Schole Records


Schole(スコーレ)は劇伴音楽を中心として活躍する作曲家小瀬村晶、菊池慎の両氏により2007年に東京で設立。レーベル発足以後、エレクトロニカ、ポストクラシカルを中心に作品をリリース。

スコーレのレーベルコンセプトとして掲げている概念は、”人々が主体的に自由に使える時間、その時間から育む事のできる豊かな創造性”。

音楽をレコードとして捉えるだけではなく、聴く人の情感に何かを与えられるように、というコンセプトを持ち、「余暇」というのを主題に、様々な作品リリースをインディペンデントの形態で行っています。

多忙な現代人の心に穏やかな安らぎを与えるという明確なコンセプトを掲げ、2007年から2021年の今日までの十四年間、それほどカタログ総数は多くないものの、聴き応えのある良質な作品のリリースを継続的に行っています。

scholeのレーベルオーナーである小瀬村晶氏は、ポスト・クラシカルの作曲家演奏家として自身の作品をリリースするだけではなく、日本映画音楽での作曲家としても以前から活躍が目覚ましいアーティストです。

このscholeに所属するアーティストは、小瀬村晶の他にも、日本のクラブミュージック界隈で活躍するハルカ・ナカムラ(伝説的なDJアーティスト Nujabesとの共作が有名)、フランスで映画音楽作曲家として活躍するクエンティン・サージャック、英ロンドンを拠点に活動する電子音楽家、Dom MIno'等が有名。

国内外を問わず、良質なアーティストが在籍しています。scholeは、エレクトロニカ、ポスト・クラシカルといったヨーロッパ、とりわけ、イギリスやアイスランドで人気の高いジャンルに逸早く日本のシーンとして反応。また、このレーベルに所属するアーティストは、エレクトロニカ、ポスト・クラシカルの国内での普及に今日まで貢献して来ています。

概して、schole主催のコンサートの際立った特色は、それほど大規模のコンサート会場で行われるというわけでなく、細やかな数十人ほどの収容の会場で観客と極めて近い距離を取り、すぐ目の前でアコースティック色の強い音楽を堪能することが出来る。

コンサートは、二、三十代くらいの観客が多く見られますが、お年寄りから子供まで安心して聴くことが出来る穏やかで静かな音楽です。スコーレのコンサートは、音楽という領域での細やかな美術展のような形式で開催される事が多い。

このscholeの発足当初から、私は、このレーベルのアーティストの紡ぎ出す、やさしく、おだやかで、心温まるような音楽に魅せられてきました。一度、コンサートに足を運んだくらい大好きなレーベルです。レーベルオーナーの小瀬村晶氏の劇伴音楽作曲家としての活躍により、今後、さらに大きな注目が集まるかもしれません。

今回は、scholeのレーベルに所属するアーティスト、数々の名盤、音の魅力について説明していきたいと思います。


 

 1.Akira Kosemura


小瀬村晶は、スコーレ・レコードを主催するオーナーにして、ポスト・クラシカル派のアーティストとして活躍。

scholeの設立と共に2007年のアルバム「It' On Everything」をリリース。これまで一貫して、ピアノの主体とした穏やかなポスト・クラシカル音楽を追求しています。基本的には、アイスランドやドイツのポスト・クラシカルシーンに呼応したピアノアンビエントの作風から、エレクトロニカ寄りの電子音楽まで、サウンド面でのアプローチは多岐に渡る。

最初期は、ピアノ音楽とエレクトロニカを融合したスタイリッシュな穏やかなアプローチを図っていましたが、近年では、エレクトロニカ色は徐々に薄れ、ピアノ音楽、小曲の形式を取るピアノ音楽の真髄へ近づきつづあるように思えます。オーラブル・アーノルズ、ニルス・フラーム、ゴルトムントの楽曲の雰囲気に近い、ピアノのハンマーの音を最大限に活かしたサウンドプロダクトが特長、ピアノのハンマーの軋みのアンビエンスが楽曲の中に取り入れられています。 

このポスト・クラシカルとしての小瀬村晶氏の楽曲の魅力は、一貫して穏やかで、特に聞き手に爽やかな風景を思い浮かばせるようなピクチャレスク性、感性に訴えかける情感にあふれています。それはレーベルコンセプトである「余暇」というものを変わらず表現してきていて、忙しい現代人の心に一筋の安らぎを与えるという明確な意図を持った楽曲を生み出し続けているという印象を受けます。

実際の演奏を聴くと、演奏技術が並外れて高いのが分かりますが、楽曲制作、レコーディングにおいては自身の技術ではなくて、楽曲のシンプルさ、親しみやすさ、そして、誰が聴いても分かる良さというのに重点が置かれているように思えます。楽曲は内向的ではあるものの、さわやかさがあり、また、内面に隠れていた心穏やかな情感を呼び覚ましてくれるはず。東京のアーティストでありながら、都会の喧騒、あるいは気忙しさとはかけ離れた穏やかで自然味あふれる雰囲気を追求しているという印象を受けます。それは都会に生きる人の切迫感とは対極にあるような平らかさを、ピアノ音楽、また、電子音楽によって表現していると言えるかもしれません。

小瀬村作品の推薦盤としては一枚に絞るのは難しい。非常に多作な作曲家でもありますし、年代ごとに作風も電子音楽からエレクトロニカ、アンビエント、ポスト・クラシカルと幅広い音楽ジャンルに適応するアーティスト。

しかし、幾つかのスコーレを代表する名盤を挙げるとするなら、エレクトロニカとポスト・クラシカルの融合サウンドを追求した「Polaroid Piano」。また、その方向性を引き継ぎ、より音の透明な質感の感じられる「Grassland+」。或いは、近年のポスト・クラシカルの名盤「In The Dark Woods」。三作のスタジオ・アルバムを小瀬村作品の入門編として挙げておきたいところでしょう。

 

Grassland + 2014


シングルとしてリリースされた 「The Eight Day」2020、「Ascent」2020も、これまでの小瀬村作品とは一味違った旨みが感じられる作品で、ノスタルジックさを感じさせる穏やかな名曲。日本のポスト・クラシカルアーティストとして、新たな境地を切り開いてみせたと言えるかもしれません。 

現代人が日々を生きるうちに忘れてしまった安らぎ、また、穏やかさ、平和さを、純粋なピアノ曲によって表現する日本で数少ない良質なアーティストで、音楽家としてもこのレーベルを代表するような存在です。 



2.Haruka Nakamura 


scholeというレーベルを最初期から小瀬村晶と共に牽引し、近年までの、エレクトロニカ、ポスト・クラシカルという音楽の知名度を日本において高めるような活躍を見せているのがハルカ・ナカムラです。 

小瀬村晶とは盟友的な存在といえる関係にあり、scholeのもうひとりの看板アーティストと言えそう。ピアノ曲を主体とした音楽性ですが、電子音楽家としての表情、あるいはまた、ギタリストとしての表情も併せ持つマルチプレイヤーとも言えなくもないかもしれません。

ハルカ・ナカムラの楽曲の特長は、人の情感にそっと寄り添うようなやさしさがあり、どことなくノスタルジー性のあるエモーションが込められていること。ピアノあるいはギターの演奏にしてもそれほどテクニカルでなく、シンプルにこれぞという良質なメロディーを散りばめる。聴いているとなんともいえない甘美さをもたらす。

また、最初期の作風に代表されるように、ギターの演奏の落ち着いた詩的な表現力があるのが最大の魅力。サウンドプログラマーとしての才覚も群を抜いており、アンビエント風のサウンド処理については、他に見当たらないような抜群のセンスの良さが感じられるアーティストです。

ハルカ・ナカムラの推薦盤としては、まず、日本のクラブ界のレジェンド、”Nujabes”とのコラボ作品「MELODICA」2013、このアルバムに収録されている「Lamp」は、日本のクラブシーンにおいての伝説的な名曲です。しかし、残念ながら、この作品は スコーレのリリースでありませんので、彼の最初期の作品「Grace」2008をハルカ・ナカムラの入門編として、おすすめしておきたいところ。 

Grace 2008


穏やかで淑やかな抒情性の中に真夜中の月のキラメキのごとき力強さが感じられるアーティストです。今なお、変わらず、その楽曲に満ち渡る光というのは、外側に力強い光輝を放ち続け、聞き手を魅了してやまない。もちろん、最初期からこのレーベルを共に支えてきた盟友、小瀬村晶氏との音楽性における共通点は多く見いだるものの、ハルカ・ナカムラの楽曲には、いかにも日本のクラブミュージックで活躍するアーティストらしい、独特なクールさが見いだせるはず。   


3.Paniyolo


Paniyoloは、福島県出身のギタリスト、高坂宗輝さんの2006年からのソロ・プロジェクト。 アコースティックギターの爪弾きによって、穏やかでくつろげる静かな音色を生み出すアーティストです。

 上記の2人に比べると、カリスマっぽさはないものの、どことなく親しみやすい温和さのあるギタリストです。ライブでは、エレクトリック・アコースティックギターを使用。それほど演奏自体は技巧的ではないものの、フレーズのセンスの良さ、そして、和音進行の変化づけにより、繊細なニュアンスを与える。演奏自体はシンプルなアルペジオ進行が多いけれども、その中に、ギターの木の温かみを活かした自然味あふれる雰囲気を感じさせてくれる素敵な音楽。

音楽的なアプローチとしては、電子音楽、フォークトロニカ寄りになる場合もありますが、基本的にはインディー・フォークを頑固一徹に通してきているなんとも頼もしいアーティストです。

その中にも民族音楽色もあり、とくにスパニッシュ音楽からの影響がそれとなく感じられるギタリスト。Paniyoloの生み出す音の世界は幻想的とまでは行かないけれども、温和なストーリー性の込められた音楽です。

どことなく切なげな質感によって彩られているのも乙です。なので、ジブリ音楽のような方向性の音楽を探している方には、ピッタリな音楽かもしれません。

大人から子供までたのしめるようなシンプルで分かりやすい音楽性がPaniyoloの一番の魅力。以前、ライブを見る機会がありましたが、演奏中にエレアコの電池が切れるというハプニングがあったにも関わらず気丈に演奏を続けていた。それほど派手さこそないものの、寡黙な素朴さがPaniyoloの良さ。誰にでも楽しめるナチュラルな演奏を聴かせてくれました。

推薦盤としてはScoleのレーベルメイト、ダイスケ・ミヤタニとの2020年の共同制作シングル「Memories of Furniture」も切なくてかなり良いですが、Paniyoloの音楽性の良さを理解しやすい作品が2012年の「ひとてま」。   


ひとてま 2012


ここでは、聴いていて、ほっと息のつける穏やかなアコースティックギターの音色を楽しむ事ができる。複雑なサウンド処理をせず、ギターのナチュラルな音色に聞き惚れてしまうような感じ。 

フレーズを聞いていると、ひだまりの中でぬくぬくするような憩いが感じられる。特に、このスコーレというレーベルのコンセプトの「余暇」という概念を考えてみたときにぴったりなアーティストといえるでしょう。

このアルバムの中では、エレックトリックピアノだけではなく、テルミンの「ホヨ〜ン」という音色も使用されています。アイスランドのアミナあたりのエレクトロニカが好きな人にもおすすめしておきたいです。

時間に忙殺される現代人なら是非聞いてみてほしい、「間」のない心に「間」を作ってくれる貴重な音楽のひとつです。 

 


4.Quentin Sirjacq


クエンティン・サージャックは、レーベルオーナーの小瀬村晶が発掘した素晴らしいアーティスト、フランスの映画音楽を中心に活動している音楽家です。

ちょっと映画関連のことは余り詳し気ないんですが、結構有名な作品のサントラも手掛けているはず。一度、2011年の「La Chambre Clare」のリリース時、日本に来日しており、実は、私はそのコンサートに居合わせましたが、凄まじい才覚が感じられるアーティストです。MCの際は、フランス語でなく、英語で話し、真摯な音楽性とは正反対の親しみやすい、ジョークたっぷりのユニークな人柄が感じられるアーティストです。

サージャックは、ドビュッシーやラヴェルをはじめとする近代古典音楽からの影響を受けたピアニストであり、その時代の音楽のロマンス性を現代に見事に引き継いでいます。現代的ではありながら、古典音楽のような理論的な音の組み立てが失われていない。

とくに演奏と言う面でも現代音楽の領域に踏み入れ、ライブの際には、ピアノの弦に専用の輪ゴムを挟んでディチューニングし、いわゆる、プリペイドピアノのような演奏をするという点では、近代古典音楽だけではなく、現代音楽、ジョン・ケージやフェルドマンのような実験音楽への深い理解も伺えます。

音楽性としては、耳にやさしいピアノ音楽。もちろんそこに弦楽やギターの伴奏、対旋律が加わる場合がある。エリック・サティからの近代フランス和声の継承者ともいえ、ピアノ・アンビエント、ポスト・クラシカルの未来を担うであろうアーティスト。確かなピアノ演奏の技術に裏打ちされた超絶的な演奏力も魅力で、お世辞抜きにピアノ演奏家としても頭一つ抜きん出たアーティストです。

 

the indestructibillity of the already felled 2020


クエンティン・サージャックの推薦盤としては、デビュー作の「La Chambre Claire」もエリック・サティの系譜にある叙情的で秀逸なピアノ曲を楽しむ事ができるるので捨てがたくもありますが、特に近年、David Darlingやダコタ・スイートをはじめとする共同制作でより持ち味が出て来ているように思え、「the indestructibillity of the already felled」を入門編としてオススメしておきたい。

ここでのエリック・サティからの音楽性、そして、スロウコアシーンで活躍するダコタ・スイートのボーカルの雰囲気が絶妙に組み合わさった作品。アンニュイさもあるけれども、どことなくそれが爽やかな質感によって彩られた秀逸なアルバムとなっています。 



5.Daisuke Miyatani


Daisuke Miyataniは兵庫県淡路島出身のギタリスト。2007年、ドイツ、ベルリンのエレクトロニカを主に取り扱うレーベル「ahornfelder」から「Diario」をリリースし、デビューを飾る。

その後、スコーレに移籍、シングル作品を中心としてリリースを行っている。後にこのデビュー作「Diario」はスコーレからリマスター盤が2018年に再発されています。

  

Diario 2018


Daisuke Miyataniの音楽性としては、ギターによるアンビエント性の追求、楽曲中にフィールドレコーディングのサンプリングを取り入れた実験性の高い音楽であり、特にギターの音響を拡張し、それをアンビエンスとして表現するというスタイルが採られています。 

また、エレクトロニカ、フォークトロニカ寄りのアプローチに踏み入れる場合があり、このあたりはムームあたりのアイスランドの電子音楽の影響を逸早く日本のアーティストとして表現したという印象を受けます。Daisuke Miyataniの音楽性は、他のスコーレのカタログ作品に比べると、抽象画の世界を音楽によって表現したような魅力がある。明瞭としない音像はアンビエントそのものではあるものの、その中にも、キラリと光るフレーズがあったりするので聞き逃がせません。

音楽自体は実験性が高いため、難解な部分もありますが、そのあたりの抽象性は、高いアート性を擁していて、真摯にアンビエンスというものを研究し、それを音楽として表現しているからこそ、引き出される奇妙な質感。

ギタリストとしても独特なミニマル的なフレーズを多用しつつも、どことなく切なげな情感を醸し出している。楽曲のトラック自体に、ディレイエフェクトを多用した抽象性の高いサウンドであり、アンビエント音楽としても楽しむことが出来るはずです。  


6.Teruyuki Nobuchika


延近輝之は、京都府京都市出身の作曲家、テーマ曲やテレビドラマの音楽、そして、日本の映画音楽だけではなく、アメリカの映画音楽も手掛けている幅広い分野で活躍するアーティストです。

2006年から劇伴音楽を中心にミュージシャンとして長きに渡り良質な楽曲を多数制作しているアーティストです。音楽性としてはピアノ曲が中心で、それほ奇をてらわず、穏やかで親しみやすい楽曲、聞き手の情感に素直に届くような美しい小曲をこれまで多く残してきています。それほど専門的な領域、アンビエントとしてでもなく、電子音楽としてでもなく、久石譲氏のような誰が聴いても理解しやすい音楽性が最大の魅力。

延近輝之の名作としては、ピアノ曲のホロリとくるような情感がたっぷりと味わう事のできる「Sonorite」を推薦しておきたいところなんですが、このアルバム作品はscholeからのリリースではないので、スコーレ特集としては2009年リリースの「morceau」をレコメンドしておきましょう。

  

morceau 2009


ここでは、scholeの他のカタログとともに並べてもなんら遜色のない、他の映像作品のサントラ、もしくは、ソロ名義での延近作品とは異なる、電子音楽、エレクトロニカ寄りのアプローチが計られています。

マスタリングでのディレイの多用、あるいはサンプリングの導入などは如何にもスコーレ作品らしいといえるような気がしますが、少なくとも延近輝之の音楽性の親しみやすさに加え、電子音楽的なオシャレさが融合された独特な作品に仕上がっています。

エレクトロニカらしいサウンド処理がほどこされており、環境音楽として聴く事もできるはず。ここでは、劇伴音楽での延近輝之の仕事とは又異なる「アート音楽」としての際立った個性が感じられる作品となっています。

 

7.  dom mino'


schole特集として、最後に忘れずに御紹介しておきたいのが、ロンドン在住の音楽家、dom mino'、Domenico Mino。

scholeから2008年と2010年に、アルバムリリースを行っているものの、それ以後、音沙汰のないのがとても残念です。この二作品のリリース以前に、Tea Z Recordsからシングル盤を一作品のみリリースしています。

dom mino'は、どちらかというと、音楽家というよりも、サウンド・デザイナー寄りのアーティストと言えるかしれません。しかし、この小瀬村晶氏をエグゼクティブプロデューサに迎え入れて制作された「Time Lapse」は、エレクトロニカの隠れた名盤としてあげておきたいところです。  


Time Lapse 2008


このdom mino'は、玩具のような音をサンプリングを用いてセンスよく楽曲の中に取り入れるという側面においては、トイトロニカあたりに位置づけても構わないでしょう。 

ムーム、I am robot and proudあたりが好きな人はピンとくる音楽性かもしれません。また、ダンス的な要素があるという面ではテクノ寄りの音楽。でも、なぜか妙な涼やかな質感があり、切なげな雰囲気が楽曲に滲んでいるのも魅力。

音色自体は、妙なスタイリッシュさ、オシャレさを感じる秀逸な音楽です。BGM的ではあるものの、それほど楽曲単体で聞いたときの存在感が乏しいわけでもない。つまり、エレクトロニカ、テクノ音楽として絶妙なバランスを保った作品。このあたりは、小瀬村晶のプロデューサーとしての素晴らしい手腕により、全体的なアルバム作品としても聴き応えあるトラックに仕上っています。

夏の暑さを和らげるような涼やかさのあるエレクトロニカサウンド。こういった類の音楽は世に沢山あるものの、今作のように聴いてうっとりできるような作品は珍しいかとおもいます。ここで展開されるクラブよりのエレクトロニカ、電子音楽の詩的で内向的な表現性は、このあたりのジャンルの愛好家にとってたまらないものがあるはず。 

また、scholeの代表的なアーティスト、ハルカ・ナカムラの楽曲のリワーク「Arne」 もこの時代の最先端を行くオシャレさのあるサウンド、今聞いてもなおこの楽曲の良さというのは失われていない。また小瀬村作品のリワーク「Scarlett」もトイトロニカ風のアレンジメントが施されていて面白い。

全体的にエレクトロニカの旨みが抽出されたような音楽です。しかし、聴いていて、全然耳の疲れを感じさせないのは、アンビエント寄りの質感に彩られているからでしょう。音を介して何かサウンドスケープを思い浮かべさせる、なんだか想像を掻き立てられるような雰囲気も良い。これまでのscholeのカタログ中でも、最良のエレクトロニカの名盤として最後に挙げておきましょう。 

  

9.Schole Compilation


また、scholeの推薦盤としては、このレーベルの音の魅力を掴むためには、これまでに四作品リリースされてきている記念コンピレーション盤をチェックするのも一つの手かもしれませんよ。


Schole Compilation Vol.1

 

 
Note Of Seconds Schole Compilation Vol.2

 

Joy Schole Compilation Vol.3

 

 
After The Rain Schole Compilation vol.4

 

これらのカタログは、scholeの見逃せないアーティスト、楽曲を網羅しているコンピレーション作品です。アルバムジャケットの爽やかな美しさに、このレーベルの重要なコンセプトがしっかりと表現されています。

そして、最初に述べたように、忙しい現代人の心に余暇の概念を与えるような素晴らしい作品集となっています。これからもscholeというレーベルから世界的な電子音楽家、ポスト・クラシカルの名盤が出てくるかもしれません。日本の良質なインディーレーベルとして再注目しておきたいところ。

 Lucinda Chua

 

 2021年、イギリスのインディーレーベル「4AD」と契約して話題を呼んだルシンダ・チュアは、英ロンドンを拠点に活動するアーティスト。シンガーソングライターでもあり、チェロ奏者でもあります。

 

 

 ポストロック界のカリスマ、Slint、あるいは、Christina Vanzouとの共同制作で知られるアンビエント界の著名アーティスト、Stars Of The Lidとのツアーも行っており、特に、Stars Of The Lidとのツアーでは、ルシンダ・チュアは、チェロ奏者として同行しています。Lucinda Chuaとしてソロ活動する以前、FKA twigsにバンドメンバーとしての参加、チャンバーポップシーンで活躍するFelixというデュオへの参加等、彼女はこれまでソロ活動以前にポストロック、アンビエント、アートポップといったシーンで活躍するアーティストの演奏や制作に携わっています。

 

 

 ルシンダ・チュアは、音楽家として2019年に「Antidotes1」としてデビューを飾る。まだデビューして二年でありながら、名門4ADの契約を漕ぎ着けた事に、ルシンダ・チュアは、この上ない喜びを感じているようです。この「4AD」というインディペンデントレーベルは、英国のロック音楽という側面においてラフ・トレードと共に近代文化を支えてきた歴史を持ち、特に、イギリスのアーティストにとってはこのレーベルとの契約することは少なからずの意味がありそうです。

 

 「Antidotes」と名付けられたルシンダ・チュアの最初の作品は、Stars Of The Lidのようなモジュラーシンセを主体としたアンビエント寄りのトラックメイキングに、正統派のボーカルがゆったり乗せられるというスタイルをとっています。もちろん、そこには、彼女自身のチェロの演奏がほんのりと優雅に付け加えられる。

 

 楽曲のトラックメイキングの手法自体は、アンビエントへの傾倒が強いけれども、反面、ボーカルは、R&Bのような渋い雰囲気を感じる。そして、全体的な楽曲の雰囲気というのは、一貫して落ち着いていて静けさに満ち、深い思索性も感じられる。「Antidotes」という表題に見えるとおり、聞き手の心の毒素をすべて音のシャワーによりきれいさっぱり洗い流すかのような「癒やしの質感」を持っているのが、このルシンダ・チュアというSSW(シンガーソングライター)の楽曲の特長です。

 

 

 彼女は、音楽家として、2019年に活動を始めるまで、写真家、フォトグラファーとして芸術活動を行っていました。 主題としては、女性をモチーフとして取り扱った作品が多く、グランドピアノを見つめる女の子、膝をついて本を探す女、等、カメラのクローズアップ的な手法を被写体として捉えた独特な主題を持つフォトグラフィーの作品を残しています。

 

 

ルシンダ・チュア自身の言葉に拠れば、「写真というのはそもそも、ストーリの一部分、あるいは感情の一部分を伝えるもので、物語の断片しか表現出来ない」。そして、ルシンダ・チュアが、写真ではなく音楽の道に歩みを進めつつあるのは、写真での表現法に限界を感じ、より多彩な表現方法を追求していきたいという思いがあったかもしれません。そして、これまでのように撮影者でありつづけたなら見えなかった自身の才質、被写体としての表現の延長線上に、写真のモデルとしての表現力が並外れて優れているという事実に気がついたのかもしれません。

 

 もちろん、写真家からの音楽家への転向は、元来チェロの演奏が巧緻であるという理由があっただけにとどまらず、音楽上での幅広い表現を追求するという動機を重視した。つまり、写真という実存の背後にある物語性を、彼女の歌声や作曲によって、より広く、豊かな感情をまじえて表現していきたいという意図が感じられます。つまり、写真という感情の表現方法よりも大空への自由な羽ばたきのような表現を求めた先に、音楽で自身の全身を使い表現する喜びを見出したというように言えるかもしれない。それは、楽曲制作、歌、チェロ、また、アルバムジャケットにおける被写体と、ほとんど数え切れないほどの多岐にわたるアートとしての表現法、これまで知り得なかった彼女の魅力が音楽活動を行っていく過程で見いだされたと言えそうです。

 

 音楽作品については、これまでの二年間、EP作品、「Antidotes1」「Antidotes 2」、シングル作品「Until I Fall」「Torch Song」がリリースされています。現在のイギリスの音楽シーンで際立った存在感を見せているアーティストです。




「Antidotes 2」2021

 

 

 

 4ADに移籍しての第一作となる「Antidotes 2」は、表題を見ても分かる通り、ルシンダ・チュアのEPの一作目の表現性をアルバムアートワークにしても、また、実際の楽曲にしても前作EPの表現性を引き継いだ形で制作された作品です。四曲収録ではあるものの、丹念な音の作りこみがなされているからか、アルバムのようなボリューム感があります。また、一作目と同じように、アートワークも秀逸であり、芸術としてのフォトグラフィ作品として楽しめますし、何となく同じ4ADであるためか、Pixiesの「Surfer Rosa」のアートワークに似た美麗な雰囲気が滲んでいます。

 

 

  

 

 特に、4ADとの契約はレコーディングにおいての音の単純な良さという側面においても、ルシンダ・チュアの楽曲性をより魅力あふれるものとしています。SSWとしての歌声は、一作目よりもはるかに渋み、女性的なブルースが最大限に引き出されているという点で、さらに次の表現性へと進んだような印象を受ける。特に、この他のメインストリーム界隈の女性シンガーに比べ、中音域と低音域の強い太さのあるヴォーカルというのが、ルシンダ・チュアの歌声の一番の魅力と言えるでしょう。

 

 

作風についても、一作目のEP「Antidotes 1」と同じように、アンビエント、ポスト・クラシカル、またはアートポップ、と、幾つかの音楽性が均等に配置され、全体的にバリエーションを感じさせ、長く聴いても飽きの来ない聴き応えのあるEP作品となっています。楽曲について説明するなら、このEPがリリースされる以前にシングル盤として先行発表されていた#1「Until I Fall」は、異質な存在感と華やかさ、そしてブルージーさを兼ね備えた楽曲。ルシンダ・チュア自身のチェロ演奏に加え、揺らぎのあるモジュラーシンセサイザーが齎すアンビエンス、そして、囁きかけるようなルシンダの歌声が魅力の一曲。このまさにソウルフルとしか言いようのない魂から直接引き出される哀愁のある歌声は、一聴してみる価値ありです。反復性の高い楽曲ではありながら、モジュラーシンセの音色の揺らぎ、そして、歌唱法のニュアンスの変化、多様性を楽しめる作品となっています。

 

 

 #2の「An Avalanche」は、一曲目とは対照的に、古典ピアノ音楽の小品のような雰囲気を持ったポスト・クラシカル派の音楽。ミステリアスな性格を持った独特な和音に彩られた楽曲です。

 

 

 #3「Torch Song」は、ボーカル曲としてはこのEPの中で最良の楽曲といえ、ノラ・ジョーンズのようなブルージャズの雰囲気を感じさせる。

 

ここでの奥行きのある歌声は正統派のシンガーの堂々たる風格に満ちあふれています。この夜のアンニュイさを感じさせる雰囲気はエレクトリック・ピアノのR&B寄りのアプローチによりしたたかに支えられ、徹底的に抑制のきいたルシンダ・チュアの歌声は、この表題の毒素を取り払うような美しさに満ち溢れている。

 

 

 このEPの最後を飾る#4「Before」も美しい楽曲です。ここでは、どことなくトムウェイツを彷彿とさせるようなブルースの味わいのあるピアノの規則的な伴奏に、ピアノの弾き語りといったスタイルが採られている。その背後にはStars Of The Lidに比するアンビエント的な性格を持った美麗なシンセパッド、あるいはチュアのチェロの演奏がサンプリング的な手法で挿入されている。アンビエントとR&Bの融合というこれまでにありそうでなかった楽曲性を追求したともいえます。


 

 全体的な楽曲の雰囲気としては、感性的ではあるが、理性も失わないという点が非常に魅力的です。ルシンダ・チュアの言葉の通り、ピクチャレスクな音の趣向性があり、音から、映像、写真の一コマのようなものが想起されます。しかし、それは写真藝術とは正反対な表現方法が採られ、聞き手の創造性を刺激し、奥行きのあるサウンドスケープを思い浮かばせるような手法が採られているのが芸術性を追求した音楽であるという気がします。

 

 

 音を提示した後は、すべてを聞き手のイマジネーションに委ねるという感じがあるため、自由な寛いだ雰囲気を感じさせてくれます。行き詰まりとは逆の、広がりと奥行きを増していくような質感とでもたとえられるかもしれません。

 

 

 もちろん、このEPで味わう事の出来るルシンダ・チュアの歌声というのも、哀愁に満ち溢れており、魅力的な輝きを放っています。表現性を、内側に閉じ込めるのでなく、外側に無限に広げていく。歌詞についても、風景の美しさについて歌われますが、そのあたりの情感にとんだ自由な表現性から溢れ出る癒やしが、このEP作品「Antidotes 2」の醍醐味といえるでしょう。

 

 聴けば聴くほど、渋い味わいの出てくる非常に聞きごたえのある芸術性の高い傑作として、今回、御紹介しておきます。

 

 

 

参考サイト

 

last.fm  Lucinda Cyua Biography


https://www.last.fm/music/Lucinda+Chua/+wiki


現在、NY Times,The Guardian, Pitchfolk等の海外メディアで話題沸騰中となっているスタジオ・アルバム作品「Promises」は、トーキング・ヘッズのデヴィッド・バーンが設立したレコード・レーベル「Luaka Bop」から、2021年3月にリリースされているが、いよいよ世界の音楽シーンの関心はこの作品一点に注がれはじめているように思える。


特に、この作品に参加している演奏者のラインナップも目が眩みそうなほど豪華である。電子音楽家として、英マンチェスターを拠点に活動するサミュエル・シェパードことFloating Points、テナーサックス奏者、ファラオ・サンダース、そして、ロンドン交響楽団LSOである。


このアルバム「Promises」は、2019年にLAのサージェントスタジオでレコーディングが開始され、それ以後、年を越して、2020年の夏まで、ロンドンのエアースタジオでLSOの弦楽のレコーディングが胆力をもって行われた。


これは、この三つの才能、若手気鋭電子音楽家のサミュエル・シェパード、既にジャズ界の大御所といっても差し支えないフォラオ・サンダース、そして、由緒ある交響楽団LSOと、全く異なるフィールドで活躍するミュージシャンが本来の活躍するフィールドを飛び越えて、実験音楽、現代音楽、モダンジャズという独立した点を線で結びつけた。


それも、苦心惨憺を重ねた末、2020年代の新しい時代の到来を告げる新しい音楽としてようやく完成にこぎつけたことについて何らかの講釈を添えるというのは無粋と言える。それほどこの作品の音源にはレコーディングの際の異様な緊迫感、三者三様の音楽家としての凄まじい意地、底しれぬ切迫感が滲んでいる。


まず、この様々な時代上の困難、つまり、コロナウイルスパンデミック前後の一年近くの期間をまたいで制作された作品として、後世に語り継がれる名作がここに誕生したという事実に際して、同時代を生きる私達は、音楽を愛するひとりの人間として、この音楽に触れられたというこれ以上はない栄誉によくする事ができたことを、本当に喜ばしく思うよりほかないのである。


そして、困難を乗り越えて、偉大な作品が産み落とされたことにも敬意を表しておかねばならない。

 

初めに、こんな事を言うのは、他でもない、今作「Promises」は、今後の、エクスペリメンタル音楽、電子音楽、モダンジャズ、現代音楽すべての潮流を変えてしまうような伝説的作品と言っても差し支えないような傑作だからである。 


 

「Promises」 2021

Floating Points,Pharoah Sanders,London Symphony Orchestra 


 

2020年代を代表するであろう伝説的スタジオ・アルバム「Promises」は、「Movement1」から順々に「Movement9」まで9つの短い連作として構成される。


現代音楽としてミニマル学派に属する今作品は、3月下旬の発表当時から様々な議論を巻き起こした。それは現在の国内外の音楽メディアの手放しの賞賛から、この作品についてのその賞賛にたいする疑念まで幅広い喧々諤々の議論を巻き起こした作品である。


しかし、歴史的に見ても、ベートーベンの「運命」であるとか、ストラヴィンスキーの「春の祭典」の初演の例を引くまでもなく、聴衆に対して異質なほどの衝撃性を与えざるをえないのが、後世に語り継がれる名曲の誕生の瞬間でもある。




Track listing

1.Movement1

2.Movement2

3.Movement3

4.Movement4

5.Movement5

6.Movement6

7.Movement7

8.Movement8

9.Movement9


Listen on Apple Music



それらの批評的な声に与するなら、この「Movements」という9つの小さなエレメントにより構成される組曲が、現代ミニマル学派に属するエストニアの現代音楽家、アルヴォ・ペルトの「Tabula Rusa」の作風、執拗なモチーフの反復性に少なからず共通項が見いだせると言う点に、既視感があり、幾らか新奇性に乏しいという意見かもしれないが、仮に、その点を差し引いたとしても、このフローティング・ポインツ、ファラオ・サンダース、LSOという、音楽家たちの三者三様の織りなすハーモニクスの合体、融合性の素晴らしさについて疑いを持つ事自体がナンセンスと言える。


なぜなら、ここには、確かに、往年のミニマル学派への傾倒は伺えるものの、そこに新たな音楽に対する探求心、そして貪欲な姿勢がはっきりと見いだされるからである。


9つの楽曲の構成自体は非常にシンプルに思える。グロッケンシュピール、チェンバロの音色を織り交ぜた短いモチーフがおびただしい回数が繰り返され、(実際、数えると、数千回くらいかと思う)そこにジャズ的な演奏形式、コールアンドレスポンス形式を取り、様々なインプロヴァイゼーションが目くるめく様相で繰り広げられていく。


そこにはお体裁の良い他者を引き立てるという共同制作の欠点は見られず、自己の強烈な個性、自我を激しく対等にぶつけ合わすことが出来るのは、この三者の演奏家の音楽の理解力、そして実際の演奏力が並々ならないものであるからだ。


サミュエル・シェパードの演奏、シンセサイザーの音色、グロッケンシュピールとチェンバロをかけ合わせたような独特な音色、ピアノ風の音色、エレクトリック・ピアノ風の音色、あるいはエレクトーン風の音色というように、9つの組曲の中で、徐々に様変わりしていくモチーフをサミュエル・シェパードは駆使している。


この主体的なフレーズの背後に繰り広げられていくアプローチも実に多彩である。電子音楽、モダンジャズ、現代音楽といった三つの才覚が一同に介し、己の持ちうる技術を総動員したがゆえ生み出された必然の産物である。換言すれば、現代の普遍的な観念「ダイバーシティ」を音としての強固な概念で体現しているように思えてならない。


サミュエル・シェパードは、ファラオ・サンダース、そして、LSOの先導者として、この合奏を見事に率いている。


それは「Movement1」から「Movement9」まで一貫している。この全体的な交響曲は、電子音楽の極北、モダンジャズの極北、そして現代音楽の極北というように、サミュエル・シェパードの短い楽曲の原型の背後で、多次元的な広がりを見せ、多方向に(立体的な)側面を拡張していく。


このあたりが、淡々と繰り返される原型がそれほど広がりを見せず、一点に収束していくアルヴォ・ペルトの「Tabra Rusa」とは異なる特長で、これが「Promises」の最大の魅力である。


そして、この音楽は、無限性、際限なく広がっていく物理的性質を忠実に「音」として捉えている。


この9つの組曲は、ほとんど呆れることに、電子音楽の領域に入り込んだかと思えば、フリー・ジャズの領域に踏み込んでいき、ときには現代音楽の領域へと、サミュエル・シェパードの生み出す短いモチーフの背後で入り込んでいく。


それは、縦横無尽に張り巡らされた網のようでもあり、また、ほとんどそれぞれが未知の荒野に足を踏み入れていくようでもある。


そして、おのおのの創造性のかぎりをつくし、インプロヴァイゼーションを試み、そのベクトルが逸脱しそうになった時、ふと最初の静謐なモチーフ(最初の中心点)に静かに立ち返ってくることにより、常に楽曲の雰囲気は最初のモチーフへと引き返す。


やがて、全方向にひろがりをみせていったベクトルは、この最初のモチーフにより一挙に収束していく。こういった構造性があるため、途中で各々の演奏家がどれほどアヴァンギャルドなアドリブを途中で効かせようとも、楽曲の全体構造が破綻を来さず、破壊される一歩手前で踏みとどまり、絶妙なバランスを保っている。


また、言い換えれば、ちょっとしたキッカケで完全な破綻をきたしてしまう危ういところで、この楽曲は成立していることの証でもある。シンプルでありながら、上質な艶気の漂うサミュエル・シェパードの織りなすモチーフの音型の背後に、数え切れないほど様々な色彩が現れるインプロヴァイゼーションは、視覚的な効果も込められている。


それは、例えるなら、舞台芸術における登場人物の入れ替わり、その背後の大掛かりな書き割り自体の変化のような雰囲気も滲んでいる。

 

ジョン・コルトレーンの後継者といわれるファラオ・サンダースの演奏もまた神がかりといえそうだ。サンダースは常に、この楽曲において、主旋律のポジションをとり、また、対旋律のポジションを取っている。


つまり、時には脇役として、また時には、主役として音楽という舞台の正面に立ち、そのポジションを絶妙に幾度も入れ替えながら、全体の楽曲「Promises」の構造を、旋律面においても、またリズムの面においても、より強固にし、説得力あふれるものとしている。


そして、特に、このサンダースの鬼気迫るような演奏は、LSOの奏者の魂にも乗り移ったかのような良い影響を与えている。この2019年から2020年という時代しか生み出し得ないサンダースの演奏の異様なほどの緊迫感、緊張感には、これまでのレコーディングにない気迫も滲んでいる。


「Movement1」からすでに、フローティング・ポイントの演奏に呼応する形でテナー・サックスではありながら、きわめて抑制の効いたアルトサックスの渋みのあるフレーズにより、組曲の全体的なムードを豪奢で上質なものとしている。


しかしながら、ファラオ・サンダースは、単なる音楽の旋律性という魅力を提示するだけにとどまらず、音の中に込められている強固な精神性を、サックスのブレスにより生み出すという神がかりの領域にまで進んでいるように思える。


最初は、コールアンドレスポンスの演奏形態のレスポンス側にあったはずのサンダースの演奏の存在感は、この組曲の中間部「Movement4 」から「movement5」に最高潮に達する。ここでは、サミュエル・シェパードとファラオ・サンダースのフレーズの役割自体は変わらないのに、まるでコールアンドレスポンスの「コール」側に回ったかのような主役的な存在感が生み出されている。


サンダースのジャズマンとしての演奏というのは、都会的な洗練性があり、楽曲自体に深い味わいを与え、電子音楽の雰囲気に巧みに溶け込んでいる。特に、「Movoment5」でのファラオ・サンダースのスタッカートを多用した演奏はほとんど鬼気迫る雰囲気が感じられ、圧巻というしかない。


また、LSO、ロンドン交響楽団は弦楽、バイオリン、ビオラ、チェロ、コンバスと、基本的な四重奏の形式をとり、今作品に参加している。これは、私見に過ぎないが、元々、LSOの音楽監督を務めていたクラウス・テンシュタットの歴代の名演を見ても分かる通り、特にパユといった華やかな管楽器の演奏者を持つベルリン・フィルとは異なり、LSOの伝統的な演奏の醍醐味は間違いなく弦楽にあり、陳腐な言い回しに鳴ってしまうが、壮大で重厚なハーモニクス、圧倒される弦の分厚さが魅力であり、そして、この「Promises」では、テンシュタット時代からのロンドン交響楽団の伝統性が見事に発揮されているように思える。


そして、この音楽に接して感じざるをえないのは、今作のレコーディングにおいて、LSOの弦楽奏者は、LSOという伝統性のある名楽団の威信をかけてこの作品の実験性に参加している。


つまり、ただのゲスト的な関わりとは異なり、全体の音楽性の主要な要素を司り、他のアーティスト、サミュエル・シェパードとファラオ・サンダースという全く活躍する領域が異なる演奏家と肩を組んで作品を作り上げている。


つまりそれは歴史ある楽団としてではなく、未来の音楽を担う楽団として演奏することにより、この2人のアーティストの音楽性を別の高みにまで見事に引き上げることに成功しているのである。


この組曲の序盤にかけて、つまり、「Movement1」では、サミュエル・シェパードとファラオ・サンダースの存在感が際立っているため、楽曲の全体的な雰囲気、電子音楽でいうならストリングス・パッドのような役割を果たしているが、序盤か中盤にかけてシェパードからサンダースへと主役が移ろい変わるにつれ、弦楽としての役割も変化していくように思える。特にサンダースの独壇場といえる。


「Movement5」の後に、この2人のアーティストの背後で音のアーキテクチャを支えていたLSOが2人を飛び越えて主役の座に躍り出る。それはしっとりとしたサンダースの渋みのあるフレージングの後にふとソリストとしての弦楽の演奏が出てくる瞬間は鳥肌ものといえる、それまでの二者の音楽的な世界を破るようにして立ち現れる瞬間は、序盤からシェパードからサンダースへと手渡されたバトンが、ついにLSOの手に渡るというわけで、ようやく、この組曲の隠れた主役というのがシェパードにもなく、あるいは、サンダースでもなくLSOにあるという事実が露わとなる。

 

そして、ヴァイオリンとビオラによって繊細に紡がれていた美麗な旋律はいよいよ、この「Movement6」の中盤から終盤にかけてチェロビオラとコントラバスの重厚なフレージングにより、ほとんど魂を揺るがすような上質な響き。それはまさに往年のウイーンフィルの首席指揮者、グスタフ・マーラーの生み出すような甘美ではあるが、力強い、狂おしいほどの美しさを、音として丹念に紡いでいく。


この楽章において弦楽のトレモロの迫力には鬼気迫るものが込められている。特に「Movement6」にかけてのLSOの演奏は、古典音楽の曲目の演奏ではないにせよ、歴史的な名演と銘打ったとしても誇張にならず。それほど言葉に出来ないほどの圧倒的な演奏である。


一瞬、最高潮に達したかに思えた楽曲のクライマックスは、サミュエル・シェパードのグロッケンシュピールのモチーフによって一瞬にして轟音から驚くほどの静謐へと様変わりする。


言わば、この滝のようなラウド性からサイレンス性への落ち込みというのが「Promises」のハイライト、聞き所といえるかもしれない。しかし、「Movement6」で楽曲は終了したわけではない。


続く「Movement7」では、ファラオ・サンダースの渋みのある尺八のようなフレージングの主体的な演奏に引き続いて、シェパードの電子音楽の複雑性、前衛性が露わとなる。


ここでは組曲、あるいは交響曲としての電子音楽という未知の領域にシェパードのアナログシンセの立体的なフレージングの拡張、積み上げにより、目のくらむような音の立体構造が完成する。


つまり、LSOの演奏は最大のハイライトでなく、驚くべきことに前フリのようなものであったことに、聞き手は驚愕せずにいられなくなる。そして、この電子音楽の世界に、ファラオ・サンダースが同じような前衛性をたずさえて歩み寄ることにより、これまで歴史的に存在しなかった新しい音楽がここに生み出されている。


 「Movement8」から、この組曲の終盤にかけても、ほとんど頑固さを突き通したようなモチーフの連続性は途絶えることがない。大きく見れば、ソナタ形式がここには導入されていて、ようやく、八曲目にして最初のモチーフに立ち戻ったという見方も出来なくはないかもしれない。しかし、サミュエル・シェパードによって奏でられているモチーフ自体は、「Movement1」とほとんど一緒にも関わらず、その印象は、最初の静謐さの印象とは全く異なる雰囲気を持って最初の楽章に立ち返っていることが分かる。


つまり、中心点から同心円を描きながら徐々に拡張されていった線はもとの中心点にこの楽章で戻ってくるが、同じ場所に戻って来たときには、以前とまったく一緒と思われていたその物事の形質、あるいはまた事の性質というのが、以前とは全く異なる別のものになっていた、というきわめて現実的な意味合いが込められているように思えてならないのである。


そして、シンセサイザーの緊迫感のある演出に引き継がれる形での突如の無音の出現により「Movement8」はついに最終楽章の「Movement9」に静かに引き継がれていくが、この「無音」の出現は、奥深い現代の時代性を表現している。


そして、最終楽章で突如現れるLSOの弦楽四重奏の生み出す音響の世界はどことなく、現代音楽の黎明の時代の作曲家たち、フランスのオリヴィエ・メシアン、ピエール・ブーレーズ、あるいは日本のタケミツのような不可思議な和音によって支えられている。

 

さらに、この一連の組曲「Promises」はコーダ(作曲家が伝え残したことを付け加える)的な役割があるとも言えなくもないが、8つのきわめて緊張感のある楽章に比べると、あっけないほど簡素に楽曲は閉じられていくことに着目しておきたい。特に最終盤の無音の出現は、きわめて衝撃的な曲展開といえ、無音の状態が続くことにより最初のモチーフの印象は反対により強められるように思える。


そして、もちろん、最後のLSOのフランス近代的和声が途絶えたとしても円環構造を持つこの楽曲は一曲目に舞い戻ったときに、一度目に聴いた印象とは又異なる雰囲気が感じられるという凄さなのである。これは、実際に聴いてみてもらいたいが、単調さのあるモチーフ自体が、実は対比的な構造を形作るため、「単調性ー多様性」を曲の中にもたらすために意図的に設計された「音型」であることが、この9つ目の楽章の最後の最後でなんとなく理解出来るというわけである。


この3月下旬にリリースされた作品「Promises」が大きな話題性を呼び、愛好家や音楽メディアに好意的に迎えいれられ、多くの議論を巻き起こしているのは十分理解できる。この録音には、近年のレコーディングに感じられなかった鬼気迫るような雰囲気が実際のレコーディングのアトモスフェールとして刻印されている。


個人的な趣味として言えば、それは明らかに、ECMの名盤のメレディス・モンクのデビュー作にも比する奇妙な雰囲気である。 この録音は、第二次世界大戦後の東ドイツでレコーディングされたがゆえに、独特な暗鬱さと力強さ、狂おしいほどの美しさが体現された作品であるが、この「Promises」もまた同じように綺麗事ではない生命の凄みが感じられる。


二つの時代は離れていながら、レコーディングの際に感じられる空気感、なんとも言いがたいような雰囲気、それが似ているように思えるのである。まったく表面的な社会情勢は異なるように思えるが、まったくの見当違いともいえないかもしれない。


それは、この録音が行われた際のイギリスの状況を見れば分かる。この2020年代のロックダウンの最中に行われたレコーディングに際してのLSOの弦楽演奏者の鬼気迫るような凄さというのは、音楽、レコーディング作業として見れば、ファラオ・サンダースのサックスの名演に触発されたとの見方もできなくもない。ところが、一方で、明らかに伝統ある交響楽団の演奏者として、この現代音楽の制作に携わっているという矜持が表れ出ているように思えてならない。

 

きわめて2020年の困難なイギリスの社会情勢の中で、音楽家として生きること、音楽を奏でるという意味があるのか、この極めて難しい問題に対する答えを、LSOは、その鬼気迫る弦楽の演奏によってここに明確に導き出している。


これは誇張ぬきにして、まさに大きな覚悟を抱いて録音された素晴らしい三者三様の音楽家たちの歴史的音楽の集大成である。


また、これは、単なる外側に現れ出た音ではない、これらの共同作業者の精神を音によって強固に体現したものであるということだけは最後に申し添えておきたい。概して、音楽は、音をたのしむものとおもわれがちではあるが、単なる享楽的な娯楽とも限らない。


 

それは、


「音楽は言葉以上の崇高な啓示を表す」

 

と、かのルートヴィッヒ・ファン・ベートーベンも言っているとおりである。




参考サイト

 

Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/Promises_(Floating_Points,_Pharoah_Sanders_and_the_London_Symphony_Orchestra_album)

 Alex Turner

 

アレックス・ターナーは説明不要、アークティック・モンキーズのリードシンガーにして、フロントマンを務めるイギリスのロックアーティスト。シェフィールドの高校で、ドラマー、マット・ヘルダースと出会い、アークティック・モンキーズを結成、現在までロックミュージックシーンの最前線を走り続けている。

 

 

アークティック・モンキーズのデビューアルバム「Whatever People Say I Am,That What I'm Not」2006で鮮烈的なデビューを飾る。荒削りではありながら、往年のガレージロックを彷彿とさせる若々しいロックンロールを体現し、イギリスのロック・ミュージック界に旋風を巻き起こし、2000年代のガレージロック・リバイバルムーブメントを、LibertinesやWhite Stripes、Strokesらと共に牽引。その後、2ndアルバム「Favorite Worst Nightmare」2007ではダンス・ロックというジャンルを確立、イギリスのロックシーンでの人気を不動のものとしていく。


 

このアークティック・モンキーズのアレックス・ターナーは、非常に女性に人気のあるミュージシャンで、常にガールフレンドの報道にさらされているミュージシャン。NMEでは「The Coolman Of The Planet」に選出されている。

 

 

しかし、どうも、このあたりから、プライベート性というものを要視し、公にはメディアを避けるようになった。ガールフレンドが誰なのかを常にパパラッチに追求されるのに辟易としたみたいです。しかし、それでも、このあたりに、アレックス・ターナーのミュージシャンとしてのプロフェッショナル性があり、見かけのクールさではなく、ロックバンドとしてのクールさを評価してもらいたいという気持ちが垣間見れるようです。


 

リードシンガーとしてのアレックス・ターナーは既に不動の評価を獲得している。それまでのロックミュージックに、早口でまくしたてるような、これまでにない英語詞の歌唱法を確立。このあたりは80年代のブリットポップの新たな解釈を2000年代に試みたと言え、クラブミュージックやヒップホップのライムのような影響を、正統派のロックとして体現してみせたのがアレックス・ターナーの凄さで、アークティック・モンキーズの主要な音楽性の重要な肝といえるでしょう。

 

 

確かに、アークティック・モンキーズのアレックス・ターナーの歌い方というのはなんとなく映画俳優のような無理をして頑張るような格好良さがあります。しかし、それは多分このアーティストの一面に過ぎないのかなという気もしている。

 

 

それはアレックス・ターナーが、ソロ作品において、肩の力の抜けた、穏やかなフォークシンガーとしての実力を発揮しているからです。今回、アルバム・レビューとして御紹介させていただくのは、ロックミュージシャンとしてではなく、フォークアーティストとしてのクールな一面が楽しめるEPで、これからの季節、秋の夜長に、ひとりでじっくり聴き耽りたいような秀逸な作品です。

 




 「Submarine」Alex Turner  2011


  

1.Stuck on the Puzzle-intro

2.Hiding Tonight

3.Glass in the park

4.It's hard to get around the wind

5.Stuck on the puzzle

6.Piledriver waltz

 

この「サブマリン」というのは映像作品で、これまでアークティックモンキーズのMVを手掛けてきた盟友といえるリチャード・アイオアディ監督のロマンス映画です。ジョー・ダンソンの小説を映画化した作品のサウンドトラックです。 

 

つまり、これまでプロモーションを手掛けてくれた友人に対するお礼と感謝のために制作されたアレックス・ターナーの返報代わりのEP作品といえなくもないかもしれません。サウンドトラック作品としてのリリースは、アークティック・モンキーズのアルバム「Stuck it and see」の数ヶ月前に発表されていることから、アークティック・モンキーズのスタジオアルバム制作の合間をぬって録音された作品です。 

 

そして、「Sumarine」では、アレックス・ターナーのロックミュージシャンとしてはまた別の魅力的なボーカルの雰囲気が味わえる作品となっています。音源作品としては、アークティック・モンキーズのオリジナルアルバムほどには話題にならず、イギリスでもチャートの最高位が33位と驚くほど話題性に欠ける作品ですが、ここでアレックス・ターナーはアークティック・モンキーズのギラギラしたボーカルとは又異なる新境地を開拓しようと試みているように思えます。

 

このサウンドトラックの表題曲とも言える「Stuck on the puzzle」は、フォークバージョンとクラブミュージック寄りのアレンジバージョンが今作には、二パターン収録されています。そして、ここではアークティック・モンキーズでは出来ない音楽性を試みたのではないかと思える。サブマリン全体の印象としては、#3「Glass in the park」に代表されるボブ・ディランのようなフォーク寄りの音楽性で、アコースティックの指引きのアルペジオの美しさ、嫋やかさ、そして、やさしく手を差し伸べるような心に染みる歌声を、ここでアレックス・ターナーは披露する。

 

もちろん、真夜中のアンニュイな雰囲気に満ちたアークティック・モンキーズのロックのムード、またあるいは、陶酔したような現代的なR&Bバラード色を引き継いだ上で、夜中にひとり、口笛を朗らかに吹くかのごときダンディズム性のある歌声が聞き所といえるでしょう。

 

 

それはちょっとした瞬間、心からふと、こぼれ落ちる哀しみであり、涙であり、寂しさ。それらがこのEP作品の多くの楽曲には人間味のある深い情感として素直に表現されている。その上で、そういった哀しみ、涙、寂しさを、朗らかに笑い飛ばすような雰囲気が醸し出されているように思える。

 

つまり、ロマンス映像作品としてのサントラと言う面ではコレ以上はないハマり具合といえる。

 

これまでアレックス・ターナーは、一度もサントラを手掛けたことがないのに、映像と音楽の情感の合致を完全に成功させているのは驚きですが、その辺の器用さは音楽家として生来の天才性に恵まれているからこそ。

 

そして、また、アークティック・モンキーズと決定的に異なるのは、アレックス・ターナーの歌声です。アークティック・モンキーズでは何かしら切迫したような歌い方をするシンガーなんですが、ここでは、囁くというか、ボソッと呟く、嘯くような歌い方で、これもまたメインプロジェクトと異なるダンディズム、ブルーズのクールな質感が醸し出されている。このダンディズム性が何か楽曲の良さと相まって、ホロリとさせるような、やさしげな情感があって非常に素敵です。

 

この作品「Submarine」では、コレまで自身の映像作品を手掛けてきた盟友、リチャード・アイアディへの友情ともいうべきものが功を奏したというべきでしょう。メインプロジェクト、アークティック・モンキーズの作品の重圧、スターミュージシャンでなければいけないという若い頃からの厳しい柵から解き放たれ、アレックス・ターナーの歌声の本来の魅力が存分に引き出されている。

 

少し、弱気なところもあるけれど、いや、でもそれこそ、このリードシンガーの自然な美しさが宿っているように思えます。それは肩肘を張ったスターロックミュージシャンとしてでなく、等身大のアレックス・ターナーの姿がここに表現されている。そしてまた、こシンガーの自然体の歌声が聴くことができるのは、多分これまでのキャリアの中、このEP作品だけかもしれません。

 

六曲収録の少アルバムの形式ですが、コンパクトなスタイルの作品ゆえ、殆ど助長なところがなく、捨て曲なし。全体的な構成としても引き締まった名作です。そして、ロックバンドとしてはこれまで表現しえなかった、アレックス・ターナーのフォーク音楽に対する深い造詣が味わえる作品となっています。

 

 

昨日、ローリング・ストーンズのドラマー、チャーリー・ワッツがロンドンで亡くなられたとの訃報に驚いている。 

 

 

Charlie Watts"Charlie Watts" by Jonathan Bayer is licensed under CC BY-NC-SA 2.0

 

この知らせは、パブリシストのベルナルド・ドハーティのよって公式に発表されている。渋谷陽一さんによると、今年のローリング・ストーンズのツアーには体調不良のために参加しなかったようだが、予想以上に体の調子が思わしくなかったのかもしれない。

 

この知らせに、ミック・ジャガーだけでなく、サー・ポール・マッカトニー 、サー・リンゴ・スター、レニー・クラヴィッツ、また、エルトン・ジョンといったスターも追悼の意を表している。中でも、ミック・ジャガーはインスタグラムのチャーリー・ワッツのドラムを演奏する写真をアップしている。

 

 

チャールズ・ワッツのプロフィールについては、他の記事を参照してもらいたい。ここでは彼のドラミングの素晴らしさについて端的に語っておきたい。

 

元々は、シカゴブルースの影響の強いドラマーとしてこれまで五十年以上もローリング・ストーンズで活躍してきたワッツ。最初はアメリカのブルース、ジャズを介して、ワッツはドラムを学んでいった。

 

そして、ローリング・ストーンズと出会ってから、キース・リチャーズの影響により、様々な黒人音楽、ブルース、R&Bのレコードの親しむようになり、そして、自分自身の演奏にもジャズやブルースのドラムの技法を巧みに取り入れた。当時、イギリスのロック界としては、エリック・クラプトンのクリーム然り、ブラックミュージックを白人として、どのようにクールに演奏するのかを多くのロックミュージシャンは競っていた。つまり、ロック音楽というのは、白人の黒人音楽への憧憬が大いにその成立に影響している。その面では、このチャールズ・ワッツというドラマーはそのことをよく分かっていて、ブラックミュージックの影響の色濃いまさにロックンロールを体現するドラマーであった。

 

初期からのローリング・ストーンのブルージーな泥臭さにスタイリッシュな趣を添えているのは間違いなく、キース・リチャーズではなく、このワッツである。それは元々、ハローズ・アートスクール、つまりイギリスの芸術学校で学んだという経歴も少なからず影響していると思われる。

 

ローリング・ストーンズの初期作品では、ビートルズを意識していたため、アイドル的なキャラクター性の強いミック・ジャガーとブライアン・ジョーンズの存在感が際立っているが、徐々にロックスターとして数々の名盤をリリースしていくうち、キース・リチャーズとチャーリー・ワッツの存在感が前面に出てくるようになった。彼のドラミングの最ものりが感じられるのが、名作「Beggars Banquet」」や「Exzile On Main Street」「Some Girls」といった初期から中期にかけてのストーンズのあらためて説明するまでもない名作である。ここでは黒人音楽への経緯の感じられるストーンズサウンドを、チャーリー・ワッツがリズムとして強固に支えている。

 

ローリング・ストーンズとしてのワッツは、ハイハットをクローズにして裏拍の強い、シンコペーションを最大限に生かした「裏方としてのドラマー」としてこの世界的なロックバンドの音をパワフルかつスタイリッシュな響きをもたらしていた。それはミック・ジャガーとキース・リチャーズという面々では少しブルージー過ぎて泥臭くなってしまうきらいのあるバンドサウンドを、ワッツは非常にスタイリッシュなものとしていた。それは、他の2人のロックスター然としたサウンド面でのアプローチに比べ、クールなジャズマンとしての表情を覗かせるワッツという素晴らしいドラマーの存在があったからこそ、このローリング・ストーンズはビートルズとは又異なる渋い味のあるロックバンドとしてこれまで世界的な活躍を続けてこれたのだろうかと思う。

 

もちろん、ローリング・ストーンズとしてのワッツとしては、聴くべき作品は数え切れないが、ワッツというドラマーの本質を知るためには、彼のソロ作品をあらためて聴いてみていただきたいと思う。

 

2017年、ローリング・ストーンズとしてでなく、是非、チャーリー・ワッツとして発表された「Charlie Watts Meets The Danish Radio Big Band(Live At Danish Radio Concert Hall)」に注目して貰いたい。ここでは、ロックミュージシャンとしてのワッツではなく、超一流のジャズドラマーとしてのワッツの素晴らしい集大成、そして、ジャズへの愛がここに約されている。彼のドラマーとしての最高のパフォーマンスは、ストーンズももちろんだが、この作品にこそ込められている。

 

今回、チャールズ・ワッツというドラマーがどれほど英国の音楽史に深い影響を及ぼしたのか、BBCやGaurdianの報道を見て、その書きぶりの熱意、凄さに圧倒され、プロフィールについては書く気がなくなってしまった。とてもかないっこないと思ったのである。ただ、少なくとも、ひとつだけたしかなことがある。チャールズ・ワッツは、五十年もの間、イギリスの最高のロックスターで有りつづけたのだった。このことだけは間違いのないことである。あらためて、英ロック界の最高のドラマー、チャーリー・ワッツの死に深い哀悼の意を表しておきたい。

 

  Vagabon


ヴァガボン、LaetitiaTamkoは、1992年カメルーン生まれ、ニューヨーク育ちというバイオグラフィーを持つマルチタレントアーティスト。 

 ソロアーティストともいえるが、実際のライブ活動はベース、ドラムのサポートメンバーを交えて行われ、三人体制で行われる場合が多い。つまり、レコーディングの際には複数の楽器を演奏するマルチタレントという括りに属するものの、基本的にはギタリスト、シンガーソングライターという表現がぴたりと当て嵌る。


20191030-DSC05553"20191030-DSC05553" by CoolDad Music is licensed under CC BY-NC-SA 2.0

 

元々、Laetitia Tamkoは、アフリカ、カメルーンの首都、ヤウンデという州都で生を受けた。

この土地は、Wikipediaによると、元々、象牙の貿易都市として栄えた一世紀以上の歴史を持つ場所。最初の開拓者は、19世紀終わりのドイツ軍で、当初、ヤウンデは象牙貿易都市として栄えた。21世紀初頭に入ってからは、フランス統治下となった。カメルーン国家として独立後も長らくフランス語が主要な使用言語であった都市であり、ヤウンデという200万人ほどの人口を抱える土地で生を受けたLaetitia Tamkoは、歴史的な慣例に倣い、幼い頃、フランス語を母国語としていた。

その後、17歳の頃、彼女の母親がアメリカのロースクールで勉強をはじめる関係で、家族と共にカメルーンからニューヨークに移民として渡る。アフリカからはるばるアメリカに渡るくらいだから、彼女の生家は相当な知的階級にある家庭といえるだろう。言うまでもなく、ニューヨークに移住当初は、たとえ、ニューヨークという土地が多くの人種で構成される多文化の世界都市と断定付けられるとしても、彼女は、この移民の際にカルチャーショックを受け、アフリカとアメリカの文化の違いに戸惑いを覚えたらしいが、次第しだいに英語を習得していき、アメリカの文化に慣れ、溶け込んでいこうとした。その延長上に、ハイスクールへの進学と、シティカレッジ・オブ・ニューヨークでの勉強の時代が彼女のインテリジェンス性をさらに高める手助けとなった。

Laetitia Tamkoのミュージシャンとしての目覚めは17歳の時。面白いのは、なんと大型量販店のコストコで購入したFender!!が音楽家になるための布石を作った。アメリカのコストコでは、Fender USAが普通に買えるというのが滅茶苦茶羨ましいかぎり。

それから彼女は、ギターの演奏に夢中になる。ギターの技術習得は、主に教則レッスンDVDを介してだった。 その後、ギターだけでなく、シンセサイザー、ドラム、といった楽器も習得していった。

2014年に、音楽家”Vagabon”としての彼女のキャリアが始まる。ヴァガボンの最初のリリースはEPの「Persian Garden」。ここでは、Tamkoの天才性が遺憾なく発揮されており、楽曲性としては、ローファイポップ、あるいは、インディーロックの境界線上にある。まだ、音楽性としては完全に定まっておらず、模索を続けている段階にあると思えるが、Latitina Tamko特有の歌声の個性、魅力が痛感できる作品となっている。

とくに、Vagabonの歌声について言及するなら、白人のシンガーとは明らかにビブラートの伸び方が全然異なっていることに着目しておきたい。この異質なビューン!と伸びのある声質は、他のシンガーソングライターには見られないもので、異様な迫力が込められている

このフランス語を母国語とするヴァガボンというシンガーの英語歌には、どことなく鼻にかかるようなフランス語の独特な発音の影響が残っているように思える。しかも、ギタリストとしても相当見どころがあって、ただ、単に、飾りでギターを持っているわけではない事がわかる。

特に、この最初のEPでは、ソニック・ユースを彷彿とさせる激烈なロックギタリストとしての表情を滲ませ、また、あるいは、落ち着いたフォークギタリストとしての別の表情を見せるあたりも、インディーロックに相当な造詣を持っているのが伺える。

デビュー当時から既に、彼女の天真爛漫でありながら切ない雰囲気のある歌声、そして、奥行きのあるソウルフルで激した歌声は、異質な魅力を放ち、我々の心を鷲掴みにする。この最初の作品を聞けば、彼女が既に、歌姫、ポップスターとしての抑えきれないポテンシャルを持つことが感じられる。

もちろん、それは楽器の技術習得自体は彼女自身の努力の賜物といえようが、歌声についてはアフリカ大陸から、アメリカ大陸への移民としての背景、そして、カメルーンという土地に引き継がれているDNAのようなものが彼女の歌声を清廉たらしめ、なおかつ、他のアメリカのシンガーよりも遥かに力強くパワフルにさせているように思える。

つまり、この歌声は、付け焼き刃でない天賦の才覚といえる。またもうひとつ、特筆すべきは、シンガーソングライターとしても、高い評価が与えられるべきであり、天才的メロディメイカーとしての才覚がこの最初の作品「Percian Garden」全体にほとばしり、鮮やかな印象と荒削りさを併せ持っている。



Vagabonとしてのデビューアルバムは2017年、Father/Doughter recordsからリリースの「Infiniteworld」である。

ここで、Vagabonは楽器のマルチプレイヤーとしての才覚を十二分に発揮し、ギター、ドラム、シンセをすべて自分自身の手で演奏に加え、サウンド面でのプロデュースも彼女自身の手で行われているDIYな作品。

 

Infiniteworld 2017

 

ここでは、最初のEP作品「Percian Garden」の特性を受け継いでおり、ローファイあふれる魅力的なアルバムに仕上がっている。


ニューヨークらしい初期衝動性とも称すべきか、往年のパンクサウンド、The Sonicsのようなガレージロックの雰囲気が感じられるあたりも聴き逃がせない。また、このアルバムの中の一曲「Cleaning House」では、懐深さのある歌姫としての資質を伺わせる。深い叙情性もあり、艶気もある歌声という点には、他のシンガーソングライターにない資質が感じられるはず。

また、ソングライティング、あるいは、サウンドプログラミング能力としても卓越した洗練性、そして、抑えがたい才覚のほとばしりが感じられる。それは、シンセサイザーの心地よいフレージングにより、さらに楽曲がオシャレでスタイリッシュになっているのに驚く。

そして、このデビューアルバムでは、激したソウルフルな迫力味のあるシンガーとしてのヴァガボン、それから、穏やかな温かみのあるシンガーとしてのヴァガボン、この対照的な二つの歌声を楽しむことが出来る。 

 

 

Vagabon on Audiotree Live 2017

  

それから二年間、シカゴのAudiotreeでのLive作品リリースを重ね、 着実に米インディーシーンでの知名度を高めていく傍ら、三つのシングル作品を経て発表された2019年の「Vagabon」は、アメリカのインディーシーンにおいて、エンジェル・オルセンと共に再注目の作品である。


既にオルセンの方は、既に母国だけでなく、イギリスでも音楽メディアに高い評価を受けている女性版プリンスという雰囲気を感じさせるアーティストではあるが、もしかすると、Vagabonもまた黒人シンガーとしてその次に大きく取り上げられるかもしれない。

ヒップホップを主なフィールドとしての活躍する女性ミュージシャンは多いものの、実は、常に、正統派の黒人女性ポップミュージシャンを世界の音楽シーンは待ち望んでいるのだ。

コアなジャンルではなく、世界中の大人から子供まで安心して楽しめる女性シンガー。それは、これまでのポップス史を見ると分かるように、古くはアレサ・フランクリン、こういったシンガーは世界を変える魔性の力を持っている。そして、それこそ真の「デーヴァ」と呼ばれるアーティストである。

 

そして、ヴァガボンも、デビュー時こそインディー色の強い音楽性を打ち出していたが、2019年を境にして、世界的な歌姫の系譜に位置づけられるポップ・ミュージシャンとしての道をあゆはじめているように思える。 

「Vagabon」は、自主レーベル「Vagabon Music」からのリリースで、何がしかの決意が感じられる作品。

言い換えれば、不思議でミステリアスな魅力あふれる作品である。又、これは、ヴァガボンの実質的なデビュー・アルバムといえ、このアーティストの才覚が次の段階に進んだことを証明付ける素晴らしい作品となっている。 

 

Vagabon 2019

 

これまでのヴァガボンの作風はプリミティブな質感に覆われていたが、ここではさらにシンセ・ポップの爽やかさが前面に引き出された作品となっている。デビュー作品ではどこかしら刺々しさもあった歌声は完全に洗練され、聞きやすくなった印象を受ける。しかし、もちろん最初期のほとばしるような歌の魅力はそれで帳消しになったかといえばそうではない。依然としてその歌声は奇妙なほどの美しい輝き、艶気が漂っている。

 

楽曲についても同じである。それまではインディーローファイ、かなりアクの強い音楽性はそれまでコアなファンにはたまらないものではあったかもしれないが、一般的な音楽として表現されていたわけではなかった。それが今作「Vagabon」で、見事な変貌ぶりを見せたといえるかもしれない。ここでは、全体的にシンセポップあるいはエレクトロ・ポップという領域に舵取りを進めたことにより、Vagabonというキャラクター自体も変容した。そのモデルチェンジは勿論、良い方向に転じたように見える。

 

爽やかで涼やかな歌声、そして全体的な楽曲性を演出することに成功している。以前とは異なり、ゆったり聴く事も出来、そして、踊る事も出来、また陶然とすることも出来るという、多角的な音楽の魅力がリスナーにより広い選択肢を与え、自由な音楽を、Vagabonは提示するようになった。近年の流行の音楽、ポップ、ロック、R&B,クラブミュージック、そして、電子音楽、さまざまな要素を取り込んで、見事な”Vagabon”というひとつのジャンルをここで確立してみせている。楽曲のバランスもすぐれていて、クラブ・ミュージック、そしてシンセ・ポップ、また、落ち着いてしっとりしたバラードと、楽器のマルチプレイヤーらしく、アルバムのトラック全体に、幅広い音楽性がバランス良く、宝玉のように散りばめられているといった印象である。

 

このキラキラとした眩しいほどの感じ、他の人に出し得ない不思議で奇異なミステリアスな感覚は、いつもブレイクする直前のアーティストに感じられるものだ。そして、歌声についても、張り、艶、そして、力強さが歌声に滲み出るようになって来ている。

勿論、女性シンガーの歌を表現することは一筋縄ではいかない部分がある。声質が良いとか、ピッチが安定しているとか、ヴィブラートが良いとか技術的なことはいくらでもいえるかもしれないが、良いミュージシャンを探すためには、最後は直感がものをいい、つまり、その音楽に正直に接した時、ピン!とくるかどうか、しかないのである。そして、それは自分の中にしか正解がないので、理論的に証明付けることは困難をきわめる。しかし、このヴァガボンの歌声、あるいは、このアルバムの楽曲を聴いてみると、この歌声は「善なるもの」であるというように私は考えた。多くの人達の考えを正しい方向に導くような何かがあるように思えたのだ。このなんともいえない、スタイリッシュで美しく、穏やかな歌声をなんとたとえればよいのか? 

 

かなり短絡的な考えではあるかもしれないが、どことなく、このアルバム全体には、それまでになかった要素、カメルーン人としてのアフリカ音楽への憧憬のようなものも見えなくはない。以前は、ニューヨークの音楽または文化性にとらわれていたヴァガボンは、その領域から這い出ることに成功し、より自分らしい音楽を素直に追究していっているように思える。もちろん、歌声についてもしかり、以前よりも遥かに自然で力みのないナチュラルな歌い方となっている。

 

このアルバム全体は、ロマンティックな美しさに彩られている。また、この作品「Vagabon」で聴くことの出来る素直で嘘偽りのない歌声には、心を平らかにする何かが込められているという気がしてならない。

表側の世界には現れない普遍的な美しい概念によってこの音楽は強固に支えられている。仮に、音楽という表現形態がその人の感性だけではなく、人格も映し出す素直な鏡であるとするなら、もしかすると、ひょっとすると、これは彼女の博愛主義的な資質、優れた人格から滲み出てくる素直さだとか、清々しさのようなものなのだろうか?? 

  

 2021年月に、コットニー・ヴァーネットをゲストに迎え入れたニューシングル「Reason To Believe」をリリースし、話題沸騰中のアーティストと言える。このカメルーン出身のアーティスト、ヴァガボンは、自身の歌によって世界を美しく変えうるほどの不思議な力を持っているのだろうか? 

そこまでは明瞭に断言しないでおきたいが、ともかく、ヴァガボンはこれからが楽しみな素晴らしい黒人シンガーソングライターのひとりであることには変わりないはずだ。




Vagabon 公式HP

 

https://vagabonvagabon.com/ 

 

Bandcamp

 

https://vagabon.bandcamp.com/ 

 

 

 

 

参考サイト 



https://en.wikipedia.org/wiki/Vagabon

 

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%83%87

「ペンシルバニア州、Midwestから始まったエモリヴァイバル アメリカの音楽産業の変遷」


エモというイリノイ州、シカゴで九十年代に始まったインディー音楽ムーブメントは、一度はアメリカン・フットボール、ミネラルを始めとするグループの解散により、二千年を前にして一時的にその熱狂は収まっていく。

しかし、その九十年代の音を聴き込んだ若い世代が再び、このエモコアというジャンルを再興しようと試みるようになる。これもまたエモが生まれた土地のシカゴ周辺、中西部のMidwestから始まったムーブメントであったことは偶然とは言い難い。とりわけ、最初の動きは、ミッドウェストの盟友、Algernon Cadwallder、そして、Snowingの台頭から始まり、Midwest Pen Palsに引き継がれていき、その後、全米全体のインディーズシーンに広がっていった。

 

これらのエモリバイバルの動きは、1990年代のアメリカで起こった第一次エモムーブメントと同じように、オーバーグラウンドで発生したムーブメントではない。いかにも、DIYのインディーらしい独自の活動形態によって支えられていた。リリースするレコードは地元や小さなレコード屋にしか作品を流通させず、インターネットの配信サイトで主なプロモーションを独自に展開していく。

もちろん、この時代から、Appleがそれまでの音楽市場の常識を打ち破り、ワンコインで音楽を売るというスタイルを確立させたことが、こういったアーティストたちの活動の形態に予想以上の影響を及ぼした。

アメリカの音楽業界は、当初、スティーブ・ジョブズの音楽をワンコインで売るという提案に頑強に抵抗したものの、その後にはジョブズの熱意に降参した。この動きは徐々に世界中に広まっていき、やがて日本の音楽業界も渋々ながら追従し、欧米に数年遅れてサブスク配信時代へと舵を取る。それまでレコード会社を通さずに音楽を一般的に流通させることが困難だったミュージシャンたちは、独自に、無料音楽視聴配信サイトや、定額のサブスク配信を介して音楽を世界に向けて発信していく。

また、このジョブズが切り開いた新たな可能性に連動するような形で、2000代から、ネット上のミュージシャン向けの配信サイト、Myspace、Bandcamp、Soundcloud、Audioleafが立ち上がり、アーティストたちが自身の楽曲をネット上にアップロードし、無料で音楽を視聴する動きが強まっていった。ミュージシャンの音楽の流通という面でも以前よりも容易になり、この時点で、レコードマネージメント契約を通さずとも、自分たちの音楽を世界に向けて発信していくことが可能となった。

 

ミュージシャンたちは、売上のマージンを配給元のレコード会社、あるいは業界に提供することにより、これまで長らくレコード会社と持ちつ持たれつの関係でやってきたが、この2千年代から徐々にこれまでの構造が崩れていく。

必ずしも、2000年代までのように、売上に対する多額の印税や、多額の権料を支払うこともない。これは、時代が後に進んでいけばいくほど、どのような業界もこの問題から逃れられなくなっていくかもしれない。

あまり偉そうなことは言えないが、そのあたりの変化を察知し、転換していくべき時期が現在の風潮である。これをチャンスと捉え、新たな産業を生み出すのか、あるいは、そこに停滞し、存亡の危機とするのかはその業界自体の発案如何により、天地の差が生まれるように思える。

 

もちろん、これまでの体制を築き上げるのには大変な苦労があったのは承知で申し上げるのだけれども、殊、音楽産業という側面で語るのなら、これからは間違いなく旧態依然としたシステム、販売構造は維持しきれなくなっていくのは必定である。今や、どのような地域にいても、インターネット環境さえ整備されていれば、地球の裏側に住まう人にも音楽が届けられるようになった。反対に言えば、地球の裏側に住むアーティストの音楽を聴けるというなんともワクワクするようなイノヴェーション。これは世界の情報を一つに収束させ、それをすべての人が平等に共有させるため、「インターネット」という媒体が誕生し、普及していった所以でもある。

 

音楽の話に限定して言えば、スティーヴ・ジョブズの発案した、サブスク配信という概念、業界人を仰天させるようなとんでもないワガママが、これまでの音楽業界の巨大な権利構造を変容させたのである。

ついで、スウェーデン企業Spotifyも、以前のP2Pのようなファイル共有ソフト/サイトを撲滅するという表向きの名目上、ジョブズの発案したインターネットの概念の延長線上にある「音楽という情報の一般的な開放」の流れを引き継いだ形でサブスク配信事業を確立させ、音楽好きのニーズに答え、シェア、支持層を徐々に拡大し、世界的な企業Spotifyとしての立ち位置をより盤石にした。つまり、春先、国際法の裁判で争っていた、Apple、Spotifyという二つの世界企業。そもそも、この巨大企業の試みようとしている未来の事業計画が同じだからこそ、係争上での穏当な解決を図ろうとしている気配も伺えなくはない。

 

この流れに続く形で、様々なサブスクリプション配信アプリケーションが乱立、それが、今日へのミュージックシーンへの新たな潮流を作り、インディー・ロック、ベッドルームポップ、以前のアマチュアの宅録と変わらない音楽を、メジャーアーティストにも引けを取らないくらいの知名度にまで引き上げた。

 

つまり、インディーロック、ベッドルーム・ポップというのは、大手レコード企業と契約せずとも、以前のスターミュージシャンのような素晴らしい音楽を完成品としてパッケージ出来ることを示してみせた一大改革なのである。

そして、このサブスクやサイトでの無料音楽配信という流れから見えること、これは表向きには、それまでの音楽巨大産業の商業的な支配構造を壊滅的にしたように思えたが、また、その中には、同時に、新たなサブスク配信という産業を生み、音楽産業の将来への可能性を押し広げたとも言える。

その恩恵によって、音楽を演奏する方も、音楽を聴く方にも、音楽の選ぶ際の選択肢は、以前よりもはるかに広がったというわけである。そして、メジャーアーティストにも同じような傾向が伺える。


そういった面では、このエモリバイバルというアメリカのペンシルバニア周辺からはじまったジャンルは、今日の音楽の流れまでの線を上手く捉えていたように思える。これらのインディー界隈のアーティストは何万もの観客を前にして演奏するわけでなく、音楽スタジオ、小さなサウンドホールでのスタジオライブを活動の主軸としていた。

つまり、数十人から百人くらいの客を前にして、熱狂的なライブパフォーマンスを行っていたのである。お世辞にも、この一般的に有名とはいえない、ニッチな雰囲気のあるエモリバイバル界隈の音楽は、当初、2000年代に、上記のインターネットサイトで配信されていたのを思い出す。筆者が、Snowing、Algernon Cadwallderといったバンドの音を最初に聞いたのは、まだそれほど設立してまもない、Bandcamp、Audioleafといった、サブスク配信が一般化する以前の音楽視聴の無料配信サイトだった。レコード店にもほとんど流通していなくて、それ以外には聴く方法がなかったのだ。


今、よく考えてみると、アメリカのメジャーアーティストではなく、インディーズアーティストの押し上げのような流れが、より大きな渦を起こし、オーバーグラウンドの盤石だった音楽産業の構造を揺るがしていったように思える。

往時、スティーヴ・ジョブズが体現したかったのは、ミュージシャンとリスナーの距離を狭め、そして一体化させるという試みである。

その線上に、ipodというデバイスが発明されたわけである。それは最後には、イギリス音楽業界のスポークスマン、レディオヘッドのトム・ヨークも自作品において、リスナーに自由に値段を決めてもらうという投げ銭方式をとり、この年代からはじまった「音楽の一般開放」の流れに対し賛同してみせたことが、音楽業界の様相を一変させていく段階の最後の決定打となった。

 

そして、無類の音楽フリークでもあるスティーヴ・ジョブズは、次の時代への音楽産業の変遷の気配を巧みに嗅ぎ分け、それを時代に先駆ける形、イノベーションという形で見事に実現させていった。

そもそも、考えてみれば、Appleを生んだカルフォルニアというのは、1970年代からずっと、インディー音楽が非常に盛んな土地だったのだし、こういったインディーズの音楽形態をスティーヴ・ジョブズが知らぬはずもなく、このインディーという音楽活動形態中に、重要なビジネス上のヒントを見出した可能性もある。特に、この2000年代のインディーミュージック、インディーズを周辺に活躍するアーティストたちは、ロック、電子音楽といったジャンルを問わず、次の10年の音楽産業の主題「音楽の一般的な解放」を呼び込むような流れを作っていた。

 

このエモ・リバイバルという動きもまたミュージシャンとファンの距離が非常に近いという側面で、2千年代のアメリカのインディーカルチャーの最先端を行っていたうに思える。彼らは音楽のスターというものに対して、一定の疑いを持ち、そのスターという存在、ショービジネスの馬鹿らしさを端から痛快に笑い飛ばしている。これは、アメリカのインディーの源流にある概念である。このシカゴから9時間ほどの距離にあるペンシルバニアで始まったリバイバルの動きは、その後、ニューヨークと連動しながら、テキサスといったアメリカ南部にも広がっていく。

 

大きく離れているようでいて、各地の小国ほどの規模を持つ各地域の音楽は、実はインディー音楽シーンにおいて、緊密に連動していて、このリバイバルの流れは、やがて米国全体に広がっていった。

これらのロックバンドに共通する概念、大きな音楽産業に対峙するアートとしてのロックンロール。それは、以前の80年代のワシントンDC、あるいはカルフォルニアのオレンジカウンティ、ボストン、ニューヨークを中心としたインディーカルチャーの活動形態を後の世代に引き継いだ形でもある。

そして、これらのロックバンドは、画家でいう個展のようなライブを開きつつ、活動を行っていく。そして、このミッドウェストというアメリカの中西部で起こったエモリバイバルの動きは、ワシントンDC,ミネアポリスの80年代のパンク・ハードコアの台頭と同じような雰囲気が感じられる十代から二十代の若者を主体としたムーブメントの一つであった。

 

もちろん、それらの若者たちは、九十年代のエモーショナル・ハードコアという音楽を聞きながら、多感な思春期を過ごしてきたはずだ。このエモ・リヴァイバルの動きは、現在もアメリカの若い世代でひっそり継続しているが、実に、アメリカらしい肩肘をはらない商業感を度外視したアート活動の形と、そのマニアック性を寛容する度量の広いファン層によって熱狂的に支えされているジャンルでもある。音楽性というのも、1990年代のエモコアの内省的な抒情性と2000年代のポスト・ロックを融合したジャンルで、苛烈でテクニカルでありながら掴みやすさがあり、どことなくゆったりとした雰囲気がある。音楽的にもそれほど難解でなく、音楽性自体は、それほど90年代のメロディック・パンクのスタイルを受け継いだキャッチーさ、親しみやすさがある。

 

今回は、これらの後の音楽解放時代の先駆けとなったエモリヴァイバル、そして、サブスク配信の時代のアーティストを探っていく。

いかにも、アメリカのインディー音楽の旨みがこれらのロックバンドににじみ出ていることを見いだせるはずだ。そして、これらの幾つかのロックバンドは、のちの音楽の一般的な解放を告げ知らせるような雰囲気を持っている。その独自の気風は現在も引き続いており、再び、何らかの面白い流れがこのあたりのエモリバイバルシーンには見つかるかもしれない。

少しマニアックな選出ではありますが、エモ好きな方、「Emo Digger」の良曲探しの手助けになればいいなと思ってます。

  

 エモリバイバルからポストエモ世代までの名盤

 

1.Snowing





Snowingは、米、ペンシルバニア出身のスリーピースのロックバンド。2019年には来日公演を果たしている。アメリカ中西部を中心とするエモリバイバルの動きはここから始まったわけで、このムーブメントをくだくだしく説明するよりは、このスノーイングの作品を聴くほうが手っ取り早いかもしれません。

およそ既にエモなどという言葉が廃れかけていた時代、彼らは勇猛果敢にこのジャンルを引っさげてインディーズシーンに登場、熱狂的なエモリバイバルムーブメント旋風を沸き起こした。往年のDCハードコアサウンドを踏襲した苛烈なサウンドは現在でも鮮やかな魅力を放っています。

スノーイングは、これまでのアメリカのインディーズの正統派の活動形態を受け継ぎ、大きなライブハウスでは演奏して来ませんでした。

しかし、観客と演奏者の距離感のなさ、観客の異様なテンションと、それに答える形でのスノーイングの面々の激烈なアジテーションのもの凄さは筆舌に尽くしがたいものがある。これは、もちろん、八十年代のディスコード周辺の流れが受け継がれており、ライブこそスノーイングの音の醍醐味といえるはず。スタジオ・ライブでの熱狂性は2000年代の時代において群を抜く。また、そのパッションは再結成を記念しての二年前の来日公演でも見事な形で再現された。

彼らの名盤としては、最初期の怒涛の勢いが十分に味わうことの出来るEP盤「 Fuck You emotinal Bullsit」あるいは「Pump Fake」が音の荒々しさがあり痛快で必聴ですが、入門編としては、最初のスタジオアルバム「That Time I Sat a Pile of Chocolate」をおすすめしておきましょう。 

今作「That Time I Sat a Pile of Chocolate」には、スノーイングのライブの重要なレパートリーとなっている「Pump Fake」「Sam Rudich」が収録されている。このスノーイングが、日本のインディー音楽愛好家の間で何故神格化されているのかは、この二曲を聞いてみればなんとなくその理由がつかめるはず。

異様な青臭いテンションに彩られた激烈なエモーション性。

この二つの楽曲を引っさげてスノーイングは登場し、アメリカのエモムーブメントの再来を高らかに宣言しました。

 

 

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2.Algernon Cadwallder

 

 

 

これまた、Snowingの盟友ともいえるアルジャーノン・キャッドワラダーもペンシルバニア出身のエモリバイバルムーブブームの火付け役といえる存在。ボーカルのPeter Helmisはこのバンド解散後、Dogs On Acidという次のバンドで活躍中。 アメリカン・フットボールと共に、「Polyvinyl records」を代表するインディー・ロックバンドといえるでしょう。2012年から2105年という短い活動期間でありながら、このバンドはまさに90年代初頭のキャップンジャズの再来といえ、衝撃的なインパクトをアメリカのインディーシーンにもたらしました。

ベースボーカルのPeter Helmisのちょっと裏声がかったユニークな絶叫ボーカル、そしてJoe Reinhartの高速タッピングというのは、この後のエモリバイバルというジャンルの音楽の骨格を形作った。また、スノーイングと同じように、少ない収容人数のスタジオ・ライブの観客との一体感、そして、異様な熱狂性がアルジャーノン・キャッドワラダーの最大の魅力といえるでしょう。

 アルジャーノンのオススメのアルバムとしては、「Somekind of cadwallder」そして最後の作品となった「Parrot Files」とまあ全部聴いてみてほしい。

最初のLPレコード版を再編集した2018年リリースの「Algernon Cadwallder」。この中の一曲「Sailor Set Sail」を聴いたときの驚きと感動というのは今も色褪せないものがある。なんというか、一言でいえば、青春ですこれは。

穏やかさと激烈さ、相反するような要素がガッチリとかみ合ったキャップ・ン・ジャズを彷彿とさせる名曲でもあります。

マレットの音の響きもなんとなくノスタルジックで、切ない彩りに覆われている。何となく、湖畔ちかくの情景を思わせる素晴らしい自然味あふれる楽曲。今、考えてみれば、マスロックの雰囲気もあるバンドだったと回想。とにかく、このアルジャーノンを差し置いてはエモリバイバルを語ることなかれ。 

 

 

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3.Perspective,a lovely Hand to Hold

 

 


上記、Snowing、Algernon Cadwallderと入れ替わって台頭してきたのが、この perspective,a lovely Hand to Hold。

このバンドのサウンドアプローチは幅広く、表面的にはエモ、パンクロックよりではあるものの、その中にも電子音楽や、ポストロック/マスロック、あるいは、インディーフォークの雰囲気も感じられるバンドです。

ホーンセクションやグロッケンシュピールを積極的に取り入れたりといった特長は、如何にも現代のエモリバイバルといった音楽性ではあるものの、全然付け焼き刃ではなく、バンドサウンドの中にしっかりとそういったオケの楽器が溶け込んでいるのがこのバンドの感性の良さといえるでしょう。

その中にも良質で飽きの来ないメロディセンスを感じさせうるバンドで、非常に他のバンドに比べ演奏力も高く、特にリズム隊も音の分厚さがあり、聴いていて安心できるような感じがあります。

彼らのオススメとしては軽快さのある秀曲、「Pepe Silva」を収録したEP「Play Pretrend」、あるいは勢いと絶妙な切なさを併せ持ったポップチューン「Mosh Town USA」が収録されている「Autonomy」2014でしょう。楽曲の中にメロディックパンクのような痛快さと勢いがありながらもメロディ性をしっかり失っていない秀逸な音楽性。これからも頑張ってもらいたいバンドです。  

 

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4.Tigers Jaw


 

 

お次に紹介するタイガーズ・ジョーも、またまた、ペンシルバニア出身のロックバンドです。結成したのが2006年とすると、十六年という長いキャリアを持つアーティスト。

これまで何度かメンバーチェンジを繰り返しつつも、このバンドの顔は、紅一点のブリアナ・コリンズでしょう。

このタイガーズジョーは上記のエモリバイバルのバンドよりはパンク色は薄く、歌物としても十分楽しめる親しみやすさのある音楽性が魅力。

これまでYellowcardやNew Found Gloryとツアーを行っており、イージーコアのロックバンドとのかかわり合いも深い。メロディックパンクの次世代を担っていく存在でしょう。

音楽性としては、初期はローファイ味あふれるインディーロックでしたが、徐々に音楽的に洗練されていき、ジミー・イート・ワールドのようなキャッチーさを突き出していった。エモの雰囲気を感じさせるストレートなアメリカンロック。いかにもアメリカンな程よく加味されるエモーション性が魅力。それほど捻りのある楽曲ではなく、普通のポップスとしても楽しめる。ツインボーカルが特徴で、そのあたりの楽曲の歌い分けがこのバンドの持ち味でしょうか。

 

タイガーズ・ジョーのおすすめアルバムとしては、2017年のアルバム「spin」が挙げられるでしょう。上記のスノーイングやアルジャーノンのようなハードコアを下地にした強烈なインパクトこそないものの、「これぞ、ド直球アメリカンロック!」というような佳曲がずらりと並んでいる。これは、ため息出ますね。全く。中でも、「June」はブリアナ・コリンズの歌声が秀逸な楽曲。醸し出される切なさは筆舌に尽くせない。ジミー・イート・ワールドを彷彿とさせるエモエモさ。他にも佳曲が多し。往年のエモ/メロディックパンク好きはガツンとやられること間違いなし。 

 


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5.Oso Oso

 

 

 

NYのロングビーチ拠点に活動するインディーロックバンド、オソ・オソ。ロングビーチというのはNYの北部の方にあり、結構寒そうなところです。このバンドのフロントマンが以前組んでいたバンド、osoosoosoというバンドの解散後に組んだプロジェクトがOso Oso。また、日本にも、Os Ossosというバンドが東京(下北界隈)を拠点に活動中。この有名なバンド名からもじって、自分のバンドネーミングにするというのは、それもこれも、全部、アメリカン・フットボールという存在のせいです。これも、後に、チャイニーズ・フットボールとか、フットボール Etcとか、フォロワーバンドがじゃんじゃん出てきすぎていて、正直、言いますと、もう増えすぎてこれよく訳わかんねえなという状態。osoosooso、oso oso、Os Ossosとか、これ以上プロモートする側の頭を撹乱するのはやめてあげて下さい。もう、何が何だか、、、判別つきません。 

さて、しかし、このオソ・オソは良いロックバンドです。勢いとパンチのある親しみやすいポップパックロックバンドとエモコアの中間にあるような良質なサウンドを特長としている。アルバムジャケットも可愛らしいアートワークの作品が多いですが、これはたぶん全部狙ってやってますよ。

オソオソの音自体も、九十年代のポップパンクシーンの美味しいとこ取りをしたような感じであり、往年のBraidのフレーズをそのまんまなぞられてたりとか、おもわず、「おい、そりゃ卑怯でしょう」と言ってしまいそうになりますが、これが伝家の宝刀ともいうべきソリッドさ、鋭さがあり、音自体が痛快なため、まあいいかなと許せちゃうところがあるのが不思議です。

 

メロディック・パンク、ポップ・パンクとしても充分楽しめるオソオソですが、エモリバイバルの名盤として見逃せないのが、シカゴのレコード・レーベル「Audiotree」のLiveを収録した「Oso Oso on Audioleaf Live」2017です。

スタジオ・アルバムでは、いかにもポップパンクバンド寄りのマスタリング処理を施しているオソオソ。しかし、オーディオツリーのライブでは、精彩のあるパワーポップバンドへの痛快な変身ぶりが味わう事ができます。特に、#1の「The Cool」(スタジオ・アルバム「the yunahon mixtape」収録)ではポップパンクよりの疾走感のある楽曲ですが、このオーディオツリーのライブでは、テンポダウンされていて、楽曲に独特な切なさと色気が漂ってます。特に、この一曲目「The Cool」は素晴らしく、(以前、アジカンのツアーに参加したことがある)Ozmaを彷彿とさせるアメリカンパワーポップの名曲に大変身しているのに驚き。どことなくアルバムとは異なるへっぽこテイストが味わうことが出来、エモ感はこちらのライブの方が遥かに上、そのあたりが良い味出てます。 

 

 

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6.Emo Side Project

 

 


あまり知名度という点ではイマイチのEmo Side Project。

カンザス州ローレンス出身のmae macshaによるソロプロジェクトです。このEmo Side Projectは、現代的な音の進化という面、あるいは派手なサウンド面での特長には乏しいかもしれませんが、穏やかなエモーション性をはらんだ良質なインディーロックを奏でている隠れた名バンドです。すでに2001年から活動しており、かなり長いキャリアを持つプロジェクトといっていいでしょう。

エモサイドプロジェクトの音楽性は、まさにアメリカン・フットボールとしかいいようがない、またはマイク・キンセラのOWENの良いところ取りをしたようなサウンド。そこに、インディー・フォーク的なゆったりした雰囲気を纏う。聴いていて派手さはないものの、穏やかで安心して聴けるようなサウンドが魅力。

このB級感としか例えるべき青臭いエモ感をなんと例えるべきか。ダサいけれども、それで良い。そして、そこに内省的な雰囲気がほんのり漂っている。外向きに音を楽しむというよりも、家の中でひとりでぬくぬくと音の世界に耽溺する。アメリカン・フットボールと同じように、ミニマルな趣向性を持つギターフレーズが延々と続くあたりは、音響系ポストロックに近いアプローチが計られている。Mae Machaのボーカルというのもキンセラの弟という感じで、ヘタウマな感じですが、そのあたりが重度の「Emo Digger」にはグッと来るものがあると思います。

エモサイドプロジェクトの推薦盤としては「You Know What Sucks,Everything」という2015年のスタジオ・アルバム。

音楽性の良さというよりは雰囲気を楽しむエモのB級的な名盤。しかし、ロックとして聴くなら完全にB級の作品。しかし、独特なローファイ、インディーフォークとして聴くなら独特な魅力が感じられるはず。

このあたりのどことなくダラッとした感じのエモは余り他のアーティストの作品では聴くことのできない、このプロジェクトならではの音楽性。

いかにもアメリカらしいぬくぬくとしたインディー音楽は、まさに通好みと言えるものでしょう。名エモバンド、アメリカンフットボールの内省的なエンパシー性を継承した穏やかな清流のようなサウンド、この青臭い切なさのもんどり打つような感じに、君たちは耐え切れるか??  

 

 Bandcamp

https://emosideproject.bandcamp.com/album/you-know-what-sucks-everything


  

7.Origami Angel 

 



オリガミ・エンジェルは、ギタリストのRyland Heagyと、ドラマーのPat Dohertyによって2017年に結成されたワシントンDCを拠点に活動するツインユニットです。

以前は、ロックバンドいうのは最低限三人は必要であるという考えが一般的だった。2人でロックを完結してしまうのは多分B'zくらいと思ってたのに、近年、既成概念をぶち破り、2人で活動するロックユニットがアメリカで徐々に台頭してきています。もちろん、それらのバンドが人数が少ないからと言って音が薄いのかというと、全然そうではなく、音の分厚さと重さを誇るのには、正直びっくり。そして、このオリガミ・エンジェルもまたツインユニットとは思えないほどの重厚感のあるエモ/ポップパンクサウンドを聴かせてくれる秀逸なロックバンドです。 

そして、近年のエモリバイバルのロックバンドに代表されるようなツインクルエモという括りには当たらないのがオリガミ・エンジェル。

どことなくひねくれたコード感を持ち、重厚なディストーションギター、そして、ドラムの迫力あるリズミングがこのロックバンドの最大の特長でしょう。長和音進行の中に巧みに短調を打ち込んでくるあたりは、これまでの無数のツインクルエモのバンドとは違い、新たな風のようなものをアメリカのエモシーンに吹き込んでくれるだろうと期待してしまいます。

オリガミ・エンジェルは、活動期間は四年でありながら、すでに「Somewher City」という頼もしい名盤をリリースしています。何より、このツインユニットには音楽の間口の広さが感じられて、今後、その異なるジャンルとの融合性を強めていってもらいたいと思います。インディーフォークであるとか、ニューメタル、さらには、近年のクラブミュージックのテイストも交え、ジミー・イート・ワールドを思わせるような爽快感のあるメロディック・パンクが全力的に展開されている。

この若さゆえのみずみずしさは、往年のポップパンクファンにはたまらないものがあると思います。これから2020年代のアメリカのメロディックパンクシーンを牽引していくであろう非常に楽しみなロックバンドです。「24 Drive Thru」の痛快な疾走感は言うに及ばず、「The Title Track」の独特なコード感、涼風のように吹き抜けていくポップチューンを心ゆくまで楽しむべし!!!!

 


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8.Bigger Better Sun 「Adjust to Wellness」


 

 

そして、個人的にこれから最も有望視しているのがこの”Bigger Better Sun”というロックバンド。

あまり他ではエモリバイバルというカテゴライズではあまり紹介されないような存在ではあるし、エモというカテゴライズ上で語ることは趣旨から外れているような気もするものの、エモの雰囲気は少なからず漂っている。 

もちろん何の根拠もありませんが、なんとなく、このバンドは要チェックです。特に、2010年代のエモサウンドをより未来に進化させたポストエモ的なサウンドを体現させているバンドでもある。

往年のエモサウンド、とりわけゲット・アップ・キッズのような親しみやすいキャッチーさもありながら、アメリカのヒップホップシーンあるいはテクノ、EDMシーンに呼応したようなサウンド面での進化を、Bigger Better Sunのサウンドには見て取ることが出来る。

そもそも、スノーイング、アルジャーノンの2000年代初めのアメリカのインディーズシーンへの台頭は、およそ無数のタッピング奏法を駆使し、メタルサウンドを取り込んだようなツインクルエモ勢を発生させはしたものの、それと同時に、音楽の停滞をもたらした弊害もなくはなかったお決まりのサウンドの流行というのは未来への針をその場に押しとどまらせてしまうというわけです。そのあたりの停滞を次世代のサウンドへと進めようとしているのが、Bigger Better Sunという存在。

彼らのオススメアルバムとしては「Adjust To Wellness」。

「fillers」のようなゲット・アップ・キッズを彷彿とさせるような温かみのあるバラードソングの良さもさることながら、他にも独特の進化を辿った2020年代のポストエモシーンの台頭を告げるような電子音楽風のサウンドも提示されている。

これはかつてゲット・アップ・キッズのバンドサウンドのムーグシンセの導入をさらに作曲という図面の上で広げて行こうという意図を感じなくはない。つまり、オートチューン等を駆使し、エモの音楽性にクラブミュージックに対する風味を付け加えようというチャレンジ性が感じられる。

Bigger Better Sunの音楽性は、2020年代のエモシーンの音楽性を予見させる。音楽自体のポピュラリティー、聞きやすさも失わず、エモというジャンルをさらに前進させようという実験性もある。あまり有名なロックバンドではないですが、非常に見どころのあるバンドとして紹介しておきます!!

 

 

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9.Posture & the Grizzly 




最後の一バンドとして紹介したいのがPosture&the Grizzlyです。フォールアウトボーイのようなイージーコアをサウンドの特長とし、ボーカリストの巨体から生み出されるパワフルなサウンドが特長。 

2000年代のニュースクールハードコア、メタルコアといったソリッドなサウンドを踏襲し、クールで勢いのある音楽性が魅力。こういったわかりやすさのあるイージーコアサウンドというのは、近年それほど多くなかったんですが、Posture& the Grizzlyは現代にそれを見事に蘇らせています。

スクリーモ勢の後の世代としてのメロディックパンクの流行のスタイルを追究したといえる痛快な激クールサウンド。もちろん、エモさという要素も少なからずあるのがこのバンドの特徴。

彼らの入門作品としては「I am Satan」2016をまずはじめにレコメンドしておきたいところです。

ここにはライズ・アゲインストのようなメタルコア風の力強さもありながらまたそこはなとなくエモーショナル性、そして、モグワイのような音響系ポストロックの雰囲気も漂っています。

こういった様々な現代の音楽を融合したサウンドが今日のエモリバイバル、あるいはポストエモ勢のトレンドなのかなあという気がします。上記のBigger Better Sunとともに、リバイバルという括りでは語れない2020年代のポストエモの台頭を予感させるようなロックバンドとしてオススメ!!

 


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