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 Kaho Matsui 『scrutiny portrait』


 

Label: Kaho House

Release: 2024/04/19

 


Review


マツイ・カホは数年前までポートランドを拠点に活動していたが、現在はロサンゼルスに移住し、ベッドルーム・レコーディングを行っている。

 

ホームレコーディングのアーティストとしては他にも、Claire Rousey(クレア・ラウジー)がいる。ステレオガムのインタビューは時間がなくて読めなかったが、ライン・オブ・ベストフィットの取材で、クレア・ラウジーは「エモ・アンビエントというジャンルを最新作のテーマに置いた」と述べていた。

 

カホ・マツイは言ってみれば「次世代のクレア・ラウジー」とも称すべきアーティスト。もしくはイギリスのクイア・ポップのリーダー、Cavetownの音楽にも親和性がありそうだ。マツイはインディーフォーク/エモをエレクトロニックから解釈し、先鋭的なサウンドを構築する。また多作なアーティストであり、この3年間で、S/Tを含め、6作のフルアルバムを発表している。これらの作品は、Ethel Cainと同じように、デジタル・ストリーミングを中心にリリースされている。

 


 

アルバムは冒頭の「sore spot」に見いだせるように、インディーフォーク/エモの中間にあるサウンドが個性的な印象を放つ。その中で、マツイは抽象的なボーカルのフレーズを交え、叙情的なアンビエンスを作り出す。最初のトラックメイキングの動機こそ、その限りではないが、細かなマテリアルを組み上げる過程の中で、徐々にポップスからアンビエントのような抽象的な音像に接近を図るのである。マツイのボーカルにも個性的な特徴がある。彼女のボーカルは、内省的で、それは内側に揺らめく情念のように熱いエナジーを擁している。これらが内向きのエナジーであるはずなのに、リスナーにもカタルシスや共鳴をもたらすことがある理由なのだ。

 

マツイは基本的にはギターを中心にソングライティングを行うらしいが、彼女はエレクトロニックのクリエイターとしても秀逸だ。 続く「angel」ではCaribou(ダン・スナイス)を彷彿とさせるグリッチサウンドを展開させ、サウンドデザインのようなスタイリッシュな質感を持つポップソングを制作している。それらは最終的にマツイが持つ音楽的な素養であるインディーフォーク/オルタナティヴフォークという切り口を通じて、完成度の高いトラックに昇華される。曲そのものからもたらされる内省的な感覚は、エモとの共通点があり、切ない空気感を作り出す。

 

先行シングルとして配信された「i don't have to tell the rest」を聞き逃さないようにしてほしい。オルタナティヴフォークからジャズ、ローファイ、アンビエントまでをシームレスにクロスオーバーし、内省的でありながらダイナミックな質感を持つ素晴らしいベッドルームポップソングを作り上げている。

 

特にブリッジからサビに移行する際のタイトルの歌の部分には内的な痛みがあり、それらが胸を打つ。このヴィネットにおける辛辣なフレーズはヒップホップのようなひねりが込められている。「you don't have to tell me the rest」は、前曲と呼応する連曲のトラックとなっている。この曲は全般的に、イギリスのCavetownに近いニュアンスを捉えることが出来るだろう。編集的なサウンドとオルタナティヴフォークをジム・オルークのようにエクスペリメンタルという視点を通して作り上げていく。この曲にもアーティストのただならぬセンスを垣間見ることが出来る。



 

アルバムの中盤からはエクスペリメンタルミュージック、つまり実験的な音楽性が強調される。「once in a while」はテープ音楽やローファイから見たハイパーポップであり、メインストリームに位置するアーティストとは異なるマニアックなサウンドで、一方ならぬ驚きをリスナーに与える。続く「train home」はノイズミュージックに近づき、Merzbowのような苛烈なアナログノイズがこれらのポピュラーな音楽性の中心を激しく貫く。アーティストの内的な痛みや苦悩、憂慮をノイズという形で刻印し、それをなんらのフィルターに通すこともなく、リアルに提示している。

 

アーティストの持つ音楽的な蓄積はかなり豊富で、驚くべきバリエーションがある。エクスペリメンタルと合わせて内省的なドリーム・ポップの性質が立ち表れる「security」は、韓国系のミュージシャン、Lucy Liyouが参加している。Gastr Del Solの音楽をファンシーな雰囲気で包み込む。そこに、ルーシー・リヨウが持つアンビエントやエレクトロニックの要素が合致している。これらは両者の持つアーティスティックな側面がより色濃く立ち現れた瞬間と言えるだろう。

  

本作の終盤でも、マツイは、必ずしも音楽的な制作を設けず、自由闊達な創造性を発揮しているが、少し、これらのバリエーションが収集がつかなくなっているのが難点と言えそうだ。ただ、その中にもアーティストが考える音楽そのものの"ユニークさ"が込められていることも事実である。


「mean girl」では、イスラエルのApifera、トルコのIsik Kural、ドイツのAparratのサウンドデザインに近い多彩なエレクトロニカ/ミニマル・テクノをめくるめくように展開させ、「dog whistle」では、エレクトロニカの要素をオルタナティヴフォークと連結させ、アヴァン・ポップ/エクスペリメンタルポップに近い、先鋭的な音楽へと昇華させる。


アルバムのクローズ「draw me」では、ニューヨークでインディーズ・デビューした最初期のトクマル・シューゴのような、エレクトロニカとポップネスの融合の醍醐味を見出すことが出来るはずだ。

 

 

74/100

 

 


 

 カジヒデキ 『Being Pure At Heart』

 

Label: Blue Boys Club/AWDR/LR2

Relase: 2024/04/24

 

 

Review

 

渋谷系の代表的なシンガーソングライター、カジヒデキは「Being Pure At Heart」で明確に「ネオ・アコースティックに回帰してみようとした」と話している。ネオ・アコースティックとは1980年代のスコットランドで隆盛をきわめたウェイブだ。このウェイブからは、ベル・アンド・セバスチャンという後の同地の象徴的なロックバンドを生み出したにとどまらず、Jesus And Mary Chain、Primal Scream等、その後のUKロックの10年を占うバンドが多数登場したのだった。

 

渋谷系は2010年代頃に、海外でもストリーミングでカルト的な人気を獲得したことがある。この渋谷系とは、複数のジャンルのクロスオーバーで、ギターロックはもちろん、小野リサのボサノバ、ラウンジジャズ、チルアウト、そして平成時代のJ-POP等、多数のジャンルがごちゃまぜになり、スタイリッシュでアーバンな雰囲気を持つ独自のサウンドとして確立された。現在のクロスオーバーやハイブリットという時代を先取りするような音楽であったことは疑いを入れる余地がない。渋谷系はかなり広汎なグループに適応され、その象徴的な存在であるサニーデイ・サービス、小沢健二、カジヒデキがこのジャンルをリードした。当時の日本国内でのヒットチャートでも宇多田ヒカルや椎名林檎といったヒップな存在に紛れるようにしてカジヒデキの楽曲も必ず上位にランクインしていたのだった。

 

『Being Pure At Heart』はシンプルにいえば、渋谷系という固有のジャンルを総ざらいするようなアルバムである。そして少なくとも、忙しない日常にゆるさをもたらす作品となっている。北欧でレコーディングされたアルバムであるが、全般的に南国の雰囲気が漂い、トロピカルな空気感を持つ複数のトラックがダイヤモンドのような輝きを放つ。オアシスの「Be Here Now」に呼応したようなタイトル「Being Pure At Heart」は忙しない現代社会へのメッセージなのか。 


アルバムの冒頭を飾るタイトル曲はまさしくネオ・アコースティック/ギター・ポップの王道を行くナンバーといえる。エレアコのイントロに続いて、1990年代と変わらず、カジヒデキは快活なボーカルを披露する。そして、小山田圭吾やスカートの澤部渡のような軽快なカッティングギターを元にして、精細感のあるボーカルを披露する。ギターサウンドは、お世辞にもあたらしくはないけれど、逆に核心を付く音楽的なアプローチの中に迷いがないため、ことさら爽快なイメージを作り出す。そしてThe Pastelsを思わせるメロディーを込め、聞き手を平成時代のノスタルジアの中に誘う。カジヒデキは口ずさめるシンプルなメロディーの流れを意識し、それらを誰よりも軽快に歌う。それにカラフルな印象を付加しているのが、女性ボーカルによるコーラス。

 

続く、「We Are The Border」はコーネリアスのマタドール在籍時代の『Fantasma』のダンサンブルでアップテンポなナンバーを継承し、それにカジヒデキらしいユニークな色合いを加えている。この曲もまた渋谷系のスタンダードな作風となっているが、そこに恋愛の歌詞を散りばめ、曽我部恵一のような雰囲気を加えている。サニー・デイ・サービスと同様にカジヒデキも甘酸っぱいメロディーを書くことに関しては傑出したものがある。それはアルバムのタイトルにあるように、純粋な気持ちやエモーションから作り出される。歌詞の中では、クリスマスや賛美歌について言及されるが、それらが楽曲が持つ楽しげなイメージと見事な合致を果たしている。つまり、カジヒデキのソングライティングの秀逸さがサウンドプロデュースとぴたりと一致している。


「April Fool」ではオープナーと同様に牧歌的なスコットランドのギター・ポップへと回帰している。これらのおおらかな気風はこのアーティストにしか作り出せないもので、甘いメロディーと融合する。手拍子や変拍子のリズムの工夫や移調の工夫を随所に散りばめながら、カラフルなサウンドを作り出す。ギターのカッティングの決めの箇所をリズム的に解釈しながら、最終的にタイトルのサビへ移行する。この瞬間には奇妙な爽快感があり、開放的な雰囲気もある。


続いてカジヒデキは、そらとぼけるように、「エイプリル・フール」と歌った後、「君が好きだよ、それもうそのはずだった」と カジヒデキ節を込め、続くヴィネットへと移行していき、「人生は夏草のように」と松本隆を思わせる抒情を重視した淡麗な歌詞を軽やかに歌いこむ。メロディーやリズム、実際の歌が歌詞の流れとともに音に拠る情景を呼び覚ます。これこそJ-POPにしか求められない要素で、アーティストはそれを誰よりもシンプルにやってのける。

 

「Peppy Peach」はチルアウト/チルウェイヴに舵をとっている。 シンセを中心に作り出したリズムに同じくシンセのテクスチャーでトロピカルな雰囲気を生み出しているが、これは細野晴臣の1973年の「Hosono House」の日本の音楽が未だ歌謡曲とポップスの中間にあった時代の作風を思わせる。


歌詞も面白く、ちょっとおどけたようなアーティストの文学性が堪能出来る。他の曲と同じように、''アイスクリーム''等のワードを織り交ぜながら、甘酸っぱい感覚のメロディーを作り出す。その中に、ボサノヴァのリズムを配しながら、コーラスの導入を通じて、多彩なハーモニーを作り出す。「いつもそばで、I Love You、触れた〜」と歌う時、おそらくJ-POPの言葉運びの面白さの真髄とも言うべき瞬間が立ち表れる。”英語を通過した上での日本語の魅力”がこの曲に通底している。ある意味でそれは日本のヒストリアのいち部分を見事に体現させていると言える。

 

「NAKED COFFE AFFOGATO」はYMOのレトロなシンセポップを思わせ、カッティングギターを加え、ダンサンブルなビートを強調させ、モダンな風味のエレクトロに代わる。前曲に続きアーティストしか生み出せないバブリーな感覚は、今の時代ではひときわ貴重なものとなっている。そこにお馴染みの小山田圭吾を思わせるキャッチーなボーカルが加わり、楽しげな雰囲気を生み出す。続く「Looking For A Girl Like You」はギター・ポップとネオ・アコースティックというスタイルを通じて、高らかで祝福的な感覚を持つポップソングを書き上げている。アレンジに加わるホーンセクションは北欧でのレコーディングという特殊性を何よりも巧みに体現している。


 

プレスリリースにおいて、カジヒデキはネオ・アコースティックを重要なファクターとして挙げていた。でも、今作の魅力はそれだけにとどまらない。例えば、「Don' Wanna Wake Up!」では平成時代に埋もれかけたニューソウルやR&Bの魅力を再訪し、マリンバのような音色を配し、トロピカルな雰囲気を作り出す。R&Bとチルウェイブの中間にあるようなモダンな空気感を擁するサウンドは、アメリカのPoolside、Toro Y Moi、Khruangbinと比べても何ら遜色がない。そこにいかにもカジヒデキらしいバブリーな歌詞とボーカルはほんのりと温かな気風を生み出すのである。


以後の収録曲「Summer Sunday Smile」と「クレールの膝」は渋谷系のお手本のような曲である。少なくともダンスビートを重視した上で、メロディ性を生かした曲は現在のミュージックシーンの最中にあり新鮮な印象を覚える。それはまたプリクラやビートマニアのような平成時代のゲームセンター文化を端的に反映させたようなエンターテイメント性を重んじたサウンドなのである。 


もうひとつ注目しておきたいのは、このアルバムにおいてアーティストはチェンバーポップやバロックポップの魅力をJ-POPという観点から見直していることだろうか。例えば「Walking After Dinner」がその好例となり、段階的に一音(半音)ずつ下がるスケールや反復的なリズム等を配し、みずからの思い出をその中に織り交ぜる。そして、カジヒデキの場合、過去を振り返る時に何らかの温かい受容がある。それが親しみやすいメロディーと歌手のボーカルと合致したとき、この歌手しか持ちえないスペシャリティーが出現する。それはサビに表れるときもあれば、あるいはブリッジで出現するときもある。これらの幸福感は曲ごとに変化し、ハイライトも同じ箇所に表れることはない。人生にせよ、世界にせよ、社会情勢にせよ、いつもたえず移り変わるものだという思い。おそらくここに歌手の人生観が反映されているような気がする。そしてまた、この点に歌手の詩情やアーティストとしての感覚が見事に体現されているのだ。


カジヒデキの音楽を最初に聴いたのは小学生の頃だった覚えがある。当時はオリコンチャートやカウントダウンTVのような日本のヒットチャートの一角を担うミュージシャンという印象しかなかったが、今になってアーティストの重要性に気がついた。カジヒデキは、誰よりも親しみやすいメロディーを書いてきた。そして、子供でも口ずさめる音楽を制作してきたのだった。そして、このアルバムでも、それは不変の事実である。これらのソングライターとしての硬派な性質は、むしろ実際の柔らかいイメージのある音楽と鋭いコントラストをなしている。

 

アルバムの終盤でもシンガーソングライターが伝えたいことに変わりはない。それは世界がどのように移り変わっていこうとも、人としての純粋さを心のどこかに留めておきたいということなのだ。「君のいない部屋」では、切ないメロディーを書き、AIやデジタルが主流となった世界でも人間性を大切にすることの重要性を伝える。本作のクローズを飾る「Dream Never End」は日常的な出来事を詩に織り交ぜながら、シンプルで琴線に触れるメロディーを書いている。



85/100
 
 
 
Best Trackー「Dream Never End」 
 

Pillow Queens 『Name Your Sorrow』

 

Label: Royal Mountain

Release: 2024/04/23



Review



アイルランドの有望株、ピロー・クイーンズはデビュー当初から"クイアネス"という彼らの持ちうるテーマを通じて、真摯にオルタナティヴロック制作に取り組んできた。

 

彼らのサウンドにはモダンなオルトロックの文脈から、Queenのようなシアトリカルなサウンド、そしてシューゲイズを思わせる抽象的なギターサウンドと多角的なテクスチャーが作り上げられる。しかし、いかなる素晴らしい容れ物があろうとも、そこに注ぎ込む水が良質なものでなければ、まったく意味がないということになる。その点、ピロー・クイーンズの二人のボーカリストは、バンドサウンドに力強さと華やかさという長所をもたらす。そして、今回、コリン・パストーレのプロデュースによって、『Leave The Light On』よりも高水準のサウンドが構築されたと解釈出来る。そして、もうひとつ注目すべきなのは、バンドの録音の再構成がフィーチャーされ、それらがカットアップ・コラージュのように散りばめられていることだろう。


アルバムの冒頭に収録されている「February 8th」にはバンドの成長及びサウンドの進化が明瞭に現れている。ドラムのリムショットの録音をサンプリングのように散りばめた強固なビートを作り出し、そこにクランチなシューゲイズギターが散りばめられる。サウンドデザインのようなパレットを作り出し、勇ましさすら感じられるボーカルが搭載される。前作よりもボーカリストとして強固な自負心が感じられ、最終的にはそれがクールな印象をもたらす。トラックの背後に配置されるシンセのテクスチャーも、バンドの多角的なサウンドを強調している。いわば前作よりもはるかにヘヴィネスに重点を置いたサウンドが本作の序盤において繰り広げられる。


二曲目でも同様で、「Suffer」では、内的な苦悩を表現し、それらを音楽として吐露するかのような重厚で苛烈なバッキングギター、その上に乗せられるコーコランとコネリーのダブルボーカルがハードロッキングなサウンドに華やかさをもたらす。そこに、シアトリカルなロックの要素が加わり、時々、”オルトロック・オペラ”のようなワイアードなサウンドに接近する瞬間もある。ヘヴィネスという要素は、ベースラインにも適応され、オーバードライブのかかった唸るようなベースが苛烈なシューゲイズサウンドの向こうから出現した時、異様な迫力を呈する。


本作の序盤では外側に向かって強固なエナジーが放たれるが、他方、「Blew Up The World」では内省的なインディーロックサウンドが展開される。しかし、クイーンズは、それをニッチなサウンドにとどめておかない。それらの土台にボーカルやシンセテクスチャーが追加されると、面白いようにトラックの印象が様変わりし、フローレンス・ウェルチが書くようなダイナミックなポピュラー・ソングに変遷を辿る。これらの一曲の中で、雰囲気が徐々に変化していく点は、バンドの作曲の力量、及び、演奏力の成長と捉えることが出来る。反面、それらの曲の展開の中で、作り込みすぎたがゆえに、”鈍重な音の運び”になってしまっているという難点も挙げられる。これは、レコーディングでバンドが今後乗り越えなければならない課題となろう。

 

しかし、そんな中で、 ピロークイーンズが親しみやすいインディーロックソングを書いている点は注目に値する。「Friend Of Mine」は、boygeniusのインディーロックソングの延長線上にあるサウンドを展開させるが、ボーカリストとしての個性味が曲の印象を様変わりさせている。こぶしのきいたソウルフルなサングについては、従来のピロー・クイーンズにはなかった要素で、これが今後どのように変わっていくのかが楽しみだ。そのなかで、80年代のポピュラー・ソングに依拠したロックサウンドが中盤に立ち現れ、わずかなノスタルジアをもたらす。


続く「The Bar's Closed」ではアイルランドのパブ文化に触れており、閉店間近の真夜中の雰囲気をギターサウンドで表現する。ハードロックなサウンドが目立つ序盤とは対象的に、ピロー・クイーンズのポップセンスや和らいだインディーロックソングが中盤の聞き所。ボーカルの精細なニュアンスは、ナイーブさ、一般的に言われる繊細さという長所に変わり、これらがこの曲にフィル・ライノットの時代から受け継がれるアイルランド的な哀愁と切なさという叙情的な側面をもたらす。これらのエモーショナルな感覚とヒューマニティは、機械的な文化に対するバンドのさりげない反駁ともいえ、ぜひこれからも誰にもゆずってもらいたくないものだ。


ピロー・クイーンズがバンドとしてたゆまぬ努力を重ね、少しずつ成長を続けていることは、「Gone」を聴けば明らかである。ここではノイズロックに近いシューゲイズギターを録音で重ねながら、ボーカルはそれとは対象的にモダンなR&Bに重点が置かれる。一見すると相容れないと思われるこれらのコントラストはむしろ、それが対極に位置するため、強烈なインパクトをもたらす。次いでボーカルに関しては、背後のバンドサウンドに埋もれることはない。これはフロントパーソンとしての強固な自負とプライドがこういった勇敢な印象を形作るのである。




アルバムの後半では、シューゲイズサウンドとインディーポップサウンドが交互に収録され、バンドの両極的な性質が表れる。もうひとつ注目すべきは、ピロー・クイーンズがヴィンテージロックのサウンドの影響を受けている点である。これも以前にはなかった要素で、バンドが新たな境地を切り開きつつある。例えば、「So Kind」は、The Doobie Brothersに象徴されるウェストコースト・サウンドを踏襲し、それらをアイルランドらしいインディーロックソングに置き換えている。カッティング・ギターと抽象的なテクスチャーの組み合わせは、考え方によっては米国的なものと英国的なものを組み合わせ、新しいサウンドを生み出す過程が示唆されている。

 

ただ、新鮮なサウンドが提示されているからとはいえ、前作『Leave The Light On』の頃のバンドのシアトリカルなインディーロックソングが完全に鳴りを潜めたわけではない。例えば、旧来のピロー・クイーンズのファンは「Heavy Pour」を聴いた時、ひそかな優越感や達成感すら覚えるかもしれない。クイーンズを応援していたことへの喜びは、この曲の徐々に感情の抑揚を引き上げていくような、深みのあるヴィネットを聴いた瞬間、おそらく最高潮に達するものと思われる。これは間違いなく、新しいアイルランドのロックのスタンダードが生み出された瞬間だ。

 

アルバムの終盤は、セント・ヴィンセントや、フローレンス・ウェルチのようなダイナミックな質感を持つシンセポップソングをバンドアンサンブルの形式で探求する。「Notes On Worth」では、ネオソウルとオルタナティヴロックの融合という、本作の音楽性の核心が示されている。アイルランドのロックシーンで注目すべきは、Fountains D.C、The Murder Capitalだけにとどまらない。Pillow Queensがその一角に名乗りを挙げつつあるということを忘れてはならないだろう。

 

 

 

84/100

 

 

 

Best Track- 「Heavy Pour」

 

 

 

 


 

 

 

 


Episode of ”Name Your Sorrow”: 

 


どのようなバンドにも、自分たちが地平線上の新しい場所にいることに気づく時が来るはずだ。若さゆえの早熟な唸り声は消え、新人であることの無敵さ--ピロークイーンズは近年最も高く評価されている新人バンドのひとつ-は、今や別のものに取って代わられた。他人がどのように思うかという重荷を下ろした恐れのない感覚。これはバンドのサウンドが軟化したとか、彼らの名を知らしめた音楽を否定したという意味ではなく、むしろ、彼らをシリアスさと脆弱性に開かれた別の領域に基軸を置いている。

 

バンドの時間軸は、アイルランドの大きな社会的・文化的変化と並行しており、クィアネスとアイルランドの国家的なアイデンティティは常に彼らの楽曲の背景を形成してきた。要するに、彼らのようなバンドはアイルランドにはこれまでいなかったのだ。



2016年の結成後、バンドは一連のシングルをリリースし、技術を磨き、ファースト・アルバム『In Waiting』(2020年)に向けて取り組んだ。その過程で、イギリスとアメリカのプレスから称賛を受け、多くのライブがソールドアウトし、ジェームス・コーデンのアメリカのテレビ番組にも出演した。

 

カナダのロイヤル・マウンテン・レコードと契約した後、彼らは2022年にフォローアップ・アルバム『Leave the Light On』をリリースし、テキサス/オースティンのSXSWでの公演やグラスゴーでのフィービー・ブリジャーズのサポートなど、イギリス、アメリカ、ヨーロッパを幅広くツアーした。



3年間で3枚のフルアルバムを制作したことは、真剣な仕事ぶりを示しているが、『Name Your Sorrow』(2024年)では、彼らは厳格なスケジュールにとことんこだわった。


キャシー・マクギネスの説明によると、彼らは毎日9時から5時まで、窓のないダブリンの部屋で、ただ演奏したり、楽器を交換したり、実験を繰り返していたという。そこから、彼らはクレア州の田舎の隠れ家に移り住み、さらにアルバムの制作に没頭した。


「私たちは、ただ楽器を手に取るという、言葉を使わない波長のようなものに乗った。それは本能的なもので、私たちがこれまでに経験したことのない共同作業だった」



サウンドとトーンが明らかに変化したのは、boygenius、Lucy Dacus、Illuminati Hottiesをプロデュースしたナッシュビルのコリン・パストーレという新しいプロデューサーと仕事をした結果だろう。

 

バンドはニューリーにあるアナログ・カタログ・スタジオに3週間滞在し、シーンと人員の変化がレコードに影響を与えていることに気づいた。以前は、レコーディングする前に曲がどう聴こえるかを正確に把握していた。

 

「コリンの時は、録音して聴き返して "思っていたのと違う "と思ったけど、その方が良かった」とレイチェル・ライアンズは認めた。パストーレが来る前、そして9時5時のプロセスと隠れ家のおかげで、バンドがスタジオに着く頃、曲は完全に練り上げられ、レコーディングの準備が整っていた。

1日がかりのセッションの間、彼らは長いレコーディングを曲に分解し、パーツを組み立て直すという、一種のフランケンシュタインのような作業を行っていた。そして、この怪物性-心の痛み、喪失と痛みの肉体性-は、特にアルバムのサウンドにおいて理にかなっている。パメラ曰く、「最初は静かに始めて、後からラウドさが出てきた」そうで、より内省的な雰囲気を持つ「Blew Up the World」や「Notes on Worth」、荒々しいギターの「Gone」や「One Night」などに顕著に表れている。



新たな実験、心に響く歌詞、静寂とラウドを行き来するサウンドが組み合わさった結果、一種のカタルシスがもたられる。破片の中から希望のかけらを探し出す。これまでバンドは、新曲をライブで試聴し、観客に聴かせ、観客の反応を見て作り直してきた。今回は、すでに曲が完全に出来上がっていると感じられるため、そのようなことはしていない。アイルランドのバンドはまた、曲が「ピロークイーンズの曲」に聴こえるかどうかを疑うプロセスを学び直さなければならなかった。前2作とのリンクは確かにあるが、『Name Your Sorrow』は別の方向への勝利の一歩のように感じられる。



「このアルバムは、自分たちの能力をより確かなものにしたものだと思う。曲にも自分たちにも、ただ忠実でありたかった」とレイチェルは説明する。ヴァンパイア・ウィークエンド、バーバラ・ストライサンド、フランク・オーシャン、ラナ・デル・レイなどからの音楽的な影響を明かしている。

 Pearl Jam  『Dark Matter』

 


 

Label: Republic/ Universal Music

Release: 2024/04/20

 

 

Review    


-シアトルの伝説の華麗なる復活-

 

 

90年代のグランジシーンを牽引した偉大なロックバンド、Pearl Jamの待望の新作アルバム『Dark Matter』のプロディースは、アンドリュー・ワットが手掛けている。ワットは、マイリー・サイラス、ポスト・マローン、そして、オジー・オズボーンの作品に関わった敏腕プロデューサーだ。バンドのギタリストのマイク・マクレディは、新作アルバムに関して、アンドリュー・ワットの貢献が大きかったと明かしている。「この一年、彼と一緒にスタジオにいた時、彼は僕らの尻を蹴り上げ、集中させ、そして矢継ぎ早に曲を演奏させた」とマクレディは語る。

 

「そして、アンドリューは、わたしたちにこんなふうに言った。”君たちはレコードを作るのに時間がかかるだろう? 今すぐこれを仕上げようじゃないか”って」また、マクレディは、この復活作についてパール・ジャムのデビュー当時のエネルギーが存在し、それはほかでもないアンドリューのお陰であると述べている。「このアルバムには最初の2作のアルバムのエネルギーがある。アンドリューは、わたしたちが長年そうしてきたように、ハードでメロディアスで思慮深いプレイができるよう、わたしたちを後押ししてくれた」と、マクレディは述べた上で、次のように補足している。「マット・キャメロンのドラミングに注目してほしい。このアルバムの音楽には、彼がサウンドガーデンでやっていたことと同じ魅力が込められているんだ」


実際、彼らの新作『Dark Matterのサウンドに耳を傾けてみると、『TEN』の時代のパワフルなハードロックやグランジの魅力が蘇っていることに気づく。そして同時に音楽性としてドラマティックな要素が加わり、ハリウッド映画のような大スペクタルのハードロックサウンドが構築されている。アルバムにはロック・ミュージックの普遍的な魅力があり、パール・ジャムはそれを彼らのスタイルで奏でる。バンドの唯一無二の強固なサウンドを組み上げているのだ。

 

アルバムのオープニング「Scared Of Fear」にはドゥームサウンドや映画「インディペンデンス・デイ」を思わせるアンビエント風のイントロに続いて、乾いた質感を持つロックンロールサウンドが繰り広げられる。エディ・ヴェーダーのボーカルにはデビュー当時の勢いがあり、熟練のバンドマンとしてのプライドがある。そして、そこにはサウンドガーデンのクリス・コーネルのような哀愁、フー・ファイターズのデイヴ・グロールを思わせるパワフルさが加わった。まさにアルバムの一曲目でパール・ジャムは”グランジとは何か?”というその核心の概念を示す。確かにこの曲には、現代の世界の社会情勢にまつわるメッセージも含まれているのかもしれないが、パール・ジャムはその現状に対し、勇敢に立ち向かうことを示唆するのである。


以後、バンドはグランジにとどまらず、USハードロックの醍醐味を再訪する。「React, Respond」ではドラムのダイナミクスの強調やクランチなギター、分厚いグルーブを作り出すベースライン、ヴェーダーのワイルドな空気感のあるボーカルと、このバンドの持ち味が遺憾なく発揮されている。そこにあらためてハードロックの持つパワフルなサウンドを蘇らせる。これらのサウンドには一点の曇りもない。いや、それどころか、パールジャムが現在進行系のバンドであることを象徴付ける。もちろん彼らの最大の魅力であるシアトルサウンドを通してだ。


パール・ジャムのロックは必ずしもラウド性だけに焦点が置かれているわけではない。これはクリス・コーネル率いるサウンドガーデンと同様である。続く「Wreckage」では、フォーク/カントリーを中心とする現代のオルタナティヴサウンドに呼応する形で、ロックサウンドを展開させる。この曲には、CSN&Yのような回顧的なフォーク・ミュージックが織り交ぜられている。それのみならず、Guided By Voicesのようなオルタナティヴロックの前夜の80年代後半のサウンドがスタイリッシュに展開される。背後のフォークロックのサウンドに呼応する形で歌われるエディー・ヴェーダーのボーカルには普遍的なロックを伝えようという意図も感じられる。この曲にはオルタネイトな要素もありながら、80年代のスタンダードなハードロックサウンドのニュアンスもある。ロックソングのスタンダードな魅力を堪能することが出来るはずだ。

 

 

 

メタリカのラーズ・ウィリッヒのプレイを思わせるキャメロンのダイナミックなタム回しで始まる「Dark Matter」はパール・ジャムのサウンドがロックにとどまらず、ヘヴィメタルの要素が併存していることを象徴付けている。タイトル曲で、パールジャムは「TEN」の時代のハードロッキングなサウンドを蘇らせ、アンドリュー・ワットのプロデュースの助力を借り、そこにモダンな印象を付け加える。90年代の彼らのジャンプアップするようなギターサウンドはもちろん、それを支えるマット・キャメロンのドラムが絶妙な均衡を取り、シンセサイザーのアレンジを交え、エディ・ヴェーダーは”最もワイルドなロックソングとは何か?”を探求する。ここには90年代のミクスチャーロックの要素もあり、ホワイト・ゾンビを思わせる横乗りのサウンドが貫かれている。ロック・ミュージックのダンサンブルな要素を探求しているといえる。


アルバムの中盤ではこのバンドの最大の魅力ともいえる緩急のあるサウンドが際立っている。例えば、「Won't Tell」ではグランジのジャンルのバラードの要素を再提示し、それをやはりモダンな印象を持つサウンドに組み替えている。この曲には80年代のメタル・バラードの泣きの要素と共鳴するエモーションが含まれている。さらに続く「Upper Hand」では、エレクトロニックの要素を追加し、ヴェーダーの哀愁のあるボーカルを介し、王道のスタジアムロックソングを書いている。あらためてこのバンドが、フー・ファイターズと全くおなじように、スノビズムにかぶれるのではなく、大衆に支持されるロックナンバーを重視してきたことがうかがえる。続く「Wait For Steve」は、90年代のパール・ジャムの作風と盟友であるクリス・コーネルのソングライティング性を継承し、それらを親しみやすいロックソングとして昇華させている。


もうひとつ、『Dark Matter』のリスニングの際に抑えておくべき点を上げるとするなら、ストーナーとグランジの中間にあるオルタネイトなロックを、このアルバムの中でパール・ジャムは探求していることに尽きるだろう。「Running」は、Nivanaが登場する以前のグランジの最盛期のサウンドを思わせる。また、Melvins、Kyuss、Fu Manchu、最初期のQOTSAのようなストーナーのラウド性が含まれている。全体的なサウンドは、クリス・ノヴォセリックのプレイを思わせる分厚さと疾走感のあるベースラインを中心に構成される。それらをグリーン・デイのようなダイナミックなロックサウンドに昇華させているのは本当に見事であり、ほとんど離れ業とも言える。このあたりにもアンドリュー・ワットの敏腕プロデュースの成果が見受けられる。

 

パール・ジャムの90年代のサウンドの魅力はヘヴィーさにあったのは事実だが、もう一つ忘れてはならない点がある。それは「Something Special」に見出される叙情性と、アメリカーナの要素で、パールジャムの場合はメタリカの96年の『Road』のように、バーボンやウイスキーに代表されるアウトサイダーの雰囲気にある。この曲ではあらためてフォークやカントリーの要素を通じて、それらがワイルドな風味を持つアメリカン・ロックとしてアウトプットされる。 

 

特に叙情性という要素に関しては、続く「Got To Give」にも明瞭に感じられる。この曲では、ワイルドな雰囲気を込め、パールジャムらしいハードロックなバラードが展開される。そして、後者のアメリカーナ、フォークバラードという要素はアルバムのクライマックスに登場する。

 

本作のクローズ曲「Setting Sun」が果たしてサウンドガーデンのボーカルであるクリス・コーネルに因んだものなのかは定かではない。しかし、少なくとも、この曲が「Black Hole Sun」のレクイエムの意味を持つ曲であったとしても不思議ではない。パール・ジャムのアルバムに最初に触れたのは多分、2000年代だったと思う。もちろん、それは、Green River,Mother Love Bone,そしてMelvinsと共にあったのだ。あれから長い時間が流れたけれど、今、考えると、このバンドの音楽に親しんでいたことに、ある種の愉悦を覚えている。素晴らしいロックアルバム。

 


92/100

 

Best Track- 「Scared To Fear」


 

Peral Jamの『Dark Matter』は日本国内ではユニバーサル・ミュージックより発売中です。公式ストアはこちらから。


METZ 『Up On Gravity Hill』 

 

 

 Label: Sub Pop

 Release: 2024/04/12

 

 

 Review

 

Metzは2012年のセルフタイトルで名物的なパンクバンドとしてカナダのシーンに登場した。サブ・ポップの古株といえ、ガレージロック、オルトロック、ポストパンク等をごった煮にしたサウンドで多くのリスナーを魅了してきた。『Up On The Gravity Hill』はデラックスアルバムを発表したからとはいえ、依然としてバンドが創造性を失ったわけではないことを表している。

 

シューゲイズ風の轟音ギターを絡めたオープニング「No Reservation/ Loves Comes Crashing」を聴けば分かる通り、本作は近未来のテイストを持つオルタナティブロックサウンドが展開される。

 

ボーカルのフレーズにはエモーショナルな雰囲気が漂い、バンドの年代としては珍しくエバーグリーンな空気感を作り出すことに成功している。その中に、UKの現行のポスト・パンクに類するオルタナネイトなスケール、ノイズ、不協和音が縦横無尽に散りばめられる。もちろん、バンドがそういったサウンドを志向していないのは瞭然であるが、抽象的なギターのフレージングと合わせて、オルト・ロックの無限のサイケデリアに誘う。少なくともこのオープニングは、本作のリスニングに際して、相応に良いイメージを与えるものと思われる。

 

同じく、エモとまではいかないけれども、「Entwined(Street Light Buzz)」においてオルタナティヴの源流を形作るカレッジロックやグランジの魅力を再訪し、上記のオープナーと同じように、トライトーンを用いたスケール、ノイズ、協和音の中に織り交ぜられる不協和音という形で痛快なインディーロックを展開させる。また、Nirvanaの「Love Buzz」のクリス・ノヴォセリックに対するオマージュが含まれていて、それはオーバードライブを掛けたベースラインという形で、この曲にパンチとフックをもたらす。上記の2曲は、道標のないオルタナの無限の砂漠に迷い込んだリスナーにとってオアシスのような意味を持つ。また、この曲には、わずかにメタリックな香りが漂い、それは80年代後半のグランジロックがヘヴィメタルの後に始まった音楽であることを思い出させる。Mother Love Bone、Green Riverあたりが好きなリスナーにとってはストライクとなるだろう。


グランジサウンドに舵をとったかと思えば、ジョン・ライドン擁するP.I.Lのような70年代後半のニューウェイブサウンドが繰り広げられる場合もある。「Superior Mirage」は、P.I.LやDEVO、Talking Headsが実践したように、テクノサウンドとパンクサウンドの融合というポストパンクの原点に立ち帰っている。問題は、IDLESのような圧倒的な説得力があるわけではなく、サウンドがやや曇りがちになっている。「Would Tight」では、パール・ジャムを思わせるUSロックとグランジの融合に重点を置いているが、この曲もセルフタイトルアルバムのような精細感に乏しい。数時間放置した炭酸の抜けたコーラのような感じで、ちょっとだけ物足りなさを覚えてしまう。

 

ただ、METZのメンバーが新しいカタチの''ポスト・オルト''とも称すべき実験的なサウンドをアルバムで追求していることは注目しておくべきだろう。例えば「Never Still Again」ではギターサウンドの核心にポイントを置き、変則的なチューニングを交えながら、オルタナティヴに新風を吹き込もうと試みる。アルバムのクローズ「Light Your Way Home」ではカナダのミュージックシーンを象徴づけるポストシューゲイズサウンドに挑む。これらはMetzによる、Softcult、Bodywashといったカナダのミュージックシーンの新星に捧げられたさり気ないリスペクトなのかもしれない。




75/100

 

 

「No Reservation/ Loves Comes Crashing」

 Maggie Rogers 『Don’t Forget Me』

 

 

Label: Polydor

Release: 2024/04/12

 

Review

 

Apple Musicのプレスリリースの声明を通じて、ニューヨークのマギー・ロジャースは、できるだけ音楽を楽しむようにしたと述べている。その楽しさがリスナーに届けば理想的であるというメッセージなのだろうか? レビューを行うに際し、世界屈指の名門レーベル、ポリドールから発売された本作は、1986年のマドンナの傑作『True Blue』の雰囲気によく似ている。マドンナのアルバムは、クラブチューンとポップスをどこまで融合出来るかにポイントが置かれていたが、マギー・ロジャースのアルバムも同様にダンサンブルなポピュラーテイストが漂う。いわゆる楽しみや商業性を重視した作品ではあるものの、聞き入らせる何かがある。マギー・ロジャースは、シンディー・ローパー、マドンナ、そして現代のセント・ヴィンセントにつながる一連のUSポップの継承者に位置づけられる。歌唱の中にはR&Bからの影響もありそうだ。

 

アルバムのオープナー「It Was Coming All Along」は分厚いシンセのベースラインとグルーヴィーなドラム、そして装飾的に導入されるギターラインという3つの構成にロジャースのボーカルが加わる。この一曲目を聞けば、ロジャースのシンガーとしての実力が余すところなく発揮されていることがわかる。ウィスパーボイスのようなニュアンスから、それとは対極にある伸びやかなビブラート、そして、R&Bに属するソウルフルな歌唱法等、あらゆるサングの手法を用いながら、多角的なメロディーと多次元的な楽曲構成を提供する。ハイクオリティのサウンドも名門レーベル、ポリドールの手によりダイヤモンドのような美しく高級感のある輝くを放つ。そしてアーティスト自身が述べているように、それは華やかで楽しげな空気感を生み出す。


同じく「Drunk」も、マドンナからのUSポピュラーの系譜を受け継ぎ、それにギターロックの性質を加えている。タイトルと呼応するかのように、酩酊した状態の楽しげな気分と、それとは正反対にあるブルーな気分を織り交ぜ、奥行きのあるポピュラー・ソングを展開する。ニューキャッスルのスター、サム・フェンダーのようなロック的な性質を織り交ぜながら、アンニュイなムードからそれとは対極にある激した瞬間まで、幅広いエモーションを表現している。そして、これらの微細な感情の抑揚は、やはりフェンダーのヒットソング「Seventeen Going Underground」のような共感性を思わせ、スタンダードなポップソングの魅力を擁しているのである。


特に驚いたのが、先行シングルとして公開された「So Sick of Dreaming」だった。ここではスティング要するThe Policeの名曲「Every Breath You Take」の80年代のニューウェイブサウンドを影響を込め、ブライアン・アダムスを彷彿とさせる爽快なロック/ポピュラー・ソングへと昇華させている。もちろん、そこにはアーティストが説明するように、米国の南部的なロマンチシズムが微かに揺曳する。


特に、前作の『Surrender』ではシンセ・ポップという形に拘っていたが、今回の楽曲はその限りではない。繊細なものからダイナミックなニュアンスに至るまでを丹念に表現し、そしてそれらをメロとサビという構成からなるシンプルなポップソングに落とし込んでいる。さらに前作よりもロジャースのボーカルにはソウルフルな渋さと哀愁が漂い、この曲に深みをもたらしている。そしてサブでコーラスが加わった時、この曲は最も華やかな瞬間を迎える。曲の終盤ではニューヨークのスタイルであるスポークンワードのサンプリングを散りばめ、アルバムの伏在的なテーマである20代の思い出を切なく蘇らせる。


「The Kill」は不穏なワードだが、曲自体はTears For Fearsのヒット曲「Everybody Wants To Rule The World」のシンセポップの形を受け継ぎ、それをモダンな印象で彩る。しかし、MTVが24時間放映されていた音楽業界が最も華やかな時代の80’sのポップスは、ロジャースのソングライティングやボーカルの手腕にかかるやいなや、モダンな印象を持つポップソングへと変化する。ここにもポリドールのプロデュースとマギー・ロジャースの録音の魔法が見え隠れする。ミニマルな構造性を持つ楽曲だが、構成自体が単調さに陥ることはほとんどないのが驚きだ。ギターロックとシンセポップをかけあわせた作風の中で、ロジャースは曲のランタイムごとに自身の微細なボーカルのニュアンスや抑揚の変化を通して、音程やリズム、そして構成自体にもバリエーションをもたらしている。特にアウトロにかけてのギターリフとボーカルの掛け合いについては、ロック的な熱狂を巻き起こしている。単なるポピュラー・ソングだけではなく、オルタネイトな響きを持つロックへと変化する瞬間もあるのがこの曲の面白い点なのである。

 

その後も、アーティストの感覚的なポップサウンドがポリドールらしい重厚なベースを要する迫力のあるプロダクションと交差する。アーティストの最もナイーブな一面を表したのが続く「If Now Was Then」で、ロジャースが20代の頃の自分自身になりきったかのように歌を紡ぐ。そこには純粋な響きがあり、高いトーンを歌ったときに、少しセンチメンタルな気分になる。サビの箇所ではポピュラーシンガーから実力派のソウルシンガーへと歌唱法を変える。これらの歌唱のバリエーションは、楽曲自体にも深い影響を及ぼし、聴き応えという側面をもたらす。普通のトーンからファルセットへの切り替えも完璧で、歌手としての非凡さが体現されている。

 


スタンダードなバラードソングが年々少なくなっているが、ロジャースは普遍的な音楽へと真っ向から勝負を挑んでいる。「I Still Do」は、ビリー・ジョエルを彷彿とさせる良質なバラードソングである。この曲では、一般的なバラードソングとは異なり、音程の駆け上がりや跳躍ではなく、最も鎮静した瞬間に、あっと息を飲むような美しさが表れる。それはやはりロジャースの多角的な歌唱法という点に理由が求められ、微細なビブラートと中音域を揺れ動く繊細なボーカルが背後のピアノと劇的な合致を果たすのである。歌そのものの鮮明さも、ポリドールの録音の醍醐味の一つだ。取り分け、最後に登場する高い音程のビブラートは本当に素晴らしい。

 


「I Still Go」

 

 

 

アルバムは二部構成のような形で構成されており、ほとんど捨て曲であったり、間に合せの収録曲は一つも見当たらない。続く「On & On & On」では2つ目のオープニングトラックのような感じで楽しめる。ここでは冒頭に述べたようにマドンナの作風を踏襲し、それらを現代的なクラブチューンへと変化させている。特にロジャースのダイナミックなボーカルはいわずもがな、ファンクの印象を突き出したしなやかなベースラインがこの曲に華やかさをもたらしている。 続く「Never Going Home」もサム・フェンダーの新しいフォーク・ロックの形を女性ボーカリストとして再現する。そしてこの曲には最もアメリカの南部的なロマンチシズムが漂う。

 

続く「All The Time」では、エンジェル・オルセンやレンカーのような形で、フォークミュージックというフィルターを通じて、質の高いポピュラー・ソングを提供している。ここにもプレスリリースで示された通り、南部的なロマンが漂う。それがアコースティックギターとピアノ、そしてボーカルという3つの要素で、親しみやすく落ち着いたバラードへと昇華されている。


アルバムのクローズでも前の2曲のフォーク・ミュージックの気風を微かに留めながら、ソウルフルなポピュラー・ソングで本作は締めくくられる。このアルバムのタイトルを心から叫ぶようにロジャースが真心を歌う時、本作を聴いたことへの満足感や充実感は最高潮に達する。それはもちろん、ビブラートの精度を始め、歌手による高い水準の歌唱を中心にそれらの切ないような感覚が表現される。2024年のポピュラー音楽のニュースタンダードの登場である。


本作は歌手としての技量は勿論、音楽的なムード、そして20代の頃の回想という複数のテーマが合致し、ポリドールの卓越したプロダクションにより、高水準の作品に仕上がっている。前作『Surrender』に続いて、アーティストはいよいよ世界的な舞台に登場することが期待される。

 


 

95/100 

 

 

Best Track -「So Sick Of Dreaming」

 The Libertines 『All Quiet On The Eastern Esplanade』

 

 

Label: Universal Music

Release: 2024/04/05



Review  -20年以上の歳月の重み-

 

 

2002年のデビュー・アルバムからおよそ23年の月日が流れた。リバティーンズは一時、フロントマンの二人のホテルでの機材の所有のトラブルが原因で空中分解することになった。これは音楽雑誌のバックナンバーを探ってもらいたい。以後、ピート・ドハーティのドラッグの問題等もファンの念頭にはあった。もちろん、カール・バラーの精神的な落ち込みについてはいわずもがなである。

 

以後、UKの音楽シーンを象徴するロックバンドでありながら、沈黙を守り続けていた。2000年代、ガレージロックリバイバルの流れに乗って登場したリバティーンズだが、結局のところ、このバンドは他のバンドと同じようにプリミティヴなロックのテイストを漂わせつつも、明確に異なる何かが存在した。いわば、リバティーンズはいつも”スペシャル・ワン”の存在だった。

 

音楽のシーンというのは、単一の存在から作られるものではない。誰かが何もない土壌に種を撒き、そしてその土壌から生育した穀物を摘み取る。しかし、その一連の作業は一つのバンドだけで行われるものではない。昨日、誰かがそれをやり、そして、次の日には別の人がそれを続ける。その連続性がその土地の音楽のカルチャーを形成する。つまり、何らかの系譜が存在し、どのようなビックスターもその流れの中で生き、音楽の作品をファンの元に届けるのである。

 

ザ・リバティーンズのアウトサイダー的な立ち位置、デビュー当初のアルバムジャケットの左翼的、あるいは急進的とも言うべきバンドの表立ったイメージ、そしてチープ・トリックの『Standing On The Edge』のアルバムジャケットの青を赤に変えた反体制的なパンクバンドとしての性質は、たとえ本作がイギリス国内だけで録音されたものではないことを加味したとしても、完全に薄れたわけではない。

 

例えば、バンドは先行シングルとして公開され、アルバムのオープニングを飾る「Run Run Run」においてチャールズ・ブコウスキーの文学性を取り込み、それらを痛快なロックサウンドとしてアウトプットする。ピカレスク小説のようなワイルドなイメージ、それは信じがたいけれど、20年以上の歳月を経て、「悪童」のイメージから「紳士的なアウトサイダー」の印象へと驚くべき変化をみせた。そして何かバンドには、この20年間のゴシップ的な出来事を超越し、吹っ切れたような感覚すら読み取れなくもない。特に、サビの部分でのタイトルのフレーズをカール・バラーが歌う時、あるいは、2002年のときと同じようにマイクにかなり近い距離で、ピート・ドハーティがツインボーカルのような形でコーラスに加わる時、すでに彼らは何かを乗り越えた、というイメージが滲む。そして2002年のロックスタイルを踏まえた上で、より渋さのある音楽性が加わった。これは旧来のファンにとっては無上の喜びであったのである。

 

リバティーンズは、以前にはなかったブルースの要素を少し付け加えて、そして旧来のおどけたようなロックソングを三曲目の「I Have A Friend」で提供する。2010年代にはリバティーンズであることに疑心暗鬼となっていた彼らだったが、少なくともこの曲において彼らが気恥ずかしさや気後れ、遠慮を見せることはない。現代のどのバンドよりも単純明快にロックソングの核を叩きつける。彼らのロックソングは古びたのだろうか? いや、たぶんそうではない。

 

リバティーンズのスタンダードなロックソングは、今なお普遍的な輝きに満ち溢れ、そして今ではクラシックな「オールド・イングリッシュ・ロックソング」へと生まれ変わったのだ。もちろん、そこにバンドらしいペーソスや哀愁をそっと添えていることは言うまでもない。これはバンドのアンセムソングでライブの定番曲「Don’t Look Back In The Sun」の時代から普遍のものである。マイナー調のロックバラードは続く「Man With A Melody」にも見出すことができる。


 

もうひとつ、音楽性のバリエーションという点で、長年、リバティーンズや主要メンバーは何か苦悩してきたようなイメージがあったが、この最新作では、オールドスタイルのフォーク・ミュージックをロックソングの中にこっそりと忍ばせているのが、とてもユニークと言えるだろう。「Man With A Melody」では、ジョージ・ハリスンやビートルズが書くようなフォークソングを体現し、「Night Of The Hunter」では往年の名ロックバンドと同様にイギリスの音楽がどこかでアイルランドやスコットランドと繋がっていることを思わせる。ここには世界市民としてのリバティーンズの姿に加え、イギリスのデーン人としての深いルーツの探求の意味がある。あたり一面のヒースの茂る草原、玄武岩の突き出た海岸筋、そして、その向こうに広がる大洋、そういった詩情性が彼らのフォークバラードには明確に反映されている気がする。そして、それらのイギリスのロマンチシズムは、彼らのいるリゾート地からその望郷の念が歌われる。これはウェラーのJamの「English Rose」の中に見られる哀愁にもよく似たものなのだ。

 

リバティーンズは、デビュー当初、間違いなくThe Clashの再来と目されていたと思う。実際、もうひとつのダブやレゲエ的なアクセントは続く「Baron's Clow」に見出すことができるはずである。ここには「Rock The Casbah」の時代のジョー・ストラマーの亡霊がどこかに存在するように感じられる。なおかつリバティーンズの曲も同様にワイルドさと哀愁というストラマーの系譜に存在する。また、70年代のUKパンクの多彩性を24年に体現しているとも明言できるのだ。


彼らは間違いなくこのアルバムで復活のヒントを掴んだはずである。「Oh Shit」はリバティーンズが正真正銘のライブバンドであることのステートメント代わりであり、また「Be Young」は今なお彼らがパンクであることを示唆している。アルバムのクローズ「Songs That Never Play On The Radio」では、あえて古びたポピュラー音楽の魅力を再訪する。20年以上の歳月が流れた。しかしまだ、リバティーンズはUKのロックシーンに対して投げかけるべき言葉を持っている。今でも思い出すのが、バンドの登場時、意外にも、Radioheadとよく比較されていたことである。

 

 

80/100

 



Best Track- 「Run Run Run」

Khruangbin 『A LA SALA』



Label: Dead Oceans

Release: 2024/04/05


 

Review


ヒューストンのR&Bグループ、クルアンビンはCoachellaへの出演を控えている。『A LA SALA』はアルバムのオープナーで示されるように、シンプルに言えば、安らぎに満ちたアルバムである。

 

2021年頃から多くのバンドに散見されたケースは、バンドアンサンブルの一体感を失いつつあった。しかし、徐々にであるが、それらの分離的な感覚も解消されつつあり、バンドらしい息の取れたサウンドが出てくるはずだ。


その手始めとなるのが、クルアンビンの『A LA SALA」となるかもしれない。クルアンビンのサウンドは全般的にはアフロソウルの範疇にあり、トミー・ゲレーロ(Tommy Guerro)のサウンドを彷彿とさせる。


もちろん、それだけではなく、レゲエ/ダブに近いギターサウンドやリズム、ヨットロックに比する安らいだトロピカルなサウンドというように、単一のジャンルでは語り尽くせないものがある。月並みな言い方になってしまうが、クロスオーバーサウンドの代表例となりえる。しかし、最新作に共通したサウンドの特徴があるとすれば、ホリー・クックの主要な楽曲に見出されるような”リゾート的な雰囲気を帯びたダブ/レゲエ・サウンド”と言えるかもしれない。ただ、クルアンビンはバンドであるので、スタジオのライブセッションの妙味に重点が置かれている。

 

アルバムで抑えておきたい曲を挙げるとすれば、3曲目の「May Ninth」がその筆頭となりそうか。ダブ風のスネアの一打から始まり、反復的なベースラインとフュージョンジャズに基軸をおいたギターサウンドがしなやかなグルーブ感を生み出す。そこに心地よいボーカルが合わさり、メロウなムードを生み出す。


クルアンビンのトリオが重視するのは曲の構成やロジカルではなく、スタジオのライブセッションから作り出されるリアルな心地良さ。ムード感とも言えるが、シンプルなスネアドラムとベースライン、フランジャーの印象が強いギターは見事な融合をみせ、アフロソウルを基調とする唯一無二のサウンドを丹念に作り上げていく。ライブセッションでの間の取り方やリズムの合わせ方など、演奏面では目を瞠るものがあり、それらはリゾート的な雰囲気を越えて、Architecture In Helsinkiの名曲「Need To Shout」のように天国の空気感にたどり着く場合がある。

 


前のアルバムがどうだったのかは定かではないが、アフロソウルやフュージョンの要素に加え最新作ではレゲエ/ダブのサウンドが強い印象を放つ。「Todavia Viva」はスネアのリムショットで心地よいリズムを生み出し、淡いダブサウンドを追求する。「Juegos y Nubes」は、Trojan時代のボブ・マーリーの古典的なレゲエをベースに、ライブセッションを通じて、心地よい音を探ろうとしている。


やはり「May Ninth」と同じように、ムード感が重視されていて、コンフォタブルな感覚を味わうことができる。正確な年代こそ不明であるが、60年代、70年代のファンクソウルをベースにした「Hold Me Up」はヴィンテージソウルに対する彼らの最大の賛辞代わりである。アルバムの終盤に収録されている「A Love International」では、セッションのリアルな空気感とスリリングな音の運びを楽しむことができる。この曲でもフュージョン・ジャズに焦点が置かれている。

 

アルバムの中にダンスフロアのクールダウンのような形で導入されているトラックが複数ある。例えば、「Farolim de Felguriras」では、ダブやアフロソウルをニューエイジやアンビエントのような形に置き換えていて面白い。その他、「Caja de la Sala」ではギターのリバーブやディレイのエッフェクトを元に、ニューエイジ/ヒーリングミュージックに近い質感を作り出している。


アルバムの終盤は、やはりトミー・ゲレーロを彷彿とさせるジャズとアフロソウルの中間に位置するコアなアプローチ。ただ、ライブセッションを重視している中でも、曲の起伏のようなものが設けられている点が今作の最大の特徴である。これはリスニングの際にもユニークさが感じられるかもしれない。アフロソウルをサティのフランスの近代和声と組み合わせたクローズ「Les Petis Gris」は新しい気風があり、ちょっとしたエスプリみたいなものを感じる。

 

このアルバムはムードや空気感やライブセッションの心地よさが追求されている。その点では、聴くごとに渋さが出てくるような作品と言えるかもしれない。 ソウルというより、レゲエやダブ、そしてフュージョンジャズに近いアルバムで、たしかにビンテージな感覚に満ちている。

 

 

78/100
 

 

 「May Ninth」

 Dana Gavanski 『Late Slap』

 

Label: Full Time Hobby

Release: 2024/ 04/05



Review


ロンドンを拠点に活動するシンガーソングライター、ダナ・ガヴァンスキーはセルビア系の移民である。ガヴァンスキーのアルバムの中に移民としてのディアスポラが主題に掲げられることは稀であるが、表向きからは見えづらい形でそれらのテーマが感情的に貫流していたとしても不思議ではない。

 

2ndアルバム「When It Comes」は単刀直入に言えば、傑作とまではいかないが、いくつか良質なナンバーが収録されていた。例えば、ハイライト「Bend Away And Fall」はチェンバーポップとバロックポップの中間にある音楽のアプローチを図り、 ニュージーランドのAldous Hardingsのようなアーティスティックな性質を漂わせるものがあった。つまり、ガヴァンスキーにとってのボーカルやソングライティングとは、ある種の自己表現の一種なのではと推測されるのである。

 

三作目のアルバム 『Late Slap』では明確にソングライティングの手法を変化させ、曲そのものの雰囲気も若干であるが変容したような印象を受ける。今まではギターやピアノを中心に曲を書いていたというが、今回はシンセ・ポップやアヴァン・ポップをアーティストなりのユニークな風味で彩って見せる。アルバムの感情的なテーマの中に、悲哀やシニズム、そして絶望等を織り交ぜ、それをそれほど深刻にならない程度のユニークさで縁取って見せる。これは何事もシリアスに考えてしまう傾向があるリスナーにとっては救いのヒントを示すとも言えるのだ。

 

ダナ・ガヴァンスキーの音楽の中にはシンセ・ポップやアヴァン・ポップの影響に加えて、ポール・サイモンのような古典的なポピュラー・ミュージックの反映がある。今作の場合は、それをスロウなテンポで親しみやすい作風として提示している。オープニングを飾る「How To Feel Comfotable」はアーティストらしいファンシーな性質が漂い、ギターロックやホーンセクションに模したシンセ等、多彩なアレンジが加えられている。それはカラフルなポップとも称すべき印象を与える。そしてこのオープニングで瞭然なように、2ndアルバムに比べると、ギターリフのユニゾンを導入したりと、手法論としてロック的なアプローチが強まったように思える。


二曲目「Let Them Row」はピアノバラードに属する親しみやすいナンバーで、それらをバンドサウンドに置き換えている。温和なボーカルの風味に加えて、男性のコーラスが入ると、夢想的な感覚が漂う。スケールの進行自体は60年代や70年代のバロックポップに属しており、それらがノスタルジックな感覚を漂わせている。続くタイトル曲「Late Slap」に関しても、現代的なシンセポップの手法論を踏まえながら、それらをクラシカルなタイプのポップソングに落とし込む。これらの序盤の2曲は、それほど先鋭的とはいえないものの、ほんわかとした気分に浸れる。

 

もう一つ、ギター・ポップに近いナンバーもあり、「Ears Were Growing」がその筆頭格である。クラシカルなポップスではあるものの、変拍子を交えるあたりが、このアーティストらしいと言える。それほど音域の広い歌手ではないのだけれども、ボーカルの微細なニュアンスでおどけたようなファニーな印象をもたらす。いわば言葉やスポークンワードの延長線上にあるのがガヴァンスキーのボーカルの特徴と言える。それらがファンクに主軸においたベースライン、そして夢想的なシンセのテクスチャーが重なり、温和な音楽的な空間を作り出していくのだ。

 

続く「Singular Concidence」はアルバムのハイライトと呼べそうだ。 ベスアンドセバスチャンのようなシンセのフレーズを交えたインディーポップにオルガンの音色を加え、ガヴァンスキーの夢想的なボーカルのメロディ、そしてベースラインを意識したドラムのビートのオンオフを駆使して、バンドアンサンブルの妙味を作り出そうとしている。これらの複合的な要素は、ロシアのKate NVのようなドリーミーな雰囲気を越えたマジカルな雰囲気へと至ることもある。

 

アルバムの先行シングル「Song For Rachel」は他の主要曲と同じように夢想的な空気感を漂わせながら、軽やかなインディーポップ/シンセポップを展開させる。重さではなく、軽さにポイントが置かれており、これが日曜の午後のような温和な雰囲気が生み出される理由でもあるのだ。そして、これらの「脱力したポップ」ともいうべきユニークなサウンドは、ちょっと炭酸の抜けたソーダのように苦く、さらにアルバムの後半に至ると、その性質を強めていくようなイメージを受けざるをえない。そして奇しくも、同日発売のクルアンビンのようにリゾート志向の安らいだサウンドに直結し、続く「Ribbon」では、スティールパンを模したシンセの音色を導入し、The Beach Boysの「Kokomo」のようなトロピカル・ポップスの系譜を受け継ぐ。まさに国籍不明のサウンドで、ヨーロッパを飛び越え、米国の西海岸へとたどり着くのだ。ただガヴァンスキーの場合はソウルフルというか、それほどメロディーの跳躍を持たず、比較的落ち着いたムーディーなサウンドに重点が置かれている。これもまたクルアンビンと同じだ。

 

アルバムのプレスリリースでは、負の感情に基づいたソングライティングがなされていると説明されているが、曲全般を観る限り、ほとんど暗さではなく、どちらかと言えば明るさの方に足が向いている。しかし、それは以前にも述べたように暗さを一貫して直視したがゆえの明るさなのであり、ダナ・ガヴァンスキーの場合は、それらをウィットのあるユニークさやファンシーな印象により華麗に彩るのである。アルバムの終盤でも、序盤から中盤の収録曲のイメージが覆されることはほぼない。「Dark Side」だけは少しぎょっとさせるタイトルだが、奇妙なことに心を浮き立たせるものがある。


クローズ「Reiteration」は孤独な感情を温かさと持ち前のユニークさでおおおうとしている。ポール・サイモンの古典的なバラードをシアトリカルなサウンドを介して、ダイナミックなポップスへと昇華しているのは見事だ。「Dark Side」は特に、ソングライターとしての弛まぬ前進を捉えており、着実に成長しつつあることを示している。

  

 

74/100



Best Track 「Let Them Row」

 Fabiana Palladino 『Fabiana Palladino』

 

 

Label: XL Recordings(Paul Institute)

Release: 2024/ 04/05



Review


ロンドンを拠点に活動するソングライター/プロデューサーによる記念すべきデビュー・アルバム『Fabiana Palladino』は、大胆不敵にもアーティスト名をタイトルに冠している。ファビアーナは、間違いなくジェシー・ウェアのポスト世代に位置づけられるシンガーである。現在、ロンドンではR&Bのリバイバルが盛んで、JUNGLEを始めとする、ディスコソウルをヒップホップ的に解釈するグループ、もしくはGirl Rayのようにディスコサウンドをインディーロック風に再解釈を試みるグループ等、多彩なディスコリバイバルによるシーンが構築されつつあるようだ。

 

レディオヘッドなどのリリースでおなじみのXL Recordingsは90年代にはロックのリリースも手掛けるようになったが、80年代まではクラブミュージックを得意としていたレーベルであった。つまり、今回のファビアーナ・パラディーノの最新作は、レーベルにとって原点回帰のような意味を持つ。R&Bにとってターニングポイントとなるようなリリースになるかもしれない。

 

ファビアーナ・パラディーノのサウンドは、やはりリバイバルの気風に彩られている。 アーティストは、80年代のクインシー、ダイアナ・ロス、ジョージ・ベンソンといったブラック・コンテンポラリー/アーバン・コンテンポラリーの象徴的なアーティストの音楽の系譜を受け継ぎ、それらを現代的なクラブミュージックの視点を通し、斑のないモダンなサウンドを見事に構築する。それらのモダンなテイストは、現代のR&Bのスター、ジェシー・ウェア、ロイシン・マーフィーのようなデュープ・ハウスを絡めた重厚なサウンドのプロダクションが特徴である。

 

しかし、リバイバルや現代の音楽シーンを踏襲しているとはいえ、アーティストの唯一無二のカラーがないかといえばそうではない。ロジャー・プリンスがかつて、ファンクソウルを下地にジャズやロック、ラップ、そしてポップスと、このジャンルの可能性を敷衍してみせたように、ファビアーナもアーバン・コンテンポラリーをベースとして、多彩なサウンドをその中に織り交ぜる。これこそが、このアーティストが”次世代のプリンス”と称される所以なのである。

 

 

アルバムのオープニングを飾る「Closer」はディープ・ハウスの気風を残しつつも、そのサウンドの風味は驚くほど軽やかで爽やかである。それはかつてのアーバン・コンテンポラリーに属するアーティストがR&Bとポップスを融合させ、ブラック・ミュージックとしての深みとは対極にある軽やかさという点に焦点を絞っていたのを思い出す。これらのサウンドの最終形態は、チャカ・カーンの1984年の「Feel For You」によって集大成を見ることになった。チャカ・カーン等のニューソウルにまつわるサウンドについては、ブラック・ミュージックの評論の専門家によると、以前のR&Bに比べて、「編集的なサウンド」と称される場合がある。これはソングライターのリアルな歌唱力や、R&Bそのものが持つ渋さとは相異なる新境地を開拓し、その後のマイケル・ジャクスンに象徴されるような、きらびやかなポップスへの流れを形作った経緯がある。これは、現代的なオルタナティヴロックと同じように、録音したものをスティーブ・ライヒのようにミュージック・コンクレートの編集を加え、磨き上げるという手法によく似ている。

 

しかし、ソロ作品としてのプロデュース的なサウンドが目立つとはいえ、ファビアーナの生み出すサウンドは驚くほど耳に馴染む。編集的なサウンドだからといって、複雑な構成を避けて、ジェシー・ウェアのようなビートに乗りやすく、そして、なめらかな曲の構成が重視されている。そこにロジャー・プリンスのように色彩的な和音やメロディーが加わる。これが現時点のファビアーナの音楽の最大の長所であり、言い換えれば唯一無二のオリジナリティである。

 

迫力のあるベースラインを強調するロイシンやジェシーとは異なり、明らかにファビアーナのR&Bサウンドは、軽妙なAOR/ソフト・ロックの系譜に属する。いわばその軽やかさは、二曲目の「Can You Look In The Mirror?」で示されるように、クインシー・ジョーンズやマーヴィンの80年代のアプローチに近いものがある。そしてこの点が低音域が強調されるハウスのサウンドとはまったく異なる。ファビアーナのサウンドは、ココ・シャネルのデザインのように足し算ではなく引き算によって生み出される。これがおそらく耳にすんなりと馴染む理由なのだろう。

 

80年代のアーバンコンテンポラリーの見過ごせない特徴として、いわばドリーミーな感覚がR&Bサウンドの中に織り込まれていた。それらの特徴は、「I Can't Dream Anymore」に見出すことが可能だ。そして面白いことに、パラディーノの場合はそれらをエクスペリメンタルポップのフィルターを通し、かつてのプリンスが試みたように近未来的なR&Bを構築するのである。もうひとつ、現代的なR&Bのシーンのアーティストとは少し異なるサウンドの特徴が垣間見える。それが80年代以前のブラック・ミュージックの重要なテーマのひとつだったファンクの要素である。これらは、カーティス・メイフィールドのR&Bやマーヴィン・ゲイの曲のベースという形で繋がっていったのだったが、それらの系譜をファビアーナは踏襲した上で、最終的には、やはり軽快で聞きやすいポップスとして落とし込んでいる。ここにもアーティストのシンガーソングライターとは相異なる、敏腕プロデューサーとしての表情を伺い知ることができる。

 

そして、かならずしもR&Bという枠組みに囚われていないということも痛感し得る。「I Care」では現代的なUKのピューラーミュージックを踏襲し、ボウルの中でかき混ぜ、R&Bやネオソウルのテイストをバニラ・エッセンスのようにまぶす。これがメロウなサウンドから、ほんのりと甘い香りが立ち込めてきそうな理由なのだ。特に、心を惹かれるのは、商業主義のポピュラーサウンドに軸をおいた上で、その中にエクスペリメンタルポップのニュアンスを添えていること。ここにも歌手とは異なるプロデューサーとしての才覚が非常にさりげなく示されている。

 

R&Bシンガーとしての才覚が遺憾なく発揮された「Stay With Me Through The Night」はこのアルバムのハイライトとなりそうだ。ダイアナ・ロスの80年代の作風をわずかに思い出させる。この時代、ロスは以前の時代の作風から離れ、開放的で明るいサウンドを志向していた。ファビアーナの場合は、それよりも落ち着いたメロウなサウンドを作り出している。この曲には、デビューアルバムということを忘れさせてしまうほど、どっしりとした安定感が込められている。もちろん、その道二十年で活躍するようなベテランのシンガーのような信頼感がある。また他の曲に比べ、ファンクソウルの性質が強く、そしてベースラインも強調されている。これが他の曲よりも深いグルーブ感をもたらしている。ダンスフロア向きのナンバーと言えそうだ。

 

80年代のジョージ・ベンソンを始めとする、偉大なブラックミュージックの開拓者は、あの時代に何を求めていたのか、そして何を提示しようとしていたのか。おそらくであるが、彼らすべてのブラックミュージックに属する歌手やグループは、どのような苦難の時代にあろうとも明るい未来を見据えていたし、そして心から希望を歌っていた。だからこそ、多くの人を勇気づけてきたのだった。最終的には決して絶望を歌うことはなかったことは、ライオネル・リッチーやマイケル・ジャクスンといった面々が示したことである。ファビアーナの場合も同様で、現代的な悲壮感に基軸を置く場合もあるが、ベンソンのように未来における希望を歌おうとしている。そして、これが音楽そのものにワクワクした感覚や漠然とした期待感をもたらす。

 

ファビアーナ・パラディーノのアーバンソウル/ネオソウルの次世代を行くサウンドは、その後、さらに明るい印象を以ってクライマックスへと向かう。 「Deeper」では同じように、ジョージ・ベンソンの近未来的なソウルのバトンを受け継ぎ、よりモダンな印象を持つサウンドへと昇華させる。続く「In The Fire」では、低音域の強いディープ・ハウス、アシッド的な香りを持つR&BをEDMのサウンドと結びつける。パラディーノのR&Bの表現は、その後もスムーズに繋がっていく。これらの流動的なR&Bサウンドを経たのち、クローズ「Forever」において、しっとりとしたメロウなソウルでエンディングを迎える。分けてもバラードという側面でシンガーの並々ならぬ才覚が発揮された瞬間だ。今年度のR&Bの中では間違いなく注目作の一つとなる。

 

 

 

90/100

 

 

Best Track- 「I Can't Dream Anymore」

RIDE 『Interplay』


 

Label: Withica Recordings Ltd.

Release: 2024/03/29

 


Review

 

オックスフォードの四人組、RIDEは1990年代にマンチェスターの音楽ムーブメントの後に登場し、オアシスやブラーの前後の時代のUKロックの重要な中核を担う存在であった。もちろん、アンディ・ベルはオアシスから枝分かれしたビーディー・アイとしても活躍した。RIDEの音楽は、1990年代の全盛期において、ストーン・ローゼズとシューゲイザーサウンドの中間にあるものであった。 

 

バンドの中心人物でギタリストのアンディ・ベルはUKロックの象徴的な人物とみても違和感がない。彼は先日、Rough Trade Eastを訪れ、レコードをチョイスする姿が同レーベルの特集記事と合わせて公開されていた。そしてその佇まいのクールさは、今作の音楽にも反映されている。

 

今作の音楽はスコットランドのギター・ポップを元に、シンセ・ポップや1990年代のUKロックを反映させている。その中には、シューゲイザーの元祖であるJesus And Mary Chainや同地のロックシーンへのリスペクトが示されている。しかし、80年代から90年代のUKロック、スコットランドのギター・ポップが音楽の重要な背景として示されようとも、RIDEの音楽は、決して古びてはない。いや、むしろ彼らのギターロックの音楽の持つ魅力、そしてメロディーの良さ、アンディ・ベルのギター、ボーカルに関しても、その醍醐味はいや増しつつある。これは、実際的に、RIDEが現在進行系のロックバンドでありつづけることを示唆している。もちろん、これからギター・ポップやシューゲイズに親しむリスナーの心をがっちり捉えるだろう。

 

面白いことに、昨年に最新作をリリースしたボストンのシューゲイザーバンド、Drop Nineteensとの音楽性の共通点もある。

 

オープニングを飾る「Peace Sign」はギターロックのアプローチとボーカルが絶妙にマッチした一曲として楽しめる。音楽の中には回顧的な意味合いが含まれつつも、ギターロックの未来を示そうというバンドの覇気が込められている。曲そのものはすごく簡素であるものの、アンディ・ベルのギターはサウンド・デザインのように空間を自在に揺れ動く。いわば90年代のような紋切り型のシューゲイズサウンドは、なりを潜めたが、その中にはUKロックの核心とそのスタイリッシュさが示されている。二曲目の「Last Fontier」では改めてシューゲイズやネオ・アコースティックの元祖であるスコットランドの音楽への親和性を示す。そして彼らはこれまでの音楽的な蓄積を通し、改めてかっこいいUKロックとは何か、その理想形を示そうとする。

 

シューゲイズサウンドやギターポップの魅力の中には、抽象的なサウンドが含まれている。アンビエントとまではいかないものの、ギターサウンドを通じてエレクトロニックに近い音楽性を示す場合がある。RIDEの場合は、三曲目の「Light In a Quiet Room」にそのことが反映され、 それをビーディー・アイのようなクールなロックとして展開させる。アンディ・ベルのボーカルの中に多少、リアム・ギャラガーのようなボーカルのニュアンスがあるのはリスペクト代わりなのかもしれない。少なくとも、この曲において、近年その意義が失われつつあったUKロックのオリジナリティーとその魅力を捉えられる。それは曲から醸し出される空気感とも呼ぶべきもので、感覚的なものなのだけれど、他の都市のロックには見出しづらいものなのである。

 

「Monaco」ではよりエレクトロニックに接近していく。ただ、この曲でのエレクトロとはUnderworldを始めとする 80年代から90年代にかけてのクラブ・ミュージックが反映されている。もちろん、92年からRIDEは、それらをどのようにしてロックと結びつけるのか、ストーンローゼズと同じように追求していた。そして、多少、80年代のディスコサウンドからの影響も垣間見え、ベースラインやリズムにおけるグルーブ感を重視したバンドアンサンブルを通じて、アンディ・ベルのしなやかで爽やか、そしてクールなボーカルが搭載される。少なくとも、曲には回顧的な音楽以上の何かが示されている。これは、現在も音楽のチョイスはもちろん、ファッションにかけても人後に落ちないアンディ・ベルらしいセンスの良さがにじみ出ている。それが結局、踊りのためのロックという形で示されれば、これは踊るしかなくなるのだ。

 

続く「I Came to See The Wreck」でも80年代のマンチェスターサウンドに依拠したサウンドがイントロを占める。「Waterfall」を思わせるギターのサウンドから、エレクトロニック・サウンドへと移行していく瞬間は、UKロックの80年代から90年代にかけてのその音楽の歩みを振り返るかのようである。その中に、さりげなくAOR/ソフト・ロックやシンセロックの要素をまぶす。しかし、異なるサウンドへ移行しようとも、根幹的なRIDEサウンドがブレることはない。

 

続く「Stay Free」は、従来のRIDEとは異なるポップバラードに挑戦している。アコースティックギターに関しては、フォーク・ミュージック寄りのアプローチが敷かれているが、ギターサウンドのダイナミクスがトラック全体に重厚感を与えている。いわば、円熟味を増したロックソングの形として楽しめる。そしてここにもさりげなく、Alice In Chains,Soundgardenのようなワイルドな90年代のUSロックの影響が見え隠れする。もっといえばそれはグランジやストーナー的なヘヴィネスがポップバラードの中に織り交ぜられているといった感じである。しかし、ベルのボーカルには繊細な艶気のようなものが漂う。中盤でのUSロック風の展開の後、再びイントロと同じようにアイリッシュフォークに近いサウンドへと舞い戻る。


あらためてRIDEは他のベテランのロック・バンドと同じように普遍的なロックサウンドとは何かというのを探求しているような気がする。「Last Night-」は、Whamのクリスマスソングのような親しみやすい音楽性を織り交ぜ、オーケストラベルを用い、スロウバーナーのロックソングを書いている。そして反復的なボーカルフレーズを駆使しながら、トラックの中盤では、ダイナミックかつドラマティックなロックソングへと移行していく。そこには、形こそ違えど、ドリーム・ポップやシューゲイズの主要なテーマである夢想的な感覚、あるいは、陶酔的な感覚をよりポピュラーなものとして示そうという狙いも読み解くことができる。これらのポップネスは、音楽の複雑性とは対極にある簡素性というもうひとつの魅力を体現させている。

 

アンディ・ベルの音楽的な興味は年を重ねるごとに、むしろよりユニークなものへと向けられていることもわかる。シリアスなサウンドもあるが、「Sunrise Chaser」ではシンセポップをベースに、少年のように無邪気なロックソングを書いている。ここには円熟したものとは対極にある音楽の衝動性のようなものを感じ取ることができる。また、この曲にはバンドがトレンドの音楽もよくチェックしていて、それらを旧知のRIDEのロックサウンドの中に取り入れている。 


アルバムの中で、マンチェスターのダンスミュージックのムーブメントやHappy MondaysやInspiral Carpetesのようなストーン・ローゼズが登場する前夜の音楽性が取り入れられてイルかと言えば、間違いなくイエスである。「Midnight Rider」はまさにクラブハシエンダを中心とする通称マッドチェスターの狂乱の夜、そしてダンスフロアの熱狂へとバンドは迫っていこうとする。そして実際、RIDEはそれを現代のリスニングとして楽しませる水準まで引き上げている。これは全般的なプロデュースの秀逸さ、そしてベルの音楽的な指針が合致しているからである。

 

前にも述べたように、RIDEは、PixiesやPavementのようなバンドと同じように、年齢と経験を重ねるごとに普遍的なロックバンド、より多くの人に親しまれるバンドを目指しているように思える。「Portland Rocks」は、スタジアム・ロック(アリーナ・ロック)の見本のような曲で、エンターテイメントの持つ魅力を音源としてパッケージしている。この曲には何か、何万人収容のスタジアムで、スターのロックバンド、またはギターヒーローのライブを見るかのような楽しさが含まれている。それはとりも直さず、ロック・ミュージックの醍醐味でもある。


アルバムの終わりでは、アンディ・ベルの音楽的な趣味がより強く反映させている。いわば、バンドという枠組みの中で、ソロ作品のような音楽性を読み解ける。最後2曲には、RIDEの別の側面が示されているとも言える。

 

「Essaouira」はマンチェスターのクラブ・ミュージックの源流を形作るイビサ島のクラブミュージック、あるいは現代的なUKのEDMが反映されたかと思えば、クローズ「Yesterdays Is Just a Song」では男性アーティストとしては珍しい例であるが、エクスペリメンタル・ポップのアプローチを選んでいる。強かな経験を重ねたがゆえのアーティストとしての魅力がこの最後のトラックに滲み出ているのは疑いない。それは哀愁とも呼ぶべきもの、つまり、奇しくも1992年の『Nowhere』の名曲「VapourTrail」と相通じるものがあることに気づく。

 

 

 

84/100




「Peace Sign」

 


Label: YSM Sound.

Release: 2024/03/29


Listen/Stream


Review:


イギリス/レスターから登場したローカルラップのヒーロー、Sainteのアルバム『Still Local』は今年最初のヒップホップの注目作である。

 

レスターの地域性、そこから生まれたローカルな人間的な仲睦まじいつながり、フレンドシップは、サンテの場合、彼のグループがこよなく愛する、カスタマイズされたスポーツカーのようにスタイリッシュかつクールなヒップホップとしてアウトプットされる。2000年代以降、メインカルチャーに押し上げられたヒップホップは、かつての地域性を失いつつあり、また、人間的なつながりも以前に比べると、遠くになっているような感じもある。そして、グローバルな音楽やアートとして一般的にみなされるようになったヒップホップ。しかし、それらが稀に、宣伝やプロパガンダのようになっていることを気が付くことはないだろうか。確かに以前とは異なり、アメリカの場合は、ニューヨーク出身のラッパーと、そうでない地域のラッパーとの間にあるライバル関係から開放されつつあるようで、これは良い側面かもしれない。しかし、それはある意味では、ヒップホップが一般化され、無個性なものとなりつつあり、その土地や、アーティストの持つ個性やユニークさが削ぎ落とされつつある要因ともなっているようだ。これは、N.W.A、ICE CUBEの時代のラッパーと比べると、かなり顕著であるかもしれない。ヒップホップのワールドワイド化は、ローカル性の消失という弊害も生じさせつつあるのだ。


そんな中、ヒップホップそのものが持つ地域性やローカル性、そして、その土地のコミュニティーを重視しようとしているのが、サンテというラッパーなのである。彼のラップは地方都市から生み出されたがゆえに、ロンドンのような主要都市に対するライバル心や反骨精神のようなものも見え隠れするが、少なくとも、それは単なる嫉妬とは言いがたいものである。サンテの音楽は、レスターの夜の若いグループから生み出される無尽蔵のエナジーを持ち合わせている。しかし、それは一般的なラッパーとは少し異なり、内側から静かに表出されるエナジーなのである。サンテのラップは、UKラップの英雄で、アディダスとのコラボレーションで知られるストームジー(Stormzy)のような、いわばスタイリッシュで洗練された印象を兼ね備えるUKラップの系譜に位置するように感じられる。しかし、メインストリームの存在に対し、サンテの音楽が主張性が乏しいのかと言えば、そうではない。彼は、主要な都市圏の文化に対し、何か言うべきことをいくつか持っているのである。確かに、ロンドンやマンチェスターといった主要都市の音楽に目を向けながらも、そのなかでレスター特有のカルチャーや音楽性を汲み取ろうとしている。その都市にしか存在しえないもの、それはつまり、「土地の空気感」とも称すべきものであるが、今作には、確かに真夜中のレスターの奇妙な落ち着きや静寂がこだましている。それにフットボールチームの試合の勝利の後に訪れる例の充実感のようなものもある。

 

これまでサンテは少なくとも、実際的な地域のフレンドシップを何よりも重視してきたという印象を受けるし、他方ではソーシャルメディア等での繋がりも大切にしてきた。つまり、彼は表向きの功名心や名誉よりも、そういった人間的な関係性に重点を置いてきた。そして彼のアートの感覚には、コラボレーターや彼を支えるグループと足並みを揃えながら、DIYの姿勢でクールな音楽を作り上げようという意図も見いだせる。このアルバムには、ロンドンの国立劇場やバービカン・センターで上演される有名ミュージカルのような大掛かりな仕掛けはない。しかし、彼の音楽やアートは、手作りのような感覚で緻密に構築されていく。これが感動的とはいわないまでも、サンテのフロウが心に響く理由なのである。それは見え透いた偽物の感覚ではなく、ハートフルな感情がアルバム全体に貫流している。そして、ミュージカルを比較対象に置くのは、何も一時の気まぐれによるものではない。オープナー「Too Much」は、ベンジャミン・クレメンタイン(Benjamin Clementine)のような劇伴的なサウンドで始まり、アルバムのインタリュード代わりとなっている。華やかなピアノのイントロに続いて繰り出されるサンテのスポークンワードは、舞台袖から中央に演劇の主人公が登場するようなユニークな印象をもたらす。


年明けにリリースされたアルバムの先行シングル「Tea Over Henny」は、BNTとしてご紹介している。ミュージックビデオも素晴らしかった。スポーツカーの周りに、サンテとそのグループがスポーツカーでドリフトをかけながら、火花を散らす。少なくとも、UKドリルの属するヒップホップは、単なる宣伝材料になるのではなく、リアルな音楽として昇華されている。彼のリリックには精細感があり、内的な落ち着きがある。ヒップホップをモンスターのように捉えるのではなく、身近な表現手段、あるいはリベラルアーツの一貫としてサンテは体現しようと試みる。それをかつてのヴァンダリズムのような手段で、シンプルに、そして誰よりもダイナミックに表現する。この曲のサンテのリリック/フロウには、ニュアンスがあり、節回しも絶妙だ。 

 

 

「Tea Over Henny」


 

メインストリームを踏襲し、それをきわめてシンプルで安らいだ感じを持つリリックに落とし込む力がある。「Route 64」は、同じくロンドンのドリルに属する音楽性が魅力だが、その中に夜のドライブに見出される奇妙な安らぎが表現されている。人が寝静まった夜中、都市の郊外を駆け回るときのあの爽快な感じつながる。そして、もうひとつ、音楽そのものがプリ音楽の効果を持つ。つまり、車のBGMとしての最良の効果を見込んで制作されたような感じがある。

 

アルバムの序盤は明らかにUKドリルの音楽性に重点が置かれているが、続く「Stop Crying」ではどちらかと言えば、アトランタのJIDのようなラップが展開される。都会的なラップではなく米国南部の巻き舌のリリックのようなニュアンスを踏まえ、それをチルウェイブのような音楽として濾過している。そして、JIDの場合は比較的古典的なソウルに踏み込む場合があるが、サンテの場合はUKソウル(ネオソウル)に近いニュアンスが含まれている。これらは最終的に、JIDのようなニュアンスをどこかに残しつつ、洗練されたラップとしてブラッシュアップされる。サンテが必ずしもUKラップだけを意識しているわけではないことが、なんとなく理解出来る。

 

「Currency」でも同じくアトランタサウンドとも言えるトラップの影響下にあるトラックが続く。EDMやグリッチをベースにした心地よいビートを背後にリラックス感のあるリリックを乗せる。そしてユニークなのは、コラボレーターのDraft Dayの助力を得て、トラップの要素にソフト・ロックやAORのようなアダルト・コンテンポラリーの要素を付け加えていることである。トラックの全般的な印象としては紛れもなくトラップの範疇にあるが、そこに新しい何かを付け加えようとしている。Draft Dayとのフロウの掛け合いに関しては一体感が生み出されている。

 

その後はまるで車のラリーやドライブのあとに、クラブフロアに立ち寄るかのようである。同じくEDMを間奏曲として解釈した「Changing Me Interlude」、「Fancy」はアルバムの中盤になだらかな起伏を作る。チルウェイブ/EDMの寛いだトラックはクラブフロア的な心地良さがある。アルバムの序盤のトラックと同様に上記もまたラッパーの日常的な生活が反映されているように感じられる。またそれは自分だけではなく、レスターの若者の日常の代弁する声でもある。この曲の後、再びトラップを基調としたグリッチのヒップホップに舞い戻り、都会的な感覚を表す。この曲もまたストームジーのようなトラックとして楽しめること請け合いである。

 

「Y2K」にはオールドスクールのヒップホップの影響が反映されている。まったりとした寛いだサウンドは、JIDのサイドトラックのニュアンスにも近いが、古典的な音楽の中にアブストラクトヒップホップの影響も曲の後半で垣間見ることが出来る。しかし、サンテの場合は、ニューヨークのラッパーほどには先鋭的にならず、曲のメロウなムードを最重視し、リリックやフロウのクールさにポイントが絞られている。サンテのフロウは、稀にアッパーな表情を見せることもあるが、全体的には、ミドルの感覚やダウナーな感覚をリリックに絶妙に織り交ぜている。

 

当初は地方都市の音楽にも思えたサンテのサウンドは、アルバムの中盤でより都会的で洗練された空気感を漂わせる。これらの肩で風を切るかのような感覚は、その後の収録曲でも受け継がれている。そしてアルバムの中では、歌詞の中で言及されているかは分からないが、アーティスト自身とグループ、そしてレスターの若者たちの日常的な生活が描かれているように思える。それは自分が主役になったかと思えば、彼らが主役にもなりえる。「They'll See」は他者を主役に置き、彼らが何を見たのかを第三者的な視点を通じて見定めようとする。そしてカーライフにまつわるグループとのやりとり、さらに、ドリフトを華麗に決めたときの言いしれない恍惚と快感、また、それに付随する、ちょっと虚脱するような空白の時間を的確にグリッチサウンドを元にしたヒップホップで表現していく。丹念で作り込まれたカスタムカーのようなサウンドにはこのジャンルにそれほど詳しくないリスナーの心を惹きつける力があるように思える。

 

サンテのラップはそれほどUKのメインストリームの音楽とはかけ離れていない。そしてかつてのブリストルサウンドのように、なぜか夜のシーンが音楽そのものから浮かんでくることがある。そして、その後の収録曲では得難いほどに深淵な音楽へと迫る瞬間がある。「Love Is Deep」は、かなりピクチャレスクな瞬間が立ち表れ、サンテのなめらかで流麗なリリック、フロウ捌きの連続......、それはやがて都会的なビル、その合間に走るレスターの曲がりくねった国道、夜の闇にまみれた通りを疾走していくスポーツカーのイメージに変化していく。サンテが表現しようとするもの、それは人間的な情愛に限らず、フレンドシップにまつわる友情に近いものもありそうだ。そして、それを彼はナイーブでディープなラップによって表現している。泣かせるものはないように思える。ところが、そこには奇妙なペーソスがある。リズム的にもドラムンベースの影響を付加し、ローエンドが強く出るエレクトロサウンドを生み出す。メインストリームのラップとは一線を画しており、このあたりに"ローカルラップ"の醍醐味がありそうだ。


サンテのラップは一貫してローカルラップというテーマの元に構築されている。しかし、ロンドンの音楽への親近感が示される瞬間もある。Lil Silvaをフィーチャーした「Safe」はジョーダン・ラケイのようなレゲエ/レゲトンとEDMの中間のあるサウンドを追求している。これらはサンテの音楽が単なるマニア性だけに支えられたものではないことを示している。もちろん、メインストリームに引き上げられる可能性をどこかに秘めていることの証ともなるだろう。続く「Milwaukee」ではUKのドリルを離れ、どちらかと言えばシカゴドリルに近いニュアンスを探る。車を揺らすような分厚いベースライン、そして、広い可動域を持つリズムの上げ下げをシンセのフレーズを通じて装飾的なサウンドを組み上げている。派手さと深さを兼ね備えたドリル、そして、その中に展開される痛快なフロウは、今作の中で最も鮮烈な瞬間を呼び起こす。

 

表向きには大きな仕掛けがないように思える。しかし、聴き応えがある理由は、トラックの入魂の作り込みがあり、アーティスト自身が表現したいものを内側に秘めていることだ。これらの二つの要素は、リスニングに強いインパクトを及ぼし、そして実際、洗練されたラップとしてアウトプットされている。アルバムの最後でも、ドラマティックなトラックが収録されていて聴き逃がせない。クローズ「G's Reign」は、流行りのアルバムの全体的な構造として連関した役割をもたせようという流れに準じている。オープニングと対になっているが、アルバムの最初と最後では、まったく音楽の印象が異なるのが面白い。このクローズは、ダークでありながらクールな印象を最後の余韻として残す。 2024年度の最初のUKラップの収穫と言えるだろう。

 

 


85/100
 
 

 Best Track−「G's Reign」

 Sam Evian 『Plunge』

 

Label: Flying Cloud Recordings

Release: 2024/03/22



Review

 

サム・エヴィアン(Sam Evian)はニューヨークのシンガーソングライター。前作『Time To Melt』で好調なストリーミング回数を記録し、徐々に知名度を高めつつあるアーティスト。エヴィアンの音楽的な指針としては、サイケ、フォーク、ローファイ、R&Bなどをクロスオーバーし、コアなインディーロックへと昇華しようというもの。彼の制作現場には、アナログのテープレコーダーがあり、現在の主流のデジタル・サウンドとは異なる音の質感を追求している。このあたりはニューヨークというよりもロサンゼルスのシーンのサイケサウンドが絡んでいる。


サム・エヴィアンは『Plunge』でもビンテージなテイストのロックを追求している。オープニングを飾る「Wild Days」は、70年代のアメリカン・ロックや、エルヴィス・コステロの名作『My Aim Is True』のようなジャングルポップ、そしてアナログのテープレコーダーを用いたサイケ/ローファイのサウンドを吸収し、個性的なサウンドが組みあげられている。ノスタルジックなロックサウンドという点では、Real Estateに近いニュアンスも求められるが、エヴィアンの場合はスタンダードなロックというより、レコードコレクターらしい音楽が主な特徴となっている。

 

70年代のUSロックに依拠したサウンドは、ジャンルを問わず、現代の米国の多くのミュージシャンやバンドがその音楽が持つ普遍的な価値をあらためて再訪しようとしている。ご多分に漏れず、サム・エヴィアンの新作のオープナーも、いかにもヴィンテージなものを知り尽くしている、というアーティストの自負が込められている。これは決してひけらかすような感じで生み出されるのではなく、純粋に好きな音楽を追求しているという感じに好感をおぼえる。イントロのドラムのロールが立ち上がると、ソロアーティストとは思えない緻密なバンドサウンドが展開され、そこにウェストコーストサウンドの首領であるDoobie BrothersのようなR&Bを反映させたロックサウンド、そしてエヴィアンのボーカルが入る。トラックメイクの試行錯誤を何度も重ねながら、どこにシンコペーションを置くのか、グルーヴの重点を据えるのか。いくつもの試作が重ねられ、かなり緻密なサウンドが生み出されている。このオープナーには確かに、いかなるレコードコレクターをも唸らせる、コアなロックサウンドが敷き詰められている。

 

 

「Jacket」以降もエヴィアンの志す音楽は普遍的である。同じく、Doobie Brothers、Byrds、CSN&Yを彷彿とさせる音楽で今や古びかけたと思われたものを、きわめて現代的な表現として2024年の時間軸に鮮明に浮かび上がらせる手腕については脱帽である。このサウンドは70年代のアナログレコードの旨味を知るリスナーにとどまらず、それらのサウンドを初体験する若いリスナーにも新しいサウンドとして親しまれるだろう。 その中にチェンバーポップやバロックポップ、つまりビートルズの中期の音楽性、あるいは、それ以降の米国の西海岸のフォロワーのバンドの系譜にあるサウンドを組み上げてゆく。ロックソングの中に遊びのような箇所を設け、マッカートニーのようなおどけたコーラスやハネ感のあるリズムで曲そのものをリードしていく。

 

サム・エヴィアンの制作現場にあるアナログレコーダーは、ロックソングのノイズという箇所に反映される。「Rolling In」も、70年代のUSロックに依拠しているが、その中にレコードの視聴で発生するヒスノイズをレコーダーで発生させ、擬似的な70年代のレコードの音を再現している。ここには良質なロックソングメイカーにとどまらず、プロデューサー的なエヴィアンの才覚がキラリと光る。そして彼はまるで70年代にタイムスリップしたような感じで、それらの古い時代の雰囲気に浸りきり、ムードたっぷりにニール・ヤングの系譜にあるフォーク・ロックを歌う。これには『Back To The Future』のエメット・ブラウン博士も驚かずにはいられない。


もし、先週末のエイドリアン・レンカーの『Bright Future』が女性的な性質やロマンチシズムを持つフォーク・ミュージックであると仮定するなら、エヴィアンの場合は、ジャック・アントノフ率いるブリーチャーズと同じように、きわめて男性的なロマンチズムが示されている。それはおそらくアーティストの興味の一貫として示されるスポーツカーやスーパーカー、ヴィンテージのアメリカン・カジュアルのようなファッション、あるいはジョージ・ルーカス監督の『アメリカン・グラフィティ』に登場するような郊外にあるドライブスルー、そういったアメリカの代名詞的なハイカルチャーが2020年代の視点から回顧され、それらの良き時代への親しみが示唆される。それは例えば、バイカーやカーマニアのカスタムメイド、それに類するファッションというような嗜好性と密に結び付けられる。女性から見ると不可解なものであるかもしれないが、それは男性にとってはこの上なく魅了的なものに映り、そしてそれはある意味では人生において欠かさざるものとなる。エヴィアンは、そういった均一化され中性化した文化観ではなく、男性的な趣向性ーー個別の価値観ーーを華麗なまでに探求してみせるのである。

 

本作の序盤では一貫してUSのテイストが漂うが、彼のビンテージにまつわる興味は続く「Why Does It Takes So Long」において、UKのモッズテイストに代わる。モッズとはThe Whoやポール・ウェラーに象徴づけられるモノトーンのファッションのことをいい、例えば、セミカジュアルのスーツや丈の短いスラックス等に代表される。特に、The Whoの最初期のサウンドはビートルズとは異なる音楽的な意義をUKロックシーンにもたらしたのだったが、まるでエヴィアンはピート・タウンゼントが奏でるような快活なイントロのリフを鳴らし、それを起点としてウェスト・コーストロックを展開させる。ここには、UKとUSの音楽性の融合という、今までありそうでなかったスタイルが存在する。それらはやはりアナログレコードマニアとしての気風が反映され、シンコペーション、アナログな質感を持つドラム、クランチなギターと考えられるかぎりにおいて最もビンテージなロックサウンドが構築される。そして不思議なことに、引用的なサウンドではありながら、エヴィアンのロックサウンドには間違いなく新しい何かが内在する。

 

そして、アルバムの序盤では、アメリカ的な観念として提示されたものが、中盤を境に国境を越えて、明らかにブギーを主体としたローリング・ストーンズのイギリスの60年代の古典的なロックサウンドへと肉薄する。「Freakz」はキース・リチャーズの弾くブルースを主体としたブギーのリフにより、耳の肥えたリスナーやギターフリークを唸らせる。エヴィアンのギターは、リチャーズになりきったかのような渋さと細かいニュアンスを併せ持つ。しかし、それらの根底にあるUKロックサウンドは、現代のロサンゼルス等のローファイシーン等に根ざしたサイケデリアにより彩られたとたん、現代的な音の質感を持つようになる。結局、現代的とか回顧的といった指針は、どこまでそれを突き詰めるのかが重要で、その深さにより、実際の印象も変化してくる。エヴィアンのコアなサイケロックサウンドは、ファンクとロックを融合させた70年代のファンカデリックのようなR&B寄りの華やかなサウンドとして組み上げられる。ギタリストとしてのこだわりは、Pファンク風のグルーヴィーなカッティングギターに見いだせる。

 

同じように70’sのテイストを持つロックサウンドを挟んだ後、「Runaway」ではエヴィアンのロックとは別のフォーク音楽に対する親しみがイントロに反映されている。それはビートルズのアート・ロックに根ざした60年代後半のサウンドへと変化していく。エヴィアンのボーカルは稀にマッカートニーのファニーなボーカルを思わせる。それを、ビクトロンのような音色を持つアナログシンセサイザーの音色、そして、リッケンバッカーに近い重厚さと繊細さを持つギターサウンド、同音反復を特徴とするビートルズのバロック・ポップの音階進行やビートの形をしたたかに踏襲し、それらをしなやかなロックソングへと昇華させる。コーラスワークに関しても、やはりビートルズの初期から中期にかけてのニュアンスを踏まえ、ソロプロジェクトでありながら、録音のフィールドにポールの他にレノンのスピリットを召喚させるのである。これらはたしかに模倣的なサウンドとも言えなくもないが、少なくとも嫌味な感じはない。それは先にも述べたように、エヴィアンがこれらの音楽を心から愛しているからなのだろうか。

 

ウェストコーストロック、サンフランシスコのサイケ、さらにストーンズやビートルズの時代の古典的なUKロックという流れでアーティストの音楽が示されてきたが、アルバムの終盤の2曲はどちらかと言えば、エルヴィス・コステロのようなジャングル・ポップやパワー・ポップの原点に近づいていく、そのコーラスの中には、Cheap Trickのニールセンとサンダーのボーカルのやり取り、または、武道館公演の時代のチープ・トリックの音楽性が反映されているように見受けられる。厳密に言えば、アイドル的なロックではなくて、どちらかといえば、パンキッシュな嗜好性を持つコステロの骨太なサウンドの形を介して昇華される。果たして、これらの音楽にマニア性以上のものが存在するのか? それは実際のリスニングで確認していただきたいが、少なくともロックファンを唸らせる何かが一つや二つくらいは潜んでいるような気がする。

 

アルバムのオープナー「Wild Days」とクローズの「Stay」はジャングルポップや良質なインディーフォークなので聴き逃がせない。

 


76/100

 

 

 

Best Track- 「Stay」

 Waxahatchee 『Tigers Blood』

 

Label: Anti-

Release: 2024/03/22

 

Review


今週のもうひとつの注目作がAnti-からリリースされたワクサハッチーによる最新作『Tigers Blood』。このアルバムもエイドリアン・レンカーと同じく、アメリカーナやカントリー、フォークを主体としている。ワクサハッチーはジェス・ウィリアムソンとのデュオ、Plainsとして活動しており、このプロジェクトもアメリカーナとロックやポップスを結びつけようとしている。

 

今回のアルバムはアートワークを見ると分かる通り、カンサス出身のワクサハッチーが米国南部的なルーツを掘り下げようとしたもの。しかし、ワクサハッチー自身はこれまで人生を行きてきた中で、南部的なルーツを隠そうとはしなかったものの、それを明るみには出さなかったという。そしてこのアルバムは、Anti-のスタッフの方が言及する通り、「それが存在する前からそこにあったような気がする」という、普遍的なアメリカン・ロックとなっている。どこまでも純粋なアメリカンロックで、それがかなり親しみやすい形で昇華されている。非常に聞きやすい。

 

全般的にはそれほどアメリカーナというジャンルを前面に押し出していないように思えるが、それは飽くまで表向きの話。オープニングを飾る「3 Sister」からインディーロックを基調としたソングライティングの中にスティールギターを模したエレクトロニックギターを織り交ぜたり、そして歌唱の中にもボーカルピッチをずらしてう歌うアメリカーナのサングのスタイルが取り入れられている。しかし、ワクサハッチーはそれをあまりひけらかさないように、オブラートに包み込む。おおらかなソングライティングの中で彼女が理想とするポップを体現させようとする。

 

続く「Evil Spawn」はコラボレーターのジェス・ウィリアムソンのソングライティングに近く、アメリカン・ロックを温和なムードで包み込んでいる。ウィリアムソンの最新作ではいかにもアリゾナにありそうな砂漠や幹線道路を砂埃を上げて走る車のようなイメージが立ち上ってくることがあったが、ワクサハッチーの曲のイメージは、より牧歌的な温和さに縁取られている。その歌声の中には温かさがあり、また雄大な自然のムードが反映されているように思える。


アルバムはその後、70年代のウエストコーストロックや、サザンロックのビンテージなロックへと続いている。「Ice Cold」は、ソロアーティストというよりもバンドスタイルで書かれた曲で、ByrdsやCCRを始めとするUSロックの源流へと迫っている。セッション自体も楽しげであり、聴いているだけで気持ちが沸き立ってくるような気がする。その中で、ワクサハッチーは南部的な風景やムードを上手く反映させている。時折、それはボーカルの節回し、あるいはメロディーの進行と理論的に展開させるというよりも、体感したものを音楽という形で表現していく。

 

アメリカーナの固有の楽器も取り入れられている。続く「Right Back To It」ではスーパーチャンクの名曲「1000 Pounds」にようなインディーロックとアメリカーナの融合のソングライティングに取り組んでいる。しかし、ワクサハッチーの場合は、ロックソングというよりも普遍的なポップスに焦点が絞られ、映画のワンシーンで流れるような寛いだサウンドトラックを思わせる。それほど聞きこませるというよりも、聞き流せるという音楽として楽しめる。ワクサハッチーの音楽は主要なメインテーマといよりかは、BGMや効果音のような聞きやすいポップスなのである。

 

ワクサハッチーの音楽は、単なる古い時代の音楽を尋ねるというよりも、どこかの時代にラジオで流れていた70年代や80年代のロックやポップス、それらの記憶を元に、現代的に親しみやすいポップソングに再構築しようというような意図が感じられる。


「Burns Out at Midnight」はスプリングスティーンのようなUSロックの王道を行くが、その中には単なるイミテーションという形ではなく、子供の頃に聴いていたラジオからノイズとともに聞こえ来る音楽を再現しようという狙いが伺える。それは、ノスタルジアなのか、それとも回顧的というべきなのかは分からないが、懐かしさに拠る共感覚のようなものを曲を通じてもたらすのである。続く「Bored」に関してもこれと同様に、映画のサウンドトラックで流れていた曲、そしてその音楽がもたらすムードや雰囲気を曲の中で再現させようとしているように感じられる。


クラシカルな音楽に対する親しみはその後より深い領域に差し掛かる。「Lone Star Lake」、「Crimes Of The Heart」は、ムードたっぷりのバンジョーやスティールギターがやはり南部的な空気感を生み出している。穏やかさと牧歌的な気風が反映されているが、正直なところ、このあたりはなにか二番煎じの感が否めない。穏やかな感覚はどこかで阻害されているという気がし、残念だと思うのは、ルーツまでたどり着いていないこと。それがなんによるものかは定かではないが、本当の音楽がなにかによってせき止められてしまっているような気がする。

 

難しいけれど、遠慮ともいうべきもので、米国南部的な感性が都会的な感性にからめとられてしまっているからなのかもしれない。純粋なカントリーやフォーク音楽に対して、なにか遠慮が感じられる。奥ゆかしさともいうべきもので、長所たりえるのだけれど、音楽の核心に至る途中で終わっている。ただ、「Crowbar」は閃きがあり、また比較的明るいエネルギーが感じられて素晴らしい。アルバムの中では、ポップに内在するソウルやR&Bに近いアーティストのもう一つのルーツに迫ることが出来る。

 

「365」はよりポピュラー寄りの音楽に進むが、シンプルなポップスとして楽しんでもらいたい。「The Wolves」は全般的な印象と連動して、少し寂しい感じをおぼえるわ、もう少し、編集的なプロダクションや楽器を増やしても面白かったかもしれない。

 

ワクサハッチーは個人的にも好きなアーティストではあり、表現すべき世界観や音楽観を持っている良いミュージシャンであるが、ピアノやバイオリンがないのが、結局、レンカーのような遊び心のある作品にならなかった理由なのかもしれない。本作の中盤から終盤にかけて、安らいだ感じを越えて、少し音楽が緩みすぎているところがあるのが難点。ただ、アメリカンロックやポップスにこれから親しんでみようというリスナーには最適なアルバムになるはず。

 



72/100


  Four Tet 『Three』

Label: Text Records

Release: 2024/ 03 /15


Review

 

以前、Four Tetはライセンス契約をめぐり、ドミノと係争を行い、ストリーミング関連の契約について裁判を行った。結局、レーベルとの話し合いは成功し、ストリーミングにおける契約が盛り込まれることになった。

 

ジェイムス・ブレイクにせよ、フォー・テットにせよ、フィジカルが主流だった時代に登場したミュージシャンなので、後発のストリーミング関連については頭を悩ませる種となっているようなのは事実である。しかし、直近の裁判についてはレーベルとの和解を意味しており、関係が悪化したわけではないと推測される。

 

ともあれ、新しいオリジナル・アルバムがリリースされたことにエレクトロニック/テクノファンとしては胸を撫で下ろしたくなる。アルバム自体も曇り空が晴れたかのような快作であり、からりとした爽快感に満ちている。今回のアルバムはテクスト・レコードからのリリースとなる。


フォー・テットことキーラン・ヘブデンは、エレクトロニック・プロデューサーの道に進む以前、ポスト・ロックバンドに所属していたこともあり、テクノ/ダウンテンポのアプローチを図るアーティストである。


生のドラムの録音の中に、ジャズやグライム、フォーク・ミュージックを織り交ぜる場合がある。Warp Recordsに、”Biblo”というプロデューサーがいるが、それに近い音楽的なアプローチである。また、音楽的な構図の中には、サウンドデザイン的な志向性があり、それらがミニマルテクノやブレイクビーツ、そして、インストのポストロックのような形で展開される。インストのロックとして有名なプロデューサーとしては、まっさきにTychoが思い浮かぶが、それに近いニュアンスが求められる。ヘブデンのテクノはモダン家具のようにスタイリッシュであり、建築学における設計のような興味をどこかに見出すこともそれほど無理難題ではないのである。

 

今回のアルバム『Three』は現代的なサウンド、あるいは未来志向のサウンドというよりも、90年代のAphex Twin、Clark、Floating Points、Caribouあたりの90年代のテクノに依拠したサウンドが際立っている。レトロで可愛らしい音色のシンセが目立つが、中には、この制作者らしいカラフルなメロディーが満載となっている。それらは、グリッチ/ミニマルテクノのデュオ、I Am Robot And Proudのような親しみやすいテクノという形で昇華される。ただ、Squarepusherほど前衛的ではないものの、(生の録音の)ドラムのビートに重点が置かれる場合があり、オープナー「Loved」に見出すことが出来る。それほど革新的ではないにせよ、言いしれない懐かしさがあり、テクノの90年代の最盛期の立ち帰ったようなデジャブ感がある。そしてアシッド・ハウス風のビートとカラフルなシンセの音色を交え、軽快なテクノへと突き進むのである。

 

アルバムの序盤は安らいだ感覚というべきか、アンビエントに近い抽象的な音像をダウンテンポやテクノの型に落とし込んでいる。「Glinding Through Everything」はサウンド・デザイン的なサウンドで聞き手を魅了する。Boards Of Canadaに比するアブストラクトなテクノとして楽しんでほしい。ポスト・ロック的なアプローチが続く。「Storm Crystals」は、Tychoのようなインストのロックに近い音楽性が垣間見え、それらは比較的落ち着いたIDM(Intelligence Dance Music)という形で展開される。ダンスフロアではなく、ホームリスニングに向けた落ち着いたテクノであり、ここにも冒頭のオープナーと同様に90年代のテクノへの親しみが表されている。


もちろん、音楽は新しければ良いというものではなく、なぜそれを今やるのかということが、コンポジションの方法論よりも重要になってくる場合がある。ヘブデンはそのことをしっかり心得ていて、無理に先鋭的なものを作らず、シンプルに今アウトプットしたいものを制作したという感じがこのアルバムの序盤から読み解くことが出来る。


続く「Daydream Repeat」では、ビートそのものは、おそらくデトロイトハウスの原点に近いサウンドをアウトプットしているが、ここにもアーティストのサウンド・デザイナー的なセンスが光り、ピアノのカラフルなメロディーが清涼感を持って耳に迫る。苛烈なサウンドではなく、癒やしに充ちたサウンドは、雪解けの後の清流のような輝きと流麗さに充ちている。ここでも叙情的なテクノというアーティストの持つセンスが余すところなく披露されているように思える。

 

「Skater」もTychoのようなギターロックのインストや、ポストロック的なアプローチが敷かれている。ここでも前曲と同じように清涼感のあるサウンドが味わえる。比較的、スロウなテンポを通じたくつろいだセッションの意味合いがあり、ギター、電子ドラムを中心にスタイリッシュなテクノ/ロックを制作している。ダブやファンクといった本来の電子音楽からはかけ離れた要素も込められている。少なくとも難しく考えず、リラックスして乗れるナンバー。続く「31 Room」はアナログなテクノに回帰し、2000年代の彼自身の作風を思い返させるものがある。2000年前後のグリッチ・サウンドを元にし、Caribouのようなユニークなサウンドを構築している。このあたりに、ベテランプロデューサーとしての手腕が遺憾なく発揮されている。

 

ヘブデンは同じようにアルバムの後半でも、無理に新しいものや先鋭的なものを制作するのではなく、みずからの経験や知見を元にし、最もシンプルで親しみやすいテクノを提供している。「So Blue」は驚くほどシンプルで、そして出力される部分とは対極にある「間」が強調されている。やはり一貫して、ホームリスニングに適したIDMであるが、しかし、そこには気負いがない。そして、安らいだテックハウスの中に、グライムやダブステップの影響下にある生のドラムを導入し、曲全体に変化をもたらす。レトロな音色は、やはり90年代のAphex Twinの「Film」で見られるテクノを思い起こさせる。一貫して身の丈にあったシンプルなダンスミュージックを提供しようというプロデューサーの考えは、クローズでもほとんど変わることがない。ここでは、ギターのノイズに焦点が置かれ、曲の中盤ではSigur Ros(シガーロス)のような北欧のポスト・ロック/音響派のアプローチへと突き進んでいる。このアルバムは、あらためてプロデューサーが90年代以降のキャリアを総ざらいするような作品になっている。ここにはセンセーショナルな響きはほとんどないものの、電子音楽の普遍的な魅力の一端が示されている。

 

 

 84/100

 

Best Track-「Loved」

 Charles Lloyd 『The Sky Will Still Be There Tomorrow』

 

 

Label: Blue Note(日本盤はユニバーサルミュージックより発売)

Release: 2024/03/15

 


Review

 

2022年から三部作「Trios」に取り組んできた伝説的なサックス奏者のチャールズ・ロイド(Charles Lloyd)は、北欧のヤン・ガルバレクと並んで、ジャズ・サックスの演奏者として最高峰に位置付けられる。


ECMのリリースを始め、ジャズの名門レーベルから多数の名作を発表してきたロイドは86歳になりますが、ジャズミュージシャンとして卓越した創造性、演奏力、 作品のコンセプチュアルな洗練性を維持してきました。驚くべきことに、年を経るごとに演奏力や創作性がより旺盛になる稀有な音楽家です。彼の名作は『The Water Is Wide』を始め、枚挙に暇がありません。スタンダードな演奏に加え、ロイドは、アヴァンギャルド性を追求すると同時に、カラフルな和音性やジャズのスケールを丹念に探求してきました。近年、ロイドはジャズの発祥地である米国のブルーノートに根を張ろうとしています。これはジャズのルーツを見れば、当然のことであるように思える。

 

 『The Sky Will Still Be There Tomorrow』は彼のサックスの演奏に加え、ピアノ、ドラムのバンド編成でレコーディングされた作品です。冒険心溢れるアヴァンギャルドジャズの語法はそのままに、アーティストがニューオリンズ・ジャズの時代の原点へと回帰したような重厚感のあるアルバムです。

 

ブレス、ミュート、トリル、レガートの基本的な技法は、ほとんどマスタークラスの域に達し、エヴァンスやジャレットの系譜にあるピアノ、オーリンズとニューヨークの奏法のジャズの系譜を受け継いだドラムとの融合は、ライブ・レコーディングのように精妙であり、ジャレットのライブの名盤『At The Deer Head Inn』のように、演奏の息吹を間近に感じることが出来る。チャールズ・ロイドは、あらためてジャズの長きにわたる歴史に焦点を絞り、クラシカルからモダンに至るまですべてを吸収し、それらを華麗なサックスとバンドアンサンブルによって高い水準のプロダクションに仕上げました。スタンダードな概念の中にアヴァンギャルドな性質を交えられていますが、これこそ、この演奏家の子どものような遊び心や冒険心なのです。


ロイドは落ち着いたムードを持つR&Bに近いメロウなブルージャズから、それと対極に位置するスタイリッシュなモダンジャズの語法を習得している。彼の演奏はもちろん、ピアノ、ドラムの演奏は流れるようにスムーズで、編集的な脚色はほぼなく、生演奏のような精細感がある。ブルーノートの録音は、ロイドを中心とするレコーディングの精妙さや輝きをサポートしています。



オープニング「Defiant, Tendder Warrior」は、まごうことなきアメリカの固有のジャズのアウトプットであり、ウッドベースとドラムの演奏とユニゾンするような形で、チャールズ・ロイドは、スタッカートの演奏を中心に、枯れた渋さのある情感をもたらす。年を重ねてもなお人間的な情感を大切にする演奏家であるのは明確で、それは基本的に繊細なブレスのニュアンスで表現される。チャールズ・ロイドの演奏は普遍的であり、いかなる時代をも超越する。彼の演奏はさながら、20世紀はじめの時代にあるかと思えば、それとは正反対に2024年の私達のいる時代に在する。

 

抑制と気品を擁するサクスフォンの演奏ですが、ときに、スリリングな瞬間をもたらすこともある。二曲目の「The Lonely One」ではライブのような形でセッションを繰り広げ、ダイナミックな起伏が設けられる。しかし、刺激的なジャズの瞬間を迎えようとも、ロイドの演奏は内的な静けさをその中に内包している。そしてスタンダードなジャズの魅力を伝えようとしているのは明らかで、曲の途中にフリージャズの奏法を交え、無調やセリエリズムの領域に差し掛かろうとも、アンサンブルは聞きやすさやポピュラリティに焦点が絞られる。ジャズのライブの基本的な作法に則り、曲のセクションごとにフィーチャーされる演奏家が入れ替わる。ドラムのロールが主役になったかと思えば、ウッドベースの対旋律が主役になり、ピアノ、さらにはサックスというようにインプロヴァイゼーション(即興演奏)を元に閃きのある展開力を見せる。

 

ロイドの最新作で追求されるのは、必ずしも純粋なジャズの語法にとどまりません。「Monk's Dance」において音楽家たちは寄り道をし、プロコフィエフの現代音楽とジャズのコンポジションを融合させ、根底にオーリンズのラグタイム・ジャズの楽しげな演奏を織り交ぜる。この曲には、温故知新のニュアンスが重視され、古いものの中に新しいものを見出そうという意図が感じられる。それは、最もスタイリッシュで洗練されたピアノの演奏がこの曲をリードしている。 

 

アルバムの中で最も目を惹くのがチャールズ・ロイドの「Water Series」の続編とも言える「The Water Is Rising」です。抽象的なピアノやサックスのフレージングを元にし、ロイドは華やかさと渋さを兼ね備えた演奏へと昇華させる。この曲では、ロイドはエンリコ・ラヴァに近いトランペットの奏法を意識し、色彩的な旋律を紡ぐ。トリルによる音階の駆け上がりの演奏力には目を瞠るものがあり、演奏家が86歳であると信じるリスナーは少ないかもしれません。ロイドの演奏は、明るいエネルギーと生命力に満ち溢れ、そして安らぎや癒やしの感覚に溢れている。サックスの演奏の背後では、巧みなトリルを交えたピアノがカラフルな音響効果を及ぼす。

 

アルバムの中盤では、内的な静けさ、それと対比的な外的な熱量を持つジャズが収録されています。「Late Bloom」は北欧のノルウェージャズのトランペット奏者であるArve Henriksenの演奏に近く、木管楽器を和楽器のようなニュアンスで演奏している。ここでは、ジャズの静けさの魅力に迫る。続く「Booker's Garden」では、それとは対象的にカウント・ベイシーのようなビックバンドのごとき華やかさを兼ね備えたエネルギッシュなジャズの魅力に焦点を当てている。

 

古典的なジャズの演奏を踏襲しつつも、実験性や前衛性に目を向けることもある。「The Garden Of Lady Day」では、コントラバスのフリージャズのような冒険心のあるベースラインがきわめて刺激的です。ここにはジャズの落ち着きの対蹠地にあるスリリングな響きが追求される。この曲では、理想的なジャズの表現というのは、稀にロックやエレクトロニックよりも冒険心や前衛性が必要となる場合があることが明示されている。これらは、オーネット・コールマン、アリス・コルトレーンを始めとする伝説的なアメリカのジャズの演奏家らが、その実例、及び、お手本を華麗に示してきました。もちろんロイドもその演奏家の系譜に位置しているのです。


タイトル曲はスタンダードとアヴァンギャルドの双方の醍醐味が余すところなく凝縮されている。この曲はスタンダードなジャズからアヴァン・ジャズの変遷のようなものが示される。ロイドの演奏には、したたな冒険心があり、テナー・サックスの演奏をトランペットに近いニュアンスに近づけ、演奏における革新性を追求しています。また、セリエリズムに近い無調の遊びの部分も設け、ピアノ、ベース、ドラムのアンサンブルにスリリングな響きを作り上げています。微細なトリルをピアノの即興演奏がどのような一体感を生み出すのかに注目してみましょう。

 

ブルーノートからのリリースではありながら、マンフレート・アイヒャーが好むような上品さと洗練性を重視した楽曲も収録されています。「Sky Valley, Spirit Of The Forest」は、Stefano Bollani、Tomasz Stanko Quintetのような都会的なジャズ、いわば、アーバン・ジャズを意識しつつ、その流れの中でフリージャズに近い前衛性へとセッションを通じて移行していく。しかし、スリリング性はつかの間、曲の終盤では、アルバムの副次的なテーマである内的な静けさに導かれる。ここにはジャズの刺激性、それとは対極に位置する内的な落ち着きや深みがウッドベースやピアノによって表現される。タイトルに暗示されているように、外側の自然の風景と、それに接する時の内側の感情が一致していく時の段階的な変遷のようなものが描かれています。

 

 

本作の後半では、神妙とも言うべきモダン・ジャズの領域に差し掛かる。ウッドベースの主旋律が渋い響きをなす「Balm In Gilead」、ロイドのテナー・サックスをフィーチャーした「Lift Every Voice and Sing」では歌をうたうかのように華麗なフレージングが披露される。アルバムの音楽は、以後、さらに深みを増し、「When The Sun Comes Up, Darkness Is Gone」でのミュートのサックスとウッドベース、ピアノの演奏の絶妙な兼ね合いは、マイルスが考案したモード奏法の先にある「ポスト・モード」とも称すべきジャズの奏法の前衛性を垣間見ることが出来ます。

 

続く「Cape to Clairo」ではセッションの醍醐味の焦点を絞り、傑出したジャズ演奏家のリアルなカンバセーションを楽しむことが出来る。このアルバムは、三部作に取り組んだジャズマン、チャールズ・ロイドの変わらぬクリエイティヴィティーの高さを象徴づけるにとどまらず、ジャズの演奏家として二十代のような若い感性を擁している。これはほとんど驚異的なことです。

 

また、本作にはジャズにおける物語のような作意もわずかに感じられる。クローズ「Defiant, Reprise; Homeward Dove」は、ピアノとウッドベースを中心にジャズの原点に返るような趣がある。この曲は、ロイドの新しい代名詞となるようなナンバーと言っても過言ではないかもしれません。



95/100

 


Charles Lloyd 『The Sky Will Still Be There Tomorrow』の日本盤はユニバーサルミュージックから発売中。公式サイトはこちら。 

 


「Defiant, Tendder Warrior」

 zakè 『B⁴+3 』

 

 

 

Label: zakè drone recordings

Release: 2024/03/08

 

 

【Review】



zakèはザック・フリゼル(Zack Frizzell)のアンビエント/ドローンの別名義であり、アメリカでは「Past Inside the Present」のレーベル・ボスでもある。反復と質感のあるアンビエントドローンが彼のオーディオ・アウトプットの真髄である。ザック・フリゼルは、Pillarsのオリジナル・ドラマーとして活動し、以前、dunk!records / A Thousand Armsから「Cavum」をリリースし、高評価を得た。dunk!recordsからの初のソロ・リリースは、スロー・ダンシング・ソサエティとのコラボ・リミックス・トラックで、ピラーズの「Cavum Reimaged」2xLPに収録されている。


『B⁴+3 』は「煉獄状態におかれたまま」の状態を表しており、未完成のものをそのままにしておく。それはつまり、アルバムの音楽の向こう側に、余白や続きがあることを示唆している。zakèのアルバムでのアプローチは一貫している。グリッチノイズ、ヒスノイズ、ホワイトノイズをアンビエントやダウンテンポの中に散りばめ、精妙な感覚をドローン音楽の形で表現する。アウトプットの手法は、ニューヨークのラファエル・アントン・イリサリに近いものがある。

 

しかし、イリサリの最新リマスター作『Midnight Colours』がディストピアへの道筋を示したものであるとするなら、ザックのアンビエントはその先に続くユートピアへの道筋を暗示する。しかし、「人々が天国と地獄の中間にある煉獄に置かれたまま」と仮定するなら、このアンビエント作品は先見の明があり、理にかなったものだと言える。

 

どこまでも永続的であり、まったく終わることのない抽象音楽がリスナーの前に用意されている。多くのポピュラーやロックとは異なり、ザックの音楽は聞き手に1つの解釈を強制することはない。何かを強いるということは受け手の心を締め上げる行為である。


 

彼は、無限の選択肢を用意し、それを受け手に投げかけ、恣意的にその中にある解答を受け手に選ばせる。それが良いものなのか、悪いものなのかを決めるのは、受け手次第なのであり、無数の解答が用意されている。ある意味では、それは「受け手側が作り出した影の反映」とも言うべきものである。さながらブライアン・イーノが開発した「オブリーク・ストラテジーズ」や、ブラック・ボックスの中にあるカードを引くかのようでもあり、受け手次第により、音楽の意義も異なるものに変わる。zakèが差し出した7つの無色透明のカードに書かれている音楽的言語の意味がナンセンスと取るのか、それとも、有意義であるかを選ぶのは受け手次第である。音楽そのものが、受け手側の解釈や価値観、あるいは、意識がどの階層にあるのかによって、理解度や解釈が異なるのと同じように、zakèの音楽は1つの価値観にとどまることはない。

 

ただ、アルバムの中に流れる音楽が、何らかの意図に欠けたもので、設計もなしにランダムに制作されたと思うのは早計となるかもしれない。本作に流れるアンビエントは無限の時間の中に存在するように思える一方、地形的な起伏が設けられ、その中に複数のアクセントが置かれている。山岳地帯の精妙な空気感を反映したようなドローン・アンビエントの抽象的な音像の中には、デジタルの信号を刻した効果音(SE)が導入され、それが曲の中にアクセントをもたらしている。

 

アルバムの収録曲は、「記号論のアンビエント」として制作されており、仮に、1から7曲までを別のアルファベットや数字、ローマ数字に置き換えることも出来るかもしれない。少なくとも、アルバムの収録曲ごとに調性と雰囲気を変え、制作者が意図する「煉獄におかれたままであるということ」を段階的に表現しているということが、リスニングを通して伝わってくる。それは記号論的に言えば、AーGまでの7つの表層的な音楽が別の意図を持ち、異なる性質を持ち、そして、煉獄の中にある異なる段階を表しているとも解釈することが出来る。例えば「A」という階層に親近感を覚える受け手もいるだろうし、最後の「G」という階層に心地よいものを覚える受け手もいる。いわば受け手のアンテナの周波数の差により音の解釈が変わるのだ。

 

因数分解のような不可解な数式をタイトルに冠した曲は、例えば、他にもウィリアム・バシンスキーの『On Time Out Of Time(2019)』のクローズに収録されている「4(E+D)4(ER=EPR)」がある。また、数学的な周波数を元にグリッチを発生させるアーティストとして、パリを拠点に活動している池田亮司が挙げられる。これらのアーティストは、前の時代の黄金比や純正律といった音楽の音階の基礎を作り出した方法論に対し、新しい意義を与えようというグループである。zakèに関しても、同じように7つの曲の中で異なる調性の階層を設けている。良く聴くと、アンビエント・ドローンのアウトプット方式も若干異なることが理解出来るはずである。それは、グリッチノイズやホワイトノイズの出力方式、あるいは王道の抽象的なサウンドスケープを呼び覚ますためのシークエンス、パンフルートのプリセットをアレンジしたパッドの音色、そしてシンセの波形を操作し、パイプオルガンのような音色を作り、それらをスウェーデンのアーティストのように保続音として伸ばすというもの。このアルバムに収録された七曲それぞれに、ザック・フリゼルは異なる意匠を凝らし、バリエーションをもたらしている。


 

78/100

 

 


 Kim Gordon 『The Collective』



 

Label: Matador

Release: 2023/03/08


Listen/ Stream



【Review】

 


ニューヨークのアンダーグランドシーンの大御所のジョン・ケールがソロ・アルバムをリリースしたとなれば、手をこまねいているわけにはいかなかったのだろう。ノイズロックとアートロックを融合させた『No Home Record』に続く『The Collective』は、ボーカリストーーキム・ゴードンがいまだ芸術的な感性を失わず、先鋭的なアヴァンギャルド性とアイデンティティを内側に秘めていることを明らかにする。

 

キム・ゴードンはこのアルバムを通して、ヤー・ヤー・ヤーズ(YYY’s)、リル・ヨッティ(Lil Yachty)、Charli XCX,イヴ・トゥモア(Yves Tumor)といった現代のポピュラーシーンに一家言を持つバンドやアーティストとコラボレーションを行い、同じように、一家言を持つレコードを制作したということになる。


アルバムの冒頭を飾る「BYE BYE」ではNYドリルが炸裂し、不敵なスポークンワードが披露される。ノイズロックとオルトロックを通過した、いかにもこのアーティストらしいナンバーは、ソニック・ユース時代からの定番のノイズ・ギターによって絡め取られる。そんな中、縦横無尽に張り巡らされた蜘蛛の巣を縫うかのように、スタイリッシュかつパンチ力のあるボーカルを披露する。ロックシンガー、そしてラッパーでもあるキム・ゴードンは、それらの合間のアンビバレントな領域を探ろうと試みる。


このレコードは率直に言えば、旧来のロックという文脈からしばし離れ、ハイパーポップの領域へと歩みを進めたことを示唆している。アプローチが多少遊び心に満ちているとは言え、ゴードンのボーカルは従来と変わらず緊張感があり、リスニングに際して程よいストレスを生じさせる。それはつまり、このレコードがヘヴィネスの切り口から制作されていることを示すのである。


二曲目の「The Candy House」では、NYドリルとトラップをかけあわせた前衛的なスタイルを介し、JPEGMAFIA、Billy Woods、Armand Hammerといった米国のアブストラクトヒップホップシーンの最前線にいる、いかにもやばげなラッパーの感性を吸収しようとする。


''甦るロックとラップの吸血鬼''ーーそんな呼称がふさわしいかは定かではないが、実際のところ、ニューヨークのアンダーグランドの気風を吸い込んだロックとラップの融合は、先鋭的な気風を持ち合わせている。

 

最初期のソニック・ユースの象徴的なサウンドと言えばメタルに近い硬質なノイズギターが挙げられるが、サーストン・ムーアが不在だとしても、3曲目「I Don't Miss A Mind」では文字通り、それらの原初的なノイズ性(アーティストが持つスピリット)を未だに失っていないことを示唆している。


インダストリアル・ロック風の苛烈なノイズに支えられ、NYドリルの先鋭的なリズムを交え、”ノイズ・ラップ”とも称すべきスタイルにより、JPEGMAFIAのアブストラクト・ヒップホップに肉薄していこうとする。


トラックに乗せられるライオットガールを基調としたアジテーションに富むゴードンのボーカル。そこに加えられるわずかなメロディー、セント・ヴィンセントのシンセポップの風味。これらは、この数年間、ゴードンが現代のミュージックシーンに無関心ではなかったことを象徴付けている。そして、改めてアーティストが知る最もクールな手法でそれらを体現させている。

 

ラップとノイズの融合性は、続く「I'm A Man」により、最高潮に達する。アーティストは、現代的なノンバイナリーの感覚や、トランスジェンダーの感覚を聡く捉えながら、まるで秘められた内的な男性性、獣的な感性を外側に開放するかのように、ワイルドで迫力のあるボーカルを披露する。

 

シネマティックなサウンドはビートの実験性と結びつくこともある。「Tropies」では、ハリウッド映画のアクションシーン等で使用されるオーケストラ・ヒットをラップのドリルから解釈し、前衛的なリズムを生み出す。そして、ゴードンは、ハリウッドスターやムービースターに与えられる栄誉に対し、若干のシニカルな眼差しを向ける。


それはゴードンによる「横目の疑いの眼差し」とも呼ぶべきものである。そのトロフィーは墓場に持っていくほど価値のあるものなのか、というような現代的な虚栄に対する内在的な指摘は、ライオット・ガールの範疇にあるボーカルという表現を以て昇華される。そして、そこには確かに華美なアワードやレセプションに見いだせる虚偽への皮肉や揶揄が含まれている。これが奇妙な共感やカタルシスを呼び起こす。

 

キム・ゴードンは根幹となる音楽観こそ持つけれど、決して決め打ちはしない。アルバムの中に見えるノイズロック、ヒップホップという2つの両極的な性質は、常にせめぎ合い、収録曲ごとにどちら側に傾くのか全然分からない。いわば、曲の再生をしてみないと、どちらの方向にかたむくのか分からないという「シュレディンガーの猫」のような同時性とパラレルの面白みがある。


続く「I’m A Dark Inside」では、ブレイクビーツの手法を選び、ノイズと融合させる。音が次の瞬間に飛ぶようなトリッピーな感覚を活かし、Yves Tumorのデビューアルバムに近い音楽の方向性を選んでいる。それに「No New York」の頃の前衛性とサイケデリアの要素を加えているが、それは最終的に「ハイパーポップのノイズ性」というフィルターを通してアウトプットされる。


また、方法論的なディレクションが全面的なレコードの印象を作るが、感覚的で抽象的な音楽も収録される。「Pychedelic Orgasm」ではアーティストの中に棲まう2つの人格を対比させながら、ソニック・ユース時代から培われたスポークンワードに近いクールなボーカルで表現しようとする。


音楽表現という範疇に収まらず、ボーカルアート、パフォーミングアートという切り口からゴードンは語りを解釈し、2つの性質を持ち合わせたボーカルを対角線上に交差させる。そして、その2つの別の性質を持つエネルギーを掛け合わせ、中心点に別の異なるエネルギーを生じさせる。これは平均的な歌手ではなしえない神業で、新しいボーカル・パフォーマンスの手法が示されたと見て良い。ここにも音楽的な蓄積を重ねてきたゴードンの真骨頂が垣間見える。

 

ヒップホップのドリルという比較的オーバーグラウンドに位置する音楽スタイルを選ぼうとも、その表現性がNYのアンダーグラウンドの系譜の属するのは、ゴードンが平凡なミュージシャンでないことの証である。

 

「Tree House」では、アーティストが知りうるかぎりのアヴァン・ロックの手法が示されている。ガレージロック、「No New York」のノーウェイヴ、ドイツのインダストリアルロックがカオスに混ざり合いながら、アナログレコードの向こうから流れてくるかのようだ。レコードの回転数を変えるかのように、ローファイな質感を持つこともある。この曲には、10年どころか、いや、それ以上の時間の流れていて、30年、40年のアヴァン・ロックの音楽が追憶の形式をとり、かすかに立ち上ってくる。


終盤でも、ゴードンがソニック・ユースやソロ活動を通して表現しようとしてきたことの集大成が構築されている。そこには一部の隙もなければ、遠慮会釈もない。「Shelf Warmer」では、ロンドンのドリルに近い手法が示される。しかし、オーバーグラウンドの音楽に属するとはいえども、商業主義やコマーシャリズムに一切媚びることなく、絶妙なラインを探っている。続く「The Believer」は、インダストリアル・ノイズに精妙な感覚を織り交ぜたワイアードなサウンドである。

 

クローズでは、Sleaford Modsの英国のポストパンク(当局が宣伝するものとは異なる)を吸収して、ゴツゴツとした硬派な感覚のあるアプローチを図る。そこに、盟友のYYY'sのサイケ・ガレージの色合いを添えていることは言うまでもない。『The Collective』はロサンゼルスでレコーディングされたアルバム。にもかかわらず、驚くほどニューヨークの香りが漂う作品なのである。



80/100

 


Best Track‐ 「Dream Dollar」