・アルゼンチンタンゴはどのように始まったのか?
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・タンゴのヨーロッパへの普及
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・アルゼンチン・タンゴをクラシック音楽から解釈した二人の作曲家 ピアソラとアルベニス
・アストル・ピアソラ(Ástor Pantaleón Piazzolla)- Argentina
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・アストル・ピアソラ(Ástor Pantaleón Piazzolla)- Argentina
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イギリスのパンクの歴史の原点は一つは、マルコム・マクラーレンがもたらした宣伝的な概念である。そしてもう一つは、社会に内在する政治的な側面である。これは源流に当たるニューヨークのパンクグループよりもその性質が強い。特に、ジョン・ライドンやシドの影に隠れがちだが、イギリスの音楽の系譜を見る際には、ジョー・ストラマー、そしてミック・ジョーンズ、ポール・シムノンを素通りすること出来ない。
当初のザ・クラッシュはラモーンズの音楽に触発されたということもあり、4カウントで始まる直情的なパンクロックソングを特色としていた。その後、レゲエ、スカ、ラヴァーズ・ロックなどを融合させ、パンクロックそのものの裾野を広げていった。パンクの可能性というのは、内包されるジャンルの多彩性にある。それはジャズと同じようになんでも出来るという、ある種の無謀な音楽的な挑戦でもあったわけなのだ。
しかし、ジョー・ストラマーやジョーンズがなぜ、レゲエやスカといったカリビアンの共同体の音楽を取り入れるようになったのかという点は、当時の1970年代後半のイギリス社会の情勢が如実に反映されている。
例えば、ノッティング・ヒルの1976年のカリブ系移民と白人を巻き込んだライオットにジョー・ストラマーは偶然居合わせ、この事件に触発され、白人が黒人と一緒に共闘すべきであること、そして白人もまたカリブ系移民のように政治に怒ることをステートメントの中に取り入れたのだ。これは1970年代のサッチャリズムの渦中で、資本を搾取される市民に対し、彼らに倣い、権力に従属することなかれという意見をパンクソングの中に織り交ぜたのであった。
パンクロックの初心者は、例えば、デビューアルバムに何らかの共感を示し、そのあと『London Calling』のようなハイブリッドのパンクの魅力に惹かれていく場合が多いと思うが、ザ・クラッシュのメンバーがなぜカリブ系の音楽をパンクの文脈に取り入れるようになったかを知るのはとても大切だろう。デビュー時のパンクロックソングはもちろん、『Sandanista!』のように一般的に亜流と称されるアルバムまで、表向きの印象だけでなく聴き方が変わってくるからだ。
1976年、もう一つのパンクの始まりを告げる動きがロンドンで発生しつつあった。この年の7月にニューヨークのパンクバンド、ラモーンズがノースロンドンにあるラウンドハウスでギグを行い、このライブにはイギリスの最初期のパンクバンドが多く参加していた。彼等はロックソングを簡素化したラモーンズのスタイルに共感を示し、それらを同地で再現させるべく試みた。セックス・ピストルズが1975年11月6日にウェストロンドンのセント・マーチング・スクール・オブ・アートで初演を行い、時を同じくして、ザ・クラッシュは1976年7月4日にはシェフィールドのザ・ブラック・スワンでピストルズを支援するライブを行った。
驚くべきは、この最初の流れが発生したあと、ロンドンのパンクの先駆的な動きはわずか数年で終焉を迎える。いわばこの音楽ムーブメントそのものが''衝動的''であったと言わざるを得ない。
当時の音楽ジャーナリスト、キャロライン・クーンは、この最初のパンクバンドの台頭に直面した時、ピストルズについて、「個人的な政治」であるとし、クラッシュについて、「真剣な政治」と報道しているため、政治的な性質が強かったと言わざるを得ない。
ジョー・ストラマーとシモノンは、ロンドン西部にあるノッティングヒルやドブローク・グローブなどのレゲエ・クラブに足を運んで、ジャマイカの音楽に慣れ親しんでいた。これが結局、クラッシュの多彩な音楽性を形成したのにとどまらず、パンクロックの音楽の網羅性や裾野の広さを構築することになった。
1976年の夏、ザ・クラッシュのメンバーはノースロンドンのカムデン・タウン、そして西ロンドンのラドブローグ・グルーブ、ノッティングヒルの区域に不法に滞在していた。しかも取り壊し予定の古い空き家に陣取っていた。ギタリストのミック・ジョーンズは、ウィルコム・ハウスと呼ばれる議会のタワーの18階に祖母と一緒に住んでいた。この場所は、ロンドンの高速道路であるウェストウェイが見下され、名曲「London’s Burning」の歌詞でも取り上げられている。
彼等が重要な音楽の根幹に置いたアフロカリブの音楽、ジャマイカのレゲエ/スカはおそらくノッティングヒルのカーニバルでも演奏される機会が多かったのではないか。現在も開催されているこのフェスティバルは当時それほど大規模ではなかった。このフェスティバル自体も1958年の最初の人種的な暴動の反省を踏まえて、愛に満ちた祝祭として行われるようになった。
しかし、当時の社会情勢の影響もあってか、1976年に二十年前と似たような事件が発生する。それが「ノッティングヒルの暴動」と呼ばれる事件である。この年のカーニバルが終了すると、ストリートが独特な緊張に満ち始め、黒人の一部のカリブ系の若者(白人も参加したという説もある)が警察側に対して暴徒化したのだった。
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1976年のノッティングヒルの暴動に参加したDJ、映画監督のドン・レッツ |
この暴動に居合わせたストラマーとシモノンは、黒人の暴動に深い共感を示し、彼等の勇気に接して、「同じように自分たちも怒るべきだ」と最初のパンクロックソング「White Riot」にその意見を込めた。この暴動にはシド・ヴィシャスもいて、二人は彼を捕まえるため暴動に戻った。その様子をテラスハウスから見た黒人の年配女性は彼等に言った。「あそこにいくな。少年たち。殺されるわ!!」
ところが、彼等は戻らず、この暴動に最後まで居残った400人規模の黒人たちを英雄視し、「ハードコアのハードコア」と呼んだ。そして、これがすでにオリジナルパンクの後の80年代の「ハードコアという概念」が誕生した瞬間であると言えるだろう。もちろん、この曲は白人側に対するステートメントであると言えるが、そこにはカリブ・コミュニティの考えに対する深い共感を見出すことが出来る。拡大解釈をすると、人種を越えて協働すべきという内在的なメッセージも滲んでいる。その証立てとして、彼等はセカンドアルバム『London Calling』ではレゲエ、スカ、そしてフォーク/カントリーと人種を超越した音楽へと接近していったのである。これは単なる音楽の寄せ集めのような意味ではなく、音楽は人種を超えるという提言がある。
個人的なことにとどまらず、他者や社会全体のことを考えられるというのはスペシャルな才能ではないか。そして、意外にも激しいイメージを持つジョー・ストラマーがこういった性質を持ち合わせていたのは、以降の「I Fought The Law」のような友愛的な一曲を見れば歴然としている。ザ・クラッシュはこの日の出来事に強い感銘を受け、デビュー曲「White Riot」を書き上げた。
「黒人は多くの問題を抱えている。彼等は確かにレンガを投げる方法を知っている。白人は学校に行って、そこで厚くなる(賢くなる)方法を教えられる。彼等の誰もがムショには行きたがらない」
扇動的な内容であるが、権威や権力に対し反抗を企てることも時には必要であると彼らは訴えかけたのだった。
この曲は当初、それほど大きな話題を呼ばなかったが、BBCのジョン・ピールが高く評価し、そしてラジオでも積極的にオンエアした。また、以降の時代になると、ミック・ジョーンズは若気の至りのような部分があったということで「White Riot」を演奏することを忌避したという。しかし、市民が権力に従属せぬこと、反対意見を唱えることの重要性を訴えたという点では、粗野で直情的という欠点もあるにせよ、パンクロックの重要な原点を形作ったと言えるか。
なお、最近もノッティングヒルのカーニバルは続いており、現在では、フレンドシップに脚光を当てた友愛的なイベントへと変化している。1976年の暴動をドキュメンタリーフィルムとして追った映画「白い暴動(White Riot)」は、日本で2021年に公開された。この映像では経済破綻状態にあった70年代のイギリスの世相が的確に映し出されている。こちらの映像もぜひ。
▪️グラミー賞のはじまり ハリウッドから始まった米国最大の音楽賞
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第1回グラミー賞の授賞式 |
音楽賞というのは、他の一般的な映画賞、文学賞と同じように、一定の商業的な効果や作品の販売促進を見込んで表彰者が決定されるものである。また、それとは別に、音楽的な貢献をもたらした制作者や文化人の功績が称えられるという意味も込められている。
そもそも、グラミー賞は、1958年に最初の受賞レコードが表彰された。これは米国映画界の最高の栄誉とされるアカデミー賞(オスカー賞)の創設から30年後のことだった。ハリウッドの映画産業とともエンターテイメント業界を発展させてきた米国であるが、少し遅れて同賞が開始されたのも、同じように経済効果を期待してのことだろう。もちろん、音楽産業が映画産業に付随するような媒体として一般的な市民のマインドに浸透させるという効果があった。
グラミー賞は、NARAS: ナショナル・アカデミー・オブ・ザ・レコーディング・アーツ・アンド・サイエンス(現在はレコーディングアカデミーの名称で親しまれている)によって優れた音楽作品に表彰される賞であり、アメリカの音楽界の最高の栄誉といえる。音楽を対象にしたアワードの一つで、当初はレコードだけを受賞対象としていた。当初は音楽作品に贈られる賞であったが、時代に沿った形で、アーティストや、それに付随する活動を表彰するようになった。
1958年に第一回の受賞レコードが発表され、1963年頃には39部門が表彰されていたが、受賞部門は増減を繰り返しながら、年々、拡大を続けている。1973年頃には、ジャズ、クラシック、ポップス部門が新設され、音楽ジャンルごとに細分化されていき、人気のあるジャンルを部門別に分けて表彰するようになった。2025年現在では91部門があり、そのうち4つの主要部門は「ビッグ4」と称されている。このうち最も栄誉があるとされているのが、アルバム賞だ。今年度はビヨンセがカントリー・アルバム『Cowboy Carter』で受賞している。
特に、日本でグラミー賞自体が知名度を上げるようになったのは、1970年代前半、およそ1973年頃である。例えば、同年の受賞者は、レコード・オブ・ザ・イヤーがロバータ・フラック「The First Time Ever I Saw Your Face(邦題: 愛は面影の中に)」、アルバム・オブ・ザ・イヤーには、ジョージ・ハリソンとラヴィ・シャンカールによるコラボレーション・アルバム「バングラデシュ・コンサート」が選ばれた。
現在でも注目を浴びるその年の象徴的な楽曲を紹介するソング・オブ・ザ・イヤーには、レコード・オブ・ザ・イヤーのロバータ・フラックによる「The First Time Ever I Saw Your Face(愛は面影の中に)」がダブル受賞を果たしている。当初から一人のアーティストに複数の賞を授与するという伝統は70年代から引き継がれているようだ。そして、この年のベスト・オリジナルスコアには「ゴッドファーザーのテーマ」が選ばれている。そして一般的には、洋楽には興味を持たない日本の一般層に、この名画がグラミー賞を浸透させる契機をもたらしたのである。
ちなみに、ベスト・ポップ・ボーカルには男性歌手として、「ウィズアウト・ユー」を歌ったニルソン(ハリー・ニルソン)が選出されている。女性歌手として、ヘレン・レディの「I Am A Woman(私は女)」が選ばれた。ニルソンの不朽のポピュラーソングに比べると、レディの楽曲はやや時代に埋もれてしまった感もあるかもしれない。しかしながら、この年のポピュラーの充実感は、日本の音楽ファンのみならず、業界全体に洋楽の最大の音楽賞に興味を惹きつける要因になったのである。
また、メディアのバックアップもグラミー賞の一般的な認知度を高める要因となった。ビルボード誌、そして、キャッシュ・ボックス誌などがグラミー賞を報道し、当該賞の華やかさを一般的に知らしめることになった。そして70年代はじめ頃には、受賞者にとどまらず、ノミネート作品にも大いに注目が集まるようになった。これは一つ、世界的な音楽賞が他に存在しなかったのも理由であろう。つまり、グラミー賞の開催そのものが音楽の重要なプロモーションのチャンスになったのである。グラミー賞は、当初から委員の投票形式で選考され、すでに70年代においてNARASのメンバーは2000人以上に膨れ上がっており、厳密な投票が行われるのが慣例だった。
グラミー賞は大きな専門機関から始まったわけではない。”1957年、ハリウッドの商工会議所がハリウッドと関連業界を発展させるために始まった”と日本の音楽評論家の岩波洋三氏は指摘している。要するに、映画音楽の宣伝のようにキャンペーン色が強いイベントであることは明らかである。
そして、1957年の最初のミッションは、五大レコード会社の有力者を集めて、選考の計画を立てるように依頼するというものだった。当時のアメリカの主要レーベル、及び、責任者は、ソニー・パーク(Decca)、ロイド・ダン(Capital)、ジェシー・ケイ(MGM)、デニス・ファーノン(RCA)、ポール・ウェストン(CBS)であった。つまり、レコード会社による干渉があったのは創設当初からであり、なにも今始まったというわけではない。しかも、近年はメジャーアーティストだけではなく、インディーアーティストも表彰する場合があることを考えると、主要なキャンペーンの他にも、公平性を重視した選考を行うようになっているのは事実だろう。ちなみに、現在の五大レコード会社とは勢力図がかなり異なることにご留意いただきたい。
しかし、彼らにとってこの選考はあまりに荷が重すぎたため、引退したCBSの社長であったジム・コンクリングを抜擢し、NARASが結成され、本格的な機関としての活動を始めるにいたった。現在でも、CBSのプロモーション広告があるのはそのためである。以後、1957年5月には、委員会とノミネート委員会が発足し、本格的な機関が創設される。そして、ハリウッド支部は、初代の会長に、ポール・ウェストン氏が選ばれ、この賞の責任者に就任した。同年にはNARASののニューヨーク支部も発足し、ガイ・ロンバート氏が選ばれた。
1958年には第一回のグラミー賞が開催され、前年度のレコードを対象として優れた作品にトロフィーが授与された。この第一回の受賞者には、ドメニコ・モデューノンの「ボラーレ」、ヘンリー・マンシーニの「ピーター・ガン」が受賞している。また、1960年には、パーシー・フェス・オーケストラの「シーム・フロム・サマー・プレイス」がレコード・オブザ・イヤーを獲得し、マイルス・デイヴィスの「スケッチ・オブ・スペイン」なども受賞した。
当初、グラミーが映画音楽に注力していたのは前述の通りで、1961年にはヘンリー・マンシーニの「ムーン・リバー」、62年には「ハロー・ドリー」が受賞している。その後、フィフス・ディメンション、ディオンヌ・ワーウィックが受賞した。グラミー賞は、その年の音楽の流行を反映している。70年代以降は、日本の音楽業界でもグラミー賞が注目されるようになった。例えば、1973年には日本のテレビで授賞式の模様が放送されたことがあった。
モントレー・ポップ・フェスティバル、ウッドストック、ワイト島など、ハードなロックが人気を獲得する中で、大音量のPAシステムを組み上げることも可能になりました。特に、ライブ・フェスの普及に関しては、ビートルズ時代までは、音量やモニターの返しに限界があったため、満足のいくライブパフォーマンスになることは稀でした。当時は、マーシャルのアンプを渦高く積み上げ、ギターを鳴らすギターヒーローの姿も映像の中でご覧になったこともあるでしょう。それがPAシステムの機能の工場、そしてオーディオの進化により、大規模な観衆全体に聴取可能なサウンドシステムが構築された。
特に、音楽フェスティバルの発展と合わせてロック、ダンスミュージックがよりダイナミックな意味を持ち始めたのは事実でしょう。それまでは数千人規模にしか鳴り響かなかったサウンドが70年代ごろになると、数万人規模のライブ空間へと広がっていきました。1980年代にはニール・ヤングのファーム・エイドなど、慈善的な意味を持つフェスティバルも開催されるようになりました。以降、音楽フェスティバルは、多くのプロモーターが夢見る空間となり、商業的なベースを拡大し、エンターテイメントの中核を担うようになったといえるでしょう。
近年、顕著なのは、根幹となる地域とは別の地域や海外でサブ的なミュージックフェスバルが開催される傾向にあるようです。ロラパルーザ、プリマヴェーラなどはこの代表的な事例です。
日本でも90年代頃から、大型フェスティバルが開催されるようになりました。自然一体型の音楽祭、フジロックフェスティバル、レディングの都市型を受け継いだサマーソニック、またそれに付随する補足的なフェスティバルなど、例を挙げるときりがありません。近年、日本では独立系の音楽祭も増加しており、注目すべきフェスも開催されるようになっています。ジャンルも多岐にわたり、ポピュラー、ダンス、クラシカルに特化したイヴェントも開催されるようになってきています。
音楽祭を楽しむ上では、観光的な楽しみとグルメ、グッズ販売などは切り離せません。現地の独特の空気感や風景、そして会場で楽しめる食事等、アーティストやイベントのグッズ等、その時にしか購入できないグッズもあります。ぜひ会場でこういったスペシャルな楽しみを探ると良いかもしれません。今回のセレクションでは、世界の10大ミュージックフェスティバルを選びました。
1. Lollapalooza (US)
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8月上旬にシカゴのグラント・パークにて開催されるイベント。トレンドのポピュラーからロック、ダンス、パンク、ヒップホップまでジャンルレスに網羅している。US版グラストンベリーといえるでしょう。
ロラパルーザ(Lollapalooza)はアメリカ合衆国イリノイ州シカゴで毎年開催されるロック・フェスティバル、及び同名を冠した世界各地で開催されているフェスティバル・ブランド。現在は、シカゴの他に、チリ、ブラジル、アルゼンチン、ベルリン、パリ、ストックホルムで開催されています。
ミュージシャンの出演のほか、バラエティに富んだイベントが開催される。ダンスパフォーマンスやコメディなどの公演も行われる。1991年にジェーンズ・アディクションのボーカル、ペリー・ファレルが組織したロラパルーザは北米各地をツアーする形態をとったロックフェスティバルで、オルタナティブ・ミュージックの隆盛に伴い、1990年代のアメリカの若者文化の重要な一部を担いました。
1997年で終了した後、2003年に復活したが、チケットの売り上げが思わしくなかったこともあり2004年は開催されなかった。2005年以降、テキサス州オースティンに本拠をおくキャピタル・スポーツ・エンタテインメントが運営を行い、シカゴ都心の大規模公園グラント・パークを毎年の会場とする週末開催型の野外フェスティバルに変更された。2011年から国外進出をはじめ、シカゴの他にも世界各地で開催されるようになりました。
2. Coachella(US)
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コーチェラはカルフォルニアのインディオで開催される文字通り砂漠のミュージックフェスティバル。4月11日から三週にわたって開催され、一年の中で最も早い時期の音楽祭のひとつとなっています。米国内でも最大規模を誇る。毎年のように凄まじい総数のミュージシャンが出演するが、ヘッドライナーに注目が集まります。その年のアメリカのミュージック・シーンを占うような意味が込められている。また、例年、Youtubeで公式パフォーマンスが生中継される。
コーチェラ・バレー・ミュージック・アンド・アーツ・フェスティバル(Coachella Valley Music and Arts Festival)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州インディオの砂漠地帯“コーアチェラ・バレー”(コロラド砂漠の一角)にて行なわれている野外音楽フェスティバルである。正式名称は「コーチェラ・バレー・ミュージック・アンド・アーツ・フェスティバル」だが、一般的にはコーチェラ・フェスティバル、あるいは単にコーチェラ(Coachella)と簡略化されて呼称される。
1993年にパール・ジャムが行ったインディオでの大規模野外ライブを前身として、その興行ノウハウを整えた運営組織がアメリカ合衆国西海岸のロックフェスとして1999年に開催をスタートさせました。当初は、2日間の開催(2000年は開催せず、2001年の第2回のみ1日開催)でしたが、2007年より3日間開催に移行。さらに2012年より金・土・日のラインナップを固定して行う2週間開催に拡大した。現在その開催規模はロラパルーザ、ボナルーと並びアメリカ合衆国最大を誇り、今や世界屈指の音楽フェスとして認知される。イギリスのグラストンベリー、日本のフジロックと同様に大自然の中で開催される巨大フェスティバルです。
3.Primavera Sound (Spain)
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スペイン最大級のミュージックフェスティバル。主要開催地のバルセロナのほか、ポルト、サンパウロでも開催されます。
解釈の仕様によっては最もヨーロッパ的な音楽イベントのひとつに挙げられます。特に、ダンスミュージックに力を入れまくっている印象を受けるが、全般的なラインナップはオルトロック、メタル、ジャズ、ヒップホップとジャンルレス。現在は6月5日から7日に開催されます。フェスティバルの参加と合わせて、フェスティバル主催側はバルセロナ観光も推奨しています。
当初、プリマヴェーラ・サウンドは1990年代からバルセロナで小規模なイベントとして開催されていました。2001年にPoble Espanyolで大規模イベントとして複数のステージで開催されるようになり、約7,700人がこのイベントに集まるようになりました。それ以降、スペインで最も規模の大きいフェスティヴァルへと成長した。2010年には10万人、2017年には20万人を超える観客を動員した。 現在ではヨーロッパの最大規模のイベントへと発展しています。
4.Rock In Rio(Brazil)
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南米で最も情熱的なミュージックフェスティバル、ロックインリオ。メタルやロックの大御所が出演し、時々、伝説的なライブ・アルバムもこの音楽祭からは登場することも。ただ、隔年で開催されることが多く、不定期のイベントとして知られている。22年に開催されてから音沙汰がありません。
最初の開催は1985年1月11日から20日までの10日間開催され、クイーン、アイアン・メイデン、ジョージ・ベンソン、ジェームス・テイラー、ロッド・スチュワート、ゴーゴーズ、ニーナ・ハーゲン、AC/DC、スコーピオンズ、オジー・オズボーン、イエス、B-52'sらが出演、特にクイーンが出演した11日と19日の公演はグローボを通じ世界60カ国で中継され、2億人が視聴したとも言われています。
第2回は1991年1月18日から27日まで開催。プリンス、ガンズ・アンド・ローゼズ、ジョージ・マイケルらが出演した。第3回は2001年1月に開催。スティング、R.E.M.、オアシス、ブリトニー・スピアーズ、ニール・ヤング、レッド・ホット・チリ・ペッパーズらが出演しました。
ロック・イン・リオは2004年にポルトガルのリスボンにて海外初公演を実施。その後マドリード、メキシコシティでも開催された。2011年9月には第4回ロック・イン・リオが開催されました。
5.Glastonbury(UK)
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近年ではチケットの高騰やヘッドライナーの選出に関して問題視されることもあるが、私自身最も好きな音楽フェスの一つ。近年では、BBCが放映権を所有し、Youtubeの公式チャンネルで動画が分割して公開されます。 とくに、メインとなるピラミッドステージの他、複数のステージでタイムテーブルが組まれる。特に面白いのは、イベントの開始時にはピントンの門が開かれ、主催者がフェスティバル開始の合図を行う。大物ミュージシャンがお忍びで参加しているのも確認される年もある。ピントンの丘であの有名ミュージシャンに出会うことも不可能ではありません。
6.South By Southwest(US)
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サウス・バイ・サウスウエストの特色は、ビジネスの側面で新しさをPRすることにある。起業家が集う対話型のカンファレンスも開催されるほか、TVやフィルムも上映されるという多面体のイベントである。どの分野に注目するのかは参加者次第で、また見え方というのも異なる。特に、このイベント内のインタラクティヴフェスティバルでは、注目のマルチメディアがPRされる。サウス・バイ・サウスウエストは2007年にTwitterを表彰し、このメディアの普及に貢献しました。
サウス・バイ・サウスウエストは音楽だけではなく、マルチメディアとしての核心的なイベントの一つであり、今後も注目が集まりそう。ロンドンでの開催を発表しており、今後複数の都市での開催が期待されます。
7.Fuji Rock Festival(Japan)
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グラストンベリーの自然一体型をより強調付けたイベントがフジロックである。通例では、7月26日から28日にかけて開催される。日本の夏を象徴するようなイベントの一つ。海外の有名アーティストから日本の新人アーティストまで幅広く出演します。
自然を楽しみながら音楽に夜中まで浸ることが出来る。例年、南魚沼の苗場スキー場で開催され、音抜けの良いイベントとして知られています。例年ではスペシャルグッズが販売され、かわいらしいマスコットみたいなのも登場します。サマーソニックと並んで、アーティストの招聘も素晴らしく、近年ではコーチェラやグラストンベリーに匹敵する豪華なラインナップが組まれる。また、同時並行型のタイムテーブルが組まれるのは、サマーソニックと同様である。苗場まで遠くてアクセスしづらいという方には朝霧JAMへの参加がおすすめ。こちらは10月に開催されます。
8.Summer Sonic(Japan)
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昨年、東京/大阪の主要都市に加え、アジア開催を行い、話題を呼んだ。最近では、ソニックマニアのほか、パンクロックに照準を絞ったパンクスプリング、ロッキング・オン誌との共催で行われるロッキング・オン・ソニックとジャンルごとに狙いを絞ったイベントを開催しています。基本的にはフジロックと同様にジャンルレスで楽しめますが、伝統的にロックに力を入れている印象を受けます。
9.Tomorrow Land (Belgium)
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2000年代はヨーロッパを中心にダンスミュージック、EDMが流行した。その流れを受けてか、2010年代にはヨーロッパでダンスミュージックに特化したイベントが注目を浴びるようになってきた。その流れを決定付けたのがベルギーのトゥモローランド・フェスティバル。アントワープは歴史あるヨーロッパ建築が多く、観光がてらフェスティバルに参加するのもおすすめ。
このイベントはマニュ・ベアーズとマイケル・ベアーズの兄弟によって発案され、2005年にデ・ショール州立レクリエーション公園内で開催。インターナショナル・ダンス・ミュージック・アワードでは、5回連続で「年間最優秀音楽イベント」に選ばれるなど、数々の賞賛や賞を受賞しています。
Tomorrowlandの成功は、スピンオフ・フェスティバルの創設につながった。2013年から2015年にかけて、このコンセプトは、TomorrowWorldという名前でアトランタ近郊のアメリカに短期間輸出されました。 2015年には、Tomorrowland Brasilとして知られるフェスティバルが第三国のブラジルで始まりました。2019年からは、フランスのアルプ・デュエズというオリンピック・リゾートの中心部で、冬季版「Tomorrowland Winter」が開催されるようになりました。
10.Green Man Festival(Wales)
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グリーンマン・フェスティバルは、ウェールズのブレコン・ビーコンズで毎年8月中旬に開催される音楽、科学、アートを中心とする独立系のフェスティバル。グラストンベリーと同じように、自然一体型のイベントに位置づけられます。ウェールズらしさのあるお祭りといった感じで、独特な巨大な人形が登場します。総合型マルチメディアのイベントとして注目したいところでしょう。
グリーン・マンはオルタナティブ、インディー、ロック、フォーク、ダンス、アメリカーナを中心にライブミュージックを紹介する、25,000人収容の1週間にわたるイベントに発展しました。フェスティバル会場は10のエリアに分かれ、文学、映画、コメディ、科学、演劇、ウェルネス、ファミリー向けのアクトが催されます。
このフェスティバルは、グリーンマン・トラスト(Green Man Trust)と呼ばれる慈善事業部門を設立したり、グリーンマン・グロウラー(Green Man Growler)と呼ばれる独自のビールシリーズを発売するなど、他の事業にも進出しています。これまでのヘッドライナーは、クラフトワーク、ビセップ、ローラ・マーリング、ヴァン・モリソン、マイケル・キワヌカなどが務めています。
お正月の定番曲 宮城道雄 「春の海」 瀬戸内海の鞆の浦との関わり
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瀬戸内海 鞆の浦 国立公園に指定されている |
「風物」という言葉を使おうとすると、少しだけ古風な印象を覚えざるをえない。というのも、結局、日本的な光景という不確かな感覚が、今やどこかに忘れさられつつあるからなのだろうか。そこでつくづく思うのは、現代の日本において「日本的」とされているものの多くが、人為的に作られた文化であり、それはまた上辺の景物と言わざるを得ない。日本的な情緒を感じることは、年々少なくなりつつある。もしかりに、そういったものが見つかるとすれば、例えば、一般的に旅行のガイドブックやパンフレットには掲載されることの少ない「人の手の入らない原初的な場所や地域」であろう。もちろん、日本文化とて、多くの大陸国家と同様に、完全に独自の島国のカルチャーとして存続してきたわけではない。たえず、大陸との交流により発展し、例えば、清や唐、南蛮との貿易によって、文化の混交として成立してきたのだから、結局のところ、クロスオーバーという考えによって文明が構築されてきた経緯があるのだ。
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写真: 田村茂 |
おそらくは、宮城道雄もまた、岡本天心、横山大観といった日本の芸術のアカデミズムの先鋭的な気風を形作った派閥の系譜であると言っても良いのではないか。また、生花や能楽といった師範制度にある日本の伝統音楽の教育にも注力し、多くの弟子を育てた。宮城は、9歳の頃から盲目であったが、弟子の心を読む天才でもあった。弟子は、師匠が自分の考えていることをピタリと当てるのをおかしがったという。
そもそも、宮城は、日本の音楽的な文化に多大な貢献をしたことは確かなのだが、月次な日本人ではあるまい。神戸の外国人居留地で生まれ育ち、海外の輸入文化に強い触発を受けた人物である。外国人居留地は、横浜や長崎といった港湾地域で発展した外国人のための居住地である。後に「異人館」と称される、神戸の居留地で育った宮城が様々な西洋の魅惑的な文化を真綿のように吸収したことは想像に難くない。彼はまた、最も日本的な音楽を作曲して後世に伝えたが、かなりの洋楽マニアであったことが知られている。ラヴェル、ドビュッシー、ミヨー、ストラヴィンスキーをこよなく愛し、まごうかたなき文明開化後の文化人としての道を歩もうとしていた。当時、こういった音楽を聴いていたというのは、先進的な人物像であったことが伺える。彼の音楽的な表現方法が自然味に溢れていながらも、モーツァルトのように研ぎ澄まされ、洗練されている(無駄な音を徹底して削ぎ落とす)のは、こういった理由なのである。
「春の海」は、個人的な作曲とは言いがたい。語弊があるかもしれないが、公曲の一部として献呈された。1930年の宮中の歌会始の儀(宮中で天皇や皇后に捧げられるのが伝統となっている)の勅題「海辺巌」のために作曲された。 それゆえ、宮城は、この音楽が厳正な日本音楽の伝統に則っていないとしても、格式高い邦楽を制作しようとしたのは疑いない。そして、歌会始めの課題曲として提出されたということから、和歌を念頭に置いたのも事実であろう。与謝蕪村の「春の海」の一節「春の海 ひねもすのたり、のたりかな」というユニークな興趣が専門的な研究者によって比較対象に挙げられるのにも相応の理由がある。とりもなおさず、宮城の「春の海」もまた、ゆったりとして、のどかで、おだやかな、日本の海を思わせるからである。
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春の海を作曲するにあたって、宮城道雄は祖父の故郷で墓地がある福山の「鞆の浦(とものうら)」を題材に選んだ。 おそらく、失明する以前に彼は祖父の故郷を訪れ、その景観の美しさに心をほだされたのではないか。この曲において、日本的な情緒を表現するに際して、幼少期に見たであろう鞆の浦の穏やかさと活気という、彼の心の深くに刻まれた瀬戸内海の二つの麗らかな心象風景を音楽で表現しようとした。発表当時、音楽評論家から「伝統的な日本の音楽の形式に則っていない」と批評されたのは、この曲が基本的にはソナタ形式の三部構成から成立しており、バッハやヴィヴァルディ以前の西洋音楽のポリフォニーに触発されているからである。
しかし、例えば、雅楽の例を見ても、厳密な和声進行というホモフォニックの構成が登場しないように、「春の海」の作曲を手掛けた時、宮城はおそらく、対旋律の構造にこそ日本音楽の源流が求められ、なおかつ、日本音楽独自の核心が存在すると見ていたのではないか。彼は西洋のソナタ形式に則って、日本的な文学のイディオムを登場させ、「緩ー急ー緩」という三部構成に組み直した。そして、バッハ以前のバロック音楽の対旋律法を踏まえ、それらを日本音楽の伝統様式の陰旋法に置き換えた。特筆すべきは、春の海にはフーガ的な技法の影響もわずかに見いだせる。そして、彼が幼少期に過ごした神戸の外国人居留地という風変わりな環境や物心つく頃に体験した「日本と西洋の文化の混交」という視点、そして、「西洋から見た日本的な文化(その反対も)」という視点にも、この人物にしかなしえない独自の音楽性を発見出来る。
昨日、楽譜を見てみたところ、この曲は、尺八と箏という日本の伝統的な楽器が、二つの潮流を形作るように交互に配置されていることがわかった。そして彼は、この器楽曲が宮中の歌会にそぐうように、曲の中に和歌に準じた文学的な表現を込め、大和人の詩情を織り交ぜることも忘れなかった。三部構成の一部では、先述したように、ゆったりとして、のどかで、おだやかな内海の情景が描かれたと思えば、第二部へと移行し、船の櫂をこぐ様子や海鳥が空を優雅に舞うという一部の対比的な楽章へと移ろい、活気に充ちた動的な印象を持つ海際の風景が描かれる。日本の古典文学の副次的な主題にも登場する「益荒男」の表現性を見出すこともできるだろう。そして、最後には、再び導入部にあるおだやかな海の風景に帰っていくという一連の構成である。これは長大な海の流れが一つの海流を経て、元の流れに戻る様子を織り交ぜたかのようだ。確かに対比性という西洋的な美の観念が取り入れられているにせよ、その枠組の中で宮城は苦心し、日本的な情景や風物の美しさを音楽によって描写しようと試みたのだった。
当初、「春の海」は日比谷で初演され、NHK広島のラジオで初放送されたが、大きな反響を呼んだとは言いがたかった。しかし、フランスのヴァイオリニスト、ルネ・シュメーが編曲すると、一躍、日本国内でも人気曲となった。シュメーは宮城に会い、彼もその熱意に押されるようにして編曲の旨を了解し、琴とバイオリンで共演するに至り、「春の海」がアメリカやフランスでレコードとして発売されるための重要な契機を作った。ルネ・シュメーは、BBC Promsへの出演記録が残っているが、フランスに帰国してから著名な演奏家として認知されたとは言いがたい。しかしながら、ヴァイオリンを中心として西洋風な編曲を施したこの曲の編曲バージョンは、以降のお正月の定番曲として知られるための文化的な素地を形成したのである。
瀬戸内海の鞆の浦は、日本で最初に国立公園として制定され、景勝地として名高い。風景の美しさには往古から定評がある。江戸時代から北前船の寄港地として栄え、以降、朝鮮通信使が徳川幕府への慶賀のため度々寄港した。福禅寺は古くから迎賓の場として使用され、本堂隣りにある対潮楼は名所として知られている。1690年に客殿として建立し、座敷からは内海の絶景が広がる。朝鮮通信使として当地に招かれた李邦彦は、その眺望を見るにつけ、「日東第一景勝(日本で最も美しい風景)」と評したほど。宮城道雄は、「春の海」を作曲するにあたって、この海岸の風景を思い浮かべだのたろうか。それは映像的な景物としては彼の目から失われたけれど、その美しさ、そして日本的な感覚は、その後も彼の心のどこかに残り続けたのである。
・有名ミュージシャンに愛されたロードトリップの象徴 Route 66
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シカゴからカルフォルニアに続く「Route 66」は、カーマニアには聖地のような場所である。かつてジョン・スタインベックが『The Grape of Wrath(怒りの葡萄)』でこのハイウェイを題材に取り上げた。
作中では、オクラホマの農民がカルフォルニアに向かい、ハイウェイを横断する話が書かれている。スタインベックは風景描写に定評があり、市民の暮らしとアメリカの風物の美しさを社会的な時代背景とリンクさせながら丹念に描いた。今やルート66は過去の遺構となり、現在ではカーマニアが集い、マザーロード・フェスティバルが毎年9月に開催される。その道半ばには、ダイナー、モーテルが点在し、今なアメリカのロマンティシズムを地政学的に象徴付けている。
つくづく思うのが、アメリカは自動車産業とともに発展していった国家でもある。その遺産はテスラ・モーターズに受け継がれているが、このルート66が愛された理由も、余暇に大陸を横断するハイウェイをクラシックカーで何日もかけて走るという営為が、アメリカ的なロマンティシズムの象徴でもあった。
そして、「American Graffiti(アメリカン・グラフィティ)」で描かれるような富裕感覚ーー収入を車に費やすということ自体が、大きな憧れのようなものでもあったのである。自動車を個が所有する行為自体が、経済発展の象徴を意味し、これはシンクレア・ルイスが自動車に夢中になる若者と、家族制度の変化、教会制度の崩壊、という鋭いテーマを交え描いた。そして、アメリカ人が変化していく現状を、社会学の観点からシニカルに切り取ったのだった。この時代、明らかにアメリカは世界一の経済国家になる過程にあり、それはまた物質的な価値観が隆盛を極め、旧来の価値観が崩壊していくという新しい生活様式を予見していたのだった。
ルート66は産業発展の象徴である。オクラホマの実業家であるサイラス・エイブリーはドイツのアウトバーンのような幹線道路を建設を思いつく。1910年には、一般道路の自動車の通行が増加しつつあった。実業家のエイブリー氏は、道路整備の重要性を提唱していた。彼は幼い頃、よくワゴンでオクラホマから西に向かった。そのときに見た光景から理想的なルートが脳裏に浮かんだ。シカゴからロサンゼルスにかけて2448マイルを横断する壮大なハイウェイの建設である。時代の需要も要因だった。1910年、米国では50万台の自動車が登録されていた。1920年頃には爆発的な普及を見せ、1000万台に到達した。この統計だけでもいかに一般家庭に自動車が普及しつつあったのか、手に取るように分かるのではないだろうか。
1926年に最初の区画が開通した。しかし、1929年にはウォール街に端を発する恐慌が起こり、中西部から数十万人もの移民が発生した。彼らは出稼ぎのために、より大きな街を目指した。そして、1933年から37年にかけて、ルーズベルト大統領は不況解消法を制定し、失業者を中心にハイウェイの建設が進められた。幹線道路が建設された後、中西部から多くの農業従事者がカルフォルニアへと向かった。それはスタインベックの「怒りの葡萄」にも描かれているような情景であったに違いない。しかし、こういった重要な交通網としての役割の他にも、ルート66はもうひとつの役割を持っていた。この幹線道路は観光名所として親しまれたのだった。
そうした中、世界大戦中、アメリカ人の一般的な娯楽が自動車とロードトリップに費やされたのは当然の成り行きだった。ビートニクスの象徴的な作家、ジャック・ケルアックが「オン・ザ・ロード」で、ルート66を取り上げたことによって、ある意味ではポップ・カルチャーの象徴ともなり、インテリ層の注目を惹きつけることになった。それ以降、1985年にハイウェイが廃止されるまで、 アメリカの経済成長の象徴でもあり、ロードトリップの象徴として、ルート66は多くの人々に親しまれた。写真に見られるように、いかにもアメリカ的な風物である。
・音楽的な題材としての「Route 66」 ナット・キング・コールからチャック・ベリー、ローリング・ストーンズ 時代とともに移り変わるテーマの変化
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まず最初にルート66に注目したのは、アラバマ出身のジャズ・ボーカリストの巨匠、ナット・キング・コールだった。1946年、戦争が終わった直後、ボビー・トゥループという人物が「Route 66」を作曲し、それをナット・キング・コールが歌った。彼は、出稼ぎ労働者のロマンを情熱的に歌った。新天地を目指す市民の憧れをこの曲でムードたっぷりに歌い上げている。
曲としては、スタンダードなジャズであることが分かる。歌詞はご当地ソングのようでもある。旅に誘う内容で、途中には沿線各地の地名が登場する。シンプルなリフを基調とする親しみやすい曲調、軽快かつコミカルな歌詞とが好まれ、キング・コールのヒット以来、半世紀以上に渡って歌い継がれることに。 音楽的に言えば、渋く、古典的なジャズのリズムが特徴となっている。
原曲を聴くと分かるが、歌詞の内容も情緒と興趣にあふれている。田舎から都会に出稼ぎ労働のために出ていこうとする若者の心の機微とうまく呼応している。そして、歌詞の重要なポイントは、「シカゴからロサンゼルスに向けて車を走らせようぜ。きっとワクワクする冒険が待っている」という箇所である。ナット・キング・コールは「西海岸に向かうと良いことがある」とも歌っている。 本当に良いことがあったかは分からないが、西海岸は、憧れの象徴の土地でもあったことが分かる。現在では、その土地のことが容易にわかってしまうこともあるが、当時ではそうではなかったのだろう。そういった側面では、想像の余地がこの曲のロマンティシズムを与えた。必ずしも知っているということばかりが、良いとはかぎらないということがわかる。
Nat King Cole 「(Get Your Kicks On)Route 66」 (Original)
「Route 66」はそれ以降、カバーソングの重要なレバートリーとして語り継がれることになった。また、次にこの曲のカバーに取り組んだのが、ご存知、ロックンロールの帝王、チャック・ベリーである。この曲は、ロックンロール最盛期(1955~56年)のあとにカバーソングとして発表された。
チャック・ベリーはエルヴィス・プレスリーと同じく、RCAからデビューし、一躍「ロックン・ロールの帝王」として知られるようになった。ベリーがテレビに出演した時、88%もの視聴率を記録した。彼はまさしく、1958年までに国民的な歌手として知られるようになった。しかし、実は、全盛期以降の活躍に関しては賛否両論がある。1960年以降、ベリーは、R&Bに傾倒することもあり、国民的なスターではなく、本格派のプロミュージシャンとして活動を続けた。そんな中、このカバーソングは、ロックンロールの魅力を余すところなく凝縮している。
Chuck Berry 「Route 66」
最も注目すべきは、ナット・キング・コールの原曲は、出稼ぎ労働に出かける人々のロマンに焦点を当てている、他方、チャック・ベリーのカバーは、より都会的なムードを醸し出している。つまり、このカバーは、1961年のアメリカの都会的に洗練されていく若者を歌っているのではないか、ということ。つまり、チャック・ベリーは、幹線道路にまつわる時代の変化の推移をストレートなロックソングに込めて、それをリアリスティックに歌い上げたということである。
続いて、この曲はローリング・ストーンズによってカバーされた。しかも1964年のデビューアルバム『The Rolling Stones』の一曲目でである。ある意味では、この一曲目のカバーが後のストーンズの運命を決定付けた可能性があると指摘しておきたい。というのも、1960年代のロックバンドは、最初、カバーから出発するのが王道であった。ビートルズはいわずもがな、ローリング・ストーンズもカバーから出発した。
つまり、当時は、カバーから始まり、その後、ライブ等で実力をつけ、オリジナルを増やすというのがスターを生み出すための戦略だった。
しかし、どの曲をカバーするかによって、そのバンドのキャラクターのようなものがはっきりと浮かび挙がってくる。「Route 66」のカバーでのミック・ジャガーの歌い方は、チャック・ベリーを少し意識している。このカバーは、海外から見た異国への憧れを暗示しているように思える。最初は、出稼ぎ労働者、都会的に洗練される若者、そして、海外から見た憧れの象徴というように、ルート66は、その時代ごとに、地政学的な意味合いを変化させていった。
The Rolling Stones 「Route 66」
・「Route 66」の意義の変化 父の世代の象徴としてのロード
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「Route 66」は長らく忘れ去られていたように思えた。そしてそれは、実際的には当然の成り行きでもあった。現実的に言えば、アイゼンハワー大統領の時代に、「ルート66」は幹線道路としての意義ーー人や物資の移動手段ーーを完全に失い、1985年以降は交通手段として一般的に廃止された。つまり、以降の時代は、飛行機での移動が当たり前となり、自動車での移動をする意味が乏しくなった。しかし、突如、最初のオリジナルソングのリリースから45年の歳月を経た1991年になって、この不朽の名曲が再び世の脚光を浴びることになった。
曲を蘇らせたのは、ナット・キング・コールの娘、ナタリー・コールだった。彼女は、ジャズアルバムでありながら、ポップチャートを席巻した代表的な傑作『Unforgettable』で父親キング・コールの原曲を見事に蘇らせた。しかも、亡き父の歌声とのオーバーダブによって。このカバーにおいて、ナタリー・コールは父の魂を畏れ多く歌い、父親の本当の姿を探ろうとした。
曲のカバーは、モダン・ジャズ風の洗練された編曲が施され、半世紀ほどを経て、新たなジャズ・スタンダードに生まれ変わることになった。ルート66は、1991年になると、次世代の「父の象徴」へと変化していったのである。以降、この曲はジャズスタンダードの定番になった。また、ナタリー・コールが終生にわたり、ロサンゼルスにこだわったのには理由がある。なぜなら彼女の父親はこう歌ったのだから。「西海岸に向かうと良いことがある」というように。
カバーソングというのは簡単なようでいて難しい。それでもそれぞれ違った楽しみ方があって本当に素晴らしい。音楽的なバリエーションの変化にとどまらず、どのようなテーマを盛り込むのか、そして、独自の価値観を付与することが大切なのかもしれない。
Natalie Cole 「Route 66」
・ブラジルのトロピカリア ポスト・コロニアニズムと創造的な自由の獲得
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アフリカの国々の事例を見ると分かる通り、従来の植民地支配から脱出した国家は、西洋主義による支配から離れ、独立した文化を構築する必要性に駆られる。結局のところ、海外文化に触発された後、独自のスペシャリティを探ることなくして、国家の文明は確立しえないことを象徴づけている。そして、ここで大切なのは、外側の文化や文明に揺さぶられることなくしては、本当の意味での独自の文明を獲得することは困難であることである。
例えば、今回のテーマとなる南米のブラジルの場合は、音楽や芸術運動、舞台、文学活動とならび、1960年代後半に独立的な意義を求め、こういった急進的なムーブメントが若者を中心に沸き起こった。それがトロピカリア(トロピカリズモとも称される)ーー熱帯主義ーーであった。例えば、音楽に関しては、旧来のブラジルの伝統的なボサ・ノヴァに否定的な趣旨もあるという見解も見受けられるが、必ずしもそうとはいいがたい。当時、流行したビートルズのロックと合わせて、ボサノヴァをよりアーバンにという趣旨も含まれていた。これは西洋的な音楽的な感性や感覚を踏まえた上で、ブラジル独自の音楽表現を追求するという動きであった。
1960年代後半に始まったトロピカリアは、軍事政権下のブラジルにおいて、およそ5年ほどの短いムーブメントで終わった。その理由は、これらの運動の政治的な弾圧が始まり、トロピカリアの中心人物、ジルベルト・ジル等がイギリスへの亡命したからである。(後に、ジルベルト・ジルは1969年に短期間の投獄という憂き目にあったが、社会的な信頼は回復し、2003年から2008年にかけて、ブラジル国内の文化大臣を務めた)しかし、この考え自体は次世代にも受け継がれ、ネオ・トロピカリアとして新しいアートの形式を支えることになった。
こういった新しい運動や主義が発生する要因として、”成熟した社会意識”というものが不可欠になってくる。つまり、大きな観点から言えば、個人、大小の組織、社会がどのように繋がるべきか、そして社会的に置かれている環境や立場を把握し、国家の文化、海外の文化や政治的な動向を鑑みた上で、自分たちがどのような位置にあるのか、そして、上記の二つの観点を踏まえた上で、どのようなアクションを起こすべきかという意味である。
結果として、社会に反映されるのは、文化活動の諸般ーー音楽、演劇、文学、建築、芸術、ジャーナリズムーーなどである。個人的な能力や役割によって、成熟した社会意識が多彩な形で出現するのは言うまでもない。これはたぶん、広義の意味での企業活動においても共通する事項ではないだろうか。そして、全体的な社会構造を鑑みたとき、個人的な立場、あるいは組織的な立場がそれぞれまったく異なるため、外側に出てくるものは必ずしも同じ内容にならない、ということである。
・成熟した社会意識とは何か ブラジルの60年代のトロピカリアの事例
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オズワルド・デ・アンドラーデ |
この点において、60年代から70年代にかけてブラジルで発生した”トロピカリア”という運動は画期的だった。 それは社会に生きる人々が、自分たちが置かれている状況を明確に把握し、認識しているということでもあった。そして、実際的にどんなアクションを起こすべきかを考え、出来る範囲において実践したことである。これは上手い例えが見つからないが、自分たちが置かれている立場に無自覚な人々には、成熟した社会意識というのが芽生えることは稀である。なぜならもし、集団や組織に対し、個人(自分)がどのような存在であるのかを考えることなくしては、より良い提言をもたらすこと難しいし、また、アクションを起こすことも出来ないだろう。つまり、成熟した社会意識を持つために必要なのは、自己、集団、組織を俯瞰する視点であり、外側からそれが明瞭に見えたときはじめて、意義のある行動が可能になる。
60年代のブラジルでは、急進的な表現が生み出されるための素地が整っていた。戦後のブラジルでは急速に経済発展が進む。しかし、2000年以前の中国の都市部と農村部の貧富の差という事例を見ると分かるように、ブラジルでも貧富の差が拡大していた。 経済発展は富裕層やエリートに恩恵を与えたが、一般的には経済的な恩恵が降り注ぐことはなかった。こんな中、1961年にジョアン・ゴウラ―トが大統領に選出されると、急激に社会の風向きが変化した。当時、ゴウラ―トは、多くの社会政策とソビエトとの和解を提唱していた。これが冷戦下、アメリカとソビエトという覇権争いに緊張関係をもたらした。事実としては、ゴウラート政権は短命に終わる。カステロ・ブランコ元帥がクーデターを起こし、軍事政権へと移行した。
こうした中、新しい軍事政権がいくつかの音楽を「左翼的」であるとし、制限をかけたのはソビエトと同様だった。1950年代を通じて、ブラジルでは伝統的なサンバに続いて、ボサノヴァが流行していた。これは、ブラジルのバッハと言われるヴィラロボスに始まり、ヴィニシウス・モラエス、カルロス・ジョビン、ジョアン・ジルベルトが推進した音楽運動であった。だが、新しい軍事政権はボサノヴァを知的で左翼的であると見なし、国内外に影響力が広がるのを抑制し始めた。この流れの中で、トロピカリアの中心人物であったジルベルト・ギル、チコ・ブアルケ、カエターノ・ヴェローゾは、政権が創造的自由を侵害していると考え、 ボサノヴァに続く新しい音楽運動への道筋を切り開こうとした。そのためのヒントになったのが、ヨーロッパからの輸入音楽だった。彼らはイギリスなどのポップ・ミュージックを起点にし、ロック、サイケ、ソウルの領域を押し広げながら、「トロピカリア」という形式を生み出した。
その音楽運動の発端となったのは、オズワルド・デ・アンドラーデというサンパウロの小説家/文化評論家が提唱した食人主義、より穏当に言い換えれば「文化を吸収する」という概念であった。オズワルドは、1928年に「O Manifesto Antropófago(マニフェスト・アントロフォギコ)」を出版し、ポスト・コロニアリズムの観点から自国の文化の変遷を鋭い目で直視していた。オズワルドが主だって提唱したのは、「文化的な共食い」という概念であった。これは出来れば悪い意味だけで捉えてほしくない。そこには中間主義という考えが出てくるからである。
要約してみると、外国文化を吸収しながら、自国の文化と重ね合わせるという考えで、これはブラジルでは自国の文化を形成するための基盤のような概念でもある。特に、トロピカリアの概念の中でも、重要視したいのが、二分化を超越するという考えとなるだろうか。ブラジル文学を専門とするジュリオ・セザール・デイニッツは、トロピカリアという表現運動が発生した要因について、「古風ー現代、国内ー海外、エリートー大衆という対極的な考えを克服する」ためだったと指摘している。 つまり、重要なのは、二元的な考えを離れていき、それらの融合を目指そうという考えが、トロピカリアの根底にあったのである。さらに、アナ・デ・オリベイラは、トロピカリアについて説明している。「歌は伝統的で古風なブラジル、大衆的な文化を持つブラジル、そして、宇宙飛行士、空飛ぶ円盤を持つブラジルの連合という、国家の批評的で複雑なイメージを示した。彼らは、私たちのポピュラー音楽の洗練された事例を示した。彼らは、それまで前衛主義にしか通用しない考えを、商業音楽としてもたらしてくれました」
1968年に、カエターノ・ヴェローゾとジルベルト・ギルは『Tropicalia: ou Panis Et Cercencis』を発表し、正式にトロピカリアという名称が音楽的な活動の一環として組み込まれた。本作はオムニバス形式で発売され、ブラジル国内の最初のコンセプト・アルバムだと見なされている。国内のムーブメントを担う有名ミュージシャンが参加したビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』(1967)に触発されて制作され、セルソ・ファヴァレットは本作を「トロピカリアの集大成」と評する。ただし、後年、ムタンチスのセルジオ・ヂアスは、同作について「政治的には意味はあったが、『サージェント・ペパーズ』のような音楽的な記念碑となるまではいかなかった」と自省的に語っている。しかし、商業的にはかなりの成功を収め、1968年10月の時点で2万枚を売り上げる大ヒット作となった。
実際的な音楽については、 意外とビートルズっぽくないのが分かる。それ以前のヴィラロボスの作風を受け継いだ古典的なブラジルの音楽、そしてフランスのイエイエ等を交えた楽曲もある。むしろ、ビートルズに触発された点があるとすれば、それは音楽の雑多性にあると言えるだろう。これらのヨーロッパとブラジルの音楽を融合させた形がトロピカリアの魅力でもある。
しかし、トロピカリアは全般的に国内ですんなり受け入れられたとは言いがたい。新しい運動に同調する人々を惹きつけた一方、伝統的な人々には反感をもたらすことになる。これはビートルズが初来日した時と同じ類いの現象である。また、日本の音楽でも、それまでは演歌や歌謡が中心だったが、ロックやジャズのイディオムが、自然に民衆音楽の中に入り込んだ現象と同様だ。しかし、ブラジルで発生したトロピカリアーー熱帯主義ーーは、国内で好意的に受け入れられたとは限らなかった。当初、賛否両論を巻き起こし、右派、左派の双方に敵を作ることになった。明確な政治的な立場をとる人々にはあまり評判が良くなかったというのである。
その後、トロピカリアは軍事政権によって、1968年に運動を鎮圧されることになった。ジルベルト・ギルはロンドンに亡命し、この運動の推進者の一人、カエターノ・ヴェローゾも同じく亡命した。しかし、影響力は収まらず、ガル・コスタ、ホルヘ・ベン、ジャーズ・マカレ、トム・ゼなどがトロピカリアの風潮を受け継ぎ、ブラジル音楽に新しい気風をもたらした。
トロピカリアは、フェラ・クティがアフリカで体現した小さな王国、アフロ・フューチャリズムと奇しくも大きな共通点がある。フェラ・クティの場合は、レコード会社や政府に管理されぬ独自の王国という形で、独創的な表現形式として表れ出た。他方、トロピカリアに関しても、ポスト・コロニアリズムの観点から、本来であれば反目するはずの二つの要素ーー海外主義と国内主義ーーという対極の概念を結びつけようとしたのだった。 これはグローバリズム、ナショナリズムという対極の概念しか存在しえないと考える現代人に大きなヒントがある。ここには、ブラジルらしい「折衷主義」という新しい概念を見て取ることも出来るかもしれない。西洋主義の観点から言えば、物事は白か黒であるが、実は物事は他にも多彩な中間色がある。
・アートから見るトロピカリア ヘリオ・オイチシカの立体主義
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トロピカリアという表現運動は、表面的な形式とは言いがたく、一つのイデアのような形で後のブラジルの文化のある側面を形成していくことになった。その後、必ずしも音楽の範疇にとどまらず、絵画、演劇、映画を中心とするブラジル国内の主要なアートや文化運動全般に強い影響を及ぼし続けた。それはベアトリアス・ミリャーゼズの活躍を象徴されるように、コンセプチュアル・アートの領域に属し、「ネオ・トロピカリア」という呼称で知られている。 2000年代以降もトロピカリア(熱帯主義)は、何らかの形で現代のブラジルに受け継がれている。
1960年代後半にトロピカルイズム運動と共鳴したのが、美術家のヘリオ・オイチシカである。彼の芸術は、コンクリート・アート(コンクリート主義)とも言われ、図形主義を基にするという点で、カンディンスキーとの共通点も見出される。しかし、カンディンスキーが平面的な図形主義を中心にアート活動を展開したのに対し、オイチシカの芸術は立体主義の範疇に表現領域を広げ、パブロ・ピカソの象徴主義を立体化し、建築的、空間的な造形芸術を展開させた。
この中には、インスタレーションの形式も含まれ、ヘリオ・オイチシカの場合は、ペネトラブルと呼ばれている。オイチシカの芸術形式は、従来のアートが平面的であり、静的な表現主義に留まるのに対し、ピカソや太郎の芸術的な主題である「生きている有機物」という側面をより強調させている。実際的に、平面という二次元の形態を飛び出し、三次元の立体性へとアートを変化させた。1960年代後半まで、オイチシカの芸術は平面主義にとどまっていたが、それ以降、立体主義へと移行する。その中で、色彩的な要素という側面を強調させ、原色を中心とした目の覚めるような色彩を導入した。オイチシカは「複雑な人間の現実性を表現する」というテーマを自身の作品の中に組み込もうとした。また、文化的なものを生み出すという彼の主題は、現代的なアートが社会的な意味と密接な関係を持つことを象徴付けている。ただ、オイチシカの場合は、必ずしも客観主義を是認するものとはかぎらないことを付言しておきたい。
「トロピカリア」という呼称は、国内のミュージックシーンで使用される以前に、オイチシカが芸術作品で使用したことがあった。1967年にリオデジャネイロで展示したアートワークに「トロピカリア」の名称を用いた。この言葉は、熱帯の楽園としてのブラジルの典型例として取り入れられた。ある意味では、オイチシカは「トロピカリア」を地上の楽園のシンボルとして広めようとした。その後、カエターノ・ヴェローゾがこのトロピカリアを曲のタイトルとして借用し、熱帯主義を象徴付けるに至った。これは全般的には、ミュージシャン、アーティスト、作家等が連動して、政治的な抑圧に際して、自由を獲得するための道のりの始まりであった。
カエターノ・ヴェローゾは、最初のブラジルのトロピカリアの動向について、後に次のように回想している。「ヘリオがしていたことは、自由への欠如、そして自由への敬意にかけたものに対する過激な反応のようでした」これもまた、熱帯運動を推進したアーティストに、成熟した社会意識があったからこそ、こういった表現主義が沸き起こったわけである。もちろん、本記事は、過激な行動を推進するものではない。だが、芸術や音楽運動は、既存の見解や風潮とは別軸の側面を示すことなくしては、未知の表現主義が生み出されることはないとも言える。
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BOSSA NOVA(ボサノヴァ)の発祥 カルロス・ジョビン、モライス、ジルベルト、そしてイパネマの娘フィル・スペクターの「ウォール・オブ・サウンド」とは
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フィル・スペクターは人物的には映画監督の黒澤明に近く、ワンマンに近い完璧主義のディレクションを採用した。そして、ディレクションなくして作品が成立しえないという点では、かなり限定的な録音手法だと言えるかもしれない。フィル・スペクターは、マイクの位置に徹底的にこだわり、演奏者が触れることさえ許さなかった。そして短い楽節を演奏を何度も繰り返させたことから、ミュージシャンからはあまり受けが良かったとは言えないかもしれない。
つまり、「ウォール・オブ・サウンド」の難点を挙げるとするなら、ミュージシャンの自由性や遊びの部分をほとんど許さず、演奏者の苦心をすべて録音作品の成果として吸収してしまうのである。これは彼がリヒャルト・ワーグナーに傾倒していた点からも分かる通り、ベルリン・フィルのカラヤンの名演のような演奏を生かしたエコーチェンバー(自然の反響)を組み上げようとしていたことが理解出来る。ちなみに、カラヤンは作曲者の指示を無視してストリングスの編成を増やし、重厚なサウンドを作ることがあった。チェイコフスキーのライブ等を参照。
一般的な解釈としては、スタジオの壁に反響する音響(エコーチャンバー)を用いた録音技術として知られている。この名称「Wall Of Sound」を聴くと、彼が多重録音、つまりジャマイカで発生したダブのような形式で数々の名作を録音したと思う方もいるかもしれないが、事実はどうやら少し異なるようだ。どころか実際はそれとは正反対だ。フィル・スペクターは3トラックのマルチトラックレコーダーを使用して、彼はピアノ、ベース、ギター、コーラス、それからオーケストラをユニゾンで重ね、壁に反響するような重厚なサウンドを構築していったのだった。
驚くべきことに、フィル・スペクターは、限定的な録音環境で重厚なエコーチャンバーを生み出したのである。彼は一般的に狭いレコーディングスタジオの四壁の反響の特性を活かして、音量、音圧、音の奥行きといった録音的なアンビエンスを見事に作り出したのだった。しかも、フィル・スペクターのカラヤン的な録音技法は徹底していた。18人から23人ものミュージシャンを比較的狭いスペースに集めて、演奏をさせ、それを一挙に録音したのである。彼の代名詞であるホーンセクション、リズム・セクションに関しては、一発録りで録音し、それらをミキサーで最終的な調節をかけるというものだった。これは実際的には彼の手掛けた録音作品に、ダイナミックさと生々しさを及ぼすことになった。しかし、同時に最終的な調整では、リバーヴ、ディレイ、ダイナミックレンジの圧縮(リミター的な処理)をミキサーで施した。
フィル・スペクターのプロデュース作品は、ギター、ピアノ、ベース、ドラムといったシンプルな楽器編成に加えて、オーケストラ等のポピュラーミュージックとしては大編成の楽器が加わることもある。フィルハーモニーのような大編成の録音をどのように組み上げていったのか。 スペクターのウォール・オブ・サウンドの構築は、それらの基礎を担うシンプルなバンドのアンサンブルから始まる。ソングライターのジェフ・バリーによると、最初はギターの録音から始まることが多いという。
「4つまたは5つのギター、2つのベース、同じタイプのライン(ユニゾン)を加えて、それから弦を録音し、最終的に6つか7つのホーンセクションを加え、楽曲にパンチをもたらした。その後、パーカッションの録音に移行し、打楽器、小さなベル、シェーカー、タンバリンを付け加えた」 また、スペクターと頻繁に共同作業を行ったエンジニアのラリー・レヴィンも同じような証言を残している。「ギターから始めて、一時間の間に4-8の小節の録音を繰り返し、スペクターが納得するまで何度も反復する」というものだった。ビートルズの録音等では10テイクくらいまでが残されているが、実際には、20回から50回もの演奏に及ぶこともあったという。
レコーディングスタジオの音響
レコーディング・スタジオの空気感(アンビエンス)が作品全体に影響を及ぼすことがある。あるスタジオで録音された音源は音が敷き詰められているように思えるし、別のスタジオで録音された音源は、ゆったりとした間延びしたような音の印象を覚えることがある。言い換えれば、それは、建物や部屋のアンビエンス(音響や残響の全般のこと)の特性、マイクの位置、そして演奏者の距離が出力されるサウンドにエフェクトを及ぼすということである。フィル・スペクターは、実際的な録音の完成度の高さを目指したのは事実だと思うが、一方、彼はスペースのアンビエンスに徹底してこだわった。つまり、彼はレコーディングルームの空気感をマイクで録音し、モノラルでミックスしたのだった。そして、ウォール・オブ・サウンドの完成のために、不可欠だったのがロサンゼルスにある「Gold Star Studio」である。
音の特性にこだわれば際限がなくなる。けれど、空間的な特性が録音に影響を与えることは実のところ免れないことである。例えば、メジャーリーグのスタジアムでも打球が飛びやすい球場とそうでない球場がある。また、フットボールのスタジアムでは、ボールがハネやすかったり、そうでなかったり、高地にあるので、スタミナを過剰に消耗しやすいフィールドもある。音楽も同じで、空気の乾燥、つまり湿度や温度、密度、壁や建材の材質までもが実際の録音に影響を与える。もちろん、コンクリートの壁であれば音は硬く聴こえるはずだし、反対に木材中心のスタジオでは反響は吸収されるが、コンクリートよりも柔らかいサウンドが得られるだろう。もちろん、レンガ壁等の特殊な録音空間では、予想も出来ない反響の結果が得られるに違いない。
特に、フィル・スペクターが好んで使用し、ウォール・オブ・サウンドという名称が生み出されたゴールド・スター・スタジオもまた、現代的なレコーディングスタジオという観点から言うと、きわめて異質な環境であった。このスタジオからはビーチ・ボーイズ、ブライアン・ウィルソン、ジョン・レノンの名作が誕生した。伝説的なレコーディングスタジオとして知られている。
ゴールド・スター・スタジオは、デヴィッド・S・ゴールド、スタン・ロスによって1950年に設立された。このスタジオの設備には、反響効果を及ぼす装置、エコーチェンバーが付属し、音の壁からボーカルが浮き出るような特異な感覚があったため、ウォール・オブ・サウンドの名称が誕生した。
このスタジオからはロネッツの「Be My Baby」、ビーチ・ボーイズの「Good Vibration」、ラモーンズの「Do You Remember Rock n' Roll Radio?」などが制作され、数々のグラミー賞ヒットナンバーを世に送り出したのは最早周知のことではないかと思われる。
本来であれば、フィル・スペクターが用いた録音の方法は理に叶ったものとは言えない。例えば、近距離で演奏すれば他のパートの楽器のノイズを拾ってしまう。しかし、フィル・スペクターは、この欠点を活かし、独特のアンビエンスを作り出すことに成功したのだった。特に、スタジオに付属しているエコーチェンバー(ルームエコー)の装置が、ウォール・オブ・サウンドの完成には不可欠だった。
スペクターは、エコーマシンをディレイさせ、それをチェンバーに通した。その結果として生み出されるのは、個々の楽器の特性を掴みがたいような抽象的でありながら凄まじい密度を持つ重厚なサウンドであった。さらに、スペクターは最終のミックス時に、個々のトラックにエコーを掛け、何台ものテープマシンを回した。そして、同時にユニゾンで同じフレーズを演奏者に演奏させ、録音し、それらを組み合わせ、ミックスを加えていった。フィル・スペクターのサウンドは帰納的なものと言え、結果や結末から最初に行うべき録音を逆算していったのではないか。つまり彼の頭には理想的なサウンドがあり、どうすればその結果に辿り着くのかを試行錯誤していった。
ゴールドスタジオはパラマウントの近くにあり、1950年代にハリウッドの音楽作家、そして映画、TV制作者のデモづくりのスタジオとして始まった。つまり、映画やドラマのサウンドトラック的な意味を持つ音源を制作するために作られたスタジオだった。これは大手レコード会社とは異なる運営方法を可能にしたにとどまらず、映画的なサウンドを作るための基盤になった。
特に、スタジオにあるミキシングコンソールは、設立者のデイヴィッド・ゴールドが自作したものである。音響効果の装置を熟知した開発者が在籍していたことは、録音の特性を最大限に発揮させるための手助けともなった。また、このスタジオには優れたエンジニアが在籍していた。ラッカー盤に刻むカッティング・マシーンは、創設者のゴールドが自作し、アナログとは思えない卓越した音圧を得ることが可能になった。その他、エンジニアのラリー・レヴィンは、カッティング技術者として優れた技術を持っていた。つまり、こういった技術者の活躍があったおかげで、レコードとして高性能の再現力を持つ音源が完成した。それは芸術的な側面だけではなく、工業的な側面を併せ持つレコードの清華でもあったのだ。
ウォール・オブ・サウンドの以降
果たして、ウォール・オブ・サウンドは時代遅れの録音技術なのだろうか。しかし、少なくとも、以降の大瀧詠一や山下達郎のような複数のアーティストにより、再現が試みられたことを見ると、まだまだ無限の可能性が残されているように思える。そして少なくとも、この録音技術は、機材の機能の制限から生み出された産物であったということである。もちろん、技術者として卓越したコンソール制作者がいたことは忘れてはいけない。そして事実、1960年以降、ウォール・オブ・サウンドの代名詞であったモノラル録音からステレオ録音に移り変わり、マルチトラック数が4から8、16へと増加していき、録音機器の可能性がエンジニアによって追求されていく過程で、この録音技術は時代に埋もれていった側面もある。しかし、ポピュラーミュージックの歴史を見る上で、限定的な数のトラックを用いた録音というのは、何らかの可能性が残されているかもしれない。ウォール・オブ・サウンドの演奏者が同じスペースで一発録りをする録音方法は現代でも取り入れられる場合があり、まだまだ何らかの可能性が残されているような気がする。
以降、同時に録音出来るトラック数が増えたことは、実際的にソロアーティストが活躍する裾野を広げていった。 実際的に多数の演奏者が一つのレコーディングルームで演奏する必要がなくなったことが、グループサウンドやバンドサウンドがその後、いっとき衰退し、ソロアーティストの活動が優勢になっていく要因となったという話もある。つまり、録音技術の拡大は、必ずしもバンドやグループというセクションの録音にこだわらなくても良くなったというわけである。ビートルズやビーチボーイズの主要メンバーが以降、ソロ活動に転じたのは、最早バンドで録音を続ける意義を見出しづらくなったという要因があった。
しかし、同時に、フィル・スペクターがエンジニアと協力して構築した「ウォール・オブ・サウンド」の最大の魅力や価値を挙げるとするなら、それは複数の演奏者が一同に介し、その瞬間にしか得られないような生のサウンドをリアルタイムで追求するということであった。結果的に、「同時に録音する」という行為は、想定した録音の結果が得られるとはかぎらず、偶然の要素、チャンス・オペレーションが発生する。そして、予測出来ない箇所にこそ、録音の可能性が残されているかもしれない。
テクノロジーは、日々、革新を重ね、新しい録音システムが次々と生み出されている。旧来の可能性と未来の可能性が合致したとき、ウォール・オブ・サウンドに代わる新しい代名詞がどこからともなく登場するかもしれない。そして、その画期的な録音方法にはどんな名称が与えられるのだろう。考えるだけでワクワクするものがある。
音楽に治癒効果はあるのか 音の周波数が与える人体への影響
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音楽の複合的な性質
音楽そのものは、物理学の観点から言えば、音の周波数や振動数から成立していることは明らかである。そして、光と同様に物理学的な性質を擁する。
一般的に言えば、周波数が高くなれば、波長が短く小刻みになり、低くなれば、長く緩やかな波長を作る。そして、無線/有線等の技術にも応用されるように、電波を送るための伝達装置として使用される場合には、両方の周波数の音の伝わる性質が適用され、周波数が高い場合、特定の方向に対し、より多くの情報を伝達することが可能になる。
それとは対象的に、周波数が低い場合、広い方向に対し、情報が伝達することが出来るが、反面、伝えられる情報数は減少する。周波数の高低のそれぞれの特性を上手く活用しながら、技術者は人類のテクノロジーを進化させて来た。この磁石のような両極的な伝達手段の手法は、ラジオ短波やFMラジオを比較すると、より分かりやすいのではないか。
音の周波数の理論は、無線/有線の技術として適用されるにとどまらない。例えば、物理学者のニコラ・テスラは、振動数が物質に与える影響について指摘し、実際的に音の振動数が物理学的に大きな力学を及ぼすことがあり、地球を真っ二つにするほどの力を有することを指摘している。これは実際的な実験が行われていて、音の周波数が物質を形作る結晶を変化させる力を持つという研究結果にも表れている。例えば、より一般的な話題では、人間から発せられる言葉が物質の構造を変化させるという実験も行われている。これはなかなか見過ごせない話題だ。
音楽的な視点からこのことを見ていきたい。一般的には、クラシック音楽が全般的に周波数が高いと言われ、例えば、JSバッハ、モーツァルトの楽曲には頻繁に高い周波数が取り入れられているというのが通説である。それが時々、クラシック音楽を聴いていると、心地よく眠たくなる理由であると言われている。
例えば、退屈だから眠気を催すとは限らず、音楽の力学としての周波数が人体の意識より高い場合に眠たくなる場合があるという説もある。これらはアンビエント・ミュージックに癒やしや眠気を催す要素があるのと同様である。しかし、一般的には周波数が低いと言われているノイズやメタル、ロックミュージックが、必ずしも人体に悪影響を及ぼすとも限らないのが不思議である。
例えば、こういった音楽を聴いて、不思議とパワーがみなぎってきたことはないだろうか。上記のような音楽には、電流のような力学的なエネルギーを発生させる力があり、それが「グルーヴ」の正体なのである。これらは、例えば、ジャンルごとに振動数や周波数の偏りがあるだけで、本質的にはすべてが同類の性質を有することを表し、音楽自体が複数の周波数から同時的に成立している証ともなる。
つまり、実際的には、クラシック音楽にも、低い周波数を持つ音楽が存在し、さらに、ロックのような音楽にも高い周波数が存在する。表向きには、ロックにはノイズのような振動数の低い要素が含まれていることは明確だが、しかし、対象的に、複数の楽器の発生させる振動数が折り重なったとき、現象学として異なる周波数が発生し、稀に、高い周波数を保持することがある。これがロック・ミュージックなどに見受けられる快適さ、治癒の効果なのであり、こういった一般的な音楽に大きな感動を覚える理由でもある。つまり、低い周波数と高い周波数が混在する森羅万象の音楽と言えるのである。
単一の周波数という考え ソルフェジオ周波数音楽
以上のように、こういった複数の周波数を持つ音楽という概論を踏まえた上で、単一の周波数を抽出し、それらを治療効果があるのではないかとする考えもある。近年、 注目されているのがソルフェージュの言葉を転用したソルフェジオ周波数と呼ばれるものだ。
この神秘学の提唱者のホローヴィッツは、一般的な音楽フォーマットで使用されている440Hzの周波数が人体に悪影響を及ぼすものではないかと推論付け、その反証として、以下の特定の周波数を取り上げている。そして、これらの周波数は、神秘的な治療効果を人体に及ぼすという推論を展開している。ソルフェジオ周波数には、主な6つの周波数以外に、一般的に知られていない3つの周波数が存在するという。
396 Hz - 解放の周波数
396Hzの周波数の音は、ネガティブな思考、感情、エネルギーパターンを解放し、解放感と自由を促します。
417 Hz - 共鳴周波数
417Hzの音は、ネガティブなエネルギーや影響をクリアにし、ポジティブな変化と変容を促します。
528 Hz - 愛の周波数
愛の周波数は、リラクゼーションを促し、ストレスや不安を軽減し、睡眠の質を高め、創造性を高め、幸福感を促進します。
528Hzのチューニングされた音楽とサウンドの効果について、さらに詳しくご覧ください。
639 Hz - つながる周波数
639Hzは、調和のとれた人間関係を促進し、コミュニケーションを増やし、感情の癒しとバランスを促進することを目的としています。
741 Hz - 目覚めの周波数
代替医療では、741Hzの音はより深いレベルの気づきを促し、直感力を高め、スピリチュアルな成長を促進すると信じられている。
852 Hz - 直感周波数
852Hzの周波数は、スピリチュアルな意識や直感を高めるだけでなく、明晰な思考を確立し、コミュニケーションを向上させるのに役立ちます。
174 Hz - 基礎周波数
この周波数は、痛みを軽減し、安全感と安心感を促進し、肉体的・精神的な癒しをサポートすると信じられている。
285 Hz - ヒーリング周波数
この周波数の音は、特に傷や怪我の肉体的治癒を促進すると信じられている。
963 Hz - 宇宙の周波数
より高い963Hzの周波数は、スピリチュアルな目覚めを促し、松果体を活性化させ、直感やサイキック能力を高める。
1074Hz - スピリチュアル周波数
この高音周波数は、スピリチュアルな成長と気づきを助け、直観力を高め、高次の意識とのコミュニケーションを向上させる。
1174 Hz - バランス周波数
528Hzに代わる高い周波数は、体内のエネルギーセンターのバランスを整え、精神の明晰さと覚醒を促し、創造性と生産性を高める働きがある。
音楽を楽しむ上で重要視したいこと
一般的に、こういった周波数が癒やしの効果を持つと言われているが、結論としては、これらの治癒効果は、検証実験の回数が少ないため、実際の効果は限定的であると言わざるを得ない。そもそも音楽自体は、異なる周波数が複合して成立しており、一つの周波数から構成されることは稀有であるため、単一の周波数の効果を抽出することは妥当ではない。
単一の音から倍音が発生するという性質を考えると、音楽は「多次元の周波数から成立する」と考えるのが妥当である。単一の周波数から構成される連続音は、音波であり、音楽とは言えない。ここで言いたいのは、現時点の科学的には検証しえない音楽の神秘的な領域が残されているということである。さらに言えば、現時点の科学では測定不可能な領域にある周波数も存在する可能性もある。
さらに、私達が信頼してやまない科学という分野が日夜、それまで常識とされていた一般的な学説や推論が覆されることでる定説が成立されるということを鑑みるに、科学的な検証が行われたというのも、都合の良い検証結果が恣意的に抽出されたに過ぎず、一般的なエヴィデンスに対する反証や疑義が含まれていることを付言しておきたい。
そこで、音楽ファンに対して推奨したいのは、ジャンルを問わず、自分たちが心地よいと感じたり、癒やされたり、心から熱中出来るような音楽を、鉱脈にある金を掘り当てるように、「自ら探しあてる」ということである。そもそも、人間には直感が備わっており、何らかの外的な効果を及ぼさずとも、自分の体に合ったものがおのずとわかるはずである。一般的に心地よいと言われているものが、必ずしもある個人にとって最善とは限らないように、それぞれの各個人の意識に合った音楽を聴くことが重要ではないかと結論付けたい。あくまで上記の周波数は、一般的に科学的な効果があると言われている俗説に過ぎず、治療効果を保証するものではないということを留意しておくことが大切である。治療法というのも、一つの手法から成り立つのは稀なのであり、一般的な定説を過信せず、時宜にかなった処置を図ることが最善である。
バロックポップとチェンバーポップの原点
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The Beatles-Strawberry Fields |
他のジャンルと同様に、ポピュラーミュージックの中には、数えきれないほど無数のジャンルがある。例えば、この中にチェンバーポップ、バロックポップというジャンルが存在するのを皆さんはご存知だろうか。
大まかに言えば、これらの2つの専門用語ともに古典音楽の影響を含めるポピュラー音楽を意味する。チェンバーポップ、バロックポップの原点は間違いなくビートルズにある。そう、勘が鋭い読者はお気づきのことだろう、「Strawberry Fields Forever」である。
「Strawberry Fields Forever(ストロベリー・フィールズ・フォーエバー)」は、ビートルズの楽曲である。1967年2月に「Penny Rain(ペニー・レイン)」との両A面シングルとして発売され、ビートルズのサイケデリック期における傑作。
レノン=マッカートニー名義となっているが、実質的にはジョン・レノンの作った楽曲といわれ、レノンが幼少期に救世軍の孤児院「Strawberry Fieldsr」の庭園で遊んでいた思い出をモチーフにしている。
1966年11月にレコーディングを開始し、スタジオで5週間に渡って異なる3つのバージョンを制作し、最終的にテンポやキー、使用される楽器の異なる2つのバージョンを繋ぎ合わせて完成した。
現代の「編集的なサウンド」、及び現代のWilcoがレコーディングで使用するような音楽のレコーディングはすべてここから始まったといえる。
この曲にはメロトロンやストリング、ホーンセクション、逆再生、そしてポピュラー音楽の範疇を越えたクラシック音楽の構成など、現在でもレコーディングやソングライティングの教科書とも言えるマスターピースであり、チェンバーポップやバロックポップの出発点とみても大きな違和感がない。
しかも、この音楽にはバロック音楽の要素が取り入れられている。しかし、教会のポップ、そして、バロックのポップとはいったい何を意味するのか。それを始まりから現在に至る系譜を大まかに追っていきたい。
バロック音楽
そもそも「チェンバー」は教会の意味である。これは教会で演奏されるクラシック音楽を模したポピュラー音楽を意味すると推測できる。その一方、「バロック」というジャンルも音楽の専門用語で使用され、クラシック音楽の一ジャンルをポピュラーの中に組み入れることを意味していると思われる。バロックはポルトガル語で「不整形の真珠」を意味している。バロックというジャンルは、中世の古典音楽のジャンルで、イタリアからフランス、ドイツまでヨーロッパの音楽様式として栄華をきわめた。
バロックは、音楽という観点で言えば、イタリアのヴィヴァルディに始まり、フランスのクープラン、ドイツのJSバッハまでの中世ヨーロッパの音楽形式を示すのが一般的と言える。音楽としては、ハープシコードを用いたり、トランペット(ピッコロ)やフレンチホルン、さらには木管楽器を弦楽曲と共に組曲の中で使用した。テンポとしては、ゆったりとしたアンダンテから、性急に駆け抜けていくプレストまで様々である。これらのバロックやチェンバーという様式の原点は、そのほとんどが宗教的なモチーフや宮廷などの委嘱作品として制作される場合が多かった。詳述するには音楽家が宮廷お抱えの演奏家や作曲家であった時代にまで遡る必要がある。
中世の音楽家は、そもそも教会組織に使える人物であり、王族や教会のためのミサ、及び、宗教的な儀式のための音楽を制作し、教会の組織から特別な「サラリー(給与)」を得ていたのである。(サラリーは、塩から派生した言葉で、仕事の定期的な報酬は「塩」という貨幣の代替品により始まった。塩が最も貴重であった時代の話である)それらのバックアップを得て、ヨーロッパの近隣諸国の演奏旅行に出かけることもあった。現在で言う''ライブツアー''の原点である。つまり、現在のプロモーターやレーベルのスポンサーの役割は、中世音楽という観点からいうと、教会の組織やコミュニティ、もしくはその背後にある国家が司っていたと見るべきだろうか。
これらの作曲家、演奏家の多くは教会専門の音楽家として生計を立てていたが、もしその契約を打ち切られると、かなり大変だった。たちどころにスポンサーを失い、みずからの音楽が演奏される機会が少なくなり、最終的にはモーツァルトのように借金をしてまで生計を立てねばならなくなる。晩年、ザルツブルグの教会内部との軋轢があってのことなのか、モーツァルトは晩年には無宗教者として墓に入ることを決意した。しかし、彼の遺作が宗教音楽のレクイエムであることはかなり皮肉にまみれている。
時代が変わり、楽譜(スコア)が出版されるようになると、現在でいうCD/LPの販売のような商業的な形態の初歩的な構造が出来上がっていった。当初は銅板の印字のような出版形式で、後に現在のスコアのような紙の出版へと移行していく。すると、ドイツや旧ワイマール帝国、あるいはオーストリアの作曲家は楽譜を書店などで売ることで、ようやく生計を立てられるようになった。
しかし、現在のようなライブツアーや物販という営業形態までは至らず、依然として教会や国家に仕える比較的経済に余裕がある場合を除いては、音楽家のほとんどはどのような時代も貧困にあえいでいたと見るべきだろう。現在のようなスターシステムは当然ながら、グッズ販売などの付加要素がないため、楽譜の売上だけではなく、ピアノ教師をやりながら生計を立てていかなければならなかった。現在でいう専門のインスティテュート、ピエール・ブーレーズが設立したIRCAMのような研究の専門機関もまだ存在しないので、それはほとんど個人的な音楽教師の範疇にとどまっていた。
ロベルト・シューマンと並んで世界最初の音楽評論家であるロマン・ロランによるベートーヴェンの伝記にも出てくるが、音楽室の壁に飾ってある大作曲家の半数は、中世においては社会的な地位に恵まれることは少なかった。フランスでは、だいたいのところ国立音楽院で学んだ後、教授職に就いたり、ガブリエル・フォーレのように学長に歴任するというケースはきわめて稀だった。これは彼が出世コースを歩み、アカデミズムの世界の人物であったからである。
音楽家が独立した職業として認められ、一般的に生計を立てられるようになったのは、少なくとも19世紀の終わりか、もしくは20世紀のはじめと推測される。後にはマーラー、ブーレーズ、ストラヴィンスキーなど、指揮者と作曲家を兼任し活動を行う人々も出てくる。この時代からようやく音楽家の地位も一般的な水準より高まり、つまり文化人として認識されるようになる。
ジャズとポピュラーの融合 大衆のための音楽
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Mourice Ravel & George Gershwin USTour |
こういった流れを受け継いで、近代文明の中にクラシックとともに''ジャズ''という音楽が台頭した。ニューオリンズの黒人の音楽家を中心とするブラック・ミュージックの一貫にあるコミュニティとは別に、クラシックの系譜に属するジャズが出てくる。ニューヨークでジャズが盛んになった経緯として、ジョージ・ガーシュウィンの大きな功績を度外視することは難しいだろう。
ジョージ・ガーシュウィンはオーケストラとジャズを結びつけ、フランク・シナトラと合わせて米国のポピュラー音楽の最初の流れを形作った人物といえるかもしれない。
そして、バロックポップやチェンバーポップの中には、クラシック音楽と合わせて、古典的なジャズの要素が入る場合があることを忘れてはいけない。これは、以降のMargo Guryanというソングライターに受け継がれ、現代的な米国のポピュラー・ミュージックの一部を形成していると見るのが妥当である。
もう一つ、ポピュラー・ミュージックの文脈の中に組み込まれるバロックやチェンバーという様式の中に、別のルーツがヨーロッパのクラシックに存在する。それがフランスの著名な近代の作曲家であり、クロード・ドビュッシー、モーリス・ラヴェル。特にラヴェルに関しては、『ボレロ』などミニマル・ミュージックの元祖を制作しているし、アメリカへのツアー旅行の過程でガーシュウィンと交流を持った。彼は音楽にスタイリッシュさをもたらした作曲家である。
また、フランスのサロン文化やジャポニズム、また絵画芸術が発祥の印象派の作曲家、クロード・ドビュッシーは同じように古典音楽という形式の中に洗練されたスタイリッシュさをもたらした人物だ。彼はロシアからアメリカに亡命したイゴール・ストラヴィンスキーと交友関係にあった。これらのエピソードはアメリカのポピュラー音楽がフランスの近代音楽やロシアの古典音楽からの影響を元に原初的なポピュラーという形態を作り上げていったことを証立てている。
そして、上記二人の作曲家に強い触発を与えたパリ音楽院を十数年かけて卒業した作曲家、エリック・サティの存在も重要となるだろう。
元々は、サロン文化華やかし時代の花の都パリで、フレドリック・ショパンをサロンのような場所でカバーを演奏していたが、ドビュッシーが彼の音楽を取り上げはじめたおかげで彼の名は歴史に埋もれずに済んだ。サティはのちのハロルド・バッドのような現代的なミュージシャンに影響を及ぼし、オーケストラ音楽やピアノ曲をポピュラーとして編曲した。
和音法の革新性という側面でもエリック・サティは度外視することができず、フォーレのアカデミズム一派と並んで、フランスの近代和声の一部を形成していることは事実である。''その場のムードを重んじる''という意味で、環境音楽やアンビエントのルーツでもある。そしてそれは以降のコクトー・ツインズのように、絵画や建築、服飾などの他分野を発祥とする美学やイデアを元に構成される音楽の一派に直結する。いわばサティは、クラシックという領域でポピュラー(大衆のための音楽)というテーマを最初に意識づけた作曲家である。それ以前から、クラシックとポピュラーのクロスオーバーは、歌曲や大衆向けのオペラでも頻繁に行われていたのは事実だが、この時、古典音楽の意義が変わり、一部の共同体のためのものから大衆の音楽へと移行した。
ロックやポップスのレコーディングの中で組み込まれるオーケストラ楽器
音楽が「大衆のための娯楽」として確立されたのち、ミュージック・スターが誕生するのは当然の成り行きだったのかもしれない。1950年代に入ると、レコード会社が米国各地に乱立するようになり、音楽産業が確立されると、ヒーローが数多く登場するようになった。チャック・ベリーやリトル・リチャード、エルヴィスを中心とするロックンロール、これは明らかにブルースやゴスペルをはじめとするブラックミュージックを出発点として発展していった。
その一方、ポピュラー・ミュージック全般は、明らかに以前の時代のクラシックやジャズ、それからミュージカルやオペラのような形態を元に発展していった。イギリスでは、アイルランドやスコットランドのデーン人のフォーク音楽、そして米国ではゴスペルやアパラチア発祥のニューイングランドを意味するフォークミュージックを吸収し、教会音楽の格式高さを受け継いだものから、それとは別の完全なショービジネスとして君臨するものまでかなり広汎に及んだ。
しかし、少なくとも、現在のような商業的な音楽の流れを決定づけたのはやはりビートルズである。そしてチェンバーポップやバロックポップというジャンルもまたリバプールのバンドから出発したと考えるのが妥当だろう。今回、クラシック音楽をポピュラー・ソングに取り入れた最初の成功例として注目したいのが、ザ・ビートルズの名曲「Strawberry Fields Forever」である。
この曲は『Rubber Soul』時代のサイケデリック文化からの影響をうかがわせつつも、チェンバーポップとバロックボップの最初の出発点だ。ビートルズの中期の曲ではお馴染みのメロトロンの使用という要素は、現在のリスナーから見ると、ノスタルジックな印象をおぼえるはずである。
これは同時期に、サイケデリック・ムーブメントやフラワー・ムーブメントの一貫として登場したザ・ローリンズ・ストーンズの『Their Satanic Majesties Request』の収録曲「In Another Land」にもチェンバロ(ハープシコード)というオーケストラ楽器が登場する。これらの2曲が一般的な意味でのバロックポップ/チェンバーポップの出発点と見るのが妥当であるといえるかもしれない。
またこの要素はジョージ・ハリソンやレノンがインドでシタールなどの民族楽器を学んだこともあり、チェンバー・ポップの文脈にくみこまれたり、さらに独立した音楽ジャンルとしてエスニックのロック/ポップという、以後のニューエイジ系の先駆けとなったことは想像に難くない。
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そして、バンドのレコーディングという側面では、ビートルズがオーケストラ音楽の要素をポピュラーの中に組み込み、それらをリスナーの期待に応えるような形式に仕上げたことは明らかである。他方、ローリング・ストーンズは、これらをサイケデリックやミュージカル、もしくは映像的な音楽効果と結びつけ、ビートルズとは異なる音楽の新しい様式を作り上げることになった。
これは続く、80年代から90年代のブリット・ポップに直結している。ブリット・ポップの正体とは、「バロック・ポップ/チェンバー・ポップの継承」である。それらを前の年代のニューウェイブやポストパンク、ロンドンやマンチェスターのダンスミュージック、及び、エレクトロニックと結びつけるという意義があった。ブリット・ポップのレコーディングにオーケストラのストリングが必須であるのは、こういった理由によるのかもしれない。そして、商業的なロックソングという観点でも、オーケストラのストリングやエレクトロニックの要素が複合的に取り入れられると、それがブリット・ポップとなり、その影響下にあるポスト世代の音楽となる。
もう一つの系譜 女性シンガーソングライターを中心とするチェンバーポップの発展
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Murgo Garyan |
ビートルズやストーンズのバンドという形態で築き上げられるバロックポップとチェンバーポップは以降のブリットポップに直結した。そして、もう一つの系譜として女性シンガーソングライターを中心とするチェンバーポップが台頭する。それらの音楽は独特のふんわりした音楽性が特徴となっている。
例えば、その原点として、元々はクラシックやピアノの演奏に親しんだMargo Guryanがいる。女性シンガーとしては傑出していたが、寡作のシンガーソングライターであったこと、所属レーベルとの関係の悪化、さらに家庭の人生を重んじたため、生涯の作品こそ少ないが、ポピュラー音楽の中にクラシック音楽やジャズを本格的に組み入れようとした最初のシンガー/作曲家である。
米国では著名な女性のシンガーソングライターがレコード会社やプロデューサーと協力し、チェンバロやメロトロン、そしてオーケストラ楽器を曲の中に導入し、シンガーソングライターとしてのチェンバーポップ、バロックポップの様式を作り上げていった。
このジャンルが盛んだったのは何もアメリカのニューヨークだけにとどまらない。もう一つの文化の重要な発信地であるフランスでは、イエイエが盛んになり、パリの音楽シーンは映画やファッションと連動するようにして、ジェーン・バーキンやシルヴィ・バルタンを筆頭とするフランス版のチェンバーポップの象徴的なシンガーを輩出する。イエイエの系譜にありながらボーカルアートの領域まで表現形態の裾野を広げて、アートポップやスポークンワードの先駆的な存在として活躍したシンガーソングライター、Brigitte Fontaineも忘れてはいけないだろう。
現代のチェンバーポップ/バロックポップの音楽がおしゃれでスタイリッシュな印象があるのは、60年代頃のフレンチ・ポップ、つまりイエイエからの影響が大きい。シルヴィ・バルタンやジェーン・バーキン、これらのシンガーはそのほとんどがモードファッションに身を包み、ファッションリーダーとしても活躍した。現在のアートポップやバロックポップの歌手がファッションに関して無頓着ではなく、新しい文化性を感じさせるのはパリ文化からの影響がある。
現在のバロックポップ、チェンバーポップ 無数に細分化する先に見えるもの
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Melody's Echoes Chamber |
もう一つ、現代的なサブジャンルとしてドリーム・ポップというジャンルがある。Cocteau Twins(コクトー・ツインズ)、Pale Saints(ペール・セインツ)などを中心とする4ADが得意とする音楽である。これらはよく知られているように、上記のバロックポップやチェンバーポップをニューウェイブやソフィスティポップというレンズを通して再度見つめ直したものである。
音楽的な特徴としては、甘いメロディーや、柔らかい感覚のボーカル、ソフィスティポップの系譜にあるうっとりとさせるような雰囲気がある。これらもMargo Guryanやイエイエの系譜にあるものを英国らしい音楽として昇華させたということができるかもしれない。さらに言えば、これらのジャンルの原点である建築様式のゴシックという要素でやや暗鬱な音楽で包み込んだ。
これらは現在のアートポップの原点となったにとどまらず、80年代のグラスゴーのギターポップ/ネオ・アコースティック、そして80年代のロンドンやマンチェスターのダンスミュージック/クラブミュージックと組み合わされて、90年代のシューゲイズやエレクトロポップ、それ以後の2000年代のオルタナティヴロックの流れを形づくることになった。(これは後に日本の渋谷系[shibuya-kei]というジャンルに直結している。詳しくはコーネリアスやカヒミカリィの音楽を参照)
現在のバロックポップやチェンバーポップというのは、以前よりもさらに細分化されつつあり、他のジャンルの音楽と同じく、他文化からの干渉をまぬがれない。音楽自体も懐古的なものから、現代の需要に応えるようなスタイリッシュなポップソングに変遷しつつある。最近の事例ではアークティック・モンキーズの『The Car』、あるいはピーター・ガブリエルの最新作『i/o』という例外はあるにせよ、このジャンルは、男性中心のロックバンド、及び、ソロシンガーから女性シンガーソングライターの手に移りつつあるようだ。
ウェールズのCate Le Bon、フランスのMelody"s Echoes Chamber、アメリカのKate Bollingerが現代版のバロックポップ、チェンバーポップの筆頭格だ。
これらはオルタナティヴの系譜にあるドリームポップやシューゲイズ、クラブミュージックにも部分的に取り入れられる場合がある。また、これらの音楽は全般的にエクスペリメンタルメンタルポップ、つまり、実験的なポピュラー・ミュージックと称されることもある。
以降、チェンバーポップには、把握しきれないほど多種多様なスタイルが登場している。例えばサンフランシスコや西海岸のサイケデリックを吸収したり、ヒップホップのローファイやサンプリング、ブレイクビーツからの影響を交え、より洗練された未来志向の音楽に変化しつつある。ラップトップの一般的な普及により台頭したベッドルームポップという新世代の録音の象徴的な音楽と融合し、Clairo(クレイロ)のような現代的な音楽に変わることもある。それとは対象的に、全般的なオルタナティヴロックという文脈に部分的に取り入れられる場合もある。
最近のレコーディングでは、ポピュラー音楽にオーケストラを導入することは日常的となりつつあり、さまざまな形が混在し、そしてまだ完成されていないジャンルでもある。
もしかすると、現在最も注目すべきジャンルの一つが、バロックポップ、チェンバーポップなのかもしれない。
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