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1.偉大なDJ  ジョン・ピールの軌跡

 

通称、ジョン・ピール、本名ロバート・パーカー・レイブンスクロフトは、1968年からBBCのRadi1番組内の「John Peel Session」というコーナーを担当してきたDJだ。 

 

John Peel

  

ジョン・ピールはイギリスのラジオパーソナリティの先駆者でもある。彼が2004年にペルーのクスコで没した後も、イギリスの熱烈な音楽ファンは数年もの間、最も偉大な英国人の48位に選ばれ、英国勲章も与えられている偉大な人物、ジョン・ピールの代役を熱心に探しつづけた、「どこから次のジョン・ピールは出てくる?」また、あるいは、「次のジョン・ピールは誰なのか?」と英国のコアな音楽ファンはピールの再来を待ち望み続けていた。英国の音楽ファンは素晴らしい音楽を提供してくれるマスターを探し続けていたのである。しかし、結果的に、音楽ファンは次なるジョン・ピールの出現を見送り、その再来を半ば諦めることになった。

 

ジョン・ピールと同じように、古い時代から「BBC Radio1」でパーソナリティを務めるイギリスの最初の女性DJ”アーニー・ナイチンゲール”がその後、彼の代役に抜擢され、この番組内のパーソナリティーを務めるようになった。けれども、このBBCラジオで最も古くからDJを務める人物であろうとも、ジョン・ピールの代わりを果たすことだけは非常に難しかった。その後、BBCは、ジョン・ピールの代わりはいない、ということを明言することになったわけである。


ジョン・ピールは、1968年から「BBC Radio 1」で放送されていた「John Peel Session」のパーソナリティを長年務めた人物である。英国で最も有名なラジオDJであり、日本のラジオ番組でDJを務める若き日のピーター・バラカンさんも、イギリスでジョン・ピールの番組を聴いていたそうである。

 

1970年代において、ジョン・ピールは、イギリスで最も偉大な音楽プロモーターだったともいえる。当時無名であったロンドンパンクバンドのレコードを次々に引っ張ってきて、実際、自身の番組「BBC Radio1」でオンエアし、無名のバンドを数多くオーバーグラウンドに押し上げていき、UKトップチャートに送り込んでみせた。とりわけ、The UndertonesやGang Of Fourといった今では世界的に名を知られるパンク・ロックバンドは、ジョン・ピールの番組「BBC Raiod1」内のオンエアなくしては、彼らの活躍もなかったと断言でき、つまり、1970年代のパンク、ポスト・パンクが一世を風靡することもなかった、といえるかもしれない。その後も、ザ・スミス、ブラー、といった大御所のロックバンドを公共ラジオ番組内で他のDJに先んじて紹介した。

 

勿論、晩年になっても、ジョン・ピールの影響力はとどまることを知らず、2000年代、その頃、サウスロンドンの海賊ラジオ局でしか流されていなかった「ダブステップ」をBBCで初めてオンエアし、このクラブミュージックムーブメントを後押しした。おそらく、ジョン・ピールという存在がなければ、英国の音楽が現代ほど世界的な影響力を持つことはありえなかったかもしれない、つまり、ピールは、名物DJとして膾炙されるにとどまらず、1960年代後半から現代にいたるまで長きに渡り、イギリスのポピュラー・ミュージックの歴史を支えてきた重要な人物である。

 

ジョン・ピールにまつわるエピソードは事欠かない。私生活での感染症といった私生活にまつわるものはこの際棚上げしておきたいが、おそらく、面白いエピソードを逐一紹介していけば、間違いなく浩瀚な書物が出来上がることだろう。(事実、グラスゴー、カレドニア大学の上級講師をつとめる、ケン・ガーナー氏がジョン・ピールの伝記「The Peel Sessions BBC Books、2007」を書き記している)

 

ジョン・ピールは、その私生活においても、常に、センセーショナルな話題を振りまく人物であったが、ラジオパーソナリティとしても最も過激な人物であった。音楽にまつわるセンセーショナルなエピソードの一例としては、ブライアン・イーノのレコードを勝手に逆回転して「BBC Radio1」で流し、車の中でその放送を聴いていたブライアン・イーノを驚愕させ、「これは私の作品だ。すぐさまジョン・ピールに電話をしなければならない!!」と言わしめたことがある。また、その他にも、BBCのプロデューサーからシングル盤は番組内で流さないように忠告されていたにもかかわらず、ジョン・ピールはセックス・ピストルズの「God Save The Queen」を番組内で流している。彼はこの楽曲が国内外にどのような影響を与えるのか熟知していたのだ。

 

しかし、そういったセンセーナルなDJとしての姿は、ラジオリスナーに強い印象を与えたであろうし、また彼の番組「peel sesshion」においてオンエアされる音楽を鮮明な記憶として残したろうことはさほど想像にかたくない。そして、他でもない、ジョン・ピールは1960年代のアメリカのサンフランシスコの最初期のサイケデリア、イギリス、リバプールのビートルズをはじめとするマージービート、その後は、キャプテン・ビーフハートやフランク・ザッパのようなコアな音楽通を唸らせるアーティスト、つまり、オーバーグラウンド、アンダーグラウンド双方のシーンを、リアルタイムで接してきた数少ない証人でもあり、そういった音楽的な見地から選び出されるディスクガイド、パーソナリティとしての語りというのは、どの音楽通もかなわないほどの的確さがあったと思われる。

 

 

2.DJとしてのキャリアの出発

 

 

最初、ジョン・ピールが、ディスクジョッキーとしてのキャリアをはじめたのは、1960年代の初頭であった。

 

まだその年代には、「DJという職業、つまり、ラジオの番組内で音楽を紹介する職業は一般的にはこの世に存在していなかった、少なくともイギリスには存在していなかった」と後になって、ジョン・ピールはこのように回想している。唯一、ヨーロッパのルクセンブルグのラジオ局では、ピート・マレー、アラン・フリーマン、デイヴィッド・ジェイコブといった人物がラジオパーソナリティを務めていたという。

 

ジョン・ピールは、父親と相談し、アメリカに渡り、最初、記者としての職を得、ジョン・F・ケネディーの暗殺事件を取材している。実際、ジョン・ピールは、ケネディ暗殺事件記事を書くため、何枚かの写真を撮影している。その後、テキサス、ダラスのラジオ局”KOMA”で、ラジオパーソナリティを務める。こうしてアメリカでビートルズを専門に宣伝するための専門家として最初のジョン・ピールの仕事は始まったのである。

 

リバプールの音楽に深い見識のあるイギリス人として彼の仕事は、テキサス州のダラスで開始された。ジョン・ピールは、フルタイムのラジオパーソナリティとして雇われ、1964年の終わり、カルフォルニアに移り、サンバーナディーノで、DJとしてラジオ局に18ヶ月間勤務した後、イギリスに帰国している。その頃、彼は、カルフォルニアのラジオにおいて、六時間、ラジオパーソナリティを務め、イギリスのポピュラー音楽を紹介していた。


当時のことを回想してピールは語る。

 

 

「私は六時間の与えられた番組内で、LPを含む、詐欺的な英国チャートを作成することで、どうにかやりくりしていた」

 

 

 

3.ロンドンの海賊ラジオ局からBBCのDJとして採用されるまで

 

 

ジョン・ピールは18ヶ月もの間、カルフォルニアのラジオ局で勤務した後、ロンドンに戻り、海賊局「ラジオ・ロンドン」のPerfumed Gardenのラジオパーソナリティを務めるようになる。 

 

当時、ジョン・ピールは、午前12時から午前2時まで、この番組を担当していた。この頃から、プロのDJとしての矜持を示そうと、後に伝説的なDJ名となる「ジョン・ピール」の称号を同僚のBIG Johnから与えられ、名乗るようになる。ピールは、ラジオ・ロンドンに在籍していた時代には、アメリカのサンフランシスコのサイケデリック音楽、プログレッシヴロックなどのバンドの音楽を中心に番組内で率先してオンエアしていた。

 

イギリスのラジオで、初めて、これらの音楽を公共の電波にのせてオンエアしたのが、他でもない、ジョン・ピールであった。このラジオ・ロンドン(UK RADIO)の番組内で、ジョン・ピールは他の同局につとめているラジオパーソナリティと異なる独自性を打ち出していた。とくに風変わりだったのは、番組内で広告も宣伝せず、ニュースや天気についてと一切報じることもなかったという。

 

ジョン・ピールは、当時、イギリスでそれなりにの人気を博していたこの海賊ラジオ局において、常に誰も知らないようなマニアックな音楽を担当する番組内で取り扱い、音楽についての番組を編成することに専心した。当時、イギリス国内でも全く知名度のなかった、サンフランシスコのサイケデリックロック、プログッシヴロックといったアヴァンギャルド音楽を紹介する合間に、アンダーグラウンドミュージックシーンにおける自分の考えやその関わり方について熱弁をふるっていた。このラジオ局Radio Londonは、数年後に閉鎖されるが、既に、この時代から彼はDJとしての地位をロンドンで確立しはじめており、多くのファンレターをもらう名物DJとしてイギリスの音楽ファンに親しまれるようになっていた。


ジョン・ピールは、ラジオ・ロンドンが閉鎖されてからというもの、新たな「ラジオDJ」としての仕事を探していた。彼は、自分をラジオパーソナリティとして採用してもらいたいという旨を記した手紙をBBC に送っていたことをすっかり忘れていたが、のちに同僚に実物の手紙を目の前に突きつれられたことにより、その事実を渋々ながら認めざるを得なくなった。ともあれ、ジョン・ピールが非常に幸運であったのは、BBC放送もこの頃、「BBC Radio 1」というポピュラー音楽を中心に紹介するラジオ番組を立ち上げており、その番組を担当する個性的なDJ、音楽について最も詳しい人物を探していた。そこで、BBC放送は、既にDJとしてロンドンでコアな人気を獲得し始めていたジョン・ピールといういかにもいかがわしげな人物に、白羽の矢を立てたということなのである。

 

当時、BBC放送が、この人物を自局の名物番組「BBC Radio 1」で放送されるトップギアというプログラムのゲストDJとして、正式に採用する際にも、局内で意見が真っ二つに分かれていた、いや、それどころか、ジョン・ピールという後のBBCのラジオDJとして最も有名な存在となる人物の採用に関しては、当初は多くの関係者が大きな疑義を示していたという。ラジオ局DJとしての実績は疑いを入れる余地は全くなかったものの、それ以前の海賊ラジオ局での勤務経験、あるいは、その毛深い風貌に対して多くの関係者が拒絶を示していた。

 

John Peel Sessionの伝記「The Peel Sessions BBC Books、2007」を記したグラスゴー大学のカレドニア大学の講師、ケンガーナー氏は、この当時のことについて、以下のように述べている。

 

 

1967年10月1日日曜日に放送される「Radio 1」による放送の二日目の午後にトップギアを共催する「ゲストDJ」として最初に登場した男をBBCの誰もが採用したいとは思わなかった。     

    

 

BBC.com  グラスゴー大学のカレドニア大学の講師、ケン・ガーナー氏

 

 

さらにケン・ ガーナー氏はBBCの記事内でこのように続けている。「ウィラル出身の毛深い、恥ずかしがり屋の公立学校で教育を受けた27歳の海賊局のDJ、ジョン・ピールがこのラジオ番組のパーソナリティーとして長く生き残るであろうとは当時誰もが信じていなかった」と。これは一見、かなり辛辣な書きぶりのように思える、イギリスで最も有名なDJとして名を馳せるジョン・ピールに捧げられたウィットにとんだ逆説的賛辞に過ぎないように思われる。

 

また、ジョン・ピールはラジオDJとしての地位を確立した後に数多くの放送賞を与えられている人物でもあるが、彼がラジオロンドンでおこなっていたラジオ番組の構成、ポピュラー音楽の紹介する手法は、当時としては信じがたいほど画期的なものであったらしく、その点がBBC放送関係者にとってきわめて難しい印象を与えていた様子である。しかし、BBC放送内には少なくとも、3人の支持者がいた。とくに、BBC Radio 1の番組「トップギア」のプロデューサーを務めるバーニー・アンドリュースはジョン・ピールのことを高く買っており、BBC局内の中間管理職の人物が「ジョン・ピールを採用しないように」という通告を行っていたにもかかわらず、その忠告を無視し、ジョン・ピールをゲストDJとして「トップギアの顔」に抜擢した。

 

当時としては、蛮行に思えなくもないラジオ番組プロデューサー、バーニー・アンドリュースの勇気ある選択は、ジョン・ピールの音楽の目利きとしての才覚を信じたがゆえに行われ、そして、のちの1970年代から2004年にかけての英国のポピュラー、ロック音楽の潮流を変えた瞬間といえる。また、ジョン・ピールの採用を後押ししたもうひとりの人物、アンドリュースの女性秘書シャーリー・ジョーンズも同じように、ジョン・ピールを気に入っており、BBC Radio 1,2のメインプロデューサーを務めるロビン・スコットとの関係を仲介したことにより、アンドリュースとピールが番組内で良いコンビネーションを築き上げられるように取り計らった。こうして、「BBC Radio 1」に初めてロック音楽を紹介するコーナー「トップギア」が立ち上がった。

 

 

4.DJとしての地位の確立



こうして、ジョン・ピールはイギリスの国営放送BBCの「Radio 1」の番組パーソナリティとしての仕事が始まる。

 

ジョン・ピールは海賊局ラジオ・ロンドン時代に培った経験を元に、誰もラジオで流したことのない前衛性の高い音楽を放送することになった。

 

しかし、のちのインタビューにおいて、BBCの番組ではやはり以前のラジオ・ロンドン時代のPerfumed Gardenという冠番組を担当していた時代より遥かに制約が多かったのも事実である。

 

ラジオ番組内で放送される楽曲の構成については、アンドリュースが半分、そしてピールが半分受け持っていたが、ラジオ・ロンドン時代のように五、六分以上の楽曲は時間の制約があるためにオンエアすることが出来なかった。

 

彼が番組内で流せるのはその大凡が3分の楽曲であった。しかし、その制約の中でも、ジョン・ピールは、比類なき音楽フリークとしての慧眼を発揮し、明らかに他のラジオ番組のパーソナリティとは一味違ったアーティストの楽曲をオンエアしていた。番組を受け持った当初は、サイケデリック・ロック、フォーク、ブルースといた比較的ポピュラーなジャンルが中心であったが、名うてのディスクジョッキー、ジョン・ピールがこれらの音楽のオンエアだけで満足するはずもなかった。

 

その後、ジョン・ピールは、一般的に知られていなかった個性的な新人ミュージシャンのLP盤を、BBCの番組で率先してオンエアしていった。ピールが担当したBBC Radio 1からデビューし、スターダムに押し上げられていったロックバンドは数しれない。

 

ジミ・ヘンドリックスの代表曲「パープル・ヘイズ」を初めて公共の電波に乗せてオンエア、のちにジョン・ピールと深い信頼関係を築いたマーク・ボラン擁するT-REXのデビュー、そして、キャプテン・ビーフハート、フランク・ザッパの名作群。かいているだけで目のくらむような魅力的かつ刺激的な音楽を彼は流し続けた。そして、何といっても、ジョン・ピールの最大の功績は、デビッド・ボウイを発掘したことにある。これらのサイケデリックロックやグラム・ロックの有名アーティストたちは、他でもないジョン・ピールがDJを務めるBBC Radio1の番組で楽曲がオンエアされたことにより、認知度を挙げていったバンドであった。もちろん、ジョン・ピールが紹介していたのは、何も英国内のロックバンドだけではない、番組内ではVelvet Undergroundやデビュー当時のラモーンズの楽曲をBBC Radio1の番組の中で紹介している。

 

またこの年代の後にはデビュー前のアーティストをBBCのスタジオに呼んで生演奏ライブをラジオ内でオンエアしていくようになる。例えば、1972年のロキシー・ミュージックのデビュー作が発表される前、ロキシー・ミュージックはデビュー作を演奏したことでもしられている。

 

次第にジョン・ピールの番組にはデビュー前の刺激的なアーティストが数多く登場し、徐々に音楽プロデューサーの役割を兼任するようになっていく。事実、ピールは、この時代に長期休暇から家に帰宅すると、数多くのアーティストから直々に送られてきたLPレコードが彼の自宅に届くようになっていった。

 

その後、1970年代の中盤に差し掛かると、ご存知の通り、ロンドンパンクムーブメントが到来する。上述したように、ジョン・ピールは、このオールドスクールパンク、その後に続くポスト・パンク、ニューウェイヴのジャンルにのめり込んで、鼻息を荒くしていたように思われる。特に、革ジャンに破れたTシャツを安全ピンで止め、カラフルな髪を逆立てたとびきり風変わりな四人組、セックス・ピストルズがブティックセックスのオーナであったマルコム・マクラーレンの後押しを受けてロンドンに出現した際に、このバンドの音楽をきわめて高く買っている。

 

ロンドンの最も刺激的なブティック「セックス」に出入りしていた若者、ジョニー・ロットンを中心に結成されたセックス・ピストルズの四人組は、デビュー当時、EPやシングルを引っさげてロンドンのシーン登場し、その後、EMIと契約を結び、歴史的名作「Never Mind The Bollocks」をリリースし、パンクロックシーンを象徴する存在となるが、このロックバンドがシングルをリリースするやいなや、BBCの上層部にシングルをかけるのはやめてほしいといわれているのにもかかわらず、ジョン・ピールはその禁を犯し、1970年代のイギリスのミュージックシーンで最も刺激的な一曲「God Save The Queen」をBBCのRadio 1で、4回もオンエアしてしまったのである。言うまでもなく、このロンドン・パンクスたちをメジャーレーベルEMIとの契約へと導いたのは、間違いなくジョン・ピールであることに疑いを入れる余地はない。しかも、この1970年の時代、放送禁止寸前の楽曲群をあろうことか、公共のラジオ電波、しかもBBC Radioに乗せて放送するということが、どれだけ勇気のいることであったのかは、現代の我々の感覚から見るとまったく想像も出来ないほどのなのである。


その後、最初のオリジナルパンクムーブメントが終焉を告げて、ニューウェイブの時代に差し掛かっても、ジョン・ピールは、ギャング・オブ・フォーをはじめとする刺激的なパンク・ロックバンドを発掘していく。

 

特に、ジョン・ピールは、北アイルランドのThe Undertonesの「Teeneage Kicks」にのめり込んでおり、自身の番組内で猛烈にプッシュした。そのかいあって、この北アイルランドの十代のメンバーで形成されるパンクロック・バンドは異例の大出世を果たし、UKチャートで31位を獲得して健闘、世界的なパンクロックバンドの仲間入りを果たしている。その後も、ラフ・トレードから彗星の如く登場したブリットポップのロックバンドを率先して番組内で取り扱い、ザ・スミス、ジョイ・ディビジョン、といったイギリスきってのロックスターがジョン・ピールの番組から誕生していく。

 

この時代からすでにジョン・ピールは、英国全土に最も有名なディスクジョッキーとしての名をはせるようになる。

 

その後、彼はテレビ番組のスモール・フェイセズのライブでユニークにバンジョーを演奏しながら登場したり、「トップ・オブ・ザ・ポップ」という番組のプレゼンターとしても活躍するようになる他、BBCの番組の基本的なナレーションの解説を務めた他にも、「ホーム・トゥルース」ショーでBBC Radio4の番組も受け持つようになり、1980年代にかけて、押しも押されぬ名物タレントの座に上り詰めた。ユニークなキャラクターの名物DJあるいはテレビ司会者として英国の音楽ファン、一般市民にとどまらず、ヨーロッパの人々にも親しまれていくようになった。

 

 

 

5.Peel Sessionから晩年まで

 

 

この年代の後、正確には、1992年から、彼の最も代表的な番組「John Peel Session」の放送が始まった。彼が十二年間、番組のスタジオセッションに招待したバンドは2000以上にも及び、ピールセッションとしてリリースされた音源は、驚くべきことになんと4000以上にも及んでいる。

 

BBCの歴代において名物番組のひとつである「John Peel Session」には後の世界的なブレイクを果たすロックバンドが英国だけではなく、海外から招待され、スタジオ内での無償のセッションが行われた。

 

ライブセッションの録音テープが当日にミキシング、及びリマスタリングされて放送される番組で、ラフなリミックスがほどこされており、いかにも生ライブの魅力がにじみ出ていて、ロックファンからは伝説的なライブラリー音源として見なされている。

 

もちろん、言うまでもなく、ジョン・ピールは、1990年代のイギリスのブリット・ポップの台頭を1990年代の終わりまで間近で見届けつづけていた数少ない人物である。かのブラーも、オアシスも、そして、ニルヴァーナ、PJ Harveyといったスターたちは、みなこのジョン・ピールセッションを通じて世界的な知名度を獲得するにいたった。さらにジョン・ピールの慧眼が凄まじいのは、シアトルのグランジだけではなく、コデインをはじめとする、アングラのスロウコア勢にも注がれていたことだろう。

 

その後、ジョン・ピールは様々なDJとしての偉大な功績が讃えられ、数多くの放送賞、大英帝国勲章を与えられている。彼の手掛ける番組は、その後、BBCワールドサービスで放送されるようになった。2000年代には、かつて自分が海賊ラジオ局のパーソナリティーを務めていた1960年代の時代の境遇とオーバーラップするかのように、「ダブステップ」というサウスロンドン発祥のフロア向けのコアな音楽ジャンルを番組内で紹介し、このジャンルのムーブメントを後押しし、イギリス国内だけではなくアメリカにもダブステップブームを巻き起こした。晩年まで、ラジオ業界、そして音楽業界に大きな影響を与え続けてきた人物にこれ以上の称賛はいらないだろう。

 

絶えず音楽、そして、サッカークラブの名門リバプールFCを愛し、そして、多くの人々に愛されたBBC最高峰の名物DJジョン・ピールは、その最晩年において、自分の死期を悟ってのことか、かつて自分が最も愛した北アイルランドのパンクロックバンド、The Undertonesの「Teenage Kicks」の歌詞の一説をみずからの墓石に刻んでほしいという言葉を生前に残していたようである。正確には、2004年の10月28日、彼は、ワーキングホリデーの最中、ペルーに旅行に出かけていた。その旅先での心臓発作による死去であった。享年六十五歳。彼が、この世から多くの人々に惜しまれつつ去っていった日のイギリス国内の驚愕というのはどのようなものであったのだろう?

 

少なくとも、その10月28日当日、BBCはRadio 1の放送予定スケジュールを変更し、一日をかけてジョン・ピールに対する深い賛辞を惜しまなかった。


追悼番組内では、ジョン・ピールが最も愛した「Teenage Kicks」が最後にオンエアされ、彼の四十年以上ものラジオDJとしての生涯は幕を閉じた。ジョン・ピールの葬儀の参列には数多くの音楽関係者が参列した。ジョン・ピールの墓石には、「Teenage Kicks」の歌詞の一説が刻まれている。

 

 

*  John Peel Sessionの全カタログについては、有志のbloggerの方が一覧を掲載してくださっています。気になる方はぜひ参考にしてみて下さい。

 

https://davestrickson.blogspot.com/2020/05/john-peel-sessions.html


 

References


BBC.com


https://www.bbc.com/historyofthebbc/100-voices/radio-reinvented/the-dj/john-peel


Radio Fedelity


 https://radiofidelity.com/the-story-of-john-peel/


redbull music academy


interview:John Peel


https://daily.redbullmusicacademy.com/2016/12/john-peel-interview



 

 


 

Superstarは、STAN SMITHと並んで、アディダスブランドの看板モデルともいうべき代名詞的なシューズとして知られる。


シンプルなデザイン、三本のストライプというシンプルかつシンボリックなデザインで、今もスポーツシューズとして根強い人気を誇り、アディダスブランドの看板ともいうべき普遍的なモデルである。Superstarというモデルは、スポーツウェア、ストリート、カジュアル、如何なるスタイルにも馴染み、ファッションの中に気軽に取り入れられる利点がある。一切の無駄を削ぎ落としたシンプルなデザイン性、足の形を選ばず、フィットしやすいという点では、スニーカーの代表格と称することが出来るはずだ。

 

このスーパースターは、アディダスというブランドの知名度の普及に大きな貢献を果たしたモデルには違いない。1969年に、バスケットシューズ、いわゆるバッシュとして発売されたモデルである。ラバーのトゥーキャップをプロテクターとして採用することで、靴業界に旋風を巻き起こした。

 

1970年代には、アメリカのNBAの選手が挙って、スーパースターを着用して魅力的なプレーを行った。シンプルなデザイン性はもとより、軽量で動きやすく、何より、見栄えのするこのスーパースターは、コンバースと共に、大人気のバスケットボールシューズブランドとして認知されるようになる。特に、伝説的なNBAのセンタープレイヤーで史上最強の選手と称される、カリーム・アブドゥル・ジャバーがこのスーパースターを履いてプレーを行い、ブランドの知名度を高めた。

 

そして、同時期、このアディダスのスーパースターは、スポーツウェアからストリートファッションの中に組み込まれていくようになる。このスーパースターを若者のファッションとして最初に流行させたのは、NYブロンクス出身のオールドスクールヒップホップのカリスマであり、エアロスミスとの「Walk This Way」のコラボレーションで有名なRun-DMCをさしおいてほかは考えづらい。 

 

 

 

ニューヨークでディスコムーブメントが過ぎ去り、ダンスフロアのミラーボールが廃れかけた頃に、ヒップホップは彗星の如く現れた。特に、この1970年代のNYで、貧しい黒人の若者たちのクライムに向かう暗く淀んだパワーを、それとは真逆、音楽という、前向きで明るく、建設的な方向に転換させた。NYブロンクスを中心に発展した原初のヒップホップムーブメントの最中、Run-DMCは、最初期のオールドスクール・ヒップホップのシーンが形成される際のきわめて貴重な数少ない体験者でもある。彼らは、見事に、その文化性を、音楽、ファッションという形で世界に発信していくことに成功したアイコンと称するべきスター。 実のところ、Run-DMCの面々は、パンクロックのラモーンズと同じく、ニューヨーク、クイーンズ出身であり、どちらかといえば、中産階級の生活圏内にある若者たちだったはずだが、その最初のヒップホップの内核にあるハードコア精神を受け継ぐ重要なミュージシャンであり、ブロンクスのコアな音楽性または文化性をポピュラー音楽として普及させた偉大な貢献者である。

 

オールドスクール・ヒップホップもまた、パンク・ロックと同じような発生の仕方をしたムーブメントである。その音楽の源流には同じく、DIY、つまり、言葉はふさわしいかどうかわからないが、君たちのちからでやれという重要な精神が宿っているのである。1973年頃から、このブロンクス地区では、驚くべきことに、ストリートの電灯から電源や電気をことわりもなしに引いてきて、それをPA機器に接続し、バカでかい音量でサウンドをかき鳴らすところから始まった違法的なムーブメントである。

 

いくつかの疑問は残るものの、この寛容性によって文化が育まれた。抑制、禁止、束縛、もちろん、そこからは何も生まれでない。はたから見てみれば、どこからともなく集まってきて実に楽しそうに音を鳴らしている連中に口出しできなかったというのが実情といえるだろう。そして、このブロンクス地域の公園で開かれる「ブロックパーティー」という催しの際に、ジャマイカ出身、DJクール・ハークがPA機器を持ち込んで、最初にジャムセッションを行ったのがこのオールドスクール・ヒップホップの出発である。

 

 

その後、他の黒人の若者たちも、この公園に自前のテープレコーダーのような録音機器を持ち込んで、この公園で流れている音楽を録音し、それを自身のトラックメイクに繋げていった。ギターやドラムセットのような高価な楽器を買ったり、スタジオ設備のようなレコーディング機械を必要としない、テープレコーダーとマイクがあれば、貧しくても、音楽が生み出せる。つまり、最初期のDJたちは、ダブ的な多重録音の手法を行うことにより、ヒップホップは確固たる「音楽」としての形になっていくようになる。


この音楽を最初に商業面で成功させ、知名度の面で世界的に普及させたのがこのブロンクスの公園でのムーブメントを間近で見ていたRUN-DMCであった。この1970年代のニューヨークでは、ウォール街やブロードウェイのような表向きの文化性の背後に、バックストリートカルチャー、パンク・ロック、それから、ヒップホップという相反する側面を持つカウンターカルチャーが現れたのはあながち偶然であるとは言えない。表側のウォール街、ブロードウェイに代表されるメインストリートの資本主義のエネルギー、そして、その背後の世界にうごめくバックストリートの生々しい人々のうねるようなエネルギーが微妙なせめぎあいを続けながら、この当時、1970年代から80年代にかけてのニューヨークには、流動的な社会が形作られていたように思える。

 

表側から見えないバックストリートにも、人間は確かに息づいており、そして、そこに暮らす黒人の若者たちは、表側のメインストリートの概念、価値観を初っ端から信用しちゃいなかった。だからこそ、というべきか、ブロンクスの黒人の若者たちは、ヒップホップを始めとする、独自の若者文化を形作していく必要に駆られたといえるのである。自分たちの人間としての権利が決して消滅してしまわないようにするため、彼らは、独自の引用の音楽を、DIYスタイルで始める必要があった。そして、この最初のブロンクス地区のムーブメントの渦中にいたRUN-DMCも、メインストリートの概念には対し、強い反証を唱えるべく登場した3人の若者たちであったように思える。

 

ジョセフ・シモンズ、ダリル・マクダニエルズ、マスター・ジェイ。彼らは誰にでも理解しやすい音楽性を生み出しただけではなく、ファッションの側面においても多くの人を惹きつけるだけのカリスマ性を持っていた。特に、彼らは同クイーンズ出身のラモーンズのように、バンド名を自身のステージネームとし、3人揃って同系統のファッションで統一することにより、ヒップホップのキャラクター性をより一般的にも理解しやすくした。もちろん、これというのは前の時代のブロンクスの最初期のヒップホップアーティストたちから引き継がれた重要なファッションスタイルでもあるが、彼らはその頃、NBAで取り入れられていadidasファッションをクールに、スタイリッシュに、取り入れることに成功したところが他のアーティストとは異なる。

 

黒いポーラーハット、3本のストライプの入ったアディダスのジャージ、それにだぼだぼのワイドパンツを併せ、それに彼らはadidasのスーパースターを紐なしでクールに履きこなした。

 

これはRUN-DMCのロゴと共に彼らの代名詞的なスタイルとなった。後には、RUN-DMCのライブでは、メンバーのスーパースターを見せてくれという呼びかけに観客が答えてみせ、何千、何万という数のスーパースターが掲げられたことは、彼らのスターミュージシャンとしてのほんのサイドストーリー、いわば、飾り噺の一つでしかない。また、RUN-DMCは、adidas公認のアーティストでもあるのをご存知の方は多いはず。後には、RUN-DMCモデルも発売されていることも付け加えて置く必要がある。




 

同年代のNBA文化を時代のトレンドに則して、本来はスポーツウェアであったものを、実に巧みにヒップホップファッションに取り入れてみせたRUN-DMCのファッションスタイルはあまりにも画期的であったといえる。

 

今やオールドスクールと呼ばれるようになってはいるものの、それは本当にオールドといえるのだろうか?

 

いや、そうではない。この三人組の確立したクールなファッション性は普遍性が宿っているようにおもえる。 それは、ヒップホップのキャラクター性という形で今もなおカニエ・ウェストらをはじめとする現代のヒップホップアーティストに引き継がれている重要な概念でもあるのだろう。


 

References:


ヒップホップカルチャーに愛されるadidas


https://jasonrodman.tokyo/adidas-hiphop/


まさにスーパースター! RUN DMCを聴いてadidasを履こう!


https://shoeremake.site/archives/615 


RUN DMCは何が画期的だったのか?


 http://suniken.com/feature/run-dmc-and-old-school-hip-hop-and-my-adidas.html


 

 

今回、たまには、真の意味で味わい深い食の情報を伝えていきたいと思う。さて、クリスマスまで既にあと一ヶ月半という所まで来たが、このクリスマスを代表する洋菓子といえば、やはりショートケーキということになるだろう。

 

11月から、クリスマスケーキ商戦がはじまり、街なか、もしくは駅ナカは、ショートケーキの予約をはじめ、これからさらに騒がしくなっていくものとおもわれるが、もうひとつ、クリスマスを代表する伝統的な洋菓子があるのをご存知だろうか?

 

昨年にはイギリスのエリザベス女王にドイツのパン屋がこの洋菓子をとくべつにプレゼントしたことでも有名なパン。それが、ドイツのドレスデン地方で生産が盛んな「クリスマス・シュトーレン」というパンである。

 

この甘〜いパンは、ドイツでは、キリストの降誕祭がおこなわれる期間、すこしずつパンナイフで切りながら少しずつ食べていくのが往古からの風習のようである。ドイツドレスデン地方には、シュトーレンフェスティヴァルというお祭りもあるらしく、この洋菓子の生産がきわめて盛んだ。

 

語弊があるかもしれないが、このパンというのは、ドレスデン地方に古くから伝わる保存色の一種のように思え、常温保存では一週間かそこらしか保存がきかないけれども、冷凍すれば、一ヶ月近く長期間保存が効くので、ドイツのドレスデンの人たちは、古くは、これを氷室などで冷凍しながら、クリスマスから年明けの期間にかけて、ちょっとずつパンナイフで切り分けてゆっくり食べていったのだろうと思われる。栄養学の観点からみても、粉砂糖がたっぷりとまぶしてあるため、糖分は過剰であるものの、実際の食べごたえに比べると、カロリーは充分に摂取出来る。おそらく、日本でいうところの「お餅」のような保存色のような食べ物としてドイツのドレスデンでは、14世紀くらいから親しまれてきた。

 

このクリスマス・シュトーレンというパン。最近は、結構、ケーキ屋やパン屋で取り扱いがあるのを見かけるようになった。おそらく、大きめのお店なら、クリスマスシーズンになればお買い求めいただけるだろうと思う。まるまる一斤のシュトーレンの価格の相場は、おおよそ二千円弱だろうと思われる。もちろん、だいたいのところは半分に切って販売されている場合も多い。そして、私は、実は、昨年、近所のスーパーマーケットで、小麦粉、薄力粉、ラム酒、粉砂糖、アーモンド、レーズン、ナッツを買ってきて、クックパッドのレシピの手順を参照しながら簡単にこの洋菓子を自作してみたことがあった。正真正銘の「DIYクッキング」である。それも、これも、このシュトーレンという洋菓子を、心ゆくまで味わい尽くしたいという欲求に駆られたからこのような慣れないことをやったのである。所要時間はおよそ一時間くらい、本格派のクリスマスシュトーレンを作るためには、トーストでじっくりたっぷり時間を掛けて焼き上げる必要があるが、それほどの本気度もなかったので、フライパンにアルミホイルを被せて、蒸し焼きのようにして、二十分くらいかけてじっくり弱火で熱を入れていった。

 

結果、出来上がったのは、残念なクリスマスシュトーレン。やわらかいパンケーキに近い出来栄えとなり、この洋菓子の醍醐味であるカリカリッとした食感が完全に失われた。これは、小麦粉を捏ね上げる過程で、捏ね上げ方が少し足りなくて、充分な硬さがつかなかった。しかし、それでも、工程通りに作ったからか、味としてはまずまずだった。このシュトーレンの作り方は、大きめのボウルなどで小麦粉、薄力粉等を練り合わせたのち、その中に、レーズン、アーモンド、ナッツ等を入れてこの生地をさらに捏ねに捏ね上げ、半円状にちかい形状に捏ね、最後の仕上げに、ラム酒をさっとヘラなどで塗り、パンの上からたっぷり粉砂糖をまぶす。粉砂糖をまぶせばまぶすほど、パンの上に粉雪が降り積もったように見える芸術的な作品となる。実際の食感については、一般的なショートケーキほど口当たりが重くなく、ちょっとした洋菓子のような感覚で食べれる甘いフルーツパン。もちろん食べすぎはご法度、糖分の過剰摂取となるのでご注意。

 

このクリスマスシュトーレンの生産は、ドイツのドレスデンがメッカである。その歴史も相当古い伝統的なパンであり、乳製品のバターの使用が禁止されていた1329年に一般的な発祥は求められる。「Stollen」というのは、ドイツ語で「坑道」「トンネル」を意味し、パンの形状がトンネルに見えたからこの呼称が与えられたものと思われる。シュトーレンの起源はなんでも、ドイツの司教がスポンサーとなって開催したパンのコンテストで、このシュトーレンが製作されたのが史実としての始まりと言われる。

 

シュトーレンについての最初の記述は、1474年頃、聖バーソロミュー病院の請求書に、このシュトーレンの名が記載されている。 当時、ドイツ、カトリックの教区内では、キリストの降誕を待ち望むアドベント期間は断食が行われており、また、糧食の材料の緊縮が行われ、希少品、贅沢品であったバター製品の使用が厳格に禁じられていた。ケーキ等を作る際、バターの使用は甘みを加えるのに不可欠であるが、このため、当時のドイツのパン屋は油の使用しか許されず、味気ないケーキしか作ることが出来ずにいたのである。このため、便宜上、さらに甘味のあるパンを作るため、アイディアを絞って作られたのが、シュトーレンというクリスマスのパンだったようである。

 

この状況を打開するべく、サクソン人の選帝候エルンスト王子と兄弟であるアルブレヒト公爵は、教皇ニコラウス5世に書簡を送り、サクソン人のパン職人がバターを使用することが出来るように許可を下してもらいたいという旨を記した要望を伝える。しかし、ニコラウス5世はこの要請を拒否し、使用許可が降りるまでには、長い月日を要している。1490年になって教皇勅書が出され、バターの使用が公式に認められることとなった。

 

以来、シュトーレンは、クリスマスのお祭りのごちそうとして親しまれるようになる。1530年には「Christms Stollen」と正式に呼ばれるように至り、クリスマス、とりわけ、アドベント期間のお祝いと深い関係を持つようになる。1560年頃になると、ドレスデンのパン職人の間で、ザクセン州の皇帝に毎年クリスマスにシュトーレンを贈るという風習が確立される。また、同時期から大掛かりな巨大シュトーレンが作られるようになり、八人のマイスターが18キログラムものパンをパレードの後に宮殿に寄贈する伝統が確立されていく。さらに、これよりも大きなシュトーレンも作られるようになり、1730年、アウグスト2世、ザクセン選帝候、ポーランド国王、リトアニア大公から委託されたクリスマスシュトーレンは、100人のパン職人が集って製作され、3600個もの卵、326個の牛乳、それに、2千種もの小麦粉を掛けあわせた1.8トンもの重量の巨大シュトーレンが生み出されるに至った。

 

また、ドレスデンでは、今もクリスマスの季節、伝統的なお祭りとして、シュトーレン・フェスティヴァルが開催されている。

 


シュトーレン・フェスティヴァルはシュトーレン教会によって主催されるドレスデンの街を代表する年一度の心楽しいお祭り。

 

ドレスデンの街中を、クリスマスシュトーレンを運ぶパン職人たち、そして、中世の仮装をしたドレスデンの数多くの人々が行列を作って練り歩く様子は圧巻だ。このシュトーレンフェスティヴァルは、パンの品評会の趣きがあり、毎年、世界で販売されている200万種類のパンがお目にかかれる。

 

2010年、ドレスデンのクリスマスシュトーレンは、欧州連合により、保護原産地呼称、PGI、つまり保護するべき良質な糧食として認定されるに至ったという。



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 ROUGH TRADE

 

1.世界で最も有名なインディペンデントレーベルはどのように生まれたのか

 

ラフ・トレードは、1978年にインディペンデントレコード店としてイギリスのケンジントンパークロードに開業した。世界ではじめてのインディーレコード会社といっても差し支えない、英国で最も伝統のあるレコードショップ・レーベルである。これまでこのインディペンデントレーベルから、英国を代表するのみならず、世界的に活躍するミュージシャンを数多く輩出して来ている。 

 

  

Record Store Day @ Rough Trade East 09

 

かのスミスも、ストロークスも、リバティーンズもこのレーベルから出発し、世界の舞台へと華々しく羽ばたいていった。いわば、ラフ・トレードは生粋の「イギリスのロックミュージシャンの登竜門」と喩えるべき世界的なレーベルである。


もちろん、言うまでもなく、2020年現在になってもなお、最も英国の音楽シーンで影響力を持つレコード会社であることに変わりはなく、ラフ・トレードからデビューするミュージシャンは大型新人とみなされ、世界のミュージックシーンから異様なほどの注目を受ける。


当初、ラフ・トレードは、インディペンデント系のレコードショップとして発足したが、程なくインディーレーベルとしての作品リリースを行うようになり、1980年代のザ・スミスのブレイクを通じ、イギリスを代表するインディペンデントレーベルに成長した。


しかし、多くの歴代の実業家の生涯と同じように、名門「ラフ・トレード」の歴史は必ずしも順風満帆に進んだとはいえなかった。一度、1980年代後半には、このレーベルの財政状態をひとりきりで支えていた看板アーティストのザ・スミスが解散したことにより、長年の放漫な経営方針による影響をうけ、1990年代の初めにラフ・トレードは債務不履行による経営破綻に陥っている。


創業者ジェフ・トラビスは、この時代において、多額の債権の返済のことばかりが頭にちらついていたと語り、(インディペンデントレーベル-異端者)として社会で生き残ることに対する大きな苦悩を語っている。 


その後、ラフ・トレードは、一企業として多額の債権を抱え、キャッシュフローの返済に追われたが、同国のレコード会社ベガーズ・グループがラフ・トレードショップに救いの手を差し伸べた。ラフ・トレードは、買収され、ベガースグループの傘下に入った。

 

 

2.インディーズレーベルとしての文化的功績を打ち立てるまで

 

ラフ・トレードは、レコードショップオーナーのジョフ・トラビスによって個人事業として設立され、元々、西インド人コミュニティの盛んだったロンドン西部のケンジントンパークロードに文化貢献、「人と人とを繋ぐための役割」を果たすためにオープンされた個人経営のレコードショップとして出発した。


2000年代以降、SNS等を介して、音楽ファンは、旧来よりも容易に他の音楽好きと情報交換や交流が出来るようになったのは事実である。


けれど、少なくとも、この1980年代前後には、音楽文化の発展する過程において、何らかの形で、音楽愛好家、ミュージシャンがある特定の場所を通じ、なんらかの意見交換や交流をする場を提供する必要があった。 


ラフ・トレードは、顔なじみの音楽好きがいつもそこにいて、いつも、なんらかの音楽を介して朗らかな情報交換や交流が行える場所となった。


こういった場を生み出すことは、ジェフ・トラビスの考案したアイディア、音楽による地域の文化形成という側面において必要不可欠だった。そこで、音楽、レコードという媒体を通し、文化の発信の足がかりを提供するため、1970年代の終わり、ジェフ・トラビスは、カナダのニューウェイヴ・パンクバンド名にあやかり、レコードショップ「ラフ・トレード」をイーストロンドンのケンジントンパークロードに開業したのである。 

 

 

Rough Trade East


ラフ・トレードがレコードショップとして開業してからそれほど時を経ず、 この店の常連客であったスティーヴ・モンゴメリーにトラビスは声をかけ、以後、この店の仕事を提供され、マネージャーとしてラフ・トレードの仕事を一任される。翌年になると、ラフ・トレードの従業員として、リチャード・スコットが3人目の重要なショップのキーパーソンとして参加するに至った。


当初、このインディペンデント形態のレコードショップ、ラフトレードは、ガレージロック、レゲエの専門店として発足し、多くの熱狂的な音楽ファンの支持を獲得していった。いかなる営業形態であろうとも、リピーターを期待できない空間から大きな文化が発生したことは寡聞にして知らない。


つまり、エンターテインメント事業は、他では得られない体験を顧客に提供出来るかどうかに尽きるかもしれない。一度で体験しきれない何かがその空間に数多く存在するからこそ、顧客はその場所に通いたくなるものだ。その点、ラフ・トレードは、他のレコードショップでまず扱われないようなマニアックではあるものの通好みの音楽ジャンルを膨大にディストリビューターとして扱っていた。主に、インディーズのガレージ・ロック、レゲエを専門的に扱うことで、他のレコードショップと差別化を図り、大きな満足感をイギリス国内の音楽ファンに与えることに成功したのだった。


現在も、当時と変わらず、レコードショップとしてのラフ・トレードは、CDやアナログの正規盤だけではなくて、ブートレッグ、非正規の海賊版を販売することでもよく知られている。海外からの旅行客は、珍しいブートレッグを購入することがこのレコード店に立ち寄った際の楽しみとなっていて、これぞ音楽通の嗜みである。


いずれにしても、こういった比較的マニアックなガレージ・ロック、レゲエといった音楽を専門に扱うレコードショップは、当時、1970年代後半、それほど多く存在しなかったはず。いってみれば、音楽ファン、需要側の欲求に答えてみせたこと、また、音楽ファンが交流する場を提供したことにより、数年間を通じ、このレコードショップ、ラフ・トレードは、多くの音楽ファン、多くのミュージシャンに膾炙される名物レコード店として認められる。そして、1970年代後半から1980年代初頭にかけ、上記2つのジャンルの他にも当時新たなジャンルとして国内で隆盛していたジャンル、ポスト・パンク、オルタナティヴ・ロックの作品を中心にリリースするようになり、”No Cure”のようなファンジン、ミュージックカルチャーの発信地の名高い場所として、ラフ・トレードは国内だけではなく、海外の音楽ファンにも知られていくようになった。


創業から二年後の1978年、ラフ・トレードは、他の国内の複数のインディーズ・レーベルと提携し、「The Cartel」と呼ばれるインディペンデントレコード生産の流通組織を築き上げた。つまり、これこそ音楽業界における最初のDIYの確立の瞬間といえるかもしれない。このカルテルと呼ばれるネットワークは、”Factory、2 tone”といったレコード会社からリリースされたインディペンデント作品をこのラフトレードを中心に全国的に流通させる基盤を形作った。もちろん、ここからイギリスの音楽ムーブメントは多く沸き起こったことは多くの方が御承知のことと思われる。


ザ・フォール、スペシャルズをはじめとするパンク・ロックバンドがシーンに台頭しはじめた。この年代、ラフ・トレードは、イギリス国内の重要な熱狂的な音楽ムーブメントを支えた。ニューヨークのアーティストの影響から発生したパンク、ニューウェイヴ、それから、八十年代に入ると、スペインのイビサ島からクラブパーティー文化を国内に持ち帰ったマッドチェスターの音楽文化の素地を形成するのに、インディー・アーティストの作品の全国的流通という側面でラフトレードは一役買っていた。もちろん、ジョイ・デイヴィジョンのイアン・カーティスの自殺後に結成されたニューオーダーも、ラフ・トレードというレーベルなしには、その後の世界的大活躍、いや、いや、それどころかバンド自体存在することさえなかったといえるかもしれない。


ラフ・トレードは、1978年、レコードショップにとどまらずレコード会社としての機能も併せ持つようになる。


レーベルカタログのリリース第一号は、ジャマイカの著名なレゲエシンガー、ダブアーティストとしても知られるオーガスタス・パブロのシングル盤。そして、シェフィールドのキャバレー・ヴォルテールのデビューEP。


それから、なんといっても、ニューウェイブ・パンクのシーンの一角を担ったスティッフ・リトルフィンガーズのシングル「Alternative Ulster」だった。特に、この後にリリースされたスティッフ・リトル・フィンガーズのデビューアルバム「Inflammable Matterial」は、インディー作品でありながら、UKチャートで堂々14位にランクインしてみせたことにより、このラフトレードレーベルの最初のスマッシュヒット作品となった。「Inflammable Matterial」パンク・ロック名盤として必ずガイドブックに掲載されるマストアイテムである。とにかく、ガレージ・ロックの風味も持ち合わせたいかにもラフ・トレードのリリースとして相応しい作品といえるはずだ。

 

3.レーベルとしての転換期


それから1980年代にかけて、ラフ・トレードがイギリスでも、いや、世界的にも、名うての名門インディペンデントレーベルに引き上げた存在は、マッドチェスターの始まりを告げたモリッシー、ジョニー・マー率いるザ・スミスにほかならない。 ラフ・トレードはスミスを有望な新人アーティストとして発掘し、わずか5000ポンドという低価格でスミスのバンドメンバーと契約を結んだ。


以後、このバンドの、異常なほどの商業面での成功、世界的な活躍については、既に多くの音楽ファンによってしられているところである。


ザ・スミスは、1980年代後半にかけて、このラフ・トレードの最も有名な看板アーティスト、名物的なロックバンドとなる。「The Smith」「Meat Is Murder」「The Queen Is Dead」といったブリットポップ前夜を彩る神がかりのような大傑作のリリース、そして、スミスのウィリアム・シェイクスピアの文学性に影響を受けた独特なナルシシズムに彩られた甘美で暗鬱なポップサウンドは、マーガレット・サッチャー政権下での苦境にあえぐ多くの若者達の心を癒やしを与え、彼等の精神を支えつづけたのだった。


実は、かのブレア首相も、このスミスの大ファンであることは一般的によく知られている。つまり、このスミスというロックバンドは、最初は、労働者階級から中産階級の若者たちを中心に広がっていった音楽ではあるものの、そののちになると、イギリス国内では階級関係なく聴かれるようになったビートルズの次のビッグスターミュージシャンであった。


このレコード産業としてのザ・スミスの商業的な大成功により、莫大な利益を得たがため、逆にラフ・トレードはレーベルとしての放漫経営の罠に陥ることになった。利益の回収を度外視して、作品リリースを積極的に行いすぎたため、債務が徐々に膨らんでいった。しかし、一度、綿密に確立された経営方針を転換することほど勇気の必要なことはないかもしれない。この後、ザ・スミスは、1988年のリリースを最後に解散した。スミスの解散によりレーベルの経済面での屋台骨を失ったラフ・トレードは、徐々に1990年代にかけて衰退し、経営難に陥っていった。


その後、わずか三年という短い歳月で、このイギリス国内で最も有名なインディーレーベル、ラフ・トレードは、債務不履行により経営破綻に陥った。債務返済ができないとわかった時点の、レーベルオーナのジェフ・トラビスの失意の程は痛いほど理解できる。とりわけ、トラビスが嘆いてやまなかったのは、借金返済に補填するための資金の目途が立たないことについてはもちろんのこと、この際、最も彼を落胆させたのは、1991年までの約十三年に自ら手がけてきたラフ・トレード全作品のリリースカタログを権利をひとつのこらず失ってしまったこと。とりわけ、ザ・スミスのこれまでのカタログのライセンスを失ったことをトラビスは嘆いてやまなかったのである。


しかし、イギリスのレコード会社、同業者のベガーズグループが救いの手を差し伸べたことにより、ラフ・トレードの経営再建は始まった。これは、ベガースグループが1991年までにこのインディペンデントレーベルが国内にどれだけ多くの商業面での貢献をもたらしてきたのか、そして、文化的な貢献を果たして来たことを重々承知していたからこそラフ・トレードの救済を行ったものと推測される。その後、経営者として見事な経営手腕を発揮し、創業者、ジョン・トラビス氏は、1990年代、2000年代初頭にかけて、このインディペンデントレーベル、ラフ・トレードを再び英国きっての名門レーベルとして復活させ、世界的に成長させた。


その年代、特に、このレーベルの窮地を救ったのは、奇遇にも、このレーベルの最初の専門としたガレージロック音楽のリバイバルブームが世界的に2000年代に到来したことだろうか。最初にチャンスを呼び込んでみせたのは、ロンドン発の四人組ロックバンド、ザ・リバティーンズの「Up The Brancket」を引っさげての鮮烈なデビューだった。のちに、ジェフ・トラビスは、このバンドのドラック問題について辟易としていると発言しているが、少なくともガレージ・ロックといういくらかニッチなジャンルが再興したことについては、少なからず喜びを感じていたに違いない。この作品、そして、その後の、ラフ・トレードからのシングルリリースは、イギリス国内にとどまらずに、アメリカ、日本でも大ヒットし、商業的な面でも大成功を収めた。


それからも、ラフ・トレードの快進撃は続いた。その一年後、ニューヨークからリバティーンズと同じようなガレージロック色を打ち出したザ・ストロークスをラフ・トレードは発掘し、デビューアルバム「In This It」をリリースし、これまたたちまち世界的にロングセラーとなり、ストロークスはリバティーンズ以上の世界的なロックスターの座を短期間で手中におさめたのだった。 


その後、ガレージロックリバイバル旋風は、アメリカ、イギリスだけでなく、オーストラリア、スウェーデンへ広がり、再び、ラフ・トレードは、世界的な名門インディーレーベルとして見事に返り咲いた。


この後、ラフ・トレードは、比較的安定したリリース、レコード生産を行いながら今日まで息の長い経営を行っている。イギリス国外にも、レコードショップの系列店を持ち、ロックフェラーセンター内にあるラフ・トレードNYCを,そして、2016年には、”FIVEMAN ARMY”と提携し、日本にもラフ・トレードジャパンを発足させ、ストロークのギタリスト、アルバート・ハモンドJrの「Yours To Keep」をリリースし、堅調なセールスを記録する。もちろん、このレーベルは、その後にも魅力的なアーティストを見つけ出し、新人発掘という面で、レーベル発足当初と何ら変わらない慧眼ぶりを見せているのは、多くの熱烈な音楽ファンの知るところであるかと思う。

 

4.ラフ・トレードに貫流するDIY精神

 

インディーズレーベルの創始者、ジェフ・トラビスは、その初めに、人と人とをつなげるコミュニティーを形成するという明確な意図を持って、レコードショップ、レコード会社を何十年にもわたって成長させてきた人物である。のちに、ロックフェラーセンター内に自身の系列レコードショップを経営するようになる世界で最も成功したレコードショップオーナと称すことが出来る。

 

 

ROUGH TRADE NYC店舗内

 

 

あらためて、このことについて考えてみると、ザ・スミスの全カタログのライセンスの消滅という出来事は、ジェフ・トラビスにとって大きな痛手となったのは相違ないはず。それにつけても、もちろん、ベガースグループという資金面でのバックアップはあったことを充分に加味したとしても、トラビスという実業家はなぜこのレーベルを再建させることに成功し、以前よりもはるかに魅力的な世界的なインディーレーベルとして返り咲くことができたのか、ちょっと不思議に思えるようなところもなくはない。


その後、1990年代から2000年代にかけてのジェフ・トラビス氏の辛抱強い経営をささえていた概念、それは一体なんであったのだろうか。

 

文化的な貢献? それとも、もしくは、最初のコミュニティーを形成するという重要な動機? 

 

他にも、様々な要因が挙げられるはずである。もちろん、これらの概念は、トラビスという人物の辛抱強い経営を支えていたことは間違いないものと思われるけれども、推察するに、彼のこれまでの四十年近いレーベル経営を支えてきたのは、レコードショップのオーナとしてのプライド、そして、なにより、誰よりも深い、ロックをはじめとする音楽に対する慈しみ、愛情にも比する感情によるものだったのだ。


ここから引き出される結論があるとするなら、長く、何かを続けることに必要なものは、才能でも技術でもなく、情熱、人間としての深い慈愛がどれほど大きいのか、そして、どれだけ大きな夢を抱けるかに尽きるのかも知れない。


このことは、もちろん、言うまでもなく、現在もラフトレードの重要な精神として継承されている。

 

当初、独立系のレコードショップとして始まった独立精神、つまり、インディペンデント精神は、今日、このレーベルに所属するアーティストの音楽、そして、このレコードショップに引き継がれている理念、「The Cartel」と称されるインディーズ流通形式を確立させた際の伝統性「DIY」として、ラフトレードの長きにわたるレコード会社としての経営を今もなお強固に支えつづけている。

 

References

https://en.m.wikipedia.org/wiki/Rough_Trade_Records


 

1.Audiotreeの打ち立ててみせた2010年代の新たなビジネススタイル

 
Audiotreeは、2011年にイリノイ州シカゴにファウンドされた比較的新しいレコード会社である。なぜ、今回、このレコード会社を紹介しようと考えたのかと言えば、従来型のレコード会社とはそのビジネススタイルがまるきり異なるからである。

 

オーディオスタイルのビジネスの手法はこれまでになかったもので、刺激的で革新的だと言える。  

 

これまでは、英BBCのラジオ番組、名物DJジョン・ピールのセッションシリーズ、「Peel Sessions」などに代表されるように、公共放送が何らかのアーティストを、局内にある専用のスタジオ、レコーディングブースに招待し、レコーディングブースでライブ演奏させ、それを音源作品としてリリースするスタイルは存在していたが、シカゴのオーディオ・ツリーは、旧来のビジネススタイルとは異なる画期的な手法を確立している。

 

Quote:openhousechicago.org

 

つまり、ストリーミング再生時代の後押しを受けた形のオリジナリティあふれるビジネス旋風を音楽業界に巻き起こしたと言える。

 

概して、これまで従来の音楽産業の形態というのは、作品を録音するレコード会社、アーティストが演奏する場を提供するコンサート会場(イベント会社orプロモータ)、そして、何らかの媒体により販促をおこなうレコードショップ、この三つの会社がそれぞれ協力してアーティストのプロモーション、レコーディング、該当する作品の販売を行って来た。

 

しかし、オーディオツリーはこれまでの常識を破り、本来独立した3つの組織を一つに統合したビジネススタイルを展開する。

 

Audiotreeは、録音からライブ演奏、自社内の専用レコーディングブースで録音された作品のリリースを行ったり、また、あるいは、そこで撮影された動画を、自サイト、Youtube、VimeoといったWeb上のメディアで積極的に宣伝し、これまで分離した形態で行われてきた販売総てを自社で一括して行う画期的な経営手法を確立した。近年、Audiotree社が主催する音楽フェスティヴァル開催にまで漕ぎつけている。

 

一時は、コロナ・パンデミック禍のロックダウンにおいて経営スタイルに暗雲が立ち込めかけたが、同社は、新しいビジネススタイルを生み出し、苦境を乗り越えてみせた。

 

WEB上で自社のレコーディングブースで行われるライブパフォーマンス「staged」をデジタルチケットを購入した視聴者だけを招待するという投げ銭形式の仮想ライブイベントを導入し、この1、2年で、そのビジネスの裾野を大きく広げようとしている。 

 

 

2.Audiotreeの沿革、その革新的なビジネススタイルの強み

 
オーディオツリーは、元々、イリノイ州、シカゴでオーディオ・エンジニアとして勤務していたマイケル・ジョンストンがアダム・サーストンとともに始めた事業である。


Audiotreeの自社ビルの他にも、シカゴ地域内に、リンカーン・ホール、シューバス音楽会場を土地保有している。

 

当初、この事業計画は、インディーズレーベルに所属するアーティストの支援のために開始された。Audiotree設立当初は、自社内のレコーディングブースで録音された作品(主にEP形態)の売上とGoogleAdsenseの広告費によりオーディオツリーの利益は賄われていた。

 

Audiotreeは、これまでのレコード業界のマージンの常識とはかけ離れた分配方式を取っている。

 

EP作品の売上をオーディオツリー側とアーティスト側、50:50で分配する、フェアな利益率の分配法を採る。従来、レコードやデジタル盤の売上に際して、レコード会社がアーティスト側より大きなマージンを得るのが音楽業界内の常識であったように思われる。 

 

しかし、Audiotreeは、これまでの十年間を通して、一般的な知名度に恵まれない独立レーベルで活躍する世界中のアーティスト、バンドを自社のレコーディングブースに招待し、ライブスペースを無償で提供し、アーティストやバンドのライブ録音、動画撮影、WEBでの宣伝を率先して行う。

 

その後、ライブ録音をした作品を完パケし、EP「Audiotree live sessions」として対外的にリリースするにとどまらず、自社HP内、Youtube,Vimeoを介し、ライブパフォーマンス動画を、ストリーミング形式でオンライン、オフラインで宣伝している。

 

Quote:spotify.com

 

オーディオツリーが生み出したこの斬新な経営手法は、2018年、世界中では、約八十%の音楽リスナーがYoutubeをはじめとするストリーミングサイト、また、Apple Music,Spotifyなどのサブスクリプション媒体を介し音楽を聴く時代の後押しを受け、結果的に大成功を収めている。 

 

2011の設立からAudiotreeは、youtubeのチャンネル登録者数を着実に増やしつつあり、33万人以上の視聴者を獲得し、また、動画再生数については5億回以上にも及び、サブスクリプションとストリーミングの両形式での作品リリースの展開方法を行い、従来とは異なる新時代の音楽上のビジネススタイルを確立している。レコード会社のみならず、この後、アメリカの巨大産業に発展していく可能性を大いに秘めた私企業といえる。

 

 

3.Audiotreeのライブ録音作品の独特な魅力

 
無論、上記したような事実をうけて考えてみると、オーディオエンジニアのスペシャリストが設立したレコード会社であるという点、Audiotree社内にある専用のレコーディングブースの設備自体も豪華であり、実際、リリースされたEPを聴いてみると、音に精細な瑞々しさがある。

 

それもこれも、このAudiotree内のレコーディング設備がことのほか充実しているからに他ならない。  

 

 

Quote:openhousechicago.org


Audiotreeは、2015年から翌年にかけて、スタジオで録音機材として使用されている設備を動画で一般公開している。

 

ビデオと照明のセッティング方法、音響用マイク、ドラム専用マイク、レコーディングスタジオ内のウォークスルーに至るまで、「Audiotree Live」のライブ録音の舞台裏を全面的に公開している。

 

アコースティックギターの録音専用マイク、AKG460、Royal122。バスドラム録音用のTelefunken M-82といった機材が公式動画を介し紹介されている。 最終段階のリミックスの段階では、鮮明なデジタル音の再生面で抜群の威力を発揮する米国企業のマスタリングソフト、「Izotope」が使用されていることにも注目である。

 

いかにも、設立者、マイケル・ジョンストン氏のオーディオエンジニアとしての矜持を感じさせる豊富で盤石なレコーディング機器の数々、ミキサー、レコーディングソフトを最大限に駆使し、録音、完パケされる音源は、何れの作品も鮮明な音質によって彩られている。また、その際、リアルタイムで配信されるライブパフォーマンス映像も、実際のアーティストのライブパフォーマンスに参加したかのような迫力を体感出来るはずだ。

 

「Audio Tree Live Session」は、美麗なおかつダイナミックさがあり、音源を聴くだけであっても、高精細の映像を鑑賞しているような気分に浸れる。これは、他でもない、オーディオツリーが世界中の熱烈な音楽ファンに対して無償提供する映像自体がことのほか優れているからに他ならない。もちろん、「音」としての鮮明な魅力があるのは無論、EP音源としてリリースされる「Audiotree Live」の総カタログについても同様である。 

 

また、世界中から有望なインディーアーティストを招聘するオーディオツリーの新人発掘力については最早多くの事を語るまでもない。

 

オーディオツリーの興味は、常に、国内にとどまらず、世界中のインディー系アーティストに注がれており、それは、ヨーロッパ圏のみならずアジア圏にも広がりをみせている。これまで、Elephant Gym、少年ナイフ、tricotといった面々が、このシカゴのオーディオ・ツリー・ライブパフォーマンスに招待されており、「Audiotree Live」として素晴らしい演奏を行い、秀逸なEP作品をリリースしていることも付け加えたい。これからオーディオ・ツリーが、どのようなアーティストの音源をリリースしていくのか、そのビジネスの裾野をいかほど敷衍していくか、俄然目が離せないところだ。


4.「Audiotree Live Sessions」

 
先述したように、オーディオ・ツリーライブに招待されるアーティストは、国内外のインディーレーベルに属するアーティストに絞られる。一つのジャンルにこだわらず、多くの国々から、幅広い音楽性を擁するミュージシャンが招待され、刺激的なライブパフォーマンスが行われる。

 

これらの生演奏は、映像として配信されるのみならず、「Audiotree Live」というEP形式で作品リリースが行われるのが通例。EPのジャケットアートワークはシンプルなデザインで、アーティストの文字、ライブ時の写真と「Audiotree live」の文字とAを象ったマークが刻印されるのみではあるが、何となーくマニア心をくすぐられるものがある。

 

EPコレクションとして部屋に並べて見ればおそらく圧巻の見栄えとなるかもしれない、熱狂的な音楽ファンとして素通り出来ないカタログばかり。それでは、これらの作品「Audiotree Live」から注目するべきリリースを大雑把ではありますが挙げていきましょう。

 


1.Snail Mail 

 

on Audiotree Live

 


1.Dirt

2.Slug

3.Thining

4.Static Buzz

5.Stick

 

 

スネイル・メイルはリンジー・ジョーダンのソロ・プロジェクト。

 

デビュー当初からアメリカのインディーズシーンを賑わせているアーティスト。スネイル・メイルの音楽性は、ローファイ性を突き出したギターロックが醍醐味。抜群のセンスを持ち合わせた女性SSWで、今、最もアメリカのインディーシーンで注目しておきたいミュージシャン。

 

このオーディオ・ツリーライブヴァージョンでは、スネイルメイルのプリミティヴなロックンロールの魅力を味わうことが出来る。特に、オルタナティヴロック好きは要チェックの作品です。

 


2.Shonen Knife 

 

on Audiotree Live


 

 

1.Banana Chips

2.Twist Barbie

3.Jump In To The World

4.All You Can Eat

5.Ramen Rock

6.Riding on the Rocket

7.Buttercup


最早、説明不要のインディー界の世界的な大御所で、日本だけではなく世界のインディーシーンで大きな注目度を獲得している少年ナイフ。

 

大阪府出身のスリーピースのガールズポップバンド。カート・コバーンがこのバンドを大リスペクトしていたことは有名で、日本だけではなく、世界で愛されるインディーロックバンドです。

 

あらためて、2018年発表のこのオーディオツリー発表ヴァージョンを聴くと、このロックバンドの凄さがわかるはず。

 

以前に比べ、若々しさこそ失われたものの、逆に貫禄が備わってやいませんか。依然としてザ・ラモーンズに比する分かりやすいポップパンクの楽曲は珠玉の輝きを放ち続ける。

 

「Banana Chips」から「Buttercup」まで、四六時中やられっぱなしの甘酸っぱいキラーチューンのオンパレード!! 

 

 

3.Elephant Gym 

 

 on Audiotree Live

 

 

 

1.Underwater

2.Finger

3. Head&Body

4.  春雨

5. Galaxy


エレファントジムは、台湾の高雄出身のポストロック/マスロックバンド。日本のポストロックシーンと関わりの深いバンドで、都会的に洗練されたオシャレ感のある三人組グループ。

 

しかし、表向きのイメージとは裏腹に、奏でられる音楽は硬派。変拍子ばりばりの巧緻な楽曲、ベーシストのK.T.チャンのキュートなキャラクター性からは想像できない実力派としての演奏力が魅力のバンド。

 

もちろん、このオーディオツリーバージョンではこの三人組の楽曲の良さ、瑞々しさ、タイトさが存分に味わえる作品。

 

「Finger」を始め、K.Tチャンのタッピングを始めとする超絶技法が炸裂。誇張抜きにして、このリリースはオーディオツリーの名演の部類に入る。ToeやLiteといった日本のポストロック/マスロックのバンドのファンの方は是非チェックしていただきたい作品です。 

 


3.Petal 

 

on Audiotree Live

 

 

 

1.Better Than You

2.Tightrope

3.Magic Gone

4.Shine

5.Stardust


 

Petalというバンドは、このプロジェクトの中心人物、Kiley Lotzは、NYのブロードウェイ女優としても活躍している。元々エモシーンの期待の星としてデビューした経緯を持つアーティスト。

 

2015年「Shame」でデビューした当初、特にエモシーンで話題を呼んだ作品だったと思います。そのあたりの事情は、Tigers Jawのメンバーが絡んでいるという理由だからでしょう。


しかし、そういった前評判というのは当たらなかったアーティストで、現在はエモではなくインディーロック路線を突き進んでいる印象。Kiley Lotzは、爽やかで、やさしげで、包み込むような雰囲気を持つシンガー。

 

このオーディオ・ツリーのライブバージョンでも、飾り気がなく直情的なヴォーカルを味わえる。しかも、演奏をすごく楽しんでいる感じが伝わってきて、心がほんわかとなるライブ音源です。ブロードウェイの女優というフィルターを通さずとも、繊細な質感を持った隠れたインディー・ロックの名曲揃い。

 

 

4.Pinegrove 

 

on Audiotree Live


 

1.Need 2

2.Problems

3.Cadumium

4.Size of the Moon

5.Angelina

6.&

7.Recycling

8.Aphasia


 

パイングローヴは、エヴァン・ステファンズ・ホール、ザック・レヴァインの幼馴染を中心にニュージャージー州で結成されたインディー・ロックバンド。

 

2020年に、英国の名門ラフトレードから「Marigold」をリリースしています。

 

これまでのスタジオ・アルバムでは、エモコアよりのアプローチを図っている印象を受けますが、このオーディオツリーセッションではパイングローヴの良質なロックバンドとしての魅力が引き出され、堂々たるアメリカンロックサウンドが展開されています。

 

エモというのが惜しいくらい、奥ゆかしい音楽性の雰囲気を持ったロックバンド。アメリカーナ、アメリカのルーツミュージックの雰囲気もそこはかとなく漂わせ、このオーディオツリーのライブ音源では、少しだけ地味な印象のあるオリジナルアルバムよりも、パイングローヴの魅力が引き出されており、心を温かく包み込むかのような懐深いサウンド引き出されています。

 

大都会ニューヨーク、マンハッタンのバンドサウンドとはまた異なるいかにも緑豊かなニュージャージーらしいアメリカン・ロックを再現する良質なインディーロックバンド。 

 


5.tricot 

 

on  Audiotree Live 

 


 

1.On the boom

2.18,19

3.Ochansensu-su

4.Potage

5.Melon Soda


すでに、他のサイトでは紹介されていますが、少年ナイフとともに、日本のアーティストとして、オーディオツリーライブに招待されたのがポストロック四人組のトリコ。

 

学生時代からの友人、中嶋イッキュウ、キダ・モティフォを中心に結成された女性中心のメンバーのエクスペリメンタルロックバンド。

 

自主レーベル「爆裂レコード」からデビュー、近年ではAVEX Entertainmantからも2作のシングル盤「いない」「Dogs and Ducks」(ともに2021)をリリースしてJPOPシーンでも大きな話題を呼んでいる。

 

これまでに、チェコ、ハンガリー、スロバキアの東欧の音楽フェスにも出演経験あり。Toeやナンバーガールに影響を受けたとされる激烈なポストロックサウンドにJ-POP寄りのキャッチーなヴォーカルのフレーズが乗る。変拍子バリバリのマスロックサウンドであるものの、ナンバーガールのような親しみやすさもあるのがトリコの魅力。

 

このオーディオツリーライブでは、トリコの超絶演奏力はもちろん、「Potage」を始めとする楽曲で、スタジオ・アルバムとは異なる、しっとりとした大人でジャジーな雰囲気の音楽性を味わうことが出来ます。 

 


6.Sidewalk Chalk

 

on Audiotree Live

 

 

 

1.Water Song

2.One For Nation

3.Hats + Shoes

4.Lyrically Free

5. Closer

 

 

サイドウォーク・チョークは地元シカゴのバンド。これまで存在しなかったタイプの六人組ヒップホップグループです。

 

DJ無しで、タップダンサー、男性MC+女性ヴォーカルという特異な編成で、米インディーシーンで注目を受けています。

 

ヒップ・ホップ、ロック、ソウル、ジャズをクロスオーバーし、バンドサウンドとして展開。このバンドのクロスオーバーサウンドは爽やかで軽妙な雰囲気に満ちている。

 

楽曲中では、エレクトリック・ピアノ、ホーンを交え、ライムがソウルフルな女性ヴォーカルと軽やかに展開。これまでありそうでなかったロックバンド編成のクールでモダンなヒップホップサウンドを、サイドウォーク・チョークは見事に体現しています。

 

特に、このオーディオ・ツリーライブでは、二人の男女ボーカルの軽快なヴォーカル、バンドサウンドとしての未来系を体感出来る。

 

ヒップホップ、ソウル、ファンク、ジャズといった様々なジャンルを通過したいかにもシカゴらしいバンド。 このライブで繰り広げられるダイナミックな演奏は目の前でバンドサウンドを聴いているかのようなリアリティに満ちあふれている。ヒップホップサウンドをバンド形態で再現、ダンスの要素を交えた前衛的なサウンドを体現。

 

このバンドのサウンドは、Tortoiseのヒップホップバージョンといったら語弊があるかもしれないですが、2020年代に台頭する新たなポストロックシーンへの予見、そのような雰囲気も感じられる。

 

このオーディオ・ツリーライブ盤では、スタジオ・アルバム以上に、ホーンの艷やかかさが活かされ、サイドウォーク・チョークの生演奏特有のグルーヴ感が凝縮されている快作。



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1.Brit Schoolはどのような教育機関なのか?

 
ブリット・スクールは、英国、クロイドン、ロンドン特別区に1991年に設立されたメディア系アーティストを専門に育成する教育機関。


この専門の教育機関(テクノロジー・オブ・カレッジ)には、現在、1350名ほどの14歳から19歳までの男女の生徒が学ぶ英国政府からの直接的な資金援助を受ける教育機関。ブリットスクールの専攻分野は、9つに分かれており、この機関では、ミュージック、演劇、ダンス、映像、アートワーク、プロデュース、マーケティング、ファッション、ゲーム、アプリ制作を専門に学ぶ事が出来ます。

 

フランス、パリにも、ピエール・ブーレーズが設立した「IRCAM」という音響学やデジタルデバイスで現代音楽の作曲を学ぶことが出来る国立の教育機関が存在します。(日本の音楽大学を卒業すれば、この機関への留学の資格が与えられる)しかし、イルカムは、大学に在学するような年代を中心としたクラシックの専門とした音楽教育が行われるのに対して、この英国のブリット・スクールは、14歳から19歳までの若い年頃、大学に通うまでの年代の有望な学生を英国各地から招き、その生徒たちを専門に育成し、各々の創造性を育み、ポップやロックといった大衆音楽のミュージシャン、ダンス、放送、アート、演劇、マーケティング、ITといった多岐に渡るメディア系分野で、プロとして活躍出来るような才能を養うための環境が整備されています。 

 

英国政府から資金面でのバックアップを受けているため、国立教育機関というふうに呼んでもいいかもしれませんが、学校内は風通しが非常に良く、他の分野を先行する生徒たちが自由に交流をし、おおらな気風が貫かれています。

 

そして、さらに面白い特徴を挙げるとなら、「五人目のビートルズ」と称される”ジョージ・マーティン卿”がデザインしたレコーディングスタジオ、また、あるいは、324人と500人の観客を収容出来る二つのオビー劇場、Youtubeが資金提供を行っている2019年設立の専用テレビスタジオや、また、これらの様々な分野を跨いで、生徒たちは何時間でも創作活動を心ゆくまで楽しむ事が出来るようです。

 

これは、すべての教育者がこの学校に在籍する全生徒の可能性を心から信じきり、そして、すべての生徒たちに大きな才能があると信じている前提で行われる教育なのです。ここでは、生徒達がプロフェッショナルなアーティストになる手助けとなる授業、アーティストとして活躍する社会人となるためのエデュケーションが施されているのです。 

 

さらに、このブリット・スクールという教育機関のひときわ心惹かれる特徴があるなら、この学校に通う生徒の学費が免除されていること。そして、イギリスで唯一、無償教育が行われている機関であって、また、英国政府の補助金を受けているだけでなく、ギブソン社、化粧品会社がこの学校と提携し、現物支給という形で、この教育機関に属する生徒に対し手厚い支援を行います。

 

ギターを演奏してみたいと思ったら、生徒たちには既にレスポールギターが用意されています。映像、舞台で特殊なメイクアップを行いたいと思えば、既に、化粧品が用意されています。その御蔭で、在校生たちは高価な楽器を新たに購入する必要がないのです。

 

ブリット・スクールは、1991年の設立当初から、英国きってのスターミュージシャンを数多く輩出しています。

 

多くの方が御存じのように、エイミー・ワインハウス、アデル、といった世界的シンガーソングライターをはじめ、ケイト・ナッシュ、リリー・アレン、ジェシー・J、またクークスといった世界的なミュージシャンを音楽シーンに続々と送り出していることから、ブリット・スクールの独特な教育制度は、比較的早い段階で大きな成功を見ているように思えます。 

 

2.ブリット・スクールの変革


 

さて、ブリット・スクールの創設者であるマークフェザーストーンウィッティ氏は、アラン・パーカーの映画「名声」1980に影響を受け、この「ブリットスクール」という教育機関設立の最初の計画を着手します。

 

つまり、音楽の分野でなくて、計画当初、舞台芸術を専門とする学校を設立しようという意図で、このシティー・テクノロジー・オブ・カレッジという地方教育と一定の距離を保つ都会的な中等教育機関は、先述したように、ロンドンの特別区、クロイドンに1991年に開設されました。

 

学校の設立者、マークフェザーストーンウィッティ氏は、School for Performing Arts Trust(SPA)という機関を通じて、学校開設のための資金調達の目策を始め、その後、英国レコード協会、複数の提携する企業からの協力、実際には資金援助を受け、このブリットスクールの運営、教育カリキュラムを1991年に開始。英国政府、英国レコード産業協会、私企業、それから、英国の著名なアーティストもこの教育機関に対して支援を行っています。

 

 


 

このブリット・スクールが教えるのは専門分野だけではありません。この中等教育機関では、人間として、どのように生きるべきなのかという教育にも重点が置かれています。1991年の設立当初から、他の教育機関には見られない独特な理念が貫かれています。

 

初代の「ナイト」の称号を与えられた校長の時代から、英国人としての「紳士性」の教育に焦点が絞られ、他人に対しての親切心を持つべきという考えがこの学校の重要な理念となっています。

 

なぜなら、例えば、人間として生きる上で、自然にしなければならないこと、他人に対して思いやりを持って接したり、苦しんでいる人を見てそれに手を差し伸べるような紳士性がなければ、いかなる分野、音楽、アート、放送、俳優、舞台芸術、ITにおいて、継続的に成功を収めることは難しいからです。

 

これらの分野のプロフェッショナルとして生きるためには、個人の才覚だけでなく、他者との関係を大切にしつつ、相携えて完成作品を生み出さねければならないのです。

 

そして、この人間性というのは、この中等教育機関に入学時の審査において、最重要視される点のようです。このブリット・スクールの門をくぐろうとする生徒には、実際の専攻しようとする専門分野において、技術的審査が行われますが、このスクールの入学試験において試験する側の教師が評価するのは、一つは、何らかの表現性を自分自身で自主的に心から楽しんでやっているかどうか。そして、また、二つ目は、最も入学試験を受ける際に重要視される点、その生徒の人間性、他人に対しての「親切心」があるどうか。これは、ブリット・スクールの欠かさざる理念と称するべき概念であり、英国人としての道徳のひとつ「紳士性」に教育の重点が置かれているのです。

 

それは先にも述べたように、学校側は、これらの入学する生徒に対し、卒業後、ゆくゆくはメディア分野でのプロフェッショナルな活躍を期待していることは相違有りませんが、こういった専門分野で、最も大切な人間としての姿勢、他者と和していくための協調性を、ブリット・スクールは重要な理念として掲げています。もちろん、それは、誰の協力もなしに、長期間にわたり専門的な分野で活躍することが困難だということを学校側は熟知しているからです。そこで、多くの専門性を高めるための環境は十分整えられており、その豪華さは世界を見ても随一といえ、さらに、実際、各々の専門分野における英才教育が十代という早い段階で行われますが、このブリット・スクールは他の学校と異なり「人間としてどうあるべきか」という教育が行われ、それを生徒たち自身の才能を通して社会性を学ぶことに大きな力が注がれているようです。 

 

3.ブリット・スクールの社会的役割とその問題点

 

 

もちろん、このブリット・スクールの特徴は、卒業後においても、社会的に通用するようなアーティストを育成することに重点を置いています。

 

それは、実際の専門分野だけではなく、数学や歴史といった一般教養も学んだ上で、上記のように、社会的な問題についても学ぶ時間が用意されています、つまり、ただ単にアート活動での技術がすぐれた生徒を輩出するだけではなく、何らかの提言を芸術という表現方法を介して行うことの出来る生徒を積極的に育成しているのがブリット・スクールの教育の基本です。

 

また、専門分野で英才教育が施されるからといって、生徒同士は、それほどギスギスしたライバル関係にあるのではなく、気の合う友人のような形で付き合いを重ね、他分野を専攻する生徒とも関係性を持つのが自然であるようです。そのため、学校の卒業後、その生徒が一躍有名になっても、他の分野を専攻する卒業生とも関係性が保たれている場合が多いようです。

 

一例を挙げると、エイミー・ワインハウスは、デビューして間もない頃のアルバム作品で、同級生が手掛けるアルバムアート制作を依頼しています。つまり、在学中の他分野を跨いでのコラボレーションというのが当たり前であり、在学中にそれらの他分野の生徒と深い関係性を持つことにより、卒業後にも、気兼ねなくコラボレーションを持ちかけたりすることが出来るという利点があるようです。

 

もちろん、ここまで、ブリット・スクールの美点ばかりをずらりと並べて来ましたが、あまり一方の側面ばかりから物事を捉えることはフェアとはいえません。この学校制度を手放しで称賛することは出来ない部分もあるようです。もちろん、この学校で行われている教育については賛同の声も上がっていますが、この学校の制度、一般社会との関係性、音楽業界との距離について懐疑的な意見もあって、ブリット・スクール出身のアーティストは、不当に音楽業界で優遇されているという意見も挙がっています。この辺りは、イギリスのグラミー賞に当たる”ブリット・アワード”を主催している企業が、他でもない、スポンサーとして提携する英国レコード産業協会であるため、ブリット・スクールと英国レコード産業協会との距離が近すぎるのではという指摘が出てきているようです。つまり、ブリット・アワードを与える際に、不当な高評価が与えられているのではないだろうか、という指摘が挙がっているようなのです。 

 

こういった音楽の賞にまつわる話は、実は、昔から古典音楽でもありまして、古くは、ショパンコンクールの審査員をしていたアルフレッド・コルトーがディヌ・リパッティというピアニストが他の審査員から不当な低い評価を受けた際、なぜゆえ、この人の演奏が評価されないのかと激怒し、即、審査員を降りてしまったという音楽史の事件がありました。また、今ではフランスで最も有名な作曲家のひとり、モーリス・ラヴェルも、若い頃、フランス国内の作曲賞で無冠の帝王として有名であり、長いあいだ冷ややかな裁断を下されていました。

 

もちろん、両者とも既に歴史的な演奏家、作曲家となっているのは明らかであるため、こういった逆説的な事例を挙げたわけですが、そもそも、常になんらかのフィルターを通して与えられるのが賞というものなのか、そこまで断定づけるのは難しいですけれども、現代の音楽シーンにおいても、そういった何らかの賞にまつわる評価に懐疑的な意見がそれとなく聞こえて来るのは、綺麗事ばかりで解決できない根深い問題が音楽業界内に蔓延している雰囲気もあるようです。これは、もちろん、それは海外にいる人間からはとても見えづらい内在的課題でもあります。

 

この学校とのレコード産業の関係性について考えてみますと、商業的な大成功や賞にまつわる何か因縁や怨念のようなものがうずまき、それらがエイミー・ワインハウスという世界的スターの背後にまとわりつき、彼女の悲しい破滅的悲劇をもたらしたという見方もできなくないかもしれません。実際、エイミー・ワインハウスと言う人物は、このブリット・スクール在学中にはさほど目立たない、気の良い学生であったようで、目のくらむような巨大な産業や商業、人々の興味、それに纏わるゴシップという得難いものに飲み込まれてしまった人物なのです。 

 

そういった側面から考えてみれば、エイミー・ワインハウス、というシンガーソングライターも、もし普通の一般的なスクールに通っていれば、他の分野への寄り道もできたかもしれず、そもそもこのブリットスクールでの英才教育自体が、彼女の生涯に暗い影を落としている部分もないわけではないわけです。非凡な才能が与えられたため、社会との折り合いをつけるという面で大変苦労するという場合は、かつてのロシア芸術界きっての天才バレエダンサー、ヴァーツラフ・ニジンスキーの狂気にとりつかれた事例もありますし、必ずしも、この学校の教育だけで生が理解しきれるものではないことを、エイミー・ワインハウスの生涯は私達に教唆してくれているようです。

 

しかし、もちろん、こういった難点もありながら、さらに音楽業界の根深い問題を見通した上でも、このブリット・スクールからは、近年、魅力的で個性派のアーティストが数多く出てきているのは事実でしょう。

 

例えば、ブラック・ミディというアーティストについては、まさに、この学校らしい人種の融和という概念を引き継いでおり、白人と黒人が一緒になって心底から楽しそうに演奏している例などを見ても、近年では、ワインハウスのような悲劇的事例を出さないように、のびのびとした専門分野の中等教育が率先して行われている雰囲気が伺えます。

 

特に、このブリット・スクール出身の生徒が、個性的な芸術的な才覚、ほとばしるような表現性を携え、華々しく登場する場合が多い。

 

それは、音楽、映画、舞台、または他のメディア分野に関わらない普遍的な事実といえるのかもしれません。そのあたりは、この中等教育機関、ブリット・スクールでの教えが大いに生かされているようです。

 


近年注目のブリットスクール出身アーティスト

 

 

ブリット・スクール出身のアーティストには音楽的な特徴があって、幅広い音楽性を内面の奥深くに吸収し、なおかつ、若い年代から、日々、膨大な作曲の演奏での研鑽を他の生徒たちと積んでいるため、デビュー時から洗練された熟練のプロ顔負けのサウンドを完成させている場合が多いです。 

 

また、近年のブリット・スクール出身アーティストには、音楽性での独特な共通点があり、どことなく、ブラックミュージックの影響を感じさせ、その先にあるネオソウルというジャンルに該当する場合が多い。

 

これは、クラブ・ミュージックが盛んなロンドンという都市で、若い時代に、音楽文化と密接に関わりを持って来たこと。

 

それからまた、もうひとつ、この学校の最初のビックスター、エイミー・ワインハウス(エタ・ジェイムスやエラ・フィッツジェラルドの音楽が彼女の音楽的な天才性を目覚めさせた)の影響が、この学校の出身者の生み出す音楽には色濃く残されているように思えます。つまり、この二つは、ブリット・スクールに引き継がれている伝統性です。

 

それでは、エイミー・ワインハウス、ケイト・ブッシュ、ジェシーK、ザ・クークス等、上記に挙げたミュージシャンの他、近年最注目のブリットスクール出身アーティストについて簡単に御紹介しておきたいと思います。

 

 

King Krule

 


 

サウスロンドンを拠点に活動するキング・クルールは現在、最もブリットスクール出身者のミュージシャンの中でも際立った存在感を持つアーティスト。

 

アーティスト名は、エルヴィス・プレスリーの映画「キング・クレオール」に因む。キングクルールの生み出す音楽ジャンルは、フュージョン、ポスト・パンク、ヒップホップ、ソウルと、幅広い呼称が与えられています。

 

これは、若い多感な年代から非常に様々な音楽を吸収した上で、実際に、ブリットスクールでセッションを重ねたことにより、キングクルールは二十代後半のアーティストでありながら、完成度の高い洗練された作品を生み出してきています。また、彼の音楽性は、近年の他のこの学校出身の音楽家に色濃い影響を及ぼしていて、つまりサウスロンドンの音楽シーンの中心的な存在といえそうです。

 

このアーティストのバックボーンとしては、プレスリー、ジーン・ヴィンセント、フェラ・クティ、アズテック・カメラといった往年の多岐にわたるジャンルのアーティスト、そして、とりわけ、ピクシーズやリバティーンズに強い憧憬を抱くミュージシャンであり、独特な、クルール節ともいえるような捻りの効いたインディーポップ/ロック音楽を生み出している。もちろん、その中には、サウスロンドンのクラブシーンの影響も少なからず滲んでいます。キング・クルールの音楽性については、ザ・スミスのモリッシー、エドウィン・コリンズ、といったアーティストが称賛しています。 

 


Cosmo Pyke

 


 

サウスイーストロンドン、ペッカム出身のアーティスト、コスモ・パイクもキング・クルールと並んでロンドンのインディーシーンで、大きな話題を呼んでいるミュージシャンの一人です。 


彼は、ジョニー・ミッチェル、ジミ・ヘンドリックス、ボブ・マーリー、マイケル・ジャクソンといった著名な黒人アーティスト、そして、ビートルズ等のアーティストの音楽に影響を受けている。

 

コスモ・パイクは、ブリットスクールを卒業した後、2017年にEP「Just Cosmo」でデビューを飾り、またセカンドEP「A Piper for Janet」を2021年にリリース。その他にも、シングル作を、ポップス、ヒップホップ、ジャズ・フュージョン、レゲエ等といった多岐にわたる音楽性を取り入れ、それを見事にコスモ・パイク自身にしか生み出せない独特の音楽性として完成させています。

 

特に、他のブリットスクールのアーティストと異なるのは、独特なラップにも比するグルーブ感が紡がれ、それがレゲエ寄りのメロディ性と融合を果たしている点。一つの楽曲の中に、複数の音楽ジャンルがせめぎ合っており、レゲエであるかと思うと、いきなりヒップホップになったり、また、なんの前触れもなしにポップスになったり、と、くるくる楽曲の表情が七変化するあたりは面白い。密林等に住む昆虫の保護色にも喩えられるカラフルな音楽性を特徴としています。また、どことなくマッドチェスターシーンのポップ性にも影響を受けているように思えます。

 

イギリスのザ・ガーディアンは、コスモパイクの音楽について、「フュージョン・ジャズ、2Tone、ザ・クリエイターとクークスの音楽の融合」と説明。しかしながら、このザ・ガーディアンの評価に対して、張本人のコスモパイク自身は、少しユニークな訂正を付け加えており、「ソウル、ジャズ、レゲエ、ヒップホップをかけ合わせている。宇宙的でありながらのんびりとした音楽だ」と彼自身の音楽について語っています。とにかく、特異なセンスの持ち主であることは確か、音楽の作曲、また演奏面でも、のびのびと様々なジャンルを自由自在に往来する辺りは、凄まじい才覚を感じさせる。一刻も早い最初のスタジオアルバムの完成が望まれるところです。

 

 

Jamie Isaac


ジェイミー・アイザックは、イギリス、ロンドン、クロイドン出身のアーティスト。彼の音楽はオルタナティヴ、アンビエント、フォーク、ジャズと、様々なカテゴライズがなされており、他のブリットスクール出身の音楽家と同じように、多岐に渡る音楽性を内包しています。

 

ブリットスクール在学中から、キング・クルールと仲良くしていたようです。音楽制作に留まらず、フィルム制作、WEBスクリプト制作、と、幾つかの分野の領域に跨いで活躍する多才なマルチタレントです。

 

ブリットスクール卒業後、2013年、シングル盤「I Will Be Cold Soon」でデビュー、翌年には「Blue Break」をリリース。特に、デビューシングルは秀作であり、ジャズ・ピアノと独特な孤独感のあるポップスを展開している。また、翌年にリリースされた二作目のEP「Blue Break」は、マンチェスターの”The Guardian”誌の特集コーナー「New Music」の一貫として取り上げられ、当該記事を手掛けたマイケル・クラッグ氏によって手放しの大絶賛を受けています。特に、この二作目のEP「Blue Break」は、クラブミュージック(IDM)とアンビエントを融合したようなこれまでにはなかった清新な作風で、イギリスのミュージックシーンに大きな衝撃を与えました。

 

ジェイミー・アイザックは、ジャズ・ピアニストの音楽に深い感銘を受けており、デイヴ・ブルーベック、ビル・エバンス、テディ・ウィルソンといった名ジャズピアニストから、古典音楽の不フレドリック・ショパン、はては、ビーチ・ボーイズを、重要な音楽的背景として挙げています。 


特に、上記のアーティストと比べ、ジャズ音楽からの伝統性を深く受け継いでおり、それを現代的なロンドンのクラブ音楽として完成させた作風。特にピアノ曲としての電子音楽に焦点を当てているように思えます。

 

もちろん、ジャズやクラシックといった古典的な音楽の影響も少なくないという点では、ドイツやイギリスのポストクラシカル勢のアーティストとも近い特徴を持ちますが、ジェイミー・アイザックは、いかにもロンドン生まれ、ロンドン育ちらしい都会的に洗練された雰囲気を持ち、ポピュラー音楽、ヒップホップ、そして、クラブ・ミュージックに焦点を当てているような雰囲気が伺えます。

 

ジェイミー・アイザックの音楽性には、ロンドン特別区、クロイドンの独特な都会の夜の質感を持ち、アダルティなカッコよさがありつつ、爽快感と清涼感のある突き抜けた感じがほんのり漂っています。すでに、盟友、キングクルールとともにロンドンのインディーズシーンでは知らないファンはいない、ブリットスクールの代名詞、この教育機関の最高の生え抜きのミュージシャンのひとりです。

 

 

Rex Orange County

 


 

最後に、ブリット・スクール出身のアーティストとして御紹介させていただくのは、結構前からイギリスの音楽シーンを賑わいづけていたレックス・オレンジ・カウンティ。このソロプロジェクト名”ROC"を掲げて活動するアレクサンダー・オコナーは、英、ハンプシャー出身のミュージシャン。 

 

ブリットスクールに入学する以前にも、五歳の頃から母親が勤務していた学校の聖歌隊に所属し、幼少期から音楽の英才教育を受けています。それから、クラシックピアノを学んだ後、十六歳のときにギターを始め、Apple社の提供する音楽制作ソフトウェア”Logic Studio”で楽曲制作を開始。それから、16歳時にブリット・スクールに通いはじめ、ドラム、パーカッションを専攻する。

 

レックス・オレンジ・カウンティの音楽的な背景にあるのは、他のブリットスクール出身アーティストと同じようにユニークさで、ABBA,スティーヴィー・ワンダー、ウィーザー、グリーン・デイといった、錚々たるメンツが影響を受けたアーティストとして並んでいます。ディスコサウンド、R&B,ソウル/ゴスペルから、オルタナティヴ・ロック、ヒップホップ、そして、カルフォルニアのメロディック・パンクに至るまで、総てのポピュラー音楽を聴き込んでいるアーティスト。 

 

イギリス出身にも関わらず、「Orange County」をプロジェクト名に冠するのは、米、カルフォルニアの音楽文化に大いなるリスペクトを持ってのことでしょう。もちろん、音楽的な素養は、最初の聖歌隊とピアノの学習にあるといえますが、その後、自分の好奇心により、どんどんと音楽に対する興味を広げ、楽曲制作、ピアノ、キーボード、ギター、ドラム、とロックバンド形式の演奏を総て一人でこなしてしまうというマルチタレント性の強い天才ミュージシャンです。

 

レックス・オレンジ・カウンティの楽曲は、上記のABBAやスティーヴィー・ワンダーの音楽のように誰にでも理解しやすく、一般的なリスナーにも広く扉が開かれており、爽やかな質感に彩られた音楽性なので、どの年代でも安心して聴くことが出来るはず。おそらくBTSが好きな若いファンにもお勧めしたいアーティスト。レックス・オレンジ・カウンティの音楽というのは明るさがあって、他のブリットスクールのアーティストに比べると、ポピュラー性が高いように思われます。

 

2018年には大阪、舞洲で開催されたサマーソニック、そして、千葉、幕張のサマーソニック公演で来日を果たしているので日本でもそれなりの知名度を持つアーティスト。イギリス国内だけではなく、世界的な知名度を持つポピュラーミュージックの領域で活躍するブリット・スクールの代表的アーティストです。




References:


Wikipedia BRIT School

 

https://en.wikipedia.org/wiki/BRIT_School


WIRED やさしさのクリエイティヴ UK発 アデルを育てた学校で彼等が学ぶ

こと

https://wired.jp/special/2017/brit-school/