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USビルボード・チャートでは、これまで少なくともマーケティングの面で優位にあるメジャーレーベル一強の時代が続いていたが、最近、その流れが徐々に変わってきているように思える。

 

昨年までは、イギリスのシンガーソングライター、アデルのアルバム「30」が売れに売れていた。これは予測できたことであるが、依然として、メジャーアーティストの音楽市場における強い影響力を示していた。しかし、新たに年が変わり、2022年のアメリカのビルボードチャートに異変が生じている。

 

今年に入り、USビルボードチャートの上位にランクインしつづけている現在最もホットなアルバムは大まかにいうと以下の3作品である。

 

 

・モダンR&Bシーンを牽引するアメリカ国内で人気のアーティスト、The Weekndの「Dawn FM」  

 

 

・日系アメリカ人のシンガーソングライター、Mitskiの「Laurel Hell」  

 

 

・アメリカ国内のインディー・ロックバンド、Beach Houseの二枚組「Once Twice Melody」



 

上記の3つのアルバムは、USビルボード・チャートの主要部門、トップアルバムチャートで上位を独占している作品で、今、アメリカ国内で最も話題性のあるアルバムである。ザ・ウィークエンドの「Dawn FM」については、ユニバーサル・ミュージックがリリース元であるため、メジャーアーティストに属する。しかし、一方、他の2つのアーティストについては、インディペンデントレーベルに所属するアーティストであるのが驚きである。Mitskiは、ポップス、アンビエント、エレクトロまで、幅広いジャンルのリリースカタログを誇るデッド・オーシャンズに所属。Beach Houseにいたっては、1990年代からアメリカのインディーシーンを牽引してきた、いわばインディペンデントレーベルの体質が色濃いシアトルのサブ・ポップからのリリースである。  



Beach House at House of Blues San Diego on July 1 2012.jpg 新作アルバムが好調なセールスを記録しているボルティモアのインディーロックバンド、Beach House CC 表示-継承 2.0, リンク

 

つい最近、シンガーソングライターのMitskiがトップアルバムチャートの初登場五位(類型的な測定によると初登場一位)を獲得し、アメリカ国内で大きな話題を呼んだことは、既に以前の記事で述べた。

 

そして、このシンガーソングライターに続き、ビーチ・ハウスのトップチャート入りも近年の音楽市場の変化の予兆を表している。 

 

これまで、ビーチ・ハウスは、2006年からインディーアーティストとして、幾つかの良質なアルバムを発表してきた。NYのブルックリン周辺のWild Nothing、Black Marbleを始めとするリバイバルサウンドシーンの流れを受けたビンテージ感のあるロック・ミュージックを彼らは提示している。

 

上記のバンドと同じように、ビーチ・ハウスの音楽は、ディスコ、テクノサウンドにとどまらず、音楽性の中に、ドリーム・ポップやシューゲイズのような陶酔感のある旋律を擁している。もちろん、これまでのビーチ・ハウスの既存リリース作品は、オルタナティヴ・ロックの2010年代の流れを象徴づける作風であるため、国内外のコアな音楽ファンの目に止まることはあったにせよ、メインスターダムに躍り出るとまでは想像できなかった。事実、これまでの旧作リリースで、ビーチ・ハウスは、ビルボード200チャートに一度もランクインしたことはなかった。

 

ところが、彼らが2月下旬に発表した新作アルバム「Once Twice Melody」はリリース後、好調なセールスを記録し、USビルボード200チャートで見事、初登場12位にランクインを果たしてみせた。

 

これは、現代アメリカの音楽市場の潮流の変化を示しており、また、なおかつ、サブ・ポップ所属のアーティストとして、歴史的快挙を成し遂げたと言える。これまで、ニルヴァーナという前例があるが、大ヒット作「Nevermind」はサブ・ポップでなく、ゲフィンからのリリースであった。

 

もちろん、Mitskiに関して言えば、以前から、アメリカ国内の音楽メディアで大々的に取り上げられていた。前作のアルバムも、センセーショナルな話題を振りまいていた。また、彼女の引退宣言についても大きな話題性をもたらしたので、年が明けて、Dead Oceansからリリースされた「Laurel Hell」がアメリカ国内のビルボード・チャートでも健闘を見せることはある程度予測出来た。けれども、ビーチ・ハウスの新作がこれほどセールス面で大きな健闘を見せるとは、(インディーロックファンとしては嬉しいかぎりではあるものの)ほとんど誰も予測できなかったのではないか。

 

しかも、ビーチ・ハウスは、インディー・ロックバンドとしてメインストリームを席巻している。彼らの新作アルバムは 、トップ・アルバム・チャートで初登場一位を記録、累計20,300枚が販売されたとビルボードは報告している。フィジカル盤として、18,200、レコード盤として、14,500の売り上げを記録している。(他の形式では、CDは、2,900枚、カセットでは、800枚を売り上げている)


「Once Twice Melody」は、USビルボードのサブ部門のチャートでも好調な位置を占める。トップ・オルタナティヴ・アルバム、トップ・ロック・アルバムの部門でも一位を獲得し、テイストメイカー・アルバム、トップ・カレント・アルバムの部門でも一位に輝き、USビルボード・チャートの話題を攫っている。

 

また、昨今、ビーチ・ハウスと並んで、好調なセールスを記録しているのが、KhuangbinとLeon Bridgesのコラボレーションアルバム「Texas Moon」。発売元は、Mitskiと同じく、インディペンデントレーベルのデッド・オーシャンズである。「Texas Moon」は、ビンテージソウルの雰囲気をほのかに漂わせるノスタルジア満載のアルバムと言えようが、これまで、レコード盤の12,900枚を含む16,400枚を売り上げ、トップアルバムチャートで初登場2位にランクインしている。

 

今年に入り、インディアナポリスのデッド・オーシャンズ、さらに、シアトルのサブ・ポップがアメリカ国内の音楽市場において強い影響力を持ち始めている。これは、これまでマーケティングの面でいくらか不利であったインディペンデントレーベルが、デジタル、サブスクリプション主流の時代の後押しを受け、その流れを巧みに活用出来ていることを示している。加えて、youtubeなどを介してのストリーミング配信もアルバムセールスに良い影響を与えている。

 

また、アメリカ国内有数の老舗インディペンデントレーベル、ニューヨークのMatadorについては、近年、デッド・オーシャンズからリリースされたMitskiの「Laurel Hell」に比するビッグセールス作品を持たないものの、スネイル・メイル、ルーシー・ダカス、エムドゥー・モクター、ベル・アンド・セバスチャン、と、昨年から今年にかけて、魅力あふれるカタログを数多くリリースしており、ビルボード・チャート上位にランクインする機会を虎視眈々と伺っている。

 

さらに、近年、ビルボード・チャートを始めとする、メインストリームを席巻しているインディーアーティストの多くは、1970年代−1980年代の、ディスコ、ポップス、テクノ、ヴィンテージソウルを踏襲し、その音楽性にモダンな雰囲気を付け加えているという共通項が見いだせる。

 

これらの最新のアメリカの音楽市場の動向、ビルボード・チャートのセールス面での実態から伺える点は、昨今のメジャーレーベルとインディペンデントレーベルの力関係の顕著な変化である。

 

今後、この両者の音楽市場における力関係がどう推移していくのかまでは明言できかねるものの、少なくとも、上記のインディーアーティストの作品の好調なセールス、ビルボード・チャートの席巻から伺えるのは、今日の市場の売れ行きを左右する音楽ファンは、新奇ものを求めるのと同時に、古いレコードに対する偏愛のような、淡いノスタルジアを求めているのかもしれない。

  



マルゴ・ガリヤンさんが2021年の11月8日に84歳で亡くなられたという訃報については、アメリカ、ロサンゼルスの「Buzz Band LA」が最も早く報じたようです。

 

このマルゴ・ガリヤンというアメリカのシンガーソングライターは、それほど日本では知名度に乏しいように思われますが、かつてはビル・エヴァンスといったジャズ界の大御所から音楽の手ほどきを受けた女性シンガーソングライター、作詞家です。懐メロのような雰囲気を持ったポップの楽曲を書いており、84年の生涯において「Take A Picture」という一作品、それからピアノ音楽の変奏をリリースしただけという寡作さにも関わらず、伝説的な音楽家としてアメリカ国内ではみなされています。大まかではありますけれど、彼女の半生と唯一のスタジオ作品について触れていきましょう。

 

マルゴ・ガリヤンさんは、ニューヨーク州のクイーンズのファー・ ロッカウェー近郊のニューヨーク市に、1937年9月20日に生まれ。


彼女の両親は、コーネル大学在学中に出会っており、母親もピアノを専攻、父親もまた同じように、リベラルアーツに熱心な家庭であったようです。マルゴ・ガリアンは、そういった知的な両親のもとで育ち、若い頃から詩の創作に励むかたわら、ピアノ演奏に生きがいを見出した。当初は、当世のポピュラー音楽、クラシック音楽に慣れしたしんでいたマルゴ・ガリヤンは、大学に入ってからジャズ音楽に興味をもつようになりました。

 

その後、ボストン大学では、クラシカルピアノとジャズ・ピアノを専攻し、マックス・ローチ、ビル・エヴァンスといったミュージシャンを信奉していましたが、ご自身のピアノの演奏力に難を見出し、後にピアニストとしての夢を諦め、作曲、ソングライターの分野に転向なさっています。 


高校生の時代から既に、マルゴ・ガリヤンはソングライティングを始めており、ハーヴ・アイズマンの仲介によって楽曲をアトランティックレコードに送り、パフォーマーとして契約を結んで、パフォーマーとしてジェリー・ウェクスラー、アーメット・アーティガンのステージングに参加しています。しかし、その後、アトランティックレコード側は、マルゴ・ガリヤンのヴォーカルのビブラートのピッチのよれ方、歌声の不安定さに難点があると見、つまり、ヴォーカリストとしての資質に乏しいと見、パフォーマーから作曲家へと転向させ、再契約を結んでいます。


この時代、マルゴ・ガリヤンさんは、ご自身の歌声にすっかり自信をなくされていて、「私はあの時、うまく歌うことが出来なかったんです」と、その当時の事を後になって回想しています。しかし、むしろ、当時のアトランティックレコードのプロデューサーが彼女のヴォーカリストとしての潜在能力を完全に見誤っていたということも、後のリイシュー盤でのアメリカでのシンガーとしての再評価を見るにつけ、思う部分もなくはないのです。つまり、シンガーなのか、ソングライターなのか宙ぶらりんのままで、現役時代を終えて、家庭に入ってしまったのがこのアーティストなのです。

 

話を元に戻しましょう。大学時代に入り、クラシカル・ピアノ、ジャズ・ピアノの双方を、ボストン大学で学びながら、マルゴ・ガリヤンは、作曲家としての道を歩み始めています。ミュージシャンとしてのキャリアの最初期に、クリス・コナーというジャズ歌手に楽曲を提供しており、クリス・コナーは、1958年、ガリヤンの作曲した「Moon Ride」をレコーディングしている。


このジャズの作品がマルゴ・ガリヤンのソングライター、作詞家としての事実上のデビュー作と言えそうです。その四年後の1962年にも、クリス・コナーはガリヤンが作詞を手掛けた「Lonly Woman」という楽曲をレコーディングしています。その後、マルゴ・ガリヤンは、ハリー・ベルフォンテに幾つかの楽曲を提供しており、このソングライティングにおける仕事が最初期のミュージシャンとしてのマルゴ・ガリヤンのキャリアを形成していると言えるでしょう。


ボストン大学を卒業した後も、マルゴ・ガリヤンは、みずからのピアノの演奏、ジャズ音楽への知見を深めるため、1959年から、レノックス・スクール・オブ・ジャズに通い、演奏家、作曲家としての技術を向上させています。この時代の技術向上が、後のピアノ作品「The Chopsticks Varieations」というシンプルな現代音楽風の変奏曲で結実を見たことは明らかで、レノックス・スクール・オブ・ジャズで、マルゴ・ギャリアンは、錚々たるジャズ界の大御所と邂逅し、オーネット・コールマン、ドン・チェリー、ビル・エヴァンス、マックス・ローチ、ミルト・ジャクスン、ジム・ホール、ジョン・ルイス、ガンサー・シュラーからジャズ音楽の薫陶を受けています。これが後のミュージシャンとしての作曲性に大きな躍如となっているようです。

 

この時代に、マルゴ・ガリアンは、MJQ Musicと契約を結び、アーティストとしてサインしています。 また、彼女はこの時期、幸福な人生を謳歌しており、ジャズ・ミュージシャンであり、トローンボーン奏者兼ピアニストのボブ・ブルックマイヤーと結婚し、また、音楽の仕事においても、ジョン・ルイス、オーネット・コールマン、アリフ・マーディンといった錚々たるジャズマンに楽曲を提供しています。これらの楽曲で、ガリヤンは作曲だけではなく、作詞も手掛けており、作曲にとどまらず、作詞の分野においても並々ならぬ才覚を発揮しています。


その後、マルゴ・ガリヤンは、ボブ・ブルックマイヤーと離婚した後、ポピュラー音楽アーティストとしての道を歩み始めます。それまでクラシック、ジャズという2つの音楽と深いかかわり方をしてきたガリヤンはおそらく、この離婚後の時代に置いて、かなり落胆をしていたものと思われますが、そこで彼女の精神をすくい上げたのがポップス音楽でした。彼女の友人、デイヴ・フリッシュバーグがガリヤンにBeach BoysのPet Soundsに収録されている一曲「God Only Nows」を聴くように薦め、この時代、マルゴ・ガリヤンは、クラシック、ジャズという近代の音楽の先にある未来のサウンド、ポピュラー音楽に大きな可能性を感じていたようで、このビーチボーイズの「神のみぞ知る」を最初に聴いたときの大きな感動について後にこのように話している。

 

”ビーチ・ボーイズの音楽を聴いていることは、とても贅沢な時間でした。レコードを買って何百万回も再生したんです。”

 

 

この新しいビートルズのアメリカ版ともいえる、ビーチ・ボーイズのサーフサウンドに大きな感銘を受けたマルゴ・ガリヤンは、すぐさま、自分の楽曲製作に取り掛かり、ポップス曲「Think Of Rain」を椅子の上で素早く書きあげています。なぜ、ポップス曲を書くことを決断したかについては、ジャズシーンで起こっていることよりもはるかに、ポップスシーンで起こっていることのほうが魅力的であるという直感によるものでした。


そして、この最初の楽曲「Think Of The Rain」は、後にデモ曲集「27 Demos」として再編集され、Dertmoor Musicから発売され、アメリカの音楽シーンでマルゴ・ガリヤンの再評価の気運を高める要因ともなりました。この楽曲は、1967年当時、ボビー・シャーマン、ジャッキー・デシャノン、クロンディーヌ・ロンジェによって録音され、リリースされています。また、かのニルソンもこの楽曲をレコーディングしていますが、このニルソンバージョンについてはリリースされず、お蔵入りとなりました。

 

また、もうひとつマルゴ・ガリヤンの代名詞といえる「Sunday Morning」もそれから時を経ずに録音されており、この1967年12月にリリースされた作品は彼女の最初のヒット作となり、 ビルボード・チャートの30位にランクインしています。また、この楽曲は多くのアーティストによって歌われ、フランスの女優、マリー・ラフォレがフランス語版「Et Sijet' Aime」として発表し、そのほかにも、この「Sunday Morning」はカーメン・マクレエ、ジュリー・ロンドンによって名画「Sound Of Silence」1968のサウンドトラックの一貫としてリリースしています。

 

 

マルゴ・ガリヤンのアーティストとしての知名度を高めることになったのは、ベルレコードと契約して1968年に発表された、ポップスシンガーとしての唯一の作品「Take a Picture」のリリースでした。このスタジオ・アルバムは、いってみれば、日本の懐メロにもたとえられる軽快なポップサウンドによって彩られた名品の一つ。彼女のバックグラウンドであるジャズ、クラシック、ポップスを自由自在にクロスオーバーした作品と称せるでしょうか。当初、レコーディングにおいては、ジョン・サイモンが担当し、その後、ジョン・ヒルが入れ替わりでプロデューサーを務めています。また、スタジオ・ミュージシャンとしては、カーク・ハミルトン、フリ・ボドナー、ポール・グリフィン、バディ・サルツマンをゲスト・ミュージシャンに迎えて製作された作品であり、アメリカのポップス史の隠れた名盤に挙げられる作品でもあります。

 

 

「Take A Picture」 再発盤 2020

 

 

 

 

この作品は、マルゴ・ガリヤンというシンガーとしての資質が最初に認められた傑作でもあり、発表当初から、米ビルボード誌は諸手を挙げて、「Take A Picture」に高評価を与えており、「Take A Pictreはきわめて上質なサウンドであり、好調なセールスが約束された作品である」と最大の賛辞を送っています。しかしながら、結果的に言えば、このビルボードの目算は当たらなかった。このアルバムを最大の商機とみたリリース元のベル・レコードはすぐさま、マルゴ・ガリヤンのアメリカの大規模ツアー計画を打ち出し、大々的な宣伝を行う準備に入りました。いよいよ、スターミュージシャンとしての成功は目前と思われた矢先、このアメリカをシンガーとして巡回するツアーのベル・レコードからのオファー、ミュージシャンとしてのまたとない成功の機会をマルゴ・ガリヤンは拒絶し、この宣伝を兼ねたツアー自体は立ち消えになり、彼女はスターミュージシャンとしての座に上り詰めるチャンスをみすみす逃すことになります。

 

なぜ、こんなことが生じたのかといいますと、当時、マルゴ・ガリヤンが他のミュージシャンと結婚し、家庭を持っていたことがひとつ、そしてもうひとつは、ベル・レコード側のツアーに際しての提案の数々、あなたは、こういったステージ衣装を着るべきであり、また、あなたは、こういったパフォーマンスをステージで行うべきである、というような、ショービジネスを行う上での要請を、彼女はまっとうなことだと受け入れられなかったこと。この女性はレコード会社の操り人形になることだけは避けた、権力に自分の魂を従属させることだけを避けた、独立した女性であり、素晴らしい偉大な人物です。こういったことは、音楽業界でままあることなのかもしれませんが、その後、ツアースケージュールが立ち消えになったことにより、ベルレコードとの関係は悪化して、「Take A Picture」自体はリリースに至るものの、商業的にはそれほどの話題作とはならず、また、マルゴ・ガリアンとしての後発の作品がリリースされることもありませんでした。これがつまり、フレンチ・ポップスのシルヴィ・バルタンのようなスター性を擁していながら、このアーティストが世界的なポップスシンガーにならなかった要因といえそうです。その後、マルゴ・ガリヤンは、スターミュージシャンの道を閉ざし、平和な暮らしを選択し、ピアノの個人教師としての道を選んでいます。その後、クラシックの変奏曲「Chopstickes Variation」という練習曲のような作品をリリースしていますが、長いあいだ表舞台に姿を見せることはありませんでした。



完全にミュージックシーンから忘れ去られてしまったマルゴ・ガリヤンというシンガーソングライター。しかし、良い作品、良いアーティストというのは、たとえ、大々的な宣伝が行われなくとも、どこかの時代において、正当な評価が与えられるようです。2000年代に入ってから、アメリカのミュージック・シーンで、マルゴ・ガリヤンの再評価の気運が高まり、2014年には初期のデモを再編集した「27 Demos」、2016年には「29 Demos」が相次いでリリースされたのを機に、このアーティストの音楽性が再度脚光を浴びることになります。 

 

 

 

「27 Demos」2014

 

 

 

また、この二つのデモトラック集のリリースに続いて、2020年にも、モノラル盤のリマスター盤として再編集されたマルゴ・ガリヤンの唯一のスタジオ作「Take A Picture」がリリースされ、時代を越えた良質な作品として注目が集まりました。どの時代からそうしていたのか定かではないのものの、既にこの頃、マルゴ・ガリヤンは、表舞台のミュージック・シーンとは完全に距離を取っていて、故郷のニューヨークからLAに移住しており、ほとんどその所在については知られていなかったようです。

 

そして、不思議なことに、一番最初に、マルゴ・ガリヤンの訃報を伝えたのは、アメリカの主要メディアではありませんでした。先日、約一週間前に、ロサンゼルスの雑誌「Buzz Band LA」が先だってこのアーティストの突然の死を報じ、それに引き続いて、アメリカのメジャーなメディアがこのミュージシャンの訃報を相次いで伝えたというのが実情だったようです。


アーティストとして現役時代に表舞台で、そこまで大きな活躍したわけでないにもかかわらず、各メディアが世界的なスターミュージシャンのような取り上げ方をしたのはかなり異例と言えるものでした。おそらく、このような大きな報道がなされたことについては、この数奇なミュージシャン、マルゴ・ガリヤンが多くの裏方の作曲での偉大なる仕事を行い、アメリカの音楽シーンに貢献してきたという紛れもない事実、また、なおかつ、この隠れたポピュラー音楽史に燦然と輝く「Take A Picture」をこの世に残したことに対する、アメリカのメディアの最大の賛辞に他ならなかったのかもしれません。


 

 




References

 

Howold.co


https://www.howold.co/person/margo-guryan/biography 

 

 

1.時代と共に変遷する宅録(ベッドルームレコーディング)の様相 


既に、多くの音楽ファンがご存知の通り、近年ではヴォーカロイドを始め、DTMブームがここ日本でも到来。レコーディングスタジオではなく、自宅でデジタル・オーディオシステムを導入し、部屋をスタジオ代わりに録音からマスタリングまで完パケを行ってしまうミュージシャンが徐々に増えてきたような印象をうける。2000年代から一般家庭にもPCが普及したこともあって、レコーディングスタジオのブースにも全然引けを取らないようなプロフェッショナルな録音システムが自宅(ベッドルーム)で構築しやすい環境が整えられた。

Silver Apples en Barcelona, Sala Apolo La [2]


日本語では、”宅録”という用語が一般的には使用されるが、海外ではベッドルームレコーディングという用語がこれに当てはまるらしい。

2000年代以前は、一般的には、レコーディングスタジオのような専用ミキサー、録音機器、オーディオインターフェイスを自宅に導入しないかぎり、レコーディングを家ですることは容易ではなかった。例えば、MTRという8トラックのマルチトラックレコーダーを導入するか、もしくは、オーディオプレーヤーにマイクを接続し、ワントラックの仮歌を録音する手法くらいしか宅録を行う選択肢がなかった。二十一世紀までは、宅録といっても、普通のポップス・ロックの音楽を作曲するアマチュアミュージシャンは宅録を行う手段が選択肢としてかぎられていた。

しかし、近年では、デスクトップ上でソフトウェア、それから、PCのポートにオーディオインターフェイスとコンデンサーマイクを接続すれば、いとも簡単に、宅録、ホームレコーディングが出来るようになってしまった。この時代を流れを読んでいたのが、1990年代のレディオヘッドのトム・ヨークだった。彼は、すでに、2000年代のベッドルームレコーディングの流行を逸早く「OK Computer」というロック史の名作で告げしらせていた。また、この流れに続いて、続々と本来は、バンド形式のロック・ポップス、あるいは、少人数の形式で組み立てられる電子音楽を一人だけで完成させてしまうアーティストが、2000年代から2010年代にかけて台頭してくるようになった。

そのあたりの潮流がミュージックシーンとして明確な形になったのが、すでに取り上げた、ベッドルームポップという2000年代生まれの若いアーティスト、ミュージシャンたち。そして、これらのアーティストの楽曲の佇まいに伺えるのは、今や、この宅録というスタイルが2020年代の音楽のトレンドであり、以前のような印象をすっかり払拭して、宅録をすごく現代風のファッショナブルな行為に変えてしまったのである。



2.宅録の元祖アーティストは?


これについては、一概に、誰がこの宅録という形態を最初に始めたのかを定義づけるのは難しいように思える。オーバーグラウンド、つまり、有名なアーティストとしてはザ・ビートルズのポール・マッカートニーがいち早く自宅でのレコーディングシステムを導入して話題を呼んだ。その作品こそザ・ビートルズの解散後リリースされた「McCartney Ⅱ」だった。ザ・ビートルズの活動中から、様々なアート性の高い音楽、民族音楽、古典音楽、実験音楽、現代音楽に親しんできたポール・マッカートニーはこのソロ作において前衛性に舵を取り、感嘆すべきことに、#2「Temporary Secretary」では、クラフトヴェルクのような実験性の高い電子音楽のアプローチを導入しているのに驚く。


また、もうひとり、少し、意外にも思えるけれども、一般的にオーバーグラウンドでの宅録音楽の元祖と言われているのが、トッド・ラングレン。彼は、活動初期からホームレコーディングに慣れ親しんでおり、1974年に発表されたスタジオ・アルバム「Todd」では、ラングレンの自宅で録音が行われている、ベッドルームレコーディングを一番早く導入した画期的な作品である。


そして、サー・ポール・マッカートニー、トッド・ラングレン。この二人のアーティストが一般的には、最初のベッドルームレコーディングを行ったアーティストだと言われている。しかしながら、これはあくまでメジャーと契約するアーティスト、いわば、メインストリームにかぎっての話。インディーズシーンには、コアでマニアックな宅録を行うアーティストがこの1970年代前後に活動していた。



3.宅録ミュージシャンの元祖


Silver Apples 



アメリカではもうひとり、アラン・ヴェガというアメリカのインディーズシーンにおいて知らない人はいないロックアーティストが見いだされる。しかし、時代に先駆けて一番早くベッドルームレコーディングという音楽ジャンルを発明したのは、この「シルヴァー・アップルズ」というアメリカのシミオン・コックスとダニーテイラーの二人により結成された伝説的ユニットである。


特に、デビュー作「Silver Apples」のリリースは1968年、サー・マーカートニーやラングレンどころか、クラフトヴェルクよりも早く実験的なシンセ音楽を完成させているのは驚愕するよりほかない。自宅の一室に複雑な回線をなすアナログシンセサイザーを導入し、オシレーター等の信号を駆使している。


間違いなく、これは音楽上の発明のひとつだ。もちろん音楽性の完成度については現在の音楽に比するクオリティーは望むべくもない。しかし、ここで、シルヴァー・アップルズという音楽家、いや、音楽上の発明家がアナログ信号を使ってのシンセサイザーで組み立てているのは、現代で言うスーパーコンピュータの回路の複雑さにも比するもので、電子音楽の開発者のひとりとして挙げてもさしつかえないようにおもえる。


特に、シルヴァー・アップルズを生み出すシンセ音楽は、DTMの先駆けともいえ、アナログ信号というのがいかにデジタル信号と異なるのかを見出すヒントにもなるはず。アナログでの信号を介して音を出力すると、エフェクター等も同様、人為的なコントロールがきかないゆえに、音の揺らぎや自由性を楽しめる。デジタルの音量はある程度人の手で制御できるものの、アナログの音量はミニマルからマキシマムの単位まで無限大。一般的に、デジタル信号を通じて出力される音は冷たく、アナログ信号を通じて出力される音は温かみがあると言われている。


シルヴァー・アップルズの音楽性は、シンセサイザーの上に、ドラム、ヴォーカルを同期させるという革新的な手法を音楽史にもたらした。ドイツのクラフトヴェルク、ノイ!に比べると、それほど著名なアーティストではないようにおもえるが、それでも、シンセポップ、電子音楽のジャンルの発明家として歴史に残るべき偉大なミュージシャン、あるいはサウンド・プログラミングの最初の偉大な開発者である事には変わりない。



 

Suicide

 

ニューヨークのプロトパンクの立役者の一人、アラン・ヴェガ擁するツインユニット。スイサイド。この二人はドラマーがいないという欠点を、マーティン・レブのドラムマシーンの機械的なビート、そして、シンセサイザーのフレーズの新奇性により、その短所を長所に転じてみせた。このスイサイドは、1971年に結成され、イギーポップと共に、アメリカでの伝説的な「インディーズの帝王」とも称すべき存在である。スイサイドは、一度もメジャーレーベルと契約せぬまま、2016年のアラン・ヴェガの死去により、長い活動の幕を閉じた。


しかし、このスイサイドのデビュー作「Suicide」の鮮烈性は、未だ苛烈なものといえる。機械的で神経質なマシンビートのグルーブ、アラン・ヴェガのイギー・ポップにも比する狂気的なシャウト。彼等は、レディオ・ヘッドのOK Computerからおよそ二十数年前に、宅録のロックサウンドを実験的に取り入れようとしていた。もちろん、ステージ上で、ガラスをぶちまけたりといったスターリンの遠藤ミチロウも真っ青のステージングの過激性は、今やイギー・ポップとともに伝説化している。もちろん、ニューヨークシーンや世界のミュージックシーンへの後世の影響もさることながら、日本のパンクロックシーンのステージングにも大きな影響を及ぼしたものと思われる。


特に、ベッドルームレコーディングとしては、ファースト・アルバム「Suicide」1977の一曲目「Ghost Rider」二曲目の「Rocket USA」は必聴。無機質なマシンビートのカッコよさもさることながら、ここでの異様なテンションに彩られたアランヴェガのヴォーカルの変態性、この過激さというのは、後のどのロックバンドすらも足元にも及ばない。ここには、宅録の醍醐味ともいえる妖しげな雰囲気が漂いまくり、さらに、実にプリミティヴなニューヨークの1970年代の熱狂性を味わうことが出来る。もちろん、続いての「Cheree」もクラフトヴェルクの雰囲気に比する独特なテクノの元祖として聴き逃がせない名曲である。シンセサイザーひとつで、これほど多彩な音楽を生み出せると、未来の音楽への可能性をこの年代に示してみせたことはあまりにも大きな功績といえる。



 

Neu!

 

ドイツのデュッセルドルフは、1970年代、クラフト・ヴェルクを始め、今日の電子音楽の基礎を形作った数多くの実験性の高いバンド、グループが活躍した。ノイ!は、元クラフト・ヴェルクの雇われメンバー、クラウス・ディンガー 、ミヒャエル・ローターによって結成された西ドイツのユニットである。後世のミュージックシーンに与えた影響は計りしれないものがあり、セックス・ピストルズのジョニーロットンの歌唱法、音楽性、そしてレディオヘッドのトム・ヨークもこのノイ!を崇拝している。


ファースト・アルバム「Neu!」1972は、ニューヨークのシルヴァー・アップルズとともに世界で最も早く宅録サウンドを完成させてみせた記念碑的な作品。テクノ寄りの音楽性にロックサウンドを融合させてみせたという点では、シカゴ音響派のトータスに比する大きな功績を大衆音楽史に刻んでみせた。ここでの短い録音フレーズをループさせる手法というのは、当時としてはあまりに画期的であったように思え、楽曲自体の完成度も、クラフト・ヴェルクでの活動で鍛錬を積んでいたせいか、並外れて高い。


セカンド・アルバム「Neu! 2」1973では、テープの逆回転を活かしたより実験性の高いサウンドを追求し、今日のクラブミュージックで当たり前に行われている手法を導入したノイ!。三作目の「Neu! 75」1975では、アンビエントの先駆的なアプローチに挑み、「Seeland」「Leb' wohl」といった名曲を残している。


また、この三作目のスタジオ・アルバムの四曲目に収録されている「Hero」は、セックス・ピストルズの音楽性の元ネタとなっていることは音楽ファンの間では最早常識といえるはず。というか、実のところ、ジョニー・ロットンはこの歌い方を活動初期において、巧妙に、このノイ!をイミテートしてみせたに過ぎなかったのだ。クラフト・ヴェルクと共に、電子音楽とポップス/ロックを見事に融合させた西ドイツの伝説的ユニット。後世の音楽シーンやミュージシャンに与えた影響はあまりにも大きい。 

 

 

追記として、この1970年代のデュッセルドルフの電子音楽シーンのアーティストの楽曲を集めた

 

「ELECTRI_CITY「Elektronishe Musik aus Dusseldolf」

「ELECTRI_CITY2「Elektronishe Musik aus Dusseldolf」

 

という二作の豪華なコンピレーション・アルバムが発売されている。こちらもおすすめします。

 

 

Kraftwerk

 

既にテクノ、電子音楽グループとしては世界で最も知られている大御所、クラフトヴェルク。しかし、やはり、後世の宅録の見本となるような音楽性を形作ったと言う面では大きな功績をもたらした音楽のアートグループ。


デュッセルドルフの電子音楽シーンを牽引してきたのみならず、テクノ音楽の最初の立役者のグループとして語り継がれるべき存在。 後の電子音楽の礎を築き上げただけではなく、CANをはじめとするクラウト・ロックシーンの最重要アーティストとしても語られる場合もあり、Faustらとともに、インダストリアルというジャンルの源流を形作したと言う面では、ノイ!と別の側面で大きな革新を音楽シーンにもたらした。もちろん、グラミーの受賞、あるいは、ロックの殿堂入りを果たしているエレクトリックビートルズといわれる世界的な知名度を持つ芸術グループ。


特に、デビュー作の「Autobahn」は、現在でもテクノだけではなく、クラブミュージックに与えた影響はきわめて大きい。デビュー作「Autobahn」1974では、クラフトヴェルクの実験音楽の完成度の高さが目に見える形で現れている。


シンセサイザー音楽としての壮大なストーリー性を味わうことの出来る表題曲「Autobahn」は、22分後半にも及ぶ伝説的なエレクトリックシンフォニーといえる。現在、このオートバーンを車で走っていると、遠くにバイエルン・ミュンヘンの本拠地、アリアンツ・アレーナのドームが見えるらしい。


ここに、ドイツの電子音楽の後のシーンの礎が最初に組み立てられたといえるはず。さらに、未来性を感じさせるSFチックな雰囲気というのもたまらない。クラフトヴェルクのファースト・アルバム「Autobahn」は、やはりクラフトヴェルクの最良の名曲、電子音楽史だけではなく、ポップス史に残る感涙ものの名曲ばかり。




 


The Cleaners From Venus



そして、もうひとつ、時代は、1980−90年代とかなり後になってしまうけれども、イギリスに宅録のカセットテープ音楽をフォークロックとして体現させているのが、ザ・クリーナーズ・フロム・ヴィーナスである。


XTCの作品のプロデュース等も手掛けているマーティン・ニューウェルの宅録のロック・バンドだ。音楽流通の主流が、レコードからCD、そして、サブスクリプションと移ろい変わっていく間、常に、テープ形式で宅録のレコーディングを行ってきた気骨あるインディーロックミュージシャン。


特に、The Cleaners From Venusの音楽性は、近年の宅録アーティストのポップス性に近い雰囲気があり、知る人ぞ知るカルト的ミュージシャンではあるものの、ベッドルームポップの最初の体現者と見なしても違和感はないように思える。音楽性自体は、カセットテープの録音なのでチープな感じもあるけれども、むしろそのチープさが何となく通好みの雰囲気を醸し出している。


The Cleaners From Venusの音楽性としては、ザ・ビートルズの古き良き時代の英国のポップス・ロックを宅録のチープさで見事に彩ってみせたという印象。しかし、テープ音楽というデジタル性から遠ざかった粗がこのアーティストの音楽の雰囲気に現代とは異なるヴィンテージ感をもたらしている。


特に、スタジオ・アルバム「Number Thirteen」1990の「The Jangling Man」、「Living With Victoria Grey」1986に収録されている「Mercury Girl」は、宅録のインディーフォーク、インディーポップとして現代の音楽性を凌駕する雰囲気を漂わせた楽曲。こういった時代に、この古めかしい音楽を生み出していたのは驚き。


イギリスのオーバーグラウンドやインディーシーンの音楽の流行とは全然関係なく、宅録のテープ音楽を作り続けたことは素晴らしい功績。古典的な英国のポップスの伝統性、叙情性を引き継いだ素晴らしい宅録アーティストとして最後にご紹介しておきます。

 

 

 

 

今回は、宅録というアーティストの焦点を絞り、どのアーティストが先駆者なのかを探ってみました。もちろん、個人的な趣味を加味した上で選出したことを御理解下さい。また、クラフトヴェルクについては厳密にいえば、宅録アーティストではありません。けれども、後世の宅録やDTM世代に与えた影響が大きいため、ここで取り上げておきました。また、宅録とは別に、環境音楽、アンビエントのアーティストについてはあらためて別の機会に取り上げてみたいと思います。

 

Tシャツとロック音楽

 

 

 1.Tシャツの起源 

 

 

Tシャツの起源、発祥については諸説あるようだが、19世紀のヨーロッパにあると言われている。

 

第一次世界大戦中だというように書かれているサイトも散見されるけれども、これは少し見当違いである。少なくとも、シャツ生産専門企業として、ドイツのMerz .b.Schwanenが1911年に設立されているからである。

 

綿製のシャツ、いわゆるカットソーとしての生産で一般的に有名なのは、アメリカで、Hanes、Championといったブランド企業である。もしくは、フランスも古くから漁港の漁師が好んで着る襟ぐりの広い”バスクシャツ”を生産してきており、綿生産、及び綿工業の盛んな土地として挙げられる。しかし、服飾産業の歴史を語る中で、(個人的に知るかぎりで)と断っておきたいが、最も早くこの綿のシャツ生産を産業として確立させたのは、ドイツにあるシュヴァーベン地方だったように思われる。

 

この地方では、二十世紀以前まで主に農業が営まれていたらしいが、土地が痩せてきたために、弥縫策として綿織機を導入し、綿のシャツを生産するようになったという*1。 

 

その後、Peter Plotnichkiが1911年にシャツ生産の機械ラインを導入して企業として発足した。これは、現存する最も古いシャツ生産の企業ではないだろうかと推察される。

 

その後、第一次世界大戦中に、アメリカ軍がイギリスとフランスの兵士がTシャツを着ているのを見て、それを自軍の服飾の中に取り入れたという*2。 

 

肌触りがよく、風通しもよく、着やすくて、シンプルな見た目がかっこよく、そして、ピンきりではあるものの、薄い素材の割には、耐久性にもすぐれていることから、軍用の服装として取り入れられることになったのは自然な成り行きだったように思われる。

 

ただ、イタリア軍の綿シャツを一度着てみたことがあるが、これはちょっとという言う感じで、パサパサしているだけでなく、チクチクする粗目の素材で、かなり強烈な抵抗をおぼえる粗悪な質感である。おそらく、この時代、第一次世界大戦に取り入れられていたシャツというのも、これに似た類のものではなかったかろうかと思われる。

 

そして、第一次世界大戦後になると、アメリカでも、綿シャツの大量生産時代、つまり主要産業としての確立が始まったように思われる。この辺りに、ミリタリーウェアとしてのシャツの起源という意味で、第一次世界大戦中に発祥を求めるのなら、それは正解の範疇にあるといえるかもしれない。

 

 

2.誰がTシャツを流行させたか?

 

 

軍用の服装、いわゆるミリタリーウェアとしては普及しつつあったTシャツ。しかし、これが一般の人々のファッション中に取り入れられる時代は、第一次世界大戦から少し時を経なければならない。

 

どうも、第二次世界大戦中には、アメリカ国内では、兵士だけにとどまらず、一般の人たちにも普及していくようになったようだ*4。そして、このTシャツの大きな流行を後押しとなったのが50年代に入ってから、そして、それ相応のスターと呼ばれる世界的にも影響を持つあるムービースターが大々的な形で「これはカッコいいものだ!」と世間に宣伝したのだった。

 

このTシャツという存在を、世間にファッションとして流行らせた人物が、往年のムービースター、ジェームス・ディーンと言われている*3。 

 

 

 

 

ジェームス・ディーンが主演として演じてみせた「理由なき反抗」でのジャケットの内側に、インナーとして白いシンプルなカットソーつまりTシャツ姿、そしてデニム。

 

これが当時の人々の目にどのように映ったのか定かではないものの、カットソーにデニムというのは、現代にも通じる古典的でシンプルなファッションスタイルと言える。そのシンプルでありながら洗練された格好良さというのは、衝撃的なインパクトを一般の人たちに与えたのではないかと思われる。

 

これは、例えば、今でもブラットピット主演の「ファイトクラブ」のような時代負けしない普遍的なクールさを持つ作品といえるかもしれない。ディーンのジャケットの内側に、シンプルにカットソーをあわせ、そこにまた彼のトレードマークともいえるオールバックのヘアスタイル、これは現在の流行として引き継がれている古典的ファッションだ。

 

あまり映画フリークではないので、偉そうなことはいえなものの、そして、この作品「理由なき反抗」こそ、ディーンというムービースターの最も輝かしい生きた瞬間を写し撮った姿ではないかと思われる。そういえば、かつて明治期に映画製作を手掛けていた谷崎潤一郎は、映画俳優がスクリーンの中で永遠にその当時の最も美しい形で写り込んでいる。その瞬間に凝縮される不変の輝きこそ賞賛に足るものであるというようなニュアンスを作中において語っている。

 

同じように、ジェームス・ディーンがこの世を去っても、作品中の彼の輝きというのは不思議なくらい失われず、スクリーンの中で最も美しい時代の姿として刻印されている。これが、映画という媒体でしか味わえない醍醐味と思う。見てくれの悪そうなアウトローの雰囲気は、当時の一般の人の憧れとなったはず。また、ジェームス・ディーンは、二十代という若さで生涯を終えたという事実についても、彼のその後の映画での活躍を見られなかったという悔しさがある。27歳で死んだ伝説的なロックスターと同じように、映画愛好家にとどまらず一般の人たちにも、ディーンという存在に対し、一種の神格化めいた光輝を与え、そして、このTシャツの流行を普遍的なものにする要因となったかもしれない。

 

 

 3.ロックTシャツの誕生

 

 

一般的に、ロックTシャツが誕生したのは、ケルアックを始めとする文学のビート・ジェネレーションの世代の後と言われている。

 

カルフォルニアを中心に発展したこのビート運動は、文学の世界にとどまらず、ロック音楽の世界まで深い影響を及ぼした。特にUCLAの学生などは、このビートニクス作家を好んでいたと思われる。このビートニクスの元祖ともいえるのは、ヘルマン・ヘッセの「荒野のおおかみ」である。(この作品は、ステッペン・ウルフのバンド名のヒントにもなるが、内容は、内的な分裂性を題材にし、思索の世界の最深部に踏み込んでいった歴史的傑作である。サイケデリック文学の先駆けともいえる傑作の一つだ)

 

60年代後半になって登場したグレイトフル・デッド、バンドの取り巻きのファン、Deadheadsが音楽でのヒッピー・ムーブメントを牽引していった。 

 

 

Grateful Dead (1970).pngGrateful Dead Billboard, page 9, 5 December 1970 Public Domain, Link

 

 

グレイトフルデッドというバンドは、サイケデリック・ロックを一般的に普及させたロックバンドである。

 

すでにジャック・ケルアックの時代からはじまっていたビート運動を敏腕プロモーターとして後押ししたのが、ビル・グレアムという人物だった。

 

グレアムは、フィルモア・ウェスト、フィルモア・イースト、ウインターランドといった大掛かりなライブハウス経営に乗り出した人物で、米国でのライブハウス業の先駆者といえる。*5 アメリカの西海岸のカルフォルニアにとどまらず、東海岸のニューヨークのロック文化を活性化した敏腕プロモーター兼ライブハウス経営者である。

 

そして、ビル・グレアムが、60年代の終わりに、Tシャツアパレル製造会社を立ち上げ、初めてグレイトフル・デッドのロックTシャツの販売を開始した。*4 これが、つまりロックTシャツの元祖。

 

これがどれくらい売れたか、どれくらいの規模の広がりを見せたかは後の調査する必要がある。そして、少なくとも、このグレイトフル・デッドというロックバンドのTシャツのデザインには、サイケデリックアート界の巨匠、リック・グリフィンが絡んでいる。

 

ロックミュージックのアルバムアートワークという側面では、アンディ・ウォーホールばかり取りざたされる印象を受けるものの、リック・グリフィンは、ジミ・ヘンドリクス、グレイトフル・デッド、イーグルス、ジャクソン・ブラウンのアルバムジャケットを手掛けたアート界の巨匠である。

 

サイケデリックという概念を、全面的に突き出した、LSDによる幻覚作用をそのままに視覚的に刻印した感じのどきついデザイン性がリック・グリフィンの作品の特徴である。

 

昨今、グリフィンの再評価の機運が高まっているように思えてならない。ドクターマーチンのブーツに、グリフィンの手掛けたサイケデリックアートのモチーフをあしらった商品まで発売されていることから、ウォーホールほど有名でないものの、いまだ根強い人気があるアーティストである。つまり、グリフィンがこういったロックTシャツのデザインを手掛けたことも、ロックTシャツをさらに魅力的にし、アートとしての価値も高める要因となったように思われる。

 

また、このロックTシャツ生産販売というのは、音楽において、つまりレコードやライブパフォーマンスの収益とは別の産業の側面を生み出した。つまり、グッズ販売としての相乗効果も生み出されたというわけである。

 

現在、アニメーション等ではごくありふれた手法、作品における他のアーティストとのタイアップの概念というのは、リック・グリフィンの手掛けたロックTシャツのデザインが始原であったのではないだろうか?

 

 

4.バンドTシャツの普及

 

 

七十年代に入ってから、ロック、バンドTシャツの生産販売は一般的になっていったように思える。

 

ビートルズ、ローリング・ストーンズ、ジミ・ヘンドリックス、ザ・フーといった一般的なロックバンドのシャツも市場に出回るようになったのは、この70年代ではないかと推定される。それから、有名なロンドンパンク・ムーブメントにおいて、セックス・ピストルズを筆頭に魅力的なバンドTシャツの生産が数多く行われるように至ったというのが妥当な解釈なのかもしれない。

 

また、経済的な側面でもグッズ収入における金銭の流れというのは、グレイトフル・デッドの時代から比して、70,80,90年に差し掛かると、一大産業として確立されてもおかしくない額に上るようになったのではないだろうか。そして、バンドTシャツはサブカルという範疇にとどまるものの、一種の文化として確立されるに至った。カルチャーとしての拡がりはロックシーンにとどまらず、Run-DMCのようなヒップホップシーンにも波及していく。

 

八十年代に入り、レッド・ツェッペリンやブラック・サバスといったハードロック・バンドだけでなく、ヘヴィメタル・バンドのTシャツも出てくる。メタリカ、メガデス、アイアン・メイデン、ジューダス・プリーストというように、枚挙にいとまがない。実に名物的なバンドロゴやアルバムをモチーフにしたTシャツが大量に生産されるようになる。このあたりのロックバンドは、熱狂的なファンを一定数抱えており、現在もファンの総数は依然多いように思われる。

 

元来、ロンドンパンクスよりもどぎついキャラクターを持つバンドも多く、一般的な美学から見ると、悪魔的なバンドロゴ、アルバム・アートワークをバンドキャラクターとしているが、表面上の美という概念から離れた「醜悪美」のような概念を偏愛する人々は、一定数存在することは確かだろう。

 

 

Sonic Youth「Goo」
この70〜80年代のロックTシャツは、現在でも、よく古着屋で販売されており、ビンテージ品と呼ばれる。

これは、一部に熱狂的なコレクターがいるようだ。どうやら、中には、ウン十万!?という高値で取引される商品まであるというのだから驚くしかない。

 

 

現在、ロックTシャツとしては、ソニック・ユースのGoo、ヴェルヴェット・アンダークラウンドのデビュー作のアルバム・アートワークをあしらった商品が有名かと思われる。

 

終わりに

 

 

近年では、大掛かりなロックフェスにおいて、こういったアーティストのロゴ、アルバムアートワークにちなんだシャツというのが販売されるのはごくごく自然な事となった。

 

実は、これというのは、大まかな起源を辿てみれば、60年代後半に隆盛したヒッピー文化、グレイトフル・デッド、その取り巻きのデッドヘッズ、敏腕プロモーター、ビル・グラハムのもたらした考案の恩恵だった。

 

昨今、プロモーター、音楽、広告制作会社にとどまらず、インディーズ界隈のバンドにとっても、自分のバンドのロックTシャツをオリジナルに作製し、ライブ会場等で販売し、それをファンに購入してもらうというビジネル・スタイルは確立され、ロックバンド活動を維持する上できわめて重要な収入源となった。

 

また、アパレル業界の商品という側面から見ても、著名なロックバンドとデザイナーのタイアップ、コラボというのは、以前よりはるかに身近で接しやすいものとなったように思える。


 

参考


*1 OUTER LIMITS.CO  https://outerlimits.co.jp/pages/merz-b-schwanen

*2Rivaivals GALLERY.com http://revivalsgallery.com/?mode=f26

*3繊研新聞社 [今日はなんの日?] ジェームス・ディーンとTシャツと https://senken.co.jp/posts/rebelwithoutcause-tshirs

*4*5 Prisma creative products コラムNO.3 Tシャツと音楽の関係性について https://www.prismacreative.jp/columns/column03.html

 


1.バンドフライヤーの概念


バンドフライヤーというのは、ごく簡単にいえば、ロックバンドのライブ告知を知らせるための、主に紙の形式で展開されるチラシ媒体。

 

例えば、何月何日に誰彼というアーティストのライブがありますという際に、バンド名やライブの日程といった事項をわかりやすく告知し、一般の不特定多数の人々にバンド名自体の認知度を高める効果もあります。もちろん、それは主要なバンド名とともに併記されている他の無名のバンドの知名度を高める相乗効果もいくらか見込めるでしょう。

 

これらのバンド広告は、プロのデザイナーが手掛けたわけではなく、その多くはミュージシャンのハンドメイドによって作製されたものです。

これを、例えば、ライブハウスのフロア内の壁などに貼っておけば、その日の公演に訪れたファンが、何月何日にこのバンドのライブがあると確認し、その日のライブを事前にチェックしておく、そんな効果が期待できます。

もちろん、これはライブハウスの中だけでに留まらず、街角の壁に貼っておけば不特定多数の人々の目に止まりますので、適法性如何はここでは言及しないでおくとしても、それなりに宣伝効果が見込めるわけです。

こういったフライヤー文化というのは、のちに、雑誌上、もしくは独立したファンジン誌、フリーペーパーなどにおいて紙媒体として展開されていきました。それは紙媒体がデジタル化として移行しつつある現在でも引き継がれている形であり、例えば、ライブ会場のHPの掲載される公演の日程を銘記した情報というのも、いわゆるデジタルフライヤーという概念の範疇に入るでしょう。

 

2,バンド・フライヤーの発祥

 

個人的には、おそらく、ウッドストック、もしくはセックス・ピストルズをはじめとする初期のロンドンパンクスのバンドフライヤーを見かけたことがあるので、他のジャンルでは別としても、ミュージック業界で使用されはじめたのは七十年辺りが原初だろうと思っていましたが、どうやら思い違いであったようです。

よく調べてみると、ビートルズの66年のコンサートフライヤーがありました。ということは、このあたりの年代がバンドフライヤーの発祥だろうと思われますが、全くそれ以前に存在しなかったのか、もう少し調査する余地があるかも知れません。

一方、アメリカでは、とりわけ、パンクロックバンドに、このフライヤーというものが親しまれており、バンドの活動の背骨を支えてきたといってもいいでしょう。ベルベット・アンダーグラウンドあたりはすでに、非常にクールでスタイリッシュなバンドフライヤーを作成していました。 

また、ニューヨークの有名ライブハウスのcbgbのフライアーにも、イギーポップ、ブロンディ、テレビジョン、トーキングヘッズ、ディクテイターズといったニューヨークパンクを牽引したバンドの名が見られます。


3.フライヤー文化の隆盛


このバンドフライヤー文化は70年代のロンドンパンクあたりになると、非常に個性的なデザイン性が出てきます。

凝ったフォントを取り入れ、厳しい雰囲気を醸し出してみたり、強烈な印象を与えるような写真をレイアウトの中心に収めたりと、デザイン性においても多様性が出てきます。

このバンドフライヤー文化は、とりわけアメリカのパンクロック・バンドに親しまれ、独特なカルチャーを形成していきました。すでに六十年代には、ヴェルベットアンダーグラウンドが非常にクールなフライヤーを作成していました。これは今でも通用するような洗練されたデザイン性を有しています。

また、ニューヨークの伝説的ライブハウスcbgbのフライアーもありまして、イギーポップ、ブロンディ、テレビジョン、トーキングヘッズ、ジョーイ・ラモーン、ディクテイターズあたりのニューヨークパンクを牽引した華々しいバンドの名が見られます。

また、のちに有名なミュージシャンとなるアート・リンゼイ擁するノー・ニューヨークのdnaの名も、cbgbのライブ日程のフライヤーに見られるところがなんとも興味深い。こういったフライヤーをぼうっと眺めていると、リアルタイムでは味わえなかった往年のニューヨークのミュージックシーンの熱気がフライヤー自体から読み取れるかもしれません。

それ以降も、アメリカのパンク界隈のバンドにはこの文化がかなり浸透していき、カルフォルニアのデッドケネディーズ、黒人のみで構成されたバッドブレインズ、もしくは、DC界隈の主要なハードコアバンドはハンドメイド感を全面に押し出し、そこに個性と思想性を打ち出すことにより、派手なフライヤー活動を展開していくようになりました。また、フガジなどのフライヤーにはマルティン・ルーサー・キング牧師の名も見られ、ここに思想と分かち難く結びついたビラとしての効果が見受けられます。

こういったフライヤーというのは、コレクター所有欲を駆り立てるものの一つでしょう。透明な額縁に入れて壁に飾りたくなるようなかっこよさがあって、愛好家からしたらたまらないものがあるかもしれません。


4、現代のフライヤー


これらの英国や米国のパンクバンドを筆頭に、独自展開されていったバンドフライヤーというのは、今日のミュージシャンにも引き継がれていきます。

それはたとえば、HP上の広告として、また雑誌中に掲載されているのも見られるかもしれません。例えば現代の私たちが過去のフライヤーを見て、なんとなくノスタルジアを感じるように、今日のバンドフライヤーというのも時が経てば、なんともいえない味が出てくるのかもしれません。

概して、ミュージシャンというのは音楽とメンバーのキャラクターばかりにスポットライトが当てられるように思いますが、今回はフライヤーといあ普段あまり取り沙汰されないような側面から音楽を見つめてみました。 

あらためて自分の好みのバンドのフライヤーのデザインに着目してみると、また一味違ったバンドの良さ、楽しみ方が見出せるかもしれません。

 

1980年代初頭、ワシントンDCを中心として、パンク・ロックムーブメントの大きな運動が起こりました。もちろん、同時代のイギリスでも、このムーブメントは盛んになっており、革ジャンを着て、ド派手なスパイキーヘアと呼ばれる逆立ったカラフルな髪型をし、硬派なアップテンポなロックンロールをふてぶてしく奏でる。 そんなミュージックシーンが徐々に形成されていきました。

 

その一方、もうひとつの主要なパンク・ロックシーンの形成地のアメリカでは、イギリスとは異なる独特なシーンが形作られるようになっていきます。

 

後になると、このハードコア・ムーブメントは、NY、LA、もしくは、ボストンをはじめとする大都市に広がりを見せはじめ、独自の熱を帯びた魅力的なインディーズ・シーンを形成していくようになっていきます。このムーブメントの立役者となったのは、TEEN IDLES 、S.O.A、そして、もうひとつなんと言っても避けては通れないのが、MINOR THREATというアーティスト。この3つのバンドが中心となり、ムーブメントの旋風を巻き起こしました。これはまた、一部の界隈にしか影響を及ぼさなかったわけではなく、オーバーグラウンドにいるニルヴァーナのデイブ・グロールのようなスター的な存在も、当時こういったバンドの動向に着目していて、少なからず影響を受けたと後になって回想しています。

 

 

 

このハードコア・パンクというジャンルの特徴というのは一言でいうと、とにかく攻撃的でアグレッシヴで、2ビートや8ビートを主体としたアップテンポな楽曲で構成されるという特色があります。 ライブパフォーマンスにおいても、過激で剣呑な雰囲気に包まれていて、ほとんど暴動といっても過言ではない危なっかしさ。

 

およそ観客同士だけではなく、アーティストと観客が喧嘩をおっぱじめるのではなかろうか、当時の貴重な映像などを見ていると、ヒヤヒヤするような雰囲気もあります。 

 

Love minor threat.jpg
Public Domain, Link

ときに、嵩じた観客がステージ上までのぼり、多数のファンが入り乱れながら、ボーカリストのマイクを奪い取り、代わりに曲をシンガロングするという熱いスタイル。

 

これはのちのニュースクールハードコアとなると、さらに観客たちの過激性はましていき、跳ねまわるように踊る”モッシュピット”、腕を振りまわしながら踊る”ハードコア・フリースタイル”という独特の踊りまで出てきます。

 

こういった音楽に対して、血の気の多い野郎だけが、共感を示していたのかというと必ずしもそうではありません。少なくとも、そこには社会のなかのマジョリティという網からこぼれ落ちた存在を、受け入れる余地を作るという良い側面もあって、そういった存在を受け入れ、彼等の社会的に虐げられた精神を奮い立たせ、その足でしっかり立つように発破をかけていました。

 

これこそが、ハードコアの主義主張の際立った役割であったのかもしれません。この頃、すでに、往年のオーバーグラウンドの多くのパンクロック・バンドがスターダムの方に押し上げられていってしまい、およそ、そのシーンの渦中にあるジョニー・ロットンをのぞいて、カウンターカルチャーとしての意義を見失いつつあった風潮を、ワシントンDC界隈の苛烈な音を奏でるミュージシャンはあまり良しとせず、インディーミュージックという形で、彼等が手中に取り戻そうとしていたのでしょう。

 

MINOR THREATのツアーをドキュメンタリー風に追ったフィルム、「At The Space・Buff Hall・9:30 Club」という作品があって、この映像を見ると、観客のほとんどが無骨な風貌をした若い男性客で占められていますが、そこに、ひとりの黒人女性が、他のほとんど暴徒化寸前の男の観客に臆することなく、途中でステージ上にあがってきて、マイナー・スレットの歌をシンガロングしている様子が映り込んでいます。

 

ここには、まさに、ハードコア・パンクというジャンルが、オーバーグラウンドの白人音楽に共感を示しえないマイノリティである黒人女性の心をしっかりと捉えたような印象が伺えます。 また、このハードコア・パンクという武骨なジャンルの中には、さまざまな思想的側面が込められています。

 

その中のひとつに、”DIY”という精神が挙げられます。 これは日曜大工などで、よく聞く言葉でしょうけれど、その名の通り、「Do It Yourself」という概念がこの音楽の主張には貫流しています。

 

それは、「他に依存したり、頼るのでなく、君自身の力でやれ」というスタイルが、こういったバンドの音楽性からにじみ出てくる主題でした。

 

それから、ひとつは、自身のMinor Threatにおける活動を軌道にのせていくため、もうひとつは、こういった主義に近いバンドの活動を応援していくため、イアン・マッケイは、独立したファンジン「DISCHORD RECORD」をワシントンDCに旗揚げし、起業家としての顔も垣間みせつつ、周辺のバンドを音源という形で支援し、上記したTeen IdlesやS.O.Dの楽曲リリースを続けていきます。これらのバンドのメンバーが、レコード会社を立ち上げ、自身の音源を次々にリリースしていく活動自体に、「D・I・Y」の源流、”Do It Your Self”精神が垣間見えるようです。

 

そのスピリットというのは、以降のパンクカルチャーに根深い影響を与え、米国内においては、Bad Religionのメンバーが立ち上げた「EPITAPH RECORD」というのも、インディペンデントレーベルの活動の一環として挙げられるでしょう。

 

実は、日本においても、同じような事例があり、HI-STANDARDの横山健が「PIZZA OF DEATH」を立ち上げ、自身のバンドのレコードのリリースだけにとどまらず、有望そうなバンドを発掘、後進育成のため、現在もリリースを重ねています。

 

彼等のような存在は、はじめから潤沢な資金に恵まれたから、レコード会社が設立出来たわけではありません。これは綺麗事のように聞こえるかもしれませんが、人一倍の情熱があったから、ベンチャー企業的な思い切った舵取りが出来た。

 

何より、このイアン・マッケイが設立した「DISCORD」のビジネスモデルが確立された前例があったからこそ、上記の後進のアーティスト達は恐れることなくインディーレーベルの経営を進めていくことができたわけです。

 

 

DISCHORD LABELからリリースされた初期のバンドで秀逸な名盤を挙げておくと、RITES OF SPRINGの「End ON END」、アップテンポでキャッチーな楽曲が魅力であるメロディックハードコアの草分け的な存在ともいえる、DAG NASTYの「Can I Say」と、イアン・マッケイの弟、アレックのバンド、FAITHのリリース音源「VOID:FAITH」等がカタログ初期の名盤として挙げられます。

 

その後、Dischordの主宰者、イアン・マッケイは、ハードコア・バンドのリリースを続けていく傍ら、自身のMinor Threatの活動においても、「Straight Edge」という楽曲から汲み出された禁欲的な思想性、 

 

(俺は、酒を飲まない、タバコを吸わない、享楽的なセックスもしない」

 

と、イアン・マッケイの激しいアジテーションによって歌われている)

 

を前面に押し出していって、国内全体のハードコアシーンを牽引する象徴的な存在に押し上げられていきます。

 

しかし、彼自身は、ややもすると、自身がそういった神格化をされることをさほど快く考えていなかったのでしょう。

加えて、1980年代中頃あたりから、こういったハードコア界隈のバンドの音楽性は、押し付けがましく、また思想めいてきて、政治色、もしくは宗教的なカルト性を帯びたバンドが出始めた頃から、イアン・マッケイはこのシーンに対して徐々に距離をとっていくようになります。 

 

おそらく、マッケイ自身は、もちろん、様々な音楽の楽しみ方があると思いつつも、元来、そういった野暮というのか、無骨で横柄な振る舞いをする観客を本心ではあまり快く思っておらず、上記した「Buff Hall」のツアードキュメンタリーにおいて、そういった音楽や詩に耳を傾けないで、ストレス発散のために自分のライブを無茶苦茶にするような輩を見ると、自分でもどうしたら良いかわからないという具合に、不満げに顔をしかめています。時に、そういった暴徒的な観客に対し、本気で叱責するようなシーンも見られる箇所もあるのが興味深いところ。

 

その後、Minor Threatのすさまじいアジテーションを有した音楽性は、徐々になりをひそめていき、どことなくメロディアス、ポップでありながら、深い哲学性を感じさせる音楽のテイストに変わっていきます。

 

Minor Threat自体の活動は、それほど長くは続かず、三年後にあっけなく解散にいたります。その後、イアン・マッケイは、それまでとは異なる方向性を追求していくため、1987年、 Rites Of Springのガイ・ピチョトーと、Fugaziを結成するに至ります。

 

この”Fugazi”というバンドはRites Of spiringの音楽性の延長線上にあり、ポスト・ロック色の濃い音楽性を特徴としており、後発のパンクロック・バンドに啓示を与え、音楽性だけにとどまらず、バンドのマネージメントスタイルにおいても、今なお多大な影響を与え続けています。彼等は、商業的な活動と距離を置いて、反商業主義を旗印として掲げ、長い活動を続けていきます

 
Discordレーベルの金字塔「In on the Kill Taker」
 その後、イアン・マッケイの心変わりを反映したのか、Dischord Recordのリリース作品というのも、年を経るごとに音楽性が変遷していき、レーベル発足当初は、ほとんどハードコア一辺倒であったのが、 カタログを見てみると、90年代に入ると、オルタナティヴ、ダンス、もしくは、ポスト・ロック風味を感じさせる、多種多様な音楽性のバンドのアルバム作品を続々とリリースするようになっていきます。
 
 

その中において、シーンで際立った存在、Jawbox,Pupils、Q And Not You、どのジャンルにも属しがたい、独自色の強いバンドを発掘していきます。

 

殊に、Jawboxというバンドは、ピクシーズをよりパンク色を強めた音楽を奏でており、良質な大人向けの渋いオルタナロックバンドとしておすすめしておきたい。  もちろん、リリースしていくバンドの音楽性が多種多様になっていく中、音楽性の根幹的な目的自体が様変わりしたのかといえば全然そうでなく、相変わらず、「D・I・Y」精神に則り、既存のシーンに対するカウンター・カルチャー的存在を90年代、00年代にかけて、Dischordは続々と輩出していきました。 

このような反体制的なレーベルが、こともあろうに、米国の首府ワシントンDCから出てきたという点が、他の国家ではありえない信じがたいことでしょう。

今日のミュージックシーンには、「ひとりでやる」という精神を掲げ、シーンを形成していくような気概あるバンドに乏しい中、このレーベルの周辺にまつわる逸話は、米国の本来の意味での自由が約束されていた時代の良きエピソードが垣間見える。一世紀近いロック史を概観した上でもかなりユニークな出来事と思えたため、今回、このような形で、DIY精神と銘打ってディスコード・レーベルをご紹介させていただきました。

 

 

総括すると、このディスコード界隈のバンドは、現代の管理の行き届いた社会に比べると、はるかに自由奔放で独立した精神「Do It Youeself」というキャッチコピーを高らかに掲げ、実際それを実践していたという面で、他のシーンにない独特な魅力にあふれるアーティストばかりであったように思えます。

現在では、すでに解散をしているバンドが多いです。また、表面上では、巨大市場を形作るまでに至らなかったのは事実でしょう。しかし、ワシントンDC発、”Dischord”は、米国のインディペンデント・レーベル「Touch& GO」「Matador」「Sub Pop」と共に、1980年代から今日に至るまでの米国インディーズ・ミュージックシーンを逞しく牽引し、文化的貢献を担ってきた象徴的存在であるということだけは間違いありません。

 

 

 「参考資料」 DISCHORD DISC GUIDE disk UNION staff selection 


*記事内のビートの説明に関して誤りがございました。訂正とお詫び申し上げます。教えていただいた方に感謝いたします。