OMSB 『喜愛』 


 

Label: SUMMIT.Inc

Release: 2023/10/11


Review

 

 

約一年ぶりの発売となったOMSBの新作『喜哀』。昨年のアルバム『ALONE』は、Music Magazineのベストリスト入りをしている。当サイトでもベスト・アルバムとして紹介しました。前作では、「波の歌」「大衆」等、J-POP風の音楽性を取り入れながらも、リリックの中でハーフとして生きることや、人生の中での純粋な疑問を、みずからに説くかのような、また反対にリスナー側に問いかけるかのようなリリックを披露した。OMSBというラッパーの何が素晴らしいのかというのは、人生を生きる上で自分なりの課題や疑問を持っていること。そして、それをリリックに落とし込む力量を備えていること。多分、この二点に尽きるのではないかと思う。


最新作『喜哀』については、前作よりも内面的にふつふつと煮えたぎるフラストレーションをリリックに落とし込んでいる。それは、みずからの言葉に対して遠慮がなくなった、また、言葉が鮮明になったとも考えられる。OMSBのラップのスタイルは、ニューヨークのドリルとも、シカゴの2010年代のドリルとも、Mick Jenckins、McKinly Dicksonに象徴される現行のオルタナティヴ・ヒップホップとも、ロンドンのドリルとも違う。当然のことながら、Little Simzとも、KIller Mikeとも異なり、JPEGMAFIA/Billy Woodsのアブストラクト・ヒップホップの前衛的な手法とも異なる。どちらかと言えば、OMSBのリリック・スタイルは、北海道/札幌のThe Blue Herbの系譜に属しており、90年代からめんめんと続くJ-RAPの核心を突くアプローチなのである。そう、それほどリズムの複雑性を押し出さず、シンプルなビート/トラックを背後に日本語のリリックを駆使し、ナチュラルなフロウをかましていくのが、OMSBのスタイルなのである。

 

ただ、その中に、海外のヒップホップと共通点を見出すことが難しいかと思えば、そういうわけでもない。例えば、『喜哀』のオープニングを飾る「More Round」では、疾走感のあるビートを背後に、いわば「肩で風を切るようなフロウ」を展開している。これらのドライブ感のあるラップのビートに、Mckinly Dicksonの「Run Run Run」と同じ様なニュアンスを見出したとしても、それは多分錯覚ではあるまい。表向きにはドリルの形はほとんど見えないように感じるが、ドリルのフロウで展開される節回しを駆使し、トラックメイクの強固なグルーヴを味方につけて、サンプリング/チョップの要素を織り交ぜ、目くるめく様にアグレッシヴなラップを展開する。そして、リリックの中にも「風神 雷神」といったジャポニズムの影響を込めた日本語のリリックを織り交ぜ、町中をバイクで飛ばすように、軽快に風を切っていく。前作では、日本人というアイデンティティを探し求めるかのような表現も節々に見受けられたが、今回のオープニング・トラックでは、「日本人であるということが何なのか」を自ら示そうとしており、受動的な表現から主体的な表現へと切り替わったことに大きな驚きを覚える。彼のリリックは、日本人という感覚が希薄になった日本のアーティスト達をギョッとさせるのではないか?

 

同じようにまったく海外の現行のラップとはかけ離れたようでいて、「Hero Is Here」 ではギャンスタラップの影響を交えたラップが続く。例えば、Icecubeのような過激かつ激烈な表現性はそっくりそのままクライムへと直結するため、現代の米国のラッパーは、たとえそれが冗談にすぎないとしても、挑発的な表現や過激なリリックを極力控えるようになって来ている。シカゴのギャングスタの出身者でさえ、表向きにはハート・ウォーミングな内容の歌を歌うようになっているが、OMSBは、ギャングスタ・ラップに見受けられるエクストリームな表現を、ブラック・ミュージックの純粋な様式美と捉えているらしい。しかし、苛立ちやフラストレーションを込めたOMSBのリリックスタイルは、外側に対する攻撃性とはならず、「だめなやつほど、俺をありがたがる」という自虐的とも取れるシニカルな表現となっている。これが「ガキ使」等のリリックとともに、ちょっとしたコメディーのような乾いた笑いを誘う場合があるのだ。

 

OMSBは、ラッパーという表情の他に、無類のレコード・コレクターとしての一面をもつ。タイトルトラック「喜哀」は、彼のレコードへの愛着がチョップというスタイルに落とし込まれている。チルアウトらしき音源をサンプリングの元ネタとして、彼は過去の住んでいた街やダチへの愛着を歌っている。愛着は、それが過去に過ぎ去ったものであるため、そのまま悲哀に変わるというわけなのだ。しかし、前曲のギャングスタ・ラップとは対象的に、OMSBらしいマイルドなフロウが押し出され、チルアウトな雰囲気が曲全体にはわだかまっている。わだかまっているというのは、それが内面的なモヤモヤのような感じで停滞し、それが決して外側に出ていくことがないから。しかし、これが、夕暮れの新宿のゴールデン街や吉祥寺のハーモニカ横丁を歩くような寂寞感を誘い、そして不思議なノスタルジアへといざなっていく。この曲では、アーティストなりの哀愁がラップを通じて表されているとも考えられる。 曲の中からは、言葉遊びを取り入れながら、強固なウェイブを作り出し、声のサンプリングを織り交ぜながら、フロウという表現の持つ面白さを探求している。また、この曲でもギャグセンスが散りばめられ、「そろばん 習っとけ」というサンプリングが導入されるが、これはもしかすると、アーティストが過去に聴いた誰かからの言葉を「喜哀」という形で集約しているのかもしれない。

 

同じように、レゲエ、R&Bをサンプリングに落とし込んだ「Vision Quest」にもレコード愛好家の姿が垣間見える。しかし、哀愁に近い感覚を歌った前曲とは異なり、どことなく開放的な感覚を思わせる。ターンテーブルに慣れ親しんだDJのように、リアルなダンスフロアでレコードを変えていくかのように、曲調がくるくると移ろい変わっていくのが面白い。チルアウト風のイントロから、ブレイクビーツを多用したオールドスクールのヒップホップのスタイルに変化していく。そして、OMSBのフロウの背後に敷き詰められる音楽的な背景が矢継ぎ早に切り替わっていく中、彼は過去の追憶をリリックを通じてなめらかに表現する。ときには、「つまらん悩みを紙に書いたら 消えた」という表現を織り交ぜて、等身大のリアルな自己と到達すべき最高の自己を対比させたかと思えば、それとは別に、世俗的な自分をリアルに反映させ、「電車の窓から他人のセックスが見えないか」という個人的な欲望を織り交ぜる。音楽的には、レゲエのコーラスのサンプリングを取り入れ、リスナーを心地よいハーモニーの幻惑へと誘う。ブレイクビーツの手法には画期的なものがあり、しかもセンスよくフロウをかけあわせている。

 

「Tenci」は、おとぎ話のような語り口で始まる。しかし、OMSBは、これを子供向けのおとぎ話にするのではなく、大人向けの18禁のおとぎ話に仕立てている。ほとんどの語り手は、ピンサロの話から物語を膨らませていくことは至難の業であるが、彼は、独自のギャグセンスを織り交ぜて、これらの卑猥なストーリーをラップの中に上手く融解させていく。すごいと思うのは、普通のアーティストが避けるようなリアルな打ち明け話を、スムーズにリリックの中に収めこむ技術だ。しかし、イントロの赤裸々で猥雑なリリックは続いて、内的な苦悩を織り交ぜた歌詞に変化していく。むしろ前フリがセクシャルな内容であるからこそ、その内的な告白は信憑性を増す。音楽的にも、ガムランのようなインドネシアの民族音楽を背景に、しなやかに歌われるフロウは、「エスニック・ラップ」とも称すべき新鮮なスタイルを示している。ゲスト・ボーカルで参加した''赤人''のボーカルも、啓示的な雰囲気があり、歌謡とも演歌とも付かない奇妙なエキゾチズムを生み出している。二人のコラボレーターのユニークな感性の融合はラップ・ファンだけにとどまらず、一般的な音楽ファンにとっても新鮮に映るものがあるだろう。

 

アルバムの最後にも注目曲が収録されている。以後の2曲は、DJセットの後のクールダウンの時間を設けたかったというような意図を感じ取れる。「Sai」は、ロレイン・ジェイムスやトロ・イ・モアのようなエレクトロニック/チルウェイブを繊細な感覚と結びつけて、序盤の印象とは異なる切ない情感を表現している。シンプルなループ・サウンドではありながら、その中には緩急があり、夕暮れ時に感じるような詩情や切ない感情をLofi-Hopのスタイルに昇華している。「Blood」では、ソウルとヒップホップの融合というDe La Soulの古典的なスタイルを継承している。アルバムのクロージング・トラック「Mement Mori Again」は、果たして映画に触発された内容なのか。フィルム・ノワールの影響を込め、サックスのソフトウェア音源を取り入れたシネマティックなラップを示し、タイトル曲「喜哀」と同音異義語である「気合」を表現している。最後のトラックでは、OMSBのパーソナリティな決意表明とも取れる、信頼感溢れるリリックが展開される。しかし、その言葉は上滑りになることはない。ヒップホップ・ファンとしては、OMSBというJ-Rapの象徴的な存在に対して、一方ならぬ期待感を覚えてしまう。

 

 

86/100


 

 Featured Track 「喜哀」

 Jamila Woods 『Water Made Us』


 

Label: Jagujaguwar

Release: 2023/10/13


Review


シカゴの詩人、R&Bシンガーとして活躍するジャミーラ・ウッズの最新作は、モダンなネオ・ソウルからモータウン・サウンドに象徴される往年のサザン・ソウル、そしてスポークンワードと3つの様式を主軸に、聞きやすく、乗りやすいサウンドが構築されている。注目は、同地のシンガーソングライター/ピアニストであるGia Margaretがスポークンワードを基調とする「I Miss All My Eyes」で参加している。そのほか、モータウン・サウンドを現代的なハウス・ミュージックと融合させた「Themmostat」にはPetter Cottontaleが参加している。全体的にBGMのようなノリで聞き流すことも出来、ブラック・ミュージックらしい哀愁も堪能出来る。本作にはUKのジェシー・ウェアのソウルとは異なるブルースの影響が感じられることも特記すべきだろう。

 


アルバムの収録曲の大半は、Covid−19のロックダウンの後に書かれたという。その中で、文学的な才覚を持つウッズは、この期間の間に学んだ感覚的なものの数々、愛、人間関係、その中での厳しい教訓を元にリリックを組み立てている。アルバムの制作の最初期に書かれたというオープナー「Bugs」では、それらのテーマが絡み合い、ソウルフルな世界を構築し、ディストーションを掛けたローズ・ピアノ(エレクトリック・ピアノ)というソウル・ミュージックの基本的な演奏を元に、メロウな楽曲を書き上げた。ウッズの歌は、たしかにその中に個人的な思索を含む場合もあるが、それほど堅苦しい内容ではない。いくらかくつろいだ感じのオープンハートなメロディー、そしてリリック、フレージングが絶妙な均衡を保ち、洗練されたソウルミュージックという形でアウトプットされている。さらに、彼女自身によるコーラスワークも秀逸であり、ハートウォーミングな空気感を生み出す。この曲はアルバムのオープニングとして最適なばかりか、ジャミーラ・ウッズの代名詞的なトラックと称せるのではないだろうか。


 

 

こういった明快なネオソウルも主な特徴ではありながら、しっとりとしたソウルも本作のひとつの魅力を形づくっている。ハウス・ミュージックをもとにした「Tiny Garden」はオーガニックな感覚を持つソウルと融合させ、軽快なナンバーを作り出している。現行のネオソウルのトレンドの中核にあるサウンドを抽出し、それをスモーキーな味わいのあるナンバーに昇華している。次いで、この曲では、クイーンズのシンガー、duenditaがゲストボーカルとして参加している。コラボレーターは、この曲にコーラスを通じて華やかな印象をひかえめに添えている。さらに、曲の終盤では、両者のシンガーソングライターによる遊び心満載のボーカルの掛け合いがユニークな印象を与えてくれる。ネオソウルとしては聞きやすく、安定感のある一曲である。

 

ダンサンブルなビートを打ち出した「Practice」もアルバムのハイライトのひとつに数えられるだろう。曲調としては、ハウスとソウルの融合に焦点が絞られ、一定のビートの中に軽快なウッズのしなやかなボーカルが乗せられる。 しかし、このステレオタイプのソウルに大きな意外性と変化を与えているのが、シカゴのラッパー、Sabaである。彼がボーカルで参加したとたん、曲の雰囲気は一変し、ヒップホップとソウルの中間域にある刺激的なナンバーへと変遷していく。ラップに関しては、それほどメロディーが含まれてはいないが、現代のシカゴのラッパーの多くがそうであるように、バックトラックの旋律を取り巻くように軽妙かつしなやかなリリックを披露することにより、メロウな空気感を曲のスポットに生み出しているのが見事だ。


 

 

アルバムの世界観の中核を担うのはスポークワードのインタリュードであり、その文脈については不明であるが、作品全体としてみたとき、ある種のナラティヴな要素を与えていることは確かである。「let the cards fall」では最初のボーカルのサンプリングが登場する。特にモノローグではなく、複数の人物が登場しているのが重要であり、ここには人物的な背景を一般的な曲の中に導入し、演劇や映画のワンシーンのような象徴的な印象性を組み上げようとしている。




アルバムの序盤では、いくらか大人びた印象のあるR&Bが主体となっているが、続く中盤部では、むしろそれとは正反対に感情性を顕にしたソウルへと移行している。「Send A Dove」では、センチメンタルな感覚を包み隠さず、それを丁寧な表現性としてリリックや歌に取り入れている。グリッチやシカゴ・ドリルのようなリズムを交えたナンバーではあるが、それほど先鋭的な曲とはならず、どちらかと言えば、ベッドルーム・ポップのような感覚を擁する一曲として楽しめる。そして実際に、オートチューンを掛けたモダンなポップスの様式と掛け合わされ、イントロのソウルやヒップホップから、精彩感のあるインディーポップへとその印象性を様変わりさせていく。これらの純粋な感じのあるポップスに注文をつける余地はないはず。一転して、「Wrecage Room」では懐かしのモータウン・ソウル(サザン・ソウル)の影響を元にして、本格派のソウルシンガーとしての存在感を示している。ジャズ風のメロウな音楽性を反映させた渋い感じのイントロから、ウッズの歌の印象は徐々に変化していき、アレサ・フランクリンやヘレン・メリルとそのイメージを変え、最終的には慈しみのあるゴスペルミュージックへと変化していく。ブラックカルチャーに対するアーティストの最大限のリスペクトを感じる。

 

同じように、「Thermostat」では、 イントロにスポークンワードを配した後、やはりアレサ・フランクリンを思わせるサザン・ソウルを基調とした渋い三拍子のリズムを取り入れ、懐古的なソウルへの傾倒をみせる。ただ、それに相対するリリックに関してはラップに近い感覚を擁しているため、旧さというよりも新しさを感じさせる。ソウルのように歌ってはいるが、節回しがフロウという前衛的なボーカルの手法を、ジャミーラ・ウッズはこの曲の中で提示している。そして、手法的には、ブラック・ミュージックが商業性の中に取り込まれ、その表現性を失った80年代よりも前の70年代のソウルの遺伝子のようなものが引き継がれているという印象がある。 その後の「out of the doldrums」では、年老いた男の声がサンプリングとして取り入れられているが、これはUKのソウルシンガー、Jayda Gの祖父の時代の物語を音楽の中に反映させようという意図と同じものを感じとることが出来る。そのスポークンワードの背後には、ニューオリンズかどこかのジャズの演奏をわずかに聴き取ることが出来る。それもラジオを通じたメタ構造(入れ子構造)のようなアヴァンギャルドな手法が示されているのもかなり面白い。

 



アルバムは一枚目とも称するべき段階において、ソウルとハウス、ラップ、ジャズのクロスオーバーを示しているが、徐々に、その音楽性が中盤から終盤にかけて再び別のものに移ろい変わる。続く「Wolfsheep」では、ジョニ・ミッチェルを思わせる温和なフォーク・ミュージックをポップスの中に昇華している。この曲は、アルバムの骨休めのような感覚で楽しめると思う。

 

その後の「I Miss All My Eyes」には、ポスト・クラシカル調の楽曲を得意とするGia Margaretの参加が、ジャズではなくオーケストラルの印象へと近づいていく。薄く重ねられるフェーダーのギターとユニークなシンセサイザーのラインが組み合わされる中で、ウッズはスポークンワードを散りばめる。一見、アンビバレントに思える手法もウッズのリリックが入ると、クールな印象を受ける。音と言葉をかけあわせたアンビエント風のトラックは、和らいだ感じ、寛いだ感じ、そして平らかな感じ、そういった気持ちを安らがせる全てを兼ね備えている。言葉は、先鋭的な感覚を生み出すことも可能だが、他方では、安らいだ感覚を生み出すことも出来ることを示唆している。もちろん、この曲でのジャミーラ・ウッズの音楽性は後者に属している。

 

同じように、意外性を前面に打ち出した曲が続く。 「Backnumber」ではインディーロック調のイントロから始まるが、ウッズのボーカルは現代的なネオソウルのフレージングへと変化する。さらに中盤でもパーカッシヴな強調を交えて、当初の落ち着いた印象はよりライブサウンドを反映させたアグレッシヴなサウンドへと変化していく。曲の終盤に訪れるコーラスワークも秀逸であり、聞き逃せない。メインボーカルを取り巻くようにして、メロウなハーモニーとグルーヴ感を生み出している。「libra Intuition」では、再度、スポークンワードの形式が出現する。しかし、一曲目、二曲目の雰囲気とは異なり、過ぎ去った時代のイメージを擁するスニペットは温和な言葉や笑いによって以前とは別の明るく朗らかなインタリュードへと変化する。



 

アルバムの終盤に至ると、軽快なネオソウルサウンドが続く、Pinkpantheressを思わせるダンスビートを反映させた「Boomerang」は、ポップ性も相まってか、このアルバムのリスニングの難易度を下げ、比較的とっつきやすい印象を与える。ダンサンブルな印象は、アーティストがその地点を未来へと走り抜けていくような感じをもたらす。その後、Nilfur Yanyaを思わせるインディーポップとダンスビートの融合もまたアルバムの終盤に一つのハイライトを設けている。


再びスポークワードの込めた「the best thing」を挟んだ後、「Good News」では、まったりとしたトロピカル・サウンドを基調とするファンク/ソウルでも集中性を維持している。クロージング・トラック「Head First」では、オープニングと呼応する軽快なネオソウルサウンドでこのアルバムは締めくくられる。


17曲とかなりのボリュームの作品ではあるけれども、各々のトラックが丁寧に作られているため、じっくり聴ける内容となっている。もちろん、ウッズのR&Bシンガーとしての本領もいくつかのトラックで顕著に反映されている。今年のネオソウルの作品として、かなりグッドな部類に入りそうだ。

 

 

85/100




1994年の4月5日、Nirvanaのフロントマン、カート・コバーンの悲劇的な死は、グランジ/オルタナティヴ・ロック・コミュニティがメインストリーム・カルチャーをおとぎ話のように支配してきたことに、恐ろしい現実を突きつけた。しかし、ナイン・インチ・ネイルズの『The Downward Spiral』とマニック・ストリート・プリーチャーズの痛ましいサード・アルバム『The Holy Bible』のリリースは、ロックが掘り起こすべき闇とニヒリズムがまだたくさんあることを証明した。


喪に服したシーンが残した空白に、英国ではブリット・ポップが、米国ではポップ・パンクが登場し、新星オアシス、ブラー、ウィーザー、グリーン・デイが、人生を肯定し、ハッピー・ゴー・ラッキーなポジティブさに満ちた画期的なアルバムをリリースした。第二の "サマー・オブ・ラブ "の余韻として、アシッド・ハウスとテクノがポップ・チャートの大ヒット曲へと共産化され、大きな物議を醸した刑事司法法案がカウンター・カルチャー・ムーブメントとしてのアシッド・ハウスを破壊しようとし、スーパースターのDJの台頭を促した。ヒップホップも変貌を遂げつつあり、初期のギャングスタの冷徹な社会政治的コメントは、前年のクリスタルを弾くような大ヒットを記録したドクター・ドレーのアルバム『ザ・クロニクル』によってかき消され、チャートに引きずり込まれた。


しかし、メインストリームがフリークス、アウトサイダー、落ちこぼれを受け入れようと手を伸ばした時代においてさえ、ポーティスヘッドの存在感は際立っていた。


ブリストルのトリオは、謎めいた、影のある破天荒なアーティストとして評判を得たが、彼らのデビュー・アルバム『Dummy』が、後にトリップ・ホップとして世界的に知られるようになる、クラシック・ソウル、ジャズ、最先端のサンプル、ゴシック・ノワールを奇妙にローファイにマッシュアップした音楽への、最初の大きな商業的関心の先駆けとなった。



ダミーは、オアシス、スーパーグラス、トリッキー、レフトフィールド、PJハーヴェイ、その他多くの尊敬を集める多彩なアーティストたちとの競争を勝ち抜き、1995年のマーキュリー・ミュージック・プライズを受賞した。ブリストル・サウンドは、今やスーパースター・アルバムとその代表格、そしてトリップホップという決定的な名前を手に入れた。


マーキュリー賞授賞式後の記者会見で、明らかに圧倒された様子のジェフ・バロウは、「10枚もの年間アルバムがある中で、1枚だけを評価するのはどうかと思う」と肩を落とした。「自宅のオルガンで、このどれよりも優れた作品を録音している人がいるかもしれない。今年の人々は、アルバムに自分の感情をすべて注ぎ込んだ......。私はただ、タダで小便がもらえると思っただけだ!」


バロウは当時気づいていなかったかもしれないが、『ダミー』はその後30年間で最も高い評価を得たアルバムのひとつとなった。そのサウンドは今でも素晴らしく、画期的な内容に彩られている。ゆるくクリーンなギターにターンテーブルのスクラッチ、シンプルなドラム・ループ、ギボンズの亡霊のような歌声が加わったオープニング・トラック『Mysterons』から、ダミーは聴く者の心を掴んで離さない。「Strangers」でのエイリアンの行進曲とギボンズの慟哭、モス・デフがゴースト・タウンを彷彿とさせる「Numb」、今や象徴的となったオルガンが胸を締め付ける『Roads』の冒頭、悲痛を聴覚的に表現したような曲、そしてアルバム屈指のクロージング・ナンバーとして名高い『Glory Box』まで、『Dummy』は完璧な作品であることに変わりはない。


さらに重要なのは、いまだに1つのバンド、1つのバンドだけのサウンドであること。音楽界で最もクリエイティヴな時期のひとつであるこの時期に、これほどまでに断固として孤高の存在であり続けたことは印象的であり、30年経った今でもそこに居続けていることは驚くべきことだ。



このバンドは「ブリストル・サウンド」を定義したことで大きく評価されることになるが、その起源は12マイル南西、2万2,000人の小さな海岸沿いの町から始まった。現在、Invada Recordsを主宰するジェフ・バロウとDJのアンディ・スミスはそこで一緒に育ち、ヒップホップとブレイクに興味を共有していた。


「ジェフとは80年代後半に知り合ったんだ。ポーティスヘッドのユース・クラブでギグをやって、ヒップホップやレア・グルーヴ、ファンクなんかをプレイしたんだ。そこで彼と出会ったんだ」とアンディ・スミスは明かす。


「彼は僕より若かったけど、当時は基本的にマッシヴ・アタックの『ブルー・ラインズ』が作られていたコーチ・ハウス・スタジオで働いていた。基本的にお茶を入れたり屋根を直したりしていた」1992年から2006年までマッシヴ・アタックをマネージメントしていたキャロライン・キロリーは、「ジェフは、マッシヴ・アタックがレコードを制作していたコーチ・ハウス・スタジオのテープ・オペレーターだった。マッシヴ・アタックはLP『Blue Lines』の大半を制作していて、とてもプロジェクト的で、共同作業をベースとしたアルバムだった。ジェフも同じようなことをしようとしていた」と回想している。



アンディは言う、「(マッシヴ・アタックは)彼がビートを作ったりすることに熱心だったことに目をつけた。それでAKAIのサンプラーとコンピューターを与えて、彼は自分の部屋にセットアップしたんだ......でも、彼はレコードをあまり持っていなかったから、サンプリングしたものは何も持っていなかったよ。彼はあまりレコード・コレクターではなかったんだ。彼は自分の行きたい場所を知っていた。彼が『グリース』のサウンドトラックのブレイクをサンプリングしていたのは覚えているよ。それで、当時のオールドスクールのヒップホップや現在のヒップホップ、ブレイクなどの知識なんかで意気投合したんだ。彼が聴いたことのないような古いブレイクを聴かせて、トラック作りをしたんだよ。これは、ポーティスヘッドの他のメンバーが参加する前のことで、ポーティスヘッドというバンドができることすら知らなかった。サンプラーとコンピューターを持っていたのはジェフだけでね、僕はビートをループさせたり、ちょっといじったりしていたんだ」


「何人かの女の子がブリストルからバスでやってきて、彼のお母さんの家に行って、彼のベッドルームでボーカルをやってオーディションを受けたのを覚えている。でも、うまくいかなかった。だから彼はヴォーカリストを探し、バンドを作ろうとしていた。それが90年代半ばにまとまるまでには長い道のりがあった。その頃から、ジェフはアイデアをまとめ始めたんだ。ヒップホップのビート、音楽性を使いたいとは思っていたようだけど、どうやるかはそのときはまだわからなかったとしても、違うやり方でヒップホップをアレンジすることはわかっていたようだ」



ジェフ・バロウの決意は、一連の骨格となるトラックや未完成のデモのヴォーカルを担当するため、数多くのアーティストのオーディションを受けることになる。しかし、思いもよらない場所での運命的な出会いが、ベス・ギボンズに彼を導くことになる。「ふたりとも、政府の職業体験コースみたいなものに行ったんだと思う。自分のビジネスを持っていることを証明すれば、政府からいくらかお金をもらえるというものだった。僕は行かなかったけど、ジェフは行ったよ」とアンディは言う。「パン屋のおじさんとか、作家のおじさんとか、いろんな職業の人がいたと思うよ。音楽関係者はベスだけだったかな。彼女は自分のプロジェクトを進めるための資金を得ようとしていたからね」


アンディは、ジェフとの偶然の出会いの前からベスを知っていた。「彼女は当時、ただの歌手だった。実際、今思うとおかしなことだけど、ベスがベスとしてギグをやるだけで、私は彼女とブレイクを切り上げるようなギグもあったんだ」とアンディ。「でも、当時はまだポーティスヘッドというアイデアは形成されていなかったんだ。ジェフは明らかに彼女がやっていることに興味を持っていた。みんな知り合って意気投合して、他のメンバーも加わって、すべてが後からまとまったんだ」


キャロラインは言う。「彼はいろいろなシンガーやラッパーを連れてきていて、それはとてもプロジェクト・ベースのものだった。私たちは皆、ベスが前座であることに少しずつ気づいていった。プロジェクトというよりも、完全に形成され、統一されたバンドという感じだった。もちろん、Go!Discsと契約した後は、資金も集まり、バンドは従来のレコーディング・プロセスでより本格的にスタジオに入るようになった。それから、エイドリアン・アトリーがギターで彼のサウンドを取り入れるという意味で、より深く関わるようになった。サウンド的には、より発展したサウンドに肉付けされた」


ギタリストのエイドリアン・アトリーは、ドラマーのクライヴ・ディーマーを連れてきて、全体を結びつけるミッシング・リンクとなった。ディアマーは、もがき苦しんでいたアトリーに、毎晩ライブで演奏するだけでなく、レコーディングするように勧めた。


「私はエイドリアン・アトリーの家に住んでいたんだ。彼と私は無一文のミュージシャンで、生計を立てようとしていた。私はR&Bバンドやジャズバンドで演奏していた。エイドリアンは当時、ジャズ一筋だった。当時、彼は本当に純粋主義者だった」とクライブは言う。「そして、ジャズ・ミュージシャンとしての現実のフラストレーション、つまりレコーディングされた作品があまりないことに対処しながら、コーチ・ハウス・スタジオの一室を借りていた。私はエイドリアンに部屋を取るように勧めたことを覚えている。君は素晴らしいミュージシャンで、素晴らしいアイディアを持っている。ただ外に出てギグをやって、そのギグが風前の灯火になってしまうのとは違って、レコーディングに取り組むべきだよ」


「そこで彼はジェフと出会った。同じスタジオでドラマーとしてセッションをしたとき、私は知らず知らずのうちにジェフに出会っていた。数カ月が経ち、エイドリアンはジェフ・バロウという男とどのような関係を築いているのかを私に話し、やがてある日、彼らが自分たちで作ったState of Arts Studioに来ないかと誘われた。彼らは2曲か3曲を持っていた。でも、彼らがとてもユニークなサウンドを生み出していることは明らかだった。エイドリアンと彼がチームを組んだ瞬間、彼らが急速に前進したのは明らかで、その後すぐに、彼らは実質的に2つの主要なレコーディング・セッションを行うために私を呼んだ。私が行ったこの2つのレコーディング・セッションが、実質的に彼らの最初のレコードの大部分になったんだ」



コーチ・ハウス・スタジオでのジェフの9時から5時までの勤務は、マッシヴ・アタックのセッションに同席し、無料のサンプラーを手に入れたという自慢以上のものを彼に与えていた。彼は深夜にスタジオの時間を "借りて "自分のアイデアを実現させることが多かった。キャロラインは、「このアルバムは、かなり長い期間、本当に1年半以上かけて作られた」と回想している。


「コーチ・ハウスで自由な時間があるときはいつでも、他に誰もいないときはいつでも、ジェフは前の部屋に行って、たとえそれが真夜中であったとしても、できる限りの時間を使ってアイディアを進めていた」とアンディは言う。「ジェフがトラックを書き、ベスがトップ・ラインを書く。必ずしも同じ部屋にいる必要はなかった」


ダミーのサウンドと、そこから生まれたトリップホップというジャンルは、前例のないものだった。ジェフとその仲間は、サンプル・ベースのヒップホップ・ビートを作り、その上にシネマティックな生楽器を加えるという古典的なアプローチを取っていた。その音楽は、アメリカのMCがラップしているかのようでもあり、60年代のスパイ映画のサウンドトラックのようでもあった。「ジェフはサウンドトラックが大好きだった。彼は(イタリアの作曲家)エンニオ・モリコーネとか、そういうものに夢中だった」とキャロラインは言う。


「『ダミー』のサウンドは、本当にジェフの赤ちゃんのようだった。ジェフには、彼が本当に望んでいた方向性があった。私はただサンプルを持ってくることで彼を助け、彼が本当に知らなかった音楽を教えてあげただけなんだ」とアンディは語る。「彼は、ポータブル・レコード・プレーヤーを持って一日中レコード・ショップを探し回るような人ではなかった。だから、私はそれをテーブルに持ち込んだようなものだ。でも、ヒップホップのサウンドを使いつつも、どこか別のところに持っていこうというのが彼の意図だった。彼はジミ・ヘンドリックスのヘヴィネスやロックにも傾倒していたから、それをひとつにまとめたかったんだ」


ほとんどのヒップホップ・プロダクションとは異なり、ポーティスヘッドのサウンドは、サンプルやドラムマシンを使ったビート以上のもので、ミックスに生楽器を融合させることで恩恵を受けていた。



「当時は、ほとんどの人が持っていたビニールのブレイクビーツを洗い流していた。だからジェフはその頃、ドラマーとしてはちょっとアレだったんだけど、自分では演奏できないものを演奏するために僕を使ったんだ。僕にビニールを少し聴かせて、こう言うんだ。ハイハットはこう変えてくれ。あるいはもっとこうしてくれ」とクライブ。「彼はどう変えてほしいかを説明してくれた。そして、マイク、サウンド、サウンドのチューニング、ドラムのダンパーなど、彼が望むものが得られるまで、細部にわたって完璧に仕上げる。唯一の例外は、私がフリーフォールしたときで、それで「ミステロンズ」のビートが完成した。あのビートは完全に私の演奏だ。その部分をループさせたんだ」


「多くの場合、僕は何も演奏していなかった。だから、自分が何に向かって演奏しているのか、何のために演奏しているのか、まったくわからなかった」とクライヴは続ける。「だから、ドラムのビート、演奏スタイル、演奏のバランスをとても注意深く構築することにとても微細に集中していた。通常のドラムのレコーディングとはまったく違う。すべてのパートの相対的なボリュームのバランスを取ることがとても重要なんだ。スネアドラムに対するバスドラムのレベル、ハイハットやシンバルなどに対するレベル。非常に厳密にコントロールされた演奏で、信じられないほど静かに録音された。誰も録音したことのないような静かさだ。それがサウンドの大きな要素であり、他の多くの要素でもある。とても細かく、珍しいものだった。サンプリングは私にとって新しい経験だった。レコードを聴いたとき、自分が何を演奏したのかほとんどわからなかったほどだ。小節ずつ、完璧にループしている。それは初めての経験だった」



1994年8月、シングル「Sour Times」を筆頭に『Dummy』をリリースしたポーティスヘッドは、瞬く間にメインストリームにアピールされ、マッシヴ・アタックやトリッキー(後者はキャロライン・キロリーのマネージメントも受けていた)と並んで、"トリップ・ホップ "や "ブリストル・サウンド "の顔となった。「ブリストルは当時、大きなシーンだった。当時、ブリストルは大きなシーンだった。マンチェスターのシーンも盛り上がっていた。みんなブリストルに注目していた。ジャイルス・ピーターソンとか、そういう人たちがいたように、クールでクラブ的な側面もあった。そういう世界だった」とキルリーは振り返る。「その後、少しずつメインストリームに浸透し始め、火がついた。なぜこのようなことが起こったのか、その理由を知るのは難しい。その渦中にいると、なぜそのようなことが起こったのかがわからない。意識的にではなく、ただ乗り物に乗って、作って、作って、作って、という感じね」と彼女は付け加えた。


このアルバムは1995年にマーキュリー・ミュージック・プライズを受賞し、ヨーロッパではダブル・プラチナ、アメリカではゴールドを獲得し、バンドを世界中に広めた。


 


「このアルバムが世に出たとき、その最初の証拠となったのは、最初のツアーでイギリスや特にアメリカを回ったときだった。観客の反応やライブの雰囲気には、ただ驚くばかりだった。自分が何を演奏しているのか、それが人々にとって何を意味するのかを理解し始めたんだ。ユニークなことだったし、その一部になれたことは光栄だった」とクライブは言う。

 Natalia Tsupryk 『Do Nestyamy』


 

Label: Manners McDade

Release: 2023/10/13


Review


 Natalia Tsupryk(ナタリア・ツプニク)は、フィクション、ドキュメンタリー、アニメーションの各映画のスコアを担当し、Palm Springs、Indy Shorts、PÖFFなどの映画祭で国際的に上映され、BAFTAの最終選考に残った。

 

2017年以降、ナタリアは、キエフ国立アカデミック・モロディ劇場とコラボレーションを行い、「The Master Builder」や「Ostriv Lyubovi」など、いくつかの劇のスコアを担当しています。ヴァイオリニストとしてのナタリアは、ウィーン楽友協会、ウィーン・コンツェルトハウス、ORF RadioKulturhaus、Synchron Stage Vienna、ウクライナ国立交響楽団などの会場で、ソロ、室内楽団やオーケストラのメンバーとして世界各地で演奏している。


ナタリアは、キエフのリセンコ音楽学校を卒業後、ウィーン市立音楽芸術大学でクラシックの教育を受ける。その後、国立映画テレビ学校で映画とテレビのための作曲の修士号を取得し、ダリオ・マリアネッリの指導を受けた。レコーディング・アーティストとして、ナタリアは2020年にデビューLP『Choven』を、2021年にEP『Vaara』をリリースした。また、アンガス・マクレーと2枚のEP「Silent Fall」(2021年)、「II」(2021年)でコラボレーションしている。バイオリニスト、ピアニストとして活動するほか、映画音楽のスコア制作での活躍も目覚ましい。 

 

 

 

前作のEP『When We Return To The Sun』ではNils Frahmがマネージャーと共同設立したLeiter-Verlagからリリースを行った。 

 

最新作『Do Nestyamy』では一転して弦楽のオーケストラを主体にした作風に転じている。重厚な弦楽のハーモニー、シンセサイザー、ピアノをスコアの中に散りばめ、抽象的でありながら、美麗な音の世界を探求しようとしている。厳密に言えば、キエフの音楽家ではあるが、ウイーン学派の系譜にある作曲家と見るべきだろう。しかし、ピアニストとしての演奏力や感性の豊かさには注目すべき点もあるが、一方で本格派のオーケストラの語法を用いた弦楽を中心とする『Do Nestyamy』 では、ひときわ美しいアトモスフィアを生み出している。


一曲目「The Drowned Not Abandoned」では、Arvo Partの「Fratress」等で用いられた鈴声の様式ーティンティナブリ(tintinnabuli)ーを継承し、それをミクロの視点からマクロの視点に置き換えている。チェロ、ヴィオラ、バイオリンを中心に構成される四声のオーケストラレーションは、ほとんどユニゾンという形式で繰り広げられていると思われるが、音が鳴り響いている瞬間ではなく、音が鳴り止んだ後の減退音に空間的な処理を施し、音響の未知なる可能性を追求している。

 

「The Drowned Not Abandoned」は、大きな枠組みで見れば、ひとつの楽節を反復するに過ぎない、現代音楽らしいミニマリズムの範疇にあるコンポジションではありながら、 その中に微妙なバリエーションの変化を用い、音響の中に変容をもたらそうとしている。それはバイオリンが表情の変化をもたらすこともあれば、同じようにヴィオラが、また、チェロが、それらのパッセージに微細な変容をもたらす場合もある。

 

実際のところ、レコーディングは、コンサートホールのような場所で行われているが、チェロの重厚な響きには瞑想的な感覚を擁し、ひとつの真夜中の海に生じるさざ波のように月光に照らし出され、弦楽によるそのさざ波は夜の静寂の中をゆらめき、流麗なパッセージと連れ立って畝りを生み出し、断続的なアクセントの変化ーーデクレッシェンドの様式ーーを用い、ゆっくりと長い時間をかけてフェードアウトしていく。しかし、人の手によるフェードアウトの手法は、もったいぶったような感じはなく、自然な形で無の領域に飲み込まれていく、音が有という出発点から、無という終着点にむけて、ゆっくりと向かっていく過程には、息を飲むような緊張感と美麗な印象を感じ取ることが出来る。 

 

「I Want and Shamble Beyond the Cemetery Wall」は、ウクライナ戦争における死者への弔いの念が捧げられている。室内楽のピアノとチェロの合奏という形の演奏だが、ナタリアによるものと思われるピアノの伴奏は、神妙かつ悲痛な情感を漂わせ、その上に加わるチェロの主旋律はブラームスの書いた室内楽のように清廉な気風を反映させている。この曲では、かつてオスロの作家/作曲家であるKetil Bjornstadが「The River」という長大な変奏形式を通じて探求した重厚感のある作風をありありと彷彿とさせるものがある。

 

シンプルに拍動の中に収められるピアノは、音符が振り落ちる毎に異なる表情を見せながら、ときには哀悼、ときには悲哀、ときには親愛、またときには畏怖、様々な感情性が和音によって表現され、一曲目と同様に、巧みなリバーブ処理を施した弦楽器のパッセージやハーモニーと溶け合い、重厚感のある音像空間を構造的に作り上げていく、しかし、それは単なる同胞の死だけに捧げられたものなのだろうか、もちろん、同胞的な民族性に対する哀悼の意が表されているにとどまらず、それはこの地上における悲劇的な死に関するすべてに対する追悼が捧げられているのではないのか。

 

これまで、制作者は、フィクション、ドキュメンタリー、シネマ、アニメーション等、映像音楽におけるオリジナルスコアも手掛けてきたが、そういったシナリオを強化するための音楽制作の経験が続く「St. Michael Golden-Domed Monastery」には見出すことが出来る。題名には「黄金のドーム」という東方教会に関するキリスト教の建築概念が含まれているが、実際の曲はそれほど宗教的とは言いがたく、現代的な映画のような感じで音の推移を楽しめる。同じように、重厚感のある弦楽の演奏を元に、シンセのアルペジエーターのフレーズを交え、映画音楽に類する作風を示そうとしているように感じられる。

 

ただ、ナタリアの描く音楽の世界というのは、東欧の地域の寒風に吹きさらされる荒野を思わせる箇所もあり、まさにその荒れ野は、キリスト教の悠久の歴史を辿るかのようであり、ゴルゴダの丘、ナザレといった聖書的なストーリーを喚起させる瞬間もある。それは何も新約聖書に限らず、旧約聖書に見られる神々の住む神話的な世界をオーケストラとシンセの中に内包させている。古代と現代を行き来しながら、東欧におけるロシア-ウクライナと中東のパレスチナ-イスラエルの原理主義的な紛争が結びつけられる。イスラム教とキリスト教の絶え間ない紛争……。ロシア系住民を巡る間断なき紛争……。

 

その証し立てとしてアンビエント調の音の中に、東欧的な響きが表面的な印象性を形成し、さらに中盤にかけて、アレッポのような地域で用いられる中東の響きを思わせる民族楽器の旋律がわずかながら取り入れられている。これは西欧社会と中東社会を音楽を介して結びつけ、その中に一貫性や論理性を見出そうとする壮大な試みなのである。世界の一部地域で起こっている出来事は世界の全てを表す。つまり、世の中の実相を鏡の様に映し出しているのだ。

 

 EPを通じて、一貫した作風が貫かれている。「beyond the cemetery wall」は連曲というより、この作品におけるcoda.(作曲家が言い残したことを付加する)のような役割を担っている。ボーカルのハミングからピアノの演奏が続く。ピアノの演奏はポスト・クラシカルの系譜に属するが、最近の作品では珍しく、ピアノ・バラードに属するトラックで、アイルランド民謡に象徴される旋律やスケールの進行の中に取り入れられている。その簡素さが、むしろ大げさな表現性よりも哀感を誘う。

 

最初から大げさなものを生み出そうとするのではなく、シンプルな要素を構築していく中で、壮大な思索性が含まれているのが美点だ。曲の中に漂う清涼感は、アイスランドの音楽家、Eydis Evensenが書くような雰囲気を漂わせる。ピアノの演奏の間に加えられる精妙なストリングス、そして、その上に薄く重ねられるシンセサイザーのシークエンスも、この曲の美麗な印象をしっかりと力強く支えている。これらの巧みな表現性は、コンポーザーとしての大きな前進を意味する。無論、実際に前作のEPよりも心に響く瞬間がある。真実の音楽。

 


88/100

 

Squirrel Flower/ ©Polyvinyle


シカゴから南へ1時間足らず、ミシガン湖畔に広がるインディアナ砂丘は、近年国立公園に指定された保護された海岸線である。


エラ・ウィリアムズが初めて砂丘を訪れたとき、周囲の工業地帯の中に自然の素晴らしさが並存していることに驚嘆した。「湿原に立つと、左手には火を噴く鉄鋼工場があり、右手には原子力発電所がある。海の向こうにはシカゴがあり、その輝くタワーはここで生まれた鉄鋼によって実現したんです」 同じように、彼女が音楽を作り続けている限り、エラ・ウィリアムズの曲は、その曲の書かれた環境の産物であり、同じ世界から生まれたものである。この環境こそ、彼女の魅力的なニューアルバム『Tomorrow's Fire』が生きている場所なのだ。


ウィリアムズがスクイレル・フラワーとして作る音楽は、常に強い場所の感覚を伝えてきた。2015年にリリースされたデビューEP『Early winter songs from middle america』は、彼女がアイオワに住み始めた最初の年に書かれたもので、アイオワの冬は、彼女の故郷であるボストンの冬と比べても古風に思えるほどである。




この最初の作品以来、スクイレル・フラワーはボストンのDIYシーンを超えたファン層を獲得し、さらに2枚のEPと2枚のフルアルバムをリリースした。最新作『Planet (i)』は気候への不安を孕んでいたが、続く『Planet EP』は、ウィリアムズの多作なキャリアの中で重要な転機となった。


プロデューサーとしての自信を新たにした彼女は、アッシュヴィルのドロップ・オブ・サン・スタジオで、著名なエンジニア、アレックス・ファーラー(『Wednesday』、『Indigo de Souza』、『Snail Mail』)と共に『Tomorrow's Fire』を指揮した。ウィリアムズとファーラーは、最初の1週間で多くの楽器をトラックし、一緒に曲を作り上げ、マット・マコーガン(ボン・イヴェール)、セス・カウフマン(エンジェル・オルセン・バンド)、ジェイク・レンダーマン(別名MJレンダーマン)、デイヴ・ハートリー(ザ・ウォー・オン・ドラッグス)らが参加するスタジオ・バンドを結成した。


『Tomorrow's Fire』以前のスクイレル・フラワーは「インディー・フォーク」などと呼ばれていたかもしれないが、これは大音量で演奏されることを前提に作られたロックのレコードだ。この転換を告げるかのように、アルバムはスクイレル・フラワー初の曲を再構築した「i don't use a trashcan」で幕を開ける。ウィリアムズは、アーティストとしての成長を示すために、また、ループしたミニマルな彼女の声が空間を静寂にする力を持っていた初期のライヴを思い起こすために、過去に立ち戻ったのだ。


リード・シングルの "Full Time Job "と "When a Plant is Dying "は、アーティストとして生き、それが挑戦的なことである世界に立ち向かうことから来る普遍的な絶望を物語っている。ウィリアムズの歌詞に込められたフラストレーションは、音楽の自由奔放でアグレッシヴなプロダクションと呼応している。「人生には、時間を守ることよりも大切なことがあるに違いない」と、後者の高くそびえ立つコーラスで彼女は歌う。このような歌詞はアンセミックになる運命にあり、『Tomorrow's Fire』にはそれが溢れている。「私のベストを尽くすことはフルタイムの仕事/でも家賃は払えない」ウィリアムズは「Full Time Job」で、不安定なフィードバックに乗せて歌う。




ウィリアムズは、『Tomorrow's Fire』のインスピレーションの源として、ジェイソン・モリーナ、トム・ウェイツ、スプリングスティーンといったアーティストの名前を挙げている。「私が書く曲は必ずしも自伝的なものばかりではないが、常に真実なんだ」とウィリアムズは言う。スプリングスティーンの歌声がこれほどはっきりと聴けるのは「Alley Light」だけ。この曲は、今にも車で死んでしまいそうな運の悪い男と、ただ逃げ出したいだけの女の視点から語られる衝撃的な歌である。この曲にはヴィンテージの輝きがあるが、「路地の灯」は、21世紀の都市に住んでいて、瞬きをすれば店先が変わってしまうような、喪失感というとても身近な感情をとらえている。ウィリアムズは、"それは私の中の男性、あるいは私が愛する男性、あるいは私にとって見知らぬ男性のことなのです "と記している。


このアルバムは、感情的な状態、軽さと重さを難なく滑っていく。4年後の2019年の夏に書かれた "Intheskatepark "は、過ぎ去った世界からの派遣のように聞こえる。スカスカでポップなプロダクションはGuided By Voicesを彷彿とさせ、ウィリアムズは夏の日差しの下、屈託なく潰れそうになることを歌っている。


"私には光があった "とウィリアムズは "Stick "で悲しげに繰り返し、彼女の声は痛々しくも力強く、曲が進むにつれて怒りが発酵し、後半で爆発する。「この曲は、妥協したくない、もう限界だということを歌っている」とウィリアムズは言う。「Stick 」はその苛立ちを利用し、疲れ果てているのに働き足りないように感じている人、家賃を稼ぐために嫌な仕事に就かなければならなかった人、光を失い、再び光を見つけられそうにない人のための叫びへと変えている。


『Tomorrow's Fire』は黙示録的なアルバムのタイトルのように聞こえるかもしれないが、そうではない。『Tomorrow's Fire』は、ウィリアムズの曽祖父ジェイが書いたトルバドゥール(吟遊詩人)を題材にした小説のタイトルを引用した。自らもトルバドゥール(吟遊詩人)であった中世フランスの詩人ルトブーフの一節にちなんでいる。"明日の望みが私の夕食を提供する/明日の火が今夜を暖めなければならない"。何世紀も経った今、この言葉はウィリアムズに語りかけられ、ウィリアムズは火をニヒリズムに立ち向かうための道具と表現した。明日の火は、私たちが慰めを得るものであり、朝には大丈夫だと感じるものであり、私たちが歩む道を照らすものなのだ。


アルバムのクロージング・トラック "Finally Rain "は、地球には賞味期限があると知りながら、若者であることの曖昧さを語っている。最後の詩は、彼女と愛する人々との関係へのオマージュ。  厳しい現実だが、マニフェストでもある。『成長しない』人生に断固としてコミットすること、私たちがまだここにいる間に、私たちの驚き、私たちの表現センス、私たちの愛を失わないこと。

 

 

 


  Squirrel Flower 『Tomorrow's Fire』 Polyvinyle


 

多くのリスナーは、例えば、ある程度成功した音楽作品を手に取ると、そのアルバムの制作に関して最善の環境が与えられたから、完成度の高いものが作り出されたと思うかもしれない。現在、制作面で、最善とは言えない環境にあるミュージシャンは、その完成品を目の前に、高いプロダクションの水準が用意されたから良いものが生み出されたと思うかもしれない。そして、そういった作品を見、自分たちは恵まれていないから良質なものが生み出すことが出来ない、制作面で何らかの不備があるからだと思う制作者もいるかもしれない。でも、少なくとも、今年、週末に紹介してきたアルバムのいくつかは、必ずしも最善のなにかが制作者に与えられなくとも、多くのリスナーの心を揺り動かすアルバムを作ることは可能だし、また、むしろそれほどミュージシャンとしては最高の環境にあるとは限らない人の方がむしろ、平均的なアーティストより優れた作品を生み出すケースがあることを実例として紹介してきた。

 

そのことをあらためて教唆してくれるのが、スクイレル・フラワーこと、エラ・ウィリアムズの最新作。そして、制作のバックグラウンドである。エラ・ウィリアムズは、アイオワの大学でスタジオアートと、ジェンダー研究に取り組んでいたが、ドロップアウトを検討しながら、春学期を休学した。その後、コミュニティ・カレッジで授業を受けていたという。2015年、アルバム『Early Winter Songs From Middle America』をレコーディングすると、その夏に最初のツアーに出た。その過程で、ウィリアムズは、みずからビデオカメラを手に、ミュージックビデオを制作した。以後、複数のアルバムとEPを発表したウィリアムズは、「なにかをリリースすることは簡単だけれど、それが100万人の耳に届かない場合は、別のことをしようという感じでやってきた」と語る。現在も、その言葉を実践してきている。ミュージシャンはダブルワークの一貫で、ツアーを終えた後、ウィリアムズは、結婚式のケータリングの仕事に戻る場合もあるという。最新作『Tomorrow’s Fire』の制作は2015年に開始された。いくつかの曲をプレイしながら、曲を煮詰めていくことになった。「私の歴史と、現在の音楽的な自分と過去の音楽的な自分を肯定するために、曲は複雑に絡み合っていて、曲自体と対話を重ねることにした。それ以外の方法でこのアルバムを始めることは正当なこととは思えなかった」というのだ。

 

アルバムを聴いて思ったのは、神妙な感覚がいくつかの収録曲には漂っている。音楽に対する敬虔な思いがないものに関して、優れた作品が生み出されることは稀である。曲との対話、もっと言えば、自らとの対話ということを重視してきたアーティストの人生が色濃く反映されている。孤独であるから誰かとつるむのではなく、孤独であることを選び、内面の奥深くまで直視しているというのが、『Tomorrow's Fire』の制作の核心にはあるように思える。もちろん、アルバムには、アレックス・ファーラーのプロデュースや、バンド形式でのレコーディングという形で行われているので、ソロ作品とは決めつけられないものがあることは確かなのだけれども。

 

「I don't use a trash can」はそのことが顕著に反映されているのではないか。驚くのは、曲そのものがそのことを雄弁に物語っている。「ベッド・シーツ」という日常的な寝具は、シンガーソングライターにとって、そのもの以上の意味を持つ。そこには、人生の断片的な感覚が反映されており、エラ・ウィリアムズの音楽の物語は、いくらかの悲しみを持ち、聞き手の心を激しく揺さぶるのだ。エレクトリックギターの弾き語りに、「I'm Not Gonna Change/ I 'm Not Gonna Be Queen〜」といった純粋な述懐を交えた後、ウィリアムズ自身のコーラスの多重録音がその合間に漂うかのように取り入れられ、ヒーリング音楽のような精妙な空気感が生み出される。曲の後半部では、シーツという言葉を用いて、ほとんど涙ぐませるような余韻をもたらしている。その悲しみや、やるせなさは表向きに語られることはないが、つまり、その言葉の背後に、深い人生の体験や、それにまつわる切ない思いがサブテクストという形で滲んでいる。

 

 

「I don't use a trash can」

 

 

マット・マコーガン(ボン・イヴェール)、セス・カウフマン(エンジェル・オルセン・バンド)、ジェイク・レンダーマン(MJレンダーマン)、デイヴ・ハートリー(ザ・ウォー・オン・ドラッグス)といったバンド編成のレコーディングの最初の成果が先行シングル「Full Time Job」に現れる。

 

この曲には、最近のウィリアムズの人生経験が色濃く反映されており、事務の仕事をしながら、過度なインフレーションにより、取り立ててしたくもない仕事に長く従事しないことについての悲嘆が歌われる。ある種、それは単なるロックソングよりも生々しい質感を伴うこともある。当時のことについて、ウィリアムズは次のように回想している。「創造的で、活気に充ちた人たちに多く出会いましたが、彼らは家賃を払うためにやらざるをえない仕事に打ちのめされていました」「私のまわりの人々が年を取っていくのを見るにつれて、これまでとは異なるライフスタイルを送り、生きていくことさえ困難な世界で、どうやって生きていくのか、それを見出すべく、みな絶えず葛藤しているのだと思います」という、ウィリアムズの言葉は、バラード的な悲哀とはならず、フラストレーションを交えたシューゲイズのギターを強調したインディーロックソングという形で昇華されている。しかし、Dinosaur Jr.のJ Mascisを彷彿とさせるダイナミックな音像を持つギターロックは、悲哀を漂わせるウィリアムズのボーカルラインと絶妙に絡み合い、豊かな感性を持つインディーロックソングとしてアウトプットされている。 


 

同じく先行シングルとして公開された「Alley Light」でも、そういった日々の嘆きが描かれている。この曲では、アメリカン・ロックの古典的なスタイル、ブルース・スプリングスティーンや、ブライアン・アダムスのような雄大さとワイルドさを兼ね備えた良質なロックソングを踏襲している。そのフレーズの合間には、ピクシーズのジョーイ・サンティアゴが弾くようなオルタネイトなギターラインも取り入れられ、鮮烈な印象を放つ瞬間もある。米国の音楽シーンとして軽視される場合があるという米国中西部の情景を思わせるようなロックソングである。ここには、スプリングスティーンやトム・ウェイツといった伝説を始め、アーティストがリスペクトしてやまない米国のシンガーソングライターの影響が親しみやすいバラード・ロックを生み出す契機をもたらした。スプリングスティーンもウェイツも、日頃の生活から滲み出る悲哀や、やるせなさをワイルドなロックバラードに置き換える才質を持っていたが、同じようにエラ・ウィリアムズもまた、先祖代々の系譜を受け継いで、一般的な労働者に寄り添うようなヒットソングを書き上げようと試みている。これは彼女の親戚が作家というバックグランドを持ち、共産主義的な考えを持ち、アーティストに手ほどきをしていたこと、また、アルバムの制作前、キム・ゴードンの著書を読んだ後、レコーディング・ブースに向かったことが大きい。

 

続く、「Almost Pulled Away」では題名にも見える通り、疎外感について歌われた渋いドリーム・ポップである。しかし、トレンドばかりをなぞらえるのではなく、良質なソングライティングの影響を受け継ぎ、普遍的なUSロックの伝統性が垣間見える。トム・ウェイツの「Closing Time」のソングライティング性を継承した上で、真夜中のロマンティックな空気感を思わせる、アンニュイかつ物憂げでブルージーなバラードを書き上げている。そして、曲の中盤からは、Diosaur Jr.の苛烈なディストーション/ファズのギターラインがドリーム・ポップ風のメロディーと融合を果たして、同レーベルに所属するPalehoundのギターロックと、Samiaの繊細なベッドルームポップが掛け合わされたような奇妙な感覚が広がりを増していく。それらのアンニュイな悲しみに充ちた感覚の中には、他では得難いカタルシスと癒やしを感じ取ることが出来る。

 

しかし、普遍的なUSロックのソングライターからの影響もありながら、中西部のインディーロックシーンに根ざした楽曲も収録されている。「Stick」では、Wednesday,Slow Pulp,Truth Clubのオルタナティヴ・ロック性に焦点を当て、感覚的なものを余さず表現しようと努めている。ダイナミックなギターの音像を強調したサウンド・プロダクションは他のロックソングと同様であるが、ピクシーズの「Where IS My Mind」に見受けられる、コード進行の捻りが鮮烈な印象を及ぼす。オルタナティヴ・ロックバンドとして使い古されたと思えるような意外性のあるコードラインが、2023年のインディーロックソングとして聴くと、新鮮に思えてくる。反復的なギターラインとバラードにも似た感覚を擁するウィリアムズのボーカルの融合は、むしろ音源として楽しむというよりも、今後のライブツアーで大きな成果を発揮しそうである。

 

「When A Plant Is Dying」では、オープニングの雰囲気に戻るが、同じ様な感覚が表現されながらも、一曲目とはまったく異なる形のエモーションが示唆されている。最初期のラナ・デル・レイを彷彿とさせるサッドコア/スロウコアをパワフルなギターラインと融合させている。楽曲はハードロックや、インディーロックを下地にしているように思えるが、しかし、その中には、アメリカーナやカントリー等の音楽の影響が装飾的に散りばめられている。この曲は、ブルース・スプリングスティーンのUSロックの源流をたどりながら、より現代的な感性に親和性のあるものに組み上げている。しかし、轟音のギターロック・サウンドが途絶え、終盤に最初のバラードのモチーフに戻る時、癒やしの瞬間が訪れる。アウトロの後、幽玄な余韻が残される。ここには滅びゆくものへの傍観者の視点を交え、それを内的な感覚とうまく結びつけている。

 

 

アルバムの中で、最も心惹かれる曲が「intheskatepark」である。アルバムでは珍しくメロディック・パンク/ポップ・パンクの影響を留めたトラックであり、聞き方によっては、Blink-182のデビュー当時やアヴィリル・ラヴィーンの最盛期のパンク・スピリットを復刻しようとしている。しかし、それが単なるイミテーションにならず、リアルな感覚があるのは、ウィリアムズの人生が、このトラックに色濃く反映されているがゆえ。アルバム制作の当初、ウィリアムズはシカゴの古いスケーター倉庫に恋人や兄弟と住んでいた。隣人がいなかったので、好きな時に好きなだけ騒ぎ、暮らしていた。「私のまわりの人々は」と、ウィリアムズは回想している。「実際に仕事にありつくことが出来ず、ストレスの多い時期にいて、多くの絶望を感じていた」という。「私達は日がな一日、ただ演奏をしていたのでしたが、その頃、世界が様々な意味で崩壊しかけているように感じていた」 そういった中で、唯一信じられるものは、仲間意識と、近くの人々に支えられている、つまり親密なコミュニティの属するという感覚だった。「この時期をお互いにサポートしながら一緒に音楽を作ることで乗り越えていったんです」

 

米国のインディーロックシーンの一角を担ってきた、Polyvinyleらしさのある一曲であり、パンキッシュなフックもあり、またエバーグリーンの雰囲気にも溢れている。まさに、日常の生活的な感覚が絶妙に曲そのものに乗り移り、軽快な質感を持つインディーロックナンバーが生み出されている。

 


「intheskatepark」

 

 

 

こういった五年にも及ぶ、様々な人生を反映させたインディーロック/パンクロックには、実際の音を楽しむという以上に大いに学ぶべき点があるように思える。これとは決めつけがたい形で、多彩な概念を織り交ぜたアルバムは、その後、最もアメリカの情景的なロマンチシズムへと最接近する。「Canyon」 では、アイオワの農場を思わせる中西部の雄大な土地の幻影をギターロックとして描出している。ギターラインと歌の力だけで、サウンドスケープの幻想性を浮かび上がらせる表現力、及び感受性には感嘆すべきものがある。曲そのものから匂い立つイメージ、もしくは、曲から立ち上るイメージ、それは続く、「What Kind Of Dream Is This?」において、未知なるものに向けられる切なげなロマンチシズムに繋がり、スロウコア/サッドコアの緩やかな感覚に浸される。その後、その感覚がふと、米国の中西部に浮かぶ幻影の火のように立ち上ったかと思えば、クロージング・トラック「Finally Rain」にスムーズに移行してゆく。米国の中西部の『Tomorrow’s Fire - 明日の火』は、空からしとしと降り落ちるぼんやりとした広い雨つぶによってかき消されてしまうが、やがて、それとは別の目的地にさして向かってゆく。

 

 

90/100  

 


Weekend Featured Track ー 「Finally Rain」

 

 

 

Squirrel Flowerのニュー・アルバム『Tomorrow's Fire』は、Polyvinyleから現在発売中です。

 Ellen Arkbro『Sounds While Waiting』


 

Label: W25TH/ Superior Vladuct

Release: 2023/10/14



Review


スウェーデンの現代音楽家/実験音楽家、エレン・アルクブロ(Ellen Arkbro)は2019年に、パイプオルガンの音色を用いたシンセサイザーとギターのドローン音による和声法を対比的に構築した2015年のアルバム『CHORD』で同地のミュージック・シーンに台頭すると、続く、2017年の2ndアルバムでは、本格派の実験音楽に取り組むようになり、パイプオルガンとブラスを用いた「For Organ and Brass」を発表した。スウェーデンにはドローン音を制作する現代音楽家が数多い印象があるが、気鋭のドローン制作者として注目しておきたいアーティストである。


ドローン音楽といえば、いわば音楽大学で体系的な学習をした現代音楽家から、エレクトロニックを主戦場とするプロデューサー、そしてまったくそれらの枠組みには囚われないアウトサイダー・アートの範疇にある音楽家までを網羅しており、どのようなシーンから台頭してくるのかも定かではない。しかし、この音楽のテーマは、音響の変容であるとか、音響の可能性の追求にある。それは和音や単音の保続音が限界まで伸ばされた時、最初に出力される出発点となる音と、いわば終着点にある音がどのように変容するのかの壮大な実験である。一般的に考えてみると、音楽的な変奏(Variation)とはモチーフを断片的に組み替え、装飾音を付加することによって発生するものと定義付けられるが、これはバッハ、モーツアルト時代からの普遍的な作曲技法の主要な観点であった。これは、シェーンベルクが指摘するように、同じモチーフが何度も繰り返されると、観客が飽きてしまうからという単純明快な理由によるものである。これらのベートーベンのディアベリ変奏曲のような変奏の形式は、ながらく音楽家が忘却していたものであったが、それを例えばダンス・ミュージックの改革者たちや、現代音楽の作曲家たちが再び20世紀末に、その変奏の形式を現代の音楽の語法に取り入れようと試みるようになった。


ドローン音楽というのは、グラス、ライヒ、ライリー、イーノが20世紀を通じて構築したミニマル音楽の兄弟分にあるジャンルなのであり、モチーフの反復が飽きるという点を逆手に取り、あえて通奏低音を繰り返すプロセスの中で発生する倍音の効果を最大限に活かし、音楽そのものに変革をもたらそうという趣旨で行われる。これはまた音の最小化というのが顕著だった20世紀終わりの風潮とは逆の音を最大化する試みである。2020-30年代に新しい音楽が出てくるとすれば、このドローン音楽の系譜にある何かであると思われる。つまり、例えばタイムトラベラーが自分のところにやって来て、「2020年代の最新鋭の音楽は何なのか?」と問われれば、「ドローン音楽です」と、私は即答するよりほかないのである。20代のエレン・アルクブロのドローンミュージックは、同地のカリ・マローンに象徴される現代音楽や実験音楽の領域に属するものであることは確かなのであるが、アルクブロはこの保続音と倍音の形式に変革をもたらそうとしている。アルバムのアートワークにも象徴されるパターン芸術の手法が、中世のパイプオルガンを用いたドローン音の中に導入され、このアルバムに関しては、一曲目に音の「オン オフ」という新しい技法が取り入れられていることに注目したい。例えば、デジタル信号のように、コードやプログラム言語によって、別の場所にある装置に何らかの信号を送り、別の場所にある装置を稼働させ、そして何らかの動作を発生させたり停止するというものである。

 

さらにアルクブロのドローン音楽は、ポリフォーニーの保続音を限りなく伸ばすという点では、現行の主流派のドローン音楽と同様ではあるけれど、その保続音がランダムな手法で発生したり、消えたりを繰り返す。どの場所で生じるのか、あるいは、どの場所で消えるのか。それを予測するのは不可能だ。これはジョン・ケージがハーバード大学の無響音室、つまり発生される音が四壁に吸収されてしまう中での悟りの体験に比するものである。アレクルボのドローン音は有機物さながらに空間に揺動し、音波を形成する。しかし音響発生学としては、音が消えた瞬間にも、音は消えず、その後も残りつづける。音はランダムに発生し、消そうと思っても消すことが出来ないということである。また、自然発生的な音について考えてみると、よく分かる。

 

例えば、外を歩いていて、工事現場付近の側壁に、DECIBELを測る装置を見つけたとしよう。聴覚を澄ましたところ、何も自分の外側では、音がひとつも発生しているとは思えないにもかかわらず、DECIBELの数値が計測されているのを見たことはないだろうか。つまりそれは、人間の聴覚では感知できない音が存在しているが、それを一般的な聴覚では捉えることが出来なかったということである。また、音響の聴取としては、人間は年を取るとともに、聴覚が衰えるのは事実であり、若い時代に聞き取れていた音域の音が聞き取れないようになる。そして、アルクブロの録音が示唆しているのは、音楽をすべて聴いているという考えは迷妄や錯誤に過ぎず、私達はその一部分しか聴いていない、聴いている振りをしているに過ぎないというパラドックスを示唆している。また、高低の双方に超音域のHzのゾーンがあり、これはマスタリングをしたことがある方であればご理解いただけることだろう。それに加えて、中音域に音が集中すれば、音が密集している帯域の音は曇り、いずれかの音が掻き消えてしまうということになる。

 

つまり、日本の環境音楽家の先駆者である吉村弘さんが生前に指摘していた通りで、生物学的な聴覚には限界があるため、「無数の音楽の情報をキャッチすることは不可能である」ということである。そもそも、人間にはどうあっても聴きとることが出来ない音域や音像がある。しかし、反面、その聴き取れない音域に発生する音は、(たとえ普通の聴覚では認知できぬものであるとしても)音響の持つ印象に一定の変化を及ぼすということなのである。例えば、重低音域に何らかの音が発生していれば、「音楽そのものに重々しさがある」という印象に変わり、超高音域にある音が発生していれば、「音楽そのものに明るい印象がある」という感覚を持つ。これはケージが、ハーバード大学の無響音室の中で、外側の音が消えたため、自らの心臓の鼓動を感じた、という現象に似ている。別の音域にある音が消えると、別の音域にある音が立ち替わりに現れるということを、ケージは内的な感覚によって現象学的に証明してみせたのだった。もっと言えば、ケージが発見したのは、一般的な聴覚では認知出来ない帯域にある音である。

 

同様に、『Sounds While Waiting』のオープニングでは、「音は、その音を生じさせる有機体が存在するかぎり、音の実存を消し去ることは不可能である」という発見が示されている。「Changes」では、音響学の観点から、「音の発生と減退」というパターンを組み合わせ、音響の変容を及ぼそうとしている。マスタリングソフトをデスクトップに出すのが面倒なので、Hzの帯域に関しては確認してはいないが、このオープニングは、おそらく人間の聴覚では一般的に捉えることが出来ない超低音域をある音と、対極にある超高音域にある音が聞き手の印象を様変わりさせている。つまり、聴覚や音響発生学の観点から見た変化ということである。二、三の音のパターンが変化するに過ぎないのに、この曲には、それ以上の変容があるように感じる。

 

反対に、シンセサイザーで構成されるドローン音を収録した「Sculpture 1」は、むしろ変化と変容を徹底して拒絶するような音楽である。一定の音域にあるシンセサイザーの音が保続音として持続し、それが14分あまり続く。音楽というよりも断続的なモールス信号のようでもある。分割して聴くとわかるが、最初の音と最後の音は変化していない。けれども、これらの音の連続性の中には新しい発見がある。つまり、音楽という概念を客観視することは到底不可能であり、どこまでも主観的な印象を表面的に濾過したものに過ぎないということを表しているのかもしれず、また、音楽を認識させているのは、人間の聴覚からもたらされる固定概念に過ぎないという事実を示唆している。音は、ただ発生しているに過ぎず、それ以外の意味を持たない。有史以来、多くの音楽家は、音の連続や構成に何らかの印象性をもたらそうとしてきたが、それはある意味では、人間の脳にまつわる錯誤、及び、固定観念が累積したものでしかないことを暗示している。例えば、楽しい音楽というのは、何らかの蓄積された経験によってもたらされるし、また、悲しい音楽というのも同じように、以前に蓄積された経験によってもたらされる概念でしかない。そして、無機質な印象のあるこのトラックは、そういった固定概念や既成概念を覆すような意味を兼ね備えている。この点をどのように捉えるのかは受け手次第となる。

 

一方で、三曲目の「Leaving Dreaming」では、二曲目と同じようでいて、パイプオルガンの持続音の中に微細な変化がある。ある意味では、音の変化が乏しかった前曲とは裏腹に、そういった音の変化を覚知するために存在するようなトラックである。イントロから重厚なパイプオルガンのポリフォニーの手法により、ひとつずつ水平線上に音が付加されている。こういった作風として、ロシアの現代音楽家、Alexsander Knaifel(アレクサンダー・クナイフェル)が好んでオーケストラの形式や宗教的な合唱の形式に取り入れているが、 この曲の場合は、通奏低音をベースとして、音がひとつずつ主音を取り巻く装飾音のように付加されている。中世のバッハの宗教音楽の現代音楽としてのルネッサンスとも解釈出来る。ひとつの印象論に過ぎないが、曲の終盤では前2曲とは異なり、感情性のある和音構造の変化の瞬間を捉えることが出来る。 


続く「Untitled Rain」では、パイプオルガンの保続音を強調したドローン音楽という点では同じであるが、ニューヨークのパーカッション奏者、Eli Keszlerのようにパーカッシヴな観点からのミクロの構成をドローン音楽と組み合わせる。マクロな要素とミクロな要素を融合させているが、これらがアルバムの序盤における単調なイメージを後半部で一転させ、印象性を変化させる。


アルバムのクロージング・トラックであり、二曲目の変奏でもある「Sculpture Ⅱ」は、前者のポリフォニーの和音構成を組み替えたものに過ぎない。ところが、全体として聴いた時、全5曲の中の和音的な感覚の中に印象的なコントラストを形成する。それは実例では表現出来ず、どこまでも感覚的なものである。そして、この説明についても主観における印象性の変化を述べるに過ぎないが、制作者が音響やスコアを通じてコントロール下に置くのではなく、「受け手の印象性の変容によってもたらされるバリエーション」が示唆されているのが革新的だ。これらの曲には洗練される余地が残されているかもしれない。ともかく、スウェーデンのドローンミュージックのシーンの象徴的な若手ミュージシャンが台頭したと考えても良いのではないか。

 

 

86/100

 





ニューヨークのラッパー、MIKEがニュー・アルバム『Burning Desire』をサプライズ・リリースした。この新作は、Alchemist,Wikiとの共同制作名義のアルバムのリリースに続く作品である。

 

このアルバムは、24曲からなる大作であり、MIKEのアブストラクト・ラップが今なお新鮮であることを思い出させてくれる。

 

MIKE流に言えば、彼は太陽の光を浴びたジャズやソウルのサンプルに、意識の流れに沿った叫びを叩きつけ、そのすべてが渦を巻き、心を揺さぶるような作品に仕上がっている。

 

レコーディングには、アール・スウェットシャツ、ラリー・ジューン、Liv.e、Niontay、エル・クストー、ブルックリンのサイケロックバンド、クラムのライラ・ラマーニ、UKのシンガーソングライター、マーク・ウィリアム・ルイスが招かれている。MIKEはさらにアレックス・ハギンズが監督した「What U Say U Are」のビデオも公開している。下記よりご覧下さい。


MIKEは、アール・スウェットシャツ&ザ・アルケミストの秋のツアー(11/22のニューヨークのブルックリン・スティールを含む)のオープニングを務める。2024年の北米とヨーロッパでのヘッドライナー・ツアーも発表したばかり。

 

 「What U Say U Are」

 

 

©Bobbi Rich
 

アラバマ・シェイクスのブリタニー・ハワード(Britany Howard)が新作ソロ・アルバム『WHAT NOW』の制作完了を発表しました。ハワードの公式の声明は以下の通りです。

 

新曲 "What Now "のリリースを発表できることをとても誇りに思い、興奮している。

 

この曲は、パンデミック(世界的大流行)の最中に書かれた。 それは、私たちが生きているこの世界で、今この瞬間まで続いている感情だと思う。新しいアルバムのタイトルでもあり、この曲を聴けば、私がなぜこのタイトルにしたのか理解してもらえると思う。 ザック・コックレル、ネイト・スミス、ポール・ホートン、ロイド・ブキャナン、そして私のパートナーになってくれたショーン・エヴェレットに感謝します。 みんな愛している。 私の紆余曲折に耳を傾け、そばにいてくれてありがとう。


ニュー・アルバムのリリース日はまだ未定だが、2019年の『Jaime』に続く作品で、アイランド・レコードからの初のリリースとなる。彼女は、ショーン・エヴェレットとの共同プロデュースで作曲とプロデュースを手がけたファンキーなタイトル曲を公開した。ダニーロ・パロが監督したビデオも公開されている。「What Nowは、たぶん全曲の中で一番真実味があり、青っぽい曲なんだ」とブリタニーは言う。

 

誰かの感情を傷つけようとは決して思わないけど、自分自身を編集することなく、心に思ったことを言う必要があった。踊りたくなるような曲であると同時に、歌詞が残酷であるところが好きなんだ。

 


ブリタニー・ハワードは11月にL'Rainとツアーを行い、2月にはバミューダ・トライアングルのバンドメイト、ベッカ・マンカリ(Becca Mancari)と2024年の新しい公演を追加した。


「What Now」


 


PinkPantheress(ピンク・パンテレス)がデビュー・アルバム『Heaven Knows』を発表した。このアルバムは11月10日にワーナー・レコード/300エンタテインメントからリリースされ、ニューシングル「Capable of love」が先行発売される。


このアルバムについてピンク・パンテレスは次のように語っている。「地獄から煉獄への旅、でも私はそこにいてもいい」


シングルについて、彼女はこう付け加えた。「私の曲の中で、おそらく最もファン待望の曲をリリースできることに、驚きと感激でいっぱいです。この曲は、私がいつもやってみたかったジャンルに進もうとしていて、ここから始められて嬉しいわ」  


「Capable of love」



PinkPantheress  『Heaven Knows』

 

©Lina Gaißer

Beirutがニュー・アルバムから2ndシングル「The Tern」を公開しました。『Hadsel』の発表時にはリードシングル「So Many Plans」がリリースされた。

 

「この曲のベースになっているのは、以前ベルリンでセッションしたときに使っていた、古いローランドのシンセサイザーとドラムマシンのパートだ。以前ベルリンのセッションで使ったままになっていたものだ」コンドンは声明の中でこの曲についてこう語っている。

 

「歌詞はその場で即興したもので、チャーチ・オルガンとハンド・ミュージックを重ねて曲を仕上げた。チャーチ・オルガンとハンド・パーカッションを重ねて曲を仕上げた。パートを重ねた。いつもやりすぎを恐れていたにもかかわらず。結局、私は どうしてこんな前向きで希望に満ちた曲を書いてしまったのだろう? しかし、歌詞をよく見てみると、そこに隠された敗北と勝利の本質が見えてきた。 隠された敗北と勝利は、希望というよりもむしろ警戒心だった」

 

コンドンが以前に明かしたように、11月10日に発売予定の『Hadsel』は、彼が宇宙船に乗り組んでいた時代にインスパイアされたものだ、 喉の不調が続き、2019年のツアーをキャンセルせざるを得なくなった後、彼はノルウェーの島へ逃れた。


「The Tern」

 

©Rory Kramer


Blink-182が、来週金曜日(10月20日)にコロンビアからリリースされるアルバム『One More Time...』から、また新たなシングルをドロップした。「Fell in Love」は、これまでに公開された「One More Time」、「More Than You Know」「Edging」「Dance With Me」に続く楽曲。


マーク・ホッパス、トラヴィス・バーカー、トム・デロンゲのクラシック・ラインナップのトリオによる2011年の『Neighborhoods』以来となるアルバム『One More Time...』は、コロムビアから10月20日にリリースされる。バンドはまた、最近行われたゼイン・ロウとのインタヴュー映像を含む、新作のセカンド・トレーラーも公開している。


「Fell In Love」
 

 

Interview with Zain Lowe

 

 


ボーイジーニアスがInterscopeからリリースしたEP『The Rest』には「Black Hole」、「Afraid of Heights」、「Voyager」、「powers」の4曲の新曲が収録されている。このスーパーグループには、ジュリアン・ベイカー、ルーシー・デイカス、フィービー・ブリジャーズが参加している。


『The Rest』は、3月にインタースコープからリリースされたboygeniusのデビュー・フルレングス・アルバム『the record』に続く作品。彼らは俳優/映画監督のクリステン・スチュワートが監督したショートフィルム『the film』も公開している。


Boygeniusは2018年に結成され、同年Matadorからセルフタイトルのデビューアルバムをリリースした。トリオはセルフ・プロデュースで、カリフォルニア州マリブのシャングリ・ラ・スタジオでレコーディングされた。2ndアルバム『Punisher』をリリースした1週間後の2020年6月、ブリジャーズは「Emily I'm Sorry」のデモをベイカーとデイカスに送り、boygeniusが再び音楽をレコーディングできないかと尋ねた。


ベイカーは、"dare I say it? "というグーグル・ドライブのフォルダを作成し、3人のソングライターはそこに曲の候補を追加し始めた。そして、3人全員が予防接種を受けた後、3人は2021年4月に直接集まり、アルバムの作曲を本格的に開始した。バンドは、2022年1月にシャングリラで1ヶ月間、毎日10時間かけてレコーディングを行った。


 

©︎Ed Cooke

ザ・リバティーンズがアルバム『All Quiet On The Easterrn Esplanade』の詳細を発表した。待望の4枚目となるこのアルバムは、2015年の『Anthems For Doomed Youth』に続く作品で、2024年3月8日にリリースされる。


ピート・ドハーティと共同制作者は本日、親密なライヴを行う計画とともに、このアルバムからリード・トラック『Run Run Run』を発表した。

 
バンドがクラシックで騒々しいサウンドに戻ったこの曲について、カール・バラットはこう語っている。


この曲は、奔放な人生の生涯のプロジェクトなんだ。ブコウスキーの『郵便局』に登場する男のように。ザ・リバティーンズにとって最悪なのは、"ラン・ラン・ラン "の轍を踏むことだよ。



「Run Run Run」



アルバム発売の後、「Night of The Hunter」「Shiver」が先行シングルとして公開されています。
 
 
 
レビューは以下よりお読み下さい。
 
 




The Libertines 『All Quiet On The Easterrn Esplanade』



Label: Universal Music

Release: 2024/3/8


Tracklist:

Run, Run, Run
Mustang
Have A Friend
Merry Old England
Man With The Melody
Oh Shit
Night Of The Hunter
Baron’s Claw
Shiver
Be Young
Songs They Never Play On The Radio

 

©Michael Tyrone Delaney


ブルックリンのシンガーソングライター、Fenne Lilyは、最新アルバム『Big Picture』のエクステンド・バージョンを発表しました。5曲のボーナス・トラックが収録される。拡張版は11月10日にDead Oceansからリリースされます。ボーナストラックとして収録される「Hollywood and Fear」のリリックビデオが発表と同時に公開されましたので下記よりチェック。アルバムの収録曲と同様に穏やかなインディーフォークサウンドに縁取られています。


「私は正しくありたいのか、それとも優しくありたいのか?」フェン・リリーは新曲の中で問いかけています。「それは、私が子供の頃、母にいつも聞かれたことです。だから、『ハリウッドと恐怖』は、いつ強くしがみつくべきか、いつ手放すべきかを見極めることを歌っています」 

 

 

「Hollywood and Fear」




Fenne Lily 『Big Picture (Expanded Edition)』



Label:Dead Oceans

Release: 2023/11/10


Tracklist:


1. Map of Japan

2. Dawncolored Horse

3. Lights Light Up

4. 2+2

5. Superglued

6. Henry

7. Pick

8. In My Own Time

9. Red Deer Day

10. Half Finished

11. Dial Tone (Bonus Track)

12. Hollywood and Fear (Bonus Track)

13. Cathedral (Bonus Track)

14. 4 (Bonus Track)

15. In My Own Time (Demo)

 

Lucas Creighton


ブロックハンプトンの創始者、Kevin Abstract(ケヴィン・アブストラクト)が、ニュー・アルバム『Branket』を発表した。

 

2019年の『アリゾナ・ベイビー』に続くこのアルバムは、プロデューサーのロミル・ヘムナーニとマルチ・インストゥルメンタリストのジョナ・アブラハムと共に制作された。11月3日にVideo Store/RCA Recordsからリリースされる。「GUM」と呼ばれる1分間のプレビューを以下でチェックしよう。


「サニー・デイ・リアル・エステート、ニルヴァーナ、モデスト・マウスのようなレコードを作りたかった。でも、ラップ・アルバムのようにヒットさせたい思いもあった」 

 





Kevin Abstract 『Branket』




 

©Coughs

 

Kali Uchis(カリ・ウチス)がスペイン語のニューアルバム『Orquídeas』を発表した。このアルバムは2024年1月12日にリリースされる。アルバムのジャケットは以下より。


「蘭はコロンビアの国花であり、コロンビアの蘭の種類は地球上のどこよりも多い。「私はいつもこの花に強い興味をそそられ、惹きつけられるものを感じていた。このアルバムは、ランの時代を超越した、不気味で、神秘的で、印象的で、優美で、官能的な魅力にインスパイアされている。この広大で新鮮なエネルギーで、音楽におけるラティーナに対する見方を再定義したい」

 


カリ・ウチスは今年初め、最新アルバム『Red Moon in Venus』をリリースした。