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MBV

 

オリジナルと呼ばれる何かを生み出すために遠回りを避けることはできません。オリジナルが生み出される瞬間とは、それ以前に数々の試行錯誤を経た後、最初の原型のようなものが出来上がる。もちろん、アイルランドのケヴィン・シールズは、ギターサウンドに変革をもたらすため、音作りに気の遠くなるような時間を掛けたと思われます。シューゲイズのギターの音作りや機材、エフェクターに関する詳細については、ギター・マガジンをはじめとする専門誌のバックナンバーを紐解いてもらうのが最善でしょう。このミュージックコラムでは、シューゲイザーの先駆者であるMBVがどのような変遷を経て、オルタナティヴロックの金字塔を打ち立てたのか考察していきたいと思います。以下のサウンドの変遷の系譜を見ると、気の遠くなる様な数の音楽性やギターサウンドの試行錯誤を経た後にようやくMBVの代名詞となるギターロックサウンドが確立されたことが分かるはずです。

 

そもそも、アイルランドのマイ・ブラッディ・ヴァレンタインは、どちらかと言えば、現在のポスト・パンクに近いアンダーグランドのシーンから登場しました。無論、バンドは最初から90年代のシューゲイズサウンドを確立していたわけではないのです。昨今では、Fontaines D.C、Inhaler,Murder Capitalなど個性的で魅力溢れるバンドが数多く輩出されるアイルランドのシーンではあるものの、80年代にはまだアイルランドには現在のような音楽のコミューンは存在しなかった。このエピソードを裏付けるものとして一般的に知られていないエピソードを以下にご紹介します。

 

アイルランドのMy Bloody Valentineは、デビュー当初、大きな市場規模を持つイギリスのミュージックシーンではなく、ベルリンの壁崩壊前の西ドイツのインディーズレーベルからデビューしています。彼らの1984年のデビュー作『This Is Your Bloody Valentine』(残念ながらサブスクリプションでは視聴できない)リリースを行ったドイツのレーベル”Dossier”では、複数のアートパンク/ニューウェイブのバンドのリリースを行っており、その中には、イギリスのアートパンクシーンの伝説的な存在であるChrome、そして、さらにマニアックなところでは、Vanishing Heat,Deleriumが所属していました。つまり、表向きにはあまり知られていないことなんですが、My Bloody Valentineはロック・バンドというよりも、そのルーツの出発点には、ポストパンク/アートパンクがあるといっても過言ではないのです。なぜ、こんなことを言うのかというと、91年の『Loveless』だけをこのバンドのキャラクターであると考えると、実際の音楽性を見誤り、間違ったイメージが定着する可能性があるからです。さらにシューゲイズという音楽はシンプルに出来上がったとは言い難いものがあるのです。


また、なぜ、My Bloody Valentineがイギリスではなくドイツからデビューしたのかについては、憶測にすぎませんが、それ以前の70年代からクラウドロックをはじめとする前衛的な音楽を許容するミュージックシーンがドイツに存在したことと、また80年代はどちらかといえば、アイルランドではなくスコットランドのミュージックシーンにイギリスの主要なインディーズレーベルの注目が集まっていたからなのではないかと思われます。特に、この年代には、フォーク・ミュージックとロックを融合させたネオ・アコースティック、ギターポップがスコットランドで隆盛をきわめていたからなのかもしれません。特に、サブスクリプションで聞きやすいところで言えば、88年から91年のレアトラックを集めたEPでは、このバンドの"クラブ・ミュージックとロックの融合"という表向きのイメージとは異なる荒削りでラウドなポストパンクバンドの性質を伺うことができるはずです。

 

そして、My Bloody Valentineが活動初期からシューゲイズと呼ばれるサウンドを作り出していたわけではないことは熱心なファンの間では既知のことでしょう。当初、どのようなバンドであったのかは、特に、フィジカル盤のみのリリースとなっているファースト・アルバム『This Is Your Bloody Valentine』を聴くと分かるはずです。アルバムのクレジットを見ると、西ドイツ時代のベルリンにあるスタジオで制作され、Dimitri HegemannとManfred Shiekがプロデュースを手掛けています。レコーディングでは、Kevin、Colm,Dave,Tinaという名前が見い出せますが、さらに、ケヴィン・シールズがボーカルを取り、ベースもケヴィンがレコーディングで弾いているところを見ると、この頃は彼のワンマンに近いバンドであるという印象が強い。そして、デビュー当時はケヴィン・シールズが多くの曲を歌っており、ツインボーカルになったのは2nd『Isn't anything』前後のこと。また、このデビュー作でMBVがどんな音楽をやっていたのかいうと、明らかにそれ以前に流行ったポスト・パンク/ニューウェイブを志向したサウンドに位置付けられ、また、ケヴィン・シールズのボーカルは、ジョイ・デイヴィジョンのイアン・カーティスやバウハウスのピーター・マーフィーを彷彿とさせるものがある。バンドサウンドについても、ゴシック・ロックとポスト・パンク/ノイズ・パンクの中間点にある特異な音楽性を探っています。この辺りには、数年前にデビューしたThe Cureの影響も見てとることができるかもしれません。

 

ただ、結成から一年後に発売されたデビュー・アルバムに関して、後の90年代のシューゲイズサウンドの萌芽が全く見られないかといえば、どうやらそういうわけではないようです。アルバムの最後に収録されている「The Last Supper(最後の晩餐)」は、『Loveless』の象徴的なサウンドの代名詞となる"陶酔的、甘美的"と称されるロマンティックなサウンドの出発点と捉えることが出来る。さらに、シューゲイズの象徴的なギターサウンド、つまりオーバードライブ/ファズとアナログディレイを複合させた抽象的な音作りに加えて、クラブミュージックサウンドの影響もわずかに留めています。


ただし、2ndアルバムに比べると、バンドのサウンドは、お世辞にも90年代のように洗練されているとはいえず、現在のロンドンのポストパンクパンドのようにプリミティヴです。さらに、ケヴィン・シールズのボーカルとシンセサイザーの掛け合いは、ロサンゼルスのロック詩人、ジム・モリソン率いるザ・ドアーズの音楽性のサイケデリアの影響を伺い知ることが出来るはずです。

 

「The Last Supper」

 

 

当初、イギリスを中心に一世を風靡したJoy Division、Bauhaus、The Cureのニューウェイブの範疇にあるポスト・パンク/ゴシックロックの音楽性を引き継いだ形で始まったMy Bloody Valentineのサウンドは、その後、80年代終わりにかけて、さらに大きな変貌を遂げていくことになります。セカンドアルバムでのドリーム・ポップに近い方向性も以前の年代と同じように、相当な音楽性における試行錯誤が重ねられた末に生み出されたのでしょう。この時代と並行するようにして、マイ・ブラッディ・ヴァレンタインは、ファースト・アルバムの音楽性から完全に脱却し、スコットランドのグラスゴーで盛んだったネオ・アコースティック/ギターポップを、アイルランドのバンドとしてどのように組み直すのかという作業に専心していくようになるのです。

 

マイ・ブラッディ・ヴァレンタインは、80年代の終りに、最初のポスト・パンク/アートパンクの性質を踏襲した上で、スコットランドのThe Vaseline、The Pastelsのような牧歌的なネオ・アコースティックのバンド、また、JAPANのようなニュー・ロマンティックの影響を反映させた3曲収録のシングル「Strawberry Wine」をリリースしています。これらのサウンドには、エレクトリックギターの背後に薄くアコースティックギターをダビングするという後のシューゲイズサウンドのレコーディングの手法の始まりを見つけることが出来るかもしれません。シングルに収録されている三曲は、残念ながら主要なアルバムやEPに収録されておらず、また、サブスクリプションでも聴くことができません。ファンの間ではレア・トラックとして認知されているはずです。

 

「Strawberry Wine」

 

 

この後の年代になると、My Bloody Valentineは、メンバーを少しずつ入れ替えながら『Loveless』の初盤をリリースするイギリスのレーベル、クリエイションと契約を交わし、『Isn’t Anything』を88年にリリースし、オリジナルサウンドを確立するに至ります。この時代からよりサウンドの変更に拍車が掛かり、大幅にモデルチェンジを行うにしたがい、MBVの最初期を象徴する80年代のネオアコースティック/ギターポップサウンドはやや弱められていきます。




『Isn’t Anything』は、既に知られている通り、バンドのファンの中では隠れた名盤として知られるようになるアルバムではありますが、のちの90年代の象徴的なシューゲイズサウンドとは少し異なり、暗鬱なゴシックパンクと恍惚としたオルトロックを融合した前衛性を見出すことが出来ます。シューゲイズのクラブミュージック以外の特徴的なサウンドは、この作品でほとんど確立されたとかんがえても良いかもしれません。

 

「No More Sorry」

 

さらに、この90年前後から『Loveless』に見受けられるケヴィン・シールズのシューゲイズと呼ばれるギターサウンドと合わせて象徴的な意味を持つようになる、甘いメロディーを擁するボーカルの合致が、バンドの音楽性の謂わば屋台骨ともなっていきます。また、その後、バンドは同レーベルから90年代の不朽の名作『Loveless』をリリースし、シングル「Soon」を皮切りにし、初めて全英チャート入りを果たす。また、このアルバムは最初のヒット作となり、その後、長い時間をかけて、My Bloody ValentineはU2に次ぐアイルランドの象徴的なロックバンド(オルタナティブロックバンド)と見做されるようになりました。


さらに、シューゲイズ/オルタナティヴの金字塔とも呼ばれる『Loveless』のレコーディングにも逸話があり、販売元のクリエイションは、この世紀の傑作を生み出すため、レコーディング費用を掛けすぎ、後にレーベル会社として経営破綻することになったのです。以後、アイルランドのバンドの代表作である『Loveless』はオルタナ・ファンから長い間支持を得るように。しかし実のところ、この伝説的なサードアルバムは、レーベルのクリエイションとマイ・ブラッディ・バレンタインの双方の命運を賭けて録音制作された、いわば"背水の陣"とも例えるべき作品でもあったのです。

 

「When You Sleep」




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Meat Puppets

これまで風変わりなバンドやアーティストは数多く聴いてきたものの、Meat Puppetsほど変わったロック・バンドというのはあまり聴いたことがない。

 

ミート・パペッツは、アリゾナ出身のバンドで、当初はカート・カーウッド、クリス・カーウッドを中心にトリオとして80年に結成され、後に、五人組(現在は四人?)のバンドとなり、何度か解散しているが、現在も活動中である。近年では、KEXPでパフォーマンスを行っている。


もちろん、グランジ、ニルヴァーナ関連に詳しい方は、このバンドに対してカート・コバーンが入れ込んでいたことを知る人も少なくないかもしれない。他にも、コバーンは、シアトルのメルヴィンズに強い触発を受けているとも言われる。そして、いわゆるパンクとメタルの間の子としてのグランジ・ミュージックが誕生し、薄汚れたとか汚らしいというコバーン特有のファッションの表現が定着し、グランジという言葉が生み出されたのだった。そして、コバーンは、稀にボーカルのピッチがよれたような奇妙な歌い方をする場合がある。このスタイルは間違いなく、アリゾナのミート・パペッツのCurt Kirkwoodのボーカルに触発を受けていると思われる。

 

そして、実際、ニルヴァーナは91年の『Nevermind』、93年の「In Utero』で成功を収め、ロックスターとしての地位を手中に収めた。さらに、その年、自らのルーツを公にするようになった。ゲフィン・レコードが主宰する93年のMTV Unpluggedでは、一転してエレクトリックギターではなく、アコースティックギターでそれまで発表した作品を再構成し、パンクのラウド性だけが魅力のバンドではなく、静かに聴かせるバンドでもあることを対外的に示唆したのであった。そして、このアコースティック・ライブに、Meat Puppetsのギタリストのクリス・カークウッドが登場したため、パペッツも自ずとその名を広く認知されることになった。これはたぶんコバーンなりの配慮があって、アリゾナのバンドの音楽に深く触発を受けていることを周知し、改めてミート・パペッツに対するリスペクトを示そうとしたのではなかっただろうか。 

 

MTV Unplugged、1993 「Plateau」

 

 

ともあれ、Meat Puppetsは、80年代のUSハードコアパンクシーン、しかも相当マニアックなアンダーグラウンド界隈から出てきたバンドであることは間違いない。しかも、ミート・パペッツはこの後の時代にメジャーのアイランドレコードと契約し、このバンドにしては珍しく大衆的なロックソング「Backwater」を発表しているが、その出発点を辿ると、きわめてマニアックなバンドとして、Black Flagのグレッグ・ギンが主宰していたSST Recordsからデビューを果たしたのだった。

 

セルフタイトル『Meat Puppets』を聴くと分かる通り、ミート・パペッツは、ある側面では、スピードチューンを誇るハードコアバンドとして出発している。このファーストアルバムには若さゆえの無謀さや未知の可能性を詰め込み、それらをジャンク感満載のハードコアパンクとして無理やり押し込んだような音楽性が全体に通底している。ただ、その中にも米国南部のバンドとしてのルーツが含まれていた。つまり、それらが、グレイトフル・デッドのようなカルフォルニアのサイケデリック・ロック、そして、カントリー、ブルーグラス、そしてテキサス/メキシカンの南部のアメリカーナである。これらが渾然一体となったカオティックな音楽がミート・パペッツの他では求められない特性でもある。ファースト・アルバムに見られるようなすさまじい勢いと、その背後に漂うアリゾナの砂漠地帯を彷彿とさせる幻想性が、カオティック・ハードコアの最初期の源流に位置づけられるこのセルフタイトルの核心を形成していたのだった。

 

次いで、アリゾナのロックバンドが二作目として84年に発表した『Meat Puppets Ⅱ」は、 前者のハードコアのアプローチから若干距離を置いている。これは一見すると、パンクから遠ざかったという見方が出来るが、実はそうではなく、パンクの無限の可能性を示そうとしたというのである。この点について、フロントマンのカート・カークウッドは、「あえてみんなのために空振りをしたんだ」と語っている。「それくらいパンクなことをやってみてもいいのではないか?」と。 


それがどのような結果となったのかは、2ndアルバムが雄弁に物語っている。カントリー/ブルーグラスをパンクとして再解釈した「Magic Toy Missing」、ジョニー・キャッシュのようなフォーク/カントリーをロカビリー風にアレンジした「Lost」、そして、後にニルヴァーナがMTVでアコースティックバージョンとしてカバーする「Plateau」、「Lake Of Fire」、さらにはヒッピーの暮らしと彼らの信ずるジャンクな神様に対する信仰を描いた「New Gods」、さらにはローリング・ストーンズを無気力にカバーした「What To Do」といった唯一無二のパンクロックソングが生み出されることになった。また、オーロラの神秘性をメキシカンな雰囲気で捉えたインストゥルメンタル曲「Aurora Borealis」は空前絶後の曲である。何かこれらの音楽には、度数の高いテキーラ、メキシカン・ハット、タコス、そして、サボテンというものがよく似合う。これらのアリゾナや国境付近の砂漠であったり、テキサス/メキシコ音楽の影響を反映した奇妙なエキゾチズムが、生前のカート・コバーンの心を捉えたであろうことはそれほど想像に難くない。


近年のMeat Puppets


その後、ミート・パペッツは、カート・コバーンの紹介もあり、いくらかシニカルなユニークさを交えたロック・ミュージックへと方向性を転じ、多作なロックバンドとして知られることに。そして、シンプルなロックバンドとしての商業的なピークは、MTVアンプラグドの翌年、94年の「Too High To Die」に訪れる。しかも、このアルバムは、それまでのジャンクロック/カオティックハードコアとは異なり、SoundgardenやAlice in Chainsに近いグランジっぽい音楽性を含んでいた。


94年といえば、ローリング・ストーン誌の有名なカバーアートを飾った後、コバーンが死去した年である。そして、「Too High To Die」が発売されたのはコバーンが死去する3ヶ月前のこと。アルバムのタイトルについて考えると、こじつけのようになってしまうが、ミート・パペッツはシアトルのMelvinsよりもはるかにニルヴァーナと近い関係にあるようにも感じられる。ニルヴァーナは知っているけれどミート・パペッツを知らないという方は改めてチェックしてみてほしい。

 

 

 

 



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今月初め、リズ・フェアー、ファイスト、フィリップ・セルウェイなどが参加した、7月に発売される大規模なニック・ドレイクのトリビュート・アルバムが発表されました。


煎じます、Fontaines D.C.の "Cello Song "のカヴァーが公開されました。次いで、今日は、『The Endless Coloured Ways - The Songs Of Nick Drake』からもう1曲、実験的ポップデュオのLet's Eat Grandmaが "From The Morning" をカバーしています。(偶然にも、カリフォルニアのシンガーソングライターShannon Layは、今週初めに自身のカバーアルバムからこの曲のテイクを発表しています)


"From The Morning "をカバーすることは、私にとって大きな意味があります」と、グループのJenny Hollingworthは声明で述べています。


ピンク・ムーンの中で最も希望に満ちた曲だとずっと思っていました。自然が光と闇の中の美しさを見せてくれること、生と死がどのようにつながっているかという歌詞を聴くことで、喪失後の受け入れと慰めを見つけることができました。一緒に取り組んでくれたDavid Wrenchに心から感謝します。

 

 

 

喉をガラガラに潰したシンガーというのが存在する。真っ先にジャズ・ボーカルの名手であるルイ・アームストロングが思い浮かぶ。彼もクリーンなトーンで歌う歌手とは違い、独特な渋みと抒情性でリスナーを魅了する人物であった。ルイ・アームストロングに関しては、他の同年代の歌手が総じて彼の独特な嗄れた声を真似するという、いわば現代のインフルエンサーのような存在だった。そして、米国のポピュラー・ミュージック史を概観した際に、もうひとり重要な歌手が存在するのをご存知だろうか。そう、それがカルフォルニアのトム・ウェイツなのだ。

 

彼もまた、サッチモと同じように、嗄れたハスキーなボーカルを特徴とする。先日、トム・ウェイツは、オリジナル作品の再発を行うと発表したばかりだが、ウェイツのデビュー当時のエピソードはすごくロマン溢れるものである。そのエピソードをざっと紹介していこうとおもう。デビュー前まで真夜中のザ・ドアーマンとして勤務していたウェイツであったが、その数年後にメジャーレーベルのアサイラム(エレクトラ)と契約を交わし、劇的なデビュー作『Closing Time』を世に送り出した。その後のシンガーソングライターとしての活躍については周知の通りである。

 

デビューアルバム『Closing Time」のリリース時、ウェイツは青年時代について次のように回想している。

 

「私は、1949年12月7日、カルフォルニア州のボモーナに生まれました。 幼い頃の日々をカルフォルニアのホイッティアで過ごし、12歳の時、サンディエゴに引っ越してきた。このサンディエゴはカルフォルニア州の南外れに近い都会なんだ。隣国メキシコにも近く、海軍の軍港地として栄え、またメキシコ風のエキゾチックムードの味わえる観光地としても知られている。それだけにここにはクラブや娯楽施設も多い」

 

「15歳になるまで、私は平凡な少年として過ごしていたのだったが、たぶん家庭の事情もあったのだろう。15歳の時から、"ナポレオンのピッツァ・ハウス”で働きはじめた。といっても」とウェイツは回想している。

 

「シンガーとして雇われたのではなかった。この店の経営者であるジョー・サルドとサン・クリヴェーロのために雑役を任された。私は午前三時から四時(つまり夜明け近く)まで働いた。料理をやったり、フロアを掃除したり、皿も洗った。そして私は、真夜中の人生の教育を受けたものでした。たしかに、こんな環境では学校では教えてくれないことをいろいろ学んだのだろう」

 

トム・ウェイツのこうした生活はおよそ五年ばかり続いたという。それから、トム・ウェイツはミッション・ビーチに移住した。そして”ザ・ヘリテイジ”というフォーク・クラブで働いた。ここで彼はここで多くのフォークシンガー仲間、知られざる音楽家と運命的な出会いを果たす。トムが列挙しているのは以下のような歌手たち。レイ・ビール、グラディ・タック、スティーヴ・ゴードン、バム・オストレグレン、ボビー・トーマス、ウェイン・ストロンバーグ、ジャック・テンプチン、マック&クレイア、ブッチ・レイジー、トム・プレストリー、シェップ・クック、フランシス・サム、ボブ・ウェッブ、スティーヴ・ヴァン・ラッツ、サム・ジョーンズ、リック・クンハ、ルディ・ギャンブル、オーナ・シレイカ、ボブ・ダフィといった面々だ。


この時代をすぎると、トムは”ザ・ドアーマン”という店に職を求め、約二年間ほど働いた。彼は真夜中の勉強を続けた。コーヒーの香りとタバコの煙の中で歌を作り、ギターとピアノを弾いて歌いはじめた。これがたちまち仲間たちの間で評判となり、その二年間の終わり頃には仲間のひとりとコンビを組み、ボブ・リボー&トム・ウェイツとしてステージに立つ。その後、トムはYMCAやジュニア・ハイスクール、ザ・バックドアー、ジ・アリー、ザ・ボニタ・イン、ザ・マンハッタン・クラブといった場所で歌った。こういった生活を送るうち、トム・ウェイツは合衆国とメキシコの国境に位置するバハ・カルフォルニア州のティフアナ周辺でもよく知られる存在となった。


「私はそれから、ロサンゼルス行きのバスに乗ったんだ。私のビュイックで行きたかったんだけど、そういうわけにはいかなかった」と語るように、彼はいくらかのポケットマネーを懐に詰め、大都市ロサンゼルスを目指した。ウェイツが目指したのは、ロサンゼルスにあるロックとフォークファンが集まる老舗クラブ、”The Troubadour(ザ・トルバドール)だった。(80年代にはガンズ・アンド・ローゼズも出演した)このクラブでは、毎週月曜日の夜になると、新人のオーディションが開催されるのが恒例だった。スターシンガーになるチャンスを求めてオーディションを受ける月曜日の夜はいつも大賑わいだった。自分の順番が来るまでかなり待たされたトム・ウェイツは、この月曜のオーディションに出演し、数曲を歌う。そして、このクラブへの出演により、メジャーレーベルとの契約とデビューへの大きなきっかけを掴み取ったのだ。

 

「Ol'55」

 

 

ある夜、歌い終えたウェイツは、 アサイラム・レコードと関係のあるハーブ・コーエン氏と遭った。

 

このときのことについて、彼はこう回想している。「彼コーエンは、初めてソングライターとして私と契約してくれた。いくらかのお金をくれ、ジェリー・イエスターという人物に取り次いでくれた」このジェリー・イエスターは、アソシエーション、ラヴィン・スプーンフル、ティム・バックリーといった錚々たるミュージシャンを手掛けてきた敏腕プロデューサーだった。作曲家、編曲家として知られ、また自分で歌もうたえば、ピアノも弾くという才人であった。

 

ジェリー・イエスターは、早速ウェイツを連れてスタジオミュージシャンと一緒にハリウッドのサンセット・サウンド・スタジオに入った。全力を込めてレコーディングを行い、ジェリー・イエスターは、ウェイツが書き上げていた一曲「Closing Time」を夢中で編曲した。出来上がったアルバムは、アサイラム・レコードのボスであるデイヴィッド・ゲフィンのお気に入りとなった。トム・ウェイツは「彼はアサイラムから発売しようといってくれた」と回想している。

 

1973年の春頃、トム・ウェイツのデビュー・アルバム『Closing Time』はリリースされた。レコーディングでは、トム・ウェイツがザ・ドアーマンの時代から培ってきたピアノやボーカルの腕前を披露し、トムの旧友であるシェップ・クックがギター、ボーカルとして参加している。その他、ビル・プラマーがベース、トランペッターとしてトニー・テランもレコーディングに参加している。このデビュー作では、ウェイツのハスキーで嗄れたボーカルの妙味に加え、カルフォルニアの真夜中の雰囲気が堪能出来る。カントリー、ブルース、ポップス、ジャズと様々な作風を込めているが、それは15歳の時代から彼がずっと温めてきた作風でもあったのだ。

 

『Closing Time』はセールス的には成功しなかったが、彼がスターシンガーとなる布石となった。ローリング・ストーン誌のスティーヴン・ホールデンが、「型にはまらないセンスとユーモア」「天性の演技力」を好意的に評価した。また、この作風は、2ndアルバム『The Heart Of Saturday Night』に引き継がれた。トム・ウェイツはこの二作目でよりジャジーな作風に舵をとることになる。


「Martha」

 

 

 60年中頃の音楽のニューヨークのアンダーグラウンドミュージックは、表側のウォール街を中心とする金融世界と裏側のアートの最前線から生まれた。ウォーホールの手掛けたアートプロジェクト、彼の仕事場であるFactory、さらには彼の最高傑作であるThe Velvet Undergroungの価値は、その音楽の革新性とメインカルチャーへの強烈な反骨精神に求められる。

 

 「Sunday Morning」に見受けられるポップな要素とそれと対極にある「European Son」に象徴されるようなアバンギャルドな性質はデトロイトのイギー・ポップと並んでプロトパンクの素地を形成したのみならず、そしてサイケデリックの概念はオルタナティヴの出発点でもあり、そして、米国のインディーロックの型をつくり上げたのである。それでは、このバンドの中心人物で発起人でもある伝説的な存在、ルー・リードはどのようにしてこのバンドを出発させたのだろうか、それを探ってみよう。


 ルー・リードは、1944年(43年の説もあり)3月にニューヨークで生まれた。五歳にしてピアノ、14歳でギターを始め、高校を卒業するまでに、ザ・ジェイズを始めとする複数のローカルなバンドを複数経験した。地元のシラクサ大学に入学すると、ドロップアウトを決意し、サーフィンやホット・ロッドソングを書く単発の仕事を得るが、強烈な自己意識が災いして、社会的な立ち位置を見出すことが出来ない日々を過ごした。

 

 ルー・リードの人生を変えたのは、盟友、ジョン・ケールだった。のちにケールはVUの音楽的な側面を支え、エレクトリックビオラ奏者としてバンド内の重要なポジションに就くことになった。ジョン・ケールはイギリスの南ウェールズ出身で、幼い頃からクラシックを学び、現代音楽家、ジョン・ケージに師事するため、バーンスタイン奨学金を活用し、イギリスからニューヨークに留学しにきた人物であった。2人はすぐに意気投合し、グリニッチ・ビレッジのクラブのステージにデュオとして立つことになった。65年、2人は、トランペット奏者のスターリング・モリソン、ガールズバンドの出身者、モーン・タッカーを加えて最初のヴェルベット・アンダーグランド(当時は、ザ・フォーリング・スパイクスを名乗った)の編成を整えた。バンドのライブ・デビューとなったのは、ニュージャージ州のハイスクールコンサート。のちの伝説的なエピソードとは違い、華々しいデビューではなかった。このときの最初の報酬は75ドル。観客の興味を惹くことにも失敗して、途中で席を立たれる始末であった。

 

 ところが、この一般的には見向きもされなかったヴェルヴェッツの音楽に一定の評価を与えていた人物がいた。このグループには、女流映画作家、ハーバラ・ルービン、詩人、ジェラード・マランガがいた。彼らはアヴァンギャルドな表現を好む女優や作家、詩人などがバンドの音楽性を厚く支持した。 ハーバラ・ルービン、ジェラード・マランガは、ポップアートの先駆者、アンディ・ウォーホールにバンドのメンバーを紹介し、ヴェルベット・アンダーグラウンドの運命の歯車は回りだした。この点について、よく言われるアンディー・ウォーホールがバンドを育てたという定説には懐疑的な意見も見られる。つまり、現代アートの巨匠とバンドの邂逅は偶然的なものであったというのだ。少なくとも、よく知られているように彼はバンドのプロデューサーの役割を担ったことは事実といえるだろう。

 

 

 その後、晴れてヴェルヴェッツのメンバーは、ウォーホールの仕事場であるFactoryに出入りをゆるされる。そしてウォーホールの勧めにより、ザ・フォーリング・スパイクから改名を決意する。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドという名前は、既に伝説化している通り、ルーがタイムズ・スクウェアのポルノショップでみかけたSMのペーパーバックのタイトルをバンド名に。そして、同時に、西ドイツのコローニュ生まれで、60年代初頭にパリを舞台にモデルとして活躍したニコをヴェルヴェット・アンダーグラウンドのシンガーとして迎える。当時、ニコは65年頃からロンドンでシンガーとして活躍し、翌年にはアンディ・ウォーホールの映画『チェルシー・ガール』にも出演した。デビュー作の同名曲はこの映画にちなんでいる。このバンドの代名詞となる激しいステージライトと轟音を交えたライブをマンハッタンのディスコ”ドム”で開催し、Plastic Exploding Inevitableにも出演。これはウォーホールが企画した実験総合芸術としての演出として彼らのアバンギャルドな音楽が生み出されたことを表している。

 

 上記の写真を見ると分かる通り、発足当初のヴェルヴェット・アンダーグラウンドは、黒いサングラスをかけ、常に聴衆に背中を向けて演奏していたが、これは60年代のアンプのフィードバックを最大限に活かすための演出である。そしてステージでは激しいフラッシュがたかれていたため、彼らはそれらの光から目を守るためにサングラスをかけていた。この当時、背を向けての大音量のライブは前衛的な印象を聴衆に与えるとともに、時にそれは”暴力的”と称されることもあった。しかし、アンディとのコラボレーションというのが取りざたされ、現地の各新聞はこのバンドの前衛的なライブについて大々的に報じたのだった。この新聞の報道により、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドは一般的にその存在を知られるようになったのである。

 

 

 

 67年3月には、後に伝説となるデビュー・アルバム『The Velvet Underground& Nico』をVerveから発売する。

 

このアルバムは一般的に知られているように、急進的な造形芸術家を中心にもてはやされたが、オーバーグラウンドでヒットしたわけではない。よく言われるように、アンディ・ウォーホールがこのバンドに直接的な影響を与えたという点についても懐疑的な意見もある。理由は、このデビュー・アルバムの大半の収録曲はFactoryで制作されたのではなく、ウォーホールとルー、ケールが出会う以前に、じっくり煮詰められていたものだった。そして、ルー・リード自身は名物的なバナナのアートワークについても心にしこりを残し続ける要因となった。これはセクシャルな暗喩が込められている。(デラックス・バージョンを参照)ちなみにこのアルバムが発売されたのはザ・ビートルズの傑作アルバム「サージェント・ペッパーズ」と同年である。

 

 ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのメンバー、そして音楽は近代ヨーロッパのパトロン方式のような形で親しまれるようになった。彼らは米国の上流階級のパーティーに呼ばれ、演奏するようになったというが、それについても若い時代の戸惑いが心には残っていたのだという。その後、デビュー作で異彩を放っていたニコはソロアーティストとして活動するためにバンドを脱退。その頃から、ヴェルヴェット・アンダーグランドのメンバーもウォーホールの仕事場のファクトリーと距離を置くようになった。残されたルー、ケール、スターリング、モーリンの四者は、ニューヨークのライブハウス、ビル・グラハムのフィルモア・イースト&ウェスト、LAのウィスキー・ア・ゴー・ゴーに出演し、ウォーホールの手から離れた独立したバンドとして活動を行うようになった。68年には、ウォーホールとニコと別れを告げ、2ndアルバム『White Light&White Heat』を発表する。この伝説的なアルバムはストゥージズの『Raw Power』と並んでプロト・パンクの原型となったのみならず、ローファイの原型ともなった。

 


 二作目の発表後、ジョン・ケールは音楽性の意見の相違からバンドに別れを告げ、新たにバンドはダグ・ユールを迎え入れる。

 

69年4月に発表されたタイトルアルバム『The Velvet Underground』では内的な暴露や宗教観の吐露を交えポップ性とオルタナティヴ性を織り交ぜた快作をリリースする。70年には、最初期からのメンバー、モーリンが脱退し、バンドの運命は急転する。8月には、ルー・リードすらもマックス・カンサス・シティの公演時に前触れもなく姿をくらまし、放浪の旅に。この段階に来て、バンドの運命はほとんど決定的なものとなった。70年には『Loaded』を発表。この中でルー・リードは自身の代表的な名曲「Sweet Jane」を生み出した。 

 

 

 

その後、ルーはソロ活動に転じ、「Walk On Wildeside」を始めとする数々の伝説的な名曲を生み出した。また、ルー・リードは生前、メタリカのライブにも出演し、「Sweet Jane」を一緒に演奏している。ヴェルベット・アンダーグランドの公式なスタジオ・アルバムは四作にとどまるが、その他、最盛期のライブを収録した『Live At Max Kansas City』、シンガー、ニコとの貴重なライブ音源を収録した『1969 Velvet Underground Live With Nico』の録音も残されている。

 

Hiroshi Yoshimura

 横浜出身の吉村弘(Hiroshi Yoshimura 1940-2003)は、近年、海外でも知名度が高まっている音楽家で、日本の環境音楽のパイオニアです。厳密にいえば、環境音楽とは、工業デザインの音楽版ともいえ、美術館内の音楽や、信号機の音楽、電車が駅構内に乗り入れる際の音楽など、実用的な用途で制作される場合がほとんどです。

 

 彼の歴代の作品を見ると、釧路市立博物館の館内環境音、松本市のピレネ・ビルの時報音、営団地下鉄の南北線の発車サイン音/接近音、王子線の駅構内、第一ホテル東京シーフォート、横浜国立総合競技場、大阪空港国際ターミナル展望デッキ、ヴィーナス・フォート、神戸市営地下鉄海岸線のサウンド・ピクトグラム、福岡の三越百貨店、神奈川県立近代美術館と多種多様な施設で彼の音楽が使用されてきました。

 

 吉村弘は、音楽大学の出身ではなく、早稲田大学の夜間である第2文学部の美術科の出身です。俗にいう戸山キャンパスと呼ばれる二文は他にも、名コメディアンの森田一義などを輩出している。体系的な音楽教育を受けたのではないにも関わらず、アナログ・シンセサイザーの電子音楽を通じて環境音からバッハのような正調の音楽まで幅広い作品に取り組んできました。特に、環境音についてはそれ以前に作例がなかったため、かの作曲家の功績はきわめて大きなものでもある。

 

 特に、この環境音を制作する際、吉村は実際の環境中に実存する音をテーマにとり、それを自らのイマジネーションを通じ、機械的な、あるいは機能的な音楽に落とし込むことで知られていました。例えば、1991年の東京メトロ(営団地下鉄)の南北線の環境音が制作された時に以下のようなエピソードがあったのです。そしてまた、複数箇所の駅に環境音が取り入れられたことに関しては、日本の駅という気忙しい印象を与えかねない空間に相対する際、利用者の心に癒やしと安らぎ、潤いをもたらす意味合いが込められていたのです。

 

 南北線では、1991年に接近・発車案内にメロディー(サイン音)を採用しました。これまでの営団地下鉄の発車合図は単なるブザーだっただけに当時は画期的な試みとして注目されました。メロディーは東京都の音楽制作会社「サウンドプロセスデザイン」のプロデュースにより、環境音楽家、吉村弘が制作。この際、吉村は王子駅付近を流れる音無川(石神井川)や滝からイメージを膨らませて「水」をテーマに、接近メロディーは「水滴や波紋」、一方の発車メロディーは「水の流動的な流れ」をモチーフにしていました。抽象的な実際の自然音に触発を受け、それらを彼の得意とするシンセサイザーを用い、環境音を制作したのです。


 実際に環境音の使用が開始されると、予想以上に彼の作曲した音の評判は良く、その後、目黒線、都営三田線、2001年に開業した埼玉高速鉄道線でも採用された。さらに鉄道会社の枠組みを越えた直通運転共通のメロディーとして幅広いエリアで使用されるようになった。2015年から、南北線、目黒線と三田線でも、吉村弘の環境音から次の新しいメロディーに移行されたため、現在、彼の環境音はほとんど使用されていないと思われます。しかし、彼の環境音は長いあいだ、鉄道利用者の心を癒やし、そして安らぎを与え続けたのです。

 

 吉村弘の音楽家としての功績は環境音楽の分野だけにとどまりません。年にはNHK邦楽の委託作品「アルマの雲」を作曲したほか、日本の黎明期のエレクトロニカの名盤として知られる『Green』(1986)、と、実質的なデビュー作でありながらアンビエントの作風を完全に確立した『Music For Nine Post Cards』(1982)といった傑作を世に残しています。さらに、吉村弘は、TV・ラジオにも80年代と90年代に出演しており、「環境音楽への旅」(NHK-FM)、「光のコンサート '90」(NHK-BShi)「列島リレードキュメント 都会の”音”」(NHK総合)にも出演しています。 

 

 これらのそれほど数は多くないにせよ、音源という枠組みにはとどまらない空間のための音楽をキャリアの中で数多く生み出し続けた作曲家、吉村弘のインスピレーションは、どこからやってきたのでしょうか?? 生前、多くのメディアの取材に応じたわけではなかった吉村は、自らのインスピレーションや制作における目的を「Music For Nine Post Cards-9枚のハガキのための音楽」のライナーノーツで解き明かしています。

 

そして、どうやら、彼の言葉の中に、環境音楽やサウンド・デザインにおける制作の秘訣が隠されているようです。特定の空間のため、また、その空間を利用する人々のために制作される「環境音」とはどうあるべきなのか。そのことについて吉村弘は、まだ無名の作曲家であった80年代の終わりに以下のように話しています。

 


 

 この音楽は、「気軽に聴けるオブジェや音の風景」とも言えるもので、興奮したり別世界に誘ったりする音楽ではなく、煙のように漂い、聴く人の活動を取り巻く環境の一部となるものである。

 

 エリック・サティ(1866-1925)の「家具の音楽」やロック・ミュージシャンのブライアン・イーノの「アンビエント・シリーズ」など、まだ珍しい音楽ではあるが、俗に言う「オブジェクト・サウンド」は自己表現でも完成された作品でもなく、重なり、ずれることで、空間や物、人の性格や意味を変えてしまう音楽である。


 音楽はただ存在するだけではないので、私がやろうとしていることは、総合的に「サウンドデザイン」と言えると思います。


 「サウンドデザイン」とは、単に音を飾ることではなく、「できれば、デザインとして、音でないもの、つまり静寂を作り出すこと」ができれば素晴らしい。目は自由に閉じることができるが、耳は常に開いている。

 

 目は自由に焦点を合わせて向けることができるが、耳はあらゆる方向の音を音響の地平線まで拾い上げる。音響環境における音源が増えれば増えるほど(そして、それは今日も確実に増えている)、耳はそれらに鈍感になり、本当に重要なものに完全に集中するために、無神経で邪魔な音を止めるよう要求する個人主義的権利を行使できなくなると考えるのは妥当なように思われます。


 現在、環境中の音や音楽のレベルは人間の能力を明らかに超えており、オーディオの生態系は崩壊し始めている。

 

 「雰囲気」を作るはずのBGMがあまりにも過剰で、ある地域や空間では、ビジュアルデザインは十分に考慮されているが、他方、サウンドデザインは完全に無視されている現状がある。いずれにせよ、建築やインテリア、食べ物や空気と同じように、音や音楽も日常的に必要なものとして扱わなければならない。

 

 雲の動き、夏の木陰、雨の音、町の雪、そんな静かな音のイメージに、水墨画のような音色を加えたいと思い作曲しました。


 前作「アルマのための雲-二台の琴のための」(1978)のミニマルな音楽性とは異なり、9枚の葉書に記された音の断片をもとに、雲や波のように少しずつ形を変えながら短いリフレインを何度も演奏する音楽。


 実は、この曲を作っていたある日、北品川にある新しい現代美術館を訪れたんです。雪のように白いアールデコ調の外観のうつくしさもさることながら、美術館の大きな窓から見える中庭の木々に深い感銘を受けて、そこで自分の作ったアルバムを演奏したらどんな音がするのだろう? そして、いざ、ミキシングを終えて、カセットテープに録音した後、再びこの美術館を訪ねたところ、無名作曲家の依頼を快く引き受けてくださり、「よし、美術館でこの音楽をかけてみよう」ということになり、とてもうれしく、励まされました。      

Fela Kuti M.O.Pの時代


 フェラ・クティは俗にアフロビートの祖と称される。そしてナイジェリアのミュージックシーンの開拓者でもある。


このアフロビートというジャンルはガーナの伝統音楽のハイランドにくわえ、ヨルバ族のポリリズムを基調とし、R&B、ロンドンのクラブミュージック、アメリカのジャズ、その時代のトレンドをクロスオーバーした結果、アフリカ独自の音楽が確立された。イギリスからの独立後の自由主義者としてのの道筋は一筋縄ではいかなった。


まさに彼の人生は、闘争と拷問、あるいは、権力における被虐にたいする強烈な反駁や抵抗を意味する。しかし、このような、いかなる激しい弾圧にも屈することのない力強い反抗の源泉はどこにあったのか。そのことは以下のアフロ・ビートの祖、フェラ・クティの生涯に全て記されている。




 フェラ・アニクラポ・クティ(旧ランソメ・クティ)は1938年、ナイジェリア南西部のアベオクタで生まれた。彼の家族はヨルバ族のエグバ族に属していた。また、アベオクタはエルバ族の聖地とも呼ばれる。父は、祖父と同じくプロテスタント教会の牧師を務める傍ら、地元の文法学校の校長でもあった。母親は、教師であったが、後に政治家として大きな影響力を持つようになった。


10代の頃、フェラ・クティはこの地域の伝統的な祝祭に出席するために何マイルも走った。先祖代々の本物のアフリカ文化を守るべきと感じていたのだ。1958年、両親は彼を留学のためにロンドンに送ったが、フェラは2人の兄や姉のように医学の道はなく、トリニティ音楽院に入学することを選び、その後5年間をそこで過ごすことになった。


在学中にレミというナイジェリア人女性と結婚、3人の子どもをもうけた。余暇には、フェラはロンドン在住のナイジェリア人のミュージシャンと”クーラ・ロビトス”というハイライフ・バンドで演奏していた。その中には、西洋音楽が主流だった当時、首都ラゴスのアフリカ音楽界にフェラを紹介し、影響を与えたJ.K.ブレマも含まれていた。


国家として独立から3年後の1963年、フェラ・クティは、ナイジェリアの首都に戻った。まもなく彼は、イギリスから帰国したミュージシャンたちとともにバンドの前座を務め、ハイライフとジャズを演奏するようになった。


その後の数年間、彼らはラゴスで定期的に公演を行い、1969年、ビアフラ戦争(ナイジェリアのイボ人を主体とした東部州がビアフラ共和国として分離・独立を宣言したことにより起こった戦争。ナイジェリア内戦とも。 ビアフラが包囲され食料・物資の供給が遮断されたため、飢餓が国際的な問題となった)のさなか、フェラはクーラ・ロビトスを連れてアメリカに行くことを決意する。


ロサンゼルスでは、グループ名を「フェラ・ランソメ・クティ・アンド・ナイジェリア70」と改名した。

 

Nigeria '70

 

この時代、のちの政治的な活動を行うに至る契機となる運命的な邂逅があった。ちょうど演奏していたLAのクラブで、ブラックパンサー(1960年代後半から1970年代にかけてアメリカで黒人民族主義運動・黒人解放闘争を展開していた急進的な政治組織)と親交のあったアフリカ系アメリカ人の少女、サンドラ・イソドールに出会う。彼女は、マルコムXやエルドリッジ・クリーバーなど、黒人活動家や思想家の思想や著作を紹介し、フェラはその中で世界中の黒人の間に存在する連帯性を意識するようになる。また、ナイジェリアの植民地支配のもとでアフリカ人の権利のために戦い(ソビエトの最高国家賞であるレーニン賞を授賞した)母親の姿、そして、彼女がイギリスと独立交渉をしていたガーナの国家元首クワメ・ンクルマが提唱した、”汎アフリカ主義”を支持していたことも、この洞察を通して、より明確に理解できるようになった。


ロサンゼルスでは彼が求めていた独自の音楽スタイルを作り出すためのインスピレーションを得、それを”Afro-beat(アフロ・ビート)と”名付けた。これは先にも述べたように、ガーナの伝統音楽ハイランドとヨルバ族のポリリズムを融合し、それをR&Bやジャズと融合させたアフリカ独自の音楽である。バンドはアメリカを離れる以前に新曲をいくつかレコーディングした。

 



 帰国後、フェラ・クティは再びグループ名を「フェラ・ランソメ・クティ&アフリカ70」に変更した。

 

ロサンゼルスでのレコーディングは、一連のシングルとしてリリースされた。この新しいアフリカ音楽は当時の首都ラゴスで大成功を収め、フェラは、エンパイア・ホテル内にアフロ・シュラインというクラブをオープンすることになる。当時、彼はまだトランペットを吹いており、サックスとピアノを演奏していなかった。彼は、ナイジェリア全土や近隣諸国で理解されるように、ヨルバ語ではなく現地語と英語が入り混じったピジン・イングリッシュで歌うようになった。彼の歌は、アフリカの人々の多くが共感できるような日常的な社会情勢を描いていた。

 

Fela Kuti & Africa 70


その後、国家としてのアイデンティティの快復の責務をフェラ・クティは民衆の前で司った。黒人主義やアフリカ主義をテーマに、アフリカの伝統的な宗教への回帰を促す彼の歌を聴くために、ナイジェリア中の若者が集まってきた。その後、彼は権力者に対して風刺と皮肉を込め、軍政と民政の両方が犯した不始末、無能、窃盗、汚職、恵まれない人々の疎外を非難するようになる。この時のエピソードがブラック・プレジデントとの異名を与えた。民衆は政治的な建前をいう為政者ではなく、心に訴えかける先導者を必要としていた。その役割を彼が負っていた。


しかし、この行動はボブ・マーリーのラスタファリ運動と同じように、いくらかカルト的な様相を呈して来た。1974年、オルタナティブな社会への夢を追い求め、彼は自宅の周りにフェンスを建て、独立国家であることを宣言。実質的には、ナイジェリア国内の独立レーベルとして設立され、彼の家族やバンドメンバー、レコーディングスタジオとして当初は使用されていた。これが俗に言う「カラクタ共和国」である。このような仰々しい名をつけたのは、フェラ・クティは自由主義の国家を心から望んでいたのかもしれない。しかし、国家的にそのことは不可能であったため、こういった行動に打って出た。この反抗的な行動は、保守派のブルジョア層には不評だったものの、フェラの姿勢に感化された人々が増え、やがて近隣一帯に広まっていった。警察当局は、フェラ・クティの「国家の中の国家」の思想の潜在的な力を恐れ、警戒を強めた。



この後、フェラ・クティは、苦難多き時代を過ごした。痛烈な糾弾の結果、大麻所持や誘拐など言われない理由での不当逮捕、投獄、当局の手による殴打、数え切れないほどの苦渋を味っている。しかし、クティは権力者と激しく対立するたびに、その行動はより率直さを増していき、「ランサム」は奴隷名であるという理由で姓を「アニクラポ」(「死を袋に入れた者」)に変更する。フェラ・クティの評判はさらに広がり、彼のレコードは何百万枚と売れた。特に、まだ10代の若者たちが家族を捨てて移住してきたことに批判が高まり、カラクタ共和国の人口は増加した。




 1977年、ミュージシャンとしての最盛期を迎える。この年、首都のラゴスで開催されたFestival for Black Arts and Culture(FESTAC)で、フェラ・クティは自国の軍隊を痛烈に風刺した「Zombie」を歌い、これがアフリカ全土で大ヒット曲となり、おのずとナイジェリア軍の怒りが彼と彼の支持者に向けられた。フェラが「Unknown Soldier」の歌詞で語っているように、1000人の兵士が「Kalakuta Republic」を襲い、彼の家を焼き払い、その住人を全員を殴打した。この時、彼の母親が1階の窓から投げ落とされ、その傷が原因で死去したことも歌われている。その後、クティは、ホームレスとなり、一行は、クロスロード・ホテルに移り住む。

 

Fela Kuti 「Zombie」の時代


その1年後、フェラ・・クティは、ライブ・ツアーの手配のために、アクラ(ガーナの首都)へ向かった。帰国後、”カラクタ共和国”の破壊から1周年を記念し、クティは、ダンサーやシンガーの27人の女性と集団結婚式を挙げ、全員に”アニクラポ・クティ”という名前をつける。結婚式の後、一行はコンサートが予定されていたアクラへ向かう。予想されていたことだが、満員のアクラのスタジアムで、フェラが「Zombie」を演奏すると、暴動が起きた。グループ全員が逮捕され、2日間拘束された後、ラゴス行きの飛行機に乗せられ、ガーナへの帰国を禁じられた。


ラゴスに戻ったフェラとその一行は、住むあてもなく、レコード会社、DECCAの事務所に不法占拠、そこで2ヶ月近くを過ごした。ほどなく、フェラは70人のメンバーからなるアフリカ70とともにベルリン・フェスティバルに招待された。このとき、フェラは70人のメンバーとともにベルリン・フェスティバルに招かれたが、公演後、ほとんどのミュージシャンが逃げ出す。このように挫折の連続であったが、フェラはラゴスに戻り、ミュージシャンを続けることを決意する。


アフロ・ビートの先駆者と彼の側近たちは、イケジャのJ・K・ブレマの家、新しいカラクタ共和国に住むことになった。そこでフェラは、自らのパート「ムーヴメント・オブ・ザ・ピープル」(M.O.P.)を結成する。1979年の大統領選挙では、民政復帰を目指す大統領候補として名乗りを上げるが、しかし、落選する。4年後の選挙で、フェラは再び大統領選に立候補したが、警察が選挙運動を妨害し、クティとその支持者の多くが投獄され、殴打され、再び自宅を荒らされた。


クーデターによりナイジェリアが再び軍事政権に戻ると、フェラの大統領就任の希望は打ち砕かれた。1984年、ブハリ将軍が政権を握ると、フェラはでっち上げの通貨密輸の罪で5年の刑期のうち20ヶ月を服役することになった。ババンギダ将軍の麾下、判事が「前政権の圧力でこのような厳しい判決を下した」と告白したため釈放された。裁判官は罷免され、晴れて自由の身となる。




 次の10年間で、フェラ・クティは最大80人の側近(現在では、エジプト80と呼ばれている)を連れて、ヨーロッパとアメリカを何度か訪問する。

 

これらのツアーは、世間と批評家から多大な賞賛を受け、アフリカの独特なリズムと生活文化が世界的に受け入れられる下地を形成した。フェラ・アニクラポ=クティは、自身を汎アフリカ主義者として知られるクワメ・ンクルマの霊的息子であると考え、植民地主義や新植民地主義を激しく批判する。その後20年以上にわたって、彼はナイジェリアをはじめアフリカやディアスポラで、独立後の時代に幻滅した大勢の人々の代弁者として著名となった。


1997年8月のフェラ・クティの死は、多くの国民により悲しみを持って悼まれた。また、その日、奇しくも米国のビートニクの作家、『裸のランチ』で有名なウィリアム・バロウズが同日に亡くなっている。この時、ナイジェリア国内のクティの葬儀に参列した100万人以上の人々の中には、彼の政治的意見に賛同しない人々も含まれた。その頃、彼は、政府とも和解しており、同国政府から遺族に送られた無数の弔電については彼が偉大な人物であることを何よりも雄弁に物語っている。クティの死因は、一般的にエイズによる心不全とされているが、当局による数え切れない暴行を受けた結果、免疫が弱って不治のウイルスが入り込んだという説もある。


フェラ・クティの生涯は、苦難多きもので、様々な出来事が縄目のごとく折り重なっていることは以上のエピソードを見ても理解していただけたはずである。そして、クティの生涯については幸不幸といった二元的な見方でその人生を決めつけることは困難である。しかし、そのような二元論のみで語られる人生はフィクションにしか存在しない。現実とは、常に不可解なものであり、容易に解きほぐしがたものなのだ。クティの力強い信念と勇気に裏打ちされた行動については、ヨーロッパの統治からのアフリカ全体の独立、そして、ナイジェリアの自由主義的な国家構造の洗練化と大いに重なる側面がある。そして、彼が今生に残した功績は数しれず、アフロ・ビートというアフリカ固有のジャンルの確立、ヒット曲「Zombie」を生み出し、生涯を通じて彼の人生に触れた何百万人もの人々から無条件の愛と尊敬の眼差しを与えられた。


フェラ・クティのカリスマ性と破天荒なエピソードは、歴代のミュージシャンの中でも群を抜いており、ジャマイカのボブ・マーリーに匹敵するものがある。フェラ・クティは大統領にはなれなかったが、”ブラック・プレジデント”の異名を取るにふさわしい人物だ。マルコムXに影響された人物として、いくらか過激な舌鋒を有することで知られているが、少なくとも汎アフリカ主義を掲げ、植民地からの独立後、ナイジェリアという国家において自由主義獲得の道筋を作った重要人物としてその名は歴史に刻まれるべきで、当然、後世にも、その名は語り継がれるべきだろう。彼の死後も、その影響はとどまることはなく、ナイジェリアのタファ・バレワ広場に置かれた彼の遺影に敬意を表する大勢の人々によって、「アダミ・エダ(祭司長)」という伝説的な地位を与えられた。"彼は、永遠に生きる!"と、の賛辞がクティに捧げられている。

 

Green Day 1991


ご存知のように、カルフォルニアのパンクバンド、グリーン・デイは、1994年に『Dookie』で世界的なブレイクを果たし、大きな成功を手にした。このアルバムは世界で天文学的な売上を記録した。その後のオレンジ・カウンティを中心とするメロディック・パンクのムーブメントは2000年以降まで続き、彼らのフォロワーが数多く出現する。New Found Glory、Blink-182、Bowling For Soup、Sugarcult等は、その2ndジェネレーションの代表格と言える。

 

グリーン・デイの最初の成功作としては『Dookie』が有名だが、それ以前に彼らは素晴らしいパンク・アルバムをリリースしていることはマニアなら知っているはず。そして2ndでグリーン・デイはヨーロッパツアーを敢行している。既に『Dookie』以前にブレイクの予兆はあった。

 

1991年12月17日、グリーン・デイはセカンド・アルバム『Kerplunk』のレコード盤を手にした。


この寒い冬の夜、グリーン・デイは、イギリス/サウサンプトンの”Joiners Arms”というライブハウスに出演していた。このイベントはすぐに即席のアルバム・リリース・パーティーとなり、三人のミュージシャンたちは、最初のヨーロッパツアーで溜め込んだ服とウィッグをすべて着用し、ビリー・ジョー・アームストロングがステージから落下し、興奮は最高潮に達するという事態になった。


この1991年の時代、グリーン・デイは、ヨーロッパに2ヶ月近く滞在し、とんでもない目にあったという。一説では、バンドは、4人が入場料を払って雪に覆われたライブに向かう途中、火がついたバンで移動したといい、ある晩、彼らは物置でホルムアルデヒドの瓶に入った人間の頭と一緒に寝た。また、コペンハーゲンの会場では、カップルがステージ上で騒がしくセックスしていたという。他にも、ドイツでは、剣呑にも、銃を突きつけられもした。イギリスのウィガンでは、イースター・バニーとサンタクロースを登場させ、トレ・クールが赤ん坊のイエスを演じたキリスト降誕劇を上演した。数日後、3人のメンバーは、クリスマスの日をバースのスクワットでマジック・マッシュルームを摂取し、熱したナイフに乗せたマリファナの煙を吸って過ごした。これらのエピソードはどこまでが本当かわからない話ではあるものの、このバンドの破天荒なエピソードの数々は、ロックスターとしてブレイクする予兆だったと言える。


ヨーロッパ・ツアーが終わる頃には、ビリー・ジョー・アームストロングはドイツに長く滞在していたため、話すスピードが遅くなり、カリフォルニア訛りもほとんどなくなっていた。あまりにツアー自体が劣悪な環境だったため、フロントマンのビリーは全身シラミに感染し、体毛をすべて剃ることを要求されたという話もある。


Green Dayとファン 崩壊後のベルリンの壁を背に

「ヨーロッパに着いたとき、俺たちは何も知らなかったんだ」と、フロントマンのビリー・ジョーは後に語っている。「でも、いざ行ってみると、急に不安になったんだ。いくつかのショウは滅茶苦茶怖かった。ツアー中のバンドが正気を失い、再び人生を意味あるものにするために互いを見つけなければならないような状況だった。だから、みんな辞めちゃうんだよ、おかしくなっちゃうから。狭い車内でピエロの集団になったような気分だったよ。ある意味では最高だったよ」

 

グリーン・デイがサウサンプトンで手にした新作レコードは、ラリー・リバモアが持ってきてくれたものだ。ヒースロー空港で、Look Out! Recordの主宰者は、税関の係官に、「イギリスに持ち込むアルバムはプレゼント用だ」と説得するため、話を聞く人が生きる気力を失うまで話す、というテクニックを駆使したという。もちろん、空港を出るとき、グリーン・デイは自分たちが運んでいる音楽が、そのレーベルで録音する最後の作品になるとは思ってもいなかったという。

 

その2年後、彼らはパンクロックの金字塔『Dookie』をRepriseからリリース、ポップパンク旋風を巻き起こした。今なお輝かしい「Basket Case」を始めとするパンク・アンセムは、彼ら三人を押しも押されぬ世界的なスーパースターへ引き上げることになった。2ndアルバム「Kerplunk」は、以後のブレイク作品に比べると、荒削りなアルバムだが、『Dookie』に見られる淡い青春の雰囲気に満ちたパンク・アンセムの原型は、ほぼ完成に近づいていることがわかる。

 

 


 

・日本のインディペンデント・レーベルの草分け  "Snuffy Smile"は、どんなレーベルなのか??

 

Snuffy Smileは、1990年代から2000年代にかけて、栄森陽一氏が主宰していた日本の伝説的なパンクロックの専門レーベルです。

 

このレーベルは、ドクロをレコード会社のトレードマークとしていて、そのマークの下には、「非転向地下活動」というコアな漢字のキャッチフレーズが書かれてます。このインディーレーベルの根本的な思想には、草の根のレコード会社としての運営方針と虚無思想「ニヒリズム」が掲げられている。 実は、スナッフィー・スマイルのレーベルの経営スタイルは、横山健氏の主催するパンク専門レーベル「Pizza Of Death」に影響を与えたものと思われます。


おそらく、日本で一番最初に「7インチ・ビニール」の形式を発売した伝説のパンクロックレーベルです。レーベルオーナーの栄森陽一氏は、現在、このインディーレーベルの新たなリリースは行っていない。2005年、スナッフィー・スマイルは、レーベル拠点を、東京の世田谷から京都に移し、「スナッフィー・スマイルズ」に改名をしたあたりが経営の最後かと思われます。

 

これまでスナッフィー・スマイルから発表された作品についても、ハイ・スタンダードは別として、その多くのカタログが廃盤、入手困難となっている。このレーベルを知る有志がアップロードしたyoutube動画、また、中古レコード店、ディスクユニオン、高円寺の中古レコード店を探るくらいしか方法がなく、入手困難な作品ばかり・・・。しかも、このレーベルの作品は他のメジャーレーベルの雰囲気とは異なり、アメリカやイギリスのアンダーグラウンドな正真正銘のインディー・レーベルの雰囲気が醸し出されまくりで、デモに近いラフな作品も積極的にリリースしています。

 

さて、この「Snuffy Smile」というレーベルの最初のリリースを行った中に、東京のRegistratorsというバンドがいて、このロックバンドは、当時、国内で人気があったWater Closet、Bloodthirsty Butchersと同じくらいカルト的な人気を誇るインディー・ロックバンドに挙げられます。

 

スナッフィー・スマイルは、日本のメジャーレーベルの傘下にあるわけではなく、本当の意味で独立した数少ないインディペンデント・レーベルの先駆的な存在。特筆すべきは、J Church、Mega City Four、Broccoliと、日本のバンドのスピリット盤を、2000年代を中心にリリースしています。

 

かつて、渋谷の「Gig-Antic」(現在は閉店・・・)、下北沢の「Shelter」、 高円寺の「20000V」、新宿の「Antiknock」といったライブハウスを中心に、パンクブームが2000年代前後に到来し、シガレットマン、ネーブル、スプレイ・ペイントを中心とし、レーベルを運営する栄森さんは、全国から魅力的なパンクロックバンドを掻き集めて、東京でイベント企画を行っていました。

 

Snuffy Smileは、商業面、興行面を度外視した自主レーベルらしいスタイルを取り、一貫して、硬派なレーベルカラーを掲げてました。唯一の例外と呼べるのが、栄森氏も最初のイベント設立に少なからず関わっている「Set You Free」という日本の比較的大規模な音楽イベントの先駆けの開催にあったわけですが、レーベルのコンセプト「非転向地下活動」にもある通り、このスナッフィー・スマイルというレーベルは、基本的に、日本のアンダーグラウンドミュージックシーンを、1990年代から2000年代にかけて支えてきた重要な存在だったわけです。

 

この時代の前に、東京ロッカーズ、関西ノーウェイブ、それに加えて、イースタン・ユース、カウパーズを輩出する伝説的な札幌のパンク・シーン、また、山塚アイを擁するハナタラシに続く、Boredoms、さらには、あぶらだこ・・・、といったきわめて異質な異分子的な存在、それから、怒髪天という、その後、オーバーグラウンドのシーンの一角をなす日本語ロックバンド。そのあたりの一連の流れの中で登場した現在も続いている「消毒ギグ」で有名な、Gauzeといった新宿のアングラなジャパニーズ・ハードコアバンド、近年も世界的に活躍するENVYといったバンドが、日本のメジャーシーンとは異なる地下のコアなミュージックシーンを長い期間を経て形成してきたのです。


それらの昭和と令和の合間にある1990-2000年近辺の平成世代、現代のポストロック勢が盛り上がりを見せる日本のインディーロックシーンの合間に登場し、君臨したのが「スナッフィー・スマイル」です。スナッフィー・スマイルは、経営的には成功しなかったものの、Hi-Standardの後に続くメロディック・パンク勢のフォロワーを台頭させ、Envy、Enzweckといったアジア圏や世界で活躍するニュースクール・ハードコア勢を生み出す素地を形作り、重要な役割を果たしている。

 

この90年代から00年代にかけて、東京の最初のインディペンデントレーベル、Snuffy Smileは、その後のポスト・ロックバンド、Toe、LITEのようなインディーロックバンドが登場するまでの流れを、アメリカやイギリスのパンク・レーベルやアーティストと連携を図り、独立レーベルというスタイルを維持しつつ、なんとか新しい風を日本国内に呼びこもうとしていたのです。  

 


・スナッフィー・スマイル関連の名盤 

 

以下で紹介していくのは、東京→京都のインディレーベル、Snuffy Smile(スナッフィー・スマイル)の活動を支えたバンドの名盤。つまり、一度はこのレーベルからリリースしたことがあるバンドのリリースです。

 

隠れた良質な日本のパンクロックバンドを探す手立て、及び、メロディック・パンクのファンの備忘録となれば幸いです。下記に掲載するMVは、あくまで、アーティストの音楽の印象を掴んでもらうためのものに過ぎません。必ずしも、付記する推薦盤の収録曲ではありませんので、ご注意下さい。



・Registrators  

 

1990年代初頭に東京で結成されたパワー・ポップ、ニューウェイブ・パンクバンド、レジストレーターズ。

The Registrators

 

スナッフィー・スマイルのレーベルの1990年代のカタログの最初期、およそ、このロックバンドなしには成立しえなかったレーベル運営。むしろこのロックバンドを送り出すために、最初のリリースが行われたといっても過言でないかもしれない。伝説的なスリーピースのロックバンド、東京発のザ・レジストレーターズを差し置いてスナッフースマイルを語ることは許されません。

 

Registratorsは、名パワーポップバンドとしても聴けなくもない、痛快な音楽性を擁する。かつて、タワーレコードの日本の名ロックバンドの名盤を紹介したフリーペーパーにも以下のWater Closetと共に掲載されていた。日本のインディーシーンでは、Guitar Wolfと共に、絶大な人気を誇った。

 

私自身は、これらのバンドの後追いの世代ですので、リアルタイムでこの1990年代のシーンに通じている方ほど明確なことはいえませんが、特に、1990年代の東京のインディーズシーンの立役者に挙げられる。

 

Hi-Standardの横山健の主宰する「Pizza Of Death」とも関わりの深いバンド。まず間違いなく、The Registratorsは、Husking Bee、Water Closetと共に、1990年代の東京を中心とする日本のインディー・ロックシーンの源流を形作った貴重な存在です。既存のリリース作品は非常に入手が困難となっている。

 

下記の作品は、日本のインディペンデント・レーベル"Lastrum Music Entertainmentからのリリース。

 


 

 

 

・ Radistrators 『Verocity』 2000


 

 

・Cigaretteman


おそらく、日本で初めてメロディック・パンクを海外から持ち込んだ4ピースの名古屋出身の伝説的なロックバンド、シガレットマン。日本の歴代のインディーシーンにおいて最重要のパンクロックバンド。Husking Beeとのスピリットをリリースしていることでも知られている伝説的なグループです。

 

Cigaretteman

 

シガレットマンは、1993年に愛知県で魚住夫妻を中心に結成され、その後、栃木に活動拠点を移した。2000年に解散。

 

英サンダーランドのLeatherface、米カルフォルニアのJawbreaker、ミネアポリスのHusker Duの直系にあるパンクサウンドです。Green Dayが台頭するメロディック・パンク誕生前夜、哀愁の漂うメロディック・パンクを日本で最初に演奏した伝説的パンク・ロックバンド。上掲の写真については、おそらく、Husker Duの最初期のデモ曲等を収録した「Savage Young Du」のアートワーク写真のオマージュとなっています。

 

 Husker Du、Jawbreakerの音楽性に加えて、紅一点の女性ボーカルの親しみやすいキャラクターがキュートなイメージを添え、キャッチーで切ないパンクロック性がシガレットマンの魅力です。シンディー・ローパーの名曲「Time After Time」のカバーもYoutubeで密かな人気を呼んでいるようです。

 

現在、アメリカのインディーレーベル”Suburban Home Records”から何故かシガレットマンのベスト盤がリリースされてます。シガレットマンとしての活動六年間にリリースされたオリジナル作品はすべて現在廃盤となっていて、現在、CD,Vinyl盤については非常に入手困難です。Youtubeでバンドのフルディスコグラフィーが公開されているので、ぜひ聴いてみて下さい。

 

女性がフロントマンをつとめる日本の最初のパンク・ロックバンドとしての挑戦は素晴らしく、この点の功績についても、後の世代にも語り継がれていって欲しいですね。

                               

 


 

 

 

 Cigaretteman/Jon Couger 『Concentration Camp 7Inch』 2010



 

 

・I Excuse

 

1990年代から2000年代にかけて、メロディック・パンクとハードコアを融合した独特な日本のバンドが台頭。その筆頭格が、この伝説的なエモーショナル・ハードコアバンド、アイ・エイクスキューズです。

 

I EXCUSE

イギリスのインディーパンクシーンと関わりの深いロックバンドで、海外のバンドとのコラボ、タイアップの流れを最初に形成したバンドでもあります。それくらい海外でも通用するものを持ってました。

 

I Excuseは、京都で2000年に結成された伝説的なメロディック・ハードコアバンド、スナッフィー・スマイルの代名詞的な音楽性で、このレーベルの看板アーティストといえるでしょう。

 

「As Someones' Like」という楽曲が、後にUKのパンク・ロックバンド、Chestnut Roadによってカバーされています。

 

最近のポストハードコアバンドに引けを取らないくらいかっこいいです。Leatherfaceや最初期のSnuffに影響を受けつつ、そこのハードコアの攻撃性を加味している。苛烈でダーティーでがなり立てるようなボーカル、そして、バンドサウンドとしての凄まじい疾走感、そして狂気的なほどのパンクに対する熱気とエナジーの一体感というのは鬼気迫るものがある。加えて、メタル寄りの速弾きのギターフレーズは、The Mad Cupsule Market、Cocobatといったヘヴィ・ロック勢と共に、2000年代前後のニューメタルの誕生を日本のシーンにおいて予見していた。

 

この後、2010年代近辺には日本のニュースクールハードコア勢が台頭するようになりますが、下記の1000 Travels Of Jawaharlalと共に、その素地を形成した最重要のグループです。  

 



 

『Burn The Enpty To The Ash』  2002



 

 

 

・1000 Travels Of Jawaharlal

 

北九州出身小倉出身のスリーピース・ハードコアバンド、1000 Travels Of Jawaharlalについては説明不要。このバンドなしには日本の2000年代のハードコアシーンを語ることが出来ない。

 

1000 Travels Of Jawaharlal

 北九州の小倉出身のハードコアバンド、1000 Travels Of Jawaharlal(ワンサウザント・トラベルズ・オヴ・ジャワハルラール)は、ワシントンDCのハードコアシーンのDiscordレーベルやボストンのハードコア直系の激烈なパンク・サウンドを逸早く日本にもたらしたシーンの最重要バンドです。

 

日本のニュースクール・ハードコア/ポスト・ハードコアの先駆的な存在ともいえるトリオですが、イギリスのフランキー・スタブス率いるパンクバンド、Leatherfaceのコンピレーション「VA/The Bastards Can't Dance  A Tribute To Leatherface」に、盟友、Navel,The Urchin,Spraypaintと参加しており、Snuffy Smile(s)と少なからず関わりを持ってきた。

 

このハードコアバンドは、米国のハードコアシーンに強い触発を受けつつも、それ以前のジャパニーズ・ハードコアの系譜も受け継いでいます。日本語で歌うパンク・パンドでありながら、アメリカやイギリスのハードコアバンドに引けを取らない世界水準の実力を持つ。日本国内でも、多数の野外イベントに出演し、他にも、一度、ヨーロッパの単独ツアーを決行し、多分、日本のパンク・バンドとして初めて、イタリアの地を踏んだバンドではないでしょうか。

 

1000 Travels Of Jawaharlalの魅力を端的に挙げると、何か、ふと考えさせられる思索的、思弁的な歌詞が激烈に紡ぎ出されるスタイルにある。Minor ThreatやNegative Approachのように、核心のみを叩きつけていくリリックは、ギャングスタ・ラップにも比するクールさが込められている。このバンドが唯一のフルアルバムとしてリリースした『Owari Wa Konai』は、凄まじいアジテーションに満ち、重戦車のような破壊力/マシンビートのような手数の多さをもち、バンドサウンドを牽引していく敏腕ドラムの迫力を体感することが出来る。伝説的なジャパニーズ・ハードコアバンドです。

  

 

 

『Owari Wa Konai』 2003 

 





・Off With Their Heads

 

Snuffy Smile(s)のカタログには、日本のバンドの他にも、J Chruch 、Bloccoという海外のメロディックパンクバンドを含んでおり、このレーベルからデビューした後にパンクシーンで有名になったのが、米国、ミネアポリスのメロディックパンクバンド、Off With Their Heads(オフ・ウィズ・ゼア・ヘッズ)です。
 
 

Off With Their Heads

 

後に、バッド・レリジョンの主宰する「エピタフ・レコード」から作品のリリースを行うようになり、アメリカでも著名なメロディック・パンクバンドになりました。

 

実は、このバンドが売れる以前から逸早く目をつけていたのが、日本のスナッフィー・スマイルでした。7インチのシングル「Off With Their Heads Split7”」で逸早くこのメロディクパンクバンドを世に送り出し、2007年、スナッフィースマイルズ主催の単独日本ツアーを敢行しています。

 

Leatherface、Hot Water Musicにも比する、激渋のパンクロックバンドという触れ込みで、当時、ディスクユニオンでは宣伝されていたような記憶がある。そのキャッチフレーズに違わず、実に、男らしい激渋のメロディック・パンクというのは、レザー・フェイス好きにはたまらないものがあるはず。もちろん、入手しやすい作品をまず聴きつつ、レア盤をあさってみるのがお勧めですよ。

 

特に、最初期の名盤「All Thing Moves Towards Their End」2007は、ハイ・スタンダードをはじめとするメロディックパンク好きは必聴の一枚。サッドパンクと称される哀愁漂う痛快なパンクロックサウンド、誇張抜きにカッコいい作品。 後のこのアルバムに収録されている「Big Mouth」は、LAのティーンネイジャーパンクバンド、The Linda Lindasがカバーしてますね。




 

『All Is Not Well』 2007

 

 

 

 

・Hi-Standard


ご存知、「Pizza of Death」を主宰する横山健のメロディック・パンクパンド、ハイ・スタンダードです。日本の歌謡的な雰囲気と英語の歌詞を擁するメロディック・パンクで一世を風靡しました。

 

Hi-Standard

 

Pizza of Deathからリリースされたスタジオ・アルバム『Growing Up』、続く『Making The Road』(Fat Wreck Chords Editonも後に発売されている)については、既にファンの間で知らない人はいない名盤扱いになると思いますが、それ以前のスナッフィー・スマイルから1994年リリースされたHi-Standardの幻の「In the Bright Moonlight」こそ、実質的なデビュー作となる。実際、その存在こそ、マニアの間で知られていながら、正直、これまで一回も聴いたことないです。どれくらいプレスされたのかもわからず、サブスクリプションでも公開されていない。

 

そもそも、スナッフィー・スマイルは、顧客から注文が来てからCDなりレコードなりを生産するレーベルスタイルをとり、余剰在庫をレーベル内に一切置かなかったため、現在、バックカタログの全作品が廃盤となってます。特に、この作品についても同じように、非常に入手な困難なレア作品となっていますので、お探しの方は、辛抱強くネットショップ関連を探すか、もしくは高円寺のレコード店やディスク・ユニオンのパンク館等で廃盤の中古を探してみて下さい。

 

 

 

Hi-Standard 『In The Bright Moonlight』 1994

 



 


・Snuffy Smile(s) コンピレーション作品についての補足

 
 
この他にも様々な隠れたメロディックパンクバンドがこのレーベルを通じて活躍した。徳島のMinority Blues Band、中京のNavel、東北のSpraypaint、福岡のPear Of The West、東京のThree Minute Movie、というように、素晴らしいバンドがこのレーベルから魅力的な作品をリリースしています。
 
 
これらのレーベルを象徴するバンドの有名曲を網羅したコンピレーションも発売されています。
 
 
下掲のコンピレーションは、レーベルの過渡期にリリースされたもので、京都に本拠を移した後にリリースされています。ライナーノーツには、歌詞、及び栄森氏のレーベル運営に関してのメッセージが記されてます。
 
 
 
『I Hope The End Is Always The Beginning V.A.』 2002


 

Woody Gathrie 「The Machine Kills Fasicts」はガスリーの人生観を表す


 

 ウディ・ガスリーは、1940年に発表した「This Land is Your Land」という歌で知られるアメリカのシンガーである。

 

オクラホマ生まれのガスリーは、1930年代から放浪生活を送るようになり、アーティストとしての活動を始める。労働階級への讃歌、プロテスト・ソングーーいわゆる反戦歌の始祖ーーであり、ボブ・ディランの考えや音楽的な価値観にも強い影響を与えた。フォークミュージックの父とも称されることがあることからも分かる通り、米国のポピュラー・ミュージック史においては、ジョニー・キャッシュ、ボブ・ディランと並んで最重要人物に挙げられる。その忌憚ない政治的な発言とともに、ウディー・ガスリーの音楽性はその後のコンテンポラリーフォークの素地を形成した。

  

 

RCAと契約を交わしたのち、1940年に発表された「「This Land is Your Land(この国は君のものだ)」という歌は、無数の政治集会、デモ、さらには近年、オバマ大統領就任式でも歌われた。アーヴィング・バーリンの「ゴッド・ブレス・アメリカ」に対抗して書かれたこの曲は、土地や財産の私有ではなく公有に敬意を表し、社会の平等を求める破壊的なメッセージを持っていることが、時に忘れ去られることがある。

 

ウディ・ガスリーは、1910年代にオクラホマの田舎で育った貧困と、ニューヨークを除く全米で2番目に大きなソーナー社会党によって、その世界観をより強固にした急進派であった。彼の音楽は、労働者階級の闘争を称え、抑圧的な制度や権威を非難するものであった。彼は、世界産業労働者会議(IWW)に影響を与えたジョー・ヒルの遺志を継ぎ、共産党が推進し、反ファシズム、反リンチ、産業別組合会議(CIO)を中心に形成された1930年代の大衆戦線で活動した。




1.第二次世界大戦と広島への原爆投下


1930年代を通して、ウディはアメリカの第二次世界大戦への参加に反対し、フランクリン・ルーズベルトを二枚舌の戦争屋として非難する反戦歌を数多く書き、演奏した。ヒトラーが1939年のモロトフ・リッベントロップ不可侵条約を破り、ナポレオンの愚行を再現するかのようにロシアを攻撃し、ロシアが西側連合国と協力してファシズムと戦うと、彼の見解は1941年以降に変わった。


真珠湾攻撃後、アメリカが参戦すると、ウディは孤立主義者とアメリカ・ファーストを非難する「リンドバーグ」のような曲を書き始めたが、別の曲では、「あらゆる側の」すべての兵士に「ヘルメットを脱ぎ、銃のベルトを外して、ライフルを置いて、いや、誰も殺すつもりはない、と言ってほしい」というひそかな願いを表現している。


1945年9月7日、ガスリー上等兵は、陸軍週刊誌『ヤンク』から得た情報をもとに、「どんな爆弾だ」と題する歌を書いた。そこにはこう書かれていた。


「ティベッツ、キャロンネルソン、フェレビーの3人が、エノラ・ゲイと呼ばれるB-29を飛ばした。



B-29は晴れた夏の日にグアムを離陸し、広島湾に爆弾を投下した。


ボブ・シュマード、メガネをかけろ!あれを見よ!下界では火山が噴火しているようだ。


私たちは窓から顔を出して、この大芝居を見ましたよ。広島はいい町だ。いい町だ! なくなってしまうのは残念だ」


ガスリーはこう続けた。


「空全体が揺さぶられ、4万フィートの高さにまで雲が発生した。


熱線は太陽をしのぐほど明るく、私たちは互いに "ああ、どんな爆弾なんだ "と尋ね合った」


続いて歌われた「Talkin' Atom Bomb」という曲は、こう警告している。


「閃光と大火災がやってくるとき、もしあなたの電話が使えず、あなたの列車の線路が壊れているならば。


高速道路がなくなり、トンネルがすべて塞がり、あなたと家族全員が9マイル先でノックアウトされたら、病院を見つけるのは少し難しい...。


この大きな爆弾の爆発から身を守る唯一の方法は、大きな爆弾を非合法化することだ、それも迅速に。


配達人が私企業や公有地について話そうが何しようが関係ない。


この新しい爆弾の炎をかわせると思っているなんて、頭がおかしくなったのかと思うくらいだ」



この言葉は、核軍拡競争を口語で力強く批判している。ウディの歌は、広島への原爆投下に抗議する最初の歌の一つであり、原爆科学者や平和主義批判者による原爆反対の運動を先取りしていた。「炎が忍び寄るとき、煙が立ち昇るとき、私たちは眠っているように遊ぼう、世界が燃えている間は」と唄っている。


1946年7月、ウディは、中国の内戦で蒋介石を支持するアメリカに抗議する歌を書いた。ウディは蒋氏に「あなたが殺害した一般労働者の正確な数を覚えていますか、記録はありますか、紙はありますか、死者や負傷者の数は......」と問いかけている。


血の一滴一滴が私の記憶の中で輝いている、借りた銃で、借りた金で(アメリカの援助について)・・・すべての農民を数え、すべての組合員を数え、すべての学生を数え、すべての急進派を数え・・・・・・。


 


2.朝鮮戦争を語るウディ


 ウディの社会正義の活動の中で、これまで歴史家に無視されてきたことの一つに、アメリカの朝鮮戦争に対する彼の熱烈な反対がある。


オクラホマ州タルサのウディ・ガスリー・アーカイヴで発見された10曲以上の歌は、ウディがベトナム戦争に対する新左翼の批判を先取りするような言葉で朝鮮戦争を批判していることを示している。ウディは、アメリカ政府の同盟者の腐敗、軍部とペンタゴンの上層部の欺瞞、そしてアメリカの兵器が韓国人に与えた犠牲を非難している。


「バイバイ、ビッグ・ブラス」(1952年)では、自分が朝鮮半島に送られ、出会った中国兵を殺すのではなく、キャンプファイヤーのそばに座って話をするというシナリオを夢想していた。この曲や他の多くの曲で、彼はベトナム戦争中のフィル・オックスやピート・シーガーの役割を先取りしている。


ウディは、ポール・ロベソンのような共産党系の少数のアーティストとともに、同時代の多くのアーティストが沈黙を守っていた時代に、戦争反対を訴えたのである。例えば、ウィーバーズは、朝鮮戦争勃発時に「おやすみアイリーン」や「ツェナ、ツェナ」がビルボードチャートの上位を占めたが、戦争については沈黙を守っていた。それでも、『反撃』と『レッドチャンネル』に共産主義者として掲載され、ブッキングを失いテレビ番組がなくなりレコード契約も解除された。


ビルボードチャートで9位まで上昇したジミー・オズボーンの「神よアメリカをお守りください」やジーン・オートリーのダグラス・マッカーサーへの賛辞「Old Soldiers Never Die」など、この時代のヒット曲は、戦争支持と愛国心をテーマに、宗教的情念を織り交ぜて宣伝した。ウィルフ・カーターのヒット曲「Goodbye Maria, I'm Off to Korea」は、"自由のための新たな戦いに勝利するのはオールド・グローリー次第で、昔と同じ物語 "だと指摘した。アール・ナンのマッカーサーへの賛辞は、次のような台詞で終わっていた。これは、反抗的な態度を理由にマッカーサーを解雇したハリー・トルーマン大統領に向けられた辛辣な言葉であった。


ウディは、冷戦の保守的な文化の中で異彩を放っていた。作曲家のエリー・ジークマイスターが呼んだ「錆びた声のホーマー」は、1930年代の過激主義を燃え立たせていた反対派の底流の一部だった 。


ガスリーの朝鮮戦争への批判は、ウォブリー(IWW)やスメドリー・バトラー(後に反戦パンフレット『戦争とはラケット』16を制作した四大将軍)といった不況時代の過激派の言葉で組み立てられたものであった。朝鮮戦争に対する彼の見解は、彼のアイドルであったジョー・ヒル(IWWのソングライター)の見解とも一致する。


彼は、戦争を資本主義システムの破壊的な現れと考えていたが、資本主義のボスに対して赤い旗の下で行われた戦争は容認していた(ヒルの歌「私は今まで兵士になるべき」にあるように)。


1952 年 11 月の「韓国バイバイ」では、「(米国が)爆撃するのは嫌だ、火薬は関係ない、 平和が私の叫びだ」として、申し訳ないことをしたと書いている。同様に「I Don't Want Korea」では、韓国はいらないし、「空からのプレゼントとして、韓国を私の奴隷にすることもない」と宣言している。


ウディの伝記作家エド・クレイは、この時期の彼の著作は極論であり、以前の質には及ばないと考えている。しかし、ウディは当時、朝鮮の人々の人間性を認め、尊重する数少ない人物であり、北朝鮮の人口の10分の1が死亡し、国連の復興機関によれば、朝鮮を歴史上最も荒廃した土地にした戦争に反対を表明する数少ない人物でもあった。


ウディは「韓国流砂」(1951年4月)の中で、「死んだ数百万人の血の洪水!韓国流砂!」と嘆いている。朝鮮の流砂。

 

いくつかの歌は、韓国軍と米軍・国連軍による漢江橋の破壊と、それに伴う難民の溺死について言及し、「漢江は長すぎる、漢江は長すぎる、バーンの下に沿って下に、バーンの下に沿って下に、漢江は長すぎる」とウディは書いている。続いて「Han River Mud」では、ウディは "It's a bloody, bloody flood, of Sweet Han River mud. "と書いている。「私には泥が血まみれに見える」


「三十八度線」では、ウディは「三十八度線を越えて行進することはない、敵と握手するため以外には」と宣言している。「あらかじめ銃を捨てておく」と。


1952年12月の「Korea Ain't My Home」では、ウディは「Korea ain't my home, since we've got germ warfare, this whole world's not my home, Nobody is living here」と書いている。韓国は私を家に送ってくれ、家に送ってくれ、そもそも私は韓国の人間ではないのだ」


「Stagger Lee」では、ウディは韓国の指導者を蒋介石と同様の言葉で批判し、「ミスター・リー、ディジー・オールド・シグマン・リー、お前は俺をバカにできない!」と書いている。その他にも、ウディは「ウォール街のGIジョー」が「ウォール街のジープと一緒に泥沼にはまり込んでしまった」とも歌っている。


国防長官ロバート・ロベット(戦争の重要な立役者)は、国防企業を顧客とするウォール街の投資会社に勤務し、トルーマン内閣の他の閣僚は、その会社の役員を務めていた。朝鮮戦争によって、国防予算は 1949 年の 130 億ドルから 1953 年には 540 億ドル(2016 年のドル換算で 5000 億ドル以上)と 4 倍に膨れ上がった。

 

一方、マクドネル、ダグラス、ゼネラルエレクトリック、ボーイング、 クライスラー、ユナイテッド・エアクラフトは戦争の結果、記録的利益を上げ、ロッキードジョージアは米国南東部で最大の従業員となった。


1952 年 11 月に書かれたウディの歌「Korean War Tank」は、暴力に訴える原始的な行為を揶揄している。さらに、ウディは「漢江の女」(1952 年 11 月)では、次のように歌っている。


「狙ったわけじゃない、意図したわけでもない、あのいまいましいゼリー爆弾を落としに来たんじゃないんだ!」。

 

「漢江の女よ、言っておくが、俺が落としたんじゃない、俺がやったんじゃない、俺のような人間が落としたんじゃない、ほんの一握りのクソ野郎、血まみれのハイエナどもだ。向こうでやれ」


ウディの憤りは、ナパームが進路上のあらゆるものを焼却し、ある海兵隊員が表現したように「揚げたポテトチップス」のように人々の皮膚を焼くことができるという事実から生まれた。リチャード・ピート伍長は、自分の部隊のメンバーが味方の攻撃でやられた日のことを決して忘れていないと語った。


「アーガイル(イギリス兵)が石油ゼリーまみれで火の中を走り回っているのを見たとき、ひどかった。ある将校は生きたまま皮を剥がされ、死ぬまでに20分かかった」。ナパームが体に付着し、焼き付いた兵士たちは、ひどい悲鳴をあげていた」


「ハン・リバー・ウーマン」は、1965 年にマルビナ・レイノルズが歌った「ナパーム」に力強く表現された、ベトナム戦争中のナパームに対する大衆の大きな反発の予兆であった。この歌は、「ルーシー・ベインズ(ジョンソン - LBJ の娘)、あのナパーム弾を見たことある?ナパームで撃たれた赤ん坊を見たことがあるか?引き剥がそうとすると、なぜか肉も一緒に出てくる......ナパームにはいろんな名前がついているんだ......。そして、彼らは空からそれを投下し、人々は燃えて死ぬのだ」


おそらく最も雄弁な反戦バラード「トーキング・コリアンブルース」で、ウディは「戦争全体がゲームのように見える、まるで子供たちがやっているおかしな小さなゲームのように。もし我々が兵士や船や飛行機を送らなければ、赤軍が商品と国民を獲得するのは同じだ」と唄っている。


ガスリーはこのように問いかける。


「なぜマックは数千人が刈り取られるのを見たいんだ?


赤軍が次のラウンドで勝ち残ることを知らないのか。我々は南部に物資を送り、彼らは北部の人たちにそれを配る。


この前の中国人の配達の時、彼の頭はどこにあった?数千の兵隊と飛行機は南が北に渡さないようにするために使う価値はない


蜂が自分の花や巣に近づかないようにするために、一人の人間の命を使う価値はない。


韓国の赤軍はどちらにしてもクリスマスパッケージを手に入れる。


赤軍に入るか、赤軍のメッセンジャー・ボーイになるかだ」


ガスリーは、この戦争を、アメリカの努力もむなしく、社会の総動員を伴う国家解放の闘いだと理解していた。ガスリーはこの歌の中でこう続ける。


「マッカーサー元帥が故郷から遠く離れたところで何をしているのか、私は時々不思議に思う。


彼はあそこが好きではないのだろう、なぜ子犬のテントを畳んで家に戻ってこないのだろう、そして彼の精神神経症のGIたちを連れて帰ってくるのだろう。


GIボーイズがあそこを嫌がるのはよく分かっているんだ」


その時代からFBIは彼を監視していたというが、ピート・シーガーのように、下院非米活動委員会(HUAC)に連行されることもなく、ポール・ロベソンのように、パスポートを剥奪されることもなく、ウディ・ガスリーは非人間的な活動を続けた。彼は、大きな決断を下す男たちの非人間性を嘲笑し続けた。「Hey General Mackymacker」(1952年)の中でウディはこう書いている。


「ホッ、ホッ、ミスター・ラヴビット(国防長官ロバート・ロベットのこと)、あの吹雪は確かに苛烈だった(寒い冬のことだ)。


荷造りをしている姿は見えないが、俺たちを死ぬために行進させたのか? 歩いているのか、それとも走っているのか?


おい、シンマン・リー君、何が悪かったんだ? プジョンから追い出された時、南ピョンヤンに戻った時、まだ散歩していたのか? それとも走っていたのか?


おい、ディグジー・マッキマッカー、クリスマスは歩いて帰ると言ったが、どのクリスマスとは言っていないぞ。歩いて帰るのか、それとも走って帰るのか、知りたいんだ。


マッカーサーが提唱したように)共産主義者を原子爆弾で攻撃し、彼らが我々を原子爆弾で 攻撃すれば、誰も走らないだろう」



3.ベトナム戦争でウディが残したもの


 核兵器による不安と、自ら危険を顧みず勝利を宣言して国民を欺いた指導者によって特攻隊に送られた米兵への憂慮を表現している「Hey HeyGeneral Mackymacker」は、同じようなテーマを持つ多くのベトナム反戦歌への道筋をつけた。

 

例えば、カントリー・ジョー&ザ・フィッシュの「I Feel Like I'm Fixin' to Die Rag」(1965年)は、ウォール街の暴利に言及し(「さあウォール街、遅れをとるなわこれは戦争オゴリだ、ここに儲かる金はいくらでもある、軍にその商売道具を供給すればの話・・・」)、この曲は、軍の幹部とその血に飢えた反共産主義をあざ笑ったものである。ある一節にはさらにこうある。「さあ、将軍たちよ、急ごう。ついにビッグチャンスが来たのだ」と。この曲のコーラス(「and its' one two three, what are we fighting for?)は、ウディが以前に韓国で歌ったベトナム戦争での人命の不条理、無目的、浪費を指摘するものであった。


フィル・オックスの「アイ・エイント・マーチング・エニモア」(1965年)は、ウディ・ガスリーと同じように、「戦争に導くのはいつも年寄り、死ぬのはいつも若者」と宣言している。この曲は「トーキン・アトム・ボム」のように、「日本の空で最後の任務を果たし、強大なキノコの轟音を響かせ、街が燃えるのを見て、私は学んだ、もうマーチングしないことを」と続く。 

 

ピート・シーガーが1967年に発表した有名な歌「Waist Deep in the Big Muddy」は、1942年にミシシッピ川が深すぎるという軍曹や兵士の警告にもかかわらず、隊長に命じられて川を下る米兵の小隊を中心に構成されている。

 

大尉は、ベトナムを連想させるように、聞く耳を持たず、突き進み、兵士たちはどんどん水の中に沈んでいく。シーガーは、「私たちに必要なのは、ほんの少しの決意だ。私たちはビッグ・マディーに首まで浸かり、大馬鹿者が進め」と言う。そして、その結末は、最終節に描かれている。「突然、月が曇ってきて、ゴボゴボという叫び声が聞こえた。数秒後、隊長のヘルメットだけが浮いていた。軍曹が『お前たち、こっちを向け!』と言った。これからは私が責任者だ。

 

ここでシーガーは、兵士が指揮官の後を継いで、不当な戦争による大規模な破壊から名誉ある撤退を図るという、ウッディの反権威主義的ファンタジーのバリエーションを提供していたのである。


朝鮮戦争は、ベトナム戦争と多くの共通点があるが、マッカーシズムや第二次世界大戦後の抑圧的な環境の中で、大規模な反戦運動は展開されず、アメリカ軍指導者に対するアメリカの信頼が醸成されていった。ウディ・ガスリーの戦争への反省は、結果として、シーガー、ジョーン・バエズ、フィル・オックス、カントリー・ジョーのベトナム戦争への反撃の歌のように、世代や運動の戦意となることはなく、実際、彼がどの程度公に歌ったかを示すものはほとんどない。


しかし、ウディは、戦争に反対する活動家の一人であり、1960年代の反戦運動の種をまいたと思われる。
 
 
社会学者のC.ライト・ミルズは、「子供や女性や男性を石油ゼリーで焼く」米国の戦闘機(韓国)によって行われた機械化・非人間化された虐殺に嫌悪感を示した同時代の人である。 「共産主義者の作家、ハワード・ファストは、反戦詩「朝鮮戦争の子守唄」を書き、韓国の子供たちに目を閉じ、「燃えるガソリン、とても純粋で穏やかな炎で燃える穏やかでジェリー状のガソリン」を忘れ、「周りに落ちて肉を引き裂き、地面を引き裂く爆弾の破裂音を聞かず、半分狂った男の腹から聞こえる痛みの叫び声を聞かない」よう呼び掛けた。韓国は抑圧から救い出され、「自由世界」は不況から救われた。脳や骨のかけら、痛みの叫び、苦悶のうめき、人肉の焼ける臭さ、生々しい裂傷は何でもない、それがあなたを自由にするのだから」とファストは辛辣に言い切った。
 

ウディと共にピープルズ・ソングスの一員であった歌手であり公民権運動の指導者であるポール・ロベソンは、朝鮮戦争をアメリカ史上「最も恥ずべき戦争」と呼び、マディソン・スクエア・ガーデンでの集会で、「アメリカの場所はラファイエット、フランス革命の英雄たち、トゥサイン、コジオスコ、ボリバルの側だった--ヨーロッパのクイーズ、アジアのチェン、バオダイ、シンマンリーではない」と宣言している。『フリーダム』紙の1952年1月号でポール・ロベソンはこう書いている。
 

「この戦争で10万人のアメリカ人の死者、負傷者、行方不明者が出た。それ以上に100万人の韓国人を殺し、傷つけ、家をなくした。米軍は、侵略的で帝国主義的な軍隊がそうであるように、獣のように行動してきた。38 度線の北と南で、彼らは朝鮮人を侮蔑的に見、汚らわしい名前で呼び、女を犯し、老女や子供を支配し、捕虜を背中から撃ってきた」

ガスリーもまた、あらゆる戦争を野蛮なものだと考えていた。1952 年 11 月に書かれた「バイバイ、ビッグ・ブラス」では、ガスリーは自分が軍隊に再入隊し、 「誰もこの旅に出ることを私に尋ねなかった」にもかかわらず、新兵訓練を受けた後に「戦争支配者」によって「昔の朝鮮に忍び込む」ことを思い描いている。
 
 
お偉いさんは「雷のように怒鳴り、罵り、帽章と銃を渡され、手榴弾の詰まったベルトを留められ、命令される、少し遊んでこい」。ウディは、さらにこう続けている。「戦争になったら武器を持てと言われた/いいよ、貸してくれるならすぐにでも持つよ、でも保証はできないよ」
 

ここでウディ・ガスリーは、韓国や中国側への共感と、彼らの大義名分に対する認識を表明している。


私は韓国で、ジャングルや山々をパトロールしていました。


武器を地面に下ろし、焚き火をし、ここで話をした。


ビル・スミスは私の名前、彼の名前はホー・トン。私たちはお互いに恋人の写真を見せ合いました。


ウディはさらにこう語る。


「レッドスター・ホー・ツンに武器を渡して、草屋根の小屋まで運んだ。


すると、国連軍の砲兵師団が、日が暮れるまでその小屋を砲撃したんだ。


お偉いさん方は野戦ガラス越しに私を見ていた。9ドル小屋に100万発の弾丸が撃ち込まれた。


ホー・ツンと俺は、ただ横になっていた。赤い星の軍隊が俺を追跡しているその時に


そのピクニックには国連軍の兵士は一人も残っちゃいなかった。男も、大砲も、ライフルも、戦車もなく、7千人の赤軍派が踊りながらラフィンをしていた。


私がどうやって荷物を運ぶか見せると、私は赤い星とその制服を手に取り、彼らは言った:あなたは一生ヒーローであり続けるだろう。


その日のうちにロックハウスを建て直し、今は子供と妻と一緒にここに住んでいる。私の周りに咲く花に、こんにちは。


平和のために植える種に、こんにちは。グッバイ!  さよなら!  このビッグ・ブラス野郎! 俺はもうどこにもいかねえぞ!」

 

これはウディ・ガスリーが最も反抗的であり反体制的であったときのものだ。彼は、原爆の影響を報告した、最初の国際特派員であるとともに、後に朝鮮戦争での米軍の残虐行為やインドシナ戦争での米軍とその同盟国を暴露しながら韓国人や中国人を人間らしくしたオーストラリアのジャーナリスト、ウィルフレッド・バーチェットと歌で対比をなしている。


ウディのバラードは、アメリカの朝鮮戦争を非難し、平和主義、反権威主義、反物質主義を掲げた1960年代のカウンター・カルチャー運動を先取りしたものであり、アメリカ社会を形成していた。1930年代、ウディは、オクラホマからカリフォルニアまで、ピケットラインやバーや酒場で演奏する浮浪者の生活を実際に経験し、そのコミュニティの疎外された人々を哀れんでいる。1960年代のカルフォルニアのヒッピーは、共同体主義や自然回帰運動に倣い、農村に共同生活を営み、財産を共有し、有機食品を栽培し、性的束縛から解放されてシンプルかつ平和に暮らす文化を発展させた。


ウディの末息子アーロは、ベトナム戦争の徴兵に反対するヒッピーソング「アリスのレストラン」を書いた。

 

これは、軍の心理学者に殺意があると言ったことよりも、主人公アリスの住む教会のゴミを誤って捨ててしまい、ポイ捨てで逮捕されて徴兵を免れた自分の体験に基づいて、無表情に書いたものだ。これは、政府の優先順位が歪んでいることの典型であった。アーロは3歳の時にハディ・"リード・ベリー"・レッドベターのアパートで初めてギターを弾き、高校時代には父親のために慈善興行を行い、子供時代には多くの反核、公民権、反戦のデモに参加した。アリスのレストラン」で、彼はこう歌っている。

 

「この皮肉は、アーロがベトナムでの暴力と殺戮に強い嫌悪感を抱いていたことと同様に、韓国に対する父親の見解と呼応している。アーロが兵役を拒否された後、入隊手続きを担当した軍曹は、「小僧、我々はお前のような奴は嫌いだ、お前の指紋をワシントンに送ってやる」と言った。


1969年11月15日、ウディの息子であるアーロは、ワシントンD.C.で行われたベトナム戦争反対モラトリアムで、25万人の観衆を前にして、ウディ・ガスリーの歌、「I've Got to Know」を歌い上げた。この曲は、朝鮮戦争が始まって2ヵ月後に初めて発表された。それはこう問いかけた。

 

なぜ、あなたの軍艦は、私の海を走るのですか? 

 

なぜ、私の空から死の灰が降ってくるのか? 

 

なぜ、あなたの船は食べ物や衣類を運んでこない? 

 

私は知らなければならない、ぜひとも知らなければならないのだ」

 

ピート・シーガーは、作家・スタッズ・ターケルとカルヴィン・トリリンに、”「I've Got to Know」は、ゴスペル曲「Farther Along」に対するウディの返答であり、天国の約束は地上で経験するこの世の不公平と窮乏に対する十分な報酬だと聴く者を慰めている”と語っている。


この歌は、ウディとアーロがモラトリアムで語った「親父がここに来れば、本当に喜ぶだろう」という思いが込められている。ウディと末息子のアーロは、モラトリアムの観衆に対して、「老人がここにいれば本当に喜ぶだろうし、彼の魂はそこにいる子供たちの中にあるはずだ」と語っている。

Yeves Tumor




・Hyper Pop/Experimental Pop主導のミュージックシーンの未来はどうなる??

 


ハイパーポップ/エクスペリメンタルポップは、近年、特に注目を浴びるようになった音楽ジャンルの一です。サブスクリプションサービスの台頭もあってか、最近はアーティスト自体も以前に比べて、大量の音楽を聴き、そのバックグラウンドも幅広くなっています。今や、一国の音楽文化はその国だけのものにとどまらず、ワールドワイドなものとなっている。米国のアーティストたちは英国の音楽に強い影響を受け、英国のアーティストたちが米国の音楽に強い影響を受ける。そのようなことはごく当たり前の風潮となっている。それはインターネットという情報網を通して、どのような地域の音楽も、さらにどの時代の音楽にもたやすくアクセス出来るようになったからこそなのでしょう。

 

この音楽自体の多様化と情報量の著しいまでの増大は、当初、アンダーグラウンドシーンのアーティストに強い触発を与えていたが、今日では最早、オーバーグラウンド、メインストリームのポップスを基調とするアーティストにも全然無関係ではなくなりつつある。彼ら(彼女ら)は、純粋な王道のポピュラー音楽だけをそのまま提示することに飽き始めているのかもしれません。それは、言い換えれば、すでに単純なポップスでは、リスナーを市場に取り込むことが困難になってきたからなのです。今日のポピュラーアーティストたちは、本来相容れないジャンルまでをも取り込み、これまでになかった前衛的なポップスを生み出す時代の要請に答える必要があったのです。

 

そういった時代/聴衆の要請に応えて出現した音楽制作の新たなスタイルが、アーティスト自身でソングライティングからプロデュースまでを一人で完遂する”Bedroom Pop”だったのです。彼らは、それ以前まで膨大な制作費用を必要としていたような音楽を、その費用の十分の一、いや、それ以上に低い割合で、以前のヒット・ソングと同じクオリティーの作品をベッドルームで作り上げるようになりました。この最初のウェイヴを巻き起こしたひとりが、イギリスのエド・シーランだった。作品の最終的な段階ではこの限りではないが、彼はそれまでプロデューサーが行っていたようなことを、自分のアイディアで欠点を賄おうと試みたアーティストの一人に挙げられます。

 

そして、このベッドルームポップと並んで、ここ数年で台頭してきた音楽が、ハイパーポップ/エクスペリメンタルポップです。

 

では、これらのポップスは一体以前のポップスと何が異なるのでしょう。これは一見、判別が難しいかもしれないが、長年、米国の音楽メディア、Pitchforkの編集長を十数年にわたり務め、ウォール・ストリート・ジャーナルでも評論を行ってきたMark Richardson(マーク・リチャードソン)氏は、この”Hyper Pop”という新ジャンルについて、「キャッチーな曲と記憶に残るフックを取り入れたコミカルなノイズの壁」というように表現しています。つまり、リチャードソン氏の言葉を引き継ぐと、ポピュラー音楽の根本的な要素のひとつである楽曲自体の掴みやすさ/わかりやすさに加えて、本来アンダーグラウンドの領域に位置するノイズ・ミュージックの要素があることや、コミカルな雰囲気を要する音楽というように定義づけることが可能となる。それに加えて、ハイパーポップやエクスペリメンタルポップは他のジャンルとのクロスオーバー、IDMを始め、ハウス、ロック、メタル、オルタナティヴロック、現代音楽というように、これまでポピュラー音楽とは相容れなかったジャンルまでを無節操に内包するようになってきています。このことは、アイスランドのビョークの最新作「Fossora」にも顕著に見られる特徴です。

 

このアルバムでは、エレクトロ・ポップの要素に加えて、映画音楽、現代音楽、メタル、民族音楽、ノルウェーのミュージック・シーンの中心のジャズ/フォークトロニカ、そして、アイスランドの電子音楽をすべての飲み尽くそうとこのアーティストが試みたアルバムである。つまり、これらの音楽は、ヘヴィ・メタルから、ダンス・ミュージック、旧来のエレクトロ・ポップまで何から何まで”モンスターのごとく”取り入れてしまおうというわけなのです。

 

これらのミュージックシーンの台頭はもちろん、ソーシャルメディアの主流化や、それまでサブカルチャーという、メインストリームの下層にあるいかがわしいところのある文化とみなされてきた概念が若者たちの文化にごく自然に根差していったことによって、日頃普通に鑑賞しているドラマやアニメーションからの影響や、それ以外にも、SNSのスラングをごく自然に音楽として昇華したことで生み出された音楽と言える。これらのポピュラー音楽は、InstagramやTiktok、TwitterといったSNSで起きることと何ら無関係とは言いがたいです。それが理由なのか、これらの音楽は、どことなくSF的であるとともにメタ的な構造を持ち、そして、仮想空間に氾濫している音楽をポピュラー・ミュージックとして体現したような印象を聞き手に与えることでしょう。


音楽的な観点からのハイパーポップ、エクスペリメンタルの定義は以上のようなものであるが、一人のアーティストとしてのコマーシャリズムにもこれらのシーンに属するミュージシャンたちには変化が生じているとも付け加えておかねばなりません。つまり、アーティスト写真や、アーティストの佇まいの変化について。一例では、FKA Twigs,Willow,Rina Sawayama,Bjorkに至るまで、近年のアルバム・ジャケット、及び、アーティストの宣伝写真に著しい変化が見られることに、すでに多くの読者諸賢はお気づきになられていることでしょう。

 

アートワークに映し出されるアーティストの姿は人間離れしており、SFに登場するキャラクター化している場合もあれば、映画「アバター」に登場するような仮想的なモンスターの場合もある。これらはこのアートワーク/アーティストという音源に付随する一種の芸術作品に接した鑑賞者にいくらかセンセーショナルな印象を与え、そのアーティスト写真やアートワークを見た瞬間に一発で、そのことを記憶に残させるという効果がある。今や、これらの宣伝方法を見るに、アーティストは時に人間から離れ、SF化され、人間ではない他のなにかになぞらえられたり、変身したりするような時代になっています。それは全時代から続いていたミュージシャンのスター・システムがより先鋭化した表現性がこれらの文化、音楽が見いだされるとも換言出来るわけです。


これら、以下に掲載するハイパーポップ/エクスペリメンタルポップのアーティストの入門編は、新世代の音楽の門扉を率先して開いてみせた、画期的かつ前衛的なアルバムばかりです。


しかし、これらの最新の音楽に最大の賛美を送るとともに、警鐘を鳴らしておく必要もありそうです。これらの音楽が未来によりスタンダードとなり、それらが消費される意味しか持たぬ音楽に堕するとするならば、決してこれらの音楽は、必ずしも人間にとっての良薬となりえない可能性もある。オートチューン、オートメーション、過度なノイズ加工や過剰なコンプレッション、それらは音楽をロボットにすることであり、また、音楽をAI化することでもある。このハイパーポップ/エクスペリメンタルポップは、2022年代の象徴的な音楽であることに変わりはありませんが、音楽をオートメーション化しないということを念頭におかないで、先鋭化しつづけるならば、必ずや、どこかの年代において飽和状態を迎える時期が到来すると思われます。


とにかく、2022年の今、どのような音楽が次に到来するのか全く予測することができません。未だ知られていないだけで現在も私たちがしらないどこかで、すでに新たな音楽が誕生しようとしているのかも知れませんね。

 



・Hyper Pop/Experimental pop ー入門編ー

 

今回、読者の皆様にご紹介するのは、「ベスト10」を始めとするような網羅的なセレクションではなく、そのごく一部であり、単なる入門編に過ぎません。他にも素晴らしいアーティストは数多く活躍していますので、ぜひ、以下のリストを参考にしていただき、皆さんそれぞれのオンリーワンと呼べるような作品を探してみてください。

 

 

 

 Yeves Tumor 「Heaven To A Futured Mind」 

 


Yves Tumorが2020年にリリースした「Heaven To A Futured Mind」 は、ポピュラー・ミュージックの定義そのものを覆してしまったセンセーショナルなアルバムです。

 

今作において、Yves Tumorは、IDM、ヒップホップ、ソウルなどのクロスオーバーミュージックを企図している。

 

オープニングトラック「A Gospel For A New Country」で、Yves Tumorは新世代のポピュラー・ミュージックの到来を告げており、ブレイクビーツを多様し、唯一無二の世界観を確立しています。このアーティストは、 インタビューを一切受け付けていないらしく、いまだ多くの謎に包まれている。

 


 


Charli XCX 「Crash」


Hyper Popというジャンルを知るためにこれ以上はないというくらい最適なのが、UKの大人気シンガーソングライター、チャーリー・XCXの2022年の最新作「Crash」でしょう。

 

ノイズ性の強いポップ、コミカルな雰囲気、ボーカルに施されたオートチューン等、ハイパーポップのジャンルを構成する基本的な要素を今作に見出すことが出来る。内郭にある音楽としてはチルアウトの要素が強く、ゆったりとした感じを楽しむことが出来るアルバムです。ソーシャルメディア文化の気風を体現した作品で、スマッシュヒットを記録したのも頷ける話ですね。






Rina Sawayama   「Hold The Girl」

 

 

UKの主要な音楽メディアを騒然とさせたリナ・サワヤマの最新作「Hold The Girl」。主な英国内のメディアが殆ど満点評価を与えたにとどまらず、日本人としてUKチャートの歴代最高位を記録するなど、素晴らしい功績をサワヤマはこのアルバムで残しています。

 

制作時、サワヤマは、エルトン・ジョンから幾つか有益なアドバイスを貰ったとのことで、相当、プロダクションからも相当苦心の跡が窺え、真摯に聞き入ってしまうアルバムです。ハイパーポップの要素に加え、ヘヴィ・メタルなど幅広いジャンルが含まれている。タイトルトラック、及び「This Hell」を始め、ポップ・バンガーが勢揃いしており、国内の気鋭メディアが総じて絶賛しているのも納得の内容。ポピュラー・ミュージックとしても名盤にあげておきたい作品。

 

 



 

 

Willow  「Ardipithecus」

 


アメリカ出身のシンガーソングライター、ウィローもまたジャンルにとらわれない幅広い音楽性を生み出しています。ウィローは、10月7日に新作アルバム「COPINGMECHANISM」を発表したばかりです。

 

最初期は、R&B色の強い音楽を制作していたウィローですが、2021年の「lately I Feel Everything」では、ロックミュージックにも挑戦している。ハイパーポップの音楽性の雰囲気が感じられる作品としては、2015年のアルバム「Ardipithecus」を挙げておきたい。この作品で、ウィローは時代に先んじて、ハイパーポップ、モダンソウル、IDMの融合に挑戦しています。他にも、ハープやシロフォンといったオーケストラ楽器を取り入れたアヴァンギャルドな作風。 


 


 

Sophie 「Oil of Every Pearl's Un-Insides」

 


今回、これらのハイパーポップの入門編として幾つか作品を挙げる中で、最も音楽的に異彩を放っているのがギリシャ・アテネを拠点にするSopieというシンガーソングライターです。

 

他のアーティストがIDMなど、メインストリームのダンスミュージック/エレクトロニカを取り入れているのに対して、 このアーティストは、アンビエントやドローンとアンダーグラウンドに属する音楽を本来、メインストリームにあるポピュラー・ミュージックとして昇華しようと試みています。

 

ここに取り上げる2018年に発表された「Oil of Every Pearl's Un Insides」は、アヴァンギャルドな領域に属する音楽であり、ポップス=シンプルな音楽という旧来の文脈を書き換えようとした画期的な作品にあげられます。アンビエントドローンとボーカルトラックの融合は幻想的な雰囲気すら感じられる。

 

 


 

 

Bjork  「Fossora」

 


 

ビョークの「Fossora」は、エクスペリメンタルポップとハイパーポップの中間点に位置するような作品です。今年のポピュラー・ミュージック作品の中では最も洗練された作品と言えるでしょう。

 

キノコを主題に置いたという「Fossora」は、モダンクラシカル/北欧フォークトロニカと旧来のポピュラー音楽との融合を試みた作品として位置づけられるかもしれません。オーケストラのストリングスの重厚感のある重奏、スティーヴ・ライヒのミニマリズムに象徴される木管楽器を、どのように既存/現在のポップスの枠組みの中に組み込むかを模索したようにも見受けられる。もちろん、その他にもメタル、ノイズなど、幅広い要素がこの作品の中に見出すことが出来る。

 

アルバムの評価自体は差し置いて、質の高いアヴァンギャルドポップであることに変わりはありませんが、その真価がよりはっきりと発揮される瞬間があるとするなら、ライブパフォーマンスにおける舞台芸術とのこの「Fossora」の収録曲の劇的な融合性にあるかもしれません。これらの楽曲はステージ演出において実際の演奏とどのように同期されるのかに注目していきたいところです。もちろん、ビョークの息子がヴォーカルに参加したというクローズド・トラック「Her Mothers's Voice」など、アート性の高い最新鋭のアヴァン・ポップスに挙げられるでしょう。



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