかぎりにおいて、これだけシンバルの位置を高くするドラマーをいまだかつて見たことはない。シンバル(金物)の音の抜けを意識していると思われるが、実際のライブや映像を見ると、本当にびっくりする。


バトルズのポストロックバンドとしての最大の特徴は、変拍子を交えたテクニカルな構成力もさることながら、イアン・ウィリアムズが持ち込んだドン・キャバレロ時代のギターロックの革新性をダンサンブルなロックとして受け継いだことにある。デビューアルバム『Battles』はポストロックというジャンルにとどまらず、ロック・ミュージックの名盤に上げてもおかしくないような傑作である。

 

しかし、こういった以前には存在しなかった前衛的なサウンドが完成するまでに実に20年もの月日を費やしている。それ以前にメインメンバーの二人が90年代のUSアンダーグラウンドシーン、ドン・キャバレロやヘルメットのメンバーとして十分な実験を重ねた末に生み出されたものであり、この音は決して、一年や二年で考案されたものではない。特に、ドン・キャバレロのミニマリズムに根ざしたマスロックの要素がクラブミュージックのキャッチーさと組み合わさることで唯一無二の音楽が生み出されたのである。

 

 

『Mirrored』2007 Warp

 


 

toe(Japan)

 


海外でポストロックというジャンルが隆盛をきわめるにしたがい、2000年代の日本でもこのシーンに属するバンドが登場する。

 

日本の新宿を中心とするポスト・ハードコアのコンテクストから言うと、既にENVYがポストロックに近い作風を2003年の『Dead Sinking Story』で確立していたが、その後のジェネレーションがいよいよ登場するようになった。これらのシーンにあって、最初は3ndなるホーンセクションと変拍子を交えたアバンギャルドロックバンドが台頭、その後、パンク/ハードコアシーンで活躍していたBluebeard/There Is A Light That Never Goes Outのメンバーを中心に結成されたAs Meias,LITE、そしてtoeが 00年代のシーンを担う。最近、ロックダウン時に毎日新聞のインタビューに登場し、アーティストとしての提言を行っている。

 

toeの音楽に関して言えば、ミニマルの影響を交えたテクニカルで複雑な構成力を持つロック、いわゆるマス・ロックの典型例である。しかし、一方で、これらのマニア向けのコアな音楽性の中にも、エモーショナルな雰囲気と日本語のポップスの影響を交えたわかりやすい音楽性がtoeの最大の魅力。2000年代に国内のシーンで頭角を現したtoeは、その後、日本の全国区のロックバンドとなり、以後、LAでのライブを成功させ、その名を現地のシーンにとどめた。

 

オリジナル・アルバムとしては、2015年の『Hear You』を境にリリースが途絶えているtoeではあるものの、彼らの入門編としては代表曲「グッド・バイ」(シンガーソングライター、土岐麻子が参加したバージョンもあり)を収録した2009年の『For Long Tomorrow』がまず先に思い浮かぶ。

 

このアルバムに見られる変拍子に象徴されるテクニカルな構成力、及び、ポリリズムを交えた立体的なフレーズの組み上げ方は、日本のシーンに実験的なロックがもたらされた瞬間を刻印したと言えよう。また、LITEと同じく、邦楽ロックという観点から洋楽をどのように解釈するのかという点でも、バンドはこの作品にたどり着くまでかなりの試行錯誤を重ねた形跡もある。ライブバンドとしてのダイナミックな迫力と内省的なエモーションを兼ね備えた決定盤である。下記の「グッド・バイ」の映像はLAでのライブを収録。現地の観客の日本語の熱いシンガロングにも注目したい。

 

『For Long Tomorrow』 2009 Machupicchu Industries




Elepahnt Gymー大象體操 (Taiwan)



アジアのシーンにも波及したポスト・ロックのウェイブは、日本のみならず、台湾にも新しい風を吹き込むことになり、海に近い高雄からエレファント・ジム(大象體操)という象徴的な存在を輩出する。2012年結成と比較的新しい歴史を持つエレファント・ジムは、兄弟のKTChangとTellChang、ドラマーのChia-ChinTuにより構成されている。昨年、二年ぶりとなるフルレングス『Dreams』のリリース記念を兼ねてフジロックで来日公演を行っている。

 

近作で、エレファント・ジムはSF的な世界観を交えた近未来を思わせる実験的なロックに取り組んでいるが、当初、バンドは先行のポスト・ロックバンドと同様、ミニマル・ミュージックの影響を絡めたマス・ロックのバンドとしてミュージックシーンに登場している。実際のライブやライブを収録したAudio Treeシリーズのバージョンでは、KT Chanのタッピングをはじめとするテクニカルなベースの演奏を楽しむことが出来る。しかし、現時点での決定盤としては以前紹介しているとおり、2016年のEP『工作』が入門編として最適。マス・ロックの象徴的なミニマルのフレーズと、シティ・ポップに近い雰囲気を持つ中国語の柔らかいフレーズを交えたKT Chanのボーカルが合わさり、バランスの取れたポストロックサウンドが生み出されている。

 

また、バンドは、日本語歌詞でも歌い、来日時のライブではMCを日本語で行うこともあるのだとか。日本での活躍にも期待したい。

 

 

Elepant Gym 『Work (工作)』 2016 EP

 


 


Black Midi(UK)



以後の時代になると、ロンドンにもポスト・ロックのウェイブが押し寄せることに。昨年、最新作『Hellfire』を発売し、来日公演も行ったロンドンのアバンギャルドロック・バンド、ブラック・ミディはイギリスのアバンギャルドロック・バンドの中で強い存在感を放つ魅力的なグループである。デビュー当初はドイツのCANを始めとするクラウト・ロックの影響を絡めた前衛性の高い作風でロンドンのシーンに名乗りを上げる。最初の作品のリリース後、マーキュリー賞にもノミネートされ、受賞こそ叶わなかったがパフォーマンスを行っている。

 

現在は、サックス奏者を交えた四人組として活動しているが、キング・クリムゾンのプログレッシヴロックの要素とミュージカルのようなシアトリカルな要素が劇的に合致し、唯一無二の作風を昨年のサードアルバム『Hellfire」で打ち立てることになった。

 

ファースト、2nd、3rdと毎回、若干の音楽性の変更を交えた作品としてどれも違った魅力があることは明白であるが、このバンドの醍醐味を味わう上では現時点でバランスの取れた3rdアルバム『Hellfire』を入門編としておすすめしておきたい。前作の「John L」から引き継がれた音楽性は、このバンドの持つ超絶的な演奏技術により、無類の領域へと突入しつつあるようだ。このフリージャズの要素は、プログレッシヴ・ロックとスラッシュメタルの方向性へと突き進んでいき、3作目の「Welcome To Hell」で結実を果たす。また、二作目から受け継がれたミュージカル風の音楽やバラードもまたブラック・ミディの音楽の醍醐味のひとつ、つまり代名詞のような存在となっている。今後、これらの作風はどのように変化するのか今から楽しみで仕方がない。


 

 

「Hellfire」2022 Rough Trade





Black Country,New Road(UK)

 



こちらもロンドンのポストロックシーンを代表するブラック・カントリー、ニュー・ロード。メンバーのサイドプロジェクトには、Jockstrapがある。昨年、アイザック・ウッド参加の最後の作品となった 2ndアルバム『Ants From Up Here』をリリースし、またフジロックでも来日公演を行っている。

 

現在、バンドはフロントマンの脱退後、新編成でライブを開催しつつ、新曲を試奏しながら練り上げている。今後、どのような新作が登場するか、心待ちにしたい。ライブ盤としては先週末に発売された『Live at The Bush Hall』がファンの間で話題となり、バンドの代名詞的なリリースとなっている。

 

前時代のポストロックシーンの音楽性を踏襲し、ジャズの影響をセンスよく織り交ぜ、弦楽器を交えてライヒのミニマリズムを継承したロックサウンドは、ロンドンのシーンを活性化させた。ファーストアルバムのアートワークについても、インターネットの無料画像を活用し、それを印象的なアートワークとならしめた点についても、現代のティーネイジャー文化の気風をセンス良く反映させたといえる。BC,NRもブラック・ミディと同様に、最初のアルバムがマーキュリー賞にノミネートされ、一躍国内の大型新人として注目を浴びるに至った。

 

『Live at Bush Hall』 2023  Ninja Tune