Weekly Music Feature: Samuel Aguilar
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テネリフェ島サンタクルス高等音楽院にて、音楽理論・転調・伴奏の高等教授資格、ならびにピアノ教授資格、和声・対位法・作曲・配器法の高等教授資格を取得した。同校ではミレーナ・ペリシッチ、カルロス・プイグ、ミゲル・アンヘル・リナレスらに師事。 サミュエル・アドラー、ギジェルモ・ゴンサレス、ジョエル・レスター、ヘルマン・サッベ、カールハインツ・シュトックハウゼンらによる音楽専門コースにも多数参加。ラ・ラグーナ大学英文学科卒業。
幼い頃から、父親である芸術家イルデフォンソ・アギラールが創設・主宰するランサローテ視覚音楽祭の運営に深く関わってきた。
20歳の時に『Música para los Jameos del Agua』を録音し、1996年にGEOエディシオンズより発表。以来、定期的に数多くの録音作品を発表している。 近年の主な作品には『Wordless Conversations』(2019年)、イルデフォンソ・アギラルとの共作『Lanzarote, el sonido oculto』(2020年)、2021年に開始した『Diarios Sonoros』シリーズ、そして『Tierra de Hielo』(2024年)が挙げられる。
また様々な録音プロジェクトにも参加しており、特に英国のラッセル・ミルズによる『Undark. Pearl + Umbra』(1999年 Bella Union Ltd. 刊)や、ティマンファヤ国立公園(ランサローテ島)の火山ルートを題材にした音楽環境を収録した書籍兼CD『Sonidos para un Paisaje』が挙げられる。
彼の音楽活動は音源のリリースにとどまらず、リベラルアーツ全般に及んでいる。公共・私有空間向けの環境音楽や、ドキュメンタリー・広告・短編映画・長編映画・映像インスタレーション・オペラ/演劇/ダンス公演のオリジナル音楽など。 尽きることのない好奇心から、ブライアン・イーノ、ステファン・ミクス(ECM)、スソ・サイス、クリスチャン・ヴァルムロートなど、錚々たるアーティストとのコラボレーションを実現している。また、Supreme Sax&Brass Ensemble、Landscape Project、Lanave、Circular Ensemble、Major Tom Projectなど、様々な音楽プロジェクトの推進者またはメンバーとして活動している。 また、カナリア諸島国際音楽祭やランサローテ視覚音楽祭などから作品の委嘱を受けたほか、ケロクセン・フェスティバルやAPギャラリーなどでアーティスト・イン・レジデンスも経験している。
テネリフェ島サンタクルス音楽専門学校で教鞭を執り、サンタクルス高等音楽学校およびカナリア諸島高等音楽学校でも教授を務めた。カナリア諸島各地で音楽の様々な側面に関する講演やワークショップを実施している。 彼の作品は、ドイツ、アルゼンチン、オーストラリア、ベラルーシ、ブラジル、カーボベルデ、カナダ、チリ、コロンビア、キューバ、デンマーク、エクアドル、エジプト、スペイン、アメリカ合衆国、フランス、フィリピン、インドネシア、イングランド、レユニオン島、イタリア、マレーシア、ニュージーランド、ペルー、ポーランド、ドミニカ共和国、セネガル、シンガポール、南アフリカ、スウェーデン、スイス、チュニジア、ベトナムで初演されている。
最近のプロジェクトでは、EA&AEによりハバナ大劇場(キューバ)で初演された、数々の賞を受賞したダンス作品『エントモ』の音楽、テネリフェ芸術空間TEA(サンタ・クルス・デ・テネリフェ)で初演された演劇『犯罪』の音楽、 CAAM(ラス・パルマス・デ・グラン・カナリア)で発表された音響インスタレーション『秘密のコーナー』、ジョゼ・サラマーゴ生誕100周年を記念して委嘱され、テアトロ・エル・サリネロ(ランサローテ)で初演されたオペラ『焼け焦げた畝に沿って』、パブロ・ファハルド監督によるドキュメンタリー映画『逃亡者』のサウンドトラックなどがある。
Samuel Aguilar 『Onírica』GEO ediciones
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・音楽を聴く時の客体と主体の関係性 未知の体験を作り出す
スペインの作曲家/鍵盤奏者/教授、サミュエル・アギラールは、これまで形態を問わず、2011年頃から作品の発表を続けてきた。本日、GEO edicionesから発売された『Onírica』は、”音楽を聴く”という根本的な意義を問う作品と形容しても過言ではない。
このサイトではアンビエントの名盤やアーティストの紹介を通して、このジャンルの隠れた支援者でありつづけてきたが、張本人としては、難しい言い方になるが、徐々にアンビエントという言葉が拡大解釈されすぎた印象を受ける。このジャンルは、ロック、クラシック、ジャズ、他の微細なジャンルを通過した最後の音楽であり、その次があるのかどうかは定かではない。
もう一度、アンビエントや環境音楽の関係について言及しておきたい。アンビエントは当初、家具の音楽として出発し、主体性を持たない音楽という意義が含まれていた。例えば、空港や駅に向かうと、何らかの環境音楽が流れている。また、MacやWindowsでの工業的な音楽、もしくは、ゲームのBGMなども該当する場合がある。例えば、絵画やイラストはそのもの自体では、主体性を持つ芸術と言えるが、それがウイスキーや日本酒などのコースターとして使用されたらどうなるだろう? 例えば、トリス・ウイスキーでデザインを無償で提供したり、メキシコのホテルに「明日の神話」を提供した岡本太郎は、”これほど光栄なことはない”と述べたことがある。彼は自分のデザインに客体性を付与することに、ある種の愉悦すら覚えていたことはさほど想像に難くないのである。芸術やアートは、機能的な枠組みに組み込まれた時、従来とは別の意味を持つようになる。本来の主体的な機能が客体的に変化するのだ。
話の筋をアンビエントや環境音楽に戻したい。 アンビエントそのものは、ブライアン・イーノ氏が空港で音楽を使用した瞬間から、客体的な音楽として出発したのが一般的な解釈といえるだろう。しかし、音楽が近代から現代に向かうにつれ、この音楽は、他のダンスミュージックやクラブのフロアのクールダウンのために流れるチルアウトやチルウェイブ、さらには、70年代からフュージョンジャズやアフロジャズの内在的なジャンルとして認知されていたスピリチュアリズムの要素、他にも、魂を癒やす音楽や、科学的な見地から注目を浴びるヒーリングミュージックと連動するようにして、徐々にその裾野が広がっていくようになった。つまり、アンビエントという定義が、拡大解釈されるようになったのである。今日では、このジャンルは、部分的にロック/ポップソングの中のインタリュード(間奏)の要素として利用される場合もある。その捉え方は2020年代に入り、さらに拍車がかかっていき、拡大視されるようになった。
しかし、原理主義者の観点から言うと、あまりに拡大解釈されたため、アンビエントと呼ぶべきではないものまで、そのように呼ばれることも多くなってきた。これは、このジャンルの密かな支援者としては複雑な感情を覚える。例えば、このジャンルの祖であるとも言われる、エリック・サティは演奏会で、自分の音楽が聴衆にじっくり聴かれているのを察知すると、烈火のごとく怒り狂ったという。まさしく、ラモンテ・ヤングやフランク・ザッパなどと並び、音楽界きってのアウトサイダー(異端者)らしい逸話なのであるが、これもまた首肯すべき部分がある。
つまり、エリック・サティは、自分の音楽が、他の一般的なクラシック音楽のように聞かれたり、自分の作品そのものが主体性を持つことに強烈な拒否反応を示したのである。これと同じように、個人的な意見としては、その音楽が、強烈にパッケージ化(商品化)されて、商業化されすぎてしまえば、それはすでにアンビエントの本当の意味から遠ざかってしまう。つまり、その音楽を、まわりの環境とは何ら関係を持たない「独立した音楽」として聴くのであれば、それはやはり、アンビエントではなく、ヒーリングミュージックやチルアウトというべきだ。
例えば、主体的な音楽の事例が、ポピュラーソングやロックミュージックだとする。それでは、他方、客体的な音楽とは何なのだろう? 例えば、プラネタリウムや美術館の中で、静かに流れる音楽が挙げられる。この場合、当然であるが、主体は天体の映像とか美術品の展示であり、客体は音楽である。ようするに、来館者は、星や天体の運行や絵や展示品の詳細を観察していることになる。しかし、感覚のどこかで、背景に流れる音楽をそれとなく''認識''している。
この場合、来館者は、自分がいる空間やスペースの中で、音楽を「体験している」だけであり、「聞いている」わけではない。しかし、同時に、音楽が「聴く」という行為に限定されずに、ある種の体験に変わった瞬間、その意義は、「商品」の枠組みから超越して、本来の芸術的な性質を持ち、古代ギリシアの演劇のような「MUSICA」の意義を取り戻すのである。これは、客体と主体のバランスを揺らがせ、その境界をあえて消滅させるわけなのだ。この瞬間、音楽という行為は、消費のためのものから、体験のためのものへと接近していく。そして、消費のための音楽を制作する人は世に氾濫しているが、体験のための音楽を制作する人は、じつは意外に少ない。殊、アンビエントに関しては、体験のないものは、何かしら物足りなさを覚える。
スペインの作曲家がもたらした『Onírica』は深く考えこませる。また、音楽を制作することの意味をつくづく考えさせてくれる。この作品は、客体の音楽と主体の音楽のどちらが優れているのかを決定するわけではなく、その定義を把握した上で、2つの領域で聞き手を揺さぶりつつ、その境界を曖昧にする。いわば、ある種の問いかけも含まれていると感じられる。これは、デュシャンが『泉』は芸術になりうるのか?という問いを投げかけたのによく似ている。
『Onírica』の場合は、センセーショナルな手法を選ばず、古典的な電子音楽の形式を参考にし、ギリシア神話の神々「Hypnos(ヒュプノス)」を登場させ、幻想主義の音楽を展開させる。形式こそ異なれ、アンビエントの劇伴音楽とも称するべき、異質なアルバムが登場した。ブライアン・イーノが行った、アクロポリスでのライブのように、演劇的な要素を兼ね備えていると解釈することも不可能ではない。重要なのは、本作は、単なる聴くという行為にとどまらず、未知を体験するという要素が備わっていることである。この点に魅力がある。
5つの収録曲は、エジプトやギリシアの遺構のようにそびえ、聞き手を圧倒する。雲や霧のような音楽で、静かな場所で聞かなければ全容を捉えることは難しい。多くは、デジタルシンセを中心に構成されており、パッチワーク的なプロダクションやリサンプリングの手法はほぼ見当たらない。これがライブ性を保持し、雲のように流れていく音楽を阻害することがない。雲というのはドビュッシーの同名のオーケストラ曲にちなんで言及させていただくことにする。
冒頭曲「Nyx」からかなりの難物が並んでいる。音楽を聴くという行為、ある意味では、それ以上の概念を提供するかのように、未知なる音の体験が続いている。曲調は、明るいとか暗いとか、一般的な感覚で言い表すことが難しい。ここには、聞き手の解釈や心のあり方によって、複数の側面が提示され、聞き手の心を巻き込むかのように、体験のための音楽が断続的に続いている。
イントロでは、霧のようなシークエンスがシンセサイザーで描かれ、その後、いくつかのテクスチャーが重なり合いながら、雲や波のような時間的な経過を持つ空間の流れの構成が形成される。ごくまれに、その中に、チベット・ボウルを模したマレット・シンセのような打楽器的なパーカッションの効果が点描画のように出現する。曲の初めは、不気味なダークウェイブのような雰囲気が包まれているが、まるで空の景色が徐々に移ろい変わるように、印象は少しずつ変化していき、その後は、景色が一変し、天上の光景を思わせるシークエンスが登場する。横方向の持続低音が重なり合いながら、倍音の特性を活かし、絶妙なハーモニーを形成していく。
アギラールの作曲の特色は''音の持つ音響効果を最大限に活用すること''である。これは、近代和声の色彩的な和声を示したいのではなく、音の組み合わせによって生じる音のイメージを独自の手法で拡張させていくのである。例えば、彼が音符を繰り出し、減退しない持続音を組み合わせる。音が存在するだけで、それ以上の意味があるわけではない。けれども、そのドローン的な音を体感していると、何らかの情景が思い浮かんで来て、聞き手がその存在の中に居るような感覚を覚える。彼は、AIやバーチャルの領域ではなく、人間的な想像の作用を活用するのである。
ギリシア神話の”眠りの神”を表す「Hypnos」は、音調の変容を積極的に活用した上で、同じように、霧のような音楽を制作している。従来のアンビエントのように明確な主張性を持つわけではないが、同じように複数のシークエンスを何度も丹念に重ねながら、情景的な音楽を作り上げていく。断続的なドローンのシークエンスは、その後、途絶え、マレットのような打楽器的な効果を用い、象徴的な神の坐像を出現させるかのように、何らかの神秘的なシーンを出現させる。さらに続いて、再び、ドローンのシークエンスが続き、終わりなき迷宮に聴き手を導いていく。曲の後半では、ドローンの要素が更に強い割合を占めるが、最後の最後ではクワイアが登場する。ここには、霧や雲の向こうに現れた神話の神々の様子を異教的に伝えようとする。
「Iquelo」は、祝祭的な音楽の印象が強まる。パイプオルガンのような演奏法を用い、その中で、一曲目や二曲目とは対象的に、原始的なアンビエントのシークエンスが敷き詰められ、その音楽の裾野を広げ、音像を拡大させていく。これはたぶん、アンビエントの基本的な構成に近似している。
ところが、一般的な制作者と異なる点は、ドローン音楽の中で、映像や演劇的な要素が登場し、あろうことか、アギラールはそれを音楽だけで体現させようと試みる。この曲では、アジアの民族音楽の要素を積極的に用い、チベット音楽のチベット・ボウルの打楽器的な音響効果を活用し、神秘的な音楽の側面を強調させる。上記のステファン・ミカスは言うに及ばず、同じく、ECMのスティーヴ・ティベッツの傑作『A Man About A Horse』(2002)、もしくは、チベットの僧侶の歌声との共同制作『Cho』(1997)といった異教的な性質を強めていく。
全般的には、心地よい持続音を意識して使用しているが、同時に、ボウド・ギターのようなシンセの音色が配置され、ミステリアスでダークな雰囲気を演出することもある。ここでは、舞台音楽や映像音楽を制作してきた作曲家の強みの部分が現れた形となる。10分以上に及ぶ大作であり、曲のセクションごとに異なる情景が配置される。つまり、この音楽に触れていると、徐々に思い浮かぶ景色が様変わりし、次はどうなるのか、という好奇心を呼び覚ましてくれる。
旋律的な側面の中で、打楽器的な音響効果が登場し、大地の鼓動のような迫力のあるスペクタルに満ちたリズムも現れ、神秘的な音楽の印象を強める。音楽そのものが体験に接近するほど、事物や現象が描かれるにとどまらず、魂の変遷のように神秘的な側面が体現されていく。曲の最後では、途中に登場したチベットボウルを模した音色を用い、民族的で瞑想的な音楽に近づく。この瞬間、聞き手側は音を眺める傍観者ではなく、主体的に捉える体験者に変わるのだ。
個人的に圧倒的に素晴らしいと思ったのが、最後に収録されている「Fantaso」と「Morfeo」だった。表面的に聴くと、一般的なアンビエントとさほど変わりがないように思えるだろう。けれども、すでに述べたように、音楽を単なるパッケージや商品として見ず、未知との遭遇や体験と捉えたとき、この2つの曲の意義はかなり変化してくるように思えてならない。この2つの曲は、主体/客体、制作者/聴取者という従来の音楽の関係性の垣根を取り払う力がある。
とりわけ、前者では、宇宙的な長大な印象を帯びた神秘的な音楽が生み出されている。全般的にはドローンミュージックの形式で、他の曲と同じく、デジタルのシンセを中心に構成される。しかし、感覚的に言えば、ブライアン・イーノの名曲「An Ending(Asends)」に近似する。というか、この曲に最も近づいた瞬間を捉えられる。 個人的な感覚や印象だけで定義づけるのは非常に難しいけれども、つまり、宇宙的な本質を読み取ったような神秘的な一曲なのだ。もちろん、ここには、歌も無ければ、オペラのように感涙にむせぶような美しい旋律も登場しない。
しかし、その中には、エネルギーや波長という観点において、良い性質が感じられる。それが音の分子や粒子のレベルで、澄んだ音調を作り上げている。一般的には、アンビエントと呼ばれている音楽でも、ざわざわした粗雑で荒いエネルギーが見出されることもある。そういったものに触れると、アンビエントや環境音楽から遠ざかってしまったかなと残念に思う。けれども、同曲はクラシック音楽でも稀に聞こえるような調和的なハーモニーが実現されている。
遠くからぼんやり聴いていても、なぜかほんのりと良い気分をもたらす。これが最も理想的な音楽といえるのである。それは、詳しくいえば、感情に訴えかける音楽ではなくて、理性に訴えかける音楽なのである。
音楽の概念を最初に確立したピタゴラスは、オクターヴの法則を発見し、ドミナントとサブドミナントの関連性を数学者として解明するに至った。また、ピタゴラスは、「協和音程の数秘こそが宇宙の秩序を作る」とした。これこそハーモニーの原義である「ハルモニア」の理論の基礎ともなった。また、ピタゴラスは、「理想的な音楽は魂の浄化をもたらす」とも伝えた。このことを考えれば、音楽という分野は神秘的な側面をもたずにはいられないのである。
その点で、「Morfeo」には、ハルモニアの美しさが感じられる。アルバムの冒頭のように霧のような微細な音の空気感を維持しつつ、スティーヴ・ティヴェッツのアンビエントの側面を引き継ぐかのように、エキゾチックな雰囲気を持つ民族音楽の要素を上手く両立させている。途中では水のサンプリングを用い、印象音楽としての性質を決定づけている。さらに、曲の最後では、声楽とシンセサイザーを組み合わせたフレーズも登場し、電子音楽と声楽(クワイア)の混在の側面を強く決定づける。音楽そのものは、徐々に静かになり、無音そのものに近づいていき、最終的には音楽的な世界が遠ざかっていく。これは坂本龍一さんの遺作アルバムの手法に近い。
『Onírica』は、日本語で”夢幻”を意味している。制作者が生み出した電子による幻想的な交響音楽ーーファンタジアーーが一連の目に浮かぶ鮮明な形になり、それが未知の体験となっている点が理想的なのである。
86/100























