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 SEPALTURA 「ROOTS」

 セパルトゥアの魅力は、その音楽性の中にブラジルのインディオに対する深い敬意、そして、ただならぬ誇りを持って、その民族的な音を取り入れている点です。こういったバンドは、すでに紙の上の寓話になりつつある、イギリスやアメリカでは容易には出てこない異質な音楽であり、また、郷土にたいする愛着を一身に背負い、傑出したメタル音楽を産み落としたという面では、ジャンルが全然異なりますけれど、古典音楽のバルトーク・ベーラのハンガリー民謡にたいする憧憬にもなぞえられるかもしれません。

 今回ご紹介しますセパルトゥアのアルバム「Roots」は、アメリカの「Roadrunner」からのリリース。 彼等は、それまで「Arise」「Chaos A.D」と、ごく普通のスラッシュ・メタル、デス・メタル、低重音ハードコア・パンク色の感じられる音楽を奏でていましたが、今作「Root」では、さまざまな要素がミクスチャー的に昇華され、アルバム名の通り、ブラジル・インディオの民族性のルーツ色を強く押し出すことにより、唯一無二の屈強なメタルバンドの最高峰へと一挙に上り詰めたといっても過言では有りません。

一曲目の「Root」のイントロの凄まじい予感、それは奥深いジャングルの中の虫の鳴き声の異質な雰囲気を表したSEからはじまって、そして、来るぞ、来るぞと思わせながらの、ドラム缶を殴打するかのような、ハイエンドがコレ以上はないというくらい強調された金属的なタムが印象的なイーゴル・カヴァレラの爆音ドラムからして衝撃の連続。

この楽曲は、およそ、メタル史最高峰の楽曲といっても過言ではなく、その後に警告音のように発せられるギター、そして、ブラジルインディオの祖霊がとり付いたかのようなすごみのある怒りすら感じられる低く唸るようなボーカル、聞こえるすべての音が完璧といえ、これはただのノイジーなメタルミュージックでなく、民族の音楽という言語性を覚悟をもって奏でるという真摯な態度をとって表現されているのがはっきりの伺えます。

「Ratamahatta」では、インディオの呪術的な舞踏のような雰囲気を表していて、まさにミクスチャーロックという表現がふさわしく、先住民の言語、民族打楽器、ターンテーブルのスクラッチ的な手法をまじえてメタルという枠組みには入れるのが惜しいほどの独特な魅力を有しており、ジャズフュージョンの風味であるとか、あるいは独特なインディオの言語の発音がヒップホップのライム的な風味すらをも醸し出しています。

そして、彼等の初期から引き継いできた音楽性の集大成ともいえる「Spit」は、有無をいわさずの名曲。

アルバムの中では唯一、疾走感の感じられる楽曲、重戦車のようにすべての存在をなぎたおしていくかのよう。これはアメリカの爆音ニュースクールハードコアバンド「CONVERGE」に匹敵するほどの力強さと凶暴性を持っています。イントロのギター・チョーキングのキューンというゆらめきからはじまり、その上にガツンと乗ってくる背筋がゾクっとするようなベースの重低音。そして、激しい憤怒すら感じられる低く唸るようなマックス・カヴァレラのボーカル、そして、小気味良いギターの厚みのあるフレーズ、そのすべてがカッコよくて、ほとんど空間を突き刺すように、ゴリゴリと痛快なくらい素早く走り抜けていきます。

ここには聞くものの魂を鼓舞させるほどのパワーがあるのには、ほとんどニヤリとせずにはいられません。

このアルバム「ROOTS」には、ブラジルという土地に入植者として白人が入り込んできて、初めてインディオの独特な音楽に目の当たりにしたときの驚愕のような感慨が宿っており、それがいかほど白人に対して脅威であったのか、それまでの価値観を揺るがすほど独特な魅力を持った文化であったかが、ここにありのままに表現されています。

 インディオにたいする誇りを、ブラジルという国土の入植者である彼らが代わりに背負い、民族性あふれるロックを誇らしげに全世界にむけて発信したこと。これぞまさに、セパルトゥアをワールドワイドな存在とし、アルバム「ROOTS」を永久不変の輝きあふれる伝説的な作品たらしめているのでしょう。 

Gastr Del Sol 「upgrade & afterlife」


ガスター・デル・ソルは、シカゴ音響派の最も有名なアーティストのひとつで、ポスト・ロックの原型を発明したバンドでもあります。

 

前「Bastro」のメンバー、デビッド・グラブスとジョン・マッケンタイアが中心となって結成され、94年から、ジム・オルークが加入したことにより、さらに個性的で鮮烈な音楽性に磨きがかかりました。

 

彼等の三作目となるこの「Apgrade & Afterlife」は、ジャケットのアートワークの驚きもさることながら、実際の音楽性についても驚きが満載で、通をうならせること間違い無しの、時代に先んじた前衛的な音を奏でています。 

 

 

 

 

 

 

 

プログレのような前衛的な音楽も時代が経ると、古びて聞こえたりしますけれど、このアルバムの新鮮なイメージはいまだ続いています。

 

個人的には、若い頃には聴いて、その魅力が理解しがたかったんですけれども、最近ようやく少しずつでありますが、彼等の意図が分かるようになってきました。デル・ソルの音楽というのは、音の情報量がきわめて多く、フレーズの最後の方で和音をジャズのようにわざと崩したりするので、少しばかり不可思議な印象を受ける部分もあります。

 

例えば、Barre Phillipsのフリージャズを最初に聴いて面食らい、とんでもない音楽がこの世にはあるものだと驚愕するのと同じように、このガスター・デル・ソルというバンドのトラックを聴くと、いよいよロック・ミュージックも来るとこまで来たなという感慨をおぼえざるをえません。

 

ハウス・ミュージック発祥の地、シカゴの土地柄らしいクラブミュージックのエッセンスあり、またJOJO広重のようなノイズミュージックも炸裂しています。しかし、全体を支配している雰囲気というのは、アシッド・フォーク的な落ち着きで、Pink Floydのオリジナル・メンバー、シド・バレットの奏でるようなサイケデリックな風味もあります。そんな中、どことなく、ジャズのスイング的なリズムも見られ、それらの複雑に絡み合った要素が楽曲に渋い風味を添えています。実に飽きのこない渋い魅力を持ったアルバムでしょう。また、ミニマル・ミュージック的な要素もあるので、「Don Cabarello」にも比する先鋭性を持っているとも言えます。

 

特に、ポスト・ロックという音のニュアンスがよくわからない方などには、五曲目の「Hello Spiral」という楽曲を聞いてもらえば十分でしょう。

 

おそらく、彼等は、世界で最初に、ポスト・ロックの原型をこのトラックで作ったといえます。この後に、日本でもToe、LITEといったクールなポストロックバンドが、二〇〇〇年代に入って出てくるようになりますが、特に日本のポスト・ロックバンドの音楽性を決定づけたのは、ドンキャバレロと、そして、この「Hello Spiral」という楽曲ではないかと睨んでいます。

 

ミニマル的なギターフレーズが展開され、そこに変拍子をはじめとする自由性の高いリズムを、過剰なほど付加していって、曲の面白みを引き出していく。そういったスタイルを、世界で一番最初に試みたのは、ドン・キャバレロではなくて、ガスター・デル・ソルであったように思われます。年代的にみると、こちらのほうがに三年早くて、もしかすると、ドン・キャバレロは、このアルバムを聴いて、大いに触発され、ポストロックへと方向性を変更したのかもしれません。


 只、それでも、「Apgrade & Afterlife」には人好きのしない要素もありながら、穏やかな美しいフォーク、あるいはカントリー音楽、そして、ジャズ風の落ち着いたピアノ音楽をはじめ、多くのエッセンスが加えられていて、およそロックというジャンルにおさまりきらないほどの広範な音楽性の影響が感じられ、それを非常にクールな形で表現していて、長く聞くに耐えうるようなパワーを擁しています。

 

普通のロックが神経を高ぶらせることが多いのに対して、このアルバムは一貫して落ち着いたテンションを保ち、そして、その中に、実験性の風味を交えつつ、もちろんノイズという尖った要素がありながら、全体的には気持ちを鎮めてくれる渋みのある音楽に仕上がっています。

 

ロックだと思って聴くと、あまりのゆったり感に肩透かしを喰らうかもしれません。アルバム全体に感じられるのは、アコースティック楽器の生み出す本来の旨味であり、品の良い料理のように、素材の良さというのを最大限に活かしています。ここで一貫して奏でられているのは、ノイズや打ち込みなどの要素に隠れて本質が見えづらいですが、大人向けの渋くてスタイリッシュで落ち着いた、ブルースの風味すら感じられる上質な「ポスト・フォーク」音楽といえましょう。

 

 

そして、実は、このアルバム「Apgrade & Afterlife」には、まだまだ新しい音楽を作るための隠された萌芽があるように思え、いまだに音楽を作る上での重要なヒントになるマテリアルもありそうです。

 

概して、ガスター・デルソル・というのは、非常に短期間しか活動しなかった線香花火のようなバンドではありますけれど、反面では、異様なほど濃密な音楽を生み出したアーティストであったといえるでしょう。

 

そして、ひとつ惜しむらくは、リリースから二十年以上、未だに似たようなポストロックバンドは数多く活躍してながら、本家ガスター・デル・ソルのアバンギャルド性を超越するような際立った存在はというのは、なかなかでてきていないと思われます。 


Peter Broderick 「Grunewald」



ピーター・ブロデリックは、かのニルス・フラームとも以前から深交があり、ポスト・クラシカル界隈では有名な音楽家といえます。只、この人は多趣味なアーティストであって、アンビエント、クラシカルという狭いジャンルにとどまらず、歌物みたいな楽曲も積極的にチャレンジしており、広範な音楽的背景を伺わせるミュージシャンです。

「Grunewald」は、2016年、Erased Tape Recordからのリリースとなります。古風な尖塔屋根を写した森の中の教会のモノクロ写真ジャケットがとても良い味を出しています。 

 

 

 

ピーター・ブロデリックは、デビュー当時から一貫して、他のポスト・クラシカル、あるいはアンビエント界隈のアーティストに比べると、清涼感のある爽やかな音を奏でています。それほど技巧的に凝ったことをやっているわけでもないのに、彼の音楽には異様な説得力が込められています。

このEPから、いよいよピーター・ブロデリックは超一流アーティストとして円熟味のある風格を見せ始めたといえるでしょう。

サウンドプロダクション面でも、音の余韻を極限まで引き伸ばして、まるで教会の石壁のなかで響くような高く広い音響、アンビエンスを感じさせます。また、歌声というのも、まるで、そういった広く大きなスペースで響いているように聞こえ、これが作品全体に爽快味のある雰囲気を形作っています。 おそらく、再生力の高いオーディオなどを介して聴くと、石壁に囲まれた高い天井の下で、彼の麗しいピアノの演奏や歌声を聴くかのような不思議な印象をうけるでしょう。

ティム・ヘッカーが「Ravedeath1972」という作品において打ち出した、ピアノの弦のメタリックな音を最大限に生かした革新的で前衛的なサウンドプロダクションは、耳の肥えたリスナーたちに大きな驚愕を以って迎え入れられ、後のアンビエント・ミュージックにもかなりの影響を与えたでしょうが、たしかに、このピーター・ブロデリックも同じような音の指向性を持ちながら、一方では、またティム・ヘッカーとは異なるアプローチを選んで独自の音を追求してきたアーティストです。

彼の紡ぎ出す音というのは、シンプルで洗練されており、また、非常に性質が落ち着いていて、刺激性に乏しいように聞こえますが、しかし、それでも何か雲ひとつない青空を見上げたときにおぼえざるをえないような興趣にとんでいます。

およそ、都会の喧騒と対極にある大自然の中で、美しい天蓋を眺め、清々しい大気を胸いっぱいに吸い込んでみたときの清涼感のようなものが彼の音楽には感じられます。

こういった安らぐ音楽というのは、ヒーリングミュージックにも似た面がありますが、ピーター・ブロデリックの音楽というのは、構成の単純さの内側に巧緻な作曲技法が滲み出ているので、その中にも何かふと考えさせられるような深みも含まれています。

 

 

  • 「Goodnight」

穏やかな伴奏が繰り返され、その上に美しいボーカルが乗ってくるというアンビエントにしては、少し珍しいとも言える形式によって構成されています。そこには、夾雑物は何もなくて、ただひたすら単純でいながら、清々しい音に満ちています。まるで清冽な水のようにそれらの旋律が流れていき、聞き手は音のむこうがわにひろがる心安まるような美しい情景に身を委ねさえすれば、どのような喧騒も次第に遠ざかり、自分の中にある静寂を取り戻すことができます。

 「Low Light」

一転して、ベートーヴェンもしくは、シューベルトをおもわせる古典ロマン派風の短調の楽曲。また、どことなくではありますが、Ketil Bjornstadの名作「River」を彷彿とさせるような哀愁のある楽曲で、途中の長調への移調という手法も、非常に洗練されていて、少なからず、こういった古典音楽にも親和性があるのが感じられます。

  • 「Violin Solo No.1」

弦楽器の技法トリルを前面に押し出した楽曲、 また、Paul Gigerのようなエキゾチックな風味も感じられます。途中の現代音楽的なアプローチ、バイオリンの早いパッセージがこのEPの中で間奏曲のような役割を果たしていて、全体の雰囲気の中に良い緩急をもたらしています。

  • 「It's  a Storm When I Sleep」

連続的な分散和音のトリルを、堅固な土台の建築のように反復して積み上げていくことによって、奥行きの感じられる音の独特な響きを作り上げています。それは、ただの無機質な音の塊でなく、音の全体がみずみずしく生きているかのような印象があります。サウンド処理によって、しっかりと音のゆらめきというか、空気を振動させて音が発生するという原理が魅力的に表現されています。

  •  「Eye Closed And  Traveling]」

 この曲は、音楽史に残ってもおかしくない、アンビエントのひとつの到達点といっても差し支えない名曲。それというのは、旋律がどうとか、技巧がどうとか、分析的なところから離れたところに、この曲の魅力があるからです。何もむつかしい説明はいらなくて、ただ、静かに目を閉じ、その音の中のある世界を見ると、そこには最も美しい情景が映るはず。そして、その情景こそ唯一の嘘偽りのないものであるということを、この素晴らしい楽曲は教えてくれるでしょう。


 


Rachel's 「Music For Egon Shirle」



Rachel'sは、現代音楽ピアニスト、レイチェル・グリムを中心として結成されたアメリカ、ケンタッキー州の小編成の室内楽グループ。

この音楽集団は、基本的な編成自体は五人で、ピアノ、チェロ、バイオリン、ビブラフォーン、オーケストラ楽器に加え、エレキ・ギター奏者、Jason Noble(ex.Shipping News,rodan)が参加していたところが興味深い特徴でしょう。


表面的な音楽性というのは、古典音楽風でありながら、サンプラーなどを導入している部分を見ると、ポスト・クラシカル、ポスト・ロックの括りの中に分類しても不思議なところがないグループです。


元々のデビューの経路も「TOUCH&GO Records」、アメリカのポスト・ロックシーンの総本山ともいえるレーベルから枝分かれした「Quarterstick」から音源リリースしています。 

 

 

 

このアルバムは、Rachel'sの二作目にして彼等の音楽がひとつの完成形を見せた作品として挙げられます。

前作のデビューアルバム「Handwriting」は、Jason Nobleの独特なエレクトリック・ギターがフーチャーされていたので、ロック、フォーク色も感じられる音となっていますけれど、この二作目から古典音楽の弦楽重奏の雰囲気を押し出していくようになっていきます。エゴン・シーレという画家人生のワンシーンを切り取り、コンセプト的なニュアンスを交えて表現したアルバム。


全体的には、チェロの温かみのある低音とピアノの美しい音色、それが合わさってひとつの音楽を作り上げていくのがレイチェルズの特徴。アルバム全体が温和で落ち着いた印象に彩られています。


このアルバムの中で際立って優れているのはEgon Schieleに捧げられた、レイチェル・グリムのうるわしいピアノ演奏を前面に押し出した楽曲「Wally&Models in the studio」。 

 

絵画好きの方はご存知でしょう。これはエゴン・シーレの有名な絵画、「Portrait of Wally」に題を採った楽曲です。 

 

 

Egon Schiele - Portrait of Wally Neuzil - Google Art Project.jpg
Austrian painter (1878-1918)">Egon Schiele

 

エゴンシーレの独特な色使いと可愛らしい印象のあるこの絵画に対する、レイチェルズのオマージュというのは、どことなくではありますけれど、ピアノの伴奏とチェロの重厚で温かみのある主旋律があいまって、涙を誘うような切ない哀感に彩られています。

もう一曲の「Egon&Wally Embarace and Say Farewell」の方はこの題名にも見える通り、画家エゴンとモデルシーレの別れの情景を、音楽という形で描出したものと思われ、レイチェル・グリムのピアノがしんみりと奏でられ、しかし、それはただのセンチメンタリズムにとどまることなく深い情感に彩られているのは、この曲がヨハネス・ブラームス的な堅固な構成によって、綿密に音が紡がれているから。この曲で理解できるのは、レイチェル・グリムの非常に巧みで叙情性のある演奏であり、これは他のすぐれた現代演奏家にも引けをとらない情感がにじみ出ています。


このアルバムは、全体がストーリーのようになっていて、映画のサウンドトラックのようにたのしめなくもないでしょう、但し、その映画というのは、自分の頭で空想上のものとして、こしらえねばなりません。


これは、レイチェルズという音楽クループの聞き手にたいする挑戦のようなもので、みずからのイメージを駆り立てることにより、さらに音楽だけではなく、エゴン・シーレの絵画の価値をあらためて別の側面から捉え直すこともできるようになるはずですし、この名画を何らかの形で鑑賞しながら聴いてみても、その旨味がじんわりと感じられるはず。


このアルバムは、一度聴いただけでも、なにか琴線に触れるものがあり、さらに聴くたびに、じわりじわりと美しい色彩が滲み出てくるような、まさに麗しい絵画のごときの興趣のある素敵な作品となっています。



HUSKER DU


Hüsker Dü (1985 SST publicity photo).jpg
By Photograph by Naomi Petersen. Distributed by SST Records. Hüsker Dü Database fansite Public Domain, Link

ザ・リプレイスメンツと同郷、ミネアポリス発、Husker Duは、ボブ・モールドを中心として結成され、八十年代全般に渡って活動した三人組で、いわゆるスリーピースと呼ばれる形態のロックバンド。後進のバンド、アメリカ国内のパンクバンドにとどまらず、ここ日本でも影響を受けたミュージシャンは少なくないはず。

 Husker Duというのはノルウェー語で「君は覚えているかい?」という意味。何かその印象深いバンド名を象徴するかのように、活動初期からメロディアスで荒削りでアップテンポのノイジーな音楽を奏でてきた経緯のあるロックバンドなんですが、どのような心変わりがあったのかしれませんが、同郷のリプレイスメンツがたどった道と同じように、活動中期から自分たちの持ち前の美麗な叙情的なメロディ性を打ち出した、じっくり聞かせる渋いロックバンドへ大変身を遂げていく。

しかし、元々は彼等の活動初期のデモやライブを集めたハスカー・ドゥのファンにとってたまらない音源集「Savege Young Du」の「Can't see you anymore」では、パンクロックバンドらしからぬ、ドウワップ風のキャッチーかつメロディアスな楽曲を演奏しており、実は、このバンドもリプレイスメンツと同じく、きわめて勝れたメロディセンスを活動初期から有していたことが分かる。

そして、粗削りで攻撃的なアップテンポのスタンダードなパンクロックから、スタンダードなロックへと音楽性の変化の分岐点ともなったのがこの「New Day Rising」というアルバムであり、また特筆すべきなのは、後のグリーンデイやNOFXに代表される、”メロコア”という音楽の土台を作った重要なアルバム。彼等のリリース作品の中で、音のバランスと言うか、パンクロック的な勢いと、その中に顕著に感じられる美しいメロディが絶妙に融合した類まれな名作である。 

 

「New Day Rising」SST Records 1985

一曲目の表題曲のイントロ、New Day Risingのドタドタという、グラント・ハートのバスとタムの迫力ある交互に叩かれる性急なリズムの上に「ビックマフ」のようなまじいファズのうねりのきいたディストーションギターが乗って来るのを聴いた時、誰もがこの音色に驚きをおぼえ、彼等の音楽の虜になることでしょう。

 

無論、ここでは、活動初期からの荒々しい音楽性が引き継がれており、前のめりの勢いのあるハードコアパンク性が現れていますが、このアルバム聴いていて純粋にかっこいいなと思うのは、ひとえにこのギターのクールで洗練されたサウンドプロダクションによるものでしょう。このギターのグワングワンに歪んだ音色というのは、当時としてはかなり画期的だったでしょう。

特に、このアルバムが一般的に彼等の代表作として挙げられる理由は、一曲目の表題曲「New Day Rising」そして、「I Apologize」「Celebrated Summer」という楽曲の出来ばえが際立っているから。

ここでは、今までのエッジの効いた勢いのある疾走性を重視ながらも、ハスカー・ドゥにはなかった要素、つまり、静と動の要素が見られており、異質なほどグワングワンに歪んだディストーションギターと、アコースティックギターの穏やかな叙情的なフレーズが対比して配置されている。

彼等ハスカー・ドゥの作品の中でも、一、二を争う珠玉の名曲、「Celebrated Summer」のアウトロのアコースティックギターの美しい響きの余韻というのは、スタンダードなフォークとしても聴くことが出来るし、ただ単なる一ジャンルの名曲として語るのが惜しい気もします。それまでのハスカー・ドゥには乏しかったメロディアス性が明瞭に押し出され、ボブ・モールドの声というのも、シャウト的な歌い方だけでなく、渋く落ち着いた歌が情感たっぷりとなっている。

何より、このアルバムのジャケットが素晴らしさについてはもう説明不要といえる。この夕日の落ちる直前の情景の美しさと逆光を浴び、浜辺にたたずんでいる二匹の犬の影のシルエットの写真は、収録されている楽曲の雰囲気をさらに魅力一杯にしている。

Pat Metheny「As Falls Wichita,So Falls Wichita Falls」 

歴史的な名盤とアルバム・ジャケットの関連性というのは、切っても切り離せないものであると思っています。

 
キング・クリムゾンの「In The Court Of The Crimson King」の狂気的な表情の人間のイラスト、
ザ・クラッシュの「London Calling」のステージでベースを振り上げているポール・シムノン、
ポップアートの巨匠、ウォーホールの手掛けたThe Velvet Undergroundのバナナジャケット。
 
というように、アーティストの名盤には、必ずといっていいほど印象的な忘れがたいアートワークがついてまわる宿命なのでしょう。
 
無論、このPat Methenyの「As Falls Wichita,So Falls Wichita Falls」も同じで、このアルバムのアートワークには何度見ても飽きのこない、永遠の美しさが宿っているように思えますね。
ECMのアートワークというのは、どれもこれも印象的であって、アルバムに収められている音楽性をより魅力的にみせてくれます。
 
リリースカタログを眺めていてハッと気がつかされるのは、ECMのアルバムジャケットの写真のイメージ自体がなんらかのイメージを喚起し、写真の中ににじみ出てくるような深いメッセージを有していることです。
 
 
そして、若き日のパット・メセニーが、ライル・メイズと組んだこの伝説的ジャズフュージョンアルバムに関しても、全く同じような趣旨がいえるのかもしれません。
 
 
このアルバムジャケットに映されているモノクロ写真。
 
アメリカ南部にありそうな、見渡すいちめんの荒れ野のような場所、一台の車が電信柱を背にし、神秘的なフロントライトをぴかっと光らせながら走ってくる、その詳細というのは、陰影に包まれているため、目をこらそうとも判然としない。
 
しかし、その不分明さが何か見る人の目を、よりそこに惹きつけずにはいられなくしています。
 
手前に、なぜか受話器を持った手が脈絡なく映し出されています。
 
はじめ、これは、ヒッチハイクでもしているのだろうかという印象をおぼえたんですけれど、実際、何度見ても、車と受話器の腕の関連性はよくわかりません。けれども、奇妙なアートワークであることは確かでしょう。

そして、このアルバムで表現されている音楽性という点についても、このアートワークをより深く印象づけるかのように、ライル・メイズの前衛的で神秘的なキーボードの手法により難解なものとなっています。
 
 
 
・「As Falls Wichita,So Falls Wichita Falls」
 
 
大自然を感じさせるようなイントロ、それがぴたりと止むと、メセニーが悲哀のあるフレーズを奏でる。
ジャズ的でもあり、民族音楽的でもあり、もしくはトラッドフォーク的でもあり、もしくはプログレ的なアプローチの要素を感じさせるところもあり、さまざまな類の音楽性が複雑に絡み合いながら曲は進行していきます。そして、メセニーとメイズという、二人がもちうる独特な感性をぶつけあうようにし、それが融合して、ひとつの大きな立体的音楽構造を作り上げていきます。曲自体は高度な技術で支えられていて、何度も変拍子を繰り返しながら曲の印象を転変させていく。
 
どことなく難解な印象のある曲です。しかし、最後のほうにかけて、それまでたえず曲全体を覆い尽くしていた不可解な雰囲気が途絶えていき、それまで空を覆い尽くしていた暗雲がはれわたるかのように、ぱっと明るさが覗き込んできます。
 
すると、雲の隙間から太陽がさんさんと差し込んでくる。そして、メイズのシンセサイザーにのって最後に聞こえてくるのが、自然を寿ぐかのように、子供が無邪気に騒いでいる声のサンプリングです。曲の最初の方にわだかまっていた怪しげな雰囲気は消え、爽やかな明るさに包まれていく。
 
 
・「Ozark」
 
 
メイズのシンセサイザーの鮮やかさといったら、なんとも表現のしようがありません。ライル・メイズは、ここで、ピアノで曲のリズム自体をぐんぐん引っ張っていきます。
 
そして、なおかつ、ここではどちらかといえば、脇役であるメセニーのギターをより明るく際立たせています。
 
キーボードの演奏自体はかなりテクニカルなんですけれど、非常に親しみやすい印象を与え、青々とした明るさが満ちわたっています。
 
 
この曲を聴くと、なんだかすがすがしい気持ちがしてくるように思えます。

 
・「September Fifteenth」
 
 
前曲「Ozark」の陽気さがふっと途絶え、いきなり哀感のあるメセニーらしい美しく甘く切ないフレーズが涙を誘います。そして、穏やかな彼の伴奏の上に、メイズの独特の民族楽器の笛のようなシンセの音色が彩りをなす添えることによって、おぼろげだった曲の輪郭を次第にはっきりしていきます。
 
曲全体の印象は、終始、静かであり、おだやかです。そして、ピアノのきらびやかな音が、メセニーのギターと小気味よくかけ合うようにして曲が続いていきます。
なんともいえず、贅沢な音楽が二人の掛け合いによって繰りひろげられていって。最初のしんみりした雰囲気が波打つようにしながら、明るい印象をたずさえながら進んでいきます。
 
 
短調と長調がたえず入れ替わりながら、曲はクライマックスにかけて、ゆるやかな旋律を描きながら向かっていきます。
 
そして、終盤になり、穏やかな波が、浜にやさしく返すように、再びまた、イントロのしんみりとした形に戻り、この曲はゆっくり閉じられていきます。

 
・「It’s for you」
 
前の曲と一転して、清々しい印象のフレーズがメセニーによって奏でられはじめます。この曲は、メセニーの流麗なアップストロークによって導かれていきます。ギター・プレイ自体に、メセニーの温和な人柄がはっきりと現れ出ていて、他の誰にも出せないあたたかい雰囲気を形作っています。
 
おそらく、こういった穏やかで朗らかな雰囲気を出すことにかけては、メセニーという人物は、他に類を見ないギタリストであると言えるでしょう。
ここでも、ギターのフレーズが反復的に鳴らされる中において、メイズの民族音楽の笛のような不可思議な音色が再登場してきて、大きな自然の崇高さを前にしたときのようないいしれない感動を与えてくれます。

 
・「Estupenda Graca」 
 
このアルバムの中、ジャズ史、音楽史的にも最大の名曲のひとつにかぞえられるといっても大袈裟ではないでしょう。ここでは、はっきりと大自然の美しさというものが表されている気がします。
 
鳥のかわいらしい声だとか、獣のなまなましい息遣いのような音の暗示によって、これまでにない新しい場所に聞き手をいざなってくれるかのよう。
 
そして、ヴァスコンセロスの叫びには、大いなる自然に対する賛美が感じられて、それが「アメイジング・グレイス」のような荘厳な雰囲気をなし、元気と癒やしを与えてくれます。
ある種の言語におさまりきらない、野生味のある迫力のある叫びが音楽というものがいかに素晴らしいものなのかを体現してくれています。

 
何十年過ぎてもなお、録音された瞬間の燦然たる輝きをいまだ失うことのない不朽の音楽アルバムというのが、この世にはごく稀に存在します。
 
それこそが人間の残した文化的な遺産、まさしくこの「As Falls Wichita,So Falls Wichita Falls」に捧げられるべき言辞でしょう。
 
 
このジャズの金字塔的アルバムに、今更、講釈をつけ加えるのもおこがましいように思えます。
 
しかし、このアルバムに、どうあっても見逃すことの出来ないメッセージを見出すとなら、それは、パット・メセニー、ライル・メイズという、二人のジャズの伝説的名手によって音楽という形で紡がれる、あたたかな大いなる自然への敬意、そして、賛美であったのかもしれません。

John Cage 「Early Piano Music」

 
 
 ジョン・ケージという人物は、日本との関わりが深い人物であり、禅文化をアメリカに広めた鈴木大拙とも親交が深く、日本の臨済宗の寺に招かれ、畳の上に背広とネクタイ姿で正座をし、大拙が立てた茶を受ける姿も写真に残されています。また、現代音楽家である一柳慧も、ケージに深い薫陶を受けた一人で、”プリペードピアノ”という、グランドピアノの弦のところにゴム等を挟んで本来の音色を変える技法を、日本において他の作曲家に先んじて取り入れていきました。
 ケージの代表曲として、「4分33秒」ばかりが、彼の”サイレンス”という独特の概念を端的に表していると取り上げられることに対して、個人的に少なからず不満を覚えています。もちろん、この楽曲というのも素晴らしく、なおざりに出来ないところもありますが、ジョン・ケージのサイレンスの概念の本領というのは、彼のピアノ曲、もしくは、歌曲の楽曲に感じられると私自身は考えておりまして、「Early Piano Music」では、彼の作曲をする上でのサイレンスという概念を知るための秀逸なピアノ曲が並べられていて、彼の思想の本質に迫るための足がかりになるでしょう。               
  この「Early Piano Music」と銘打たれたアルバムに収録されているケージの初期の作品集を聴くと、ケージの音楽的な才覚というのが、他の作曲家の性質と異なるものであり、なおかつ活動の初期からすでにかなり高く洗練されたものであることが分かり、そして、ベートーヴェンの三十番以降のソナタに比するような高級な静けさの特質を擁していることも見えてきます。
 特に、このアルバムに収録されている「In a Landscape」という楽曲が彼の持つ旋律美の才覚が遺憾なく発揮されています。この楽曲というのは楽譜を見ても、作曲者の独特な指示がなされていて、最初に踏み出したクレッシェンドペダルを最後まで踏み続けなさいという記譜が、楽譜の最初に見られます。これは、ピアノの演奏の初歩的な学習、ペダルは必ずしもどこで踏むとは決まっていませんけれど、基本として段階的に踏むべきであり、曲の間じゅう踏み続けるというのは本来の規則から逸脱した禁則的手法であることには違いありません。
 クレッシェンドペダルを踏みつづけていると、どのような音響的効果がもたらされるのかというと、弾いた和音なり単音なりの反響の余韻がいつまでも消えやることなく、倍音だけが増幅され、弾いていないはずの音がハーモニクスのように折り重なっていく奇妙な現象が生じます。  
 実際に鍵盤を叩いた瞬間に鳴り渡る音の向こう側に奇妙な倍音が漸次的にひろがりをましていって、一種の漠としたアンビエント的な奥行きのある音響の世界がその向こう側に浮かび上がってきます。 実は、エストニアの作曲家、Arvo Partなども「Fur Alina」という楽曲において、同じような技法を取りいれており、こちらの方は鐘の反響のような独特な効果がほどこされています。
 
 この楽曲「In a Landscape」は、単一の旋律が対旋律な技法で構成されていて、バッハの平均律をシンプルに解釈したような気配もあります。しかし、そこにはケージ独特の旋法が感じられます。ここには、分散風の和音は出てきますが、縦に構成された明瞭な和音というものが全く出てこないので、楽譜を見ると、あまりに単純で、初歩的な記譜にも思え、ロマン派などの作曲家で鍛錬を積んできた演奏家などが見れば、あまりの単純さに呆れ、拍子抜けしまう印象すらあります。
 しかし、油断のならないのは、その簡素さは悪い意味での単純さに堕することなどなく、深い示唆に富んだ言語的、哲学的な作風となっています。この楽曲は、一種の音楽を聴いたり弾いたりという形をとった「内的な悟りの体験」といっても差し支えないでしょう。おそらく、禅的な静寂というものをケージはここで表したかったように思え、その旋律自体もどことなく西洋風でなく、四七抜き音階的な純和風のニュアンスがうまい具合に表されています。
 おそらくこの楽曲でケージが表現しようと苦心惨憺していたサウンドスケープというのは、禅寺の庭にひろがる寂びた情景、また、例えるなら、重盛三玲に代表される作庭にあるような雰囲気、およそ喧騒とかけはなれたわびさびの世界であり、枯山水の庭を縁側に腰をおろして眺めているようなサウンドスケープを想起させます。
 
 さらにまた、この「In a Landscape」の楽譜の最後に、独特な指示記号が見られ、「瞬間的に音を途絶えさせなさい」というような、一見したところ理解しがたい指示がなされています。これは実際やってみると、ほとんど無理な話で、どれだけミュートペダルを強く踏み込んでも、音が完全に消えることはなく、音というのは、力学的な圧力を加え、無理やり消そうとしても、どうあっても一瞬では消せないという事実に気がつきます。ここには、いわば、矛盾撞着のような意図が隠されている気がします。さらにいうなら、この音の発生の原理がここでは嫌というほど理解できます。時系列においてどちらが先なのか定かではないものの、ここでは彼の若き日のハーバード大学の無響室での異質な体験というのが何らかの形で関わっているのかもしれません。
 おそらく、ここでジョン・ケージが音として込めた概念は、外側に満ちる静けさのみにとどまらず、それと呼応するように充ちている”心の内側の静けさ”ではなかっただろうかと思われます。
 まさにその本当の意味でのサイレンスという概念こそ、若き日のジョン・ケージがこの「In a Landscape」において明瞭に表現しておきたかった極めて異質な内的体験であったかもしれません。
 
 この「Early Piano Music」というECMレコードのリリース盤において、「Dream」というジョン・ケージの初期の名曲が収録されていないところが、少しだけ残念ではありますけれど、「Seasons」、「Metamorphosis」といった組曲がその心残りを完全に埋めあせてくれています。
 これらの組曲は、モートン・フェルドマンにも似た風味が感じられて、非常に洗練された雰囲気に満ち溢れていますので、現代音楽というジャンルのニュアンスを掴むのにうってつけだといえましょう。
 何より、「In a Landscape」でのヘルベルト・ヘンリクの演奏の程よいテンポ感とための作り方、そして間のとり方が素晴らしく、他のこの楽曲を収録したレコードに比べて、頭一つ抜きん出ており、この楽曲からおのずと滲み出てくるケージの持つ真価をヘルベルト・ヘンリク自身の深い理解度によって裏打ちされた演奏によって、これ以上はなかろうというほど引き出しています。
 このアルバムは、ケージの初期の名曲の本来の良さが他の盤よりも遥かに理解しやすい作品となっています。


Nils Frahm 「Wintermusik」


Nils Frahmは、ドイツの若手気鋭の音楽家として、ピアノ曲を中心として電子音楽を駆使して、先鋭的な楽曲をリリース続けています。


ニルス・フラームのごく簡単なバイオグラフィーを紹介しておくと、フラームの父親がECMレコードのアートワークのカメラマンを務めており、若い頃から、ECMをはじめとする上質な音楽に接してきた経緯があるからか、他のポストクラシカル界隈のアーティストと比べ、抜群のセンスが感じられる音楽家です。 そもそも芸術というのは、技術というのはそれなりに鍛錬によって向上しますが、根本の才能という面ではどうにもならない生来由来のものであるといえ、Nils Frahmは現代に華々しく蘇った古典音楽のピアニストのような華々しい雰囲気があります。


 

 

 ニルス・フラームの2009年のデビュー作「Wintermusik」は全三曲収録。EPとしてのリリース。 


一曲目の「Ambre」は、このポストクラシカルというジャンルを象徴するような名曲で、ドイツ・ロマン派の系譜に位置づけてもおかしくない気がします。シューベルトの考案した「ソナタ形式における叙情性のあるB楽章」という概念を引き継いでいて、そのところに、彼の東欧の音楽家としての深い矜持が感じられます。移調がうまい具合に交互に配置されることにより、非常に対比的な構造が見いだされます。またそこにGlockenspiel の音色がキラキラした輝きを放っています。

 

特に楽曲が全然飽きが来ない作品です。聴き応えを十分にしている要因というのは、しっかりとした構成がなされ、対比的なAーBーAという楽章が形作れている点にあって、この展開力というのが、他のポスト・クラシカル界隈の作曲家と異なる特質をもたらしています。


おそらく、ニルス・フラームはなんらかの形で、古典音楽の作曲の基本というのを習得している感があり、また実際の演奏者としても同じことがいえます。彼は、ピアノの基本的な技法を実際の演奏する上で大切にし、左手の伴奏の上に歌うように弾きこなされる主旋律という演奏の基本を、体系的な音楽を授けられたのでもないのに熟知しています。音楽にたいする知見、経験が若い頃から培われてきたからこそでしょう。 

 

二曲目の「Nue」は、Glockenspielの印象的なイントロから始まり、そのフレーズをピアノが引き継いでいきます。最初は長調であった曲が短調に移ろい、そして、そこの哀愁のあるアコーディオンの音色が加わってくる。


3つの楽器が重なり合うようにして、より、深度のある音響世界を形作っています。やがて、曲はいくつかの連結部の転変を経て、元の印象的なモチーフへと戻っていきます。曲の最終盤のアコーディオンの哀愁のあるブレスの反復がこの曲に何か異様な説得力を与え、やがて、その音色は徐々にフェードアウトしていく。

 

三曲目の「Tristana」も、一曲目、二曲目のミステリアスな雰囲気を引き継いでいて、他の曲に比べると、映画のワンシーンの中に流れるサントラ曲のような風味が感じられるようです。


前二曲と同じようにGlokenspielとアコーディオンがピアノの演奏を美しく飾り立てている曲です。短調がメインの曲の中にときに、長調的な左手の伴奏が加わることで、曲の雰囲気を暗くもなく、明るくもない、きわめて思索的な音楽性としています。


途中から、多重録音のピアノの高音とパーカッションが加えられ、そこに、ホーンのようなアコーディオンの迫力ある音が付け加えられ、さらに曲は不可思議な雰囲気を醸し出していきます。


途中に、プリペイドピアノ的なエフェクト効果がほどこされているところは圧巻といえ、また、ジャズのインプロヴァイゼーション的なピアノのフレーズの運び方は、ほとんど鳥肌のたつそうな凄みというのが感じられます。

 

 Nils Frahmは何より、この複雑で完成度の高い楽曲を自宅のブースでレコーディングしてしまっているところが、まず信じられないというべきか、畏れ多いようなところのあるアーティストです。


彼の音楽に対する真摯な考えというのは、このデビューアルバムから顕著に感じ取られます。それはいまだ彼の音楽性や活動のモチベーションを支え続けている気がします。作曲スタイルと言う面でも、サウンドエフェクトという面でも、巧緻な資質を持っているアーティストで、彼の楽曲というのは、のちのポスト・クラシカルと呼ばれるアーティストたちに与えた影響は計り知れないものがあると思われます。


もちろん、ピアノの後ろにある木のハンマーの弦を叩く音を強調したサウンド面において、このアルバム以前には存在しなかった特異な音楽性といえ、後のポスト・クラシカルというジャンルの方向性をほぼ決定づけてしまった記念碑的作品として、このアルバムは音楽史の名碑にしっかり刻まれるべきでしょう。

 THE KNACK 「GET THE KNACK」


いわゆる、一度聴いたら耳について離れない曲というのがあって、このTHE KNACKというバンドの「マイ・シャローナ」という楽曲もそのひとつに挙げられるでしょう。もうずいぶん昔になってしまいましたが、この中の一曲、マイ・シャローナがあるバラエティー番組に使われていたことを覚えている人は多くないかもしれません。

しかし、このマイ・シャローナというフレーズを聞くと、「ああ、この曲だったの!」と理解してくれる方も少なくないはず。今回、このアルバムを取り上げたのは、有名なこのマイ・シャローナという曲が収録されているから紹介しよう、というのではなく、このアルバムのその他の曲が、結構粒ぞろいの楽曲が揃っているため、再度、ここで埋もれつつありそうなThe Knackという良質なロックバンドに、さりげなくスポットライトを当てておこうという意図があります。

このバンドは、実は、カートコバーンなども、影響を受けたバンドとして挙げていて、直截的な影響を感じないですが、なんとなくそのフレーズやメロディーのキャッチーさという点で、カート・コバーンは、何か売れるロックミュージックの方程式を肌で学び取ったのかなあというような気がします。

 このバンドを説明する上では、”Power Pop”というロックのジャンルを無視するわけにはいきません。パワーポップというジャンルは、どちらかというと、ニューウェイブとかパンクよりの類型の扱いであって、何だかちょっと切ないような、甘酸っぱいようなフレーズがちりばめられているのが顕著な特徴です。その源流をたどると、Flamin' Grooviesという英国のロックバンドの「Shake Some Action」という楽曲が、パワーポップの原型、雛形だというようにいわれています。

もちろん、オーバーグラウンドなどではチープ・トリックという、パワーポップに分類されてもおかしくないバンドが、日本で、ビートルズに負けないほどの人気を博した経緯がありますが、どうも、このパワーポップというジャンルは、メロディーというのが前面に引き出されていて、一度聴いただけで楽曲の良さが理解しやすいという側面があって、日本人にとっては親和性の高い音楽性なのではないかと睨んでいます。

そして、THE KNACKというバンドはよく一発屋のようにみなされるところがちとかなしいところですが、実は結構、タイトなドラミングであったり、ギターの演奏というのは、シンプルでそれほど派手さはないんですが、隠れた実力派のバンドということだけは名言しておきたいですね。

 

このアルバムの中ではたしかにディスコミュージック的な雰囲気のあるマイ・シャローナばかり取りざたされるのにちょっと不満でありまして、個人的には他にもっといい曲があるじゃないかと、ナックファンとしては義憤をおぼえ、実は「Oh Tara」という曲、そして、「That's What The Little Girl Do」という二つがパワーポップ史の五本指に入ってきてもおかしくない名曲なんだと勝手に断定づけておきたいところです。

結構、THE KNACKの曲というのは、淡白な印象で、ギターの音色も、アンプからそのまま直という感じであるし、また、それほどメロからサビにおいて、旋律の音階が劇的な跳躍があるわけではないので、聴いていて強烈なインパクトはないです。それでも、ダグ・フィーガーの歌声の爽やかさというのは聴いていて心地よく、永遠の輝きすら持っているように思えます。彼の声質というのは、とても純朴でいて、とっつきやすいものがあり、歌い方にも、変な力みが入っていなくて、不純物のようなものが全然感じられないです。声は人を表すという言葉を信ずるならば、この歌声にフィーガーの人柄、彼の温和で親しみやすい性質がはっきり現れているのかもしれません。 

 「Oh tara」

これは十代の頃によく聴いた曲で、なんだか聴いていると、多感なころの情感をゆさぶられるかのよう、胸キュンというべきか、なぜだか切なくなってきたのを覚えています。実はこれがパワーポップの類い稀な魅力で、青春のセンチメンタルな情感を想起させてくれる。

それはちょっと青臭く、はたから見ると、ちょっとダサそうにも思えるのだけれども、十代の頃しか味わえないような大切な感情を、こういった楽曲というのははっきりとした形で呼び起こさせてくれました。今、年をとって聴きなおすと、たしかに曲の良さというのはよくわかるんですが、かつてのような胸をドギュンと射抜かれるような感じというのは、もうすでに味わいがたくなっています。なぜ、そのような共鳴が起こるのか、ちょっとわからないですけれども、それこそ、おそらく、音楽というもののもつ不思議な魅力、醍醐味なのではないでしょうか。

 「That's What The Little Girl Do」

この曲については、Oh taraとは対照的に、非常に明るく爽やかで、弾けたような印象のある曲で、とても親しみやすいところがあります。聴いていると、柔らかな風が目の前を通り抜けていくかのようなセンチメンタリズムで彩られています。ちょっとオールディーズ的なコーラス、そして、間奏のダブルギターのハーモニクスが非常にいい味を出しています。一切、余計な展開を付け加えず、非常にシンプルな構成となっています。

 

 

改めて聞いてみると、THE KNACKというのは、マイ・シャローナに代表されるように、あっけないほどシンプルでスタンダードなロックを奏でるミュージシャンです。小細工を一切せず、ありのままの音楽をからりとした痛快!といえるほどの心情で表現する。そういったところが、刺激的な色気のようなものを芸術に求めるタイプの聞き手にとっては、ちょっと物足りない印象があるのかもしれません。

 

しかし、やはり、改めて言っておきましょう。THE KNACKは素晴らしい!!

 

いつ聴いてもオールタイム・ベストのロックアーティスト。健全でいて、爽やかな音楽性で、今なお時を越えて、私たちを楽しませ、勇気づけてくれる、不思議な魅力を持った太陽のようなミュージシャン。

50年という長い年月を経ても、かれらの楽曲の輝きというのは今もなお失われていないように感じられます。



 



Kimonosというバンドを簡単に紹介しておくと、今井レオと向井秀徳という日本音楽界きっての鬼才、いわばの理論派と感覚派の2つの個性がしっかりと組み合わさることによってこれまではなかった異質な化学反応が起こり、きわめてハイクオリティーな音楽が生みだされました。
 
向井秀徳は、すでにナンバーガールやザゼン・ボーイズのフロントマンとして、数多くの先鋭的なロック音楽をうみだしてきた実績があり、そして、今井レオの方も、ソロ・プロジェクトやMeta Fiveなどにおいて、ダンスミュージック方面での活躍が目覚ましくなってきています。
 
 
下北沢の通称”Maturiスタジオ”で、綿密に何度もリハーサル、レコーディングがなされたと思われる、このKimonosのデビューアルバム「Soundtrack to Murder」は、彼らの音の煮詰め方がストイックであるためか、きわめて洗練された完成度抜群の音楽が誕生したといって良いでしょう。

とりわけ、アルバム表題曲「Soundtrack To Murder」の出来栄えは文句なしに素晴らしく、向井秀徳の清涼感のある日本語のボーカル。そして、今井レオにしか出しえないネイティブの英語の歌声の響きが掛け合いのように繰り広げられ、洋楽とも邦楽ともいえない独自の匂いを生み出しています。
 
また、どことなくキーボードの旋律とギターのフレーズのプロダクションが、ザ・ポリスを彷彿とさせ、他の海外のバンドが、こぞってポリス的な音楽を生み出そうと躍起になってもなしえなかったことを、彼らはこの楽曲において、ザ・ポリスの領域にまでやすやすと踏み込んでしまっている。しかし、彼らがただのザ・ポリスのフォロワー的な存在に堕しているわけでもありません。
いかにも、向井秀徳らしい時代劇風の世界観がいかんなく発揮されており、辻斬りを彷彿とさせる日本語の歌詞と英語の歌詞が対比的に並んでいます。向井秀徳の歌と今井レオの歌が交互に配置されて、それが独特な風味を生み出している。そこでは、対比という西洋の古典的な美学により、呼応するフレーズが楽曲の中に”男の美学”として生みだされているという気がします。
そして、サビのところで、和風のテイストから、いきなり西洋風のテイストに移行する時、なんともいえない妙味があり、そこには、今井レオの高い声質からくるものか、爽やかな印象すらうけます。
そして、ややもすると退屈になりそうな曲展開が、彼の持ち味のグルーブ感のある歌声が加わることで、非常に複雑な印象を与えもする。つまり、何度聴いても全然飽きのこない良質な楽曲が実に堅固な基盤により築き上げられている。そんなところが、この名曲の持つ独特な魅力だといえるでしょう。

 
アルバムの全体的な印象は、ポップ、ロック、ダンスミュージックを融合したような音楽性です。
さほど目新しさはないように思えるのに、この二人の鬼才の個性によって、いいしれない新しい雰囲気が醸し出されています。楽曲の雰囲気はキャッチーではあるけれども、いたるところに、彼ら二人の音楽フリークらしい仕掛けのようなものが施されていて、そこに聞き手はニヤリとしてしまうところがあります。
 
これは、二人がいかにさまざまな音楽を貪欲に聴いてきたのか、そのバックボーンの深さが、ここではっきりと示されているという気がします。
 
「Almost Human」でほの見える、AOR趣味とも、ジャズ・フュージョン趣味とも、またクラブ・ミュージック趣味とも言えなくもないような、多彩なジャンルの色合いを持った楽曲は、向井秀徳が若い頃から、プリンスなどの影響を受けていながら、これまでその機会に恵まれなかったからか、表立っては作ってこなかったタイプの楽曲といえるでしょう。
 
しかし、”今井レオ”というダンスミュージックを誰よりも理解し、それをさらっとネイティブの発音で歌いこなせる盟友を得たことにより、ここで、初めてそういった聴き応えのある楽曲を生み出すに至った。
これはいわば、これは大人のために用意されたゲキシブ音楽といえ、彼の長年のファンとしても、新鮮に聞こえること間違いなしでしょう。
 
そして、また面白いのは、細野晴臣のカバーの「Sports Man」であり、それほど原曲のスタイルと変わらないように思え、一定の忠実さを以って、また、敬意をはらって今井レオの流暢な英語の発音によってしっかり歌いこまれていて、そこには現代的なテクノの味が醸し出されているところが味わい深い。

Kimonosは、本プロジェクトではないにしても、耳の肥えた西洋人をアッと驚かすような高い洗練度を誇り、深い知見と技術に裏打ちされた勘の良い音を奏でる数少ない日本のアーティストであるとはっきり断言できます。
 
 

Pixies 「Surfer Rosa」




 

「オルタナティブ・ロックの生みの親」ともいっても過言ではないザ・ピクシーズ。個人的に、一、二を争うくらい思い入れのあるアーティストなので、レビューをするとなると、なんとなく畏れ多いように思えて、余計な力が入ってしまいそうではあります。

 
 おそらく、ザ・ピクシーズというバンドほど、他のどの音楽とも似ていない、唯我独尊と大仰に形容しても言い過ぎでないアーティストです。どこを探してもその代役は見当たらないです。それは彼等が個性というものの意味をしっかり音楽で表現しているからでしょう。
 
 彼らの音楽性というのは、説明したくてもできない。それはどんなジャンルに影響を受けてこういう音楽を作ることになったのかがわからないところにあります。
 
 
 彼らの後にたくさんのピクシーズの影響を受けたバンドが列をなしているが、一方で、ピクシーズの前には何もいないような気がする。またピクシーズは、どの音楽にも似ていないし、どのジャンルともそぐわない、どの他の存在とも相容れない気がしています。
 
 
  そもそもにおいて、彼らは、一つの小さな枠に収まるとか、何かに適合するのを全力で拒んでいるというような気もします。その存在性は、他から完全に孤絶しながらも、多くの人々の心に何かを訴えかけるようなキャッチーな音楽性を有しています。彼らは迎合しているわけではない、売れようとも思っているわけではない、それなのに、国内にとどまらず世界中の多くの人達に受け入れられています。
 
 それは、彼らの音楽が、個性というものの意義を誇らしく示しつづけているからで、これこそまさにピクシーズという存在がいまだリスナーだけにとどまらず、多くの音楽の作り手にも、長年にわたって愛されつづける理由でしょう。
 
 彼らが、特に90年代のミュージックシーンに与えた影響というのは計り知れないものがあります。レディオヘッドをはじめ、ウィーザー、ニルヴァーナ、スマッシングパンプキンズ。これらの著名なオルタナティヴ・ロックバンドは、もしかするとピクシーズという存在がなければミュージックシーンに出てこなかったかもしれません。これらの音楽家たちは、初期の音楽性において、ピクシーズ色を自分たちの楽曲の中に取り入れて、その後、自分たちのスタイルを徐々に確立していきました。
 
 
 
 そういう意味では、この「Surfer Rosa」はロック愛好家だけではなく、これから何かを生み出そうというロックミュージシャンとしても、一体、オルタナティヴロックというものがなんなのかを知るためには一度くらいは聴いておいても損がないでしょうし、どころか得しかないアルバムといえます。
 
 もちろん、この作品もデビュー時から彼らを後押ししてきたイギリスの伝説的インディーレーベル「4AD」からのリリース。
 
 絵画的な魅力のある妖艶なアートワークとともに、収録されている楽曲もまた彼らの代名詞といえるものばかり。なんともこのアルバムを手にとってみただけで、ウットリなってしまういそうになります。

 このアルバムの中で最も有名な楽曲、そして、ピクシーズの名を世界的に知らしめたのは、言うまでもなく、「Where Is My Mind」です。
 
 ブラピ主演のファイトクラブのエンディング曲としてもよく知られています。歌詞とその曲の雰囲気を見ると、どことなく幽体離脱について歌ったのかなという印象があって、なんともこれまでの音楽にはなかった神秘的なアトモスフェールに満ちています。アコースティックギターとディストーションの兼ね合い。そして、ここで展開される”静と動の対比”という、彼らの美学の一つは、ニルヴァーナの名曲「Smells Like teen Sprit」の原型を生み出すきっかけを作ったともいえるでしょう。
  
 「River Ehphrates」の凄まじい個性についてはもう詳細な説明不要。ほとんど野獣のようなブラック・フランシスのシャウトに、キム・ディールの色気のあるコーラスが加わることで、独特な風味を醸し出しています。これまでの、いや、これ以降のどの音楽にも似ていない、かなり異質な楽曲です。
 
 
 「ライ、ライ」という実に謎めいたコーラスに耳をすましていると、すでに私たちはこの曲の虜になってしまっていることに気がつきます。忘れてはならないのは、この曲の骨格のようなものを決めているのが、実はボーカルではなく、ジョーイ・サンティアゴの巧みなギターであり、このレスポール特有の図太いディストーションのうねりが、曲中に妖しげにギラリとゆらめくことにより、この楽曲の神秘性を強めていき、一度聴いたら忘れがたいものとしています。
 
 
 サンティアゴのギターの手法というのは実はピクシーズの音楽の骨組みを形作っていて、ややもすると、素人臭い演奏にもなりかねないのを、彼独自の職人然とした渋い音の出し方によって、このバンドの演奏を説得力あふれる音たらしているのが彼の隠れた功績のひとつといえます。
 
 サンティアゴは、八十年代の他の手練のギタリストのように、たとえば、ヴァン・ヘイレンのように手数が多いわけでもないのに、「これしかない」というシックでシンプルなフレーズを淡々と弾き、無駄な音を一切出さないで、ひっそりと楽曲の良さを引き出す、いわば、裏方としてこのバンドの曲の雰囲気を盛り立て、華やかにしていくという特徴において、誰も肩を並べるところのないギタリストの一人、そんなふうに言っても何ら大袈裟ではないでしょう。
 
 
 
彼の弾くフレーズは、必ずといっていいほど、奇異な感覚を聞き手にもたらします。それは、増四度のような、古典音楽で言うところの「トライトーン」のような不気味な音階の跳躍。これは普通のロックの音階進行から乖離した、それまでのブルースをルーツとするロックミュージックの既成概念を揺るがしてしまった。
 
 
音階的にも、ペンタトニックを基本にしているものの、エスニック風の独特の旋法を使っていて、これは、ロックか、ジャズか、フォークか、はたまた、サーフミュージックか?と、音楽評論家の目を惑わせているようにも思えます。
 
 
音楽性のルーツが全然よくわからなくなるほど、多種多様なジャンルがごちゃまぜになっていて、彼のギターフレーズを聴いていると、道標のない荒野に踏み込んでいくような錯覚すら覚えざるをえません。サンティアゴのギタープレイというのは、今なお恐ろしいほどの強烈な異彩を放っています。
 
 
 不思議なことに、この曲は何度となくリピートしたくなってしまうような中毒性があります。実際、リピートしまくっていると、なぜだかしれないが、奇妙な底なし沼に入り込んでいく錯覚すらおぼえざるをえません。
 
 
 ここにオルタナティブロックという音楽ジャンルの原型があるような気がして、見逃すことが出来ません。
 
 
 
 
 そして、このアルバムの中をただのマニア向けの音楽ではなく、ポピュラー音楽としての価値を高めているのが、「Bone Machine」と「Gigantic」の二曲。
 
 この二曲は、他の楽曲に比べてキャッチーで近寄りやすい雰囲気を帯びていて、それは何がゆえなのかを考えてみると、それはベース・ボーカルのキムディールのキャラクターの可愛らしさと、キュートさが存分なまでに引き出され、全体的に玄人好みのする楽曲の中で強い煌めきを放っています。
 
 
 キム・ディールの歌声というのは、少しハスキーでいて、それでも、どことなく可愛らしい感じがあって個人的には非常に好きなボーカリストの一人です。もちろん、決して技術的には、上手い歌い手とはいえないのに、必死に歌っているような感じがあるので、聴いていると、とても愛らしく、応援したくなってくるような不思議さがあります。
 
 
 
 キム・ディールのキャラクターの良さがもっともよく味わうことのできるというのが、このオルタナの原型を作った「Surfer Rosa」のもうひとつの魅力といえるかもしれません。