先行シングルとして配信された「i don't have to tell the rest」を聞き逃さないようにしてほしい。オルタナティヴフォークからジャズ、ローファイ、アンビエントまでをシームレスにクロスオーバーし、内省的でありながらダイナミックな質感を持つ素晴らしいベッドルームポップソングを作り上げている。
特にブリッジからサビに移行する際のタイトルの歌の部分には内的な痛みがあり、それらが胸を打つ。このヴィネットにおける辛辣なフレーズはヒップホップのようなひねりが込められている。「you don't have to tell me the rest」は、前曲と呼応する連曲のトラックとなっている。この曲は全般的に、イギリスのCavetownに近いニュアンスを捉えることが出来るだろう。編集的なサウンドとオルタナティヴフォークをジム・オルークのようにエクスペリメンタルという視点を通して作り上げていく。この曲にもアーティストのただならぬセンスを垣間見ることが出来る。
アルバムの中盤からはエクスペリメンタルミュージック、つまり実験的な音楽性が強調される。「once in a while」はテープ音楽やローファイから見たハイパーポップであり、メインストリームに位置するアーティストとは異なるマニアックなサウンドで、一方ならぬ驚きをリスナーに与える。続く「train home」はノイズミュージックに近づき、Merzbowのような苛烈なアナログノイズがこれらのポピュラーな音楽性の中心を激しく貫く。アーティストの内的な痛みや苦悩、憂慮をノイズという形で刻印し、それをなんらのフィルターに通すこともなく、リアルに提示している。
アーティストの持つ音楽的な蓄積はかなり豊富で、驚くべきバリエーションがある。エクスペリメンタルと合わせて内省的なドリーム・ポップの性質が立ち表れる「security」は、韓国系のミュージシャン、Lucy Liyouが参加している。Gastr Del Solの音楽をファンシーな雰囲気で包み込む。そこに、ルーシー・リヨウが持つアンビエントやエレクトロニックの要素が合致している。これらは両者の持つアーティスティックな側面がより色濃く立ち現れた瞬間と言えるだろう。
渋谷系の代表的なシンガーソングライター、カジヒデキは「Being Pure At Heart」で明確に「ネオ・アコースティックに回帰してみようとした」と話している。ネオ・アコースティックとは1980年代のスコットランドで隆盛をきわめたウェイブだ。このウェイブからは、ベル・アンド・セバスチャンという後の同地の象徴的なロックバンドを生み出したにとどまらず、Jesus And Mary Chain、Primal Scream等、その後のUKロックの10年を占うバンドが多数登場したのだった。
『Being Pure At Heart』はシンプルにいえば、渋谷系という固有のジャンルを総ざらいするようなアルバムである。そして少なくとも、忙しない日常にゆるさをもたらす作品となっている。北欧でレコーディングされたアルバムであるが、全般的に南国の雰囲気が漂い、トロピカルな空気感を持つ複数のトラックがダイヤモンドのような輝きを放つ。オアシスの「Be Here Now」に呼応したようなタイトル「Being Pure At Heart」は忙しない現代社会へのメッセージなのか。
続く、「We Are The Border」はコーネリアスのマタドール在籍時代の『Fantasma』のダンサンブルでアップテンポなナンバーを継承し、それにカジヒデキらしいユニークな色合いを加えている。この曲もまた渋谷系のスタンダードな作風となっているが、そこに恋愛の歌詞を散りばめ、曽我部恵一のような雰囲気を加えている。サニー・デイ・サービスと同様にカジヒデキも甘酸っぱいメロディーを書くことに関しては傑出したものがある。それはアルバムのタイトルにあるように、純粋な気持ちやエモーションから作り出される。歌詞の中では、クリスマスや賛美歌について言及されるが、それらが楽曲が持つ楽しげなイメージと見事な合致を果たしている。つまり、カジヒデキのソングライティングの秀逸さがサウンドプロデュースとぴたりと一致している。
歌詞も面白く、ちょっとおどけたようなアーティストの文学性が堪能出来る。他の曲と同じように、''アイスクリーム''等のワードを織り交ぜながら、甘酸っぱい感覚のメロディーを作り出す。その中に、ボサノヴァのリズムを配しながら、コーラスの導入を通じて、多彩なハーモニーを作り出す。「いつもそばで、I Love You、触れた〜」と歌う時、おそらくJ-POPの言葉運びの面白さの真髄とも言うべき瞬間が立ち表れる。”英語を通過した上での日本語の魅力”がこの曲に通底している。ある意味でそれは日本のヒストリアのいち部分を見事に体現させていると言える。
「NAKED COFFE AFFOGATO」はYMOのレトロなシンセポップを思わせ、カッティングギターを加え、ダンサンブルなビートを強調させ、モダンな風味のエレクトロに代わる。前曲に続きアーティストしか生み出せないバブリーな感覚は、今の時代ではひときわ貴重なものとなっている。そこにお馴染みの小山田圭吾を思わせるキャッチーなボーカルが加わり、楽しげな雰囲気を生み出す。続く「Looking For A Girl Like You」はギター・ポップとネオ・アコースティックというスタイルを通じて、高らかで祝福的な感覚を持つポップソングを書き上げている。アレンジに加わるホーンセクションは北欧でのレコーディングという特殊性を何よりも巧みに体現している。
プレスリリースにおいて、カジヒデキはネオ・アコースティックを重要なファクターとして挙げていた。でも、今作の魅力はそれだけにとどまらない。例えば、「Don' Wanna Wake Up!」では平成時代に埋もれかけたニューソウルやR&Bの魅力を再訪し、マリンバのような音色を配し、トロピカルな雰囲気を作り出す。R&Bとチルウェイブの中間にあるようなモダンな空気感を擁するサウンドは、アメリカのPoolside、Toro Y Moi、Khruangbinと比べても何ら遜色がない。そこにいかにもカジヒデキらしいバブリーな歌詞とボーカルはほんのりと温かな気風を生み出すのである。
もうひとつ注目しておきたいのは、このアルバムにおいてアーティストはチェンバーポップやバロックポップの魅力をJ-POPという観点から見直していることだろうか。例えば「Walking After Dinner」がその好例となり、段階的に一音(半音)ずつ下がるスケールや反復的なリズム等を配し、みずからの思い出をその中に織り交ぜる。そして、カジヒデキの場合、過去を振り返る時に何らかの温かい受容がある。それが親しみやすいメロディーと歌手のボーカルと合致したとき、この歌手しか持ちえないスペシャリティーが出現する。それはサビに表れるときもあれば、あるいはブリッジで出現するときもある。これらの幸福感は曲ごとに変化し、ハイライトも同じ箇所に表れることはない。人生にせよ、世界にせよ、社会情勢にせよ、いつもたえず移り変わるものだという思い。おそらくここに歌手の人生観が反映されているような気がする。そしてまた、この点に歌手の詩情やアーティストとしての感覚が見事に体現されているのだ。
アルバムの終盤でもシンガーソングライターが伝えたいことに変わりはない。それは世界がどのように移り変わっていこうとも、人としての純粋さを心のどこかに留めておきたいということなのだ。「君のいない部屋」では、切ないメロディーを書き、AIやデジタルが主流となった世界でも人間性を大切にすることの重要性を伝える。本作のクローズを飾る「Dream Never End」は日常的な出来事を詩に織り交ぜながら、シンプルで琴線に触れるメロディーを書いている。
彼らのサウンドにはモダンなオルトロックの文脈から、Queenのようなシアトリカルなサウンド、そしてシューゲイズを思わせる抽象的なギターサウンドと多角的なテクスチャーが作り上げられる。しかし、いかなる素晴らしい容れ物があろうとも、そこに注ぎ込む水が良質なものでなければ、まったく意味がないということになる。その点、ピロー・クイーンズの二人のボーカリストは、バンドサウンドに力強さと華やかさという長所をもたらす。そして、今回、コリン・パストーレのプロデュースによって、『Leave The Light On』よりも高水準のサウンドが構築されたと解釈出来る。そして、もうひとつ注目すべきなのは、バンドの録音の再構成がフィーチャーされ、それらがカットアップ・コラージュのように散りばめられていることだろう。
本作の序盤では外側に向かって強固なエナジーが放たれるが、他方、「Blew Up The World」では内省的なインディーロックサウンドが展開される。しかし、クイーンズは、それをニッチなサウンドにとどめておかない。それらの土台にボーカルやシンセテクスチャーが追加されると、面白いようにトラックの印象が様変わりし、フローレンス・ウェルチが書くようなダイナミックなポピュラー・ソングに変遷を辿る。これらの一曲の中で、雰囲気が徐々に変化していく点は、バンドの作曲の力量、及び、演奏力の成長と捉えることが出来る。反面、それらの曲の展開の中で、作り込みすぎたがゆえに、”鈍重な音の運び”になってしまっているという難点も挙げられる。これは、レコーディングでバンドが今後乗り越えなければならない課題となろう。
しかし、そんな中で、 ピロークイーンズが親しみやすいインディーロックソングを書いている点は注目に値する。「Friend Of Mine」は、boygeniusのインディーロックソングの延長線上にあるサウンドを展開させるが、ボーカリストとしての個性味が曲の印象を様変わりさせている。こぶしのきいたソウルフルなサングについては、従来のピロー・クイーンズにはなかった要素で、これが今後どのように変わっていくのかが楽しみだ。そのなかで、80年代のポピュラー・ソングに依拠したロックサウンドが中盤に立ち現れ、わずかなノスタルジアをもたらす。
ただ、新鮮なサウンドが提示されているからとはいえ、前作『Leave The Light On』の頃のバンドのシアトリカルなインディーロックソングが完全に鳴りを潜めたわけではない。例えば、旧来のピロー・クイーンズのファンは「Heavy Pour」を聴いた時、ひそかな優越感や達成感すら覚えるかもしれない。クイーンズを応援していたことへの喜びは、この曲の徐々に感情の抑揚を引き上げていくような、深みのあるヴィネットを聴いた瞬間、おそらく最高潮に達するものと思われる。これは間違いなく、新しいアイルランドのロックのスタンダードが生み出された瞬間だ。
アルバムの終盤は、セント・ヴィンセントや、フローレンス・ウェルチのようなダイナミックな質感を持つシンセポップソングをバンドアンサンブルの形式で探求する。「Notes On Worth」では、ネオソウルとオルタナティヴロックの融合という、本作の音楽性の核心が示されている。アイルランドのロックシーンで注目すべきは、Fountains D.C、The Murder Capitalだけにとどまらない。Pillow Queensがその一角に名乗りを挙げつつあるということを忘れてはならないだろう。
1日がかりのセッションの間、彼らは長いレコーディングを曲に分解し、パーツを組み立て直すという、一種のフランケンシュタインのような作業を行っていた。そして、この怪物性-心の痛み、喪失と痛みの肉体性-は、特にアルバムのサウンドにおいて理にかなっている。パメラ曰く、「最初は静かに始めて、後からラウドさが出てきた」そうで、より内省的な雰囲気を持つ「Blew Up the World」や「Notes on Worth」、荒々しいギターの「Gone」や「One Night」などに顕著に表れている。
新たな実験、心に響く歌詞、静寂とラウドを行き来するサウンドが組み合わさった結果、一種のカタルシスがもたられる。破片の中から希望のかけらを探し出す。これまでバンドは、新曲をライブで試聴し、観客に聴かせ、観客の反応を見て作り直してきた。今回は、すでに曲が完全に出来上がっていると感じられるため、そのようなことはしていない。アイルランドのバンドはまた、曲が「ピロークイーンズの曲」に聴こえるかどうかを疑うプロセスを学び直さなければならなかった。前2作とのリンクは確かにあるが、『Name Your Sorrow』は別の方向への勝利の一歩のように感じられる。
アルバムのオープニング「Scared Of Fear」にはドゥームサウンドや映画「インディペンデンス・デイ」を思わせるアンビエント風のイントロに続いて、乾いた質感を持つロックンロールサウンドが繰り広げられる。エディ・ヴェーダーのボーカルにはデビュー当時の勢いがあり、熟練のバンドマンとしてのプライドがある。そして、そこにはサウンドガーデンのクリス・コーネルのような哀愁、フー・ファイターズのデイヴ・グロールを思わせるパワフルさが加わった。まさにアルバムの一曲目でパール・ジャムは”グランジとは何か?”というその核心の概念を示す。確かにこの曲には、現代の世界の社会情勢にまつわるメッセージも含まれているのかもしれないが、パール・ジャムはその現状に対し、勇敢に立ち向かうことを示唆するのである。
パール・ジャムのロックは必ずしもラウド性だけに焦点が置かれているわけではない。これはクリス・コーネル率いるサウンドガーデンと同様である。続く「Wreckage」では、フォーク/カントリーを中心とする現代のオルタナティヴサウンドに呼応する形で、ロックサウンドを展開させる。この曲には、CSN&Yのような回顧的なフォーク・ミュージックが織り交ぜられている。それのみならず、Guided By Voicesのようなオルタナティヴロックの前夜の80年代後半のサウンドがスタイリッシュに展開される。背後のフォークロックのサウンドに呼応する形で歌われるエディー・ヴェーダーのボーカルには普遍的なロックを伝えようという意図も感じられる。この曲にはオルタネイトな要素もありながら、80年代のスタンダードなハードロックサウンドのニュアンスもある。ロックソングのスタンダードな魅力を堪能することが出来るはずだ。
アルバムの中盤ではこのバンドの最大の魅力ともいえる緩急のあるサウンドが際立っている。例えば、「Won't Tell」ではグランジのジャンルのバラードの要素を再提示し、それをやはりモダンな印象を持つサウンドに組み替えている。この曲には80年代のメタル・バラードの泣きの要素と共鳴するエモーションが含まれている。さらに続く「Upper Hand」では、エレクトロニックの要素を追加し、ヴェーダーの哀愁のあるボーカルを介し、王道のスタジアムロックソングを書いている。あらためてこのバンドが、フー・ファイターズと全くおなじように、スノビズムにかぶれるのではなく、大衆に支持されるロックナンバーを重視してきたことがうかがえる。続く「Wait For Steve」は、90年代のパール・ジャムの作風と盟友であるクリス・コーネルのソングライティング性を継承し、それらを親しみやすいロックソングとして昇華させている。
Metzは2012年のセルフタイトルで名物的なパンクバンドとしてカナダのシーンに登場した。サブ・ポップの古株といえ、ガレージロック、オルトロック、ポストパンク等をごった煮にしたサウンドで多くのリスナーを魅了してきた。『Up On The Gravity Hill』はデラックスアルバムを発表したからとはいえ、依然としてバンドが創造性を失ったわけではないことを表している。
シューゲイズ風の轟音ギターを絡めたオープニング「No Reservation/ Loves Comes Crashing」を聴けば分かる通り、本作は近未来のテイストを持つオルタナティブロックサウンドが展開される。
ただ、METZのメンバーが新しいカタチの''ポスト・オルト''とも称すべき実験的なサウンドをアルバムで追求していることは注目しておくべきだろう。例えば「Never Still Again」ではギターサウンドの核心にポイントを置き、変則的なチューニングを交えながら、オルタナティヴに新風を吹き込もうと試みる。アルバムのクローズ「Light Your Way Home」ではカナダのミュージックシーンを象徴づけるポストシューゲイズサウンドに挑む。これらはMetzによる、Softcult、Bodywashといったカナダのミュージックシーンの新星に捧げられたさり気ないリスペクトなのかもしれない。
75/100
「No Reservation/ Loves Comes Crashing」
Maggie Rogers 『Don’t Forget Me』
Label: Polydor
Release: 2024/04/12
Review
Apple Musicのプレスリリースの声明を通じて、ニューヨークのマギー・ロジャースは、できるだけ音楽を楽しむようにしたと述べている。その楽しさがリスナーに届けば理想的であるというメッセージなのだろうか? レビューを行うに際し、世界屈指の名門レーベル、ポリドールから発売された本作は、1986年のマドンナの傑作『True Blue』の雰囲気によく似ている。マドンナのアルバムは、クラブチューンとポップスをどこまで融合出来るかにポイントが置かれていたが、マギー・ロジャースのアルバムも同様にダンサンブルなポピュラーテイストが漂う。いわゆる楽しみや商業性を重視した作品ではあるものの、聞き入らせる何かがある。マギー・ロジャースは、シンディー・ローパー、マドンナ、そして現代のセント・ヴィンセントにつながる一連のUSポップの継承者に位置づけられる。歌唱の中にはR&Bからの影響もありそうだ。
アルバムのオープナー「It Was Coming All Along」は分厚いシンセのベースラインとグルーヴィーなドラム、そして装飾的に導入されるギターラインという3つの構成にロジャースのボーカルが加わる。この一曲目を聞けば、ロジャースのシンガーとしての実力が余すところなく発揮されていることがわかる。ウィスパーボイスのようなニュアンスから、それとは対極にある伸びやかなビブラート、そして、R&Bに属するソウルフルな歌唱法等、あらゆるサングの手法を用いながら、多角的なメロディーと多次元的な楽曲構成を提供する。ハイクオリティのサウンドも名門レーベル、ポリドールの手によりダイヤモンドのような美しく高級感のある輝くを放つ。そしてアーティスト自身が述べているように、それは華やかで楽しげな空気感を生み出す。
特に驚いたのが、先行シングルとして公開された「So Sick of Dreaming」だった。ここではスティング要するThe Policeの名曲「Every Breath You Take」の80年代のニューウェイブサウンドを影響を込め、ブライアン・アダムスを彷彿とさせる爽快なロック/ポピュラー・ソングへと昇華させている。もちろん、そこにはアーティストが説明するように、米国の南部的なロマンチシズムが微かに揺曳する。
「The Kill」は不穏なワードだが、曲自体はTears For Fearsのヒット曲「Everybody Wants To Rule The World」のシンセポップの形を受け継ぎ、それをモダンな印象で彩る。しかし、MTVが24時間放映されていた音楽業界が最も華やかな時代の80’sのポップスは、ロジャースのソングライティングやボーカルの手腕にかかるやいなや、モダンな印象を持つポップソングへと変化する。ここにもポリドールのプロデュースとマギー・ロジャースの録音の魔法が見え隠れする。ミニマルな構造性を持つ楽曲だが、構成自体が単調さに陥ることはほとんどないのが驚きだ。ギターロックとシンセポップをかけあわせた作風の中で、ロジャースは曲のランタイムごとに自身の微細なボーカルのニュアンスや抑揚の変化を通して、音程やリズム、そして構成自体にもバリエーションをもたらしている。特にアウトロにかけてのギターリフとボーカルの掛け合いについては、ロック的な熱狂を巻き起こしている。単なるポピュラー・ソングだけではなく、オルタネイトな響きを持つロックへと変化する瞬間もあるのがこの曲の面白い点なのである。
その後も、アーティストの感覚的なポップサウンドがポリドールらしい重厚なベースを要する迫力のあるプロダクションと交差する。アーティストの最もナイーブな一面を表したのが続く「If Now Was Then」で、ロジャースが20代の頃の自分自身になりきったかのように歌を紡ぐ。そこには純粋な響きがあり、高いトーンを歌ったときに、少しセンチメンタルな気分になる。サビの箇所ではポピュラーシンガーから実力派のソウルシンガーへと歌唱法を変える。これらの歌唱のバリエーションは、楽曲自体にも深い影響を及ぼし、聴き応えという側面をもたらす。普通のトーンからファルセットへの切り替えも完璧で、歌手としての非凡さが体現されている。
スタンダードなバラードソングが年々少なくなっているが、ロジャースは普遍的な音楽へと真っ向から勝負を挑んでいる。「I Still Do」は、ビリー・ジョエルを彷彿とさせる良質なバラードソングである。この曲では、一般的なバラードソングとは異なり、音程の駆け上がりや跳躍ではなく、最も鎮静した瞬間に、あっと息を飲むような美しさが表れる。それはやはりロジャースの多角的な歌唱法という点に理由が求められ、微細なビブラートと中音域を揺れ動く繊細なボーカルが背後のピアノと劇的な合致を果たすのである。歌そのものの鮮明さも、ポリドールの録音の醍醐味の一つだ。取り分け、最後に登場する高い音程のビブラートは本当に素晴らしい。
「I Still Go」
アルバムは二部構成のような形で構成されており、ほとんど捨て曲であったり、間に合せの収録曲は一つも見当たらない。続く「On & On & On」では2つ目のオープニングトラックのような感じで楽しめる。ここでは冒頭に述べたようにマドンナの作風を踏襲し、それらを現代的なクラブチューンへと変化させている。特にロジャースのダイナミックなボーカルはいわずもがな、ファンクの印象を突き出したしなやかなベースラインがこの曲に華やかさをもたらしている。 続く「Never Going Home」もサム・フェンダーの新しいフォーク・ロックの形を女性ボーカリストとして再現する。そしてこの曲には最もアメリカの南部的なロマンチシズムが漂う。
続く「All The Time」では、エンジェル・オルセンやレンカーのような形で、フォークミュージックというフィルターを通じて、質の高いポピュラー・ソングを提供している。ここにもプレスリリースで示された通り、南部的なロマンが漂う。それがアコースティックギターとピアノ、そしてボーカルという3つの要素で、親しみやすく落ち着いたバラードへと昇華されている。
ザ・リバティーンズのアウトサイダー的な立ち位置、デビュー当初のアルバムジャケットの左翼的、あるいは急進的とも言うべきバンドの表立ったイメージ、そしてチープ・トリックの『Standing On The Edge』のアルバムジャケットの青を赤に変えた反体制的なパンクバンドとしての性質は、たとえ本作がイギリス国内だけで録音されたものではないことを加味したとしても、完全に薄れたわけではない。
例えば、バンドは先行シングルとして公開され、アルバムのオープニングを飾る「Run Run Run」においてチャールズ・ブコウスキーの文学性を取り込み、それらを痛快なロックサウンドとしてアウトプットする。ピカレスク小説のようなワイルドなイメージ、それは信じがたいけれど、20年以上の歳月を経て、「悪童」のイメージから「紳士的なアウトサイダー」の印象へと驚くべき変化をみせた。そして何かバンドには、この20年間のゴシップ的な出来事を超越し、吹っ切れたような感覚すら読み取れなくもない。特に、サビの部分でのタイトルのフレーズをカール・バラーが歌う時、あるいは、2002年のときと同じようにマイクにかなり近い距離で、ピート・ドハーティがツインボーカルのような形でコーラスに加わる時、すでに彼らは何かを乗り越えた、というイメージが滲む。そして2002年のロックスタイルを踏まえた上で、より渋さのある音楽性が加わった。これは旧来のファンにとっては無上の喜びであったのである。
リバティーンズは、以前にはなかったブルースの要素を少し付け加えて、そして旧来のおどけたようなロックソングを三曲目の「I Have A Friend」で提供する。2010年代にはリバティーンズであることに疑心暗鬼となっていた彼らだったが、少なくともこの曲において彼らが気恥ずかしさや気後れ、遠慮を見せることはない。現代のどのバンドよりも単純明快にロックソングの核を叩きつける。彼らのロックソングは古びたのだろうか? いや、たぶんそうではない。
リバティーンズのスタンダードなロックソングは、今なお普遍的な輝きに満ち溢れ、そして今ではクラシックな「オールド・イングリッシュ・ロックソング」へと生まれ変わったのだ。もちろん、そこにバンドらしいペーソスや哀愁をそっと添えていることは言うまでもない。これはバンドのアンセムソングでライブの定番曲「Don’t Look Back In The Sun」の時代から普遍のものである。マイナー調のロックバラードは続く「Man With A Melody」にも見出すことができる。
もうひとつ、音楽性のバリエーションという点で、長年、リバティーンズや主要メンバーは何か苦悩してきたようなイメージがあったが、この最新作では、オールドスタイルのフォーク・ミュージックをロックソングの中にこっそりと忍ばせているのが、とてもユニークと言えるだろう。「Man With A Melody」では、ジョージ・ハリスンやビートルズが書くようなフォークソングを体現し、「Night Of The Hunter」では往年の名ロックバンドと同様にイギリスの音楽がどこかでアイルランドやスコットランドと繋がっていることを思わせる。ここには世界市民としてのリバティーンズの姿に加え、イギリスのデーン人としての深いルーツの探求の意味がある。あたり一面のヒースの茂る草原、玄武岩の突き出た海岸筋、そして、その向こうに広がる大洋、そういった詩情性が彼らのフォークバラードには明確に反映されている気がする。そして、それらのイギリスのロマンチシズムは、彼らのいるリゾート地からその望郷の念が歌われる。これはウェラーのJamの「English Rose」の中に見られる哀愁にもよく似たものなのだ。
リバティーンズは、デビュー当初、間違いなくThe Clashの再来と目されていたと思う。実際、もうひとつのダブやレゲエ的なアクセントは続く「Baron's Clow」に見出すことができるはずである。ここには「Rock The Casbah」の時代のジョー・ストラマーの亡霊がどこかに存在するように感じられる。なおかつリバティーンズの曲も同様にワイルドさと哀愁というストラマーの系譜に存在する。また、70年代のUKパンクの多彩性を24年に体現しているとも明言できるのだ。
彼らは間違いなくこのアルバムで復活のヒントを掴んだはずである。「Oh Shit」はリバティーンズが正真正銘のライブバンドであることのステートメント代わりであり、また「Be Young」は今なお彼らがパンクであることを示唆している。アルバムのクローズ「Songs That Never Play On The Radio」では、あえて古びたポピュラー音楽の魅力を再訪する。20年以上の歳月が流れた。しかしまだ、リバティーンズはUKのロックシーンに対して投げかけるべき言葉を持っている。今でも思い出すのが、バンドの登場時、意外にも、Radioheadとよく比較されていたことである。
80/100
Best Track- 「Run Run Run」
Khruangbin 『A LA SALA』
Label: Dead Oceans
Release: 2024/04/05
Review
ヒューストンのR&Bグループ、クルアンビンはCoachellaへの出演を控えている。『A LA SALA』はアルバムのオープナーで示されるように、シンプルに言えば、安らぎに満ちたアルバムである。
クルアンビンのトリオが重視するのは曲の構成やロジカルではなく、スタジオのライブセッションから作り出されるリアルな心地良さ。ムード感とも言えるが、シンプルなスネアドラムとベースライン、フランジャーの印象が強いギターは見事な融合をみせ、アフロソウルを基調とする唯一無二のサウンドを丹念に作り上げていく。ライブセッションでの間の取り方やリズムの合わせ方など、演奏面では目を瞠るものがあり、それらはリゾート的な雰囲気を越えて、Architecture In Helsinkiの名曲「Need To Shout」のように天国の空気感にたどり着く場合がある。
前のアルバムがどうだったのかは定かではないが、アフロソウルやフュージョンの要素に加え最新作ではレゲエ/ダブのサウンドが強い印象を放つ。「Todavia Viva」はスネアのリムショットで心地よいリズムを生み出し、淡いダブサウンドを追求する。「Juegos y Nubes」は、Trojan時代のボブ・マーリーの古典的なレゲエをベースに、ライブセッションを通じて、心地よい音を探ろうとしている。
やはり「May Ninth」と同じように、ムード感が重視されていて、コンフォタブルな感覚を味わうことができる。正確な年代こそ不明であるが、60年代、70年代のファンクソウルをベースにした「Hold Me Up」はヴィンテージソウルに対する彼らの最大の賛辞代わりである。アルバムの終盤に収録されている「A Love International」では、セッションのリアルな空気感とスリリングな音の運びを楽しむことができる。この曲でもフュージョン・ジャズに焦点が置かれている。
アルバムの中にダンスフロアのクールダウンのような形で導入されているトラックが複数ある。例えば、「Farolim de Felguriras」では、ダブやアフロソウルをニューエイジやアンビエントのような形に置き換えていて面白い。その他、「Caja de la Sala」ではギターのリバーブやディレイのエッフェクトを元に、ニューエイジ/ヒーリングミュージックに近い質感を作り出している。
2ndアルバム「When It Comes」は単刀直入に言えば、傑作とまではいかないが、いくつか良質なナンバーが収録されていた。例えば、ハイライト「Bend Away And Fall」はチェンバーポップとバロックポップの中間にある音楽のアプローチを図り、 ニュージーランドのAldous Hardingsのようなアーティスティックな性質を漂わせるものがあった。つまり、ガヴァンスキーにとってのボーカルやソングライティングとは、ある種の自己表現の一種なのではと推測されるのである。
ダナ・ガヴァンスキーの音楽の中にはシンセ・ポップやアヴァン・ポップの影響に加えて、ポール・サイモンのような古典的なポピュラー・ミュージックの反映がある。今作の場合は、それをスロウなテンポで親しみやすい作風として提示している。オープニングを飾る「How To Feel Comfotable」はアーティストらしいファンシーな性質が漂い、ギターロックやホーンセクションに模したシンセ等、多彩なアレンジが加えられている。それはカラフルなポップとも称すべき印象を与える。そしてこのオープニングで瞭然なように、2ndアルバムに比べると、ギターリフのユニゾンを導入したりと、手法論としてロック的なアプローチが強まったように思える。
二曲目「Let Them Row」はピアノバラードに属する親しみやすいナンバーで、それらをバンドサウンドに置き換えている。温和なボーカルの風味に加えて、男性のコーラスが入ると、夢想的な感覚が漂う。スケールの進行自体は60年代や70年代のバロックポップに属しており、それらがノスタルジックな感覚を漂わせている。続くタイトル曲「Late Slap」に関しても、現代的なシンセポップの手法論を踏まえながら、それらをクラシカルなタイプのポップソングに落とし込む。これらの序盤の2曲は、それほど先鋭的とはいえないものの、ほんわかとした気分に浸れる。
もう一つ、ギター・ポップに近いナンバーもあり、「Ears Were Growing」がその筆頭格である。クラシカルなポップスではあるものの、変拍子を交えるあたりが、このアーティストらしいと言える。それほど音域の広い歌手ではないのだけれども、ボーカルの微細なニュアンスでおどけたようなファニーな印象をもたらす。いわば言葉やスポークンワードの延長線上にあるのがガヴァンスキーのボーカルの特徴と言える。それらがファンクに主軸においたベースライン、そして夢想的なシンセのテクスチャーが重なり、温和な音楽的な空間を作り出していくのだ。
アルバムの先行シングル「Song For Rachel」は他の主要曲と同じように夢想的な空気感を漂わせながら、軽やかなインディーポップ/シンセポップを展開させる。重さではなく、軽さにポイントが置かれており、これが日曜の午後のような温和な雰囲気が生み出される理由でもあるのだ。そして、これらの「脱力したポップ」ともいうべきユニークなサウンドは、ちょっと炭酸の抜けたソーダのように苦く、さらにアルバムの後半に至ると、その性質を強めていくようなイメージを受けざるをえない。そして奇しくも、同日発売のクルアンビンのようにリゾート志向の安らいだサウンドに直結し、続く「Ribbon」では、スティールパンを模したシンセの音色を導入し、The Beach Boysの「Kokomo」のようなトロピカル・ポップスの系譜を受け継ぐ。まさに国籍不明のサウンドで、ヨーロッパを飛び越え、米国の西海岸へとたどり着くのだ。ただガヴァンスキーの場合はソウルフルというか、それほどメロディーの跳躍を持たず、比較的落ち着いたムーディーなサウンドに重点が置かれている。これもまたクルアンビンと同じだ。
アルバムのオープニングを飾る「Closer」はディープ・ハウスの気風を残しつつも、そのサウンドの風味は驚くほど軽やかで爽やかである。それはかつてのアーバン・コンテンポラリーに属するアーティストがR&Bとポップスを融合させ、ブラック・ミュージックとしての深みとは対極にある軽やかさという点に焦点を絞っていたのを思い出す。これらのサウンドの最終形態は、チャカ・カーンの1984年の「Feel For You」によって集大成を見ることになった。チャカ・カーン等のニューソウルにまつわるサウンドについては、ブラック・ミュージックの評論の専門家によると、以前のR&Bに比べて、「編集的なサウンド」と称される場合がある。これはソングライターのリアルな歌唱力や、R&Bそのものが持つ渋さとは相異なる新境地を開拓し、その後のマイケル・ジャクスンに象徴されるような、きらびやかなポップスへの流れを形作った経緯がある。これは、現代的なオルタナティヴロックと同じように、録音したものをスティーブ・ライヒのようにミュージック・コンクレートの編集を加え、磨き上げるという手法によく似ている。
迫力のあるベースラインを強調するロイシンやジェシーとは異なり、明らかにファビアーナのR&Bサウンドは、軽妙なAOR/ソフト・ロックの系譜に属する。いわばその軽やかさは、二曲目の「Can You Look In The Mirror?」で示されるように、クインシー・ジョーンズやマーヴィンの80年代のアプローチに近いものがある。そしてこの点が低音域が強調されるハウスのサウンドとはまったく異なる。ファビアーナのサウンドは、ココ・シャネルのデザインのように足し算ではなく引き算によって生み出される。これがおそらく耳にすんなりと馴染む理由なのだろう。
R&Bシンガーとしての才覚が遺憾なく発揮された「Stay With Me Through The Night」はこのアルバムのハイライトとなりそうだ。ダイアナ・ロスの80年代の作風をわずかに思い出させる。この時代、ロスは以前の時代の作風から離れ、開放的で明るいサウンドを志向していた。ファビアーナの場合は、それよりも落ち着いたメロウなサウンドを作り出している。この曲には、デビューアルバムということを忘れさせてしまうほど、どっしりとした安定感が込められている。もちろん、その道二十年で活躍するようなベテランのシンガーのような信頼感がある。また他の曲に比べ、ファンクソウルの性質が強く、そしてベースラインも強調されている。これが他の曲よりも深いグルーブ感をもたらしている。ダンスフロア向きのナンバーと言えそうだ。
ファビアーナ・パラディーノのアーバンソウル/ネオソウルの次世代を行くサウンドは、その後、さらに明るい印象を以ってクライマックスへと向かう。 「Deeper」では同じように、ジョージ・ベンソンの近未来的なソウルのバトンを受け継ぎ、よりモダンな印象を持つサウンドへと昇華させる。続く「In The Fire」では、低音域の強いディープ・ハウス、アシッド的な香りを持つR&BをEDMのサウンドと結びつける。パラディーノのR&Bの表現は、その後もスムーズに繋がっていく。これらの流動的なR&Bサウンドを経たのち、クローズ「Forever」において、しっとりとしたメロウなソウルでエンディングを迎える。分けてもバラードという側面でシンガーの並々ならぬ才覚が発揮された瞬間だ。今年度のR&Bの中では間違いなく注目作の一つとなる。
今作の音楽はスコットランドのギター・ポップを元に、シンセ・ポップや1990年代のUKロックを反映させている。その中には、シューゲイザーの元祖であるJesus And Mary Chainや同地のロックシーンへのリスペクトが示されている。しかし、80年代から90年代のUKロック、スコットランドのギター・ポップが音楽の重要な背景として示されようとも、RIDEの音楽は、決して古びてはない。いや、むしろ彼らのギターロックの音楽の持つ魅力、そしてメロディーの良さ、アンディ・ベルのギター、ボーカルに関しても、その醍醐味はいや増しつつある。これは、実際的に、RIDEが現在進行系のロックバンドでありつづけることを示唆している。もちろん、これからギター・ポップやシューゲイズに親しむリスナーの心をがっちり捉えるだろう。
シューゲイズサウンドやギターポップの魅力の中には、抽象的なサウンドが含まれている。アンビエントとまではいかないものの、ギターサウンドを通じてエレクトロニックに近い音楽性を示す場合がある。RIDEの場合は、三曲目の「Light In a Quiet Room」にそのことが反映され、 それをビーディー・アイのようなクールなロックとして展開させる。アンディ・ベルのボーカルの中に多少、リアム・ギャラガーのようなボーカルのニュアンスがあるのはリスペクト代わりなのかもしれない。少なくとも、この曲において、近年その意義が失われつつあったUKロックのオリジナリティーとその魅力を捉えられる。それは曲から醸し出される空気感とも呼ぶべきもので、感覚的なものなのだけれど、他の都市のロックには見出しづらいものなのである。
続く「I Came to See The Wreck」でも80年代のマンチェスターサウンドに依拠したサウンドがイントロを占める。「Waterfall」を思わせるギターのサウンドから、エレクトロニック・サウンドへと移行していく瞬間は、UKロックの80年代から90年代にかけてのその音楽の歩みを振り返るかのようである。その中に、さりげなくAOR/ソフト・ロックやシンセロックの要素をまぶす。しかし、異なるサウンドへ移行しようとも、根幹的なRIDEサウンドがブレることはない。
続く「Stay Free」は、従来のRIDEとは異なるポップバラードに挑戦している。アコースティックギターに関しては、フォーク・ミュージック寄りのアプローチが敷かれているが、ギターサウンドのダイナミクスがトラック全体に重厚感を与えている。いわば、円熟味を増したロックソングの形として楽しめる。そしてここにもさりげなく、Alice In Chains,Soundgardenのようなワイルドな90年代のUSロックの影響が見え隠れする。もっといえばそれはグランジやストーナー的なヘヴィネスがポップバラードの中に織り交ぜられているといった感じである。しかし、ベルのボーカルには繊細な艶気のようなものが漂う。中盤でのUSロック風の展開の後、再びイントロと同じようにアイリッシュフォークに近いサウンドへと舞い戻る。
「Essaouira」はマンチェスターのクラブ・ミュージックの源流を形作るイビサ島のクラブミュージック、あるいは現代的なUKのEDMが反映されたかと思えば、クローズ「Yesterdays Is Just a Song」では男性アーティストとしては珍しい例であるが、エクスペリメンタル・ポップのアプローチを選んでいる。強かな経験を重ねたがゆえのアーティストとしての魅力がこの最後のトラックに滲み出ているのは疑いない。それは哀愁とも呼ぶべきもの、つまり、奇しくも1992年の『Nowhere』の名曲「VapourTrail」と相通じるものがあることに気づく。
年明けにリリースされたアルバムの先行シングル「Tea Over Henny」は、BNTとしてご紹介している。ミュージックビデオも素晴らしかった。スポーツカーの周りに、サンテとそのグループがスポーツカーでドリフトをかけながら、火花を散らす。少なくとも、UKドリルの属するヒップホップは、単なる宣伝材料になるのではなく、リアルな音楽として昇華されている。彼のリリックには精細感があり、内的な落ち着きがある。ヒップホップをモンスターのように捉えるのではなく、身近な表現手段、あるいはリベラルアーツの一貫としてサンテは体現しようと試みる。それをかつてのヴァンダリズムのような手段で、シンプルに、そして誰よりもダイナミックに表現する。この曲のサンテのリリック/フロウには、ニュアンスがあり、節回しも絶妙だ。
その後はまるで車のラリーやドライブのあとに、クラブフロアに立ち寄るかのようである。同じくEDMを間奏曲として解釈した「Changing Me Interlude」、「Fancy」はアルバムの中盤になだらかな起伏を作る。チルウェイブ/EDMの寛いだトラックはクラブフロア的な心地良さがある。アルバムの序盤のトラックと同様に上記もまたラッパーの日常的な生活が反映されているように感じられる。またそれは自分だけではなく、レスターの若者の日常の代弁する声でもある。この曲の後、再びトラップを基調としたグリッチのヒップホップに舞い戻り、都会的な感覚を表す。この曲もまたストームジーのようなトラックとして楽しめること請け合いである。
サンテのラップはそれほどUKのメインストリームの音楽とはかけ離れていない。そしてかつてのブリストルサウンドのように、なぜか夜のシーンが音楽そのものから浮かんでくることがある。そして、その後の収録曲では得難いほどに深淵な音楽へと迫る瞬間がある。「Love Is Deep」は、かなりピクチャレスクな瞬間が立ち表れ、サンテのなめらかで流麗なリリック、フロウ捌きの連続......、それはやがて都会的なビル、その合間に走るレスターの曲がりくねった国道、夜の闇にまみれた通りを疾走していくスポーツカーのイメージに変化していく。サンテが表現しようとするもの、それは人間的な情愛に限らず、フレンドシップにまつわる友情に近いものもありそうだ。そして、それを彼はナイーブでディープなラップによって表現している。泣かせるものはないように思える。ところが、そこには奇妙なペーソスがある。リズム的にもドラムンベースの影響を付加し、ローエンドが強く出るエレクトロサウンドを生み出す。メインストリームのラップとは一線を画しており、このあたりに"ローカルラップ"の醍醐味がありそうだ。
サム・エヴィアン(Sam Evian)はニューヨークのシンガーソングライター。前作『Time To Melt』で好調なストリーミング回数を記録し、徐々に知名度を高めつつあるアーティスト。エヴィアンの音楽的な指針としては、サイケ、フォーク、ローファイ、R&Bなどをクロスオーバーし、コアなインディーロックへと昇華しようというもの。彼の制作現場には、アナログのテープレコーダーがあり、現在の主流のデジタル・サウンドとは異なる音の質感を追求している。このあたりはニューヨークというよりもロサンゼルスのシーンのサイケサウンドが絡んでいる。
サム・エヴィアンは『Plunge』でもビンテージなテイストのロックを追求している。オープニングを飾る「Wild Days」は、70年代のアメリカン・ロックや、エルヴィス・コステロの名作『My Aim Is True』のようなジャングルポップ、そしてアナログのテープレコーダーを用いたサイケ/ローファイのサウンドを吸収し、個性的なサウンドが組みあげられている。ノスタルジックなロックサウンドという点では、Real Estateに近いニュアンスも求められるが、エヴィアンの場合はスタンダードなロックというより、レコードコレクターらしい音楽が主な特徴となっている。
サム・エヴィアンの制作現場にあるアナログレコーダーは、ロックソングのノイズという箇所に反映される。「Rolling In」も、70年代のUSロックに依拠しているが、その中にレコードの視聴で発生するヒスノイズをレコーダーで発生させ、擬似的な70年代のレコードの音を再現している。ここには良質なロックソングメイカーにとどまらず、プロデューサー的なエヴィアンの才覚がキラリと光る。そして彼はまるで70年代にタイムスリップしたような感じで、それらの古い時代の雰囲気に浸りきり、ムードたっぷりにニール・ヤングの系譜にあるフォーク・ロックを歌う。これには『Back To The Future』のエメット・ブラウン博士も驚かずにはいられない。
本作の序盤では一貫してUSのテイストが漂うが、彼のビンテージにまつわる興味は続く「Why Does It Takes So Long」において、UKのモッズテイストに代わる。モッズとはThe Whoやポール・ウェラーに象徴づけられるモノトーンのファッションのことをいい、例えば、セミカジュアルのスーツや丈の短いスラックス等に代表される。特に、The Whoの最初期のサウンドはビートルズとは異なる音楽的な意義をUKロックシーンにもたらしたのだったが、まるでエヴィアンはピート・タウンゼントが奏でるような快活なイントロのリフを鳴らし、それを起点としてウェスト・コーストロックを展開させる。ここには、UKとUSの音楽性の融合という、今までありそうでなかったスタイルが存在する。それらはやはりアナログレコードマニアとしての気風が反映され、シンコペーション、アナログな質感を持つドラム、クランチなギターと考えられるかぎりにおいて最もビンテージなロックサウンドが構築される。そして不思議なことに、引用的なサウンドではありながら、エヴィアンのロックサウンドには間違いなく新しい何かが内在する。
アメリカーナの固有の楽器も取り入れられている。続く「Right Back To It」ではスーパーチャンクの名曲「1000 Pounds」にようなインディーロックとアメリカーナの融合のソングライティングに取り組んでいる。しかし、ワクサハッチーの場合は、ロックソングというよりも普遍的なポップスに焦点が絞られ、映画のワンシーンで流れるような寛いだサウンドトラックを思わせる。それほど聞きこませるというよりも、聞き流せるという音楽として楽しめる。ワクサハッチーの音楽は主要なメインテーマといよりかは、BGMや効果音のような聞きやすいポップスなのである。
「Burns Out at Midnight」はスプリングスティーンのようなUSロックの王道を行くが、その中には単なるイミテーションという形ではなく、子供の頃に聴いていたラジオからノイズとともに聞こえ来る音楽を再現しようという狙いが伺える。それは、ノスタルジアなのか、それとも回顧的というべきなのかは分からないが、懐かしさに拠る共感覚のようなものを曲を通じてもたらすのである。続く「Bored」に関してもこれと同様に、映画のサウンドトラックで流れていた曲、そしてその音楽がもたらすムードや雰囲気を曲の中で再現させようとしているように感じられる。
クラシカルな音楽に対する親しみはその後より深い領域に差し掛かる。「Lone Star Lake」、「Crimes Of The Heart」は、ムードたっぷりのバンジョーやスティールギターがやはり南部的な空気感を生み出している。穏やかさと牧歌的な気風が反映されているが、正直なところ、このあたりはなにか二番煎じの感が否めない。穏やかな感覚はどこかで阻害されているという気がし、残念だと思うのは、ルーツまでたどり着いていないこと。それがなんによるものかは定かではないが、本当の音楽がなにかによってせき止められてしまっているような気がする。
今回のアルバム『Three』は現代的なサウンド、あるいは未来志向のサウンドというよりも、90年代のAphex Twin、Clark、Floating Points、Caribouあたりの90年代のテクノに依拠したサウンドが際立っている。レトロで可愛らしい音色のシンセが目立つが、中には、この制作者らしいカラフルなメロディーが満載となっている。それらは、グリッチ/ミニマルテクノのデュオ、I Am Robot And Proudのような親しみやすいテクノという形で昇華される。ただ、Squarepusherほど前衛的ではないものの、(生の録音の)ドラムのビートに重点が置かれる場合があり、オープナー「Loved」に見出すことが出来る。それほど革新的ではないにせよ、言いしれない懐かしさがあり、テクノの90年代の最盛期の立ち帰ったようなデジャブ感がある。そしてアシッド・ハウス風のビートとカラフルなシンセの音色を交え、軽快なテクノへと突き進むのである。
アルバムの序盤は安らいだ感覚というべきか、アンビエントに近い抽象的な音像をダウンテンポやテクノの型に落とし込んでいる。「Glinding Through Everything」はサウンド・デザイン的なサウンドで聞き手を魅了する。Boards Of Canadaに比するアブストラクトなテクノとして楽しんでほしい。ポスト・ロック的なアプローチが続く。「Storm Crystals」は、Tychoのようなインストのロックに近い音楽性が垣間見え、それらは比較的落ち着いたIDM(Intelligence Dance Music)という形で展開される。ダンスフロアではなく、ホームリスニングに向けた落ち着いたテクノであり、ここにも冒頭のオープナーと同様に90年代のテクノへの親しみが表されている。
ECMのリリースを始め、ジャズの名門レーベルから多数の名作を発表してきたロイドは86歳になりますが、ジャズミュージシャンとして卓越した創造性、演奏力、 作品のコンセプチュアルな洗練性を維持してきました。驚くべきことに、年を経るごとに演奏力や創作性がより旺盛になる稀有な音楽家です。彼の名作は『The Water Is Wide』を始め、枚挙に暇がありません。スタンダードな演奏に加え、ロイドは、アヴァンギャルド性を追求すると同時に、カラフルな和音性やジャズのスケールを丹念に探求してきました。近年、ロイドはジャズの発祥地である米国のブルーノートに根を張ろうとしています。これはジャズのルーツを見れば、当然のことであるように思える。
『The Sky Will Still Be There Tomorrow』は彼のサックスの演奏に加え、ピアノ、ドラムのバンド編成でレコーディングされた作品です。冒険心溢れるアヴァンギャルドジャズの語法はそのままに、アーティストがニューオリンズ・ジャズの時代の原点へと回帰したような重厚感のあるアルバムです。
ブレス、ミュート、トリル、レガートの基本的な技法は、ほとんどマスタークラスの域に達し、エヴァンスやジャレットの系譜にあるピアノ、オーリンズとニューヨークの奏法のジャズの系譜を受け継いだドラムとの融合は、ライブ・レコーディングのように精妙であり、ジャレットのライブの名盤『At The Deer Head Inn』のように、演奏の息吹を間近に感じることが出来る。チャールズ・ロイドは、あらためてジャズの長きにわたる歴史に焦点を絞り、クラシカルからモダンに至るまですべてを吸収し、それらを華麗なサックスとバンドアンサンブルによって高い水準のプロダクションに仕上げました。スタンダードな概念の中にアヴァンギャルドな性質を交えられていますが、これこそ、この演奏家の子どものような遊び心や冒険心なのです。
アルバムの中で最も目を惹くのがチャールズ・ロイドの「Water Series」の続編とも言える「The Water Is Rising」です。抽象的なピアノやサックスのフレージングを元にし、ロイドは華やかさと渋さを兼ね備えた演奏へと昇華させる。この曲では、ロイドはエンリコ・ラヴァに近いトランペットの奏法を意識し、色彩的な旋律を紡ぐ。トリルによる音階の駆け上がりの演奏力には目を瞠るものがあり、演奏家が86歳であると信じるリスナーは少ないかもしれません。ロイドの演奏は、明るいエネルギーと生命力に満ち溢れ、そして安らぎや癒やしの感覚に溢れている。サックスの演奏の背後では、巧みなトリルを交えたピアノがカラフルな音響効果を及ぼす。
古典的なジャズの演奏を踏襲しつつも、実験性や前衛性に目を向けることもある。「The Garden Of Lady Day」では、コントラバスのフリージャズのような冒険心のあるベースラインがきわめて刺激的です。ここにはジャズの落ち着きの対蹠地にあるスリリングな響きが追求される。この曲では、理想的なジャズの表現というのは、稀にロックやエレクトロニックよりも冒険心や前衛性が必要となる場合があることが明示されている。これらは、オーネット・コールマン、アリス・コルトレーンを始めとする伝説的なアメリカのジャズの演奏家らが、その実例、及び、お手本を華麗に示してきました。もちろんロイドもその演奏家の系譜に位置しているのです。
ブルーノートからのリリースではありながら、マンフレート・アイヒャーが好むような上品さと洗練性を重視した楽曲も収録されています。「Sky Valley, Spirit Of The Forest」は、Stefano Bollani、Tomasz Stanko Quintetのような都会的なジャズ、いわば、アーバン・ジャズを意識しつつ、その流れの中でフリージャズに近い前衛性へとセッションを通じて移行していく。しかし、スリリング性はつかの間、曲の終盤では、アルバムの副次的なテーマである内的な静けさに導かれる。ここにはジャズの刺激性、それとは対極に位置する内的な落ち着きや深みがウッドベースやピアノによって表現される。タイトルに暗示されているように、外側の自然の風景と、それに接する時の内側の感情が一致していく時の段階的な変遷のようなものが描かれています。
本作の後半では、神妙とも言うべきモダン・ジャズの領域に差し掛かる。ウッドベースの主旋律が渋い響きをなす「Balm In Gilead」、ロイドのテナー・サックスをフィーチャーした「Lift Every Voice and Sing」では歌をうたうかのように華麗なフレージングが披露される。アルバムの音楽は、以後、さらに深みを増し、「When The Sun Comes Up, Darkness Is Gone」でのミュートのサックスとウッドベース、ピアノの演奏の絶妙な兼ね合いは、マイルスが考案したモード奏法の先にある「ポスト・モード」とも称すべきジャズの奏法の前衛性を垣間見ることが出来ます。
続く「Cape to Clairo」ではセッションの醍醐味の焦点を絞り、傑出したジャズ演奏家のリアルなカンバセーションを楽しむことが出来る。このアルバムは、三部作に取り組んだジャズマン、チャールズ・ロイドの変わらぬクリエイティヴィティーの高さを象徴づけるにとどまらず、ジャズの演奏家として二十代のような若い感性を擁している。これはほとんど驚異的なことです。
Charles Lloyd 『The Sky Will Still Be There Tomorrow』の日本盤はユニバーサルミュージックから発売中。公式サイトはこちら。
「Defiant, Tendder Warrior」
zakè 『B⁴+3 』
Label: zakè drone recordings
Release: 2024/03/08
【Review】
zakèはザック・フリゼル(Zack Frizzell)のアンビエント/ドローンの別名義であり、アメリカでは「Past Inside the Present」のレーベル・ボスでもある。反復と質感のあるアンビエントドローンが彼のオーディオ・アウトプットの真髄である。ザック・フリゼルは、Pillarsのオリジナル・ドラマーとして活動し、以前、dunk!records / A Thousand Armsから「Cavum」をリリースし、高評価を得た。dunk!recordsからの初のソロ・リリースは、スロー・ダンシング・ソサエティとのコラボ・リミックス・トラックで、ピラーズの「Cavum Reimaged」2xLPに収録されている。
因数分解のような不可解な数式をタイトルに冠した曲は、例えば、他にもウィリアム・バシンスキーの『On Time Out Of Time(2019)』のクローズに収録されている「4(E+D)4(ER=EPR)」がある。また、数学的な周波数を元にグリッチを発生させるアーティストとして、パリを拠点に活動している池田亮司が挙げられる。これらのアーティストは、前の時代の黄金比や純正律といった音楽の音階の基礎を作り出した方法論に対し、新しい意義を与えようというグループである。zakèに関しても、同じように7つの曲の中で異なる調性の階層を設けている。良く聴くと、アンビエント・ドローンのアウトプット方式も若干異なることが理解出来るはずである。それは、グリッチノイズやホワイトノイズの出力方式、あるいは王道の抽象的なサウンドスケープを呼び覚ますためのシークエンス、パンフルートのプリセットをアレンジしたパッドの音色、そしてシンセの波形を操作し、パイプオルガンのような音色を作り、それらをスウェーデンのアーティストのように保続音として伸ばすというもの。このアルバムに収録された七曲それぞれに、ザック・フリゼルは異なる意匠を凝らし、バリエーションをもたらしている。
ニューヨークのアンダーグランドシーンの大御所のジョン・ケールがソロ・アルバムをリリースしたとなれば、手をこまねいているわけにはいかなかったのだろう。ノイズロックとアートロックを融合させた『No Home Record』に続く『The Collective』は、ボーカリストーーキム・ゴードンがいまだ芸術的な感性を失わず、先鋭的なアヴァンギャルド性とアイデンティティを内側に秘めていることを明らかにする。
続く「I’m A Dark Inside」では、ブレイクビーツの手法を選び、ノイズと融合させる。音が次の瞬間に飛ぶようなトリッピーな感覚を活かし、Yves Tumorのデビューアルバムに近い音楽の方向性を選んでいる。それに「No New York」の頃の前衛性とサイケデリアの要素を加えているが、それは最終的に「ハイパーポップのノイズ性」というフィルターを通してアウトプットされる。
「Tree House」では、アーティストが知りうるかぎりのアヴァン・ロックの手法が示されている。ガレージロック、「No New York」のノーウェイヴ、ドイツのインダストリアルロックがカオスに混ざり合いながら、アナログレコードの向こうから流れてくるかのようだ。レコードの回転数を変えるかのように、ローファイな質感を持つこともある。この曲には、10年どころか、いや、それ以上の時間の流れていて、30年、40年のアヴァン・ロックの音楽が追憶の形式をとり、かすかに立ち上ってくる。