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ルーシー・ブルーはダブリン出身のアイルランド人シンガー、ソングライター、プロデューサー。17歳の時、音楽を追求するために大学を中退し、2020年にPromised Land Recordingsと契約した。


シングル「See You Later」(2021年)でデビュー、同年末にセカンド・シングル「Your Brother's Friend」(2021年)をリリース。

 

2021年6月18日にファーストEP『FISHBOWL』をリリース。セカンドEP『Suburban Hollywood』は2022年1月21日にリリースされた。 2020年9月、ロンドンを訪れていたルーシーは、この街でインスピレーションを受け、現在もまだロンドンを離れていない。


ルーシー・ブルーは、フランク・オーシャン、PJハーヴェイ、スケートのバイブル『Thrasher Magazine』など、幅広い影響から独自の音楽世界を構築する。映画界のアイドル、ハーモニー・コリン(Harmony Korine)の初期の作品に似ていないこともないが、ルーシーの野心的な青春ポップは、アウトサイダー精神と、ティーンエイジャーが自分の道を見つけることの弱さを楽しんでいる。


ルーシーは非常に視覚的な人物でもある。シンガー、ソングライター、プロデューサーである彼女は、曲を作るたびに、その曲が存在する空間を見ている。ある時は部屋(東京のカラオケ・バー、母親の居間)、ある時は、夜のサイクリング、ある時は水に浮かぶユリの花でいっぱいの不吉な暗い場所さえも。ソフトなダブリン訛りのルーシーは、曲作りの際にこれらのイメージがどのように引き継がれるかを説明する。


「音楽制作にとても役立っている」とルーシーは言う。「聴いているものをイメージと結びつける必要があるの。それが私の脳を助けてくれる」


同年代の仲間たちの感情的なストーリーを受け止め、それをポジティブなものにアレンジする才能を持つルーシー・ブルーは、音楽界にとって欠かせない声であり、また、今後のベッドルームポップ・シーンにおいて象徴的な存在となっても不思議ではない。


 

 

 『Unsent Letters』 Promised Land


Lucy Blue(ルーシー・ブルー)は、21歳のシンガーで、2021年頃、NMEとCLASHが新世代のポップアーティストとして注目し、リリース情報を紹介している。

 

『Unsent Letters』は、アーティストにとって実質的なデビュー作となるようだが、現代の他の駆け出しのミュージシャンの例と違わず、現時点ではフィジカル盤では発売が確認できていない。Spotify、Deezer、Youtube Musicのみの配信となっている。


ルーシー・ブルーのソングライティングはベッドルームポップ志向で、Clairo、Holly Humberstoneのアプローチにも親和性がある。ギターのシンプルな弾き語りに加え、ピアノを演奏する。ときにシンセが入ることもある。ソングライティングの核心には、エド・シーランのように率直さがある。難解なコード進行を用いず、場合によっては、カデンツァのみによって構成されているケースも有る。オルタナのようにトライトーンを用いることはなく、デミニッシュを頻繁に用いることもない。Ⅰ、Ⅳ、Ⅴ、Ⅵといった基礎的な和音しか使用していない。それにも関わらず、驚くべきことに、ルーシー・ブルーの曲は、今年度のポップスの中でも群を抜いて華やか。その軽やかなポピュラー・ミュージックは長く聴いていても、それほど耳が疲れることもない。

 

サウンド・プロダクションに関しては、多少、エド・シーランの楽曲に用いられるようなピッチシフター、ボコーダーが多少掛けられているのかもしれない。しかし、シンプルなアコースティック・ギター(エレアコ)、ピアノの弾き語りを中心とする彼女のアルバムには、現代のポピュラーミュージックの欠点である過剰さ、射幸性というのが内在する余地がない。ただ、歌手自身や同年代の音楽ファンのため、曲を制作し、ただ、その人々のために楽器を演奏し、歌うというだけなのだ。このアルバムには、複雑性がほとんど存在せず、簡素さに焦点が絞られている。シンプルで朴訥であるがゆえに心を打つ。それがルーシー・ブルーの音楽の魅力なのだ。


最新アルバム『Unsent Letters』は、リリース情報として公式に説明されているわけではないが、ホリデー・ソングやクリスマス・ソングにも近い空気感に縁取られているという印象を持った。さらに、タイトルにあるように、これまで振り返ることがなかった過去の人生の地点にある歌手の心情をポップス、フォークという観点を通して描写するというような感覚である。そのことは、アルバムの序盤では分からないけれど、終盤になるにつれてだんだんと明らかになる。

 

オープニングを飾る「Say It and Mean It」は、このポップ・アルバムの壮大な序曲ともいえ、ボレロのような形式で、ひとつずつ各楽器のパートが代わる代わる登場し、アルバム全体の器楽的な種明かしをするかのようである。ルーシー・ブルー自身によるエレアコギターのささやかな弾き語りという形で始まり、シンセの付属的なアルペジエーターが加わる。さらに、その後、ルーシー・ブルーのボーカルが載せられたとたん、曲の雰囲気がガラリと一変するのが分かる。

 

”遠く離れた場所を見る達人”というダブリンのシンガーソングライターは、繊細さと大胆さを兼ね備えた彼女みずからの歌の力量により曲の始まりにいた場所から、予測できないような遠く離れた意外な場所へとリスナーを導いていく。曲の展開を引き伸ばしたり、もったいぶることもなく、イントロから、サビとも解釈出来るアンセミックなフレーズへスムースに移行する。

 

ルーシー・ブルーのボーカルは、深いリバーブの効果も相まってか、天上的な幻想性を帯びるようになる。さらにドラムが入ると、壮大なポップバンガーに変化する。フレーズの合間に導入されるギターラインも叙情的だ。さらに、奥行きのある空間を生かしたプロダクションは、曲の終盤でフィルターを掛けた狭い空間処理を施すことにより、現代のトレンドのベッドルームポップ的な意味合いを帯びるようになる。さながら、ルーシー・ブルーが自認するように、異なる空間を音楽によって自在に移動するかのような完璧なサウンド・プロダクションである。

 

「Say It and Mean It」

 

 

二曲目の「I Left My Heart」に、シンガーソングライターのダブリンに対する淡い郷愁が込められていたとしてもそれほど驚きはない。この曲はまた、「十代の頃の自分に対する書かれることがなかったラブレター」と称してもそれほど違和感がない。少なくとも、ケルティックのフォーク・ミュージックの音楽性に根ざしたこの曲は、モダンなベッドルーム・ポップのサウンドプロダクションの指向性を選ぶことにより、シンガーと同世代のリスナーの心を見事に捉え、共感性を呼び覚ます。ウィスパーボイスに近いスモーキーな発声を用い、アコースティック・ギターに対するボーカルラインに切なさをもたらす。


アルバムの序盤では、ダブリナーとして故郷に対するほのかな郷愁や愛着が示されているという感があるが、「Love Hate」は、一転して歌手のロンドンのアーバンな生活が断片的に縁取られている。無数の人が行き交うロンドンの2023年の街とはかくなるものなのだろうか? そんなふうに思わせるほど、シンセサイザーの目まぐるしく移ろうフレーズをベースにし、シンガーはモダンな大都市の中に居場所を求めるかのように、軽妙でアップビートな声を披露している。


エレクトロニック、ダンス・ミュージックの範疇にあるダイナミックなシンセに対して、ルーシー・ブルーは、チャーチズ、セイント・ヴィンセントのデビュー時のようなスター性と存在感を併せ持つスタイリッシュなボーカルを披露する。ブルーのボーカルは、ロンドンのカルチャーと、それと対象的なダブリンのカルチャーの間を揺れ動きながら、愛憎せめぎ合う微細な感覚のウェイヴを、軽やかに乗りこなし、上昇していくかのようだ。シンセ・ポップをベースにある楽曲は続いて、ノイジーなハイパー・ポップへと近づくが、イントロから中盤にかけての精妙な感覚が失われることはほとんどない。

 

アルバムでは、前曲のように都会的なアーバンなサウンドスケープも垣間見えるが、一方、曲を聴いていて、海がイメージの中に浮かび上がってくる瞬間もある。続く「Graveyard」は、リスナーの想像力を喚起させ、アルバムの中で唯一、ポスト・クラシカル/モダン・クラシカルのアプローチが図られている。


ルーシー・ブルーは、ロンドンから離れ、アイルランドに近い風景のイメージへと移行する。シンプルなピアノの演奏については、ポーランドの演奏家、マンチェスターの”Gondwana”に所属するHania Rani(ハニャ・ラニ)の品格のあるクラシカルへの傾倒を彷彿とさせる。ピアノのフレーズはすごくシンプルであるのだが、ルーシー・ブルーのボーカルが入ると、音楽の向こうに神妙な風景が浮かび上がってくる。それはまた、幻想的な映画のワンシーンを想起させる。



「Graveyard」

 

 

その後も曲のイメージは緩やかに変化していき、「Do Nothing」では、ベッドルームポップの音楽性に回帰する。このジャンルの最も重要な点をあげるとすれば、それはソロアーティストがホームレコーディングを主体とするプロダクションの中で、キュートさやスマートさを重視していりというポイントにある。その点、ルーシー・ブルーは、ClairoやGirl In Red、Holly Humberstoneといったこのジャンルの主要なアーティストと同じように、2020年代のメインストリームにある音楽性の核心を端的に捉えた上で、それを同年代のそれほど詳しくない音楽ファンや、彼女の年代とは離れた年代にも自らの理想とする音楽をわかりやすく示そうとしている。


この曲に現代のベッドルーム・ポップと明らかな相違があるとすれば、バロック・ポップの作曲の技法が取り入れていること。ビートルズが楽曲の中で好んで取り入れていたメロトロンの音色は、現代的なシンセの音色という形に変わり、2023年のポピュラー・ソングの中に取り入れられている。ジョニ・ミッチェル、ヴァン・モリソンをはじめとするSSWからの影響は、アウトプットされる形こそ違えど、この曲の現代的なポピュラー音楽の中に、したたかに継承されている。


そして、古典的なポピュラー音楽からの強い触発こそが、この曲に聴きごたえをもたらしている。特に若い世代のシンガーに顕著なのは、自分の生きている年代よりも前の世代の音楽に強いリスペクトを示していることである。ご多分に漏れず、ルーシー・ブルーは自分よりも前の時代の音楽をどのような形で現代のポップスとして昇華するのか、その理想形を示唆している。

 

 

12月1日に発表された『Unsent Letters』には、年末の時宜にかなった音楽性も含まれている。これはアーティストによるサプライズの一貫とも考えられ、アルバムの中の重要なハイライトを形成している。「Deserve You」では、古典的なソングライティングとエド・シーランのような現代的なポップスの型を組みわせて、2023年を象徴する珠玉のバラードソングを誕生させている。ピアノの伴奏を元にしたシンプルなバラードソングは、難しいコードやスケールを一切用いず、ポピュラー・ミュージックの王道を行く。ときには繊細でナイーブなストリングのレガートや、ピチカートをピアノとボーカルの合間に取り入れたり、クリスマスの到来を思わせるシンセの音色を取り入れながら、ルーシー・ブルーのポピュラー・ミュージックは中盤から終盤にかけてゆるやかに上昇していき、涙を誘う切ないアウトロに繋がっている。


アルバムの終盤では、アーティストは序盤よりもフォーク・ミュージックに対する傾倒をみせる。「Butterfly」は、上昇の後の余韻でもあり、また、魂の安寧の場の探求でもある。サウンドホールの音響を活かし、それらをケイト・ル・ボンに象徴されるコラージュ的なサウンドプロダクションを加え、止まりかけていた印象のあるベッドルームポップの時計の針を次に推し進めている。ボーカルのキュートさが光るイントロとは対象的に、曲の中盤には賛美歌のような神妙かつ壮大なポピュラー・ワールドに直結している。特に、アコースティックギターの弾き語りというベッドルームポップの主要なスタイルに加え、それとは対比的な壮大なトラックのミックス/マスタリングが施されている。これが、メジャーアーティストともインディーアーティストともつかない、アンビバレントな感覚を付与し、一定のイメージからルーシー・ブルーを脱却させ、現在のジャンル分けや、シーンというラベリングから逃れさせている要因でもある。

 

アルバムのクローズ「Happy Birthday Jesus」ではクリスマスに向けて、神さまへの祝福が示されている。しかし、宗教的にも概念的にもならず、単なるアガペーが歌われており、そして、それが万人に親しめるフォークミュージックという形として表に現れたことに、今作の最大の魅力がある。

 

 

90/100 

 

 

「Deserve You」- Weekend Featured Track

 

 

 

Lucy Blueのニューアルバム『Unsent Letetrs』はPromised Land Recordingsから発売中です。デジタルストリーミングのみ視聴可能。ストリーミングはこちらから。 


Weekly Music Feature


C'mon Tigre 『Habitat』 


 

 

・アフロジャズ、ロック、南米音楽で世界をつなぐ


約10年のキャリアを持ち、3枚のアルバムで高評価を得ているC'mon Tigreが、「Habitat」で音楽シーンに戻ってくる。9曲は、音楽とビジュアル・アートが常に影響し合い、未踏の実験的高みに到達するという、国際的な広がりを持つデュオ・プロジェクトの本質を余すところなく表現している。


この新しいディスコグラフィーの章は、特定のジャンルに属することを拒み、地球上のあらゆる場所からの影響を組み合わせ、前作に典型的なアフリカン・ジャズやエレクトロニック・スタイルの要素に、南米音楽からの新しいサウンドを加えている。


ジャンクなアンサンブルの中に、サウンドスケープとして浮かび上がるパノラマは、色とりどりの明瞭な生態系であり、動物も植物も、さまざまな形の生命が繁栄し共存する場所である。


レコーディングのコラボレーターも豪華だ。フェラ・クティの後継者であるセウン・クティのアフロビートから、サンパウロ出身の優れたブラジル人アーティスト、ゼニア・フランサの歌声、国際的な実験音楽の第一人者であるアルト・リンゼイ、イタリアのオルタナティヴ・シーンで最も興味深いシンガーソングライターのひとりであるジョヴァンニ・トゥルッピまで。


リスナーをエキゾチックで驚きに満ちた巡礼の旅へと誘う音楽の旅は、パオロ・ペッレグリン、ジャンルイジ・トッカフォンド、ハッリ・ペッチノッティ、ブギー、ジュール・ゲラン、エリカイルカネ、マウリツィオ・アンツェリといった作家やアーティストとともに、ビジュアル・アートの領域にもそのイメージを広げてきたグループのキャリアにおける基本的なステップだ。


録音には、他にも、ダニイェル・ジェジェリ、ドナート・サンソーネ(後者は「Twist Into Any Shape」のビデオクリップでLIAFロンドン国際アニメーションフェスティバル2022の最優秀ミュージック・ビデオ賞を受賞)、マルコ・モリネッリ(「Behold the Man」のビデオでLAFAロサンゼルス・フィルム・アワードやラスベガスのベガス・ムービー・アワードなど数々の国際映画祭で受賞)が参加。

 



 C'mon Tigre 『Habitat』/Intersuoni(Distrubute:Believe)


 

イタリアを拠点とするデュオ、C'mon Tigreによる最新作『Habitat』は、アフロジャズ、カリブ音楽、南米音楽、エレクトロ、ロックをリンクする一作。

 

このアルバムについて、C'mon Tigreは次のように説明している。「Habitatは、一見離れた世界をひとつにまとめ、それらの間に存在する緊密な相互関係を示す、音楽結合の力の証である」

 

アルバムはブラジル音楽に強く触発を受けており、リズミカルなルーツは、サンバやフォロにあるという。

 

アフロ・フューチャリズムの祖/フェラ・クティの子孫であるセウン・クティの参加は、彼らがロンドンのジャズ・コレクティブ、Ezra Collecctiveに近い指針を持ち、ジャンルそのものにとらわれずに活動していることを証立てている。これらのコラボレーターは、実際、地理的なギャップを橋渡しし、広大で広く離れたように思える世界が、実際は一つに繋がっていることを示している。

 

一昔前、米国にBuena Vista Social Club(ブエナ・ヴィスタ・ソシアル・クラブ)というバンドがいたが、キューバーにルーツを持つメンバーがいたこともあり、陽気なカリブ音楽で一世を風靡した。このバンドは、JFKの時代から冷え込んでいた米国とキューバの関係を音楽的な側面で繋げる重要な役割を担った。

 

同じように、C'mon Tigreも又、そういった政治的な緊張を緩め、そして音楽の力でヨーロッパ、アフリカ、南米を繋げる役割を担っているといえる。

 

例えば、イギリスならイギリスらしい音楽、アメリカならアメリカらしい音楽、オーストラリアならオーストラリア、そして、日本なら日本らしい音楽というのが存在するが、カモン・ティグルの音楽はそのいずれにも属さず、徹底してコスモポリタニズムに根ざした音楽を奏でる。


このサード・アルバムでは、アフロジャズを中心に変拍子とブレイクを活用した音楽性が際立っている。そして、彼らがアフロ・ビートを基調とした脱西洋的な音楽観を重点においていることを踏まえると、その向こうにアフロ・フューチャリズムの継承者という重要なファクターが浮かび上がってくる。

 

アルバムは「Odiam」を除けば、すべてカモン・ティグルにより作曲/編曲が行われた。ジャズコレクティヴというよりもニューオリンズのジャズのビックバンドのような大掛かりの編成で録音が行われ、ダブル編成のドラム、トロンボーン/フレンチホルン、四人のボーカル、ダブルのアルトサックス、ヴァイオリン、木琴、チェロ/ビオラ、バリトンサックス、フルート、バスクラリネットという豪華な編成になっている。これらの楽団のような編成は、曲そのものが冗長になる場合もあるが、アルバムの録音全般にアンサンブルの妙をもたらしている。同時にライブ・アルバムのような強烈なエナジーに彩られた精細感のある秀作を生み出す契機ともなった。

 


1. 「Goodbye Reality」 

 

フレンチホルンとトロンボーンが足並みを揃え、この曲全体にカラフルな音響性をもたらしている。曲のベースにエレクトロを加え、アフロビートという礎に、ブラジル音楽に触発を受けた艶やかな女性ボーカルが加わる。この曲には、無数のアフリカ/南米音楽の要素が内在しており、目の眩むような多彩性に満ち溢れている。サルサ/サンバの陽気なリズムが途中から加わり、さらにマリンバ等の楽器が加わることで、音楽のお祭りのような様相を呈する。

 

リズムの転がり方も意外性に富んでいるが、何より南米音楽の気風が強く反映されているためか、ファニーな雰囲気が漂う。それでも、陽気さばかりが能ではない。そこには南米の孤独と哀愁も加味されている。まさにコロンビアのガルシア・マルケスに影響を与えたオラシオ・キローガの短編小説、あるいは『失われた足跡』で知られるカルペンティエルのような密林を想起させる。

 

鳥が海を泳ぎ、魚が空を飛ぶ奇妙な世界、すべてが見事に逆さまになっている生息地を想像しながら、耳を傾け、わたしたちが慣れ親しんでいる現実の概念を放棄することへのインヴィテーションとなるでしょう。

 

 

 

 

2.「The Botanist」 

 

アフロビートやアフロジャズを元に、ブラジル音楽を雰囲気を加え、サイケデリックロックふうにアレンジした一曲である。この曲では、セウン・クティがアルトサックスを吹きながら歌う。セウン・クティの声も渋さがあるが、その周りを取り巻くようにし、女性コーラスが華やかな雰囲気を与える。

 

序盤は、ミニマルなギターが70年代のハードロック/ファンクロック/サイケロックを想起させるが、そのソングライティングが予定調和に陥ることはないのが驚き。中盤からは、サルサ風のリズム、フレンチホルンとトロンボーンのハーモニー、それからマリンバが加わることで、渋さとしなやかさをもたらす。

 

女性コーラスワークの後のサイケロック風の乾いた質感を持つギター・ソロも奇妙な艶気があり、実際、失われたハードロックやサイケロックの最たる魅力の再発掘とも言えるかもしれない。


 

この曲は成長の本質のテーマを捉えており、カモン・ティグルの音楽はしばしば自己発見、変容、時間の経過というテーマを探し、無垢から経験への変容の旅を強調します。

 

人生の刻々と変化する局面に直面したときの受け入れと回復力を示しています。これは私達自身が緑豊かな庭園の一部であるかのように、自分の魂や心を大切にしようという誘い。

 

 

3. 「Teenage Age Kingdom」 

 

カモン・ティグルのエレクトロからの影響が色濃く出た一曲で、彼らはそれらをファンクやサイケの観点から処理している。分厚いベースラインに加え、ポリフォニー的に加わるドラムの組み合わせの妙が光る。

 

ボーカルは、アークティック・モンキーズ/QOTSA(Queen of The Stone Age)のボーカリスト、アレックス・ターナー、ジョッシュ・ホーミの哀愁を想起させる。しかし、これらのロック的なアプローチに意外性を与えているのが、シャッフルを多用したジャズ・ドラムのリズム、ファンクに触発されたベースライン、女性コーラスワーク、そして、ノイズを加味したエレクトロニクスである。

 

これらの複雑性は十代の青年の苦悩を表しているという。そしてハードロック/サイケロック風に思えた曲は中盤から、サルサ/フォロのリズムを取り入れ、南米のポップスへと変化していく。南米のエキゾチズム、そして、そこから匂い立つ雰囲気が十分に堪能出来る。 


 

自分のアイデンティティを見つけるティーンエイジャーの普遍的な課題に取り組んだ一曲です。

 

現代ブラジル音楽を代表するサンパウロ出身の傑出した、クセニアフランカとのコラボにより、この曲は若者が達成不可能なモデルに適応しようとする際に直面せざるを得ないプレッシャーについても言及している。

  


4.「Sixty Four Seasons」 

 

アルバムの序盤の重要なハイライトとなりえる。同じようにアフロビート/アフロジャズの影響を取り入れ、それらをロックとして処理した一曲である。


ここでもループ/ミニマルの構造を持つ細かなギターラインを緻密に重ねていき、流動的なドラムのシャッフルのリズムを取り入れることで、ファンクロック/ハードロックからプログレッシヴ・ロックに近いアヴァンギャルドな音楽へと移行していく。

 

前曲と同じように、ボーカルがフレンチ・ホルンやトロンボーンと組み合わさり、ジャズロック風の画期的な音響性を生み出す。もうひとつ注目しておきたいのは、カモン・ティグレは極力洗練性を避け、ジャンク・ロック風の荒削りなグルーブを重視していること。この曲では、失望から立ち直ろうとする際の不思議な力について歌われているという。


すべてが崩れ落ちそうになったときに立ち上がる能力について語る曲です。

 

彼は心を高くもち、欠けている部分を集めることの重要性について語る。なぜなら私達が帰る場所、私達を安心させ、バランスを再構築する避難所がそこにあるから。ジェームス・ブラウンのスタイルにインスピレーションを得た、パンチの効いたリズムとファンクの要素がこの曲に付与されています。

 

この曲のドラムは、DRBとして、知られるダニー・レイ・バラガンに託されました。サンディエゴ出身のドラマーであり、1990年代のファンク/ソウルの特徴的なダーティーなドラミングを継承することに情熱を注いでいます。

 

 

 

 

 

5.「Nomad At Home」

 

アラビア風のエキゾチックなボーカルで始まり、その後、アフロジャズの王道のアプローチへと移行していく。

 

マリンバのリズムや音階の楽しさ、そして、ホーンセクションやシャッフルのドラム、ウッドベースのようなジャズのベース、そしてアラビア風のボーカルが組み合わされることで、千夜一夜物語の音楽版とも言うべき摩訶不思議な音像空間が構築されていく。エレクトロニックの効果はもちろん、マリンバ、フレンチホルン/トロンボーンの華やかさが光る。

 

「Nomad At Home」は自分の場所で外国人のように感じるというコンセプトを追求しました。ダークな雰囲気のあるエレクトロニックソングです。

 

ボコーダーを通して声は距離と疎外感を与え、どこにも帰属しえないという経験を増幅させる。ジャズの影響と中東のサウンドが絡み合い、勇気と絶望を反映する正確無比の軌跡を描く。日々、命の危険を冒してまで移動しつづける人々……。「Nomad At Home」は、現実の感情的な重さを描写し、我々全員に深く影響を与える問題に注意を向けようとしています。

 

 

6.「Odiame」

 

アルバムの収録曲の中で唯一、カバー曲である。エレクトロニックと南米音楽の哀愁が絶妙に溶け合い、映画的なモノローグ風のボーカルがフィルム・ノワールの世界に近い音楽観を生み出している。

 

そこにジャズのドラミングが加わることで、ライブのような雰囲気を帯びる。スペイン語の語感の持つ美しさ、そしてそのパトスが十二分に感じられる。


この曲はエクアドルの歌手、フリオ・ハラミージョによって彼の母国で有名になりました。私達はよりフォークロア的な伝統性を重んじ、それを別の場所に渡し、より普遍的なものにしたいと考えました。



7.「Sento Un Morso Dolce」

 

スペイン語で「甘い噛みつきを感じる」の意。アルバムの中で最もダンサンブルでアップテンポなナンバーによりリスナーに快感と刺激を与える。


ベースラインやイタロ・ディスコのような分厚いビートを背に、プエルトリコのラッパー、Bad Bunnyのようにスペイン語のラップ/スポークンワードが乗せられる。そのビートをサルサやサンバのリズムが強化している。ときに、その中にジャングルにまつわるフォークロアや、民族音楽のパーカッションが取り入れられる。

 

「Sento Un Morso Dolce」は、イタリアが誇る輝かしい現代作家、ジョヴァンニ・トゥルッピの言葉に託された詳細な精神分析のセッションです。騒がしく非友好的な電子機器を伴い、無意識への小さな旅へとあなたを連れて行く。繰り返しを理解することが鍵となるでしょう。

 


8. 「Na Danca Das Flores」

 

アフロビートの雑多性やアフリカ音楽の開放的な空気感に満ちあふれている。特にアフロジャズのアンサンブルに欠かすことのできないフルートの演奏が他の曲よりも押し出されている。フルートのソロの魅力を引き立てるのは、マリンバやドラム、ベースのリズム、そして断片的なコーラスワークである。

 

この曲も他の収録曲と同様に、アフロジャズの基礎的なアプローチを軸に置いているが、新鮮な印象をリスナーに与える。チルウェイブ/チルアウトの要素を加味することで、新鮮な音楽が誕生している。曲の終盤ではよりサンバへの傾倒を見せ、南米の気風を強く反映させていることにも注目しておきたい。

 

 

この曲は、わたしたちの家ではなく、誰かの家への招待状です。それは世界共通言語でのもてなしの祭典であり、世界の扉を開く優しさのジェスチャーでもある。自分の世界に他の人もアクセス出来るようにする手だてでもあるでしょう。この音楽はブラジルのルーツとエレクトロ・ポップを融合させ、リスナーを予期せぬ場所へと連れて行く。

 

9. 「Keep Watching Me」

 

アルバムのクローズを飾るのは、アート・リンゼイが参加した「Keep Watching Me」。リンゼイは、大貫妙子や坂本龍一の作品、さらに、当初、ブライアン・イーノがプロデュースを行った『No New York』にDNAとして参加し、その後、実験音楽の重要人物として知られるようになった。


この曲で、アート・リンゼイは、奇妙な緊張感と集中性のあるギターラインに、ボーカルという形で参加している。曲の中に満ち渡る空虚感、及び虚脱したかのような感覚は、かなりシュールである。

 

私達が敬愛してやまないアート・リンゼイの声がフィーチャーされています。彼はここに甘さと儚さをもたらしている。

 

私達が最も気に入っているのは、現代社会では、あらゆる些細なことを常に監視されているなど、冷酷で残酷なテーマについて、優しく驚きを持って話すことができたことです。

 

私達が日頃対処しなければいけない醜さのすべてにまだ汚染されていないのが、人類の目です。音楽的にはこのアルバムを最後を飾るにふさわしいエンディングと考えています。



 86/100


 

 


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デトロイト出身のダニー・ブラウンが世界のファンに愛されるのには理由がある。ダニーほど獰猛なリリックを、これほど魅力的な人物像にまとわせたMCはいない。初期の頃は、その韻やビートと同様に、パーマのかかった髪、歯を見せて笑う姿、奇妙なファッション・センスでも知られていた。


しかし、ストリートレベルのデトロイトと、その中でのシュールな日常を小節で表現する彼の能力は、彼の長寿を生み出し、彼の遺産を刻み込んだ。ヒップホップが無数の方向に分断されていた時代、ブラウンはそのすべてを科学しているようだった。ブレイクアルバム『XXX』をリリースする頃には、彼はアヴァンギャルドなインターネット・ヒップホップのムーブメントの先頭に立っていた。


以来、ブラウンはヨーロッパのフェスティバル・サーキットでレイバーを熱狂の渦に巻き込み、ヒップホップ専門誌、XXL誌の憧れのフレッシュマン・カバーを飾った。アール・スウェットシャツからQティップまで、ラップの王道とニュースクールの架け橋となり、アンダーグラウンドのエレクトロニック・レコード・レーベルと手を組んだ。


最も驚くべきことに、彼は不可解なまでに自分自身であり続けながら、これらすべてを成し遂げてきた。決して一方通行になりすぎず、バランスを保つ方法をわざわざ説明することもない。『Quaranta』は、10年以上にわたってファンを謎に包んできたアーティストの内なる独白を解き明かし、ついにその幕を開けようとしている。ブラウンの6枚目のスタジオ・アルバムは、2021年のパンデミックによる封鎖の間に書かれたもので、自伝的かつ個人的な内容となっている。「あまりやることがなかったから、自分が経験したことすべてを音楽に込めるのが一番だった 」と彼は言う。


イントロにあるように、"クアランタ "はイタリア語で "40 "を意味する。ブラウンによれば、『Quaranta』は2011年にリリースされたアルバム『XXX』の精神的続編であり、30歳のギリギリの人生を綴った悪名高い作品である。10年後、COVID-19が世界を停止させたとき、ブラウンはデトロイトのダウンタウンで初めて一人暮らしをしていた。何年も逃避行をしていた彼は、静けさと静寂に適応することを余儀なくされ、『Quaranta』の小節はダニー・ブラウン独特の日記的なものになっている。


「YBP」ではブラウンの幼少期や家族の一人称のシーンが鮮やかに登場し、"Jenn's Terrific Vacation "ではデトロイトのダウンタウンに立ち並ぶ2ベッドルームや新しいグルメ・ショップの家賃の高騰に涙したり、15年近いラップ・キャリアに対する後悔に満ちた考察がプロジェクト全体に深みを与えている。


クエル・クリス、ポール・ホワイト、SKYWLKRら、ブラウンの古くからのコラボレーターたちによる、角の取れた魅惑的なプロダクションに乗せたブラウンらしい電撃的なヴァースには事欠かないが、アルケミストがプロデュースした "Tantor "は、まさに彼のキャリアを通して賞賛されてきた、冷徹な鋼鉄のような矛盾に満ちた作品だ。


最近、モーター・シティ出身の彼はテキサス州オースティンで日々を過ごしているという。「オースティンは大好きだよ。もっと早く引っ越せばよかった」とブラウンは言う。人気ポッドキャスト『ダニー・ブラウン・ショー』の収録はオースティンで行っているが、この引っ越しのきっかけとなったのは、大きな転機となった別れだった。


彼はそのことを「Down Wit It」で語っている。この曲は男性の自省の告白であり、アルバムに収録されている多くの率直な場面のひとつ。クアランタの核となるミッション・ステートメントである成長、痛み、進歩、そして丘の上からの眺めは、MIKEとのコラボ曲 "Celibate "に収録されている "I used to sell a bit, but I don't fuck around no more, I'm celibate "の一節で理解できるだろう。


「ヒップホップでは、人はあまり年を取らないんだ」と彼は振り返る。「そういう意味で、ヒップホップは若いスポーツなんだ。他のほとんどのジャンルでは、50歳でも60歳でもまだやっていることができる」。しかし、ダニーはその成長をしっかりと身につけているようだ。ブラウンは今年、リハビリ施設に入所後、禁酒していることを発表し、JPEGMAFIAとのコラボ・アルバム『Scaring the Hoes』を引っ提げたツアーは、衰えを見せない生産性の高さを示している。


彼の機転の利いたウィットや社会の裏側からの話は相変わらずここにあるが、いつ言うべきかをようやく学んだ、賢明な男からの言葉であり、それによってより良質なサウンドになっている。「多くの人がコンセプト・アルバムを作るけど、コンセプトこそ僕の人生なんだ」とブラウン。



Danny Brown 『Quaranta』/ WARP


 

イタリア語で”40”を意味するダニー・ブラウンの最新作『Quaranta』は、2021年のパンデミックと同時期に制作が開始された。

 

悪夢的な時期と重なるようにして、ブラウンの人生にも困難が降り掛かった。The Guardianに掲載されたインタビューで、ブラウンはいくつかの出来事により、「自殺への淵に迫った」と胸中を解き明かしている。『XXX』でアウトサイダー的なラッパーとして名を馳せて以来、およそ10年が経ち、彼は40歳を過ぎた。2010年代には、ドラッグのディーラーをしたりと、猥雑な生活に身をやつしていたブラウンは、今年に入り、更生施設に入り、断酒治療に取り組んでいた。その経緯の中で、インタビューでも語られているように、親戚の葬式の資金をせびられたり、鎮静剤であるフェンタニルの作用により、悪夢的な時間を過ごすことになった。それはときに、過剰摂取の恐れがあったが、彼はそれをコントロールすることができなかった。

 

過ちがあったのか。才能の過剰さが人生に暗い影を落としたのか。それとも、そうなると最初から決まっていたのか。いずれにしても、WARPから発売された『Quarantic』は、今年最後のヒップホップの話題作であることは間違いない。今年、JPEGとのコラボ・アルバム「Scaring The Hoes」はラップファンの間で大きな話題を呼んだが、このサイトではレビューとして取り上げられなかった。このリリースに関して、一説によると、Warpは良い印象を抱いていなかったという。ソロアルバム「40」のリリースがその後に予定されていたこともあったのかもしれない。

 

「Quarantic」は、ラッパーが40代になった心境の変化を、あまりにも赤裸々に語ったアルバムであり、彼の重要なルーツであるダウンタウンやゲトゥーの生々しい日常生活が、クールな最新鋭のアブストラクト・ヒップホップとして昇華されている。アルバム全体には、やや重苦しい雰囲気が漂うことは事実としても、この制作を通じて、ブラウンが治癒のプロセスを辿ったように、聞き手もこのアルバムの視聴を通じて治癒に近いカタルシスを得ることになるだろう。

 

アルバムは、何か現在の彼と、過去にいた彼を、言語実験ーーラップによりーー結びつける試みのようでもある。辛い過去、厳しい過去、その他、優しい日々、労りに溢れていた日々、そういった無数の出来事、そして、彼の周囲にいた人々をひとりずつラップによって呼び覚ますかのようである。同時に、麻薬やうつ病、アルコールによる幻覚等を体験したブラウンは、現実と幻想を改めて解釈し、それを現在の地点から捉え、その不可解さを絡まった糸を解くようにひとつずつ解き明かしていく。アルバムを作るまで、おそらくブラウンは、現実にせよ非現実にせよ、その不可解さや理不尽さに対して決まりの悪さを感じていたに違いないのである。

 

アルバムは、シネマティックな効果を持つコンセプト・アルバムのような感じで始まる。タイトル曲「Quarantic」はサンプリングを施し、男女のボイスと英語とイタリア語の「40」という言葉が飛び交い、始まる。しかし、ブラウンがその40という言葉を耳にしたとき、彼の生命的な真実であるその言葉は、だんだん遠く離れていき、真実性を失うようになる。その後、よく指摘されている通り、スパゲッティ・ウェスタン調の哀愁のあるギターラインが始まると、ダニー・ブラウンは飄々とした感じでライムを始める。彼のリリックは寛いだたわごとのような感じで始まるが、背後のギターラインを背後に言葉を紡ぎ出すブラウンの姿を思い浮かべると、それは崖っぷちに瀕して、極限のところでラップをするような錯覚を覚えさせる。

 

 「Quaranta」

 

 

 

「Tantor」は、昔の電話や、インターネットのダイヤルアップ接続のサンプリングで始まり、ブラウンは00年代前後のネット・スラングの全盛期に立ち返る。メタルやパンクのギターラインをベースに、ブラウンはアブストラクト・ヒップホップの最前線が何たるかを示す。


ロック/メタルのギターラインとしてはベタなフレーズだが、これらがループサウンドやミニマリズムとして処理され、ブラウンの紳士的な人格の裏にある悪魔的な人格を元にするリリックが展開されると、革新的な響きを生み出す。これらの懐かしさと新しさが混在した感覚はやがてギャングスタ・ラップのようなグルーブを生み出し、彼はその中で、自らの人生にまつわる悪夢的な日々を呼び起こす。ローリング・ストーン誌が、レビューの中で、Husker Duについて言及しているのはかなり意外だったが、これはイントロが「New Day Rising」を彷彿とさせるからなのではないかと思われる。

 

このアルバムのサウンドに内包される悪夢的なイメージは、次の曲でさらに膨らんでいくような気がする。 「Ain't My Concern」は、親戚の葬式の費用をせがまれたアーティストの反論であるのかもしれないし、おそらく彼がすべてを背負い込んでしまう自責的なタイプの人物であることを暗示している。 

 

ダニー・ブラウンはオープナーと同様に、飄々とした感じでライムを披露するが、その背景には、クリスマスソング「Winter Wonderland」に対する皮肉に充ちた解釈が示されている。もしかすると、誰よりも冷静な眼差しで現実を捉えるブラウンにとっては、夢想的なクリスマスソングも実際的な真実性から乖離しすぎているがゆえ、滑稽で、醜く、暗いものに映るのかもしれない。本来、夢想的な響きを擁する「Winter Wonderland」は、ブラウンのアブストラクト・ヒップホップとして昇華されるいなや、悪夢や地獄そのものに変わる。そしてブラウンは理想と現実の間を匍匐前進で掻いくぐるかのように、精細感のあるリリックを披露している。この曲は同時に、悪夢的な現実と理想的な現実の中でもがこうとするブラウンの悪戦苦闘でもある。

 

それが、内側からやってくるにせよ、外側からやってくるにせよ、アーティストが内的な悪魔、外的な悪魔と悪戦苦闘する姿は、「Dark Sword Angel」にも見出せる。これらは西洋芸術の中で重要なテーマともなってきた経緯があり、少なくとも、キリスト教的な善悪論によってもたらされる概念であることには違いない。けれども、ダニー・ブラウンは、その善悪の二元論の中でもがくようにしながら、従来の倫理観、価値観、そして、道徳観を相手取り、ラップにより、その悪魔的な存在を召喚し、ときに戦い、剣でそれらを打ち砕こうとする。彼が2010年頃、あるいはまた、それ以前から積み上げてきた価値観との激烈な鍔迫り合いを繰り広げるかのようである。音楽的には、ゲトゥーのギャングスタ・ラップの範疇にあるサウンドの中でブラウンは歌う。そして、リズムやビートを刻む。 

 

 

 「Dark Sword Angel」

 

 

 

『Quaranta』は、40という年を経たがゆえ、今まで見えなかった様々な現実が見えるようになったという苦悩に重点が置かれ、シリアスやダークさというテーマが主題となっているように思われるが、他方、親しみやすく、アクセスしやすい音楽性も含まれていることは注目に値する。


「Y.B.P」はおそらくその先鋒となりえるだろう。ネオ・ファンクを下地にしたビートをベースにして、R&Bの要素をトラップ的に処理し、ダニー・ブラウンはリラックスしたライムを披露している。ブラウンはこの曲を通じて、自らの若さ、黒人、貧しい人々について熟考する。しかし、テーマそのものがダウナーな概念に縁取られようとも、ゲトゥーに根ざした文化への理解が、ユニークさと明るさを加えている。そして、JPEGのようなドープな節回しこそないものの、比較的落ち着いたテンションの中で、心地よいウェイブや、深みのあるグルーヴをもたらすことに成功している。

 

アブストラクト・ヒップホップは、ラップの中に内包される音楽性の多彩さや無限性を特徴としている。また、シカゴのラップミュージックを見ても、ジャズをラップの中に取り入れる場合は珍しくはない。同レーベルの期待の新人で、日本の音楽フェス、朝霧JAMにも出演したKassa Overall(カッサ・オーバーオール)が参加した「Jenn's Terrific」はアルバムのハイライトの一角をなし、最もアブストラクトな領域に挑戦している。

 

カッサ・オーバーオールのセンス抜群のモダン・ジャズの微細なドラム・フィルを断片的に導入し、それをケンドリック・ラマーの独自の語法とも称せるグリッチを交えたドライブ感のあるドリルの中で、ブラウンは滑らかなリリック/フロウを披露している。そして、米国のドリルはマーダーなどの歴史的な負の側面があるため、それほどシリアスにならず、ユニークさやウィットを加えようというのが慣習になっているのかもしれない。ダニー・ブラウンは、コメディアンのように扮し、おどけた声色を駆使しながら、この曲に親しみやすさ、面白み、そして近づきやすさをもたらしている。

 

イギリスのダンスミュージックの名門、WARPのリリースということもあってか、EDM/IDMの要素のあるエレクトロニックが収録されていることも、このアルバムの楽しみに一つに挙げられる。「Down Wit it」はスロウなEDM/IDMであり、90年代の英国のテクノを想起させるビートを背後に、ブラウンは同じように、言葉の余白を設けるような感じで、ライムを披露している。

 

しかし、曲の雰囲気は明朗なものでありながら、そこにはラッパーとしての覚悟のようなものが表されており、これは本作のオープナーの「Quarantic」と同様である。アーティストは、完全に決断したわけではないが、「このアルバムが最後になる可能性もある」と語っている。もちろん、以後の状況によって、それは変化する可能性もある。ただ少なくとも、旧来のキャリアを総括するトラックなのは確かで、イギリスのヒップホップで盛んなエレクトロニックとラップのクロスオーバーに重点が置かれているのにも着目しておきたい。


アルバムの前半部は、過激でアグレッシヴで、エクストリームな印象もある。しかし、本作は終盤に差し掛かるにつれて、より鎮静的な雰囲気のある曲が多くなっていく。それは彼の最近の2、3年の人生における困難や苦境を何よりも如実に物語っているのかもしれない。曲がダウンテンポやチルアウトの雰囲気を醸し出すのも、それを意図したというのではなく、鎮静剤のフェンタニルによる作用の後遺症なのかも知れず、自然にそうならざるをえなかったという印象もなくはない。

 

ニューヨークのラッパーMIKEが参加した「Celibate」は、ブラウンの過去にあるセクシャルな人生の側面をかなりリアルに描き出している。一方、ブラウンやコラボレーターのリリックやライムにより、彼の人生や存在に対する治癒の意味が込められている。人生の過去のトラウマを鋭く捉え、それを温かな言葉で包み込むことで、彼のカルマは消え、心の内側の最深部の闇は消え果てる。「Shake Down」もラッパーの従来のヒップホップのなかで穏やかな音楽性が表現されている。


アルバムの最後には、ジャポニズムに対する親しみが表されている。過激なものや鋭いものの対極にある安心や平和、柔らかさ、もっといえば、日本古来の大和文化の固有の考えである”調和”という概念が示される。「Hanami」には、三味線を模した音色も出てくるし、尺八を模した笛の音を聴き取れる。この曲は、チルウェイブ風のアプローチにより、ヒップホップの新機軸を示した瞬間である。それと同時に、実際に桜の下で花見をするかのような温和な感覚に満ちている。

 

2023年に発売されたアルバムの複数の作品には、当初、デモーニッシュなイメージで始まり、その最後にエンジェリックな印象に変遷していくものがいくつもあった。それがどのような形になるかまではわからないけれど、すこしずつ変化していくこと。それが一人の人間としての歩みなのであり、人格の到達の過程でもある。人間というのは、常にどこかしらの方角に向けて歩いてゆくことを余儀なくされ、最初の存在から、それとは全く別の何かへと変化していかざるを得ない。


ニューアルバム『Quarantic』のクローズ曲「Bass Jam」で、ブラウンのイメージは、悪魔的な存在から、それとは対極にある清々しい存在に変わる。それは人生の汚泥を無数に掻き分けた後に訪れる、明るい祝福なのであり、涅槃的な到達でもある。「Bass Jam」は、ラッパーがこの数年間の人生を生きてきたことに対する安堵を意味し、そこにはまた深い自負心も感じられる。

 


 

95/100 

 


「Hanami」



Danny Brownのニューアルバム『Quaranta』はワープ・レコードから11月17日より発売中です。


Weekly Music Feature


Daneshevskaya




ニューヨーク/ブルックリンのアンナ・ベッカーマンのプロジェクトであるダネシェフスカヤ(Dawn-eh-shev-sky-uh)は、彼女自身の個人的な歴史のフォークロアに浸った曲を書く。

 

アーティスト名(本当のミドルネーム)は、ロシア系ユダヤ人の曾祖母に由来する。ベッカーマンは音楽一家に育ち、父親は音楽教授でありアンナ・ベッカーマンのプロジェクト。

 

ベッカーマンは音楽一家に育ち、父親は音楽教授、母親はオペラを学び、兄弟は家で様々な楽器を演奏していた。彼女は父親の大学院生からピアノを習い、自分で作曲を試みる前は、シナゴーグで教えられた祈りを歌った。彼女自身の曲は、宗教的な意味合いというよりは、ベッカーマン自身の過去、現在、未来の賛美歌のような、アーカイブ的な記録として、スピリチュアルなものを感じることが多い。「音楽の楽しみは人と繋がること、私はそうして育ってきたの」と彼女は言う。


彼女のデビューEP『Bury Your Horses』が人と人とのつながりの定点と謎を縫い合わせたのに対し、『Long Is The Tunnel』(Winspearからの1作目)は、出会った人々がどのように自分の進む道に影響を与えるかを考察している。ベッカーマンはずっとニューヨークに住んでいるが、彼女のアーティスト名(そして本当のミドルネーム)はロシア系ユダヤ人の曾祖母に由来する。『ロング・イズ・ザ・トンネル』を構成する曲を書いている最中に、彼女の祖父母は2人とも他界した。祖母(詩人であり教師でもあった)に関する話は、「過去の自分の姿」のように感じられると同時に、ベッカーマンがどこから来たのかという線に色をつけたいという燃えるような好奇心に火をつけた。

 

ベッカーマンは祖母の手紙を頻繁に読み返したが、その手紙は「憧れを繊細かつ満足のいくリアルな方法で伝えていた」という。痛烈な「Somewhere in the Middle」のような曲は、彼女の人生に残された人々を不滅のものとし(「もう二度と会うことはないだろう」)、過去を再現することで、しばしば暗い真実が表面化する。殺伐とした現実にもかかわらず、このEPは伝統的なソングライティングと現代的な言い回しの間の独特のコラージュを描いており、自己発見の純粋な輝きに魅せられる。


昼間はブルックリンの幼稚園児のためのソーシャルワーカーを務めるベッカーマンの音楽は、すべてが険しいと感じるときに生きる子供のような純粋さを追求することが多い。「子供が登校時に親に別れを告げるとき、もう二度と会えないような気がするものです」と彼女は説明する。

 

『ロング・イズ・ザ・トンネル』は、そのような心の傷の感覚を強調している。「人に別れを告げることは、私にとってとても神秘的なことなの」と彼女は言う。2017年から数年間かけて書かれた7曲は、パッチワークのような思い出/日記で、彼女の人生に関わる人々へのエレジーでもある。Model/ActrizのRuben Radlauer、Hayden Ticehurst、Artur Szerejkoによる共同プロデュースで、これらの初期デモの最終バージョンには、Black Country, New RoadのLewis Evans(サックス)、Maddy Leshner(鍵盤)、Finnegan Shanahan(ヴァイオリン)も参加し、各曲をそれ自身の中の世界のように聴かせるきらびやかな楽器編成を加えている。


ベッカーマンは、音楽を聴くときはまず歌詞に惹かれると強調する。「私が曲を書くことを学んだ方法の多くは詩を通してであり、それは私にとって言語についての新しい考え方なのです」 

 

彼女の祖母の足跡をたどる新作EPは、古典的な構成に、別世界のようでもあり、地に足のついた独特なメタファーが組み込まれている。『ロング・イズ・ザ・トンネル』は、逃避の形を示す超現実的なイメージで満たされている。曲のうち2曲は、鳥を題材にしており、ベッカーマンは、目を離せないものに目を奪われる一方で、自由にその場を離れることもできると説明している。「水中にいるような気分にさせてくれるアートが好きなんだ」とベッカーマンは過去のインタビューで語っているが、『ロング・イズ・ザ・トンネル』は、欲望、感情、ファンタジーに完全に没入しているような感覚を長引かせる。と同時に、「『ピンク・モールド』のような曲は、私が違うバージョンの愛を学ぼうとしていることを歌っているの」と彼女は説明する。彼女のラブソングの陰鬱なメランコリアは、しばしば他の誰よりも彼女の内面に現れている。彼女が本当に求めているのは健全な関係の自立だ。「私たちは互いのものにはならないけれど、この人生を分かち合う」 多くの場合、このような魅惑的なおとぎ話は途切れてしまうにしても。 


「私は運命の人じゃない!、私は運命の人じゃない!"と繰り返すフレーズは、新しい存在の野生の中に生まれた呪文のようである。


『Bury Your Horses』と『Long Is The Tunnel』のタイトルはどちらも特定のカーゲームにちなんだもので、後者はトンネルが何秒続くかを当てる内容だ。ベッカーマンは、それぞれの曲を通して建築的な注意深さを維持し、彼女の視点を越えてゆっくりと世界を構築していく。「海が出会う場所がある/その下には暗闇がある」と彼女は「Challenger Deep」の軽やかさの中で歌いながら夢想する。誰かを理解しようと近づけば近づくほど、その人の欠点が明らかになることがある。しかしながら、結局のところ、愛とは、目的のための手段にすぎないのかもしれない。

 

 -Winspear




『Long Is A Tunnel』/ Winspear


 

このアルバムは、ブルックリンのシンガー、ダネシェフスカヤの「個人的なフォークロア」と称されている通り、奥深い人間性が音楽の中に表出している。それは21世紀の音楽である場合もあり、それよりも古い時代である場合もある。最近の音楽でよくあるように、自分の生きる現代から、父祖の年代、また、複数の時代に生きていた無数の人々の記憶のようなものを呼び覚まそうという試みなのかもしれない。それは、現代的な側面として音楽にアウトプットされるケースもあれば、20世紀のザ・ビートルズが全盛期だった時代、それよりも古いオペラや、東ヨーロッパの民謡にまで遡る瞬間もある。しかし、音楽的にはゆったりとしていて、親しみやすいポップスが中心となっている。フォーク、バロック・ポップ、チェンバー・ポップ、現代的なオルト・ロックまで、多角的なアプローチが敷かれている。そして、アルバムを形成する7曲には、普遍的な音楽の魅力に焦点が絞られている。時代を越えたポップスの魅力。

 

「Challenger Deep」

 



アルバムは、幻想的な雰囲気に充ちており、安らかさが主要なサウンドのイメージを形成している。全般的に、おとぎ話のようなファンタジー性で紡がれていくのが幸いである。ダネシェフスカヤは、自分の日頃の暮らしとリンクさせるように、子供向けの絵本を読み聞かせるかのように、雨の涼やかな音を背後に、懐深さのある歌を歌い始める。ニューヨークのフォークグループ、Floristは、昨年のセルフタイトルのアルバムにおいて、フォーク・ミュージックにフィールドレコーディングやアンビエントの要素をかけ合わせて、画期的な作風で音楽ファンを驚かせたが、『Long Is A Tunnel』のオープニング「Challenger Deep」も同様に『Florist』に近い志向性で始まる。ナチュラルかつオーガニックな感覚のあるギターのイントロに続き、ダネシェフスカヤのボーカルは、それらの音色や空気感を柔らかく包み込む。童話的な雰囲気を重んじ、和やかな空気感を大切にし、優しげなボーカルを紡ぐ。デモソングは、ほとんどGaragebandで制作されたため、ループサウンドが基礎になっているというが、その中に安息的な箇所を設け、バイオリンのレガートやハモンド・オルガンの神妙な音色を交え、賛美歌のような美しい瞬間を呼び覚ます。驚くべきことに、シンガーとして広い音域を持つわけでも、劇的な旋律の跳躍や、華美なプロデュースの演出が用意されているわけではない。ところが、ダネシェフスカヤのゆるやかに上昇する旋律は、なにかしら琴線に触れるものがあり、ほろ苦い悲しみを誘う瞬間がある。

 

「Somewhere in The Middle」は「Challenger Deep」の空気感を引き継ぐような感じで始まる。同じようにアコースティックギターのループサウンドを起点として、インディーロック的な曲風へと移行していく。

 

イントロではフォーク調の音楽を通じて、吟遊詩人のような性質が立ち現れる。続いて、ギターにベースラインとシンプルなドラムが加わると、アップテンポなナンバーに様変わりする。この曲には、Violent Femmesのようなオルタナティヴ性もあるが、それをポップスの切り口から解釈しようという制作者の意図を読み取る事もできる。ときに、フランスのMelody Echoes Chamberのインディー・ポップやバロック・ポップに対する親和性も感じられるが、トラックには、それよりも更に古いフレンチ・ポップに近いおしゃれさに充ちている。曲の雰囲気はシルヴィ・バルタンのソングライティングに見られる涼やかで開放的な感覚を呼び覚ますこともある。曲の最後には、テンポがスロウダウンしていき、全体的な音の混沌に歌の夢想性が包み込まれる。 

 

 

「Bougainvilla」



「Bougainvilla」には、歌手のソングライティングにおける特異性を見いだせる。ダネシェフスカヤは、さながら演劇の主役に扮するかのように、シアトリカルな音楽性を展開させる。ミュージカルの音楽を明瞭に想起させる軽妙なポップスは、音階の華麗な駆け上がりや、チェンバー・ポップの夢想的な感覚と掛け合わされて、アルバムの重要なファクターであるファンタジー性を呼び覚ます。そして、シンガー自身の緩やかで和らいだ歌により、曲に纏わる幻想性を高めている。さらにヴィンテージ・ピアノ、ヴィブラフォン、コーラスを散りばめて、幻想的な雰囲気を引き上げる。しかしながら、嵩じたような感覚を表現しようとも、音楽としての気品を失うことはほとんどない。それはメインボーカルの合間に導入される複数のコーラスに、要因が求められる。アルバム制作中に亡くなったという祖(父)母の時代の言葉、不確かな何かを自らのソングライティングにアーカイブ的に声として取り入れているのは、(英国のJayda Gが既に試みているものの)非常に画期的であると言える。さらに、ダネシェフスカヤは驚くべきことに、自分の知りうることだけを音に昇華しようとしているのではなく、自分がそれまで知り得なかったことを音にしている。だからこそ、その音楽の中に多彩性が見いだせるのである。

 

アルバムには「鳥」をモチーフにした曲が収録されているという。なぜ、鳥に魅せられる瞬間があるのかといえば、私達にとって不可解であり、ミステリアスな印象があるからなのだ。「Big Bird」は、ニューヨークで盛んな印象のあるシンセ・ポップ/インディーフォークを基調とし、それをダイナミックなロックバンガーへと変化させている。特に、ゆったりとしたテンポから歪んだギターライン、ダイナミック性のあるドラムへと変化する段階は、鳥が空に羽ばたくようなシーンを想起させる。ドリーム・ポップの影響を感じさせるのは、Winspearのレーベルカラーとも言える。そして、そのシューゲイズ的な轟音性は曲の中盤で途切れ、ベッドルームポップ的な曲に変化したり、童話的なインディーフォークに変化したり、曲の展開は流動的である。しかし、その中で唯一不変なるものがあるとするなら、それらの劇的な変化を見届けるダナシェフスカヤの視点である。劇的なウェイブ、それと対象的な停滞するウェイブと複数の段階を経ようとも、その対象に注がれる眼差しは、穏やかで、和やかである。もちろん外側の環境が劇的に移ろおうとも、ボーカルは柔らかさを失うことがない。ゆえに、最終的にシューゲイザーのような轟音性が途切れた瞬間、言いしれない清々しい感覚に浸されるのである。

 

 

例えば、ニューヨークのBigThief/Floristに象徴されるモダンなフォークの音楽性とは別に、続く「Pink Mold」において、ダネシェフスカヤはより古典的な民謡やフォークへの音楽に傾倒を見せる。アメリカーナ、アパラチア・フォークのような米国音楽の根幹も含まれているかもしれない。一方、アルプスやチロル地方やコーカサス、はては、スラブ系の民族が奏でていたような哀愁に充ちた、想像だにできない往古の時代の民謡へと舵を取っている。これは、米国のブルックリンのハドソン川から大西洋を越え、見果てぬユーラシア大陸への長い旅を試みるかのようでもある。セルビア系の英国のシンガー、Dana Gavanskiの音楽性をはっきりと想起させる国土を超越したコスモポリタンとしてのフォーク音楽である。それはまた、どこかの時代でジョージ・ハリソンが自分らしい表現として確立しようと企てていた音楽でもあるのかもしれない。これらの西欧的な感覚は、さながら中世の船旅のようなロマンチシズムを呼び覚まし、どのような民族ですら、そういった時代背景を経て現在を生きていることをあらためて痛感させる。

 

メロトロン、淑やかなピアノ、ダネシェフスカヤのボーカルが掛け合わされる「Roy G Biv」は、60、70年代のヴィンテージ・レコードやジューク・ボックスの時代へ優しくみちびかれていく。夢想的な歌詞を元にし、同じようにフォーク音楽とポピュラー音楽を融合を図り、緩急ある展開を交えて、ビートルズのアート・ポップの魅力を呼び覚ます。後半にかけてのアンセミックなフレーズは、オーケストラのストリングスと融合し、すべては完璧な順序で/降りていく最中なのだとダネシェフスカヤは歌い、美麗なハーモニーを生み出す。最後の2曲は、ソロの時代のジョン・レノンのソングライティング性を継承していると思えるが、こういった至福的な気分と柔らかさに充ちた雰囲気は、「Ice Pigeon」において更に魅力的な形で表される。

 

シンプルなピアノの弾き語りの形で歌われる「Ice Pigeon」では、「Now And Then」に託けるわけではないけれど、ジョン・レノンのソングライティングのメロディーが、リアルに蘇ったかのようでもある。この曲に見受けられる、ほろ苦さ、さみしさ、人生の側面を力強く反映させたような深みのある感覚は、他のシンガーソングライターの曲には容易に見出しがたいものである。考えられる中で、最もシンプルであり、最も素朴であるがゆえ、深く胸を打つ。ダネシェフスカヤのボーカルは、ときに信頼をしたがゆえの人生における失望とやるせなさを表している。最後の曲の中で、ダネシェフスカヤは、現実に対する愛着と冷厳の間にある複雑な感情性を交えながら、次のように歌い、アルバムを締めくくっている。「信じてるのは私じゃない/やってくるもの全部が私には役に立たない/なぜならそれが何を意味するのか知っているから」

 

 

 

92/100

 

 

 

 「Ice Pigeon」

Sen Morimoto


セン・モリモトはこれまでに2枚のアルバムをリリースし、Pitchfork、KEXP、FADER、Viceなどのメディアから高い評価を得ている。


シカゴの緊密で多作なDIYシーンの著名なメンバーであるセンが、初めてプロのスタジオで制作したのが、「If The Answer Isn't Love」だった。 シカゴのFriends Of Friendsレコーディング・スタジオで作業し、曲の肉付けに彼のコミュニティのメンバーを起用したこの曲は、ブロック・メンデがエンジニアを務め、ライアン・パーソンがドラム、マイケル・カンテラがベース、KAINAがバッキング・ヴォーカルを担当した。

 

センは高校卒業後、荷物をまとめてニューイングランドからシカゴに移り住み、その後数年間、シカゴの音楽シーン全体と深い関係を築きながら、ジャンルの垣根を越え、その間に橋を架けていった。昼はレストランで皿洗いをし、夜はプロデュースの腕を磨いたセン。エキサイティングな彼の音楽はほどなくシカゴで知られるようになった。

 

音楽的なつながりを求める彼はやがて、共同制作者であるNNAMDÏとグレン・カランが設立した地元のレーベル、スーパー・レコードに共同経営者として参加することになった。この小さなレーベルは、ジャンルにとらわれないレコードをリリースし、シカゴのミュージシャン・コミュニティから国際的なステージに立つアーティストを輩出したことで、瞬く間にシカゴで有名に。

 

デビュー・アルバム『キャノンボール!』と2枚目のセルフタイトル・アルバムをスーパー・レコードからリリースし、これをきっかけに彼はアメリカ、カナダ、日本、ヨーロッパをツアーする生活に突入。センとスーパーは現在、3枚目のアルバムの制作のため、彼自身が尊敬してやまないシティ・スラングと素晴らしいチームを組んでいる。

 

 

 『Diagnosis』 City Slang


 

 

今から数ヶ月前、ある見知らぬ日本人ミュージシャンがCity Slangと契約を交わしたとの知らせが飛び込んできた。以前、アトランタのMckinly Dicksonの最新作を週末に紹介したこともあり、数ヶ月を経てより興味を駆り立てられた。複数のシングルの中において、弟である裕也さんが手掛けたというミュージックビデオもこのアーティストに対する興味を募らせる要因ともなった。

 

日本出身で、現在、米国を拠点に活動するセン・モリモトの音楽は、シカゴのミュージックシーンの多彩さを色濃く反映している。コレクティヴのような形でライブを行うこともあるアーティストの音楽の中には、彼が知りうる以上の音楽が詰め込まれているのかもしれない。ワシントンという地区では、ギャングスタのラップが流行ったこともあったし、彼が親交を深めているというNNAMDÏのジャズからの影響は、このアルバムの最高の魅力といえるかもしれない。

 

「差し迫った気候災害、戦争、終わりのない病気に直面すると、何が残るのか、何がそのすべてを価値あるものにしたのかを考え始めるのは自然なことです」「私の音楽のサウンドも、同じような緊急性を反映させたいのです。楽器の音はビートの上でゆらめき、そして飛び散り、メロディーはもつれ、矛盾しています。この曲は、愛の不朽の力と、危機に陥ったときにその気持ちにしがみつくことの葛藤について書いたんだ」

 

アルバムのオープニングを飾る「If The Answer Isn't Love」では、ジャズ、ファンクの影響を巧みに取り入れ、それを爽快感のあるロックへと昇華している。インディーロックと言わないのは普遍性があるから。リズムのハネを意識したボーカルはフロウに近い質感を帯びている。しかし、曲において対比的に導入されるソウルフルなコーラスがメロウな空気感を作り出す。制作者に触発を与えたNNAMDÏの既存の枠組みにとらわれない自由奔放な音楽性も今一つの魅力として加わっている。それらが幻惑的なボーカルとローファイの質感を前面に押し出したプロダクションの構成と組み合わされ、親しみやすさとアヴァン性を兼ね備えたナンバーが生み出された。先行シングルとして公開された「Bad State」は、オープニングよりもファンクからの影響が強く、巧みなシンコペーションを駆使し、前のめりな感じを生み出している。聴き方によっては、Eagles、Doobie Brothersのようなウェストコーストサウンドを吸収し、微細なドラムフィルを導入し、シカゴのドリル的なリズムの効果を生み出している。以前、シカゴで靴がかっこいいというのをそう称したように「ドリルな」ナンバーとして楽しめる。また、アーティストの弟の裕也さんが撮影したというミュージックビデオも同様にドリルとしか言いようがない。 

 

「Bad State」

 

 

「St. Peter Blind」は、アブストラクトヒップホップとネオソウルの中間にあるトラックといえるか。と同時に、ジャズのメロウな雰囲気にも充ちている。さらに無数のクロスオーバーがなされているものと思われるが、 前衛的なビートを交え、ゴスペルを次世代の音楽へと進化させている。もしくは、これはラップやジャズ、ファンクを網羅した2020年代のクリスマスソングのニュートレンドなのかもしれない。たとえ、JPEGMAFIA、Danny Brownが書くヒップホップのようにリズムがアブストラクトの範疇にあり、相当構成が複雑なものであるとしても、ほのかな温かみを失うことがなく、爽快感すら感じられる。また、リリックとして歌われるかは別として、アーティストのブラック・ミュージックへの愛着が良質なウェイブを生み出している。


タイトル曲「Diagnosis」は、ラップのフロウをオルト・ロックの側面から解釈している、曲にあるラテン的なノリに加えて、メロディー性に重きを置いたモリモトのボーカルは、プエルトリコのBad Bunnyのようなパブリーな質感を生み出す瞬間もある。しかし、一見するとキャッチーさを追求したトラックの最中にあって、妙な重みと深みがある。これがアンビバレントな効果を生み出し、さながら人種や文化の複雑さを反映しているかのようなのだ。

 

続いてアルバム発売前の最後に公開された「Pressure On The Pulse」は周囲にある混沌を理解することにテーマが縁取られている。「静かな面は、なぜ、世界はこんなにも残酷なんだろう、その答えを本当に聞いて理解できるのかと問いかけている。また、その反対に、答えがまったく得られないという場合、どうすれば前に進み続けることができるかについても考えている」とプレスリリースで紹介されているシングルは、イントロのネオソウル風のメロウな感覚からポスト・ロックに転じていく。この切り替えというべきか、大きく飛躍する展開力にこそアーティストの最大の魅力があり、それはNinja Tuneに所属するノルウェーのJaga Jazzistのようなジャズとロックとエレクトロの融合という面で最大のハイライトを形成し、その山場を越えた後、イントロのように一瞬の間、静寂が訪れた後、一挙に大きくジャンプするかのように、ポップ・バンガーへと変化していく。ライブで聴くと、最高に盛り上がれそうな劇的なトラックだ。

 

「Naive」はアルバムの全体的な収録曲がモダンな音楽性に焦点が絞られているのに対して、この曲はジャック・ジャクソンのようなヨットロックやフォークへ親しみがしめされているように思える。アルバムのタイトルに見られるナイーヴ性は、ギターの繊細なハーモニーの中で展開されている。しかし、こういった古典的な音楽性を選択しようとも、その音楽的な印象が旧来のカタログに埋もれることはない。もちろん、セン・モリモトのボーカルは、ボサノバのように軽やかかつ穏やかで、ギターのシンプルと演奏の弾き語りは、おしゃれな感覚を生み出している。続く「What You Say」はNNAMDÏの多彩な音楽性を思わせるものがあり、ギターアンビエントをベースに前衛的なトラックが生み出されている。曲の中でたえず音楽性が移り変わっていき、後半ではファンカデリックに象徴されるようなクロスオーバー性の真骨頂を見出す事もできる。 

 

「Naive」

 

 

「Surrender」ではシカゴ・ドリルの複雑なリズム性を織り交ぜた新鮮なポスト・ロック/プログレッシヴ・ロックを追求している。タイトルのフレーズを元に、トラックの構成におけるマキシマムとミニマルの両視点がカメラワークのように切り替わる瞬間は劇的であり、本作のハイライトとも称せるかもしれない。さらに、本作に伏在する音楽的な要素ーーサイケロックと綿密にそれらのアブストラクトな曲の構成が組み合わされることによって、このアーティストしか持ち得ない、そして他の誰にも売り渡すことが出来ない人間的な本質へと繋がっていく。しかし、それは最初からオリジナリティを得ようとするのではなく、他の考えを咀嚼した後に苦心惨憺してファイトをしながら最終的なゴールへとたどり着く。


「Deeper」は、知りうる限りでは、最もアーティストらしさが出た一曲といえ、サクスフォンの演奏がメロウなムード感を誘い、ローファイ・ホップの範疇にある安らぎとクランチな感覚を兼ね備えたトラックへと導かれていく。偉大なジャズ・ギタリストであるウェス・モンゴメリーを思わせるセンス抜群のギターの瞬間的なフレーズを交え、適度なブレイクを間に挟みながら最終的には変拍子によるネオソウルという答えに導かれていく。

 

「Pain」では、ザ・ビートルズのジョン・レノンが好んだような和らいだ開放的なフレーズを駆使し、スペインのフラメンコ/アーバン・フラメンコの旋律性をかけあわせ、それをやはりこのアルバムの一つのテーマともなっているリズミカルなトラックとしてアウトプットしている。曲のベースに関しては古典的な要素もありながら、やはりこのアーティストやバンドらしい変拍子や劇的な展開力を交え、モダンなポップスとして昇華しているのが素晴らしいと思う。アルバムの最後は、「Forsythia」ではモダンなインディーフォークで空気感を落ち着かせた後、MTV時代のジャクソンのように華麗なダンス・ポップがラストトラックとして収録されている。 

 

「Reality」は、ミュージカル的なクローズ曲で、ネオソウル、ファンク、ジャズ、ラップというSen Morimotoというアーティストの持つ多彩な感覚が織り交ぜられている。しかし、この曲にもアルバム序盤とは正反対のクラシカルなポップスに対する親しみが示され、それは今は亡きジョン・レノンのソングライティングを思わせるものがある。もちろん、このアルバムには英国のサウスロンドンのアーティストと同様に、米国中西部のカルチャーの奥深さが反映されているように思える。



88/100

Weekly Music Feature


Hinako Omori


大森日向子 ©︎Luca Beiley


大森日向子にとって、シンセサイザーは潜在意識への入り口である。ロンドンを拠点に活動するアーティスト、プロデューサー、作曲家である彼女は、「シンセは、無菌的で厳かなものではありません」と話す。

 

「ストレスを感じると、シンセのチューニングが狂ってしまうことがあった。一度、シンセの調子が悪いのかと思って修理に出したことがあるんだけど、問題なかった。だから、私が座って何かを書くとき、出てくるものは何でも、その瞬間の私の気持ちに関係している。音楽は本当に私の感情の地図になる」


大絶賛されたデビュー作『a journey...』(2022年、Houndstooth)が、その癒しのサウンドで他者を癒すことをテーマにしていたとすれば、大森の次のアルバムは思いがけず、自分自身を癒すものとなった。stillness,softness...』の歌詞を振り返ると、「自分自身の中にある行き詰まりを発見し、それと平穏な感覚を得るための内なる旅でした」と彼女は言う。


大森はとりわけ、シャドウ・セルフ、つまり私たちが隠している自分自身の暗い部分、そして自由になるためにはそれらと和解する必要があるという考えに心を奪われた。「自分自身との関係は一貫しており、それが癒されれば、そこから素晴らしいものが生まれるのです」と彼女は付け加えた。


2022年のデビューアルバム「a journey...」で絶賛されて以来、大森日菜子はクラシック、エレクトロニック、アンビエントの境界線を曖昧にし、イギリスで最も魅力的なブレイクスルー・ミュージシャンの一人となった。

 

日本古来の森林浴の儀式にインスパイアされたコンセプト・アルバム「a journey...」は、自然に根ざしたみずみずしいテクスチャーで、Pitchforkに「驚くべき」と評され、BBC 6Musicでもヘビーローテーションされた。以後、ベス・オートン、アンナ・メレディス、青葉市子のサポートや、BBCラジオ3の『Unclassified』で60人編成のオーケストラと共演、今年末にはロサンゼルスのハリウッド・ボウルで、はフローティング・ポインツのアンサンブルに加わり、故ファロア・サンダースとのコラボ・アルバム『Promises』を演奏する。


「stillness、softness...」は、大森のアナログ・シンセの世界ーー、すなわち、彼女のProphet '08、Moog Voyager、そしてバイノーラルで3Dシミュレートされたサウンドを生み出すアナログ・ハイブリッド・シンセサイザー、UDO Super 6ーーの新たな音域を探求している。このアルバムは、彼女の前作よりもダークで広がりがあり、ノワールのようにシアトリカル。デビュー作がインストゥルメンタル中心だったのに対して、本作ではヴォーカルが前面に出ており、「より傷つきやすくなっている」と彼女は説明している。夢と現実、孤独、自分自身との再会、そして最終的には自分自身の中に強さを見出すというテーマについて、彼女は口を開いている。


大森は「静けさ、柔らかさ...」を「実験のコラージュ」と呼び、それを「パズルのように」つなぎ合わせ、それぞれの曲が思い出の部屋を表している。最終的にはシームレスで、13のヴィネットが互いに出たり入ったりする連続的なサイクルとなっている。「とてもDIYだったわ」と彼女は笑う。「誰も起こしたくなかったから、マイクに向かってささやいたの」


大森は日本で生まれたが、ロンドン南部で育ち、サリー大学でサウンド・エンジニアリングを学習した。彼女がマシン・ミュージックに興味を持ち始めたのは、それ以前の大学時代、アナログ・シンセサイザーを授業で紹介した教師のおかげだった。「好奇心に火がつきました」と大森は説明する。


「クラシック・ピアノを習って育った私が、初めてシンセサイザーに出会った瞬間、完全に引き込まれました。シンセサイザーでは、サウンドを真に造形することができる。それまで考えたこともなかったような、無限の表現の可能性が広がった」


大学卒業後、大森はEOB、ジェイムス・ベイ、KTタンストール、ジョージア、カエ・テンペストといったインディーズ・ミュージシャンやアリーナ・アクトのツアー・バンドに参加した。「これらの経験から多くのことを学びました」と大森は言う。「素晴らしいアーティストたちとの仕事がなかったら、今のようなことをする自信はなかったと思います」 


彼女の自信はまだ発展途上だというが、それは本作が物語っている部分でもある。タイトルは "静寂、柔らかさ... " だけど、このアルバムは成長するために自分自身を不快にさせることをテーマにしている。「それは隠していたいこと、恥ずかしいと思うことを受け入れるということなのです」と彼女は言う。


アルバム全体を通して、大森はこれまでで最も親しみやすく、作曲家、アーティスト、アレンジャー、ヴォーカリスト、そしてシンセサイザーの名手としての彼女の真価が発揮された1枚となっている。このアルバムは、タイトル・トラックで締めくくられ、ひとつのサイクルを完成させている。


「自分の中にある平和な状態を呼び起こすような曲にしたかった」と大森。「毛布のようなもので、とても穏やかで、心を落ち着かせるものだと思っています」。その柔らかさこそが究極の強さなのであり、自分自身と他者への愛と思いやりをもって人生を導いてくれるものなのだ」と彼女は言う。




「stillness、softness...」/Houndstooth

 

大森日向子は既に知られているように、日本/横浜出身のミュージシャンであり、サウスロンドンに移住しています。


厳密に言えば、海外の人物といえますが、実は、聞くところによれば、休暇の際にはよく日本に遊びにくるらしく、そんなときは本屋巡りをしたりするという。ロンドン在住であるものの、少なからず日本に対して愛着を持っていることは疑いのないことでしょう。知る限りでは、大森日向子は元々はシンセ奏者としてロンドンのシーンに登場し、2019年にデビューEP『Auraelia』を発表、続いて、2022年には『A Journey...』をリリースした。早くからPitchforkはこのアーティストを高く評価し、ピッチフォーク・フェスティバル・ロンドンでのライブアクトを行っています。

 

エクスペリメンタルポップというジャンルがイギリスや海外の音楽産業の主要な地域で盛んなのは事実で、このジャンルは基本的に、最終的にはポピュラー・ミュージックとしてアウトプットされるのが常ではあるものの、その中にはほとんど無数と言って良いくらい数多くの音楽性が内包されています。エレクトロニックはもちろん、ラップやソウル、考えられるすべての音楽が含まれている。リズムも複雑な場合が多く、予想出来ないようなダイナミックな展開やフレーズの運行となる場合が多い。このジャンルで、メタルやノイズの要素が入ってくると、ハイパーポップというジャンルになる。ロンドンのSawayamaや日本の春ねむりなどが該当します。

 

先行シングルを聴いた感じではそれほど鮮烈なイメージもなかったものの、実際にアルバムを紐解いてみると、凄まじさを通りこして呆然となったのが昨夜深夜すぎでした。私の場合は並行してデ・ラ・ソウルやビースティー・ボーイズのプロデューサーと作品をリリースを手掛けているラップアーティストとのやりとりをしながらの試聴となりましたが、私の頭の中は完全にカオスとなっていて、現在の状況的なものがこのアルバムを前にして、そのすべてが本来の意味を失い、そして、すぐさま色褪せていく。そんな気がしたものでした。少なくとも、そういった衝撃的な感覚を授けてくれるアルバムにはめったに出会うことが出来ません。このアルバム「stillness,softness…」の重要な特徴は、今週始めに紹介したロンドンのロックバンド、Me Rexのアルバムで使用されていた曲間にあるコンマ数秒のタイムラグを消し、一連の長大なエレクトロニックの叙事詩のような感じで、13のヴィネットが展開されていくということなのです。

 

アルバムには、独特な空気感が漂っています。それは近年のポピュラー音楽としては類稀なドゥームとゴシックの要素がエレクトロニックとポップスの中に織り交ぜられているとも解釈出来る。前者は本来、メタルの要素であり、後者は、ポスト・パンクの要素。それらを大森日向子は、ポップネスという観点から見直しています。このアルバムに触れたリスナーはおしなべてその異様な感覚の打たれることは必須となりますが、その世界観の序章となるのが、オープニングを飾る「both directions?」です。ここでは従来からアーティストみずからの得意とするアナログ・シンセのインストゥルメンタルで始まる。シンプルな音色が選択されていますが、音色をまるで感情の波のように操り、アルバムの持つ世界を強固にリードしていく。アンビエント風のトラックですが、そこには暗鬱さの中に奇妙な癒やしが反映されています。聞き手は現実的な世界を離れて、本作の持つミステリアスな音像空間に魅了されずにはいられないのです。

 

続いて、劇的なボーカル・トラックがそのインタリュードに続く。#2「ember」は、アンビエント/ダウンテンポ風のイントロを起点として、 テリー・ライリーのようなシンセサイザーのミニマルの要素を緻密に組み合わせながら、強大なウェイブを徐々に作りあげ、最終的には、ダイナミックなエクスペリメンタル・ポップへと移行していく。 シンセサイザーのアルペジエーターを元にして、Floating Pointsが去年発表していた壮大な宇宙的な感覚を擁するエレクトロニックを親しみやすいメロディーと融合させて、それらの感情の波を掻い潜るように大森は艶やかさのあるボーカルを披露しています。描出される世界観は壮大さを感じさせますが、一方で、それを繊細な感覚と融合させ、ポピュラー・ミュージックの最前線を示している。それらの表現性を強調するのが、大森の透き通るような歌声であり、ビブラートでありハミングなのです。これらの音楽性は、よく聴き込んで見るとわかるが、奇妙な癒やしの感覚に充ちています。

 

このアルバムには創造性のきらめきが随所に散りばめられていることがわかる。そしてその1つ目のポイントは、シンセサイザーのアルペジエーターの導入にある。シンセに関しては、私自身は専門性に乏しいものの、#3「stalactities」では繊細な音の粒子のようなものが明瞭となり、曲の後半では、音そのものがダイヤモンドのように光り出すような錯覚を覚えるに違いありません。不用意にスピリチュアルな性質について言及するのは避けるべきかとも思いますが、少なくとも、シンセの音色の細やかな音の組み合わせは、精妙な感覚を有しています。これらの感覚は当初、微小なものであるのにも関わらず、曲の後半では、その光が拡大していき、最初に覆っていた暗闇をそのまばゆいばかりの光が覆い尽くしていくかのような神秘性に充ちている。

 

 「cyanotype memories」

  

 

 

続く「cyanotype memories」は、アルバムの序盤に訪れるハイライトとなるでしょう。実際に前曲の内在的なテーマがその真価を見せる。イントロの前衛的なシンセの音の配置の後、ロンドンの最前線のポピュラー・ミュージックの影響を反映させたダイナミックなフレーズへと移行していく。そして、アルバム序盤のゴシックともドゥームとも付かないアンニュイな感覚から離れ、温かみのあるポップスへとその音楽性は変化する。エレクトロニックとポップスを融合させた上で、大森はそれらをライリーを彷彿とさせるミニマリズムとして処理し、微細なマテリアルは次第に断続的なウェイブを作り、そしてそのウェイブを徐々に上昇させていき、曲の後半では、ほのかな温かみを帯びる切ないフレーズやボーカルラインが出現します。トラック制作の道のりをアーティストとともに歩み、ともに体感するような感覚は、聞き手の心に深く共鳴を与え、曲の最後のアンセミックな瞬間へと引き上げていくかのような感覚に充ちている。この曲にはシンガーソングライターとしての蓄積された経験が深く反映されていると言えます。 

 

 

 

#5「in limbo」では、テリー・ライリー(現在、日本/山梨に移住 お寺で少人数のワークショップを開催することもある)のシンセのミニマルな技法を癒やしに満ちたエレクトロニックに昇華しています。そこにはアーティストの最初期のクラシックへの親和性も見られ、バッハの『平均律クラヴィーア』の前奏曲に見受けられるミニマルな要素を現代の音楽家としてどのように解釈するかというテーマも見出される。平均律は元は音楽的な教育のために書かれた曲であるのですが、以前聞いたところによると、音楽大学を目指す学習者の癒やしのような意味を持つという。本来は、教材として制作されたものでありながら、音楽としての最高の楽しみが用意されている平均律と同じように、シンセの分散和音の連なりは正調の響きを有しています。素晴らしいと思うのは、自身のボーカルを加えることにより、その衒学性を衒うのではなく、音楽を一般的に開けたものにしていることです。前衛的なエレクトロニックと古典的なポップネスの融合は、前曲と同じように、聞き手に癒やしに充ちた感覚を与える。それはミニマルな構成が連なることで、アンビエントというジャンルに直結しているから。そして、それはループ的なサウンドではありながら、バリエーションの技法を駆使することにより、曲の後半でイントロとはまったく異なる広々とした空へ舞い上がるような開けた展開へとつながっています。

 

 

#6「epigraph…」では、アンビエントのトラックへと移行し、アルバムの序盤のゴシック/ドゥーム調のサウンドへと回帰する。考えようによっては、オープナーのヴァリエーションの意味を持っています。しかし、抽象的なアンビエントの中に導入されるボーカルのコラージュは、James Blakeの初期の作品に登場するボーカルのデモーニッシュな響きのイメージと重なる瞬間がある。そして最終的に、ミニマルな構成はアンビエントから、Sara Davachiの描くようなゴシック的なドローンを込めたシンセサイザー・ミュージックへと変遷を辿っていく。しかし、他曲と同じように制作者はスタイリッシュかつ聴きやすい曲に仕上げており、またアルバム全体として見たときに、オープニングと同様に効果的なエフェクトを及ぼしていることがわかるはずです。 

 

 

「foundation」



しかし、一瞬、目の前に現れたデモーニッシュなイメージは消えさり、#7「foundation」では、それと立ち代わりにギリシャ神話で描かれるような神話的な美しい世界が立ち現れる。安らいだボーカルを生かしたアンビエントですが、ボーカルラインの美麗さとシンセサイザーの演奏の巧みさは化学反応を起こし、エンジェリックな瞬間、あるいはそのイメージを呼び起こす。音楽的にはダウンテンポに近い抽象的なビートを好む印象のある制作者ではありながら、この曲では珍しくダブステップの複雑なリズム構成を取り入れ、それを最終的にエクスペリメンタルポップとして昇華しています。しかし、ここには、マンチェスターのAndy Stottと彼のピアノ教師であるAlison Skidmoreとのコラボレーション「Faith In Strangers」に見られるようなワイアードな和らぎと安らぎにあふれている。そして、それらの清涼感とアンニュイさを併せ持つ大森の歌声は、イントロからまったく想像も出来ない神々しさのある領域へとたどりつく。そして、それはダンスミュージックという制作者の得意とする形で昇華されている。背後のビートを強調しながら、ドライブ感のある展開へと導くソングライティングの素晴らしさはもちろん、ポップスとしてのメロディーの運びは、聞き手に至福の瞬間をもたらすに違いありません。

 

アルバムのイメージは曲ごとに変わり、レビュアーが、これと決めつけることを避けるかのようです。そしてゴシックやドゥームの要素とともに、ある種の面妖な雰囲気はこの後にも受け継がれる。続く、#8「in full bloom」では、アーティストのルーツであるクラシックの要素を元に、シンセサイザーとピアノの音色を組み合わせ、親しみやすいポピュラー音楽へと移行する。しかし、昨晩聴いて不思議だったのは、ミニマルな構成の中に、奇妙な哀感や切なさが漂っている。それはもしかすると、大森自身のボーカルがシンセと一体となり、ひとつの感情表現という形で完成されているがゆえなのかもしれません。途中、感情的な切なさは最高潮に達し、その後、意外にもその感覚はフラットなものに変化し、比較的落ち着いた感じでアウトロに続いていく。

 

 

前の曲もベストトラックのひとつですが、続く「a structure」はベストトラックを超えて壮絶としか言いようがありません。ここではファラオ・サンダースやフローティング・ポインツとの制作、そして青葉市子のライブサポートなどの経験が色濃く反映されている。ミニマル・ミュージックとしての集大成は、Final Fantasyのオープニングのテーマ曲を彷彿とさせるチップチューンの要素を絶妙に散りばめつつ、それをOneohtrix Point NeverやFloating Pointsの楽曲を思わせる壮大な電子音楽の交響曲という形に繋がっていく。本来、それは固定観念に過ぎないのだけれど、ジャンルという枠組みを制作者は取り払い、その中にポップス、クラシック、エレクトロニック・ダンス・ミュージック、それらすべてを混合し、本来、音楽には境目や境界が存在しないことを示し、多様性という概念の本質に迫っていく。特に、アウトロにかけての独創的な音の運びに、シンセサイザー奏者として、彼女がいかに傑出しているかが表されているのです。

 

アヴァンギャルドなエレクトロニックのアプローチを収めた「astral」については、シンセサイザーの音色としては説明しがたい部分もあります。これらのシンセサイザーの演奏が、それがソフトウェアによるのか、もしくはハードウェアによるのかまでは言及出来ません。しかし、Tone 2の「Gladiator 2」の音色を彷彿とさせる、近未来的なエレクトロニックの要素を散りばめ、従来のダンス・ミュージックやエレクトロニックというジャンルに革命を起こそうとしています。アンビエントのような抽象的な音像を主要な特徴としており、その中には奇妙なクールな雰囲気が漂っている。これはこのアーティストにしか出し得ない「味」とでも称すべきでしょう。

 

 

これらの深く濃密なテーマが織り交ぜられたアルバムは、いよいよほとんど序盤の収録曲からは想像もできない領域に差し掛かり、さらに深化していき、ある意味では真実性を反映した終盤部へと続いていきます。「an ode to your heart」では驚くべきことに、日本の環境音楽の先駆者、吉村弘が奏でたようなアンビエントの原初的な魅力に迫り、いよいよ「epilogue...」にたどり着く。ホメーロスの「イーリアス」、ダンテ・アリギエーリの「神曲」のような長大な叙事詩、そういった古典的かつ普遍性のある作品に触れた際にしか感じとることが難しい、圧倒されるような感覚は、エピローグで、クライマックスを迎える。海のゆらめきのようにやさしさのあるシンセサイザーのウェイブが、大森の歌声と重なり、それがワンネスになる時、心休まるような温かな瞬間が呼び覚まされる。その感覚は、クローズで、タイトル曲であり、コーダの役割を持つ「stillness,softness…」においても続きます。海の上で揺られるようなオーガニックな感覚は、アルバムのミステリアスな側面に対する重要なカウンターポイントを形成しています。

 

 

100/100

 

 

Hinako Omori(大森日向子)のニューアルバム「stillness,softness…」は、Houdstoothより発売中です。

Pool Side © Ninja Tune


サンゼルスを拠点に活動するプロデューサー、ソングライター、マルチ・インストゥルメンタリスト、ジェフリー・パラダイスのレコーディング・プロジェクト、プールサイドがスタジオ・アルバム『Blame It All On Love』(Ninja Tuneのサブレーベル、Counter Records)のリリースする。このレトロなローファイ・トラックは、プールサイドがミネソタ州のオルタナティヴ/インディー・ドリーム・ポップ・アクト、ヴァンシアと組んで制作された。


「Float Away」は、VansireのJosh Augustinをボーカルに迎えたドリーミーなサウンドスケープ。古典的なポップ・ソングライティングの構成、フック、グルーヴは、プールサイドが最も得意とする古典的な「デイタイム・ディスコ」サウンドに適している。


「僕は15年間、"ルールなんてクソ食らえ "という感じで過ごしてきた。だからこのアルバムにとても興奮しているよ」 プールサイドの4枚目のスタジオ・アルバム『Blame It All On Love』で、パラダイスは浅瀬を離れ、彼自身の創造的な声の深みに入った。その11曲はファンキーでソウルフル、レイドバックしたフックに溢れ、プールサイドのサウンドを痛烈なポップへと昇華させている。


エレクトロニックな筋肉を鍛えるのではなく、彼のライブ・ミュージックのルーツに立ち返ったプロダクションは、シンプルで輝きのあるサウンドのレイヤーに安らぎを見出し、夢が叶うという複雑な現実に直面する。


この曲は、彼がこれまで歩んできた場所と、戦うことも証明することも何もないこの瞬間にたどり着くまでの曲がりくねった旅路の産物であり、以前リリースされた、メイジーをフィーチャーしたシングル "Each Night "やパナマとのシングル "Back To Life "で聴けるような完璧なグルーヴだけがある。


この "Float Away "は、"Each Night "のビデオを手がけ、レミ・ウルフ、ジャクソン・ワン、Surf Curseなどの作品を手がける新鋭アーティスト、ネイサン・キャスティエル(nathancastiel.com)が監督を務めた、ダークでコミカルなエッジを効かせた爽やかでチャーミングなパフォーマンス・ビデオとともにリリースされる。


マリブの丘にあるサイケデリックな家で撮影されたParadiseは、VansireのJosh AugustinとSam Winemiller、PoolsideのギタリストAlton Allen、アーティストのTaylor Olinと共に、Poolsideが率いるカルト集団のメンバーを演じている。ストーリーはゆるやかで、家のさまざまな場所でカルト的なニュアンスをほのめかす小話を見せながら、風変わりで、楽しく、ゆるやかな雰囲気を保っている。


『Float Away』は、プールサイドのヨット・ロックへのラブレター。このジャンルは、長い間とてもクールではなかったが、今では正当な評価を得ている。いつもこのサウンドに足を踏み入れていたが、「Float Away」で完全に飛び込み、このジャンルのあらゆる決まり文句を受け入れることにした。


この曲は、(自分で言うのもなんだけど)信じられないほど巧みなプロダクション、ヴァンサイアの提供による大量のヴォーカル・ハーモニー、スティーヴ・シルツの提供によるアフロ・ハーモナイズド・ギターで構成されている。

 

この曲は、もっとストレートなアコースティック・ソングとして始まったんだけど、ヴァンザイアが彼らのパートを送ってくれた途端にガラッと変わったんだ。彼らはフック・マシーンで、マキシマリストのヨット・ロック・ソングを作ろうとするときにまさに必要なんだ! 

 

彼らが送ってくれたヴォーカル・パートには、彼らの様々なパートを入れるスペースを作るために、曲を完全にアレンジし直さなければならないほど、たくさんの要素が含まれていた。プールサイドの曲の中で一番好きかもしれないね。


ジェフリーが送ってきたオリジナルのデモは "yacht luv "という曲だったので、海のイメージにこだわって、自分の人生の選択を後悔し、ボートに取り残された裕福なバツイチのイメージで書いて歌いました。


ヴァンサイアのジョシュ・オーガスティンは語っている。

 

ヴォーカルは、ニューヨークにスタジオを構える前に、自分のアパートの小さな奥の部屋でレコーディングしたんだけど、なぜか借りたギター・マイクと短いXLRコードしかなくて、歌うときはかなり前傾姿勢にならざるを得なかった。そのような環境から、マリブで撮影した素敵なミュージックビデオになるなんて、ちょっと愉快だ!!



Poolside 『Blame It All On Love』 Ninja Tune / Counter Records

 

 


サンゼルスのジェフリー・パラダイスは、Poolside名義のバンドとしても活動しているが、地元のロサンゼルスでは名の通ったソロ・プロデューサーとして知られている。今年、地元のフェスティバル、”Outside Lands”に出演し、Lil Yachtyの前に出演した。また、アーティストは、同じイベントに出演したコンプトンのメガスター、ケンドリック・ラマーのステージを見たかったというが、出演時間の関係でその念願が叶わなかったという。ジェフリーによるバンド、Poolsideというのは、文字通り、庭のプールサイドでのパーティーやささやかな楽しみのために結成されたジャム・セッションの延長線上にある遊び心満載のライブ・バンド。2010年代初頭からアルバムを発表し、Miami Horrorと同じようにヨット・ロック、ディスコ、ローファイを融合させ、 地元ロサンゼルスのローファイ・シーンに根ざしたインディーロックを制作している。

 

アーティストの音楽のルーツを辿ると、オールドスクールのヒップホップがその根底にあり、De La Soulを始めとするサンプリング/チョップの技術をDJとして吸収しながら音楽観を形成していった。しかし、ジェフリーの音楽のキャリアは意外にも、ギタリストとして始まった。最初はボブ・ディランの曲を聴いて「音楽は音楽以上の意味を持つ」ことを悟る。これが、イビサ島のバレアリックのダンスビートの中に、 Bee Geesの系譜にあるウェスト・コーストサウンドを見出せる理由だ。もちろん、ヨット・ロックのレイド・バックな感覚にも溢れている。Poolsideのサウンドはビーチサイドのトロピカルな感覚に彩られ、ルヴァン・ニールソン率いるUnknown Mortal Orchestraにも近いローファイの影響下にある和らいだロックソングが生み出された。

 

ジェフリー・パラダイスは、近年、カルフォルニアの海沿いの高級住宅街にあるマリブへと転居した。ビーチにほど近い丘。つまり、Poolsideは自然で素朴な環境にあって、ギターを取り上げて、曲を書き始めた。そして、友達と人生を謳歌しながら今作の制作に取り掛かった。従来は、ソングライターとして曲を書いてきたというが、今回だけは、ちょっとだけ趣旨が異なるようだ。たくさんのアイディアが彼の頭脳には溢れ、サンフランシスコ州立大学の寮で出会ったドラマー、ヴィトを中心にライブセッションの性質が色濃く反映された11曲が制作された。このアルバムにはマリブの海岸への慈しみの眼差しを浮かべるアーティストの姿が目に浮かぶようだ。また、ジェフリーはダンストラックではなく明確な歌ものを作り上げようとした。「すべての曲は、愛、ロマンチック、その他の不合理な選択について書かれた」とUCLA Radioに語っている。このアルバムの音楽から立ち上る温かみは、他の何者にも例えがたいものがある。

 

ルバムの冒頭「Ride With You』から、Bee Geesやヨット・ロック、ディスコ・サウンドをクロスオーバーした爽快なトラックで、リスナーをトロピカルな境地へと導く。バレアリックのベタなダンスビートを背後に、バンド及び、Ben Browingのグルーヴィーなロックが繰り広げられる。ヨット・ロックを基調としたサウンドは、確かに時代の最先端を行くものではないかもしれないが、現代のシリアスなロックサウンドの渦中にあって、驚くほど爽やかな気風に彩られている。これらのスタイリッシュな感覚は、ジェフリーがファッションデザイナーを昔目指していたことによるものなのか。それは定かではないが、アルバム全編を通じてタイトなロックサウンドが展開される。レイド・バックに次ぐレイド・バックの応酬。そのサウンドを波乗りのように、スイスイと掻き分けていくと、やはりそこにはレイド・バックが存在する。柔らかいクッションみたいに柔らかいシンセはAORやニューロマンティック以上にチープだが、その安っぽさにやられてしまう。ここにはどのような険しい表情もほころばせてしまう何かがある。

 

続いて、Poolsideは「Float Away」を通じて、ヨット・ロックへの弛まぬ愛の賛歌を捧げる。暫定のタイトルを見ても、Lil Yachtyへのリスペクトが捧げられた一曲なのだろうか。この曲ではJack Jacksonさながらに安らいだフォークとトロピカル・サウンドの融合し、魅惑的なサウンドを生み出す。バンドアンサンブルの軽やかなカッティング・ギターを織り交ぜたAOR/ソフト・ロックサウンドは、この曲にロマンティックでスタイリッシュな感覚を及ぼす。ボーカルトラックには、イタロのバレアリック・サウンドに象徴されるボコーダーのようなエフェクトを加え、レイドバックの感覚を入念に引き出そうとしている。こういった軽やかなディスコサウンドとヨットロックの中間にある音楽性がこのアルバムの序盤のリゾート感覚をリードしている。

 

フレーズのボーカルの逆再生で始まる三曲目の「Back To Life」は、イントロから中盤にかけてミラーボール・ディスコを反映させたアンセミックな曲調に変遷を辿っていく。ソフトなボーカルとバンドセッションは、Bee GeesーMiami Horrowのサウンドの間を変幻自在に行き来する。ビートは波のような畝りの中を揺らめきながら、徹底して心地良さを重視したライブ・サウンドが展開される。ここには、彼らが呼び習わす「Daytime Disco」の真骨頂が現れ、昼のプールサイドのパーティーで流すのに最適なパブリーなサウンドの妙味が生み出されている。ただ、パブリーさやキャッチーさばかりが売りというわけではない。ジェフリーによる内省的な感覚が、これらの外交的なダンスビートの中に漂い、このトラックの骨格を強固なものとしている。 

 

 「Back To Life」

 

 

 

アルバムの序盤は、一貫してパブリーな感覚に浸されているが、大きな音楽性の変更を経ずに、Poolsideは、徐々に音楽に内包される世界観を様変わりさせていく。「Moonlight」はイントロのテクノ/ハウスを足掛かりにした後、 メインストリームのディスコ・ロックへと移行する。 

 

サウンドの中には、Jackson 5、ダイアナ・ロス以降の70年代のカルチャー、及び、その後の80年代の商業主義的なMTVのディスコ・ロックの系譜をなぞらえる感覚もある。デトロイト・テクノを踏襲した原始的な4つ打ちのビートが曲の中核を担うが、シンコペーションを多用したファンク色の強いバンドサウンドがトラックに強烈なフックとグルーブ感をもたらしている。パーラメント/ファンカデリックのファンクロックほどにはアクが強くないが、むしろそれを希釈したかのようなサウンドが昔日への哀愁と懐古感を漂わせている。歌ものとしても楽しめるし、コーラスワークにはアルバムの重要なコンセプトであるロマンチックな感覚が漂う。


Poolsideのディスコ/ヨットロックの音の方向性にバリエーションをもたらしているのが、女性ボーカルのゲスト参加。その一曲目「Where Is The Thunder?」では、ループサウンドを元にしてAOR、果ては現代のディスコ・ポップにも近いトラックに昇華している。スペインのエレクトロ・トリオ、Ora The Moleculeのゲスト参加は、爽やかな雰囲気を与え、曲自体を聞きやすくしている。例えば、Wet Legのデビュー・アルバムの収録曲にようにメインストリームに対するアンチテーゼをこの曲に見出したとしても不思議ではない。トロピカルな音楽性とリゾート的な安らぎが反映され、「レイド・バック・ロック」と称すべきソフト・ロックの進化系が生み出されている。


続いて、逆再生のループをベースにした「Each Night」は、リゾート的な感覚を超越し、天国的な雰囲気を感じさせる。イタロ・ディスコのバレアリック・サウンドを基調としながらも、それをソフト・ロックとしての語法に組み換えて、フレーズの節々に切ない感覚を織り交ぜる。この曲には、ジェフリー・パラダイスのソングライティングの才覚が鮮烈にほとばしる瞬間を見いだせる。サウンドスケープとしての効果もあり、マリブの海岸線がロマンティックに夕景の中に沈みゆく情景を思い浮かべることも、それほど困難なことではない。また、表向きなトラックとしてアウトプットされる形こそ違えど、旋律の運びにはニール・ヤングやBeach Boysのブライアン・ウィルソンのような伝説的なソングライターへの敬意も感じ取ることが出来る。

 

 

 「Each Night」

 

 

 

アルバムの終盤の最初のトラック「We Could Be Falling In Love」では、DJとしてのジェフリー・パラダイスの矜持をうかがい知ることが出来る。トロピカル・サウンドのフレーズとアッパーなディスコサウンドの融合は、カルフォルニアの2020年代の象徴的なサウンドが作り出された証ともなる。80年代のミラーボール・ディスコの軽快なコーラスワークを織り交ぜながら、コーチェラを始めとする大舞台でDJとして鳴らしたコアなループサウンド、及びコラージュ的なサウンドの混在は、ケンドリック・ラマーの最新アルバムのラップとは異なる、レイドバック感満載のクラブミュージックなるスタイルを継承している。そして、この曲に渋さを与えているのが、裏拍を強調したしなやかなドラム、ギター、ベースの三位一体のバンドサウンド。ここにはジェフリー・パラダイスのこよなく愛するカーティス・メイフィールド、ウィリアム・コリンズから受け継いだレトロなファンク、Pファンクの影響を捉えられなくもない。

 

 

アーシー・ソウルの影響を感じさせる「Ventura Highway Blues」 も今作の象徴的なトラックと言えるのでは。1970年代に活躍した同名のバンドにリスペクトを捧げたこの曲は懐古的な気分に浸らせるとともに、現代的なネオソウルの語法を受け継いで、ロンドンのJUNGLEのようなコアなダンス・ソウルとして楽しめる。しかし、そこにはカルフォルニアらしい開けた感覚が満ちていて、「Each Night」と同じように、夕暮れ時の淡いエモーションを漂わせている。アーティストは犬と散歩したり、食事を作ったりするのが何よりも好きだというが、そういったリラックスした感覚に浸されている。さらに、オールドスクール・ヒップホップのチョップ/サンプリングの技法が組み合わされ、ミドルテンポのチルウェイブに近い佳曲が生み出されている。

 

続く、「Hold On You」でもディスコ・ソウルをポップにした軽快なサウンドで前の曲の雰囲気を高めている。ここでも、バレアリックサウンドの軽快なビートを取り入れつつ、ソウルとしての落とし所を探っている。


ゲストとして参加したslenderboiedは、コロンビアのKali Uchisのように南米的な気風を与えている。曲の終盤では、二つの音楽性が化学反応を起こし、アンセミックな瞬間を生み出している。驚くべきは、音楽性に若干の変化が訪れようとも、海岸のリゾート気分やレイドバック感は途切れることはない。終盤に至ってもなお安らいだ心地良い、ふかふかな感覚に満たされている。これらのアルバムのテーマである、ロマンティックな感覚が通奏低音のように響きわたる。

 

AOR/ニューロマンティックの象徴的なグループ、Human Leagueを思わせるチープなシンセ・ポップ・ソング「Sea Of Dreams」は、人生には、辛さやほろ苦さとともに、それらを痛快に笑い飛ばす軽やかさと爽やかさが必要になってくることを教えてくれる。そして、その軽やかさと爽やかさは、人生を生きる上で欠かさざるロマンティックと愛という概念を体現している。アルバムのクロージング・トラック「Lonely Night」は、MUNYAがゲストで参加し、一連のヨットロック、AOR/ソフト・ロック、ディスコ・ソウルの世界から離れ、名残り惜しく別れを告げる。

 

MUNYAの”やくしまるえつこ”を彷彿とさせるボーカルについては、説明を控えておきたい。しかし、なぜか、アルバムの最後の曲に行き着いた時、ある意味では、これらの収録曲に飽食気味に陥りながらも、ウェストコースト・サウンドを反映させたこのアルバムを聴き終えたくない、という感覚に浸される。サマー・バケーションで、海外の見知らぬ土地へ旅した滞在最終日のような感じで、この安らいだ場所から離れたくない。そんな不思議な余韻をもたらすのだ。

 

 

 

85/100 

 

 

 

Weekend Featured Track- 「Lonely Night」

Squirrel Flower/ ©Polyvinyle


シカゴから南へ1時間足らず、ミシガン湖畔に広がるインディアナ砂丘は、近年国立公園に指定された保護された海岸線である。


エラ・ウィリアムズが初めて砂丘を訪れたとき、周囲の工業地帯の中に自然の素晴らしさが並存していることに驚嘆した。「湿原に立つと、左手には火を噴く鉄鋼工場があり、右手には原子力発電所がある。海の向こうにはシカゴがあり、その輝くタワーはここで生まれた鉄鋼によって実現したんです」 同じように、彼女が音楽を作り続けている限り、エラ・ウィリアムズの曲は、その曲の書かれた環境の産物であり、同じ世界から生まれたものである。この環境こそ、彼女の魅力的なニューアルバム『Tomorrow's Fire』が生きている場所なのだ。


ウィリアムズがスクイレル・フラワーとして作る音楽は、常に強い場所の感覚を伝えてきた。2015年にリリースされたデビューEP『Early winter songs from middle america』は、彼女がアイオワに住み始めた最初の年に書かれたもので、アイオワの冬は、彼女の故郷であるボストンの冬と比べても古風に思えるほどである。




この最初の作品以来、スクイレル・フラワーはボストンのDIYシーンを超えたファン層を獲得し、さらに2枚のEPと2枚のフルアルバムをリリースした。最新作『Planet (i)』は気候への不安を孕んでいたが、続く『Planet EP』は、ウィリアムズの多作なキャリアの中で重要な転機となった。


プロデューサーとしての自信を新たにした彼女は、アッシュヴィルのドロップ・オブ・サン・スタジオで、著名なエンジニア、アレックス・ファーラー(『Wednesday』、『Indigo de Souza』、『Snail Mail』)と共に『Tomorrow's Fire』を指揮した。ウィリアムズとファーラーは、最初の1週間で多くの楽器をトラックし、一緒に曲を作り上げ、マット・マコーガン(ボン・イヴェール)、セス・カウフマン(エンジェル・オルセン・バンド)、ジェイク・レンダーマン(別名MJレンダーマン)、デイヴ・ハートリー(ザ・ウォー・オン・ドラッグス)らが参加するスタジオ・バンドを結成した。


『Tomorrow's Fire』以前のスクイレル・フラワーは「インディー・フォーク」などと呼ばれていたかもしれないが、これは大音量で演奏されることを前提に作られたロックのレコードだ。この転換を告げるかのように、アルバムはスクイレル・フラワー初の曲を再構築した「i don't use a trashcan」で幕を開ける。ウィリアムズは、アーティストとしての成長を示すために、また、ループしたミニマルな彼女の声が空間を静寂にする力を持っていた初期のライヴを思い起こすために、過去に立ち戻ったのだ。


リード・シングルの "Full Time Job "と "When a Plant is Dying "は、アーティストとして生き、それが挑戦的なことである世界に立ち向かうことから来る普遍的な絶望を物語っている。ウィリアムズの歌詞に込められたフラストレーションは、音楽の自由奔放でアグレッシヴなプロダクションと呼応している。「人生には、時間を守ることよりも大切なことがあるに違いない」と、後者の高くそびえ立つコーラスで彼女は歌う。このような歌詞はアンセミックになる運命にあり、『Tomorrow's Fire』にはそれが溢れている。「私のベストを尽くすことはフルタイムの仕事/でも家賃は払えない」ウィリアムズは「Full Time Job」で、不安定なフィードバックに乗せて歌う。




ウィリアムズは、『Tomorrow's Fire』のインスピレーションの源として、ジェイソン・モリーナ、トム・ウェイツ、スプリングスティーンといったアーティストの名前を挙げている。「私が書く曲は必ずしも自伝的なものばかりではないが、常に真実なんだ」とウィリアムズは言う。スプリングスティーンの歌声がこれほどはっきりと聴けるのは「Alley Light」だけ。この曲は、今にも車で死んでしまいそうな運の悪い男と、ただ逃げ出したいだけの女の視点から語られる衝撃的な歌である。この曲にはヴィンテージの輝きがあるが、「路地の灯」は、21世紀の都市に住んでいて、瞬きをすれば店先が変わってしまうような、喪失感というとても身近な感情をとらえている。ウィリアムズは、"それは私の中の男性、あるいは私が愛する男性、あるいは私にとって見知らぬ男性のことなのです "と記している。


このアルバムは、感情的な状態、軽さと重さを難なく滑っていく。4年後の2019年の夏に書かれた "Intheskatepark "は、過ぎ去った世界からの派遣のように聞こえる。スカスカでポップなプロダクションはGuided By Voicesを彷彿とさせ、ウィリアムズは夏の日差しの下、屈託なく潰れそうになることを歌っている。


"私には光があった "とウィリアムズは "Stick "で悲しげに繰り返し、彼女の声は痛々しくも力強く、曲が進むにつれて怒りが発酵し、後半で爆発する。「この曲は、妥協したくない、もう限界だということを歌っている」とウィリアムズは言う。「Stick 」はその苛立ちを利用し、疲れ果てているのに働き足りないように感じている人、家賃を稼ぐために嫌な仕事に就かなければならなかった人、光を失い、再び光を見つけられそうにない人のための叫びへと変えている。


『Tomorrow's Fire』は黙示録的なアルバムのタイトルのように聞こえるかもしれないが、そうではない。『Tomorrow's Fire』は、ウィリアムズの曽祖父ジェイが書いたトルバドゥール(吟遊詩人)を題材にした小説のタイトルを引用した。自らもトルバドゥール(吟遊詩人)であった中世フランスの詩人ルトブーフの一節にちなんでいる。"明日の望みが私の夕食を提供する/明日の火が今夜を暖めなければならない"。何世紀も経った今、この言葉はウィリアムズに語りかけられ、ウィリアムズは火をニヒリズムに立ち向かうための道具と表現した。明日の火は、私たちが慰めを得るものであり、朝には大丈夫だと感じるものであり、私たちが歩む道を照らすものなのだ。


アルバムのクロージング・トラック "Finally Rain "は、地球には賞味期限があると知りながら、若者であることの曖昧さを語っている。最後の詩は、彼女と愛する人々との関係へのオマージュ。  厳しい現実だが、マニフェストでもある。『成長しない』人生に断固としてコミットすること、私たちがまだここにいる間に、私たちの驚き、私たちの表現センス、私たちの愛を失わないこと。

 

 

 


  Squirrel Flower 『Tomorrow's Fire』 Polyvinyle


 

多くのリスナーは、例えば、ある程度成功した音楽作品を手に取ると、そのアルバムの制作に関して最善の環境が与えられたから、完成度の高いものが作り出されたと思うかもしれない。現在、制作面で、最善とは言えない環境にあるミュージシャンは、その完成品を目の前に、高いプロダクションの水準が用意されたから良いものが生み出されたと思うかもしれない。そして、そういった作品を見、自分たちは恵まれていないから良質なものが生み出すことが出来ない、制作面で何らかの不備があるからだと思う制作者もいるかもしれない。でも、少なくとも、今年、週末に紹介してきたアルバムのいくつかは、必ずしも最善のなにかが制作者に与えられなくとも、多くのリスナーの心を揺り動かすアルバムを作ることは可能だし、また、むしろそれほどミュージシャンとしては最高の環境にあるとは限らない人の方がむしろ、平均的なアーティストより優れた作品を生み出すケースがあることを実例として紹介してきた。

 

そのことをあらためて教唆してくれるのが、スクイレル・フラワーこと、エラ・ウィリアムズの最新作。そして、制作のバックグラウンドである。エラ・ウィリアムズは、アイオワの大学でスタジオアートと、ジェンダー研究に取り組んでいたが、ドロップアウトを検討しながら、春学期を休学した。その後、コミュニティ・カレッジで授業を受けていたという。2015年、アルバム『Early Winter Songs From Middle America』をレコーディングすると、その夏に最初のツアーに出た。その過程で、ウィリアムズは、みずからビデオカメラを手に、ミュージックビデオを制作した。以後、複数のアルバムとEPを発表したウィリアムズは、「なにかをリリースすることは簡単だけれど、それが100万人の耳に届かない場合は、別のことをしようという感じでやってきた」と語る。現在も、その言葉を実践してきている。ミュージシャンはダブルワークの一貫で、ツアーを終えた後、ウィリアムズは、結婚式のケータリングの仕事に戻る場合もあるという。最新作『Tomorrow’s Fire』の制作は2015年に開始された。いくつかの曲をプレイしながら、曲を煮詰めていくことになった。「私の歴史と、現在の音楽的な自分と過去の音楽的な自分を肯定するために、曲は複雑に絡み合っていて、曲自体と対話を重ねることにした。それ以外の方法でこのアルバムを始めることは正当なこととは思えなかった」というのだ。

 

アルバムを聴いて思ったのは、神妙な感覚がいくつかの収録曲には漂っている。音楽に対する敬虔な思いがないものに関して、優れた作品が生み出されることは稀である。曲との対話、もっと言えば、自らとの対話ということを重視してきたアーティストの人生が色濃く反映されている。孤独であるから誰かとつるむのではなく、孤独であることを選び、内面の奥深くまで直視しているというのが、『Tomorrow's Fire』の制作の核心にはあるように思える。もちろん、アルバムには、アレックス・ファーラーのプロデュースや、バンド形式でのレコーディングという形で行われているので、ソロ作品とは決めつけられないものがあることは確かなのだけれども。

 

「I don't use a trash can」はそのことが顕著に反映されているのではないか。驚くのは、曲そのものがそのことを雄弁に物語っている。「ベッド・シーツ」という日常的な寝具は、シンガーソングライターにとって、そのもの以上の意味を持つ。そこには、人生の断片的な感覚が反映されており、エラ・ウィリアムズの音楽の物語は、いくらかの悲しみを持ち、聞き手の心を激しく揺さぶるのだ。エレクトリックギターの弾き語りに、「I'm Not Gonna Change/ I 'm Not Gonna Be Queen〜」といった純粋な述懐を交えた後、ウィリアムズ自身のコーラスの多重録音がその合間に漂うかのように取り入れられ、ヒーリング音楽のような精妙な空気感が生み出される。曲の後半部では、シーツという言葉を用いて、ほとんど涙ぐませるような余韻をもたらしている。その悲しみや、やるせなさは表向きに語られることはないが、つまり、その言葉の背後に、深い人生の体験や、それにまつわる切ない思いがサブテクストという形で滲んでいる。

 

 

「I don't use a trash can」

 

 

マット・マコーガン(ボン・イヴェール)、セス・カウフマン(エンジェル・オルセン・バンド)、ジェイク・レンダーマン(MJレンダーマン)、デイヴ・ハートリー(ザ・ウォー・オン・ドラッグス)といったバンド編成のレコーディングの最初の成果が先行シングル「Full Time Job」に現れる。

 

この曲には、最近のウィリアムズの人生経験が色濃く反映されており、事務の仕事をしながら、過度なインフレーションにより、取り立ててしたくもない仕事に長く従事しないことについての悲嘆が歌われる。ある種、それは単なるロックソングよりも生々しい質感を伴うこともある。当時のことについて、ウィリアムズは次のように回想している。「創造的で、活気に充ちた人たちに多く出会いましたが、彼らは家賃を払うためにやらざるをえない仕事に打ちのめされていました」「私のまわりの人々が年を取っていくのを見るにつれて、これまでとは異なるライフスタイルを送り、生きていくことさえ困難な世界で、どうやって生きていくのか、それを見出すべく、みな絶えず葛藤しているのだと思います」という、ウィリアムズの言葉は、バラード的な悲哀とはならず、フラストレーションを交えたシューゲイズのギターを強調したインディーロックソングという形で昇華されている。しかし、Dinosaur Jr.のJ Mascisを彷彿とさせるダイナミックな音像を持つギターロックは、悲哀を漂わせるウィリアムズのボーカルラインと絶妙に絡み合い、豊かな感性を持つインディーロックソングとしてアウトプットされている。 


 

同じく先行シングルとして公開された「Alley Light」でも、そういった日々の嘆きが描かれている。この曲では、アメリカン・ロックの古典的なスタイル、ブルース・スプリングスティーンや、ブライアン・アダムスのような雄大さとワイルドさを兼ね備えた良質なロックソングを踏襲している。そのフレーズの合間には、ピクシーズのジョーイ・サンティアゴが弾くようなオルタネイトなギターラインも取り入れられ、鮮烈な印象を放つ瞬間もある。米国の音楽シーンとして軽視される場合があるという米国中西部の情景を思わせるようなロックソングである。ここには、スプリングスティーンやトム・ウェイツといった伝説を始め、アーティストがリスペクトしてやまない米国のシンガーソングライターの影響が親しみやすいバラード・ロックを生み出す契機をもたらした。スプリングスティーンもウェイツも、日頃の生活から滲み出る悲哀や、やるせなさをワイルドなロックバラードに置き換える才質を持っていたが、同じようにエラ・ウィリアムズもまた、先祖代々の系譜を受け継いで、一般的な労働者に寄り添うようなヒットソングを書き上げようと試みている。これは彼女の親戚が作家というバックグランドを持ち、共産主義的な考えを持ち、アーティストに手ほどきをしていたこと、また、アルバムの制作前、キム・ゴードンの著書を読んだ後、レコーディング・ブースに向かったことが大きい。

 

続く、「Almost Pulled Away」では題名にも見える通り、疎外感について歌われた渋いドリーム・ポップである。しかし、トレンドばかりをなぞらえるのではなく、良質なソングライティングの影響を受け継ぎ、普遍的なUSロックの伝統性が垣間見える。トム・ウェイツの「Closing Time」のソングライティング性を継承した上で、真夜中のロマンティックな空気感を思わせる、アンニュイかつ物憂げでブルージーなバラードを書き上げている。そして、曲の中盤からは、Diosaur Jr.の苛烈なディストーション/ファズのギターラインがドリーム・ポップ風のメロディーと融合を果たして、同レーベルに所属するPalehoundのギターロックと、Samiaの繊細なベッドルームポップが掛け合わされたような奇妙な感覚が広がりを増していく。それらのアンニュイな悲しみに充ちた感覚の中には、他では得難いカタルシスと癒やしを感じ取ることが出来る。

 

しかし、普遍的なUSロックのソングライターからの影響もありながら、中西部のインディーロックシーンに根ざした楽曲も収録されている。「Stick」では、Wednesday,Slow Pulp,Truth Clubのオルタナティヴ・ロック性に焦点を当て、感覚的なものを余さず表現しようと努めている。ダイナミックなギターの音像を強調したサウンド・プロダクションは他のロックソングと同様であるが、ピクシーズの「Where IS My Mind」に見受けられる、コード進行の捻りが鮮烈な印象を及ぼす。オルタナティヴ・ロックバンドとして使い古されたと思えるような意外性のあるコードラインが、2023年のインディーロックソングとして聴くと、新鮮に思えてくる。反復的なギターラインとバラードにも似た感覚を擁するウィリアムズのボーカルの融合は、むしろ音源として楽しむというよりも、今後のライブツアーで大きな成果を発揮しそうである。

 

「When A Plant Is Dying」では、オープニングの雰囲気に戻るが、同じ様な感覚が表現されながらも、一曲目とはまったく異なる形のエモーションが示唆されている。最初期のラナ・デル・レイを彷彿とさせるサッドコア/スロウコアをパワフルなギターラインと融合させている。楽曲はハードロックや、インディーロックを下地にしているように思えるが、しかし、その中には、アメリカーナやカントリー等の音楽の影響が装飾的に散りばめられている。この曲は、ブルース・スプリングスティーンのUSロックの源流をたどりながら、より現代的な感性に親和性のあるものに組み上げている。しかし、轟音のギターロック・サウンドが途絶え、終盤に最初のバラードのモチーフに戻る時、癒やしの瞬間が訪れる。アウトロの後、幽玄な余韻が残される。ここには滅びゆくものへの傍観者の視点を交え、それを内的な感覚とうまく結びつけている。

 

 

アルバムの中で、最も心惹かれる曲が「intheskatepark」である。アルバムでは珍しくメロディック・パンク/ポップ・パンクの影響を留めたトラックであり、聞き方によっては、Blink-182のデビュー当時やアヴィリル・ラヴィーンの最盛期のパンク・スピリットを復刻しようとしている。しかし、それが単なるイミテーションにならず、リアルな感覚があるのは、ウィリアムズの人生が、このトラックに色濃く反映されているがゆえ。アルバム制作の当初、ウィリアムズはシカゴの古いスケーター倉庫に恋人や兄弟と住んでいた。隣人がいなかったので、好きな時に好きなだけ騒ぎ、暮らしていた。「私のまわりの人々は」と、ウィリアムズは回想している。「実際に仕事にありつくことが出来ず、ストレスの多い時期にいて、多くの絶望を感じていた」という。「私達は日がな一日、ただ演奏をしていたのでしたが、その頃、世界が様々な意味で崩壊しかけているように感じていた」 そういった中で、唯一信じられるものは、仲間意識と、近くの人々に支えられている、つまり親密なコミュニティの属するという感覚だった。「この時期をお互いにサポートしながら一緒に音楽を作ることで乗り越えていったんです」

 

米国のインディーロックシーンの一角を担ってきた、Polyvinyleらしさのある一曲であり、パンキッシュなフックもあり、またエバーグリーンの雰囲気にも溢れている。まさに、日常の生活的な感覚が絶妙に曲そのものに乗り移り、軽快な質感を持つインディーロックナンバーが生み出されている。

 


「intheskatepark」

 

 

 

こういった五年にも及ぶ、様々な人生を反映させたインディーロック/パンクロックには、実際の音を楽しむという以上に大いに学ぶべき点があるように思える。これとは決めつけがたい形で、多彩な概念を織り交ぜたアルバムは、その後、最もアメリカの情景的なロマンチシズムへと最接近する。「Canyon」 では、アイオワの農場を思わせる中西部の雄大な土地の幻影をギターロックとして描出している。ギターラインと歌の力だけで、サウンドスケープの幻想性を浮かび上がらせる表現力、及び感受性には感嘆すべきものがある。曲そのものから匂い立つイメージ、もしくは、曲から立ち上るイメージ、それは続く、「What Kind Of Dream Is This?」において、未知なるものに向けられる切なげなロマンチシズムに繋がり、スロウコア/サッドコアの緩やかな感覚に浸される。その後、その感覚がふと、米国の中西部に浮かぶ幻影の火のように立ち上ったかと思えば、クロージング・トラック「Finally Rain」にスムーズに移行してゆく。米国の中西部の『Tomorrow’s Fire - 明日の火』は、空からしとしと降り落ちるぼんやりとした広い雨つぶによってかき消されてしまうが、やがて、それとは別の目的地にさして向かってゆく。

 

 

90/100  

 


Weekend Featured Track ー 「Finally Rain」

 

 

 

Squirrel Flowerのニュー・アルバム『Tomorrow's Fire』は、Polyvinyleから現在発売中です。

Meerena ©︎ Keeled  Scales



Meernaaは、このニューアルバムを通じて、ネオ・ソウル、R&B、インディー・ポップの情熱的な側面を参照し、セード、ケイト・ル・ボン、ミニー・リパートン、トーク・トークなど様々な影響を受けたソングライター、カーリー・ボンドのくすんだボーカルと、官能的で技術的に洗練された楽曲を提供している。


Meernaa(ミールナー)名義の作品を通して、カーリー・ボンドは中毒や喪失といった重いテーマを愛というレンズを通して捉えようとしている。


「I Believe In You」について彼女はこう語っている。「彼らはやがて麻薬と手を切りましたが、断酒中も彼らの精神衛生は軽視され、私も、彼らと同じ運命からは逃れられないという物語が私の観念に植え付けられた。この曲は、自己成就的予言に挑戦し、変えていくこと、そして、自分の人生にポジティブなことが起きる権利があると自らに信じさせる気概を奮い立たせることについて歌っている」


「On My Line」は、ジョニ・ミッチェルの「Car On A Hill」にインスパイアされた。拒絶されることを悲しく、クールに受け入れ、その中で解放される感覚を表現している。


「Another Dimension」は、ボンドが実際に出会う10年前にタイムスリップしてパートナーに会うという鮮明な夢を見たことを歌っている。目覚めた後、彼女は内面に残る余韻を振り払うことができずにいた。


カーリー・ボンドは、ベイエリア北部の町で育ち、詩や音楽を逃避や感情処理の手段として使っていた。幼い頃、ホイットニー・ヒューストンのセルフタイトルアルバムのカセットを贈られ、音楽がいかにパワフルで癒しであるかを学んだ。クラシック・ロックのラジオ局を聴いたり、オークランドのジャズ・クラブ「Yoshi's」に行ったり、Daytrotterからダウンロードできるものは何でもダウンロードしたりと、思春期を通じてさまざまなジャンルを聴き、探求することで、しばしば自己を癒していた。


やがて、ボンドは、高校のジャズ・プログラムでギターを習い始め、自分で曲を作るようになった。音楽の知識を深めたいと思い、大学に進学するかどうか悩んでいたボンドは、2013年にサンフランシスコのタイニー・テレフォン・レコーディングでインターンを始めた。このスタジオに魅了されたボンドは、ピザ・レストランでのバイト代を貯めて、1日レコーディングをする余裕を作り、後にバンドメイトとなる夫のロブ・シェルトンと仕事をすることになった。


シェルトンとボンドは、その後すぐに一緒に音楽を演奏し始め、ボンドはベイエリアのミュージシャン、ダグ・スチュアート(ブリジャン)やアンドリュー・マグワイアとコラボし、Meernaaとして音楽を発表し始めた。2020年、シェルトンとボンドは一緒にロサンゼルスに移住し、タイニー・テレフォンのOBであるジェームス・リオット、アンドリュー・マグワイアとともに、自身のスタジオ、アルタミラ・サウンドをオープンした。


ロサンゼルスの音楽シーンで花開いたカーリー・ボンドは、ルーク・テンプル、ジェリー・ペーパー、スザンヌ・ヴァリー、ミヤ・フォリックらとセッションやツアーを行うギタリストでもある。




『So Far So Good』/ Keeled  Scales



2019年のデビュー・アルバム『Heart Hunger』に続いて発表された『So Far So Good』は、Meernaaのシンガーソングライターとしての飛躍を約束するような画期的なアルバムとなっている。

 

アーティストはみずからの持ちうる音楽的な語法を駆使し、気品のあるロック/ポップスの世界を構築しようとしている。ホイットニー・ヒューストンやジョニ・ミッチェルから習得した音感の良さと普遍的な音楽に対する親しみは、セカンドアルバムの10曲に艷やかな印象性をもたらす。70、80年代のポップスからの影響は、ダンサンブルなビートと軽快なグルーブ感を付与している。ソロアーティスト名義ではありながら、バンドサウンドの醍醐味を多分に意識したケイト・ル・ボン(シカゴのロックバンド、Wilcoの最新アルバム『Cousin』のプロデュースを手掛けている)のプロダクションも、Meernaの音楽に初めて触れる人々に抜けさがないイメージを与えるに違いない。 

 

 

「Oh My Line」

 

 

アートワークの印象もあいまってか、Meernaの音楽は、心なしかスタイリッシュな感覚を与える。そしてミールナーの音楽は、カルフォルニアの青い空、燦々たる太陽に対する陰影をわずかに留めているように思える。


アルバム『So Far So Good』のオープナー「Oh My Line」を聞けば、彼女がどのような音楽的な知識の蓄積を築き上げて来たのか、その一端に触れることが出来るだろう。


ジョージ・クリントン擁する Funkadelic(ファンカデリック)の『Maggot Brain』、William ”Bootsy” Collins(ウィリアム・ブーツイー・コリンズ)のアルバムに見受けられるファンクやソウルを基調としたミクスチャーサウンドを反映させ、しなやかなロックとポップスの形に落とし込む。バンドサウンドの上に軽快に乗せられるカール・ボンド(その名は映画俳優のようであるが、彼女は歌手である)の飄々としたボーカルが舞う。


ボンドのボーカルは、サザン・ソウル/ノーザン・ソウルの影響下にあると思えるが、スタックスやモータウンのアーティスト程には泥臭くはない。ボーカルの佇まいから匂い立つのは、しなやかな印象である。段階的にスケールを駆け上がっていく軽妙なギターライン、そして、ほんのりと哀愁を漂わせるエレクトリック・ピアノのフレーズがカーリー・ボンドのボーカルを艶やかに引き立てる。ベースラインはグルーヴに重点が置かれているが、それらはサビの中で跳躍するような影響を及ぼし、カール・ボンドのスタイリッシュなボーカルの感覚を上手く引き出している。

 

 

一曲目でファンク/ソウルという切り口を見せた後、カーリー・ボンドは「Another Dimention」において、彼女のもう一つのルーツであるインディーロックやフォークへの傾倒をみせている。マイルドではありながら深みを併せ持つ豊かな感性に根差したボーカルは、ボーイ・ジーニアスとして活動するLucy Dacus(ルーシー・デイカス)の2021年のアルバム『Home Video』で披露した秀逸なメロディーラインと重なるものがある。


そういった2020年代前後の現代的なポップスへのアクセスに加え、ソウルの進化系であるネオソウルからの影響を巧緻に取り入れ、夢見心地に浸されたうるわしきポピュラー・ワールドを追求している。そして、それらのドリーミーな感覚を擁する軽妙なギターラインと上品なストリングスが、感覚的な要素を引き上げていく。音楽の中には聞き手を惑わす心地良さがあり、その音の波の中にいついつまでも浸っていたいと思わせるものがある。それは、制作者が80年代のヒューストンの音楽から学び取った音楽の愉楽であり、そしてポップネスの核心でもあるのかもしれない。

 

「As Many Birds Flying」でも同じように、ソフト・ロック/AORに近い音楽を下地にして、感覚的なポップスを作り上げる。イントロのギターラインとシンセの組み合わせは、The Policeの80年代のMTV時代の全盛期の音楽の影響をわずかに留めているが、カーリー・ボンドのボーカルが独特な抑揚を交え、それらのバックバンドの演奏をミューズさながらにリードすると、その印象は、立ちどころにAOR/ソフト・ロックとは別の何かに変貌する。 


ネオソウルなのか、ニューロマンティックなのか、それとも……? いかなる音楽がその背後にあるかは定かではないが、官能的な雰囲気を擁するボンドのボーカルは、ドリーム・ポップのようなアンニュイな空気感を帯びる。それらの夢見心地の雰囲気はやがて、ロサンゼルスのAriel Pink(アリエル・ピンク)のようなローファイ/サイケを下地にしたプロダクションと結びつき、最終的に先鋭的な印象を及ぼすに至る。これらの1980年代から2010年代にひとっ飛びするような感覚は、『Back To The Future』とまではいかないが、SFに近い快感や爽快味を覚えさせる。

 

「Mirror Heart」でも、それらの現代的な感覚を擁する音楽を踏襲している。 インディーフォークやフリー・フォークを根底に置いた曲で、アコースティックギターのストロークとシンセのシークエンスという2つの側面からポップスへのアクセスしている。そして、その上に乗せられるカーリー・ボンドのヴォーカルは、やはり一貫して、涼しげでしなやかな印象に彩られている。これは例えば、昨年、SUB POPからデビューしたNaima Bock(ナイマ・ボック)による爽やかなモダン・ポップのアプローチにも近いものがある。


もちろん、ボンドの場合は、微妙なフレーズのニュアンスの変化、言葉の持つ抑揚の微細な変容により、それらの内面的な音楽を艶気のある表現性に変貌させている。さらに、驚くべきことに、曲の中にサビや見せ場のような形で現れる高音部のビブラートで抑揚をもたらそうとも、その歌の表現性は中音域のときと同じように昂じるわけでもなく、また、激しくなるわけでもなく、一定の落ち着きとしなやかさを維持し続けていることが美点である。


こういった歌による精彩なニュアンスの変化は、平均的な才質の歌手では表現しきれない高水準にカーリー・ボンドが到達していることの確かなエヴィデンスとなるかもしれない。またそれらの歌の世界観を巧緻に引き出すのが、シンセサイザーのトーンシフターによる変化なのである。

 

アルバムの序盤を通じ、こういった盤石かつ安定感のある音楽の世界を示した上で、ボンドは、中盤の収録曲を通じてさらに多彩な表現性を示す。特に、『Black Eyed Susan』では、ワールド・ミュージックに傾倒を見せる。バックビートを意識した軽妙なアコースティック・ギターの演奏は、ボサノヴァ・ブームの火付け役である、Stan Gets(スタン・ゲッツ)/Joao Gilbert(ジョアン・ジルベルト)のオシャレなブラジル音楽のポップスの性質を取り込み、それをモダン・ポップスという形で昇華している。

 

ボンゴのような打楽器のリズムを活かしたワールド・ミュージックを踏襲した音楽はやがて、Miya Folickに象徴されるアヴァン・ポップの性質を帯びる。本作の主な特徴である新時代と旧時代を往来するような不可思議な感覚は、現行の世界のポップス・シーンを俯瞰した際、新鮮な印象を受ける。



続いて、アヴァン・ポップにも近い雰囲気のある曲調は、曲の中盤から終盤にかけて、木管楽器やオーケストラ・ストリングスを配することで、アーティストの重要なルーツの一つであるジャズの気風を反映させ、ノルウェーのJaga Jazzist(ジャガ・ジャジスト)や、クラリネット奏者/Lars Horntvethの『Pooka』で見受けられる、フォークトロニカ/ジャズトロニカの範疇にある先鋭的な音楽へと変遷を辿っていく。これらの一曲を通じて繰り広げられる変容の過程には瞠目すべき点がある。次曲と共にアルバム中盤のハイライトを形成している。


 

その後も、多彩な音楽性はその奥行きを敷衍していく。「I Believe In You」では、シンプルなマシンビートと、「Hum〜」というフレーズを通じて、甘酸っぱく、メロウなムードを反映させたAOR/ソフト・ロックの音楽性を楔にし、彼女の音楽の重要なルーツであるホイットニー・ヒューストンの1985年のセルフタイトル・アルバムの懐かしいR&Bを基調にしたポップスを展開させる。



プレスリリースで紹介されている通り、ボーカリストの艶やかで官能的なイメージは、80年代への懐古的な印象とともに、聞き手を現代のノイズや喧騒から遠ざけ、音楽の持つ深層へと至らせる。


これらのアーカイブからもたらされる音の懐かしさを、カーリー・ボンドはいかなるアーティストよりも巧みに表現しようとしている。ある意味では、ビヨンセの前の時代のR&Bの核心を誰よりも聡く捉え、それらを超えの微妙なトーンの変化、その歌声の背後にある感情の変化により、温かみのある感情性へと変換させる。この技術には感嘆すべき点がある。


もちろん、彼女の夫を擁するバンドアンサンブルの妙も素晴らしい。中盤における金管楽器/木管楽器の芳醇な響きにも注目したいが、ファンク/ソウルを反映させたベースラインがグルーブ感を付加している。音楽はリズムが混沌としていると、メロディーが優れていても残念なものになってしまうが、これらの均衡が絶妙に保たれていることが、こういった、ハリのある音楽を生み出す要因となったのである。

 

「Believe In You」

 

アルバムの中で最も繊細でありながら大胆さを兼ね備えるバラード「Framed In A Different State」も聴き逃せない。静かなギターとエレクトリック・ピアノ、そしてビートルズがよく使用していたメロトロンの音色を掛け合せ、チェンバー・ポップを下地にしたバラードに挑戦している。



そして、この情感溢れる傑出したバラードは、ギターラインやシンセのフレーズをコール&レスポンスのように織り交ぜることにより、温かな雰囲気を持つ曲へと仕上がっている。また、アメリカーナの影響もあり、ペダルスチールの音色が聞き手を陶酔した境地へと誘う。


その上に漂う、ボンドのボーカルは、往年のフォークシンガーのような信頼感がある。そして一方で、涙ぐみそうな情感を込めて歌われるボンドのヴォーカルは、曲の中盤にかけて何かしら神々しい雰囲気に変わる。それはシンガーという人間の性質が変化し、神聖な雰囲気のある光を、その歌の印象の中に留めるということでもある。しかもそれは感情を高ぶらせることではなく、心を包み込むかのような慈しみによってもたらされるものなのである。

 

アルバムのタイトル曲「So Far So Good」は、レトロな感覚を持つテクノを主体として繰り広げられる、少しユニークな感覚を持つポップミュージックである。それほど真新しい手法ではないにも関わらず、インディーロックに触発されたギターライン、そして、やはり一貫して飄々とした印象のあるボンドのボーカルに好印象を覚えない人はいないはず。



しかし、やはりアルバムの全般的な楽曲と同じように、序盤のユニークな印象は中盤にかけて変化していき、Funkadelicの演奏に見られる休符とシンコペーションを効かせた巧みなアンサンブルに導かれるようにし、ボーカルラインは、気品に満ちた印象を帯びながら、淑やかなポップスへと変化してゆく。


それほど意図的にアンセミックなフレーズを作ろうとはしていないにもかかわらず、なぜか歌を口ずさんでしまう。この音楽的な親しみやすさにこそ、Meernaの音楽の醍醐味が求められる。そして、アルバムのタイトル曲として申し分のない名刺代わりの一曲である。

 

これらのコアなポップスのアプローチは最終的に、クローズを飾る「Love Is Good」という答えに導かれる。トライアングルを織り交ぜたパーカッシヴな手法は、ベースラインとシンセの緊張感のあと、ドラムのロールにより劇的な導入部となって、カール・ボンドの歌の存在感を引き立てる。その期待感に違わず、ネオ・ソウルやモダン・ポップの王道にあるフレーズを丹念に紡いでいく。


コーラスワークや、背後にあるシンセやギターは、より深みのあるソウルミュージックの領域へと達する。それはスタックス・レコードのソウルや、カーティス・メイフィールドのジャズ/フュージョン/ファンクに触発された演奏に比する水準に位置する。しかしながら、こういったコアなアプローチを取りつつも、しっとりとしたボーカルラインが維持されることで、ポップスとしての妙味を失うことがない。 



さらに、バンドアンサンブルの妙は、この曲の中盤から後半にかけて最高潮に達し、Jeff Beckの『Blue Wind』、Eric Claptonを擁するCreamの「Sunshine Of Your Love」で示されたような、ロックンロールの真髄である玄人好みのロックサウンドへと瞬間的に変化していく様は圧巻と言える。


数限りない音楽が内包されながらも、全くブレることのない本作の根幹には、どのような音楽の背景があるのか。少なくとも、表面的なものばかり持てはやされる音楽が散見される現代のシーンにあって、こういった本当の音楽は、他のいかなる音楽よりも深い意義を持つ。Meernaaというシンガーが今後どれくらいの活躍をするのかは予測出来ない。しかし、このアルバムを手にした、あるいは、聴くという幸運に肖った人々は、このアーティストに出会えて良かったという実感をもっていただけると思う。

 

 

Weekend Featured Track- 「So Far So Good」

 

 

 

 

90/100

 

 

Meernaのニュー・アルバム『So far So Good』はKeeled Scalesから発売中です。