Weezer(ウィーザー)のフロントマン、Rivers Cuomo(リヴァース・クオモ)が、1年にわたる「SZNZ」プロジェクトを終えたバンドの今後の計画や、新譜が発売されない「この奇妙な中間的段階」にあることへの憂鬱について、その胸中を明らかにした。


バンドは12月21日(北米の季節の初日)に「SZNZ」シリーズの4作目であり最終作となる「Winter」をリリースした。「Spring」、「Summer」、「Autumn」に続く作品は、物悲しく、エモにインスパイアされたサウンドとテーマをフィーチャーしている。先日、Consequenceのインタビューに応じたリヴァース・クオモは、それぞれの季節を表現するために特定の感情に焦点を当てることを目指したと説明し、「冬の場合は、悲しみだった」と語っている。


そのことが四作目のEPの音楽性にどう反映されたのかについて、リヴァース・クオモは次のように語っている。「もともとのインスピレーションは、エリオット・スミスのような90年代のシンガーソングライターのスタイルや、アコースティックなフィンガー・ピッキング、そしてより暖かいアコースティック・サウンドを取り入れてみたいということだったんだ」

 

「前作の『Autumn』では、Franz Ferdinandのようなダンスロックを目指していて、シンセと刺すようなギターが多かったんだけど、それと対照的に、とても暖かくてアコースティックなものにしようと思ってね-もちろん、Weezerの巨大ギターサウンドと一緒に」


「SZNZ」の最終作がリリースされた今、リヴァース・クオモは、バンドが次の時代にどこへ向かうのか分からない、ある種の「産後鬱」を感じていると認めている。これはいつもアルバム制作が終わった後に起こることなんだ」と彼は語り、「SZNZ」が「ここ2、3年は本当に僕の時間のほとんどを占めていた」と指摘した。


フロントマンはさらに続けた。「このアルバムに取り組むことは、信じられないほどの喜びだった。そして、突然、今、終わってしまった。私の手から離れてしまった。次の作品に飛びつくのは時期尚早な気がする。だから、自分が何者なのか、何をすべきなのかがわからない、奇妙な中間的な段階にいる。だから、ごめん。今、感じるべきほどポジティブじゃないかもしれない!」



Weezerが当面期待できる計画として、クオモはバンドが「もうすぐ大きなツアーの発表がある」と予告している。ここ数年、ヘッドライン・ツアーに着手しない理由について、彼はこう説明している。

 

「この5~7年間は、大きなヘッドライン・ツアーを行うための準備を続けてきた。ヘラ・メガ・ツアーに参加して、グリーン・デイやフォール・アウト・ボーイと一緒にスタジアムを回るのはどうかな?  60分しか演奏できないけど、新しいファンを獲得するいい機会になるし、他のバンドと一緒にやるのも楽しいよ』って言われて、『ああ、わかった、そうしよう!』ってなったんだ。”楽しそうだな"って」


「そうやって1年、1年と過ぎていくんだけど、いまだに大きなヘッドライン・ツアーはやってない。でも、もうすぐそのすべてを解決するような発表があるはずだよ」


ウィーザーは、当初、「SZNZ」を5週間のブロードウェイ・レジデンスで宣伝する予定だったが、チケットの売り上げが低いため、今年初めにキャンセルとなった。それでも、アリゾナ州のファンは来年2月に開催される野球をテーマにしたイニングス・フェスティバルでバンドのライブを見ることができ、グリーン・デイ、エディ・ヴェダー、ブラック・クロウズ、オフスプリングと共演する予定になっている。また、6月にはケンタッキー州で開催されるRailbird Festivalにも出演する予定だ。


また、Weezerは、現在、The Beach Boysのトリビュートをテレビで放送する準備を進めている。リヴァース・クオモはConsequenceとのインタビューで、このプロジェクトについて次のように語っている。「今、どのBeach Boysの曲をカバーするか考えている最中なんだけど、すごい楽しいんだ。これらの曲を演奏したり歌ったりするのはとてもいい気分だよ。それに、Weezerの曲作りを始めたばかりの頃、彼らをどれだけ手本にしていたかを思い知らされた」

 Leland Witty  『Anyhow』


 

 

Label:  Innovative Leisure

Release: 2022年12月9日



Review

 


近年のジャズシーンに、飛びきり風変わりなサックス奏者が出てきた。カナダ・トロントを拠点に活動するレランド・ウィッティだ。これまでのジャズ・シーンでは、1つの楽器をとことん一生涯を通じて追究するタイプの演奏家が一般的な支持されてきたように思えるが、その流れは今後少しずつではあるが変わっていくかもしれない。少なくとも、ウィッティは自由性の高いプレイヤーである。この四作目のアルバム『Anyhow』において、基本的な演奏楽器はテナー・サクスフォンではあるが、バイオリン、シンセ、ギター、木管楽器と複数の楽器をレコーディングで演奏しており、マルチ・インストゥルメンタリストとしての才覚が伺える。彼は、Abletonにギターの短い録音を送り込み、多角的なジャズ・サウンドを探究している。




2020年、映画音楽のスコアを手掛けた後、レランド・ウィッティはこの四作目の制作に着手したという。そして、即興演奏をどのように洗練されたプロダクトとして仕上げるのか、プロデューサーとして思考を凝らした痕跡も見受けられる。そして、プレスリリースによれば、それらの即興演奏の中にある物語性をどのようにして引き出すのかに重点が置かれている。いまや時代遅れの言葉となりつつあるジャズ・フュージョンの名は今作の音楽を端的に表する上で最もふさわしい形容詞となる。しかし、本作のジャズは新鮮味を感じさせるもので、エレクトロとジャズ、映画音楽のように叙事的な音楽を独自の視点から解釈するという面において、ノルウェーのエレクトロ・ジャズバンド、Jaga Jaggistのように、ジャズの近未来を予感させる内容になっている。サウンドは徹底して磨き上げられ、逆再生のループなど細部に至るまで緻密に作り込まれているが、それらの緊張感のあるサウンドは、ウィッティのサクスフォンの独特な奏法によって精細感を失うことはほとんどない。



 

作品の全編には、電子音楽とジャズ、その他にも、プレグレッシヴ・ロックやポップスを内包したサウンドが展開されている。それらの楽曲に説得力をもたらしているのが、レランド・ウィッティ自身のサックスの卓越した演奏力である。自身のサックスの演奏をある種のサンプリングのように見なし、音形を細かく刻んで繋ぎ合わせ、リバーブ/ディレイなどを施してダブ的な効果をもたらすという面では、ブライアン・イーノとの共同制作でお馴染みのトランペット奏者、Jon Hassel(ジョン・ハッセル)の手法に通じるものがある。今作の音楽の核にあるものをアンビエントやニューエイジと決めつけることはできないが、ジョン・ハッセルがかつてそうであったように、その楽器の音響における未知の可能性を、レランド・ウィッティも今作において見出そうとしているように感じられる。しかし、それはもちろん、この奏者がサクスフォンという楽器の音響の特性を把握しているから出来ることであり、演奏自体をごまかしたりするような形で過度な演出が加えられているわけではない。レランド・ウィッティの演奏は伸びやかであり、目の覚めるような意外性に富んでいる。とにかく、聴いていて心地よいだけでなく、トーンの繊細な揺らぎによって意外性を感じさせるのが彼の演奏の特性と言えるかもしれない。



 

アルバム全体には確かにプレスリリースに書かれている通り、何らかのドラマ性や物語性が内包されているように思える。しかしそれは非常に抽象的であり、一度聴いただけでその正体が何なのか把握することは難しい。そして、作品全体に満ち渡る叙情性と神秘性も最大の魅力に挙げられる。作曲の技術の高さ(細かな移調を連続させたり、ループなどを駆使している)については群を抜いており、ハンバー・カレッジで学んだ体系的な音楽の知識にとどまらず、実際のセッションにおける生きた音楽の経験、映画音楽の制作経験の蓄積が生かされているように見受けられる。

 

それらは、流動的なセッションの音の流れやグルーヴを綿密に形成し、ハイセンスな電子音楽のバック・トラックと相まって前衛的な音楽性として昇華されている。かといって、技法に凝るというわけでもなく、各楽曲にはLars Horntveth(ラーシュ・ホーントヴェット)の書く曲のようにユニークさが滲み出ている。



これらをこのミュージシャンの人物的な面白さと決めつけるのは暴論といえるが、少なくとも、古典的なジャズ、クラシックを踏まえた上で、それを新しい音楽としてどのように組み上げていくのかに焦点が絞られている。そして、この点がアルバムそのものに多様性を与え、さらに聴き応えあるものとしている。これまでニューエイジ、エキゾチック、ニュー・ジャズ、様々な開拓者がシーンには登場してきたが、カナダ・トロントのサックス奏者、レランド・ウィッティも同様にジャズのまだ見ぬ魅力を伝えようとしている。

 


92/100

 

 

  



 

 

 Leland Witty

 

レランド・ウィッティは、Badbadnotgoodのメンバーとして最も有名なサックス奏者、マルチインストゥルメンタリスト。

 

コーチェラ、グラストンベリー、ケープタウン・ジャズ・フェスティバル、ロスキレ・フェスティバル、ジャカルタ国際ジャワ・ジャズ・フェスティバルなど、世界各地のフェスティバルで演奏している。

 

パフォーマンスやプロダクションを通じて、Kendrick Lamar、Tyler the Creator、Ghostface Killah、Snoop Dogg、Colin Stetson、Mary J. Blige、Camila Cabelo、Earl Sweatshirt、Frank Dukes、Kaytranadaらと仕事をしてきた。現在、ツアーと制作・作曲の仕事を分担している。

 

レランド・ウィティは、トロントを拠点とするバンドBADBADNOTGOODに7年間所属している。彼は2015年にBBNGに加入したが、全員がハンバー・カレッジのジャズ・プログラムで学んでいた2010年にこのグループと出会っていた。

 

バンドが3枚目のアルバムを出した後にラインナップの再編成を決めた際、アレクサンダー・ソウィンスキー(ドラムス)、チェスター・ハンセン(ベース)、マシュー・タヴァレス(キーボード)がサックスとギターでカルテットを完成させるためにWhittyにアプローチしてきた。Whittyは、Charlotte Day Wilson, Kali Uchis, Kendrick Lamar, Ghostface Killah, Snoop Dogg, Mary J. Blige, Earl Sweatshirt, Kaytranadaなどのアーティストとも仕事をしている。



Fela Kuti M.O.Pの時代


 フェラ・クティは俗にアフロビートの祖と称される。そしてナイジェリアのミュージックシーンの開拓者でもある。


このアフロビートというジャンルはガーナの伝統音楽のハイランドにくわえ、ヨルバ族のポリリズムを基調とし、R&B、ロンドンのクラブミュージック、アメリカのジャズ、その時代のトレンドをクロスオーバーした結果、アフリカ独自の音楽が確立された。イギリスからの独立後の自由主義者としてのの道筋は一筋縄ではいかなった。


まさに彼の人生は、闘争と拷問、あるいは、権力における被虐にたいする強烈な反駁や抵抗を意味する。しかし、このような、いかなる激しい弾圧にも屈することのない力強い反抗の源泉はどこにあったのか。そのことは以下のアフロ・ビートの祖、フェラ・クティの生涯に全て記されている。




 フェラ・アニクラポ・クティ(旧ランソメ・クティ)は1938年、ナイジェリア南西部のアベオクタで生まれた。彼の家族はヨルバ族のエグバ族に属していた。また、アベオクタはエルバ族の聖地とも呼ばれる。父は、祖父と同じくプロテスタント教会の牧師を務める傍ら、地元の文法学校の校長でもあった。母親は、教師であったが、後に政治家として大きな影響力を持つようになった。


10代の頃、フェラ・クティはこの地域の伝統的な祝祭に出席するために何マイルも走った。先祖代々の本物のアフリカ文化を守るべきと感じていたのだ。1958年、両親は彼を留学のためにロンドンに送ったが、フェラは2人の兄や姉のように医学の道はなく、トリニティ音楽院に入学することを選び、その後5年間をそこで過ごすことになった。


在学中にレミというナイジェリア人女性と結婚、3人の子どもをもうけた。余暇には、フェラはロンドン在住のナイジェリア人のミュージシャンと”クーラ・ロビトス”というハイライフ・バンドで演奏していた。その中には、西洋音楽が主流だった当時、首都ラゴスのアフリカ音楽界にフェラを紹介し、影響を与えたJ.K.ブレマも含まれていた。


国家として独立から3年後の1963年、フェラ・クティは、ナイジェリアの首都に戻った。まもなく彼は、イギリスから帰国したミュージシャンたちとともにバンドの前座を務め、ハイライフとジャズを演奏するようになった。


その後の数年間、彼らはラゴスで定期的に公演を行い、1969年、ビアフラ戦争(ナイジェリアのイボ人を主体とした東部州がビアフラ共和国として分離・独立を宣言したことにより起こった戦争。ナイジェリア内戦とも。 ビアフラが包囲され食料・物資の供給が遮断されたため、飢餓が国際的な問題となった)のさなか、フェラはクーラ・ロビトスを連れてアメリカに行くことを決意する。


ロサンゼルスでは、グループ名を「フェラ・ランソメ・クティ・アンド・ナイジェリア70」と改名した。

 

Nigeria '70

 

この時代、のちの政治的な活動を行うに至る契機となる運命的な邂逅があった。ちょうど演奏していたLAのクラブで、ブラックパンサー(1960年代後半から1970年代にかけてアメリカで黒人民族主義運動・黒人解放闘争を展開していた急進的な政治組織)と親交のあったアフリカ系アメリカ人の少女、サンドラ・イソドールに出会う。彼女は、マルコムXやエルドリッジ・クリーバーなど、黒人活動家や思想家の思想や著作を紹介し、フェラはその中で世界中の黒人の間に存在する連帯性を意識するようになる。また、ナイジェリアの植民地支配のもとでアフリカ人の権利のために戦い(ソビエトの最高国家賞であるレーニン賞を授賞した)母親の姿、そして、彼女がイギリスと独立交渉をしていたガーナの国家元首クワメ・ンクルマが提唱した、”汎アフリカ主義”を支持していたことも、この洞察を通して、より明確に理解できるようになった。


ロサンゼルスでは彼が求めていた独自の音楽スタイルを作り出すためのインスピレーションを得、それを”Afro-beat(アフロ・ビート)と”名付けた。これは先にも述べたように、ガーナの伝統音楽ハイランドとヨルバ族のポリリズムを融合し、それをR&Bやジャズと融合させたアフリカ独自の音楽である。バンドはアメリカを離れる以前に新曲をいくつかレコーディングした。

 



 帰国後、フェラ・クティは再びグループ名を「フェラ・ランソメ・クティ&アフリカ70」に変更した。

 

ロサンゼルスでのレコーディングは、一連のシングルとしてリリースされた。この新しいアフリカ音楽は当時の首都ラゴスで大成功を収め、フェラは、エンパイア・ホテル内にアフロ・シュラインというクラブをオープンすることになる。当時、彼はまだトランペットを吹いており、サックスとピアノを演奏していなかった。彼は、ナイジェリア全土や近隣諸国で理解されるように、ヨルバ語ではなく現地語と英語が入り混じったピジン・イングリッシュで歌うようになった。彼の歌は、アフリカの人々の多くが共感できるような日常的な社会情勢を描いていた。

 

Fela Kuti & Africa 70


その後、国家としてのアイデンティティの快復の責務をフェラ・クティは民衆の前で司った。黒人主義やアフリカ主義をテーマに、アフリカの伝統的な宗教への回帰を促す彼の歌を聴くために、ナイジェリア中の若者が集まってきた。その後、彼は権力者に対して風刺と皮肉を込め、軍政と民政の両方が犯した不始末、無能、窃盗、汚職、恵まれない人々の疎外を非難するようになる。この時のエピソードがブラック・プレジデントとの異名を与えた。民衆は政治的な建前をいう為政者ではなく、心に訴えかける先導者を必要としていた。その役割を彼が負っていた。


しかし、この行動はボブ・マーリーのラスタファリ運動と同じように、いくらかカルト的な様相を呈して来た。1974年、オルタナティブな社会への夢を追い求め、彼は自宅の周りにフェンスを建て、独立国家であることを宣言。実質的には、ナイジェリア国内の独立レーベルとして設立され、彼の家族やバンドメンバー、レコーディングスタジオとして当初は使用されていた。これが俗に言う「カラクタ共和国」である。このような仰々しい名をつけたのは、フェラ・クティは自由主義の国家を心から望んでいたのかもしれない。しかし、国家的にそのことは不可能であったため、こういった行動に打って出た。この反抗的な行動は、保守派のブルジョア層には不評だったものの、フェラの姿勢に感化された人々が増え、やがて近隣一帯に広まっていった。警察当局は、フェラ・クティの「国家の中の国家」の思想の潜在的な力を恐れ、警戒を強めた。



この後、フェラ・クティは、苦難多き時代を過ごした。痛烈な糾弾の結果、大麻所持や誘拐など言われない理由での不当逮捕、投獄、当局の手による殴打、数え切れないほどの苦渋を味っている。しかし、クティは権力者と激しく対立するたびに、その行動はより率直さを増していき、「ランサム」は奴隷名であるという理由で姓を「アニクラポ」(「死を袋に入れた者」)に変更する。フェラ・クティの評判はさらに広がり、彼のレコードは何百万枚と売れた。特に、まだ10代の若者たちが家族を捨てて移住してきたことに批判が高まり、カラクタ共和国の人口は増加した。




 1977年、ミュージシャンとしての最盛期を迎える。この年、首都のラゴスで開催されたFestival for Black Arts and Culture(FESTAC)で、フェラ・クティは自国の軍隊を痛烈に風刺した「Zombie」を歌い、これがアフリカ全土で大ヒット曲となり、おのずとナイジェリア軍の怒りが彼と彼の支持者に向けられた。フェラが「Unknown Soldier」の歌詞で語っているように、1000人の兵士が「Kalakuta Republic」を襲い、彼の家を焼き払い、その住人を全員を殴打した。この時、彼の母親が1階の窓から投げ落とされ、その傷が原因で死去したことも歌われている。その後、クティは、ホームレスとなり、一行は、クロスロード・ホテルに移り住む。

 

Fela Kuti 「Zombie」の時代


その1年後、フェラ・・クティは、ライブ・ツアーの手配のために、アクラ(ガーナの首都)へ向かった。帰国後、”カラクタ共和国”の破壊から1周年を記念し、クティは、ダンサーやシンガーの27人の女性と集団結婚式を挙げ、全員に”アニクラポ・クティ”という名前をつける。結婚式の後、一行はコンサートが予定されていたアクラへ向かう。予想されていたことだが、満員のアクラのスタジアムで、フェラが「Zombie」を演奏すると、暴動が起きた。グループ全員が逮捕され、2日間拘束された後、ラゴス行きの飛行機に乗せられ、ガーナへの帰国を禁じられた。


ラゴスに戻ったフェラとその一行は、住むあてもなく、レコード会社、DECCAの事務所に不法占拠、そこで2ヶ月近くを過ごした。ほどなく、フェラは70人のメンバーからなるアフリカ70とともにベルリン・フェスティバルに招待された。このとき、フェラは70人のメンバーとともにベルリン・フェスティバルに招かれたが、公演後、ほとんどのミュージシャンが逃げ出す。このように挫折の連続であったが、フェラはラゴスに戻り、ミュージシャンを続けることを決意する。


アフロ・ビートの先駆者と彼の側近たちは、イケジャのJ・K・ブレマの家、新しいカラクタ共和国に住むことになった。そこでフェラは、自らのパート「ムーヴメント・オブ・ザ・ピープル」(M.O.P.)を結成する。1979年の大統領選挙では、民政復帰を目指す大統領候補として名乗りを上げるが、しかし、落選する。4年後の選挙で、フェラは再び大統領選に立候補したが、警察が選挙運動を妨害し、クティとその支持者の多くが投獄され、殴打され、再び自宅を荒らされた。


クーデターによりナイジェリアが再び軍事政権に戻ると、フェラの大統領就任の希望は打ち砕かれた。1984年、ブハリ将軍が政権を握ると、フェラはでっち上げの通貨密輸の罪で5年の刑期のうち20ヶ月を服役することになった。ババンギダ将軍の麾下、判事が「前政権の圧力でこのような厳しい判決を下した」と告白したため釈放された。裁判官は罷免され、晴れて自由の身となる。




 次の10年間で、フェラ・クティは最大80人の側近(現在では、エジプト80と呼ばれている)を連れて、ヨーロッパとアメリカを何度か訪問する。

 

これらのツアーは、世間と批評家から多大な賞賛を受け、アフリカの独特なリズムと生活文化が世界的に受け入れられる下地を形成した。フェラ・アニクラポ=クティは、自身を汎アフリカ主義者として知られるクワメ・ンクルマの霊的息子であると考え、植民地主義や新植民地主義を激しく批判する。その後20年以上にわたって、彼はナイジェリアをはじめアフリカやディアスポラで、独立後の時代に幻滅した大勢の人々の代弁者として著名となった。


1997年8月のフェラ・クティの死は、多くの国民により悲しみを持って悼まれた。また、その日、奇しくも米国のビートニクの作家、『裸のランチ』で有名なウィリアム・バロウズが同日に亡くなっている。この時、ナイジェリア国内のクティの葬儀に参列した100万人以上の人々の中には、彼の政治的意見に賛同しない人々も含まれた。その頃、彼は、政府とも和解しており、同国政府から遺族に送られた無数の弔電については彼が偉大な人物であることを何よりも雄弁に物語っている。クティの死因は、一般的にエイズによる心不全とされているが、当局による数え切れない暴行を受けた結果、免疫が弱って不治のウイルスが入り込んだという説もある。


フェラ・クティの生涯は、苦難多きもので、様々な出来事が縄目のごとく折り重なっていることは以上のエピソードを見ても理解していただけたはずである。そして、クティの生涯については幸不幸といった二元的な見方でその人生を決めつけることは困難である。しかし、そのような二元論のみで語られる人生はフィクションにしか存在しない。現実とは、常に不可解なものであり、容易に解きほぐしがたものなのだ。クティの力強い信念と勇気に裏打ちされた行動については、ヨーロッパの統治からのアフリカ全体の独立、そして、ナイジェリアの自由主義的な国家構造の洗練化と大いに重なる側面がある。そして、彼が今生に残した功績は数しれず、アフロ・ビートというアフリカ固有のジャンルの確立、ヒット曲「Zombie」を生み出し、生涯を通じて彼の人生に触れた何百万人もの人々から無条件の愛と尊敬の眼差しを与えられた。


フェラ・クティのカリスマ性と破天荒なエピソードは、歴代のミュージシャンの中でも群を抜いており、ジャマイカのボブ・マーリーに匹敵するものがある。フェラ・クティは大統領にはなれなかったが、”ブラック・プレジデント”の異名を取るにふさわしい人物だ。マルコムXに影響された人物として、いくらか過激な舌鋒を有することで知られているが、少なくとも汎アフリカ主義を掲げ、植民地からの独立後、ナイジェリアという国家において自由主義獲得の道筋を作った重要人物としてその名は歴史に刻まれるべきで、当然、後世にも、その名は語り継がれるべきだろう。彼の死後も、その影響はとどまることはなく、ナイジェリアのタファ・バレワ広場に置かれた彼の遺影に敬意を表する大勢の人々によって、「アダミ・エダ(祭司長)」という伝説的な地位を与えられた。"彼は、永遠に生きる!"と、の賛辞がクティに捧げられている。

 


Superchunkのフロントマン/ボーカリスト、及び、Merge Recordsの主宰者として知られるMac McCaughan(マック・マコーン)が、昨日、クリスマス・シングル「Dragging A Tree」をリリースしました。このニューシングルはスーパー・チャンク直系のインディーロックでアウトロにかけてはクリスマスベルがフェードアウト、クリスマスの余韻を浸ることができる。

 

このシングル「Dragging A Tree]はbandcampの限定リリースとなっています。ご試聴は下記より。

 

Berwyn

Berwyn(バーウィン)が2022年最初の楽曲、"Path To Satisfaction "を発表した。今年の初めにようやく生まれ故郷のトリニダードに戻ることを許され、内省と自己発見の時期に書かれたトラックだ。以来、彼はDebbieの最近のシングル曲'Cousins Car'にボーカルを加え、アルバムActual Life 3からのトラック'Berwyn (all that I got is you)'で再びFredと一緒に出演している。


1曲目は「3450」で、これもまた生々しく、胸に迫るものがあり、BERWYNが音楽以前の人生について語った親密なストーリーのライブラリに加わる事請け合いだ。

 

ミックステープ『DEMOTAPE/VEGA』や『TAPE2/FOMALHAUT』で触れてきた暴力、迫害、生きるために必要なことといったテーマは、彼のアーティスト活動において不変であり、「3450」でもその中心的な存在となっています。

 

このトラックでは、控えめなプロダクションと高らかに歌い上げるボーカルにのせて、ストリートライフの罠に立ち向かう彼の姿が描かれており、実家が警察に踏み込まれた際のトラウマを詳細に語るモノローグで最高潮に達する。「3450」には 「Chasing Lights (demo)」のファースト・テイク・デモが収録、これも物憂げなインストゥルメンタルに乗せた物憂げで深い個人的な楽曲となっている。


「3450」は、他の経験によって残されたトラウマを理解し、私という人間を形成してきたものに思いを馳せる。Path To Satisfactionは完全に未来を予期しているが、その予期を取り去り、内省することに落ち着く。これは、トラウマを経験した人のための歌。時には、自分ではどうしようもないことが起こり、それが自分に痕跡を残し、自分の中に残るのです。これは小さなセラピー・セッション。Chasing Lightsは、荷解き後の今この瞬間も、その考察を続けています。

 

2022年、BERWYNは9歳で英国に渡って以来、パスポートとビザの問題で何年も影を落としていたが、ついにトリニダードの生まれ故郷に戻ることができた。何年も離れていた彼は、純粋に啓発的な旅の間に、父や祖父母を含む家族と再会した。伝統的な遊びである「ビー玉投げ」の光景、スモークしたニシンの匂い、地元の鳥の鳴き声など、帰国後、さまざまな思い出が蘇ってきたのです。

 


ニュージーランドのサイケロック・バンド、Unknown Mortal Orchestraがクリスマスの恒例行事として新曲「SB-10」を発表しました。この曲は、昨年のクリスマスシングル「SB-09」に続く作品で、Jake Portraitがベース、Kody Nielsonがドラム、そしてフロントマンのRuban Nielsonが残りの楽器を担当しています。試聴は以下のSoundcloudからお願いします。


今年初め、アンノウン・モータル・オーケストラは「I Killed Captain Cook」というニューシングルをリリースしました。このシングルと同時に、2023年に新しいダブル・アルバムのリリースすると告知している。



Fleet Foxes(フリート・フォクシーズ)は、2022年のショア・ワールド・ツアーを記念して、ファンへの年末プレゼントとして、史上2度目となるチケット付き公式ライブストリーム「Live on Boston Harbor」を公開しました。

 

このライブストリームはもともと、秋分の日と2020年のアルバム『Shore』の2周年を記念して、9月に放送されたものです。フルバンドで行われた「Live on Boston Harbor」は、ボストンのLeader Bank Pavilionで撮影されたものです。Wading in Waist-High Water」と「Going-to-the-Sun-Road」では、Uwadeがボーカルを務め、ホーンセクションにはThe Westerliesのメンバーも参加しています。コンサートの模様は、本日YouTubeで公開されました。


このライブストリームは、フリート・フォクシーズと秋分の日のつながりを、アルバムの当初の発売日や2020年12月のライブストリーム「A Very Lonely Solstice」よりも拡大し、ニューヨーク州ブルックリンの聖アン&聖トリニティ教会で収録、ニューヨークがCOVID-19患者の増加を受けて規制強化のための非常事態を宣言してから数日で放送されたものです。グループのメンバーであるロビン・ペックノルドは、このセットを「1年で最も長い夜に、ナイロン弦と新旧の曲で2020年の孤独を称える」と表現しています。世界中のファンが自宅に隔離された状態で視聴し、極度の孤独の中で慰めとコミュニティーの感覚を見出したのです。


A Very Lonely Solsticeは昨年12月にデジタルリリースされ、その後すぐにフリート・フォクシーズのストアから限定版のカラービニールとCDが発売されました。


先月、Fleet Foxesは「Wading in Waist-High Water」をリリースしました。これは、Pecknoldの55曲の歌詞をすべて収録した歌詞集で、バンドの音楽の特徴である詩的で独創的なストーリーテリングを捉えたものです。これらの豊かなレイヤーを持つ歌詞は、牧歌的かつ現代的な物理的・感情的風景の複雑さ、暗さ、そして美しさを探求しています。また、Pecknoldは歌詞に付随して、創作過程、インスピレーション、動機に関するメモを含んでいます。

 

Fillmore East


これは例えば、ロック・ミュージックだけの話に限らないが、ライブ・レコーディングというのは、スタジオのレコーディングとは違い、実に不可解な音源でもある。つまり、観客と演奏者のエネルギーの交換が確実にそのレコーディングに刻印されているのだ。MC5のライブなどを見て分かる通り、ライブ・レコーディングの名盤には、必ずといっていいほど熱気がある。そして、マイクパフォーマンスを通じての観客とのコール・アンド・レスポンスなどのやり取りから、その劇的な瞬間に居合わす人々の息吹が録音を通じてはっきりと感じられる。仮に、バンドのその日の演奏が卓越していたとしても、その場の観客の熱気がなければ、それはセッションになってしまい、ライブ・レコーディングの名盤たり得ないのだ。そして、それとは正反対に、観客の熱気の後押しがバンドのライブ録音を名作にしてしまう場合もある。これは、実際の演奏者として体験したことがあり、本当に不思議でならないことだった。


 
これまでの伝説的なライブ・レコーディングとして、オールマン・ブラザーズ・バンドの「Fillmore East」がある。この録音は、ニューヨークのフィルモア・イーストで録音され、バンドの知名度を押し上げたにとどまらず、このバンドの代表的な録音ともなっている。実際に聴いて貰えれば分かるが、サザン・ロックの代表格の演奏はきわめて渋く、全編がブルージーな雰囲気に充ちた作品となっている。そして、マスタリングが良かった可能性もあるが、近年のライブ音源にも引けを取らない音質の良さとなっている。このフィルモア・イーストでは他にも伝説的なライブ録音が多数現存し、レッド・ツェッペリン、ジョニー・ウィンター、フランク・ザッパ、グレイトフル・デッド、ジェファーソン・エアプレイン等のライブ・レコーディングがある。また、伝説的なフォークバンド、The Fugsの録音もある。この中ではオールマン・ブラザーズとZEP,ジョニー・ウィンターの録音はロックファンとして聞き逃すことは厳禁である。


 

これらの伝説的な音源を生み出したニューヨークのフィルモア・イーストであるが、このライブハウスがオープンしたのは、1968年のこと。施設を開設したのは、世界的なプロモーターの先駆者、ユダヤ人のBill Graham(ビル・グラハム)。彼は、フィルモアイースト&ウェストを開業したにとどまらず、その後、67年にはモンタレー・ポップ・フェスティバル、そして69年にジミ・ヘンドリックのライブでお馴染みのウッドストックをプロモーションしている。グラハムは後に「ロック・フェスティバルはあまりに金のかかるピクニックだ」という名言を残している。


 
1968年と言えば、公民権運動を行っていたキング牧師が暗殺された年に当たる。そういった白人と黒人との人種間の緊張した時代背景は、このライブ施設の収益にまったく影響を及ぼさなかったわけではない。事実、系列施設であるサンフランシスコのフィルモア・オーディトリアムでは、売上自体が低迷していたという。しかし、伝説的なプロモーター、ビル・グラハムはこのウエスト・ヴィレッジの劇場を、その天才的な手腕により、伝説的なロックの聖地と変えてしまうのである。フィルモア・イーストは、1926年に、Yeddish Theter(イディッシュ劇場)として開業した場所だが、ビル・グラハムが、その施設を後にライブハウスとして改築し、伝説的なロックバンドを数多く出演させた。開業当時の収容人数は、わずか2600名だった。
 
 
この場所は、もともと、コモドール劇場の本拠地であり、2階の劇場街に沿って建てられていた。イディッシュ・シアターが多く立ち並び、ユダヤ・コミュニティーの中心地として知られていたアベニューである。また、この施設は、当初、映画館代わりの施設としてマンハッタンに登場し、1930年代までに、ライブのイディッシュ・ドラマとコメディーを舞台で上映し、劇場自体は左翼グループの収益のために貸し出されていたという。この建物の隣にあったレストラン”Rater’s Second Avenue”は、観劇を見に来た客、それから舞台俳優が足繁く通った場所であった。その後の時代、イディッシュ語の共同体(コミューン)が衰退するにつれ、この場所は映画、その他、エンターテインメント公演の重要拠点となり、レビー・ブルース、ティモシー・リアリー、アレン・ギンズバーグの公演の本拠地となった。つまり、ここは、ビート・ジェネレーションの時代の活動家や詩人らの文化的な土壌を形作った場所でもあったのだ。


 
そうした文化的な背景を踏まえ、ビル・グラハムは、この場所をロックの聖地に見立てようとした。多少の修復作業が必要だった。彼はまもなく、ビル・グラハムのフィルモア・イーストという看板を作り、フィルモア・ストリートとギアリー・ブルバードの交差点に因んで、この施設をオープンさせた。フィルモア・イーストの開業後まもなく、ビル・グラハムは、 系列施設であるサンフランシスコのオーディオトリウムのスピン・オフ・コンサートをこのイースト・ヴィレッジのライブハウスで開演しはじめた。グラハムは、週に数回、3組のバンドが出演する2回のショー・コンサートを行い、熱狂的な聴衆を獲得していく。フィルモア・イーストが「ロックンロールの教会」と称されるようになるまでそれほどの時を要さなかった。徐々に、ザ・フー、クリーム、ドアーズといった時代を象徴するようなロックバンドのコンサートが開催されていく。

 

The Allman Brothers Band


政治的な背景として、人種間に不穏な空気が流れる中、こういったロック・コンサートに足を運ぶ人々が増えていったというのは首肯できる。その後の時代のラブ&ピースの時代ではないが、多くの聴衆が、その当時の政治的な気風とは別に爽快な気分にさせる音楽や熱狂を求めていたことはそれほど想像に難くない。エルトン・ジョン、ジャニス・ジョップリン、オーティス・レディング、ジョン・レノン、フランク・ザッパ、クロスビー・スティルス、ナッシュ&ヤングといった伝説的なアーティストとバンドがマンハッタンの夜を美しく彩った。その過程で、フィルモア・イーストのライブレコーディングが行われた。これらの録音は1960年代後半から70年代初頭にかけてのマンハッタンの文化の隆盛を象徴付けているとも言えるだろう。
 

これらのロックンロールの聖地としての栄華の時代は開業からわずか3年であっけなく終焉を迎えた。音楽産業の構造変化と成長、さらにコンサート事業の急激な変化、小規模なコンサートからウッドストックを筆頭に野外の大規模なコンサートが主流になるにつれ、これらの小規模のキャパシティでは、費用対効果の期待が持てなくなった。1971年6月27日、プロモーター、ビル・グラハムは、フィルモア・イーストの閉場を決定する。最後のコンサートは、特別な招待客だけを招いて行われたといい、このコンサートホールを象徴するアーティスト、オールマン・ブラザーズ・バンド、アルバート・キング、マウンテン、ビーチ・ボーイズの公演で有終の美を飾った。
 
 

Fillmore Eastの跡地


 1980年になると、フィルモア・イーストの跡地は、セイントと呼ばれるプライベート・ナイトクラブに建て替えられ、1996年には6番街にあった建物の劇場部分が取り壊され、居住用の建物に改築された。以後、ロビー部分だけは残されていたが、建物の大部分はエミグラント銀行の支店として残された。建物の外には、街灯柱のモザイクが記念碑として現存するようだ。

Weekly Recommendaiton

 

John Roberts 『Like Death A Banquet』

 


Label: Brunette Editions

Release: 2022年12月23日 


Genre: Electronic/Ambient/Experimental

 

 

Review

 


ジョン・ロバーツは、”音楽家”という肩書きでは一括りに出来ない幅広い領域で活躍するアーティストです。敏腕プロデューサーの表情を持つ一方で、8ミリのフィルムのリリースや、彼の出版する雑誌のカバーアートなど、写真作品を見るかぎり、強固な美学に裏打ちされた作品を複数リリースしています。映画、写真、メディア・アート、異なる分野に及ぶ見識については、彼自身の音楽や音源のアートワークに力強く反映されています。2019年からのリリースでは、ボーリングの球体の写真を始めとする円状のアートワークが並ぶ。球体という図形に関する興味は、このアーティストが空間芸術に高い関心を持つことを示しているかも知れません。


12月23日に発売となった最新EP『Like Death A Banquet』において、ジョン・ロバーツは既存の作品とは一風異なる作風に挑んでいます。これまで前衛的な電子音楽を複数リリースしていましたが、今回の作品ではピアノと電子音楽の組み合わせに挑戦している。これまで、先鋭的なエレクトロニックを作曲してきたロバーツの新たな表現性を本作に見出すことができるはずです。

 

2曲入りのEPというと、シンプルではありますが、これは単なるシングルとも言いがたい。抽象的な概念を通じて繰り広げられるピアノ・アンビエントのフレーズの単位はミクロ的な視点で構成され、大掛かりな作品が生み出されている。


ロバーツは、シンプルな楽曲構成を心がけ、単調さの陥穽を上手く避けている。アンビエンスの効果を最大限に活用し、教会や高い天井を持つ空間を演出する奥行きあるリバーブ・エフェクトやディケイを取り入れ、音響中に微細な変化をもたらしています。

 

『Like Death A Banquet』に内包される音楽は、ジョルジョ・デ・キリコの絵画作品のごとくシュールレアリスムのような不思議な感じに満ちている。意味のない空間のように思え、その中に何らかの意味を見出したくなるという趣旨もある。しかし、また、キリコのように、音を俯瞰して眺めていると(聴いていると)現実的な感覚が希薄なため、そこに奇妙な安らぎを覚えることも事実です。ここには、現実性と一定の距離を置いた異質な空間が広がり、現実空間とは没干渉な音楽が展開されています。いわば、人気のない奇妙な空間に足を静かに踏み入れ、その中に安寧を見出したり、また、人気のない美術館に足を踏み入れる際におぼえる安心感にも喩えられる。そこでは、己の中にある美的感覚がはっきりと浮き彫りとなる。まさに、この2曲収録のEPは、以上のような、ジョン・ロバーツの持つ、きわめて強固な美的感覚が緻密に提示されており、凛とした静けさと安らぎに充ちた音響空間はこの再生時間の中で維持されている。そして、この音楽において、その内なる美的感覚は鑑賞者の手に委ねられるわけです。つまり、この音楽の中に、どのような美的感覚を見出すのかは聞き手の感性如何に一任されているのです。

 

この作品は、常に静けさに満ちており、その中には異質な神秘性すら見出すことができる。このミステリアスな感覚を加味するのは、ピアノのフレーズの合間に導入されるパーカーションや、弦楽器のピチカートの切れ端、断片的なサンプリングといった複数の要素です。ロバーツは、音源の素材をシンセとミックスダウンで巧みに処理し、ピアノのフレーズを後に繋げていきます。さらに、抽象的なフレーズの合間に、木の打音や弦楽器の演奏の断片を導入し、音の配置を緻密に入れ替えたり、フレーズを組み替えた変奏を重ねることにより、同じフレーズであるものを、まったく別のフレーズのように聴かせる。それまでの意味を新しく塗り替えてしまうわけです。

 

このEPは、単一の主題によって立体的に組み上げられた趣のある作品ですが、驚くべきことに、音楽に対する見方や角度を変えれば、異なる音楽のように聴こえることを暗示しています。これらのリズムやフレーズの配置の多彩なバリエーションにより、「Like Death A Banquet」は、16分もの間、別のフレーズが独立して存在するように感じられる。表面上だけを捉えると、よくあるようなアンビエント/モダン・クラシカルではないかとお考えになるかもしれません。しかし、ジョン・ロバーツは、『Like Death A Banquet』において、聞き手の予測を上回る前衛的な作風を確立しています。ここで、ロバーツは、ミニマル・ミュージックの先にあるアブストラクト・ミュージックの未知の可能性を実験的かつ断片的に示しているといえそうです。

 

 

 86/100

 






John Roberts


ニューヨークを拠点に活動するプロデューサー/演奏家であるジョン・ロバーツは、2010年のデビュー・アルバム「Glass Eights」、2013年の2ndアルバム「Fences」のリリースで批評家の称賛を浴び、エレクトロニック・ミュージックのトップ・イノベーターとしての地位を確固たるものにしました。また、Rough Trade、Hyperdub、Young Turks、R&S Recordsなどの著名レーベルのリミックスを手掛けている他、国際的な高級ブランドであるプラダ、エルメス、モンクレール、ブガッティに、オリジナルの作曲とサウンドデザインを提供しています。


2015年、ジョン・ロバーツは、ジャンルやメディアに縛られない特異で学際的な作品のリリースに焦点を当てた自主レーベル、”Brunette Editions”を設立。2016年には、3枚目のフルレングス・アルバム『Plum』、さらに、それに付随するスーパー8mmフィルムをリリースしています。


Pitchforkは、「ロバーツは、彼の同業者が、ただ12インチを売りさばいているように思えるほど、個人的かつ芸術的なセンスで活動している」と評しています。2019年には、ミュージシャン、仮想楽器、フィルム編集技術との関係を探求した「Can Thought Exist Without The Body」をリリースしました。


さらに、ロバーツは、アーティスト、映画制作者、ミュージシャンの視点から、仮住まいを検証する、世界的に著名な印刷物「The Travel Almanac」の共同創設者兼編集長を務めています。(公式サイトはこちらより)この雑誌では、デヴィッド・リンチ、イザベル・ユペール、リチャード・プリンス、ハーモニー・コリン、コリアー・ショールとの対談が掲載されています。




*本レビューが2022年最後のウィークリー・レコメンドになります。今年もありがとうございました。皆さん、良いお年をお迎えください。

 

The Strokes Photo:Lewk Schulze + Kayla Fernandez

ザ・ストロークスは、2020年の『The New Abnormal』以来リリースから遠ざかっているが、新作アルバム発売の噂が流れ始めている。次作アルバムのレコーディングは自体は、今年コスタリカで行われており、早ければ、来年か再来年にリリースされる見込みとなっているようだ。

 

今年10月にザ・ストロークスは、伝説のプロデューサー、Rick Rubin(リック・ルービン)とともに新譜をコスタリカで制作しており、明確な場所こそ不明であるものの、山上にある家でレコーディングを行っていることを明らかにしている。リック・ルービンは、ストロークスの前作を手掛けている他、メタリカ、キッド・ロック、NIN,リンプ・ビズキット、RHCP,アデル・カニエ、シーランを始めとするビック・アーティストの共同制作者で、ヒット作請負人ともいうべきプロデューサーである。

 

ザ・ストロークスの次作については、まだほとんど明らかにされておらず、どういった作風になるのかも不明である。近年、ストロークスは、初期の音楽性から脱却しようと試みており、7年の沈黙を破って発表された前作『New Abnormal』を見るとそのことは明らかである。

 

予測としては、前作の延長線上を行けば、シンセ・ポップとロックの間にあるような作風となりそうだが、ガレージ・ロックの原点回帰の可能性もまだ少なからず残されている。こういったことについては実しやかに語ることはできるが、しかし、それはやはり単なる憶測に過ぎない。ただ、次作のリリースの大まかな時期だけがほのめかされており、ボーカルのジュリアン・カサブランカスは、「1年か、2年後にチェックするように・・・」とファンにこっそり伝えている。

 

そして、さらに、今回、Albert Hammond Jr.は、Maximのインタビューで、ルービンとの仕事についてあらためて話している。


ギタリストのアルバート・ハモンド・ジュニアは、「どんな様子で、どんなものだったかを話したとしても、僕らがいた場所や、あのようなレコーディングがどんなものだったかの『魔法っぽさ』を完全に理解してもらえないと思う。彼のお気に入りのレコーディング体験のひとつが、今まさに体験したこのレコーディングだったというのは、本当に感動的なことだと感じた」


さらにハモンド・ジュニアは、「音楽をやりたいと思うこと、それを続けることに興奮するのは、まだ最高の曲を書いていないと思うからなんだ。本当に直感でそう感じるんだ」と述べている。ギタリストの自信満々の発言を聴くかぎりでは、次作についてかなりの手応えを感じているのではないだろうか。「魔法っぽさ」という発言の中に、これまでと違う作風が登場しそうな予感もあり、ストロークスの最高の新曲が次作でお目見えになるかもしれない。ファンとしては、そういった期待感を胸に秘めながら、次のアルバムのアナウンスを心待ちにしておきたい。

 

†††(Crosses)


DeftonesのChino Moreno(チノ・モレロ)とプロデューサー/マルチインストゥルメンタリストのShaun Lopez(ショーン・ロペス)によるデュオ、†††(Crosses)が、George Michaelの「One More Try」をシンセ・ポップとしてカバー・アレンジした新曲を公開しました。ジョージ・マイケルは「Last Christmas」で知られるWham!のメンバーとしてお馴染みです。


2020年のクリスマス・イヴには、Cause & Effectの「The Beginning of the End」のカバーを公開し、2021年には、Q Lazzarusの「Goodbye Horses」を演奏し、ホリデーソングの伝統を守っている。2022年初め、†††(Crosses)は『PERMANENT.RADIANT EP』をリリースした。

 

 

世界的な人気を誇るプエルトリコのラッパー、Bad Bunnyがコラボレーターとしてお馴染みの同郷のÑengo Flow(ニェンゴ・フロウ)とタッグを組み、新曲「Gato de Noche」を発表しました。この曲はバッド・バニーが今週初めにTikTokで公開しています。


「Gato de Noche」は、2020年の『YHLQMDLG』の収録曲「Safaera」と「Qué Malo」でバッド・バニーとコラボレートしています。他にも、Ñengoの2017年の曲「Hoy」に出演している。

 

今年初めにバッド・バニーが発表した最新アルバム『Un Verano Sin Ti』は、2023年度のグラミー賞のアルバム・オブ・ザ・イヤーにノミネートされている。


 


 

バラク・オバマ元大統領が、2022年のベスト25のソングリストを公開した。無類の音楽好きとして知られるオバマ氏の今回のプレイリストは、前回と同様にかなり凝った選曲となっています。

 

ビヨンセの「Break My Soul」、ケンドリック・ラマーの「The Heart Part 5」、バッド・バニーの「Tití Me Preguntó」、ロザリアの「Saoko」、エセル・カインの「American Teenager」、プレインズの「Problem With It」等、インディーズ寄りの選曲も含まれています。


「年末の音楽プレイリストを皆さんと共有するのをいつも楽しみにしています。今年もたくさんの素晴らしい曲を聴くことができました。ここに私のお気に入りの選曲を皆さんにご紹介しましょう」とオバマ大統領はTwitterを通じて述べています。「他に私がチェックすべき曲やアーティストがあるでしょうか?」


今年の初め、オバマ氏は夏のプレイリスト、Barack Obama's Summer Playlistを公開している。



IDLESは本日、Partisan Recordsから2021年11月にリリースされた彼らの2023年作『CRAWLER』に関するドキュメンタリー『Making of Crawler』を公開しました。


IDLESは昨年11月にCrawlerをリリースして以来、米国の主要フェスティバルであるCoachellaやLollapaloozaを含む世界ツアーを行っており、またLate Night playing Jimmy Kimmel Live! とThe Late Show With Stephen Colbertに出演しました。


バンドのリードシンガーでありソングライターであるJoe Talbotは、「トラウマや失恋、喪失感を経験した人たちに、自分たちは一人じゃないと感じてほしい。このアルバムは、そういったものがどこから来るかという醜い面だけでなく、そういった経験からいかに喜びを取り戻すことができるかを示しているんだ」と説明する。


その他のハイライトは、IDLESがリリースしたクリーブランドのビーチランド・ボールルームでのパフォーマンス "Live From My Den "で、この会場はバンドにとって特別な場所であるため、トラックリストにもその名が記されている。




ソニー・ミュージックは、才能あるアーティストを多方面から支援するための施策「Artists Forward」の最新情報を発表した。

 

今回、ソニー・ミュージックが発表したアーティスト支援策の概要は、ミュージシャンのマージンの未回収残高問題、また、全般的な収益不払いの改善、また、メンタルヘルスのカウンセリングと手厚い支援である。

 

この新しいプログラムにより、問題を相談する相手を失い、孤立しやすいアーティストをレーベル側が全面的にバックアップすることになる。現時点で、当該プログラムの適用は、ソニー・ミュージックの契約アーティストに限られているが、今後、他の大手レーベルでも同様のプログラムが組まれれば、アーティストにとってより音楽が作りやすい環境となるはずである。

 

ロブ・ストリンガーが率いるメジャーは、1年半前に開始され、対象となるレガシーアクトにストリーミングロイヤルティを開放するというアーティストに優しい施策で話題となったこのプログラムの進捗報告を参加者に提供している。レガシー未回収残高プログラムは、その後出版事業にも拡大された。


アーティストの未回収残高を解消する取り組みは、今年、契約期間が20年以上で、その間に前金を受け取っていない参加者の年次グループをローリングするように拡大されました。この新しい基準のもと、対象となるアーティストと参加者のグループには、最近、資格取得の通知が送られ始めています。


ソニー・ミュージックは、今週のアーティスト・コミュニティへのリポートで、この決定が「近い将来、世界中でさらに何百人ものクリエイターと参加者にポジティブな影響を与えるだろう」と述べています。また、Artists Forwardの一環として、ウェルビーイング施策の影響についても言及しています。”It's okay not to be okay "という見出しで、70カ国語で利用できる無料のカウンセリング・サービスを利用するアーティストが増えていると述べた。


さらに、ソニーは、アーティスト支援プログラムの一環として、ストレス、不安、うつ、悲しみ、家族や人間関係などに対処するための専門的なカウンセリング・サービスをタレントに提供する。このプログラムは、コーポレート・カウンセリング・アソシエイツ(CCA)とのパートナーシップにより提供される。

 

昨年の開始以来、世界中で100名以上のアーティストに情報提供とサポートを行ってきた。これまで、12カ国以上の数多くのアーティストがこのサービスを利用し、ライセンスを持つセラピストとの定期的なセッションを確立し、急な問題に対処するためのサポートを受けたりしています。


他にも、ソニー・ミュージックは、音楽クリエイターとそのチームに対して、決済機能、コンテンツの消費状況、視聴者エンゲージメントデータを提供する「アーティスト・ポータル」と「リアルタイム・インサイト」というアーティスト向けツールの導入が進んでいることを発表した。


その一環として、アーティスト・ポータルから利用できるキャッシュアウトとリアルタイム・アドバンス機能により、世界中のアーティストと参加者が合計約5,000万ドルを引き出しました。この機能により、ユーザーは毎月の口座残高をキャッシュアウトしたり、対象となる予測収益に対してアドバンスを開始することも可能となる。


”Sony Music Artist Portal”は、収益を追跡・分析するためのウェブサイトとアプリで、利用可能な資金があれば、すぐに引き出しや立替を開始できる。さらに、ソニー・ミュージックが提供する別アプリ「Real Time Insights」は、アーティストとそのチームが、毎日処理される何十億ものグローバルな取引から瞬時に提供される高度な分析結果に基づいた意思決定を支援している。


ソニー・ミュージックは、今回の支援プログラム発表について、次のように述べています。「私たちのすべてのアーティストツールで、私たちはダイナミックな市場でのあなたのキャリアをサポートするために、迅速、便利で使いやすいソリューションを提供することに重点を置いています」

 

 

ロンドン南部にあるライブ会場”O2 Academy Brixton”の施設ライセンスが来月まで停止されることが分かった。これは、12月15日に同会場で発生した事件を受けて発表されている。この日、会場に詰めかけた群衆のクラッシュにより、2人が命を落とし、さらに複数の人物が重傷を負った。

 

この悲劇的な事件を受け、警視庁はランベス議会に4,900人収容のO2アカデミー・ブリクストンを一時的に閉鎖するよう要請し、複数の公演がキャンセルされる結果となりました。ランベス・カウンシルが科した施設の一時的な閉鎖は、全面的な見直しが行われる1月16日まで適用される予定です。


この決定により、同会場で予定されていた大晦日パーティーを含むイベントや、オーストラリアのバンド、Chase Atlanticの3日間の公演、さらにはHeilungとTriviumのショーがキャンセルとなっている。


ランベス議会のライセンス小委員会は、12月22日に緊急会合を開き、12月20日にMet Policeがライセンスの簡易審査を申請したことを受け、この使用権停止の決定を下すことを決定した。


ランベスのセーファー・コミュニティ担当閣僚である、Cllr Mahamed Hashiは、次のようにコメントしています。


「私たちの地区で悲劇的な事件が発生し、私たちはその壊滅的な影響に対処しています。私たちの思いは、被害に遭われた方々、特に悲劇的に命を落としたRebecca IkumeloさんとGaby Hutchinsonさんのご家族やご友人の方々とともにあります」


「このプロセスの最初の段階において、この問題を慎重かつ厳格に検討した小委員会の仲間に感謝したい。我々は今後、会場の安全性について地域住民を安心させ、なぜこのようなことが起きたのかについて必要な答えを引き出し、この悲劇的な出来事に関する警視庁の捜査を支援するため活動を続けていく」


さらに、同会場の責任者、及び、(ロンドンの)警視庁の代表者は、会議に出席し、意見を述べた。警視庁の犯罪専門部隊による犯罪捜査は、刑事がCCTVや電話の映像を確認し、目撃者から話を聞き、法医学的検査を行うことにより進められています。捜査の一環として、写真、ビデオ、情報を提出するためのオンラインページが開設されている。


同会場の施設使用権を所有するアカデミー・ミュージック・グループは、Rebecca IkumeloとGaby Hutchinsonのご家族とご友人に以下のような哀悼の意を表しており、「我々はこの悲劇的な状況に打ちのめされ続けており、現在進行中の捜査を全面的に支援している」とコメントを提出している。