渋谷系の代表的なシンガーソングライター、カジヒデキは「Being Pure At Heart」で明確に「ネオ・アコースティックに回帰してみようとした」と話している。ネオ・アコースティックとは1980年代のスコットランドで隆盛をきわめたウェイブだ。このウェイブからは、ベル・アンド・セバスチャンという後の同地の象徴的なロックバンドを生み出したにとどまらず、Jesus And Mary Chain、Primal Scream等、その後のUKロックの10年を占うバンドが多数登場したのだった。
『Being Pure At Heart』はシンプルにいえば、渋谷系という固有のジャンルを総ざらいするようなアルバムである。そして少なくとも、忙しない日常にゆるさをもたらす作品となっている。北欧でレコーディングされたアルバムであるが、全般的に南国の雰囲気が漂い、トロピカルな空気感を持つ複数のトラックがダイヤモンドのような輝きを放つ。オアシスの「Be Here Now」に呼応したようなタイトル「Being Pure At Heart」は忙しない現代社会へのメッセージなのか。
続く、「We Are The Border」はコーネリアスのマタドール在籍時代の『Fantasma』のダンサンブルでアップテンポなナンバーを継承し、それにカジヒデキらしいユニークな色合いを加えている。この曲もまた渋谷系のスタンダードな作風となっているが、そこに恋愛の歌詞を散りばめ、曽我部恵一のような雰囲気を加えている。サニー・デイ・サービスと同様にカジヒデキも甘酸っぱいメロディーを書くことに関しては傑出したものがある。それはアルバムのタイトルにあるように、純粋な気持ちやエモーションから作り出される。歌詞の中では、クリスマスや賛美歌について言及されるが、それらが楽曲が持つ楽しげなイメージと見事な合致を果たしている。つまり、カジヒデキのソングライティングの秀逸さがサウンドプロデュースとぴたりと一致している。
歌詞も面白く、ちょっとおどけたようなアーティストの文学性が堪能出来る。他の曲と同じように、''アイスクリーム''等のワードを織り交ぜながら、甘酸っぱい感覚のメロディーを作り出す。その中に、ボサノヴァのリズムを配しながら、コーラスの導入を通じて、多彩なハーモニーを作り出す。「いつもそばで、I Love You、触れた〜」と歌う時、おそらくJ-POPの言葉運びの面白さの真髄とも言うべき瞬間が立ち表れる。”英語を通過した上での日本語の魅力”がこの曲に通底している。ある意味でそれは日本のヒストリアのいち部分を見事に体現させていると言える。
「NAKED COFFE AFFOGATO」はYMOのレトロなシンセポップを思わせ、カッティングギターを加え、ダンサンブルなビートを強調させ、モダンな風味のエレクトロに代わる。前曲に続きアーティストしか生み出せないバブリーな感覚は、今の時代ではひときわ貴重なものとなっている。そこにお馴染みの小山田圭吾を思わせるキャッチーなボーカルが加わり、楽しげな雰囲気を生み出す。続く「Looking For A Girl Like You」はギター・ポップとネオ・アコースティックというスタイルを通じて、高らかで祝福的な感覚を持つポップソングを書き上げている。アレンジに加わるホーンセクションは北欧でのレコーディングという特殊性を何よりも巧みに体現している。
プレスリリースにおいて、カジヒデキはネオ・アコースティックを重要なファクターとして挙げていた。でも、今作の魅力はそれだけにとどまらない。例えば、「Don' Wanna Wake Up!」では平成時代に埋もれかけたニューソウルやR&Bの魅力を再訪し、マリンバのような音色を配し、トロピカルな雰囲気を作り出す。R&Bとチルウェイブの中間にあるようなモダンな空気感を擁するサウンドは、アメリカのPoolside、Toro Y Moi、Khruangbinと比べても何ら遜色がない。そこにいかにもカジヒデキらしいバブリーな歌詞とボーカルはほんのりと温かな気風を生み出すのである。
もうひとつ注目しておきたいのは、このアルバムにおいてアーティストはチェンバーポップやバロックポップの魅力をJ-POPという観点から見直していることだろうか。例えば「Walking After Dinner」がその好例となり、段階的に一音(半音)ずつ下がるスケールや反復的なリズム等を配し、みずからの思い出をその中に織り交ぜる。そして、カジヒデキの場合、過去を振り返る時に何らかの温かい受容がある。それが親しみやすいメロディーと歌手のボーカルと合致したとき、この歌手しか持ちえないスペシャリティーが出現する。それはサビに表れるときもあれば、あるいはブリッジで出現するときもある。これらの幸福感は曲ごとに変化し、ハイライトも同じ箇所に表れることはない。人生にせよ、世界にせよ、社会情勢にせよ、いつもたえず移り変わるものだという思い。おそらくここに歌手の人生観が反映されているような気がする。そしてまた、この点に歌手の詩情やアーティストとしての感覚が見事に体現されているのだ。
アルバムの終盤でもシンガーソングライターが伝えたいことに変わりはない。それは世界がどのように移り変わっていこうとも、人としての純粋さを心のどこかに留めておきたいということなのだ。「君のいない部屋」では、切ないメロディーを書き、AIやデジタルが主流となった世界でも人間性を大切にすることの重要性を伝える。本作のクローズを飾る「Dream Never End」は日常的な出来事を詩に織り交ぜながら、シンプルで琴線に触れるメロディーを書いている。
85/100
Best Trackー「Dream Never End」
副都心ポップを標榜するニューシングル「One More Chance」を本日4/24にリリースします。
海外でカルト的な人気を誇るCRYSTALが、副都心ポップを標榜する新曲「One More Chance」を本日(4/24)にデジタルリリースします。同時公開されたCM動画を下記よりチェックしてみて下さい。
三宅亮太と丸山素直によるシンセ・デュオ”CRYSTAL”は、日本ではそこまでではないが、世界的に知る人ぞ知るデュオだ。フランスの高名なエレクトロデュオ”JUSTICE”にその才能を見初められ、Thundercatの全米ツアーの帯同の他、ブレイン・フィーダーのFlying Lotusの主催するオンラインライブ企画”Brainfeeder THE HIT”に長谷川白紙とともに出演を果たした。
ニューシングル「One More Chance」は副都心ポップを掲げるシンセデュオらしく、80sシティーポップをベースに、TRFとNew Orderのシンセポップサウンドを変幻自在にクロスオーバーする。
前作アルバム『Reflection Overdrive』で注目を浴びたCRYSTAL。「AUTUMN STORY 秋物語」のフォローアップとなる「One More Chance」は、過去の想い出にヒントを得て制作されたタイムリープもの。
過去3度のパリ公演では、Para One、Chateau Marmont、Boys Noizeらと共演、近年はThundercatの全米ツアー、Sonar Festival、Taico Club、Rainbow Disco Clubに出演。Flying Lotus presentsのtwitchプログラム「Brainfeeder The Hit」にスペシャルゲストとして登場。Jessy LanzaのDJ Kicksに楽曲がフィーチャーされ注目が上昇中。一方、三宅亮太はSparrowsとしても活躍し、Fazerdaze、Casey MQらをフィーチャーしたアルバム「Berries」を発表している。
Real Estate(リアル・エステイト)が米国の深夜番組”Jimmy Kimmel Live!”の最新回に出演し、シングル「Water Underground」のパフォーマンスを披露した。比較的落ち着いているが、どっしりとした安定感のある演奏はこのバンドならでは。ライブ・パフォーマンスの模様は以下よりご覧下さい。
DIIVのニューアルバム『Frog in Boiling Water』は、”茹でガエル”というメタファーがやや自虐的に機能する。しかし、彼らはそれを個人だけではなく、全体的なニュアンスと捉えているらしい。終末の世界をどのように生きるべきなのか。生きるというより、サヴァイヴァルに近い。答えは見つからないが、それぞれが自力で探していくべきなのか。
彼らのサウンドにはモダンなオルトロックの文脈から、Queenのようなシアトリカルなサウンド、そしてシューゲイズを思わせる抽象的なギターサウンドと多角的なテクスチャーが作り上げられる。しかし、いかなる素晴らしい容れ物があろうとも、そこに注ぎ込む水が良質なものでなければ、まったく意味がないということになる。その点、ピロー・クイーンズの二人のボーカリストは、バンドサウンドに力強さと華やかさという長所をもたらす。そして、今回、コリン・パストーレのプロデュースによって、『Leave The Light On』よりも高水準のサウンドが構築されたと解釈出来る。そして、もうひとつ注目すべきなのは、バンドの録音の再構成がフィーチャーされ、それらがカットアップ・コラージュのように散りばめられていることだろう。
本作の序盤では外側に向かって強固なエナジーが放たれるが、他方、「Blew Up The World」では内省的なインディーロックサウンドが展開される。しかし、クイーンズは、それをニッチなサウンドにとどめておかない。それらの土台にボーカルやシンセテクスチャーが追加されると、面白いようにトラックの印象が様変わりし、フローレンス・ウェルチが書くようなダイナミックなポピュラー・ソングに変遷を辿る。これらの一曲の中で、雰囲気が徐々に変化していく点は、バンドの作曲の力量、及び、演奏力の成長と捉えることが出来る。反面、それらの曲の展開の中で、作り込みすぎたがゆえに、”鈍重な音の運び”になってしまっているという難点も挙げられる。これは、レコーディングでバンドが今後乗り越えなければならない課題となろう。
しかし、そんな中で、 ピロークイーンズが親しみやすいインディーロックソングを書いている点は注目に値する。「Friend Of Mine」は、boygeniusのインディーロックソングの延長線上にあるサウンドを展開させるが、ボーカリストとしての個性味が曲の印象を様変わりさせている。こぶしのきいたソウルフルなサングについては、従来のピロー・クイーンズにはなかった要素で、これが今後どのように変わっていくのかが楽しみだ。そのなかで、80年代のポピュラー・ソングに依拠したロックサウンドが中盤に立ち現れ、わずかなノスタルジアをもたらす。
ただ、新鮮なサウンドが提示されているからとはいえ、前作『Leave The Light On』の頃のバンドのシアトリカルなインディーロックソングが完全に鳴りを潜めたわけではない。例えば、旧来のピロー・クイーンズのファンは「Heavy Pour」を聴いた時、ひそかな優越感や達成感すら覚えるかもしれない。クイーンズを応援していたことへの喜びは、この曲の徐々に感情の抑揚を引き上げていくような、深みのあるヴィネットを聴いた瞬間、おそらく最高潮に達するものと思われる。これは間違いなく、新しいアイルランドのロックのスタンダードが生み出された瞬間だ。
アルバムの終盤は、セント・ヴィンセントや、フローレンス・ウェルチのようなダイナミックな質感を持つシンセポップソングをバンドアンサンブルの形式で探求する。「Notes On Worth」では、ネオソウルとオルタナティヴロックの融合という、本作の音楽性の核心が示されている。アイルランドのロックシーンで注目すべきは、Fountains D.C、The Murder Capitalだけにとどまらない。Pillow Queensがその一角に名乗りを挙げつつあるということを忘れてはならないだろう。
1日がかりのセッションの間、彼らは長いレコーディングを曲に分解し、パーツを組み立て直すという、一種のフランケンシュタインのような作業を行っていた。そして、この怪物性-心の痛み、喪失と痛みの肉体性-は、特にアルバムのサウンドにおいて理にかなっている。パメラ曰く、「最初は静かに始めて、後からラウドさが出てきた」そうで、より内省的な雰囲気を持つ「Blew Up the World」や「Notes on Worth」、荒々しいギターの「Gone」や「One Night」などに顕著に表れている。
新たな実験、心に響く歌詞、静寂とラウドを行き来するサウンドが組み合わさった結果、一種のカタルシスがもたられる。破片の中から希望のかけらを探し出す。これまでバンドは、新曲をライブで試聴し、観客に聴かせ、観客の反応を見て作り直してきた。今回は、すでに曲が完全に出来上がっていると感じられるため、そのようなことはしていない。アイルランドのバンドはまた、曲が「ピロークイーンズの曲」に聴こえるかどうかを疑うプロセスを学び直さなければならなかった。前2作とのリンクは確かにあるが、『Name Your Sorrow』は別の方向への勝利の一歩のように感じられる。
オズボーンは、80年代、ランディ・ローズ、ザック・ワイルドとの活動を通じて、メタルの重要なアイコンになった。『Brizzard Of Ozz』、『Diary Of A Madman』、『Bark At The Moon』、『No More Tears』は彼の名作の一例にすぎない。また、オズボーンは以前、自身のソロアーティストとしての音楽性に関しては、必ずしもメタルというジャンルだけでは語り尽くせないものがあるとしている。一例では、95年の『Ozzmosis』の収録曲「See You On The Other Side」にはポピュラーミュージックとして、時代を超越した普遍的な響きがある。