Colouring ''Love To You,Mate''  家族への愛情と美しいポップス

Colouring


「僕はかねてから音楽の中で自分の人生を正直に語るよりも、シナリオを作る側にいた」と、ジャック・ケンワーシーはベラ・ユニオンから発売されるセカンド・アルバム『Love To You, Mate』について語る。「自分の物語じゃないから、怖くなくなった。それは本来、共有すべきものなんだから」


ノッティンガムを拠点に活動するソングライター兼プロデューサーの人生は、デビュー・アルバム『Wake』のリリースを数ヵ月後に控えた2021年2月、義理の弟グレッグ・ベイカーがステージ4のガンと診断されたことで一変した。その後の人生は、一人の青年の人生を分断させることに執念を燃やしているように思えた。彼は、結婚したパートナー、ヘレンを支える柱になる必要があると特に自覚していたが、逆境に直面した家族が共に歩む道のりは、残酷でありながら美しいものであった。


「もちろん、私たちはとても怖かった」とケンワーシーは、アルバムのタイトル・トラックに刻まれた、病院で過ごした次のクリスマスについて回想している。「それでも、彼らはとても前向きで、優しくて、感動的な人々で、すべてを投げつけられて、信じられないような一体感と精神でそれに対処していた。私たちは皆、彼が私たちの人生にいてくれたことにとても感謝している」


Colouringは『Wake』以来ソロ・プロジェクトとして活動しており、このアルバムは00年代のポスト・ブリットポップの大御所たち(初期のコールドプレイ、エルボー)と並んでブルーナイルの影響を受けつつ、レディオヘッドやジェイムス・ブレイクからエレクトロニックとリズムのヒントを得ている。もともとはゴールドスミス在学中に4人の友人で結成されたバンドだったが、2019年に自然消滅した。バンドは2017年にEPをリリースした際に、ダーティーヒットの看板アーティスト、The 1975、ジャパニーズハウスとライブで共演した。特にこのとき、ケンワーシーはThe 1975のことを褒め讃え、学ぶべき点があったと語った。


2020年初頭、ケンワーシーの長年のコラボレーターであるジャンルカ・ブチェラーティ(アーロ・パークス)が、彼がプロジェクトを畳むという考えを一笑に付したおかげで踏ん切りがつき、ケンワーシーは普段しているように、栄養補給と逃避の手段として強迫的に作曲にのめりこむようになった。


グレッグが病気で倒れた頃、ジャックは「新しい音のパレット」を作っていた。「ただ書きたいことを書けばいい、何でも好きに言えばいい。問題が有れば後で歌詞を変えればいいんだから。その1年間、家族からのあるフレーズが彼の頭の中にこびりつくことになる。"どうしてこんなにリアルになったの?"とヘレンに言われたこともあった。「そして何かを書いているうちに、結果的にそういった感じの曲になってしまった」  激動の時代についてアルバムを作ろうという「本当の意図はなかった」ものの、「なんとなくそうなった」のだとか。



『Love To You,Mate』- Bella Union


Colouringこと、ジャック・ケンワーシーは元々は同名のバンドで活動していたが、2019年を境にソロ活動に転じている。彼はボン・イヴェールの次世代のポピュラーシンガーで、同時にエド・シーランのようなクリアなイメージを持つ歌唱力を持つ。彼が音楽的な影響に挙げるのは、ニール・ヤング、ジョニ・ミッチェルといった古典的なポピュラー、フォークシンガー。それに加えて、イヴェールのような編集的なプロダクションについては、エラード・ネグロとも共通項が見いだせる。ただケンワーシーの主要なソングライティングは、Jamie xxのようなエレクトロニックの影響下にあると思うが、それほど癖はない。つまり、カラーリングの曲は、どこまでも素直で、シーランのようであるのはもちろん、ルーシー・ブルーのような聞きやすさがある。

 

ケンワーシーは義理の弟の病の体験をもとにして、みずからの家庭の妻ヘレンとの関係、そしてそれらがどのような家族の関係を築き上げるのかを体験し、そこから逃げたりすることはなかった。誰かに押し付ける事もできたかもしれない。自分とは無関係と責任を放棄することもできただろう。それでも、結局、かれは、人間の生命の本質がどのように変わっていくのか、その核心に触れたことにより、実際にアウトプットされる音楽にも深みがもたらされた。がんになると、人間は驚くほど、その風貌が一変してしまうものだ。そして一般的に、その様子を見ると、自らの中のその人物の記憶がそもそも誤謬であったのではないかとすら思うこともある。


つまり、それは記憶の中にいる人物がだんだんと消し去られていくことを意味する。がんになった親戚がどのように元気だった頃に比べ、見る影もないほど窶れていく様子を見たことがあったけれど、それは悲しいことであるのと同時に、人間の生命の本質に迫るものである。つまり、どのような生命も永遠であるものはなく、必ずどこかで衰退がやってくるということなのだろう。それは生命だけにとどまらない、万物には、栄枯盛衰があり、栄えたものはどこかで衰える運命にある。世界には、不老不死や若返りを望む人々は多い。それは、有史以来、秦の始皇帝も望んでいたことだ。けれども、言ってみれば、それは生きることの本質から目を背けることである。そこで、人は気づく時が来る。どのような命も永遠ではないということ思うのだ。


カラーリングのアルバムは、しかし、そういった複雑な音楽的な背景があるのは事実なのに、そういった悲哀や憂鬱さを感じさせないのは驚異的である。もっと言えば、エド・シーランの曲のように、感情表現が純粋であり、淀みや濁りがほとんどない。アルバムの全体を通して、リスナーはカラーリングの音楽がさっぱりしていて、執着もなく、後腐れもないことを発見するはずだ。崇高とまでは言えまいが、ケンワーシーが現実とは異なる領域にある神々しさに触れられた要因は、彼が音楽を心から愛していること、それを単なる商業的なプロダクションとみなしていないこと、そして、2017年頃に彼自身が言った通り、「普遍的な愛がどこかにある」ということを信じて、それを探し求めたということである。ベラ・ユニオンのプレスリリースに書かれている通り、彼は音楽というもう一つの現実を持っていた。そして、ジャックはそれをみずからの音楽的な蓄積により、素晴らしいポピュラー・プロダクションを作り上げたのだ。

 

推測するに、ここ数年のジャック・ケンワーシーの私生活は、何らかの家族という関係に絡め取られていたものと思われる。それはときに、苦悩をもたらし、停滞を起こし、そして時には、耐えがたいほどのカオスを出来させたはずである。しかし、とくに素晴らしいと思うのは、彼はそれらのことを悔やんだり、恨みつらみで返すわけではなく、ひとつのプロセスとし、その出来事を体験し、咀嚼し、それらを最終的にクリアなポピュラー音楽として昇華させる。


アルバムの全体を聴くと分かるとおり、『Love To You, Mate』は最初から最後までひとつの直線が通っている。停滞もなければ、大きな目眩ましのような仕掛けもない。数年の出来事と経験をケンワーシーは噛み締め、どこまでも純粋なポピュラー音楽として歌おうとしている。彼の普遍的な愛の解釈に誤謬は存在しない。それは誰にでもあり、どこにでも存在する。つけくわえておくと、愛とは、偏愛とはまったく異なる。それは誰にでも注がれているものなのである。

 

結局のところ、そのすべてがアーティスト自身の言葉によって語られずとも、音楽そのものがその制作者の人生を反映していることがある。このアルバムからなんとなく伝わってきたのは、彼は学んだ本当の愛ーーそれは苦さや切なさを伴うーーを誰かと共有したかったのではないだろうか。そして、それはひとつの潜在的なストーリー、もうひとつのリアリティーとして続く。

 

「For You」はその序章であり、オープニングである。このアルバムの音楽は基本的にヒップホップのブレイクビーツを背景に、シーランを思わせるジャック・ケンワーシーの軽やかなボーカルが披露される。さらに、彼のボーカルに深みを与えているのが、ジェイムス・ブレイクのような最初期のネオソウルを介したポップスのアプローチである。オープナーは、驚くほど軽快に過ぎ去っていく。ピアノとギターのスニペットを導入することで、 深みをもたらすが、それは冗長さとか複雑さとは無縁である。どこまでもさっぱりとした簡潔なサウンドが貫かれる。

 

「I Don' t Want You To See You Like That」は ブレイクビーツやサンプリングを元にしたドラムのシャッフル・ビートを展開させる。オープナーと同じように、ジェイムス・ブレイクの影響下にあるネオソウル調のポップが続く。編集的なプロダクションはボン・イヴェールに近いものを感じるが、一方で、きちんとサビを用意し、シーランのようなアンセミックな展開を設けている。繊細なブリッジはピアノのアレンジやしなるドラム、北欧のエレクトロニカを思わせる叙情的なシンセにより美麗なイメージが引き上げられる。大げさなサビのパートを設けるのではなく、曲の始まりから終わりまで、なだらかな感情がゆったりと流れていくような感覚がある。

 

アルバムに内在するストーリーは、純粋なその時々の制作者のシンプルな反応が示されている。「How 'd It Get So Real」では戸惑いの感覚が織り交ぜられているが、しかし、その中でジャックは戸惑いながらも前に進む。冒頭の2曲と同じように、ブレイクビーツのビートを交えながら、なぜ、このようなことが起こったのか、というようなケンワーシーの戸惑いの声が聞こえて来そうである。それらが暗鬱になったり落胆したりしないのは、彼が未来に進もうとしているから。つまり、その瞬間、それはすべて背後に過ぎ去ったものとなる。この曲でも、サビの旋律の跳ね上がりの瞬間、言い知れないカタルシスを得ることが出来る。そして曲の中盤では、すでにそれらは彼の背後に過ぎ去ったものになる。そのとき、現実の中にある戸惑いや苦悩を乗り越えたことに気づく。そして、アウトロではやはり、ケンワーシーのコーラスとともに、ピアノの清涼感のあるフレーズが加わると、最初のイメージが一変していることに気づく。

 

 ポスト・ブリット・ポップの影響は続く「Lune」に反映されている。ここではコールドプレイを思わせる清涼感のある旋律に、ボン・イヴェールの編集的なプロデュースの手法を加え、モダンなUKポップスの理想像を描こうとする。シンガーの高音部のファルセットに近いメロディーが示された時、奇妙なカタルシスが得られる。続いて、ピアノのきらびやかなアレンジが夢想的な感覚を段階的に引き上げる。これらの独創的な高揚感は、フェードアウトに直結している。最近、意外とフェードアウトを用いるケースが少ないが、曲がまとまりづらくなったときのため、このプロデュースの手法を頭の片隅に置いておくべきかもしれない。実際、フェードアウトは感覚的な余韻を残させる効果があり、この曲では、その効果が最大限に発揮されている。 

 

 「Lune」

 

 

ジャック・ケンワーシーは、ジェイムス・ブレイク、トム・ヨークに近い作曲も行う。イギリスらしいアーティストと言えるが、彼はもうひとつの音楽的な引き出しを持っている。それがアイスランドのポップスで、続く「A Wish」ではアコースティックピアノを中心として、ポスト・クラシカル/モダン・コンテンポラリーの影響下にあるポピュラーミュージックを展開させる。


ピアノの演奏についてはニューヨークでモデルをした後に音楽家に転向したEydis Evensen(アイディス・イーヴェンセン)と、Asgeir(アウスゲイル)の中間にあるようなアプローチである。氷の結晶のように澄んだピアノに加え、ネオソウルの影響下にあるボーカルが清涼感を生み出す。


複雑な展開を避け、メロを1つのブリッジとしてすぐにサビに移行する。サビが終わると、イントロの静かなモチーフへと舞い戻る。最近、曲の構成が複雑化していることが多いが、音楽のシンプルさが重要であるのかをこの曲は教えてくれる。サビの段階では、エド・シーランに近い印象を覚えるが、ジャック・ケンワーシーの歌唱には驚くほど深みがある。それらを支えるのが祝福的な金管楽器のレガート、そして、ディレイを加えた編集的なプロダクションである。

 

素晴らしい曲が2曲続く。「This Light」は、エレクトロニックサウンドを基調としたポップで、ケンワーシーのボーカルはスポークンワードに近いボーカルを披露する。表向きの声にはゴールデン・ドレッグスのベンジャミン・ウッズのような人生の苦味を反映させた枯れた感じの渋さがあるが、サビでは、やはり祝福されたような高らかな感覚が生み出される。しかし、ある種、高揚感に近いテンションは、喧噪や狂乱には陥らず、すぐに静謐で落ち着いた展開へと戻る。ここにソングライターとしての円熟味、人間としての成長ともいうべき瞬間を見いだせる。最も理想的な音楽とは、狂乱を第一義に置くべきではなく、常に地に足がついた表現であるべきだ。そして、歌手の心のウェイヴを表現するように、ジャックのボーカルのメロディーの周りをシンセのアルペジエーターが取り巻き、彼のリードボーカルの感情性を高めていく。

 

タイトル曲「Love To You, Mate」は、ケンワーシーが古典的なポピュラー・バラードに挑戦したナンバーである。このトラックは、とくに義弟の病と家族の関係について書かれているようだが、それは先週のアイドルズの『Tangk』と同じように愛について歌ったもの。しかし、そのアプローチは対極にある。ジャックは一年の思い出、そして次のクリスマスへの思いをほろ苦い感覚を交え、回想するように歌う。しかし、彼は、それがどのようにほろ苦く、切なく、胸を掻きむしるようなものであろうとも、最終的には、それをシンプルな愛情で包み込もうとする。かつて、キース・ジャレットが『I Love You, Porgy』で、献身的に看病してくれた最愛の妻に対し、最大の感謝をジャズ・ピアノで示したように、ケンワーシーはポップ・バラードという形でそれらの思いに報いようとしている。その明るい気持ちが聞き手に温かい感情をもたらす。

 

「Coda」は、クラシック音楽の用語で「作曲家が最後に言い残したことを補足的に伝える」という意味がある。「A Wish」と同じように、アイスランドのポスト・クラシカルに根ざした流麗なピアノ曲のアルペジオを通して、ジャック・ケンワーシーは過去にある家族との思い出に美しい花を添える。花を添えるとは惜別であり、彼の一年間やそれ以上の期間との思い出に対する別れを意味する。この曲では簡潔でスムーズな展開を通して、歌手としての真骨頂が立ち現れる。とくに、ジャックのファルセットによる歌声は、ボーイ・ソプラノのようなクリアな領域に達する。この瞬間に真善美というべきなのか、最も美しい瞬間が訪れる。それは息を飲むような緊迫感を覚えるのと同時に、程よい力の抜けたようなリラックスした感覚が溢れ出す。


アンビエント風の実験的なインストゥルメンタル「small miracles」を挟んで、続く「For Life」では再び軽快なポップに還っていく。この曲では、アルバムの序盤と同様に、トラックにブレイクビーツの処理が施されているが、ケンワーシーのボーカルの性質はジェイムス・ブレイクというより、「KID A」の時代のトム・ヨークの影響下にある。独特なトーンを揺らすような歌唱法は、現代的なベッドルームポップ/インディーポップのアプローチと結びついて、ドイツの同ジャンルのアーティスト、クリス・ジェームスの主要曲のような軽やかさと疾走感をもたらす。


同じように、「Big Boots」の軽快なインディーポップソングで、アルバムは終わる。しかし、聞き終えた後、驚くほど後味が残らず、清々しい感じがある。それはまさしく、ジャック・ケンワーシーが過去の人生の苦みを噛み締めた上で、明るい未来に向けて進み始めている証拠である。

 

 

92/100

 

 

 「Coda」

 

先週のWEFは以下よりお読みください: