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Honeyglaze


 

『Real Deal』は、大きな気分の終わりにため息をつくように届く。それは、白い指の関節、歯ぎしり、生々しく噛まれた爪の翻訳である。しかし、ハニーグレイズのセカンド・アルバムでは、そのすべてに立ち向かい、かさぶたの下に爪を立てている。対立と自信、激しさとカタルシス-これらは、自分たちを再び紹介する準備ができているバンドが、苦労して得た報酬なのだ。


ヴォーカル兼ギタリストのアヌースカ・ソコロウはこう語る。「音楽的には、"どうすればもっと良くなるんだろう?"とファースト・アルバムに反応していたんだ」 サウス・ロンドンから、ベーシストのティム・カーティスと、ドラマーのユリ(ユウリ)・シブウチを迎えて誕生したハニーグレイズは、パンデミックによってゆがんだ奇妙な時代に成長した。シーンを定義するダン・キャリーのレーベル、スピーディー・ワンダーグラウンドによって世に送り出された2022年のセルフタイトル・デビューアルバムは、ソコロウの青春を捉えたものだった彼女は、目を見張るような真摯さと、ウィットに溢れ、クリエイティビティの欠如、厳重に守られた心の砦、不安定なアイデンティティから生まれる下手な散髪やブリーチ・ジョブなど、私たちがむしろ隠したがっている部分をあえて共有する特異なソングライターであることを自ら公表した。しかし、その裏にはちょっと恥ずかしがり屋などこにでもいるような若者の表情を併せ持つ。


ハニーグレイズは、思春期と成人期の間のぎこちない宙ぶらりんの時期に書かれ、デビュー作を作りながらも、自分たちが成長していないことを感じていた。しかし、2サイズ小さいTシャツのようにフィットするサウンドへの創造的な飽きから、急激な成長の時が始まった。『リアル・ディール』の礎は、ツアー後の二日酔いの中、歓迎されない現実世界の中断と、その中でアーティストとして生き残る現実性から導き出されることになった。ヴォーカルのソコロウは別れと引っ越しに苦しんでおり、このレコードはスタジオではなく、彼女の寝室の信頼できる4つの壁の中で書かれた。ソコロウは語る。「このアルバムは、私の人生で最も一貫したもののひとつだったと本当に思うわ。バンドは毎週水曜日に集まってリハーサルを行い、新曲を進化させた。自分たちのパートを掘り下げ、介入することなく本能に従う贅沢な時間を楽しみました」



デビュー・アルバムの歌詞の多くは、誰の耳にも届くことを意図せずにソコロウが書きあげた。しかし同時に、『Real Deal』は多くの人に聴かせるために制作された。グラミー賞にノミネートされたプロデューサー、クラウディウス・ミッテンドルファー(Parquet Courts、Sorry、Interpol)と田舎のレジデンス・スタジオでレコーディングされた本作は、文字通り、そして精神的にも、自分たちのサウンドに新たな次元を探るためのスペースが与えられている。


ミシシッピの老舗レーベル、ファット・ポッサムからリリースされるこのアルバムは、彼らのライブ・パフォーマンスの緊迫感を翻訳したものだ。シブウチのパーカッションは、オープニング・トラックの「Hide」で爆薬のように爆発し、吸い込まれるように着地する。


「歌詞だけでなく、バンドとして、ダイナミクス、歪み、衝撃、感情を通して暗い感情を表現したかった」とカーティスは説明する。


夢を見るとき、その夢の中の誰もが自分でもあるという考えがある。『リアル・ディール』のストーリーテリングは、デビュー作のような自意識過剰なフラッシュから脱却し、成熟した自己認識の到来を告げている。ソコロウは、キャラクターと衣装というレンズを通して書き、まるで司会者のような小話を通して人々の心を探っている。


"コールド・コーラー "は、孤独と断絶の本質について痛切な真実を明らかにしながらも、フィクションの特殊性に傾倒している。蛇行するリズムの中で、ソコロウの語り手は冷やかしの電話とその偽りの関心に夢中になる。彼女は丁寧な苦悩に歪みながら歌う。


"言われたことは何でもする/ひとりじゃないとわかるだけでいい"。


カーティスはこの曲について、こう語っている。「この曲は、完全にダイナミックに反転していて面白い。もしあなたが相手から十分な関心をもらえていないとしたら、その人がどれほど孤独を感じるか想像できる?希望的観測と妄想は、あなたが思っている以上にあなたの現実を決めているのです」


このバンドのストーリーテリングの巧みさは、音楽的な不安定さにもある。ソコロウの歌声は、穏やかな降伏の前に不安の潮流に押し流される。


「プリティ・ガールズ」では、"飲んで、飲んで "と、偽りの陽気さで歌っているが、これは自分が偽者のように感じられる社交の場を乗り切るための自己鎮静マントラである。抑圧された告白が表面化し、音階を滑り落ちていく。でもアルコールは悲しい気分にさせる。そして、中断。音楽は宙吊りになり、ピースが落ちるのを待つ間、お馴染みの吐き気が胃の底で凝り固まる。--Fat Possum



『Real Deal』/ Fat Possum    ロンドンにポストロックのニューウェーブが到来!?

 

あらためて説明しておくと、ポスト・ロック、及び、マス・ロックと言うジャンルは、一般的に米国の1990年代初頭に始まったジャンルである。ピッツバーグのDon Caballero(Battlesの前身で、イアン・ウィリアムズが在籍)、ルイヴィルのSlintなどがその先駆的な存在であるが、これらのジャンルを率先してリリースしていたのがシカゴのTouch & Goである。

 

一般的には、このジャンルは、アンダーグラウンドに属するもの好きのための音楽と見なされてきた。これらは、ワシントンDCのイアン・マッケイのDISCHORDと連動するようにして、ポスト・ハードコアというジャンルを内包させていた。これらのバンドは、最初期のエモコアバンドがそうであるように、Embrace、One Last Wish、そして、Husker Duと同じように、パンクの文脈をより先鋭的にさせることを目的としていた。その延長線上には、Sunny Day Real Estate,Jawbox、Jets To Brazilなどもいる。

 

そして、もう一つ、ロックをジャズとエレクトロニックと結びつけようという動向があり、これらはジャズが盛んなシカゴから発生した。

 

90年代の終わりに、Fat Possumは、Tortoiseの『TNT』というレーベルの象徴的なカタログを発表している。これはとても画期的な作品であって、一般的によく言われているように、ProToolsを宅録として使用した作品だった。これらのプロフェッショナルなソフトウェアをホームレコーディングで活用出来るようになったことが、バンドの未知の可能性をもたらしたのだった。つまり、現在のベッドルーム・レコーディングの先駆的な作品は、『TNT』なのである。

 

 一般的に、ポスト・ロック/マス・ロックというジャンルは、台湾・高雄のElphant Gym、2000年代以降の東京のToeなどを輩出したが、2020年代初めは、米国では下火になりかけていて、「時代遅れのジャンルなのではないか」と見なすような風潮もあったのは事実である。唯一の例外は、ニューヨークのBlonde Redheadで、最新作では最初期のポスト・ロックとしての性質をアヴァンギャルドなポップスと結びつけていた。しかし、これらのジャンルは、海を越えたイギリスで、じわじわと人気を獲得しつつある。その動きは若者中心に沸き起こり、ポストパンクという現在のインディーズバンドの主流が次のものへと塗り替えられる兆候を示唆している。

 

ハニーグレイズに関しては、Bar Italiaのような多彩な文化性を兼ね備えたバンドである。見方を変えれば、Rodanがスポークンワードという新しい表現性を加え、現代に蘇ったかのようである。デビューアルバム『Honeyglaze』では、どういったバンドになるのかが不透明であったが、ミシシッピのファット・ポッサムへの移籍を良いきっかけとして、より洗練されたサウンドへと進化している。なぜ、彼らの音楽がシックになったのかと言えば、新しい音楽性を手当たり次第に付け加えるのではなく、現在の三者が持ちうるものをしっかり煮詰めているからである。

 

先行シングル「5-Don't」のミュージック・ビデオでは、表向きのフロントパーソンのアヌースカ・ソコロウの人物的なキャラクターを押し出しているが、アルバムを聞くと、予めのイメージは、良い意味で裏切られることになるだろう。それらのセンセーショナルなイメージはブラフであり、全体的には紳士的なサウンドが貫かれ、本能的なサウンドというより、個人的な感覚を知性により濾過している。ソコロウは、フロントウーマンとしての存在感を持ち合わせているのは事実あるが、ハニーグレイズのサウンドの土台を作っているのは、ドラマーのユリ・シブウチ、そしてプログレやジャズのように和音的なベースラインを描くティム・カーティスである。

 

シブウチのドラムは傑出している。ジャズの変拍子を多用し、バンドの反復的なサウンドとソコロウのボーカルやスポークンワードに、ヴァラエティをもたらす。いわば、反復的なボーカルのフレーズ、ルー・リード調の語りが淡々と続いたとしても、飽きさせることなく、曲の最後まで聞かせるのは、シブウチのドラムがヴォーカリストの語りや声のニュアンスの変化、及び、ベースの小さな動きに応じ、ドラムのプレイ・スタイルを臨機応変に変化させるからだろう。


「しなやかで、タイトなドラム」と言えば、感覚的に過ぎる表現かも知れない。しかし、華麗なタムの回し方、スネアの連打で独特のグルーヴをもたらす演奏法は、ドラムそのもので何かを物語るような凄さが込められている。ユリ・シブウチは、ロンドンでも随一の凄腕のドラマーと言っても誇張表現ではないかもしれない。彼のプレイスタイルは、まるで、ロックからジャズ、ソウルまでを網羅しているかのように、曲の中で多彩なアプローチを見せる。その演奏法の多彩さは、彼がその道三十年のベテラン・プレイヤーではないかと錯覚させる瞬間もある。

 

アルバムとしては、2つのハイライトが用意されている。それが、オープニングを飾る「1-Hide」と「5-Don't」である。


前者はダンサンブルなビートとポストハードコアの過激なサウンドを融合させ、アルバムの中では最もアンセミックな響きが込められている。また、現代的なティーネイジャーの悲痛な叫びが胸を打ち、センシティブな表現が込められている。しかし、フレーズの合間に過激な裏拍を強調するシンコペーションを用いたドラムが、クランチなギター、オーバードライブを強調させるベースが掛け合わされ、強烈な衝撃をもたらす。いわば、イントロの上品さと洗練された繊細な感覚が、これらのポストハードコアに依拠する過激なイメージに塗り替えられていく。


後者は、ソコロウがデスティニーズ・チャイルドの曲を基にリフを書き上げたところから始まった。マスロックの数学的な変拍子を織り交ぜ、クリーントーンのアルペジオのギター、ファンクの性質の強いベース、シアトリカルな印象を持つソコロウのボーカルがこの曲を牽引していく。不協和音を生かしたギターが雷のように響きわたり、リリックではマスメディアへの嫌悪感や戸惑いが示されていることは、下記のミュージック・ビデオを見ると明らかである。

 

 

「Don't」

 

こういったセンセーショナルな印象をもたらす曲の周りを取り巻くようにして、現行のオルタナティヴ・ロックをスポークンワードと結びつけるような曲も収録されている。「2-Cold Caller」は、ソコロウの自分の性質を皮肉的に嘆く曲で、いわば本来は避けるべき人との恋愛について書かれている。いずれにしても、この曲は、「Don't」のような曲と比べると、それほど激しいアジテーションに嵌ることはなく、どちらかと言えば、落ち着いたオルトフォークのような空気感が重視されている。牧歌的とまではいかないが、一貫して穏やかな気風に縁取られている。そして、ソコロウのボーカルは冒頭部と同様に、シアトリカルな雰囲気を漂わせている。

 

同じように、「3-Pretty Girls」、「4-Safty Pins」は、スポークンワードをオルタナティヴロック寄りのサウンドと結びつけているが、それほど過激な印象はなく、やはりクリーントーンを用いた落ち着いたギターのアルペジオと、ルー・リードの系譜にあるソコロウの語りが温和で平和的な雰囲気を作り出している。そして、シンセサイザーやギターのアルペジオ等、多彩なニューウェイブサウンドを踏襲し、全体的にはヴェルヴェッツのような原始的なロックサウンドが貫かれている。リードの作曲と同じように衝動的な若さと知性を共存させたような音楽である。

 

現在のオルタナティヴ・ロックは、二次的なサウンド、三次的なサウンドというように、次世代に受け継がれていくうち、その本義的な何かを見失いつつある。ルー・リードの作曲に関しては、昨年リリースされたリードのアーカイブ・シリーズを見ると分かる通り、東欧のフォーク・ミュージックというのが、プロト・パンクの素地を形成したことを証明付けていた。 主流の地域にはない「移民の音楽」、これこそがオルタナティヴ・ロックの「亜流の原点」でもある。

 

これらが、元々は億万長者の街であり、第二次世界大戦後にイギリスの駐留軍が縄張りを作り、ニューヨーク警察の代わりに同地を自治していたローリンズ・ストーンズの親衛隊''ヘルズ・エンジェルズ''をはじめとするアウトサイダーの街ーーバワリー街の移民的な要素を擁する音楽家の思想と掛け合わされ、ニューヨーク・パンクの素地が築き上げられていったのである。

 

つまり、パティ・スミス、テレヴィジョンのような存在は、単なるニューヨーク的な音楽というよりも、どことなくユーラシア大陸の音楽的な要素を持ち合わせていた。ハニーグレイズもまた同様に、表面的なパンクやロックの性質に順応するのみならず、これらのジャンルの原点に立ち返るようなサウンドを主な特色としている。それはまた、Dry Cleaningのボーカリストで美術研究者でもあるフローレンス・ショーのスポークンワードとの共通点もあるかもしれないが、「詩や文学的な表現の延長線上にあるパンクロック」という要素を、現代のミュージシャンとして世に問うというような趣旨が込められている。続く「6-TMJ」は、パティ・スミスの詩や文学性をどのように現代のミュージシャンとして解釈するのか、その変遷や流れを捉えられる。

 

上記のような原始的なオルタナティヴロックバンドの要素と合わせて、次世代のポスト・ロックバンドの性質は続く一曲に表れ出ている。「7-I Feel It All」は、イントロの幻想的なサウンドを基にして、MOGWAIを彷彿とさせるスコットランドのポスト・ロックを素朴なソングライティングで縁取っている。内的な苦悩を吐露するかのようなシリアスな音の運びは、やはり、このバンドの司令塔であるシブウチのダイナミックなスネアとタム、そしてシンバルによって凄みと迫力を増していく。また、一瞬、ダイナミクスの頂点を迎えたかと思うと、そのとたんに静かなポスト・ロックサウンドに舞い戻り、まるでドーヴァー海峡の荒波を乗り越えるかのような寂寞としたギターロックが立ち現れる。ボーカルそのものは暗澹とし、また、霧のようにおぼろげでぼんやりとしているが、音楽的な表現として弱々しくなることはない。バンドとしてのサウンドは強固であり、そして強度のあるリズム構造が強いインスピレーションをもたらす。何かこの曲には最もハニーグレイズの頼もしさがはっきりと表れ出ているような気がする。

 

こういった強い印象を持つ曲も魅力であるが、同時に「8-Ghost」のような繊細で優しげなインディーロックソングも捨てがたいものがある。この曲のサウンドには、80年代のポピュラー・ミュージックの要素が含まれているらしく、それらが少しノスタルジックなイメージを呼び起こす。繊細なボーカリストとしての姿は、この曲の中盤に見出だせよう。音楽的には地下に潜っていくような感覚もありながら、その暗さや鬱屈した感覚のボーカルは、癒やしをもたらす瞬間もある。そして、ポピュラーに依拠した音の運びやリズムは使い古されているかもしれないが、何らかの親近感のようなものを覚えてしまう。これらはジュークボークスから聞こえてくる懐かしい音楽のように淡い心地よさをもたらす。珍かなものだけではなく、スタンダードなものが含まれているという点に、ハニーグレイズの最大の魅力があるのかも知れない。

 

 

 「Ghost」ーLIVE

 

 

 

終盤の三曲では、やはり現在の持ち味であるポスト・ロック的なサウンドに立ち戻る。その中には、Rodanのようなアート・ロックの要素もあり、また、以降の年代のオルタナティヴフォークや、スロウコアのような音楽性も含まれている。これらの音楽が聞き手をどのように捉えるのかまでは明言しかねる。しかし、現行のポストパンクバンドやスロウコアバンドとは相異なるものがある。それはデモソングのような趣がある「9-TV」を聞くと分かる通り、ソコロウの演劇的なボーカルとスポークンワードに依拠したボーカルのニュアンスにある。そしてそれらは、繊細でエモーショナルであるがゆえ、静と動を交えた対比的なサウンドが琴線に触れるのである。また、この曲のシブウチさんのリムショットの巧みなドラムプレイは、この曲の持つ純粋なエネルギーとパッションを見事に引き上げている。これらのサウンドは、決して明るくはないけれど、しかし、その音楽的な表現が純粋で透徹しているがゆえ、清々しい余韻を残す。 

 

 

セリエリズムの不協和音という側面では、Rodan、June of 44には遠く及ばないかもしれない。しかし、それは、このアルバムが一部の人のためだけではなく、広く聞かれるために制作された事実を見ると明らかではないか。 前曲の若さと無謀さを凝縮させたアヴァンギャルドなアウトロが終わると、ストームが過ぎ去った後のように、静かで重厚感のあるサウンドが展開される。

 

タイトル曲「10−Real Deal」は、聞き手の意表をつくかのように、現代的なアメリカーナとフォークロックの融合させたサウンドが繰り広げられる。それらはローファイの元祖であるGalaxie 500、Sebadohの系譜にあるザラザラした質感を持つギターロックとも呼べるかもしれない。しかし、カットソーの粗や毛羽立ちのようにザラザラしたギターラインは、やはり、単に磨きが掛けられ洗練されたロックソングよりも深く心を揺さぶられるものがある。もちろん、それがなぜだかは分からないが、自分が過去にどこかに置いてきた純粋な感覚を、この曲の中に見出す、つまり、カタルシスのような共感性をどこかに発見するからなのかもしれない。 

 

アルバムは深い領域に差し掛かるかのように、瞑想的なギターロックで締めくくられる。「11−Movies」は、ハニーグレイズのバンドとしての新しい境地を開拓した瞬間であり、なおかつアヌースカ・ソコロウがボーカリストとしての才質をいかんなく発揮した瞬間でもある。この曲は、90年代のグランジの対抗勢力であるニューヨークのCodeineのようなサウンドを復刻させている。


しかし、それらは単なる静と動の対比ではなく、マスロックの多角的なリズムや変拍子という、これまでになかった形式を生み出している。これらは、ロック・オペラやプログレッシヴ・ロックの次なる世代の音楽なのであり、また、ボーカルは演劇的な性質を持ち合わせている。別の人物になりきるのか、それとも自分の本来の姿を探すのか……。多くのミュージシャンは、多くの場合、本来の自分とは別の人間を俳優や女優のように演ずることで乗り切ろうとする。しかし、ソコロウの場合はむしろ、どこまでもストレートに自分自身の奥深い側面を見つめることにより、的確かつ説得力のあるスポークンワードやボーカルのニュアンスを見出している。ある意味では、そういった自分自身になりきることを補佐的に助けているのが、彼女の友人であるドラマーのシブウチさんであり、また、ベーシストのカーティスさんなのである。

 

そして、バンドサウンドの醍醐味とは感覚的で、編集的な音楽性に寄りかからずに、サウンドに一体感と精細感があること、そして、その人達にしか生み出せないエナジーを的確に表現しているということに尽きる。もし、一ヶ月後に同じ音楽を録音しても、まったく同じものにはならない。


そういった側面では、『Real Deal』はバンドのスナップショットというよりも、生々しい三者の息吹を吸い込んだ有機体である。もちろん、それは三者の卓越した演奏技術を基に作り上げられていることを補足しておきたいが、その瞬間にしか出せない音、その瞬間にしか録音出来ない音を「レコード」という形に収めたという点では、アメリカン・フットボールのデビューアルバム『LP1』のような作品であり、これはファット・ポッサムの録音技術の大きな功績と呼ぶべきだろう。


マス・ロックの緊張感のあるサウンドを経た後、本作の最後では最もセンチメンタルでナイーヴな瞬間が現れる。これは実は、人間的な強さというのは、強烈な性質を示すことでなく、自分自身の弱さを認めたりすることで生ずることを暗示している。完璧な人間はどこにも存在しないことに気づくこと、弱さをストレートに見つめ、肯定出来たことが、アルバム全体のサウンドを清々しくしている。今作を聴き終えた後、涼しげな風が目の前を足早に駆け抜けていくような余韻が残る。2024年度のオルトロックの最高峰のアルバムと言っても誇張表現ではないだろう。

 

 

 

 

 90/100

 

 

 

 

「Cold Caller」ーLIVE

 


 

Honeyglazeのニューアルバム『Real Deal』 は、Fat Possumから本日(9月20日)に発売。アルバムのストリーミングはこちら

 Sarah Davachi



 サラ・ダヴァチ(1987年カナダ生まれ)は、テクスチャー、倍音の複雑さ、音響心理現象、チューニングとイントネーションの緩やかな変化を強調するために、長時間の持続と考慮された和声構造を利用し、音色と時間空間の密接な複雑さに関心を寄せる作曲家であり演奏家である。


 彼女の作曲は、ソロ、室内アンサンブル、アコースティック形式と多岐にわたり、アコースティック楽器や電子楽器を幅広く取り入れている。 ミニマリズムやロングフォームの信条、フォルムやハーモニーに関する初期音楽の概念、スタジオ環境における実験的な制作手法からも同様に影響を受けており、彼女のサウンドは、忍耐強い体験であり、慣れ親しんだものや遠いものに対する知覚を緩和する。


 高く評価されている彼女のレコーディング作品に加え、ダヴァチは、エレン・アークブロ、オーレン・アンバーチ、グルーパー、タシ・ワダ、ロバート・アイキ・オーブリー・ロウ、シャルルマーニュ・パレスティン、映画監督ディッキー・バトなどのアーティストとともに、幅広くツアーを行っている。 委嘱作品には、クアトゥオール・ボッツィーニ、ロンドン・コンテンポラリー・オーケストラ、ヤーン/ワイヤー、アパートメント・ハウス、ゴースト・アンサンブル、ワイルド・アップ、室内合唱団アイルランド、BBCスコットランド交響楽団、ラジオ・フランス、コンテンポラリー・アンサンブル、チェロ八重奏団アムステルダム、カナダ国際オルガン・コンクール、ウェスタン・フロントなどがある。 彼女の作品は、サウスバンク・センター(ロンドン、イギリス)、バービカン・センター(ロンドン、イギリス)、コントラクラング(ベルリン、ドイツ)、INA GRM(パリ、フランス)、イシュー・プロジェクト・ルーム(ニューヨーク、アメリカ)、ランポー(シカゴ、アメリカ)などで国際的に紹介されている。


ーー2022年から2024年にかけて作曲されたこのアルバムに収録された7曲は、コンセプチュアルな組曲を形成し、通過行為を理解するために構築される精神的なダンス、私たちが交わり、記念し、象徴を表象を超えた世界に持ち帰る方法を観察している。


この目的のために、『THE HEAD AS FORM'D IN THE CRIER'S CHOIR』は、古代ギリシアのオルフェウス神話への2つの言及に取り組んでいる。1922年に発表されたライナー・マリア・リルケの詩集『オルフェウスへのソネット』と、1607年に発表されたクラウディオ・モンテヴェルディのバロック初期のオペラ『オルフェオ』である。


オルフェウスの神話は、妻エウリディーチェの死によって悲しみに打ちひしがれた音楽家が、死者の神に彼女の帰還を説得するため、黄泉の国へと下っていく物語である。その道すがら、オルフェウスは竪琴から奏でる深く嘆き悲しむ音楽で、彼の行く手を阻む者たちを誘惑する。ハデスは承諾するが、ひとつだけ条件がある。オルフェウスは、ふたりが再び生者の世界に戻るまで、エウリュディケを振り向かせないこと。驚くなかれ、二人が地表に近づくにつれ、オルフェウスは不安を募らせて、振り向いて背後にいるエウリュディケの存在を確認する。そしてオルフェウスは、死が自分を連れ去ってくれるようにと歌う。マエナドの一団によってようやく願いが叶ったオルフェウスは、切り離された頭部と竪琴を川に流し、悲痛な歌を歌い続ける。


長年、私はスタジオでの練習とライブ・パフォーマンスの練習を大きく分けようと努めてきた。


このアルバムには4つのパイプオルガンが収録されている。イタリア、ボローニャのサンタ・マリア・デイ・セルヴィ教会にある、1968年にタンブリーニによって製作された機械式アクション楽器、フィンランド、ヘルシンキのテンペリアウキオ教会にある、1969年にヴェイッコ・ヴィルタネンによって製作された電気式アクション楽器; ジョン・ブロムボーが1981年に製作した機械式アクション楽器(アメリカ、オハイオ州オバーリンにあるオバーリン・カレッジのフェアチャイルド・チャペルにある)、そしてアリスティド・カヴァイエ=コールが1864年に製作した機械式アクション楽器(フランス、トゥールーズのゲス教会にある)。


『THE HEAD AS FORM'D IN THE CRIER'S CHOIR』に収録されているオルガン曲は、楽器のペダルに重きを置いており、ほとんどの楽器が持つ機械式トラッカー・アクションによって可能になったテクスチュアのバリエーションにも注目している。


特に、桜美林大学のブロムボー・オルガンは、17世紀初頭に設計されたオルガンに典型的な平均律の使用と、拡張された平均律におけるエンハーモニック等価性の欠如に対応するスプリット・アクシダメンタル・キーの使用の両方において、特に有意義な作曲の機会を与えてくれた。「Possente Spirto」は、『オルフェオ』のアリア「Possente spirto, e formidabil nume」に対する緩やかな概念的言及である。モンテヴェルディ版と同様に、私の作品も弦楽器と金管楽器の使用を強調し、それらが出入りする特定の順序を守り、一種の通奏低音の枠組みも取り入れている。私はそこから離れ、ゆっくりと動く和音進行に焦点を当てることにしたーー Sara Davachi 



『The Head As Form​’​d In The Crier​’​s Choir』/ Late Music  --ギリシャ神話に対する概念的言及、時間のない無限のドローン音楽--




 

 

ロサンゼルスのSarah Davachi(サラ・ダヴァチ)の最新作『The Head As Form​’​d In The Crier​’​s Choir』はいわゆるドローンミュージックの傑作であり、一般的なアナログシンセやプロデュース的な作品とは異なり、コンテンポラリー・クラシカルのライブ録音に近い作品となっている。

 

2022年には、スウェーデンのKali Malone、2023年には、ロサンゼルスのLaurel Halo、カナダのTim Hecker、そして、すでに今年、トルコからEkin Fil、カナダのLoscilの傑作が出ている。Sara Davachiの最新作は、それに続く前衛音楽の注目作ということになる。上記の作曲家を見て分かることは、カナダのティム・ヘッカー、ロスシルを除けば、ドローンミュージックは、女性中心によるウェイヴであること、そして、全般的には、いずれの作曲家も対外的な評価を度外視し、長期間にわたって辛抱強く音楽作品を作り続けてきたことである。

 

長い期間、女性のアーティストが正当な評価を受けてこなかったことは、すでによく知られていることであり、社会的な風潮としては致し方ない側面もあったかもしれないが、近年、優れたエレクトロニック・プロデューサーが登場し、男性優位であったこれらのシーンに一石を投じていることは喜ばしく、時代の流れを反映しているといえるだろう。クラシックでいえば、クララ・シューマン以外、ほとんど著名な女流作曲家が出なかったこと、長い間、男性優位のヨーロッパ社会において、女性が芸術家として正当な評価を受けるまでに数世紀を要したことへの反動や揺り戻しであり、また、それらの不均衡であった秤が、21世紀になり、まっすぐつまり直立に戻ったことを意味している。加えて、功利主義に陥りがちな男性音楽家とは明らかに異なり、女性の作曲家には、じっくり腰を据えて制作を行う、胆力や精神力が備わっている。男性というのは、元をたどれば、農耕民族以外は狩猟や漁をしなければならなかったため、目移りしたり落ち着きがないものである。私自身は、フェミニストというわけではないのだが、どうやら忍耐強さという側面では、女性の作曲家の方が上手のようである。それは「世間的な評価」という男性的な基準とは別に「内的な評価を重視する」という側面が、女性には備わっているのではないかと推測される。その反面、どうしても男性の作曲家は社会的な生き方を長い間強いられてきたので、外面的な評価という基軸から容易には逃れられないのである。

 

サラ・ダヴァチは、特に上記の傾向を象徴付けている。2010年代始めにエレクトロニックプロデューサーとして登場したときは、取り立てて「派手な音楽家」というわけではなかった。しかし、2015年頃からモダン・クラシカルの作風を従来のシンセを中心とする電子音楽の作風に取り入れ始めたころ、何かが劇的に変わりはじめた。2022年には傑作「Two Sisters」を発表し、ドローン・ミュージックの象徴的な作曲家になりつつある。2015年頃から、クワイアの導入に加え、パイプオルガンの演奏を重視してきた。特に、ダヴァチの中世ヨーロッパの楽器に対する好奇心は尋常ではない。まるで彼女の前世が中世ヨーロッパの器楽家であったか、もしくは、調律師であったかとおもわせるほど。ダヴァチは、イタリアの古い時代のベルを導入したり、作曲家、演奏家という二つの表情と合わせて器楽研究家の性質を持ち合わせている。そして、今回の新作アルバムでは、イタリアの中世の楽器を始めとする、4つのパイプオルガンが演奏に導入されている。その中には、日本の桜美林大学の鍵盤もある。まさに、世界中の楽器の蒐集、そして、それらの展覧会とも呼ぶべき内容の豊富さである。4つもパイプオルガンを使用する必要があったのか、と思うかもしれないが、実際の録音を聞けば分かる通り、それ以上の価値がある。このアルバムはまるで、倍数以上のオルガンを使用したような重厚な作風で、その中にはバッハのミサ曲を思わせる心痛な面持ちを持つ楽曲もある。

 

ギリシア神話のモチーフは、このアルバムに度々登場し、それはリヒャルト・ワーグナーの歌劇のライトモチーフのような働きをなし、「妻エウリディーチェのために黄泉の国に下る」という、恐ろしくもロマンチックな物語の主人公の実際的な行動が「トーンが少しずつ下降していくドローンの通奏低音」に明瞭に表れ出ていることがわかる。このドローンによるライトモチーフは何度も出現し、上記のギリシア神話のロマンティックな物語性をペーソスや悲哀のような感情性で縁取っている。例えば、Sub Popのナタリー・メリングは、ナルキッソスの物語をポピュラー音楽という側面において散りばめたことがあるが、ダヴァチの場合は、ドローン音楽により、黄泉の国に下るというミステリアスな物語を体現させようと試みる。その一方、制作者は、モンテヴェルディの「オルフェオ」にも言及しているが、これらは作品の効果や表情付けのようなものに過ぎないと推測される。イタリアン・バロックに欠かさざる音階的な優雅さや嫋やかさはほとんど登場せず、一貫して、JSバッハのミサ曲やマタイ受難曲のような宗教曲を彷彿とさせるパイプオルガンの重厚な和音構造、そして、別の鍵盤による通奏低音、ないしは弦楽器、金管楽器といった副次的な器楽が、主流となるパイプオルガンに異なる倍音の性質を付け加える。

 

ドローン音楽は、基本的には複数のポリフォニーで構成され、パレストリーナ様式の教会音楽のように、あるいは、JSバッハの6声部の対旋律のように、独立した主旋律を他の旋律が強化するような形で展開される。しかし、基本的には、主旋律は存在せず、副次的な旋律もまた主旋律の役割を持つという点で、カウンターポイントの新しい形式の一つでもある。これらの基本的な構成に加えて、倍音の性質が加わる。つまり、今回、ダヴァチ教授(彼女は本当に講義を学生に対して行うことがある)がわざわざ4つの異なる時代のパイプオルガンを使用したのには理由があり、楽器の音響学としての異なる性質をかけ合わせ、特異な倍音を重ね、独特なハーモニーや調和を求めようというのが、このアルバムの制作の主な動機ではなかったかと思われる。実際的に聞けば、分かるように、『The Head As Form​’​d In The Crier​’​s Choir』は異なる独立した声部と、別の性質を持つ和音が織りなす長大なハーモニーによる作品と称せるかも知れない。 



 

重要なことは、このアルバムは単なる電子音楽ではなく、モダンクラシカルという側面に焦点が絞られ、また、ミサ曲のような本格的な儀式音楽の性質が色濃い。同時に、ライブレコーディングの性質が強調されている。本作のオープナー 「Prologo」は、厳かなパイプオルガンの演奏で始まる。以前の作風と明らかに異なる点は、低音域が強調され、実際的に、鍵盤楽器の低音部の和音構造が重視されている。これが音楽的な気風として重厚な感覚を付与し、さらには厳粛さ、敬虔さ、宗教音楽の重要な動機である「頭の上にある存在に対する畏れ」を明瞭に体現させるのである。ときどき、AIの文明が発展したことにより、人間は過度に傲慢になったり、他者に対する配慮を見失うことがあるが、この序曲では、中世の時代にはたしかに存在した人間的な感覚の発露、そして、生命の動機、あるいはその緩慢な変遷、さらには人間的な本質がスピリットにあること、そういった現代文明の中で多くの人々が見失った真実を思い出させ、現実を虚像のように映し出し、その向こうに幻想的な古典性ーーギリシア神話の「オルフェウス」の竪琴の物語を立ち上げる。これらの映像的な音楽の効果は、間違いなく、ダヴァチさんのアカデミックな学識が明確に反映されている。これはまた、20世紀までは、女性が教育の中で抑圧されてきた史実を鑑みると、いよいよ女性的な知性が活躍する時代が到来したという風潮を把捉出来る。また、音楽的な側面でも、この序曲は、マスタリングの素晴らしさが際立ち、重厚感のあるサウンド、360度のサラウンド・システムで試聴するような音の奥行き、そして、全体的な音の艶やかさと、独立レーベルでこのようなハイクオリティの音質を生み出したことは、信じがたい偉業といえる。一貫して通奏低音が強調されるという側面では、現行のドローン音楽との共通項も多いが、他方、7分50秒からの別の鍵盤楽器による不協和音の追加は、独特な倍音を発生させ、音楽を可視化されたデータではなく、「生きた流動体」のように鋭く変化させる。つまり、音楽そのものが、生命としての息吹を与えられ、動き始め、そして、組み上げられたギリシア神話の物語の中を動き出す。そして、古典的なもの、現代的なものがたえず交錯するかのように、複数の次元から、あるいは、複数の地点から、旋律という光を照射し、見果てることの叶わぬ一大的なエネルギー体を構築していく。最早、この序曲の段階において制作者は、音楽が単なるデータでもなければ、マテリアルでもないことを確知し、生きた有機体としての役割を司ることを明示してみせる。


現実的な側面を反映させるでもなく、幻想的な側面を反映させるわけでもない。此岸から見た音楽は多数存在するが、彼岸から見た音楽というのはあまり前例がない。サラ・ダヴァチの音楽は、主観の音楽ではなく、客観の音楽である。「Possente Spirito」 では、2010年代から追求してきたモジュラーシンセの演奏を竪琴に見立て、簡素な分散和音をモチーフに、その後、通奏低音を挟み、アルバムの音楽は一連の流れを形作りはじめる。金管楽器の通奏低音、ないしはドローン音楽の範疇にある前衛的な手法は、このジャンルが当初、スコットランドのバクパイプの音響の発展から始まったことを思い起こさせる。つまり、鍵盤楽器ではなく、吹奏楽器から始まったのがドローンの形式である。ラ・モンテ・ヤング、ヨシ・ワダの最初期の作風を踏襲した上で、ダヴァチは祭礼時の儀式的な音楽、哀悼の意味を持つ宗教音楽を現代に復刻させる。これらはミニマル音楽の系譜、そして、ドローンの系譜という二つの視点を基に、音響学の可能性、次いで金管楽器の倍音の可能性という未知なる領域を切り開こうとするのである。

 

 

特に、パイプオルガンの楽曲、見方によれば鍵盤楽器による協奏曲のような意味合いを持つこのアルバムの音楽性が最も重力を持つ瞬間が「The Crier's Choir」、そして続く「Trio For A Ground」の2曲となる。前者は、古典的なイタリアンバロックやバロックの形式を基にして、重厚な通奏低音によって建築学的な構造を持つ前衛音楽を作り出す。そしてレビューの冒頭でも述べたように、複数の異なる鍵盤楽器の持つ倍音の特性が、(それは機械としての性質でもある)、ドローン音楽の重要な特徴であるイントロでは想像しえなかった音響学の構造変化、及び、倍音や音調の微細な変遷を、制作者が意図するギリシア神話の物語という動機を通じて敷衍させていく。この曲では、少なくとも、2つか3つのパイプオルガンの演奏が取り入れられているようだが、それは続く「Trio For A Ground」と同じように、ニューヨークの現代音楽家、モートン・フェルドマンの「Rothko Chapel」のようなドローン音楽の原点へと回帰していく。フェルドマンは、テキサスの礼拝堂の委嘱作品として「Rothko Chapel」を制作したが、同時に、これはアート作品を展示するための環境音楽の意味合いも込められていた。そして、世界で最初のインスタレーションは、間違いなく、モートン・フェルドマンの代表作だったのである。これらの現代音楽の系譜に準ずるかのように、ダヴァチは、ギリシア神話の黄泉の国への下りをテーマとし、漸次的に下降するドローンを複数重ね合わせ、圧巻の音響空間を物語に添える。「目的のための音楽」とも言えるが、結局、最後の演奏を終え、鍵盤楽器から手を離すとき、通奏低音が減退する瞬間に、演奏者として痛切な思いが込められ、音の停止、それはとりもなおさず、音楽に対する控えめな態度が、敷き詰められた音の連続に癒やしと安らぎをもたらす。もし、そうしていなければ、音楽という得難い化け物に飲み込まれていたかもしれない。

 

後者の「Trio For A Ground」は、中音域から高音域を強調する前曲と比べると、低音域を徹底して強調した厳粛な面持ちを持つパイプオルガンによる独奏曲とも言える。特に、平均律を基にした変則的な調律は、目の前に巨大な塑像のようなものが出現するかのごとき圧倒的な印象を受ける。それはギリシア神話というよりもダンテの神曲の地獄の門に入る時の作者の畏れのような感覚にも似ている。しかし、この曲では、2010年代中盤に、制作者が実験的に導入していた女性のクワイアが加わることにより、神話としての音楽的な動機を想起させ、そしてその枠組みの中で、幻想的な音楽の性質や、ミステリアスな感覚がありありと立ちのぼってくる。聞き方によっては、RPGの音楽や映画のワンシーンの効果的な音楽によるストーリーテリングの要素を持ち合わせ、アルバムの中盤の重要なハイライトを形成している。そして、ランタイムごとに、曲の表情は変化していき、暗鬱さ、神秘さ、神々しさ、そして精妙さ、透き通るような感覚、濁るような感覚、重苦しさ、悲しさ、そういった数しれない感情性の物語が、二人のギリシア神話の主人公のライトモチーフのような役割をなしている。また、曲の途中から加わる弦楽器のドローン、その上に微細に重ねられる高音部のパイプオルガン、複数の声部が幾つも折り重なり、増幅と減退を繰り返しながら、音響の持つ表情を変化させる。また、8分後半に出現するノイズは、まるで彼岸と此岸を隔てる幕のように揺れ動き、音楽的な効果は最高潮に達する。特筆すべきは、これらの音調の変容やドローン音の変遷は、抑揚的に高まると抑えられ、抑えられると高められるというように、一貫して、抑制と均整が取れ、必要以上にラウドになりすぎることもなければ、それとは反対にサイレンスになりすぎることもない。いわば、黄泉の「中つ国」の性質を反映させるかのように、中間領域の音楽としての性質を維持しつづける。そして、それらは、演奏者が明確に意図したアクセント、クレッシェンドやデクレッシェンドという手動による音響的な効果によって組み上げられる。これが最終的に、コントラバス、コントラファゴットの音域を強調するパイプオルガンの重厚な通奏低音により、物語の核心に迫る情景が暗示される。そして、前曲と同様、サラ・ダヴァチは、11分から12分にかけて、フェルドマンの「Rothko Chapel」のような霊妙なドローンを、パイプオルガンの複数の声部によって完成させる。間違いなく、現代の前衛音楽の至高の瞬間をこの一分間に見いだせるはずだ。音楽の正体が振動体であること、ウェイヴ、周波数であることは、この一分間で明示されている。実際的に、この曲は次の世紀に語り継がれてもおかしくない実験音楽である。

 

 

以降の2曲は、ダヴァチ教授の古典的なアートに対する趣味が色濃く反映されている。というのも、サラ・ダヴァチさんは古典的なヨーロッパ絵画にかなり熱心であり、それらの蒐集をしているかどうかは定かではないが、少なくとも、バロック主義の古典絵画のような世界を音楽により表現したいという欲求は、常日頃から持ち合わせているはずなのだから。これらの古典的な芸術に対する親しみは、「Res Sub Rosa」では、バロック主義のミサ曲のような形式をパイプオルガンで体現させ、他方、「Constants」では、イタリアン・バロックの宗教音楽のような古典的な世界観を構築する。これらの2曲は、音楽的な方向性としてマンネリズムに陥る場合もあるが、全般的には少しだけ重苦しくなりがちな作風に、ウィリアム・ターナーが描いた古典的なローマの情景のような安らいだ感覚や優雅な感覚を体現させる。それは現代人としての古典に対する憧れであり、また、それらのヨーロッパの苦難多き歴史の基底にある文化的な奥深さや多彩さに対するロマンチシズムを、厳粛なパイプオルガンの独奏で表現しているといえる。惜しむらくは、クラシック音楽のアリアのような優雅な声やクワイアが登場しなかったことが、作品全体に単一的な印象を及ぼしている。ただ、それとて、聞き手が制作者の手の内に転がされているに過ぎず、アートワークのモノトーンの体言化という制作者の意図の範疇にあるものなのかも知れない。しかし、最終盤に向けて、あちこちに拡散していたもの、あるいは、無辺に散らばっていたものが集まり、一つの中心点にゆっくり向かっていくような不思議な感覚、そして、先にも述べたように、音楽そのものが生きた有機体のようの蠢き始め、また、その果てに教会の鐘の残響のような余韻が残されていることが、何かしら遠いヨーロッパの異国を旅したときや、その土地土地で、まったく聞き慣れない異教の鐘の音をふと耳にするときのエキゾチズムを反映させている。制作者は、古典的なテーマに焦点が絞られていると指摘しているが、もしかすると、現代的な社会の気風や混乱など、副次的な主題も取り扱われているのかもしれない。少なくとも、この曲は最もモダンでアーバンな印象を持つ前衛音楽である。

 

 

続く「Constants」は、金管楽器で構成されるドローン音楽で、通奏低音を重視していることは事実だが、同時に、倍音を基に構成されるハーモニーにも焦点が置かれていることが分かる。これらは音楽的な効果として、本来は、なしえないはずの古典的な時代への旅、あるいは私達が生きていない時代への蘇り、また、その空想の空間の中で生きること、こういった普通では考えられないような音楽の醍醐味を体現させる。それは物語を見る第三者の視点が突如として登場したことを表し、メタ的な構造の変化を及ぼす。器楽的な観点から言えば、金管楽器の通奏低音の増幅、及び減退は、厳粛な音楽というアルバム全体のテーマを力強く反映させている。そして全体的な構成から言うと、この曲は、終曲にむけての布石や連結部のような役割を司る。主題と副題がたえず交差するようにし、このアルバムの音楽はクライマックスへと向かう。

 

終曲「Night Horns」は、基本的には、2つのパイプオルガンを中心に構成される。しかし、この曲では、日頃あまり指摘されないパイプオルガンの吹奏楽器としての音響的な性質が色濃く立ち現れる。撥音は鍵盤、音響効果はペダルであるが、出力はパイプ、つまり吹奏であるという音響学的な性質は、実際的に聞き手を音楽の最深部へと誘う力を持ち合わせている。最も和声構造の性質が強調され、それはやはり一貫して、ミニマル・ミュージックの次世代の音楽であるドローン・ミュージックという形式の範疇にあるが、和音の構成音の一音を丹念に、そして辛抱強く動かすことにより、音の流動性やうねりを作り出し、それらを建築物のような圧倒的な印象を持つ構造体へと作り上げる。それは、作曲のモチーフが上手く運び、ギリシア神話の物語のクライマックスを暗示しているのかもしれない。また、それは、人類史の無限への憧憬を表すバベルの塔の建築を思わせ、聞き手の興味を現実の世界から神話の世界へと接近させる。ある意味では、古典性と現代性という、2つの対極的なテーマを結びつけ、呆れるほど強度の高いドローン・ミュージックを構築したことに、このアルバムの最大の成果が込められている。

 

しかし、これは一年や二年で生み出されたものではない。2013年頃からたえず、サラ・ダヴァチは誰からも注目を受けなかった時代から、飽くなき探究心を持ち、電子音楽と前衛音楽を制作してきた。その11年目の成果が、ようやく傑作を出現させたのだ。最後の建物が振動する音と共に録音されたパイプオルガンの高音部の通奏低音は、レコーディングの歴史的な瞬間であり、今日までの音楽の中で最も崇高性を感じさせる。それはまた、現代の音楽が持つ一般的な意味を塗り替え、「スピリットを体現する音楽」という、哲学、数学と合わせて、最古の歴史を持つ人類が生み出した最高のリベラルアーツの本来の核心に最接近した瞬間なのである。

 

 

 

100/100



 



 

Isik Kural

グラスゴーの音響作家、イシク・クラルの音楽は、未来の記憶の場所から届く。彼のつつましく親密な歌は、つかの間の瞬間をコラージュし、文学的な引用や人生のサイレント映画からのちらつきで彩られ、完璧に詩的で不完全な世界の印象主義的スナップショットを作り出す。イシクの音楽は、日常生活の素朴な驚きが顔を覗かせ、想像力が常に発見のために熟しているような、優しく限界のある状態にチューニングを合わせる。


トルコで生まれたイシクは、10代の頃からナイロン弦のギターで音楽を作り始め、徐々にフィールド・レコーディングやシンセサイザーを加えていった。イスタンブールの自宅からマイアミに移り、音楽エンジニアリングを学んだ後、ニューヨークで過ごし、最終的にはスコットランドに上陸、グラスゴー大学でサウンドデザインとオーディオビジュアル実践の修士号を取得した。


移動中、イシクの活動は、伝統的なソングライティングとより実験的なアプローチを融合させることで発展していった。時にはギターでメロディーを選び、時にはアンビエントのライブ演奏からメロディーが生まれる。詩は文学のパルプを加工したものから生まれ、歌はループや周囲の世界の録音から雰囲気を紡ぎ出した。


イシクの音楽は、イタリアのレーベル、Almost Halloween Recordsからリリースされた、声、シンセサイザー、ギター、ピアノ、グロッケンシュピールから作られたアルバム、2019年の『As Flurries』で流通し始めた。2022年、イシクはRVNG Intl.から初の作品『in february』を発表した。この作品は、偶然のループ、ミュージシャンのステファニー・ロクサーヌ・ウォードとのヴォーカル・コラボレーション、pka spefy、トルコの詩人グルテン・アキンの作品やアン・カーソンによるソフォクレスの翻訳など、さまざまなテキストを引用して作られた魅惑的なレコードであった。


新譜『Moon in Gemini』では、『in february』や『Peaches』で聴かれた想像力豊かなインストゥルメンタル・テクスチャーをベースに、よりヴォーカルを前面に押し出したサウンドを披露している。民謡の形式を彷徨いながら、イシクは自然のイメージと人生に対する素朴な考察に溢れた愉快で風変わりな物語を語り、多くのトラックで再びスペフィと共演することになった。気まぐれなアンビエント表現が2人のソングライティングに織り込まれ、これらの音のスクラップブックは、限りない遊び心の中でゆがんだり揺れたりする。


フルート奏者のテンジン・スティーヴン、ハープ奏者のカースティン・マッカーリー、クラリネット奏者のジュリア・タンボリーノとのコラボレーションにより、静寂なピアノとフィールド・レコーディングがさらに豊かさを増している。『双子座の月』の14曲からなる組曲には、優しいパスティーシュがまとまり、イシク・クラルは聴き手を可能な限り深い白昼夢へといざなう。

 


『Moon In Gemini』/RVNG



トルコ出身で、現在グラスゴーを拠点に活動するイシク・クラルのアルバムは、シンセ、アコースティックギター、フルートの演奏などを駆使し、オーガニックでナチュラルな電子音楽の世界を提供する。クラルの音楽には、包み込むような温かさと広がりがあり、そしてグラスゴーの牧歌的な風景を「サウンドスケープ」として呼び起こす。このアルバムにはストーリー性が含まれ、牧歌的な風景で始まったかと思えたアルバムは、収録曲ごとに異なるサウンドスケープを描き、やがて製作者が志向する夜の月の光景で終わる。特に、多彩なフィールドレコーディングが散りばめられ、それがアコースティックギターや電子音のマテリアル、そして制作者自身のふんわりとした穏やかなボーカルと結びつき、現代のいかなる音楽とも似て非なるスペシャリティーを構築していく。クラルのボーカルはどちらかと言えば、少し癖があるため、好き嫌いが二分されるかもしれないが、彼のボーカルは電子音楽やアコースティックギター、木管楽器(フルート)を中心に構成される音楽的な感性と驚くほど見事に溶け合い、4つ目の楽器の音響的な役割を担っている。


イシク・クラルの構築する電子音楽は、IDMに属する。そして、知的な創造性を掻き立てるものでありながら、深い情感を呼び覚ますものでもある。何より、イシク・クラルの導き出す電子音楽は、水のように柔らかく、秋風のように爽やかだ。さらに何より重要なのは、彼の音楽の中には、グラスゴーの緑豊かな風景や教会のような光景、そして同じように、ケルト民謡の原初的な魅力が含まれるということである。「1- Body Of Water」では、アコースティックギターの演奏をもとに、電子音楽のキラキラとしたマテリアルを配して、そして木管楽器の演奏を付け加える。そして、パンフルートのような音色をベースにしたシンセリードを古めかしいオルガンに見立て童話的な音楽世界を築き上げていく。スコットランドの美しい風景や和やかな光景をかなり見事に電子音楽という形で縁取ってみせている。喧騒から解き放たれ、そして「内的な静けさ」を思い出すための音楽であり、それはまた瞑想的な感覚に充ちている。

 

「2- Prelude」では、ケルト民謡で使用されるようなアンティークな音色を持つアコースティックギターにシンセのパンフルートのアルペジオの伴奏を付け足して、やはり他のどの音楽にも似ていない特異なIDMを作り上げる。 そして、甘い感覚を持つイシク・クラルのボーカル、鳥のさえずりのフィールドレコーディングを付け加えて、自然味溢れる音響空間を構築していく。何の変哲もないミニマル・ミュージックの構成であるが、ときどき、彼の紡ぎ出すシンセのアルペジオからは、センチメンタルな感覚やノスタルジア、そして童話的な雰囲気が立ち上ってくる。これらはアンビエントのような抽象的な音像として組み上げられていくが、そして、実際的に、治癒的な電子音楽としての効果を発揮することがある。クラルの音楽にはまったく棘や毒がない。それは、イシク・クラルの音楽が「自然を見本にしている」からであり、人工物から距離を置いているからでもある。これらの癒やしは、コンクリートジャングルに疲弊した人の心を温かく包み込む。

 

イシク・クラルの表現する童話的な世界は、さながら絵画を描写的な音楽として切り取ったかのようであり、アルバムの中盤で、その物語は広がりと奥行きを増していく。「3- Almost A Ghost」に見受けられるように、彼の描く幽霊は、カンタベリーの大聖堂に出没するようなおぞましいものではなく、妖精やピクシーのような、いたずら好きの少し可愛らしいお化けである。それはまた、「指輪物語」に登場する民間伝承の考えに近い。それらは、ぼんやりとしていて、抽象的であるが、ヘンリー・ダーガーが絵本で描いたような天使的で祝福的な音楽という形で部分的に出現する。同じように、リュートのようなギターの響きを基に、ピアノの断片的な演奏やボーカルのコーラスをミュージック・コンクレートとして散りばめて、色彩的な音楽の世界を構築していく。それらに脚色的な効果を添えるのが、ハープのグリッサンド、オーケストラのグロッケンシュピール、そしてアーティスト自身のボーカルである。これらの器楽的な音響効果は、実際の音楽性に制作者が意図する幻想的な感覚を付与し、ピクチャレスクな効果を及ぼすことに成功している。最終的には、mum(ムーム)のような可愛らしいおとぎ話の世界を作り上げるのだ。 


 

 「Prelude」 

 

 

 

これらの童話的な音楽と並行して、アンビエント・ピアノの作風に転じる場合もある。続く「4- Grown One Lotta」では、ウィリアム・バシンスキーの「Reflection」のようなピアノのミニマリズムを参照しつつ、緻密でありながら先鋭的な作風を作り上げる。ヒップホップやブレイクビーツの編集的なサウンドをピアノの音響効果に適用するという側面では、ブルックリンのラップカルチャーに触発されたバシンスキーの現代的なアンビエントの延長線上に属する。短いピアノのサンプリングの素材も、イシクの手に掛かると、アナログレコードの音飛びのようなブレイクビーツの原初的なDJの手法によってトリップ感のあるアンビエントに昇華される。いわば童話的な音楽を制作する作家クラルは、「ストリートの音楽とオーケストラホールの音楽を結びつける」という画期的な作曲法を、この実験的な音楽の中で実践しているのである。

 

また、「映像的な音楽」という本作のモチーフは、その後も度々登場する。「5- Interlude」では、ローファイ・ヒップホップをベースにし、それらをノスタルジックで切ない感覚を持つ電子音楽へと昇華させている。逆再生のテープ・ループ、それから水の音のように柔らかなシンセに続いて、少し甘ったるい質感を持つクラルのボーカルがアンビエントともミニマルテクノとも言いがたい独自に音響空間を作り上げる。それらのシンプルな音色や録音の集積は、やがて教会のオルガンのような祝福的な音楽をアンビエントとして構築していく。近年の実験音楽では、コンサートホールで鳴り響くオーケストラ音楽を部分的なミュージックコンクレートやカットアップコラージュのような音楽的な作曲法によって構築するという手法が、ドローン音楽という一つのウェイブやシーンを作り上げているが、イシク・クラルの電子音楽は、一貫して細やかであり、大掛かりな演出になることはない。さながらグラスゴーの小さな礼拝堂で日曜の安息日に鳴り響くような祝福的な祭礼の為の音楽を、クラルは電子音楽として再現させようとしているかのよう。それは非常に細やかなもので、派手な舞台装置や演出とは全く無縁のものなのである。


かと思えば、彼の音楽は、曲が進むごとに、物語の舞台となる場所や背景のイメージが立ちどころに変わっていき、映像のバックグラウンドや演劇の舞台の書き割りのように、ゆっくりと推移していく。ここには、ウィリアム・シェイクスピアの演劇のように、王侯も商人も未婚の女も登場しないが、最小限の登場人物で驚くべき多彩な音楽表現が構築される。前曲の屋内で鳴り渡る音楽の直後、屋外の木陰に鳴り響く自然の音楽をテーマとして縁取っているのである。

 

「6-Redcurrents」は、教会から一歩外に出て、鳥のさえずりや木々のざわめきを目に止める時のような安らぎが込められている。イシク・クラルの電子音楽は一貫して「穏やかな平和」をモチーフにしており、それらはリンゴの実が木から落ちる時、重力の概念を発見したニュートンのような気づきと発見に満ちている。実際的には、パルス音をドローンのように連続させているが、やはり聞き苦しいものやざわめきやノイズからは一定の距離を置いており、内的な静けさと瞑想性にポイントが置かれている。最終的に、精妙な感覚を持つ重層的なサウンドスケープが曲の最後に鳴り渡る頃には、この音楽作品がバレエや劇伴のための音楽という副次的な役割を持つ作品なのではないかと思わせるものがある。電子音楽としての前衛的な試作は、続く「7-Mistaken for a Snow Silent」にも見出すことが出来、水のような音のサウンドデザイン、リング・モジュラーによる色彩的な音の構築、そして、ピアノの断片的なサンプリング、アコースティックギター、そして、イシクのボーカルという多角的な構成要素によって、遊び心のある音楽が作り出されている。聴いているだけで、何だか優しい気分に浸れるような稀有な音楽である。


情景的な音楽は、それ以降も続いている。グラスゴーの村の小さなお祭りのようなワンシーンを電子音楽で縁取った「8-Gul Sokagi」は、ケルト民謡を題材に、リュートのようなギター、生活風景の反映であるフィールド録音、木管楽器やアコーディオンのような音色を交えて、夢想的で童話的な音楽世界を見事に築き上げている。これらは、東ヨーロッパの民謡をスコアとして実際に取材をして集めたバルトークのような音楽的な手法であるが、クラルの場合は、より聞きやすくて親しみやすい。そして、ターンテーブルの音飛び(チョップ)の技法を交え、それらをモダンな作風に置き換えている。「9-Stem of Water」は、やはり同じように童話的で可愛らしい雰囲気をボーカルとして反映した一曲で、パンフルートの音色でこれらの夢想的な感覚を押し出している。それは同時に、緑豊かな土地に流れる川のせせらぎのような清々しさと安らぎに浸され、音楽そのものが一つのストリームのようにゆったりと流れていく。

 

 

アルバムの後半では同じようにフィールド・レコーディングとピアノの演奏の要素をかけ合わせ、「10-After a Rain」に見出されるような情景的な変遷を描き出そうとしている。これらは、2010年代のフォークトロニカ/トイトロニカのような音楽性と結びつき、アルバムの音楽世界を深化させる。その音楽は、ピアノやハープのサンプリングを多角的に配置することで、やはり色彩的な感覚に縁取られ、サウンド・デザインに近い指向性を持っている。終盤では、これらの音楽性が停滞したり、マンネリズムに陥る場合もあり、それがリスニングの際の難点となるだろう。その一方、その安らいだ電子音楽は、治癒の音楽ーーヒーリングーーに近い意味を帯びる。「11-Behind The  Flowerpoint」は、JSバッハの「平均律クラヴィーア」を電子音楽に置き換え、それらをボーカルトラックとして組み替えるという実験性が込められている。

 

その後の2曲では、鳥をモチーフに美麗な音楽が作り上げられる。イシク・クラルの作曲家としての未知なる可能性が示されたのが「12-Daydream Birds」である。オーケストラ・ストリングのレガート、木管楽器のトレモロの組み合わせは、最終的に民族音楽のエキゾチズムを呼び覚まし、さながら南国のような場所で鳥たちがゆっくりと空に羽ばたいていくような奇異なサウンドスケープを呼び起こす。「13-Birds Of Evening」でもフルートの演奏とハモンドオルガンのような音色を緻密に組み合わせ、至福のひととき、芳醇な時間を作り上げる。ミニマル音楽の範疇にあるが、これらの音楽の最大の弊害である気忙しさはなく、伸びやかで開放的な気風を感じさせる。

 

アルバムのクローズ「14-Most Beatutiful Imaginary Dialogues」は、名作映画のような感動的なクライマックス/エンディングで、一連の音楽による物語の最後を締めくくるのにこれ以上はない素晴らしい一曲である。木のハンマーの軋みの音を生かしたポストクラシカル系のアコースティックピアノ、クラルのスポークンワードに近いボーカル、そして、鳥のさえずりのフィールドレコーディングという、現在の作曲家の「自家薬籠中」が登場する。ハープの美麗なグリッサンドの効果、シンセサイザーのサウンドスケープを巧みに活用しつつ、イシク・クラルは、音楽によって「ふたご座の月」を出現させる。ピアノの断片的なフレーズが重なり合う時、深い感動を呼び起こすとともに、マクロコスモスを小さな音楽空間の中に造出し、アルバムのイメージを最後の最後にあっけなく覆す。アウトロで、虫の鳴き声とオルガンの麗しい音色が絶えず増幅と減退を繰り返しながら徐々にフェードアウトする瞬間、作曲家の描写音楽としてのサウンドスケープは本作の中で最大限の効果を発揮し、一つのサイクルの終焉と実り多き美しき季節の訪れを予感させる。




85/100



Best Track-「Most Beatutiful Imaginary Dialogues」

 

 

 

◾️Isik Kuralの新作アルバム『Moon In Gemini』はRVNGより本日発売。(日本国内ではPlanchaより)ストリーミングはこちらから。



ブレア・ハワードンが、ホワイ・ボニーの2ndアルバム制作のためにバンドメイトのチャンス・ウィリアムズとジョシュ・マレットを引き合わせたとき、彼女が最初に見せた曲が、これからの曲のトーンを決定づけた。「Fake Out」は、「そうであることを不可能にする世界で、本物であろうとすること」を歌っており、ホワイ・ボニーの大胆なニューアルバム『Wish on the Bone』で最もラウドな曲となっている。サビでハワードンは、曲の終わりまで彼女を覆い尽くす音の壁に向かって泣き叫ぶ。「It's not my face/ I imitate/ It's not my face/ I imitate」


そのアルバムは、ワクサハッチーやウェンズデーと比較されるほど、ノスタルジックで広大な空間を描写したことで賞賛された。そのアルバムは、ニューヨークに住む20代の彼女が、バラ色のメガネを通して青春時代のテキサスに憧れるという、当時のハワトンの気持ちを捉えていたが、彼女の自己概念は永遠に流動的だ。『ウィッシュ・オン・ザ・ボーン』では、ホワイ・ボニーはある風景やジャンルの特殊性から解き放たれている。「あのアルバム以来、私は変わったし、これからも変わり続けるだろうと信じている」とハワードンは言う。「もしかしたら、2年後の私はまったく同じ人間ではないかもしれない」


不思議なことに、その気まぐれな人としての感覚が、個人的な人間関係においてもスタジオにおいても、ハワードンに自分自身をより信頼させるようになった。ハワードンは変わるかもしれないが、彼女の信念は揺るぎない。


「これらの曲は、より良い未来への希望から書かれた。私はナイーブではないし、世界はめちゃくちゃだけど、それを根本的に受け入れつつ、物事を変えることは可能だと信じられると思う」とハワードンは言う。「私にとって希望とは強さだ。そしてそれを持つためには、現代アメリカの見せかけの存在を覆すことのできる批判的な感性を養わなければならない。"Fake Out "はそれを端的に表現している。「Something you thought/ Was only something that you heard.」


ホワイ・ボニーが11月に『90』をレコーディングしたとき、彼らはカントリー・アルバムを作ることを目指し、それぞれの技術的直感をこのジャンルの装いと一致させた。『ウィッシュ・オン・ザ・ボーン』では、ハワードンはジャンルの基準に固執する気はなかった。ブロークン・ソーシャル・シーンやHAIMのような期待にとらわれないバンドが、ハワートン、ウィリアムス、マレットが、共同プロデュースを担当したジョナサン・シェンクの助けを借りて楽曲に肉付けしていく際の指針となった。


「私たちは音楽的な帽子をかぶって試していたんだ」とハワードンは笑って言う。「このアルバムにはまだカントリーも入っているけど、1つのことに固執しようとは思っていなかったんだ」とハワードンは笑う。より大胆に、より自己主張することを学び、自分自身を信頼するようになった個人的な経験は、私の音楽にも受け継がれている。私はリスクを冒すことを恐れない」 ハワードンは、SF小説にインスパイアされ、その中の1曲、ゴージャスで痛快な "Three Big Moons "を遠い惑星に設定するほど自由になった。


リリカルな『骨に願いを』は、マクロとミクロの両方のスケールの問題に立ち向かっている。「Dotted Line」は、ハワードンが「資本主義の重さ」を経験していたときに書かれた。「私たちが成功の指標だと言われているものすべてについて考えていた。問題の "点線 "にサインすることは、ファウスト的な取引をすることだった。「金を払えば、いい日が待っている」とハワードン、あるいは悪魔はコーラスで約束し、バックのビートはハスラーのように催眠術をかける。この曲は、『骨に願いを』に収録されている数少ない曲のひとつで、聴衆に一緒に叫ぶように手招きしている。ハワードンが語るような取引をして、失敗に終わったことがどれだけあるだろうか。「もっと知っておくべきだった」と、私たちは自分自身に怒りをぶつけたりもする。


「Dotted Line」のような曲は、ハワードンが言うように、"車輪を回しているだけだ "という権力に向けられた反抗的なキスオフ、叫びとして書かれている。しかし、『ウィッシュ・オン・ザ・ボーン』に収録されている他の曲は、ハワードンがリスナーを個室に招き入れ、決定的瞬間を目撃させているかのような親密さを感じさせる。


「I Took the Shot」では、陽に焼けたようなハワードンの声が、きらめくシンセサイザーのベッドの上で人間関係の解消を語る。"昔のバーで待っていた/でも君は現れなかった/だから君に買ったショットを持って行った/そしてもう一杯、道連れにしよう"。まるで青春映画のラスト・ショットのように、主人公が自分を自分以外の何かに作り変えようとして失敗した力を拒絶する。この曲は、ハワードンのソングライターとしての最大の才能のひとつである、苦闘した希望の感覚を残してくれる。


「最悪の事態を体験している人々に対して、あなたはただ押し続ける義務があるのです」とハワードンは言う。新しい一日一日に希望を再生させようという姿勢は、兄を亡くしたときに彼女の中に刻み込まれた。それは、ハワートンがミュージシャンとして本領を発揮し始め、テキサス州オースティンのDIYシーンの中で自分の声を見つけようとしていた矢先のことだった。それに対処するため、彼女は次々と曲を書き、苦しみながらもカタログを作り、そうすることでスピリチュアリティとの新しい関係を築いた。


ハワートンはブリッジで、愛の温もりを失うことがどのような感覚なのかを警告している。『ウィッシュ・オン・ザ・ボーン』では、ハワードンは目を見開いて待ち続け、たとえ最悪の日であっても、絶望は避けられないものではないと自分自身に言い聞かせている。このアルバムは、希望、美、そして愛を毎日選ぶことについて歌っている。

 


Why Bonnie 『Wish On The Bone』/ Fire Talk


 

ブレア・ハワードンのWhy Bonnieの二作目のアルバムは、Fire Talk移籍後最初のアルバムとなる。2022年から二年が経過し、シンガー、そしてソングライターとしても一回り成長して帰ってきた。特に、今年のオルタナティヴロック系の女性シンガーの中で歌唱力は随一、オルタナティヴシーンでこれほど長くビブラートが伸びる歌手を正直なところ見たことがない。それに加えて、良質なソングライティングに磨きがかかり、素晴らしいアルバムが作り出された。

 

デビュー・アルバム「90」ではワクサハッチー、MJ Lendermanと同じようにアメリカーナとオルトロックの融合を目指したホワイ・ボニー。セカンドアルバムでは、前作の延長線上にある幽玄なオルタナティヴロックの世界が展開される。ブレア・ハワードンは、おなじみの繊細さとダイナミックさを兼ね備えた素晴らしいインディーロックのアプローチによって、サザン・ロックの継承者であることを示し、若い世代として南部の文化性を次の時代に伝えようとしている。

 

アルバムのタイトル曲、及び、オープニングを飾る「Wish On The Bone」は、タイトルもウィットがあるが、実際の音楽性にも同じような含蓄がある。ここ数年のニューヨークでの暮らしを踏まえ、ブロードウェイのような都会的なセンスを兼ね備えながらも、やはり南部的な幻想性のあるアメリカンロック、ギターロックを最終的にポップスという形に落とし込み、そして部分的には劇的なボーカルを披露している。ピアノとギターを重ね、バラードのテイストをもたらすハワードンのボーカルは、曲の進行ごとに徐々に迫力を増していき、起伏のある旋律を描きながら、サビとなるポイントへ向けて、歌声の抑揚やイントネーションをひきあげていく。結局のところ、高音部のビブラートの伸び方が素晴らしく、背後のギターやドラムのミックスに埋もれることがない。そしてこの曲では、情熱的なギターソロが曲の後半で最大の盛り上がりを見せる。まるでアルバムのエンディングのような結末がオープニングで示されているかのようだ。

 

「Dotted Line」ではオルタナティヴロックの形に直結している。同レーベルのCOLAのようなシンセサイザー、ミニマルなギターを重ね、落ち着きがありながらも、叙情的なインディーロックを組み上げていく。そしてそれに独特のカラーを付け加えるのが、ハワードンのアメリカーナやカントリー/フォークを継承したボーカルだ。一見すると、同じようなオルトロックソングは、たくさん存在するように思える。しかし、このボーカリストは歌によって次の展開を呼び覚ます力があり、そして、実際的に他の平凡なロックソングには見出し難い深みを持ち合わせている。


これは、ブレア・ハワードンが、ブルース・スプリングスティーンやトム・ペティはいうに及ばず、サザン・ロックやそれ以前の南部のブラックミュージックの音楽性を何らかの形で吸収していることを伺わせる。つまり、表向きには出てこないが、ブルースと南部のR&Bの影響が背景にあることを思わせる。例えば、ミシシッピ河口にあるSun Records等のメンフィスの音楽である。これが西海岸や北部のロックとは異なり、渋みのある雰囲気を漂わせることがある。こういった音楽を本人が自覚的に聴いているかは別として、若い頃に親戚や誰かが聞かせていたことが推測できる。実際的に、ほとんど数年ぶりに、メンフィスらしい音楽を耳にすることができる。ブルースやR&Bを絡めた渋さ、奥深さ、たぶんこれこそ米国南部のロック音楽なのだ。



エミネムの曲と同じタイトル「Rythm or Reason」において、アメリカーナ特有のビブラートの歌唱法を活かし、ここでも渋みのあるサザンロックを切ないモダンロックに置き換えている。ここではニューヨークの実際的な暮らしの様子が、オルタネイトなギター、シンセのシークエンスを交えて、センチメンタルな雰囲気を持つ曲に昇華される。ここでは、都会的な生活から引き出されるボブ・ディランのような孤独を現代的な若者の感性として歌い込んでいるのが素晴らしい。


この曲のボーカルには、たしかにディランのように肩で風を切るようなクールな感じもあるが、そこには、テキサスとニューヨークという二つの都市の間で揺れ動くような独特な抒情性が織り交ぜられている。オルタナティヴロックとしては素晴らしい出来の一曲。そしてそれ以上の評価を獲得することができるかが争点になるかもしれない。また、何気ないスタンダードなロックソングも、ハワードンの手に掛かると、全然別の音楽に変わる。


「Fake Out」では、絶妙で効果的な旋律を描きながら、シンプルなシンセのフレーズを重ね、そして切ないイメージを押し出している。特に、落ち着いた立ち上がりから、それとは対象的な叫ぶようなボーカルに移行する瞬間、歌手の傑出した才覚を見て取ることができる。曲は最終的に激しさを帯びた後、虚脱したかのように静かなアウトロの導入部、編集的な音響効果を交えたアウトロの最後に繋がっていく。一見すると、普通のオルタナティヴロックソングにも聞こえるかもしれないが、実際は、何かしら新しいジャンルの萌芽を、この曲に見出すことができる。 


 

 「Rythm or Reason」

 

 

 

「Headlight Sun」では、 ワクサハッチーのようなオルタナティヴロックを聴くことができる。しかし、やはり、ハワードンの方は、なぜか南部的な音楽性を示すことにそれほど抵抗がないらしい。そして、国内ではいざしらず、海外の人間にとっては、グローバルなものよりも、より地域的な音楽や、そこにしか存在しないものに尊敬を覚え、俄然興味を持ったりするものだ。この曲では、古典的なポピュラーやバラードへの傾倒を見せ、幻想的な雰囲気と、小さなライブハウスの楽屋の裏側のようなミュージシャンにしか表現しえないイメージを織り交ぜている。さらに、前作のテーマと同じように、ホームタウンへの郷愁のような感覚が歌われているのかもしれない。中盤の「Green Things」は、Why Bonnieのハイライト曲の一つであり、センチメンタルな感覚と、繊細なピアノとギターが掛け合わされ、最も心地よい瞬間が形作られる。

 

このアルバムには甘い感覚もあるが、それと同時に、「All The Money」では、00年頃のWilcoの『Yankee Hotel Foxtrot』のようなフォークとアート・ロックをかけ合わせ、それらをザ・ビートルズの次時代のモダン・ロックとして完成させようという試みもある。ストリングスやベース、そして、ギターを短く重ね合わせ、それらを取り巻くようにして、ハワードンは、これまででもっともアートポップに近い音楽を組み上げようとしている。 これはチャンス・ウィリアムズとジョシュ・マレットとのコミュニケーションやライブセッションが上手くいった結果がアルバムの音源という形で表れ出ている。また、辛抱強さもあり、セッションを丹念に続けたおかげで、ライブサウンドとして聴いても興味深い一曲になっている。同じように、単なるレコーディングアルバムと見るのは不当であり、続く「Peppermint」でも、ライブサウンドの側面に焦点を当てている。これがレコードとしてじっくり聞かせる曲と、それとは対極に、ライブのように体を動かす曲という二つの相乗効果をもたらしていることは、言うまでもないことだろう。

 

 

デビュー作のラフなフォークソングもこのセカンドアルバムには受け継がれている。「Three Big Moon」はゆったりとしたイントロから、フィドルの演奏を交えて、夢想的な雰囲気は最大限に引き上げられる。シンプルなメロディー、口ずさめるボーカル、そして、それらの雰囲気に美麗な印象を縁取るフィドルの演奏は、Why Bonnieのフォークバンドとしての性質が立ち表れている。今週末、アメリカのカントリーラジオ局でこの曲がオンエアされることを祈るばかりだ。

 

アルバムは、その後、劇的な展開へと向かうかと思いきや、それとは対象的に、孤独の感覚を織り交ぜた内省的な楽曲へと続いていく。実際的に、それは不思議なくらい瞑想的な響きを帯びることがあり、「Wheather Song」では、内的な悲しみをもとにしているが、その先に、より雄大な感覚へと変化していく。そして、やはり、この収録曲から、独特な幻想性や夢想的な感覚がぼんやり立ち上りはじめ、本作の全体的な音楽性を決定づけていく。最早この段階で、このアルバムを佳作にとどめておくことは難しくなる、それどころか、単なるオルタナティヴロックというには惜しいところまで来ていて、ポピュラーとして聴いても素晴らしい作品である。

 

アルバムのクローズ「I Took The Shot」では、内的な孤独を感じさせる切ないバラードをクールに歌っている。そして、このような曲は聴いたのは、トム・ウェイツのデビュー・アルバム以来。これは、ハワードンというソングライターが、ポール・ウェスターバーグどころか、トム・ウェイツ、マッカートニー級の珠玉のソングライティングの才能を持つことを伺わせる。シカゴのBnnyの最新アルバム「One Million Love Songs」と並んで、Fire Talkの象徴的なカタログとなるかもしれない。サザン・ロックの最後の継承者、Why Bonnie(ブレア・ハワードン)の勝利。この二作目のアルバムでは、エンジェル・オルセンのような風格が備わってきたかなあと思う。



 

92/100


 

 

「Green Things」

 

 

Why Bonnie 「Wish On The Bone」はFire Talkから本日発売。ストリーミングはこちらから。

 

関連記事:   WEEKLY RECOMMENDATION  WHY BONNIE 『90 IN NOVEMBER』

Japanese Breakfastの再来か ロサンゼルスのLuna Li(ルナ・リー)に注目


つい昨日まですっかり忘れていたのは、このサイトを始めた翌年、なぜかハンナ・ブシエール・キムこと''Luna Li''を紹介していたことだった。


「最初の『jams EP』をリリースしたとき、何に期待していいのかわからなかった」とルナ・リーは回想する。「短いループするインストゥルメンタル曲のコレクションをリリースするのは型破りであると感じたし、確かにこれまでリリースしたものとは違っていた」と。プロデューサーや編曲家のことはさておき、ミュージシャンの才能というのは、たくさん知っていることではなく、「知らない事がたくさんある」ことなのだろうか。


それでは、ハンナ・ブシエール・キムとは何者なのか。カナダ・トロントを拠点に活動するシンガー、ソングライター、マルチ・インストゥルメンタリストは、現在、トロントからロサンゼルスに移住し、ソングライティングを行う。COVID-19の流行初期の数ヶ月間を、キムは未来の希望のために費やしていた。ハープ、キーボード、ギター、ヴァイオリンを演奏する彼女の自宅でのジャム・セッションの一連のビデオがソーシャルメディアで拡散された後、一躍脚光を浴びたのだ。


ハンナ・キムは、元々バンドに所属していたというが、以後、ソロシンガーソングライターに転向した。バンドでは才能を持て余したのか、もしくは初めからそう定められていたのか。”Veins”として作曲を始めた後、2015年に自主盤のレコード『Moon Garden』をリリースした。以降、Luna Liとして活動を始めると、、2017年にデビュー作『Opal Angel』をセルフリリース。AWAL RecordingsとIn Real Lifeと契約後、2021年にパンデミック中に作曲したバイラル・ジャム・セッションのコンピ『the jams extended play』でデビュー。ルナ・リーとしてのデビューアルバム『Duality』は、2022年にAWAL(カナダ)とIn Real Life(その他の地域)からリリースされた。


実際的にJapanese  Breakfast(ミシェル・ザウナー)の名前を挙げたのは、ルナ・リーがザウナーによって知名度を引き上げられた側面があるからだ。これらの2020年の伝説的なビデオは、アーティストとしての成功に欠かせないものであっただけでなく、最終的には800万回以上のストリーミングを記録し、ジャパニーズ・ブレックファストのツアーの帯同にもつながった。キムが自分の気持ちを共有し、「それを本当の形で表現する」ために必要なプロセスだったという。


キムは音楽的に豊かな環境で育った。母親は一緒に音楽教室を経営しており、彼女はそこでバイオリンとピアノの古典的な訓練を受け、後にハープとギターを手にした。もちろん、普通の音楽ファンらしい性質もあった。10代の頃、キムはテーム・インパラとフロントマン、ケヴィン・パーカーに夢中になった。彼女が初めて買ったギターは、パーカーが弾いているのと同じ"Squier J. Mascis"だった。高校卒業後、彼女は、クラシック・ヴァイオリンを学ぶため、マギル大学に進学したが、キャリアを追求するために1学期で中退した。実際的には、バンドをやるためだった。しかし、そのあともしばらくの間、暗中模索が続いた。つまり、依然として、音楽に対する思いやビジョンは不透明なままだった。「私はどんな音楽をやるのだろう、どうやって音楽の仕事をしていくのだろうという疑問が常に念頭にありました」と彼女は振り返る。


子供の頃に聞いた音楽が後の全てを決定づけるという一説がある。ある意味では、ミュージシャンというのは、子供の頃の理想や幻想を追い続けるロマンチストなのだ。そして彼らは、子供が蝶を追いかけるように、山のてっぺんへと登っていき、誰も辿りつけないところまで行く。歳をとり、後天的に才能が花開くケースもあるが、実際的に、私が知っている多くの音楽的な才能に恵まれた人々は、幼い頃、何らかの形で音楽に親しんでいる。子供時代の経験は無駄なことは一つもないのだ。聖歌隊で歌った人々、音楽教育を施された人々、両親が音楽愛好家であり、日頃から良質な音楽に触れる環境があった人々、ストリートでリアルな音楽に触れた人々……。彼女の生涯をかけた輝かしい音楽教育は、クラシックの弦楽器とモダン・ロックのサウンドが融合した音楽のみずみずしいサウンドという形で結実している。デビューアルバム『Duality』を見るとわかるとおり、彼女がビデオで表現しようとしたときの本物の感情が、音楽でも明瞭に表現されている。最初のアルバムの制作には、およそ4年の歳月が費やされ、プロジェクトは様々なムードやテーマに跨ることもあり、また、時には1曲の中で完結することもあった。 

 

 

 SOCAN  Interview  2024

 

 

 

限られた人だけに受けいられるポピュラー音楽ほど不完全なものはない。一部の幸福な人のために音楽は存在するのではないのだから。明日がわからない人、今まさに悲しんでいる人、傷んだ人の心を癒さずして、「スター」を名乗れるのだろうか。ルナ・リーが歩んできた道は、直線ではなかった。むしろギザギザで曲がりくねった道を歩んだ事が、その心に聖なる火を灯すことになった。だから、リーの音楽が不幸な人から幸せな人の心まで響きわたるのはそれほど不思議なことではないのである。「私が曲を書くときは、決してひとつの表現にはなりえないと感じている。たとえ、それがハッピーな曲であっても、私はいつも悲しみの要素を大切にしている」とキム。デビュー・アルバムのタイトル曲は、ギター・ラインの間にドラマチックな間があり、徐々に壮大で爆発的なコーラスへと盛り上がっていくメロウなトラックが特徴だ。


ルナ・リーのソングライティングにおける考えには大いに共感すべき点がある。音楽の最大の魅力は、それまでなんの関係もなかった、人種、階級、考え、趣味趣向も異なる人々が一つに繋がるということだ。リーの場合は音楽を通じて、"世界の人々と思いをシェアする"ということだった。結局のところ、『Duality』に収録されている曲は、彼女がキャリアをスタートさせてから音楽作りのプロセスがどのように変化したかを反映していた。「駆け出しの頃は、自分のアートは、自分自身を表現するものでしかなく、自分の感情を吐き出す方法だと感じていた。それはセラピーでもあった」とキムは言う。「もちろん、今でもそうなんだけど、今は自分の''音楽で人々とつながることができる''という特別な思いがある。自分の音楽を、他人とつながるための方法であると考えるようになった。感情を分かち合い、エネルギーを分かち合うためにね......」


現在、二作目のアルバム「When a Thought Grows Wings (思考が大いなる翼に育つ時)」のリリースに向けて、ルナ・リーは着実にスターへの階段を昇っている。第二章は、「メタモルフォーゼ」という驚くべき手段によって行われる。それは、八年間連れ添ったパートナーとの別離による悲しみを糧にし、音楽を喜びに変えることを意味する。彼女は過去にきっぱりと別れを告げた。

 

トロントの家族、そして、恋人との辛い別れの後、リーは夢のある都市ロサンゼルスを目指した。映画産業の街、ビーチの美しさと開放感は、彼女の感性に力強い火を灯した。最早、リーのソングライティングにはデビューEPの頃のような迷いはない。彼女は自分がなすべきことをわかっている。自分の音楽が何のために存在するのか、何のためにバンドを飛び出してソングライターになったか。リーは理解している。


世界を制覇するには欠かさざるものが三つある。勇敢さと大胆さ、そして、勢いだ。そのため、今、彼女は、Yaejiのようにオックス(斧)を肩にかけ、世直しの旅を始める。時は来た。ジャパニーズ・ブレックファーストの再来を心から祝福しよう。




Luna Li  「When a Thought Grows Wings」- In Real Life Music / AWAL

 


デビューアルバムではベッドルームポップ/ネオソウルと、AWALに所属するLaufeyを彷彿とさせるソングライティングを行っていたルナ・リーだったが、セカンドアルバムでは、驚くべき転身を果たす。

 

ハープのグリッサンドやエレクトリックピアノの演奏を交え、クレイロやミシェル・ザウナーのようなポスト・バロック・ポップ、西海岸のチルウェイブの象徴的なプロデューサー、Poolsideのようなリゾート感覚を持つダンスミュージック、ネオソウルを中心とするメロウさにドラムのサンプリングを配するブレイクビーツの要素を交え、特異なポピュラーミュージックを築き上げる。

 

まず間違いなく、若者向けのインフルエンサーの意味合いを持つ「AWALらしいポップス」と言えるようが、ミシェル・ザウナーのように、ビートルズからのアートポップの影響、「Hotel Calfornia」の時代のイーグルスのソフィスティ・ポップの影響も加わり、唯一無二の音楽性が組み上げられ、「さすが!」と言わせるような作品に仕上がっている。モダンでスタイリッシュなソングライティングは、2020年代のポピュラーアーティストの象徴的な作風で、ソーシャルメディア全盛期の需要に応えみせたといえる。その反面、一度聴いただけでこのアルバムの全体像を把握することは容易ではない。このアルバムは快活であるが、軽薄ではないのだ。トラック全体の作り込み、ボーカルの多様な歌唱法、対旋律的なフレーズの配置、そして、それらを包み込むゴスペルに比するソウルフルな雰囲気が絶妙に合致している。セカンドアルバムは、聞き手を陶酔させる中毒性と、静かに聞き入らせる深度を兼ね備えた稀有な作品である。もちろん、そこにソングライターとしての観念体系も加わった。「思想の翼が育つ時」というタイトルは大げさではない。シンガーが生まれたトロントを離れ、ロサンゼルスに向かい、その先で新しい生活を築くという人生の重要な期間が音楽によって見事に象られている。そして、それらの人生の一側面を示す音楽が鷹の羽のように大空にゆうゆうと羽ばたいている。

 

シンガーソングライターとしての真価を見る時、大切なのは、ループサウンドを用いる時、次のフレーズを呼び込む創造性が含まれているかどうか。それが前のフレーズから飛躍したものであるほど、その人は現在のところ、「才能に恵まれている」ということになる。そして、アルバムやEPの終盤で音楽が萎んでいくのか、無限に広がっていく感覚がするのかということである。

 

ここで、天才と秀才の決定的な差が判明することがある。音楽だろうが、文学だろうが、映像だろうが、絵画であろうが、天才的な表現者は、次にやってくる何かがあらかじめわかっているように作品を制作する。彼らは、頭の上に創造の源泉を持ち、そこから情報を汲み取るというだけなのだ。そんな人々に自らの頭脳を凝らして制作するタイプの人々が叶うわけもない。そして、最初のイメージを形づくるモチーフを風船のようにふくらませながら、糸を手繰り寄せるかのように、次の展開を呼び起こすフレーズを繋げていく。そして、LEGOのブロックのように呆れるほど簡単に組み上げてしまう。

 

たとえ制作者は否定するとしても、録音現場の環境は、実際的にその作品に少なからず影響を及ぼす。それは状況が実際の音楽に乗り移ることがあるからである。カルフォルニアで制作されたものと、ニューヨークで制作されたものが異なるのは当然のことで、このアルバムには間違いなくロサンゼルスの空気感が反映されている。「1-Confusion Song」では、エレクトリック・ピアノのアルペジオをモチーフにして、コアなブレイクビーツを背景に、多彩な展開力を見せる。背景のビートに乗せられるのは、しかし、AWALのアーティストらしい柔らかく艶めかしいボーカル。ルナ・リーはセカンドアルバムで、ネオソウルの影響を活かし、ボーカルの節回しに巧みなグルーヴを加えている。ヒップホップのグルーヴとR&Bのメロウさ、そしてオルトポップの亜流性が、このアルバムの序盤の印象を決定付ける。スケールやコード感覚も絶妙であり、ほとんど停滞する瞬間はない。スムースな曲の展開の中で、ピクシーズの系譜にあるオルタネイトなコード進行や移調を巧みに交えながら、一部の隙もないオープニングを組み上げる。 

 

 

 「1-Confusion Song」

 

 

 

このアルバムではアジア系のシンガーソングライターとしてのエキゾチズムも遺憾なく発揮されている。「2-Fantasy」では、彼女が幼い頃から慣れ親しんできたハープのグリッサンドの演奏を琴のように見立てて、幻想的なイントロを作る。その後、カラオケのMIDIのようなトラックメイク、そしてアフロジャズ風のフルートを起点として、伸び上がるようにソウルフルな曲調へと繋げていく。従来から培ってきたベッドルーム・ポップのフレーズをオーガニックな雰囲気で包み込んで、現代的なソフィスティポップの理想形を作り上げていく。Poolsideのようなチルウェイブの範疇にある心地よいビートは、バレアリックの要素こそ乏しいが、ダンスミュージックのフロアのクールダウンのような安らぎと癒やし、穏やかさな感覚をもたらす。そして、Laufeyの系譜にあるR&Bの音楽性は、モダンでアーバンな質感を帯びる。コーラスワークも絶妙であり、二つのボーカルの重なりは、夕日を浴びる西海岸の波のように幻想的にきらめく。アルバムの序盤は、こういったチルウェイブに属する心地よさと安らぎに重点が置かれている。「3-Minnie Says」では、シティ・ポップに近い音楽性をトロピカルの要素と結びつける。ルナ・リーは、現実的な人生がたとえ悲しい瞬間があろうとも、楽園的な音楽性を作ることを厭わない。いや、むしろ音楽は、現実とは対極にあるものを作ることができることを示す。



「4-Golden Hair」はピアノのイントロからブレイクビーツを絡めたベッドルームポップへと移行する。オルトポップソングを書くことを念頭においているらしいとはいえ、ボーカルの節回しにはヒップホップのハナシがあり、またニュアンスがある。ここでは、TikTok世代のソングライティングと、Youtubeからキャリアを出発させたリーのヒット・ソングに対する考えを垣間見ることができるはずだ。甘いメロディーのポップ、ブレイクビーツ、R&Bを反映させたメロウさ、これらを三位一体として、アルバムの序盤の3つの収録曲と同じように流動的なフレージングを見せる。同じフレーズにこだわらず、次の展開にすんなり移行するのが、心地よさを呼び覚ます。そして、この曲に満ちるリゾート的な空気感は、二つのヴォーカルのハーモニーによって引き上げられる。驚くべきことに、それは幻想的な夕日と海岸のイメージすら呼び起こすことがある。ここには、カルフォルニアに移住したシンガーの新生活の感動が含まれている。

 

アルバムの中盤の2曲では、眠りの前の微睡みのような瞬間をオルトポップで表現している。「5-I Imagine」、「6−Enigami」では、エレクトロニックピアノの音響を基にして、メロウなアトモスフィアを作り、その背後の枠組の中で、同じようにベッドルームポップやオルトポップの甘いフレーズを歌う。そして前者ではチルウェイブ/チルアウトの作風をベースとして、彼女が信奉するテーム・インパラからのモダン・サイケの影響をバロックポップのソングライティングの枠組みとかけ合わせて、このアーティストにしか作りえないものを提供している。「6−Enigami」はハープの演奏を基にして、それを古典的なジャズをモダンな作風に置き換えている。Bjorkの「Debut」の作風を受け継ぎながら、コーラスを交えて祝福的な感覚を作り上げる。マニュピレーションによる電子音楽と、背景のストリングスの要素は、エクスペリタルポップの範疇にあるが、曲の最後ではイントロでは想像もできないような壮大な美麗さを作り上げる。 

 

 「6−Enigami」

 

 


「美学」と言えば、大げさになるが、美学というのは、すべて観念から生ずる。そしてルナ・リーの音楽的な美学が、すでにこの二作目でちらほらと見え始めている。現代的なシンガーの代表格であるクレイロ、ボリンジャーと同じように、古典的な音楽に対する憧憬が本作の中盤から後半にかけて、「ポスト・バロック」という次世代のスタイルを作り出し、圧巻のエンディングを呼び込む役割を果たす。そう、このアルバムは、一つの水の流れのようにうねりながら、オープニングから中盤、そしてクライマックスへと続き、最後の劇的な音楽への予兆となる。 

 

華麗なハープのグリッサンドからはじまる「That's Life」は、このアーティストがアイスランドのビョークの次世代に位置することを伺わせるが、その後は、60年代や70年代のフォークポップを彷彿とさせる曲調に移行する。いわば、Domino Recordingsの所属アーティストのようなノスタルジックなロックソングやポップに焦点を絞っている。この古典的なサウンドは、Real Estate、Sam Evian、Unknown Mortal Orchestraといった男性ミュージシャンがリバイバルとして復刻しているが、それらの系譜を女性シンガーソングライティングとしてなぞらえようとている。しかし、二番煎じとはいえども、ルナ・リーがもたらすベッドルームポップの旋律の甘さは、奥深いノスタルジアを呼び起こす。同じように古典的なポップスを踏まえた曲が続く。

 

「I Would Let You」では、メロディーズ・エコーズ・チャンバーに代表される、次世代のフレンチ・ポップの系譜を受け継いだ甘くメロウなナンバーとして楽しめる。幽玄なホーン、遊び心のあるハープのグリッサンド、そして弦楽器のピチカートを交えた「Take Me There」はルナ・リーの絶妙な音感から美麗なボーカルとコーラスのハーモニーを生み出される。内省的で抒情性溢れるボーカルについては、mui zyuを思わせるが、やはりその後の展開はやや異なる。ルナリーの場合は、メロトロンを使用したビートルズ風のバロックポップを起点に、やはり懐かしいポップスという現代的なシンガーソングライターの系譜に属する曲を作り上げる。そして現時点では、ハープのグリッサンドがこの歌手の強みであり、曲の後半では、R&Bのコーラスワークに加わるグリッサンドが色彩的な音響性を生み出し、うっとりしたような空気感を生み出す。


アルバムの後半部では、ラナ・デル・レイがお手本を示した映画的なポップスへと移行し、クライマックスへと続いている。アフロ・ビートを思わせるフルートの演奏をクラシック・ストリングスと重ね合わせ、美麗なハーモニクスを構築した上で、オルトポップの範疇にあるボーカルを披露するという面では、現代のトレンドに沿っているが、やはり、ミシェル・ザウナーに影響下にある甘いポップスの雰囲気が、アルバムの後半では色濃くなる。そして、今年のポピュラーの傑作といえそうなアルバムのクローズ曲へのインタリュード代わりとなる。前にも述べた通り、アルバムの中の素晴らしい一曲が、他の全ての難点や弱点を帳消しにしてしまう事例は、従来のポピュラー音楽史でも何度もあったことであると思う。

 

全体的なポピュラー・アルバムとしての評価は別としても、ジャパニーズ・ブレックファーストの系譜にある「11−Bon Voyage」は、今年度のポップスの名曲に挙げても違和感がない。その中には、ギルバード・オサリバンの「Alone Againe」のようなバロック・ポップの強烈な切なさと哀感が込められている。ボーカルのニュアンスには確かに、メロディーズ・エコーズ・チャンバーのような次世代のフレンチポップからの音楽的な影響があり、それが実際的にヨーロッパ的な華やかさを与えている。

 

ハープのグリッサンドとストリングスの駆け上がりの後、アンセミックなサビを通じて、祝福的なポピュラーを構築し、ビートルズ、オアシスの次のスタンダードを劇的に構築している。ビートルズのチェンバーポップ、オアシスのブリットポップの次世代に当たる「ポスト・バロック/ネオ・バロック」というジャンルは、すでにクレイロ、beabadoobeeの最新アルバムにも示されている通り、今後、ポップスターの音楽により多く組み込まれるようになるはずだ。


細々とした説明をするまでもなく、このクローズ曲は、今年聴いたなかで最も圧倒されるものがあった。中途半端な曲をたくさん詰め込むよりも、スペシャルな一曲がある方が俄然評価は高まるのは当然のことなのだ。

 


95/100

 

 

Best Track- 「Von Boyage」

 

 

 

 

*Luna Liの新作アルバム「Whin a Thought Grows Wings」はIn Real Life Music/ AWALから本日発売。ストリーミング等はこちら




Weekly  Music Feature -  Pom Poko   

 Pom  Poko


純粋なノルウェーのパンキースウィートネス。パンクなアティテュードにポップ史のオタク的知識が加わり、Le Tigre、Deerhoof、Duchess Saysと比較される爆発的なパッケージとなった。甘く歌い上げるヴォーカルに、激しいグルーヴ、軋むようなギター、クレイジーなリフがミックスされ、ポンポコをライブスペースで圧倒的な存在にしている。男性ホルモンを減らし、甘味料たっぷりのアイスクリームを食べ、糖分を増やし、いずれ到来するK-PUNKの爆発に備えておこう。


ポンポコは成長し続けている。内省的で人生を肯定するポストパンクの記念碑『Champion』では、ヴォーカル/作詞のラグンヒル・ファンゲル・ヤムトヴェイト、ベースのヨナス・クロヴェル、ギターのマーティン・ミゲル・アルマグロ・トンネ、ドラムのオラ・ジュプヴィークが、密閉されたタイトな4人組ロックという楽器編成という点でも、従来で最も親密な関係を築き上げる。多くのバンドが互いを「ファミリー」と呼ぶのは少し陳腐な表現に過ぎるが、Pom Pokoの場合、何年にもわたり世界の隅々をツアーし、大胆にも大衆的なソングライティング・プロセスを導入した結果、彼らは本当に高度にシンクロした1つのユニットへと進化したことは確かだ。


「このアルバムが出るころには、バンドを結成して8年になる。まるで進化しているみたい。いつもバンドと一緒にいるわけじゃないし、自分たちが築き上げたものに対する感謝の念が湧いてくる。奇妙で、素敵な小さなギャングのよう。パワーパフガールズの一員になったような感じだ」


『Champion』は、2019年の鮮烈なデビュー作『Birthday』、2021年の絶賛された『Cheater』に続く、ポンポコの3枚目のアルバムである。どちらのアルバムもバンドのサウンドを確固たるものにした。ポスト・パンクからマス・ロック、そしてその中間にあるものまで、様々なサウンドを奏でるバンドの痛烈なノイズの猛攻を、ラグンヒルドの甲高くも澄んだ歌声が際立たせている。


「私たちは、バンドに生活のすべてを捧げているような、非常識な量のツアー中にバースデーを作りました」とドラムのオラ。「現実的な理由から、私たちは最近、お互いの定期的な交流から離れなければいけなかった。マーティンがパパになったから、しばらくリハーサルができなかった。安っぽく聞こえるかもしれないけど、自分が何を手に入れたかなんて、なくなってみないとわからないもの。これまでずっと、ポンポコと一緒に演奏していたときの感覚は、バンドで演奏するときの一般的な感覚だと思い込んでいたんだけど、そうじゃなかった。実は、このバンドでしか発生しない、ほかでは得難いスペシャルな感覚だったんだ」


一緒に演奏することへの感謝の念の高まりは、そのまま音楽にも反映されている。ポンポコは相変わらず鋭いエッジを保っているが、辛辣なギターの爆音と弾力性のあるベースラインの切れ味には、新たな成熟が滲み出ている。「『Champion』には、以前のアルバムよりスペースがあり、実験する余地が残されていた」とギターのマーティンは言う。「でも、曲作りやプロダクションの面では、他の多くの作品ほど即興的ではなく、より要点を押さえたものになっているはずだよ」


ポンポコはこのアルバムで初めてセルフ・プロデュースを行なったが、それは彼らの創造的な自由感をさらに高めるものだった。


「テレパシーのように仕事ができるようになった」とオラは話す。「アルバム制作中、スタジオではほとんど話さなかったし、お互いに伝えなければならない芸術的な意図もほとんどなかった。それでも、みんな、自分が何をすべきかわかっていたんだ」 


プロデューサーとコミュニケーションを取ろうとすると、たくさんのアイデアを詰め込んでしまいがちなのかもしれない。今回初めてバンドとコラボレートしたアリ・チャント(PJハーヴェイ、オルダス・ハーディング、ドライ・クリーニング)がミックスを担当した『Champion』は、ポンポコの特徴的なサウンドを継承しつつ、コントロールされ、実現的で、成熟した作品となっている。


とはいえ、アルバムのタイトル曲には少々皮肉な意味が込められているらしい。チャンピオンになること、目標に秀でることとはどういうこと? その目標が変わったらどうなるの? 楽しく甘いサウンドのインディー・ロックの中で、ボーカルのラグンヒルドは、人生は自分で切り開くものだということ、つまり、実は自分なりのルールでプレーしてもいいということを歌っている。


「チャンピオンという言葉は最初から念頭にあった」とボーカリストのラグンヒルドは説明する。新曲の制作中、即興的で無意識的なジャム・セッションの最中に歌詞をふいに思いつくこともあり、それがポンポコの音楽に超現実的な輝きを与えることになった。


「ある晩、自分のアパートで、このタイトルの歌詞を作った。アパートの前に大きな駐車場があって、そこに座って外を眺めていた。すると、バンに乗っていて、ツアーをしていて、今まで行ったことのある駐車場のすべてのイメージが鮮やかに浮かんできた。この曲は、''歳をとって、もう世界を征服する必要はない''という実感について歌っている。すべて自分たちのためにやっている。20年続くバンドでいられたら本当に素晴らしいこと。私達はトップではないけど、同時にチャンピオンでもある」



Pom Poko 「Champion」-  Bella Union

 

ノルウェー/オスロの四人組、Pom Pokoは、Deerhoofの後継的なアートロックバンドで、他にも、Fastbacks、The Dismemberment Plan、Jaga Jaggistといったバンドに近いユーモラスな音楽性が特徴だ。これらのバンド名を知っている人ならば、ニヤリとしてしまうようなグループである。

 

オスロのポンポコは、三作目のスタジオアルバム「Champion」で素晴らしい結果を残している。ポンポコのサウンドは、基本的にはパンクやポストパンクに属するが、マスロックやポストロックの系譜にある変拍子を主要なモチーフの合間に挿入することで、楽曲に奥行きと変化を与える。ポンポコのサウンドの土台を作るのは、ジョン・ボーナム級のタム回しの技巧を誇るドラム、そして、ミュート奏法やルート弾き、ジャズコードを弾きこなすセンス抜群のフィンガー・ベースである。また、ディアフーフように、絵本的な世界観を表すミニマルミュージックの系譜にあるギター、そして、北欧神話や童話のようなイメージを持つボーカルというように、ノルウェーのバンドらしさが満載である。そして、これらのちょっと風変わりな音楽性に強い説得力を及ぼしているのが、歴代のプログレバンドやハードロックバンド、そして、アートロックバンドのような「アンサンブルとしての卓越性」である。Jaga Jaggistにとどまらず、オーストラリアのHiatus Kaiyoteのような近未来的な音楽性も含まれている。ただ、それは、ハイエイタスのようにフューチャーソウルの範疇で行われるのではなく、北欧神話やクトゥルフ伝説のような幻想性やファンタジックな音楽性によってもたらされる。それに親和性をもたらすのが、ラグンヒル・ファンゲル・ヤムトヴェイトのファンシーな印象を持つボーカルだ。

 

アルバムには、社会的に先進的な気風を持つ「ノルウェーという国家性」が力強く反映されているように感じられる。これはスウェーデンやノルウェーといった国家が、どれだけ社会的に進んでいるかを見ると良く分かる。ポンポコの音楽は、これまで多数の先進国に植え付けられて来たある種の「呪縛」から人々を開放させる力を持っている。既存の概念とは違う別軸の考えがどこかに存在すること、あるいは、主流とは異なる見解がどこかに存在することを示唆する。


これらは、かつてパンクバンドやインディーズミュージシャンの重要な役割であったが、いつしか、そういったミュージシャンの間でも奇妙な敵対意識が生み出され、一部のグループの間での競争主義や、ナンバーワン主義のようなものが蔓延していくことになった。あまつさえ、主流派の考えに流される動向も見出される。それでも、トップに上り詰めなければ意味がないという考えの先にあるものが何だったのか、今、現代社会全体は再検討する時期に差し掛かっているのではないか。それは他者を蹴落とすような先進性のかけらもない野蛮さや暴虐性、そして、目標が達成されなかった時に生ずる虚しさ以外、何物も生み出すことはなかったのである。


その先には、争いやドラスティックな戦争という事象に繋がっていく。これもまた、自分と他者、味方と敵という二元的な考えから発展している。結局、そういった競争主義がもたらすものは、勝者と敗者という対象性、網からこぼれ落ち、主流から踏み外した人々が感じる虚無主義でしかない。つまり、競争主義や資本主義社会の基底に大きな空隙を生じさせ、無数のニヒリストたちを発生させたのである。現代社会や後期資本主義が生み出した最大の負の遺産を挙げるとするなら、二元的な考えから汲み出されるニヒリズムである。そして、今、主流派がニヒリストの台頭に怯えるとすれば、''それを誰が生み出したのか''を考える必要があるかもしれない。

 

ポンポコは、言葉で音楽を捻じ曲げたりはしない。 また、アルバムの歌詞の中でも、ドラスティックな表現や明け透けなテーゼのようなものも、ほとんど登場しない。しかし、そういった宣伝的なキャッチフレーズや、ましてやプロパガンダのような謳い文句が登場する音楽よりも説得力が込められている点に、頼もしさと深い感動をおぼえる。時々、アルバムの曲に登場する「Family」、「Go」、「Champion」という、端的であり、その場では意味をもたないようなシュールな表現が、実際的には、しっかりと文脈で繋げられた文章よりも歌の中に浸透している。

 

 

 「1-Growing Story」

 

 

 

リリックにとどまらず、音楽的な側面でも素晴らしさが際立っている。ポンポコの曲には、「1-Growing Story」を見ると分かる通り、ミレニアム時代までの4ADのサウンドが貫流している。バンドのサウンドには上記のコアなバンドと併せて、Throwing Musesに近い要素が含まれている。これは何も偶然ではなく、レーベルボスのサイモン氏がこれらの4ADのコンセプトを的確に捉えているのだろう。この曲には、オレンジカウンティのパンクの奔放さから、70年代のイギリスのポスト・パンクのひねりのある感性に至るまで多角的に吸収しつつ、オルタネイトなロックの醍醐味を示そうとしている。それは先にも述べたように、「主流派とは異なる考えが存在する」という癒しを意味する。ポンポコは、ユニークでユーモラスなサウンドを介して、現代社会の一元的な考えから開放し、そして、それに固執することの虚しさを、やんわりと教唆するのである。それが音楽としての自由な感覚を生み出し、そして開放的な気風をもたらす。

 

アルバムを聴いていると、今までとは違った見方があるかもしれないと思わせることもあるし、そして、もう一つ、フレンドシップが音楽という形で築き上げられていることも見過ごせない。結局、敵か見方かと見定めるような視点は、二元的なものの見方から生ずる。しかし、このアルバムは、右にも、左にも、上にも、下にも、斜めにも他の考えがあると示唆している。


「2- My Family」は、Deerhoofの影響も含まれているかもしれないが、少年ナイフ、Melt Bananaといったガールズパンクバンドの音楽性を受け継いでいるように感じられる。そして、その中に、グリーン・デイのような男性中心のバンドとは相異なるファンシーな音楽の印象をもたらそうとしている。表面的には、パンクロックの印象が目立つが、その中にジャングルポップ、パワー・ポップの甘酸っぱい魅力が凝縮されている。甘いメロディーと夢想的な感覚については、Fastbacksの系譜に位置づけられると言える。それらをマスロックやポストロックの変拍子を織り交ぜたテクニカルな曲構成によってバリエーションをもたらし、モダンな感覚を添える。


「3- Champion」は、今年聴いたインディーロックの中でベスト・トラックに挙げられる。''私達はトップではないが、チャンピオンである''という考えは、現代社会において最も先進的な考えかもしれない。少なくとも、競争主義社会の中でもみくちゃにされ、存在意義を見失い、内的な悲鳴を抑え込む人々にとって、救いのような意味を持つ。それをカーペンターズの影響下にある慈愛的な音楽性を基にして、ポストロックという形式に繋げたことは大いに称賛されるべきだ。

 

Throwing Muses、Frankie Cosmosのように、シュールで穏やかなインディーロックとしても楽しめるが、何より、この曲のヤムトヴェイトのボーカルには泣かせる何かがある。そして、バンドアンサンブルを見てもまったく非の打ち所がない。他者の個性を尊重した上で、自分の個性を発揮している。ギターやドラムのタイトさも凄いが、フィンガーベースの卓越性に注目である。

 

 

「Champion」- Best Track

 

 

「4- You're Not Helping」に見出されるような、ちょっとシュールで斜に構えたような感じは、従来のガールズパンクバンドの直系にあるといえようが、もう一つのアート・ロックバンドとしての性質が垣間見える瞬間もある。そして、「音楽でしっかり連携が取れていたので、録音現場で会話をする必要がなかった」というエピソードは、この曲にはっきりと反映されている。


曲のイントロでは、Deerhoof、Le Tigreのようなワイアードなサウンドを起点として、四人の間で対話をなすかのように音楽が徐々に変遷していく。アート・ロックからポスト・パンク、そして再びワイアードなアート・ロックへとセクションごとに音楽性を変化させる。ときどき、ベースに激しいオーバードライヴを掛けているが、しかし、ヤムトヴェイトの親しみやすいボーカルにより、マニア性が中和されて、聞きやすさが保たれる。これは文章の読みやすさの配慮と同じように、聞き手に対する音楽の聴きやすさの配慮がなされている。つまり、一般的に理解しがたくて、難解な音楽性も登場する反面、全体的にはわかりやすさが重視されている。

 

 

冒頭で述べたように、童謡的な音楽、あるいはまた北欧神話のような幻想的な物語の特性は、続く 「5− Pile of Wood」に力強く反映されている。しかし、それは一貫して一部のマニア向けのものではなく、一般性に重点が置かれている。また、ボーカルに関しては、小さな子供に絵本やおとぎばなしを読み聞かせるような''柔らかく優しげな音楽''の印象を立ち上らせる。そして、音楽性の抑揚の変化も軽視されることはなく、The Clienteleの最初期のようなアートロックの柔らかさを押し出したと思えば、それとは対象的に、Deerhoofのパンキッシュな側面を暗示したりというように、コントラストを用いながら、多角的なサウンドが構築されている。これらはやはり、バンドの卓越した演奏技術や音作りの職人性から生じている。それらがこの上なく洗練されているから、こういった個性的でありながら、親しめる音楽が作り上げられるのだろう。 

 

夕暮れの波の静かな満ち引きのように、幻想的で美しいサウンドがアルバム全体の流れを形づくり、強い印象を持つ序盤、それとは対象的に静かな印象を持つ中盤部というように、作品全体としての起伏やアクセントをもたらし、後半部への連結や繋ぎのような役割を果たしている。

 

「6- Bell」は、古典的な米国南部のフォーク・ミュージックをベースにしている(と思われる)。Lynyrd Skynyrd(レナード・スキナード)のような米国南部のフォーク・ミュージックを夢想的で幻想的なインディーロックへと昇華させ、それらを幻想的で落ち着いたイメージで包み込んでいる。この曲でも、クロヴェルのベースのプレイの傑出した演奏が見出される。ボーカルと対旋律を描くのは、ギターでなくベースである。これらの演奏は、この楽器のリズムとは異なる主旋律の補佐としての重要な役割を果たしている。そして、それらを引き立てるようにギターの繊細なアルペジオが加わり、緻密なアンサブルが構築される。曲の中盤と後半では、ボーカルの祝福的な響きが心を捉える。本作の中で最も癒やしに満ち溢れたナンバーである。

 

アルバムは後半に差し掛かると、まるで本質的なテーマに迫っていくかのように、パンクバンドとしての勢いを取り戻す。ガールズパンク、アート・ロック、ポスト・ロックという3つの音楽性を元にして、ユニークな音楽性を組み上げていく。「7-Go」はギターのイントロをベースに、パンキッシュな印象を持つバンガーへと変化していく。オレンジカウンティのパンクバンドのように、開放的な感覚やアンセミックなフレーズを散りばめつつ、個性的な楽曲を作り上げていく。もちろん、中には、シンガロングを誘発するようなフレーズも登場することがある。

 

「8- Never Saw It Coming」では、70年代のX-Rey Specsのようなコアなポストパンクの影響を受け継ぎ、アート・ロックに近い音楽性へと昇華させている。また、バンドの趣味なのかもしれないが、曲の中には心なしか、アメリカンコミックやスチームパンクのようなサブカルの匂いが感じられる。それはセサミストリートのようなユニークな音楽性とパンクによって縁取られる。

 

 

 「9- Druid, Fox And Dragon」は、初期のDeerhoofの系譜にあるアートパンクであるが、たとえ後追いのような内容であるとしても、バンド全体のファンシーでユーモラスなイメージや、高い演奏力において、じっくり聞かせるものがあるため、単なるフォロワー以上の意義を見出すことができるはずである。そしてやはり、楽器全体の音作りは、IDLESに匹敵するくらいのマニア性とこだわりがあるのだが、しかし、ライヴで矢面に立つフロントパーソンのボーカルは、一貫してビートルズのようなわかりやすさ、歌いやすさが重視されている。そのため、曲全体はまったく難解にもならなければ、複雑怪奇にもならない。そして、どれほど複雑な構成をセクションに交えようとも、美しい旋律性が損なわれることはない。これはバンドとしての全体的な役割がはっきりしており、さらに言えば、音楽で会話が出来ているからなのかもしれない。

 

アルバムの後半にも凄まじい曲が収録されている。音源からバンドの演奏の卓越性がストレートに伝わってくる事例として、例えば、Hiatus Kaiyoteの最新アルバムが挙げられるが、「10 - Big Life」はそれに匹敵するか、もしかすると、上回る瞬間もあるかも知れない。ロンドンのIDLESのような実験的なベースやギターの音作りを起点に、Led Zeppelinの「Achiless Last Stand」を彷彿とさせるトロットのようなリズム、鋭い風車のようなドラミングのタム回しが炸裂する。

 

これは、ポンポコがバンドとしての頂点に到達した瞬間であり、長らく忘れ去られていたハードロックやプログレッシヴ・ロックの核心が示されている。ただ、そういったハードな側面で終わらないのが、このバンドの醍醐味である。クローズ「11- Fumble」では、冒頭のような、カーペンターズの系譜にある慈愛的なインディーロックへと回帰している。そして、ヨーデルやスキャットのような特殊な歌唱法を元に、孤高のインディーズ・ミュージックを構築している。「Champion」は、Jaga Jaggistの主要作品と同様に、北欧のインディーズロックがいまだに主要な市場を誇る国々の音楽にまったく引けをとらぬ高水準の内容であることを示唆している。





95/100

 


 

 

 Best Track- 「Big Life」

 

 

 

*Pom Poko 「Champion」はBella Unionから本日発売。ストリーミング等はこちらから。

 

 

 

Details: 

 

「1-Growing Story」A

「2- My Family」B

「3- Champion」SS

「4- You're Not Helping」B

「5− Pile of Wood」A

 「6- Bell」S

 「7-Go」A

 「8- Never Saw It Coming」A

 「9-Druid, Fox And Dragon」B

 「10- Big Life」S

 「11- Fumble」 A

【Weekly Music Feature】 belong

Belong

  ルイジアナ州ニューオーリンズの濃密な暑さの中で生まれたBelongは、ターク・ディートリッヒとマイケル・ジョーンズの共同プロジェクト。デビュー・アルバム『October Language』は、伝統的な曲の構造を超えて、メロディーの形象が曖昧になり、テクスチャーが華麗に音の海に彫刻される場所へと向かう。


Belongは2002年にニューオーリンズのウェストバンクで活動を開始したが、October Languageが制作されたのは2004年のことだった。このアルバムは、ディートリッヒの寝室で組み立てられ、分解された。しかし、曲のインスピレーションは壁をはるかに越えている。このアルバムには、彼らの故郷であるニューオーリンズが凝縮されており、陽光と色彩に包まれながらも、汗と腐敗と豊かな悲しみが漂う。アルバムは、摩耗し、朽ち果て、破壊されたものの美しさを表現しようとするものであり、地鳴りのような音の可能性の広大さと人間の条件の希望に満ちた研究でもある。


ターク・ディートリッヒは以前、テレフォン・テルアビブのジョシュア・ユースティスとベネリ名義でコラボレートしており、ナイン・インチ・ネイルズの「The Frail (version)」のリミックスは、高く評価されたNINのEP『Things Falling Apart』に収録されている。ユースティスは、アルバムのタイトル・トラックでスライド・ギターを弾いているほか、『October Language』の制作にも少し参加している。


ベロングことマイケル・ジョーンズとターク・ディートリッヒのデュオによる3作目のフルアルバム『Realistic IX』は、彼らの特徴であるアシッドに洗脳されたソングクラフトの拡張及び発掘でもある。抽象的なギター、メトロノミックな靄と催眠の移り変わるグラデーションの中で、メロディーは表層近くまで押し寄せてくる。メロディーは水面近くまで押し寄せ、形を変えてからフィードバックの流れの中に沈んでいく。他の場所では、要素は濁りと微小音の黄昏へと消え去り、電気は無限の夜へと解き放たれる。


クランキーからリリースした前作『コモン・エラ』から13年が経過しているが、このデュオの稀有な相乗効果はその間にまったく衰えていない。ジョーンズとディートリッヒのモーターリック・ドローンとリミナル・エモーションの斜に構えた状態へのこだわりは、進化を続け、ますます触覚的で非現実的な、魔女の時間に曇った窓から垣間見える魅惑的な輝きを放ち続けている。



『Realistic IX』/ kranky

 

  アンダーグラウンド・ミュージックのファンにとって、ロンドンのWarp、そして、シカゴのkrankyは、二つとも度外視することが出来ないレーベルである。アンダーグラウンド・ミュージックのメッカであり、作品の売上は別としても、90年代から新しい音楽を率先して紹介してきた。

 

現在のストリーミング世代において、アンダーグラウンド・ミュージックの役割というのは何なのだろうか。少なくとも、レコードマニアのような嗜好性により地下音楽を蒐集する意義は、2000年頃よりも薄れていることは事実である。なぜなら、現在はいかなるアンダーグラウンドミュージックも、デジタル・プラットフォームで簡単に試聴することができるからである。

 

少なくとも、レコードマニアとして言及するなら、こういったアルバムは十数年前くらいには、ショップで入手することはおろか、試聴することさえ出来なかった。そこで活躍したのが、MP3等を紹介するサイトや、それらの音源を配布するアンダーグラウンドのサイトであった。これらのサイトの多くは、ブログ形式で運営され、地下音楽の紹介という重要な意義や役割を担っていた。つまり、それが2000年代の著名なブロクメディアの台頭した理由であった。結局のところ、デジタルプラットフォームとストリーミングサービスの普及は、「音源としての希少性」という最後の牙城を曲りなりとも壊し、商業性をも破壊した。音楽ファンとしては喜ばしい反面、複雑な心境を覚えることがある。これらのサイトの多くは、逆に商業音楽を宣伝することにより、生き残ったという印象もあるが、結局、アンダーグラウンドミュージックを紹介する意義は、依然よりも希薄になっていることは事実かもしれない。そんなことを昨日、主要なサイトのウェブアーカイブの変遷を確認しながら、考えるところがあった。

 

一般的なリスナーとしてのアンダーグラウンド・ミュージックの希少性が2000年代頃よりも薄れてしまった、という点を踏まえて、今後、これらの音楽はどのように聴かれるべきなのだろうか。もしくは、どのように紹介されるべきか?  結論を出すのは早計となるだろうが、少なくとも、「商業主義の音楽とは別の基軸を持つ音楽が併存する」という事実を示さねばならない。音楽は、その固有性、多様性、特殊性が存在する余地が残されているからこそ、長い時代「文化」や「リベラルアーツ」として親しまれてきた。要するに、単一の形式にとどまらず、亜流(オルタネイティヴ)が存在するからこそ、長く生きながらえてきたのである。もし、商業主義しか、この世に音楽が存在しないとなると、それはすでに多くの多様性が失われていることの証左となる。つまり、それ以降、音楽という分野そのものが衰退していくことが予測される。この難しい局面に対抗するべく、アンダーグラウンド・ミュージックが存在している。そして間違いなく、未来の商業音楽の流行は、アンダーグラウンド・ミュージックが支えている。そして、前にも述べたように、メインストリームとアンダーグラウンドの持つ役割はそれぞれ異なる。さらに、一方の役割を拒否するとなると、もう一方が滅びゆく運命にあるのである。

 

belongに関しては、昨日まで名前すら知らなかったが、伝説的なシューゲイズプロジェクトと見ても違和感がないようだ。そして、このシューゲイズというジャンルはこれまで、オルタナティヴロックの系譜にある音楽と見なされることもあったが、ニューオリンズの二人組の音楽を聴くと、どうやらそんな単純なものではないということが判明したのである。例えば、MBVのギタリストであるケヴィン・シールズは、シューゲイズというジャンルに関して、それほど快く思っていないらしく、忌避することもある、という話を仄聞したことがある。おそらく、それは「ギターロックの系譜にある音楽」と看過されることを嫌がっているからではないだろうか。


ただ、ブリットポップのような水かけ論となるが、シューゲイズというジャンルが存在しないか、もしくは商業的なキャッチフレーズに過ぎないかといえば、それも考え違いである。そもそも、シューゲイズというジャンルは、Jesus & Mary Chainの音楽性とMBVの音楽性を比較対象として比べて見ると分かる通り、80年代後半のスコットランド/アイルランドのネオ・アコースティックやギター・ポップ、ロンドンのゴシック・パンク、さらには80年代のマンチェスターのアンダーグラウンドのクラブ・ミュージックが複合的に掛け合わされて生み出され出来上がった。さらに言及すると、マンチェスターのサイケデリックなエレクトロの要素が色濃い。

 

つまり、シューゲイザーは、クラブ・ハシエンダ(Factory Records)のベースメントのクラブミュージックがハードロックとして再構成されたと見るべきなのだ。つまり、クラブミュージック色が薄いシューゲイズは、このジャンルから少し逸れた音楽であると指摘できるのである。

 

 

 

ルイジアナのBelongは、13年ぶりの復帰作「Realistic IX」において、アンダーグラウンドミュージックの隠れた魅力を掘り起こしている。すでにヒップホップのミックステープや、オルタネイトなロックバンドのローファイなテープ音楽のような作品は、年々探すのが難しくなっているが、「Realistic IX」は、そういった失われつつあるカルチャー性を見事に復刻させる。そして、このアルバムを聴くと、シューゲイザーは音楽性に磨きを掛けていくと、最終的にはアシッド・ハウスやノイズに近いアヴァンギャルド・ミュージックに変化することが分かる。このアルバムに、ポピュラー性とか聴きやすさといった商業性を求めることは穏当ではないだろう。アルバムの全編には、アシッド・ハウスのビートが駆け抜け、そして、苛烈なギターノイズが無尽蔵に暴れまくる。しかし、MBVのような蠱惑的な陶酔感を呼び起こすのである。

 

このアルバムではもうひとつ、シューゲイザーの要素と合わせて、ニューヨークの原始的なプロトパンクからの影響が含まれている。冒頭を飾る「1- Realistic」は、シューゲイザーのお馴染みのフィードバックノイズを生かしたギターで始まり、中性的なボーカルサンプリングで色付けをしている。アナログシンセ/サンプラーのレトロなマシンビートが、背景の4つ打ちのビートを形成している。これらの反復的な楽曲構成が、80年代のエレクトロに象徴されるようなサイケなクラブミュージック、アシッド・ハウスのエグみのある性質を生み出す。ギターサウンドには最初期のSonic Youth(サーストン・ムーア)からの影響もあり、前衛的な響きを帯びている。

 

「2- Difficult Boy」では同じようにフィードバック・ノイズを発生させ、うねるようなグルーヴを作り出した上で、一曲目と同じように、中性的なボーカルのサンプリングを導入し、甘美な感覚をもたらす。これらは、ギターロックによって構成されたアシッド・ハウスとも呼ぶべきだ。

 

一つのフレーズを元にし、ギターのピックアップから発生するトーンの変容を発生させ、ロックによるドローン・ミュージックを構築していく。ギターの音色に関しても、相当なこだわりを感じさせ、Stiff Little Fingers-「Suspect Device」、Swell Maps-「International Resque」の系譜にある、ザラザラとして乾いたファズ/ディストーションのプリミティヴなギターの質感を重視している。つまり、1970年代の最初期のガレージ・ロックのように、ストレートでリアルなギターサウンドが、フィードバックノイズによりシューゲイズ風の音作りへと組み替えられている。

 

「3- Crucial Years」は、ノイズ/クラブ・ミュージックとして聴くと圧倒される。ギターのフィードバックとアナログシンセで発生させたグリッチ音をビートに見立て、原始的なデトロイトのハウスや以後のアシッド・ハウスの魅力を再訪している。これらは、現在のクラブ・ミュージックから見ると、サンプリングで済ませてしまう要素を、実験音楽としてゼロから組み上げている。実際的に、これらのDIY的な試みは、この音楽にリアリティをもたらしている。荒削りなノイズは、最終的に、アシッド的な陶酔感をもたらす。そして、とっつきやすいわけでもないのに、何度も聞き返したくなるような得難い中毒性がある。これぞ実験音楽の醍醐味である。

 

「Souvenir」

 

 

中盤に収録されている「4- Souvenir」「5 - Image of Love」では、オールドスクールのシューゲイザーに回帰している。

 

ただ、belongが志向するのは、ケヴィン・シールズの作り出した中毒性のあるギターサウンドの再現にある。打ち込みで録音したマシンビートのシンプルさと、ギターのフィードバックノイズから発生する倍音を組み合わせ、独特なグルーヴを抽出している。これらは、バンドの演奏では「ノリ」とか言われるものを、たった二つの楽器により生み出しているのが凄い。もちろん、既視感のあるスタイルだが、これらが模倣の域を出ないというわけでもない。サイケデリックなエレクトロニクス、旋律的な側面での融合を起点にして、耽美的な感覚を生み出したMy Bloody Valentineに比べると、この曲では、プリミティヴなガレージロックの性質が強調されている。これはシューゲイズというジャンルに内包される「パンクの要素」を浮かび上がらせる。

 

MBVのシューゲイザーの本質には何があるのかといえば、それは名ギタリスト、ケヴィン・シールズの編み出した革新性である。端的に言うと、「ギターをシンセサイザーとして解釈する」ということにあった。つまり、彼はギターという楽器の未知の可能性に挑戦し、轟音のフィードバックノイズを活かしたトーンの変容に焦点を当てた。これらは、実際にはコードを大きく変更していないにも関わらず、アナログ機材の効果の信号の発生のエラーや、音がピックアップ内のコイルで増幅される過程において倍音を発生させ、最終的には、クラブミュージックのエレクトロのような重層的な音の広がり、同時に、トーンの複合的で色彩的な揺らめきを作り、それがシューゲイザーというジャンルの核心にある陶酔的と呼ばれる印象を生み出した。belongは、この点を体感的に知り尽くしているらしく、エレクトロニックの観点から、この音楽を再検討している。これはまた最も濃密で最もコアなシューゲイズへの旅を意味するのだ。



現在のエレクトロニックは、プラグインやソフトウェアが豊富であり、次から次へと新しい製品が発売される。ミュージシャンも、つい手早く便利な機材を使用しがちと思われるが、しかし彼らは、おそらくアナログの配線を組み、オシレーターを用い、電気信号によるビートを発生させるという、電子工学の基礎に回帰している。つまり、Aphex Twinもかつて大学で電子工学を専攻していて、また、一からプログラミングを組んでいたという話は一般的によく知られている。元々、このエレクロニックというジャンルは、Caribou(ダン・スナイス)を見ても分かる通り、理系の分野を得意とする音楽家が率先して取り組むべきジャンルで、そして、そこには、機械工学及び建築学の設計や図面の要素が入り込む。いや、入り込まざるを得ないのだ。

 

 

さらに、belongの音楽的な構築はかなりアナログであるため、時代錯誤の印象を覚えるかもれない。しかし、他方、そこには、リアルな音楽としての魅力や、エレクトロニックの本質的な醍醐味が宿っている。「Bleach」は、グランジ、カレッジロックどころか、それよりもさらに古い時代に遡り、アラン・ヴェガ擁するSuicide、Silver Applesを始めとするニューヨークのアンダーグラウンドミュージックの要素を受け継ぎ、それらを苛烈なノイズミュージックで縁取っている。

 

続く「7- Jealousy」では、『Loveless』の方法論を引き継いでいるが、しかし、もう一つの重要な要素である感覚的なシューゲイズ、内的な感情を表現するためのギターサウンドに焦点が絞られている。 そして、ここではケヴィン・シールズのボーカルのサンプリング的な側面を受け継ぎ、それを忠実に再現している。この曲に関してはマイブラの復刻という意図も感じさせる。

 

英国のレーベル”Creation”は、My Bloody Valentineの「Loveless」の制作後、巨額の費用を掛けすぎたため、レコード会社として資金繰りが立ち行かなくなり、破産申請をすることに。後にレーベルはラフ・トレードと同じように買収されることになった。しかし、それほどまでに、このアルバムが、時代を変えるような作品になるとレーベル側は見込んでいたという話である。

 

一瞬にしてミュージック・シーンを塗り変えてしまうような作品はいつ出てくるのか?? 後の爆発的なヒットを考えると、運に恵まれなかったが、「Loveless」はブリットポップの最盛期において、時代の先を行きすぎた作品だった。そして、シューゲイザーの次世代のバンドやアーティストが活躍しているが、まだまだこのジャンルは、世界的に見ても、生き残る可能性が高いのではないか。そのことを象徴付けるかのように、アルバムのクローズ曲「8- AM/ PM」では、画期的なシューゲイズを制作している。この曲では、やはり「アシッド・ハウスとしてのシューゲイズ」の性質を強調し、アンダーグラウンドなクラブミュージックに昇華させている。

 

 

「AM/ PM」- Best Track

 

 

84/100

 

 

belongのニューアルバム「Realistic Ⅸ」はkrankyから本日発売。アルバムのストリーミングはこちら

 

 

Details:


1.「Realistic」: C+

2.「Difficult Boy」: B+

3.「Crucial Years」:A-

4.「Souvenir」: B +

5.「Image of Love」: A-

6.「Bleach」: A-

7.「Jealousy」:B-

8.「AM/ PM」:S (A+)- Best Track

Weekly Music Feature -  april june   マドリッド発 インディーポップのニューウェイブ 




エイプリル・ジューンは2020年代後半の新しいポピュラーミュージックのウェイブをマドリッドから世界へ巻き起こそうとしている。最近では、アーバンフラメンコを中心にスポットライトを浴びているスペインの音楽は、米国や英国に続くもう一つのメインストリームの中心になりつつあるらしい。エイプリル・ジューンの才気煥発なサウンドは、夢想的なドリームポップの範疇にあり、エクスペリメンタルポップを吸収し、次世代のニューミュージックを作り出す。


注目すべきは、人間の内面をテーマに取り、哲学的な省察を交えて陶酔的なポピュラーに昇華する。少し逃避的な音楽かもしれないが、巧みな音作りには治癒が込められている。


エイプリル・ジューンのサウンドスケープは、抽象的で、暗く濃密で、永遠の黄昏の魅力に輝く境界の間を躍動する。彼女の曲は、物思いにふけるヴォーカル、ムーディーな色合い、それから、80年代と90年代のポップ・カルチャーに牽引されたノスタルジアへの憧れとともに、メロディックな行程を旅している。その音楽は、愛、情熱、欲望、親密さ、多くの複雑な側面についての物語的な探求に人々の心を引き込み、若い年代の感情を鋭く描出している。リスナーが現実という枠組みから離れ、自分自身を発見する方法を探すことができるように手助けをする。


エイプリル・ジューンは、これまでノスタルジックなオルタナティヴ・ミュージックを中心に制作し、「人々の心に深く響く曲を制作しようと努めてきた」という。彼女は憂鬱と憧れの物語を紡ぎ出し、いかなる季節のエッセンスもメロディックな白昼夢に変えてしまう。


ラナ・デル・レイ、ガール・イン・レッド、ザ・マリアスなどから影響を受けたエイプリル・ジューンの主な音楽的なテーマは、原子化、混乱、ノスタルジア、人間関係、不確かさといった感情を中心に展開される。


ストリーミング再生数でアーティストの人気が左右される現代の音楽業界。そしてジューンは現代のストリーミングのトレンドの波を上手く乗りこなしている。エディトリアル・プレイリスト、ローファイ・ミックスに登場し、音楽のエモーショナルな重厚さでリスナーを魅了する。2022年ヨット・クラブがアシストしたシングル "Stuck On You "は、1400万以上のSpotifyストリーミングを獲得し、"biking to your house "や "summer bruises "といった楽曲がその記録に続く。


「1年間『ザ・ソプラノズ』にどっぷり浸かっていた。この番組は人間の心理、潜在意識、文化的な象徴の探求なのだと気づいた」エイプリル・ジューンは語っている。「特にトニーがラスベガスでペヨーテを使ったギャンブルに興じるエピソードがとても印象的だった。複雑な層を持つシリーズは百科事典のような役割を果たしている。ルーレット・ホイールの象徴的な性質に関するRedditの引用を振り返ると、人生の予測不可能性についての思索に拍車がかかることがある」


「これらの洞察は、''自分の運は自分で切り開く''という考えに疑問を投げかけ、運命を受け入れ、避けられないことを受け入れるよう促している。行動パターンが運命の暗喩であるかを自分に問いかけ、不利な人間関係を引き寄せることについての内省を促す。パターンを繰り返すことが普遍的なデザインに合致しているのか、宇宙の秩序について考えさせられることがあった。個人間の不思議な繋がりは、2人の出会いにおける運命の役割について疑問を投げかける」



april june  『baby's out of luck again』- Nettwerk Music Group

 



マドリッドでは、Hindsが英国や近隣諸国のメディアを中心に注目を受けているが、ダークホースとして控えている"april june"も見過ごすことができない。2010年代のPorches、Black Marbleなど、New Orderの系譜にあるシンセポップを踏襲し、それらをドリーム・ポップとして包み込む。

 

エイプリル・ジューンの次世代のインディーポップ/オルトポップは、Beabadoobee、Yeule,mui zyu、Ashnikko、Jordanaといった、ローファイとオルトポップ、エクスペリメンタルポップという2020年代の若い年代のポップスの流行に準じている。これらの女性シンガーを中心とするファンシーなポップの一群は勢いがあり、今やウェイブを形成しつつあるようだ。ベッドルームポップ、ノイズやメタルを絡めたハイパーポップに継ぐ何らかのムーブメントとなりそうだ。


エイプリル・ジューン(4月ー6月)というアーティスト名もシュールで面白いが、SSWの作り出すシンセ・ポップを基調にしたサウンドはさらにユニーク。JAPANなどのニューロマンティックの70年代の音楽に触発されたゴシック的な響きも含まれているが、シンガーソングライターの持つファンシーさでそのイメージは帳消しになり、ワンダーランドのような世界が構築される。

 

ファンシーなシンセポップと聞くと、アイスランドのmumのような童話的な電子音楽を思い浮かべるかもしれない。しかし、実際は、エイプリル・ジューンの音楽はchvrchesに近く、商業性に重きが置かれ、無駄な脚色や編集的な要素は削ぎ落とされている。強いて言うなら、プラグインとしての主要なエフェクトは、ボーカルのオートチューン、楽器のリバーブ、ディレイに留められている。そして、ニューロマンティックの系譜にある音楽性をガーリーな印象で彩り、アートワークに象徴付けられるような、 幻想的なドリームポップワールドを打ち出そうとしている。

 

しかし、もしエイプリル・ジューンの音楽に「オルタナティヴ・ポップ」というジャンル名が付与されるとしても、実際の音楽性はシンプルかつストレート、そして聞きやすさがある。難解なスケールを排したドリーム・ポップで、オルタネイトな要素はほとんど削ぎ落とされている。


収録曲の中には、Ⅰ-Ⅴ-Ⅵの進行しか出てこないものもある。これはコード進行やスケール、プロデュース的な側面でも、複雑化したポップスに「単純化」という一石を投じるカウンター的なアルバムといえる。これらの戦略的なイメージは、少なくとも、EPという単位では功を奏しているのではないか。

 

プロデューサー、音楽ファン、メディアの辛口の評論家はたいてい、現在のシーンを一新する画期的な音楽の台頭を心待ちにしている。しかし、他方、そういった音楽を聴くことが日常的である人々が理解できないものが、一般的なリスナーに理解されるはずがないことは念頭に置いておくべきだろう。


つまり、一般的に理解しきれない要素は、部分的または限定的に留めておくべきかも知れない。もし、売れる音楽ーーヒットソングーーを作りたいと思うなら、どこかで聞いたことのあるフレーズを一つか二つくらいは用意しておく方が得策だろう。もし一般的ではない要素が曲の中にあるとするなら、(前衛主義や実験音楽という側面では容認できるかもしれないが)商業主義においては、改善の余地が残されているのである。そのことを考えあわせると、音楽そのものを、デジタル技術、録音機器、プラグインで過剰に派手にしたり、また、それとは反対に徹底して薄めたとしても、ポピュラーミュージックとしては必ずしも相乗効果があるとはかぎらない。


そして、こういった複雑化し、進化し続ける音楽を追求する勢力とは対極的な存在として、ノスタルジックな音楽にモダンなテイストを添えるグループが、徐々に台頭してきているのを痛感している。これらは、すでにある過去の成功例を基にしているため、先鋭的な音楽よりも強い説得力が込められている。リベラルアーツという分野が長い歴史を持つことを考えあわせると、最新の音楽が以前の文化と無関係であることはありえない。新しく聞こえるサウンドも実はたいてい、以前の系譜を再検討して作り出されるものである。つまり、新しい表現がゼロから生ずることはあり得ないのだ。この動向は、実はオルタナティヴロックのシーンで2010年代頃に試験的に導入されていた。それらが10年でロックからポップへと移行したような印象を受ける。

 

スペイン/マドリッドのシンガーソングライターは、70年代のシンセポップを元にして、現代的なオートチューンの要素、ドリーム・ポップというアーティストの持ち味を駆使し、シンプルなポップ・ワールドを構築している。このEPは、耳にすんなり馴染み、作品を聞き終えた後、驚くほど後味が残らない。要は、どこまでも純粋で爽やかな音楽という点で一貫している。あらかじめ、音楽的な枠組みや構想を決めておき、一気呵成にレコーディングしたようなEPである。

 

EPのオープナー「baby's out of luck again」では、キラキラとしたギター、シンセによるレトロなマシンビート、シーケンスを散りばめ、シンセ・ポップのノスタルジックな印象を押し出している。音楽の構成は至ってシンプルだが、個性的な性質を添えているのがボーカル及びコーラスワークだ。リバーブとディレイを多角的に施し、空間性を作りだし、いわばレコーディングスタジオのアンビエンスを生かしたポップスを構築している。ジューンのボーカルは、少しファンシーな感覚を意識しているが、それは不思議とひけらかすような感じにはならない。70年代/80年代のソフィスティ・ポップのような純粋さと清涼感のある印象すら覚えることもある。

 

このEPは、シンセポップによるツリー構造により制作されている。つまり、あれもこれもと手を伸ばさずに、一つの音楽的な興味をもとにして、7つの分散された曲が制作されたとも言える。そしてミュージシャンとして音楽的なセンスの瞬間的なきらめきが見いだせる箇所もある。

 

「starstruck」は、シンセ・ピアノをベースにした切ない感覚を漂わせるナンバー。オートチューンが掛けられているため、未来志向のポップにも聞こえるかもしれない。しかし、実際の曲の構成は、70年代、80年代のポップスのソングライティングを意識している。これらはクラシックとモダンという、二つの音楽的な解釈を取り巻くように、その間を揺らめくような抽象性がある。そして、抽象派の絵画のように絵の具で薄められたアブストラクトポップが生み出される。曲には明確なサビがあるわけでもなく、大きな起伏もなく、むしろ淡々としているが、流れをせき止めるものはほとんどなく、スムースに音が駆け抜けていく。その音楽には、静かに聞き入らせるものがあり、そしてシンプルでストレートなので、長く聴き続けることができる。コード/スケールの過剰な進行は、何度も繰り返していると、どうしても気疲れすることがある。その点において、DIIVの最初期のギターロックをベースにしたようなこの曲は、女性ボーカルという側面で新たな要素が加わり、ドリームポップの未知なる要素を作り出す。歌詞の側面では、哲学的な考察をもとにして、それらを個人的な体験と照らし合わせている。いわば若い年代の共感を誘うとともに、ふと考えこませるようなフレーズが出現することもある。

 

アーティストのイメージの演出は、売り込む側にとって大変魅力的であるが、実は諸刃の剣ともなり得る。やりすぎて、宙に浮かび上がり、大気圏に突入し、そのまま見えなくなった事例もある。これは、すでに音楽業界では何度も実例として示されたことで、地面に足がついていないことが原因により、実力に見合うものがないと、長く生き残ることがむつかしいからである。

 

しかし、『baby's out of luck again』は、なぜなのかはわからないが、ファンシーなのに地にしっかりと足がついている。これは、アーティストが永遠の命を持たないことの代償として与えられたパトスなのか。いつ枯れてしまうか分からない。けれど、花が美しいかぎり咲き誇ろうとする生命の美しい本質を体現している。言い換えれば、音楽の神様であるアポロン(Apollon)は、いつも才能を付与すべき人間を見定めていて、そして、かなり厳しい目で選別しているのである。

 

以後、EPの自体は、目眩くワンダーランドのような感覚が奥行きを増し、音楽の持つ空間性を押し広げていこうとする。続く、「it's all my fault」は、親しみやすいボーカルのフレーズをもとに、ダンサンブルなシンセ・ポップを構築している。メインボーカルとコーラスワークにおいて、エイプリル・ジューンは、一人で二役を演ずるかのように、異なる雰囲気のボーカルを披露している。

 

 

 「it's all my fault」- Best Track

 


 

エイプリル・ジューンの音楽は今のところ、ある一つのポイントに焦点がしっかりと絞られている。そして、外側にエネルギーを分散させるというよりも、どんどんとその内側の深くへ潜っていく。ソングライティングとして大きく傑出しているというわけでもないのに、分散的な音楽よりも興味を惹きつけることがある。続く「emotion problems」は、Porches、Black Marbleの系譜にあるニューヨークのレトロなシンセ・ポップをベースにしているが、モチーフの反復性を辛抱強く続け、ベースラインを加えて迫力味のある展開に繋げることで、魅惑的な音楽へと昇華させる。Yeuleの系譜にあるオートチューンを用いたインディーポップと思いきや、ベースラインやシンセリードやドラムのハイハットがコアなグルーヴを付与することがある。シンプルな曲作りを意識しながらも、徹底して細かな部分を軽視しないスタンスが、曲の完成度を高め、ハイクオリティにしているのかもしれない。爽やかに終わるアウトロも素晴らしい。


ドリーミーなシンセポップは以降も続く。「pretty like a rockstar」は、Beabadoobeeのデビュー作と共鳴するものがあり、ベッドルームポップアーティストから見たロックスターへの憧れを表する。これらの理想的な自己像を見上げ、それを夢見がちに歌うような姿勢は、一般的なリスナーの心にも響く何かがあるかもしれない。マシンビートのリズム、そして、レトロなシンセの音色は、2010年代のシンセポップの最初のリバイバルを想起させるが、現代的なTiktok、Yeuleのサブカルチャーやナードな文化への親しみのような感覚が、キラキラした印象を曲に付与する。そしてやはり、オートチューンを部分的に掛けることにより、デジタル・ポップの最新鋭の音楽をアップデートさせ、ベッドルームポップやハイパーポップの次なる世代の音楽に直結させる。ガーリーでファンシーなイメージを突き出した、ソフトな感覚を持つポップネスへ。

 

しかし、このEPの魅力は、2020年代のYeuleのような新しいタイプのポップだけにとどまらない。その中には、米国のポピュラーシーンと連動しながら、ノスタルジックや古典的なものに対する親和性も含まれている。「sweeter than drugs」は、どちらかといえば、ニューロマンティックのようなサウンドに依拠している。2020年代の並み居るベッドルームポップアーティストが最新のポップスを書こうとする意識を逆手に取り、それとは反対に古典的なポピュラーへと潜り込む。特に、クラシカルやビンテージに対する憧憬というのは、ミドル世代以上のミュージシャンよりも、若い年代のミュージシャンに多く見受けられる傾向である。自分が生きている間に生み出されなかったもの...…。それらに何らかの不思議な魅力を感じるのは当然のこと。また、音楽そのものは、十年、そして数十年だけで語り尽くせるものではないのだから。

 

 電子音楽をベースにしたポップスであるため、無機質な印象を覚えるかもしれない。しかしながら、このEPの音楽は、シンセポップとしての淡いエモーションが全編に揺曳している。どういうわけか、クローズ「carry you on my broken wings」では、音楽から温かいエモーションが微かに立ちのぼってくる。これぞ人工知能では制作しえない人間の手によるエレクトロポップの真髄だ。軽く聴きやすい清涼感のあるポップス、夢想的なテーマを織り交ぜた最新EPを足がかりにして、マドリッドのシンガーは今後、より大きなファンベースを獲得することが予想される。

 

 

 

85/100




「carry you on my broken wings」


 

* april juneの『baby's out of luck again』EPはNettwerkから本日発売。ストリーミング等はこちらから。

Weekly Music Feature - Sinai Vesselシナイ・ヴェッセル)

Sinai Vessel



このアルバムは啓示的なオルタナティブロックの響きに満ちている。導きなのか、それとも単なる惑乱なのか。それはおそらくこのアルバムに触れることが出来た幸運なリスナーの判断に委ねられるだろう。


天が開いて、神の前腕が雲から飛び出し、あなたのアバターのボディーに「SONGWRITER」という謎の文字を叩きつけるとする。そのとき、この職についているあなたはなんというだろう?


今まさに、”曲を書くこと”が天職なのか、単なる呪縛なのかが問われている。湖から剣を引き抜き、勝利の凱歌を揚げるか? それとも、皮膚が腫れ物に這わされ、背後の農作物が炎上するのか? 


果たして、曲作りやソングライティングの習慣は、ガーデニングのようにやりがいのあるものなのか? それとも、ビールを2本飲むたび、タバコを1本吸うような、薄汚い習慣なのだろうか? 


曲作りは仕事なのか? 聖なる義務? それとも、世の中流階級以上の荒くれにとって、たまにやりがいを感じさせる趣味なのだろうか? もし私が、言葉とメロディーのハイヤー・パワーによって定められた運命を受け入れるとしたら、一体どうやって医療費を払えば良いのか?


ノースカロライナ州アッシュヴィルのケレイヴ・コーデスによるプロジェクト、シナイ・ヴェッセルの4枚目のアルバムは、教会の地下のサポートグループでの告解のようでもあり、未来の叙事詩のようでもある。その言葉が、Tシャツにデカデカとプリントされたり、特に神経質な介助犬のベストに警告としてプリントされたりするのを想像してみると、なんだか愉快でもある。


チーフ・ソングライターのケイレブ・コーデスは、このアルバムの最初のトラックで "どうでもいいこと "と、 "何らかの理由があって "起こることの両方を歌っている。シナイ・ヴェッセル・プロジェクトには、素晴らしく、見事な、そして滑稽なソングス(滑稽というのが一番難しい)が含まれている。仮にその事実がなければ、この葛藤や矛盾は実体化することはなかった。


しかし、ケレイヴ・コーデスは、Tom WaitsやM. Wardといった米国の象徴的なシンガーソングライターと同じように、連作を書くように運命によって定められているらしい。彼にとってソングライティングとは、書いているのではなく書かざるを得ないものなのだ。「Birthday」の親密で小説的な畏敬の念を考えてみよう。または、「Dollar」の微妙な経済パニックは、市場の暴落という恐怖の下、道路から逸れた車のあざやかな水彩画をエレガントに描きだそうと試みる。「馬は、いつも私の心の中で果実を踏みつける。私の考えでは、10年間どうしようもないものを食べ続け、何度もおかわりをする」というのは、これまで聞いた中で最高の冒頭のセリフのひとつだ。なんてこと、もしかしたら彼は本当にこの技術に召されているのかもしれない!!


しかし、これらの予言的でもある鋭い一節をどんなふうに捉えたらいいのだろう? 長年のコラボレーターであるベネット・リトルジョン(Hovvdy、Claire Rousay)が、芸術的で巧みな共同プロデュースを手がけ、Sinai Vesselをあらゆるプリズムのフレーバーで描き出した。


ウェルチ・スタイルのしなるようなアコースティックな小曲、デス・キャブ・フォー・キューティのベストアルバムのタッチ、解体されたボサノヴァ、ワッフル・ハウスのジュークボックスを思わせるナッシュヴィルのストンパー(ジョディのニック・レヴィーンによる超プロ・ペダル・スティールがフィーチャーされている)、そして、最も驚くべきは、デフトーンズに隣接し、囁くように歌うヘヴィネスが、迷子の鳥のようにあなたの部屋に飛び込んでくるはずだ。


各々のソングライティングのスタイルのチャレンジは、レッキング・クルーのリズム・セクションによって成し遂げられた。リトルジョンのド迫力のベースとアンドリュー・スティーヴンスのドラム(シナイ・ヴェッセルの『Ground Aswim』で見事な演奏を披露した後、ここでは再びドラムを叩いている)が、アルバムのスウィングを着地させ、コーデスのベッドルームでレコーディングされたヴォーカルの親しみを、自信に満ちた広がりのある世界に根付かせる。


シナイ・ヴェッセルは、アトランタの写真家トレント・ウェインと異例のコンビを組んでいる。彼の不気味なフラッシュを多用したアルバムのハイコントラストのアートワークは、彼らの相乗効果から生み出された。シュールな道化師の特権的視点をもたらし、曲の冷徹なリアリズムとぴたりと合致している。そしてコーデスは、後期資本主義の恐ろしい空模様を巧みに描写し、ウェインは、その予兆である広々とした空っぽの高速道路と空っぽの店舗を捉えてみせる。


あなたは、リプレイスメンツの 「Treatment Bound」という曲をご存知だろうか? この曲は彼らの最も酔狂なアルバムのひとつで、リスナーに対する最後の「ファック・ユー」とでも言うべき愉快な曲。コーデスがグレープフルーツ・スプーンでニッチを切り開こうとし、ストリーミングの印税や信託資金の権力に真実を語りかけるかのような、DIY生活者のブラックユーモアに溢れている。その代わり、コーデスは、苦笑いをしながら、それらのリアリズムに首を振り、自分が見ているものが信じられないというように、代わりに「ファック・ミー」と言う。


私たちと友人が一緒に、必死に考え抜かれたノイズを商業生産のプラスチックの箱の底に押し込めることがどれほど馬鹿げているのだろうか。そして、「夕飯を食べるために歌う」という、現代のアメリカの中産階級の失われつつある天職の中で、シナイ・ヴェッセルはあり得ない奇跡を成し遂げてみせる。- Ben Sereten (Keeled Scales)



Sinai Vessel 『I Sing』/ Keeled Scales   -ナッシュヴィルのシンガーソングライターが掲げる小さな聖火-

  

今年は、主要な都市圏から離れたレーベルから良いアルバムが発売されることがある。Sinai Vissel(シナイ・ヴェッセル)の4作目のアルバム『I Sing』はテキサスのKeeled Scalesから本日発売された。

 

何の変哲もないような出来事を歌ったアルバムで、それは日常的な感覚の吐露のようでもあり、また、それらを音楽という形にとどめているに過ぎないのかもしれない。少なくとも、『I Sing』は、家の外の小鳥がさえずるかのように、ナッシュビルのソングライターがギターやドラム、シンセ、ベースという基本的なバンド編成を元にして、淡々と歌い、曲集にまとめたに過ぎない。もちろん、メガヒットはおろか、スマッシュヒットも記録しないかもしれない。マニアックなオルトロックアルバムであることはたしかだ。

 

しかし、それでも、このアルバムには、男性シンガーソングライターとしての魅力が詰め込まれており、ニッチなオルトロックファンの心をくすぐるものがある。シナイ・ヴィッセルの曲には、M.Wardの系譜にある渋さや憂いが内在している。男性シンガーの責務とは、一般的な苦悩を自らの問題と定義付け、説得力のある形で歌うことである。それが彼の得意とするオルタナティブ・ロックの領域の中で繰り広げられる。メインストリームから適度に距離を置いた感覚。彼は、それらのスターシステムを遠巻きに眺めるかのように、淡々と良質なロックソングを演奏している。分けても素晴らしいのは、彼はロックシンガーではなく、一般的な市民と同じように歌を紡いでいる。そして、Keeled Scalesの素朴ではあるが、夢想的な空気感を漂わせる録音の方針に溶け込んでいる。アーバンなオルトロックではなく、対極にあるローカルなオルトロック......。もっといえば、80、90年代のカレッジ・ロックの直系に位置する。R.E.M、The Replacementsの正当な後継者を挙げるとするなら、このシナイ・ヴィッセルしか思い浮かばない。

 

米国的な善良さは、グローバリゼーションに絡め取られ、失われたものとなった。ローカルな感覚、幹線道路のネオン・サイン、もしくは、ハンバーガーショップやアイスクリームショップの幻影......。これらは、今や古びたものと見なされるかもしれないが、アメリカの文化の大きな醍醐味でもあったのである。2010年代以降、そのほとんどが目のくらむような巨大な経済構造にかき消されてしまった。それにつれて、2000年代以降、多くのソングライターが、ローカルな感覚をどこかに置き忘れたてしまったか、捨ててしまったのだった。それと引き換えに、都会性をファッションのように身につけることにしたのだった。それは身を守るために必要だったのかもしれないが、ある意味では別の誰かを演じているに過ぎない。そしてシナイ・ヴィッセルは、巨大な資本構造から逃れることが出来た稀有な音楽家である。このアルバムは、テキサスのHoovdyを彷彿とさせる善良なインディーロックやポップソングという形を取っている。

 

そして、ケレイヴ・コーデスのソングライティングやボーカルには、他では得難いような深みがある。

 

エルヴィス・コステロ、ポール・ウェスターバーグ、ボブ・モールド、Pedro The Lionのデイヴィッド・ハザン、ビル・キャラハン、Wilcoのジェフ・トゥイーディーの系譜にある。つまり、この人々は、どこまでも実直であり、善良で、愛すべきシンガーソングライターなのである。


そして、基本的には、ケレイヴ・コーデスは、フォークやカントリーはもちろん、ブルースに重点を置くシンガーソングライターである。このブルースというジャンルが、大規模な綿畑の農場(プランテーション)の女性労働者や男性の鉄道員が労苦を和らげるために歌ったところから始まったことを考えると、シナイ・ヴィッセルのソングライターとしての性質は、現代的なワークソングの系譜に位置づけられるかもしれない。彼の歌には南部の熟成したバーボンのように、泥臭く、渋く、苦味がある。ある意味、軟派なものとは対極にあるダンディズムと憂いなのだ。


もちろん、現代的で親しみやすいロックソングのスタイルに昇華されていることは言うまでもない。彼のロックソングは、仕事後の心地よい疲労、華美なものとは対極にある善良な精神性により構築される。派手なところはほとんどない。それでも、それは日々、善良な暮らしを送り、善良な労働を繰り返している、同じような純朴な誰かの心に共鳴をもたらすに違いない。そう、彼のソングライティングは日常的な労働や素朴な暮らしの延長線上にあると言えるのだ。

 

アルバムの冒頭「#1 Doesn’t Matter」は、ボサノヴァを咀嚼した甘い感じのインディーロック/フォークソングで始まる。シナイ・ヴィッセルのボーカルは、Wilcoのジェフを思わせ、ノスタルジックな思いに駆られる。親しみやすいメロディー、乗りやすいリズム、シンプルだが心を揺さぶるハーモニーと良質なソングライティングが凝縮されている。ボサノヴァのリズムはほんの飾りのようなもの。しかし、週日の仕事の疲れを癒やすような、週末の最後にぴったりの良質なロックソングだ。この曲には、日々を真面目に生きるがゆえの落胆もある。それでもアコースティックギターの演奏の背後に、癒やしや優しげな表情が垣間見えることがある。曲の最後には、ハモンド・オルガンがコーデスの歌のブルージーなムードを上手い具合に引き立てる。

 

そっけないようで、素朴な感じのオルトロックソングが続く。彼は内面の奥深くを掘り下げるように、タイトル曲「 #2 I Sing」で、内的な憂いや悲しみを元に情感溢れるロックソングを紡いでいる。イントロは、ソフトな印象を持つが、コーデスの感情の高まりと合わせて、ギターそのものも激情性を帯び、フックのあるオルトロックソングに変遷していく。これらはHoovdyの楽曲と同じように、エモーショナルなロックへと繋がる瞬間がある。そして注目すべきなのは、都会性とは異なるローカルな感覚を持つギターロックが序盤の音楽性を決定づけていることだ。

 

「#3 How」は、Wilcoのソングライティングに近く、また、Youth Lagoonのように、南部の夢想的なオルトロック/ポップとしても聴くことができる。シナイ・ヴィッセルは、南部的な空気感、土地の持つ気風やスピリットのようなものを反映させて、砂煙が立ち上るような淡い感覚を作り出す。ヴィッセルはハスキーなボイスを活かし、オルタネイトなギターと乾いたドラムを背景にして、このソングライターにしか作りえない唯一無二のロックソングの世界を構築してゆく。表面的には派手さに乏しいように思えるかもしれない。しかし、本当にすごいロックソングとは、どこかしら素朴な感覚に縁取られているものである。曲の中でソングライターの感情と同期するかのように、ギターがうねり狂うようにして、高められたかと思えば、低くなる。低くなったかと思えば、高められる。最終的に、ヴィッセルは内側に溜め込んだ鬱屈や悲しみを外側に放出するかのように、ノイズを込めたダイナミックなロックソングを作り上げる。

 

「#4 Challenger」では内省的な感覚を包み隠さず吐露し、それらをオルトフォークの形に昇華させている。ビル・キャラハンの系譜に位置し、大きな曲の変遷はないけれども、曲のいたるところに良質なメロディーが散りばめられている。アコースティックギターとシンセサイザーの演奏をシンプルに組み合わせて、温和さと渋さの間を行き来する。やはり一貫して南部的なロマン、そして夢想的な感覚が織り交ぜられ、ワイルドな感覚を作り出すこともある。しかし、この曲に深みを与えているのは、ハスキーなボーカルで、それらが重さと軽さの間を揺らめいている。

 

「#5 Birthday」は、Bonnie Light Horsemanのような夢想的なオルトフォーク/カントリーとして聴くことができるだろうし、American Footballの最初期の系譜にあるエモとしても聴くことができるかもしれない。アメリカーナを内包するオルタナティヴ・フォークを基調にして、最近、安売りされるようになってしまったエモの原義を問いかける。彼は、一貫して、この曲の中で、ジョージア、テネシーといった南部への愛着や親しみを示しながら、幹線道路の砂埃の向こうに、幻想的な感覚や夢想的な思いを浮かび上がらせる。彼の歌は、やはり、ディランのようにそっけないが、ハモンド・オルガンの音色の通奏低音が背後のロマンチズムを引き立てている。 また、Belle And Sebastianの最初期の憂いのあるフォーク・ミュージックに近い感覚もある。

 

 

「Birthday」- Best Track

 

 

 

その後も温和なインディーロックソングが続く。考えようによっては、シナイ・ヴィッセルは失われつつある1990年代前後のカレッジ・ロックの系譜にある良質なメロディーや素朴さをこのアルバムで探し求めているように思える。先行シングルとして公開された「Laughing」は、前の曲で示されたロマンチズムをもとにして、アメリカーナやフォークミュージックの理想的な形を示す。ペダル・スティールの使用は、曲のムードや幻想的な雰囲気を引き立てるための役割を担う。そして曲の背景や構造を活かし、シナイ・ヴィッセルは心温まるような歌を紡いでいく。この曲も、Belle And Sebastianの「Tigersmilk」の時代の作風を巧緻に踏襲している。

 

ポール・ウェラー擁するThe Jamのようなフックのあるアートパンクソング「Country Mile」は、中盤のハイライトとなるかもしれない。ガレージ・ロックやプロト・パンクを下地にし、シナイ・ヴィッセルは、Televisonのようなインテリジェンスを感じさせるロックソングに昇華させている。荒削りなザラザラとしたギター、パンクのソングライティングの簡潔性を受け継いだ上で、コーデスは、Wilcoのように普遍的で良質なメロディーをさりげなく添える。そして素朴ではありながら、ワイルドさとドライブ感を併せ持つ良質なロックソングへと昇華させている。この曲の簡潔さとアグレッシヴな感覚は、シナイ・ヴィッセルのもう一つの武器ともなりえる。

 

 アルバムの終盤には、ウィルコと同じように、バロックポップを現代的なオルトロックソングに置き換えた曲がいくつか見いだせる。「#8 $2 Million」は、メロトロンをシンセサイザーで代用し、Beatles、R.E.M、Wilcoの系譜にあるカレッジ・ロックの醍醐味を復活させる。コーデスは、後期資本主義の中で生きざるを得ない現代人としての悲哀を織り交ぜ、それらを嘆くように歌っている。そして、これこそが多数の現代社会に生きる市井の人々の心に共鳴をもたらすのだ。その後、しなやかで、うるおいのあるフォークロックソング「#9 Dollar」が続く。曲ごとにややボーカルのスタイルを変更し、クレイヴ・コーデスは、ボブ・ディランのようなクールなボーカルを披露している。ローカルな感覚を示したアルバムの序盤とは正反対に、アーバンなフォーク。この曲には、都市のストリートを肩で風を切って歩くようなクールさが反映されている。2024年の「Liike A Rolling Stone」とも呼べるような興味深いナンバーと言えるか。

 

アルバムの序盤では、ウィルコやビル・キャラハンのようなソングライターからの影響が見いだせるが、他方、終盤ではBell and Sebastianの系譜にあるオルトフォークソングが色濃くなってくる。 これらのスコットランドのインディーズバンドの主要なフォークソングは、産業化や経済化が進む時代の中で、人間らしく生きようと試みる人々の矛盾性、そこから引き出される悲しみや憂いが音楽性の特徴となっていた。そして、シナイ・ヴィッセルは、その特徴を受け継いでいる。「#10 Window Blue」、「#11 Best Wetness」では、憂いのあるフォークミュージックの魅力を堪能できる。特に後者の曲に漂うほのかな切なさ、そして、淡いエモーションは、クレイヴ・コーデスのソングライターとしての高い能力を示している。それは M.Wardに匹敵する。 

 


「Best Wetness」- Best Track 

 

 

アルバムの終盤は、 大掛かりな仕掛けを作らず、素っ気無い感じで終わる。しかし、脚色的な音楽が目立つ中、こういった朴訥なアルバムもまた文化の重要な一部分を形成していると思う。そして、様々なタイプの曲を経た後、シナイ・ヴィッセルは、まるで南部の田舎の中に踏み込むかのように、自然味を感じさせるオーガニックなフォーク・ミュージックの世界を完成させる。

 

「Attack」は、ニューヨークのグループ、Floristが行ったように、虫の声のサンプリングを導入し、オルトフォークソングをアンビエントの音楽性と結びつけて、シネマティックな音楽を構築している。さらに、クローズ「Young Brother」では、アコースティックギターとドラムのシンバルのパーカッシヴな響きを活用して、夏の終わりの切ない雰囲気を携えて、このアルバムはエンディングを迎える。アルバムは、短いドキュメンタリー映像を観た後のような爽快な感覚に満ち溢れている。 それは、ハリウッド映画や大手の配給会社とは対極にあるインディペンデントの自主映画さながら。しかし、その素朴さこそ『I Sing』の最大の魅力というわけなのだ。

 

 

 

85/100 

 

 

「Doesn't Matter」 

 

 

 

* Sinal Vessel(シナイ・ヴィッセル)によるニューアルバム『I Sing』はKeeled Scalesから本日発売。ストリーミングや海外盤の購入はこちら