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60年代、及び、70年代のアメリカン・ロックにも様々なジャンル分けがある。CSN&Y、イーグルスに象徴されるカルフォルニアを中心とするウェストコースト・サウンド、オールマン・ブラザーズに代表される南部のブルースに根ざしたサザン・ロック、ニューヨーク、デトロイトを中心に分布するイーストコーストロックに分かたれる。特に、西海岸と東海岸のジャンルの棲み分けは、現在のヒップホップでも行われていることからも分かる通り、音の質感が全然異なることを示唆している。兼ねてからロサンゼルスは、大手レーベルが本拠を構え、ガンズ・アンド・ローゼズを輩出したトルバドールなどオーディション制度を敷いたライブハウスが点在していたこともあり、米国の音楽産業の一大拠点として、その歴史を現代に至るまで綿々と紡いでいる。


当時、最もカルフォルニアで人気を博したバンドといえば、「Hotel California」を発表したイーグルスであることは皆さんもご承知のはずである。しかしながら、のちのLAロックという観点から見て、また当地のロックのパイオニアとしてロック詩人、ジム・モリソン擁するドアーズを避けて通ることは出来ないのではないだろうか。ジム・モリソンといえば、ヘンドリックスやコバーンと同様に、俗称、27Clubとして知られている。今回は、このバンドのバックグランドに関して取り上げていこうと思います。

 

 

1967年、モリソン、マンザレク、デンズモア、クリーガーによって結成されたドアーズ。本を正せば、詩人、ウィリアム・ブレイクの「天国と地獄の結婚」の「忘れがたい幻想」のなかにある一節、

 

近くの扉が拭い 清められるとき 万物は人の目のありのままに 無限に見える

 

に因んでいるという。そして、オルダス・ハックスレーは、この一節をタイトルに使用した「知覚の扉」を発表した。ドアーズは、この一節に因んで命名されたというのだ。


いわば、本来は粗野な印象のあったロック・ミュージックを知的な感覚と、そしてサイケデリアと結びつけるのがドアーズの役目でもあった。 そして、ドアーズは結成から四年後のモリソンの死に至るまで、濃密なウェスト・コースト・ロックの傑作アルバムを発表した。「ロックスターが燃え尽きる」という表面的なイメージは、ブライアン・ジョーンズ、ヘンドリックスやコバーンの影響も大きいが、米国のロック・カルチャーの俯瞰すると、ジム・モリスンの存在も見過ごすことが出来ないように思える。

 

ただ、ドアーズがウェスト・コーストのバンドであるといっても、その音楽は一括りには出来ないものがある。カルフォルニア州は縦長に分布し、 また、サンフランシスコとロザンゼルスという二大都市が連なっているが、その2つの都市の両端は、相当離れている。そして、両都市は同州に位置するものの、文化的な性質がやや異なると言っても過言ではない。ドアーズもまた同地のグループとは異なる性質を持っている。


そもそも、ウェスト・コースト・サウンドというのは、1965年にオープンした、フィルモア・オーディオトリアムを拠点に活躍したグループのことを示唆している。ただ、これらのバックグランドにも、ロサンゼルスの大規模のレコード産業と、サンフランシスコの中規模のレコード産業には性質の違いがあり、それぞれ押し出す音楽も異なるものだったという。つまり、無数の性質を持つ音楽産業のバックグランドが、この2つの都市には構築されて、のちの時代の音楽産業の発展に貢献していくための布石を、60年代後半に打ち立てようとしていたと見るのが妥当かもしれない。

 

ザ・ドアーズの時代も同様である。60年代後半のロサンゼルスには、サンフランシスコとは雰囲気の異なるロック産業が確立されつつあった。ドアーズはUCLAで結成され、この学校のフランチャイズを特色として台頭した。一説によると、同時期にUCLA(カルフォルニア州立大学)では、ヘルマン・ヘッセの『荒野のオオカミ』が学生の間で親しまれ、物質的な裕福さとは別の精神性に根ざした豊かさを求める動きが大きなカウンター・カルチャーを形成した。


この動きはサンフランシスコと連動し、サイケデリック・ロックというウェイブを形成するにいたったのであるが、レノンが標榜していた「ラブ・&ピース」の考えと同調し、コミューンのような共同体を構築していった。そういった時代、モリソン擁するドアーズも、この動向を賢しく読み、西海岸の若者のカルチャーを巧みに音楽性に取り入れた。一つ指摘しておきたいのは、ドアーズは同年代に活躍したグレイトフル・デッドを始めとするサイケ・ロックのグループとは明らかに一線を画す存在である。


一説では、サンフランシスコのグループは、オールマン・ブラザーズやジョニー・ウィンター等のサザン・ロックと親和性があり、ブルースとアメリカーナを融合させた渋い音楽に取り組んでいた。対して、ロサンゼルスのグループは、明らかにジャズの影響をロックミュージックの中に才気煥発に取り入れようとしていた。これはたとえば、The Stoogesが「LA Blues」でイーストコーストとLAの文化性をつなげようとしたように、他地域のアヴァンギャルド・ジャズをどのように自分たちの音楽の中に取り入れるのかというのを主眼に置いていた。


サンフランシスコのライブハウスのフィルモア・オーディオトリアムの経営者であり、世界的なイベンター、ビル・グラハムは、当初、ドアーズがLAのバンドいうことで、出演依頼を渋ったという逸話も残っている。ここにシスコとロサンゼルスのライバル関係を見て取る事もできるはずである。

 

 


 

さて、ザ・ドアーズがデビュー・アルバム 『The Doors』(邦題は「ハートに火をつけて」)を発表したのは1967年のことだった。後には「ロック文学」とも称されるように、革新的で難解なモリソンの現代詩を特徴とし、扇動的な面と瞑想的な面を併せ持つ独自のロックサウンドを確立した。

 

デビューアルバム発表当時、モリソンの歌詞そのものは、評論家の多くに「つかみどころがない」と評されたという。


デビュー・シングル「Light My Fire」は、ドアーズの代表曲でもあり、ビルボードチャートの一位を記録し、大ヒットした。その後も、「People Are Strange」、「Hello I Love You」、「Touch Me」といったヒットシングルを次々連発した。ドアーズのブレイクの要因は、ヒット・シングルがあったことも大きいが、時代的な背景も味方した。

 

当時、米国では、ベトナム戦争が勃発し、反戦的な動きがボブ・ディランを中心とするウェイヴが若者の間に沸き起こったが、ドアーズはそういった左翼的なグループの一角として見なされることになった。しかし、反体制的、左翼的な印象は、ライヴステージでの過激なパフォーマンスによって付与されたに過ぎない。ドアーズは、確かに扇動的な性質も持ち合わせていたが、 同時にジェントリーな性質も持ち合わせていたことは、ぜひとも付記しておくべきだろう。

 

ドアーズの名を一躍全国区にした理由は、デビュー・アルバムとしての真新しさ、オルガンをフィーチャーした新鮮さ、そして、モリソンの悪魔的なボーカル、センセーショナル性に満ち溢れた歌詞にある。ベトナム戦争時代の若者は、少なくとも、閉塞した時代感覚とは別の開放やタブーへの挑戦を待ち望んだ。折よく登場したドアーズは、若者の期待に応えるべき素質を具えていた。同年代のデトロイトのMC5と同じように、タブーへの挑戦を厭わなかった。特にデビュー・アルバムの最後に収録されている「The End」は今なお鮮烈な衝撃を残してやまない。 


 

 

「The End」の中のリリックでは、キリスト教のタブーが歌われており、ギリシャ神話の「エディプス・コンプレックス」のテーマが現代詩として織り交ぜられているとの指摘もあるようだ。


歌詞では、ジークムント・フロイトが提唱する「リビドー」の概念性が織り込まれ、人間の性の欲求が赤裸々に歌われている。エンディング曲「The End」は、究極的に言えば、セックスに対する願望が示唆され、人間の根本的なあり方が問われている。宗教史、あるいは人類史の根本を形成するものは、文化性や倫理観により否定された性なのであり、その根本的な性のあり方を否定せず、あるがままに捉えようという考えがモリソンの念頭にはあったかもしれない。性の概念の否定や嫌悪というのは、近代文明がもたらした悪弊ではないのか、と。その意味を敷衍して考えると、当代の奔放なカウンター・カルチャーは、そういった考えを元にしていた可能性もある。



これらのモリソンの「リビドー」をテーマに縁取った考えは、単なる概念性の中にとどまらずに、現実的な局面において、過激な様相を呈する場合もあった。それは彼のステージパフォーマンスにも表れた。しかし、性的なものへの欲求は、ドアーズだけにかぎらず、当時のウェスト・コーストのグループ全体の一貫したテーマであったという。つまり、性と道徳、規律、制約、抑圧といった概念に象徴される、社会的なモラル全般に対する疑念が、60年代後半のウェストコーストを形成する一連のグループの考えには、したたかに存在し、時にそれはタブーへの挑戦に結びつくこともあった。その一環として、現代のパンク/ラップ・アーティストのように、モリソンは「Fuck」というワードを多用した。今では曲で普通に使われることもあるが、この言葉は当時、「フォー・レター・ワード」と見なされていた。放送はおろか、雑誌等でも使用を固く禁じられていた。”Fuck”を使用した雑誌社が発禁処分となった事例もあったのだ。


それらの禁忌に対する挑戦、言葉の自由性や表現方法の獲得は、モリソンの人生に付きまとった。特に、1968年、彼は、ニューヘイブンの公演中にわいせつ物陳列罪で逮捕、その後、裁判沙汰に巻き込まれた。しかし、モリソンは、後日、この事件に関して次のように供述している。「僕一人が、あのような行為をしたから逮捕された。でも、もし、観客の皆が同じ行為をしていたら、警察は逮捕しなかったかもしれない」


ここには、扇動的な意味も含まれているはずだが、さらにモリソンのマジョリティーとマイノリティーへの考えも織り込まれている。つまり多数派と少数派という概念により、法の公平性が歪められる危険性があるのではないかということである。その証として彼は、この発言を単なる当てつけで行ったのではなかった。当時の西海岸のヒッピーカルチャーの中で、コンサートホール内は、無法状態であることも珍しくはなく、薬物関連の無法は、警官が見てみぬふりをしていた事例もあったというのだから。

 

さらに、ジム・モリスンのスキャンダラスなイメージは、例えば、イギー・ポップやオズボーンと同じように、こういった氷山の一角に当たる出来事を取り上げ、それをゴシップ的な興味として示したものに過ぎない。上記二人のアーティストと同様に、実際は知性に根ざした文学性を発揮した詩を書くことに関しては人後に落ちないシンガーである。文学の才覚を駆使することにより、表現方法や言葉の持つ可能性をいかに広げていくかという、モリソンのタブーへの挑戦。それは、考えようによっては、現代のロック・ミュージックの素地を形成している。


デビュー作から4年を経て、『L.A Woman』を発表したドアーズの快進撃は止まることを知らなかった。しかし、人気絶頂の最中にあった、1971年7月3日、ジム・モリソンは、パリのアパートにあるバスタブの中で死去しているのが発見された。死亡時、パリ警察は検死を行っていないというのが通説であり、一般的には、薬物乱用が死の原因であるとされている。



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『Nevermind』の成功の後にコバーンは何を求めたのか




「より大衆に嫌われるレコードを作ろうと思ったんだ」カート・コバーンは、『Nevermind』の次の作品『In Utero』のリリースに関して率直に語っている。そもそも、Melvinsのオーディションを受けたシアトルのシーンに関わっていた高校生時代からコバーンの志すサウンドは、若干の変更はあるが、それほど大きく変わってはいない。『Nevermind』で大きな成功を手中に収めた後、新しい作品の制作に着手しないニルヴァーナにゲフィン・レコードは業を煮やし、コンピレーション・アルバム『Incesticide』でなんとか空白期間を埋めようとした。その中で、「Dive」「Aero Zeppelin」といったバンドの隠れた代表作もギリギリのところで世に送り出している。

 

ある人は、『In Utero』に関して、ニルヴァーナの『Bleach』時代の原始的なシアトル・サウンドを最も表現したアルバムと考えるかもしれない。また、ある人は、『Nevermind』のような芸術的な高みに達することができず、制作上の困難から苦境に立たされた賛否両論のアルバムだったと考える人もいるだろう。しかしながら、このアルバムは、グランジというジャンルの決定的な音楽性を内包させており、その中にはダークなポップ性もある。シングル曲のMVを見ても分かる通り、カート・コバーンの内面が赤裸々に重々しい音楽としてアウトプットされたアルバムと称せるかもしれない。





三作目のアルバムが発売されたのは1993年9月のこと、カート・コバーンは翌年4月に自ら命を絶った。そのため、このアルバムは、しばしばコバーンの自殺に関連して様々な形で解釈され、説明されてきたことは多くの人に知られている。


『In Utero』は彼らが間違いなく最高のバンドであった時期にレコーディングされた。前作『Nevermind』のラジオ・フレンドリーなヒットは、バンドにメインストリームでの大きな成功をもたらし、ビルボード200チャートで首位を獲得し、グランジをアンダーグラウンドから一般大衆の意識へと押し上げた。もちろん、彼らは当時の大スター、マイケル・ジャクソンを押しのけてトップの座に上り詰めたのだった。


DIY、反企業、本物志向のパンク・ムーブメント、Melvins、Green River、Mother Love Boneを始めとするシアトル・シーンに根ざして活動してきたバンドにとって、この報酬はむしろ足かせとなった。コバーンは、心の内面に満ちる芸術的誠実さと商業的成功の合間で葛藤を抱えることになった。巨大な名声を嫌悪し、私生活へのメディアの介入に激怒したカートは、あらゆる方面からプレッシャーをかけられて、逃げ場がないような状況に陥ったのだ。


アバディーンで歯科助手を務めていた時代、その給料から制作費をひねり出した実質的なデビュー・アルバム『Bleach』の時代から、カート・コバーンはDIYの活動スタイルを堅持し、また、そのことを誇りに考えてきた経緯があったが、メジャー・レーベルとの契約、そして、『Nevermind』のヒットの後、彼は実際のところ、シアトルのインディー・シーンのバンドに対し、決まりの悪さを感じていたという逸話もある。期せずして一夜にしてメインストリームに押し上げられたため、それらのインディーズ・バンドとの良好な関係を以後、綿密に構築していくことができなくなっていた。

 

それまではDIYの急進的なバンドとしてアバディーンを中心とするシーンで活躍してきたコバーンは、多分、売れることに関して戸惑いを覚えたのではなかった。自分の立場が変わり、親密なグランジ・シーンを築き上げてきた地元のバンドとの関係が立ち行かなくなったことが、どうにも収まりがつかなかった。それがつまり、94年の決定的な破綻をもたらし、「ロックスターの教科書があればよかった」という言葉を残す原因となったのである。彼は、音楽性と商業性の狭間で思い悩み、答えを導きだすことが出来ずにいたのだ。

 

『In Utero』を『Nevermind』の成功の延長線上にあると考えることは不可欠である。コバーンは、バンドのセカンド・アルバムがあまりにも商業的すぎると感じ、「キャンディ・アス」とさえ表現し、アクセシビリティと、ネヴァー・マインドのラジオでの大々的なプレイをきっかけに制作に着手しはじめた。当時、カート・コバーンは、「ジョック、人種差別主義者、同性愛嫌悪者に憤慨していた」と語っている。だから、歌詞の中には「神様はゲイ」という赤裸々でエクストリームな表現も登場することになった。サード・アルバムで、前作の成功の事例を繰り返すことをコバーンは良しとせず、バンドのデビュー作『Bleach』におけるアグレッシヴなサウンドに立ち返りたかったとも考えられる。その証拠として、アルバムに収録されている『Tourette's』には、『Nagative Creep』時代のメタルとパンクの融合に加え、スラッシュ・メタルのようなソリッドなリフを突き出したスピーディーなチューンが生み出された。


カート・コバーンは、内面のダークでサイケデリックな側面を赤裸々に表現し、芸術的な信憑性を求めようとした。以前よりもソリッドなギターのプロダクションを求めていたのかもしれない。そこで、以前、Big Blackのフェアウェル・ツアーで一緒に共演したUSインディーのプロデューサーの大御所、スティーヴ・アルビニに白羽の矢を立てた。

 

それ以前には、Slintのアルバム『Tweedz』のエンジニアとして知られ、後にロバート・プラントのアルバムのプロデューサーとして名を馳せるスティーヴ・アルビニは、1990年代中頃、アメリカのオルタナティブ・シーンの寵児として見なされていた。当時、彼は、過激でアグレッシヴなサウンドを作り出すことで知られ、インディー・ロックの最高峰のレコードを作り出すための資質を持っていた。この時、彼は別名でミネアポリスのスタジオを予約したという。その中には、メディアにアルバム制作の噂を嗅ぎつけられないように工夫を凝らす必要があった。

 



・スティーヴ・アルビニとの協力 ミネアポリスでの録音




「噂が広まらないようにする必要があった」とスティーヴ・アルビニは、NMEのインタビューで語った。


「インディペンデントなレコーディング・スタジオで、そこで働いている人は少人数だった。彼らに秘密を託したくなかったから、自分の名義で"サイモン・リッチー・バンド"という偽名でスタジオを予約することにした」「実は、サイモン・リッチーというのは、シド・ヴィシャスの本名なんだ。もちろん、スタジオのオーナーでさえ、ニルヴァーナが来るとは知らなかったのさ」

 

しかし、当時のバンドの知名度とは裏腹に、プロデューサーはセッションは比較的スタンダードなものだったと主張した。「セッションには変わった点は何もなかった」と彼は付け加えた。


「つまり、彼らが非常に有名であることを除けば……。そしてファンで溢れかえらないように、できる限り隠しておく必要があった。それが唯一、奇妙なことだったんだよ」


「”In Utero”のセッションのかなり前に、Big Blackがお別れツアーを行った時、最終公演はシアトルの工業地帯で行われた」とアルビニは回想している。「奇妙な建物で、その場しのぎのステージでしかなかった。でも、クールなライブで、最後に機材を全部壊した。その後、ある青年がステージからギターの一部を取っていい、と聞いてきて、私が『良いよ、もうゴミなんだし』と言ったのをよく覚えているんだ。その先、どうなったかは想像がつきますよね...」


アルビニは自らスタジオを選び、Nirvanaをミネソタ/ミネアポリスのパチダーム・スタジオに連れ出すことに決めた。音楽ビジネスに対する実直なアプローチで知られる彼は、バンドの印税を軽減することを拒否し、ビジネスの慣習を "倫理的に容認できない"と表現した。その代わり、彼は一律100,000ポンドで仕事を受けた。当初、バンドとアルビニはアルバムを完成させる期限を2週間に設定したが、全レコーディングは6日以内に終了、最初のミックスはわずか5日で完了した。


アルバムをめぐる最大の議論の一つは、セカンドアルバムとは似ても似つかないプロダクションの方向性である。アルビニが好んだレコーディング・スタイルは、可能な限り多くのバンドを一緒にライブ演奏させ、時折、ドラムを別録りしたり、ボーカルやギターのトラックを追加することだった。

 

これによって2つの画期的なサウンドが生み出されることになった。第一点は、コバーンのヴォーカルを楽器の上に置くのではなしに、ミックスの中に没入させたこと。第二点は、デイヴ・グロールのアグレッシブなドラムがさらにパワフルになったことである。これは、アルビニがグロールのドラム・キットを30本以上のマイクで囲み、スタジオのキッチンでドラムを録音し自然なリバーブをかけたことや、グロールの見事なドラムの演奏の貢献によるところが大きかった。コバーンの歌詞が『イン・ユーテロ』分析の焦点になることが多い一方、グロールのドラミングは見落とされがちだが、この10年間で最も優れた演奏のひとつに数えられるかもしれない。


録音を終えた後、カート・コバーンは完成したアルバムをDGCレーベルの重役に聴かせた。『ネヴァーマインド』的なヒット曲を渇望していた会社幹部は、失望の色を露わにした。同時に、その反応は、アルバムの成功に思いを巡らせながら、自分の理想を堅持し続け、自分たちの信じる音楽をリリースすることを想定していたカート・コバーンに大きな葛藤を抱えさせる要因となった。

 

結局、レーベルとバンドの議論の末、折衷案が出される。アルバムのシングルは、カレッジ・ロックの雄、R.E.Mのプロデューサー、スコット・リットに渡され、ラジオ向きのスタイルにリミックスされた。スティーヴ・アルビニは当初、マスターをレーベル側に渡すことを拒否していたのだった。



・『In Utero』の発売後 アルバムの歌詞をめぐるスキャンダラスな論争

 


 

諸般の問題が立ちはだかった末、リリースされた『In Utero』は、思いのほか、多くのファンに温かく迎えられることになった。しかし、このアルバムに収録された「Rape Me」を巡ってセンセーショナルな論争が沸き起こった。この曲について、カート・コバーンは、SPINに「明確な反レイプ・ソングである」と語っていて、後にニルヴァーナの伝記を記したマイケル・アゼラット氏は、「コバーンのメディアに対する嫌悪感が示されている」と指摘している。しかしながら、世間の反応と視線は、表向きの過激さやセンセーション性に向けられた。その結果、ウォルマート、Kマートは、曲名を変更するまで販売の拒否を表明した。にもかかわらず、このアルバムは飛ぶように売れた。

 

翌年の4月8日、コバーンがシアトルの自宅で死亡しているのが発見された。警察当局は、ガン・ショットによる自殺と断定したことは周知の通りである。このことは、アルバムの解釈の仕方を決定的に変えたのである。多くのファンや批評家は、アルバムの歌詞やテーマは、コバーンの死の予兆だったのではないかと表立って主張するようになった。このアルバムは、混乱し窮地に立たされた彼の内面の反映であり、以後のドラッグ常習における破滅的な彼の人生の結末の予兆ともなっている。

 

しかし、別の側面から見ると、「死の影に満ちたアルバム」という考えは、単なる後付けでしかなく、歴史修正主義、あるいは印象の補正に過ぎない事を示唆している。憂鬱と死に焦点を当てた『Pennyroyal Tea』の歌詞は、『In Utero』リリースの3年前、1990年の時点で書かれていたし、同様に、ニルヴァーナ・ファンのお気に入りの曲のひとつであり、来るべき自死の予兆であったとされる『All Apologies』も1990年に書かれていたのだ。


ただ、ニルヴァーナの最後のアルバムがレコーディング中のカート・コバーンの精神的、感情的な状態を語っていないとか、コバーンが自ら命を絶つ兆候を全く含んでいないと言えば嘘偽りとなるだろう。しかし、それと同時に、『In Utero』をフロントマンの自殺だけに関連したものとして読み解くことは、その煩瑣性を見誤ることになる。


このレコードは、スターとしての重圧、新しい家族との関係、メインストリームでの成功と芸術的誠実さの間の精神的な苦闘について、あるいは、彼の幼少期の親戚の間でのたらい回しから生じた、うつ病や死の観念について、アーカイブで表向きに語られる事以上に、彼の生におけるリアリティが織り交ぜられている。



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  今では、不動の地位を獲得している伝説のシンガーにも、困難な時代があった。ローリング・ストーン誌の選ぶ、歴史上最も偉大な100人のシンガーで2位を獲得し、ケネディー・センター名誉賞、国民芸術勲章、ポーラー音楽賞の授与など、音楽という分野にとどまらず、米国のカルチャー、ポピュラー・ミュージックの側面に多大な貢献を果たしたレイ・チャールズにも、不当な評価に甘んじていた時期があったのだ。それでも、チャールズはちょっとした悲しい目に見舞われようとも、持ち前の明るさで、生き生きと自らの人生の荒波を華麗に乗りこなし、いわば、その後の栄光の時代へと繋げていったのだった。今回、この伝説的な名歌手の生い立ちからのアトランティック・レコードの在籍時代までのエピソードを簡単に追っていこう。



 

レイ・チャールズの歌には、他の歌手にはない深みがある。深みというのは、一度咀嚼しただけでは得難く、何度も何度も噛みしめるように聞くうち、偽りのない情感が胸にじんわり染み込んでくるような感覚のことを指す。もっといえば、それは何度聴いても、その全容が把握出来ない。チャールズは、バプテスト教会や黒人霊歌を介し、神なる存在に接しているものと思われるが、他方、聴いての通り、彼の歌は全然説教っぽくない。スッと耳に入ってきて、そのままずっと残り続ける。

 

彼の歌は、サザン・ソウル、ゴスペル、ジャズ、ポップ、いかなる表現形式を選ぼうとも、感情表現の一貫である。そして、それは説明的になることはない。彼はいかなる表現でさえもみずからの詩歌で表する術を熟知していた。彼の歌は、彼と同じ立場にあるような人々の心を鷲掴みにした。

 

歌手がビック・スターになる過程で、チャールズは、天才の称号をほしいままにするが、アトランティック・レコーズの創始者、アーメット・ガーディガンはチャールズのことについて次のように説明していた。彼いわく、天才と銘打ったのは、マーケティングのためではなかった。「そうではなくて、単純に我々が彼のことを天才だと考えていたんだ。 音楽に対するアプローチ全般に天才性が含まれていた。あいつの音楽のコンセプトは誰にも似てはいなかったんだ」



 

そのせいで、彼は当初、異端者としてみなされるケースもあった。「攻撃されるのは慣れっこだったよ」とチャールズは後にアトランティック・レコードの時代を回想している。「ゴスペルとブルーズのリズム・パターンは、以前からクロスオーバーしていた。スレイヴの時代からの名残なんだろうと思うけど、これはコミュニケーションの手段だと思っていたから・・・。なのに、俺が古いゴスペルの曲をやりはじめたら、教会どころか、ミュージシャンからも大きなバッシングを受けた。”不心得者だ”とかなんとか言われてさ、俺がやっていることは正気ではないとも言われたな」

 



 

  


1980年のこと、クリーブランドのホテルの一室でパーマーという人物が直接に「君は天才ではないのか?」と尋ねると、チャールズは例のクックという薄笑いを浮かべた。

 

「俺はさ、つねに決断を迫られているマネージャーみたいなもんでね・・・」チャールズは、そういうと、オレンジ色のバスローブ姿で立ち上がり、それまで吸っていた煙草の火をテーブルの上にある灰皿で器用にもみ消した。

 

「上手く行きゃ、天才呼ばわり・・・。行かなきゃ、ただのバカかアホ・・・。俺たちがやったことは、結局はうまく行ったわけだ。だから俺は天才ということになった。ただ、それだけのことだろ?」

 

 

  



1930年、9月22日にレイ・チャールズはジョージア州、オルバニーに生まれ、フロリダ州で少年時代を過ごす。彼は、生まれた時点で、不幸の兆候に見舞われていた。五歳の時、弟が風呂場で溺死するのを目撃した。七歳になる頃には、緑内障で失明した。独立精神を重んじた母親の教育方針の賜物があってか、彼は当時住んでいたフロリダのグリーンヴィルのカフェのブギ・ウギ・ピアノの演奏家から、ピアノ演奏の手ほどきを受けるようになった。「ヘイ、チャールズ、昨日弾いたみたいに弾いてごらん」と、つまり、それが親父の口癖だった。

 

チャールズの演奏の才覚は目を瞠るべきものがあった、バッハ、スウィング・ポップ、グランド・オール・オプリー、お望みとあらば、何でも弾くことが出来た。それから、彼はセント・オーガスティンという人種隔離制の視覚障がい者学校で裕福な白人婦人のためのピアノを弾いた。

 

チャールズは、その後、作曲と音楽論を学び、点字で編曲を行うようになった。クラスメートが休暇に帰省すると、彼は白人専用の校舎にあるピアノ室に寝泊まりした。そんな生活がチャールズの人生だったが、15歳のときに母親が他界した。いよいよ学業を断念せざるをえなくなった。「ママが亡くなった時・・・」チャールズは自伝で回想している。「夏の数ヶ月間が俺にとってのターニングポイントだったよ」「つまりさ、自分なりのタイミングで、自分なりの道を、自分のちからで決断せねばならなかった。でも、沈黙と苦難の時代が俺を強くしたことは確かだろう。その強靭さは一生のところ俺の人生についてまわることになったんだ」



 

 

 チャールズは青年期を通じて、故郷であるフロリダを中心に演奏するようになった。もちろんレパートリーの多さには定評があった。その後、彼は、バスに乗り込んで、西海岸を目指した。1947年頃には、Swing Timeという黒人のレコード購買層をターゲットにしたロサンゼルスの弱小レーベルとレコード会社と最初のサインを交わした。レイ・チャールズは、ナット・キング・コールとチャールズ・ブラウンをお手本にし、彼らの自然な歌の延長線上にあるピアノの演奏をモットーにしていた。

 

 

「レイは俺の大ファンでいてくれたんだ」とブラウンは打ち明け話をするような感じで回想している。「実は、彼と一緒に演奏していた頃、それでかなりの稼ぎがあったんでね・・・」

 

 

Charles Brown
   1951年に、「Baby Let Me Hold Your Hand」が最初のヒット作となった。このシングルは翌年にメジャーレーベルのアトランティック・レコードが2500ドルで彼の契約を買収したことで、アーティストにとっては自信をつけるためのまたとない機会となった。ニューヨーク、ニューオーリンズで行われたアトランティックが企画した最初のセッションでは、「It Should Have Been Me」、「Don’t You Know」、「Black Jack」等、感情的なナンバーを披露した。 これらの曲にはアーティストの最初期の文学性の特徴である、皮肉と自己嫌悪が内在していた。



 

こういった最初の下積み時代を経て、チャールズはより自らの音楽性に磨きをかけていった。続く、1954年、アトランティックのビーコン・クラブのセッションでは、アーメット・アーティガンとパートナーに向けて、新曲を披露する機会に恵まれた。「驚くべきことに、彼は音符の一個に至るまで」とアーティガンは回想している。「すべて頭の中に入っていた」「彼の演奏を少しずつ方向づけすることは出来ても、後は彼にすべてを任せるしかなかったんだ」

 

 

レイ・チャールズの音楽性に革新性がもたらされ、彼の音楽が一般的に認められたのは、1954年のことだ。アトランタのWGSTというラジオ局のスタジオで「I Get A Woman」というマディー・ウォーターズのような曲名のトラックのレコーディングを、ある午後の時間に行った。これが、その後のソウルの世界を一変させた。「たまげたよ」レコーディングに居合わせたウィクスラーは、感嘆を隠そうともしなかった。「正直なところさ、あいつが卵から孵ったような気がしたな。なんかめちゃくちゃすごいことが起ころうとしているのがわかったんだよ」



 

ウィクスラーの予感は間違っていなかった。「I Get A Woman」は、一夜にしてトップに上り詰めた。古い常識を打ち破り、新しい常識を確立し、世俗のスタイルと教会の神格化されたスタイルを混同させて、土曜の歓楽の夜と日曜の礼拝の朝の境界線を曖昧にさせる魔力を持ち合わせていた。チャールズのソウルの代名詞のゴスペルは言わずもがな、ジャズとブルースに根ざした歌詞は、メインストリームの購買層の興味を惹きつけた。もちろん、R&Bチャートのトップを記録し、エルヴィス・プレスリーもカバーし、1950年代のポピュラー・ミュージックの代表曲と目されるようになった。この時期、アメリカ全体がチャールズの音楽に注目を寄せるようになった。

 

 

 

 

  


やがて、多くのミュージシャンと同様に、ロード地獄の時代が到来した。チャールズはその後の4年間の何百日をライブに明け暮れた。中には、ヤバそうなバー、危険なロードハウスでの演奏もあった。ところが、チャールズの音楽は、どのような場所でも歓迎され、受けに受けまくった。その後も、ライブの合間を縫ってレコーディングを継続し、「This Little Girl Of Mine」、「Hallelujah I Love Her So」の両シングルをヒットチャートの首位に送り込んでいった。その中では、レイ・チャールズのキャリアの代表曲の一つである「What'd I Say (PartⅠ)」も生み出されることに。この曲は文字通り、米国全体にソウル旋風を巻き起こすことになった。



 

この曲は、ゴスペル風の渋い曲調から、エレクトリック・ピアノの軽快なラテン・ブルースを基調にしたソウル、そしてその最後にはアフリカの儀式音楽「グリオ」のコール・アンド・レスポンスの影響を交えた、享楽的なダンスミュージックへと変化していく。 1959年、ピッツバーグのダンスホールで即興で作られた「What'd I Say (PartⅠ)」は、ブラック・ミュージックの最盛期の代表曲としてその後のポピュラー音楽史にその名を刻むことになる。しかし、当時、白人系のラジオ曲では、この曲のオンエアが禁止されていた。それでも、ポップチャート入りを果たし、自身初となるミリオン・セラーを記録した。その六ヶ月後に、チャールズは、アトランティックからABCレコードに移籍した。その後、カタログの所有権に関する契約を結ぶ。当時、29歳。飛ぶ鳥を落とす勢いで、スター・ミュージシャンへの階段を上っていった。

 



 

1971年の来日時 東京で撮影

 

フレンチ・ポップのスターであり、「Je T'Aime Molnon Plus」のセルジュ・ゲンスブールとのデュエットで有名となったジェーン・バーキンは、先週、パリの自宅で息を引き取った。今なお、フランソワーズ・アルディとシルヴィ・ヴァルタンとともにフランス国内のポップスを象徴する歌手だが、バーキンはイギリス出身の歌手である。結局のところ、セルジュ・ゲンスブールとの映画での共演、またその出会いが彼女のミュージシャンとしてのキャリアを歩ませる契機となったのは最早疑いのないことだ。ちなみに「ジュテーム」は当初、日本ビクター(フィリップス)から発売され、日本国内でのフレンチポップの普及に一役買ったのは言うまでもない。

  

詩人とラ・プティ・アングレーズは12年間カップルとして過ごした。その過程では、東京にも来日し、共に楽しい過ごした。しかし、この二人の生涯はフランスの文豪、フランソワ・モーリヤックの名作小説『愛の砂漠』をリアル化したものと言えよう。その中にキリスト教的な概念が乏しいとしてもである。この両者の関係を見ると、『愛の砂漠』と同じように、それ以前のキリスト教のカソリックを主体とする生き方とは別の近代的な精神性を追い求めていったという印象がある。つまり禁欲とは正反対にある自由奔放さである。彼らの人生には音楽があり、そして映画があり、詩があった。

 

ジェーン・バーキンがセルジュに出会ったのは1968年のこと。彼女はすぐに彼が傲慢であり、ときに醜悪さを隠そうともしないことを悟った。バーキンはその頃、スローガンを撮影するためにイギリスからフランスにやってきたばかりだった。当然、フランス語を一言も話すことが出来なかったというが、マリサ・ベレンソンの後任としてピエール・グリブラット監督に抜擢された。




 

また、当然のことながら舞台では、恋人役として愛し合う演技をしなければならなかったが、ゲンスブールが非常に冷酷な態度を取ることにバーキンはかなりの衝撃を受けたという。バーキンは演技を終えてから、楽屋に行くなり、すぐに泣き出した。「彼はひどい人! 私の恋人役をすることのなっているのに、彼はとても傲慢で頑固で、その上私を完全に無視する!!」バーキンが怒ったのも頷ける話だが、しかし、これがゲンスブールという人物であることまでは、彼女は知るよしもない。その後、バーキンは弟に電話をかけ、恋人役について話した。しかし、その後、出会いこそ最悪に近かったが、両者の仲が急速に深まっていくことになる。


監督のピエール・グリブラットは、二人の仲を取り持つため、食事をセッティングした。最初のディナー。彼が二人を放っておくと、すぐに両者は仲を縮め始めた。その夜のディナーパーティーで、セルジュとジェーンはダンスを踊ったという。スローダンス。しかし、歌手は、相手のつま先を踏む。ジェーンは優しさを感じていた。実はこのとき、ジェーン・バーキンはゲンスブールのいささか粗暴で失礼な態度が、この人物の本性を隠すための覆いであることを気がついていた。実際、その時のゲンスブールは、舞台での姿とは異なり、紳士的であり、優しかったという。その後、ゲンスブールはバーキンをラスプーチンと呼ばれるクラブに連れていき、シベリアのヴァルセ・トリステを演奏するように楽団に頼んだ。それからも彼女の父親がピアノを引いていたドラッグ・クラブにも連れて行った。14時頃、ゲンスブールがタクシーを呼び、ホテルまで送って欲しいかと尋ねると、バーキンは、その必要はないと答えた。しかし、その後、バーキンはゲンスブールをホテルまで追いかけていき、部屋まで押しかけていった。部屋に入るとすぐ、バーキンはバスルームにこもり、ゲンスブールとの肉体関係に想像を巡らせる。ところが、バーキンが寝室に行くと、ゲンスブールは既にベッドの中でぐっすり眠り込んでいた。

 

 

 同名の映画のサウンドトラックとして発表された「Je T'Aime Molnon Plus」は本来、ブリジット・バルドーに依頼され、ゲンスブールが作曲したものだ。詳細に言えば、1967年当時、駆け出しの二人のデートは酷いものであったらしく、その埋め合わせをするために、バルドーはゲンスブールにこの作曲を依頼したのだった。しかし、この両者の愛の囁きが込められたエロティックなポップスは、当初発禁処分を受けたにもかかわらず、UKチャート上位を獲得する。このせいで、ゲンスブールは当時、付き合っていたバルドーとの関係を終わらせた。しかし、この曲がヒットしたのには理由がある。音楽的な甘さというのもひとつの魅力だが、それに加え、冒頭にも述べたように、キリスト教のカソリックの禁欲的な教えからの開放というテーマも見いだせる。そして、これが近代的な自由な生き方を模索する人々の心に大きなカタルシスと癒やしをもたらしたのではないかと思われる。もちろん、たとえ映画と彼らの人生で繰り広げられるような激しい愛とはかけ離れた人生を送っていたとしても、この時代の人々には「ジュテーム」に憧れを抱いた。近代化の途上にあるそれ以前の中世の古びた価値観から多くの人々の心を開放させる力を、この名曲は持っていたのだろう。




 

実際、多くの誤解が生まれることになったこの濃密な愛の囁きではあるが、当時、ゲンスブールとバーキンは、このレコーディングを行った時、肉体関係に至っていなかったという説が有力視されている。しかし、なぜ、この録音時に、肉体関係にあったというゴシップが普及したのだろうか。


「Je T'Aime Molnon Plus」は、1967年の冬、パリのスタジオで2時間のセッションで録音されたが、エンジニアのウィリアム・フラジョレは身も蓋もない噂話を流す。彼はレコーディング中に「激しいベッティング」を目撃したと主張したのだ。ウィリアム・フラジョレの話がマスコミに伝わるなり、世間の大騒ぎになった。またレコーディングエンジニア発のゴシップがこの曲の売り上げを促進したことは、ほとんど疑いのない事実である。

 

また、この曲は、意外なことに、セルジュ・ゲンスブールが書いた人生初のラブソングだった。「この音楽はとても純粋なんだ。生まれて始めて書いたラブソングだ。でも最初は酷評されたんだ」とゲンスブールは後に回想している。ゲンスブールはそれほど他の意見に左右されるような人物ではなかったというが、この曲は、ブリジット・バルドーの夫のグンター・サックスが発売中止を依頼したことから、録音された後にお蔵入りし、1986年までこのバージョンは未発表のままだったという。この録音には、ブリジット・バルドーとの録音も残されており、バーキン自身はバルドーのバージョンのほうがホットであると主張していた。しかし、メインバージョンの録音を残した人物としての余裕が感じられはしないか。

 

またジェーン・バーキンは「この録音がリアルなシーンを録音したものか」というメディアの質問に対して「そうでなくてよかった。もしそうだったなら、ロング・プレイのレコードになっていただろうから」また次のようにも語っている、「わたしたちは、マーブル・アーチのスタジオで、電話ボックスのような場所に二人で入ってレコーディングを行った。とても退屈なレコーディングだった」 と皮肉を交えて答えている。

 

セルジュ・ゲンスブールはこの曲について「ラブソング」とみなしていたが、一方で、肉体の不可能性を歌った「アンチファックソング」であると説明している。プラトニックな感情を探求したラブソングだというのだ。「Je T'Aime Molnon Plus」はセルジュ自身が脚本を手掛けた1976年の映画『バーキン』のタイトルにもなっている。また、この映画は、ジェーン・バーキンがジョー・ダレッサンドロと共演し、ジェラール・ドパルドゥーが端役で出演している。

 

 「Je T'Aime Molnon Plus」は当初、オンエアの禁止処分を受けたが、店頭で購入出来た。発売元のフィリップスは、この曲を傘下のフォンタナの子会社からリリースすることを決定する。当初は、「21歳未満購入禁止」という文字がプリントされた無地のスリーブに梱包され、販売されていた。もちろん、この曲は発売当時、公共放送ではオンエア禁止となり、イギリスを含む多くのラジオ曲で放送禁止だった。また、イタリアでは、ローマ法皇が不快感を示していたが、結局、この曲はイタリアで1969年2月に発売された。また、フォンタナからのオリジナルバージョンのリリース時には、全英チャートで2位を記録したが、レーベル側の意向により、記録は抹消されている。




近年、イギリスでパンクが再燃しており、現在もそれはポスト・パンクという形で若者を中心に親しまれていることは確かだろう。

 

そしてパンクのロングタイムの人気を象徴づける記事がある。2022年6月5日のNMEの記事では、こう報じられている。ーーセックス・ピストルズの「God Save The Queen」がロングラン・ヒットを記録し、イギリス国内で最も売れたシングルとしてプラチナ・ジュビリーに認定ーーと。

 

「ゴッド・ザ・セイヴズ・ザ・クイーン」は、今もなお老若男女にしたしまれている永遠のアンセムで、パンク人気を象徴づけるアイコンの一つであるということ。


また、アーカイブ的にも、ピストルズは現在も一定の興味を惹きつけるものであることは明確だ。


ダニー・ボイルが1970年代のロンドンで生まれたパンクロック・カルチャーと、セックス・ピストルズの軌跡を追う映像シリーズ「Pistol」に着手しはじめ、映像ドラマの側面からロンドンの最初のパンクバンド、ひいてはパンク・カルチャー全体に脚光を当てようとしている。この映像は、ギタリストのスティーヴ・ジョーンズの自伝を元に制作されることになった。しかし、この映像内での楽曲使用の件で、フロントマンのジョン・ライドンとの間に法廷闘争が発生し、物議を醸した。

 

Malcom Mclaren

 

1970年代に台頭したUKパンクを単なる音楽だけの観点から捉えることは困難をきわめる。レザージャケット、カラフルなスパイキーヘア、時には後のゴシックの象徴的なファッションを形成する中性的に化粧を施したスタイル、これらはそれ以前のニューヨーク・ドールズ、VU、リチャード・ヘル、ラモーンズが出演していたマックス・カンザス・シティ、CBGB,そしてマーサー・アーツ・センターといったライブハウス文化がロンドンに渡り、そして、そのカルチャーがマルコム・マクラーレンという仕掛け人によって、パンクという形で宣伝されるに至った。

 

マクラーレンは元々はファッションデザイナーとして活動していて、ブティック、”SEX”に出入りしていた若者を掴まえ、後にこのバンドをプロデュースし、Pistolsというロンドンパンクの先駆者を生み出すことになる。これは以前に、彼がニューヨーク・ドールズのプロデュースを手掛けており、それをロンドンでより大掛かりに、そしてセンセーショナルに宣伝し、一大ムーブメントに仕立てようという彼なりの目論見があったのだ。シド・&ナンシーに代表されるファンションは既にジョニー・サンダース擁するNew York Dollsの頃のグラム・ファッションで完成されたつつあった。それをより、洗練させ、ある意味では彼らをファッションモデルのような形で飾り立てることで、パンクという概念を出発させることに繋がった。

 


マルコム・マクラーレンが一大ムーブメントを仕掛けるためのお膳立ては整っていた。1970年代のイギリスでは、英国病と呼ばれる病理が蔓延していた。大まかには、国を挙げてセカンダリー・バンキングへ傾注した1960年代以降のイギリスにおいて、充実した社会保障制度や基幹産業の国有化等の政策が実施され、社会保障負担の増加、国民の勤労意欲低下、既得権益の発生、及び、その他の経済・社会的な問題を発生させた現象を意味する。 この時代を描いた作品としてユアン・マクレガー主演の映画「Train Spotting」が挙げられる。イギリス国内の社会不安の増大により勤労意欲が低下した若者たちのリアルな姿が脚色を交えて描かれた作品だ。


 当時、労働者階級とアッパー・ミドル以上の階級との格差は増大し、その社会構造の間に奇妙な歪みが生み出されていたことは想像に難くない。悪い経済が蔓延していたのみならず、レコード産業も衰退していた。それ以前のRoling Stones、Led Zeppelin、Pink Floydのレコード産業の栄華が過去の遺物となりつつあり、音楽産業自体が下火になっていたのがこの70年代の中頃である。

 

さらに、アートスクールの奨学金や失業保険の手当を受けて生活しているような若者たちにとって、Zepのハードロックやピンク・フロイドのプログレッシブロックは端的に言えば、リアリティを欠いたものだった。そのメインストリーム・ミュージックに根ざした音楽の風潮の変化がもたらされたのが75年のこと。「俺はピンクフロイドが嫌い」というTシャツを来たある若者が「I'm Eighteen」のオーディションを受け、合格する。これがロンドンのパンクバンドが出発した瞬間だ。

 

 

最初のシングル「Anarchy In The UK」の発売 グレン・マトロックの解雇


パンクの誕生を伺わせる当時の英国の新聞各社の報道

Sex Pistolsの最初のショーは1975年11月6日に行われた。ショーは主にカバーを中心に構成されていた。それからいくつかのギグを続け、ピストルズは、ブロムリー・コンティンジェントとして知られるファンベースを獲得する。続いて、1976年、バンドは、パブロックの代表格、Eddie & The Hot Rodsの最大のショーのサポートを務める。既にその頃から、バンドの攻撃性と興奮は多くの観客を魅了していた。唯一の懸念だったバンドの演奏力は見れるものとなり、そしてスティ-ヴ・ジョーンズの演奏力も上昇した。特にこの時代、ピストルズの面々は多くの熱狂的なファンに熱量のあるショーを期待されており、信念やインスピレーションを欠いた気のないパフォーマンスをしようものなら、ファンが暴徒化する場合もあったという。結局それらの取り巻きのフーリガン的な行動により、セックス・ピストルズに暴力的なイメージが付きまとうことになった。また、このイメージはのちのスキンズやハードコアパンクのスタイルの源流を形成することになった。

 

同年の6月4日、バンドはマンチェスターで伝説的なギグを開催する。ここには、ピート・シェリー、ハワード・デヴォート(Buzzcocks)、バーナード・サムナー、イアン・カーティス、ピーター・フック(Joy Divison)のメンバーが観客の中にいた。その日の観客は40人前後だったとも言われている。


ライブギグで一定の支持を獲得した後、1976年7月20日にパンクの古典となる「Anarchy In The UK」をEMIからリリースする。社会風刺的な歌詞は当時のロックファンにとって真新しいもので、米国と英国のパンクの相違を象徴していた。さらに続いて、9月1日、バンドはテレビに初めて出演する。パンクブームの発起人の一人でありマンチェスターのファクトリー・レコードの主宰者でもある、トニー・ウィルソンのテレビ番組に出演し、スタジオでこのデビュー・シングルを初披露する。その5日後、ビル・グランディが司会をするテレビ番組にも出演し、バンシーズのスージー・スーに軽率な発言を行い、批判を呼ぶ。これはグランティとスティーヴ・ジョーンズとの間に会話をもたらし、その当時の国内のメディアの意義を根底から揺るがすものでもあった。また、12月のテレビ出演時には、四文字言葉を連発し、センセーショナルな話題をもたらした。






1977年、イギリス国内最大の音楽メディアのNME宛てに一通の電報が届いた。 Sex Pistolsのマネージャーのマクラーレンから、「グレン・マトロックが解雇された」との一報だ。デビュー当時はピストルズの音楽性の一端をになっていたマトロックの解雇は、大いに注目に値するものだった。


彼の後任にはすぐさまシド・ヴィシャスが内定するが、そもそも、当時のヴィシャスはベースを演奏することが出来ず、ガールフレンドのナンシー・スパンゲンとの交友があってか、麻薬漬けの日々を送っていた。

 

これが後にどのような形で、このバンドの終焉となるかは周知のとおりだが、当時、彼の革ジャンとTシャツ、ブーツというルックス、そして日常における破天荒きわまりない行動が「パンク」であるとされ、マクラーレンはバンドへの加入を促した。パンクのファッションとの深い関連は、特にヴィシャルがもたらしたものであると考えるのが妥当ではないだろうか。

 

 

「God Save The Queen」のセンセーショナルな宣伝 ジョン・ライドンが曲に込めた真意とは?



Sex Pistolsのデビュー・シングルの宣伝 20世紀には飛行機から広告をまく手法があったが、それに近いゲリラ的な宣伝方法の一つ


セックス・ピストルズのデビュー・シングルがA&Mからリリースされたのは1977年のことだ。このリリース日は、エリザベス女王のシルバー・ジュビリーの祝典と時を同じくしていた。ピストルズの四人は、報道カメラマンを呼んで、船の上で「God Save The Queen」のリリース記念パーティーを開催するが、後に社会問題に発展する。この宣伝方法が、すべてがマルコム・マクラーレンによってしかけられたものであるとしても、オリジナル・バージョンのシングルのアートワークは過激きわまりないもので、女王の顔に彼らのトレードマークである安全ピンを差したデザインだった。最初のバージョンは、すぐに発禁処分になり、後にアートワークは差し替えられるが、このシングルのリリースが知れ渡ると、英国内で論争を巻き起こすことになった。当然のことながら、ピストルズは、レーベルとの契約後、わずか6日でA&Mとの契約を打ち切られる。次いで、レコードの25,000枚が廃棄処分となる。現存する希少なオリジナルバージョンは現在でもコレクターの間で価値のあるレコードとしてみなされている。


A&Mとの契約解消後、PistolsはすぐにVerginと契約を結ぶ。その後、「God Save The Queen」はピクチャースリーブ付きで発売された。

 

既にBBCでは放送禁止となっていたにも関わらず、この曲はNMEチャートで一位を獲得した。結局イギリスの公式チャートでも2位まで上昇するが、長らくチャート集計側が意図的にトップから遠ざけていたという噂もあるようだ。 

 

この年、複数の魅力的なロンドンパンクバンドがデビューし、その中にはクラッシュ、ストラングラーズ、ジャムがいた。彼らはヒットチャートの上位を獲得し、パンク人気を全国区に引き上げる役割を果たした。


 


「God Save The Queen」では、国家概念を擬人的に捉える古典的な詩の手法が取り入れられていて、「イングランドは叫んでいる、未来はない」というフレーズが最後の部分で歌われるが、それは実際、のちのサッチャー政権時代ザ・スミスの楽曲のように、他のどのロックよりも社会不安のリアリティを直視し、それをシンプルに言い当てたものだった。多くの若者たちは英国への愛と不信が混在したシニカルな歌詞と歌に大きな共感を覚えたことは想像に難くない。しかし、ジョン・ライドンはこのデビューシングルについて、ピアーズ・モーガンに次のように語った。これは長年のライドンの英国王室へ嫌悪感があるという誤解を解くための発言として念頭にとどめておいた方が良さそうだ。


特にジュビリーのために書いたというわけではないんです。それが私の思考回路そのものだった。わたしたちがそのボートパーティーをする数ヶ月前。歌詞の内容は反王党主義に近いものですが、もちろんそれと同時に非人間的なものでもありません。

 

私はぜひともこのことを言っておかねばならないんです。私が人間として王室に対して完全に死していると決めつけてはいないのです。そうは思っていません。女王が生き残り、上手くやっていくことを本当に誇りに思っているんです。

 

また女王に喝采を送りたい。私はそのことについて不機嫌ではありません。この制度を支持するために税金を支払うというのなら、そのことについては何らかの意見を差し挟む必要もありそうですが・・・。

 

また、ピアーズ・モーガンが「君はつまり、君主制の終わりを見たくない・・・」と尋ねると、さらにライドンは以下のように述べている。

 

私はそもそもページェントリーが大好きです。私はまたサッカーファンですが、どうしてそうせずにいられるのでしょう? 

 

私はロイヤル・ウェディングを見るのが好きなんです。なぜならスピットファイアやB-52等が宮殿の上空を飛行するのが本当に楽しいから。そういったことに感情的になる場合もありますが。

 

しかし、私は国家を愛しており、また国民を愛しています。そして、それに関することも愛している。でも、そこに問題がある。私にはこのことを言う権利があると思います。だから私は、女王陛下万歳、と書きました。信じてほしい、あれは私が書いたんです。他の人ではありません。これは私が完全に有能な視点を表現したものだったのです。

 

 

1977年10月28日にデビュー・アルバム『Never Mind The Bollocks」がVirginから発売された。米国では2週遅れで発売となった。ほとんどの曲は、グレン・マトロックとジョニー・ロットンにより書かれており、他のメンバーは補佐的な形で意見を交えている。マトロック脱退後、アルバムのために2曲「Holiday In The Sun」、「Bodies」 を書き加えられた。グレン・マトロックは76年にEMIからリリースされた「Anarchy In The UK」のうち一曲で演奏している。


アルバムの最初のタイトルは、「God Save Sex Pistols」であった。1977年半ばに「Ballocks」という単語が追加された。しかし、「Ballocks」というタイトルが1899年に施行された「わいせつ広告法」に該当するとし、レコード・ショップのオーナーの多くは、ショーウィンドウで宣伝をした際には罰金及び逮捕の処分があると警察から忠告を受けた。実際、警察はノッティンガムにあるVirginの店舗の捜査に踏み切り、オーナーを逮捕する。しかし、これもヴァージンとマクラーレンにとって恰好の宣伝の機会となり、彼らは”アルバムが長持ちする”という判断を下した。


 


 

デビューアルバム『Never Mind The Bollocks』に込められた意味、一般的な発売日を迎えるまで

 

「Never Mind The Bollocks』発売当初のVirgin Records

 

結果的に、現行のアルバムのタイトルが普及している理由は、「Bollocks」という睾丸を意味する単語が一般的に普及するナンセンスな用語に該当すると、ノッティンガム大学のイングリッシュ教授は証人として指摘した上、さらに、この言葉が古英語で「聖職者」を意味すると法廷で証言し、擁護したことによる。この裁判を受け持った判事は、Bollocksという単語の使用を許可するとともに、バンド、レーベルの発売権における全ての宣伝、及び活動を容認する結果となった。

 

ヴァージン・レコードとの契約後も、マルコム・マクラーレンはアルバムの宣伝とパンクの普及活動に余念がなかった。マクラーレンは米国を含む各国で交渉を続行した。


1977年10月10日には、ワーナーとの契約を締結する。つまり、このアルバムに2つの配色が用意されているのは、これが要因のようである。イエローバージョンはヴァージンのデザインで、ピンクがかったデザインはワーナーのリリースとなっている。

 


フランスでは、マルコム・マクラーレンがバークレーと粘り強い交渉を続け、アルバムは12曲から一曲をカットし、全11曲でリリースされることが決定した。加えてアルバムは一週早く発売されることが決定し、これによって、Virgin Recordsは英語でのリリースを10月28日に前倒しした。最初の50,000部には11トラックのバージョンが収録されていた。このバージョンにはのちにレア・トラックとして発売される「Submission」の7インチとポスターが付属していた。

 

Virginにとって最後の問題となったのは海賊版「Spunk」のリリースの懸念事項だ。このアルバムにはデモとスタジオレコーディングが収録されていた。また録音自体はグレン・マトロックが在籍時に制作されたもので、オリジナル版よりもプリミティヴな音質が味わえるとされている。 さらにこの音源はマクラーレンが録音のマスターテープを漏洩したとも言われている。しかし、マクラーレン本人はそれを否定している。



 

このブートレッグのアルバムは、1977年の9月から10月にかけて発売され、オリジナル版がリリースされる数週間前にリークされていた。しかし、このことに関してはレーベル側は良い宣伝とみなしていた。「Spunk」は、デンマーク・ストリートのリハーサル・スタジオ、ロンドンのランズダウン、ウェセックス・スタジオ、ロンドンのグーズベリー/エデン・スタジオと、複数のスペースで録音された。このリリースは、1996年になって、オリジナル版の追加ディスクとして再発されている。

 

デビュー・アルバム「Never Mind The Bollocks』は発売後まもなくゴールド・ディスクを獲得し、ヒットチャートの一位に輝いた。しかし、これらの曲のほとんどが既発曲であったことがセックス・ピストルズの限界性を示していたという意見もある。

 

最初に「New Wave」という言葉がメロディー・メイカー誌に掲載された1978年、Sex Pistolsはアメリカツアーを終えたのちに解散した。その後、The Clash、The Damedといったレジェンドたちは息の長い活躍をするが、一方、Buzzcocksをはじめニューウェイブに属する清新なバンドの台頭が控えていた。その後の年代には、オリジナル世代のバンドが主流となり、メジャーレーベルと契約し、オリジナルパンクが形骸化するようになるにつれ、ポストパンクが主流となっていく。

 

その中には、このバンドの黎明期のライブを見届けたイアン・カーティス擁するJoy Divisonも1979年にデビューを果たし、国内のミュージックシーンを席巻していく。また同時進行で、ファクトリー、クラブハシエンダを中心とするクラブ・ミュージック文化もマンチェスターを中心に沸き起ころうとしていた。一般的には、英国の最初のオリジナル・パンクのウェイヴは、1977年に始まり、ほとんど一年でそのムーブメントは終焉を迎えたと見るのが妥当かもしれない。

 

しかし、その後には、1978年から沸き起こるニューウェイヴ/ポストパンク、また、オリジナル世代のコアなファッションを受け継いだ、Discharge、The ExploitedをはじめとするUKハードコアパンクのバンドが登場したことは周知の通りだ。これらのバンドは、最初期のオリジナルパンクとはその音楽性を異にするが、政治風刺を込めたメッセージや、レザー・ジャケット、スパイキー・ヘアというファッション性においてオリジナル世代のDNAを受け継ぎ、文化性を確立していく。


そのニューウェイヴ/ポストパンクと呼ばれるムーブメントの最前線には、Public Image Ltd.もいた。ジョン・ライドンは、80年代もニューウェイブ・ムーブメントを牽引する役目を担った。その過程では、Sex Pistolsのアンセムに勝るとも劣らない「Rise」という名曲も誕生したのだった。



最初、サブカルチャーとして、ラスタファリアニズムについて取り上げる予定だったが、それから早一年以上が経過してしまった。

 

結果的に、レゲエの神様について、サブカルチャーやサブジャンルのように取り扱うのは無礼ではないのかという答えにいたったわけだ。レゲエについては、近年でもヒップホップやソウルにごく普通に取り入れられるジャンルで、レコードコレクターとしては避けることが出来ない。この音楽はそもそも、トリニダードのカリプソなどを祖先に持ち、Ⅱ拍目とⅣ拍目に強拍を置くのが主な特徴という側面では、スカ/ダブと同様である。ただし、このジャンルはソウルの影響が色濃く、ほとんどモータウンの音楽のリズム的な再解釈という見解を避けて通ることは出来まい。Trojan時代の音源を聴くとこのことはよくわかっていただけると思うが、レゲエはそもそも、ジャンルとしては、ビンテージ・ソウルであり、ロックの主流の素地を形成している。基本的には、レゲエはクラブ・ミュージックなのではなく、ソウルミュージックに属しており、それが後にダンスホールでも普通に親しまれるようになったというのが順当な見方なのだ。

 

結果的に、64年頃にデビューしたボブ・マーリーが、レゲエを世界的に普及させたという説に異論を唱える人は少ないと思われる。日本でも島国という性質から、レゲエに共感を覚えるリスナーは多い。ジャマイカも日本も、海に囲まれた国という共通項があるからだ。当初、日本でのレゲエ人気が到来したのは、90年代だ。J-POPの最盛期であった95年頃と同時的に、街角の到る場所でレゲエがかかっていたそうで、レコード屋でもよく売れたジャンルだった。現在は、著作権の関係であまり街中で音楽がかからなくなってしまったが、結局、これは音楽の売上に大きな効果を及ぼし、また、産業自体を潤していたことは最早疑いを入れる余地はない。

 

さて、日本で最初にレゲエが親しまれることになったのは、74年のこと。エリック・クラプトンが「I Shot the Sheriff(警官を打っちまった)」をカバーしたからという説が濃厚である。最早このナンバーはCREAMの演奏としてはお馴染み過ぎる。当時、一部の音楽マニア、ロックファンを中心に親しまれていたが、1979年にボブ・マーリーは来日公演を行い、日本国内でもレゲエという代名詞とともにその名を知られるようになる。しかしながら、その二年後、正確に言えば、81年の5月11日、36歳という若さでマーリーは死去する。捉え方によっては彼が推進したエチオピア皇帝を唯一神とするラスタファリアニズムとともに、またジャマイカの三色旗とともに、彼の存在は半ば、クラブ27の面々のように神格化されるに至った。

 

その後、70年代の2Tone、ニューウェイブの到来とともに、日本でもレゲエの人気が沸騰していく。80年代、ダンスホールが隆盛をきわめるに従い、日本ではレゲエの2ndウェイヴが到来。ただし、クラブミュージックの最盛期、 先駆者のボブ・マーリーは聞かないという場合があったようだ。というのは、クラブ・ミュージックを織り込んだアスワド、ビック・マウンテン等が十代の若者に人気だったらしく、マーリーは踊れないので倦厭するリスナーがいたらしい。これらのリスナー層は、マーリーを尊敬しながらも、リスナーとしては多少遠慮するというケースが多かったそうだ。これは、アスワド、ビック・マウンテンらが身近な存在であるのに対し、マーリーは神がかっており、思想的なので、近づきがたい存在だったという話もある。

 

その後、J-POPの中にごく普通にレゲエ色を取り入れるグループもでてきたのは周知の通りである。

 

ただ、時代を経ると、アスワドやビッグ・マウンテンは当時の流行の音楽ではあったが、今、考えると少しだけ時代に埋もれてしまった印象もある。結局、ボブ・マーリーとジミー・クリフは別格というのがレゲエファンの答えではないか。二人は、商業音楽を生み出しておきながら、民族音楽、ワールド・ミュージックとしての音楽性をその中に内在させていた。今回、大まかにマーリーの生涯について下記に記しておく。

 

 

 ・最も貧しい区域、トレンチタウンの音楽

 

ボブ・マーリーは、1945年、2月6日にジャマイカのセント・アン地区に生まれる。十代の黒人の母親、かなりの年上で後に不在となった白人の父親の間に生まれた。

 

後に、彼のもとから去った父親という人生の中の出来事は、彼の音楽性や思想に深い影響を及ぼしたという指摘があり、マーリーは「父の不在」というテーマを音楽活動を通じて追い求めていくことになる。彼は、”ナイン・マイルズ”と呼ばれる地方の村にあるセントアン教区で幼少期を過ごしたという。セント・アンでの彼の幼馴染のひとりに、ネヴィル・バニー・オライリー・リビングストンという少年がいた。同じ学校に通っていた彼らは、音楽への愛情を深めたという。バニーの影響により、ボブ・マーリーはギターを演奏するようになった。ここに後にレスポールギターをトレードマークとする音楽家のルーツを伺うことが出来る。のちに、リビングストンの父親とマーリーの母親も、この関係に関与するようになったとクリストファー・ジョン・ファーリーは、マーリーの伝記『Before The Legend: The Rise Of Bob Marly』で指摘している。1950年代に、キングストンに転居したマーリーは、市内の最も貧しい区域の一つ、トレンチ・タウンに住むようになる。この時の経験は、彼の後の代表曲「トレンチ・タウンロック(Trench Town Rock」の着想の元になったと推測される。この年代を通じ、マーリーと彼の友人であるリビングストンは音楽に多くの時間を費やした。ジョー・ヒッグスという人物の指導のもと、彼はボーカルの訓練にも精励するようになった。

 

また街なかで流れていた音楽がボブ・マーリーの音楽観を形成していくようになる。幸運なことに、トレンチ・タウンは貧しい街だったが、地元の音楽パフォーマーが活躍し、さらに米国からの新鮮な音楽が、ラジオやジュークボックスを通じて届けられた。マーリーは聴いていた、レイ・チャールズ、ファッツ・ドミノ、ドリフターズ、そして、プレスリーを聴いていた。彼はこの時代を通じて、多くの音楽的な経験をし、そしてジョー・ヒッグスの仲介を通じて、ピーター・マッキントッシュ(後のピーター・トッシュ)と運命的な出会いを果たすことになる。

 

 

 ・ウェイラーズの時代 レゲエ音楽の普及

 

地元で影響力のあるレコード・プロデューサー、レスリー・コングは、マーリーのボーカルを痛く気に入った。コングはマーリーを呼びよせ、その後、数枚のシングルをレコーディングさせ、最初の作品が1962年に発売された。それが「ジャッジ・ノット」という最初のシングルだった。ボブ・マーリーはソロアーティストとしては最初の成功を収めることが出来なかった。しかし、その後、翌年、彼は友人と彼のバンドの代名詞となるボブ・マーリー&ウェイラーズを結成する。もちろん、そのメンバーの中には、幼馴染のリビングストン、マッキントッシュがいた。彼らはバンド結成後、最初のシングルとなる「シマー・ダウン」をリリースする。このウェイラーズの最初のシングルはジャマイカのチャートで第一位を獲得する。この時、幼馴染の二人に加えて、ジュニア・ブレイスウェイト、ビバリー・ケルソ、チェリー・スミスもウェイラーズに参加した。

 

ウェイラーズはチャートの首位を獲得したものの、商業的な成功とは縁遠かった。 ブレイスウェイト、ケルソ、スミスが程なくグループを離脱する。残されたメンバーは一時的に疎遠となるが、マーリーは母親が当時住んでいた米国へ向かう。出発直前の1966年の2月にリタ・アンダーソンと結婚した。8ヶ月後、マーリーはジャマイカに帰国し、リビングストンとマッキントッシュとウェイラーズを再結成する。この頃、マーリーは思想的な側面を探求するようになる、ラスタファリアン運動への関心を高めるようになった。一般的にはマーリーが普及させたといわれるこの運動は実はそれ以前から発生しており、1930年代のジャマイカで沸き起こった。そのドグマについては、ジャマイカの思想的な面でのヨーロッパを中心とするキリスト教圏からの脱却が掲げられ、民族主義者のマーカス・ガーベイ、旧約聖書、アフリカの伝統文化等が、その教義の中に取り入れられていた。一見すると、世迷言にも思えるこの運動ではあるが、フェラ・クティの掲げたアフリカ主義の一貫として台頭した”アフロ・フューチャリズム”の思想性を国家レベルで体現させようという考えが、その中に含まれていたのだった。


60年代後半になると、ボブ・マーリーはポップ歌手のジョニー・ナッシュと仕事を行った。ナッシュはマーリーの曲「Stir It Up」で世界的なヒットを記録する。ウェイラーズはこの時代に、プロデューサーのリー・ペリーとも仕事をするようになった。リー・ペリーはウェイラーズの最盛期の活躍を支え、「トレンチタウン・ロック」、「ソウル・レベル」、「フォー・ハンドレド・イヤーズ」を世に送り出した。この時代を通じて、ウェイラーズの名は徐々に世界の音楽ファンに親しまれるようになった。またウェイラーズは、1970年代に入ると、ラインナップを変更し、アストン・バレット、彼の弟であるドラマーのカールトン・バレットを新たなメンバーに迎え入れ、サウンドの強化を図った。翌年、フロントマンのマーリーは、スウェーデンでジョニー・ナッシュと一緒に人生で初の映画のサウンドトラックの制作に取り組んだという。



・アイランド・レコード所属の時代 レゲエの最盛期 数々の大ヒット

 

 

その後、ウェイラーズは1972年になると、クリス・ブラックウェルが設立したアイランド・レコードと契約を結び、世界的な大ブレイクを果たす。アイランドは現在も良質なリリースを続ける大手のメジャー・レーベルの一つだ。

 

この時代、モータウン・ソウルやファンク、オールディーズに根ざした古典的な音楽性から、スタンダードなロックやポップスへと音楽性のモデルチェンジを行い、モダンなサウンドで一世を風靡し、世界的にウェイラーズ旋風を巻き起こす。グループは初めて、フルアルバムをレコーディングするためにメンバー揃ってスタジオ入りする。

 

その結果、バンドの出世作となる「Catch a Fire」が誕生したのは当然の成り行きだった。ウェイラーズはアルバムの発表後の73年に、イギリスとアメリカをツアーし、アメリカン・ロックのボス、ブルース・スプリングスティーン、スライザ・ファミリーストーンといった当時最大の人気を誇った音楽家やグループの前座としてステージに登場し、その名を普及させた。ウェイラーズはデビューからまもなくその人気を不動のものにしていく。同じ年に、ヒット曲「I Shot The Sheriff」を収録する2ndアルバム『Burnin'』を発表し、世界的な人気を集中に収めた。発売から一年後、イギリスのギタリスト、エリック・クラプトンがこの曲をカバーし、全米チャート第一位を獲得する。ウェイラーズの名は一躍世界的なものとなっていく。


次のアルバム『Natty Dread』は1975年に発表された。この間、オリジナルのメンバーの内二人がグループを脱退した。最初期からマーリーと活動していたリビングストンとマッキントッシュは、ソロアーティストとしてキャリアを追求するために、ウェイラーズを去っていった。「Natty Dread」はウェイラーズの作品の中で一番の問題作で、マーリーは少なからずの政治的な主張をこの中に取り入れた。ジャマイカにおける人民国民党と労働党の間の政治的な緊張をテーマに取り入れている。

 

このアルバムに収録されている「Level Music」では、マーリーの最も政治的な人生経験が表れ、彼が1972年に国政選挙前で夜遅くに軍関係者に呼び止められた緊迫した経験をモチーフにしている。「Revolution」は彼がPNPに対して支持を表明しているというのが主流の説である。

 

ウェイラーズはその後、マーリーの妻であるリタをメンバーに擁する女性グループのアイ・スリーズとともに共演を果たし、単独のウェイラーズではなく、ボブ・マーリー&ウィラーズの名で親しまれることになる。彼らは大規模なスアーを行い、レゲエ人気を普及させていく。またこの時代の男性と女性の混合の構成は、この家父長制的であった音楽に革新をもたらし、より柔らかな音楽として親しまれる要因となった。1975年にリリースされた彼らの代表曲「No Woman, No Cry」は特にイギリスでトップ40位内にランクインを果たし、英国でも彼らの名は知られるようになった。

 

その頃、すでにボブ・マーリーは祖国で大人気のスターとなっていたが、国際的なスターとしても目されるようになっていた。1976年のアルバム『Rastaman Vibration』をリリースし、マーリーはキャリア初の全米チャート・トップ10入りを果たし、アメリカでの人気を獲得した。またビルボードチャートでもR&Bのアルバム・チャートで健闘し、最高11位を記録した。彼はこの作品で戦争のテーマを織り交ぜ、エチオピア皇帝のハイレ・セラシエの演説から歌詞を引用した。抑圧からの自由を求める戦いというメッセージを込めたこの曲では、植民地支配による階級から人々を開放することが歌われ、新たなアフリカの概念についても言及されている。

 


・政治的な主張  暗殺の影

 



この時代、人気絶頂中のボブ・マーリーに不穏な影が忍び寄った。マーリーは人民国民党の支持者と目されていたが、対抗する政党であるPNPのグループにとっては彼は大きな脅威とみなされていた。そしてその後、実際に、彼は暗殺の影に脅かされることになった。1976年、12月3日の夜、キングストンのナショナル・ヒーローズ・パークで予定されていたコンサートの二日前、リハーサルを行っていたマーリー&ウェイラーズを武装集団が襲撃する。これがPNPが派遣した暗殺グループだったのかは定かではない。しかし、実際一発の銃弾がマーリーの胸骨と上腕二頭筋をかすめ、もう一発は妻のリタの頭に命中した。またドンテイラーは五発を体に受け、即刻緊急の手術を行う必要にさらされた。その襲撃にもかかわらず、マーリーはショーにその後の出演し続けた。現在も、攻撃の真意がいかなるものであったのかは明らかになっていない。この事件については、後にNetflixの映像『Remastered』で緻密な検証が行われている。

 

その当時、イギリスのロンドンに住んでいたボブ・マーリーは続編となる『Exodus』の制作に取り掛かる。この時期より、マーリーは大掛かりな作風を志向するようになる。タイトル曲に、聖書のモーセと亡命を逃れたイスラエル人の物語を織り交ぜ、マーリー自身の人生の状況をかけ合わせていた。またラスタファリアニズムの時代から続く、アフリカの伝統性に対する回帰というテーマも前の年代から引き継がれている。シングルとして発売されたタイトル曲『Exodus』は、「ウェイティング・イン・ヴェイン」、「ジャミング」と合わせてイギリスでヒットし、アルバム自体は一年間チャートインしつづけるという未曾有の継続的なヒットとなった。この作品は、現在でもボブ・マーリー&ウェイラーズの最高傑作との呼び声も高い。


音楽家としては最盛期にあったマーリーではあるが、その後に健康不安を抱えるようになる。その年のはじめ,足を負傷し、その治療を7月に受けた。診断を下した医師は、その怪我を通じてがん細胞を発見したが、マーリーは宗教的な理由により、細胞を除去する手術を受けることを拒否した。

 

 

 

 ・崇高なものへの親しみ  音楽を超える根源的なものへの接近

 



ボブ・マーリーは生前こんな言葉を残しているのを皆さんはご存知だろうか。

 

音楽は”祈り”のようなものなんだ。祈るときには、何を言ってもいいわけじゃないだろう? 大切なことを言葉にし、苦しんでいる人たちのために祈るんだよ。音楽を冗談半分なんかでやるんじゃない。真面目にやらないのなら、一切すべきじゃないよ。

 

この言葉は多くの音楽家を志す人々、また、それを専業としている人たちもよく胸に刻んでおいていただきたい箴言である。ボブ・マーリーは、現実主義者であるとともに、神秘主義者のような一面があり、言葉はいわば日本語でいう「言霊」のように捉えていた。言霊というのは、つまり、言葉には、その人の魂が乗り移り、それはやがて生きたものとなるということだ。聖書にも書かれている。「心はその人を汚さぬが、言葉がその人を汚す」。この後の時代からマーリーは命を脅かされたことにより、崇高な表現近づいていく。それは実際、このアーティストを神格化させている要因でもある。

 

ウェイラーズとして最大のヒット作である『Exodus』をリリースした後も、マーリーの創作意欲は衰え知らずだった。彼はバンドとともに「愛」という感情(をモチーフにし、「サティスファイ・マイ・ソウル」、「イズ・ディス・ラブ」という2つのヒット作を世に送り出した。何らかの直感により自らの人生がこの後どのように変遷していくのか、その運命的なものがマーリーの脳裏をかすめたことは容易く想像出来る。1978年、マーリーは平和に対する考えを明らかにするようになり、ワン・ラブ・ピース・コンサートを開催するため、イギリスからジャマイカに帰国し、主流政党であるPNPのマイケル・マンリー首相とJLPの野党党首であるエドワード・シーガーとステージ上で握手した。音楽家としめのキャリアの中盤において、政治的な対立を取り上げていたマーリーは、この時はじめて政治的な主張として「ノーサイド」を表明づけたのだった。

 

同じ年、彼は自らの重要なルーツに位置づけるアフリカを訪問し、ラスタファリアンの重要なルーツでもあるケニアとアフリカを訪問した。その時の旅行は音楽の側面でも重要なインスピレーションとなり、1979年にリリースされた次作アルバム『Survival』の素地を形成した。翌年、マーリーとウェイラーズはジンバブエの国家式典に出席している。この年代に差し掛かると、音楽家ではなく政治家としてのボブ・マーリーの存在感が際立つようになる。彼はその翌年、遺作となるアルバム『Uprising』を発表する。このアルバムでは、詩的な歌詞を取り入れ、政治的な主張と社会的な立場を織り交ぜた作品として重要視されている。中でも「Redemption Song」はこのアーティストの才能が最も花開いた瞬間であるという指摘もなされる。マーリーはこのトラックで次のように歌い、民衆の心を鼓舞している。「精神的な奴隷の状態から自分を開放しなさい。自らの心を開放出来るのはわたしたち以外に誰もいないのだから」と。

 

その後、アルバムの発売を記念するリリースツアーの最中、ヨーロッパでのコンサートを実現した。その後、アメリカにも立ちより、マディソン・スクエア・ガーデン、スタンレー・シアターでのコンサートを開催する。しかし、その頃には当初、足の怪我の時期に発見されたがん細胞は全身に転移していた。

 

晩年、ボブ・マーリーはがん治療に専心する必要にかられた。ドイツで治療を受けた後、幾ヶ月も彼は闘病生活を送った。しかし、余命がそう長くないのを悟ると、マーリーは祖国のジャマイカの地を踏むことに決めた。ところが彼の末期的な病状が祖国への期間を許さなかった。マーリーは、ジャマイカに戻ることなく、1981年5月11日にフロリダ州マイアミで息を引き取った。

 

マーリーは生前最後に、ジャマイカの政府から勲章を授与されており、また、80年には平和勲章を国連から授与されている。


生前における功績は称えられ、ジャマイカで英雄として見送られた。ジャマイカのキングストンにあるナショナル・シアターで彼の式典は開催され、そこでは彼の妻であるリタ・マーリー、その他、マーシア・グリフィス、ジュディ・モワットが追悼のための歌を捧げた。ボブ・マーリーは1994年に、ロックの殿堂入りを果たした。レゲエの神様の影響力は今日も留まることを知らない。レゲエがこの世に存在するかぎり、マーリーの栄光は途絶えることはないだろう。


 1962年の初夏、世界を変えたこの曲のリリースを前に、若きボブ・ディランの意識の中にこの曲が入り込んだとき、それがどんな風であったにせよ、それは確かに、追いつこうとするアドレナリンで転がる草のように未来を運んだ。彼の神秘的な言葉がレコードにプレスされたとき、彼は22歳であり、彼が完璧なメロディーで賞賛した美徳は、年老いた父なる時間さえも逃れていたのだ。


この曲の美しさは、それ自体が霊廟に値するが、隣の建物はその遺産に捧げられるべきものだ。そして1年後、サム・クックがインスピレーションを得て、公民権運動の賛歌を書き下ろしたとき、最初の波紋が広がった。


ボブ・ディランのレコードには、悲劇的な予感があった。How many times must the cannonballs fly, before they're forever band? "というようなセリフは、誰かが事態を一時停止させる前に、さらなる暴力が起こることを予見していたのです。6月中旬から9月末までの14週間の間に、6件の殺人、29件の銃撃、50件の爆破、60件の殴打が公民権運動の労働者を襲ったのである。



6月21日、3人の公民権運動家が失踪した。その後、ミシシッピ州の警官が彼らを殺害したことが判明する。また、ミシシッピ州の法執行官の約半数がク・クラックス・クランと関係があったことも、後に明らかになるのである。砲弾が飛び交う中、ディランのアンセムは暴力に呑み込まれることなく、彼が語る風のように、歌は物語を織り成すのである。




サムの弟で音楽仲間でもあるL.C.クックはBBCの取材に対して、「あなたがボブ・ディランの『風に吹かれて』を知っていることは知っています。「サムはいつも、黒人が'風に吹かれて'を書くべきだ、それは不公平だ、と言っていた。それで彼は、"いや、もし彼があんな曲を書けるなら、きっと私も同じくらい良いものを作れる "と言って、'A Change Gonna Come'を書くために座ったんだ。彼は'Blowin' in the Wind'に対抗するアンセムを書こうとしていたんだ。'Blowin' in the Wind'は素晴らしい曲だから、彼は座って'I was born by the river'を書いたんだ」とLCは続ける。


サム・クックの反応は、他の多くのアーティストが真似をしたものだ。ある意味で、その素晴らしさの一端は、無名のまま触れられたことにあるため、人々はこの低俗なフォークアーティストにこの曲について尋ねなければならず、彼の回答は、曲そのものと同様に、この曲の遺産の一部となっている。ディランはこう言った。


「私は今でも、最大の犯罪者は、間違ったことを見、それが間違っていることを知ったときに、目をそらす人たちだと言っているんだ。私は、まだ21歳だが、あまりにも多くの戦争があったことを知っている......21歳以上の君達は、もっと年を取っていて賢いはずなんだ」と。



ディランは、この曲の傍らで、商業的な成功などどうでもいいから、自分たちの声を出していこうと呼びかけた。例えば、モータウンは、アーティストが政治的な活動をしてはいけないという不動のルールを持っていた。しかし、1966年、スティーヴィー・ワンダーはこの曲に感動し、16歳にもかかわらず、ボスのベリー・ゴーディーJrに反抗し、カヴァーを発表するまでになったのだ。


ビートルズもこの伝説的な曲を聴いて、自分たちもレベルアップしなければならないと思い、大きな壁にぶつかることになる。彼らは、形式的な意味での政治家にはならなかったかもしれないが、手のひらを返したようにそれまでの精神主義を捨てたのである。ジョン・レノンはこの曲についてこう語っている。「メディアや大衆のために、人々を特定し、レッテルを貼ることが常に必要だっただけだ。たぶん、何百万人もの人が生まれ変わったのに、次の金曜日にはすっかり忘れてしまっている。たまたまディランがそれを公衆の面前でやっただけなんだ。"


スピリチュアルで、詩的で、荒々しく、他のすべてに中指を立てるような曲だ。この曲は、精神的であり、詩的であり、荒々しくもある。なぜ、高騰したのだろうか。彼は、嗄れた喉と、腰の振りがはっきりしない、ダイビングバーの地下室から出てきたばかりの、元祖ヒッピーだったのだ。 


しかし、それを聴いた人たちは無視できなかった。ピーター・ポール・アンド・メアリーのピーター・ヤロウは、それを聴いた初期の人たちの一人で、こうコメントしている。「ディランの曲はピーター・ポール・アンド・メアリーを別の次元に押し上げた。彼のデモを聴いて、アルバート(・グロスマン)は、大曲は『Don't Think Twice, It's All Right』だと思っていたが、我々は『Blowin' In The Wind』に夢中になっていたんだ。私たちは本能的に、この曲がその時々の瞬間を担っていることを知っていた。彼は、詩のレベルも表現のレベルも、誰よりも速く、粉々になるほど見事なまでに上昇していた」。8月に発売された彼らのカバーは、100万枚を超えるセールスを記録し、全米チャートのにおけるにおける2位にまで上昇した。ディランは、袋の外に出てきたのだ。


まもなく彼は、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアと並んで、同じような団結と理性の物語を歌うようになる。


そして、数年後、彼はローマ法王ヨハネ・パウロ2世と30万人のファンの前でこの曲を演奏し、カトリックの指導者はこうコメントした。「君は、答えは風に吹かれていると言うが、私の友人だ。その通りだ "と。ヤローは、「彼は、まさに輝きの泉、詩の泉だった。そして、人としては普通の人間だった」。普通の男が自分の声を使うのは悪くない、他の人もすぐに後に続くだろう。




1980年代のリバプールに登場したThe La'sほど謎に包まれたバンドを探すのは難しい。ボーカリストのリー・メイヴァースの隠遁的な性質もあってか、後にカルト的なファンの間で彼らの伝説は尾ひれがついていった印象もある。そもそもブラー、パルプ、オアシスに匹敵する才覚を有しながらも、デビュー・アルバム『The La’s』のレコーディング過程におけるプロデューサーとの険悪な関係が、バンドの将来の芽を摘んでしまった。しかしThe La'sのブルージーなロックと清涼感のあるリー・メイヴァースのボーカルは、今でも耳の肥えたファンの心を捉えてやまない。

 

La'sは1983年にオリジナルメンバーのマイク・バジャーによってリバプールで結成され、彼らの代表曲である「There She Goes」がヒットするまでに6年の歳月と4回の試行錯誤を要した。


サッカークラブのエヴァートンでプレーすることを子供の頃に夢見ていたリー・メイヴァースは、バンド結成から一年後の1984年に加入するまもなく、このグループの大黒柱となったが、音楽界で最もミステリアスな人物の一人として目されるようになる。1990年に、「音楽家にとって良い訓練場であるリバプールのアートスクールは、バンドの結成に一役買ったのか?」と尋ねられたさいに、「我々の学校は、宇宙の学校だ。宇宙こそ僕の大学なんだ。私の学校はストリートであり、また私の学校は世界であり、宇宙である。私は自分の視点で物事を考えているのであって、他人による視点ではないんだ」と彼は答えた。


リー・メイヴァースはルー・リードやシド・バレットに似た謎めいた人物であり、後者に匹敵するほど寡作であることは間違いない。彼は1986年にジョン・パワーと出会い、スカウス・スラングにちなんで自分たちを「ラ(ラッズの略)」と呼ぶように。  その後の4年間、彼らは8人のプロデューサーと12人のバンドメンバーを試したが、自分たちが求めるサウンドを得ることはできなかった。しかしこの点について、ファンのフォーラムでは、そもそも2ndアルバムを作る余地が最初から存在しなかったため、このデビュー作にこだわり続けたのではないかという指摘もある。そしてその指摘はもしかすると、かなり的を射たものであるのかもしれない。

 

アルバムの宣伝ポスター
1990年、待望のファースト・アルバム『The La's』をリリースしたが、このアルバムについてメイヴァースは納得がいかず、Q誌のインタビューで「大嫌いだ!」と言い、「やっている最中に出て行ってしまったんだ」と説明した。「自分たちのサウンドの意向がプロデューサーに伝わらないから嫌で、背を向けた。そして、レコード会社が勝手にバックトラックから作って、自分たちでミックスして発売することになった。どのシングルにするかとか、そういう選択肢は一切なく、違うジャケットを貼られたりもした。だから、僕らが作るのに何年もかかったわけではなく、Go Discs(彼らのレコード会社)が出すのに何年もかかっただけなんだよ」


最初のシングルは『There She Goes』で、1988年に発売されたが、ヒットしなかった。この曲は、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの『There She Goes Again』にインスパイアされたという噂が絶えなかったが、タイトルと歌詞が似ている以外は異なるものだった。誰もがこの曲を名曲だと言っていたため、再発される機会がないうちに、さらにラインアップに問題が生じ、リーの弟で、正式には彼らのローディだったニールがドラムとして参加することになった。

 

「There Shes Goes」(Original Us Version)

 


この曲は1989年1月に再リリースされたが、全英チャート59位と低迷。テストプレスはラジオ局や音楽新聞社に送られ、Melody MakerはSingle of the Weekとしたが、Maversはレコードの出来に満足せず、そのまま廃盤となった。この頃、ストーン・ローゼズ、ハッピー・マンデーズ、シャーラタンズ、インスパイラル・カーペッツなど多くの新しいバンドが登場し、彼らは結局Timeless Melodyを発表することにしたが、57位にとどまった。この曲は「There She Goes」より少し高い順位を記録したが、ファンに支持されており、「There She Goes」は1990年末に再びリリースされ、今度はかなり広範囲に放送されたため、13位を記録し、バンドの最初のヒットを記録した。メイヴァースはピート・タウンゼントやレイ・デイヴィスといったロックの伝説たちと好意的に比較されるようになり、普遍的な賞賛を浴びた。


「There She Goes」はどんな曲なのだろうか? ”There”というのは、「そこへ」を指すわけではなく、「ほら!」という冠詞に近い意味であり、歌詞の中にはそれほどはっきりとした詩はなく、コーラスが4回のみ繰り返されるだけだが、「There she goes again, racing through my brain, pulsing through my vein, no one else can heal my pain~」という歌詞が見られることから、この曲は当初、様々な憶測を呼ぶことになった。一般的にはルー・リードの曲と同じように、ヘロインについて歌っているのではないかとも噂されていた。 当時、 ある音楽新聞には、「The La's' ode to heroin」というかなり過激な小見出しが掲載されたという。ベーシストのジョン・パワーはこの件に関してコメントを求められたが、回避的な答え方をし、元ギタリスト、ポール・ヘミングスはその噂を一蹴した。

 

翌年、彼らはさらに1枚のシングル、「Feelin」というビートルズの曲をよりブルージーにしたトラックをリリースしたが、トップ40には惜しくも届かなかった。 

 

「Feelin'」

 

謎に包まれたものを知りたいという欲求を多くの人が抱えるのと同じく、カルト的な人気を誇る彼らには、何が起きているのか知りたがる人が多かった。しかし、メイヴァースはあまり積極的ではなかった。彼は1997年にインタビューを受け、The La'sが新譜をリリースするまでにどれくらいの時間がかかるのか、と聞かれ、「かかるだけ、かかるから...」と曖昧に答えている。1991年には、リー・メイヴァースはステージ上で一言も話すことはなかった。インタビュー、特に91年9月にニューヨークで行われたNME誌の取材では、リーは説得されて何かを言わなければならず、「音楽からメッセージを感じ、ヴァイブに浸るように」とだけ訊き手に言い続けた。リー・メイヴァースは背後にあるバックグランドよりも音楽そのものを重んじていたのだった。


1999年、シックスペンス・ノン・ザ・リッチャーが、曲の内容を無視したカバーを録音し、La'sより1つ低い順位でピークを迎えた。その後、彼らは再び注目を集めるようになり、レコード会社がプロモーションのため、5度目の再発売に踏み切ったが、意外にも65位にとどまり、目に見えるような効果を及ぼさなかった。さらに、2003年、「In Search of The La's」という本が出版された。謎に包まれたバンドをよりよく知るための一冊である。そこには3年前のインタビューが掲載されており、リーは自分の性格や音楽的な意図について語り、シーンへの復帰についても言及している。


2年後、The La'sは突如、長い沈黙を破り、再結成し、ステージへカムバックを果たした。リーはジョン・パワーを呼び戻してバンドを再結成し、アイルランドを含む英国で数日間演奏し、国内最大級のフェス、グラストンベリーにも出演した。その年、サマーソニックにも出演し、同時期に来日していたオアシスも彼らのステージを見届けた。


その後、2011年にリバプールのバンド、The Banditsのメンバーだった友人のGary Murphyと、Lee Rude & the Velcro Underpantsという奇妙なバンド名で、いくつかのアコースティック・セットを演奏することになった。そのあと、彼らはマンチェスターのデフ・インスティテュートでシークレット・ギグの演奏を行った。

 

ライブこそ開催したが、新たなリリースの噂もないまま現在に至る。熱心なファンの間では、今もバンドのフォーラムを中心に様々な憶測が飛び交っている。2008年には1stアルバムのデラックスバージョンもPolydorから発売された。デラックス盤には、Mike HedgesとJohn Leckieがリミックスを手掛けた「There She Goes」の二つの異なるバージョンが収録されている。おそらく、この二つのリミックスに当時のリー・メイヴァースが理想とするサウンドにかなり近いのではないかと思われる。しかし、いまだ彼らの謎は謎のままで、本当のところを知る人はそれほど多くはない。



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その後に世界的なスターとして知られ、冷戦時代の世界の象徴的なアイコンとなったデヴィッド・ボウイは、左右の瞳の虹彩の色が違うオッド・アイの持ち主である。グレーとブルーの瞳を持つロックシンガーは、ブレイク以前、シンプルで内省的なポップソングを中心に書いていた。72年以前には大きな商業的成功に恵まれなかったが、五作目のアルバムで大変身を遂げることになった。彼は、この時代のことに関して、売れるための契約があったと冗談めかして語っている。

 

その真偽はさておき、1972年6月16日に発売されたデヴィッド・ボウイの「The Rise and Fall of Ziggy Stardust and the Spiders from Mars」は、架空のロックスター「ジギー・スターダスト」の物語を描いたコンセプトアルバムであ。このアルバムの楽曲をイギリスのテレビ番組、トップ・オブ・ザ・ポップスで初披露し、彼は一躍世界的なロックシンガーと目されるようになった。そして、モット・ザ・フープルやT-Rexと並んでグラムロックの筆頭格として認知されるようになった。そしてアルバムには、T-Rexのようなグラムロックの華美さとそれ以前に彼が書いていたような内省的なフォーク・ミュージックがバランス良く散りばめられている。

 

しかし、このコンセプト・アルバムに込められたミュージカルのテーマはフィリップ・K・ディックの作品のように奇想天外であり、人前にめったに姿を表さないことで知られるトマス・ピンチョンの作品のように入り組んでいる。デイヴィッド・ボウイは、ある意味では地球にやってきた異星人であるジギー・スターダストという救世主と自らの奇抜なキャラクター性をみずからの写し身とすることで、また俳優のようにその架空の人物と一体になることで、ルー・リードやイギー・ポップに比する奇抜なロックシンガーとして長きにわたりミュージックシーンに君臨することになった。もちろん、ボウイという人物の実像がどうであれ、彼はプロのミュージシャンでありつづけるかぎりは、その理想的な架空の人物を演ずることをやめなかったのである。

 

 

「ジギー・スターダスト」はデヴィッド・ボウイが架空のミュージカルとして書いたアルバムであるがゆえ、それが刺激的な音楽性とともに、舞台上で披露される演劇性を兼ね備えていることは首肯していただけるはずである。そしてボウイは、イギー・ポップやルー・リードのソングライティングに影響を受けつつも、SF的なストーリー性を音楽の中に取り入れ、そして彼自身が生まれ変わりを果たしたかのような華麗な衣装やメイクを施し、そしてクイアであることを表明し、それ以前のいささか地味なソングライターのイメージを払拭することに成功したのだった。

 

「ジギー・スターダスト」のストーリーは、天然資源の枯渇により、人類は最後の5年を迎え(「Five Years」)、唯一の希望は、エイリアンの救世主(「Moonage Daydream」)である。完璧なロックスターであるジギー・スターダスト(薬物を使用する、全性愛者である人間の異星人の姿)は、メッセンジャーとして、彼のバンドスパイダーズ・フロム・マーズとともに行動するという内容だ。

 

スパイダーズ・フロム・マーズは、"スターメン "と呼ばれる地球外生命体を代表して、メッセンジャーとして活動しているという設定である。そのメッセージは、快楽主義的な面もあるが、最終的には、平和と愛というロックンロールの伝統的なテーマを伝えるもので、スターマンが地球を救う。このメッセージを世界中の若者たちに伝え、ロックンロールへの欲求を失った若者たちは、その魅力にとりつかれていくようになった。70年代はサイケをはじめヒッピー・ムーブメントが流行しており、実際に物質主義的な利益を求める人々とは別の精神主義や理想主義を追い求める人々を生み出した。そして、これはジョン・レノンのソロ転向後の理想主義的なアーティスト像と一致しており、70年代初頭の時代の要求に答えたとも解釈できるだろう。

 

まさにデヴィッド・ボウイは、それ以前の内向的なフォークロックシンガーのイメージから奇抜な人物へと変身することにより、誰もいない場所に独自のポジションを定めることに成功したのである。しかし、このミュージカルで描かれるジギーという人物の最後は、ショービジネスの悲劇的な結末を暗示している。ジギーは名声のみがもたらす軽薄な退廃によって、最終的にステージで破壊されてしまう(「Rock 'n' Roll Suicide」)。(多くのロックスターが自ら破滅に向かうのと同じ手段である)。そしてこれは実際のミュージカルで強い印象を観衆に与えるのである。

   

結局のところ、このアルバムはヒーローの命運の上昇と下降の双方を描いている。ボウイは、1974年の「ローリング・ストーン」誌のインタビューで、この預言者に起因する自我を説明している。しかしこれらのプロットは非常に複雑怪奇で、その全体像をとらえることは非常に難しい。


時は地球滅亡まであと5年。天然資源の不足により世界が滅亡することが発表された。ジギーは、すべての子供たちが自分たちが欲しいと思っていたものにアクセスできる立場にあります。高齢者は現実との接触をまったく失い、子供たちは独り残されて何かを略奪することになります。ジギーはロックンロールバンドに所属していましたが、子供たちはもうロックンロールを望んでいません。再生するための電気がありません。

 

 ジギーのアドバイザーは、ニュースがないから、ニュースを集めて歌うように彼に言いました。

 

そこでジギーがこれを実行すると、恐ろしいニュースが流れる。「All the young dudes」はこのニュースについての曲です。これは人々が思っているような若者への賛歌ではない。それは全く逆です。無限が到着すると終わりが来る。本当はブラックホールなのですが、ステージ上でブラックホールを説明するのは非常に難しいので、人物にしました。


ジギーは、夢の中で無限からスターマンの到来を書くようにアドバイスを受け、人々が聞いた最初の希望のニュースである「スターマン」を書きます。それで彼らはすぐにそれに気づきました...彼が話しているスターマンは無限と呼ばれ、彼らはブラックホールジャンパーです。ジギーは、地球を救うために降りてくるこの素晴らしい宇宙飛行士について話している。彼らはグリニッジビレッジのどこかに到着します。

 

彼らは世界では何の関心も持たず、私たちにとって何の役にも立ちません。彼らはたまたまブラックホールのジャンプによって私たちの宇宙に偶然遭遇しただけなのです。彼らの一生は宇宙から宇宙へと旅をしている。ステージショーでは、そのうちの1人はブランドに似ており、もう1人は黒人のニューヨーカー。私はクイニー、無限フォックスと呼ばれるものさえ持っている... 今、ジギーはこれらすべてを自分自身で信じ始め、自分を未来のスターマンの預言者であると考えています。

 

彼は自分自身を信じられないほどの精神的高みに連れて行き、弟子たちによって生かされている。無限が到着すると、彼らはジギーの一部を奪って自分を現実にする。なぜなら、本来の状態では反物質であり、我々の世界には存在できないからだ。そして、"Rock 'n' Roll Suicide "の曲の中で、ステージ上で彼をバラバラにしてしまうのです。


 

ボウイの代名詞となっているジギーという救世主的なロックスターのキャラクターは、イギリスのロックスター、ヴィンス・テイラーにインスパイアされた部分もある。50年代から60年代にかけてプレイボーイズで活躍したロカビリーのフロントマン、ヴィンス・テイラーは、薬物乱用の末、自分が「イエス・キリストの息子マテウス」と宣言し、ステージからメッセージを説いた。(「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」は出席していた弟子である)。


また、デヴィッド・ボウイがアルバム『Heathen』(2002年)でカバーした「I Took a Trip on a Gemini Spaceship」という曲の「Legendary Stardust Cowboy」にも影響を受けている。

 

さらにこれらのキャラクター性を強化したのが、ジギー・スターダスト・ツアーでデザイナーを務めた山本寛斎である。

 

山本寛斎は、この時代について、「日本的な美しさを世界に広めたい」と回想しているが、この時代のボウイのファッションについて見てみると、寛斎が志向したところは、和の持つ個性と洋の持つ個性の劇的な合体であったように思える。以下は「Tokyo Pop」でデヴィッド・ボウイが着用した山本寛斎が手掛けた衣装である。(鶴田正義氏の撮影)これらを見れば、ファッション自体がボウイというキャラクターの一部であることがわかりやすく理解できると思う。

 


 

 

デヴィット・ボウイが山本寛斎とともに作り上げたジギー・スターダストのペルソナは、パフォーマンス的なメイクとコスチュームに依拠しており、グラム・ロックというジャンルに少なからぬ影響を及ぼすことになった。「ジギー」という名前自体、ボウイの衣装への依存と表裏一体の関係にある。ボウイは、1990年の『Qマガジン』のインタビューで、「ジギー」という名前は、電車に乗っているときに通りかかった仕立て屋「ジギーズ」に由来していると説明している。

 

最も印象的なのは、ミュージカルのステージ上でのジギーの死が、グラム・ロック・アーティストの仕事に対するボウイの認識を物語っていることだ。72年から76年までを振り返って、彼は後に語っている。「その頃までは、"What you see is what you get "という態度だったけれど、舞台上のアーティストが役割を果たすミュージカルのような、何か違うものを考案してみるのも面白いと思ったんだ」

 

この発言からも分かるように、デイヴィッド・ボウイは、この時代の自らの分身を創作のメタ構造における登場人物のように認識している。なおかつまた彼はグラム・ロックというジャンルにもそれほどこだわっていたわけではなかったに思える。その後の70年代後半には、ミュージカルでの自らの姿を崩壊させるのと同様に、グラムロック・アーティストとしてのイメージを覆し、ベルリン三部作を通じ、ポップネスを志向した音楽性へ舵を取った。そして、時代の流行を賢しく捉えるセンス、そして以前の成功のスタイルにまったくこだわらないこと、この身軽なスタイルこそが、その後のデヴィッド・ボウイのロックスターとしての地位を盤石たらしめたのだった。


「Starman」 Top Of The Pops(1972)

 



70年代のニューウェイブ/ポスト・パンクの時代の到来を象徴するThe Jamの解散の後に、ポール・ウェラーは80年代になると、The Style Councilを立ち上げる。トレンチコートとフランスファッションの雰囲気を取り入れたアルバムで、70年代のパンクというイメージからウェラーは脱却を試み、イギリスの文化を飛び越え、ヨーロッパの文化を劇的に取り入れて、普遍的なロックアーティスト地位を確固たるものとした。後にデビュー・アルバム『Cafe Bleu』はポール・ウェラーにとって記念碑的なLPであり、彼の偉大な功績の1つとなった。



ザ・ジャムのトレンチフット・ツアーと握りしめたレコーディングの時代、ポール・ウェラーは、これほど多様で音楽的に豊かでメロディアスなコレクションを作り上げることができるとは夢にも思っていなかっただろう。しかし彼は、ザ・ジャムの目まぐるしい高みに並ぶことはできないだろう、という前評判を覆し、現在までのキャリアで最も売れたアルバムを生み出したのだ。

 


1983年、ザ・スタイル・カウンシルが発足した最初の年に、彼と新しい仲間であるミック・タルボットは、ポールのソウルとファンクの愛に根ざした、それぞれ全く異なる作品を次々と発表し、水面下でテストを行っていました。ミニLP「Introducing the Style Councile」は、これらの初期の作品をまとめたものだが、本格的なデビューアルバムの発売は、バンド結成から1年後になる。

 

 

一方、12月18日にロンドンのアポロシアターで行われたCND(The Campaign for Nuclear Disarmament)の「The Big One」(平和のための演劇ショー)にザ・スタイル・カウンシルが参加した際、ウェラーの新曲の方向性について示唆する声が聞かれました。この公演では、ゲストのディジー・ハイツを迎えてのラップ「A Gospel」や、エルビス・コステロがデュエットした「My Ever Changing Moods」のアコースティック演奏など、5曲を披露しました。

 

アルバムの発売の噂が立った時、最初の取材に応じた時に、ポール・ウェラーはこう明かした。「2枚組のLPで、片面はロマンティックで、ちょっと切なくて、ちょっとムーディーだ」、「片面はファンク、片面は今のポップス、片面はシングルのリミックス」、さらに、彼は言った。「ザ・スタイル・カウンシルでは、すべての曲で全員が演奏していることはそれほど重要なことではありません。アルバムの雰囲気は、ロマンティックで面白くて気取った感じになると思います」


ジョージ・オーウェルの有名な小説『1984』(ザ・ジャムの時代、ウェラーに多大な影響を与えた)との密接な関係にもかかわらず、スタイル・カウンシルにとって幸先の良いスタートを切った。


同年2月には、最も強い曲であり、最も雄弁な歌詞である「My Ever Changing Moods」を発表しました。

このタイトルは、ウェラー自身が自分の気質を認めていることを表していますが、世間の態度や社会政策の変化に対するポールのジャーナリスティックな観察に大いに関係があります。1980年代のサッチャリズムのもとで、重要な問題がいかに些細なことで覆い隠されているかということを、彼自身の性格として観察していました。また、この考えは、マスメディアというものがなぜこの世に生まれたのかということを表しており、BBCを退職した後のジョージ・オーウェルの考えと同じものである。

 


1983年6月9日の総選挙で、フォークランド紛争後の国民的高揚感から保守党(トーリー党とも呼ばれる)が勝利し、2期目の政権が誕生した。


しかし、1984年には失業率が急上昇し、2万人の(主に)女性がグリーナム・コモンで米巡洋艦の設置計画に抗議するデモを行った。この時代を通じ、ポール・ウェラーはCND(The Campaign for Nuclear Disarmament)の協力の下、イベントやTVに出演し、平和のためのキャンペーンを行った。



1983年、ポール・ウェラーは、再度、ザ・スタイル・カウンシルについて発言を行い、新たな境地を見出そうと先鋭的な可能性を試みたものであると、以前とは異なる考えを共有した。実例を挙げると、ウェラーは、自分が満足できるような、クリアなギターの音色を発見し、楽器に戻り、心浮き立つようなソロを披露した。


プロデューサーのピート・ウィルソンがベース・シンセを弾き、ポールのソウルフルなボーカル・スタイルは、カルチャー・クラブのボーイ・ジョージやジョージ・マイケルといったアーティストがこのメロディーを歌うことを容易に想像させるものでした。しかし、「My Ever Changing Moods」は100%ポップスで、バンドは国内で大ヒットしただけでなく、アメリカのゲフェンと契約したスタイル・カウンシルは、この曲がアメリカのトップ40に入り、アメリカでの成功を手に入れた。


3月にようやく発表された『Cafe Bleu』は、ウェラーの地平線の広がりを示す集大成となった。ザ・ジャムでは不可能だと感じていた、あらゆるジャンルの音楽のライブを一挙に表現したのである。

 
カフェ・ブルーの上品なデザインのスリーブには、「パルシアのカフェ」の外にいるミックとポールの写真が青く描かれており、また、A5版の歌詞ブックレットには、カプチーノキッドが書いた4ページの物語が掲載されている。フランスとのつながりは、背面スリーブにある18世紀フランスの先見の明、ジャン・ポール・マラットの引用によって、さらに一歩進んだものとなっている。この言葉は、ポール・ウェラーのCNDへの継続的なコミットメントを忍耐強く反映していた。


 1984年、シンディ・ローパーは、キャロル・キング、ジョニ・ミッチェル、パティ・スミスですら成し遂げたことのない偉業を成し遂げ、1枚のアルバムから4枚のトップ5シングルを出した初の女性アーティストとなった。


それまでの10年間、『Tapestry』『Blue』『Horses』といった大作が音楽業界に残した傷の大きさを考えれば、この上ない快挙である。1985年、『She's So Unusual』でグラミー賞7部門にノミネートされ、2部門で受賞したことで、このアルバムの地位は確固たるものとなったが、その後、何度か成功したものの、ローパーが再び到達するには高すぎるハードルであったことが証明された。


多くの絶賛されたアルバムがそうであるように、このアルバムのレコーディング、認知、成功への道のりは簡単なものではなかった。「She's So Unusual」は1983年10月14日にリリースされ、当時30歳だったローパーは、その3年前、生活費を稼ぐために米国のレストランチェーン店"IHOP"でウエイターとして働くという一連の失敗から、歌手に戻ることができるかどうか悩んでいたのだ。


1980年、ソロアーティストとしてのデビュー以前に、声帯の手術でキャリアに疑問を抱いた彼女は、バンドの解散に不満を抱いたマネージャーから8万ドルの訴訟を起こされ、自己破産を余儀なくされるなど、大きな試練を背負っていた。声帯の調子が徐々に戻ってくると、彼女はニューヨークの地元のクラブで再びギグを始め、A&Rスカウトが彼女の4オクターブの音域に注目しました。このクラブでローパーとデビッド・ウルフは出会い、ウルフが彼女のマネージャーとなり、エピック社の子会社であるポートレート・レコードとレコーディング契約を結ぶことになった。



レコーディングは1983年の春から夏にかけてニューヨークのレコード・プラントで行われ、親会社のエピック・レコードはリック・チェルトフをこのアルバムのプロデューサーとして指名した。


ローパーのバックにはチェルトフをはじめ、エリック・バジリアン、ロブ・ハイマン、リチャード・テルミニ、ピーター・ウッドなど、彼が最近一緒に仕事をしたミュージシャンがついていた。スタジオでは、ローパーはアルバムの方向性を明確にしていたが、当初、彼女はそのビジョンを拒否されたと伝えられている。ローパーは、自分がやりたくない曲の前座を頼まれ、意気消沈していたが、チェルトフ、ミュージシャン、ローパーが円満に折り合いをつけ、テープに曲を入れ始めることができた。「When You Were Mine」、「Money Changes Everything」、「All Through The Night」の3曲は比較的早く制作された。


ローパーが自分自身を信頼していたことの証しとして、押しつけに真っ向から立ち向かい、自分の独創的な声に傷をつけずにやり遂げたことが、彼女のソングライティング能力と他人の作品をいかに我がものにできたかを検証するときに明らかになる。



このデビューアルバムには、ローパーとハイマンが共作した「Time After Time」、チェルトフとゲイリー・コルベットが参加した「She Bop」、ジョン・トゥーリが参加した「Witness」、ローパーとジュールズ・シアーが組んだ「I'll Kiss You」などのオリジナル曲がある一方で、彼女の解釈に合わせて歌詞やスコアを変えたカバー曲がいくつかある。


その中には、このアルバムからリリースされた4枚のシングルのうち、「Girls Just Want To Have Fun」と「All Through The Night」の2枚が含まれている。誰が何を書いたかにかかわらず、ローパーの比類ない4オクターブに及ぶ声域、そして爆発的な歌唱力が、このアルバムを決定づけたのだった。


 このアルバムの冒頭を飾る「Money Changes Everything」は、トム・グレイが1978年に発表したニューウェーブ/ロックの名曲である。それ自体がアンダーグラウンドの名作であるが、ローパーは必ずしも手直ししたわけではなく、彼女のキックスタートによって、この曲が7インチのティーンズ・ガスパーから全開のパワーポップの轟音へと飛躍的に高まった。音楽評論家のグレイル・マーカスは当時、「シンディ・ローパーのバージョンは、オリジナルを凌駕しているように聴こえる」と書いている。



ロブ・ハイマンのシンセサイザーの持続音は、アントン・フィグのキックドラムとスネアと同様に、アルバムの冒頭で激しく鳴り響き、スピーカーのエクスカージョンを即座に促す。ニール・ジェイソンのエレクトリック・ベースが奏でる逞しい和音に引き込まれ、トラック全体がこの音に包まれる。


ローパーの4オクターブの音域がもたらす音色の純粋さは、バジリアンのギターが奏でるクラッシュのようなエレクトリックな質感をさらに際立たせる。サウンドステージングは、ボーカルと楽器の大部分が大きな球体のスピーカーの間をホログラフィックに浮遊し、広く、ゆるやかな中心を形成している。しかし、「Money~」には、キーボード、シンセ、ベース、パーカッションの野心的なレイヤーが、ローパーのボーカルハーモニーだけでなく、彼女の楽で伸びやかで完璧なソロを支え、緻密でテーマ性のある脈動が流れている。


当時の報道によると、ローパーが85年のアメリカン・ミュージック・アワードで披露した「When You Were Mine」は、1980年にジョン・レノンにインスパイアされたオリジナル曲を、アップテンポでより純粋なポップスに仕上げたもので、プリンスもその価値を認めていた。切なく、記憶に内在する感情の重さを類推させる「Mine」は、最も人間的な精神状態である「後悔」に突入する。ギター、シンセ/キーボード、ベースのマイナーコード・アレンジが、Figのパーカッシブなドラムを軸に、心の琴線に触れるような展開を見せる。ディフォンゾの絶妙なリバーブとピッチベンドを駆使したリード・ギター・リフが、色調をブルーに染め上げている。ローパーのオーバーダビング、エリー・グリニッジ、クリスタル・デイビス、ダイアン・ウィルソン、マレサ・スチュワートのバッキング・ヴォーカルが、不穏な音色を加えているが、マスタリングでヴォーカルのトラックを分離しているため、ミックスの中で簡単に区別がつく。


「Time After Time」は、マイナーコードのフィーリングを保ちながら、ローパーがこのアルバムで最も個人的な出来事について書いたと思われる曲で、当時の彼女の関係が崩壊したことを反映している。この曲は、ローパーとハイマンがスタジオでピアノの前に座り、お互いの破局について語り合いながら書いたと言われている。


 


リムショットやシンバルのディケイに漂う空気感や空間も同様であり、その光沢はより金属的な解像度を持っている。


「She Bop」は、4分弱のラジオ・フレンドリーなダンスフロア・ロックで、ローパーが女性のセクシャリティーをほほえましく歌っている。ニューウェーブのエレクトリック・ベースライン、複雑なシンセ・リフ、コンサーティーナを思わせるキーボードの持続音、そしてローパーのボーカルが、滑らかなホイップクリームのようにミックス全体を支配しています。


「All Through The Night」は、フォークシンガー、Jules Shearのカバーで、キラキラしたシンセサイザーでアレンジされ、ポップバラードとしてきわめて完成度が高い。「Witness」と 「I'll Kiss You」は、スカの影響を受けたレゲエとストレートなシンセポップに寄り道しながら続く。ローパーがレコーディング中にバンドとバーで飲み明かしたという、20~30年代の映画スターへの皮肉を込めた "He's So Unusual "は、芸術的な浅瀬に飛び込むようなビンテージなサウンドの雰囲気が漂う。


更に、オノ・ヨーコからインスパイアされたファルセットで歌う「Yeah Yeah」は、スウェーデン人のMikael Rickforsが1981年にリリースしたアルバム『Tender Turns Tuff』からのシングルで、オリジナルのドライビング・ポップから逸脱している。この曲は、実験的なニューウェーブ/ポップ・キーボード、男性のサポート・ボーカルのハーモニー、ホーン・ジャズを取り入れた生々しいソロ、そしてカカフォニーを前進させるメトロノミック・ドラムが支える、刺激的なパスティーシュだ。



ある意味、このアルバム全体が持つ、疲弊しきった感情の二元論にふさわしい終わり方であり、バックグラウンドリスニングに追いやることは不可能である。40年以上も経過しているにもかかわらず、このデビューアルバムはまだ鮮明に聴こえる。たとえ、自分が音楽よりも優雅に歳をとっていないことに気づくという痛切さが加わったとしても。


このアルバムは、80年代ポップの誕生と成熟を音楽的、文化的に定義し、シーンに大きな活性化をもたらしただけでなく、この10年間の保守的な価値観を受け継ぐことにも貢献した。その価値観は、その後の数十年間の政治的な状況に激震を与えるきっかけともなった。どのように考えたとしても、シンディ・ローパーとShe's So Unusualなくして、80年代はあり得なかっただろうし、この時代のポピュラーミュージックに重要な貢献を果たしたレコード・コレクションのひとつだ。