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Pale Saints 「flesh ballon」

 



「4AD」というイギリスのインディーレーベルは、ラフ・トレードとともに、八十年代から多くの良質なアーティストを輩出してきました。

 

このレーベルは、常にインディーロックシーンを牽引してきた存在と言っても過言でなく、主だったイメージとしては、バンドのなかに、紅一点の女性メンバーが在籍していて、他のレーベルとは一味異なる音楽性を聞かせてくれていました。Throwing Muses、Pixies、Amps、Breeders,、個人的にも非常に聴き込んだ思い入れのあるアーティストばかりです。

  

4ADと契約しているインディーロックレコードはレコード店で取り扱いが少なく、十数年前には、新宿、渋谷といった方々の大きなレコードショップをトリュフ犬のようにかけずりまわり、血眼になって探さなければ容易に見つからなかったです。何千、何万というレコードの中からお目当ての円盤を探し出す作業、これはほぼ発掘作業のような趣があり、大変骨の折れる作業でした。
 
 
お宝レコードを見つけられるのもかなり運要素が強く、この中古ショップならおいていそうだという独特の嗅覚を培わねばらなず、いつ入荷するかわからないので足繁くレコード店に通わねばならない。そして、長い間、探していた作品を見つけた瞬間には、内心では人知れずウオオという雄叫びを上げずにはいられなく(まあ、実際には声には出しませんが、ちっちゃくガーツポーズくらいはしていたでしょう)なんともいえない喜びをおぼえさせてくれるというところで、4ADのアーティストのレコードというのは、どれもこれも貴重で素敵な宝物ばかりでした。
 
 
そんな中、ペイルセインツを知ったのは割と最近のこと。やはり、4ADというと、ピクシーズの印象が強く、キム・ディール周辺のディスクばかりを漁りまくっていて、このバンドを知るのが大分遅れてしまいましたね。そして、このPale Saintsは、知る人ぞ知るバンドという表現がぴったり。My Bloody Valentine、Jesus Mary Chains、Ride、といった80年代から90年代に活躍したバンドに埋もれてしまったロックバンドです。彼らのリリース自体は1994年を期に途絶え、1990年の「The Comforts of Maddness」のリマスター版が2020年に再発されているのみ、その後の動向も聞こえてきません。しかし、この「Flash Baloon」を聴くかぎりでは、今一度、脚光を浴びるべき良質なバンドとのひとつだと思っています。
  
 
イアン・マスターズ率いるこのPale Saintsは、いってみれば不遇のバンドの一つに挙げられるでしょう。実力ほどには売れなかったという点で、”The La's”に似ているところもあるかもしれない。その音楽性は、シューゲイザー寄りといえるでしょうし、聞き手の捉え方によっては、ドリーム・ポップ、ニューロマンティック寄りといっても差し支えないかもしれません。トレモロ・ビブラートのエフェクトを噛ませたギターが断続的なリズムを作り出し、淡い甘美な印象のある歌が器楽的にうたわれるという特徴においては、他のシューゲイザーバンドとそれほど変わらないように思えますが、このバンドの音楽というのは妙にポップで耳に残る印象があります。
 
 
このアルバムに収録されている曲自体は、良質なポップソングが多く、どことなくティアーズ・フォー・フィアーズを彷彿とさせるような音楽性で、上手くやればスマッシュヒットも飛ばせたかもしれない。しかも、他のシューゲイザーバンドと比べ、センス的に秀でている雰囲気もあるというのに、セールスや知名度的にあまり振るわなかったのが実に惜しくてなりません。
 
 
アルバム全体では、イアン・マスターズもボーカルをとっていますが、この中の一曲、「Kinky love」というのが、なかなかの秀曲で、メリエム・バーハムの甘ったるいボーカルがなんともいえない切ない雰囲気を醸し出している。この甘ったるい夢想的な空気感といえばよいのか、シューゲイザー全盛期の熱に浮かされた雰囲気を余すところなく表した独特なアトモスフェールに充ちていて、なんらかの契機あれば、人気の出そうなバンドではあります。
 
 
しかし、ひとつだけ弱点を挙げるとするなら、どことなくRideなどに比べて、印象が薄いという気がする。たとえばかのバンドがストーンローゼズ的な雰囲気を上手くシューゲイザーに取り込んだのに対し、ペールセインツは狙いがあまり伝わってこないのと、バンドの持ち味というべきか、音に込められるべき力強さという点では少し弱い気がし、なおかつどうもこのツインボーカルがバンド全体の印象を薄れさせている。そこが惜しいところでしょう。
 
 
 この1991年リリースの「Flesh Balloon」を通して聞いてなんとなくわかるのは、ツインボーカルという点でその見せ所を見誤ったバンドなのかなという気がしています。たとえば、ピクシーズにおいては、ブラック・フランシスとキム・ディールが対照的な声質で上手く合致し、それをバンドの旗印として全面に押し出すことで大成功をおさめたのに対し、このペールセインツは、イアン・マスターズとメリエム・バーハムの声質の雰囲気が似通っていたせいで、フロントマンの声質の印象が邪魔をして、バンドの印象性さえも薄れさせてしまった。
 前者は、男女混合のボーカルが上手く化学反応を起こしたのに対し、後者は、いまいちケミストリーを起こせず、両者の特性を薄めてしまったのが、バンドとして成功しなかった要因かなあと思っています。
 

しかし、あらためてこの三十年近くに作られたアルバム、「Flesh Balloon」を聴き通してみると、良質なニューロマンティック風味の音楽が奏でられていることに変わりなく、どことなく渋みのある印象すら感じられ、他のシューゲイザーバンドと一風異なる独特な魅力に富んでいます。どうやらこのバンドは、ミュージックシーンの流行りというのに引きずられ、持ちうる本領を発揮できなかったきらいがあり、シューゲイザーという小さなジャンル分けによって、割を食ったバンドでした。
 
 
つまり、音楽性においては、人知れず良質なポピュラー音楽を奏でていたのに、それがあまり聞き手に伝わらなかったのでしょう。一度、4ADとかシューゲイザーという枠組みから外して、その音に耳を傾けてみると、彼らの音楽の本質の部分がなんとなく掴めてくるかもしれません。

Dead Texan

 

Daed Texanは、Adam WitltzieとChristina Vanzouによって結成されたアンビエントユニット。このアルバム一作で活動を終わってしまったので、幻のプロジェクトと言ってもいいかもしれません。


Dead Texanの楽曲の特徴を説明すると、サウンドエンジニアAdam Wiltzieが後に始めたプロジェクト、Stars of the Lidの世界観にそのまま引き継がれていくような心地よいふわふわとしたアンビエントです。


基本的には、環境音の中に紛れ込むようにして、ピアノ、アコースティックギターといったフレーズが静かに奏でられる。


ピアノのシンプルで美しい旋律が反復的に演奏され、それに加え、ストリングス、シンセサイザーのパッド、SEといった音の要素が主旋律の背後にドラマティックでダイナミックな奥行きを作っています。


ピアノの音色というのも、ディレイ等の多少特殊なリミックスが施されている。たとえば、同レーベルのTim Heckerのような先鋭的なサウンドエフェクトは、このアルバムにはそこまで感じられない。


ピアノの音をそのまま大切に活かしているように思え、確かにサウンドエンジニアらしく、玄人好みの音作りとなっています。 


 

「Dead Texan」 2004

 



このアルバムはシカゴのレーベル「Kranky」からリリースされた。ぼんやりしているうちに、あっという間に終わってしまう。いかにもアンビエントらしい楽曲ばかりずらりと並んでいる。その後のStars of the LidやChristina Vanzouのソロプロジェクトのような先鋭さこそないものの、二人の抜群のセンスの良さというのが遺憾なく発揮された幻のアンビエント名盤に挙げられる。


ここでは、アンビエントのジャンルにおいて屈指の名曲、「Aegina Airline」「La Baladde D'alain George」をごく簡単に紹介しておきます。

 

「AeginaAirline」

 


ブライアン・イーノの「Music for Airports」の世界観をそのまま継承したような感じがあるので、イーノ好きの方にはおすすめしたい。


この楽曲において表現されているのは、ガラス張りの窓の向こうに飛行機が飛び去っていくときをぼんやり眺めている感じ。そして、空港の整然とした建築デザインや、ピカピカに磨かれた壁や天井、そして、発着ロビーを旅行かばんを持ってせわしなく行き交う旅行客。もしくは、レストランやカフェで食事を楽しんでいる人々。それぞれ行動の目的は異なるのに、その建築的な均一性を見て、たとえば、天井、床、窓、壁、通路といった全ての配置、それらの存在に洗練された印象を見てとる際、なにか私達の心の中に呼び覚まされずにはいられない奇妙で爽やかなアトモスフェールが余すところなく音楽というかたちで緻密に「設計」されている。


ピアノが、静かに、淡々と、同じフレーズを紡ぎ出す中、向こうに奥行きを持って広がりをましていく、シンセサイザーのパッド。ときに、飛行機が実際に飛び立っていくときのエンジン音のSEの効果を得て、少し創造力を働かせさえすれば、空港のガラス窓の外に飛び去っていく旅客機を見るかのような感覚に浸れる。

 



・「La Baladde D'alain George」



「Aegina Airline」の続曲のような趣があり、上品で印象的なピアノのイントロからはじまり、その背後に、上品で洗練されたシンセサイザーのパッド、そして、ストリングスのシーケンスが心地よい清流の流れのように揺蕩している。


ときには、シンセのパッドの音が増幅され、ドラマティックな効果も発揮されています。途中で聴こえてくる逆再生の効果もてきめんで、曲自体の雰囲気を存分に盛り上げています。このトラックも短い反復的なフレーズが繰り返されることによって、均衡のとれた構成となっている。


アウトロでエピローグのように付加されるピアノの伴奏に静かに耳をすましていると、美しい映画のエンドロールを眺めているかのような気分をおぼえる。



God Speed You Black Emperror!「Lift Your Skinny Fists Anttenas to Heaven


はじめに、GY!BEの音楽性を説明する上で、絶対に避けては通れないジャンル分けがあって、それはいわゆる”ポストロック”と呼ばれるジャンルです。

実にこれは、専門家でも意見が分かれてしまうような複雑なシーンが形成されているため、認識違いもあると思いますが、一応、それを断った上、このポスト・ロックというジャンルについて大まかに説明しておきましょう。
 
 
1990年代終わりから、それまでのロックの雛形をぶち壊し、新たに解釈しなおすような動きがちらほら出てきます。
これはおそらく、ロックという形が行き詰まってしまった結果で、またコンピューターレコーディングを始めとするテクノロジーが二十一世紀にかけて発展していく中、旧態依然としたロックンロールを奏でる意味というのをミュージシャンが見出しづらくなってきたのかもしれません。
ところが、その予兆はかなり以前からあって、ドイツではノイ!がサンプリングを駆使して、クラウト・ロックをやっていたり、パブリック・イメージ・リミテッドが実験的な音楽性を追求していたり、ザ・フーが、「Baba o' Riley」において、アナログシンセでミニマル的な手法を実験として取り入れていたりしていましたが、いよいよ、そういったクラブミュージック界隈で使われるはずの最新鋭の手法を、ロックアーティストたちも我勝ちに導入していくようになります。
そういう意味では、パーソナルコンピュータが一般家庭にも普及していったというのがひとつあり、DAWが音楽制作に新しい息吹を吹き込んだことも一因としてあったでしょう。又、テクノロジーを代表とする時代の要請にこたえるような形で、ミュージシャンたちがこぞってコンピュター技術を駆使し、ソフトウェア音源の打ち込みだとか、サンプリングの音を、曲中に積極的に取り入れていくようになって、現在ではごく自然となったダンスミュージック的な手法を押し出すようになったのは、時代の側面から見てみれば、きわめて理にかなったことだったでしょう。
 
 
この2000年前後あたりから、それまでの音楽とは一風異なる新しいロックの形を追求していくアーティストが数多く出てきます。
 
その流れを象徴するのが、イギリスでは、Radioheadの「OK Computer」のリリース、アイスランドのSigur Ros、スコットランドのMOGWAIの登場であったかと思います。一方、もうひとつの巨大な音楽の市場規模を要するアメリカにおいては、もちろん、それ以前、スリントやガスター・デル・ソルをはじめとするバンドがポスト・ロックとも呼べる実験的な音楽を人知れず追求していたものの、メインストリーム界隈ではヨーロッパほど際立ったバンドは出てきませんでした。
しかし、それ以後も、依然としてアンダーグランドシーンでは活発な動きが続いており、それはまた、”カレッジロック”というアメリカの独特の音楽文化の後押しもあったか、Tortoise、Don Caballero、(後にザ・バトルスを結成、本格的ダンスミュージックを展開、ワープレコードと契約し、オーバーグラウンドで人気を博す)、といったアーティストが実験性の高いロック音楽を追求していきました。
(日本から、はるばる流浪の武士のごとくアメリカに出ていった、”MONO”という素晴らしいロックバンドもその一派に加えられましょう)
 
 
ともあれ、この一連の動きムーヴメントは、後になると、大まかに”ポスト・ロック”という括りで呼ばれるに至ります。総じて、こういったアーティストは、周辺のシーンにいるバンドに刺激を受け、それなりに互いに影響を与え合いながら、自分たち独自のスタイルを確立していくようになる。
そしてまた、このカナダの、God Speed You Black Emperor!という、ちょっと長い名のアーティストも、ジャズが盛んであるモントリオールというシーンで、周囲の音楽から独特の影響を受けて出てきたバンドのひとつ。

 
このGod Speed You Black Emperor!は、セールス的にはシガーロス、モグワイという他の有名な2つのバンドほど成功しなかったですけれども、ロック史的には画期的な音をもたらした重要な存在であるのには相違ありません。
彼らの音楽性の肝というのは、いつもコンセプト・アルバムのような手法をとっていること。たとえば、ピンク・フロイド、ビートルズ、ローリング・ストーンズなどもキャリアの中で一度くらい挑戦してみせたように、アルバム全体が明確な意図を持って作られているのが、コンセプト・アルバムと呼ばれる作品です。
 
God Speed You Black Emperor!は、ロック史の中でも、前例のないほど前衛的で過激な手法をとり、音楽という枠組みをどれだけ敷衍していけるのかを追求していきます。シネマティックなSEを長々と導入し、たとえば、老人、子供、女性の、悲しみのある語りであるとか、また、浜辺のような場所で遊んでいる効果音が使われたりしていて、ナラティブ、つまり、物語的な雰囲気が音楽中に貫かれています。
その映画的な雰囲気、アンビエンスを背景にし、ミニマル的な手法、同じギターフレーズの反復を繰り返すことによって、曲の序盤は、どことなく頼りなさげなギターフレーズではじまるのに、曲の中盤からは、その愚直さがむしろ凄みをましていって、ドラム、金管楽器、弦楽器が、ギターフレーズを優美に飾り立て、楽曲の終盤になると、ほとんど、「圧巻!」としか言えないほど、見事に壮大な音響の世界を形成し、聞き手にすさまじい迫力と説得力を帯びて訴えかけてきます。
 
このアルバムに収録されているのは、たったの四曲だけですが、すべての曲が、おのおの20分近くで構成されていて、ライナーノーツで尺の長さを確認しただけでギョッギョッと立ちすくみそうになってしまいます。
ところが、いざ、聴いてみると、その長い曲自体も、マスタリングの際にトラックに分けられていないだけで、実は、一曲自体がいくつかの短い小曲に分かたれていることがわかります。その曲と曲とを繋ぐ古典音楽のソナタ形式でいうところの連結部の役目として、長いシネマティックな効果音が挿入されています。
 
しかし、そういった長い時間のアンビエンスは必ずしも、ただたんに曲を引き伸ばすために使われているわけではなく、それ相応の意図が込められている事に気づきます。つまり、例えば、ゲオルグ・リゲティーの「アトモスフェール」のように、何らかの楽曲の雰囲気を定着させていくために使われていて、そして、その一種異様な雰囲気が極限まで行き着いたとき、エフリム・メナックのギターの叙情性あるフレーズが、まるで抒情詩を吟じるかのように奏でられて、曲をさらに複雑に展開させていく。そして、ミニマルミュージック的な旋律の音型が何度もくるくると変奏されていくことによって、曲の終盤においては、作り手もおそらく当初は全然予想しなかったような荘厳な展開に包まれていく。
 
目をつぶって聞いているだけでも、想像力を駆り立てられて、さながら映画館でドキュメンタリーフィルムを眺めているような奇異な錯覚をおぼえてしまいます。
 
 
このアルバムには、トランペットが印象的に曲を展開していく「Storm」をはじめ、彼らの二作目となるアルバムは粒ぞろいの名曲が揃っています。
ほとんど実際ほどの長さを感じさせない圧縮された緊迫感があり、そこに惹きつけられるものがあります。
 
「Static」においての後半部分のロックテイストには、Led Zepの「天国への階段」のクライマックスに比するような力強さ、狂気性があり、このバンドのもつ本当の凄さのようなものが感じられ、さらに、ドラムの怒濤の響きろギターの凄まじいディストーションの唸りが連れ立って嵐のように通り抜けていく。そして、曲の最後には、ギターの歪みが途切れ、轟音の果てにある冷ややかな静寂が訪れたときのなんともいえない痛快感。これは何にも喩えようがありません。
 
「Sleep」の十四分前後からのメナックの紡ぎ出す内省的で甘い旋律は、他のアルバムには見られない美麗な瞬間をもたらしています。
ここには、シューゲイザー的な手法も沢山盛り込まれていて、小刻みにためをしっかり作って刻まれるドラムが曲全体を後押ししている。
最後には、歪んだギターのフレーズ上に、美しいバイオリンの旋律の彩りが手のひらで包み込むように添えられることにより、曲の甘美さは、いよいよ最高潮を迎える。クライマックスにかけてのドラマティックさはやはり圧巻としかいいようがなく、曲を閉じていくにつれ、ギターの歪みはより一層鋭くをましていき、美しい旋律の上に不均衡なニュアンスをもたらす。ここには、普通ならば相容れない両極端の要素が音として共存していることに驚愕せずにいられない。
そして、何かしら、そこにこの音楽に病みつきになる要素があり、すべての音という音が消え去ったとき、なぜなのかしれないけれども、長い印象的な映画を見終えた瞬間のようなじんわりした深い余韻を与えてくれます。
 
最後の表題曲「Lift Your Skinny Fists Like Anttenas to Heaven」のクライマックスにいたっては、アンビエント・ドローンといってもほとんど差し支えない、広漠でいて異質な世界がいちめんにひろがっている。
ここまで来てようやく、聞き手は、このアルバムが何を表現していたのかを知ることになるでしょう。およそ一時間半以上の長い音楽の旅の終わりが来たことに安堵し、深い満悦にひたらざるにはいられなくなる。正直言うと、この音楽を聞き終えたことに大きな達成感すらおぼえてしまうようなところもあります。
 
彼らは、このアルバムでロックとしての音の広がりというのを、ノイズによって追求していって、それまでロックミュージックが、自分たちとは関係のないことと無視してきた領域、もしくは、これまでロックというジャンルが入り込むことがかなわなかった未知の領域へと恐れを知らずに踏み込んでいった。
 
この「Lift Your Skinny Fists Like Anttenas to Heaven」は、ロックの新しい境地を開拓した記念碑的な作品といえましょう。



The Velvet Underground「The Velvet Underground」


ご存知、今では、その音楽自体よりもはるかに有名な印象のあるアンディー・ウォーホールが手掛けた通称、

”バナナ・アルバム”です。

 
ヴェルヴェット・アンダーグランドというバンドは、あまりに前衛的で先鋭的な音楽性ゆえ、一部の音楽愛好家しかリアルタイムではその真価を評価しなかったともいわれる伝説的な名盤。
もちろん、このアルバムは、聴いてよし。もしくは、部屋にポップアートの絵画のように飾ってもよし。言わば、音楽とアートの両極面の性格をバランス良く併せ持ったアルバムといえるでしょう。

このヴェルヴェッツという存在を唯一無比とたらしめているのは、やはり、ルー・リードという存在と、そして、ゲスト参加的な関わり方をしているニコの二人の個性が上手く合わさり、このバンドの表側の顔のようなものを形作っているところによるでしょう。
ルーの歌というのも、全体を通して、”ポエトリー・リーディング”のように、詩を朗読するように歌われていて、クールでシニカルに語りかけるような声質。それとは正反対の情緒的ではあるが、モデルらしいスタイリッシュな印象のあるニコの声質が合わさることにより、このバンドの音楽性を独立なものとしています。
そこに、ジョン・ケイルのエレクトリックビオラの奇妙な民族音楽風の響きと、粗いドラミングが合わさることによって、独特の風味を持った楽曲が生みだされていく。これは、ファクトリーという音楽工房で気の遠くなるような回数のリハーサルを繰り返したからこそ生み出された賜物といえ、ここでは、フリージャズ的な遊び心あふれるセッションの延長線上にあるような音楽性、非常におもしろい性格を持った珍しいロックミュージックが奏でられているわけです。

 
このファーストアルバムは、それぞれの持ち味を持った個性的な楽曲で埋め尽くされています。
このアルバム中で、最も秀逸な永遠のヒットナンバーともいえるのが、「Sunday Morning」でしょう。日曜の朝の起き抜けのような感覚、そこに満ちる穏やかな風景、オルゴールの優しげな音色、ルー・リードのあたたかく包み込むような歌声、これらの味が合わさって、なんとも甘美な雰囲気に満たされ、聞き手は、その穏やかな世界にずっと浸っていたいように思うことでしょう。
「Heroin」や「European Son」の曲の終わりにかけて展開されていく狂気的なフレーズに代表される難解といわれる曲も、どことなく同じような退廃美を十二分に体感できます。つまり、本来醜いはずのものを美しく見せようとする新たな音楽の形式の可能性が、このアルバムには示されていて、美という概念に対する飽くなき探求心が感じられるという点で、「耽美派の音楽」に位置づけられるのかもしれません。
 
彼等の楽曲には、ポピュラー性を有しながらも、普通の人が敬遠していしまいがちな危なげな雰囲気に充ちています。
しかし、その中にも、楽曲のメロディ自体はとても親しみやすく作られていて、そこがこのファーストアルバムの息を長くしている要因と思われます。
そして、ルー・リード一人だけだといささか粗野で素っ気ない印象を与えかねないこのアルバムに異なる彩りをくわえて、華やかにしているのが、ファッションモデルを務めていた”Nico”という存在でしょう。 
彼女がルーの担当するトラックの合間にスタイリッシュに歌うことにより、「Femme Fetale」や「All Tomorrow's Parties」のような楽曲で真価を発揮し、このアルバムに彩りある華をそっと添えています。
これらの楽曲の特徴にそれとなく垣間見えるのは、ボブ・ディランの奏でるようなフォークから、ビートルズやストーンズが奏でそうなポップソング性でしょう。
 
そして、現代音楽や、マイルスの奏でるようなニュージャズ的性格を持った実験音楽にいたるまで、実に音の多彩さという面では、現在においても他のバンドはまるで追随できないほどの高い完成度と言えます。
しかも、そういった多様性というのは、一貫した”退廃美”という概念によって貫かれているので、全くちぐはぐな印象にはなっていません。各トラックの音作りのバランスが絶妙なバランスによって保たれているため、アルバムを通して聴くと、全体の構成が非常に引き締まっている印象を受けます。
 
不思議なことに、他の音楽に慣れ親しんだ後に、しばらくしてまたベルベッド・アンダーグランドのこのバナナアルバムに戻ってくると、やはり、聴き応十分の曲ばかりで埋め尽くされているという印象をうけ、このアルバムが只のこけおどしではなく、長い年月の風化にも耐えうるような珠玉の名曲で占められているのにあらためて気付きます。
 
聴くたびに、このアルバムのそれまでとは異なる発見があるのに驚かずにはいられなく、それは深い示唆にとんだ名作古典文学を歳を重ねてから再読するのと同じようなもの、何度聴いても唸らざるをえない”何か”が込められている気がしてなりません。
 
 
このファーストアルバムだけは、何度聴いても、そのたび新たな発見があり、およそ音楽らしからぬ哲学的な性格を帯びているといえます。
最後に、ひとつだけ、忘れてはならない点を挙げておくなら、このヴェルヴェットアンダーグラウンドのファーストアルバムに貫かれている気風の中に、NY独自の音楽文化、パンクロックだけにとどまらず、ヒップホップまでにも通じる、”既成概念に対するクールな反骨精神”の源流がはっきりと垣間見えることでしょう。

Sea oleena



Sea Oleenaは、カナダ・モントリオールの兄妹、シャルロット・オリーナとルーク・ロゼスのエレクトロニカ・ユニット。
 
このアーティストの特に面白い特徴は、レコーディングが兄妹の自宅で行われていて、ギター、ピアノをはじめとする楽器が自前のラップトップで録音され、レコーディングからリリースまでのおおよそが二人の手でなされているところです。
 
家の中にエフェクターなどの機材だとか配線が沢山積み上げられて、その前で、二人揃って真剣に演奏している写真を見るかぎりでは、若い頃から兄妹揃って音楽に慣れ親しんで来たようなのが伺えます。その辺りの、音楽を介して伝わってくるこの兄妹の仲の良さが、二人の音楽性の独特な魅力にも現れているという気がします。彼等は、はなから目立った活動をする気はないらしく、素敵な音楽をささやかながら世界中の愛好家のもとに届けてくれています。
 
Youtubeの公式のPV以外は、音源リリースというのも、実際の活動の多さに比べると少なく、もとはカセットテープ、もしくはミュージシャン向けの配信サイト「Sound Cloud」上でのリリースという内寄りな形で活動していましたが、昨今、意外にもファンからフィードバックがじわじわ増えはじめているのか、彼等の音楽を待ち望む多くの期待に答えるような形で、リリース音源がCDというかたちで市場に残るようになり、なおかつ彼等の音が前よりも入手しやすくなったのは、個人的に嬉しいかぎり。


シャルロット・オリーナは、非常に類まれな天使のように美しい歌声、そして、独特のギターテクニック、メロディセンスを持っています。彼女の歌声には、付け焼き刃ではない、長年培ってきたからこそ滲みでてくる気配があり、つまり、本格派アーティストの雰囲気が漂っていて、有名所でいうなら、セイント・ヴィンセントにも比する、美しい!!としか形容しようのない浮遊感のある声質を有しています。ヴィンセントに比べると、アンニュイな雰囲気が感じられる歌声です。
 
なかなか侮りがたいのは、彼女の端麗な容姿からは想像できないほど職人的な音作りをしていて、モントリオールという音楽の盛んな土地柄のためか、さまざまな音楽性の影響を見せ、そのバックグラウンドの広さが伺えます。サウンド面でも、さまざまなアナログディレイ、リバーブ等のエフェクターを使いこなし、かなり長い活動をしてきたがゆえの音楽に対する深い知見も持ち合わせているようです。
彼女の持つエッセンス、演奏とボーカルをさらに魅力あふれるものにしているのが、兄のルーク・ロゼズという存在。彼はピアノをかろやかに弾きこなし、DAWを介してサンプリングを駆使しています。Sea Oleenaの楽曲を雰囲気たっぷりに仕上げているのは、ロゼスの手腕によるところが少なくないかもしれません。

彼等の曲というのは、どことなくアンビエント的なムードが漂いながらも、そこで展開されるのは、いうならば、フォークとエレクトロニカの合体させたフォークトロニカ、つまり、アイスランドのMUMのニュアンスに近い印象があります。もちろんMUM好きな方なら必聴でしょう。ただ少しだけ異なるのは、アナログディレイを駆使し、音の奥行きが感じられるようなミキシングをしていて、アンビエント的風味を持った抽象世界が楽曲の中において展開されています。おそらくドラマティック性という面では、Sea Oleenaの方が秀でいているかもしれません。


聴くと、なぜ、もっと脚光を浴びないのか解せないほどのスター性と、そして他に比べて抜きん出た実力を持ちながらも、一般的に知名度があまり浸透していないようなのが残念でなりません。おそらく、この兄妹がそれほど大手を振って宣伝活動をしないため、その点が知名度という面で少し弱いという気もしています。本人たちもひっそりと家の中で良い音楽を奏で、それを分かる人だけ分かって貰えれば良しというスタンスで活動しているのかもしれません。反面では、やはりというか、一部の耳の確かな愛好家の間においては、Sea Oleenaの名が知れ渡りはじめていて、すでにシャーロット・オリーナの歌声は本物と認められつつあるというように思えます。
Sea Oleenaの楽曲を聴いていると、世間の喧騒から離れ、本当の意味での自分を見つめざるを得なくなり、また、その中に隠されていた美しい感情を呼び覚まされるような気がします。それこそがこの兄妹の音楽の不思議な魅力のひとつでしょう。何かしら、自分の中にある悪い感情がキレイさっぱり洗い流されて、それとは正反対の清らかな感情に満たされるような気がします。
 

 「sea oleena」

 
 
 
 
このアルバムの中においては、どことなく妖しげでミステリアスな印象のある「Sister」。シャルロット・オリーナの美しい歌声の響きをサンプリングを使い、ターンテーブル的な巧みな手法でループさせた「Swimming Story」が出色の出来。その他には「Litte Aemy」の穏やかなフォーク的で、雰囲気も非常に良い味を出しています。

また特筆すべきなのは、Sea Oleenaの楽曲には癒やしの効果があって、聴いていると気持ちが安らかになってくるようにも思えます。いわば、ヒーリング的効果もあり、気持ちがザワザワついて落ち着かないという方に、是非ともおすすめしたい音楽です。

 
 参考 http://www.inpartmaint.com/site/3492/
    https://diskunion.net/rock/ct/detail/AWY140917-SO1

 ザ・リプレイスメンツは、1980年代活動していたアメリカ中西部のミネアポリスのロックバンド。
 バンドのフロントマン、ギター・ボーカルのポール・ウェスターバーグは、このバンドが解散した後、ソロ活動に入り、自身の持ち味であるボブ・ディランを彷彿とさせる渋みのある声を駆使し、自身の楽曲の特徴にもアメリカン・トラッドフォーク色をこれでもかというくらい色濃く出していきます。
 アメリカ国内ではこのバンドは、それなりに知名度を誇るアーティストと思いますが、海外、とりわけ日本においては認知度は残念がら、実際の実力に比していまいちで、”知る人ぞ知るロックバンド”という位置づけになるかもしれない。
 彼らの評価を難しくしている理由はいくつか考えられて、まず、このとリプレイスメンツというのは、活動の時期によって音楽性が著しく変化しています。それが聞き手にとっては曖昧模糊としていて、捉えどころがない印象を受けるのでしょう。彼らにはほとんど一般的なジャンル分けが通用せず、その音楽性は、パンクともいえ、パワーポップともいえ、フォーク、ロック、ブルースにも縁遠いとはいえません。そこには、中心人物であるポール・ウェスタバーグの極めて広範な興味がうかがえます。
 例えば、つまみ食いのように彼らの各スタジオアルバムを聴き比べてみると、同じバンドとは思えないほどリリースごとに作風が変わっていく。
一体、どれがザ・リプレイスメンツの本質なのか、聞けば聞くほど混乱してしまうところがあります。
 しかし、まさに外敵から身を守るカメレオンの変色のごときもの、アルバムごとに持ちうる色彩をおもしろいように七変化してしまうところが、彼らのひとつの特色ともいえるでしょう。 
 
 
 初期のリプレイスメンツは、デビュー作「Stink」において荒削りなド直球パンクロックを奏でていました。歌詞も音楽性も尖りまくっているけれど、ポール・ウェスターバーグの人間的な温かさがにじみ出ていて、パンクロックとしてはいまいち本領が発揮されていない感をうけます。
 同郷の”Husker Du”と比べると、オールドスクールパンク特有の先鋭さもなく、音の尖り方も甘いという気がし、また、彼の本質的魅力であるメロディセンスもいまだなりをひそめています。
 ところが、中期から後期にかけては、彼らは生まれ変わったかのように、それまでのパンクの性質を捨てさり、良質なメロディーを有するスタンダードなアメリカン・ロックバンドに変化し、そして、アメリカのミュージックシーンでの存在感を不動のものにしていきます。それまで隠れていたポール・ウェスターバーグの潜在的なメロディセンスが、ジャンルというものに頓着しなくなったため、彼の魅力およびバンドの魅力も、徐々に引き出されていったのでしょう。
 おそらく、ポール・ウェスターバーグという人物は、良くも悪くも影響をうけやすい人物らしく、八十年代初期、ハスカー・ドゥという同郷ミネアポリスの存在の影響があったため、自分の本当にやりたい音を見つけるため、何度も試行錯誤を重ね、完成形にたどり着くまでに相応の時の流れを要したのかもしれません。
 
 彼らは、リリースごとに、種々雑多なジャンルに挑んでいく冒険心を持っていました。はたして、ミネアポリスという土地の気風がそさのようにさせたというのか、リプレイスメンツの音楽性のバックボーンには、ジャズ的なものもあり、ブルースあり、もしくはモータウン風味もあり、その他にもさまざまな音楽性がごった煮になっています。そして、1980年代中頃から、彼らは非常に渋みのあるアメリカンロックバンドとしての風格を見せはじめて、その中では、With In Your Reach、Answering Machine、Unsatisfied,Swinging Party、Skyway、というように、アルバムの中でキラリと光る際立った名曲を次々に誕生させていきました。

 良曲が多く含まれている名作アルバムとして挙げるなら、間違いなく「Let It Be」一択であるといえるでしょう。また、彼らのことをよく知るための入門編としてはまず、ライブ・アルバムを聴くことをおすすめしたいところですが、なにぶんインポートものしか市場に出回っていないので、入手が比較的困難でなく、彼らの良さをよく知る上でうってつけの名盤として、この「Don't Tell a Soul」を挙げておきたい。その理由は、このアルバムジャケットの問答無用の渋さかっこよさ。アルバムに収録されている「I'll Be You」という一曲の会心の完成度にあります。
 
 楽曲の観点からいうと、それまで彼らのアルバムの曲は、どことなく荒削りな印象があるため、いまいち本来の良さが引き出しきれていません。そして、聞き手に明確なものが伝わってこない歯がゆさがありました。けれども、そういった欠点が、この「I'll Be You」という楽曲では上手いこと解消され、これまであんまり目立たなかった彼ら独自の持ち味の上質なメロディが明瞭になったことによって、この曲はいまだ永久不変のみずみずしい輝きを放ちつづけています。
 
  
ここではシンプルな8ビートのドラミングの上に、ウェスターバーグの本質であるポップ性が全面に押し出されたことにより、爽快なカラッとしたスタンダードなアメリカン・ロックの雰囲気に充ちわたっています。
 
音作りのバランスが絶妙に取れていて、他のアルバムの曲に比べると、ワーナーのサウンドエンジニアの手腕が際立ちっています。
 
バックトラックのバンジョーのようなアレンジであったり、そして、ドラムのカナモノ(シンバル、ハイハットetc.)の「シャン、シャン」という心地よい鳴りが、この曲のダイナミクス性、ドラマティック性を際限なく高めています。なおかつ、ポール・ウェスターバーグが情熱的に歌い上げるコーラスをはじめ、他のアルバムに比べると、特に、彼のボーカルの高音部分が精妙に美しく聞こえます。
 
そして、その上に乗ってくるバックコーラスの清々しく若々しい響き。もう、これ以上余分な説明はいらないでしょう。
 
これらの要素がぴったりと合わさることで、この曲を名品と呼ぶにふさわしい出来ばえとなっています。
 
そして、この曲に満ちわたる、若々しく、青臭く、どことなく切なげですらある空気感というのは、LAやボストンを中心とした商業的なロックミュージックの栄えた八十年代終盤にしか出しえない音であり、他の年代には絶対に醸し出せない独特な魅力をもった雰囲気が心ゆくまで味わいつくすことができるといえましょう。

 
通常、レコーディングというのは、各トラックごとの楽器の録音をした後、ミックス、マスタリング作業に入り、そしてアーティストは、ガラス張りのブースの中で、エンジニアと話し合いながら、アルバムの音の方向性を決定していきます。「ここはこういうふうにしたい」とぼんやりとした要望を伝えて、「では、こうしましょう」と、イメージをアーティストとエンジニア間で共有しつつ、複数のトラックを最終的に”サウンドプロダクション”というニュアンスで表していきます。
それほど詳しくない人などには、一流のミュージシャンなら、何をやっても一緒だろうにと思われましょうが、実情は異なります。というのも、実際に録音した音がマスタリングによって全然意図しない違う音に変化することもあり、そういった点では、共同作業を行う上で人間関係の相性、双方の意思疎通の重要性というのも、作品の完成度に少なからず影響があり、サウンドエンジニアが、アーティストの音楽の方向性のどの部分を押し出すべきなのかがしっかり理解していないと、どのような名曲もぼんやりした印象の冴えない駄曲になってしまう危険性もあります。
 
そして、今回、このアルバム「Don't Tell a Soul」については、他のアルバムのサウンドエンジニアリングに比べて、リプレイスメンツの音の方向性が明らかとなり、彼らの魅力が存分に引き出されたことにより、結果的にこのアルバムが商業的にも大きな成功を得た要因となったのだろうと思われます。
 
クリアで精妙な音、ダイナミクスやドラマティック性、余分なノイズを徹底的に削ぎ落とす。
 
つまり、このレコーディングにおいてが欠かさざるべき要素が、彼らの麗しいメロディセンスを全面に押し出したことによって、この八十年代を代表するアメリカンロックの名盤は必然的に誕生したといえるでしょう。