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Weekly Music Feature:  JayWood

カナダのウィニペグで生まれ育ったJayWood(ヘイウッド=スミス)は、2015年から自己発見と心痛の旅をユニークなソングライティングで捉えてきた。2019年に母親を亡くし、2020年を通して複数の社会的危機が発生し世界的に行き詰まったヘイウッド=スミスは、前進するための勢いに憧れていた。 


 ヘイウッド=スミスは、両親の死後、自分の過去や祖先とのつながりを断ち切られたと感じて、白人が多いマニトバ州で暮らす自分のアイデンティティと黒人特有の経験を理解するべく意識的に取り組んだ。現在は音楽活動の拠点をマニトバ州ウィニペグからモントリオールに移し、新たな境地を開拓しようとしている。


新作アルバム『レオ・ネグロ』は自己との再接続とアイデンティティの探求を主題に、これまでとは異なる響きを奏でる。 制御された混沌が主導権を握る意味ある変革の瞬間を刻み、実験主義者であることの真髄を哲学的に探求。これまで以上に大胆で遊び心にあふれ、真実味のあるサウンドを通じ、ジャンルを超越した多面的な世界を構築する。


「これは最も正直でパーソナルな自分だ。だが、このアルバムに臨むには、異なるバージョンの自分から書く必要があった。意図的に各曲で脳を分割したことで、単に好きなものを書き散らして意味を期待する散漫な音楽的思考よりも、むしろ一貫性が増した」


タイトルこそレオ(獅子座)だが、本質はそうではない。11の『Jays』は真実と不確実性を貪る。鋭いサンプリングと幾重にも絡み合う展開にもかかわらず、レオ・ネグロは見せびらかすことなく、脆弱性の前で咆哮する。アイデンティティ危機を乗り越える手段として、個人の絶対的な価値観を見つめながら。 


「注目を欲しがるのは認める。それはどうしようもないことだ。なにしろ俺は獅子座だからね」と彼は『Pistachios』でヴィンテージ・ヒップホップのサウンドの合間に語る。子供の頃、注目の的でありたかった欲求を思い出しつつ、大人になってスポットライトから降りたことを振り返る。 「レオは自信に満ちて自己を確信しているが、このレコードは必ずしもそうではない。だからタイトルを翻訳すると『黒い自信』を喚起する。真実を歪め、内なる全てを体現する、居心地悪く奇妙でシュールな言葉なのだ」


新たな章の不快感と断絶に向き合いながら、彼は、日記のように音楽を書き綴る新たな習慣と実践で地に足をつけた。誰しもそれを感じつつも直視を恐れる感情の寄せ集めを、自らの体験を通じて克明に記録していった。 


制作のペースを落としながら内省を深める中で、彼は他のミュージシャンのツアーや自然の多様な風景、ストリートアートに触れ、リック・ルービンの賢明な言葉から『アーティストの道』、エリザベス・ギルバートの『ビッグ・マジック』に至るまで、芸術家の苦境を描いた著作に触発され(二度も!)フランス語を学んだのだった。 


「アーティストであるとは、芸術的に生き、呼吸することなんだ。つまり、実験し、挑戦し、失敗し、再挑戦し、それを続けることなんだ。私はそれを人生のあらゆる場面で実践する必要があると気づきました。服装の仕方から人との接し方まで。あらゆることに実験を続け、他者が共感できる自分自身の新たな側面を引き出したかった」


人生と音楽の両面で飽くなき実験を重ねるレオ・ネグロと、その初作『Big Tings』(カリフォルニアのアートポップ・デュオ、チューン・ヤーズをフィーチャー)は、2023年のEP『Grow On』や前年の洗練された前作『Slingshot』とは明確に対極に位置する。 


D'Angeloを思わせる流れとToro Y Moiの質感で進むこの曲は、渦巻くシンセのきらめくイントロと遊び心のあるアプローチで、ジェレミーがパソコンのメディアプレーヤーでお気に入りの曲を巻き戻したり、スロー再生したり、早送りしたりしていた思春期へと回帰する。


「自分は現実から離れた音楽作り、世界構築するというアイデアが大好きなんだ」と彼は語る。「このレコードはポケットサイズの体験のようなものです。でも、おそらくここに根ざしたものではないかもしれない」


レコード全体に散りばめられたダイヤルアップ音で点と点を繋ぐか、DJとして自身のプレイリストに反応する客席の動きを観察するか――ジェイウッドは創造の境界を押し広げる構成要素を介して、自らの制作全般を刷新された芸術形態へと昇華させた。 


音楽仲間ウィル・グリアソン、アーサー・アントニー、ブレット・ティクゾンに励まされ、スタイリストや古着好きの友人たちを起用してレオ・ネグロの美学を表現するジェイウッドの2025年の大きなテーマはコラボレーションだ。


Instagramのグリッドに輝くセッション写真の笑顔には、結束の固い音楽仲間たちの姿が映し出されている。 楽曲はウィルとアーサーのコレクター・スタジオで録音され、アイデアをぶつけ合いながらジェレミーの音響的な想像力を捕らえた。「このレコードは頭の中で起こっていることそのものだから、めちゃくちゃ多くのことが起こっているように聞こえるはずだ」と彼は語る。


 「これは、あらゆるものの集大成であり、その二面性でもあります。私の中にあるすべてのメロディーやアイデンティティは、すべて私の一部であり、連携して機能している。それらはすべて現実のものであり、すべて私そのものであり、それはまさに祝賀の瞬間のように感じられる」 もちろんアートワークにも意味がある。「アルバムに近づくためにさまざまなバージョンの自分の視点から曲を書く必要があった」とジェイウッド。そして、これこそがこの作品に多角的な印象をもたらす。


カナダでいちばん権威のあるポラリス音楽賞にノミネートされたことで、臆病なライオンのように、これまで成功してきたことを繰り返して安住するのは簡単だっただろう。 しかしジェイウッドにとって、生まれ持った「もしも?」という好奇心に身を任せ、その場その場で自らの好きなようにルールを作り上げ(「そもそも最初からルールなんて知らなかった」)、安心と自信を求め、深いつながりを築くため、正直さという危険な領域へ踏み込むことこそ、彼にとって唯一の選択肢だった。何しろ彼は獅子座だ。そうせざるを得ない性分があったのだ。 


『Leo Negro』- Captured Tracks



ジェイウッドはカナダ/ウィニペグから登場したソングライターで、ヒップホップやインディーソウルを融合させ、これらのジャンルを次世代に導く。『Slingshot』では自己のアイデンティティを探求し、繊細な側面をとどめていたが、今作にその面影はない。現在の音楽の最前線であるモントリオールに活動拠点を移し、先鋭的なネオソウル/ヒップホップアルバムを制作した。ここで"ヒップホップはアートだ"ということを強烈に意識させてくれたことに感謝したい。

 

いくつかの楽曲からは強いエナジーとエフィカシーがみなぎり、このアルバムにふれるリスナーを圧倒する。ジェイウッドは、電話のメッセージなど音楽的なストーリーテリングの要素を用い、起伏に富んだソウル/ヒップホップソングアルバムを提供している。また、その中には、デ・ラ・ソウル、ドレなどが好んで用いた古典的なチョップやサンプリングの技法も登場したりする。


直近のヒップホップ・アルバムの中では、圧倒的にリズムトラックがかっこいいと思った。彼はこのアルバムで、トロイ・モアの系譜にあるメロディアスなチルウェイブとキング・ダビーが乗り移ったかのような激烈なダブのテクニックを披露し、ドラムンベースらベースラインを含めるダブステップの音楽性と連鎖させる。彼は次世代の音楽を『Leo Negro』で部分的に予見している。

 

オープニングトラック「WOOZY」はサイケデリックなプレリュードである。文字通り、ウージーでメロウなギターで始まり、深いリバーブ/ディレイのエフェクトをかけたボーカルを通して、催眠的なソウルのリスニング体験に導く。きわどいサウンドエフェクトはダブに属し、サイケソウルの領域に到達している。目のくらむような、寝る前のまどろみのような、心地よい雰囲気がヴォーカルのテイク、そして多重録音によりもたらされ、聞き手の興味を引きつける。


アルバムには古典から最新の形式に至るまで、ソウルミュージックへの普遍的な愛着が感じられ、それらはビンテージのアナログレコードのようなミックスやマスターに明瞭に表れ出ている。ギターのリサンプリング、そしてサンプル、ボーカルが混在し、サイケでカオスな音響空間を形成する。しかし、その抽象的な音の運びの中には、メロウなファンクソウルが偏在している。

 

「PISTACHIOS」はイントロにサンプリングとDJのスクラッチを混在させ、その後、古典的なファンクソウルのリズムを配して、乗りの良いグルーヴを作り上げる。R&Bの古典的なコーラスワークをサンプルし、その後、ジェイウッドのニューヨークスタイルのラップが披露される。リリックは都会的な空気感を吸い込んでおり、それらが前のめりのリズムに反映されている。


全体的には2000年代前後のヒップホップをベースにし、ピアノのサンプリングを織り交ぜ、ジャズの響きを作り出す。モントリオールの音楽が新しく加わり、ジェイウッドの音楽は驚くほど華麗でゴージャスになっている。実際的にジャズ和声を組み合わせながら、それをリズムと連動させ、強固なグルーブを作り出す。


ニューヨークの前衛的なヒップホップの影響を織り交ぜられ、激烈な印象を持つギターが入ることもある。これらの古典性と先進性が混在したヒップホップソングは、スクラッチの技法を挟みながら、時空の流れを軽々と飛び越えていく。これは本当にすごい。


ジェイは華麗なラップのテクニックを披露したかと思えば、ソウルフルな歌唱に変わり、スポークンワードにも変わる。トラック全体の怒涛のごとき容量は、ナイル・ロジャースに匹敵する。ネオソウルを吸収したヒップホップとして聴けるが、和音の配置や音感の良さが傑出している。特に、一つの和音をくるくると転調させて、別のフェーズに持っていく力量が天才的と言える。

 

 

 「PISTACHIOS」

 

 

 

「BIG TINGS」は、D’angeloのゴスペルを吸収したソウルをヒップホップの領域に近づけている。 いわば、ニューゴスペルともいうべきスタイルが誕生している。コラボレーターにTune- Yardsが参加している。古典的なブレイクビーツを主体にしており、ブレイクビーツのぶっ飛び方が独創的。曲の後半では、R&Bらしい幸福感のある雰囲気を漂わせ、トリッピーな感覚が広がっていく。この曲において、ジェイウッドは、ある政治的な揶揄を込めているらしい。


「みんな気をつけたほうがいい。これから大きなことが起きると誰かが言うのを何度も聞いた。けれど、その後に続くことがないなんておかしいじゃないか。そういうことをいうためにこの曲を書いた」また、コラボレーターのTune-Yardsのガーバスは次のように説明している。「送られて来たファイル名が”BIg TIngs”だったから、”Big Things Coming, Coming Our Way”って歌ってみた。ジェイウッドにとって大きなことがやってくる」 これらの言葉は政治的な皮肉として作用するだけではなく、楽しみは自分自身で作っていくことの大切さが歌われているようだ。ジェイウッドのボーカルも素晴らしいが、ガーバスのボーカルも同様に素晴らしいエフェクトを与えている。ゴスペルの手拍子とヒップホップの普遍的なスタイルが見事なほど合致している。

 

インタリュード「J.O.Y」は曲間の接着剤に過ぎないかと言えば、そうではない。ジェイウッドが若い時代にサンプリングを楽しんでいた時代を思い起こさせ、それらは音楽という形態を超え、様々な感情や概念の混在という形で成立している。音楽的にはチルウェイブに近く、それが半ば夢見心地に展開される。 全般的にはサイケソウルのような抽象的な音楽がゆっくり流れていく。

 

「ASSUMPTIONS」は、シカゴ/ニューヨーク・ドリルに形式を受け継いだ現代的なヒップホップソング。イントロでは様々なアイディアが凝らされている。手拍子を入れたり、アフロカリブの音楽性を吸収し、民族音楽のエキゾチズムが反映されている。その後、モダンなドリルに移行していくが、ジェイウッドのボーカルは少しソウルに傾倒していて、旋律的なニュアンスをどこかに留めている。ラップスタイルは、ケンドリック・ラマーの影響が見受けられる。また、バッドバニーを筆頭とする、プエルトリコのヒップホップの影響も含まれているような気がする。


しかし、これらのライムをいかにもジェイウッドらしくしているのが、彼の繊細なエモーションとメロディーである。ドリルの後に登場するパワフルなベースラインやドラムンベースのリズムと華麗なコントラストを描いている。それらは、結局、ニュアンスに近いリリックにより、旋律的な効果を帯びる。さらに、2分49秒以降は、音楽が一瞬でトリップして、チルアウトなソウルへと様変わり。曲の後半では、南米やプエルトリコのダンサンブルなラップソングへと移り変わる。これらのエポックメイキングな曲展開は、一聴の価値があると思う。 

 

英国/ロンドンのネオソウルからの影響もありそうだ。「GRATITUDE」はダンスミュージックの休憩時にかかるチルアウトとネオソウルの融合である。そして、グリッチやシンセポップ等のエレクトリックからの影響を交えながら、心地よいネオソウルの音響世界を構築している。このアルバムにおけるソウル・バラードとは、エレクトリックやダンス・ミュージックを反映させたもの。それらが2015年頃から培ってきたヒップホップとラップの中間にあるメロウで淡いジェイウッドのボーカルにより、まったりして落ち着いたハーモニーを作り上げている。この曲の一分後半での抽象的なハーモニーは、Samphaのような音楽性が体現されている。その後、エレクトリックやEDMのイディオムを通して、トロピカルで天国的な音楽性が形成される。

 

アルバムの終盤にもう一つ注目すべき曲が収録されているが、「ASK 4 HELP」も個人的にはイチオシの曲だと思う。イントロは、アブストラクトなサイケソウルだが、その後のブレイクビーツの音やリズムの運びが強烈である。感覚的なソウルやヒップホップのように聞こえるかもしれないが、論理的な構成力を誇っている。ギターのサンプリングを織り交ぜたり、チルウェイブのリズムを配して、トロイモア(Toro Y Moi)のような音楽的な構造を作り上げる。


また、アコースティックギターのリサンプリングにフィルターやデチューンをかけ、ローファイの音楽性を織り込んでいる。しかし、一方のジェイウッドのボーカルはどこまでも甘美的で、聞き手をほどよく酔わせる魅力がある。これらは、西海岸のダンスミュージックを反映させたヒップホップや、イギリスのネオソウルを巻き込み、世界的なブラックミュージックへと到達する。規則や規律をある程度は意識した上で、その規律を超える瞬間が込められている。


これぞまさにジェイウッドのソングライティングが優れているといえる理由なのだ。それは規律の中にこそ自由が見つかるというソングライターの美学を反映しているのである。そもそも、一定の規律や規則のないところに、ほんとうの自由は存在する余地がない。そして、音楽のクロスオーバーに拍車がかかり、この曲の最後ではモントリオールを象徴づけるジャズのイディオムが明確に登場する。ウッドベースの響きがラップと心地よく溶け合っている。


 

 「ASK 4 HELP」

 

 


「PALMA WISE」は、内省的なヒップホップ/ネオソウルとして聴きいらせる。しかし、ナイーブな印象が従来の曲では少し弱点となっていたが、この曲ではそういった弱々しさは微塵も感じられない。本作の副次的なテーマと呼応するように多角性とパワフルな印象を擁している。ネオソウルのコーラスワークを取り入れたこの曲は、現代的なヒップホップの模範例とも言える。2分後半以降の女性コーラスは従来のジェイウッドの作品にはなかった陶酔感、そしてソウルミュージックとしてのスピリットを復刻していて、このジャンルの音楽の魅力を見事なまでに体現させている。


「DSNTRLYMTTR」は80年代のダンスミュージックやディスコを引用し、それを現代的なリズム感を持つダンスミュージックにアップデートさせている。これらのサンプリングの抜群のセンスや技術の高さもまた、アルバムの一つの魅力となるはずだ。

 

「UNTITLED」ではデジタル社会やSNS時代の人間のコミュニケーションの危険性について警鐘が鳴らされる。「この曲は私達と携帯電話の関係やそれが生み出す誤ったつながりについて歌っている。私たちは心のどこかで本物のつながりを求めていて、エネルギーや時間を費やし、友達のいるとこへ行こうとしている」という。 この曲は、本格派のゴスペルタイプのR&Bで、「太陽の下で私を愛しているといわないで/まるであなたがだれかに時間を作るかのように/あなたはフィードに隠れることはできない」と歌われている。ゆったりとしたドラムのビートが刻まれる中、ジェイウッドは根本的な交流の重要性を訴えかけるべく、心温まるような歌を披露している。曲はだんだんメロウさを増していき、顕在意識を離れて、潜在意識へと迫っていく。

 

クローズ曲「SUN BABY」は、ジェイウッドが言うところの''様々な自己''が的確に反映されている。ロック風のギター、ノーザンソウルからサザンソウルまでを飲み込み、それらを現代的なフィルターで通し、途中のコーラスの箇所では、ドラムの迫力のあるテイクを交え、迫力のあるボーカルをジェイウッドは披露している。それは多彩なブラックミュージックを融合させる傍ら、その根源的な意味を探るかのようである。


この曲において、ジェイは部分的には、これまで親しんできた音楽家に居並ぶように力感のあるボーカルを歌っている。いかなる前衛的な形式も以前の音楽なしでは成立しえない。ジェイウッドは、旧来の系譜を踏まえた上で、それらの常識を破り、臨界点を突破する。常識を破るときには、前例や規則を放棄するという意図が必要となるが、それを実際にやるためには、決意の力が試される。さらに、付け加えると、ジェイウッドは、多角性の観点から全体を見事にまとめ上げた。そのさい、論理思考が作品に一貫性を付与したのは言うまでもない。

 

ジェイウッドは、この曲で自分の力を信じきり、既存の扉をぶち破り、革新的な領域へと到達している。しかし、さまざまなアイデアを自分の力で試したりする中、強大なカオスに飲み込まれまいとするアーティストの姿も見い出せることは明らかである。様々な音楽性が錯綜し、混沌とする中、アルバムの最後にアーティストの代名詞となるメロウなR&Bへと回帰している。


ジェイウッドは多様な文化性に影響を受けつつ、あらゆる未知の可能性を試しているが、時代に翻弄されず、自己を見失わない。これが、ジェイウッドを真のアーティストたらしめている理由なのだ。性別、年齢、時代を問わず、その人がすべての偽りを遠ざけ、まことにその人であろうとする時、人生の中で最も輝かしい瞬間を獲得する。

 

 

 

90/100

 

 

Best Track-「SUN BABY」 

 

 

 

▪JayWoodのニューアルバム『Leo Nego』 は本日、Captured Tracksから発売。ストリーミングはこちら


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2024年4月、カナダの東西に分かれて活動するミュージシャン、ジョセフ・シャバソンとニコラス・クルゴビッチはシャバソン&クルゴビッチとして初の日本公演となる2週間のツアーに出発した。 7e.p.レコードの齋藤耕治氏による取り計らいにより、日本の名高いデュオ「テニスコーツ」のサヤと植野がツアーに同行し、松本、名古屋、神戸、京都、東京の各公演でバックバンドを務めた。


4人はたった2回のリハーサルしかできなかったが、それで十分だった。彼らの絆は瞬時に生まれ、音楽に滲み出ていた。瞬時に音楽的に結びついた4者は互いの演奏に興奮と喜びを持って反応し合い、ライブ・セットは公演を重ねるごとに生き物のように美しく成長を遂げていく。齋藤はこの相性の良さを予見し、録音エンジニアを神戸(塩屋)で待機させる手配をした。彼らは名高いグッゲンハイムハウスに滞在する。この117年前のコロニアル様式の邸宅はアーティスト・レジデンシーに改装されていた。これまでにもテニスコーツ&テープの『Music Exists disc3』、ホッホツァイツカペレと日本人音楽家たちのコラボ作『The Orchestra In The Sky』、マーカー・スターリングとドロシア・パースのライブ・アルバムなどが録音されてきた伝説的な洋館である。


あらかじめ完成した楽曲を事前に用意することなく始まった録音だが、それぞれが持ち寄ったモチーフを起点に、即興的に湧き出ていく4者の多彩でフレッシュなアイディアによって音楽が形作られ、ケルゴヴィッチとさやが書き下ろした詞が歌われ、驚くべきペースで新たな楽曲が次々に生まれていった。


二日間で驚くべき化学反応が起きた。それぞれが持ち寄ったモチーフを起点に、即興的に湧き出ていく4者の多彩でフレッシュな着想によって音楽が形作られていく。ケルゴヴィッチとさやが書き下ろした詞が歌われ、驚くべきペースで新たな楽曲が次々に生まれていく。この制作過程を通じて、サヤとクルゴビッチはすぐ、歌詞作りのアプローチにおける共通点に気づく。 サービスエリアで空を見上げながら雲の日本語愛称を共有すること(魚鱗雲、龍雲、鯖雲、眠雲、羊雲)、衣料品店で靴下を片方ずつ探して揃えること、神戸王子動物園で老衰により亡くなった愛されパンダ「タンタン」への追悼歌——二人は共に日常の魔法を探し求め、歌に紡いだ。


この体験は毎日が魔法のようだという感覚だった。グループはグッゲンハイム・ハウスの窓から瀬戸内海の満ち引きを眺めながら作業を進めた。二日間で彼らは8曲を創作・録音し、制作順に並べたアルバムは『Wao』と名付けられた。これは録音後にテニスコーツのサヤがぽつりとつぶやいた言葉だった。これこそコラボレーションをした異国のミュージシャンたちの共通言語だった。


「このアルバムの素晴らしい点は、家がレコーディングスタジオとは程遠い空間だからこそ、超ライブ感あふれる音に仕上がっていることです。それに線路の真横にあるから、録音中に電車が通過する音がよく入っています。僕にとっては、それが大きな魅力と個性になっています」とジョセフは語る。 


「全てが夢のように感じられ、あっという間に終わったので、家に帰って数週間はすっかり忘れていました。セッションデータを開いた時、僕たちが特別な何かを成し遂げたことがはっきりと分かりました」


トロントでのシャバソンによるミックスを経て完成したアルバム『Wao』。さやによる日本語とケルゴヴィッチによる英語がナチュラルに歌い継がれる“Departed Bird”から、ツアー中テニスコーツのセットにてシャバソン、ケルゴヴィッチ両人を迎え演奏されていた “Lose My Breath”(マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン)に至るまで録音順に収録された全8曲。ケルゴヴィッチ&テニスコーツと親交の厚い、ゑでゐ鼓雨磨(ゑでぃまぁこん)のコーラス(M5、M6)を除き、全ての歌唱と演奏は4者によるもの。


ジョセフ・シャバソン、ニコラス・ケルゴヴィッチ、テニスコーツ各々のリーダー作、さらにシャバソン&ケルゴヴィッチ名義での作品とすらも確かに異なる、まさに「シャバソン・ケルゴヴィッチ・テニスコーツ」というユニットとしての音楽でありツアー&録音時の驚きに満ちたマジカルな空気が全編に流れる珠玉のコラボレーション。


ライブツアー、そして制作期間すべてが魔法のように瞬く間に過ぎ去った。夢のように彼らはその渦に飲み込まれ、そして離れていった。数週間後、録音データが郵送で届いた時、初めてその夢のような感覚が鮮明な記憶へと変わり、今や何度でも振り返ることができる瞬間となった。


 

 『Wao』-7e.p.(Japan) / Western Vinyl(World)  



このアルバムが録音され、アートワークにもなっている神戸の旧グッゲンハイム邸は、日本の近代化の象徴とも言える建築的な遺産である。

 

1890年代ーー日本が幕末から明治維新の時代に移行する頃の瞬間的な流れを建築的な遺産として残している。江戸幕府が鎖国を解き、日米修好通商条約を通じて海外との交易を活発化させてから、一時的ではあるにせよ、横浜、神戸、長崎の3つの開かれた港は、海外との貿易を通じて、上海に匹敵する''アジア最大の港''として栄えることになる。 横浜港の周辺一帯、長崎の天主堂やグラバー邸周辺は、''外国人居留地''と呼ばれ、実際に外国人が一時的に定住していた。

 

一方の神戸は、京都御所に近いという理由から、本居宣長の流れを汲む国粋主義的な思想を持つ攘夷派の反乱を懸念し、京都から少し離れた場所に居留地が置かれたという。これらの居留地は、明治時代以降の軽井沢のように''外国人の別荘地''ともいうべき地域として栄えた。しかし、維持費が嵩むことを理由に日本の土地として返還されていく。少なくとも、領土の側面において、外地とも呼ぶべき一帯として20世紀初頭まで発展を続けた。特に、神戸の居留地は特殊な事情があり、”租界”ともいうべき土地であった。実際的に、海外の人々が他の地域に出ることは多くなかったという。この神戸の居留地には、ドイツ人が多く住んでいたことがあり、北野異人館等が主な遺構として脳裏を過ぎる。グッゲンハイム邸もまた、ドイツ人が使用していた邸宅であり、館内にピアノがひっそりと残されている。現在はアーティストレジデンスとして利用され、ライブなどが開催されることもある。その昔、この地帯は外国人の観光海岸として栄えた。

 

土地柄の因縁というと語弊があるかもしれない。が、旧外国人居留地で録音された日本の実験的なフォークデュオ、テニスコーツとカナダの二人のプロデューサー、シャバソンとクルコヴィッチのコラボレーションアルバムは、異質な空気感をまとっている。発売元のテキサスのWestern Vinylは、アルバムを''魔術的''と紹介しているが、聴けばわかる通り、得難い空気感を吸い込んだ素晴らしい作品である。録音はたったの二日間で、よくこれだけ集中した作品を制作出来たものだと感心すること頻りである。実際の音楽性は表向きには派手ではないものの、得難い魅力に満ちあふれている。シャバソンとクルコヴィッチのふだんの音楽性については、私自身は寡聞にして知らぬが、テニスコーツのいつもの音楽とは明らかにその印象を異にしている。

 

カナダと日本のコラボレーターは、ライブツアーや二日間の制作期間を通して体験した出来事を日本の感性と外国の感性を織り交ぜて吐露している。そのやりとりの多くは、コミュニケーションとして深く伝わったかどうかは定かではない。しかし、アルバムに接するとわかるように、日本とカナダの音楽家は、ジェスチャーや共通する言語をかいして、共通理解ともよぶべき瞬間を得ることになったのは明らかだろう。この国際的なコラボレーションは、考えが異なる人々を相互的に理解しようと努め、それが最終的に腑に落ちる瞬間を持つようになる、その過程のようなものが音楽として表されていると思う。そして、グランドピアノなどの音色が取り入れられるのを見ると、現地の標準的な環境設備が楽曲の中に取り入れられている。また、全般的には、楽器の役割がかぶることなく、演奏パートが上手いバランスに割り振られている。


一曲目の「Departed Bird」は、サヤによる日本語ボーカルが中心となり、その後、ボーカルの受け渡しが行われる。ムードのあるエレクトリックギターとジャズの要素をイントロの背景に敷き詰め、日本の童謡のような音楽性が取り入れられている。伴奏の後、哀感に満ちた声で、サヤは次のように歌う。「鳥があるいている、道ゆくぼくらの足もとへ」 このマイナー調の曲は日本語の歌詞と連動するように、ピアノのフレージングを通して叙情性を強めていく。その後、口笛やサックスの演奏を通して、この音楽はアヴァンジャズのような遊び心が取り入れられるが、歌謡的な性質を強調づけるかのように、この曲全体は粛然たる哀感に包まれている。そして賛美歌のようなシンセとサックスの音色が重なり、テニスコーツらしい音楽が強まっていく。さらにその後にはクルゴヴィッチのボーカルが入る。また、シャバソンのサックスの演奏もそのペーソスを強める。歌詞はおそらく日本語と英語の対訳のような感じでうたわれている。

 

日本語と英語の同じ歌詞を二声の対位法のように並置するにしても、その言語的な意味やニュアンスは全く異なることが、このアルバムを聴くと痛感してもらえるのではないか。そもそも言語を翻訳するということに限界があるともいえる。日本語は、ある一つの言葉の背後にあるイメージを呼び覚まし、連想のように繋げていく。つまり、その言語的な成立の経緯からして、''論述的にはなりえない''のである。とは対象的に、英語は、論理的な言語の構造を持つ。つまり、英語は直前の文章を補強したり補填する趣旨がある。一つの同じような伴奏で、同じ意味の文章が歌われても、言語的な意味が全然異なることに大きな衝撃を覚える。特に、日本語の観点から言えば、短歌や俳句のような行間にある、言外のニュアンスや感情性が、サヤの歌から感じ取ることが出来るかもしれない。そして、論理的なセンテンスを並べずとも、日本語は何となく意図が伝わることがある。この''言語における抽象性''はアルバムの重要な核となる。また、英語の歌詞の方は、歌の意味を一般化したり平均化するために歌われる。これらの2つの言語の持つ齟齬と合致は、アルバムの収録曲を経るごとに、大きくなったり、小さくなったりする。

 

続いて、二曲目の「A Fish Called Wanda」は、ヴァースとサビという基本的なポピュラーの構成から成立しているが、実験音楽の性質がそうとう強い。言語的なストーリの変遷が描かれ、「Wanda」という英語の言葉から、最終的には王子動物園の「Tan Tan」の追悼という結末へと繋がっていく。しかし、これらは、英語の「Wanda」と日本語の「ワンダ」という言葉を対比させ、その言葉を少しずつ変奏しながら繰り返し、実験音楽としての性質を強めたり、弱めたりしながら、驚くべき音楽的な変容を遂げる。このあたりに、言語によるコミュニケーションの一致とズレのような意図がはっきりと現れている。 その言葉の合間に、サックスの実験的なフレーズ、シロフォンのような打楽器の効果が取り入れられる。同じような言葉が連鎖する中、言葉が語られる場所が空間的に推移していく。そして、それと対比的なポピュラー音楽のフレーズが英語によって歌われる。これがシュールな印象を与え、ピンク・フロイドのシド・バレットのごとき安らかな癒やしをもたらす。もちろん、ピアノの伴奏に合わせて歌われるフレーズは、明晰な意識を保持している。この点は対称的と言える。ときどき、スキャットを駆使して明確な言語性をぼかしながら、デュオのボーカルが背後のサックスの演奏と美しいユニゾンを描く。「Wanda」「Under」「Anta(You)」など、英語と日本語の言葉を鋭く繰り返し交差させながら、実験音楽の最新鋭の境地へと辿り着く。これらは、二人のボーカリストの言語的な感性の鋭さが、現実性と夢想性の両面を持ち合わせた実験音楽へと転移しているといえる。最終的には、アコースティックギターとサックスの演奏に導かれ、温かな感情性を持つに至る。

  

3曲目に収録されている「Shioya Collection」は、今年度発売された日本語の楽曲では最高傑作の一つ。塩屋の滞在的な記憶がリアルタイムで反映され、叙情的に優れたポピュラーソングに昇華されている。イントロではシンセの水のあぶくのような可愛らしい電子音をアルペジオとして敷き詰め、古くは外国人の観光ビーチとして栄えた塩屋の海岸付近の風光明媚な光景を寿いでいる。シンセサイザーの分散和音を伴奏のように見立て、徐々に音色にエフェクティヴな変化を及ぼしながら、センチメンタルなイマジネーションを呼び覚ます。それは、これらの滞在期間が短期間であるがゆえ、かえって、このような切ない叙情的な旋律を生み出したとも言えるだろう。ボーカルが始まる直前、ジャズの和音を強調したピアノが入り、それらの印象は色彩的な和声進行に縁取られる。以降、日本語の歌詞が歌われるが、これらは断片的な言葉にすぎないのに、驚くほど鮮明にその情景の在処を伝え、同時にその感情性を端的に伝えている。 


坂の上の光景、そして、頭の上を通り抜けていく清かな風、それらを言葉として伝えるためのたった一語「カゼーカゼ」という楽節が歌われるとき、涙ぐませるような切ない感覚が立ち現れることにお気づきになられるだろう。グッゲンハイムの窓から見た光景か、それとも館の下の階段からみた光景かはつかないが、そのときにしか感じえない瞬間的な美しさが最上の日本語表現で体現されている。サビのフレーズの後の始まるサックスやピアノの演奏もまた、非言語でありながら、言葉の間やサブテクストの持つ叙情性を明瞭に伝えている。二番目のヴァース以降は、クルゴヴィッチのボーカルで英語で歌われ、日本語のサヤのボーカルと併置される。今までに先例のない試みであるのに、驚くほど聴覚に馴染むものがある。海際の潮風の風物的な光景が「思い出をならべてる」というような言葉から連想力を持ち、そのイメージがどんどんと自由に膨らんでいくような、ふしぎな感覚にひたされている。そして、日本語と外国語を対比させながら、「カゼーカゼ」の部分では異なる言語のイメージがぴたりと合致している。

 

4曲目の「Our Detour」はエレクトロニカの音楽性が強まる。 イントロにはグリッチのリズムを配して、トーンクラスターやダブの要素を強調しながら、ゆったりとしたビートを刻んでいく。ヴァースの始めでは、「過去から振り返るな」という歌詞が歌われ、それが日本の童謡的な旋律によって縁取られる。その後、「繰り返すと」に言葉が転訛し、ボーカルの受け渡しが行われ、フレーズの途中で、英語の歌詞に切り替わる。以降、この曲は、ピアノのダイナミックな演奏を背景に、ボーカルの叙情的な感覚を深めながら、ダブのディレイのサウンドエフェクトを用い、急進的な楽曲へと変化していく。これまでに何度か述べたことがあるように、一曲の中で音楽そのものがしだいに成長していくような感覚があるのに驚きを覚えた。英語と日本語の歌詞のやりとりの中で「ここには時間がある」という抽象的な歌詞が日本語で歌われる。


ダリのシュールレアリズムの絵画のような趣を持ち、その内的な形而下の世界を徐々に音楽と連動するようにして押し広げていき、サビの箇所では、「みんながいて」、「呼吸は繰り返して」のようなフレーズへと繋がっていく。ここでは変化していく共同体のような内的な記憶がきざみこまれている。単なる郷愁的な意味合いを持つ音楽とはまったく異なるような気がする。曲の最後では、迫力のあるダブのエフェクトがこの曲の持つじんわりとした余韻を増幅させる。

 

「At Guggenheim House」は文字通り、グッゲンハイム邸の滞在について歌われている。デュオの形式で構成されているが、基本的には英語の詩で歌われ、グッゲンハイムでの同じような瞬間的な体験とリアルタイムの記憶を反映させている。とはいえ、ジャズポップス寄りの楽曲である。 クルゴヴィッチのボーカルとシャバソンのサックスは、モントリオールの港の気風を呼び込み、そして、ムードたっぷりの叙情的な歌唱を通じて、ジャズの空気感を深めていく。その中で、まれにリードの役割で登場するオーボエ、クラリネットのような木管楽器がどことなくエキゾチックに響く。これは憶測にすぎないが、日本と海外の双方のミュージシャンが感じたエキゾチズムがムード感のあるジャズソングに結びついたのではないか。つまり、由緒ある洋館やこの土地の街角に、ミュージシャンたちは異国的な情緒を感じて、そして、現在の地点からへだたりがあることを滞在時に彼らは肌身で感じ取ったのではなかったか。館の中に残る、当時の異国人の家族や子供の生活や暮らしの様子を、音楽として表現したとしても不思議ではあるまい。いずれにせよ、この曲は、英語のポピュラーの中に日本語の歌謡的な要素が混在している。風土的な概念を象徴付けるようなアトモスフェリックなアートポップソングである。

 

 

続く「Ode To Jos」では、同じように夕暮れの潤沢な時間を伺わせるようなジャズトロニカである。 この曲では、アコーディオンの楽器が取り入れられ、遊び心のあるフレーズが登場するが、全体的な旋律の流れとボーカルはどことなく郷愁的な雰囲気に縁取られている。時々、アヴァンジャズに依拠したサックスのブレスやジム・オルーク風のアヴァンフォークのアコースティックギターのフレーズも登場するが、夢見るような旋律の美しさが維持されている。デュオ形式で歌われる両者のヴォーカルのユニゾンも見事なハーモニクスを形成している。アルバムの中で最もアグレッシヴな趣を持つ「Look Look Look」は、イントロでフューチャーステップのシンセを配し、スキャットやハミングの器楽的な旋律を強調付けるサヤのボーカル、そして、クルゴヴィッチの深みのある英語の歌詞が対旋律として強固な構成を作り上げる。リズムとしても、オフキルターとの呼ぶべき複合的なポリリズムが強調され、ボーカルだけで伴奏と主旋律を作り上げる。この曲で、テニスコーツとクルゴヴィッチはヴォーカルアートの最前線へとたどり着く。その後、ヒップホップのリズムを交え、この曲は未来志向のアートポップへと傾倒していく。この曲に関しては、細野晴臣さんの音楽性にも相通じるものがあると思う。

 

 

このアルバムを聴くに際して、My Bloody Valentineのカバーソング「Lose My Breath」は意外の感に打たれるかもしれない。


1988年のアルバム『Isn’t Anything』の収録曲である。『Loveless』が登場する数年前の伝説的な作品で、ヨーロッパのゴシックの雰囲気に縁取られている。ダンスミュージックの要素以外のシューゲイズの旋律的な要素は、このアルバムでほとんど露呈していた。今回のテニスコーツのカバーでは、これをインディーフォークやネオアコースティックの観点から組み直している。

 

あるミュージシャンに聞くところによると、カバーというのは難しいらしい。原曲にある程度忠実でなければならず、過度な編曲は倦厭されがち。この曲は、構成や和声や旋律進行の特徴を捉え、それらをダークでゴシックな雰囲気で縁取っている。このカバーは、どちらかといえば、Blonde Redheadのように、バロック音楽に触発されたポップソングのように聴くことが出来る。


従来、My Bloody Valentineのクラシック音楽からの影響というのは表向きには指摘されてこなかった。しかし、このカバーを聴くとわかる通り、ビートルズと同じようにシューゲイズというジャンルには、ダンスミュージックと合わせて、クラシック音楽からの影響が含まれていることがわかる。少なくとも、今まで聴いた中では、センス抜群のカバーであるように感じられた。曲数はさほど多くはないけれど、凄まじい聴き応えを持つアルバム。それが『Wao』である。

 

 

 

 

 

 

86/100 

 

 

 

Shabason/Krgovich/Tenniscoats 『Wao』は本日、日本国内では7.e.pから発売済み。さらに日本独自CDとして発売。海外ではWestern Vinylから発売。こちらはVinylの限定販売となっている。『Wao』の国内CDバージョンの詳細については、7.e.p.の公式サイトをご覧ください。 



マンチェスターの気鋭のエレクトロニックプロデューサー、Demdike Stare(ダムダイク・ステアー)がその才能を見出したことで知られる埼玉のミニマル/ダブステップ・プロデューサー、Shinichi Atobeの最新の音源がデジタルで解禁となった。 日本国内でも最注目すべき制作者である。


埼玉は昔から住宅地の他、工業地帯が多く、工場からもくもくと立ち上る煙を見るのは日常的な光景だった。埼玉の風景……、それは東京のコンクリートがちの無機質な箱型建築の光景とはまったく異なる。彼のような工業的なサウンドを持つ制作者が出て来たのは必然といえるだろう。

 

シンイチ・アトベは、Basic Channel傘下のChain Reactionから2001年にデビュー。以来、10年以上の沈黙を経て、2014年からマンチェスターのレーベル”DDS”よりコンスタントにリリースを重ね、ダブテクノ/ミニマル等のクラブオーディエンスのみならず世界の熱心な音楽ファンを魅了してきた。


先日、Shinichi Atobeは自身のプライベートレーベル、Plastic & Soundsを設立した。第一弾となるリリース「A.Whispers into the Void | AA.Fleeting_637」が12INCH(45RPM/Limited Press)レコード/デジタルでリリースされる。あらためてこの音源を確認してもらいたい。


ミニマルなシンセとリズムからピアノのリフレインの導入と共に徐々に禁欲的に展開する「Whispers into the Void」。BPM125前後のフロアライクな没入感のあるミニマル・ダブ・テクノ「Fleeting_637」の2曲が収録される。

 

追記として、一曲目の「Whispers into the Void」は古典的なダブステップではなくて、その次世代に位置づけられる未来志向の色彩的なフューチャーステップの音楽である。一方、二曲目の「Fleeting_637」は、マンチェスターのクラブ・ハシエンダの80年代後半のフロアサウンドに回帰したような多幸感に満ちたサウンドである。最初期のWarp/XLのカタログに見受けられるようなアンダーグランド界隈のダンスミュージックの熱狂的な空気感を見事に復刻している。


ただ、このサウンドの主な特徴は、ヒプノティックで内的な熱狂性に求められる。大型のモニターでは確認していないものの、サブベースの出方はかなり良い感じになっていると思う。また、ベタ張りのリズムではなく、ランタイムごとにうねるようなテンポの微細なズレが楽しめる。


 Shinich Atobeのリリースの目的は音源のプロダクトの発表だけにとどまらないことは明白である。イギリスの産業的な要素を受け継ぎ、レコードが美術品であったり工業製品の雰囲気が感じられるようにプレスされている。部屋の壁などに飾るなんて楽しみ方もアリかもしれない。マスタリング/レコード・カッティングにもこだわりが込められ、Shinichi Atobeの作品を多数手がけてきたベルリンのアーティスト、Rashad Becker(ラシャード・ベッカー)が担当している。

 

また、Atobeは、伊豆の白浜で9月27日から28日にかけて開催予定のダンスミュージックやエレクトロニックに焦点を当てたフロア向けのライブイベント”FFKT”に出演予定。このイベントには国内外から秀逸なDJ/エレクトロニックプロデューサーがホテル伊豆急でライブを行う。

 

国内からはChanaz,北村蕗、Powderが出演、DJやライブを披露する。海外アーティストは、Huerco. S、Fabiano do Nacimento、Ash Rahなどが出演予定。イベントの詳細は下記より。

 

 

 


・Vinyl Release



Shinichi Atobe「A.Whispers into the Void | AA.Fleeting_637」

12INCH (3,500Yen+Tax Incl.) | 2025.07.25 Release | DDJB-91257 (P&S001)

Released by Plastic & Sounds | AWDR/LR2


A.Whispers into the Void

AA.Fleeting_637


Sounds:Shinichi Atobe

Mastering & Cutting:Rashad Becker

Design:Satoshi Suzuki



・Digital Releases



Shinichi Atobe「A.Whispers into the Void」

Digital | 2025.07.25 Release | DDJB-91257_1

Released by Plastic & Sounds | AWDR/LR2

配信:[ https://ssm.lnk.to/whispersintothevoid ]


Shinichi Atobe「Fleeting_637」

Digital | 2025.08.29 Release | DDJB-91257_2

Released by Plastic & Sounds | AWDR/LR2

配信:[ https://ssm.lnk.to/fleeting_637 ]



・Live Performance



FFKT 2025 Izu Shirahama

27th – 28th Sep 2025 at Hotel Izukyu

 

About The Event(イベントの詳細) [ https://ffkt.jp/2025-izushirahama ]

 

AKIRAM EN, Ash Rah, Chanaz, CHO CO PA CO CHO CO QUIN QUIN, Fabiano do Nascimento,

Gigi Masin, Greg Foat, Huerco S., 北村蕗, Knopha, Loidis, Milian Mori, NOOLIO, Powder, Shinichi Atobe, Stones Taro



After more than 10 years of silence since his debut in 2001 on Chain Reaction subsidiary of Basic Channel, he has been consistently releasing music since 2014 on DDS label in Manchester, UK, attracting not only the club audience of dub techno / minimal but also the enthudieatic music fans around the world. Electronic musician Shinichi Atobe has established his own private label Plastic & Sounds.

 

The first release on Plastic & Sounds includes two tracks: ‘Whispers into the Void’, which gradually and ascetically develops from minimal synths and rhythms with the introduction of a flowing piano refrain, and the floor use ‘Fleeting_637’, which develops immersive minimal dub techno at around 125 BPM. Mastering / record cutting was done by Rashad Becker in Berlin, who has worked on many of Shinichi Atobe's productions.

 


Shinichi Atobe:


Electronic artists based in Saitama, Japan.

 

He made his debut with the 12-inch “Ship-Scope” (2001) released on Chain Reaction, a sub label of Basic Channel, a 90s cult label leading to dub techno and then the “minimal” trend of the 00s. A decade later, in early 2010s, he released his first full-length album, “Butterfly Effect” (2014) on DDS label by lobbying of Manchester duo Demdike Stare.

 

Since then, he has consistently released “World” (2016), “From The Heart, It's a Start, a Work of Art” (2017), “Heat” (2018), “Yes” (2020), “Love of Plastic” (2022),  “Discipline” and the EP ‘Ongaku 1’ (2024). He has garnered a large number of music listeners as well as club audiences and has received acclaim from various music media.


Although his debut on the legendary Chain Reaction and his releases on DDS have brought him to the attention of the world, he has remained an enigmatic and rare entity.

In 2025, he established his own private label, "Plastic & Sounds" .


・Sound source:https://plasticandsounds.bandcamp.com



シンイチ・アトベは、埼玉を拠点に活動する電子音楽家。ダブ・テクノ、その後の00年代の一大潮流"ミニマル"にまで至る90年代のカルト・レーベルBasic Channel傘下のChain Reactionからリリースされた12インチ「Ship-Scope」(2001年)でデビューを果たす。その10年後となる2010年代初頭、マンチェスターのデュオDemdike Stareの働きかけによりレーベルDDSから初のフル・アルバム「Butterfly Effect」(2014年)をリリース。

 

それ以来同レーベルからコンスタントに「World」(2016年)、「From The Heart, It's A Start, A Work of Art」(2017年)、「Heat」(2018年)、「Yes」(2020年)、「Love of Plastic」(2022年)、「Discipline」、EP「Ongaku 1」(2024年)をリリース。クラブオーディエンスだけでなく多くの音楽リスナーを獲得し、多様な音楽媒体からも定評を受けている。


伝説化されたChain Reactionからのデビュー、DDSからのリリースをきっかけに世界に知れ渡ることになるものの、謎めいた稀有な存在として注目をされ続けている。2025年には自身のプライベート・レーベル【Plastic & Sounds】を設立。

 Yaya Bey 『do it afraid』 


 

Label: drink sum wtr

Release: 2025年6月20日

 

 Listen/Stream

 

Review

 

2024年、ボリューミーなアルバム『Ten Folds』をBig Dadaからリリースしたのに続き、NY/クイーンズの最高のソウルシンガー、ヤヤ・ベイがニューアルバム『do it afraid』をリリースした。

 

『Ten Folds』は夜のニューヨークを闊歩するようなアーバンな雰囲気に満ちていた。続く今作は、作風がマイルドになったにせよ、ヤヤ・ベイらしさ満載のアルバム。2年連続のリリースとなったが、18曲というかなりの大作である。 ヒップホップファンは要チェックの作品だ。

 

ご存知の通り、ヤヤ・ベイは、ヒップホップとR&Bの中間にある音楽的なアプローチで知られている。『do it afraind』にも、それは明瞭に引き継がれている。ただ、全般的な音楽性は、ソフトで聴きやすいネオソウルのトラックがおおい。元々ソウルに傾倒した歌手であることを考え合わせたとしても、近年のヒップホップはよりマイルドでソフトな音楽性が流行している。それに加えて、ヤヤ・ベイがアーティスト的なキャラクターとして打ち出すラグジュアリーなイメージが音楽を通して体現されている。しかし、安らぎと癒やしというヒップホップの意外な局面を刻印した今作には、表向きの印象とは裏腹にシリアスなテーマが内在しているという。

 

「苦しみは私たちすべてに約束されている。その二面性の中に平和を見出さなければならない」と語るヤヤ・ベイ。ユーモア、愛、人間の動きやつながりの力といった人生の喜びに対し、恐れながらも献身的に取り組んでいる。「多くの人が私について信じたいと思っていることに反して、私のトラウマではなく、愛すること、喜びを感じること......、自由になることへの願望なのです。この人生において、痛みと喪失は約束されている。避けられないことに直面してダンスするのには、本当の勇気が必要だ。現在を味わい、美しくする。私は、この道の達人の出身なのだ。見物人は私たちを見世物にしたがる。私たちのニュアンスを奪う。でも本当は、私たちは勇敢で、たくましく、喜びにあふれている。私は私たちのためにこのアルバムを作った」

 

ヤヤ・ベイは、これまでミュージシャンという職業、それにまつわる倫理観について誰よりも考えてきた。このアルバムは端的に言えば、見世物になることを忌避し、本格派のソウルシンガーになる過程を描いている。「1-wake up bitch」はマイルドなヒップホップトラックに乗せて世の中の女性に対して、たくましい精神を持つようにと勇ましく鼓舞し啓発するかのようだ。それがリラックスしたリズム/ビートに乗せてラップが乗せられる。この巧みなリリック裁きのトラックを聴けば、女性版のケンドリックはベイであることが理解していただけるだろう。 とりわけコーラスに力が入っていて、独特なピッチのゆらめきは幻想的なソウルの世界へと誘う。


ベイの作曲はいつも独特な雰囲気がある。古典的なソウルをベースに、それらを現代のニューヨークのフィールドに持ち込む力がある。つまり、聞き手を別の空間に誘うパワーがあるわけだ。 「2- end of the world」は、移民的な感情が含まれているのだろうか。しかし、対象的に、曲はダブステップのリズムを生かしたアーバンなR&Bである。この曲では、ボーカルや背景のシンセのシークエンスのハーモニーが重要視され、コラボレーターのハミングやエレクトリック・ピアノ/エレクトーンと合致している。この曲は、往年のソウルミュージックの名曲にも劣らない。続く「3-real years unite」も素晴らしいトラックで、ラップとニュアンスの中間にあるメロディアスなボーカルが複合的に組み合わされて、美しいコーラスワークを作り出している。

 

ヒップホップトラックとしては「4-cindy rella」が抜きん出ているように思える。 メロウなリングモジュラー/マレットシンセの音色が心地よい空気感を生み出し、その中でベイは生命力に溢れたラップを披露する。リズムの構成の中で、ラップやニュアンスのハーモニーが形成される。

 

ヤヤ・ベイの場合、ダイアナ・ロスのような古典的なR&Bの美しい音階やハーモニーを活かしているから、淡々としたラップそのものが生きてくる。この曲の場合はやはり、マレットの生み出す陶酔的な響きが「dejavu」のような効果的なリリックと組み合わされ、良い楽曲が作り出される。それらをベイらしい曲としているのが、ファッショナブルな感覚であり、垢抜けたようなハイセンスな感覚である。今回のアルバムにおいて、ヤヤ・ベイはミュージシャンとして新しいチャレンジを行っている。それがジャズ、R&B、ヒップホップのクロスオーバーである。「5-raisins」は、彼女のブラックカルチャーへの敬意に満ち、女性的なインテリジェンスが盛り込まれている。改めてブラック・ミュージックの系譜をおさらいするのに最適なトラックだ。

 

 

「raisins」 

 

 

カリブ系の音楽が盛り込まれることもある。レゲエトラック「6-spin cycle」はこのジャンルが古びたわけではなく、現在の音楽としても効力を持つことを伺わせる。裏拍を重視したカッティングギターが心地よいリズムを生み出し、ベイのソウルフルな歌唱と絶妙に混ざり合う。レゲエの二拍目と四拍目を強調するドラムのスネアがこれらの旋律的な枠組みを強調付けている。

 

結局、ヤヤ・ベイのソングライティングは、ボーカルだけではなく、往年のファンクグループのように精細に作り込まれ、また、プリンスのような華やかな響きがあるため、音楽として高い水準に位置する。もちろん、ベイの歌も人を酔わせる奇妙な魔力がある。こういった中で異色の楽曲がある。「7-dream girl」は1980年代のディスコソウルに依拠しており、マイケル・ジャクソン、ホイットニー・ヒューストン、ダイアナ・ロス、チャカ・カーン、クインシー・ジョーンズといった黄金時代を彷彿とさせる。シンセ・ポップとR&Bの融合で、''プロデュース的なサウンド''とも専門家が指摘することがある。これらはR&Bの華やかな魅力が味わえるはず。

 

アルバムは決してシリアスになりすぎることはない。ミュージシャンとしての遊び心も満載である。「8-merlot and grigolo」はトロピカルな音楽で、彼女のアフロカリビアンのルーツを伺わせる。デモトラックのようにラフな質感のレコーディングだが、ミュージシャンのユニークな一面を垣間見れる。その後、ジャズとヒップホップのクロスオーバーが続く。「9-beakthrough」は完全には洗練されていないものの、ラグタイムジャズのリズムとヒップホップのイディオムを結びつけ、ブラックミュージックの最新の形式を示唆している。「10- a surrender」はテクノとネオソウルを融合したトラックで、やはりこのシンガーらしいファッショナブルでスタイリッシュな感覚に満ちている。その後、ヤヤ・ベイの多趣味な音楽性が反映され、無限に音楽性が敷衍していく。以降は、ポピュラーで聴きやすいダンスミュージックが続き、 「11-in a circle」、「12-aye noche」はアグレッシヴなダンスミュージックがお好きなリスナーにおすすめしたい。「13-not for real, wtf?」はケンドリックの「Mother I Sober」を彷彿とさせる。 

 

モータウン・サウンド(ノーザン・ソウル)か、もしくはサザン・ソウルなのか。60~70年代のオーティス・レディングのようなソウルミュージックもある。これらの拳の効いた古典的なソウルミュージックがヤヤ・ベイにとって非常に大きな存在であることは、「14-blicky」、「15-ask the question」を聴けば明らかだろう。前者は、言葉が過剰になりすぎた印象もあるが、後者はファンクとして秀逸だ。リズミカルなベースとギターのカッティングが心地よい空気感を作り出している。これらは、1970年代ごろのファンクバンドの音楽的なスタイルを踏襲している。


その後、少しだけ散漫な音楽性に陥っているが、やはり音楽的なセンスは抜群。「16-bella noches pt.1」はディープ・ハウスに位置づけられるダンストラックで、ビヨンセ・ライクの楽曲である。そして「17-a tiny thing that's mine」はデモトラック風のバラードソングだが、その歌唱には息を巻くものがある。18曲ということで、3曲ほどすっきりカットしてもよかったかもしれない。


アウトロ「18-choice」ではメロウなソウルバラードでこのアルバムを聴いたファンに報いている。2000年以前のヒップホップのようなトリッピーな楽曲の展開は、二つの曲をジャンプするようなおもしろさ。2025年のソウルミュージックのアルバムの中では随一の出来ではないだろうか。

 

 

 

85/100

 

 

 

 

「dream girl」 




Weekly Music Feature- GoGo Penguin

 


GoGo Peguinはイギリス、マンチェスター出身のインストゥルメンタル・トリオ。クリス・イリングワース(ピアノ)、ロブ・ターナー(ドラムス)、ニック・ブラッカ(ベース)という夢のようなラインナップに落ち着いたのは2013年のことだった。

 

それ以来、インスピレーションやオリジナリティの豊富さに対してことごとく称賛と絶賛を浴びてきた。 ジャズ、クラシック、エレクトロニックなどの影響と革新への渇望を融合させた彼らは、マーキュリー・プライズ・アルバム・オブ・ザ・イヤー(2014年)を受賞し、レコード、ライブでも成功を収めている。


ゴーゴー・ペンギンの音楽はカテゴライズを拒んできた。 彼らのサウンドには、スウェーデンのエスビョルン・スヴェンソン・トリオ(通称 EST)や、スティーヴ・ライヒ、ジョン・アダムス、さらにはエリック・サティのような、ミニマル・クラシックの作曲家のような、ジャズにおける昨日の発展の痕跡が見て取れるだろう。 エイフェックス・ツインやカール・クレイグのインナーゾーン・オーケストラといった希薄なテクノから、ヨーロッパ・ハウスのエモーショナルなメロディとクレッシェンド、そしてジャズを取り入れたドラムンベースを網羅している。 


2014年のアルバム『v2.0』で栄誉あるマーキュリー賞にノミネートされた後、クリス、ニック、ロブの3人は、多忙なツアーと両立させながら作曲とレコーディングを進めた2枚のアルバムで音楽的な絆を固め、懸命に働いた。 4枚目のアルバム『GoGo Penguin』(『Man Made Object』、『A Humdrum Star』に続き、伝説のレーベル、ブルーノートからリリースされた3枚目)では、ジェットコースターから飛び降り、2019年の活動時間の大半を自分たちの音楽の限界に挑戦した。


クリス・イリングワースはピアニスト、作曲家であり、マンチェスターのアコースティック・エレクトロニカ・バンド、ゴーゴー・ペンギンの創設メンバー。 ロイヤル・ノーザン・カレッジ・オブ・ミュージックで学び、2007年にBMus(優等学位)とPostgraduate Diploma in Performanceを取得。 幼い頃からクラシックからインダストリアルまで幅広い音楽を愛し、特にエレクトロニカとエスビョルン・スヴェンソン・トリオのジャンルを超えたユニークな音楽に惹かれてきた。 


12歳で初めてピアノ/ベース/ドラムのトリオを結成し、同時期にエレクトロニック・ミュージックの実験を始め、アコースティックピアノと並行してアタリSTとローランドMC307で作曲を行った。 長年、クラシック・ピアニストとして活動してきたが、他のミュージシャンとのコラボレーションやバンドでの演奏において本領を遺憾なく発揮している。クリスは、GoGo Penguinでは5枚のアルバム、1枚のスタジオEP、2枚のライブEPに参加している。 2019年、クリスはロビン・リチャーズ(Dutch Uncles)と映画「The Earth Asleep」のスコアで共演した。


ニック・ブラッカはベーシスト兼作曲家でリーズ音楽大学で学び、ジャズ研究の優等学士号を取得している。GoGo Penguinに参加する以前、ニックはマンチェスターのシーンで需要の多いベーシストとして、イギリスとヨーロッパで定期的に演奏して、エレクトロニック・プロデューサーでDJのAimのライブ・ベーシストとして活躍。 "クロスオーバー "ベーシストとしての評価を得てきた彼は、パワフルでグルーヴを重視したスタイルのコントラバス演奏で知られ、楽器の限界を押し広げている。 GoGo Penguinでは、4枚のアルバム、1枚のEP、2枚のライブEPに参加している。


バンドのセカンド・アルバム『v2.0』は2014年のマーキュリー・ミュージック・プライズの最終候補に残った。 2015年、バンドはゴッドフリー・レジオ監督のカルト・クラシック映画「Koyaanisqatsi」のオルタナティブ・スコアを作曲し、ヨーロッパと北米で映画とともにライブを行った。 2021年、ゴーゴー・ペンギンはフランスのインディペンデント映画「メメント・モリ」のサウンドトラックを作曲した。


ニュー・アルバム『Necessary Fictions』はモジュラー・シンセ、ムーグ・グランドマザー、エレクトリック・ベースをこれまで以上にサウンドに取り入れ、アコースティック楽器からドラムを前面に押し出したエレクトロニカへと華麗に滑空する。内部探索に関するアルバムであり、「現時点で私たちが考える私たちの不可欠な本物の資質」を見つけるために深く掘り下げていると説明する。


イリングワースは、彼らはすでに将来について考えており、次に何を作るかについて自信と興奮を持っていると説明している。それはこのアルバムを聞けば火を見るより明らかだ。「スタジオで作っている間、たくさん笑っていたことに気づいていました。そして今、それについて考えるだけで笑っています。そういった明るいエネルギーが人々に伝わることを願っています」



 『Necessary Fictions」 - XXIM/Sony Music


 

ジャズの大まかな歴史は、そのまま”音楽における冒険と革新”に求められるのではないだろうか。ニューヨークのジョージ・ガーシュウィン、アメリカ南部のビッグ・バンドに始まり、ビバップ、モード、フリージャズ、エレクトロ・ジャズ、さらにはエスニック・ジャズ、スピリチュアル・ジャズ/アンビエント・ジャズ等、例を挙げればきりがないが、常に先人のジャズプレイヤーは、各々のタレントをいかんなく発揮することで、音楽の未知なる境地を切り拓いてきた。 


そのクロスオーバーは、近年ではジャズに留まることなく、ヒップホップ/ネオソウルにまで及ぶ。そもそもジャズという音楽形態は、他のジャンルとの融合によって進化しつづけてきたとも言えよう。ジャズの萌芽は、明らかに、フランスの印象主義の作曲家、ラヴェル、ドビュッシー、ストラヴィンスキー、そして彼らをアカデミズムの側面で導いたガブリエル・フォーレに、ジャズの和声法の原点が見いだせる。また、ジャズのコールアンドレスポンスやモードなどのcompositionに見受けられるように、ポリフォニックな音の構成がジャズの基礎になってきた。

 

結局、音楽の始まりが、教会旋法やグレゴリオ聖歌に見いだせるポリフォニーのストラクチャーから誕生したように、和声法の基礎である縦方向の音の構成ではなく、横や斜め方向の音の構成が複数の楽器や多声部旋律により成立したという経緯がある。最初の集大成は、JSバッハとモーツァルトであり、現代のジャズのポリフォニックな響きの原点は、二人の大家の器楽曲に見いだせるはずだ。


そもそも、横の音の流れ、専門的に言えば、和声の分散和音を繋げる役割を司る経過音が滑らかに流れていかなければ、音楽的な優美さが希薄になるのは明白である。より一般的に言えば、もし、ヘヴィメタルに美しく陶酔させるようなギターソロがなければ無味乾燥に陥ってしまうのと同じなのだ。作曲や楽曲構成の基本として言えば、跳躍する音階は非常に例外的で、歌にしても、器楽的な効果にしても、ここぞというときにとっておかないとあまり効果がない。

 

ゴーゴー・ペンギンはペンギン・カフェ・オーケストラを連想させるプロジェクト名であるが、実際的にはアート志向の音楽という共通点は求められるにせよ、クロスオーバージャズを旗印に活動する三人組である。


トリオの演奏力はきわめて高く、どのような音楽を演奏で実現するのか明確に見定め、各々が他者の意図を見事に汲み取り、上記のポリフォニックな音の構成により、イマジネーション豊かな音楽が構築される。鍵盤奏者、ウッドベース(コントラバス)、ドラムという必要最低限のアンサンブルであるが、室内楽アンサンブルのような洗練された質の高い演奏力を誇る。しかも、クリス、ロブ、ニックの三者の演奏者は、器楽的な特性を十分に把握した上で、 それぞれの個性的な音を強調させたり、また、それとは対象的に弱めたりしながら、聞き応えのあるアンサンブルを築き上げる。

 

『Necessary Fictions』は、まるで彼らのライブレコーディングを垣間見るかのようにリアルに聞こえ、そして、現代的なレコーディングの主流であるツギハギだらけのパッチワーク作品とは異なる。録音のシークエンスは断続的で、48分という分厚い構成であるが、一気呵成に聞かせてくれる頼もしい作品だ。このアルバムは、テクノ、ジャズ、ロック、どのようなジャンルのファンですら唸らせるものがある。そして、シンセ(ピアノ)、ベース、ドラムが全編で心地良い響きをもたらしている。ゴーゴー・ペンギンは、客観的あるいは批評的な視点を持っていて、それが余計な音を徹底的に削ぎ落とすというミニマリズムの本質へと繋がっている。ミニマリズムの本質とは、音の飽和にあるのではなく、音の簡素化や省略化にもとめられるというワケなのだ。

 

アルバムのもう一つのトレードマークになっているのが、マンチェスターの実在の構造物をあしらったアートワークである。無機質であるが、機能的、デザインとしてもきわめて洗練されたアルバムジャケットは、ゴーゴー・ペンギンのジャズ、あるいは、テクノのイディオムと共鳴するような働きをなしている。また、そこにはドイツ/ドゥッセルドルフのような電子音楽の重要拠点と同じように、工業都市であるマンチェスターの現在と未来を暗示しているのである。


また、マンチェスター国際フェスティバルの開催を見ても分かるとおり、この由緒ある赤レンガの目立つ素晴らしい港湾都市は、新たなアート形態の発信地になっている。音と映像を融合させたイベントも開催され、リベラルアーツを手厚く支援する土壌が整備されている。例えば、Gondwanaのマシュー・ハルソールは、当該都市の象徴的なミュージシャンである。この動きを中心として、近年になく、マンチェスターはジャズが賑わいを見せているという印象である。

 

 

『Necessary Fictions』は、シンプルにいうと、テクノ、ハウス、ジャズ、ロック、クラシックをクロスオーバーしている。ただ、本作の聴きどころは、ジャンルの確認にあるわけではなく、クロスオーバー・ジャズの一般化にあるわけでもない。伝統的なジャズ・トリオにより生み出される複合的なリズム、ポリフォニックな音の構成の巧緻さ、それから次に何が起こるか全く予測できないスリリングな響きにある。そしてそれは、精細感のあるリアルな音のうねりーーアシッド的なグルーヴーーを生成するのである。アルバムの冒頭からそういった個性が溢れ出す。

 

「1-Umbra」は、ミニマル・テクノを下地にし、シンセベース/シンセリード、ウッドベース、ドラムという三つの楽器がそれぞれ異なる拍子のリズムを刻み、複合的な変拍子を作り出している。


アルバムの序盤では、スティーヴ・ライヒのリズムの革新性やアダムスの旋律的な実験性を受け継いだミニマル・ジャズが繰り広げられる。この曲では、ウッドベースが同じ分散和音を演奏し、そのベース音に対し、パルス音やアルペジエーターのようなシンセの演奏を組み合わせることにより、音の調和や印象が少しずつ変化していく。これらは、Four Tet、Ketttelが好んで使用するようなピアノとシンセの中間にある音色が活用され、それらがシーケンサーのようなリズムのクラスターを作り上げることにより、緻密で入り組んだストラクチャーが生み出される。


一分台からドラムのフィルが入り、アンサンブルやインプロバイゼーションの性質が強まる。しかし、一番面白いのは、強拍や弱拍がドラムの演奏の強弱によって変化するように感じられることだろう。そして、再生時間ごとに異なる和声を作り上げ、レディオヘッドのエジプト音楽のようなエキゾチックなスケールを描きながら、曲の後半に向かっていく。音のアグレッシブな動きや構成の積み重ねは、アイスランドのKiasmosに近い趣向である。これらの音のブロックを建築物のように、ゴーゴー・ペンギンは強固なアンサンブルによって、辛抱強く組み立てていく。



「Umbra」

 

 


「2-Followfield Loops」もまたミニマル・テクノをベースに構築されている。ヨーロッパのダンスミュージックに触発され、全般的に見ると、Kiasmosのタイプの曲を選択し、エモーショナルなテクノを制作している。シンセでミニマルなフレーズを反復させるという点では、一曲目と同様であるが、この曲では、ウッドベースが和声的な構成を補佐している。流れるようにスムーズなシンセピアノの演奏に対して、カラフルな表情付けをしているのがコントラバスである。 


そして、ピアノの音色を途中からアコースティックに変えたりというように、楽曲のストラクチャーの中で、器楽的な効果を変化させながら、音楽の印象を少しずつ変化させていく。驚くべきことに、これらはコンピューター・グラフィックにおける色彩的なグラデーションの変化のような印象を及ぼす。同時に、音楽としては、理数的な構成であるため、涼し気な音響効果をもたらす。これらは感情と理知のバランスが整っているからこそ生じうる冷却効果なのである。


スケールという観点から見ると、エイフェックス・ツインが頻繁に使用するスケールが利用されている。これらは、ロック的な音楽を電子音楽からどのように再構築するかの一つの過程でもあった。そして、ゴーゴー・ペンギンの場合、生のドラムとコントラバスの演奏を通じて、プログレッシヴロック/ポストロックの性質を強める。ドラムやコンバスの演奏により、曲の持つ強度が強まったり、弱められたりと、音楽的なグラデーションが多彩に散りばめられている。

 

 

「3-Forgive The Damages(Feat. Daudi Matsiko) 」はインスト曲だけでは寂しいという方におすすめ。ウガンダ出身のフォークアーティストをゲストボーカルに招聘している。フォーク、ネオソウル風のバラードソングは、Samphaの楽曲に近い素晴らしさがある。この曲のダウディのボーカルは心に染みるものがある。無論、曲の後半で登場するコーラスも美麗なハーモニーを形成していて、胸を打ち、痛ましい魂を治癒するような効果をもつ。ボーカルがウッドベースやシンセピアノの演奏と呼応するような形で、ロックの印象を擁する曲へ徐々に変化していく。ロック的な効果を担うのがドラムの演奏で、曲全体にダイナミズムを付与している。リリック的には、"何もしない時間を大切に"という重要なリリックが織り交ぜられているようだ。これらの鋭い客観的な批評精神は、ゴーゴー・ペンギンの音楽に緩やかさと奥行きをもたらしている。


 

 「Forgive The Damages(Feat. Daudi Matsiko) 」

 

 

さらに、アルバムの中盤以降はモジュラー・シンセの演奏を上手く活用した楽曲が多くなる。これらはイギリス/EUのダンスミュージックの集大成のような意味合いが込められている。また、ジャズとダンス・ミュージックの融合の可能性を探求している。


「4-What We Are And What We Are Mean To Be」は、ディープ・ハウスの打ち込みの重厚感のあるキック音で始まり、ジャズトリオの伝統を活かし、多彩な音楽的な変遷を描く。ウッドベースがソロの立場を担い、次にピアノ、さらにドラムへと、ソロの受け渡しが行われる。ニックのベースの演奏は背景となるアンビエントのシークエンスと重なり、エレクトロジャズの先鋒とも言える曲が作り上げられる。Kiasmos、Jaga Jazzist、Tychoを彷彿とさせる、見事な音の運びにより、圧巻の演奏が繰り広げられる。 曲の中盤以降は、オランダのKettelの系統にあるプリズムのように澄んだシンセピアノの音色を中心に、プログレッシヴ・ジャズのアンサンブルが綿密に構築される。物語の基本である起承転結のように、音楽そのものが次のシークエンスへとスムーズに転回していく効果については、このジャズトリオの演奏力の賜物と言えるかもしれない。

 

「5- Background Hiss Reminds Me of Rain」は短いムーブメントで、電子音楽に拠る間奏曲である。エイフェックス・ツインの『Ambient Works』の系譜にあるトラックである。この曲では、改めてモジュラーシンセの流動的な音のうねりを活かし、それらを雨音を模したサンプリングーーホワイトノイズーーとリンクさせている。クールダウンのための休止を挟んだ後、滑らかなシンセピアノのパッセージが華麗に始まる。「6-The Turn With」は前曲のオマージュを受け継ぎ、エイフェックス・ツインの電子音楽をモダンジャズの側面から再構築しようという意図である。


この曲ではジャズのスケールが頻繁に使用される。ポリフォニックな動きを見せるウッドベースに対し、モノフォニックという側面で良い効果を与えている。特に鍵盤奏者のクリスは色彩的な和声を構築し、音楽に清涼感をもたらす。ドラムの裏拍を重視した演奏も旋律的な曲にグルーヴを与えている。ダンサンブルな曲としてはもちろんだが、メロディアスな曲としても楽しめる。その点では、IDM/EDMの中間に位置づけられ、その境界を曖昧にする一曲。インドアでも、アウトドアでもシチュエーションを選ばずに楽しめる楽曲となっている。


前曲で予兆的に登場したアシッドハウス/ディープハウス、ドラムンベースやダブステップの要素を、ジャズの生演奏から再構築するという視点は、本作の終盤の曲を聞く際に見過ごせない。それは音楽のどの箇所を捉えるのかという側面で大きな変化が生じ、聴き方すら変わってくるからである。


例えば、「7-Living Bricks In Dead Morter」は、スネア/タムのディレイ等のダブ的な効果をドラムの生演奏で再現し、ダイナミズムを作り出す。この曲のドラムは、チューニングや叩き方の細かなニュアンスにより、音の印象が著しく変化することを改めて意識付ける。また、アンビエントや実験音楽の祖であるエリック・サティの『ジムノペティ』のような近代のフランス楽派のセンス溢れる和声法(主音【トニック】に対する11、13、15度以降の音階を重ねる和声法、ジャズ和声の基礎となった)を用い、クラシックとジャズ、ミニマル・テクノの中間点を作り、同心円を描くような多彩なニュアンスを持つ音楽が繰り広げられる。この曲は、次の曲「Naga Ghost」と並んで、エレクトロニックの歴代の名曲と見ても、それほど違和感がないかもしれない。

 

「8-Naga Ghost」は、ダブステップやドラムンベース、フューチャーベースのカリブ音楽に根ざした裏拍のリズムを活かし、未来志向のエレクトロニックを構築している。ドラムは、リムショットのような演奏をもとに、跳ねるようなリズムを生み出し、それらがミニマル・テクノの範疇にあるシンセピアノと呼応する形で続いている。こういった曲は、ノルウェージャズのようなエレクトロニックとジャズのクロスオーバーと共鳴している。また、その一方、ジャズの持つ本質的な意義が、時代とともに変容しつつあるのではないかと思わせる。つまり、古典的なジャズというのは、今やポピュラーの領域に入りつつあり、ジャズそのものが、ヒップホップと同じように、別の形態の音楽に変わりつつあるのを感じるのである。もちろん、伝統的なジャズを伝えるミュージシャンもなくてはならない存在であることを確認した上で。

 

 

クロスオーバーの総仕上げとなるのがクラシック音楽である。「9-Luminous Giants」において、コラボレーター、マンチェスターコレクティヴ、そしてバイオリニスト、Rakhi Singh(ラヒ・シン)が音楽にドラマティックな息吹を吹き込む。ロック調の楽曲にストリングスを加えるというのは、テクノやジャズを軽々と越え、ポストロックとしても親しまれているのは周知の通りだ。


こういった曲を聞くかぎり、どのような単体のジャンルの音楽も完全に独立したものとはなり得ず、音楽の中心に傾倒し、音楽における一体化という概念に吸収されつつあるというのが実情である。「音楽のクラウド化」という表現が相応しい。この曲の場合、ダンスミュージックの楽曲に、バイオリンのレガートが伸びやかさという側面で華麗な印象を添えている。また、これは、ポスト・クラシカル/モダン・クラシカルの動向とも連動して制作された楽曲であろう。 

 

先にも述べたように、ジャズという音楽形態は、いつも冒険と革新と隣り合わせであり、前例のないものとの邂逅でもある。また、翻って言えば、それらの性質なくしてジャズは成立しえない。模倣に終始するのではなく、先人の知恵を活かして、次に何を生み出すというのか。間違いなく、これは現代のミュージシャンや音楽の分野における至上命題となるだろう。このアルバムの場合でも、''新しいものへの飽くなき挑戦''というテーマが掲げられている。それはアルバムの終盤においても変わらず、主軸を定めることなく、ゴーゴー・ペンギンの音楽のバリエーションを象徴付けるかのように、音楽そのものが幅広くなり、そして広汎になり、大きく素早く転回していく。

 

 

「10-Float」では、2000年以降のグリッチ/ミニマル・テクノの音楽性を踏まえ、Max/Abletonで生成したようなサウンド・デザインの要素が強調付けられる。''その音楽が、どこでどのように聞かれるのか?''という重要な命題に対するチャレンジである。そしてその飽くなき冒険心は、このアルバムの最後の最後まで貫かれ、さらにその中枢を形成するコアを作り上げる。


「11-State Of Fruit」では、ジャズ・アンサンブルとしての真骨頂を、音源という形で収めている。この曲では、Killing Jokeの時代から受け継がれる、英国の音楽の重要な主題である"リズムの革新性"をアンサンブルの観点から探求していく。シンセピアノの色彩的なアルペジオ、対旋律としての役割を持つウッドベース、それらに力学的な効果を与えるドラム。全てが完璧な構成である。


こういった一貫して聴き応えのある曲を集中性を維持して提供した上で、音楽の核心を示すのが、ゴーゴー・ペンギンの卓越性である。


「12-Silence Speaks」は、1990年代-2000年代初頭のエレクトロニックと同じように、 未来への期待や希望をほのかに感じさせる。この曲を聴いていて漠然とおぼえる謂れのないワクワク感。これこそエレクトロニックの醍醐味である。そして曲の中盤からは、ジャズ・アンサンブルの性質が再度強まり、映画的でドラマティックなエンディングが続く。これはトリオの中にシネマミュージックに精通した作曲家がいるからこそ成しうる試みなのだろう。(『メメント・モリ』のサウンドトラックを参照しよう)


この曲を聴いていてつくづく思うのは、音楽家のテクノロジーへの憧憬が未来への漠然とした明るい希望を示唆している。そこには、「人類とテクノロジーの共存」という次世代のテーマが明確に内包されていると推測する。それは主従関係で築き上げられるのではなく、人類とテクノロジーが、自然との調和のごとく、私達の世界に併立しているということである。アルバムのクローズ「Silence Speaks」は、本当に賞賛すべき曲で、シンセサイザーにとどまらず、ギター、ピアノ、ベース、ドラム、そういったすべての楽器を最初に触った瞬間のような輝かしい感動に満ちあふれている。


驚異的なことを、さも当たり前のようにこなすのがプロフェッショナリティであるとするなら、それはゴーゴー・ペンギンのためにある定義だろう。彼らの音楽は卓越したスポーツのプレーのようで、また、高度な知性に裏打ちされたアート形態のようでもある。本作は、音楽の持つ奥深さを体感するのにうってつけの作品となっている。音楽というリベラルアーツの一形態そのものが、本来は高度な知性主義によって成立していることをご理解していただけると思う。

 

 

  

94/100 

 

 

 

「Silence Speaks」

 

 

▪GoGo Penguinのニューアルバム『Necessary Fictions』はXXIM/Sony Musicから本日発売。アルバムのストリーミングはこちら

 


ニュージーランドのシンガーソングライター、Bret Mckenzie(ブレット・マッケンジー)がニューアルバム「Freak Out City」を8月15日にリリースする。正式に言えば、「家族の日」という祝日があるという話を聞いたことはないが、もし存在するならこのアルバムが最適だろう。

 

ブレット・マッケンジーは俳優として世界的に活躍し、ロード・オブ・ザ・リングにも出演経験がある。俳優からミュージシャンへ転向した『Songs Without Jokes』では、実力派シンガーソングライターの片鱗を見せた。

 

ブレット・マッケンジーはグラミー賞とアカデミー賞を受賞したアーティストで、自身のバンド「フライト・オブ・ザ・コンコーズ」とその名を冠したテレビ番組で最もよく知られている。

 

マッケンジーは、主に映画やテレビのために、面白く、奇妙で、ユニークな曲を歌ったり、脚本の執筆などで国際的に知られている。

 

ブレットの曲は、カーミット・ザ・フロッグ、セリーヌ・ディオン、リゾ、ベネディクト・カンバーバッチ、ブリタニー・ハワード、ホーマー&リサ・シンプソン、フレッド・アーミサン、ミス・ピギー、エイミー・アダムス、ジェイソン・シーガル、リッキー・ジャーヴェイス、ベニー、イザベラ・マーセド、スポンジ・ボブ、トニー・ベネット、ミッキー・ルーニーなどが歌っている。


若い頃、ブレット・マッケンジーは、ウェリントンの音楽シーンで活躍し、複数のジャンルのバンドで演奏していた。レゲエ・ファンクの人気バンド、ザ・ブラック・シーズの創立メンバーであり、その後、複数のゴールド・アルバムを制作し、世界中で大規模なツアーを行った。

 

また、ウェリントン・インターナショナル・ウクレレ・オーケストラを結成し、10人編成のウクレレ・グループとして驚異的な人気を博し、実験的なエレクトロニカ・アンサンブル、ダブ・コネクションで演奏し、ビデオ・キッドという別名でインディー・ポップ・エレクトロのレコードを制作し、ミニチュア楽器を演奏するバンド、ザ・シュリンクスから企業向けのカルテット、ザ・カナペスまで、さまざまなジャズ・グループで演奏した。

 

同時に、ブレットは地元の演劇シーンにも深く関わり、数え切れないほどの創作コメディー演劇作品に定期的に出演し、長年のコラボレーターであるジェメイン・クレメンをはじめとする演劇アーティストの大きなコミュニティと親交を深めた。

 

ニュージーランドのソングライターであるブレット・マッケンジーは、コメディ・デュオ、フライト・オブ・ザ・コンコーズの一員として一躍有名になった。しかし、その一方で、ランディ・ニューマンやハリー・ニルソンに影響を受けた、心の奥底から湧き出るような曲も書いている。

 

2022年発表のアルバム『Songs Without Jokes』はデビュー作であり、リセット作でもあった。『Freak Out City』は彼の次のステップであり、8人編成のバンド、ザ・ステイト・ハイウェイ・ワンダーズとともにニュージーランドとアメリカ全土でライブを行いながら制作された。

 

8月15日にリリースされるこのアルバムは、ロサンゼルスとニュージーランドの両方でレコーディングされ、ブレットと長年のコラボレーターであるミッキー・ペトラリアが共同プロデュースした。ニュー・シングル「All I Need」は、ビートルズ/ストーンズライクのロックンロール、ソウルファンクとブルースを融合した人生の円熟味を漂わせる楽曲だ。エレクトリックピアノ、ゴスペル風のコーラス、そしてマッケンジーのブルージーな歌声が音楽の合間を変幻自在に戯れる。この曲の温かいエモーションは、妻への愛情やファミリアーを表したものだという。

 

「これは妻のハンナへのラブソングなんだ。 僕たちは長い間一緒にやってきたし。 僕たちはいつも愛し合っているけれど、正直に言うと、もっと愛し合っている日もある。 この曲は、そんな中でも特に愛し合っていた日の曲なんだ」とマッケンジーは説明する。

 

 

 「All I Need」

 

 

  

2000年、ロード・オブ・ザ・リング第1作『指輪の仲間』にエキストラとして出演した彼は、思いがけず背景のエルフとして一躍有名になり、トールキン・ファンの異常な注目を集めた。彼は 「Frodo is great, who is that? 」の頭文字をとってFigwitと呼ばれた。


同じ頃、この多産なウェリントンの芸術コミュニティから『フライト・オブ・ザ・コンチョーズ』が生まれ、ブレットはバンド仲間のジェメインとともにオーストラリア、カナダ、イギリスのコメディ・フェスティバルを数年間回った。BBCのラジオ番組に続き、HBOのテレビ番組もカルト的な人気を博し、ふたりは国際的な名声を獲得した。サブ・ポップ・レコードからEP1枚とアルバム3枚をリリースし、2008年にはグラミー賞最優秀コメディ・アルバム賞を受賞した。

 

フライト・オブ・ザ・コンチョーズでの活動により、ブレットはコメディと音楽の両エンターテインメントの世界で確固たる地位を築き、アメリカ映画界への扉を開いた。それ以来、彼は一貫して映画やテレビのプロジェクトに携わっている。2012年にはディズニー映画『ザ・マペッツ』のバラード「Man or Muppet」でアカデミー賞オリジナル楽曲賞を受賞。

 

この間、ブレットと妻ハンナ・クラークには3人の子供が生まれ、ブレットは家族と一緒にニュージーランドの自宅で過ごせるプロジェクトに集中し始めた。2022年、ブレットはソロアルバム『Songs Without Jokes』をリリースし、パンチラインのない曲作りを探求した。FarOut』誌は、この曲を「カート・ヴォネガットの小説のミュージカル版のようだ」と評した。


 

Bret Mckenzie 『Freak Out City』 



Label: Sub Pop

Release:  2025年8月15日

 

Tracklist:

 

1.Bethnal Green Blues
2.Freak Out City
3.The Only Dream I Know
4.All the Time
5.That's the Way That the World Goes 'Round
6.All I Need
7. Eyes on the Sun
8.Too Young
9. Highs and Lows
10.Shouldna Come Here Tonight

イタリアのフィエスタ・アルバ    ポリリズム、ポスト・マスロック、そして世界中の声を通したグローバルな音の旅


謎めいたイタリアの実験的なロックバンド、Fiesta Alba(フィエスタ・アルバ)は、エレクトロニック、ヒップホップ、アフロビート、プログレ、オートチューンのボーカル、アヴァンキャルド・ジャズマスロックを組み合わせて、独創的な音楽スタイルをヨーロッパのシーンにもたらそうとしている。 Battles、C'mon Tigre、Squidなど、実験的なロックがお好きな方は聴いてみてほしい。


彼らはメキシコのレスリングのルチャ・マスクを特徴とし、異形としての印象が強い。不気味だが、そのサウンドはさらにワイアードだ。覆面のバンドという面ではイギリスのGOATを彷彿とさせる。しかし、そのサウンドはミステリアスでエレクトロニックのキャラクターが強い。今回、バンドのPRエージェンシーから、バンドメンバーによるトラックバイトラックが到着した。


デビュー・フル・アルバム『Pyrotechnic Babel』が2025年3月21日(金)にリリースされた。 ここ数週間、シングル「No Gods No Masters」(feat.カタリーナ・ポクレポヴィッチ)が先行発売されている。 このアルバムは、neontoaster multimedia dept./ Bloody Soundレーベルからデジタル・フォーマットとCD(スタンダード・バージョンと限定デラックス・バージョン)で発売済み。



『Pyrotechnic Babel』は、フィエスタ・アルバによる初の公式アルバムであり、2023年のセルフタイトルEPに続く2枚目のリリース。 40分以上に及ぶこのアルバムは、複雑で多面的な音楽を提供し、彼らの高い評価を得たデビュー作で紹介された言語やテーマを洗練させ、発展させている。


タイトルの『Pyrotechnic Babel』は、音のマニフェストである。数学ロックに根ざしながら、ジャンル、音色、言語を変幻自在にブレンドしている。 アフリカン・ポリリズム、ダブ、20世紀のアメリカ人作曲家の洗練されたミニマリズム、ループトロニカ、プログレッシブ・ロック、現代ブリティッシュ・ジャズ、ドラムンベースが豊かなサウンドスケープに融合している。 その結果、色彩とエネルギーがダイナミックに爆発し、まさに花火のようなバベルとなった。


初リリースでイタリア、アメリカ、アフリカの声を取り入れたフィエスタ・アルバは、その幅をさらに広げた。 


このアルバムでは、日本、中央ヨーロッパ、アフリカ、イタリアのシンガーやラッパーが、ラディカルな思想家、哲学者、現代の語り部たちがフィーチャーされている。 バンドの複雑な音楽的テクスチャーに支えられたこれらの声は、現代世界の矛盾や複雑さを生き生きと表現している。


周縁部出身でありながら、紛れもなく国際的なビジョンを持つフィエスタ・アルバは、音と文化の探求を続けている。 『Pyrotechnic Babel』は、野心的な第二のステップであり、全世界からの声、音、アイデア、闘争に満ちたレコードである。



 

 

【Track  By Track】フィエスタ・アルバによる楽曲解説


1. No Gods No Masters (feat. Katarina Poklepovic)


シンセティックなサウンドのギター、アフロなベースライン、デジタルビートを模倣したドラムの中、カタリーナ・ポクレポヴィッチ(ソー・ビースト)の声が、神も主人も必要ない感覚の帝国を語りかける。

 

2. Technofeudalism (feat. Gianis Varoufakis)


ループするギターとプログレッシブ・ミュージックのエコーが、ディストピア的な現在を宣告された惑星のサウンドトラックとして容赦ないリズムを打ち鳴らす中、現代の預言者が新しい資本主義のアイデンティティを概説する。


3. Je Suis le Wango (feat. Sister LB)


ミニマルなギターと断片的なベースラインが密に織りなす上に、セネガル出身のシスターLBの歌声が音楽的、地理的な境界を超えた架け橋を築く。 彼女は目に見えない障壁を燃え上がらせる花火のようなバベルを歌う。


4. Collective Hypnosis


息もつかせぬエレクトロニクスが、ループするギターとともに縦横無尽に回転する。 アルバム初のインストゥルメンタル・トラックでは、タイトなリズムと万華鏡のようなシンセとギターのレイヤーが、私たち全員が陥ってしまった集団催眠を物語る。


5. Waku Waku (feat. Judicious Brosky)


バトルズとヘラの中間のような、インストゥルメンタル・マス・ロックが織り成す濃密なテクスチャーと非常にタイトなリズムの上で、日本人ラッパーの武骨な歌い回しが際立つ。 高速列車を舞台にした極東の小さなラブストーリー。


6.Post Math


インストゥルメンタルのポリリズムが幾重にも重なり、多面的なハイパーキューブを形成する。 エレクトロニック・ブラス、ベース・ライン、歪んだギター・リフ、ミニマルなシンセ、切迫したドラム・マシーンの中で、奇妙なメトリックス、トニック・シフト、不協和音が見事に調和している。 タイトルが示すように、この曲はほとんどマニフェストだ。


7. Learn to Ride Hurricanes (feat. Alessandra Plini)


ディストピア社会で生きることの葛藤についての生々しい寓話が、宣言的でありながら夢のような声で歌われている。 ストリングスが幽玄なギターに寄り添い、アルバムの中で最もロック色の強いエピソードとなっている。


8. Doromocrasy


ギターとシンセが交差し、追いかけっこをしながら、四角く容赦のないリズムを刻む。 スピードのパワーの神話を物語る、カラフルで花火のようなインストゥルメンタル曲。


9. Safoura (feat. Pape Kanoute)|


アフリカのグリオの賢者が、マスロックのポリリズムとエシェリアのアラベスクの上に座り、世界最古の物語を語る。


10. Mark Fisher Was Right (feat.Mark Fisher)


加速度論者の故マーク・フィッシャーは、オンユー・サウンドの威厳に響くポリリズミックなダブ・トラックに先見の明を感じさせる歌声を乗せ、アルバムを最高の形で締めくくる。


【Biography】


フィエスタ・アルバの音楽は、オルタナティヴ・ロックの進化を通して、提案、影響、実験がダイナミックに混ざり合い、本物のルートを描いている。


 アングロサクソン的な数学ロックの独特な解釈から始まったバンドは、アフリカン・ポリリズム、ループトロニカ、ダブ、ヒップホップ、プログレッシブ、ドラムンベースとの過激なハイブリッドによって、ジャンルの限界を越えようとしている。 インストゥルメンタルに重点を置きながら、フィエスタ・アルバは世界中の声をサウンドに加える。 


各トラックはユニークな個性を持ち、パンク、ラップ、アフロビートの要素で汚染されている。 その結果、ハイパー・キネティックで洗練された万華鏡のようなサウンドが生まれ、観客や批評家を魅了し、彼らのデビューEP(s/t, neontoaster multimedia dept.)が熱狂的に歓迎されたことが証明している。 


この研究は、このファースト・アルバム『Pyrotechnic Babel』において増幅され、バンドは新たな音楽的領域を探求し、慣習に挑戦し続けている。 実験と不適合に満ちた彼らのアプローチは、ジャンルやアルゴリズムに縛られる音楽シーンに対抗するものだ。


バトルズからキング・クリムゾン、アイ・ヘイト・マイ・ヴィレッジ、カエ・テンペスト、エイドリアン・シャーウッド、サンズ・オブ・ケメットを経て、ブライアン・イーノ、スティーヴ・ライヒ、フェラ・クティといった巨人にまで影響を受けたと宣言している。 彼らの音楽の流動的な進化を反映した、モザイクのような影響。

 Bartees Strange 『Horror』


Label: 4AD

Release: 2025年2月14日

 

 

Review

 

前作では「Hold The Line」という曲を中心に、黒人社会の団結を描いたバーティーズ・ストレンジ。2作目は過激なアルバムになるだろうと予想していたが、意外とそうでもなかった。しかしやはり、バーティーズ・ストレンジは、ブラックミュージックの重要な継承者だと思う。どうやら、バーティーズ・ストレンジは幼い頃、家でホラー映画を見たりして、恐怖という感覚を共有していたという。どうやら精神を鍛え上げるための訓練だったということらしい。

 

ということで、この2ndアルバムは「Horror」というタイトルがつけられたが、さほど「ホラー」を感じさせない。つまり、このアルバムは、Misfitsのようでもなければ、White Zombieのようでもないということである。アルバムの序盤は、ラジオからふと流れてくるような懐かしい感じの音楽が多い。その中には、インディーロック、ソウル、ファンク、ヒップホップ、むしろ、そういった未知なるものの恐怖の中にある''癒やし''のような瞬間を感じさせる。もしかすると、映画のワンシーンに流れているような、ホッと息をつける音楽に幼い頃に癒やされたのだろうか。そして、それが実現者となった今では、バーティーズがそういった次の世代に伝えるための曲を制作する順番になったというわけだ。ホラーの要素が全くないとは言えないかもしれない。それはブレイクビーツやチョップといったサンプルの技法の中に、偶発的にそれらの怖〜い感覚を感じさせる。しかしながら、たとえ、表面的な怖さがあるとしても、その内側に偏在するのは、デラソウルのような慈しみに溢れる人間的な温かさ、博愛主義者の精神の発露である。これはむしろ、ソングライターの幼少期の思い出を音楽として象ったものなのかもしれない。

 

バーティーズ・ストレンジは、オペラ歌手と軍人という特異な家庭に育ったミュージシャンであるが、結局、彼はギタリストとしての印象が強い。例えば、数年前にはロンドンにあるカムデンのマーケットでギターを選んでいる様子をドキュメント映像として残している。ギターに対する愛情は、アルバムの始めから溢れ出ている。そして、彼の家でかかっていたというパーラメント、ファンカデリック、フリートウッド・マック、テディ・ペンダーグラス、ニール・ヤング、そういった懐かしのR&B、そしてロック、さらにコンテンポラリーフォークまでもがこのアルバム全体を横断する。

 

「Too Much」のイントロはツインギターの録音で始まり、その後、まったりとしたR&Bへと移り変わる。それは、通勤電車やバスの向こうに見える人生の景色の変化のようである。そしてバーティーズはデビューの頃から培われたソウルフルなヴォーカルで聞き手を魅了する。ラフな感じで始まったこのアルバムだが、続く「Hit It Quit It」ではヒップホップとR&Bの融合というブラックミュージックの重要な主題を受け継いでいる。しかし、バーティーズのリリックは、それほど思想的にはならない。音楽的な響きや表現性が重要視されているので、言葉が耳にすんなり入ってくる。ファンカデリック、パーラメント好きにはたまらないナンバーとなるだろう。バーティーズはまた、哀愁のあるR&Bやソウルのバラードの系譜を受け継いでいる。「Sober」は、デビュー作に収録されている「Hold The Line」と同じ系統にある楽曲だが、しんみりしすぎず、リズムの軽やかさを感じさせる。エレクトリック・ピアノ(ローズピアノ)とセンチメンタルなボーカルが融合する。この曲は、ジャック・アントノフ&ブリーチャーズが志向するようなAOR、ソフィスティポップといった80年代のUSポップを下地にした切ないナンバーだ。


米国のトレンドに準じた形でアメリカーナを取り入れた曲が続く。「Baltimore」は、もしかすると、この土地に対するアーティストの何らかの繋がりのようなもの描いているのかもしれない。しかし、それほど、バーティーズの音楽はモダンにならず、70年代のUSロックの懐かしさに留まっている。これは彼の音楽観のようなものが幼い頃に出発しており、それらを現代のアーティストとして再現するのが理想だと考えるからなのだろうか。そして、アメリカーナ(カントリー)の要素は、バーティーズ・ストレンジが子供の頃に聴いていたニール・ヤングの世界観と結びつき、普遍的な響きのあるポップスとして蘇る。そして、それらは、南部のブルースの影響下にある渋いギターや曲調と繋がっている。むしろ、前作では、黒人社会について誰よりも真摯に考えていたシンガーであるが、この二作目では、人種的な枠組みを超えるような良質な曲を書いている。これは、明らかにシンガーソングライターとしての大きな成長といえる。なぜなら、この世界に住んでいるのは一つや二つの人種だけではないのだから。

 

「Lie 95」は、たぶんマイケル・ジャクソンのようなナンバーにすることも出来たかもしれない。しかし、この曲は少し控えめな感覚が維持されている。見え透いたようなきらびやかなポップスからは距離を置いているのが分かる。それが、渋さや深みのような奥深い感覚を漂わせている。もちろん、ポップソングとしての分かりやすさや聞きやすさという点はしっかりと維持した上で、深い感覚がしっかりと宿っている。従来のポピュラーソングの聞き方が少し変わるような面白い音楽である。結果的に、この曲は80年代のディスコとYves Tumorのハイパーポップのセンスを巧みに結びつけて、古さと新しさを瞬時にクロスオーバーするようなユニークな感じに仕上がっている。

 

中盤にもハイライト曲がある。最もロックソングの性質を前面に押し出した「Wants Need」は、ブリーチャーズとも共通点のあるナンバーである。 この曲はスプリングスティーンから受け継がれる定番のようなロックソング。しかし、それほどマッチョイズムにそまらず、中性的な感じが生かされているのが新しい。この曲でも、古典的な観念に染まりきらず、現代的な考えを共有しようという、ソングライターの心意気のようなものが伝わってくる。歌詞に関しても、無駄な言葉を削ぎ落としたような洗練性があり、耳にすんなり入ってくることが多い。「Love」は、アーティストがこれまでに作ったことが少ないタイプの曲ではないかと推測される。EDMに依拠したダンストラックで、この曲の全体に漂うダブステップの感覚に注目してもらいたい。

 

『Horror』は単なる懐古主義のアルバムではないらしく、温故知新ともいうべき作品である。例えば、エレクトロニックのベースとなる曲調の中には、ダブステップの次世代に当たる''フューチャーステップ''の要素が取り入れられている。こういった次世代の音楽が過去のファンクやヒップホップ、そしてインディーロックなどを通過し、フランク・オーシャン、イヴ・トゥモールで止まりかけていたブラックミュージックの時計の針を未来へと進めている。おそらくバーティーズ・ストレンジが今後目指すのは"次世代のR&B"なのかもしれない。


終盤のハイライト曲「Loop Defenders」「Norf Gun」には、未知なるジャンルの萌芽を見出すことが出来るはずだ。後者の曲については、Nilfer Yanyaが2022年のアルバム『Painless』で行ったR&Bの前衛性を受け継いだということになるだろうか。こういったフレッシュな音楽が次の作品ではどのように変容していくのかとても楽しみだ。

 


 

85/100 

 


 

 Best Track-「Norf Gun」

Weekly Music Feature: Moonchild Sanelly 『Full Moon』  

 

・南アフリカ発 フューチャー・ゲトゥー・ファンクの女王の誕生

 

ミュージシャンでクリエイティブなビジョナリー、Moonchild Sanelly(ムーンチャイルド・サネリー)は、アマピアノ、Gqomから 「フューチャー・ゲットー・ファンク」と呼ばれる彼女自身の先駆的なスタイルまで、南アフリカの固有ジャンルを多数網羅したディスコグラフィーを擁する。

 

ポート・エリザベス出身のこの異端児は、活動当初から独自の道を切り開いてきた。''ムーンチャイルド・サネリー''として親しみやすく、唯一無二の存在であり続けるように努めながら、実験と革新を巧みに取り入れたキャリアを通じて、溌剌とした比類なきスタイル、肯定的なリリックとストーリーテリング、そしてインスピレーションを与える誠実さで知られるようになった。

 

スタジオデビューアルバム『Rabulapha!』(2015年)、ジャンルを超えた2ndアルバム『Phases』(2022年)に続き、変幻自在の彼女は、2025年1月に新作スタジオ・アルバム『Full Moon』をリリースする。

 

南アフリカのアフロハウスの女王”ヨハン・ヒューゴ”のプロデュースによる『Full Moon』は、サネリーの大きな自負と覚悟の表れでもある。独自のサウンド、陽気なアティテュード、個性的なヴォーカル、ジャンルを超えたヒット曲、さらに、彼女の特徴的なシグネチャーであるティールカラーのムーンモップに彩られた輝かしい美学が表現された12曲から構成される作品集だ。

 


『Full Moon』はツアーの移動中に複数の場所で録音され、内省的でありながら彼女の多才ぶりを示すアグレッシブな作品。「どんなジャンルでも作れるし、制限されないから音楽を作るのが楽しくてたまらない」という彼女の言葉にはサネリーの音楽の開放的な感覚という形で現れ出る。

 

エレクトロニック、アフロ・パンク、エッジの効いたポップ、クワイト、ヒップホップの感性の間を揺れ動くクラブレディなビートなど、音楽的には際限がなく、きわめて幅広いアプローチが取り入れられている。南アフリカのコミュニティでポエトリーリーディングの表現に磨きをかけてきたサネリーは、リリックにおいても独自の表現性を獲得しつつある。例えば、ムーンチャイルドが自分の体へのラブレターを朗読する「Big Booty」や、「Rich n*ggah d*ck don't hit Like a broke n*ggah d*ck」と赤裸々に公言する「Boom」のような、リスナーを自己賛美に誘うトラックである。 ムーンチャイルドの巧みさとユーモアのセンスは、テキーラを使った惜別の曲「To Kill A Single Girl」の言葉遊びで発揮されている。そして、ファースト・シングルであり「大胆なアンセム」(CLASH)でもある「Scrambled Eggs」では、平凡な日常業務にパワーを与える。

 


ムーンチャイルド・サネリーは、サウンド面でも独自のスタイルを確立しており、オリジナル・ファンから愛されてやまないアマピアノと並び、南アフリカが提供する多彩なテックハウスのグルーヴをより一層強調付けている。当面のサネリーのスタジオでの目標は、ライブの観客と本能的なコネクションを持てるような曲を制作すること。さらに、彼女は観客に一緒に歌ってもらいたいという考えている。



しかし、『Full Moon』は対照的に自省的な作品群である。サネリーは自分自身と他者の両方を手放し、受容という芸術をテーマに選んだ。曲作りの過程では、彼女は自己と自己愛への旅に焦点を絞り、スタジオはこれらの物語を共有し、創造的で個人的な空間を許容するための場所の役割を担った。


彼女が伝えたいことは、外側にあるもとだけとは限らず、内的な感覚を共有したいと願う。それは音楽だけでしか伝えづらいものであることは明らかである。「私の音楽は身体と解放について歌っている。自分を愛していないと感じることを誰もOKにはしてくれないの」と彼女は説明する。

 

『Full Moon』は、ムーンチャイルド・サネリーの様々な側面を垣間見ることができる。実際的に彼女が最も誇りに思っている作品であるという。

 

秀逸なアーティストは必ずしも自分を表現するための言葉を持つわけではない。いや、彼らは制作を通して、自分を表現するための言葉や方法をたえず探し続ける。ミキサールームやレコーディングスペースで制作に取り組む時、歌詞を書いて歌う時、自分の本当の姿を知ることが出来るのである。もちろん、過去の姿でさえも。サネリーはこのように言う。「私の弱さ、つまり、この旅に入るために、以前はどんなに暗かったか、表現する言葉を持っていなかったとき、私が”ファック・ユー”と言っていた状況を的確に表現する言葉を見いだすことなのです」



サネリーの新作の節々には南アフリカの文化が浸透している。それはまた彼女一人の力だけで成しえなかったものであると明言しえる。ダーバンのポエトリー・シーン、そしてヨハネスブルグのプール・パーティーから国際的なスターダムにのし上がったサネリーの活動の道程は、生来の創造性、ユニークな自己表現、並外れた自信に加えて、志を同じくするアーティストとチームを組むことによって大きく突き動かされてきた。自他ともに認める 「コラボレーション・ホエアー 」であるサネリーは、2019年の『ライオン・キングス・サウンドトラック』でビヨンセの「マイ・パワー」をヴォーカルで盛り上げた火付け役として多くの人に膾炙されている。

 

さらに彼女は、共同制作を通じて音楽を深く理解するように努めてきた。サネリーはエズラ・コレクティヴ、スティーヴ・アオキ、ゴリラズといったアーティストとコラボレートを続けている。現在、イギリスのスター、セルフ・エスティームと共作したジェンダーの役割を探求した「Big Man」(2024年の夏の一曲[ガーディアン紙])は、大成功を収め、その余韻に残している。

 

ライブ・パフォーマンスの華やかさにも定評がある。テキサスのSXSWからバルセロナのプリマベーラ・サウンドにいたるまで、世界的な音楽フェスティバルで多数のオーディエンスを魅了し、今年だけでもグラストンベリー・フェスティバルで10回という驚異的なパフォーマンスを行った。昨年末にはBBCのジュールズ・ホランドの番組にも出演し、本作の収録曲を披露した。

 

ムーンチャイルドサネリーは世界の音楽を塗り替える力量を持っている。彼女はユニークでユーモアのある表現力を活かし、女性権利、同国の文化と歴史を背負いながら、南アフリカのオピニオンリーダーとして、世界のミュージックシーンに挑戦状を力強く叩きつける。シングル「Scrambled Eggs」、「Sweet & Savage」、「Big Booty」、「Do Your Dance」に導かれるようにして、星は揃った。2025年はムーンチャイルド・サネリーのブレイクスルーの年になるだろう。

 

 

*本記事はTransgressiveより提供されたプレス資料を基に制作しています。

 



・Moonchild Sanelly 『Full Moon』 Transgressive


 

最近では、もっぱら”アマピアノ”の方が注目を浴びるようになったが、2016年頃、日本のハードコアなクラバーの間で話題になっていたのが、南アフリカのGqom(ゴム)というジャンルだった。このクラブミュージックのジャンルは、UK Bassの流れを汲み、サンプリングなどをベースにした独特なダンス・ミュージックとしてコアな日本のクラブ・ミュージックファンの間で注目を集めていた。m-flo(日本のダンスミュージックグループ)が主催する”block.fm”、そしてスペースシャワーのオウンドメディアなどが、もう十年くらい前に特集していて、アフロ・トロピカルが次にヒットするのではないかと推測を立てていたのだ。このGqomというジャンルは例えば、ビヨンセがアルバムの中で試験的に取り入れたりもしていた。

 

あれから、およそ8年が経過した今、ようやくというか、このジャンルの重要な継承者が出てきた。それがムーンチャイルド・サネリーである。彼女はヒップホップとアマピアノを吸収し、そして教会の聖歌隊でゴスペルを歌った時代から培われたソウルフルで伸びやかなボーカルをもとに、オリジナリティ溢れるアフロ・ハウスを三作目のアルバムにおいて構築している。基本的には、マンチェスターの雑誌、CLASHが説明するように、アンセミックであるのだが、よく聴くと分かる通り、彼女が組み上げるGqomとアマピアノのクロスオーバーサウンドには、かなりのシリアスな響きが含まれている。それはムーンチャイルド・サネリーが南アフリカのこのジャンルが生み出されたダーバンのコミュニティで育ち、そしてその土地の気風をよく知っているからである。サネリーは、とくにアフリカ全体の女性の人権意識に関して、自分を主張することに蓋をされてきたように感じていた。アフリカは現在でも女性の地位が脅かされることがあり、それはときどき社会問題としての暴力のような行為に表れでることもある。 長い間、おそらくサネリーのように意見を言うレディーはマイノリティに属していたのである。

 

ムーンチャイルド・サネリーが実際的にどのような意識を持って音楽活動や詩の活動に取り組んできたのかはわからないが、三作目のアルバムを聴いていたら、なんとなくその考えのようなものがつかめるようになった。このアルバムは、音楽的にはその限りではないが、かなりパンクのフィールドに属する作品である。旧来、パンクというジャンルはマイノリティのためのものであり、自分たちの属する位置を逆転するために発生した。それは過激なサウンドという形で表側に表れ出ることが多かった。それとは異なるのは、ムーンチャイルド・サネリーのサウンドは、アンセミックでキャッチー、そしてストレート。なんの曇りや淀みもない。きわめて痛快なベースラインのクラブミュージックが現代的なポップセンスをセンスよく融合しているのだ。

 

アルバムの中心は、スパイスとパンチのある楽曲が目白押しとなっており、アンセミックな曲を渇望するリスナーの期待に答えてみせている。UKドリルを吸収したグリッチサウンドに乗せて、クラブテイストのポピュラーソング「Scrambled Eggs」が、冒頭からマシンガンのように炸裂する。ヒップホップの文脈を吸収させ、その中で、グルーブの心地よさを踏まえたボーカルをサネリーは披露する。オートチューンを使用したボーカルは、ハイパーポップ系にも聞こえるが、明確に言えば、近年のポップスのように音程(ピッチ)を潰すためのものではない。ムーンチャイルド・サネリーはヒップホップの重要なスキルであるニュアンス(微妙な音程の変化)を駆使して、背景となるバックトラックにリズミカルな効果を与える。そしてボーカリストとしてもハイテンションと内省的という二つの性質を交えながら絶妙なテイストを醸し出す。

 

「Big Booty」は、Gqomの流れを汲んだ一曲で、また、アマピアノのサンプリング等の要素を付け加えている。特に、UK Bassからの影響はかなり分厚い対旋律的な構成を持つサブベースによって、この楽曲に力強いイメージをもたらしている。もちろん、それに負けじと、ムーンチャイルド・サネリーは、アンセミックなフレージングを意識しつつ、痛快なポピュラー・ソングを歌い上げる。実際的に背景となるトラックメイクに彼女の声が埋もれることはない。これは何度となく、ダーバンのコミュニティで声を上げ続けてきた彼女しかできないことである。サネリーの声は、なにか聴いていると、力が湧いてくる。それは、彼女が、無名時代から人知れず、ポエトリー・リーディングなどの活動を通して、みずからの声を上げ続けてきたからなのだ。ちょっとやそっとのことでは、サネリーのボーカル表現は薄められたりしないのである。

 

ムーンチャイルド・サネリーが掲げる音楽テーマ「フューチャー・ゲットゥー・ファンク」というのをこのアルバムのどこかに探すとするなら、三曲目「In My Kitchen」が最適となるかもしれない。ケンドリック・ラマーが最新作において示唆したフューチャーベースのサウンドに依拠したヒップホップに近く、サネリーの場合はさらにゲットゥーの独特な緊張感をはらんでいる。表向きには聴きやすいのだが、よくよく耳をすましてみてほしい。ヨハネスブルグの裏通りの危険な香り、まさにマフィアやアウトライダーたちの躍動する奇妙な暗黒街の雰囲気、一触触発の空気感がサネリーのボーカルの背後に漂っている。彼女は、南アフリカの独特な空気感を味方につけ、まるで自分はそのなかで生きてきたといわんばかりにリリックを炸裂させる。彼女はまるで過去の自分になりきったかのように、かなりリアルな歌を歌い上げるのだ。

 

続く「Tequila」は、前曲とは対照的である。アルコールで真実を語ることの危険性を訴えた曲で、 ムーンチャイルドのテキーラとの愛憎関係を遊び心で表現したものだ。酩酊のあとの疲れた感覚が表され、オートチューンをかけたボーカルは、まるでアルバムの序盤とは対象的に余所行きのように聞こえる。しかし、序盤から中盤にかけて、開放的なアフロ・トロピカルに曲風が以降していく。イントロのマイルドな感じから、開放的な中盤、そしてアフロ・ビートやポップスを吸収した清涼感のある音楽へと移ろい変わる。アルコールの微妙な感覚が的確に表現されている。さらに、BBCのジュールズ・ホランドのテレビ番組でも披露された「Do My Dance」は、アルバムの中で最も聴きやすく、アンセミックなトラックである。この曲はまた、南アフリカのダンスカルチャーを的確に体現させた一曲と称せるかもしれない。アフロハウスの軽妙なビートを活かし、ドライブ感のあるクラブビートを背景に、サネリーは音楽を華やかに盛り上げる。しかし、注目すべきはサビになると、奇妙な癒やしや開放的な感覚が沸き起こるということだ。

 

 

「Do My Dance」

 



アルバムは中盤以降になると、クラブ・ミュージックとしてかなり複雑に入り組むこともあるが、曲そのもののアンセミックなテーストは維持されている。「Falling」では、Self Esteenとのコラボレーション「Big Man」で学んだポップセンスをふんだんに活かしている。ここでは、センチメンタルで内省的なメロディーセンス、そして、ダブステップの分厚いサブベースと変則的なビート、UKドリルのグリッチの要素を散りばめ、完成度の高いポピュラーに仕上がっている。一方、ヒット・ソングを意識した曲を収録する中でも、個性的な側面が溢れ出ることがある。

 

 

「Gwara Gwara」は、サネリーらしさのある曲で、アフロハウス、Gqom、アマピアノといったサウンドの伝統性を受け継いでいる。しかし、トラックそのものは結構シリアスな感覚があるが、サネリーのユーモアがボーカルに巧みに反映され、聴いていてとても心地よさがある。そして渦巻くようなシンセリードを背景に、タイトルを歌うと、強烈なエナジーが放出される。曲の節々には南アフリカやダーバンのポップスの要素がふんだんに散りばめられている。さらにクラブミュージックとして最もハードコアな領域に達するのが、続く「Boom」である。アンセミックな響きは依然として維持されているが、アマピアノのアッパーな空気感と彼女自身のダウナーな感性が融合し、「フューチャー・ゲットゥー・ファンク」のもうひとつの真骨頂が出現する。

 

 

「Sweet & Savage」では、ドラムンベースが主体となっている。ブンブンうなるサブベースを背景に、南アフリカの流行ジャンルであるヒップホップと融合させる。現地の著名なDJは、アマピアノはもちろん、Gqomというジャンルがラップと相性が良いということを明らかにしているが、この点を踏まえて、サネリーは、それらをポストパンクの鋭い響きに昇華させる。また、この曲の中ではサネリーのポエトリーやスポークンワードの技法の巧みさを見いだせる。そして同時に、それはどこかの時代において掻き消された誰かの声の代わりとも言えるのかもしれない。ラップやスポークンワードの性質が最も色濃く現れるのが、続く「I Love People」である。ここでは、他の曲では控えめであったラッパーとしてのサネリーの姿を見出すことが出来る。おそらく南アフリカでは、女性がラップをするのは当たり前ではないのだろう。そのことを考えると、ムーンチャイルド・サネリーのヒップホップは重要な意義があり、そして真実味がある。もちろん、ダーバンには、ヒップホップをやりたくてもできない人も中にはいるのだろう。

 

 

多くの場合、自分たちがやっていることが、世界的には常識ではないということを忘れてしまうことがあるのではないだろうか。音楽をできるということは、少なくとも非常に贅沢なことなのであり、この世界には、それすらできない人々もたくさんいるのだ。ムーンチャイルド・サネリーの音楽は、常識が必ずしも当たり前ではないことを思い出させてくれる。サネリーにとっては、歌うこと、踊ること、詩をつくるときに、偉大な感謝や喜びという形で表面に立ち現れる。言っておきたいのは、表面的に現れるのは、最初ではなくて、最後ということである。


えてして、音楽の神”アポロン”は、そういった人に大きな収穫と恩恵を与える。それは音楽的な才覚という形かもしれないし、ラップが上手いということになるかもしれない。もしくは、良いメロディーを書くこと、楽器や歌が上手いということなのかもしれない。少なくとも、サネリーは、こういった慈愛の感覚を内側に秘めている。それがソングライターとしての最も重要な資質でもある。世界の人々は、経済に飢えているのではない。愛情に飢えている。そのことを考えると、サネリーのような存在がスターダムに引き上げられるとすれば、それは必然であろう。

 

久しぶりに音楽の素晴らしさに出会った。「Mintanami」である。私は、この曲はアルバムの中で一番素晴らしいと思い、そして、アーティストが最も今後大切にすべき一曲であると考えている。 この曲があったおかげで、このアルバムの全体的な評価が押し上げられたと言えるだろう。

 

 

 

95/100

 


 

Best Track 「Mintanami」

 

 

Moonchild Sanellyのニューアルバム「Full Moon」はTransgressiveより本日発売。ストリーミングはこちら

 Bibio 『Phantom Brickworks』(LP2)



Label: Warp

Release: 2024年11月22日

 


Review     

 


これまでフォークミュージックとエレクトロニックを結びつけた”フォークトロニカ”の作品『Sleep On The Wing』(2020)、チルアウト/チルウェイヴを中心にしたクールダウンのためのダンスミュージック『All This Love』(2024)、他にも、ギター/ボーカルトラックを中心にAORのような印象を持つポピュラーアルバム『BIB 10』など、近年、ジャンルや形式にとらわれない作品を多数輩出してきたBibio(スティーヴン・ジェイムス・ウィルキンソン)は、EDMと合わせてIDM(Intelligence Dance Music)を主体に制作してきたプロデューサーである。

 

実際的に他のヒップホップや近年のダンスミュージックを主体とするポピュラー/ロックでは、 生のギター等をリサンプリング(一度録音してから編集的に加工)する手法はもはや一般的になりつつあるが、Bibioは2010年頃からこの形式に率先して取り組んできた。当初、それはダンスフロア向けのディスコロックという形で表に現れることがあった。2011年頃のアルバムにはロック的な作風が顕著で、これはBibioが一般的なロック・ミュージックの流れを汲むことを印象付ける。少し作風が変化したのが、2013年頃で、当時、2000年代のグリッチ等のダンスミュージックと並行して台頭したmumに象徴付けられるフォークトロニカの作風に転じた。以降は、単一の作風にとらわれることなく、多作かつバラエティの幅広さを示してきた。

 

「Phantom Brickworks」は、Bibioによる連続的な作品で、散発的なライフワークとも称すべき作品である。当初はギターやピアノ等のコラージュ的なサウンドを主題にしていたが、今作ではアンビエント作品に転じている。ボーカル、ピアノ、シンセテクスチャーなどを用いて、王道のアンビエントが作り上げられる。先日、エイフェックス・ツインの『Ambient Works』が再編集盤として同レーベルから発売されたばかりだが、それに近い原始的なアンビエントの位置づけにある。しかし、例えば、エイフェックス・ツインの場合は、プリペイド・ピアノのような現代音楽の範疇にあるコンポジションが用いられたとしても、アーティスティックな表現に傾倒しすぎることはなく、一般的な商業音楽の性質が色濃かった。これは私見としては、このプロデューサーの作品自体が機械産業のような意味を持ち、一般的に親しめる音楽を重視していたのである。「アンチ・アート」と言えば語弊となるが、それに近い印象があり、アートという言葉に絡め取られるのを忌避していた。しかし、対象的に、Bibioの『Phantom Brickworks』は、ダンスミュージックのアートの要素を押し出している。クラブビートが非芸術的であるという一般的な観念を覆そうという興きを、このアルバムの制作には見出すことが出来るかもしれない。


スティーヴン・ウィルキンソンは、この作品の制作に際して、イギリスの各地を訪れ、かつては名所であった場所が衰退する様子を観察し、それらを音源として収録した。いわば、ウィルキンソンは時代と共に消えていく風景をその目で確認し、土地に偏在するエーテルのようなものを、時にはその名所が栄えた時代の人間的な息吹を、電子音楽として描写しようと試みている。


これは例えば、印象派の絵画等では一般的に用いられるが、ウィリアム・ターナーの系譜に位置づけられる描写音楽である。人間は一般的に、ある種の建築的な外壁、その場所に暮らす人々を見たとき、時代性や文化性を明確に発見する。でも、それとは対象的に、すでに朽ちた遺構物や廃墟等を目の前にしたとき、それが最も栄えた時代の圧倒的な感覚に打たれる瞬間がある。古代ローマの水道橋、カエサルの時代の遺跡、コロッセウムなどが、それに該当する。しかし、なぜ驚異なのかと言えば、我々の住む時代の建築よりも遥かにその時代の遺構物の方が本質的で魅力的であるからなのだ。そして、現代的に均一化された構造物に慣らされた感覚から見ると、いかに旧い時代の遺構物が圧倒的で創造的であるかに思い至るという次第なのである。

 

このアルバムの音楽は、人工的な廃墟、ないしは工業生産的にはなんの意味ももたない海岸沿いの侵食された地形、岸壁など、イギリスの海岸地域の固有の旧い美しい風景や、また、都市部から少し離れた場所にある田舎地方の奇妙な風景がサウンドスケープで描かれているようだ。アルバムの冒頭を飾る「Dinorwic」は、制作者がイギリスの土地で感じたであろう空気の流れが表現され、それを抽象音楽として描写したものと推測される。しかし、それは追体験のようなカタルシスをもたらすことがある。これは、実際的に高原や海岸のような開けた場所に行ったときに感じる精妙な感覚とリンクする。それは制作者の体験と利き手側の体験が一致し、実際的な体験が重なり、共有される瞬間を意味するのである。更に、「Dorothea’s Bed」では、ボーカルのリサンプリングを用い、アートポップに近いアンビエント/ドローンを提供している。米国西海岸のGrouper、あるいは、ベルギーのChristina Vanzouの系譜に位置づけられ、アンビエント/ドローンをオペラやボーカルアートの切り口から解釈した新鮮な雰囲気のトラックである。

 

10年以上にわたり洗練させてきた制作者の作曲における蓄積は、遊び心のある音楽として昇華されることもある。例えば、「Phantom Brickworks」は、フランスのサロン音楽をサンプリングとして落とし込み、フランス和声の革新者であり、アンビエントの始祖とも称されるエリック・サティが、モルマントルの「黒猫」で弾いていたサロン音楽とはかくなるものではなかったかと思わせるものがある。調律のずれたアンティーク風のピアノが断片的に散りばめられると、「Gymnopédies(ジムノペティ)」は現代的なテイストを持つパッチワークの音楽へと変化する。対象的に、「SURAM」ではエイフェックス・ツイン、Burialのように、ボーカルのサンプリングをビートやパーカッションの一貫として解釈し、コラージュ的にノイズを散りばめて、ベースメントのクラブビートに触発されたトラックに昇華している。2010年代のBig Appleを中心とするダブステップの原初的なコンポジションを用いているのに注目である。

 

田舎的な風景、都市的な風景を交互に混在させながら、アルバムの収録曲は続いていき、「Llyn Peris」では再び、田舎を思わせるオーガニックなアンビエントに回帰している。この曲では、例えば、Tumbled Seaといったアーティストが無償でドローン音楽を提供していた時期の作風を彷彿とさせる。ドローン音楽を2010年代前後に制作していたプロデューサーは商業的な製品ではなく、ヒーリング音楽のような形でインターネット上で前衛的な作品を無料で公開していたことがあった。ドローンは、近年、他のジャンルとの融合化が図られる中で、徐々に複雑化していった音楽であるが、それほど複雑なテクスチャーを組み合わせないでも、ドローンを制作出来ることは、この曲を聴いてみるとよくわかるはずである。「Llyn Peris」の場合、パンフルート系の簡素なシンセ音源をベースにして、反響的な音楽の要素を抽出している。

 

ウィリアム・バシンスキーの系譜にあるピアノのコラージュを用いた曲が続く。「Phantom BrickworlsⅢ」では、おそらく、ピアノのフレーズの断片を録音した後、テープリール等で逆再生を用いて編集を掛けたトラック。これらの作風はすでにウィリアム・バシンスキーがブルックリンに住み、人知れず活動していた80年代に確立された次世代のミュージック・コンクレートの技法であるが、ミニマル・ミュージックとコラージュ・サウンドの融合という現代的なレコーディングの手法が用いられているのに着目しておきたい。これらは、本来アートの領域で使用されるコラージュと音楽の録音技術が画期的に融合した瞬間であり、電子音楽が本来の機械工学の領域から芸術の領域へと転換しつつある段階を捉えることが出来るかもしれない。


コラージュ・サウンドの実験はその後も続き、「Tegid's Court」では、オペラのようなクラシカルの領域にある音楽と電子音楽を融合させる試みが行われている。ピアノの演奏をハープのように見立て、それに合わせてボーカルが歌われる美しい印象を持つコラール風の曲である。その後、再び、情景的な音楽が続く。「Brograve」、「Spider Bridge」の二曲では、バシンスキー、ギャヴィン・ブライアーズの音の抽象化、希薄化、断片化という音響学の側面からミニマルミュージックを組み直すべく試みている。アルバムのクローズ「Syceder MCMLⅩⅩⅩⅨ」では、逆再生を用いながら、遺構物に相対したときのようなミステリアスな感覚がたちあらわれる。

 

 

82/100

 

 

 「Dorothea’s Bed」

 


dj woahhausは東京をベースに、韓国、ベルリンのアンダーグラウンドシーンで活動するDJ、サウンドヴィジュアルアーティスト。本日、プロデューサーは新曲「@鳴家」をストリーミングで配信リリースした。

 

彼のサウンドは、本来、ダンスミュージックが地下に鳴り響くものというコンセプトを改めて思い出させてくれる。ダブステップ、フューチャーベースなどをクロスオーバーしながら、ひんやりとした質感を持つクラブテイストを提供する。そのサウンドはフライング・ロータスやデビュー当時のBurialを彷彿とさせるものがある。


本曲は都市の閉塞感と侘しさ、無機質の冷たい哀しみ、青年が追い求めるドラマと官能を描いた。テクノをベースにクラブオルタナティブ、スポークンワード、アンビエント・ノイズの要素を織り交ぜた、genre: woahhausを体現するニュー・オルタナティブクラブミュージック。ツンと張り詰めた空気の中、彼独自の言語である"鳴音"がコンクリート剥き出しの都市にこだまする。

 

近日中に、djwoahhaus自ら手掛けたミュージックビデオが公開予定。詳細は後日発表されるという。配信リンクは下記をチェック。

 

 

 

dj woahhaus  「@鳴家」- new single


 

配信リンク(Stream): https://linkco.re/xcNpEC6t

 

 

dj woahhaus

 

dj woahhausは東京を拠点に韓国やドイツなどのアンダーグラウンドシーンでグローバルに活動を展開するdj、オーディオ・ヴィジュアル・アーティストです。
 

国内外でのdjアクト・イベントのオーガナイズの他、東京を拠点にインディペンデントアーティストを支援することを目的に活動するコレクティブ、"Mana Online"の代表も務め、また香港コミュニティラジオのレジデントとして、マンスリーのmixシリーズをホストするなど、アンダーグラウンドクラブカルチャーに根ざした幅広い活動を行っています。


サウスカロライナ州チャールストンのアーティスト、 Contour (Khari Lucas)は、ラジオ、映画、ジャーナリズムなど、様々な分野で活躍するソングライター/コンポーザー/プロデューサー。


彼の現在の音楽活動は、ジャズ、ソウル、サイケ・ロックの中間に位置するが、彼は自分自身をあらゆる音楽分野の学生だと考えており、芸術家人生の中で可能な限り多くの音とテーマの領域をカバーする。彼の作品は、「自己探求、自己決定、愛とその反復、孤独、ブラック・カルチャー」といったテーマを探求している。


コンツアー(カリ・ルーカス)の画期的な新譜『Take Off From Mercy- テイク・オフ・フロム・マーシー』は、過去と現在、夜と昼、否定と穏やかな受容の旅の記録であり、落ち着きのない作品である。


カリ・ルーカスと共同エグゼクティブ・プロデューサーのオマリ・ジャズは、チャールストン、ポートランド、ニューヨーク、ロンドン、パリ、ジョージア、ロサンゼルス、ヒューストンの様々なスタジオで、Mndsgnやサラミ・ローズ・ジョー・ルイスら才能ある楽器奏者やプロデューサーたちとセッションを重ねながら、アルバムを制作した。


ジャンル的には、『Take Off From Mercy- テイク・オフ・フロム・マーシー』は、ギター・ドリブン・ミュージック、トロピカリア、ブルース、そしてヒップホップのありのままの正直さを融合させ、夜への長い一日の旅を鮮やかに描き出すことで、すでにコンターの唯一無二の声に層と複雑さを加えている。


メキシカン・サマーでのデビュー作となる本作では、2022年にリリースされた『オンワーズ!』のノワール的なサンプルやリリカルな歴史性を踏襲し、より歌謡曲的で斜に構えたパーソナルな作品に仕上げている。ルーカスにとって、これはギターを手に取ることを意味し、この動きはすぐに彼を南部のソングライターの長い系譜と形而上学的な会話に置くことになる。カリ・ルーカスは言う。「それはすぐに、旅する南部のブルースマンについて考えるきっかけになった」 彼にとってギターは旅の唯一の友であり、楽器は自分の物語を記録し、世代を超えた物語と伝統を継承する道具なのだ。このアルバムの語り手は放蕩息子であり、悪党の奸計の中をさまようことになる。



『Take Off From Mercy』/ Mexican  Summer   (94/100) 

 

  Yasmin Williams(ヤスミン・ウィリアムズ)をはじめ、最近、秀逸な黒人ギタリストが台頭していることは感の鋭いリスナーであればご承知だろう。Khari Lucas(カリ・ルーカス)もまたジャズのスケールを用い、ソウル、ヒップホップ、サイケロック、そして、エレクトロニックといった複数のフィールドをくまなく跋渉する。どこまで行ったのだろうか、それは実際のアルバムを聞いてみて確かめていただきたい。

 

シンガーソングライター、ルーカスにとっては、ラップもフォークもブルースも自分の好きな音楽でしかなく、ラベリングや限定性、一つのジャンルという括りにはおさまりきることはない。おそらく、彼にとっては、ブルース、R&B、エレクトロニック、テクノ、アンビエント、スポークンワード、サイケロック、それらがすべて「音楽表現の一貫」なのだろう。そして、カーリ・ルーカスは、彼自身の声という表現ーーボーカルからニュアンス、ラップーー様々な形式を通して、時には、フランク・オーシャンのような次世代のR&Bのスタイルから、ボン・アイヴァー、そしてジム・オルークのガスター・デル・ソルのようなアヴァン・フォーク、ケンドリック・ラマーのブラックミュージックの新しいスタイルに至るまで、漏れなく音楽的な表現の中に組みこもうと試みる。まだ、コンツアーにとって、音楽とはきわめて不明瞭な形態であることが、このアルバムを聴くと、よく分かるのではないだろうか。彼は少なくとも、「慈悲からの離陸」を通して、不確かな抽象表現の領域に踏み入れている。それはまるでルーカスの周囲を取り巻く、「不明瞭な世界に対する疑問を静かに投げかける」かのようである。


「静か」というのは、ボーカルに柔らかい印象があり、ルタロ・ジョーンズのようにささやきに近いものだからである。このアルバムの音楽は、新しいR&Bであり、また、未知の領域のフォークミュージックである。部分的にはブレイクビーツを散りばめたり、Yves Tumorの初期のような前衛的な形式が取り入れられることもあるが、基本的に彼の音楽性はもちろん、ラップやボーカル自体はほとんど昂じることはない。そして彼の音楽は派手さや脚色はなく、演出的な表現とは程遠く、質実剛健なのである。アコースティックギターを片手にし、吟遊詩人やジプシーのように歌をうたい、誰に投げかけるともしれない言葉を放つ。しかし、彼の音楽の歌詞は、世の一般的なアーティストのように具象的になることはほとんどない。それはおそらく、ルーカスさんが、言葉というのに、始めから「限界」を感じているからなのかもしれない。

 

言語はすべてを表しているように思えるが、その実、すべてを表したことはこれまでに一度もない。部分的な氷山の上に突き出た一角を見、多くの人は「言葉」というが、それは言葉の表層の部分を見ているに過ぎない。言葉の背後には発せられなかった言葉があり、行間やサブテクスト、意図的に省略された言葉も存在する。文章を読むときや会話を聞く時、書かれている言葉、喋られた言葉が全てと考えるのは愚の骨頂だろう。また、話される言葉がその人の言いたいことをすべて表していると考えるのも横暴だ。だから、はっきりとした脚色的な言葉には注意を払わないといけないし、だからこそ抽象領域のための音楽や絵という形式が存在するわけなのだ。

 

カリ・ルーカスの音楽は、上記のことをかなり分かりやすい形で体現している。コンツアーは、他のブラック・ミュージックのアーティストのように、音楽自体をアイデンティティの探求と看過しているのは事実かもしれないが、少なくとも、それにベッタリと寄りかかったりしない。彼自身の人生の泉から汲み出された複数の感情の層を取り巻くように、愛、孤独、寂しさ、悲しみといった感覚の出発から、遠心力をつけ、次の表現にたどり着き、最終的に誰もいない領域へ向かう。ジム・オルークのようにアヴァンな領域にあるジャズのスケールを吸収したギターの演奏は、空間に放たれて、言葉という魔法に触れるや否や、別の物質へと変化する。UKのスラウソン・マローンのように、ヒップホップを経過したエレクトロニックの急峰となる場合もある。


コンツアーの音楽は、「限定性の中で展開される非限定的な抽象音楽」を意味する。これは、「音楽が一つの枠組みの中にしか存在しえない」と思う人にとっては見当もつかないかもしれない。ヒップホップはヒップホップ、フォークはフォーク、ジャズはジャズ、音楽はそんな単純なものではないことは常識的である。


そして、音楽表現が本当の輝きを放つのは、「限定的な領域に収まりきらない箇所がある時」であり、最初の起点となるジャンルや表現から最も遠ざかった瞬間である。ところが、反面、全てが単一の領域から離れた場所に存在する時、全般的に鮮烈な印象は薄れる。いわば押さえつけられた表現が一挙に吹き出るように沸点を迎えたとき、音楽はその真価を発揮する。言い換えれば、一般的な表現の中に、ひとつか、ふたつ、異質な特異点が用意されているときである。

 

アルバムは15曲と相当な分量があるものの、他方、それほど時間の長さを感じさせることがない。トラック自体が端的であり、さっぱりしているのもあるが、音楽的な流れの緩やかさが切迫したものにならない。それは、フォーク、ブルースというコンツアーの音楽的な核心があるのに加え、ボサノヴァのサブジャンルであるトロピカリアというブラック・ミュージックのカルチャーを基にした音楽的な気風が、束の間の安らぎ、癒やしを作品全体に添えるからである。


アルバムの冒頭を飾る「If He Changed My Name」は、ジム・オルークが最初期に確立したアヴァンフォークを中心に展開され、不安定なスケール進行の曲線が描かれている。しかし、それ対するコンツアーのボーカルは、ボサノヴァの範疇にあり、ジョアン・ジルベルト、カルロス・ジョビンのように、粋なニュアンスで縁取られている。「粋」というのは、息があるから粋というのであり、生命体としての息吹が存在しえないものを粋ということは難しい。その点では、人生の息吹を吸収した音楽を、ルーカスはかなりソフトにアウトプットする。アコースティックギターの演奏はヤスミン・ウィリアムズのように巧みで、アルペジオを中心に組み立てられ、ジャズのスケールを基底にし、対旋律となる高音部は無調が組み込まれている。協和音と不協和音を複合させた多角的な旋法の使用が色彩的な音楽の印象をもたらす。 そしてコンツアーのボーカルは、ラテンの雰囲気に縁取られ、どことなく粋に歌をうたいこなすのである。

 

 一曲目はラテンの古典的な音楽で始まり、二曲目「Now We're Friends」はカリブの古典的なダブのベースラインをモチーフにして、同じようにトロビカリアの領域にある寛いだ歌が載せられる。これはブラックミュージックの硬化したイメージに柔らかい音楽のイメージを付与している。しかし、彼は概して懐古主義に陥ることなく、モダンなシカゴドリルやグリッチの要素をまぶし、現代的なグルーヴを作り出す。そしてボーカルは、ニュアンスとラップの間を揺れ動く。ラップをするというだけではなく、こまかなニュアンスで音程の変化や音程のうねりを作る。その後、サンプリングが導入され、女性ボーカル、アヴァンギャルドなノイズ、多角的なドラムビートというように、無尽蔵の音楽が堰を切ったかのように一挙に吹き出る。これらは単なる引用的なサンプリングにとどまらず、実際的な演奏を基に構成される「リサンプリング」も含まれている。これらのハチャメチャなサウンドは、音楽の未知の可能性を感じさせる。



さて、Lutalo(ルタロ・ジョーンズ)のように、フォークミュージックとヒップホップの融合によって始まるこのアルバムであるが、以降は、エレクトロニックやダンスミュージックの色合いが強まる。続く「Entry 10-4」は、イギリスのカリビアンのコミュニティから発生したラバーズロック、そして、アメリカでも2010年代に人気を博したダブステップ等を吸収し、それらをボサノヴァの範疇にある南米音楽のボーカルで包み込む。スネア、バスを中心とするディストーションを掛けたファジーなドラムテイクの作り込みも完璧であるが、何よりこの曲の気風を象徴付けているのは、トロピカリアの範疇にあるメロディアスなルーカスのボーカルと、そして全体的にユニゾンとしての旋律の補強の役割を担うシンセサイザーの演奏である。そして話が少しややこしくなるが、ギターはアンビエントのような抽象的な層を背景に形作り、この曲の全体的なイメージを決定付ける。さらに、音楽的な表現は曲の中で、さらに広がりを増していき、コーラスが入ると、Sampha(サンファ)のような英国のネオソウルに近づく場合もある。

 

その後、音楽性はラテンからジャズに接近する。「Waterword」、「re(turn)」はジャズとソウル、ボサノヴァとの融合を図る。特に、前者にはベースラインに聴きどころが用意されており、ボーカルとの見事なカウンターポイントを形成している。そしてトラック全体、ドラムのハイハットに非常に細かなディレイ処理を掛けながら、ビートを散らし、分散させながら、絶妙なトリップ的な感覚を生み出し、サイケデリックなテイストを添える。しかし、音楽全体は気品に満ちあふれている。ボーカルはニュアンスに近く、音程をあえてぼかしながら、ビンテージソウルのような温かな感覚を生み出す。トラックの制作についても細部まで配慮されている。後者の曲では、ドラムテイク(スネア)にフィルターを掛けたり、タムにダビングのディレイを掛けたりしながら、全体的なリズムを抽象化している。また、ドラムの演奏にシャッフルの要素を取り入れたり、エレクトリックピアノの演奏を折りまぜ、音楽の流れのようなものを巧みに表現している。その上で、ボーカルは悠々自適に広やかな感覚をもって歌われる。これらの二曲は、本作の音楽が全般的には感情の流れの延長線上にあることを伺わせる。

 

アルバムの中盤に収録されている「Mercy」は本当に素晴らしく、白眉の出来と言えるだろう。ヒップホップに依拠した曲であるが、エレクトロニックとして聴いてもきわめて刺激的である。この曲は例えばシカゴドリルのような2010年代のヒップホップを吸い込んでいるような印象が覚えたが、コンツアーの手にかかると、サイケ・ヒップホップの範疇にある素晴らしいトラックに昇華される。ここでは、南部のトラップの要素に中西部のラップのスタイルを添えて、独特な雰囲気を作り出す。これは「都会的な雰囲気を持つ南部」とも言うべき意外な側面である。そして複数のテイクを交え、ソウルやブルースに近いボーカルを披露している。この曲は、キラー・マイクが最新アルバムで表現したゴスペルの系譜とは異なる「ポスト・ゴスペル」、「ポスト・ブルース」とも称するべき南部的な表現性を体験出来る。つまり、本作がきわめて奥深いブラック・ミュージックの流れに与することを暗示するのである。

 

意外なスポークンワードで始まる「Ark of Bones」は、アルバムの冒頭部のように緩やかなトロピカリアとして流れていく。しかし、ピアノの演奏がこの曲に部分的にスタイリッシュな印象を及ぼしている。これは、フォーク、ジャズ、ネオソウルという領域で展開される新しい音楽の一つなのかもしれない。少なくとも、オルークのように巧みなギタープレイと霊妙なボーカル、コーラス、これらが渾然一体となり、得難いような音楽体験をリスナーに授けてくれるのは事実だろう。続いて、「Guitar Bains」も見事な一曲である。同じくボサやジャズのスケールと無調の要素を用いながら新しいフォークミュージックの形を確立している。しかし、聴いて美しい民謡の形式にとどまることなく、ダンス・ミュージックやEDMをセンスよく吸収し、フィルターを掛けたドラムが、独特なグルーヴをもたらす。ドラムンベース、ダブステップ、フューチャーステップを経た現代的なリズムの新鮮な息吹を、この曲に捉えることが出来るはずだ。


一般的なアーティストは、この後、二曲か三曲のメインディッシュの付け合せを用意し、終えるところ。そして、さも上客をもてなしたような、満足げな表情を浮かべるものである(実際そうなるだろうとばかり思っていた)しかし、驚くべきことに、コンツアーの音楽の本当の迫力が現れるのは、アルバムの終盤部である。実際に10曲目以降の音楽は、神がかりの領域に属するものもある。それは、JPEGMAFIA、ELUCIDのような前衛性とは対極にある静謐な音楽性によって繰り広げられる。コンツアーは、アルバムの前半部を通じて、独自の音楽形態を確立した上で、その後、より奥深い領域へと踏み込み、鮮烈な芸術性を発揮する。


 「The Earth Spins」、「Thersa」は、ラップそのもののクロスオーバー化を徹底的に洗練させ、ブラックミュージックの次世代への橋渡しとなるような楽曲である。ヒップホップがソウル、ファンク、エレクトロニックとの融合化を通過し、ワールドミュージックやジャズに近づき、そして、ヒーリングミュージックやアンビエント、メディエーションを通過し、いよいよまた次のステップに突入しつつあることを伺わせる。フランク・オーシャンの「Be Yourself」の系譜にある新しいR&B、ヒップホップは再び次のステップに入ったのだ。少なくとも、前者の曲では、センチメンタルで青春の雰囲気を込めた切ない次世代のヒップホップ、そして、後者の曲では、ローファイホップを吸収し、それらをジャズのメチエで表現するという従来にはなかった手法を確立している。特に、ジャズピアノの断片的なカットアップは、ケンドリック・ラマーのポスト的な音楽でもある。カーリ・ルーカスの場合は、それらの失われたコーラスグループのドゥワップの要素を、Warp Recordsの系譜にあるテクノやハウスと結びつけるのである。


特に、最近のヒップホップは、90、00年代のロンドン、マンチェスターのダンスミュージックを聴かないことには成立しえない。詳しくは、Warp、Ninja Tune,、XLといった同地のレーベル・カタログを参照していただきたい。そして、実際的に、現在のヒップホップは、イギリスのアーティストがアメリカの音楽を聴き、それとは対象的に、アメリカのアーティストがイギリスの音楽を聴くというグルーバル化により、洗練されていく時期に差し掛かったことは明らかで、地域性を越え、ブラックミュージックの一つの系譜として繋がっている部分がある。

 

もはや、ひとつの地域にいることは、必ずしもその土地の風土に縛り付けられることを意味しない。コンツアーの音楽は、何よりも、地域性を越えた国際性を表し、言ってみれば、ラップがバックストリートの表現形態を越え、概念的な音楽に変化しつつあることを証立てる。このことを象徴するかのように、彼の音楽は、物質的な表現性を離れ、単一の考えを乗り越え、離れた人やモノをネットワークで結びつける「偉大な力」を持ち始めるのである。そしてアルバムの最初では、一つの物質であったものが分離し、離れていたものが再び一つに還っていくような不思議なプロセスが示される。それは生命の根源のように神秘的であり、アートの本義を象徴付けるものである。

 

アルバムの終盤は、カニエ・ウェストの最初期のようなラフなヒップホップへと接近し、サイケソウルとエレクトロニック、そして部分的にオーケストラの要素を追加した「Gin Rummy」、ローファイからドリルへと移行する「Reflexion」、アヴァンフォークへと回帰する「Seasonal」というように、天才的な音楽の手法が披露され、90年代のNinja Tuneの録音作品のように、荒削りな質感が強調される。これらは、ヒップホップがカセットテープのリリースによって支えられてきたことへの敬意代わりでもある。きわめつけは、クローズ「For Ocean」において、ジャズ、ローファイ、ボサノヴァのクロスオーバーを図っている。メロウで甘美的なこの曲は、今作の最後を飾るのに相応しい。例えば、このレコードを聴いたブロンクスで活動していたオランダ系移民のDJの人々は、どのような感慨を覚えるのだろうか。たぶん、「ヒップホップはずいぶん遠い所まで来てしまったものだ」と、そんなふうに感じるに違いない。