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 Yaya Bey 『do it afraid』 


 

Label: drink sum wtr

Release: 2025年6月20日

 

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Review

 

2024年、ボリューミーなアルバム『Ten Folds』をBig Dadaからリリースしたのに続き、NY/クイーンズの最高のソウルシンガー、ヤヤ・ベイがニューアルバム『do it afraid』をリリースした。

 

『Ten Folds』は夜のニューヨークを闊歩するようなアーバンな雰囲気に満ちていた。続く今作は、作風がマイルドになったにせよ、ヤヤ・ベイらしさ満載のアルバム。2年連続のリリースとなったが、18曲というかなりの大作である。 ヒップホップファンは要チェックの作品だ。

 

ご存知の通り、ヤヤ・ベイは、ヒップホップとR&Bの中間にある音楽的なアプローチで知られている。『do it afraind』にも、それは明瞭に引き継がれている。ただ、全般的な音楽性は、ソフトで聴きやすいネオソウルのトラックがおおい。元々ソウルに傾倒した歌手であることを考え合わせたとしても、近年のヒップホップはよりマイルドでソフトな音楽性が流行している。それに加えて、ヤヤ・ベイがアーティスト的なキャラクターとして打ち出すラグジュアリーなイメージが音楽を通して体現されている。しかし、安らぎと癒やしというヒップホップの意外な局面を刻印した今作には、表向きの印象とは裏腹にシリアスなテーマが内在しているという。

 

「苦しみは私たちすべてに約束されている。その二面性の中に平和を見出さなければならない」と語るヤヤ・ベイ。ユーモア、愛、人間の動きやつながりの力といった人生の喜びに対し、恐れながらも献身的に取り組んでいる。「多くの人が私について信じたいと思っていることに反して、私のトラウマではなく、愛すること、喜びを感じること......、自由になることへの願望なのです。この人生において、痛みと喪失は約束されている。避けられないことに直面してダンスするのには、本当の勇気が必要だ。現在を味わい、美しくする。私は、この道の達人の出身なのだ。見物人は私たちを見世物にしたがる。私たちのニュアンスを奪う。でも本当は、私たちは勇敢で、たくましく、喜びにあふれている。私は私たちのためにこのアルバムを作った」

 

ヤヤ・ベイは、これまでミュージシャンという職業、それにまつわる倫理観について誰よりも考えてきた。このアルバムは端的に言えば、見世物になることを忌避し、本格派のソウルシンガーになる過程を描いている。「1-wake up bitch」はマイルドなヒップホップトラックに乗せて世の中の女性に対して、たくましい精神を持つようにと勇ましく鼓舞し啓発するかのようだ。それがリラックスしたリズム/ビートに乗せてラップが乗せられる。この巧みなリリック裁きのトラックを聴けば、女性版のケンドリックはベイであることが理解していただけるだろう。 とりわけコーラスに力が入っていて、独特なピッチのゆらめきは幻想的なソウルの世界へと誘う。


ベイの作曲はいつも独特な雰囲気がある。古典的なソウルをベースに、それらを現代のニューヨークのフィールドに持ち込む力がある。つまり、聞き手を別の空間に誘うパワーがあるわけだ。 「2- end of the world」は、移民的な感情が含まれているのだろうか。しかし、対象的に、曲はダブステップのリズムを生かしたアーバンなR&Bである。この曲では、ボーカルや背景のシンセのシークエンスのハーモニーが重要視され、コラボレーターのハミングやエレクトリック・ピアノ/エレクトーンと合致している。この曲は、往年のソウルミュージックの名曲にも劣らない。続く「3-real years unite」も素晴らしいトラックで、ラップとニュアンスの中間にあるメロディアスなボーカルが複合的に組み合わされて、美しいコーラスワークを作り出している。

 

ヒップホップトラックとしては「4-cindy rella」が抜きん出ているように思える。 メロウなリングモジュラー/マレットシンセの音色が心地よい空気感を生み出し、その中でベイは生命力に溢れたラップを披露する。リズムの構成の中で、ラップやニュアンスのハーモニーが形成される。

 

ヤヤ・ベイの場合、ダイアナ・ロスのような古典的なR&Bの美しい音階やハーモニーを活かしているから、淡々としたラップそのものが生きてくる。この曲の場合はやはり、マレットの生み出す陶酔的な響きが「dejavu」のような効果的なリリックと組み合わされ、良い楽曲が作り出される。それらをベイらしい曲としているのが、ファッショナブルな感覚であり、垢抜けたようなハイセンスな感覚である。今回のアルバムにおいて、ヤヤ・ベイはミュージシャンとして新しいチャレンジを行っている。それがジャズ、R&B、ヒップホップのクロスオーバーである。「5-raisins」は、彼女のブラックカルチャーへの敬意に満ち、女性的なインテリジェンスが盛り込まれている。改めてブラック・ミュージックの系譜をおさらいするのに最適なトラックだ。

 

 

「raisins」 

 

 

カリブ系の音楽が盛り込まれることもある。レゲエトラック「6-spin cycle」はこのジャンルが古びたわけではなく、現在の音楽としても効力を持つことを伺わせる。裏拍を重視したカッティングギターが心地よいリズムを生み出し、ベイのソウルフルな歌唱と絶妙に混ざり合う。レゲエの二拍目と四拍目を強調するドラムのスネアがこれらの旋律的な枠組みを強調付けている。

 

結局、ヤヤ・ベイのソングライティングは、ボーカルだけではなく、往年のファンクグループのように精細に作り込まれ、また、プリンスのような華やかな響きがあるため、音楽として高い水準に位置する。もちろん、ベイの歌も人を酔わせる奇妙な魔力がある。こういった中で異色の楽曲がある。「7-dream girl」は1980年代のディスコソウルに依拠しており、マイケル・ジャクソン、ホイットニー・ヒューストン、ダイアナ・ロス、チャカ・カーン、クインシー・ジョーンズといった黄金時代を彷彿とさせる。シンセ・ポップとR&Bの融合で、''プロデュース的なサウンド''とも専門家が指摘することがある。これらはR&Bの華やかな魅力が味わえるはず。

 

アルバムは決してシリアスになりすぎることはない。ミュージシャンとしての遊び心も満載である。「8-merlot and grigolo」はトロピカルな音楽で、彼女のアフロカリビアンのルーツを伺わせる。デモトラックのようにラフな質感のレコーディングだが、ミュージシャンのユニークな一面を垣間見れる。その後、ジャズとヒップホップのクロスオーバーが続く。「9-beakthrough」は完全には洗練されていないものの、ラグタイムジャズのリズムとヒップホップのイディオムを結びつけ、ブラックミュージックの最新の形式を示唆している。「10- a surrender」はテクノとネオソウルを融合したトラックで、やはりこのシンガーらしいファッショナブルでスタイリッシュな感覚に満ちている。その後、ヤヤ・ベイの多趣味な音楽性が反映され、無限に音楽性が敷衍していく。以降は、ポピュラーで聴きやすいダンスミュージックが続き、 「11-in a circle」、「12-aye noche」はアグレッシヴなダンスミュージックがお好きなリスナーにおすすめしたい。「13-not for real, wtf?」はケンドリックの「Mother I Sober」を彷彿とさせる。 

 

モータウン・サウンド(ノーザン・ソウル)か、もしくはサザン・ソウルなのか。60~70年代のオーティス・レディングのようなソウルミュージックもある。これらの拳の効いた古典的なソウルミュージックがヤヤ・ベイにとって非常に大きな存在であることは、「14-blicky」、「15-ask the question」を聴けば明らかだろう。前者は、言葉が過剰になりすぎた印象もあるが、後者はファンクとして秀逸だ。リズミカルなベースとギターのカッティングが心地よい空気感を作り出している。これらは、1970年代ごろのファンクバンドの音楽的なスタイルを踏襲している。


その後、少しだけ散漫な音楽性に陥っているが、やはり音楽的なセンスは抜群。「16-bella noches pt.1」はディープ・ハウスに位置づけられるダンストラックで、ビヨンセ・ライクの楽曲である。そして「17-a tiny thing that's mine」はデモトラック風のバラードソングだが、その歌唱には息を巻くものがある。18曲ということで、3曲ほどすっきりカットしてもよかったかもしれない。


アウトロ「18-choice」ではメロウなソウルバラードでこのアルバムを聴いたファンに報いている。2000年以前のヒップホップのようなトリッピーな楽曲の展開は、二つの曲をジャンプするようなおもしろさ。2025年のソウルミュージックのアルバムの中では随一の出来ではないだろうか。

 

 

 

85/100

 

 

 

 

「dream girl」 




 S.G. Goodman  『Playing By The Signs』

 

Label: Slough Water

Release: 2025年6月20日


 Listen/ Stream

 


Review


もちろん、アルバムには作品に付随するバックストーリーが必須というわけではない。 ところが、ケンタッキーのシンガーソングライター、S.G. Goodmanのニューアルバムの場合は例外だろう。アメリカーナ、フォーク、ロックの合間にある『Playing By The Sign』の収録曲は、たしかに歌手の人生が緩やかに流れ、そして音楽の他にも何か面白い話を聞いてみたいという気になる。

 

愛、喪失、和解、古代の慣習にインスパイアされた曲で構成されている。批評家からも高く評価され、受賞歴もあるアーティストの唯一無二の歌声と、傷つきやすいフォーク・ミュージックとパンチの効いたロックンロールを並列させる11曲は、キメの効いたギター、幽玄な雰囲気、彼女のDIY精神に満ちている。グッドマンは、前進する唯一の道は共にあること、そして人類は自然界への依存と責任を考慮しなければならないことをタイムリーに思い出させてくれる。


2023年の早朝、グッドマンは亡き友人であるマイク・ハーモンと彼の妻テレーズに、次のアルバムは 「サインによる植え付け 」をコンセプトにしたいと話した。彼女は南部の田舎で過ごした子供時代から、庭植えや乳離れ、散髪は月の周期に合わせるのがベストだという一般的なことを思い出していた。彼女の周りに渦巻いている、ハイテクに取り憑かれ、利潤を追求するマニアとは正反対の概念である。

 

グッドマンは、サインによる植え付けに関連するテーマを探求することで、自分自身や他の人々がこの耳障りな断絶を和解させる手助けをし、そしてまた、彼女の姪や新婚の子供たちに植え付けの習慣の物語を伝えたいと願っていた。しかしながら、『Planting by the Signs』の執筆やレコーディング・スタジオへの道のりは簡単なものではなかったという。2023年には愛犬のハワードが亡くなり、父親代わりで師でもあったハーモンもまた悲劇的な死を遂げた。マイクはグッドマンのデビューアルバム「Old Time Feeling」に収録されている「Red Bird Morning」の中で言及されている。彼女のバンドは、彼の家の裏にあるクオンセット小屋で練習をつづけた。

 

S.G.がツアーをしている間、彼は、彼女の家をよくチェックしていた。グッドマンが旅先から彼に電話でアドバイスを求めることもよくあった。亡くなる数日前、グッドマンは雪が降っているときにバンにチェーンをつけるようにアドバイスした。バンドがツアーの途中で一度だけ演奏できるように、同じバンをボストンからシカゴまで運転したこともあった。彼はグッドマンのロックであり、彼自身がロックスターだった。


ハーモンの死をきっかけにして、グッドマンはほどなく長年のコラボレーターでギタリストのマシュー・ローワンと和解している。ローワンとグッドマンは、カザフスタン州マレーのインディー・ロック・シーンで大学在学中の20代前半に出会った。やがて一緒に音楽を演奏するようになった。彼の特異なギター・ワークは、彼女のプロダクションに欠かせないものとなった。

 

ローワンは、彼女の最初の2枚のレコードのほとんどのギター・パートを書き、2人のクリエイティブな関係は10年近くに及んだ。しかし、その生活は、すべての人のためのものではなく、あることがきっかけで、ローワンは離れることにした。ハーモンが亡くなった後、マットはグッドマンが最初に電話をした人のひとりだった。そこから二人は関係を修復しはじめ、やがて彼女が新しいアルバムの制作に取りかかると、S.G.グッドマンはローワンに共同プロデューサーを依頼した。このアルバムは、二人の和解なしには現在の形では存在しなかったかもしれない。

 

アルバムは、人間関係の喪失、その後に訪れた関係の修復というように、起伏のある人生観が反映される。 「Satellite」を始め、アメリカーナとロックの中間にあるサウンドが目立つ。そこに適度に力の抜けたボーカルが入る。音楽的なパートナーとも言えるローワンの程よくクランチなギター、そして休符を生かしたドラム、その合間を縫うように、どことなく幻想的なボーカルが乗せられる。グッドマンのボーカルは甘い雰囲気に浸されていて、楽器とボーカルのハーモニーがアメリカーナ特有の幻惑的な雰囲気を作り出す。寂れたガソリンスタンド、ガレージ、ハイウェイの光。そういった情景的な雰囲気をかたどった良質なインディーロックソングだ。これらはワクサハッチー、レンダーマン、ヴァン・エッテンに類するようなクラシックとモダンを巧みに行き来する独特なインディーロックソングのスタイルに落とし込まれていく。バンガー風の曲はないので、淡々としているように思えるかもしれない。が、渋く良い曲が多い。「I Can See The Devil」のようなブルージーな味わいを持つロックソングはその好例となろう。

 

また、このアルバムにはシンセサイザー等で作り出されるパーカッシヴなSEがロックソングの背景にシークエンスとして導入される。「Snapping Turtle」は同じように、アメリカーナとロックの融合であるが、背景の金属的なシークエンスがどことなく幻想的な雰囲気を想起させる。アルペジオを中心とする繊細なギターライン、それからムードたっぷりに歌い上げるグッドマンの音楽的な相性は抜群で、録音に参加したメンバーの人間関係の奥深さを感じさせる。そこには音によるコミュニケーション、信頼関係の構築という音楽を超えた主題も見つかる。これらが音楽的なヒューマンドラマのように展開され、音楽としても調和的なハーモニーを生み出す。この瞬間、死や別離といった悲しいテーマから始まるこのアルバムは、収録曲を追うごとに、テーマが変化していき、人間の根本的な信頼とは何かという奥深い主題が浮かび上がる。そこには音楽以上の何かが偏在し、目立たぬ形で、そういったヒントが散在しているのである。

 

グッドマンのフォークロックソングは、ほとんど昂ずるところがない。それはシンガーソングライターの幸福というのは、必ずしもきらびやかな脚光を浴びることに終始するだけではないという事実を伺わせる。そういった深妙な感覚をバラードタイプの曲で縁取ったのが、「Solitaire」である。エレクトリック・ギターの弾き語りによるこの曲は、悲しみや喜び、対極にある出来事を反芻するかのように切ない雰囲気を醸し出す。音楽の背景には、明らかに時間的な流れがあり、背後に遠ざかった死の悲しみに別れを告げるように叙情的なボーカルを歌い上げる。ボーカリストとしても、二つの声を使い分け、感情的な自己と冷静な自己を鋭く対比させる。こういった心に染みるようなソングライティングが本作の醍醐味だ。「I'm in Love」は、ギターとドラムを中心とするアコースティックな楽曲である。ローファイな感じに満ちているが、同じようにブルースやフォークタイプの音楽に美しい感情の結晶が見いだせる。この曲ではソングライターとしてのリリカルな才覚ーー詩情性ーーが余すところなく発揮されている。

 

ケンタッキーの山麓の暮らしを歌った本格派のカントリーソング「Nature’s Child」は、20世紀を経てカントリーソングがどのように変わったのかを知るための格好のヒントである。この曲ではスティールギターの代わりに独特なエフェクトを施したギターが幻想的な雰囲気を生み出す。ゲストボーカルのボニー・プリンス・ビリーの渋くブルージーなボーカルにも注目したい。また、このアルバムは、アメリカーナとロックというのが全般的なベースとなっているが、これらのジャンルにおけるアンビエント性も随所に配されている。それはシンセかギターで生成した長く抽象的なシークエンスが原曲の背後を流れ、それらがメタ的な音楽構造を作り出している。これらのアンビエント・フォークともいうべき音楽性は、Four Tetとのコラボで知られるウィリアム・テイラーも先んじて試している。これから試す音楽家が増えそうな予感がある。

 

アルバムでは何らかの明確な答えは出していないように思える。そこにあるのは体験と回想。間違っているのか、正しいのか、良いのか、悪いのか。そういった二元論から身を翻し、おのが生きる日々を純粋な眼差しで受け止めることの大切さを教えてくれる。 グッドマンは物事を歪めず、それをシンプルに表現しているだけだ。この世に氾濫する価値という概念など本当はあってないようなものなのかもしれない。そして、そういった中で見出される細やかな仕合わせこそシンガーソングライターの僥倖であることが伺える。また、そういった形のミュージシャンとしての静かな幸福がどこかに存在するということが分かる。本当の幸福がわかるのだ。

 

本作の後半では、ぼんやりした淡い印象を持つフォークミュージックが緩やかに続く。それらの穏やかで幻想的な心地よいフォークソングに静かに心を委ねてみれば、このアルバムの本質や素晴らしさに気がつくだろう。そういった中、山小屋で録音したような乾いた質感を持つ音響を生かした「Playing By The Signs」は、時代を超えた良質なフォークソングである。ここに垣間見える人間関係の奥深さ、そして、それらを超えた魂の神秘性。これらが音楽の底に上手く落とし込まれているように思える。この曲のデュエットは圧巻であり、聞き逃すことが出来ない。アルバムのクローズは最初の曲「Satellite」と呼応するような幻想的なアメリカーナロックソングである。この曲ではレゲエ風のリズムを駆使し、ボブ・マーリー風のフォーク曲として楽しめる。

 

 

 

85/100

 

 

 

 

Best Track- 「Heaven Song」

University 『McCartney, It'll Be OK』


 

Label: Transgressive

Release: 2025年6月20日

 

Review

 

英/クルーを拠点に活動する四人組パンクバンド、Universityの新作 『McCartney, It's OK』は彼らのデビュー・アルバムである。デビュー・アルバムということで、無謀でハチャメチャで大胆なパンクソングのアプローチが図られている。彼らのなんでも出来るという感覚は、このデビュー作の最大の武器だろう。それらが、苛烈であるが、無限のエナジーに縁取られている。エキサイティングで、アグレッシヴ、そして先の読めないハードコアタイプのパンクアルバムだ。

 

 Universityのサウンドは、イギリスのバンドでありながら、アメリカのミッドウェストのサウンドに触発されている。このデビュー作において、四人組の志すところは、ポスト・ハードコア時代のエモであり、それはボーカリストのジョエル・スミスも明らかにしている。 彼らのサウンドは、American Footballの前身で、キンセラ兄弟を擁するCap N' Jazzのようなアンダーグランドのエモに縁取られているが、一般的なエモよりもヘヴィーな重力があることはおわかりだろう。

 

力強く打数の多いドラム、音を過剰なほど詰め込むギター、それに付随するベースが作り出す混沌として幻惑的なサウンド。その向こうにインディーズらしいラフなボーカルが揺らめく。それらはポストエモがイギリスの新しいインディーズミュージックの重要なイディオムであることを伺わせる。

 

このアルバムは、青いエナジーを凝縮させ、無謀なほどに邁進する次世代の四人組の姿を、スナップショットのような形で収めている。それは例えば、シカゴのライフガードのように洗練されたものとは言い難いが、彼らと同じように、人生の瞬間的な輝きを、ロックソングの中に凝縮している。全体的な曲想は重要ではなく、瞬間的に現れる感覚的な良いエナジーを汲み取れるかが、今作の最大の聞き所となるかもしれない。ラウドであることを恐れず、叫ぶことを恐れない。この精神は、彼らが見てくれの音楽を志すのではなく、心底から湧き出る音楽を率直に表現しようとしていることを伺わせる。コーラスも練習不足を感じさせるが、その荒削りなボーカルがラフな魅力を作り出している。不協和音とノイズを徹底的に全面に押し出したサウンドは、たしかにノイジーであるが、その向こうに、うっすらとセンシティブなエモが鳴り渡る。

 

ダイヤルアップの音から始まり、カオティック・ハードコアの獰猛性へと突き進む「Massive Twenty One Pilots Tattoo」で、彼らは挨拶代わりのジャブを突き出す。そして、ストップ・アンド・ゴーを駆使した嵐のように吹き荒れるノイジーな轟音サウンドの中、無謀とも言えるジョエル・スミスのボーカルが、わずかにエモーショナルな感覚を滲ませる。ダイナミックなサウンドであり、大型のライブ会場よりも、スタジオライブや小さな会場で少なからず熱狂の渦を生み出しそうな気配がある。そういったスタジオレベルでのコミュニティを意識したサウンドがアルバムの代名詞となっている。

 

一方、バンドアンサンブルの一体感を表した「Curwen」に少なからず期待値を見いだせる。轟音サウンドの後、エモ的な静かで奥行きのあるサウンドへ移行し、さらに変拍子を駆使して、変幻自在な音楽性へと移行していく。その後、再び疾走感のあるポスト・パンク・サウンドへと舞い戻る。これらの獰猛なサウンドは、Bad Brainsのような最初期のDCハードコアを彷彿とさせる。

 

「Gorilla Panic」は、 即興的なノイズサウンドの後、米国のミッドウェスト・エモに移行する。前のめりな勢いで、ドラムに先んじて他のパートの楽器が前につんのめるように演奏しているが、これらの内側から滲み出る初期衝動こそパンクロックの本意とも言えるだろう。この曲がゴリラ・ビスケッツに因んだものなのかは不明だ。ただ、スミスのボーカルは背景のアンサンブルのダイナミクスに引けを取らず、異質なほど迫力がある。3分半以降のエモーショナル・ハードコアの目眩く展開には感嘆すべきものが込められている。これらは、ユニバーシティの音楽が、シカゴのCap N' Jazzのエモの原点に接近した瞬間でもある。(* エモの歴代名盤セレクションはこちら)

 

ユニバーシティは、パンクにとどまらず、メタルコアに傾倒する場合もあるようだ。「Hustler's Metamorphosis」は脳天をつんざくようなハードなサウンドだ。2000年以降のニュースクールハードコアのメタルを踏襲し、重力を感じさせるヘヴィーなサウンドで縁取っている。ユニバーシティのサウンドは縦ノリのリズムだけが特色ではない。2分以降に現れる横ノリのリズムは、モッシュピットを引き起こし、熱狂を呼び起こしそうだ。内的で鋭いエナジーを持つパンクサウンドはメインストリームに飽食しきったリスナーに撃鉄を食らわすかのよう。これらのカオティック・ハードコアサウンドには稀に、CANのような実験性を見いだせることもある。

 

さて、ポストエモの楽曲「GTA Online」は、スタジオのジャムをそのまま楽曲にパッケージした感じ。作品として作り込みすぎず、一発録りのラフなデモソングのような感じでそのまま録音するというのが、デビューアルバムの主な指針であることを伺わせる。それはまた、商業的な指標とは異なる音楽の悦楽をはっきりと思い出させてくれる。これらの荒削りな音楽は、バンドセッションとして深い領域に達する場合がある。


この曲の2分以降の展開には、即興的な演奏からしか引き出されない偶発的なサウンドが見いだせる。2分後半以降、ジョエル・スミスのボーカルは絶叫に近くなるが、感覚的には温和な空気感が漂う。このプロフェッショナリティとは対極にあるアマチュアリズムが現時点のバンドの魅力だ。同じように、「Diamond Song」にも激情ハードコアの魅力が3倍増で濃縮されている。

  

終盤を飾る「History Of Iron Maiden 1-2」はどうだろう。未完成のデモをそのまま収録したような感じだ。これらの2曲にはバンドの趣味が満載となっており、それらがノイズをベースに構築される。エモ、ハードコア、ゲームのチップチューン、即興的なアートパンク……。このアルバムでは何でもありで、タブーのようなものは存在しない。先の見えない暗闇の中、音楽でしかなしえない禁忌を探る。彼らのサウンドには、音楽の無限性のようなものが潜在的に眠っている。

 

 

 

76/100

 

 

 

Best Track - 「Gorilla Panic」




*初掲載時にタイトルに誤りがありました。訂正致します。


 Phoebe Rings 『Aseurai』

 

Label: Carpark(日本国内ではP-Vineより発売)

Release: 2025年6月6日

 

 

Review

 

フィービー・リングスは2019年ニュージーランド/オークランドで活動を開始した。当初はジャズスクール出身のリード・シンガー兼キーボーディストのチェ・クリスタルのソロプロジェクトとしてスタートした。現在はサイモン・カヴァナー-ヴィンセント(ギター)、ベン・ロック(ベース)、アレックス・フリーア(ドラム)を加えた4人編成のポップバンドとして活動している。


フィービーリングスのデビューアルバムは、西海岸のソフィスティポップに呼応するようなサウンドで、AOR、ジャズ/ボサノヴァが盛り込まれている。これらにレーベルの紹介の通り、ドリームポップの幻想的な感覚が掛け合わされ、聴きやすく軽やかなポピュラーワールドが構築される。

 

例えば、ソフィスティポップというと、マグダレナ・ベイのようなサウンドを思い浮かべる人もいるかもしれませんが、フィービー・リングスのサウンドはよりスタンダードで、それほどエキセントリックな感覚はなく、万人向けといえるのではないでしょうか。フラットでジャジーなポップソングとして気軽に聴き、楽しむことが出来る。フィービー・リングスのメンバーは元々ニュージランド国内の大学でジャズを専攻していたことからもわかる通り、ジャズのスケールも含まれている。

 

 

ボーカルのクリスタル・チョイの声は韓国の少し前のポップス、もしくは日本のシティポップに近い雰囲気を持つ。 ただ、必ずしも回顧的なサウンドの一辺倒にはならず、現代的なサウンドも盛り込まれている。そして、シンセサイザーの演奏もこのバンドの最大の持ち味ですが、その一方、ファンク/R&Bの軽妙なリズムをもたらすベン・ロックの存在は大きい。バンドの全体的なサウンドを底上げし、聴き応えある内容としている。さらに最後にメンバーに加入したドラムのアレックスも楽曲全体に軽快なリズムをもたらしている。しなやかなドラムはライブステージの見どころになるでしょう。 

 

ジャジーなサウンドは本作の始めから炸裂している。韓国語のタイトル曲「Aseurai」は空気のような意味で、アンビエンスに近いニュアンスを持つ。大きな存在感はないけれど、そこになくてはならない存在という意である。この韓国語の文脈に呼応するような形でアンニュイで、メロウなR&Bタイプのシンセ・ポップソングが展開される。エレクトリック・ピアノの静かな弾き語りで始まり、そして、 音階的なボーカルがドラム、ベースと組み合わされ、アンサンブルとしての性質を強める。金管楽器のように鳴り渡るエレピ、ベース、ドラム、そしてボーカルが高低の音域に散らばめられ、きらめくような心地よいシンセ・ポップ・ワールドを構築していく。また、ソフィスティポップの一環である渋谷系(Shibuya- Kei)のサウンドも反映されており、ムーグシンセのようにユニークなふわふわしたサウンドがこの曲に深みをもたらしている。転調の巧みさ、そしてファンキーなベースがこれらのサウンドにハネやノリを与えている。

 

クリック(メトロノーム)で始まる「Not A Necessary」は、ボサノヴァとドリーム・ポップを結びつけたサウンド。前曲「Aseurai」のメロウな雰囲気を受け継ぎ、 アンニュイな陽気さを体現している。メロトロンの音色が登場したり、トリッピーなシンセの音色が織り交ぜられ、色彩的な感覚を持つ(多彩な音階が散りばめられている)。これらのカラフルなポップソングは西海岸の70年代のバーバンクサウンドと合致し、現代と古典の間をスムースに横断している。これらのサウンドは現時点のフィービーリングスの代名詞ともいえ、海岸のポップサウンドの象徴にもなっている。ニュージーランドのベイサイドの陽気さをポップソングに盛り込む。この曲の後半では、アンサンブルが白熱して、クリスタル・チョイのボーカルは神秘性を持つにいたる。

 

70年代に流行ったフュージョンジャズからの影響も含まれる。そしてフィービーリングスの持ち味は男女のツインボーカルである。四曲目の「Get Up」では、ファンクサウンドをベースに細野晴臣やYMOライクなテクノ・ポップが繰り広げられる。こういった曲はアルバム単位で音楽のバリエーションを付与し、なおかつまたダンサンブルな音楽的な印象をもたらしている。この曲のボーカルはラップからの影響を元に、それらをシンセポップと結びつけている。対して、アルバムの中で最もドリームポップの空気感が強まるのが、五曲目の「Playground Song」です。ボサノヴァ、フォーク、ヨットロック、インディーポップをクロスオーバーし、ボーカルにスキャットやジャズのスケールや音階を付加している。また、ヴィンセントのウージーなギターもメロウなムードを生み出します。この曲では、ボサノヴァの典型的なリズムやフルートを組み合わせ、アフロジャズとトロピカルを結びつけるような空気感が強調される。楽園的なムードを漂わせるうっとりしたサウンドで、海岸筋の夕焼けのロマンティックなムードを表現する。

 

 

1970年代の米国のファンクやR&Bからの影響を現代的なポップサウンドとして昇華させた「Fading Star」もアルバムのハイライトとなる。この曲では、ファンカデリックやEW&Fといったファンク/ディスコが、現代的なバンドの手に掛かると、どのように変化するのかがよく見えてくる。 この曲ではベースのグルーブにも注目したいですが、ギターの裏拍を重視したシンコペーションが心地よいリズム感を生み出す。ジャズに始まり、その後全般的なポップに舵を取ったフィービーリングスのアンサンブルとしての試行錯誤が明確な形になった瞬間と言える。

 

アルバムの後半では、クリスタル・チョイの鍵盤奏者としての閃きが、これらのポピュラーソングを縦横無尽に駆け巡る。シンセの音色の幅広さが楽曲の表情付けに反映され、カラフルな質感を持つインディーポップソングが繰り広げられる。まるでチョイはシンセの鍵盤を叩くと、玉手箱のように代わる代わる異なる音色を紡ぎ出す。それは哀感を持つものから喜びを体現するものまで幅広い。これらの音楽的な引き出しの多さは「Drifting」にも見いだせる。シティポップに近い音楽としても楽しめるに違いない。しかし、やはりというべきか、フィービー・リングスの音楽をより現代的にしているのがジャズバンドの性質である。さらに、トリッピーなシンセの音色はパーカッシヴな力学を及ぼすこともある。これらの驚きに満ち溢れたキラキラしたポップソングは果たしてライブステージでどんなふうに聞こえるのでしょうか。

 

 

アルバムの後半では、シンセポップによるバラードソング「Blue Butterfly」も聴き逃がせません。この曲では、よりドラマティックなバラードを書こうという意識が明確化された瞬間である。


本作はレディオヘッドのオマージュのように聞こえる「Goodnight」で締めくくられる。バロックポップをエレクトリック・ピアノの弾き語りを通じて体現したこの曲は、中盤で美麗なハーモニーを描きながら、アルバムはエンディングへと向かっていく。次作では、音楽に拠るストーリーテリングの性質がより大きな成果になって帰ってくるかもしれません。韓国のポップや日本のシティポップを盛り込んだドリーミーなポップソング「Aseurai」、ヨットロック/ソフィステイポップソング「Playground Song」をフィービーリングスの入門曲としておすすめします。

 

 

82/100

 

 

 

「Playground Sound」  

Hayden Pedigo  『I'll Be Waving As You Drive Away』

 

Label: Mexican Summer

Release: 2025年6月6日


Listen/Stream

 


Review 

 

テキサスのギタリスト、ヘイデン・ペディゴ(Hayden Pedigo)は、基本的にはフィンガースタイルのアコースティックギターを奏でる。ペディゴのギターの演奏力は卓越しています。ヤスミン・ウィリアムズと併んで、アメリカの現代アコースティックギタリストの中でも最高峰に位置します。


2023年以来のニューアルバムは前作に続いて、『The Motor Trilogy(モーター三部作)』の一環として制作された。三部作の最終作品です。前作『The Happiest Times  I Ever Ignored』 のレビューは時間の関係で飛ばしてしまいました。一般的には今作の方が聴きやすいアルバムだろうと思います。

 

ジェニー・ルイス、デヴェンドラ・バンハート、ヒス・ゴールデン・メッセンジャーらとの2年間にわたるノンストップ・ツアーを経て、制作された最終作には、「本当に人間的な何かがある」とヘイデンは公言する。「フェイスペイントもせず、青い肌もなく、表のキャラクターはキャラクターではない。私は観客に、実際に私に会ってほしい、私が誰なのかを知ってほしいと伝えようとしている」「このレコードの中には、たくさんのレコードが埋もれている...。ラップ・アルバムのように、たくさんのマイクロ・サンプリングが行われている」と彼は結論づける。

 

どうやらヘイデン・ペディゴは、幻想的な情景をギターミュージックで表現したかったようです。その中にはサイケデリックなギターミュージックを制作したいという目論見もあったという。しかしながら、全般的には広大な雰囲気を持つカントリー・ミュージックが複数のギターの録音を通じて体現されているといえるかもしれません。


このアルバムにはアメリカーナというジャンルが、ワールドミュージックの一環として聞かれることを推奨させる何かが存在している。ペディゴはギタリストとして傑出していることはもちろんですが、作曲家としても非凡なセンスに恵まれたようです。彼はアメリカ的な概念を実際の経験を通じて作曲の中に織り交ぜ、それらを的確に印象的な音楽として落とし込む力を持つ。


アルバムの音楽には、イメージの換気力があり、なおかつ聞き手が自由に想像をふくらませるための懐深さもある。そして、今回のカントリーやフォークといったスタンダードな音楽に補足として加えられたのが、レッド・ツェッペリン、キング・クリムゾンなどのUKハードロック、プログレッシヴ・ロックバンドの持つサイケデリアの要素でした。


レッド・ツェッペリンといえば、基本的なハードロックサウンドにインドのカシミール地方のエキゾチックな民族音楽の影響を付け加え、それをバンドのベンチマークのように見立てたことがありました。その影響は、例えば、このアルバムの冒頭に収録されている「Long Pond Lily」に発見することができるでしょう。


ギターはパット・メセニー的なカントリージャズと呼応するようにし、緩やかで広大な音楽的な世界を構築している。イントロはカントリーであった印象が徐々に情景的な変遷を描きつつ、民族音楽のエキゾチズムや彼自身のプレイを通じ、曲のテンポを緩やかにしていき、休符を設けた後、再び、トロットのような軽快なリズムを通じて、この曲は駆け足のように早まると、山岳地帯や草原のような純朴な風景を思わせる雄大なイメージを持つ素晴らしい音楽へと変わっていきます。


エレクトリックギターを積極的に取り入れた前曲とは対象的に、二曲目「All The Way Across」はアコースティックギターの華麗なアルペジオがイントロに配されている。これらの色彩的な和声に関しては前の曲と同じように、パット・メセニーの最初期のカントリージャズを彷彿とさせる。 しかしながら、今回のアルバムは依然として、かのギタリストの牧歌的なイメージを維持していますが、他楽器のボイシングや対旋律に音楽的な面白さが込められています。


例えば、ギターの演奏にちょっとしたピアノのユニゾンを重ねるだけで驚くほど楽曲の印象は様変わりし、どことなくきらびやかでエレガントな雰囲気が漂いはじめる。そしてもちろん、そのピアノの演奏に関しては、ヘイデン・ペディゴの演奏の叙情性を引き出すような働きを担っている。


この曲を聴くとわかる通り、ペディゴは”ギターの魔術師”とも呼ぶべき演奏力を披露しています。変幻自在にテンポを操り、そして休符やアクセントやクレッシェンド/デクレッシェンドをギターの細かなニュアンスの違いだけで表現します。


実際に、音符を弾けているだけにとどまらず、ギターひとつで音楽的な世界観を完結させるという作曲の魅力については、他の一般的なギタリストの演奏では容易に味わい難いものがある。


この三部作を部分的に聴いてきた者の印象として、ヘイデン・ペディゴはアルバムの制作を通して、ギタリストとしての腕を磨いただけにとどまらず、ソングライターとしても著しく成長しているように思えました。


そんな中、感覚的で、心理的な奥深い領域に入り込んだ曲もある。「Smoked」はペディゴとして珍しくマイナー調の一曲で、おそらく彼があまり書いてこなかったタイプの楽曲といえる。哀感のあるフレーズをモチーフにして、副次的なテーマであるサイケデリアと結びつけています。これらの幻惑的な感覚は、ボーカルをあしらったシンセにより神秘的な音楽性を獲得するに至る。


推察するところ、深妙な感覚を擁する音楽を制作したいという作曲家の意図が的確に顕われた楽曲なのでしょうか。そしてそれらは、現代アメリカの音楽において、懐古的な印象を持つ音楽を制作するミュージシャンとは対象的に、彼はサイケデリックな側面からアメリカ人の理想主義を描き出す。


つまり、ペディゴの音楽は、現代アメリカの切実かつ切迫した社会性を鏡のように照合したとき、鋭い説得力を持つにいたる。彼の平和な幻想性こそ、一般的な人々を癒やすパワーがある。これらの幻想性は、ボーカルのようなインストゥルメンタル、そして慟哭のように響き渡る弦楽器の長く伸びやかなレガートにより、今までになく心を揺さぶられるような神妙な瞬間を迎えます。

 

 

さて、もう一つのこのアルバムの魅力は、彼の旧来から培われたカントリー/フォークの牧歌的な感覚、そして広大な国土の情景を反映させたかのような音楽性にある。アルバムのタイトルと呼応するように、さながらツアー時の窓から見えるそれぞれの土地の風景の変化をそのままサウンドトラックにしたような雰囲気を持つ「Houndtooth」こそ、ヘイデン・ペディゴの代名詞とも呼ぶべき楽曲です。


いくつもアルペジオのシークエンスをギターによって丹念に重ねていくだけなのに、これほどまでに音楽的な印象が変化していくのは驚愕である。特に、和声進行が巧みな曲で、自在に短調と長調の平行和音を行き来しながら、その中で、弦楽器とギターがユニゾンを描きます。ボーカルがないのに少し物足りなさを覚えるリスナーですら、これらの和声的な構成が、音楽的な枠組みの中で、どれほど大きな役割を担っているのかを確認できるでしょう。


ヘイデン・ペディゴのギタープレイが最も輝かしい印象を持つのは、ミュート(詳しくはハーモニクスと呼ぶ)、ほとんど音が消え入るような澄んだ響きを放つピアニッシモ、ないしはプリズムさながらに美しいフィンガー・ピッキングの調和的な響きののち、不意に水を打ったような密かな静寂が訪れるような瞬間にある。


「Hermes」では、ギターミュージックのサイレンスの美しさの結晶が、それと対象的なダイナミックなストロークによるアコースティックギターとコントラストを描く時、アルバムのハイライトが訪れます。

 

このアルバムでは、先に述べたように、ギターの演奏はもちろん、弦楽器が大活躍しています。それらは「Small Torch」のように、ギターの繊細な響きを持つアルペジオとユニゾンを描く時、楽曲の印象が驚くほど壮大になり、アメリカのカントリーミュージックらしい勇ましい印象に縁取られる。


ペディゴは、本作について「微量投与のサイケデリック・アルバム」と面白おかしく振り返っていますが、これは彼らしいリップサービスなのではないかと推測されます。本作には、格式高い音楽が通底しており、それはヘイデンによるギターミュージックの様式美とも呼ぶべきもの。本作の最後を飾るタイトル曲でも、ペディゴのカントリーの幻想性は無限回廊のように続く。彼の音楽はきっと、忙しない日常にささやかな治癒と平穏をもたらしてくれることでしょう。

 

 

84/100 

 

 

 

「I'll Be Waving As You Drive Away」

 Caroline 『Caroline 2』

Label: Rough Trade

Release: 2025年5月30日 

 


 

Review

 

当初は、即興演奏を中心に息の続くかぎり演奏を続けるプロジェクトとして始まったロンドンの8人組、キャロライン。『Caroline 2』は、ミニマルミュージック、クラシック、ロック、フォーク、エモというように、きわめて多角的な音楽を盛り込んでおり、先の読めない意外性に富んだアルバムとなっている。


『1』が純粋なミニマリズムに根ざしたロックアルバムと仮定付けるなら、『2』はミニマリズムに飽きたミニマリストという呼称がぴったりかもしれない。バンドは意図的に反復性に陥ることを避け、曲の中で変則的かつ重層的な構成を試したりしている。

 

『2』は音楽的な系譜で見れば、メジャーとインディーズの双方の空気感を吸い込んだ独特なアルバムである。こういったアルバムは、”アメリカのインディーズ”そのものを意味していたが、最近こういったニッチな感じのアルトロックは米国からあまり出てこなくなった。その要因として、音楽の持つ地域性が失われ、すべてがグローバリズムの中に取り込まれてしまったからなのか。


今や、どのような辺境の地で音楽を制作していたとしても、"世界のリスナー"という、いるのかいないのかわからないポルターガイストを、なんとなく頭の隅で意識してしまうものである。そういった意味では評定は差し引いたとしても、こういった正真正銘のインディーズアルバムが出てきたことは喜ばしくもある。ラフ・トレードは、マタドール、4ADと並んで、ベガーズグループの傘下にあり、メジャーの傘下くらいしかこういったアルバムは出せない。昔であれば、クリエーションくらいしかこういったアルバムはつくらなかっただろう。

 

『2』はアメリカン・フットボールやペイヴメントのような1990年代のインディー性を吸収し、エモの空気感を吸い込んでいる。例えば、アメリカンフットボールの『LP 1』は大学卒業直前の学生のモラトリアムを表現し、シカゴの独立したシーンを記録するために録音を行った。他方、『2』は人生全般のモラトリアムを感じさせる。瞬間的な感情を反映した音の連なりがたえず明滅しながら消えたり現れたりする。それは人間の実存の証明ではあるまいか。


『2』は、ライブセッションを通じて繰り広げられる8人組のメッセージであり、それはシンプルであるように思える。やりたいことがあれば迷わずやろうということ。そして、それは後腐れない人生を送るためにはぜひ必要だろう。音楽やアートの持つ意味は考えても際限がないが、それが楽しみとあらばやってみるしかない。人生の持つ根源的な意味と直結している。現代のような高度な資本主義社会において、意味/無意味という二つのアートの狭間でキャロラインのメンバーを揺れ動き、実験的なロック/フォークミュージックを作り上げる。これは"資本主義に対する抵抗"ともいえ、大きな価値のある行為なのではないか。

 

 

ファースト・アルバムでの空間性を意識した録音手法と同じように、録音の側面において、複数の前衛主義が貫かれている。二つの別の部屋で演奏し、異なるアンビエンスを作り出す録音方式の他、「Total euphoria」を中心に相当な数のギターを重ね取りし、ボーカルも複数の録音が入っている。ボーイ・ジーニアスと同じようなボーカルの手法だが、キャロラインの場合、スタンダードな曲を書くことあまりない。以前に比べ、レディオヘッド(トム・ヨーク)風の繊細なボーカルスタイルを捉えることも出来、全般的なポストモダニズム建築のような脱構築派の音楽性が際立っている。


キャロラインのロック/フォークソングは、ブルータリズム建築のようにごつごつしているが、その中には賛美歌のような趣を持つ優雅で甘美なクワイアが入り、独唱を中心に組み立てられていく。ブルックリンのシンガー、ポラチェクをフィーチャーした「Tell Me I Never Knew That」は、『OK Computer』のソングライティングを踏襲し、それらをフォーク・ミュージックに置き換え、さらに賛美歌のような精妙なクワイアを追加している。聴き方によれば、UKロックであり、クラシックでもあり、さらに民謡でもある。イギリスの音楽の様々な側面を多面体のように映し出す。聞き手は各々の価値感により、別の音楽の側面を聴いたり体感することになるだろう。

 

前作と同じように、コーラスワークの美しさ、そしてフィドル(ヴァイオリン)やチェロのような弦楽器の使用、ケルト民謡からの影響等、キャロラインらしさが満載である。しかし、こういった中で、なぜかエモの影響を織り交ぜた楽曲が印象に残る。「Song 2」はアメリカン・フットボールをより前衛的にした感じだ。「When I Get Home」ですら、エモとして聴いてみると、アメリカン・フットボールの『LP1』のデモトラックのように聞こえて来る。もし、相違点があるとすれば、キャロラインの音楽は遅れてやってきた人生の青春期の感覚に浸されている。90年代のエモのオリジネーターと共鳴する点があるとすれば、音が感覚派であること、8人組それぞれのエモーションが、それぞれの楽器を介して緩やかに流れていくという感触である。

 

また、音量的なラウドとサイレンスを巧みに行き来し、「U R UR ONLY  ACHING」ではコレクティブのセッションとして盛り上がる瞬間を捉えられる。ボーカルにオートチューンをかけたり、突然音がフェードアウトしたりと、実験的な要素が満載だが、この曲はキャロラインの本来の魅力が出てきたかどうかはわからない。セッションがスパークする直前で踵を返すような感じがあり、前衛的な領域には足を踏み入れていない。そのため、曲全般がどっちつかずな印象を与える場合もある。 他方、アルバムの発売直前にリリースされたツインのリードボーカルを擁する「Coldplay Cover」はキャロラインらしい美麗なボーカルを楽しむことが出来るはずだ。アルバムの終盤でも、実験的な気風は衰えず、様々な音楽的なマテリアルが混在している。

 

 

ポストロック風のアプローチも登場する。「Two Riders From Down」ではマスロックに傾倒している。アルバムは以降、フォークミュージックに近づき、クライマックスを飾る「Beautiful Ending」では、ノイズ、フォーク、ロックをシームレスに行き来している。ただ、問題点は、楽曲の流れが淡々としていて、アルバムの最後に至っても、クライマックスが来たという実感がわかないことだろう。全般的にはデビューアルバムのような、鮮烈で感動的で壮大な感覚、そして器楽的な精密な構成力は薄れている。また、インプロヴァイゼーションは、次に何が起こるか分からず、驚くべき化学反応が起こる点に面白さがある。しかし、『Caroline 2』は、大所帯のグループとしての驚くようなケミストリーが発生するまでには至らず、全般的には、音楽が枠組みの中に収まりきり、心なしか予定調和の印象が目立った。これはプロデュース的な側面に重点を置いたのが主な理由かもしれない。キャロラインは現在、商業音楽と前衛音楽の間で迷い、揺れ動いているという気がした。個人的にはキャロラインのニューアルバムにはひとかたならぬ期待を込めていたが、この点だけが少し残念だった。


*キャロラインは来日公演が決定している。ぜひ伝説的なモーメントを目撃してほしい。

 

 

 

78/100 

 

 

 「Tell Me I Never Knew That」

Yeule  『Evangelic Girl Is A Gun』 

 

Label: Ninja Tune

Release: 2025年5月30日

 


 

 

Review

 

Yeuleの存在が一般的に知られるところとなったのは2023年のアルバム『Softcars』だったが、Nat Cmielは2012年頃から活動している。前作アルバムはハイパーポップの性質が強かったが、今作ではメロディーメイカーとしての真価を発揮している。トリップ・ホップ、ダンス・ポップ、ハイパーポップ、J-POP/アジアのガチャポップを中心に多角的な音楽性を探っている。

 

邦楽に関しては影響のほどは定かではないにせよ、2000年代以降のポップソングの影響がボーカルのメロディーラインの節々に感じ取ることが出来る。もちろん、Yeuleのプロジェクト名は、FF(Final Fantasy)から来ているし、ゲーム音楽やアニメ、アングラ/サブカルチャーへの親和性も深い。そう、日本政府の主導した「クール・ジャパン政策」は確かに海外に普及していたのだ。

 

Yeuleは、UA,Charaといった平成時代のボーカリストのタイプに近い。印象論として、2010年代以降の日本のポップスは、その前の音楽的な完成度の高さや洗練度を、一部のアーティストを除いて、引き継ぐことが出来なかった。ある意味では、平成時代以降の音楽は、どこかで断絶しているような印象すらある。これは実をいうと、日本の音楽産業が下火になった時代と呼応するような形である。5年前の音楽は聴いたことがあるけれど、10年以上前の音楽は聞かない。結局のところ、一般的に音楽に大きく投資することが難しいのが現在の日本の台所事情である。Yeuleのような音楽的な体現力は、日本国内のシンガーには見出すことが難しく、あったとしても散発的に止まってしまう場合が多い。これは日本のミュージシャンが日本国内の音楽的な系譜や流れを見落としているのではないかと指摘したい。これは、腰を据えて音楽にじっくり取り組もうという土壌がなかなか作られないという側面があることを付言しておきたい。

 

 

 『Evengelic Girl Is a Gun」はかなり毒々しいアルバムになるのでは、と予測していたが、意外とそうでもなかった。そして前作よりもソングライティングとして磨きがかけられ、音楽的な幅広さもましている。その中で、Yeuleらしさというべきか、少し毒々しいイメージのあるボーカルを音楽的なキャンバスに塗り上げる。これらの棘ともいうべきテイストは、前作から引き継がれたものである。アルバムを聴いて分かる通り、2000年前後の日本には結構あった音楽もある。ただ、それらを高いレベルで再現する力量、そしてチャーリーCXCのようなSSWからうまくヒントを掴んで、ポップスのセンスやトラック制作の技術に活かしたりと、新旧の音楽を巧みに織り交ぜる。アルバムの音楽は、アーティストの音楽的な好きを活かし、幅広い世界観を作り上げる。ただ、この音楽的な洗練度は、短期間ではどうにもならず、10年以上熱心に取り組んでいないと、完成されないだろう。Yeuleのやっている音楽は、簡単なようでいて、かなりハイレベルである。

 

 

「Tequila Coma」では、トリップホップを中心に、レーベルの得意とするヒップホップ的なビートの要素をふんだんにまぶし、アンニュイだが心地よいポップスを作り上げていく。ところどころに、マスタリング的な実験が行われ、ボーカルのフレーズの最後の波形を抽出し、それらにディレイ系のエフェクトをかけたり、また、ドラムにダビーな効果を加えたりと、短いシークエンスの中で様々な試みが行われている。しかし、全般的には、ヴォーカルのメロディーの音感的な良さは一貫して維持されている。曲を聴いたときの印象を大切にしているのだろう。1分55秒には、ギターのリサンプリングを用い、Portisheadの『Dummy』のトリップホップサウンドを蘇らせる。ターンテーブルのレコードを回すときのチョップの技法を再現させている。

 

「The Girl Who Sold Her Face」は大胆にも、デヴィッド・ボウイの名曲のオマージュとなっているが、音楽的にはアジアのポストポップに近いスタイルである。その中で、少し毒々しい感覚を交えながら、チャーチズのようなダンサンブルなポップスを展開させている。ただ、明確にサビの構成を作り、バンガー的な響きを作り上げる点については、アジアのポップスに近似する。というように、音楽的には相当、カオスでクロスオーバーが進んでいることがわかる。

 


前作ではトランスヒューマニズムのような近未来的なセンスを生かしたが、今回は対象的に、原点回帰をした印象がある。そしてより人間的な何かを感じさせる。前作から引き継がれた心地よく軽快なベッドルームポップソングを続く「Eko」で楽しむことが出来る。この曲はガチャポップなどでもよくあるトラックだが、ピッチがよれて音程がずれてもそのままにしている。ピッチシフターを使用するのは限定的であり、音楽的な狙いや意図がある場合に限る。欠点を削ぎ落とすと、長所も消えるので、それほど不自然なエフェクトはかかっていない。

 

 

グランジロックからの影響を交え、それらをオルタナティヴなポップソングに組み替えた曲もある。「1967」 は、Yeuleらしいダウナーな感覚を活かして、Alex Gの系譜にあるループサウンドやカットアップ(ミュージック・コンクレート)のインディーロックのソングライティングを交え、中毒性の高い曲を完成させている。音楽好きの"リピートしてしまう"という謎の現象を制作者側から体現させた風変わりなポップソングだ。メロディーメイカーとしての才覚が遺憾なく発揮されている。アルトポップ・ファンにはたまらない一曲となるだろう。

 

 

一転して、「VV」はイェールらしからぬ一曲である。アーティストの凝り性の一面を巧みに捉えている。しばし毒々しくダウナーな感覚から離れて、それとは対極にある高い領域を表現しようとしている。この曲では、beabadoobbeの系譜にあるポップセンスをベースに、フォーク/エレクトリックの融合であるフォークトロニカを付け加える。エレクトロニカをダンサンブルにアレンジして、そこにイェールらしい個性をさりげなく添えている。 土台となる音楽に対して、必ず画家の署名のようなものを書き添えるのが、Yeuleのソングライティングのスタイルである。それと同時に、アコースティックギターとヴォーカルの組み合わせは、さわやかな感覚を呼び起こす。

 

というように、テクノロジーの進化が目覚ましい現代社会において人間としてどのように生きていくのかというテーマがこのアルバムの重要なポイントを成している。それは、ディアスポラをポピュラー・ソングから追求したサワヤマの系譜を受け継いでいる側面もある。 その中で、より大掛かりな背景を持つポップソングも提示される。

 

「Dudu」はヨーロッパのダンスミュージックの影響を活かして、軽妙な雰囲気を持つポップソングに仕上げている。現在のアーティストの制作の中でダンスミュージックの割合や重要度が高いことを伺わせる。アルバムの事前のイメージは完全に払拭され、ファンシーなポップソングが続いている。

 

「What3vr」ではヒップホップのビートを下地にして、エレクトロ・ポップをアップデートしている。この曲でも叙情的なメロディーという側面は維持され、そしてそれらがエクスペリメンタルポップやハイパーポップとうまく結び付けられている。ポップソングのトラック制作の見本のような一曲。

 

「Saiko」は、Dora Jaのような最新のエクスペリメンタルポップのサウンドと肩を並べるべく、アルトポップの高みに上り詰めようとしている。意外性のある展開に富み、従来のグリッチを多用したビート、転調や移調を繰り返すボーカル、ミュージックコンクレートの形で導入されるアコースティックギターというように、断片的な音楽のサンプリングの解釈を交えたとしても、音楽のストラクチャーは崩れない。これは全般的な構成力が極めて高いからである。しかし、かなりハイレベルなことをやっていても、表向きに現れるのは、モダンな印象を持つキャッチーなポップソングである。この曲でも、自身の音楽がどのように聴かれるのかをかなり入念にチェックしているという印象がある。そして実際的に、表向きのイメージを裏切るような形で持ち前のファンシーな世界観を完成させる。

 

アルバムの後半ではエクスペリメンタル/ハイパーポップの性質が強くなる。 これらの多角的な音楽性を作るための"保護色の性質"は、現時点のイェールの強みといえよう。タイトル曲ではロボットボイスをヒップホップ的に解釈し、エレクトロ・ポップに昇華している。これは専門のミュージシャンではないからこそ出来る試みだろう。「Skullcrusher」はホラームービー的で、ダークなアンビエントポップ、もしくはメタリックなハイパーポップともいうべき一曲である。ホラー映画「I Saw the TV Glow」のサウンドトラックを聴いた人であれば、ピンと来るのではないだろうか。これらのホラー要素は現在のアーティストのユーモアセンスの肩代わりとなっている。

 

 

 

 

84/100 

 

 

 

「1967」

 Sports Team  『Boys These Days』

 

 

Label: Bright Antenna & Distiller

Release: 2025年5月23日

 

Listen/Stream

 

 

Review

 

イギリスの5人組ロックバンド、スポーツ・チームは前作でニューウェイブ/ポスト・パンク風の音楽アプローチをベースにしていたが、本作『Boys These Days』では大幅に作風を転じている。今作ではバブリーな音楽性を選び、ダンスポップ/ディスコポップ、ソフィスティポップ(AOR)、ローリング・ストーンズの『Tatto You』時代の80年代のロック、そしてソウルなど多角的な楽しさを織り込んでいる。スポーツ・チームの新しいフェーズが示された作品である。もちろん、5人組という分厚いメンバーがプロジェクトのために一丸となっているのも美点だ。

 

本作の冒頭を飾り、先行シングルとして公開された「I'm in Love(Subaru)」を聞くかぎり、最早スポーツチームに”ポスト・パンク”という常套句は通用しないことがわかる。ダンサンブルなポピュラーセンスを発揮し、サックスフォンの高らかな演奏を背景に、キーボード(ベン)、ドラム(グリーンウッド)、ベース(デュードニー)を中心に、重厚なバンドアンサンブルを構築し、アレックス・ライスのソウルフルでパワフルなボーカルがバンド全体をリードする。

 

楽曲全体のメロディアスな印象はもちろん、バンドアンサンブルのハーモニーが絶妙である。80年代のディスコ/ソウル、そしてソフィスティポップやヨットロック等を巧みに吸収し、親しみやすいポップソングに仕上げている。この曲に満ちわたる多幸感は、軽薄さで帳消しになることはない。バンドアンサンブルの集中力がこの曲を巧緻にリードし、そして、爽快感を維持させている。この曲でサビを中心に、バンドとしてのポップセンスをいかんなく発揮している。

 

前作『Gulp!』にも見いだせたスポーツチームの音楽的なユニークさは続く「Boys These Days』に受け継がれている。ポール・ウェラー/スタイル・カウンシル風のモッズ・サウンドを下地にして、スポーツ・チームらしいカラフルなダンスロックを展開する。シンセ、ボーカル、そして、弦楽器のアレンジが縦横無尽に駆けめぐり、見事なアンサンブルを構成している。 半音階ずつ下がる音階進行、それからブリット・ポップ風のゴージャスなアレンジが、この曲にエンターテイメント性を付与する。また、全体的なソングライティングの質の高さが傑出している。それを楽曲として再現させる演奏力をメンバーの全員が持ち合わせているのは言わずもがな。

 

 

このアルバムでは、副次的にソウル/R&Bの音楽テーマが追求されている。それはポップ、ロックを始めとする様々な形で出現する。「Moving Together」 はその象徴だろう。ジャクソン5やデ・ラ・ソウルのサンプリングのように始まり、ソウルミュージックの果てなき幻惑の底に誘う。その後、ロック調に変化し、ワイルドな質感を持つボーカルが全面に出てくる。続いて、硬質なギター、シンセの演奏が絡み合いながら、重層的なファンクロックが作り上げられる。


このアルバムでは歌いやすさが重視され、前作よりもはるかにサビの箇所のポピュラリティに焦点が置かれている。そして実際的に、英語の短いセンテンスとして聴くと、歌いやすく捉えやすい万国共通のサウンドが構築されていることがよくわかる。「Moving Together」のフレーズの部分で思わず口ずさみたくなるのはきっと私だけではないはずだ(実際に口ずさんだ)。この曲では、ボーカリストとしての表現力が前作よりも著しく成長したアレックス・ライスのボーカルが別人のように聞こえる。彼の声にはエナジー、パワー、そしてスピリットが宿っている。

 

 

こうした中で、ローリング・ストーンズの系譜にある曲が続いている。「Condensation」では、『Tatoo You』時代のダンスロックを受け継ぎ、バブリーな雰囲気、ブルース性、それからソウルからの影響を活かし、アグレッシヴな印象を持つロックソングを完成させている。ライブを意識した動きのあるナンバーとして楽しめる。何より前曲と合わせてR&Bからのリズムの引用や全体的なハーモニーが甲高いボーカルやストリングスのアレンジと絡み合い、独特な多幸感を生み出す。いや、多幸感というより、ロックソングの至福のひと時がこの曲には内包される。


こうした一般性やポピュラリティを維持した上で、ボブ・ディラン風のフォーク・ロックへと進む「Sensible」は、このアルバムの中で最も渋く、ペールエールのような味わい深さを持ちあわせている。ボウイ、ルー・リードのような硬いボーカルの節回しを受け継ぎ、新しいフォーク・ロックを追求している。しかし、相変わらずサビではきらびやかな雰囲気が色濃くなる。ソウルフルなライスの歌唱がバンド全体をリードし、フロントマンとしての圧倒的な才覚の片鱗を見せる。特に、2分すぎのコーラスは圧巻で、バンドの最もパワフルな瞬間を録音として収めている。この曲に充溢する抑えがたい若々しいエナジーはこのバンドの持つ最高の魅力だ。

 

『Boys These Days』の最大の魅力は、音楽的な寄り道をすことがあり、直線上には進まないことである。それは、スポーツ・チームの全体的な人生観のようなものを示しているとも言える。

 

「Planned Obsolescence」はアルトなフォークロックで、「Sweet Jane」や「Walk On Wildside」の系譜を受け継いでいる。曲の中での口笛も朗らかで和平的なイメージに縁取られている。音楽的には一つのリフレインをバンドサウンドの起点として、どのように変化していくのかをアンサンブルとして試しているように思えた。2分以降のアンセミックな雰囲気はその成果とも言えよう。


さらにスポーツ・チームの寄り道は続く。「Bang Bang Bang」ではロカビリー/パンカビリー風の渋いロックソングを書いている。カントリーをベースに旧来のエルヴィス風のロックンロールを結び付ける。最近のロックバンドには乏しいロールーーダンスの要素を付加している。同じように、「Head To Space」もカントリーを下地にしているが、決して古びた印象を与えない。ボーカルのソウルフルな歌唱がバンド全体をリードし、曲にフックを与えているのだ。

 

こうした中で、ストーン・ローゼズ、ヴァーヴの系譜に属するイギリス仕込みのダンスロックでこのアルバムは決定的になる。バンガー「I'm in Love(Subaru)」をしっかりと用意した上で、終盤にも「Bonnie」が収録されていることは、アルバム全体に安心感や安定感を及ぼす。これぞまさしく、スバル・ブランドならぬ、スポーツチーム・ブランドとも呼ぶべき卓越性。結局のところは、バンドの演奏力の全体的な底上げ、ソングライティングの向上、そして何より、ボーカルの技術の蓄積がこういった聴き応え十分の作品を生み出すことになった要因なのだろう。

 

ただ、それはおそらく最短距離では進まなかったのではないかと思える。だからこそ説得力がある。全体的にはバンドとしての楽しい瞬間が録音に刻みこまれ、それが全体的な印象をファニーにしている。たとえ、バラードを書いても、スポーツチームらしさが満載である。「Maybe When We're 30」は珍しくダブルボーカルの曲で、もうひとつの重要なハイライト曲。ライブのアンコールで演奏されるに相応しい、繊細さと力強さを兼ね備えた素晴らしいクローズで終わる。

 

 

 

85/100

 

 

 


 

Best Track- 「I'm in Love(Subaru)」

 Billy Nomates 『Metal Horse』


 

Label: Invada

Release: 2025年5月16日

 

 

Review

 

ビリー・ノメイツ(Billy Nomates)はイギリス/レスター出身のシンガーソングライター。 元はバンドで活動していたが、なかなか芽が出なかった。しかし、スリーフォード・モッズのライブギグを見た後、ボーンマスに転居し、再びシンガーソングライターとしての道を歩むようになった。そして再起までの数年間が彼女の音楽に不屈の精神をもたらすことになった。2023年には『CACTI』をリリースし、話題を呼んだ。

 

前回のアルバムは、当サイトではリリース情報を扱うのみだったが、今回は素晴らしいのでレビューでご紹介します。『Metal Horse』はビリー・ノメイツの代表的なカタログが登場したと言って良いかもしれない。『CACTI』よりも遥かにパワフルで、そしてセンチメンタルなアルバム。

 

『Metal Horse』は、ソロアルバムとしては初めてフル・バンドでスタジオ制作された。ベース奏者のマンディ・クラーク(KTタンストール、ザ・ゴー!チーム)とドラマーのリアム・チャップマン(ロジ・プレイン、BMXバンディッツ)が参加、さらにストラングラーズのフロントマン、ヒュー・コーンウェルが「Dark Horse Friend」で特別参加している。共同制作者も豪華なメンバーで占められている。

 

ビリー・ノメイツのサウンドはニューウェイブとポストパンク、そして全般的なポピュラーの中間に位置付けられる。そして力強い華やかな歌声を前作アルバムでは聴くことが出来た。もちろん、シンガーとしての従来から培われた性質は維持した上で、『Metal Horse』では、彼女の良質なメロディーメイカーとしての才覚が遺憾なく発揮されている。前作『CACTI』では、商業的な音楽が中心だったが、今作はビリー・ノメイツが本当に好きな音楽を追求したという気がする。それがゆえ、なにかしら心を揺さぶられるものがある。

 

このアルバムは、ニューウェイブ史上最も静けさを感じさせる。それは音量的なものではなく、耳を澄ました時、その向こうに浮かんでくる瞑想的な静けさ。そしてなぜ、静かな印象があるのかといえば、それは極力楽器や音符を絞り、音の要素を削ぎ落としたことに理由がある。

 

ボーカルもコーラスが入っているとはいえ、非常に洗練されている。そしてニューウェイブ風の作品でありながら、フォーク、ブルース、AOR(現代風に言えば、ソフィスティポップ)を織り交ぜ、個性的なアルバムが作り出された。そして、全般的にはシンディ・ローパーのポップソングに近い雰囲気に満ちている。もちろん、ローパーほどにはエキセントリックではないのだが、ノメイツの歌手としての個性が80年代のスターシンガーに劣っているとはいいがたい。

 

 

アルバムにはシンセサイザー、ギター、ドラム、ベースを中心にシンガーのパワフルなボーカルをバンドセクションで支えている。アルバムの冒頭を飾る「Metal Horse」ではノメイツのブルースを意識したボーカルに、ジョン・スクワイアを彷彿とさせる渋いギターリフが戯れるようにコールアンドレスポンスを重ねる。うねるようなグルーブを作り出し、オルガンのシンセにより三拍子のリズムを強調させたり、ボーカルの録音をいくつか入念に重ねたり、そして抽象的な旋律のラインを描きながら、見事な構造のポップソングを作り上げている。この曲の音楽は上がったり下がったりを繰り返しながら、徐々に余韻を残しながらフェードアウトしていく。

 

アルバムの曲を聴いていると、なぜかスタイリッシュなイメージを感じさせる。まるでノメイツは肩で風を切って歩くような勇壮なイメージをボーカルで表現している。「Nothin Worth Winnin」では規則的なマシンビートを背景に、シンセサイザーのメロディーと呼応するような形でノメイツは美しいハーモニーを作り出す。曲全体が波のようにうねり、グルーブを作り上げ、そして聞き手の心を和ませたり、時には勇気づけてくれたりもする。この瞬間、ビリー・ノメイツのソングライティングは個人的な感覚から離れ、共有される感覚という強固な意義を持つ。

 

 

今回のアルバムでは、前回よりもAORの性質が強く、それがニューウェイブやポスト・パンクの音楽に干渉し、聴きやすい曲が生み出された。続く二曲はその好例となりえる。「The Test」、「Override」ではいずれも80年代のドン・ヘンリーのような爽やかな音楽をヒントにし、それらを現代的なポップソングに置き換えている。これらは2020年代の感覚で聴くと、ややバブリーな印象を覚えるが、オーバードライヴのかかったベースやそれほど世間ずれしないノメイツの現実的なボーカルは、むしろ、ザ・1975、The Japanese House以降のロックやポップに慣れ親しんだリスナーにも共感を覚えるなにがあるかもしれない。音楽的には80年代やMTVの商業的なポップスのリバイバルであるが、ノメイツの歌は誰の真似にもならない。まるで自らの生き方を示すかのようなクールな歌声で、バックバンドと楽曲全体をリードする。

 

特に、素晴らしいのが続く「Dark Horse Friend」である。この曲は、ニューウェイブ・リバイバルの名曲と言っても過言ではない。このあたりは音楽的な蓄積が並み居るシンガーとの格の違いを見せつけている感じである。特に、このシンガーは繊細な脆さ、言い換えれば、センチメンタルでブルーな感覚をメロディーに昇華する術に長けている。イントロからニューウェイブ風の淡い雰囲気を持つシンセに馴染むようなムードを持つ巧みなボーカルを披露している。


しかもフレーズの繰り返しのあと、パーカッションだけでサビに持っていく。力技とも言えるが、この単純さがむしろ軽快さをもたらす。そして、そのサビに力強い印象を及ぼすのが、ヒュー・コーンウェルの渋いボーカルだ。彼のボーカルは、ノメイツと見事なコントラスを描き、「You're Dark Horse Friend」というフレーズを心地よくしている。その後のボーカルのやりとり、コーラスも息がぴったり取れている。コラボレーションのお手本を彼らは示している。

 

ノメイツはこのアルバムの録音において、強い決意を表明するかのように、勇敢なボーカルを披露している。それらが見事なバラードソングとして昇華されたのが「Life's Under」である。オルガンの演奏を背景に、エルトン・ジョン級の堂々たるソングライティングの腕前を披露している。その中で、ゴスペル、ブルースといった渋い音楽のテイストを添えて、いよいよビリー・ノメイツの音楽の世界は盤石となる。この曲は、徐々に精妙な雰囲気を増し、一分後半の箇所でのコーラスを交えたフレーズで最高潮に達する。非常に大掛かりな曲想を精緻に組み上げている。曲の後半では、三拍子のリズムが浮かび上がり、幻想的な雰囲気に縁取られフェードアウトしていく。かと思えば、一転して、軽快な楽曲「Plans」が続いている。曲の収録順にアップダウンやメリハリがある。まるで軽快にドライヴをするようなアップテンポで陽気で直情的なロックソングが紡がれる。80年代に流行したブライアン・アダムスのような軽快なロックソングを見事に受けつぐ。

 

 

 

アルバムの後半は、ビリー・ノメイツの趣味が満載で、とてもファニーだ。「Gas」はニューウェイブ/ニューロマンティック風の曲で、レトロなドリーム・ポップともいうべき曲である。ただ、やはり、ベースラインの強固さが際立ち、オーバードライヴの効いたファジーなベースがノメイツのボーカルと鋭いコントラストを形作る。そしてサビでは、むしろ典型的なメタル/ハードロック風のシンガーに変化する。EUROPEのような熱血な雰囲気を帯びた80年代のメタル/ロックソングへと曲の印象が移り変わる。かと思えば、「Comedic Timing」では精神的に円熟したシンガーとしての気配を見せる。一作の中で歌手としての性格を絶えず様変わりさせるのは、ムービースターさながらといえるかもしれない。この曲では、心あたたまるようなハートウォーミングな音楽性を垣間見させる。

 

 アルバムの後半でも、個性派のシンガーとしての性質が影を潜めることはまったくない。「Strande Gift」では、ブルースを下地にし、美しいポピュラーソングを作り上げている。しかし、あらためて、美しさとは何かといえば、丹念に制作に取り組んでいること、自分の真心から制作に情熱を注ぐこと、それ以外には存在しないのではないか。それがミニチュアや織物のように精細であるほど、あるいは、それとは対照的に、広大でダイナミックであるほど、人は大きな感動を覚える。それほど複雑な楽曲構成ではないし、難解な音楽理論も用いていないと思われるが、琴線に触れるエモーションが随所に出現する。過去を振り返るように、あるいは、現在を踏みしめるかのように、シンガーの人生のワンシーンが脳裏をよぎる。本作の最後の楽曲「Moon Explode」では、ノメイツが生粋のロックシンガーであることを暗にほのめかしている。

 

どうやら、このアルバムの真価は、理論や理知では語り尽くせないらしい。いや、果たして、良い音楽が単純な言葉や理論だけで解き明かせたことがこれまで一度でもあったろうか。良い音楽は、常に理知を超越し、我々の常識を塗り替えるような力を持つ。


ビリー・ノメイツの『Metal Horse』を聴くと、シンガーソングライターというのは、ある種の生き方そのものであるということがよくわかる。その姿を見ると、頼もしくなる。有為転変.......、苦しみや喜び、悩みとそれからの解放、優しさや労り、そのほか、人生にまつわる様々な感情を体験した歌手や音楽家にしか表現しえないものがこの世には実在する。それこそが『Metal Horse』の本質、あるいは魅力なのであろう。

 

 

 

85/100

 

 

Best Track- 「Dark Horse Friend」

 Arcade Fire 『Pink Elephant』


Label: Arcade Fire Music

Release: 2025年5月9日

 

Listen/Stream

 

 

Review

 

モントリオールの代表的なアートロックバンド、アーケイド・ファイアの新作『Pink Elephant』はウィル・バトラー脱退後の最初のアルバムとなる。前作『WE』からボーカルのループやダンサンブルなエレクトロニックのビート等実験的なサウンドをアーケイド・ファイアは試していた。例えば、BBCの音楽番組などで、実験的なダンス・ポップをライブサウンドで構築しようとしていた。前作は、オーケストラの演奏を交えてのライブが多かった。デヴィッド・ボウイ風のシアトリカルなサウンドが押し出され、啓示的なサウンドが織り込まれていた。紆余曲折あったが、アーケイド・ファイアは活動を継続することに決めたというわけだ。

 

『Pink Elephant』はアーケイド・ファイアの再出発とも言えるアルバムである。最初期のオルタナティヴロックの性質は少し薄れ、デペッシュ・モードの系譜にあるライトなダンス・ポップ/シンセ・ポップのサウンドが敷き詰められている。

 

相変わらずアーケイド・ファイアらしさは満載であるが、最初のヒット作『Funeral』と比べると、鮮烈な開けたような感覚は少し薄れている。『WE』のようなプログレ的な啓示も少ない。ただ、アーケイド・ファイアはベッドルーム的なサウンドになるでもなく、神棚に祀られたロックスターになるでもなく、その中間にあるフラットなロックサウンドを追求している。そして、言ってみれば、ロックソングやダンスミュージックを通じて、音を楽しむことを追い求める。かれらのメッセージは、ブルース・リーのように「考えるな、ハートで感じろ」である。

 

 

ニューアルバム『Pink Elephant』は、アクション映画のオープニングのように壮大なサウンドスケープで始まるが、その後、ダンスロックとオルタナティヴロックの中間にあるアーケイド・ファイアらしいサウンドが繰り広げられる。相変わらずソングライティングの質は高く、サウンドプロダクションの凝り方も尋常ではない。もちろん、プロデュースのこだわりかたも半端ではない。よく混乱した状況の中、こういったアルバムを制作したと大きな賛辞を送りたくなる。

 

ループ・エフェクトをボーカルやシンセ(エレクトロニクス)に配して、どのようにグルーヴが変化するのか、アンサンブルを通じてアーケイド・ファイアは探っている。成功した側面もあるかもしれない。

 

アルバムの冒頭を飾る、タイトル曲、「The Year Of The Snake」は、いずれも名曲である。前者は、センチメンタルなギターと壮大なシンセのシーケンスがウィン・バトラーのデヴィッド・ボウイ風のボーカルと劇的に混ざり、スケールの大きなロック世界を構築する。これは、標準的なミュージシャンにはなしえない傑出したソングライティングの手法だ。彼らは、Journeyのような80年代の産業ロックから90年代のオルタナ、そしてダンス・ポップなどをくまなく吸収し、アーティスティックなロックソングを作り上げるが、その真骨頂ともいうべきトラック。他方、後者は、二拍目にクレッシェンドを置くダンサンブルなビートを背景に、繊細なギター、重厚感のあるベースを取り巻くように、バトラー夫妻の息のとれたデュエットが繰り広げられる。ここには信頼を繋げるための力強い歌が存在し、それらがシンセやギター、ボーカルのリサンプリングやループといった曲の全体的な背景の構成をなす要素が重層的に連なり、そしてエモーショナルなアルトロックソングの真髄が貫かれる。このアルバムの中では最も壮大であり、彼らが啓示的な感覚を蘇らせた数少ない瞬間である。

 

 

アーケイド・ファイアは、2000年代初頭のダンスロックをリアルタイムで見知っている。 現在、キラーズにしても、アークティックにしても、ほとんど当時のダンサンブルなロックの要素は全盛期に比べると薄れたが、アーケイド・ファイアだけはこのジャンルの復刻、いわゆるリバイバル運動に熱心なイメージがある。それは、ライヴステージとスタジオレコーディングをつなげるための最適な方法であり、なおかつまた、ロックの復権的な運動とも言える。

 

前作はメッセージ色が強かったが、今作は音楽のアグレッシヴな楽しみをエスプリの聴いたポップソングのオブラートで包み込んでいる。つまり、直截的な表現を避け、音楽の向こうに本質を上手く隠したとも言える。また、音楽自体が言語的な意味を帯び、それらは感覚的なものとして掴むことが出来る。そして、ソングライティングの分担の程度はよくわからないが、ウィンとレジーヌ夫妻のソングライティングのどちらかの性質が強まる場合がある。「Circle Of Trust」、「Alien Nation」は、いずれも、デペッシュ・モードを彷彿とさせるメロディアスなダンス・ポップだが、それぞれ若干曲のイメージは異なる。内省的な雰囲気を持つダンス・ポップ、そして外交的でパンキッシュな印象を放つダンスロックというように、同じようなタイプのソングライティングを用いても、表側に出てくる曲の印象はきわめて対照的である。もちろん、繊細な感覚と外向的なエナジーを組み合わせたアーケイド・ファイアの魅力の一端が掴めるのでは。「Alien Nation」ではKASABIAN風のダンスパンクに挑み、しかもかなり上手く行ったという感じだ。少なくとも近年、失われつつあるロックソングの醍醐味を思い出させるような曲である。

 

 

アーケイド・ファイアがアートロックバンドと呼ばれるのには、それ相応の理由がある。例えば、シンセサイザーのインスト曲「Beyond Salvation」はアナログを用いたエレクトロニックで、アンビエントにも近い。しかし、最初期から、シアトリカルなロックバンドと呼ばれているように、そこには映画的なサウンドからの影響、また、描写的な音楽からの影響が含まれ、そしてそれは宇宙的なインストゥルメンタルという音楽のシナリオを展開させる働きをなす。

 

「Beyond Salvation」のアトモスフェリックな空気感を受け継いで、続く「Ride or Die」は、オーケストラのティンパニの打音を用いて、それらを玄妙な雰囲気を持つフォークソングに仕上げている。これまでヴェルヴェット・アンダーグラウンドを復刻させようとしたミュージシャンは数知れずだったが、そのフォークサウンドを次の段階に進めようと試みたのは、アーケイド・ファイアぐらいではないだろうか。つまり、アーケイド・ファイアは何らかのヒントとなるサウンドを持っているが、それをオリジナリティの高い音楽にしてしまうのが素晴らしい点である。決して模倣的なサウンドに陥ることがない。これはミュージシャンとしての才能の表れというしかない。

 

 

アーケイド・ファイアのアルバムを聴く際の楽しさというのは、最初から聴くことも出来れば、ランダムに曲を選曲することもできる点にあるだろう。要するに、あまり聴き方を選ばないということである。例えば、一つの曲が別の曲の前兆になったり、予兆になったりしながら、作品全体の宇宙がぐるぐる転変していくような不思議な感覚がある。ダンスロック風のサウンドをレトロにアレンジした「I Love Her Shadow」を経た後、終盤のいくつかの収録曲では、シネマティックなサウンドが展開される。聴き方によっては、映画館の暗闇で壮大なシネマを鑑賞するような楽しさを覚えるかもしれない。例えば、「She Cries Diamond Rain」はその代名詞的なサウンドとなるはずだ。

 

終盤では、U2の名曲を彷彿とさせる「Stuck In My Head」が強固な印象を放っている。正直なところ、U2にはあんまり似ていないけど、フォークとロックの中間にあるアーケイドらしい曲。前作に比べると、ボーカルが心許ない印象もあるかもしれないが、それもまた魅力の一つ。やはり、アーケイド・ファイアは現代のロックバンドの最高峰と言っておく必要がありそうだ。

 

 

 

 

90/100

 

 

 

 

Best Track-「Year Of the Snake」

 Maia Friedman 『Goodbye Long Winter Shadow』

 

 Label: Last Gang

Release: 2025年5月9日


Review

 

先週のアルバムのもう一つの実力作。マイア・フリードマンはカルフォルニア出身で、現在はニューヨークを中心に活動している。 現在、ニューヨークではインディーポップやフォークが比較的盛んな印象がある。このグループは懐古的なサウンドと現代的なサウンドを結びつけ、新しい流れを呼び込もうとしている。

 

マイア・フリードマンは、ダーティー・プロジェクター、そして、ココのメンバーとして活動してきた。二作目のアルバム『Goodbye Long Winter Shadow』はフローリストやエイドリアン・レンカーのプロデューサー、フィリップ・ワインローブ、そして、マグダレナ・ベイやヘラド・ネグロのプロデューサー、オリヴァー・ヒルとともに制作された。


このセカンド・アルバムでは、木管楽器、弦楽器、アコースティックギターが組み合わされたチェンバーポップ/バロックポップの音楽が通底している。このジャンルは、ビートルズに代表される規則的な4ビート(8ビート)の心地よいビートでよく知られている。マイア・フリードマンはこれらの60~70年代のポップソングにフォーク・ソングの要素を付け加えている。また、聴き方によっては、ジャズやミュージカルからのフィードバックも読み解くことが出来るかもしれない。

 

アメリカの世界都市の周辺で活動するミュージシャンには、意外なことに、普遍的な音楽性を追求する人々が多い。普遍性とは何なのかといえば、時代に左右されず、流行に流されないということである。マイア・フリードマンもまた、このグループに属している。フリードマンは、夢想的なメロディーを書く達人であり、それが純度の高いソングライティングに結びついている。 脚色的な表現を避け、人間の本質的な姿、あるいは、内的な感覚の多様さを親しみやすいポピュラー・ソングに結びつける。彼女の音楽は、扇動的なもの、あるいは即効的なものとは距離を置いているが、それがゆえにじんわりと心に響き、心を絆されるものがあるはずだ。タイプ的にはイギリスのAnna B Savageに近いものがある。アートポップとしても楽しめるはず。

 

 

ソングライターの作り出すオーガニックな雰囲気は、このセカンド・アルバムの最大の魅力となるだろう。アコースティックギターの涼し気なカッティングから始まる「1-Happy」は、フリードマンの優しげな歌声と呼応するように、木管楽器や弦楽器のトレモロの一連の演奏を通じて、映画のワンシーンのようなシネマティックなサウンドスケープを呼びさます。全般的には、エレクトロニクスのビートも断片的に入っているため、アートポップの領域に属するが、必ずしもそれはマニアックな音楽にとどまることはない。ボーカル/コーラスを自然に歌い上げ、それと弦楽器の描く旋律の美しさと調和することにかけては秀でている。時々、転調を交えた弦楽器がのレガートが色彩的なパレットのように音楽の世界を上手く押し広げていくのだ。

 

こうした比較的現代的なアートポップソングがアルバムの導入部を飾った後、「New Flowers」では、60-70年代のバロックポップ/チェンバーポップのアプローチを選んでいる。しかし、これは単なるアナクロニズムではなく、音楽的な世界を深化させるための役割を果たしている。マイア・フリードマンのボーカルは淡々としていて、曲ごとに別の歌唱法を選ぶことはほとんどない。それは考えようによっては音楽により自然体のセルフパーソナリティを表現しようと試みているように思える。二曲目では、ざっくりとしたドラムテイクを導入し、曲にノリを与えたり、フレーズの合間に木管楽器と弦楽器のユニゾンを導入したりと相当な工夫が凝らされている。しかし、曲が分散的になることはほとんどない。これは歌そのものの力を信じている証拠で、実際的にフリードマンの歌は、遠い場所まで聞き手を連れていく不思議な力がある。

 

また、音楽的に言及すれば、複数の楽器のユニゾンを組み合わせて、新鮮な響きをもたらしている。3曲目「In A Dream It Could Happen」はアコースティックギターとピアノのユニゾンで始まり、おしゃれな印象を及ぼす。そしてフリードマンの歌は伸びやかで、音楽的なナラティヴの要素を引き伸ばすような効果を発揮している。その後、弦楽器のレガートと呼応するような形で、ボーカルが美しいハーモニーを描く。ボーカルは、ささやくようなウィスパーとミドルトーンのボイスが組み合わされて、心あたたまるような情感たっぷりの音楽を組み上げていく。これはボーカルだけではなく、オーケストラ楽器の演奏が優れているからに他ならない。曲を聴いていると、驚くような美麗なハーモニクスを節々に捉えることが出来る。 そしてそれは調和的なハーモニーを形成する。曲の後半ではジャズふうになり、コーラスが芳醇な響きを形成する。これは単発的な歌の旋律だけではなく、全体的な調和に気が配られている証拠なのだ。

 

こういった中で、インスト曲の持つ醍醐味が楽しめる曲が続く。「Iapetus Crater」は弦楽器と木管楽器の演奏がフィーチャーされ、スタッカートのチェロに対してオーボエが主旋律の役割を担う。モダンクラシカルな一曲であるが、気楽な雰囲気に満ち溢れていて、聴きやすいインタリュードである。続く「Russian Blue」はフォークをベースにしたアートポップソングで、オーガニックな雰囲気が強く、アコースティックギターとドラムが活躍する。この曲はゆったりとしたテンポで進んでいくが、メロの後にすんなりとサビに入っていく。その後の間奏の箇所では、オーボエの演奏が入り、いわばボーカルの全般的なフレーズの余韻を形作る。良いボーカルソングを書くためには、どこかで余韻をもたせる箇所を作るのが最適であるという事例がこの曲では示唆されている。そしてその後、サビに戻るというかなりシンプルな構成から成り立っている。続く「Suppersup」は、しっとりとしたフォークソングで、とりわけ、アコギの録音にこだわりが感じられる。ゆったりとしていて、リラックス出来るようなインスト曲となっている。さらに、「A Long Straight Path」では赤ん坊の声の録音を用い、短いシークエンスを作る。

 

 同じようなタイプの楽曲を収録するときに、フルアルバムとしては飽きさせるという問題が生じることがある。しかし、マイア・フリードマンは、音楽的な背景の広さを活かし、それらをクリアしている。ただ、その全般的な音楽の基礎となるのは、飽くまで、フォーク・ミュージックで、その中心点を取り巻くような感じで、アートポップ、ジャズ、クラシック、さらには映画音楽を始めとする音楽の表現が打ち広がっていく。言い換えれば、フォーク・ミュージックから遠心力をつけて遠ざかるというソングライティングのスタイルがアルバム全般において通底している。また、どの部分の要素が強くなるかは、制作者やプロデュースの裁量や配分で決まり、どこで何が来るかわからないというのが、セカンドアルバムの面白さとなりそうである。

 

例えば、「On Passing」は、何の変哲もないアコースティックギターをメインとするフォークソングにきこえるかもしれない。しかし、ソングライティングの配分が傑出していて、ケイト・ルボンのようなアートポップのエッセンスを添えることで、新鮮な響きをもたらしている。

 

器楽的な音響効果というのも重視されている。「Foggy」は、グロッケンシュピールを使用して、アトモスフェリックな音楽を作り上げている。アルバムの収録曲は、すべてシングルのような形で収めることは、最適とは言えない。フルアルバムは、いわば掴みのためのシングル曲のような強進行の曲(力強い印象を放つ主役の楽曲)と、B面曲のような効果を発揮する弱進行の曲(脇役のような意味を持つ曲)の共存により成立しているのである。もしも、シングルだけを集めたら、それはオリジナルアルバムではなく、アンソロジーになってしまう。こういった中、雰囲気に浸らせるような弱進行の曲が他の曲の存在感を際立たせ、一連の流れを作り上げる。

 

マイア・フリードマンのアルバムは、フルアルバムが物語のような流れを作る模範例のようなものを示している。一貫して牧歌的な音楽性が歌われ、それは混乱の多い世界情勢の癒やしとも言えるだろう。「Vessel」は繊細な趣を持つインディーフォーク・ソングであり、いわばこれはメインストリームの音楽とは別の形で発展してきた音楽の系譜を次世代に受け継ぐものである。 そして、ここでも、エイドリアン・レンカー(Big Thief)やエミリー・スプラグ(Florist)といったニューヨークのソングライターの曲と音楽性に違いをもたらすのが、アートポップの要素だ。イントロはフォークソングだが、サビの部分でアートポップに飛躍する。つまり、マイア・フリードマンの曲は、イントロを一つの芽として、それがどのように花咲くのかという、果物や植物を育てていくような楽しさに満ちあふれているのである。 こういった女性的な感性は、成果主義や結果を追求する男性的なミュージシャンには、あまり感じられない要素かもしれない。

 

「A Heavenly Body」のようなピアノの伴奏をベースにした楽曲は、哀感やペーソスのような感情の領域を直截的にアウトプットするために存在する。ようするに、制作者は器楽的に感情表現や言いたいことを選り分けるため、楽器を使い分ける。その点では、オーケストレーションの初歩的な技法が用いられていると言える。もちろん、制作者は音楽的な変化を通じて、それらを使い分ける。マイア・フリードマンは感情の波を見定め、曲と曲を繋ぐ橋のような役割に見立てている。「Open Book」はモダンクラシカルの曲で、気品のある弦楽器がボーカルと合致している。そういった中で、あまり格式高くなりすぎないのは、オーボエの演奏に理由がある。曲そのものにルーズな感覚を与え、音楽の間口の広さのようなものを設けているのである。

 

アルバムは、連作を除いて、アルバムという一つの世界で終わりを迎えるべきである。それは一つの世界の追求を意味する。オーケストラ、ジャズ、フォーク、アートポップが重層的に折り重なる中、マイア・フリードマンの音楽的な世界は、絵本のような童話的な領域を押し広げていき、見方によっては、平穏で美しい世界を形成している。権力、動乱、混乱、闘争といった世界とは対極にある和平の世界を作り上げる人もいてはいいのではないか? そのことを象徴付けるかのように、北欧神話、ケルト神話のようなファンタジー性を持つ楽曲性が、オーケストラ楽器により構築され、北欧やアイスランドの音楽に近くなる。それは「Soft Pall Soft Hue」のような楽曲にはっきりあらわれている。室内楽として本格的な楽曲も収録されている。これらは、Rachel'sやレイチェル・グリム、あるいはアイスランドのAmiinaのような室内楽をポピュラーソングやジャズの方向から再解釈しようとしたモダンクラシカルの一派に位置づけられる。

 

そういった中で、軽快なアルバムのエンディングを迎える。「Witness」はいくつかの変遷を経て、制作者が明確な答えのようなものを見出した瞬間である。マイア・フリードマンは、長い冬を背後に、次なる新しい季節へと意気揚々とあるき出す。余韻を残すことはなく、また後味を残さない、さっぱりしたアルバム。15曲というボリューミーな構成であるが、それほど長さを感じさせない。と同時に長く楽しめるようなアルバムとなっている。個人的にはイチオシ。

 

 

 

 

85/100

 

 

 

「New Flowers」

 Blondeshell 『If You Asked For A Picture』


Label: Partisan

Release; 2025年5月2日


 

Review

 

 

2023年に続くブロンドシェルのセカンドアルバムはPartisanからリリースされた。昨年のレーベルのアルバムはほとんど”当たり”だったが、今年も本作をリリースし、2025年の本格的な幕開けを告げる。ブロンドシェルのセルフタイトルのデビューアルバムでは、ロックシンガーとしてのキャラクターが押し出されていた。


セカンドアルバム『If You Asked For A Picture』では持ち前のポップセンスを駆使し、ポピュラーとロックの中間にある聴きやすいオルトロックソングが生み出された。アルバム全体には、ほろ苦いセンチメンタルな雰囲気が漂う。USインディーロックの真髄のような作品である。 

 

サブリナ・タイテルバウムは、前作から受け継がれる直感的なソングライティングの方法を発展させ、メアリー・オリヴァーの詩にインスパイアされたタイトルを今作に据えた。タイテルバウムは、内的な感情をソングライティングのテーマに置き、コントロール、人間関係、そして自己反省といった主題を探求し、それらは自伝的な物語へと繋げている。さらに、プロデューサーは前作に続いて、イヴ・トスマンを抜擢し、デビュー作の手応えを受け継ごうと試みる。セカンドアルバムのオルトロックはときおり、重層的なテクスチャーを作ることもあるが、基本的には、''良質なメロディーメイカー''としてのブロンドシェルの性質を反映させている。

 

 

その中で、ほろ苦いセンチメンタルな楽曲が目立つ。スリーコードを中心とするバッキングギターはベースラインを描き、シンプルで儚い歌が歌われるが、これはファビアーナ・パラディーノに象徴されるUKポップスの最新のスタイルを踏襲している。


しかし、全般的なプロデュースや曲作りの形はイギリス・ライクであるにせよ、西海岸のような雰囲気が乗り移るときもある。タイテルバウムのエモーショナルなボーカルは、いわばカルフォルニアの幻影的な雰囲気を持つロックソングで、MOMMAの音楽性と地続きにある幻想的な雰囲気と結びつくこともある。

 

アルバムは内的な告白のような感じで始まる「Thumbtack」を筆頭として、アコースティックギターをフィーチャーしたフォーク・ソングをベースにしたポップスで始まる。


続く「T&A」ではエッジの聴いたロックソングを楽しむことが出来る。そして一番の魅力は、良質なメロディーセンスを持つタイテルバウムのボーカルであることは疑いがない。 ギターワークも念入りに作り込まれているが、同時に、ブロンドシェルの曲というのはアカペラで歌っても曲として成立するよう制作されている。だからこそ聴きやすさがあるのではないかと思う。

 

そんな中、90年代のUSロックの愛好家としての表情も伺わせる。「Arms」ではフェーザーを用いたギターを中心にグランジ風のロックトラックを聴くことが出来る。しかし、こういった懐古的なアプローチを選ぼうとも、曲にフレッシュな印象が残る理由は、コーラスワークやボーカルに軸が置かれ、それらが背景となるウージーなロックギターと巧みに合致しているからだ。90年代が中心なのかと思わせておき、時間を少しずつ遡るかのように、80年代のUSロックへと接近していく。それは産業ロックの雰囲気を醸し出し、同時にサザンロックのような渋さがある。アメリカのロックソングの歴史をシンプルに辿りなおすような楽曲となっている。

 

こういったロックソングがブルースのような音楽と地続きにあることを想起させるマディーな曲もありながら、ブロンドシェルの最大の持ち味というのは、ポップスとロックの中間層にある淡いポピュラー・ソング。「What's Fair」はこのアーティストを知らない方におすすめしたい。

 

ポリスの音楽を想起させるニューウェイヴとポップの融合は、やはりUKの最新のロックの系譜に沿っている。最近のロックソングは基本的に、複雑さではなく、簡素さに重きが置かれている。ここでは、ベースラインをなぞるユニゾンのギターに清涼感を持つボーカルを歌うという最新のソングライティングの手本が示されている。複雑な構成を持つ音楽は耳の肥えた聞き手は聴きこなすことが可能かもしれないが、一方で、長く聴き続けることを倦厭させる場合がある。

 

そして、その煩瑣さや複雑さが一般的に受け入れられるためには、どこかの段階でそれらを濾過したり、省略したり、聴きやすいように組み直すことも必要になってくるかもしれない。また、これは、音響学の観点から言えば、人間の一般的な聴覚の能力には限界があり、同時に、複数の情報を捉えるのにも限界がある。そういった点を踏まえた科学的な見地から見た簡素化や均一化の段階である。さらに言えば、出力される音楽は、どこかで平さないといけなくなる。そして、膨大な情報から何を引っ張り出してくるのかが、現代の音楽家の命題であり、あるいはセンスともいえる。もちろん、それは音量や音域の要素も含め、人間には可聴領域の限界があるからだ。そこで、どのようなフレーズを聞かせたいのかを明瞭にする必要がある。言いかえれば、どんなふうに聞き手や聴衆に聞いてもらいたいのかを明らかにすることが大切なのだ。

 

そういった意味では、ブロンドシェルは、オルトロックからセレブレティのポップスまでをくまなく彼女自身の音楽的な感性として吸収し、それらを自分なりにどのようにアウトプットすべきかを熟知している。もちろん、それはプロデューサーとの共通認識のようなものなのだろう。そして90年代のロックの系譜をあらためてなぞらえるかのように、サイレンスとラウドネスを巧みに行き来し、メロとサビを対比する王道の手法を用い、グッドソングを築き上げる。そこには聞き手に対する配慮が込められていることに気づく。つまり、曲を演奏したときに、どのようなリアクションが起こりえるかを、ブロンドシェルは予測して作曲を行っているのだ。

 

今回のセカンドアルバムに話を絞れば、フォーク・ソングをベースにした曲、そして80年代のポップスに依拠した曲、それらを艶やかなロックとして組み直した曲など、音楽的には幅広さがあるが、それらは、ブロンドシェルの伝えたいことを拡張させるアンプやフィルターの役割を担う。そして、この場合、実際的なボーカルの音量は必ずしも必要ではないということである。


さらに、どのような音の形を選ぼうとも、他の人の借り物になることはなく、ブロンドシェルの音楽としてしっかり確立されているのがストロングポイントだ。これはソングライターとしての人格が定まっているからで、あれやこれやと手をのばすような移り気な気質は、このアルバムにはほとんどないように思える。

 

そんな中で、バラード的なほろ苦い感じと清々しい感覚が組み合わされて、独特なエモーションを持つポピュラーソングが作り上げられることがある。

 

「Event of A Fire」は、ベースラインと単旋律を元にしたギターとボーカルという簡素な編成であり、サビだけドラムが導入される。ただ、こういったシンプルな構成であろうとも、タイテルバウムのボーカルの存在感は依然として維持されている。つまり、音の要素が多くなくても、良い曲を作ることは可能ではないかということを、ブロンドシェルは明示するというわけである。


 この曲では、クランチで力感を持つギターとセンチメンタルで脆さのあるボーカルという音域的な棲み分けによって、親しみやすいロックバラードが作り出された。つまり、ギターの中音域、ドラムの低音域、ボーカルの高音域というように帯域の棲み分けができているため、マスタリングもくっきりとしていて、ポップソングとしてもロックソングとしてもとっつきやすさがある。

 

音楽は、リズム、メロディー、ハーモニー、構成から出来上がり、これらのうちのどれも軽視出来ない。これはどのようなジャンルにも共通している。ブロンドシェルのソングライティングは、メロディーにしてもリズムにしても優れていて、掴みやすい特徴がある。さらに感覚的に言及すれば、アメリカ的なノスタルジアによって組み上げられ、そしてそれは前の時代の回想という観点にとどまらず、聞き手の心に何らかの温かなノスタルジアを呼び覚ますことがある。


明確な歌詞として現れることもなく、さりとて、音楽的にわかりやすい形で提示されるわけでもない。もしかすると、歌詞の行間から本質的な意味を汲み取る''サブテクストの音楽''と呼ぶべきなのかもしれない。しかし、音楽そのものが、何らかの背景を感覚的に掴むためにあるという特性が、ふてぶてしい感じのあるブロンドシェルの音楽性と合致し、現代人の感情のメタファーとして幾重にも渦巻き、ソングライティングの基礎を形成し、最終的には、シンガーの歌の魅力が滲み出てくる。もちろん、それらが良質な音楽となっているのは言うまでもないだろう。

 

ブロンドシェルの曲は、90-00年代のロックを基礎とし、80年代のディスコポップ、70年代のフォークロック、あるいは、断片的なR&Bが重層的に絡みあい、アメリカの商業音楽の余韻を生み出す。本作は、個人的で感覚的であるため、底しれぬ魅力がある。それが目に見える形となったのが、「Change」、「He Wants Me」、「Man」といった隠れたハイライト曲である。

 

これらが最終的には、西海岸のMagdalena Bay(マグダレナ・ベイ)のような、幻想的なポップと結びつき、アルバムのクローズ「Model Rocket」という結末に表れ出ることになった。古典性と現代性の混在、そして音楽の実存する時間軸を忘失するかのように、音楽の無限のジャングルの奥地へと冒険的に潜り込んでいる。やはり、これは西海岸らしい作品といえるのかもしれない。

 

 

 

86/100

 

 

「Thumbtack」


 Vivienne Eastwood   『Take Care』

Label: Self Release

Release: 2025年4月25日

 

 

Review

 

ニューヨーク/ブルックリンのシューゲイザープロジェクト、Vivienne Eastwood。シューゲイズのニュースターの登場の予感である。ベッドルームポップとシューゲイズ/エレクトロニカを組み合わせたセンス抜群のサウンド。

 

使用機材は明らかではないが、シンセを用いたエレクトロニカ、時々、オートチューンを用いたアンニュイなボーカル、そして、フィードバックノイズを生かしたギターが組み合わされ、ヴィヴィアン・イーストウッドのサウンドの礎石が出来上がる。近年では、ドリーム・ポップとシューゲイズの切れ目や境界線がなくなってきていて、多くがポピュラーソング化しているというのが現状であるが、エレクトロニック・ベースのシューゲイズとして楽しめるに違いない。

 

『Take Care』の冒頭を飾る「embrace」はシンセのアルペジオから始まり、苛烈なシューゲイズサウンドへと移行する。しかし、TikTokサウンドを意識したポップソングの風味が加わり、新世代のニューゲイズサウンドが作り上げられる。ポップだがロック、ロックだがエレクトロニック……。多角的な楽しみ方が出来るポスト世代のシューゲイズサウンドでアルバムは幕を開ける。

 

本作のサウンドは、その後、ギターロックを主体とするシューゲイズへと移行していく。「favourite」ではDIIVのポスト世代のサウンドを聴くことが出来る。「demise」ではMy Bloody Valentineのシューゲイズの源流ーーグラスゴーのネオアコースティックーーのサウンドを踏まえ、ピッチシフターを用いた現代的なボーカルでポスト世代のロックミュージックを作り出す。自主制作盤なので、まだまだ荒削りなサウンドであるが、才気煥発なセンスが迸っている。

 

 ヴィヴィアン・イーストウッドの個性的なキャラクターが明瞭になるのが、エレクトロニックとシューゲイズ、そして近年のソロアーティストのポップの文脈として登場したベッドルームポップが目覚ましく融合する瞬間である。「squeeze」は、打ち込みのビートの上にディストーションギター、ボーカルをレコーディングするという、まさしく宅録仕込みの音楽である。なかでも緻密な構成を持つシンセのアルペジオ、そして、トラックの表面に重ねられるフェーザーを施したギターライン等、サウンド面での工夫が凝らされている。これらのシューゲイズサウンドはあくまでもボーカルのハーモニーの効果が重視され、器楽的な効果を持つボーカルトラックとしてミックスされている。これは、Verveなどの90年代後半のUKロックの影響だろう。

 

今まで、MBVのサウンドを追求してきたバンドは数しれなかったが、そのほとんどが完成寸前のところで踵を返したため、再現までには至らなかった。だが、最新鋭のエレクトロニクスの技術の進歩により、ようやくケヴィン・シールズのギターの音作りに接近したという印象を抱く。


「burnt lips」はハイライトの一つ。イントロは「I Only Said」のオマージュだが、その後はRIDEのようなエモーショナルで繊細なシューゲイズサウンドに移行していく。この曲において、彼らはフォロワー以上の存在感を示すことに成功している。魔神的な印象を持つディストーションギター、陶酔感のあるボーカルという、なかなかの再現ぶりであるが、ベッドルームポップ的なアプローチ、ホームレコーディング風のアプローチがこの曲にオリジナリティを付け加えている。

 

 

アルバムの後半ではデジタル世代らしいクリアな質感を持つシューゲイズ、MOGWAIを思わせる音響派の広大な世界観を擁するポストロックを聴くことが出来る。また、この中で、フレーズの転調の要素を用い、グルーヴや、トレモロ/ピッチシフターで作り出すトーンの変調を登場させ、シューゲイズのリバイバルに取り組んでいる。しかしながら、このアルバムには、単なるリバイバル以上の何かが隠されていることは、鋭い聞き手であればお気づきになられるだろう。


例えば、「ashly」、「ancient sign」などは、未来志向のサウンドを把捉することが出来る。その一方で、アルバムの後半に収録されている「method acting」も隠れたハイライト曲である。MOGWAI、Explosions In The Skyを筆頭とする音響派のポストロックの原石に磨きをかけ、 それらをドリームポップライクの現代的なサウンドで縁取っている。旋律的な心地よさ、そして、抽象的で淡いボーカルは、曲の背景となる極大の音像を持つギターのアンビエンスと上手く溶け合う。これらは、ハイファイ時代のシューゲイズサウンドの出現を予見しているかのようだ。

 

『Take Care』は心地よいマテリアルを積み重ねていったらこうなった、というような感じである。変な気負いがなくて◎。これは、ポストロックとも、アンビエントとも、あるいはシューゲイズともいえない、次世代のロックサウンドがもうすぐそこまで出かかっている予兆なのだ。フォロワー的なサウンドが多いけれど、何かしら期待感を持たせてくれるアルバムである。

 

アルバムのクローズを飾る「devotion」も普通に良い。2分後半からのラウドで恍惚感に満ちたサウンドは必聴である。これらはアシッドハウスやシューゲイズというジャンルでしか味わえないものだ。ブルックリンから魅惑的なシューゲイズプロジェクトが出てきた。

 


78/100

 

 

 MOULD 『Almost Feels Like Purpose』EP 

 

Label: 5dB Records

Release: 2025年4月24日



Review

 

 

ブリストル/ロンドンに跨って活動するMOULD。 2024年デビューEPをリリースし、BBC Radio 6でオンエアされ、DORKでも特集が組まれた。イギリスの有望なパンクロックトリオである。『Almost Feels Like Purpose』EPは間違いなく先週のベストアルバムの一つに挙げられる。パンクロックの魅力は完成度だけではない。時には少しの欠点も魅力になり得ることも教えてくれる。

 

モールドのサウンドは、Wireのようなニューウェイブを絡めたイギリスのポストパンク、エモ、ハードコア、Fugaziのようなポストロック、グランジ、そして時々、最初期のグリーン・デイのようなメロディックパンクの雰囲気を持つ。デビューEPでは、まだ定かではなかった彼らのサウンドは『Almost Feels Like Purpose』において、より鮮明さを増したと言えるかもしれない。侮れないものがある。

 

MOULDは、特定の決められたサウンドを目指しているわけではないという。ただもちろん、思いつきのみでパンクをやっているというわけでもない。モールドの曲は緻密な構成を持つ場合があり、バンドアンサンブルとして玄人を唸らせる。こだわり抜いた職人気質のギターサウンド、ニューウェイヴに依拠したしなやかなベースライン、そしてメチャクチャ打数が多いが、バンドのラウドなサウンドをタイトにまとめ上げるドラム等、聞き所は満載だ。これらはジェイムスが言う通り、このバンドよりも前にやってきたことの成果が巧緻なサウンドにあらわれている。

 

 二作目のEPは、昨年の夏に彼らのホームタウンのブリストルでレコーディングされた。同時に全般的なサウンドとして音圧のレベルが上がっている。いわば、リスナーの元にダイナミックなモールドのサウンドが届いた。デビューEPのサウンドと地続きにあり、同時にファーストEPでは見られなかった新しいサウンドの萌芽もある。



「Oh〜!」というサッカースタジアムのチャントのように陽気に始まる「FRANCES」では、従来のStiff Little Fingersのようなガレージロックサウンドのようなブギーで粘り気のあるギターリフを00年代以降のメロディック・パンクのイディオムと結びつけ、軽快なサウンドを作り出している。このバンドの持ち味のシャウトやドライブ感のあるパンクロックが所狭しと散りばめられているが、一方で、楽曲の展開の面で工夫が凝らされている。つまり、変拍子、静と動、緩急を生かしたサウンドが、性急で疾走感のあるパンクサウンドを巧みに引き立てているのだ。

 

MOULDのサウンドは「落ち着きのない人のための音楽」と言われることがあるとジェイムスさんから教えていただいたが、それはジェットコースターのようにくるくると変化する曲調に要因がありそう。そして、実際的に、これはMOULDの現在の大きな武器や長所、そして特性でもある。「TEMPS」は、Wireのようなニューウェイブ系のパンク・ロックサウンドを印象付け、そしてこのトリオらしいシンガロングを誘うキャッチーで温和なメロディーで占められている。


さらに、このバンドの持ち味であるガレージロック風の硬質なギターリフを中心とし、パブでの馬鹿騒ぎをイメージづけるような、ノリの良いパンクロックソングが繰り広げられる。時々、ラウドとサイレンスを巧みに行き来しながら緩急のある構成力を活かし、全般的には、最初期のグリーン・デイのように、ロックンロールの要素が心地良いサウンドを作り上げていく。

 

また、MOULDのサウンドはバイクで疾走するようなスピード感が特徴である。これらのデビューソング「Birdsong」と地続きにあるのが「Snails」である。ガレージ・ロックの系譜にある骨太なギターラインで始まるこの曲は、バクパイプの残響を思わせるギターの減退の後にボーカルが加わると、驚くほどイメージが様変わりし、メロディックパンクの次世代のサウンドの印象に縁取られる。いわばモールドらしいコミカルなパンクサウンドが顕わになるのである。


「Snails」は、ドラムの演奏が巧みで、爆発的なリズムやビートを統制するスネア捌きに注目である。さらに、曲調がくるくると変化していき、曲の中盤から後半にかけて、シンガロングなボーカルのフレーズが強い印象を放つ。ロックソングのメロディー性に彼らは重点を置いている。特に、この曲のサビは素晴らしく、モールドの爽快感のあるエモーションが生かされている。

 

 

また、モールドは単なるパンクバンドではなく、音楽性が幅広く、そして何より器用である。さらに、柔軟性も持っている。単一のジャンルにこだわらない感じが、彼らのクロスオーバー性を作り出し、そして多角的で奥行きのあるロックサウンドを作り上げていく。 パンクロックソングの中にあるロックバラードの性質、言わば、泣きの要素が続く「Wheeze」に示唆されている。


この曲では、ゆったりとしたテンポが特徴のオルタナティヴロックソングである。同じようなフレーズが続くのに過ぎないのだけれど、実験的なホーンが取り入れられたりと、アメリカン・フットボールのエモを巧みに吸収しながら、モールドらしいサウンドとして抽出している。


さらに、曲の中盤では、ビートルズ・ライクのサウンドも登場したりと、音楽的な魅力が満載である。そしてモールドらしく熱狂性が曲の後半で炸裂し、ピクシーズの「RIver Ehphrates」のようなチョーキングでトーンが変調するサウンドや、チェンバーポップ風のチェンバロをあしらったアレンジメントが登場したりと、オルタナティヴロック・バンドとしての表情も伺わせる。

 

EPの後半では、ハードコアやヘヴィーなロックサウンドに傾倒する。しかし、曲の展開の意外性、先の読めなさというのが今作を楽しむ際の最大のポイントとなるだろう。


ハードなエッジを持つポストハードコア・サウンドで始まる「Brace」であるが、その後はコミカルな風味を持つキャッチーなポップパンクソングに変遷していく。このあたりの''変わり身の早さ''が、モールドの最大の魅力といえるか。この曲は少しずつギアチェンジをしていくように、三段階の変化をし、最初はポスト・ハードコア、そして、ポップ・パンク、ジョン・レノン風のロックソング、あるいはビートルズのホワイトアルバムのようなサウンドへと移ろい変わる。

 

曲の後半では、Bad Religionのようなエッジの効いたパンクロックソングを聴ける。この曲で、近年、ハードになりがちなパンクに安らぎや癒しを彼らはもたらそうとしている。このEPはモールドの多趣味さや音楽的な幅広い興味が満載である。何度聴いても飽きさせないものがある。

 

アンプリフターから放たれる強烈なフィードバックノイズをイントロに配した「Chunks」は、昨年の「Outside Session」でも披露された。Fugaziのような実験的なポスト・ハードコアサウンドだが、その途中に若さの奔流が存在する。


ハイハットのマシンガンのような連射、グランジのように低く唸るベースライン、タムのドラムのヘヴィーな響き、マスロックやトゥインクルエモ(ポストエモ: メロディックパンクとエモの複合体)の性急なタッピングギター、そして、結成当初はハードコアパンクを前面に押し出していたBeastie Boys(ビースティボーイズ)のように、ラップからパンクに至るまで変幻自在なジャンルを織り込んだボーカルスタイルが織り交ぜられ、モールドの持つ”宇宙的な広大さ”が露わとなる。


そして彼らは、サウンドをほとんど限定することなく、思いつくがままに、刺激的で緻密なパンク/ロックサウンドを展開させる。


アークティック・モンキーズの最初期のスポークワードやラップの影響下にあるロックサウンドを垣間見せたかと思えば、曲の中盤から、デスメタル/グラインドコア風のシャウトの唸り、そして、疾走感のある痛快なパンクロックサウンドへと移ろい変わっていく。曲の展開はまるで怒涛の嵐さながら。これぞまさしく、若いバンドだけに与えられた特権のようなものであろう。

 

デビューEPは曲の寄せ集めのような初々しさがあったが、二作目のEP『Almost Feels Like Purpose』ではいよいよモールドらしさ、音楽の流れのようなものが出てきた。ライヴレコーディングのような迫力、そして若いバンドらしい鮮烈さに満ち溢れている。聞いたところによると、まだまだ持ち曲はたくさんあるということ。今後もモールドのアクティビティに注目だ。

 

 

 

85/100 

 

 

Mouldの特集記事:

MOULD  Bristol up-and-comer explains about making debut EP  -ブリストルの新進気鋭  デビューEPの制作について解き明かす- 

New Album Review:     Susanne Darre   『Travel Back』EP  

 

Label: Fluttery Records

Release: 2025年5月16日

 

Review

 

ピアノ曲の小品を主要な作風とするモダン・クラシックの一派は、これまでアイスランドのレイキャビクやイギリス/ドイツのアーティストを中心に作り上げられてきた。スザンヌ・ダールはこの次の世代の音楽家であり、メロディーの良さに重点を置いた感傷的なピアノの良曲を書いている。

 

5月16日にリリース予定のEP『Travel Back』は、ノルウェーのミュージシャン、Susanne Darre(スザンネ・ダール)による2024年のアルバム『Fragile』に続く作品となる。サンフランシスコのレーベル、Flutteryからのリリース。


スザンネ・ダールのピアノ音楽は、聴きやすく、琴線に触れる切ない旋律が特徴となっている。例えば、アイスランドのオーラヴル・アルナルズ、アイディス・イーヴェンセン、日本の高木正勝、坂本龍一、小瀬村晶、アメリカのキース・ケニフ(Goldmund)の音楽性を彷彿とさせる。あるいは、イージーなリスニングを意識した、静かでささやかなピアノの小品集としても楽しめる。カフェやレストランなど商業的な店舗のBGMとしてもオススメしたい。

 

近年のピアノ曲は、従来より音楽自体がポピュラー化している。ときに、それは旋律を口ずさめるという要素も込められているかもしれない。そして和声や楽曲の構造も簡素化に拍車がかかっている。これは近代以降、ミュージックセリエルなどの無調音楽が優勢になったことへの「反動」のようなものである。

 

結局のところ、ストラヴィンスキーやラヴェルなどの無調音楽に近い和声を多用した音楽家、そして、以降のジョン・アダムスですら調性を完全には放棄していない。彼らは、「調性の中の無調」というJSバッハの平均律の要素を異なる形で追求していた。いよいよ現代音楽そのものが形骸化しつつあり、内輪向けのものに変わりつつある中で、「無調の音楽をやる意味は何なのか?」という迷宮のような問いに対して、あっけないほど簡潔な答えを出したのが、2010年前後のドイツ/ベルリンのニルス・フラームであった。ロマン派の影響を交えたピアノ音楽は、ある意味では、それまでの現代音楽の作曲家とは別軸の答えを出したのだった。それは、結局のところ、ミニマリズムの範疇にある「音楽の簡潔化」という趣旨であった。クラシックは、つまり、ポピュラー、そしてイージーリスニングやアンビエントの範疇にあるBGMのような音楽の要素と結びついて、2010年代以降、以前とはまた別の形で蘇ったのである。だから、アンビエントプロデューサーの主催するレーベルから、このような音楽がリリースされるというのもうなずける話だ。それは別の形で音楽が繰り広げられるに過ぎないのかもしれない。

 

 

アートワークに象徴されるように、スカンジナビアの美しい風景を想起させるピアノ曲が中心となっている。それは、無限の時間と個人的な追憶という、2つの概念を原動力にして、伴奏と主旋律というシンプルな構成のピアノのパッセージが緩やかに流れていく。性急さとは無縁の落ち着き、静けさ、それは例えば、忙しい時間の中に生じる休息、そして、思い出の感傷的なエレジーのような雰囲気を持つに至る。「1-Nostalgia」はその象徴的な楽曲で、繊細でセンチメンタルな感覚を呼び覚ましてくれる。音の追憶の底に揺らめく安らぎ、時の流れが持つ美しさを感じ取ることも難しくはない。

 

「2-Picture」では、ニルス・フラームの最初期のようなイージーリスニングとモダンクラシックの中間にあるミステリアスな音楽を提供している。しかし、幾つかの下地やヒントがあるとはいえ、北欧のスカンジナビアの冬の雪の光景を思わせるような幻想的なサウンドスケープが施され、シンプルなピアノ音楽の中に神秘的な雰囲気と北欧神話のような幻想性を付け加えている。北欧的な神話の幻想性というのは、このノルウェーの作曲家の独創性の一つであり、最大の美点である。ぼんやり聴き始めると、いつの間にか終わってしまう。BGMのような性質を持つ、客観的な音楽である。

 

「3-Travel Back」は、ささやかであるが、センチメンタルで感傷的なピアノ曲である。イントロはドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」を彷彿とさせる、閃きのある単旋律を導入音として引き伸ばし、その後、淡々と短調を中心とするピアノのパッセージが続いている。この曲は、EPの楽曲構成の中で最も感傷的なイメージを持つ。 ピアノに深いリバーヴを施し、独特なアンビエンスを形成するという側面では、近年のモダンクラシックの流れに依拠している。


そして、同時に、何らかのサウンドスケープを呼び覚ます力があり、アルバムの全体的なイメージである、冬のスカンジナビアの海岸の光景や、その幻想性を想起させる。また、マスタリングのサウンド処理で、あえて高音部にエフェクトを施し、アンティークのピアノのような音色を作り出す。このあたりの残響を生かしたアトモスフェリックなサウンドは、アイスランドのオーラヴル・アルナルズに近い感覚がある。追憶の底にある懐かしさのような瞬間が演奏で表現される。聞き手は、その追憶という名の果てなき迷宮に迷いこまざるを得ない。

 

 

クローズを飾る「Hap」 EPの中で最も力が込められているように感じる。実際的に素晴らしい一曲である。この曲はミュージシャンが住むノルウェーの冬、雪深い風景という映像的なモチーフが、ピアノの麗しいパッセージによって、最も荘厳な美麗さを帯びる。アトモスフェリックなシークエンスを背景に繰り広げられる、アルバムに通底するマイナー調のピアノ曲は、冬の寒さ、儚さ、生命の気配に乏しい感覚を呼び起こすが、しかし、そこにしっかり息づく生命の神秘的な力を感じさせる。このピアノ曲は、クライマックスにかけて、幻想性が強まり、アートワークにリンクするかのように、神妙なエンディングを迎える。そこには、厳しさと慈しみを併せ持つ自然の崇高性に相対する時の人間の姿が、印象派の絵画のように、ものの見事に活写される。

 

ノルウェーの音楽家、スザンネ・ダールの描く音楽の世界は、追憶を元にした感傷的なエレジーのようだ。しかし、同時に、その最後には、感嘆すべきことに、神秘的な生命の力強さを得るに至る。『Travel Back』は、ミュージシャンの人生を見つめる力、そして、その端的な審美眼が作り出した、モダン・クラシックの美しき結晶である。

 

 

 

  

 

 

  

 Susanne Darre  :

 


ノルウェー出身の作曲家でピアニストのスザンネ・ダールは、ノルウェー北部の自宅でモダン・クラシック音楽を創作している。


ピアノへの生涯の情熱が彼女の創造性を刺激し、独自のメロディーを作曲、演奏している。音楽一家に育ったスザンネは、音楽とギター、そして膨大なレコード・コレクションを愛する父親の影響を深く受けた。


スザンヌは一人で音楽の制作、レコーディング、ミキシングをこなす。ヴィンテージ・ピアノのアコースティックな響きが好きで、歴史的建造物の中で音楽を創作するのが好きなスザンヌは、過去と現在の楽しいコントラストを生み出し、彼女の作曲に深みと個性を加えている。さらに、アンビエントなサウンドスケープや電子音とモダン・クラシック・ピアノ音楽の融合を探求し、伝統的な作曲の限界を押し広げている。


さらに、彼女の芸術的ビジョンは音楽だけにとどまらず、自然の風景の息をのむような美しさをとらえた写真にも及んでいる。スザンネ・ダールは、北ノルウェーの素晴らしさの真髄をとらえ、その静謐な風景と情感豊かなメロディーの感覚的探求へと誘う。

 Mamalarky 『Hex Key』


Label: Epitaph

Release: 2025年4月11日

 

Listen/Stream

 

Review


ロサンゼルスのMamalarkyは米国のパンクの名門レーベル、Epitaphと契約を結んで『Hex Key』を発表した。カルテットはおよそ8年間、LA、オースティン、アトランタに散らばって活動してきた。いつも一緒にいるわけではないということ、それこそがママラーキーのプロジェクトを特別なものにしたのか。ママラーキーのドラマーを務めるディラン・ヒルは次のように述べています。「私達は互いに大きな信頼を持っている。しかし、プロフェッショナルな空気感はありません。文字通り、四人の友人がブラブラして、なにかの底にたどり着くという感じです」

 

結局、ママラーキーの音楽の魅力は、雑多性、氾濫性、そして、クロスオーバーにあると言えるでしょう。ネオソウル/フィーチャーソウル、そしてパンクのエッセンスを込めたインディーロック、サイケ、ローファイ、チルウェイブなどなど、ベイエリアらしい空気感に縁取られている。


かしこまりすぎず、開けたような感覚、それがMamalarkyの一番の魅力である。これは、1960~70年代のヒッピームーブメントやフラワームーブメントのリバイバルのようでもある。ロックソングとしては抽象的。ソウルとしては軽やか。そして、チェルウェイブやローファイとしては本格的……。ある意味では、ママラーキーは、これまでにありそうでなかった音楽に、アルバム全体を介して挑戦している。明らかにロンドンっぽくはないものの、新しいカルチャーを生み出そうという、ママラーキーの独自の精神を読み取ることが出来るはず。これらは、異なる地域から集まった秀逸なミュージシャンたちのインスタントな音楽の結晶とも言える。

 

アルバムのオープニングを飾る「Broken Bones」はママラーキーの挨拶代わりの一曲である。サイケデリックな風味を持つインディーロックソングで、ベネットのボーカルは明らかにこの曲に新鮮なテイストを付け加えている。ハードロック、ポップ、プログレッシブ・ロック、いずれでもない宇宙的な壮大な感覚を持つボーカルを提供し、バンドサウンドの中に上手く溶け込んでいる。必ずしも歌をうたうというのではなく、ベネットのボーカルはごく稀に器楽的な役割を果たすことがあり、ジャズのスキャットをロック的に解釈した「ラララ〜」などのボーカルは、このアルバム全体のリスニングをする際に強烈な印象を残すかもしれない。これはママラーキーが音楽を難しく考えすぎず、ゆるく構えるというスタンスを持つことの証立てとなる。


しかし、アンサンブルとしては、プロフェッショナルで、高い演奏力を誇る。専門的ではないからこそ、インスタントなスタジオのジャムなどで高いレベルを追求してきたことが分かる。というよりも、楽しんでいたら、いつの間にか高いレベルに到達していたということかもしれません。これらはバンドとしての存在感を示すにとどまらず、ライブアクトとしても一定のエフェクトを及ぼしそうな雰囲気が出ている。つまり、バンドとしてのスター性は十分と言える。

 

''インディーロックバンド''と単に紹介するのは、Mamalarkyに礼を失するかもしれない。特に、このバンドは、Funkadelicやジョージ・クリントン界隈のファンク/ソウルの音楽性が強まることがある。序盤に収録されている「Won’t Give Up」、そして後半に収録されているメロウでアーバンな雰囲気を持つソウルバラード「Take Me」などは、アルバムの隠れたハイライトとなりえる。


そんな中で、チルウェイブやダンス・ミュージックの影響を絡めたスペシャルな音楽性も目立つ。そして、ロックソングという全体的な枠組みの中で、西海岸の幻想的で魅力的な光景を思い起こさせる曲も収録されている。心地よいヨットロック風のギターで始まる「The Quiet」は、その好例であり、テキサスのKhruangbin(クルアンビン)の音楽性をわずかに彷彿とさせる。しかし、このバンドの場合は、アフロソウルの要素は少し薄く、サザンソウルの渋さが漂う。これが近年のロックバンドとは異なる、''ビンテージに根ざしたモダン''という新しい要素を示唆するのである。もちろん、かっこよさや渋さという側面でも音楽全体に奥行きを与えている。

 

サイケデリックな要素が強まるタイトル曲「Hex Key」を聴くと、このアルバムの楽曲の多くはママラーキーの一面が表れ出たものに過ぎないと思わせる。ドラムに深いフィルターをかけ、ダンスミュージック的なサウンド処理を施し、その中でハイパーポップのようなトリッピーな音楽が展開される。 その中で、ボーカルは、ドリームポップに近づいたり、バロックポップに近づいたりと、まるで海の中を漂うかのように、音楽性を変貌させていく。例えば、海を泳いでいると、地上から降り注ぐ太陽によって海の中の景色が変わったりする。ママラーキーの音楽は、そういった類のもので、決め打ちをせず、バリエーションに富んだ音楽を展開させていく。


ベッドルームポップ風のインディーロックがお好きなリスナーには「Anhedonia」がおすすめ。軽妙なインディーロックソングを本曲では堪能することが出来る。しかし、先にも行ったようにソウルやファンクの要素が強い、この曲では特に、アフロソウルを反映させ、奥行きのある音楽に仕上げている。ビンテージレコードのようなアナログライクなプロデュース方法によって。

 

先行シングル「#1 Best of All Time」はママラーキーの魅力を体現している。ローファイ、チルウェイブといったベイエリアらしい音楽性に加え、 ママラーキーとしては珍しくドライブ感のあるパンキッシュなサウンドを展開させる。ミュージックビデオもユニーク。ロサンゼルスのストリートをオープンカーでバンドメンバーが疾走するという構成である。おそらく、現在、最も新しい西海岸の音楽を確立しようとしているのは、このバンドなのではないか。そのほか、アルバムの終盤もかなり聴き応えがあり、ママラーキーのポテンシャルの高さを伺わせる。

 

 

 「#1 Best of All Time」

 

 

 

「Take Me」は、4/8のバロックポップを下地にし、ソウル/ファンクバンドの性質が強まる。ボーカルも本格派のソウルで、聞き入らせる何かがあるかもしれない。ベースのヌーラ・カーンの演奏はファンクの跳ねるようなリズムをもたらし、そして、その上にローズ・ピアノの同音反復が続く。ドラムのしなやかな演奏もバッチリで、全体的なカルテットの演奏が傑出しているため、ボーカルが安心して遊び心のある歌唱を披露出来る。この曲ではインスタントな録音のバンドでは体験しえない、バンドとしての演奏の深さを堪能することが出来るはずである。

 

 

アンサンブルとして変拍子を組み込む場合があるのに注目したい。「MF」はフレーズごとに拍子を変え、カクカクとしたプログレッシヴなロックを提示している。そして、この曲の面白さは、ミルフィーユのような構造性にある。一つの音楽を捉えると、その向こうに別の音楽がまた一つ現れるということ。全体的にはサイケなプログレということも出来るでしょうが、曲のイメージとしてはドリーミーでファンシーな感覚に満ちている。こういった''体感的な音楽''という論理性だけで語り尽くせぬママラーキーの特性を掴むのには最適なトラックとなるかもしれません。


続いて「Blow Up」は、Deerhoofの最初期を想起させるローファイなインディーロック性に縁取られている。拡張器を思わせるボーカルのエフェクトをかけたりと、プロデュースの側面でもユニークさが際立ち、全体的な音楽の構造は入り組んでいるが、その中にはライブセッションからもたらされるルーズな感覚やラフな感覚に満ち溢れている。これらの''かっちりしすぎない''という要素はロックソングの醍醐味。70年代のロックにはあった魅力、それをママラーキーはきわめて感覚的に習得し、それらを現代のレコーディングで再現している。非常にお見事。

 

 

アルバムの後半では、インディーロックやプログレッシヴなロックの影に隠れていた本格派のビンテージソウルバンドとしての一面を見せる。「Blush」、「Nothing Lasts Forever」はロンドンのソウルやリトル・ドラゴンのような北欧のフューチャーソウルのバンドの完成度に肩を並べている。また、後者の楽曲は、Clairoの最新アルバムの音楽的なアプローチと重複する部分もある。特に、ファンクの文脈の中で繰り広げられるワウのギターが凄まじい。これらはジミ・ヘンドリックスが洗練された新しいモダンなサイケロックの一つの形とも言えるかもしれません。


ポップソングと80年代のディスコソウルを結びつけた「Feels So Good」もハイレベルに達している。ジョージ・クリントン周辺のバンド、あるいはカーティス・メイフィールドのバンドのようなコアなグルーヴを体感することが可能である。ママラーキーのアンサンブルの能力は、圧倒的に高いレベルにあるが、それらはすべて感覚的な表現としてバンドの演奏に定着している。

 

頭で考えてそれをやるというよりも、演奏を通じて自然に新しいものが溢れ出てくるというのは、彼らがインスピレーションを元にして音楽を制作している印象である。「バンドメンバーの目をしっかりと見つめて、次のテイクを信じられないものにしよう」というリヴィ・ベネットの言葉は、「Feel So Good」に明確に反映されている。この曲では、ボーカルの持つメロディーの良さに加えて、バンドアンサンブルとしての最も刺激的な瞬間を味わうことが出来ます。

 

レコーディングを体験のように捉えているのが『Hex Key』の音楽をアグレッシヴにしている理由なのでしょう。たぶん聴くたびに印象が様変わりするようなユニークな風味を感じ取ることが出来るはず。本作の最後を飾る「Here's Everything」も海岸のムードたっぷり。ヨットロックを彷彿とさせるディレイとリバーヴをてきめんにきかせたイントロで始まり、サイケソウル風の音楽へ変遷していく。と、同時に、次のアルバムに向けた伏線を残しているような気がします。”含みがある”といえば、少し誇張になるかもしれませんが、次の作品にも期待が持てますね。 



 

88/100

 

 

 「Nothing Lasts Forever」

Black Country, New Road 『Forver Howlong』 



Label: Ninja Tune

Release: 2025年4月4日


Review

 

ファーストアルバム『For The First Time』では気鋭のポストロック・バンドとして、続く『Ants From Up There』では、ライヒやグラスのミニマリズムを取り入れたロックバンドとして発展を遂げてきたロンドンのウィンドミルから登場したBC,NR(ブラック・カントリー、ニューロード)。


マーキュリー賞へのノミネート、それから、UKチャート三位にランクインするなど高評価を獲得し、さらには、フジ・ロック、グリーンマン、プリマヴェーラを始めとする世界的なフェスティバルでライブ・バンドとしての実力を磨いてきた。すでにライブ・パフォーマンスの側面では世界的な実力を持つバンドという前提を踏まえ、以下のレビューをお読みいただければと思います。

 

メンバーチェンジを経て制作された三作目。フジロックでの新曲をテストしたりというように、バンドは作品ごとに音楽性を変化させてきた。ロンドンではポストロック的な若手バンドが多く登場しており、BC,NRは視覚芸術を意図したパフォーミング・アーツのようなアルバムを制作している。また、ブッシュホールでの三日三晩の即興的な演奏の経験にも表れている通り、即興的なアルバムが誕生したと言えるかもしれない。メンバーが話している通り、スタジオ・アルバムにとどまらない、精細感を持つ演劇的な音楽がアルバムの収録曲の随所に登場している。音楽的に見ると、三作目のアルバムではバロックポップ、フォーク、ジャズバンドの性質が強められた。これらが実際のライブパフォーマンスでどのような効果を発揮するのかがとても楽しみ。

 

今回、バンドはミニマリズムを回避し、ジョン・アダムスの言葉を借りれば、ミニマリズムに飽きたミニマリスト、としての表情を伺わせる。しかし、全般的にはクラシック音楽の影響もあり、アルバムの冒頭を飾る「Besties」ではチェンバロの演奏を交え、バロック音楽を入り口として即興的なジャズバンドのような音楽性へと発展していく。ボーカルが入ると、バロックポップの性質が強くなり、いわばメロディアスな楽曲の表情が強まる。一曲目「Besties」は新しい音楽性が上手く花開いた瞬間である。


一方で、ビートルズの中期以降のアートロックを現代のバンドとして受け継いでいくべきかを探求する「The Big Spin」が続く。「ラバーソウル」の時代のサイケ性もあるが、何より、ピアノとサックスがドラムの演奏に溶け込み、バンドアンサンブルとして聞き所が満載である。新しいボーカリスト、メイ・カーショーの歌声は難解なストラクチャーを持つ楽曲の中にほっと息をつかせる癒やしやポピュラー性を付与する。


そういったバンドアンサンブルを巧緻に統率しているのがドラムである。現在のバンドの(隠れた)司令塔はドラムなのではないか、とすら思わせることもある。散漫になりがちな音楽性も、巧みなロール捌きによって楽曲のフレーズにセクションや規律を設けている。上手く休符を駆使すれば最高だったが、音楽性が持続的な印象が強いのは好き嫌いが分かれる点かもしれない。休符が少ないので、音楽そのものが間延びしてしまうことがあるのは少し残念な点だった。

 

そんな中で、これまでのBC,NRとは異なり、ポピュラー性やフォークバンドとしての性質が強まるときがある。そして、従来のバンドにはなかった要素、これこそ彼等の今後の強みとなっていくのでは。「Socks」では60〜70年代のバロックポップの影響をもとにして、心地よいクラシカルなポピュラーを書いている。メロディーの良さという側面がややアトモスフェリックの領域にとどまっているが、この曲はアルバムを聴くリスナーにとってささやかな楽しみとなるに違いない。そしてこの曲の場合、賛美歌、演劇的なセリフを込めた断片的なモノローグといったミュージカルの領域にある音楽も登場する。 これらは新しい「ポップオペラ」の台頭を印象づける。


次いで、クイーンのフレイディ・マーキュリーのボヘミアン的な音楽性を受け継いだ曲が続いている。「Salem Sisters」は「ボヘミアン・ラプソディー」の系譜にあるピアノのイントロで始まり、その後、アートポップやジャズ的なイディオムを交えた前衛的な音楽が続いている。一曲目と同じように、チェンバロの演奏も登場するという点ではジャズとクラシック、そしてポピュラーの中間域に属する。ボーカルは優雅な雰囲気があり素晴らしく、この曲でもドラムの華麗なロールが楽曲に巧みな変化や抑揚の起伏を与えている。いわば、BC,NRの目指す即興的な音楽が上手く昇華された瞬間を捉えられる。そして曲の後半部にかけて、ボーカルはミュージカルに傾倒していく。いわば、このアルバムの中核を担うシアトリカルな音楽の印象が一番強まる瞬間だ。

 

 アルバムの中盤では中性的なアイルランド民謡に根ざしたフォーク/カントリーミュージック「Two Horses」、「Mary」がアルバムの持つ世界観を徐々に拡張させていく。そして同じタイプの曲でも調理方法が異なり、前者では変拍子を交えたプログレッシブな要素、さらに後者では、ジャズやメディエーションのニュアンスが色濃い。また、賛美歌やクワイアのような聴き方も出来るかもしれない。すくなくとも、それぞれ違う聴き方や楽しみ方が出来るはずだ。

 

ブラック・カントリー、ニュー・ロードの掲げる新しい音楽が日の目を見た瞬間が「Happy Birthday」となる。印象論としては、ビートルズの「サージェント・ペパーズ・ロンリー・クラブ・ハーツ・バンド」のミュージカルの系譜にある音楽を踏襲し、それらをクイーン的にならしめたものである。この曲ではボーカルはもちろん、サックス、ドラム、ピアノの演奏がとても生き生きとして聞こえる。また、チェンバロの導入など遊び心のある演奏もこの曲に個性的な印象を付け加える。しかし、やはり、このバンドの曲が最も輝かしい印象を放つのは、ロック的な性質が強まる瞬間であると言える。無論、調性の転回など、音楽としてハイレベルなピアノの旋律進行もフレーズの合間に導入されることもあり、動きがあって面白く、さらに音楽的にも無限のひらめきに満ちているが、音符の配置が忙しないというか、手狭な印象があるのが唯一の難点に挙げられるかもしれない。その反面、一分後半の箇所のように、ダイナミックスが感じられる瞬間がバンドとして溌剌としたイメージを覚えさせる。 曲の後半では、カーショーの伸びのあるビブラートがこの曲に美麗な印象を添える。音楽的な枠組みに囚われないというのは、バンドの現在の美点であり、今後さらに磨きがかけられていくのではないかと推測される。

 

ロック寄りの印象を持つ瞬間もあるが、終盤では古楽やバロックの要素が強まり、さらにアルバムの序盤でも示されたフォークバンドとしての性質が強められる。「For The Cold Country」では、ヴィヴァルディが使用した古楽のフルートが登場し、スコットランドやアイルランド、ないしは、古楽の要素が強まる。結局のところ、これは、JSバッハやショパン、ハイドンのようなクラシック音楽の大家がイギリスの文化と密接に関わっていたことを思い出させる。特にショパンに関しては、フランス時代の最晩年において結核で死去する直前、スコットランドに滞在し、転地療養を行った。彼の葬式の費用を肩代わりしたのはスコットランドの貴族である。ということで、イギリス圏の国々は意外とクラシック音楽と歴史的に深い関わりを持ってきたのだった。

 

この曲は、スコットランドの古城や牧歌的な風景のサウンドスケープを呼びさます。そして実際に、そういった異国の土地に連れて行くような音楽的な換気力に満ちている。


タイトル曲「Forver Howlong」に関してもケルト民謡の要素が色濃い。これらの中世的な音楽性は、今後のブラック・カントリー、ニューロードの強みとなっていくかもしれない。かなり複雑で入り組んだアルバムであるため、一度聴いただけではその真価はわからないかもしれない。ただ、それゆえに、聴く時のたのしみも増えてくると思う。


今回は''バンド''という言葉を使用させていただいたが、BC, NRは、ひとつの共通概念を共有するグループーーコレクティヴの性質が強い。バンド/コレクティヴとして純粋な音楽性を感じさせたのがアルバムのクローズを飾る「Goodbye」だった。一貫して、ポスト・ブリットポップ的な音楽を避けてきたバンドが珍しくそれに類する音楽を選んでいる。ただ、それはやはり、フォークバンドとしての印象が一際強いと付言しておく必要があるかもしれない。今後どうなるのかが全くわからないのがこのバンドの魅力。潜在的な能力は未知数である。

 

 

 

84/100

 

 

「Goodbye(Don't Tell Me)」

  Momma 『Welcome to My Blue Sky』

 


 

Label: Polyvinyle/ Lucky Number

Release: 2025年4月4日

 

Listen/ Stream

 

Review

 

Mommaは今をときめくインディーロックバンドであるが、同時に個性的なキャラクターを擁する。ワインガルテンとフリードマンのセカンドトップのバンドとして、ベース/プロデューサーのアーロン・コバヤシ・リッチを擁するセルフプロデュースのバンドとしての二つの表情を併せ持つ。コバヤシ・リッチはMommaだけにとどまらず、他のバンドのプロデューサーとしても引っ張りだこである。現在のオルタナティヴロックやパンクを象徴する秀逸なエンジニアである。

 

2022年に発表されたファーストアルバム『Household Name」は好評を得た。Pitchfork、NME、NYLONといったメディアから大きな賞賛を受け、アメリカ国内での気鋭のロックバンドとしての不動の地位を獲得した。その後、四人組はコーチェラ・フェスティバルなどを中心とする、ツアー生活に明け暮れた。その暮らしの中で、人間的にも、バンドとしても成長を遂げてきた。ファーストアルバムでは、ロックスターに憧れるMommaの姿をとらえることができたが、今や彼等は理想的なバンドに近づいている。ベテランのロックバンド、Weezer、Death Cab For CutieとのライブツアーはMommaの音楽に対する意識をプロフェッショナルに変化させたのだった。

 

本拠地のブルックリンのスタジオGとロサンゼルスのワサッチスタジオの二箇所で制作された『Welcome To My Blue Sky』はMommaにとってシンボリックな作品となりそうだ。目を惹くアルバムタイトル『Welcome To Blue Sky』はツアー中に彼等が見たガソリンスタンドの看板に因んでいる。アルバムの収録曲の多くはアコースティックギターで書かれ、ソングライティングは寝室で始まったが、その後、コバヤシ・リッチのところへ音源が持ち込まれ、楽曲に磨きがかけられた。先行シングルとして公開された「I Want You(Fever)」、「Ohio All The Time」、「Rodeo」などのハイライトを聴けば、バンドの音楽性が大きく洗練されたことを痛感するはずだ。

 

ファーストアルバムではベッドルームポップに触発されつつも、グランジやオルトロックを受け継ぐバンドとしての性質が強かった。続いて、セカンドアルバムでは、タイトルからも分かる通り、エモへの傾倒が強くなっている。「I Want You(Fever)」はBreedersを彷彿とさせるサイケ性があるが、オルトロックとしての轟音性を活かしつつも、それほどマニアックにはならず、バンガーの要素が維持されている。これらはアコースティックギターで曲が書かれたというのが大きく、メロディーの良さやファンに歌ってもらうための''キャッチーなボーカル''が首座を占めているのである。仮にテープ・ディレイのような複雑なサウンド加工があろうとも、それほどマニアックにならず、一定のポピュラー性(歌いやすさ)が担保されている。その理由はマニアックなサウンド処理が部分的に示されるに留まること、そして、バンドの役割が明確であること。この二点がバンガー的なロックソングを生み出すための布石となった。ボーカルがメインであり、ギターやシンセ、ドラムなどの演奏はあくまで「補佐的な役割」に留められている。

 

これはワインガルテンとフリードマンが自由奔放な音楽性や表現力を発揮する懐深さを他のメンバーが許容しているから。それが全体的なバンドの自由で溌剌としたイメージを強調付ける。たぶんこれは、ファーストアルバムにはそれほどなかった要素である。がっつりと作り込んでいた前作よりロックソングのクオリティーは上がっているが、同時にバンドをやり始めた頃の自由な熱狂性を発揮することを、バンド全体、コバヤシ・リッチのプロデュースは許容している。 そしてこれがロックソングとしての開けた感覚と自由なイメージを強調するのである。

 

セカンドアルバム『Welcome To My Blue Sky』において、バンドはポピュラーソングとロックソングの中間に重点を置いている。おそらく、Mommaはもっとマニアックで個性的な曲を書くことも出来ると思うが、オルタネイトな要素を極力削ぎ落とし、ロックソングの核心を示そうとする。そして、これは彼らが必ずしもオルタネイトな領域にとどまらず、上記のバンドのようなメインストリームに位置する商業的なロックバンドを志していることの証ともなりえるのである。

 

バンドというのは結局、どの方向を向いているのか、それらの意思疎通がメンバー内で共有出来ているかという点が大切かと思う。彼等が実際にそういったことを話し合ったかどうかは定かではないものの、多忙なツアースケジュールの中で、なんとなく感じ取っていったのかもしれない。その中には、ツアー中に起きた''不貞''が打ち明けられる場合があり、「Rodeo」で聴くことが出来る。音楽からは、メンバー一人ひとりが器楽的な役割を理解していて、そして彼等が持つ個性をどんなふうに発揮すれば理想的な音楽に近づくのか、そういった試行錯誤の形跡が捉えられる。


一般的には、試行錯誤の形跡というのは複雑なサウンドや構成、そして脚色的なミックスなどに現れることが多いが、Mommaの場合は、それらのプラスアルファの要素ではなくて、マイナスーー引き算、簡略化ーーの要素が強調されている。これが最終的に軽妙なサウンドを生み出し、音楽にさほど詳しくないリスナーを取り込むパワーを持つようになる、というわけである。Mommaの音楽は、ミュージシャンズ・ミュージシャンのためにあるわけではなく、それほど音楽に詳しくない、一般的なロックファンが渇望するパッションやエナジーを提供するのである。

 

 

これが本作のタイトルにあるように、Mommaの掲げる独自の世界「ブルースカイ」への招待状となる。その中には先にも述べたように、90年代以降のオルタナティヴロック、エモ、シンセポップなどの音楽が引きも切らず登場するが、全般的に、その音楽のディレクションの意図は明確である。


わかりやすさ、つかみやすさ、ビートやグルーヴの乗りやすさ、この三点であり、かなり体感的なものである。それは以降の複雑なポストロックやポストパンクに対するカウンターの位置取りであり、頭でっかちなロック・バンドとは異なり、ロックそのものの楽しさ、雄大さ、そして、心を躍らせる感じ、さらには、センチメンタルなエモーションがめくるめくさまに展開される。音楽的な方向性が明瞭であるからこそ、幅広く多彩なアプローチが生きてくる、という実例を示す。これらは、数しれないライブツアーの生活からしか汲み出し得なかったロックソングの核心でもあるのだ。

 

 

 

上記の先行シングルのようなバンガーの性質を持つロックソングと鋭いコントラストを描くのが、内省的なエモの領域に属するセンチメンタルなロックソングの数々である。そして、これらがロックアルバムとして聴いた上で、作品全体の奥行きや深さを作り上げている。「How To Breath」、「Bottle Blonde」では、それぞれ異なる音楽性がフィーチャーされ、前者ではThird Eye Blindのような、2000年代以降のオルタナティヴロック、後者では、シンセ・ポップをベースにしたベッドルームポップのキャラクターを強調している。 そしてどちらの曲に関しても、ボーカルのメロディーの良さやドリームポップに近い夢想的な感覚を発露させている。これらに多忙なツアー生活の中の現実性とは対極に位置する幻想性を読み解くことも不可能ではない。

 

 

また、ライブツアーにまつわる音楽性は従来とはカラーの異なる音楽性と結びつけられる場合がある。例えば、「Ohio All The Time」は、Placeboを彷彿とさせる音楽性に縁取られている。ソングライティングの側面で大きく成長を遂げたのが、本作のクローズに収録されている、子供時代の記憶を振り返りながら、自分の姿が今とはどれほど変わったかを探る「My Old Street」である。他の曲と同じく、歌える音楽性を意識しつつ、スケールの大きなロックソングを書きあげている。これらはMommaがいよいよアリーナクラスのロックバンドへのチケットを手にしつつあることを印象付ける。

 

 

85/100

 

 

Best Track-「How To Breath」