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2020年、クリスマスプレゼントとして、グー・グー・ドールズからカバーを中心にしたアルバム「It's Cristmas All Over」がファンに向けて捧げられた。

 

 

それに続き、約半年振りのレア・トラック集「Rarities」 がワーナー・ブラザーズからリリースされた。シングルカットが先行しているので、新作のアルバムリリースも遠くない日に実現すると思われる。それまでの辛抱として、この「Rarities」を聴きながら、ファンとしては首を長くして待ちたいところだ。

 

 

現在、日本盤はリリースされておらず、輸入盤、Importのみのリリースとなっている。多分、この辺りのロックバンドは隠れファンが一定数いそうな気配があり、購入特典とかブックレットとかを充実させようものなら、喜んで飛びつきそうなのに、つくづくもったいないように思える。

 

 

しかし、それでも、この新譜がグー・グー・ドールズのキャリアを懐古的に総ざらいするものではなくて、むしろ、ここで一区切りを付け、次のステップへ進んでいく節目に差し掛かっているように思える。あらためて、二曲目の「Nothing Can Changes」が未発表曲とはいえ、歴代ベスト一、二を争う白眉の出来映えである。彼等を、良質なアメリカン・ロックバンドというふうに再認識できる楽曲だ。 


 

グー・グー・ドールズのワーナーからの新作「Rarities」。 これは、往年のファンとしては実に堪らないものがある名曲がずらりと並ぶ。収録曲のほとんどが未発表のライブ録音で湿られている。

 

 

このアルバムを見過ごすことができないのは、新しいものを聴きたいというファンの渇望に答える形での未発表の楽曲も、忘れずに収録されているあたりも、WanerBrosの敏腕というべきだろう。

 

 

 

このアルバムは、グー・グー・ドールズのベスト盤のサイド・リリースのような意味合いがある。ここには、今までアルバムという形で見えづらかった良質なメロディーセンスを掴むのには最も適した作品と言えるだろう。

 

先述したように、未発表曲「Nothing Can Changes」の問答無用の素晴らしさもさることながら、ここには、往年の名曲がずらりと並べられ、「Girl Right Next to You」「Iris」「Black Balloon」「Naked」のアコースティックのライブ・バージョンを聴くことが出来るのがアルバムとしての大きな魅力だろう。そして、なんといっても、未発表曲でありながら隠れた名曲「Don't Change」のライブ・バージョンが収録されているのもファンとしては見逃すことができない。

 

 

グー・グー・ドールズは、元は、どちらかというと、パンク・ロック、あるいはハードロック寄りのバンドとして、ミュージックシーンに登場し、そして、その後、95年を節目に大胆な路線変更を計り、大成功を手中に収めた。

 

 

「A Boys Named Goo」のレコーディング中に、何らかのワーナーからの忠告があったのかは定かではないものの、それから大変身を果たして、米国チャートでメガ・ヒットを記録、バラード・ソングを主な特徴とした九十年代を代表する世界的なロックバンドとしての歩みを着実に進めていったのだ。

 

 

「A Boys Named Goo」にも収録されている「Iris」が、なぜ、世界的に大ヒットを記録したのか、それはこの新作アルバム「Rarities」を聴くことにより、ヒットの理由に迫る事ができるかもしれない。

 

 

やはり、「Iris」は、端的に言うと、時代に古びることがない永遠のフォークバラードなのだ。ここには、エアロスミスやボン・ジョヴィといったアメリカン・ロックのビックスターにも全然引けを取らないバラードソングの普遍的な魅力が、レズニックの生み出す世界観には込められている。

 

 

そして、また、彼等グー・グー・ドールズの初期の名作「Super Car Wash」1993に収録されていた「Girl Right Next To You」のアコースティック・バージョンに象徴されるように、秀逸なラブソングを都会人らしくクールに歌い上げるロックバンドとしての真価が、「Rarities」には刻印されている。

 

 

そして、この新作アルバムには、アメリカの善き時代の音の反映が顕著に表れているように思えてならない。そして、その”空気感”とのぶべき得難いものが、聞き手の琴線にそっと触れ、なぜか不思議なくらい穏やかな感情を呼び覚ましてくれるはずだ。


ハリソンとビートルズ

 

ジョージ・ハリソン、ひいては、ビートルズというバンドについては、やはり、六十代より上の世代の方々の知識にはかなうべくもない。もちろん、リアルタイムで武道館のビートルズサウンドを味わった人たちのような体験者としての生々しい感想を持つわけでもないのだから、このレビューについては精確さは期待できないと一応お断りしておきたい。


 

さて、ジョージ・ハリソンは、非常に奇異なロックミュージシャンである。もとは、ビートルズのギタリストしてかのロックサウンドを強固に支えていたが、徐々に、ビートルズ内でも強烈な存在感を見せるようになっていく。その理由のひとつは、ボブ・ディランがロックミュージシャンとしての通過儀礼を、レノン、ハリスンの二人に授けたからというのもあるかもしれない。

 

 

後期のビートルズのアルバムは、名作ばかりであることは疑いを入れる余地がない。それに音楽性においても、アートの高みに達しているといえる。しかし、その一方で、バンドとしてはローリング・ストーンズとは異なり、各個人の個性が強すぎ、そして、ソロメンバーとしての才覚が有りすぎたため、バンドサウンドに対する個人の才覚の落とし所を見つけるのに苦労していたというべきか、どことなく四人が譲り合うような雰囲気も見えなくはない。この曲はマッカートニー、この曲はレノン、もしくはリンゴ、ハリスンと、楽曲の分担制ともいえるようなアルバム作りをしていたと思われる。これは、ロックバンドとして存続していくための唯一の活路であったように思える。また、もっというなら、非常にバンドとしては、ギリギリのところでサウンドが成り立っていたに違いない。その緊張感とも呼ぶべき性質が、彼等四人を芸術家としての存在たらしめている。これは、初期のライブバンドとしての地位を手放し、のちにストイックな”スタジオ・ミュージシャン”としてのロックバンドに変身したことにも起因するのかもしれない。

 

 

そして、よくいわれるように、実際、一般的にダーティーなイメージを圧倒的に持つのは、ストーンズなのだが、一方で、ビートルズという存在が、必ずしもクリーンな存在であるとは言いがたい。個人的に思うのは、ストーンズほど優等生的なバンドはいない(かもしれない)。少なくとも、でなければ、あれだけ長い期間、第一線での活動というのは出来ないはずなのだ。むしろ彼等の印象をダーティーにしているのは、取り巻きの”Hells Angels”と、そして、一時的なゴシップ的事件によるものだったと思われる。

 

 

そして、かつては、そういった一般的な人と異質なイメージというのは、ロック・ミュージシャンのスターシステムを強化するものであった。人は、自分とは違うものを彼等に見出すからこそ崇め立てたのだ。そして、ここでもうひとつ、いっておきたいのは、ストーンズ、そして、フロントマンのミック・ジャガーの人柄には、育ちの良さ、品行方正さすら滲んでいるということである。往年のライブで、これ以上はセキリティの面で、観客の安全が確保できなくなり、ライブが続行できなくなる危険に見舞われた際、ほぼ暴動化寸前となった観客にたいして、「Calm down、please!!」と紳士的にステージから気の毒そうな表情を浮かべて、観客に根気強く呼びかけている。これというのは、ミック・ジャガーという人物の本質がジェントルマンだからなのだ。

 

 

ビートルズのバンド内での音の緊迫感ともいうべきものは、徐々にであるけれども、作品中、とくに”ホワイト・アルバム”辺りの音の雰囲気にも感じられるようになる。どことなく型破りな曲も多く、そして、現代音楽に対するアプローチも見られるようになる。そのあたりから既に、それまで隠れていたハリソンやスターの才覚というのは目にみえるような形で現れ出ていくようになる。

また、ロックのマスターピースであり、何度も他のバンドにカバーされている伝説的名曲「ヘルター・スケルター」は、以前は悪魔の音楽といわれたようだが、いや、今でも当然そのように感じられるだろう。このメタルという音楽、もしくは、ハードロックのルーツといわれる楽曲に垣間見れるマッカートニー、ハリソンのボーカル、いや、シャウトの掛け合いの異様で破天荒な凄さというのはなんだろう? これは、はるかに、ローリング・ストーンズを凌ぐダーティーさというしかなく、”ザ・ステッペン・ウルフ”をも震え上がらせであろうほどのワイルドさなのだ。そしてそのワイルドさというのは、まず間違いなくのちのハリソンのソロでの音楽性の中核を成しているように感じられる。

 

 

 

Geroge harrison 「All Things Must pass」

 

 

 

 

このジョージ・ハリソンのソロ名義でのスタジオアルバム「All Things Must Pass」は、1970年のリリース当時も世界的に大ヒットしたアルバムだが、リマスター版が再発され、再評価の機運が高まっている作品といえる。リマスター版ではオリジナル曲の貴重なリハーサルテイクを聴くことができるのが特徴である。

 

 

コロナ禍でロックダウンが敷かれる中、意外にも特に英国で売上が堅調だったのが実は往年の名盤アルバムで、特に、ザーフーの「Who's Sells Out」’67がイギリスのチャートで2020年に上位に再浮上したことは記憶に新しい。

 

 

これは、慎重に言葉を選ばねばならないが、あらためて、人々の忙殺された時間の中に、往年の名盤を振り返り、じっくり耳を傾ける余裕を与えたということもできるかもしれない。そして、このジョージ・ハリスンのソロスタジオアルバムも、現代において再評価に値する名盤の一つである。

 

 

ここで、ハリソンはビートルズ時代では、実現できなかったフォーク・ロック、もしくは、ハワイアンサウンド風の要素をまじえ、その上にハリスン節ともいえる独特な世界を築き上げることになんなく成功している。そして、ここではやはり、彼の素晴らしいポップセンスが遺憾なく発揮されている。

 

 

そして、彼の真骨頂とも言える楽曲、いや、彼のキャリアでの最高傑作といっても差し支えない「My Sweet Lord」では、キリスト、クリシュナ、さらには、ハーレー・アーレーの名まで歌詞においてリフレインされる。この歴史的な楽曲において、ついにハリソンは、音楽性において、レノン、マッカートニーに肩を並べ、驚くべきことに、ある部分では彼等の先を行ったともいえるだろう。もちろん、スライド・ギターにおいて名ギタリストとして新たな境地を見出していることも付け加えておきたい。

 

 

この素晴らしい楽曲の特長としては、車のCMソング等に使用されてもおかしくないような疾走感、そして、爽やかさがあり、そこに、ビートルズ時代から想像できない清涼感のあるボーカルが際立った特長を形作っている。これは、ジョージ・ハリスンがおそらく真の意味で自分の好きな音楽性を追求しつくした結果、彼の音楽における才覚がついに遅まきながら完成したといえる。言い換えれば、ビートルズのメンバーとしてのキャラクターからの脱却という近代音楽史的にも深い意味を持つ楽曲でもある。

 

 

また、ビートルズ・ファンとしても見逃せないのが「I'd Have You Anytime」である。ここで繰り広げられる音楽性というのは、往年のマッカートニーやレノンが書きそうなどことなく甘い感じのあるポップソングで、これはおそらく、現代の耳で捉えても、懐かしさこそあるものの、不思議なほど新しさの感じられる楽曲となっている。こういった曲というのは、実は、七十年辺りにはたくさんあろうと思われるのに、これこそハリソンのダンディズムというべきものか、そういった並み居る名曲群から頭ひとつ抜きん出ているという印象すらうける。ゆったりした味わいのあるナンバーなのだ。

 

 

そして、「Isn't It A Pity」においては、レノンのソロ活動でのロックに接近しつつあるといえる。また、ここには、後に隆盛したブリット・ポップの音楽性のメロディー骨格をなす根本的な要素が見られる。同時に楽曲においては、ビートルズに回帰している様子も興味深いところだ。これまでなんとなく疎んじてきたように思えるビートルズ時代の音楽を、彼はすべてそのまま認めた結果、このような新しくもあり、懐かしくもある数奇な音楽を生み出したといえるだろう。

 

 

 

あらためて、アルバムトラックの全体を見渡してみると、聴けば聴くほど渋い味が出てくるかみごたえのある素晴らしい楽曲ばかりである。

 

 

没してなお、多大な影響を後の人々に与え続ける人が稀にいるものだ。ジョージ・ハリソンもまた、その英国のロックのカリスマたち、レノン、キース・ムーン、ボウイに続いて同じ類型にある偉人のひとりなのだろう。

 

 

以後のイギリスの音楽史に、大いなる光を投げかけつづけるジョージ・ハリスンの傑作「All Things Mast Puss」は、今でこそ再評価されるべきマスターピースの一つで、あらためて傾聴に値する歴史的な名作であると断言できる。なぜなら、ここには、伝説上の数奇なロック・ミュージシャン、ジョージ・ハリソンの”音楽に対する愛情”が神々に対して、高らかに捧げられている。

 

 

Goo Goo Dolls 「Dizzy Up Girls」


ニューヨーク、ブルックリン発のロックバンド、グー・グー・ドールズ。元は三人体制、いわゆるスリーピースでしたが、今は、ドラマーのジョージ・トゥトゥスカが脱退。現在、正式なバイオグラフィーとしては、二人組のロックユニットということになっているようです。

ギター・ボーカルのジョン・レズニックは、どことなくジョン・ボン・ジョヴィに近いハスキーで渋い低い声質をしていながら、ハイトーンもなんなくこなしてしまうというボーカリストとして最良の性質を擁しています。

このバンドの音楽性というのは、どことなくボン・ジョヴィに近いものがあります。けれど、かのバンドがニュージャージーの緑豊かな住宅街にあるような美しい自然のニュアンスを思わせる壮大なバラッド曲が多いのに対し、このグー・グーは1990年代辺りの、およそブロードウェイを思わせるような、都会的に洗練された紳士的ニュアンスあふれる音楽を奏でている印象をうけます。

 


彼等はまた、1980年代から現在まで、ボン・ジョヴィとともに、これぞまさしくアメリカン・ロックだというべき、良質な音楽をリスナーの元に届け続けてくれています。

なぜかしれませんが、同じくらいの良質な音楽性を有していながら、アメリカン・ロック界でのエアロスミスと、ボンジョヴィの知名度にくらべて、このグーグーは、それほど上記の二つのバンドに比べると、ここ日本ではあまり知られていないバンドといえるのではないでしょうか。

しかし、ロック・バラッドというジャンルにおいては、他のアメリカのバンドと比べても随一の完成度を誇るバンドで、先月の十六日、ワーナーから四曲入りのEP「EP21」がリリースされ、そこでも相変わらず美しいバラッドを聞かせてくれています。これまでにはあまりなかった要素、例えば、シンセサイザーのシークエンスも加わり、そこでは壮大な世界観が展開されいていて、以前よりグーグーという存在は早い速度でグングン進化してきているように感じられます。

グーグードールズは、彼等の代名詞的な作品ともいえる「A Boy Named Goo」においてセールス的にも大成功を収めましたが、次の作品「DIzzy Up Girl」では前作のスタンダードなハードロック色はなりをひそめ、代わりに、良質な大人向けのAOR色の強いバラードを展開しています。

このアルバムに収録されている「Black Balloon」や「Iris」において、彼等はロック・バラードという形の新たな境地を開拓したといえ、これまでにはなかった渋みのある都会的に洗練されたメロディーセンスを押し出していきました。

この二曲には、今までの路線とは異なり 、しっとりとしたバラードソングがレズニックのハスキーなヴォーカルによって情感たっぷりに歌われています。彼等の楽曲というのは非常にエモーショナルで、何か彼の人生から引き出される詩的な音楽性が、その中に込められているという気もします。

前の作品よりもはるかに大人な渋い雰囲気が醸し出され、飽きの来ない噛みごたえのある楽曲群で、スタイリッシュでクールな雰囲気に満ち溢れているところが彼等の魅力にひとつといえるでしょう。

1993年「Superstar Car Wash」、そして、1995年「A Boy Named Goo」時代のスタイルから大切に引き継がれてきたアメリカン・ハードロック路線を、このアルバムにおいてもしっかりと踏襲し、その新たな進化をはっきりと示したのが、「Bullet Proof」「Hate The Place」の二曲。

特に、個人的には「Bullet Proof」が彼等の最高傑作の楽曲のひとつではないかと思っています。

レズニックのハスキーでいながらも透明感、ヌケ感のあるハイトーンの歌唱の伸び方というのは、他のバンドにはない魅力で、彼の喉を引き絞るようにして歌われているところも切ないような響きが込められています。そして、上記の二曲においては、NYのブルックリン辺りに充ちている冷たい都会的なクールなアンビエンスがロックとして表現されているのが興味深いところ。

そして、スタイリッシュな雰囲気がありながら、古くからの日本の歌謡曲のようないわゆる「泣き」とよばれる要素があるため、それほど洋楽には馴染みがないという方にもオススメの作品のひとつ。


グー・グー・ドールズの楽曲というのは、よく商業的なアメリカン・ロックというように見做されているところはちょっとだけ彼等が可愛そうな気がします。

実は、彼等の楽曲というのは、使い捨ての安っぽい商業的な楽曲ではなくて、聴き込めばよく分かる通り、詩的な風味に富んだ美しい情緒的なバラードソングばかりです。

 2021年、新作「EP21」もリリースされたことから、アルバムリリースへの動きがあるように思えて、突発的にこの名盤を取り上げましたが、個人的には、グー・グー・ドールズという存在が、今一度、良質なアメリカンロックバンドとして多くのロックファンに再認識されることを切に願っています。


 THE KNACK 「GET THE KNACK」


いわゆる、一度聴いたら耳について離れない曲というのがあって、このTHE KNACKというバンドの「マイ・シャローナ」という楽曲もそのひとつに挙げられるでしょう。もうずいぶん昔になってしまいましたが、この中の一曲、マイ・シャローナがあるバラエティー番組に使われていたことを覚えている人は多くないかもしれません。

しかし、このマイ・シャローナというフレーズを聞くと、「ああ、この曲だったの!」と理解してくれる方も少なくないはず。今回、このアルバムを取り上げたのは、有名なこのマイ・シャローナという曲が収録されているから紹介しよう、というのではなく、このアルバムのその他の曲が、結構粒ぞろいの楽曲が揃っているため、再度、ここで埋もれつつありそうなThe Knackという良質なロックバンドに、さりげなくスポットライトを当てておこうという意図があります。

このバンドは、実は、カートコバーンなども、影響を受けたバンドとして挙げていて、直截的な影響を感じないですが、なんとなくそのフレーズやメロディーのキャッチーさという点で、カート・コバーンは、何か売れるロックミュージックの方程式を肌で学び取ったのかなあというような気がします。

 このバンドを説明する上では、”Power Pop”というロックのジャンルを無視するわけにはいきません。パワーポップというジャンルは、どちらかというと、ニューウェイブとかパンクよりの類型の扱いであって、何だかちょっと切ないような、甘酸っぱいようなフレーズがちりばめられているのが顕著な特徴です。その源流をたどると、Flamin' Grooviesという英国のロックバンドの「Shake Some Action」という楽曲が、パワーポップの原型、雛形だというようにいわれています。

もちろん、オーバーグラウンドなどではチープ・トリックという、パワーポップに分類されてもおかしくないバンドが、日本で、ビートルズに負けないほどの人気を博した経緯がありますが、どうも、このパワーポップというジャンルは、メロディーというのが前面に引き出されていて、一度聴いただけで楽曲の良さが理解しやすいという側面があって、日本人にとっては親和性の高い音楽性なのではないかと睨んでいます。

そして、THE KNACKというバンドはよく一発屋のようにみなされるところがちとかなしいところですが、実は結構、タイトなドラミングであったり、ギターの演奏というのは、シンプルでそれほど派手さはないんですが、隠れた実力派のバンドということだけは名言しておきたいですね。

 

このアルバムの中ではたしかにディスコミュージック的な雰囲気のあるマイ・シャローナばかり取りざたされるのにちょっと不満でありまして、個人的には他にもっといい曲があるじゃないかと、ナックファンとしては義憤をおぼえ、実は「Oh Tara」という曲、そして、「That's What The Little Girl Do」という二つがパワーポップ史の五本指に入ってきてもおかしくない名曲なんだと勝手に断定づけておきたいところです。

結構、THE KNACKの曲というのは、淡白な印象で、ギターの音色も、アンプからそのまま直という感じであるし、また、それほどメロからサビにおいて、旋律の音階が劇的な跳躍があるわけではないので、聴いていて強烈なインパクトはないです。それでも、ダグ・フィーガーの歌声の爽やかさというのは聴いていて心地よく、永遠の輝きすら持っているように思えます。彼の声質というのは、とても純朴でいて、とっつきやすいものがあり、歌い方にも、変な力みが入っていなくて、不純物のようなものが全然感じられないです。声は人を表すという言葉を信ずるならば、この歌声にフィーガーの人柄、彼の温和で親しみやすい性質がはっきり現れているのかもしれません。 

 「Oh tara」

これは十代の頃によく聴いた曲で、なんだか聴いていると、多感なころの情感をゆさぶられるかのよう、胸キュンというべきか、なぜだか切なくなってきたのを覚えています。実はこれがパワーポップの類い稀な魅力で、青春のセンチメンタルな情感を想起させてくれる。

それはちょっと青臭く、はたから見ると、ちょっとダサそうにも思えるのだけれども、十代の頃しか味わえないような大切な感情を、こういった楽曲というのははっきりとした形で呼び起こさせてくれました。今、年をとって聴きなおすと、たしかに曲の良さというのはよくわかるんですが、かつてのような胸をドギュンと射抜かれるような感じというのは、もうすでに味わいがたくなっています。なぜ、そのような共鳴が起こるのか、ちょっとわからないですけれども、それこそ、おそらく、音楽というもののもつ不思議な魅力、醍醐味なのではないでしょうか。

 「That's What The Little Girl Do」

この曲については、Oh taraとは対照的に、非常に明るく爽やかで、弾けたような印象のある曲で、とても親しみやすいところがあります。聴いていると、柔らかな風が目の前を通り抜けていくかのようなセンチメンタリズムで彩られています。ちょっとオールディーズ的なコーラス、そして、間奏のダブルギターのハーモニクスが非常にいい味を出しています。一切、余計な展開を付け加えず、非常にシンプルな構成となっています。

 

 

改めて聞いてみると、THE KNACKというのは、マイ・シャローナに代表されるように、あっけないほどシンプルでスタンダードなロックを奏でるミュージシャンです。小細工を一切せず、ありのままの音楽をからりとした痛快!といえるほどの心情で表現する。そういったところが、刺激的な色気のようなものを芸術に求めるタイプの聞き手にとっては、ちょっと物足りない印象があるのかもしれません。

 

しかし、やはり、改めて言っておきましょう。THE KNACKは素晴らしい!!

 

いつ聴いてもオールタイム・ベストのロックアーティスト。健全でいて、爽やかな音楽性で、今なお時を越えて、私たちを楽しませ、勇気づけてくれる、不思議な魅力を持った太陽のようなミュージシャン。

50年という長い年月を経ても、かれらの楽曲の輝きというのは今もなお失われていないように感じられます。



 


 ザ・リプレイスメンツは、1980年代活動していたアメリカ中西部のミネアポリスのロックバンド。
 バンドのフロントマン、ギター・ボーカルのポール・ウェスターバーグは、このバンドが解散した後、ソロ活動に入り、自身の持ち味であるボブ・ディランを彷彿とさせる渋みのある声を駆使し、自身の楽曲の特徴にもアメリカン・トラッドフォーク色をこれでもかというくらい色濃く出していきます。
 アメリカ国内ではこのバンドは、それなりに知名度を誇るアーティストと思いますが、海外、とりわけ日本においては認知度は残念がら、実際の実力に比していまいちで、”知る人ぞ知るロックバンド”という位置づけになるかもしれない。
 彼らの評価を難しくしている理由はいくつか考えられて、まず、このとリプレイスメンツというのは、活動の時期によって音楽性が著しく変化しています。それが聞き手にとっては曖昧模糊としていて、捉えどころがない印象を受けるのでしょう。彼らにはほとんど一般的なジャンル分けが通用せず、その音楽性は、パンクともいえ、パワーポップともいえ、フォーク、ロック、ブルースにも縁遠いとはいえません。そこには、中心人物であるポール・ウェスタバーグの極めて広範な興味がうかがえます。
 例えば、つまみ食いのように彼らの各スタジオアルバムを聴き比べてみると、同じバンドとは思えないほどリリースごとに作風が変わっていく。
一体、どれがザ・リプレイスメンツの本質なのか、聞けば聞くほど混乱してしまうところがあります。
 しかし、まさに外敵から身を守るカメレオンの変色のごときもの、アルバムごとに持ちうる色彩をおもしろいように七変化してしまうところが、彼らのひとつの特色ともいえるでしょう。 
 
 
 初期のリプレイスメンツは、デビュー作「Stink」において荒削りなド直球パンクロックを奏でていました。歌詞も音楽性も尖りまくっているけれど、ポール・ウェスターバーグの人間的な温かさがにじみ出ていて、パンクロックとしてはいまいち本領が発揮されていない感をうけます。
 同郷の”Husker Du”と比べると、オールドスクールパンク特有の先鋭さもなく、音の尖り方も甘いという気がし、また、彼の本質的魅力であるメロディセンスもいまだなりをひそめています。
 ところが、中期から後期にかけては、彼らは生まれ変わったかのように、それまでのパンクの性質を捨てさり、良質なメロディーを有するスタンダードなアメリカン・ロックバンドに変化し、そして、アメリカのミュージックシーンでの存在感を不動のものにしていきます。それまで隠れていたポール・ウェスターバーグの潜在的なメロディセンスが、ジャンルというものに頓着しなくなったため、彼の魅力およびバンドの魅力も、徐々に引き出されていったのでしょう。
 おそらく、ポール・ウェスターバーグという人物は、良くも悪くも影響をうけやすい人物らしく、八十年代初期、ハスカー・ドゥという同郷ミネアポリスの存在の影響があったため、自分の本当にやりたい音を見つけるため、何度も試行錯誤を重ね、完成形にたどり着くまでに相応の時の流れを要したのかもしれません。
 
 彼らは、リリースごとに、種々雑多なジャンルに挑んでいく冒険心を持っていました。はたして、ミネアポリスという土地の気風がそさのようにさせたというのか、リプレイスメンツの音楽性のバックボーンには、ジャズ的なものもあり、ブルースあり、もしくはモータウン風味もあり、その他にもさまざまな音楽性がごった煮になっています。そして、1980年代中頃から、彼らは非常に渋みのあるアメリカンロックバンドとしての風格を見せはじめて、その中では、With In Your Reach、Answering Machine、Unsatisfied,Swinging Party、Skyway、というように、アルバムの中でキラリと光る際立った名曲を次々に誕生させていきました。

 良曲が多く含まれている名作アルバムとして挙げるなら、間違いなく「Let It Be」一択であるといえるでしょう。また、彼らのことをよく知るための入門編としてはまず、ライブ・アルバムを聴くことをおすすめしたいところですが、なにぶんインポートものしか市場に出回っていないので、入手が比較的困難でなく、彼らの良さをよく知る上でうってつけの名盤として、この「Don't Tell a Soul」を挙げておきたい。その理由は、このアルバムジャケットの問答無用の渋さかっこよさ。アルバムに収録されている「I'll Be You」という一曲の会心の完成度にあります。
 
 楽曲の観点からいうと、それまで彼らのアルバムの曲は、どことなく荒削りな印象があるため、いまいち本来の良さが引き出しきれていません。そして、聞き手に明確なものが伝わってこない歯がゆさがありました。けれども、そういった欠点が、この「I'll Be You」という楽曲では上手いこと解消され、これまであんまり目立たなかった彼ら独自の持ち味の上質なメロディが明瞭になったことによって、この曲はいまだ永久不変のみずみずしい輝きを放ちつづけています。
 
  
ここではシンプルな8ビートのドラミングの上に、ウェスターバーグの本質であるポップ性が全面に押し出されたことにより、爽快なカラッとしたスタンダードなアメリカン・ロックの雰囲気に充ちわたっています。
 
音作りのバランスが絶妙に取れていて、他のアルバムの曲に比べると、ワーナーのサウンドエンジニアの手腕が際立ちっています。
 
バックトラックのバンジョーのようなアレンジであったり、そして、ドラムのカナモノ(シンバル、ハイハットetc.)の「シャン、シャン」という心地よい鳴りが、この曲のダイナミクス性、ドラマティック性を際限なく高めています。なおかつ、ポール・ウェスターバーグが情熱的に歌い上げるコーラスをはじめ、他のアルバムに比べると、特に、彼のボーカルの高音部分が精妙に美しく聞こえます。
 
そして、その上に乗ってくるバックコーラスの清々しく若々しい響き。もう、これ以上余分な説明はいらないでしょう。
 
これらの要素がぴったりと合わさることで、この曲を名品と呼ぶにふさわしい出来ばえとなっています。
 
そして、この曲に満ちわたる、若々しく、青臭く、どことなく切なげですらある空気感というのは、LAやボストンを中心とした商業的なロックミュージックの栄えた八十年代終盤にしか出しえない音であり、他の年代には絶対に醸し出せない独特な魅力をもった雰囲気が心ゆくまで味わいつくすことができるといえましょう。

 
通常、レコーディングというのは、各トラックごとの楽器の録音をした後、ミックス、マスタリング作業に入り、そしてアーティストは、ガラス張りのブースの中で、エンジニアと話し合いながら、アルバムの音の方向性を決定していきます。「ここはこういうふうにしたい」とぼんやりとした要望を伝えて、「では、こうしましょう」と、イメージをアーティストとエンジニア間で共有しつつ、複数のトラックを最終的に”サウンドプロダクション”というニュアンスで表していきます。
それほど詳しくない人などには、一流のミュージシャンなら、何をやっても一緒だろうにと思われましょうが、実情は異なります。というのも、実際に録音した音がマスタリングによって全然意図しない違う音に変化することもあり、そういった点では、共同作業を行う上で人間関係の相性、双方の意思疎通の重要性というのも、作品の完成度に少なからず影響があり、サウンドエンジニアが、アーティストの音楽の方向性のどの部分を押し出すべきなのかがしっかり理解していないと、どのような名曲もぼんやりした印象の冴えない駄曲になってしまう危険性もあります。
 
そして、今回、このアルバム「Don't Tell a Soul」については、他のアルバムのサウンドエンジニアリングに比べて、リプレイスメンツの音の方向性が明らかとなり、彼らの魅力が存分に引き出されたことにより、結果的にこのアルバムが商業的にも大きな成功を得た要因となったのだろうと思われます。
 
クリアで精妙な音、ダイナミクスやドラマティック性、余分なノイズを徹底的に削ぎ落とす。
 
つまり、このレコーディングにおいてが欠かさざるべき要素が、彼らの麗しいメロディセンスを全面に押し出したことによって、この八十年代を代表するアメリカンロックの名盤は必然的に誕生したといえるでしょう。