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Tシャツとロック音楽

 

 

 1.Tシャツの起源 

 

 

Tシャツの起源、発祥については諸説あるようだが、19世紀のヨーロッパにあると言われている。

 

第一次世界大戦中だというように書かれているサイトも散見されるけれども、これは少し見当違いである。少なくとも、シャツ生産専門企業として、ドイツのMerz .b.Schwanenが1911年に設立されているからである。

 

綿製のシャツ、いわゆるカットソーとしての生産で一般的に有名なのは、アメリカで、Hanes、Championといったブランド企業である。もしくは、フランスも古くから漁港の漁師が好んで着る襟ぐりの広い”バスクシャツ”を生産してきており、綿生産、及び綿工業の盛んな土地として挙げられる。しかし、服飾産業の歴史を語る中で、(個人的に知るかぎりで)と断っておきたいが、最も早くこの綿のシャツ生産を産業として確立させたのは、ドイツにあるシュヴァーベン地方だったように思われる。

 

この地方では、二十世紀以前まで主に農業が営まれていたらしいが、土地が痩せてきたために、弥縫策として綿織機を導入し、綿のシャツを生産するようになったという*1。 

 

その後、Peter Plotnichkiが1911年にシャツ生産の機械ラインを導入して企業として発足した。これは、現存する最も古いシャツ生産の企業ではないだろうかと推察される。

 

その後、第一次世界大戦中に、アメリカ軍がイギリスとフランスの兵士がTシャツを着ているのを見て、それを自軍の服飾の中に取り入れたという*2。 

 

肌触りがよく、風通しもよく、着やすくて、シンプルな見た目がかっこよく、そして、ピンきりではあるものの、薄い素材の割には、耐久性にもすぐれていることから、軍用の服装として取り入れられることになったのは自然な成り行きだったように思われる。

 

ただ、イタリア軍の綿シャツを一度着てみたことがあるが、これはちょっとという言う感じで、パサパサしているだけでなく、チクチクする粗目の素材で、かなり強烈な抵抗をおぼえる粗悪な質感である。おそらく、この時代、第一次世界大戦に取り入れられていたシャツというのも、これに似た類のものではなかったかろうかと思われる。

 

そして、第一次世界大戦後になると、アメリカでも、綿シャツの大量生産時代、つまり主要産業としての確立が始まったように思われる。この辺りに、ミリタリーウェアとしてのシャツの起源という意味で、第一次世界大戦中に発祥を求めるのなら、それは正解の範疇にあるといえるかもしれない。

 

 

2.誰がTシャツを流行させたか?

 

 

軍用の服装、いわゆるミリタリーウェアとしては普及しつつあったTシャツ。しかし、これが一般の人々のファッション中に取り入れられる時代は、第一次世界大戦から少し時を経なければならない。

 

どうも、第二次世界大戦中には、アメリカ国内では、兵士だけにとどまらず、一般の人たちにも普及していくようになったようだ*4。そして、このTシャツの大きな流行を後押しとなったのが50年代に入ってから、そして、それ相応のスターと呼ばれる世界的にも影響を持つあるムービースターが大々的な形で「これはカッコいいものだ!」と世間に宣伝したのだった。

 

このTシャツという存在を、世間にファッションとして流行らせた人物が、往年のムービースター、ジェームス・ディーンと言われている*3。 

 

 

 

 

ジェームス・ディーンが主演として演じてみせた「理由なき反抗」でのジャケットの内側に、インナーとして白いシンプルなカットソーつまりTシャツ姿、そしてデニム。

 

これが当時の人々の目にどのように映ったのか定かではないものの、カットソーにデニムというのは、現代にも通じる古典的でシンプルなファッションスタイルと言える。そのシンプルでありながら洗練された格好良さというのは、衝撃的なインパクトを一般の人たちに与えたのではないかと思われる。

 

これは、例えば、今でもブラットピット主演の「ファイトクラブ」のような時代負けしない普遍的なクールさを持つ作品といえるかもしれない。ディーンのジャケットの内側に、シンプルにカットソーをあわせ、そこにまた彼のトレードマークともいえるオールバックのヘアスタイル、これは現在の流行として引き継がれている古典的ファッションだ。

 

あまり映画フリークではないので、偉そうなことはいえなものの、そして、この作品「理由なき反抗」こそ、ディーンというムービースターの最も輝かしい生きた瞬間を写し撮った姿ではないかと思われる。そういえば、かつて明治期に映画製作を手掛けていた谷崎潤一郎は、映画俳優がスクリーンの中で永遠にその当時の最も美しい形で写り込んでいる。その瞬間に凝縮される不変の輝きこそ賞賛に足るものであるというようなニュアンスを作中において語っている。

 

同じように、ジェームス・ディーンがこの世を去っても、作品中の彼の輝きというのは不思議なくらい失われず、スクリーンの中で最も美しい時代の姿として刻印されている。これが、映画という媒体でしか味わえない醍醐味と思う。見てくれの悪そうなアウトローの雰囲気は、当時の一般の人の憧れとなったはず。また、ジェームス・ディーンは、二十代という若さで生涯を終えたという事実についても、彼のその後の映画での活躍を見られなかったという悔しさがある。27歳で死んだ伝説的なロックスターと同じように、映画愛好家にとどまらず一般の人たちにも、ディーンという存在に対し、一種の神格化めいた光輝を与え、そして、このTシャツの流行を普遍的なものにする要因となったかもしれない。

 

 

 3.ロックTシャツの誕生

 

 

一般的に、ロックTシャツが誕生したのは、ケルアックを始めとする文学のビート・ジェネレーションの世代の後と言われている。

 

カルフォルニアを中心に発展したこのビート運動は、文学の世界にとどまらず、ロック音楽の世界まで深い影響を及ぼした。特にUCLAの学生などは、このビートニクス作家を好んでいたと思われる。このビートニクスの元祖ともいえるのは、ヘルマン・ヘッセの「荒野のおおかみ」である。(この作品は、ステッペン・ウルフのバンド名のヒントにもなるが、内容は、内的な分裂性を題材にし、思索の世界の最深部に踏み込んでいった歴史的傑作である。サイケデリック文学の先駆けともいえる傑作の一つだ)

 

60年代後半になって登場したグレイトフル・デッド、バンドの取り巻きのファン、Deadheadsが音楽でのヒッピー・ムーブメントを牽引していった。 

 

 

Grateful Dead (1970).pngGrateful Dead Billboard, page 9, 5 December 1970 Public Domain, Link

 

 

グレイトフルデッドというバンドは、サイケデリック・ロックを一般的に普及させたロックバンドである。

 

すでにジャック・ケルアックの時代からはじまっていたビート運動を敏腕プロモーターとして後押ししたのが、ビル・グレアムという人物だった。

 

グレアムは、フィルモア・ウェスト、フィルモア・イースト、ウインターランドといった大掛かりなライブハウス経営に乗り出した人物で、米国でのライブハウス業の先駆者といえる。*5 アメリカの西海岸のカルフォルニアにとどまらず、東海岸のニューヨークのロック文化を活性化した敏腕プロモーター兼ライブハウス経営者である。

 

そして、ビル・グレアムが、60年代の終わりに、Tシャツアパレル製造会社を立ち上げ、初めてグレイトフル・デッドのロックTシャツの販売を開始した。*4 これが、つまりロックTシャツの元祖。

 

これがどれくらい売れたか、どれくらいの規模の広がりを見せたかは後の調査する必要がある。そして、少なくとも、このグレイトフル・デッドというロックバンドのTシャツのデザインには、サイケデリックアート界の巨匠、リック・グリフィンが絡んでいる。

 

ロックミュージックのアルバムアートワークという側面では、アンディ・ウォーホールばかり取りざたされる印象を受けるものの、リック・グリフィンは、ジミ・ヘンドリクス、グレイトフル・デッド、イーグルス、ジャクソン・ブラウンのアルバムジャケットを手掛けたアート界の巨匠である。

 

サイケデリックという概念を、全面的に突き出した、LSDによる幻覚作用をそのままに視覚的に刻印した感じのどきついデザイン性がリック・グリフィンの作品の特徴である。

 

昨今、グリフィンの再評価の機運が高まっているように思えてならない。ドクターマーチンのブーツに、グリフィンの手掛けたサイケデリックアートのモチーフをあしらった商品まで発売されていることから、ウォーホールほど有名でないものの、いまだ根強い人気があるアーティストである。つまり、グリフィンがこういったロックTシャツのデザインを手掛けたことも、ロックTシャツをさらに魅力的にし、アートとしての価値も高める要因となったように思われる。

 

また、このロックTシャツ生産販売というのは、音楽において、つまりレコードやライブパフォーマンスの収益とは別の産業の側面を生み出した。つまり、グッズ販売としての相乗効果も生み出されたというわけである。

 

現在、アニメーション等ではごくありふれた手法、作品における他のアーティストとのタイアップの概念というのは、リック・グリフィンの手掛けたロックTシャツのデザインが始原であったのではないだろうか?

 

 

4.バンドTシャツの普及

 

 

七十年代に入ってから、ロック、バンドTシャツの生産販売は一般的になっていったように思える。

 

ビートルズ、ローリング・ストーンズ、ジミ・ヘンドリックス、ザ・フーといった一般的なロックバンドのシャツも市場に出回るようになったのは、この70年代ではないかと推定される。それから、有名なロンドンパンク・ムーブメントにおいて、セックス・ピストルズを筆頭に魅力的なバンドTシャツの生産が数多く行われるように至ったというのが妥当な解釈なのかもしれない。

 

また、経済的な側面でもグッズ収入における金銭の流れというのは、グレイトフル・デッドの時代から比して、70,80,90年に差し掛かると、一大産業として確立されてもおかしくない額に上るようになったのではないだろうか。そして、バンドTシャツはサブカルという範疇にとどまるものの、一種の文化として確立されるに至った。カルチャーとしての拡がりはロックシーンにとどまらず、Run-DMCのようなヒップホップシーンにも波及していく。

 

八十年代に入り、レッド・ツェッペリンやブラック・サバスといったハードロック・バンドだけでなく、ヘヴィメタル・バンドのTシャツも出てくる。メタリカ、メガデス、アイアン・メイデン、ジューダス・プリーストというように、枚挙にいとまがない。実に名物的なバンドロゴやアルバムをモチーフにしたTシャツが大量に生産されるようになる。このあたりのロックバンドは、熱狂的なファンを一定数抱えており、現在もファンの総数は依然多いように思われる。

 

元来、ロンドンパンクスよりもどぎついキャラクターを持つバンドも多く、一般的な美学から見ると、悪魔的なバンドロゴ、アルバム・アートワークをバンドキャラクターとしているが、表面上の美という概念から離れた「醜悪美」のような概念を偏愛する人々は、一定数存在することは確かだろう。

 

 

Sonic Youth「Goo」
この70〜80年代のロックTシャツは、現在でも、よく古着屋で販売されており、ビンテージ品と呼ばれる。

これは、一部に熱狂的なコレクターがいるようだ。どうやら、中には、ウン十万!?という高値で取引される商品まであるというのだから驚くしかない。

 

 

現在、ロックTシャツとしては、ソニック・ユースのGoo、ヴェルヴェット・アンダークラウンドのデビュー作のアルバム・アートワークをあしらった商品が有名かと思われる。

 

終わりに

 

 

近年では、大掛かりなロックフェスにおいて、こういったアーティストのロゴ、アルバムアートワークにちなんだシャツというのが販売されるのはごくごく自然な事となった。

 

実は、これというのは、大まかな起源を辿てみれば、60年代後半に隆盛したヒッピー文化、グレイトフル・デッド、その取り巻きのデッドヘッズ、敏腕プロモーター、ビル・グラハムのもたらした考案の恩恵だった。

 

昨今、プロモーター、音楽、広告制作会社にとどまらず、インディーズ界隈のバンドにとっても、自分のバンドのロックTシャツをオリジナルに作製し、ライブ会場等で販売し、それをファンに購入してもらうというビジネル・スタイルは確立され、ロックバンド活動を維持する上できわめて重要な収入源となった。

 

また、アパレル業界の商品という側面から見ても、著名なロックバンドとデザイナーのタイアップ、コラボというのは、以前よりはるかに身近で接しやすいものとなったように思える。


 

参考


*1 OUTER LIMITS.CO  https://outerlimits.co.jp/pages/merz-b-schwanen

*2Rivaivals GALLERY.com http://revivalsgallery.com/?mode=f26

*3繊研新聞社 [今日はなんの日?] ジェームス・ディーンとTシャツと https://senken.co.jp/posts/rebelwithoutcause-tshirs

*4*5 Prisma creative products コラムNO.3 Tシャツと音楽の関係性について https://www.prismacreative.jp/columns/column03.html

 


1.バンドフライヤーの概念


バンドフライヤーというのは、ごく簡単にいえば、ロックバンドのライブ告知を知らせるための、主に紙の形式で展開されるチラシ媒体。

 

例えば、何月何日に誰彼というアーティストのライブがありますという際に、バンド名やライブの日程といった事項をわかりやすく告知し、一般の不特定多数の人々にバンド名自体の認知度を高める効果もあります。もちろん、それは主要なバンド名とともに併記されている他の無名のバンドの知名度を高める相乗効果もいくらか見込めるでしょう。

 

これらのバンド広告は、プロのデザイナーが手掛けたわけではなく、その多くはミュージシャンのハンドメイドによって作製されたものです。

これを、例えば、ライブハウスのフロア内の壁などに貼っておけば、その日の公演に訪れたファンが、何月何日にこのバンドのライブがあると確認し、その日のライブを事前にチェックしておく、そんな効果が期待できます。

もちろん、これはライブハウスの中だけでに留まらず、街角の壁に貼っておけば不特定多数の人々の目に止まりますので、適法性如何はここでは言及しないでおくとしても、それなりに宣伝効果が見込めるわけです。

こういったフライヤー文化というのは、のちに、雑誌上、もしくは独立したファンジン誌、フリーペーパーなどにおいて紙媒体として展開されていきました。それは紙媒体がデジタル化として移行しつつある現在でも引き継がれている形であり、例えば、ライブ会場のHPの掲載される公演の日程を銘記した情報というのも、いわゆるデジタルフライヤーという概念の範疇に入るでしょう。

 

2,バンド・フライヤーの発祥

 

個人的には、おそらく、ウッドストック、もしくはセックス・ピストルズをはじめとする初期のロンドンパンクスのバンドフライヤーを見かけたことがあるので、他のジャンルでは別としても、ミュージック業界で使用されはじめたのは七十年辺りが原初だろうと思っていましたが、どうやら思い違いであったようです。

よく調べてみると、ビートルズの66年のコンサートフライヤーがありました。ということは、このあたりの年代がバンドフライヤーの発祥だろうと思われますが、全くそれ以前に存在しなかったのか、もう少し調査する余地があるかも知れません。

一方、アメリカでは、とりわけ、パンクロックバンドに、このフライヤーというものが親しまれており、バンドの活動の背骨を支えてきたといってもいいでしょう。ベルベット・アンダーグラウンドあたりはすでに、非常にクールでスタイリッシュなバンドフライヤーを作成していました。 

また、ニューヨークの有名ライブハウスのcbgbのフライアーにも、イギーポップ、ブロンディ、テレビジョン、トーキングヘッズ、ディクテイターズといったニューヨークパンクを牽引したバンドの名が見られます。


3.フライヤー文化の隆盛


このバンドフライヤー文化は70年代のロンドンパンクあたりになると、非常に個性的なデザイン性が出てきます。

凝ったフォントを取り入れ、厳しい雰囲気を醸し出してみたり、強烈な印象を与えるような写真をレイアウトの中心に収めたりと、デザイン性においても多様性が出てきます。

このバンドフライヤー文化は、とりわけアメリカのパンクロック・バンドに親しまれ、独特なカルチャーを形成していきました。すでに六十年代には、ヴェルベットアンダーグラウンドが非常にクールなフライヤーを作成していました。これは今でも通用するような洗練されたデザイン性を有しています。

また、ニューヨークの伝説的ライブハウスcbgbのフライアーもありまして、イギーポップ、ブロンディ、テレビジョン、トーキングヘッズ、ジョーイ・ラモーン、ディクテイターズあたりのニューヨークパンクを牽引した華々しいバンドの名が見られます。

また、のちに有名なミュージシャンとなるアート・リンゼイ擁するノー・ニューヨークのdnaの名も、cbgbのライブ日程のフライヤーに見られるところがなんとも興味深い。こういったフライヤーをぼうっと眺めていると、リアルタイムでは味わえなかった往年のニューヨークのミュージックシーンの熱気がフライヤー自体から読み取れるかもしれません。

それ以降も、アメリカのパンク界隈のバンドにはこの文化がかなり浸透していき、カルフォルニアのデッドケネディーズ、黒人のみで構成されたバッドブレインズ、もしくは、DC界隈の主要なハードコアバンドはハンドメイド感を全面に押し出し、そこに個性と思想性を打ち出すことにより、派手なフライヤー活動を展開していくようになりました。また、フガジなどのフライヤーにはマルティン・ルーサー・キング牧師の名も見られ、ここに思想と分かち難く結びついたビラとしての効果が見受けられます。

こういったフライヤーというのは、コレクター所有欲を駆り立てるものの一つでしょう。透明な額縁に入れて壁に飾りたくなるようなかっこよさがあって、愛好家からしたらたまらないものがあるかもしれません。


4、現代のフライヤー


これらの英国や米国のパンクバンドを筆頭に、独自展開されていったバンドフライヤーというのは、今日のミュージシャンにも引き継がれていきます。

それはたとえば、HP上の広告として、また雑誌中に掲載されているのも見られるかもしれません。例えば現代の私たちが過去のフライヤーを見て、なんとなくノスタルジアを感じるように、今日のバンドフライヤーというのも時が経てば、なんともいえない味が出てくるのかもしれません。

概して、ミュージシャンというのは音楽とメンバーのキャラクターばかりにスポットライトが当てられるように思いますが、今回はフライヤーといあ普段あまり取り沙汰されないような側面から音楽を見つめてみました。 

あらためて自分の好みのバンドのフライヤーのデザインに着目してみると、また一味違ったバンドの良さ、楽しみ方が見出せるかもしれません。

 

1980年代初頭、ワシントンDCを中心として、パンク・ロックムーブメントの大きな運動が起こりました。もちろん、同時代のイギリスでも、このムーブメントは盛んになっており、革ジャンを着て、ド派手なスパイキーヘアと呼ばれる逆立ったカラフルな髪型をし、硬派なアップテンポなロックンロールをふてぶてしく奏でる。 そんなミュージックシーンが徐々に形成されていきました。

 

その一方、もうひとつの主要なパンク・ロックシーンの形成地のアメリカでは、イギリスとは異なる独特なシーンが形作られるようになっていきます。

 

後になると、このハードコア・ムーブメントは、NY、LA、もしくは、ボストンをはじめとする大都市に広がりを見せはじめ、独自の熱を帯びた魅力的なインディーズ・シーンを形成していくようになっていきます。このムーブメントの立役者となったのは、TEEN IDLES 、S.O.A、そして、もうひとつなんと言っても避けては通れないのが、MINOR THREATというアーティスト。この3つのバンドが中心となり、ムーブメントの旋風を巻き起こしました。これはまた、一部の界隈にしか影響を及ぼさなかったわけではなく、オーバーグラウンドにいるニルヴァーナのデイブ・グロールのようなスター的な存在も、当時こういったバンドの動向に着目していて、少なからず影響を受けたと後になって回想しています。

 

 

 

このハードコア・パンクというジャンルの特徴というのは一言でいうと、とにかく攻撃的でアグレッシヴで、2ビートや8ビートを主体としたアップテンポな楽曲で構成されるという特色があります。 ライブパフォーマンスにおいても、過激で剣呑な雰囲気に包まれていて、ほとんど暴動といっても過言ではない危なっかしさ。

 

およそ観客同士だけではなく、アーティストと観客が喧嘩をおっぱじめるのではなかろうか、当時の貴重な映像などを見ていると、ヒヤヒヤするような雰囲気もあります。 

 

Love minor threat.jpg
Public Domain, Link

ときに、嵩じた観客がステージ上までのぼり、多数のファンが入り乱れながら、ボーカリストのマイクを奪い取り、代わりに曲をシンガロングするという熱いスタイル。

 

これはのちのニュースクールハードコアとなると、さらに観客たちの過激性はましていき、跳ねまわるように踊る”モッシュピット”、腕を振りまわしながら踊る”ハードコア・フリースタイル”という独特の踊りまで出てきます。

 

こういった音楽に対して、血の気の多い野郎だけが、共感を示していたのかというと必ずしもそうではありません。少なくとも、そこには社会のなかのマジョリティという網からこぼれ落ちた存在を、受け入れる余地を作るという良い側面もあって、そういった存在を受け入れ、彼等の社会的に虐げられた精神を奮い立たせ、その足でしっかり立つように発破をかけていました。

 

これこそが、ハードコアの主義主張の際立った役割であったのかもしれません。この頃、すでに、往年のオーバーグラウンドの多くのパンクロック・バンドがスターダムの方に押し上げられていってしまい、およそ、そのシーンの渦中にあるジョニー・ロットンをのぞいて、カウンターカルチャーとしての意義を見失いつつあった風潮を、ワシントンDC界隈の苛烈な音を奏でるミュージシャンはあまり良しとせず、インディーミュージックという形で、彼等が手中に取り戻そうとしていたのでしょう。

 

MINOR THREATのツアーをドキュメンタリー風に追ったフィルム、「At The Space・Buff Hall・9:30 Club」という作品があって、この映像を見ると、観客のほとんどが無骨な風貌をした若い男性客で占められていますが、そこに、ひとりの黒人女性が、他のほとんど暴徒化寸前の男の観客に臆することなく、途中でステージ上にあがってきて、マイナー・スレットの歌をシンガロングしている様子が映り込んでいます。

 

ここには、まさに、ハードコア・パンクというジャンルが、オーバーグラウンドの白人音楽に共感を示しえないマイノリティである黒人女性の心をしっかりと捉えたような印象が伺えます。 また、このハードコア・パンクという武骨なジャンルの中には、さまざまな思想的側面が込められています。

 

その中のひとつに、”DIY”という精神が挙げられます。 これは日曜大工などで、よく聞く言葉でしょうけれど、その名の通り、「Do It Yourself」という概念がこの音楽の主張には貫流しています。

 

それは、「他に依存したり、頼るのでなく、君自身の力でやれ」というスタイルが、こういったバンドの音楽性からにじみ出てくる主題でした。

 

それから、ひとつは、自身のMinor Threatにおける活動を軌道にのせていくため、もうひとつは、こういった主義に近いバンドの活動を応援していくため、イアン・マッケイは、独立したファンジン「DISCHORD RECORD」をワシントンDCに旗揚げし、起業家としての顔も垣間みせつつ、周辺のバンドを音源という形で支援し、上記したTeen IdlesやS.O.Dの楽曲リリースを続けていきます。これらのバンドのメンバーが、レコード会社を立ち上げ、自身の音源を次々にリリースしていく活動自体に、「D・I・Y」の源流、”Do It Your Self”精神が垣間見えるようです。

 

そのスピリットというのは、以降のパンクカルチャーに根深い影響を与え、米国内においては、Bad Religionのメンバーが立ち上げた「EPITAPH RECORD」というのも、インディペンデントレーベルの活動の一環として挙げられるでしょう。

 

実は、日本においても、同じような事例があり、HI-STANDARDの横山健が「PIZZA OF DEATH」を立ち上げ、自身のバンドのレコードのリリースだけにとどまらず、有望そうなバンドを発掘、後進育成のため、現在もリリースを重ねています。

 

彼等のような存在は、はじめから潤沢な資金に恵まれたから、レコード会社が設立出来たわけではありません。これは綺麗事のように聞こえるかもしれませんが、人一倍の情熱があったから、ベンチャー企業的な思い切った舵取りが出来た。

 

何より、このイアン・マッケイが設立した「DISCORD」のビジネスモデルが確立された前例があったからこそ、上記の後進のアーティスト達は恐れることなくインディーレーベルの経営を進めていくことができたわけです。

 

 

DISCHORD LABELからリリースされた初期のバンドで秀逸な名盤を挙げておくと、RITES OF SPRINGの「End ON END」、アップテンポでキャッチーな楽曲が魅力であるメロディックハードコアの草分け的な存在ともいえる、DAG NASTYの「Can I Say」と、イアン・マッケイの弟、アレックのバンド、FAITHのリリース音源「VOID:FAITH」等がカタログ初期の名盤として挙げられます。

 

その後、Dischordの主宰者、イアン・マッケイは、ハードコア・バンドのリリースを続けていく傍ら、自身のMinor Threatの活動においても、「Straight Edge」という楽曲から汲み出された禁欲的な思想性、 

 

(俺は、酒を飲まない、タバコを吸わない、享楽的なセックスもしない」

 

と、イアン・マッケイの激しいアジテーションによって歌われている)

 

を前面に押し出していって、国内全体のハードコアシーンを牽引する象徴的な存在に押し上げられていきます。

 

しかし、彼自身は、ややもすると、自身がそういった神格化をされることをさほど快く考えていなかったのでしょう。

加えて、1980年代中頃あたりから、こういったハードコア界隈のバンドの音楽性は、押し付けがましく、また思想めいてきて、政治色、もしくは宗教的なカルト性を帯びたバンドが出始めた頃から、イアン・マッケイはこのシーンに対して徐々に距離をとっていくようになります。 

 

おそらく、マッケイ自身は、もちろん、様々な音楽の楽しみ方があると思いつつも、元来、そういった野暮というのか、無骨で横柄な振る舞いをする観客を本心ではあまり快く思っておらず、上記した「Buff Hall」のツアードキュメンタリーにおいて、そういった音楽や詩に耳を傾けないで、ストレス発散のために自分のライブを無茶苦茶にするような輩を見ると、自分でもどうしたら良いかわからないという具合に、不満げに顔をしかめています。時に、そういった暴徒的な観客に対し、本気で叱責するようなシーンも見られる箇所もあるのが興味深いところ。

 

その後、Minor Threatのすさまじいアジテーションを有した音楽性は、徐々になりをひそめていき、どことなくメロディアス、ポップでありながら、深い哲学性を感じさせる音楽のテイストに変わっていきます。

 

Minor Threat自体の活動は、それほど長くは続かず、三年後にあっけなく解散にいたります。その後、イアン・マッケイは、それまでとは異なる方向性を追求していくため、1987年、 Rites Of Springのガイ・ピチョトーと、Fugaziを結成するに至ります。

 

この”Fugazi”というバンドはRites Of spiringの音楽性の延長線上にあり、ポスト・ロック色の濃い音楽性を特徴としており、後発のパンクロック・バンドに啓示を与え、音楽性だけにとどまらず、バンドのマネージメントスタイルにおいても、今なお多大な影響を与え続けています。彼等は、商業的な活動と距離を置いて、反商業主義を旗印として掲げ、長い活動を続けていきます

 
Discordレーベルの金字塔「In on the Kill Taker」
 その後、イアン・マッケイの心変わりを反映したのか、Dischord Recordのリリース作品というのも、年を経るごとに音楽性が変遷していき、レーベル発足当初は、ほとんどハードコア一辺倒であったのが、 カタログを見てみると、90年代に入ると、オルタナティヴ、ダンス、もしくは、ポスト・ロック風味を感じさせる、多種多様な音楽性のバンドのアルバム作品を続々とリリースするようになっていきます。
 
 

その中において、シーンで際立った存在、Jawbox,Pupils、Q And Not You、どのジャンルにも属しがたい、独自色の強いバンドを発掘していきます。

 

殊に、Jawboxというバンドは、ピクシーズをよりパンク色を強めた音楽を奏でており、良質な大人向けの渋いオルタナロックバンドとしておすすめしておきたい。  もちろん、リリースしていくバンドの音楽性が多種多様になっていく中、音楽性の根幹的な目的自体が様変わりしたのかといえば全然そうでなく、相変わらず、「D・I・Y」精神に則り、既存のシーンに対するカウンター・カルチャー的存在を90年代、00年代にかけて、Dischordは続々と輩出していきました。 

このような反体制的なレーベルが、こともあろうに、米国の首府ワシントンDCから出てきたという点が、他の国家ではありえない信じがたいことでしょう。

今日のミュージックシーンには、「ひとりでやる」という精神を掲げ、シーンを形成していくような気概あるバンドに乏しい中、このレーベルの周辺にまつわる逸話は、米国の本来の意味での自由が約束されていた時代の良きエピソードが垣間見える。一世紀近いロック史を概観した上でもかなりユニークな出来事と思えたため、今回、このような形で、DIY精神と銘打ってディスコード・レーベルをご紹介させていただきました。

 

 

総括すると、このディスコード界隈のバンドは、現代の管理の行き届いた社会に比べると、はるかに自由奔放で独立した精神「Do It Youeself」というキャッチコピーを高らかに掲げ、実際それを実践していたという面で、他のシーンにない独特な魅力にあふれるアーティストばかりであったように思えます。

現在では、すでに解散をしているバンドが多いです。また、表面上では、巨大市場を形作るまでに至らなかったのは事実でしょう。しかし、ワシントンDC発、”Dischord”は、米国のインディペンデント・レーベル「Touch& GO」「Matador」「Sub Pop」と共に、1980年代から今日に至るまでの米国インディーズ・ミュージックシーンを逞しく牽引し、文化的貢献を担ってきた象徴的存在であるということだけは間違いありません。

 

 

 「参考資料」 DISCHORD DISC GUIDE disk UNION staff selection 


*記事内のビートの説明に関して誤りがございました。訂正とお詫び申し上げます。教えていただいた方に感謝いたします。