さて、ダニー・ブラウンが何年も前から予告していたこの新作には、ブルーザー・ウルフ、カッサ・オーバーオール、MIKEがゲスト参加し、クエル・クリス、ポール・ホワイト、SKYWLKRらがプロデュース。この作品は、2019年の『Uknowhatimsayin¿』と3月にリリースされたJPEGMAFIAとのコラボレーション・アルバム『Scaring the Hoes』に続く作品となる。
『For All the Dogs』は、初週に23曲で5億1,400万回のオンデマンド公式ストリーミングを記録し、これはアルバムとしては過去4番目に高い単週ストリーミング数である。最大のストリーミング週間は、ドレイク自身の『スコーピオン』(7億4590万、2018年)と『サーティファイド・ラバー・ボーイ』(7億4370万、2021年)、スウィフトの『ミッドナイツ』(5億4930万、2022年)の初週が達成している。
さらに、ニュー・アルバムからの全23曲がビルボード・ホット100にランクインし、ドレイクはトップ5ヒット(41曲)、トップ10入り(76曲)、トップ20入り(132曲)、トップ40入り(199曲)、総合入り(320曲)など、多くのチャート記録を更新した。J.コールをフィーチャーした "First Person Shooter "が初登場1位を獲得し、ドレイクにとって通算13作目の首位となった。(J.コールは自身初の1位獲得)。
5月にリリースされたニューアルバム『ANIMALS』(レビュー)は、The Observer、Mojo、The New York Times、Stereogum、Pitchfork、Paste、Treble、Brooklyn Vegan、American Songwriter、NPR Musicなどから支持を得ている。また、タイニーデスクでは、「音楽性、叙情性、芸術的革新の名人芸 」と評された。
最新作『喜哀』については、前作よりも内面的にふつふつと煮えたぎるフラストレーションをリリックに落とし込んでいる。それは、みずからの言葉に対して遠慮がなくなった、また、言葉が鮮明になったとも考えられる。OMSBのラップのスタイルは、ニューヨークのドリルとも、シカゴの2010年代のドリルとも、Mick Jenckins、McKinly Dicksonに象徴される現行のオルタナティヴ・ヒップホップとも、ロンドンのドリルとも違う。当然のことながら、Little Simzとも、KIller Mikeとも異なり、JPEGMAFIA/Billy Woodsのアブストラクト・ヒップホップの前衛的な手法とも異なる。どちらかと言えば、OMSBのリリック・スタイルは、北海道/札幌のThe Blue Herbの系譜に属しており、90年代からめんめんと続くJ-RAPの核心を突くアプローチなのである。そう、それほどリズムの複雑性を押し出さず、シンプルなビート/トラックを背後に日本語のリリックを駆使し、ナチュラルなフロウをかましていくのが、OMSBのスタイルなのである。
ただ、その中に、海外のヒップホップと共通点を見出すことが難しいかと思えば、そういうわけでもない。例えば、『喜哀』のオープニングを飾る「More Round」では、疾走感のあるビートを背後に、いわば「肩で風を切るようなフロウ」を展開している。これらのドライブ感のあるラップのビートに、Mckinly Dicksonの「Run Run Run」と同じ様なニュアンスを見出したとしても、それは多分錯覚ではあるまい。表向きにはドリルの形はほとんど見えないように感じるが、ドリルのフロウで展開される節回しを駆使し、トラックメイクの強固なグルーヴを味方につけて、サンプリング/チョップの要素を織り交ぜ、目くるめく様にアグレッシヴなラップを展開する。そして、リリックの中にも「風神 雷神」といったジャポニズムの影響を込めた日本語のリリックを織り交ぜ、町中をバイクで飛ばすように、軽快に風を切っていく。前作では、日本人というアイデンティティを探し求めるかのような表現も節々に見受けられたが、今回のオープニング・トラックでは、「日本人であるということが何なのか」を自ら示そうとしており、受動的な表現から主体的な表現へと切り替わったことに大きな驚きを覚える。彼のリリックは、日本人という感覚が希薄になった日本のアーティスト達をギョッとさせるのではないか?
同じようにまったく海外の現行のラップとはかけ離れたようでいて、「Hero Is Here」 ではギャンスタラップの影響を交えたラップが続く。例えば、Icecubeのような過激かつ激烈な表現性はそっくりそのままクライムへと直結するため、現代の米国のラッパーは、たとえそれが冗談にすぎないとしても、挑発的な表現や過激なリリックを極力控えるようになって来ている。シカゴのギャングスタの出身者でさえ、表向きにはハート・ウォーミングな内容の歌を歌うようになっているが、OMSBは、ギャングスタ・ラップに見受けられるエクストリームな表現を、ブラック・ミュージックの純粋な様式美と捉えているらしい。しかし、苛立ちやフラストレーションを込めたOMSBのリリックスタイルは、外側に対する攻撃性とはならず、「だめなやつほど、俺をありがたがる」という自虐的とも取れるシニカルな表現となっている。これが「ガキ使」等のリリックとともに、ちょっとしたコメディーのような乾いた笑いを誘う場合があるのだ。
アルバムの最後にも注目曲が収録されている。以後の2曲は、DJセットの後のクールダウンの時間を設けたかったというような意図を感じ取れる。「Sai」は、ロレイン・ジェイムスやトロ・イ・モアのようなエレクトロニック/チルウェイブを繊細な感覚と結びつけて、序盤の印象とは異なる切ない情感を表現している。シンプルなループ・サウンドではありながら、その中には緩急があり、夕暮れ時に感じるような詩情や切ない感情をLofi-Hopのスタイルに昇華している。「Blood」では、ソウルとヒップホップの融合というDe La Soulの古典的なスタイルを継承している。アルバムのクロージング・トラック「Mement Mori Again」は、果たして映画に触発された内容なのか。フィルム・ノワールの影響を込め、サックスのソフトウェア音源を取り入れたシネマティックなラップを示し、タイトル曲「喜哀」と同音異義語である「気合」を表現している。最後のトラックでは、OMSBのパーソナリティな決意表明とも取れる、信頼感溢れるリリックが展開される。しかし、その言葉は上滑りになることはない。ヒップホップ・ファンとしては、OMSBというJ-Rapの象徴的な存在に対して、一方ならぬ期待感を覚えてしまう。
86/100
Featured Track 「喜哀」
Jamila Woods 『Water Made Us』
Label: Jagujaguwar
Release: 2023/10/13
Review
シカゴの詩人、R&Bシンガーとして活躍するジャミーラ・ウッズの最新作は、モダンなネオ・ソウルからモータウン・サウンドに象徴される往年のサザン・ソウル、そしてスポークンワードと3つの様式を主軸に、聞きやすく、乗りやすいサウンドが構築されている。注目は、同地のシンガーソングライター/ピアニストであるGia Margaretがスポークンワードを基調とする「I Miss All My Eyes」で参加している。そのほか、モータウン・サウンドを現代的なハウス・ミュージックと融合させた「Themmostat」にはPetter Cottontaleが参加している。全体的にBGMのようなノリで聞き流すことも出来、ブラック・ミュージックらしい哀愁も堪能出来る。本作にはUKのジェシー・ウェアのソウルとは異なるブルースの影響が感じられることも特記すべきだろう。
アルバムの世界観の中核を担うのはスポークワードのインタリュードであり、その文脈については不明であるが、作品全体としてみたとき、ある種のナラティヴな要素を与えていることは確かである。「let the cards fall」では最初のボーカルのサンプリングが登場する。特にモノローグではなく、複数の人物が登場しているのが重要であり、ここには人物的な背景を一般的な曲の中に導入し、演劇や映画のワンシーンのような象徴的な印象性を組み上げようとしている。
アルバムの序盤では、いくらか大人びた印象のあるR&Bが主体となっているが、続く中盤部では、むしろそれとは正反対に感情性を顕にしたソウルへと移行している。「Send A Dove」では、センチメンタルな感覚を包み隠さず、それを丁寧な表現性としてリリックや歌に取り入れている。グリッチやシカゴ・ドリルのようなリズムを交えたナンバーではあるが、それほど先鋭的な曲とはならず、どちらかと言えば、ベッドルーム・ポップのような感覚を擁する一曲として楽しめる。そして実際に、オートチューンを掛けたモダンなポップスの様式と掛け合わされ、イントロのソウルやヒップホップから、精彩感のあるインディーポップへとその印象性を様変わりさせていく。これらの純粋な感じのあるポップスに注文をつける余地はないはず。一転して、「Wrecage Room」では懐かしのモータウン・ソウル(サザン・ソウル)の影響を元にして、本格派のソウルシンガーとしての存在感を示している。ジャズ風のメロウな音楽性を反映させた渋い感じのイントロから、ウッズの歌の印象は徐々に変化していき、アレサ・フランクリンやヘレン・メリルとそのイメージを変え、最終的には慈しみのあるゴスペルミュージックへと変化していく。ブラックカルチャーに対するアーティストの最大限のリスペクトを感じる。
同じように、「Thermostat」では、 イントロにスポークンワードを配した後、やはりアレサ・フランクリンを思わせるサザン・ソウルを基調とした渋い三拍子のリズムを取り入れ、懐古的なソウルへの傾倒をみせる。ただ、それに相対するリリックに関してはラップに近い感覚を擁しているため、旧さというよりも新しさを感じさせる。ソウルのように歌ってはいるが、節回しがフロウという前衛的なボーカルの手法を、ジャミーラ・ウッズはこの曲の中で提示している。そして、手法的には、ブラック・ミュージックが商業性の中に取り込まれ、その表現性を失った80年代よりも前の70年代のソウルの遺伝子のようなものが引き継がれているという印象がある。 その後の「out of the doldrums」では、年老いた男の声がサンプリングとして取り入れられているが、これはUKのソウルシンガー、Jayda Gの祖父の時代の物語を音楽の中に反映させようという意図と同じものを感じとることが出来る。そのスポークンワードの背後には、ニューオリンズかどこかのジャズの演奏をわずかに聴き取ることが出来る。それもラジオを通じたメタ構造(入れ子構造)のようなアヴァンギャルドな手法が示されているのもかなり面白い。
その後の「I Miss All My Eyes」には、ポスト・クラシカル調の楽曲を得意とするGia Margaretの参加が、ジャズではなくオーケストラルの印象へと近づいていく。薄く重ねられるフェーダーのギターとユニークなシンセサイザーのラインが組み合わされる中で、ウッズはスポークンワードを散りばめる。一見、アンビバレントに思える手法もウッズのリリックが入ると、クールな印象を受ける。音と言葉をかけあわせたアンビエント風のトラックは、和らいだ感じ、寛いだ感じ、そして平らかな感じ、そういった気持ちを安らがせる全てを兼ね備えている。言葉は、先鋭的な感覚を生み出すことも可能だが、他方では、安らいだ感覚を生み出すことも出来ることを示唆している。もちろん、この曲でのジャミーラ・ウッズの音楽性は後者に属している。
再びスポークワードの込めた「the best thing」を挟んだ後、「Good News」では、まったりとしたトロピカル・サウンドを基調とするファンク/ソウルでも集中性を維持している。クロージング・トラック「Head First」では、オープニングと呼応する軽快なネオソウルサウンドでこのアルバムは締めくくられる。
「そこで彼はジェフと出会った。同じスタジオでドラマーとしてセッションをしたとき、私は知らず知らずのうちにジェフに出会っていた。数カ月が経ち、エイドリアンはジェフ・バロウという男とどのような関係を築いているのかを私に話し、やがてある日、彼らが自分たちで作ったState of Arts Studioに来ないかと誘われた。彼らは2曲か3曲を持っていた。でも、彼らがとてもユニークなサウンドを生み出していることは明らかだった。エイドリアンと彼がチームを組んだ瞬間、彼らが急速に前進したのは明らかで、その後すぐに、彼らは実質的に2つの主要なレコーディング・セッションを行うために私を呼んだ。私が行ったこの2つのレコーディング・セッションが、実質的に彼らの最初のレコードの大部分になったんだ」
一曲目「The Drowned Not Abandoned」では、Arvo Partの「Fratress」等で用いられた鈴声の様式ーティンティナブリ(tintinnabuli)ーを継承し、それをミクロの視点からマクロの視点に置き換えている。チェロ、ヴィオラ、バイオリンを中心に構成される四声のオーケストラレーションは、ほとんどユニゾンという形式で繰り広げられていると思われるが、音が鳴り響いている瞬間ではなく、音が鳴り止んだ後の減退音に空間的な処理を施し、音響の未知なる可能性を追求している。
「The Drowned Not Abandoned」は、大きな枠組みで見れば、ひとつの楽節を反復するに過ぎない、現代音楽らしいミニマリズムの範疇にあるコンポジションではありながら、 その中に微妙なバリエーションの変化を用い、音響の中に変容をもたらそうとしている。それはバイオリンが表情の変化をもたらすこともあれば、同じようにヴィオラが、また、チェロが、それらのパッセージに微細な変容をもたらす場合もある。
「I Want and Shamble Beyond the Cemetery Wall」は、ウクライナ戦争における死者への弔いの念が捧げられている。室内楽のピアノとチェロの合奏という形の演奏だが、ナタリアによるものと思われるピアノの伴奏は、神妙かつ悲痛な情感を漂わせ、その上に加わるチェロの主旋律はブラームスの書いた室内楽のように清廉な気風を反映させている。この曲では、かつてオスロの作家/作曲家であるKetil Bjornstadが「The River」という長大な変奏形式を通じて探求した重厚感のある作風をありありと彷彿とさせるものがある。
これまで、制作者は、フィクション、ドキュメンタリー、シネマ、アニメーション等、映像音楽におけるオリジナルスコアも手掛けてきたが、そういったシナリオを強化するための音楽制作の経験が続く「St. Michael Golden-Domed Monastery」には見出すことが出来る。題名には「黄金のドーム」という東方教会に関するキリスト教の建築概念が含まれているが、実際の曲はそれほど宗教的とは言いがたく、現代的な映画のような感じで音の推移を楽しめる。同じように、重厚感のある弦楽の演奏を元に、シンセのアルペジエーターのフレーズを交え、映画音楽に類する作風を示そうとしているように感じられる。
EPを通じて、一貫した作風が貫かれている。「beyond the cemetery wall」は連曲というより、この作品におけるcoda.(作曲家が言い残したことを付加する)のような役割を担っている。ボーカルのハミングからピアノの演奏が続く。ピアノの演奏はポスト・クラシカルの系譜に属するが、最近の作品では珍しく、ピアノ・バラードに属するトラックで、アイルランド民謡に象徴される旋律やスケールの進行の中に取り入れられている。その簡素さが、むしろ大げさな表現性よりも哀感を誘う。
プロデューサーとしての自信を新たにした彼女は、アッシュヴィルのドロップ・オブ・サン・スタジオで、著名なエンジニア、アレックス・ファーラー(『Wednesday』、『Indigo de Souza』、『Snail Mail』)と共に『Tomorrow's Fire』を指揮した。ウィリアムズとファーラーは、最初の1週間で多くの楽器をトラックし、一緒に曲を作り上げ、マット・マコーガン(ボン・イヴェール)、セス・カウフマン(エンジェル・オルセン・バンド)、ジェイク・レンダーマン(別名MJレンダーマン)、デイヴ・ハートリー(ザ・ウォー・オン・ドラッグス)らが参加するスタジオ・バンドを結成した。
『Tomorrow's Fire』以前のスクイレル・フラワーは「インディー・フォーク」などと呼ばれていたかもしれないが、これは大音量で演奏されることを前提に作られたロックのレコードだ。この転換を告げるかのように、アルバムはスクイレル・フラワー初の曲を再構築した「i don't use a trashcan」で幕を開ける。ウィリアムズは、アーティストとしての成長を示すために、また、ループしたミニマルな彼女の声が空間を静寂にする力を持っていた初期のライヴを思い起こすために、過去に立ち戻ったのだ。
リード・シングルの "Full Time Job "と "When a Plant is Dying "は、アーティストとして生き、それが挑戦的なことである世界に立ち向かうことから来る普遍的な絶望を物語っている。ウィリアムズの歌詞に込められたフラストレーションは、音楽の自由奔放でアグレッシヴなプロダクションと呼応している。「人生には、時間を守ることよりも大切なことがあるに違いない」と、後者の高くそびえ立つコーラスで彼女は歌う。このような歌詞はアンセミックになる運命にあり、『Tomorrow's Fire』にはそれが溢れている。「私のベストを尽くすことはフルタイムの仕事/でも家賃は払えない」ウィリアムズは「Full Time Job」で、不安定なフィードバックに乗せて歌う。
このアルバムは、感情的な状態、軽さと重さを難なく滑っていく。4年後の2019年の夏に書かれた "Intheskatepark "は、過ぎ去った世界からの派遣のように聞こえる。スカスカでポップなプロダクションはGuided By Voicesを彷彿とさせ、ウィリアムズは夏の日差しの下、屈託なく潰れそうになることを歌っている。
「I don't use a trash can」はそのことが顕著に反映されているのではないか。驚くのは、曲そのものがそのことを雄弁に物語っている。「ベッド・シーツ」という日常的な寝具は、シンガーソングライターにとって、そのもの以上の意味を持つ。そこには、人生の断片的な感覚が反映されており、エラ・ウィリアムズの音楽の物語は、いくらかの悲しみを持ち、聞き手の心を激しく揺さぶるのだ。エレクトリックギターの弾き語りに、「I'm Not Gonna Change/ I 'm Not Gonna Be Queen〜」といった純粋な述懐を交えた後、ウィリアムズ自身のコーラスの多重録音がその合間に漂うかのように取り入れられ、ヒーリング音楽のような精妙な空気感が生み出される。曲の後半部では、シーツという言葉を用いて、ほとんど涙ぐませるような余韻をもたらしている。その悲しみや、やるせなさは表向きに語られることはないが、つまり、その言葉の背後に、深い人生の体験や、それにまつわる切ない思いがサブテクストという形で滲んでいる。
「I don't use a trash can」
マット・マコーガン(ボン・イヴェール)、セス・カウフマン(エンジェル・オルセン・バンド)、ジェイク・レンダーマン(MJレンダーマン)、デイヴ・ハートリー(ザ・ウォー・オン・ドラッグス)といったバンド編成のレコーディングの最初の成果が先行シングル「Full Time Job」に現れる。
しかし、普遍的なUSロックのソングライターからの影響もありながら、中西部のインディーロックシーンに根ざした楽曲も収録されている。「Stick」では、Wednesday,Slow Pulp,Truth Clubのオルタナティヴ・ロック性に焦点を当て、感覚的なものを余さず表現しようと努めている。ダイナミックなギターの音像を強調したサウンド・プロダクションは他のロックソングと同様であるが、ピクシーズの「Where IS My Mind」に見受けられる、コード進行の捻りが鮮烈な印象を及ぼす。オルタナティヴ・ロックバンドとして使い古されたと思えるような意外性のあるコードラインが、2023年のインディーロックソングとして聴くと、新鮮に思えてくる。反復的なギターラインとバラードにも似た感覚を擁するウィリアムズのボーカルの融合は、むしろ音源として楽しむというよりも、今後のライブツアーで大きな成果を発揮しそうである。
「When A Plant Is Dying」では、オープニングの雰囲気に戻るが、同じ様な感覚が表現されながらも、一曲目とはまったく異なる形のエモーションが示唆されている。最初期のラナ・デル・レイを彷彿とさせるサッドコア/スロウコアをパワフルなギターラインと融合させている。楽曲はハードロックや、インディーロックを下地にしているように思えるが、しかし、その中には、アメリカーナやカントリー等の音楽の影響が装飾的に散りばめられている。この曲は、ブルース・スプリングスティーンのUSロックの源流をたどりながら、より現代的な感性に親和性のあるものに組み上げている。しかし、轟音のギターロック・サウンドが途絶え、終盤に最初のバラードのモチーフに戻る時、癒やしの瞬間が訪れる。アウトロの後、幽玄な余韻が残される。ここには滅びゆくものへの傍観者の視点を交え、それを内的な感覚とうまく結びつけている。
こういった五年にも及ぶ、様々な人生を反映させたインディーロック/パンクロックには、実際の音を楽しむという以上に大いに学ぶべき点があるように思える。これとは決めつけがたい形で、多彩な概念を織り交ぜたアルバムは、その後、最もアメリカの情景的なロマンチシズムへと最接近する。「Canyon」 では、アイオワの農場を思わせる中西部の雄大な土地の幻影をギターロックとして描出している。ギターラインと歌の力だけで、サウンドスケープの幻想性を浮かび上がらせる表現力、及び感受性には感嘆すべきものがある。曲そのものから匂い立つイメージ、もしくは、曲から立ち上るイメージ、それは続く、「What Kind Of Dream Is This?」において、未知なるものに向けられる切なげなロマンチシズムに繋がり、スロウコア/サッドコアの緩やかな感覚に浸される。その後、その感覚がふと、米国の中西部に浮かぶ幻影の火のように立ち上ったかと思えば、クロージング・トラック「Finally Rain」にスムーズに移行してゆく。米国の中西部の『Tomorrow’s Fire - 明日の火』は、空からしとしと降り落ちるぼんやりとした広い雨つぶによってかき消されてしまうが、やがて、それとは別の目的地にさして向かってゆく。
スウェーデンの現代音楽家/実験音楽家、エレン・アルクブロ(Ellen Arkbro)は2019年に、パイプオルガンの音色を用いたシンセサイザーとギターのドローン音による和声法を対比的に構築した2015年のアルバム『CHORD』で同地のミュージック・シーンに台頭すると、続く、2017年の2ndアルバムでは、本格派の実験音楽に取り組むようになり、パイプオルガンとブラスを用いた「For Organ and Brass」を発表した。スウェーデンにはドローン音を制作する現代音楽家が数多い印象があるが、気鋭のドローン制作者として注目しておきたいアーティストである。
同様に、『Sounds While Waiting』のオープニングでは、「音は、その音を生じさせる有機体が存在するかぎり、音の実存を消し去ることは不可能である」という発見が示されている。「Changes」では、音響学の観点から、「音の発生と減退」というパターンを組み合わせ、音響の変容を及ぼそうとしている。マスタリングソフトをデスクトップに出すのが面倒なので、Hzの帯域に関しては確認してはいないが、このオープニングは、おそらく人間の聴覚では一般的に捉えることが出来ない超低音域をある音と、対極にある超高音域にある音が聞き手の印象を様変わりさせている。つまり、聴覚や音響発生学の観点から見た変化ということである。二、三の音のパターンが変化するに過ぎないのに、この曲には、それ以上の変容があるように感じる。
レコーディングには、アール・スウェットシャツ、ラリー・ジューン、Liv.e、Niontay、エル・クストー、ブルックリンのサイケロックバンド、クラムのライラ・ラマーニ、UKのシンガーソングライター、マーク・ウィリアム・ルイスが招かれている。MIKEはさらにアレックス・ハギンズが監督した「What U Say U Are」のビデオも公開している。下記よりご覧下さい。